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#吊るし飾り
pebbleworks · 2 years
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吊るし飾りを天気の悪い日に撮るのは楽しいと知った
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happymiko · 2 years
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雛のつるし飾り/いなとり荘
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jujirou · 2 years
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おは���うございます。 秋田県湯沢市川連は、快晴で寒いです。 昨日も休み…でしたが、午前中だけ修理依頼の、アレコレの作業を進め、お昼過ぎからは久しぶりにのんびりしました。 雛飾りも母と嫁で準備していたのを、昨日ゆっくり拝見し、母が作った吊るし雛も一年ぶりに箱から出て飾られました。 そして新しい一週間が始まりました。 今週もアレヤコレヤと有りますが、一つ一つコツコツ頑張ります‼︎ 皆様にとって今週も、良い一週間と成ります様に‼︎ https://jujiro.base.ec #秋田県 #湯沢市 #川連漆器 #川連塗 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #伝統工芸 #秋田工芸 #秋田クラフト #寿次郎 #雛祭り #ひな祭り #雛飾り #吊るし雛 #修理修復 #修理 #修復 #漆器修理 #Yuzawa #Akita #Japan #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #Chopsticks #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro (秋田・川連塗 寿次郎) https://www.instagram.com/p/CpbKaMBh9OQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kazuya-ikezoi · 2 years
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遠く感じませんか? 木の階段をくぐって、落ち着いた廊下を通って その先の和室にアクセスする計画です 奥から伸びる光と、吊り押入れで視線が抜けた効果で より奥行きを感じられるんじゃないかと思います 工夫が生きるように周りはすっきりシンプルに 他にも事例を紹介しているので @kazuya_ikezoi からとんで見てください #縁無し畳 #内障子 #吊り押入れ #飾り床 #シナ合板 #天井板貼り #アッシュ材 #オープン階段 #家づくりのアイデア #設計士とつくる家 #コラボハウス https://www.instagram.com/p/CmEOgC9rfiw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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servant222 · 2 months
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20240713 紫陽花と戯れる休日
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吊るしていた我が家の紫陽花たちが次々とドライになっていく。どれをみても可愛くてなかなか捨てる勇気が出ない。思いがけない色に変化したりするのは嬉しくもある。そんなこんなで窓際が少し時期遅れの紫陽花祭り。
剪定がまだ終わっていないのはもうアナベルだけになった。緑色に変わった頃ドライにするのが一番きれいになる。ドライになって時が経つと黄金色になる。その色の変化を楽しむのも良い。そういえば、土用の丑の日に紫陽花のリースを飾ると金運アップとか。
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リースにするには今年のうちのアナベルじゃ少し足りないかな。スワッグでも良いかな。
毎日は楽しいことばかりじゃなくて不安も落ち込みも焦りも苛立ちもたくさんある。どこかでその重たい気持ちに少し区切りをつけることは必要で。決して逃げるわけではなくて、追い詰まってしまった気持ちを逃してやることも大切なんじゃないかなと思う今日この頃。
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hide-koba · 7 months
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吊るし雛
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#茨城県 #坂東市 #秀緑 #ひな祭り #つるし雛 #雛飾り #雛人形 #お雛様 #坂東ひな飾り展 #PENTAX #PENTAXIAN #K3 #pentaxk3ii #pentaxk3ii #55_300mm #pentax_da55300plm
 
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yoooko-o · 1 year
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20/09/2023
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一休・ちょいCafeの日替わりlunchは酢鶏定食🐓
lunchを食べ終わるころに日替わりが完売して唐揚げ定食に変更されていました🍴
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デザートはいつもティラミスタルト🍰ずっと見ていて実は初めてでした🍴
そしてずっとCafeに飾ってあるポスターの人、ずっきー。
ちょいCafeオーナーのひとみちゃんに正体を訪ねたところ、
地域おこし協力隊などではなく、純粋に藺牟田池大好きな方で、本職の傍らで活動中だそうです。
いつかお会いしてみたいものです。
Instagramで活動の内容が見ることができます📱
https://instagram.com/imutagram?igshid=MzMyNGUyNmU2YQ==
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この日は姶良市の蒲生八幡神社へ⛩️
神社にある蒲生のクスも変わらず本殿横で佇んでいます。
そして、ミニ絵馬とおみくじのセットも(300円)。裏に願い事を書いて神社の決められた場所に吊るしてくださいとのことでしたが、可愛かったので、ミニ絵馬は持ち帰っています。ただ、どこに飾ろうか現在思案中です。
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当初、竜ケ城磨崖梵字を目的に来ました。
前日は雨だったとのことでしたので、訪問しても大丈夫なのか不安になり、蒲生八幡神社向かいにある蒲生観光交流センターでスタッフに尋ねたところ、ここ最近、予算の都合で歩道の整備は全くしていないので、行くのは止めてほしいとのことでした。
車道で入れるところは問題ないそうなので、車道で行けるところまで行ってきました。
奥が、草もすごいことになっていまして。写真を撮ったら即引き返しました🚗
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そして藺牟田池に。
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最後はさつま町の柊野(くきの)地区のヒガンバナの咲くエリアへ。
Many red spider lilies are in bloom.
