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#平沢貞通
anamon-book · 1 year
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帝銀事件と平沢貞通氏 遠藤誠・編著 三一書房 装丁=加藤俊二(プラス・アルファ)
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europiumoon · 10 months
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雷遠く海が鳴る
この数日間なんなら名古屋はとても暑くて、アスファルトからの熱気に負け、私は頭の奥底で唸る頭痛に泣かされた日々を過ごした。
8/18(金)
私は有給を取り名古屋に向かう。片道4時間近くとしっかりした移動時間で一瞬考えるのをやめたくなったけど、地元の電車に乗り向かった。東京から東海道新幹線に乗り、母親から「富士山撮ってきてね」と言われ座席をアプリで覗くものの富士山側が埋まっていた為、普通席ではなくグリーン席に乗ることにした。結果は曇りで撮れずじまいだったけどゆったり出来たため結果オーライだった。(帰りもグリーンで帰った)今回の目的も、も、とは言ったら失礼だけど、恋人を連れ戻しに来た。正しくは彼の地元に遊びに行った。名古屋に着いた後慣れた足取りで地下鉄に向かう。彼の地元に来たのは3回目。1回目はものすごい喧嘩をした後で、2回目は年始だった。彼と合流して、コメダで休憩した。コメダはメロンソーダが1番好き。その後、宿泊先に荷物を置いて夜ご飯を食べに行った。台湾ラーメン。黄身と麺と肉の絡まりに惚れ惚れとしたけど、味の濃さにやられ初日からダウンしてしまった。台湾ラーメンは台湾で名古屋ラーメンと言われているらしい。名前の擦り付け合い。
8/19(土)
名古屋駅前のホテルに荷物を置き、カフェにて本日の行くところを探す。ノリタケの森と明治村に行こうと話をしたけど、外気温38度という暑さで後者は断念した。お昼にヒッコリーのハンバーグを食べた。肉肉しいハンバーグがとても美味しくて2個ペロリと食べてしまった。その後頭痛がひどくて薬を貰った。暑さからだとわかったけどどこにも吐き出せない痛みから、些細なことでイライラしてしまった。温泉に連れてってもらった後、腹痛に悩まされて前日に引き続き泣いた。申し訳なかった。ノリタケの森では小皿を買った。運転沢山してくれてありがとう。
8/20(日)
引き続き頭痛と腹痛に悩まされながら起床して帰る準備をする。チェックアウトギリギリまで寝る彼にイライラした。出る直前彼がキャップがないというので、知らんわ、と心がなってしまっていたが、彼が苛立つ姿に、八つ当たりする姿に呆れてしまった。そんな立場じゃないのに。いろんな場所に問い合わせたけど見当たらなくて、カーシェアで借りた車についても問い合わせたら夜に返却ということで、彼の親に捜索を頼むことになった。暫くしてから、「○○からもらった帽子、無くしちゃってごめんね」と悲しい顔で謝られた時、こちらも悲しくなった。駅前で待ち合わせている最中お土産を買って頭痛薬を飲んだ。別に泣かなくてもいいのに彼の前では涙が溢れてしまって、自分が弱くなった、と思った。彼が再合流した後、新幹線の発車時刻までエキチカのお寿司屋さんでお昼を食べた。セットに含まれていた茶碗蒸しに銀杏が入っていた。とても嬉しかった。チェーン店でも最近見当たらなくて落ち込んでいたから、より一層。新幹線の中で本日泊まるホテル探しをしている最中、隣でゲームする彼に腹立たしくなって、愚痴を吐いた。端的に動く彼が嫌になって、当初向こうに頼んでいた予約も私が取り、不貞腐れた私は涙が止まらなくなりながらイヤホンを耳にさして『愛がなんだ』を観た。愛ってなんだろうね、となりながら平生に戻ろうとして無になった。感情の起伏が激しかったなって、書きながら思うわ。ホテルについてからゲームをしながら寛ぐ彼を横目に何処か行ってやろうと思って部屋を出た。「どこに行くの!」と強くいう彼を放って近くのカフェで頭を冷やそうと思った。ら。電話の嵐。結局コンビニに寄ってホテルの部屋に戻った。戻ったことを確認した彼はマンガを読み始めて、いる意味ないだろうが、と思って私も私でアニメを観た。彼から隣に来てと合図されて、嫌々ながらもベッドに入り横になった。横になると頭痛と腹痛が思い起こされたので、どうしようも無くなり、ごめんなさい、と発したと同時に涙が溢れて声を荒げて泣いてしまった。いつもなら、「泣くな、情けない」という彼も、背中をさすって「大丈夫だよ」と言ってくれたことに、より一層泣いてしまった。一緒に映画を2本観た。2本目の映画でボロ泣きする私を見て彼は笑ったが、涙をマイナスからプラスに変えてくれた気がした。結局キャップは運転席の下にあったらしい。よかった、と思うと共に「○○からもらったキャップがあってよかった」と言われた。
泣き虫な自分を包み隠さず居られる場所になったことに改めて気づいたこと。去年の旅行時にも私が張り詰めてしまった時と比べて、遠くではなく近くまできて寄り添ってくれたことに嬉しかった数日間でした。夏の空のように不安定な自分を愛し続けたいね。
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食べ物ばっかり!
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bsamngodangbralba · 7 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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toshikun777-blog · 9 months
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ガオガオがおー。
帽子のなか。。大変な事になってるの、、。
みたい人〜〜?したいひと〜〜??
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って、変態バリウケどんぐり見てもきもいだけだよね、、明日。新居が決まるかも。横須賀?平塚、藤沢、保土ケ谷、茅ケ崎、辻堂、相模原??厚木もいいよね。。。なんでかって??
子安、厚木の山登ってったとこ、藤沢、平塚、追浜、横須賀。川崎もか。。もう川崎の産業道路なんて、もう、、、妄想やばいよね。。答えは。
肉体労働者さま。工場。。いろいろ。
仕事おわり、、疲れてるとき、一気に勃起することない??あるんです。期間工のお兄さんとか、男子寮に帰っていく。。あー。。拉致られて、閉じ込められて、監禁されたい、、、。。慰安夫になりたい、、、。
れいぷされたいよね。。だって、便器だもん。欲しくなるの当たり前だよ。ご飯食べるみたいに普通のこと。。肉食動物が草食食うのと一緒。弱肉強食。。
自分はね絶対タイマン負けるよ。。つか、、てなんかあげれないし。。でもね。肉食なんだから、弱いものいじめしてスカッとしたいはず。。だからね。2体1で、更に動けなくされて、、、。。自分父親にDV受けて育ったからかな、、父。自衛官なんだよね、、。。
しょっちゅう目を腫らしてた、、、。でもいまは大好きなんだ。だって喜んでくれるんだよ。。縛られた自分。。これからどうされるんだろ、、三人しかいない。。抵抗できない。。気が狂いそうになるほど可愛がられたい。。ニヤニヤしながら二人で硬くなってさ。叫んでも誰も来ないし。逃げれない。苦しむのみて興奮してびんびんに、、。。自分は男のなりそこないのエラー品。。いれるんじゃなく、いれられてるんだもん。。37になってメイド服。。着れる?
自分なんで岩手から横浜来たと思う??男にたっぷり犯されるため、、あげた時しかえろならんけどさ。。
まあ、女装してまで犯されたい変態だからね。
だって、自分の穴使ってほしいよね。。無理やりじゃないんだもん。自分は
ケツ使ってくれるならなんでもする。
言ってる。本当は女がいいのにさ。。。だからさ。。やった後さ、ノリでやったけど、なんでこんなのとやったんだ?きもちわり〜、、。って。多分なると思う…つか、自分は無理だもん、、
あっ。ムリも何も、立たないし入れられなかった。。だからね。。だからさ。
だいたい一回で終わるでしょ、、?一回で終わりなら。お互いなにしてもいいし、優しくされるよりも、奴隷のようにたっぷり可愛がられたいよね。。ホモってマジ、ちんこのタメならなんでもすんだなって笑われて、逃げれないからだ。。ストレスも発散させたい。。だって、、自分なんかを使ってもらえるんだよ。。本当だったら、ないんだから。なんもない。女とやる人だよ。その男の人が、勃起しながらニヤニヤ。。声が震えたり、歯ぎしりなんかはじまったら、、、。。
自分バイの彼氏がいたんだよ。つか、バイばっかり。ばいにしかすかれないんよ。別にすかれてないけど。体ありきで性処理以外で必要とされた事、、、ないんだろうな。。。
自分はさ。変態な事いったりなんだりはさ。カモフラージュ。。男のひとと一緒にいたいってすごく思うし、、気持ちよくしたいとか、使ってほしいとかさ。。面倒くさい話はやめよ。。そんなもんひとりよがりな感情だから。。
だからくだらねーこといわねーで、楽しませて上げるんだよね。。好きな人の為になんでもしてあげたいよね。当たり前の事。するなら、中出しされたい。当たり前。でも眼の前の人は自分なんか好きじゃない。。女の子なら、しゃぶる前からビンビンになってるんだろな。。だからRingつけさせる、勃起ものませる。。当たり前だよね。だって自分は女とやる気もしなけりゃ、たちもしない。でもたってくれてる。。涙
自分ってなんも嫌な思いしていない。
でもノンケとかバイなんて。最初から嫌な理由。せめてできるのは、気を使わずに何でもさせてあげよう、、つか、したいのは自分だよね。変態なりきって、変態なおねがいしまくろう。思いっきり使わせてあげよう!
自分本当にないんだよ。エロ以外で、、。酒飲みにとかはあったけど。どう考えてもない。
高校ときの彼氏くらい。
としく〜ん宿題やったか〜って。。
毎日電話くれたんだ。そして土曜の夜。スカイラインでうちまで迎えにきてくれたの。
自分顔真っ赤だったんだろな。。
あった途端豹変するタイプ。みんなもそうだよね??姉もそうだった、、。急に女になるやつww
って、自分まだぜんぜんやってないんだ。ずーっとエロエロなってるけどさ。
自分明日。新居きまるんだ。。自衛隊さんがいる横須賀?追浜のトヨタのおにーさん?追浜。なんか小ぶりなパチンコ屋と、小さい飲み屋なんかたくさんあるよね。なんとかデリカだっけ?惣菜屋。磯丸水産あってさ。。
だれか。新居祝に中出ししてよ。つか、女装して犯されるのみる?女の格好すればいいっていう、単純さ。。自分が感じることないエロの感情。。なんだろな。。
自分になら理性外してなんでもしてあげたい。。
社会人だから毎日ストレス溜まってると思うし。。対等なんかないよ。
たださ。神様ありがとう。穴を2つつけてくれて。。ありがとう。これが無かったら、なんもできなかったんだ、、ありがとう。。
自分。。ずっと思ってることがある。
ゲイタチっているのかな?って。。
レズってほぼほぼバイらしいね。。
自分は生まれて16の時便器になって、それからずっと。バリウケ。変にリバとかにならなくて本当に良かった。いまんとこ、付き合った相手が掘られてるとか見たことない。多分一発で覚めると思う。。やっぱさ。性別なんだよね。無理することないよ。無理してやっても。それは違うんだよ。ある意味自分って一番ノンケだよねww対象が男でウケ。高校の時女と二回。それだけ。そん時の感情思い出せない。。多分幻だ。女ごめんね。なんとなくしてみたかったんだ。童貞思われたくなかったし。。デートとかしたかもしれないけど、普通に彼氏いました\(^o^)/あはは。
つか、、30分も。。だってきもちいいんだもん。この多幸感。これ買うために仕事してるわ。わし。セックスが気持ちいいって感じたの。初めてキメタとき。なしだと、、ちょっと怖いんだ。。嵐山のジレンマだ〜。。
エヴァのライトミドルやりたい。。
パチンコ半年以上やってない。最後大海5のミドル。。やりたいと思わないの。。
で〜。ねーねー。新居祝いに使ってくれる人。。DMください。今さ55型テレビだけど近々85にします。。一緒にみながらしようよ。。、エロ動画。。
横浜東京民。おいで〜。車でむかえにもいくよ★おうち。すっごいすてきすぎなんだ。
つか、、楽しも〜★神奈川民遊ぼ〜★
天涯孤独だし。め゙いわくかける人なんていない。。
ねー。あそんでよ、、。。
受けの子とは変態話と妄想で。
さみしいよ
おもちゃたくさん遊ぼうね。
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今度みんなにも紹介するね。
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lb-toei70th · 2 years
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伊藤英明、中谷美紀、宮沢氷魚、市川染五郎、北大路欣也 出演情報解禁!豪華俳優陣が覚悟の集結!!
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伊藤英明、中谷美紀、宮沢氷魚、市川染五郎、北大路欣也という豪華俳優陣の出演が解禁になりました! 濃姫(綾瀬)の侍従・福富平太郎貞家(ふくずみへいたろうさだいえ)には伊藤英明、濃姫の筆頭侍女・各務野(かがみの)を中谷美紀、美濃の戦国大名で濃姫の父親・斎藤道三には北大路欣也がそれぞれ扮し、主演級の豪華俳優陣が綾瀬濃姫の脇を固めます! 織田家の家臣でありながら本能寺で謀反を起こした明智光秀には宮沢氷魚、そして織田家家臣・森可成の息子で信長の側近中の側近・森蘭丸には時代劇映画初出演となる市川染五郎が扮し、フレッシュなキャストが木村信長を支える形に。戦国時代を駆け抜けた人物たちが大友組の現場でどのような彩りを放つのか、新たなレジェンドの誕生にご期待ください! 【キャスト役所&コメント】 伊藤英明/福富平太郎貞家(ふくずみへいたろうさだいえ)役 濃姫の侍従。斎藤道三に仕え、その娘の濃が織田信長に嫁いだ際、共に織田家へと入った。 <COMMENT> 東映70周年記念作品であり、主演の信長役が木村拓哉さん、さらに大友監督が信長の生きた時代を撮るということで、台本以上のものが必ず出来上がるだろうと楽しみでした。内容としては信長と濃姫夫婦の純愛ストーリーですが、いち歴史ファン、信長ファンとしては、どういう解釈で一つの作品になっていくのか、その過程を見たくて出番がない日でも現場に顔を出していました。 私が演じた貞家は、濃姫の目付け役、お守役という役どころです。自分の中で役の中に通る筋のようなものを見つけて、演じるというよりは、現場で貞家が「生きている」という感覚を持ち楽しみながら参加させていただきました。完成した映像を観るのが待ち遠しいです。 中谷美紀/各務野(かがみの)役 濃姫の筆頭侍女。濃が幼い頃より姫を見守り支えてきた。 <COMMENT> 各務野は綾瀬さん演じる濃姫にお仕えする立場なので、濃姫への愛情を胸に秘めていて、彼女が可愛くて仕方がない、言うことを聞かないお転婆ぶりまでもが愛おしいという気持ちで演じていました。また、以前ご一緒させていただいたこともある大友監督から、ある種、濃姫が憧れるような存在であってほしいとのご要望がありました。信長の正室の濃姫は、その立場のためささやかな日常を楽しむゆとり、普通の幸せを感じることが許されていない。各務野と濃姫、2人が得られる幸せの違いを際立たせてほしいというご依頼で、その点も大事に演じています。壮大なスケールの作品で、この中に存在させていただいただけで本当に贅沢なことだなと思い、幸せでした。 宮沢氷魚/明智光秀(あけちみつひで)役 織田家の家臣で織田五大将の一人。信長より信頼され、低い身分から一国一城の主に出世したと言われる。史実では本能寺で謀反を起こし、わずか10日余りの天下を取ったとされる人物。 <COMMENT> オファーをいただいたときは大変嬉しかったですが、すぐ「本当に頑張らなければ」というプレッシャーが一気に襲ってきたのを覚えています。自分がクォーターで、髪や目の色が茶色だったり、身長が184cmあったりもするので、そもそも時代劇に出られると思っていなかったので、脚本を読み込み、過去の映像作品を観て、自分なりに明智光秀についてリサーチや勉強をしました。