夕方でしたが、私のように写真を撮っている人もちらほら。もしかしたら、今日がピーク?
頑張って来て良かったです✨
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furoshikiblog · 2 months
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【 夏祭り 】
八月に入ると一斉に始まる感じの東北の夏祭り。 弘前ねぷた、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕。 どの祭りも七夕由来で、旧暦7月7日のこの時期の開催となっているとのこと。
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「ねぶた」「ねぷた」は「ねむた」とも言い、「眠たい」が訛ったもの。 灯籠流しと一緒に、仕事の妨げになる睡魔も川や海に流そうとするもので、 「眠流し(ねむりながし)」という七夕の灯籠流しに由来するものだそう。 大きな山車灯篭は秀吉の時代かららしいですが、巨大化しだしたのは明治以降。
秋田の竿燈祭りも同じ由来で、江戸時代からの記録があり、 現在は約280本の長い竹竿に、約10,000個の提灯を吊り下げた「竿燈(かんとう)」が壮観。
仙台七夕は伊達政宗の時代から続く伝統行事。 豪華絢爛な笹飾りの数は市内で大小合わせて3000本以上とのこと。
これらのお祭りが終わると秋の気配が・・・
   ねぶたの手 大きく闇を つかみ行く  村上三良
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leomacgivena · 10 months
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Xユーザーの母情 −平野醸造株式会社−さん:「酒蔵に吊り下げられている飾りの名前は「杉玉」。 平野釀造では毎年蔵開きの際に、新しい杉玉に取り替えられます。 杉玉の色の変化は、時間の経過による新酒の熟成具合と重なり、茶色くなる程お酒も熟成が進んだことを表します。実は杉玉は、新酒の熟成具合を知らせる重要な役割を持っているんです。」
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moja-co · 1 year
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「御即位式」  大正天皇の御即位式が行われたのは、青島陥落の翌年、大正四年十一月十日だった。御即位式のことを、一般に御大典といったが、明治天皇の御大葬が、日本が文明開化の代になってから初めての出来事であったと同じように、御即位式もここ数十年の間かつてなかったことではあるし、欧州戦線のあおりを受けて、丁度日本が好景気のさなかだったので、全国民挙げてお祝い申し上げたのであった。その時僕は、五年生になってゐた。  その日は、学校で祝賀式があって、新しい天皇陛下の御真影を拝み、「君が代」を斉唱し、教育勅語の拝読のあと、校長先生から色々のお話があって、天皇陛下万歳を三唱して、その日の授業はお休みになった。  明治天皇の御真影はどうなったか知らないが、新しい天皇陛下の御真影を頂く行事があったことを覚えている。尤も、それが何年の何月だったか忘れたが、御即位式よりも前だったことは確かである。  多分、神戸の県庁で、校長先生が頂いて帰られたのだらうと思う。何時何分に御真影が姫路駅にお着きになり、何時何分に学校にお着きになる、と時刻予定がきまって、全校生徒は、校門の前にズラっと両側に整列して、お迎えした。その時刻の少し前から、学校前の道路は一般の通行禁止になって、警官が警戒に立ってゐた。  