そしてあえて自分にしか出せない明智を演じてみようという思いに至りました。ただ立っているだけなのに、何を考えているのだろうと感じるような不思議な雰囲気をまとっている、自分自身とシンクロした、自分にしかできないミステリアスな明智を作り上げてきたつもりです。 市川染五郎/森蘭丸(もりらんまる)役 織田家家臣、森可成の息子で織田信長の側近中の側近。13歳の頃より信長の小姓として仕え始め、その上品で堂々としたふるまいは、織田信長の近習として、織田家の家臣団や敵にも認められていった。 <COMMENT> 台本を読み、殿のため忠義を尽くして生き抜いた蘭丸の姿を純粋にかっこいいと思い、自分で演じてみたいと、お話を受けさせていただきました。木村さんとの共演シーンが多く、クランクインした日から信長の、後ろに炎が燃え盛るような気迫に圧倒されましたが、木村さんは殺陣の稽古を見てくださり、刀の持ち方のアドバイスもしていただいて勉強になりました。所作が歌舞伎と違う部分も多く難しいこともありましたが、殺陣では今回ちゃんと刀を合わせることができて、歌舞伎とはまた違った実戦感が楽しかったです。殿のために生きている蘭丸なので、殿が命令する前にすでに対応しているような頭の回転の早さが見えればいいなと思い意識して演じました。 北大路欣也/斎藤道三(さいとうどうさん)役 美濃の戦国大名で濃姫の父親。典型的な下克上の体現者とされ、美濃のマムシという渾名でも知られている。 <COMMENT> 戦国という滾る時代の中で、激しく美しく熱く燃える男と女の紡ぎ合い、ハラハラドキドキ興奮と感動の内に脚本を読み切りました。斎藤道三と織田信長、その運命の出逢いから道三の中で奮い立つ夢と希望、そしてその願いを濃姫に託したいという想い。そういった想いを意識してこの役を演じ、まさに男が男に惚れた、道三の一面を表現しました。自然体で受け止めて下さった、スタッフの皆様に感謝しています。 1956年(昭和31年) 映画「父子鷹」でデビューさせて戴いて以来66年、先人の方々が築き上げてこられた大きな山を、今も登り続けています。「東映70周年記念」と冠がついたこの作品に出演出来た事の喜びを嚙み締めております。
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straycatboogie · 10 months
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2023/08/06
BGM: Chihei Hatakeyama - Bonfire on the Field 今日は休みだった。朝、図書館に行く。そしてホルヘ・ルイス・ボルヘス『詩という仕事について』を借りる。その後イオンに行く(なんとも行動範囲の狭い生活だと自分でもあきれてしまう)。そして、そこで松下育男『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』を少し読む。松下育男が詩のインスピレーション、詩の言葉についてそれが「(詩の方から)来る」ものであると語っているのを読む。それはぼくの中で腑に落ちた。「待つ」……大学生の頃、ぼくは授業の一コマとして演劇についての授業を取っていたことがあるのだけれどそこで「人は待つことができる動物である」と先生がおっしゃったのを思い出す(何についての話題でそんなことをおっしゃったのか思い出せない。サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』ではなかったと思う)。「待つ」のはいわば何かが到来することをその「何か」任せにすることだから実に受動的な、無力感さえ感じられる営みだ。だが、こちらから常にアクティブに行動し続けるのではなく時にそうして「天運」や「自分の勘」を信じて「待つ」ということだって大事なのかもしれないと思う。ぼくも今の友だちとの出会いについてずいぶん「待った」ものだ。
「待つ」と、詩の方から「来る」こともあるということの神秘……そんなことを思いながらその読書のあと、いつものごとく詩を書こうとするもぜんぜんはかどらない。暑さが堪える……しょうがないのであきらめて未来屋書店に行く。すると新潮文庫の萩原朔太郎『月に吠える』(ヨルシカが表紙を描いたもの)を見つけたのでそれを買い求める。パラパラめくってみて、朔太郎の詩がすんなり入ってくることに驚く。これまで朔太郎なんて読む気にもなれなかったからだ。というより、詩なんてまったくもって見向きもしなかったことを思い出し、あらためて自分の視野の狭さに汗顔の至りを感じる。今年は詩を読みふけってこのバグった暑さの夏を乗り越えるのもいいのかもしれない。沢木耕太郎のノンフィクション(たとえば『一瞬の夏』や『深夜特急』)を読もうかとも思っていたのだけど……音楽は畠山地平の『ミニマ・モラリア』を聴く。このタイトルからはテオドール・アドルノの有名な著作を連想してしまうのだけど、ボーナスが少しばかりでも入ればアドルノの本を買ってみるのもいいかなとも思った。裏返せばそれまであまり贅沢はできないのだった(とはいえ、文庫本を1冊買ってしまったのだけど)。これから「老い」と向き合って生きる、そんな人生の伴走者というか副操縦士になってくれる本について考える。
松下育男と、その萩原朔太郎『月に吠える』が提示している問題意識として「詩とは何か」というのがあると思った。それは裏返せば「なぜ詩を書くのか」という根源的な問いにも通じるだろう。ぼくがその質問に答える資格があるかどうかわからないけれど、仮に答えるとしたら「谷川俊太郎の詩を読んだから」「自分も詩を書けると思ったから」ということになると思う。なんだかロラン・バルトの理屈のようだ。ぼくは、過去の詩にも書いたけれど特権的な「詩人」たりえるとは思えない。これは謙虚さとかそういうのではなく本音であり、あるいはつとめて客観的に自分を捉えようとしてたどり着いた結論でもある。その意味では、実にマニュアルに沿って詩作を試みている「ポエムメーカー」(あるいはそれこそ「ポエマー」)なのかなとも思う。実にイージーだな、とも……というのは結局ぼくの書くものには「オーラ」も「華やかさ」もないからだ。単なる手づくりの品々のようなこじんまりとした魅力しかないかなと……と書いて、それは「手づくり」で心をこめて書いている人たちに対して(言わずもがなで)失礼なことだとも思った。ぼくの場合はもっと「手抜き」の「心のない」品物をポンポンと作っているのが実態かな、と。
それで昼が過ぎ、「本の蔵」に行く。そこで詩を書き始める。萩原朔太郎『月に吠える』の記述を「かじった」というかペロッと「舐めた」程度で朔太郎について詩を書くところがぼくのたわけた性格の現れである。そしてその詩がなぜかポンと「心象スケッチ」という宮澤賢治の用語とつなげられてしまったのもぼくらしく、実にスットコドッコイだなと。「本の蔵」の方とゆっくり話をできればと思ったのだけれど、ぼく自身もあたふたしていたのでお話しできずに詩だけ書いて立ち去ってしまう。今日の夜はグループホームでバーベキューがあり、美味しい肉と野菜を楽しむ。だが、夕方になっても暑く汗だくになってしまい、夜に(すでに朝に「ひとっ風呂浴びた」のだけど)シャワーを浴びようと思って横になったら立ち上がれなくなる。横になりゴロゴロしながら本を読んで時間を潰す……そんなわけで日記の英訳もできないまま終わった。この夏の暑さのせいか、48にもなるとそんな気力も失せてしまうのか。無理をしても続かないのはこれまでの人生でわかってきた(つもりな)ので、日々手堅く安打を積み重ねて打率を上げることを試みる暮らしをしたいと思った。ぼくは王貞治やベーブ・ルースのようなホームラン王になれるとも思わないので……。
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ayasumi-spark · 1 year
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アヤスミ先生の次回作にご期待ください
振り返ればなんの努力もしてこなった人生である。勉強は熱心にとりくんだことはなく、定期試験も資格試験もいつも一夜漬けで済ませてきた。楽器の練習も嫌いで、基礎をおろそかにしつづけてきた。演劇をやっていたころも発声練習や体作りなんてろくにしていなかった。全部なあなあにやってきた。それでもなんとなくこなせた。それでもちょっとだけ人より上手くできた。そういう意味では恵まれた人生だった。もちろん全部中途半端で、大成したものはひとつもなかったけれど。ぼくはこれまでいかに手を抜いて楽しく過ごせるかを目標に掲げて生きてきた。しかしそういった生活をいつまでも継続できるのはガチで才能がある人間か、行動力が尋常ではない人間か、並外れた発想力のある人間だけなのだ──ということに気がつくまでずいぶんと時間がかかった。若いうちは、楽しいだけでいい。しかし残念なことに人間は老いる。若いうちは若いというだけでなにをやっても許されるが、歳をとるとそうもいかない。歳をとっても自由気ままに楽しく暮らしたいのであれば、若いうちにたくさんの努力をしておいて、30代40代50代の自分が楽できるように整えておかねばならない。インターネットなどで観測できる「仕事していないのに自由気ままに生きている人」たちは、実はめちゃくちゃ才能があるか、めちゃくちゃ努力をしている人たちなのだ。なんやかんやみんな高学歴じゃん、そういう人たちって。ぼくはというと、なんの勉強も鍛錬も投資も準備もしないまま若い時間をいたずらに過ごし、気がつけば、ただ老いていた。音楽活動みたいなものをしながら「んー、なんかそのうちワンチャンあるでしょ」と自堕落に過ごしていた。泳ぎ回りもせずに口をパクパクしながらただエサを待つだけのコイみたいに。そして気がつけばアラサーになっていた。いつの間にか「若いねー」と言われなくなっていた。田舎の両親から実家に帰ってこいとうるさく言われるようになった。思っていたより自分になんの才能もないことに勘づきはじめていたぼくは、このままではそろそろまずいと��い、就職活動をはじめた。
というわけで、のべ1年間の、つらく、くるしく、かなしく、ときには殺意をいだく出来事もあるような、とにかくあまりいい思い出のない就職活動を経て──この度めでたく正社員として就職することとなった。ここでは業界業種職種などについて明言するのは避けることとする。勤務地は東京のため北海道への引き揚げは回避することができた。
さて、ここでぼくの人生を変えた佐藤友哉という小説家と、エリーツというロックバンドの話をしようと思う。
佐藤友哉というのは北海道千歳市出身の小説家である。レイプされて死んだ妹の仇討ちのためレイプ犯の娘や孫を誘拐したり殺したりする主人公を描いたやべーミステリ小説でデビューした(主人公が異常なだけの作品ではないのでぜひ読んでください)。15歳という多感な時分に佐藤友哉先生の著作を読み、衝撃を受け、影響を受けたぼくは、完璧に人生が狂ってしまった。ああ、あの日部活の先輩の家で乙一を読まなければ、乙一にハマって『小生物語』を読まなければ、そこで「佐藤友哉」という文字列を目にしなければ、「へーこの人北海道出身なんだ。読んでみようかな」と興味を持たなければ、今ごろバリバリ勉強して一橋大学あたりに進学して商社勤めをしていたかもしれないのに、佐藤友哉先生の小説のせいで「おれは『覇王』になるんだ」みたいな胡乱で馬鹿げた目標をいだくこととなり、「家族を笑え、恋人を捨てろ、社会人を見下せ」のマインドを持つこととなり、「レイプ描写のある作品はいい」「レイプ描写のある作品しかよくない」「レイプしない映画や小説はクソ」などとのたまう人間になってしまったのである(しかし実際のところ、佐藤友哉作品で強姦の描写がある小説はさほど多くはない)。ぼくという人間を構成する因子の大部分は佐藤友哉由来である。いつしかファンをつづけているうちにご本人に認知されるに至り、「未来のない道民」というなんとも不名誉すぎる称号を与えられてしまった。かつて「重版童貞」というあんまりなニックネームをつけられていた人から、これまたあんまりなニックネームを与えられてしまったのである。20歳になったころ、ぼくは覇王になるべく無職のまま上京した。そして数々のイベントで佐藤友哉先生ご本人とお会いし、お話した。自分の人生ねじ曲げた人にこんなかんたんに会えるなんて東京はすごいところだなと思った。
で、その佐藤友哉先生が所属するロックバンドが、エリーツである。エリーツは小説家、エッセイスト、編集者で構成された出版関係者バンドである。メンバーは佐藤友哉のほか、みなさんご存知『NHKへようこそ』で一兆円稼いだ小説家・滝本竜彦、あまりに奇書的なエロゲノベライズ作品でデビューしたのに文学賞を受賞するにまで至った小説家・海猫沢めろん、先ほどぼくが散々書いた「めちゃくちゃすごい自由人」である文筆家・pha、そんな作家たちを担当した経験のある編集者・ロベスで構成されている。バンドメンバーはみな昔から音楽活動をバリバリやっていたとかではない。ほぼ初心者たちが「バンドって楽しそうだし、やろうぜ!」と声をかけあって結成された、有り体に言ってしまえば道楽オヤジバンドである。そうそうたるメンバーで構成されている道楽オヤジバンドである。
もう2年前だろうか。ぼくはエリーツの初ライブに足を運んだ。ぼくの青春を血まみれに彩り、人生を破壊した作家たちが、ギターを弾いて、歌を歌うという。そんなのもう、行くしかないだろう。会場はぼくも散々出演した経験があり、当時の店長やスタッフとも顔見知りであった四谷アウトブレイク。エリーツの演奏は……下手だった。ぼくが音楽に多少の造詣があるからそう判断ができたのか、それともだれが聴いても下手だなと思うのかはわからないが、とにかく下手だった。歌もアレだし、音作りもアレだし、ピッチもアレだし、タテもアレだし……。軽音楽部に入部した新1年生バンドの初ライブ、みたいな演奏だった。それでも、無邪気に演奏するおじさんたちを観て、ぼくは涙を流していた。ずっとドキドキしっぱなしだった。まあこれはぼくが敬愛する作家たちが目の前で演奏していたからというのが大きいのかもしれないけれど、たったひとつたしかなことがあるとするのならば、とにかくバンドメンバー全員がピュアに音楽を奏でていたということだ。ぼくは失っていたなにかを思い出した気がした。
そしてつい先日──ここ最近、就職が決まってから間もなくである──ぼくはエリーツのライブに赴いた。エリーツのライブを観るのは(インターネット配信などを除けば)二度目だった。会場は下北沢ラグーナ。ここも何度も出演したことがあり、スタッフとは懇意の仲だ……というか主催企画を開催したこともある思い入れのあるライブハウスである。そんなところでエリーツがライブをするという。感情がめちゃくちゃである。主催は佐藤友哉フォロワーであるラッパー・ハハノシキュウ。ハハノシキュウ氏のライブに触れておくと、とにかく圧巻のパフォーマンスであった。ぼくと彼は立っている「人生のステージ」がかけ離れいるためこんなことを言うのはおこがましいけれど、やはり近い「なにか」を感じざるをえなかった。ひさしぶりに観たエリーツは、明らかに成長していた。ぼくが観ないうちにすべてのパフォーマンスが圧倒的に成長していたのである。同期音源も使ってるし……。初ライブは観ていてヒヤヒヤするような演奏だったのだが(いや正直今もそうなんだけど)、此度のライブでは、ぼくは身体を揺らして普通に音楽を楽しんでいた。エリーツはパンクバンドではないけれど、パンクバンドのライブを楽しむときのそれに近い感覚を覚えた(これ褒め言葉じゃないかもしれないけれど)。
ライブが終わったあと、佐藤友哉先生に「あの……佐藤先生……未来のない道民です……」とご挨拶し、就職したことを報告した。佐藤友哉先生は驚いた様子で、お祝いの言葉をくだすった。さらに畏れ多くもお酒を奢ってくだすった。ぼくはこのことを生涯忘れないだろう。業界職種について訊かれたため申し上げると「え、あなたそんな(会社に入れるほど)頭よかったでしたっけ」とあんまりな台詞をいただき、笑った。アドベンチャーゲーム的に言うとノーマルエンドになりました、とぼくは佐藤友哉先生に言った。当初思い描いていた人生とは離れたところに来たけど、それでも納得のできるところに着地できた。ハッピーエンドよりのノーマルエンドです、と。『灰色のダイエットコカコーラ』のラストみたいな気持ちです、とぼくは言った。覇王になりたかったけれど、なれなかった。それでも生きていく。今思うと本当に身に沁みるラストだ。ぼくは佐藤友哉に人生を破壊されつつ、救われてもいる。佐藤友哉先生は「作家と読者って、つづけるものですね」とおっしゃった。本当にそのとおりだ。
ぼくは今日28歳になった。27クラブに入れたらおもろしかったのだけれど、なんの才能もなかったので無事歳を重ねることとなった。これからも平凡に歳をとっていくのだろう。そして遅くはなったが、やっとこさ人並みの人生がはじまろうとしている。この前はノーマルエンドなんて表現したけれど、まだまだ終わりではないのだ。実は「第一章・完」というだけで、すぐに第二章がはじまる。第二章も、つらく、くるしく、かなしく、ときには殺意をいだく出来事もあるんだろうけど、走り抜くしかないんだろう。実質タイトル回収もしたしこのブログもしかして最終回か? とりあえず10年間のご愛読まことにありがとうございました。
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raccoon-pizza · 2 years
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496 底名無し沼さん (アウアウウー Sa9b-wLA0 [106.128.111.176])[sage] 2022/09/29(木) 12:15:13.88  ID:cq30j4/6a 