待つほどに、京口橋の方から、人力車がボツボツ来るのが見えて、「気をつけ!!」の号令がかかった。見てゐると、警官が一人、車の前をテクテク歩いて、人力車の上には、校長先生が白手袋の両手で、大きな紫色の風呂敷包みを、おもそうに捧げて居られる。それがやっと見えた頃に「最敬礼!!」の号令がかかった。しばらくすると、警官の足と、車夫の足と人力車の車輪、その後にもう一人の足が、目の前を通って行った。  その日しばらくしてから、講堂で、御真影奉戴式があった。明治天皇が崩御になってから、三大節にも、講堂の御真影の棚は開かなかったが、新しい天皇陛下の御真影を頂いてから、前通に、御真影奉拝の最敬礼が、よみがえったのであった。  御即位祝賀式のときには、校長先生から、御即位式について色々お話があった。万世一系の日本では、一日一刻も天皇陛下のない時があってはならぬので、明治天皇がなくなった時、すぐに、当時の皇太子殿下が三種の神器をお受けになって、天皇の位につかれた。それを践祚(せんそ)といったが、天皇陛下がその位におつきになったことを、天照大神その他の御先祖に報告されなければならぬし、国民一般に又外国にも、そのことをハッキリ知らせなければならないので、先帝陛下の喪が明けてから、その儀式を行われるのである。この御即位式は、大昔から続いてゐる儀式だから、昔からの仕来り通りに、元の皇居である京都御所の、紫宸殿という第一の御殿で、古式通り厳かに行われるのである、というようなお話であった。  御即位式の日取りがきまると、その儀式のことや日程が、次々に新聞で細かく解説予告されてゐたが、いよいよ式が始まると、天皇陛下が東京を出て、京都に向かわれる鹵簿((注)ろぼ=天子の行列のこと)や、関連の色々な写真が、その記事と共に、次々に掲載された。新聞もここ数年の間に非常に発達して、写真版などもきれいになってゐた。  又、前年の青島陥落のときと同じように、全市を挙げての祝賀行事が催され、我々小学生は、日の本の小旗をかざして、町々を旗行列をし、夜は夜で、色んな団体の提灯行列が、いくつもいくつも、「祝えや祝え!!」と歌いながら、又、それぞれで万歳万歳!!と、市内を行進して、大変な賑やかさだった。  御即位式のときに、国家社会に功労があって勲章を頂いてゐる人に、天皇陛下からごちそうを下される、ということがあった。特別立派な勲章を貰ってゐる人は、東京に召されるのだが、勲五等だった父には、神戸の県庁でごちそうを賜るというので、菊の御紋章のついた御召状が届けられた。  父は以前に、広島や大阪に勤めて、軍需品の納入その他のことで、功績があったのだそうで、勲大等の旭日勲章を頂いたが、僕がごく幼い頃、専売局に勤めてゐた時に、一段進んで、勲五等になり、瑞宝章を頂いてゐた。だから、今では民間の塩田業者であったが、御即位式の御馳走に召されたので、大変の喜び方で、あちらやこちらで、大自慢にしてゐたが、いよいよその日には、朝早くからフロックコートを着て、これが勲五等の瑞宝章だ、これが勲大等の旭日章である。旭日章は本当に手柄がなければ頂けないので、一段下ではあるがこの方が立派なのだ。これが日清戦争の従軍章、これは北清事変(明治三十三年)の従軍章、これが日露戦役の従軍章だと、一つ一つ、僕に説明しながら、それを胸にズラッと吊り並べて、シルクハットをかぶって、意気揚々と停車場に向かった。  その日、もう日が暮れてから、父は、胸いっぱいに勲章を飾ったまま、人力車から自分独りで降りるのが危ないほど酒に酔って、それでも白い風呂敷包みだけは、大切に持って、帰ってきた。その風呂敷包みには、その日の御馳走が入ってゐたのである。素木の足のないお膳と、素焼きのお皿や瓶子(へいし)のようなものと、銀色のボンボニールとかいうものを取り出して、これには何が入ってゐた、これに何がと、一つ一つ説明してくれたが、どれも空だったことを記憶してゐる。