>>467-473
悪い直すわ
新潟ジジババ御用達
弥彦山、角田山、国上山、護摩堂山
健康トレーニングにピッタリ
坂戸山、鋸山、八石山、日本国、堀之内御嶽、虚空蔵山
ちょっと背伸びしてみるぞい
米山、五頭山、権現堂山、菅名岳、越後白山、金城山、光兎山
これを登れば童貞卒業、新潟四天王
守門岳、粟ヶ岳、浅草岳、二王子岳
所謂ニワカ御用達
妙高、火打、苗場、巻機、谷川、雨飾、平標、白馬
これを登れば初心者卒業、越後三山
越後駒、中ノ岳、八海山
お、あんたこれ登ったの、通だね
御神楽岳、えぶり差岳、以東岳、金北山、太源太山、蒜場山、明星山、朝日岳
プリンスじゃなくて鷹ノ巣日帰りでトイレ行かず往復できたら認める
平ヶ岳
お、やるじゃん、おまえとは良い酒が飲めそうだ
荒沢岳、鷲ヶ巣山、毛猛山、矢筈岳、寒江山
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ymyh · 2 years
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2022.10.8に見に行った展覧会(1):「BACK TO 1972 50年前の現代美術へ」展@西宮市大谷記念美術館
*出展作家:亀倉雄策、荒川修作、永井一正、田中一光、粟津潔、横尾忠則、W. ユージン・スミス、植松奎二、郭徳俊、木村光佑、野村仁、北辻良央、平田洋一、奥田善巳、吉原治良、白髪一雄、松谷武判、松田豊、上前智祐、正延正俊、今井祝雄、元永定正、村上三郎、高崎元尚、坪内晃幸、木下佳通代、三木富雄、李禹煥、福岡道雄、安斎重男、杉浦康平、高松次郎、榎倉康二、下谷千尋、上矢津、若江漢字、中林忠良、吉原英雄、原健、井田照一、野田哲也、両角修、黒崎彰、深沢幸雄、飯田善國/西脇順三郎、池田満寿夫、矢柳剛、泉茂、舩井裕、山中嘉一、木村秀樹、中馬泰文、二見彰一、ヨルク・シュマイサー
*資料出展:具体美術協会、大阪版画の会、画廊みやざき、小野田實、菅野聖子、前川強、聴濤襄治、堀尾貞治、名坂有子、吉田稔郎、山崎つる子
359(124)
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anamon-book · 1 year
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遺書 帝銀事件-わが亡きあとに人権は甦えれ 平沢貞通、森川哲郎・解説 現代史出版会・徳間書店 装幀=水谷武司
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crydayz · 2 years
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220922 木
今は傍から見て明らかに上り調子に見えるかもしれんけど。
特になんも感じていないしなんも信じていない。
否、信じている事はあるが「これがずっと続く」などとは考えていない。
妻に「なにが楽しくて生きてるの?」と聞かれる事は何回かあったが、「退屈な日常や面倒事の中に面白さ(ゲーム性)を見出すのが楽しい」というのが自分的な結論であった。
まあ、氏ぬのを我慢してるだけと言えばそれまでだ。
「学び」は楽しい。
「遊び」がそんなに楽しいと思えなくなったから相対的に学びが楽しくなっただけってとこはある。
楽しいこと(人生のデザートとメインディッシュ)を子供時代に貪り尽くし、今は前菜みたいなやつとドリンクバーしか残ってないってのが自分の主観。
だったらみみっちい残りモン食べてみじめになるより「断食」や「本来食えないはずの背景オブジェクト食ってみる」くらいのチャレンジした方が楽しいわけで。
そしてそれはそれで「遊具のないスカスカの遊び場」に意地で居座ってるみたいだからバカバカしくなって普通に勉強し始めてる、っていう。
ちょっと5億年ボタンめいた諦念だよな。
「そもそも違うんじゃないか?」って。
楽しすぎた過去の方が「ヘン」なのであってこの空虚な現実の方が「普通」なのではないか、と。
いやいや全然空虚じゃないし報われてるだろって傍から見りゃ思われるだろうし状況を俯瞰すりゃ自分でもそうなのだが「とっくに諦めたあとに昔欲しかったおもちゃ今更もらっても遅いよ」って気持ち、ある。
なんだかんだで現代アートの仕事やれてよかったなー。
「不必要の極み」みたいなものを体感できたし。
そういうものに関与した記憶がなければ、むしろ「中途半端に需要がある何かに一生懸命になる事の価値」を理解できないままだったと思う。
お金が死ぬほど動いてる世界は「お金が動いている事」が主体でその中で扱われるカードはある意味オマケみたいなもんだ。
それをオマケで済まさない為にやたらとコストをかけて作品を作ってみたりするわけだが、結局NFTアートが「そんな事しなくともお金は動かせる」って事を証明してしまった。まあ、一過性のものではあったが現代アートの本質はそういうものなのだ。訳の分かんないもので価値を大きく動かした事自体に価値が生まれる世界。もちろん諸々の歴史を踏まえた意義深さや必然性ってもんもあるが、それにしたって「ただの言葉遊び」や「屁理屈」の域を出るもんじゃない。
しかし、そういうしょうーもないものに価値を与えて皆で持て囃す事こそが、「最も贅沢な遊び」であるのは間違いない。
口コミや意図しないインフルエンサーの偶然の干渉によって生まれるのが「バズ」で、綿密な仕込みにより意図的に「価値のインフレを狙って起こす」のが「ハイプ」である。現代アートとは徹頭徹尾「ハイプ」によって維持される世界。
自身が大きく稼げたわけではないけれど、そういうコンテンツの本質的な「虚無性」とある意味詐欺めいたそのカルチャー内で成功者が家族を養って平和に生きてる様子を見て、まあ、結局人間が求めるものは「安寧」だよな、と。
刺激に飢えた博徒みたいな人生歩みたくてそういう事やってるわけじゃあなく、最後は家族と平和に暮らしたい、お金あるならひとまずいい家に住んで幸せな家族作りたいもんだよな、と・・・
つまらない。それじゃ「責められない」じゃん、普通すぎて。 全然ロックじゃないしパンクじゃない。訳わかんないぶっ飛んだボール投げて皆を驚かせた割には、案外小さいところに収まるんだな、と。
もっとサイコパスみたいな振る舞いを期待してたのにそんな人 国内にはほぼいない。
前線を経験してもいないのにネットや本で聞きかじった情報だけでアーティスト気取りのイキり中年みたいなヤツ大嫌いだ。
否、いい、別に俺に好かれたくて存在しているわけではないだろうし。
希望の方が大事だしな。無知であればあるほど、童貞度が高ければ高いほど、人は(性差関係なく)元気でいられる。
タイムリープして10代からやり直し経済学ガッツリ学んで博打なんかせずに普通に年収1億稼いで趣味で超ヘタな絵を描く(けど人気者の)強キャラになりたい。
あー・・・
憧れられる「超人」の物語が観たい。超人の活躍を観るのは楽しい。
凡人がとんちで頑張る話と負け組が一発逆転で幸せな家庭を築く話、もう見飽きたよ。
秀才か、超人の話を摂取したい。自分とは微塵もかする部分がない強者や幸運の持ち主の話をただ子供のような無責任さで消費したい。
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ari0921 · 3 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)11月6日(土曜日)
通巻第7110号
 有名テニス選手が共産党大韓部に迫られていたと告白
  中国版の#ME、TOOはネットから消されたが。。。
**************************
 国際面のゴシップを飾るのは張高麗という枯れた風貌の老人。
 張高麗といえば、元副首相にして政治局常務委員だ。愛想のない、むっつりと暗い貌、江沢民、胡錦涛に媚びて大出世した。思想基軸のないカメレオン政治家。或いは風見鶏。俗語を使うと、その本質は「むっつりスケベ」。
 11月2日、世界的なテニス選手として知られる彭帥が張高麗との不倫関係を実名で告白した。
彼女はウインブルトンで優勝したほどの花形選手であるうえ、個性的な美人である。
 この告発文は、中国版の#Me,too であり、すぐに投稿文は削除された。最高幹部のスキャンダルは、情報が統制されるからだが、見逃さなかった人たちが副次的にほかのネットへも拡散し、世界に伝達された。ただしフェイクの怖れがある。
 投稿の原文ではテニス選手の彭帥(ペンスイ。35)が、張高麗元中央政治局常務委員兼副首相から性的関係を強要されたとするもので、そのうえ数年間、断続的に関係を持っていたとしたから、大衆が興味を持つのは当然だろう。
 それって、愛人関係とも言うのでは?