大正天皇の即位式の日のことが、大伯父(祖母の兄)の遺した回顧録に記されてました。 従兄弟が見つけて、文字起こしまでしてくれた! けっこう貴重な資料だと思う。
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kennak · 4 months
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コロナ禍以降は鉄道会社の事業範囲は幅広くなり、運輸収入だけに頼らないさまざまな手法がとられてました。鉄道も株式会社であれば本来、自由度が高く経済活動が行えるはずですが、一方で公共交通としての立場もあります。 そういう意味では今後、駅構内や車内吊り広告に酒類を使うことも疑問視されかねないのですが、今回は特に駅名は名称・案内板としての役割に加えてその街の顔として共にイメージを作り上げていく側面もあるからではないでしょうか。 そして、これだけ大きな話題となったの���駅名看板が広告効果として高かったがゆえに目立ってしまったとも言えます。いずれにせよ、駅名というのは多くの様々な方の目に触れていることが知れましたし、事実このような意見が上がってきたということは、事業者としてもどのくらい仕掛けて良いのか、チューニングし直す機会になったのかと思います。
『京急蒲タコハイ駅』にNPO法人が「公共性を完全に無視」と抗議 サントリーは「真摯に受け止め対応」と装飾撤去を認めて駅広告を縮小(NEWSポストセブン)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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pebbleworks · 2 years
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keredomo · 1 year
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愛の完成
 あなたが殺してくれと言うので、それなら一緒に死のうよ、と返した。  その即座の返答が、あなたには意外だったのだろうか。少しだけ悩んだそぶりを見せてから、そうするかあ、と返事が来る。あなたがその返事を打ち終えるまで、「……」と表示されるメッセンジャーのトーク画面を見つめていた。ようやく覚悟が決まったらしい文面に、「やった、念願の心中だ」とわたしは無邪気に喜んでみせる。あなたの数秒のためらいはなかったことにしながら、努めて無邪気に。「ようやく一緒に死ねるね」と。たった数秒かけて打ち込んだだけのあなたのしょうもない覚悟、その覚悟なんかに何の意味もないことを察しながら、それでも努めて無邪気に、無表情のまま、文面だけは無邪気ぶって同調し、あなたのそのか細い不安の尻尾を捕まえて自分のものにしようとする。  それは醜悪な独占欲の行使だったが、やっと、やっと捕まえたと思ったのだ。死の匂いのする愛の場処に、ようやくこの人を引きずり降ろしたのだと。
 *
 「殺してくれ」と言われて、「一緒に死のう」と返す。その姿ははたから見ればまるで幼い茶番のようだが、まったく笑えも救われもしないのは、私たちがこれらの言葉を至極本気で言い交わしているからだった。  われわれの交わす言葉に嘘も虚飾もない。それは、数年来、知力の限りを尽くして言葉によってやりとりしてきた関係の守ってきた、唯一の約束だった。ほかに何も交わせないからこそ、それだけは決して破ってはならない約束。言葉という、そもそもが虚飾になることをまぬがれないツールにおいてその約束を結んでしまった以上、われわれは言葉の粗さによって生の実を歪めることを受け入れ、それによって隙のない盤石な関係を築き、「われわれの倫理」という誰にも踏み込むことのできない倫理領域を作り上げた。われわれはその倫理の国の薄い空気のなかで必死になってのたうちまわってきた。いよいよ酸素も足らなくなり、死んでしまおうと計画し始めたのだった。
 息も絶え絶えになってしまった私たちは、本気でこんなことを言い交わして、しかし心に飼っている理性は、われわれがこの心中計画をどうしたって実現し得ないことを知っていて、あからさまに失笑してみせる。互いの頑強な現実的理性がストッパーを担っていることを、本当は互いにわかっていた。どんなに恋愛に苦しんだところで、それは形而上のものでしかない。狂おしい現実に適応するべく理知に従って生きている私たちは恋愛のためには死ねない。この甘い甘い心中計画は永遠に果たされない。わかっていながら、われわれの築いてきた強固な倫理の要求にあらがえず、一緒に死のうと言い交わすことになってしまった。  なんてやるせない愛の睦言だろう。システマティックに煽られた感情にすぎないこの睦言には、けれど倫理を成立させるだけの情熱と真意がたしかに燻っている。社会的な倫理と私的な倫理の相剋は、私たちを無様に苦しめた。どんなにこの愛の深みに沈み込んでみたところで、死をもって完遂することはできないだろう。関係が袋小路に入ったところで、信じたいはずの互いの言葉が空虚なものとして舞う、苦しいばかりの中途半端な共依存関係がわれわれをずたずたに傷つけていた。二つの倫理に引き裂かれているがゆえの、中途半端な共依存関係。
 睦言が睦言に過ぎないことを知っている大人同士の、けれどもその寂しさがゆえに成り立つ、これは「完成された恋愛」だった。私たちのためだけに築いた二人だけの倫理が成り立たせる、何の澱みも、緩みも、破綻もない恋愛だった。言葉を拠り所として紡いできた関係は、それゆえ、互いの言葉への信用がなくなればあらがいようなく終わってしまうのだった。  一緒に死のうだなんてあからさまに陳腐でみっともないことを言い交わす羽目になってすら、私はまだあなたとの恋愛の甘い夢から覚めることができないのだった。関係して6年。交わしてきた膨大な言葉たちが溶け合って、私はとうに自分を見失っている。自分の大きな一部を、大きすぎる一部を、あなたに明け渡してしまっている。おのれの足だけではもう、立てなくなってしまっている。  わが半身となった者なしにはすでに歩くこともままならず、ようやく一緒に死のうと言い交わせても、言葉にすることでそれが土台不可能であることを理性でもって再確認するだけだった。一人で立てもしないが、二人で死ねもしない。おのれの一部を明け渡していると自覚することは、同時に、おのれの全てをあなたに明け渡すことができないと了解することであった。  あまりにも似すぎている者同士の、相互理解の深さが私たちを悲しみに追いやった。相手が私のために死ねないことなど、はじめからわかっていた。私が相手のために死ねないことも、わかっていたはずだった。
 あなたは言う。「あなたはこの先、誰と恋愛をしたってどうせ深く傷つき続けるだろう。だったら、その相手はわたしであってほしいと、身勝手ながら、そう思うんだ。どうせ誰かに傷つけられるなら、わたしが傷つけたい。わたしでいいじゃないか。わたしに、傷つき続ければいいじゃないか」。  あなたは言う。「あなたが恋愛で傷つく相手は、これからもずっとわたしであってほしい。一生、わたしであってほしい。どうせつく傷ならば、その傷はわたしによるものであってほしい。でなければ、わたしは気が狂ってしまう。あなたがほかの男に傷つけられることを考えると嫉妬に狂ってしまう、暴力でもなんでも行使してあなたを独占してしまおうという虚妄に身を灼かれてしまう」。