 中国は儒教の掟に則れば、貞操を守るのが女性の道徳、不倫は御法度とされるが、現代の中国では、そのようなモラルは存在しない。乱倫、不道徳、愛人を吹聴し、また愛人は旦那の贅沢を吹聴する。
 日本の女性が描くような理想の結婚などは夢に近く、現実にはカネと権力を持つ男の愛人となることに多くの中国人女性は躊躇しない。
現代中国人の人生観のドライさは、老人でもカネがあれば、愛人となって貢がせ、稼ぐことに目的を置く。それゆえ、この告発は真偽のほどは不明だが、「数年にわたった愛人関係」ということだから、タイミング的に言えば別離のやりかたがまずかったのか、手切れ金がすくなかった?
 ま、邪推はこのくらいにしておこう。
 ▼カネと権力に��がるのは中国人女性の特筆なのだ
 問題は中国政治の本質である。
 張高麗は貧農から身を起こし、厦門大学を文革期に卒業し、石油工業部に配属された労働者として出発。抜け目なく出世し、生産指揮部弁公室秘書、政治部共産主義青年団(共青団)総支部書記なった、1973年に中国共産党に入党した。
 1984年、広東省茂名市党委副書記、中国石化総公司茂名石油工業公司総経理(社長)に就任した。このときから中国経済の躍動とともに階段を駆け上がり、権勢を極めることとなる石油派として台頭し第15回党大会で党中央候補委員に選出された。
以後はホップステップジャンプで、広東省党委副書記兼深?市党委書記に昇進。この時代に習仲勲の息子、習近平と知遇を得た。
 山東省長、第16回党大会で党中央委員に昇格。山東省党委書記を経て、2007���に天津市党委書記。第17期1中全会で党中央政治局委員、江沢民側近だった曽慶紅(国家副主席)や周永康(党中央政法委員会書記)と「石油閥」の絆で結ばれた。
 薄熙来が胡錦濤派との政治闘争に敗れて失脚するや、張高麗は胡錦濤に擦り寄った。このため一時は共青団人脈と誤認されたが、習近平・李克強指導部では派閥の均衡から党中央政治局常務委員に大出世を遂げたのである。
 思い出したことがある。もうひとりのテニス好きだった副首相のことだ。
 1980年代、中国テニス会の女王と言われたフナは、ときの副首相万里とテニス仲間と言われた。
万里は1980年から8年間、副首相、その後全人代常任委員長をつとめ「八代元老」の一人だった。当時、ブッシュ副大統領ともテニスを行い、かなりの腕前であることが知れ渡った。
 テニスの女王、フナが1983年に米国へ亡命したとき、レーガン大統領は「自分の養女にしても、亡命を受け入れる」と檄を飛ばした。
亡命先がサンディエゴ、台湾の情報機関が後で支援したなどと言われ、じつは筆者、サンディエゴに取材に行ったこともあった(拙著『中国の悲劇』、山手書房、絶版)。
 あのとき、真相は闇に葬られた。
今回のテニスチャンピオンの告発事件に遭遇し、フナ亡命事件を類推したのだった。
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blondelongtours · 3 years
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現在11月1日午前11時1分。コインランドリーでぐるぐる回る洗濯物に囲まれながら書いています。
10/4 陰性の結果が出たのが前日の夜9時。その瞬間を持って隔離が解かれた。Free at last!! 急いで着替えて寮を出る。ただただ外に出たかった。ブライトンは海に向かってなだらかな傾斜になっている街で、その傾斜を登ったり降りたりしながら頭の中に地図を作っていく。海がありパブがある。それだけでなんだか最高じゃないか。
なんとなく入ったパブで久方ぶりのビール。店内はにはバンドがいて、彼らはホワイトストライプスやビートルズ、アークティックモンキーズなんかをカバーしていた。上手くもなく下手でもない演奏を聞きながら首を振っているとフロアで踊ってる一人の女性がこっちで踊りなよというコンタクトをくれた。照れ臭いのでちょっと体をゆらして反応して見せるぐらいのつもりだった、けれども自分でも何故だかわからないけど、体が止まらないといった感じでちょっとどころかだいぶ体を揺らし、次第に手足もぶんぶん動かし、気づいたらだいぶはちゃめちゃに踊り倒してしまった。結局ちょっと一杯のつもりが閉店までいてしまい、曲が終わる度におじさんおばさんとキスとハグ。合図をくれた彼女は普段はシェフで、カメラもやっておりダンサーを撮っている。鋭い目でちょっとこっちに来いと言ってきたおじ(い)さんは「誰にもコントロールされるな。自分を信じろ」と何故だか強く励ましてくれた。お店を出る時、一人の青年が「ようこそ俺たちの国へ」と声をかけてくれた。グッと来たのはいうまでもなく「やばいやばいやばい」とブツブツ言いつつ小走りで帰った。なんでもない夜で終わるかと思った一夜は忘れがたい時間になった。やっとこそさ始まったのだ。
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10/5 昼からロンドンへ。三橋俊平さんのご紹介(ありがとうございます!)でダンサーの松本武士さんとお会いした。松本さんはこちらで活動されている。芯がありながら物腰の柔らかい感じは俊平さんのそれと似たものを感じた。岩渕貞太さんなんかにも感じるある武術の達人のような佇まい。最高に美味しい中華料理を食べながら松本さんの活動を聞いては唸り、自分の興味のあること、やりたいことも腹を割って話した。アドバイスや提案も沢山いただけて、視野が広がった。松本さん本当にありがとうございました。
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10/6 この日のことはメモに何も書かれておらず。松本さんに教えていただいたスタジオを調べ、ワークショップに応募したり、メールを書いたりしたと思う。対面での授業も始まったのも、寮からホームステイに切り替わったのも4日のことだ。そしてホームステイ先を切り替えたいと思ったのも4日だ。ホストファミリーのロジャーは自分は上流階級の人間だといい(実際もの凄いお屋敷!)イギリスが世界で一番の国でブライトンが世界で一番の街だとさらりと述べる(飼い猫の名前はブリタニア!)。疑問には答えるが議論はしない彼のスタイルについていける自信が持てず、初日の夜はベッドでYouTubeばかり見ていた気がする。家のことは日々のこと。彼との相性がこの滞在の色合いを左右する気がしたのだった。
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10/7 授業の合間にヨガのアクテビティに参加した。学校が用意してくれているいくつかのプログラムのうちの一つ。ヨガは当然ながら英語で進行する。聞いたことも使ったこともない言葉の連続で体は心地よいのに思考と耳は忙しかった。inhaleで息を吸いexhaleで息を吐く。jawが顎でchinが顎の先。chestが胸でthighは太もも。まずはここから。今回の滞在に通訳はいない。来週から始まるワークショップまじで大丈夫か、、
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10/8 授業後、スイス人のトーマスとニコラ、韓国人のミヌ、そして日本人のオギノくんらと中華料理を食べた。
トーマスとニコラは前日に食堂で仲良くなった。彼らは広い食堂の片隅で食事をしていて、自分は一人で壁を向いて食べていた。Andyという気さくな男性がよかったら5人でテーブルをシェアしないかと話かけてくれた。10代後半から20代前半の人たちが圧倒的多数の空間で、トーマスとニコラは40代、アンディと自分は30代。仕事のこと、生活のこと、ホストファミリーのこと、話すことは尽きなかった。学校の食堂に存在するいくつもの輪。その輪に入るか自分で作るか。それとも入らず一人でいるか。そんなことを考えながら食べるパスタに味なんかするわけがなかった。ありがとうアンディ、先生だということを黙って軽やかに輪っかを作ってくれたあなたのおかげでスイス人の友達ができました。
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10/9 土曜日。なんだか外に出る気にもなら(れ)ずひたすら本を読んで過ごした。来年のとある作品のお誘いをいただいたのが先週末で、その原作小説を読み始めたのがこの日からだった。夜は同じ家に住むクエート人のバディエンとバーガーキングへ。バーガーキングはいつもBBC1が流れてる。大音量で流れるジャングルを聴きながら巨大な紙コップにペプシだかコーラだかを入れて大量のポテトをむさぼる。そろそろ体質が変わってくるはずと思ったら案のじょう夜中に何度も起きてトイレに駆け込んだ。
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10/10 昼に松本さんの公演’CLUB ORIGAMI’を見にTHE PLACEへ。開場中から常に観客と関係し続け、上演中もそれが常に変化し、最終的に空間と共に溶けていく。観客が上演に関わるということの一つの理想を見た気がした。OMG!!これがロンドンの舞台芸術!!くそやべー!