 あなたの言うことには一理ある、と思う。一理どころではなく、このわれわれの倫理に則るのなら、それだけが真実だと思う。あなたのその嫉妬心も独占欲も、人が抱くものとして、真っ当なものだと思った。それらは人が人に向ける感情の中でもっとも狂おしく、もっとも切実で、もっとも真剣なものだ。そして、あなたがそれを発揮できるのは、われわれの倫理の内側でのみだ。私はあなたの吐露したその切実さに絡め取られて、思う、確かに私にとっても、これからも傷つき続けるのであれば、その相手はあなたがいい。暴力的に独占されるのであれば、その相手はあなたがいい。  けれど、そうか。私はこの先も、傷つき続けるのか。私のもう一つの倫理がそれを拒もうとする。この叫ぶような痛みを受け取り続ける生を送るのか。あなたは、私が傷つき続けるこの世界から私を救い出してはくれないのか。そんな生を、私はずっと生き続けるのか。
 あまりにも強固なわれわれの倫理に絡め取られて、すでにこの身は牢獄の囚人のよう。あまりにも寒く、あまりにも惨めだ。けれど実のところ、どちらかといえば、私のほうがあなたを牢獄に引きずり込んだ��だった。私はそれに気づいていた。その責任を果たさねばならないと思って、あなたよりも数年早く、私は二人で死ぬことについて静かに腹を括ったのだった。この結末は死にしかないだろうと結論づけたのだった。  括った腹の、括った紐が緩めば、臓器が汚い床にぶちまけられるだろう。赤黒い腸が跳ね、痛めつけられて穴だらけになった胃がべしゃりと形を崩し、膵臓がそこに黄濁して積み重なる。そのグロテスクな光景を見てもまだ、あなたは私を愛するだろう。破裂した私をも尚、あなたは愛するだろうと思えるほどの骨がらみの恋愛を、私はしていた。渾身でもって。そうしてようやくその汚濁にあなたを引き摺り込んだ。
 *
 ぼんやりと、視力の落ちた目で自分の暮らす一人きりの部屋を眺める。輪郭は揺らいでしまって掴めないが、それでも色彩だけは判別できる。本棚に差す書物の色を選べないせいで、夥しい色が自室にあふれかえっているのがゆらゆらと揺蕩って見える。これらの色々の、すべてに生気が宿っているような気もするし、すべてが死んでいるような気もする。この景色がそのまま私の存在にも反映されていることだろう。私のすべてに生気が宿っているような、私のすべてが死んでいるような——こんなマージナルで危うい生を、これからもまだ、生きるのか。とうに限界を迎えているというのは、どんな言葉で訴えても誰にも正しく伝わらない。私だけが知るところだった。私だけが、つかみどころのない人生に膿んでいた。それはすでに、生ではなく死であるように感じられた。  このぼやけた景色は「完璧な恋愛」の代償だった。愛は命を削る。私の命は削られていた。あなたの命もまた、削られた。
 心中の相談をしながら、あなたと私の感情はけっしてそこに乗ってはいない。ただ、理屈の上だけでの話をしてお互いを慰め合っているのだった。「死ぬの、どこがいい?」「東尋坊でしょう。遺体が見つからない場所がいい」「私もそう思ってた。身投げですね」「うん、そうしましょう」。  なんて空虚な会話だろう。私は唇の片方だけを吊り上げて笑う。ここにあるのは形式だけだ。私たちは間違いなく、何があろうと間違いなく、東尋坊で身投げなどしない。一緒に海の藻屑になることを選びはしない。倫理の強制力に従って口にしているだけだ。この会話すら、「あなたを深く深く、深く愛している」と告げるためのメタファーにすぎなかった。そこには形式だけがあった。  これほど陳腐でこれほど切実なメタファーもない。私たちは確かに、そのメタファーに乗せて、互いの思いを伝えあっていた。けれど、そもそもそこに載せるべき感情は、本当に存在しているのだろうか? わかっている。これは、心中というロマンティシズムに淫することもできないまま、ただ会話をつなげているだけの空虚なやりとりなのであった。愛と呼ばれる美しい交歓はすでに散ってしまって、私たちのあいだに残されているのは、責任、けじめ、矜持、昇華願望、そして諦めだけなのだとすれば、どうしよう。——愛って何だっけ?