劇場からふらふらと歩き夜は映画館へ。どこもかしこも007で沸いているロンドンで見たのは『羊たちの沈黙』だった。レクター博士の言動にところどころ笑いが起きる。この映画はミステリーでありサスペンスであり男性社会の中で女性が戦う物語である、でもその前に非常に緩急の効いたエンタテインメントなのだということ、その大前提に気づかせてもらった気がする。海外に来てまでわざわざ過去に見た映画をみるのか、その理由はこういうところにある。
洗濯も乾燥もとっくに終わり現在11月2日午前3時50分。寝ます。
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monqu1y · 3 years
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大戦がもたらしたもの  「大戦が 齎 ( もたら ) したもの」と題する講演を聞きに行った。  講演内容の要旨は、次のとおり。  1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争は、近隣諸国を巻き込んで規模を拡大していった。  イギリス・フランスがドイツに宣戦布告する一方、ソ連軍は、火事場泥棒的に、東からポーランドに攻め込んだ。  翌年、ソ連は、フィンランドを攻撃して領土の一部を奪うとともに、バルト三国を併合した。  ドイツは、デンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを制圧した。ドイツは、イギリスを牽制するためイタリアと、ソ連を牽制するため日本と軍事同盟を結んだ。近衛内閣は、軍事同盟に応じ、且つ、翌年、日ソ中立条約を結んで南部仏印に軍を進めたが、これらはスターリン戦略[砕氷船テーゼ]に沿うものだった。
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 1941年6月、独ソ激突が始まった。  半年後、日本は、アジア植民地解放戦争を開始し、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、オランダ領インドネシア、アメリカ領フィリピンを占領した。  それに触発された植民地独立宣言の動きは次の通り。
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 1942年2月、中国共産党の中央党学校開校式で、毛沢東が、学風(学習態度)・党風(党活動)・文風(文書類の表現)の三風を整頓し、党内の主観主義・セクト主義・空言主義を克服すべき旨、述べた。三風整頓運動が起こり、毛沢東 側近の張宗可(康生)は、関係者を拷問して自白を得たうえで、政敵を、スパイ,裏切り者,内通者等に仕立て上げた。拷問は本人だけでなく親族や縁戚にまで及び、拷問に耐えられず、身に覚えのない罪を自白する者も多かった。ソ連人脈の王明,博古,張聞天,王嘉翔,楊尚昆,陳昌浩,杜作祥,沈澤民,張秦秋,王宝礼,王盛荣,王運城,朱自舜,李元杰,汪盛荻,北海道特甫,殷剣,元嘉永,徐義新らは、失脚した。権威主義と官僚主義を率直に批判した王実味は、逮捕され処刑された。  1942年6月頃から、[砕氷船テーゼ]の予言通り、経済力と科学技術力を誇るアメリカを擁する連合国側が優勢に転じた。  1943年5月、ドイツと戦う連合国側に与する必要から、ソ連はコミンテルンを解散した。  1945年3月、日本軍がフランス軍を降してベトナムを独立させた。  1945年5月、イタリアが降伏し、ドイツも降伏した。8月には日本が降伏し、五千万(ソ連2060万,ドイツ950万,日本646万,ポーランド560万,中国318万,アメリカ113万,イギリス98万,フランス75万)人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦は終了した。  しかし、「尊皇討奸」の志を受け継ぎ、資本家階級を倒して国家社会主義を目指す陸軍将校らは、敗戦受容れの詔を録音したレコード盤を血眼になって探し求めた。
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 彼らの狙いは、ソ連軍に依る日本民族解放を待つための時間稼ぎだった。  近衛文麿人脈が占める政権中枢から「ソ連仲介和平」という口実で情報を得ていたソ連軍は、日本降伏に先立って、軍を極東に集結させていた。  アメリカ軍に依る原爆投下を機に日本への攻撃を始めたソ連軍は、武器を持たない無抵抗の日本人を殺しながら、瞬く間に樺太や千島列島を占領した。
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  占守島 ( しゅむしゅとう ) で樋口中将が抗戦を命じなければ、北海道はソ連軍に 蹂躙 ( じゅうりん ) されていたのだ。
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 ソ連軍は、朝鮮半島も占領したが、アメリカ軍が上陸してくると、米ソ協定に従い38度線以北に退いた。  ソ連軍は、東ヨーロッパの占領地域でも、社会主義人民共和国政権樹立に力を注ぐようになった。  日本の敗戦でベトナムにはフランスの植民地支配者が戻ってきていたが、1945年9月に革命が起こり、ホー・チ・ミンがベトナム社会主義共和国の建国を宣言した。しかし、フランスは、それを認めなかった。  1945年10月、国際連合(��部:ニューヨーク)が発足した。  イギリスでは、大戦終了直前の選挙で勝った労働党政権が、「ゆりかごから墓場まで」の福祉充実策を実施し、銀行,石炭,通信,航空,電気,鉄道,ガス,鉄鋼などの重要産業を国有化していった。そのため、産業は競争力を失い、[イギリス病]とよばれるほど国力は衰退した。復活には、1980年代のサッチャー登場まで待たなければならなかった。
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 朝鮮半島では、信託統治(国際連合の信託を受けた国による統治)が検討されたが、まとまらず、アメリカとソ連による分割占領が行われた。  1945年10月10日、中華民国と中国共産党との間で、「内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設」するための協議が行われたが、双方の思惑は、相手を潰す準備を整えるための時間稼ぎだった。  1946年6月、イタリアでは王制が廃止されて共和政となった。翌年2月にパリ講和条約を結んだイタリアは、エチオピア・アルバニア・リビア・ソマリランドなど総ての海外植民地を失った。  1946年6月、ベトナム南部で、フランス領コーチシナ共和国臨時政府の樹立が宣言された。  1946年7月、���華民国と中国共産党との間で、全面的な内戦が始まった。当初はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢なように見えたが、次第に、ソ連に降伏した関東軍の装備等( 就中 ( なかんずく ) 精鋭将兵の軍事指導)を利用できる中国共産党に形勢が傾いていった。  1946年12月、ベトナム軍とフランス軍の戦争が始まった。フランス軍が優勢だったが、ベトナム社会主義共和国軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。  1947年2月、建国を悲願とするユダヤ人とアラブ人の紛争が絶えなかったパレスチナを持て余したイギリスは、委任統治を放棄し、国連にゲタを預けた。11月、国連総会は、パレスチナの土地の6割弱をユダヤ国家に、4割強をアラブ国家に分割する案を、可決した。倍以上の人口を抱え、殆どの土地を所有するアラブ人側に過酷すぎる不自然な決定は、アメリカ大統領トルーマンのゴリ押しによるものと言われている。
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 そこから、中東戦争が始まり、長く続くこととなった。  朝鮮半島では、統一政府樹立のための総選挙がソ連の反対で実施できなかったので、1948年5月にアメリカの占領下にある南部だけで総選挙が行われ、李承晩が大統領に当選した。8月15日、大韓民国第一共和国の樹立が宣言され、アメリカ軍政が廃止された。  1948年9月9日、朝鮮半島北部を実効支配する勢力(満州派、甲山派、南労党派、中国共産党、延安派、ソ連派など)が、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した。  1949年1月、中共軍が国民党軍を敗退させて、北京に入城した。10月1日、毛沢東が北京市で中華人民共和国の建国を宣言した。10月25日、中共軍八個連隊は、対岸の 厦門 ( アモイ ) からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで三方向から包囲するようにして金門島に迫った。これに対する国民党軍(三個師団と保衛一個連隊)は、旧日本陸軍中将 根本博氏の指揮を受け、一発も反撃せず、中共軍を上陸させて島内に誘い込んだ。日没後、国民党軍は、ジャンクに火を放って上陸軍への補給と退路を断ち、総反撃に出た。中共軍は、混乱し、包囲網の開いた一方向に雪崩を打つように殺到して海岸に向かったが、追いかける国民党軍と島陰で待機していた海軍の挟み撃ちに合って壊滅した。以後、中共軍は、対岸から砲撃するだけで、金門島に上陸しようとしなくなった。