   *
 私は知っている、あなたという人は、あまりにも歪なやりかたで、「本心」というものを置き去りにしながらこの世を生きてきた。その場の、場当たり的な誰かの要望に無我に応じることで生をやりすごしてきたあなたは、ここにきて、私の切なる終わりに対しても、いよいよ同じ態度をとっているのではないか。そして、私もまた同じであるからこそ、それに気づいてしまうのではないか。  当事者の私たちですら拾いきれないほどの数多の言葉を交わしてきたから、改めて語られずとも、あなたの生き様についてはよくわかっている。私が送ってきたのとは真逆の生をあなたは生きてきた。奇跡的なことに、互いの「愛」の定義だけが同じだった。だから愛をやれた。完成するまで、愛をやれた。愛は完成した。完成した愛は、そののちに、壊れようとした。
 完成とは「それ」が永遠になることだと、語義の上で、経験の上で、ずっと信じていた。それなのに、完成した愛も齟齬によって破綻しうるのだとすれば、一体何を目指してゆけばよいのだろう。  私はすでに、何によってその完成した愛が罅割れたかを理解している。互いに抱えてきた二つの倫理の矛盾がそこに歪(ひずみ)を生じさせた。その罅を修復するだけの力が、もう私たちには残されていなかったのだ。6年という歳月で、あなたも私も、おそろしく老いてしまった。私たちにはもう、愛のために無理を押し通す力が残されていないのかもしれない。
 私は言う。「あとはあなたを地獄に道連れにすることしかできない」と。その最後通牒に、あなたはもう何も言えなくなってしまう。  私は思う。人を愛することはこんなにも苦しいことだったかと。人を愛することは、人に愛されることは、こんなにもままならないことだったかと。それでもあなたを愛していると。愛する人の手を離すことはこんなに苦しいことだったかと。あなたを愛することができない日が、もう二度と、こないでほしいと。一緒に死のうと言った時に、理性をかなぐりすてて、感情のままに、お互いだけを見つめあって、一緒に死ねればよかったのにと。
 私たちが築き上げてきた美しい倫理によってすらそれが叶わなかった生を、これからどう生きてゆけと言うのかと。
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syowa · 2 years
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村上駅 駅スタンプ 全1個 改札係員 途中下車印も押してもらった
駅ホームの天井から鮭とばが吊るされている。鯉のぼりのような布製の鮭も吊るされている。駅舎の前にはレトロな丸い赤ポスト。地元高校生が育てた桜の花がバケツに入れられて飾られていた。
Wikipedia
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774 · 1 year
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復興局の『永代橋設計計算書稿』によると、「雄大なる環境に調和することは、区々たる局部的装飾の能くする処にあらず、橋梁そのものが全体として表現する気分によってのみ果たさる」として、雄々しく男性的な輪郭にしたのである。震災復興の象徴として、過去の悲劇を繰り返さない決意の表れといえるだろうし、また、古来より歌人・詩人たちが歌ってきた永代橋の眺望を蘇らせる意図もあったのだろう。なお、永代橋はドイツ・ライン川に架かるレマゲン鉄橋を、対となる清洲橋は美橋といわれたケルンの吊り橋を模したデザインである。
CHANTO -ちゃんと-
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servant222 · 3 months
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20240701 友人に追い文を連発する朝
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今日もどんよりしてる。珍しく昨日から2連休だというのに。昨日も今日も雨。今日は朝から大雨だし雷も鳴ってる(`-ω-´)ムー
友人から、一緒に作ろうと言っていたものを 「 形にしていこう!」 と言ってもらい、嬉し過ぎて舞い上がっている。今も。そしてあれこれ頭に浮かんでくることを書いて友人に送りつけること数回。少し落ち着かなくては…。追い文し過ぎて嫌われたら困る。
家の紫陽花がどれも捨てきれなくて、吊るして乾かして、さらに愛着が湧いて。これは負のループなのか。一旦整理しないとこのままでは窓際が大変なことになる。以前生花で買って生けて楽しんでいたダリヤも花びらがこぼれ始めるギリギリのところで吊るし、ようやくドライになった。最近はこんなことをして花にばかり気を取られている。
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生花の頃の方がもちろん華やかで生き生きしている。並べると少し寂しくなる?年老いた感じするかな。個人的にはどちらも好きなので、生花で良い時を楽しんで腐ったり傷んだりする手前でドライにすることが多い。もちろんそのまま飾って終える時もある。
ドライになっても朽ちていく過程は止められないので、そろそろかなという頃にはさよならする。本当に茶色になってしまったものも良いとする人もいるね。私は少し色が残っている方が好きだ。
連休なのにこもっていてなんだかもったいない気もするけれど、今日はだらだらと音楽でも聴きながらなんとなく過ごそう。
雨降りだからと理由をつけて。
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