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 1949年4月、北米と西欧の30箇国は、軍事同盟NATOを結んで共産圏の脅威に備えた。  1949年6月、ベトナム王国ができ、ベトナム帝国皇帝だったバオ・ダイが国王になった。  1949年12月、南京から逃れ出た蒋介石らは、台湾島の台北に中華民国政府を移転させた。  1950年1月、イギリス労働党政権が、中華人民共和国を承認した。  1950年2月、フランス、アメリカ、イギリスがベトナム王国を承認した。  1950年5月、韓国の総選挙で、李承晩政権に対する不信任の結果が示された。2年後任期満了時の再選を危ぶんだ李承晩は、人気挽回策として、対日戦意を煽り「対馬侵攻」を名目に精鋭軍を南下させ釜山に集結させた。手薄となった首都ソウルは、「国土完整」を唱える朝鮮民主主義人民共和国軍にとって、格好の餌食に見えた。  1950年6月25日早朝、北朝鮮軍による総攻撃が、青天の霹靂の如く、何の前触れも無く始まった。防衛ラインは次々と突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩は更に南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせる為、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋を、多数の避難民もろとも、爆破した。後に、橋爆破の現場責任者だったチェ・チャンシク大佐が責任を問われて処刑され、真相は闇に葬られた。  米軍機動部隊が大田に到着し防衛線を築いたが、北朝鮮軍は韓国軍を攻め、それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した。韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ、それを北朝鮮軍が使い、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった。  しかし、李承晩は、韓国軍が前線に立つことを主張し続け、状況は改善されなかった。  その結果、米軍主体の国連軍は敗北を重ね、8月末には、北朝鮮軍が釜山まで60キロメートル余の昌寧郡に迫った。  9月2日、マッカーサー元帥が国連安全保障理事会に「国連軍の活動に関する第3次報告書」を提出し、国連軍増強の必要を強調した。また「北朝鮮軍がカムフラージュの為に民家や民間輸送機関を利用しており、軍事目標を識別することは著しく困難である」旨説明し、民間人・施設に対する攻撃の正当性を説明した。民家人を装い、或は、民間人に紛れ込んで、民間人が攻撃しているように見せかけるのは、共産主義者の常套手段。民間人の犠牲を材料とするプロパンガは、彼らの強力な武器となる。9月15日、国連軍は、仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪回した。
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 しかし、李承晩の主張に基づき韓国軍を前線に立たせた結果、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況が再現され、翌年1月、中共軍にソウルを占領されてしまった。  その後、戦況は、一進一退を繰り返したが、国連は休戦への道筋を作り、両軍の捕虜送還協定が締結された。  6月18日、李承晩は、国連決議を無視し、アメリカに何の予告も無く、抑留中の朝鮮人民軍捕虜二万五千人を北へ送還せずに韓国内で釈放させ、国際世論の非難を浴びた。この釈放は、不法に抑留した日本人の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として日本の刑務所で収監されている韓国人受刑者に対する放免・日本永住許可付与を要求した手口に相通ずる処がある。  1951年9月、サンフランシスコで吉田茂首相が講和条約に調印し、日本は主権を回復した。朝鮮・台湾・南樺太・千島は放棄し、沖縄と小笠原諸島はがアメリカの占領下に置かれることとなった。調印したのは48カ国だった。同日、日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ反共陣営に日本が組み込まれた。  1952年1月、韓国は、 所謂 ( いわゆる ) 李承晩ラインを一方的に設定した。  1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが病死した。  1953年7月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が、軍事境界38度線を挟む休戦に同意した。軍事委員会委員長に就任した金日成は、朴憲永、金枓奉、崔昌益、許貞淑、金昌満、武亭、朴一禹、朴孝三、方虎山、尹公欽、徐輝、李相朝、金雄、鄭律成、金元鳳、許哥誼、朴昌玉、金烈、朴義琓、総政治局長、崔遠、金七星ら他派の政敵を次々に追い落とし粛正して、権力を強化しいった。  1953年12月、韓国は、日本海で漁船数百隻を拿捕し、乗組員数千人を抑留した。
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 そして、抑留者の返還と引き換えに 日本の刑務所 で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として 収監 されている韓国人 受刑者 の 釈放 を要求した。日本政府 はこれを飲み、在日韓国人犯罪者472人を放免し、日本での永住許可を与えた。  1954年2月、 嘗 ( かつ ) て中国西北部の陝西省で毛沢東らを迎え入れた高崗が「東北部を独立王国にしようとした」という濡れ衣を着せられて失脚し、半年後に毒殺された。  1954年、ベトナム国王バオ・ダイは、首相にゴ・ジン・ジェムを任命した。翌年、ゴ・ジン・ジェムが国民投票を実施し、ベトナムは共和国になった。ゴ・ジン・ジェムは大統領に就任し、アメリカの軍事援助を取り付けた。バオ・ダイはフランスに亡命した。  1955年、ソ連と東欧諸国は、NATOに対抗するため、軍事同盟WPOを結んだ。  1956年、ソ連での個人崇拝批判の影響受けて、北朝鮮でも金日成批判の動きが出てきたが、金日成は、甲山派と組んで政敵を除名し逮捕した。  1956年5月、毛沢東は、最高国務会議で「百花斉放 百家争鳴」を提唱し共産党への批判を歓迎した。翌年2月の最高国務会議でも中国共産党に対する批判を呼びかけるとともに、翌月6日から1週間かけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、共産党の中国支配に異を唱えたり毛沢東の指導力を批判する者も出てきた。5月、毛沢東は、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うよう命じたが、「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べた。6月、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。10日後、人民日報は、毛沢東が 嘗 ( かつ ) て「百花斉放 百家争鳴」を呼びかけた演説内容を掲載したが、演説したという内容は、批判を制約するものだった。党を思い切って批判した知識人たちは社会主義政権破壊を画策した[右派]というレッテルを貼られ、知識人の粛清運動(反右派闘争)が始まった。以後、中国共産党批判は二度と行われなかった。
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misen9710 · 3 years
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朝比奈潤(ドMおじさん)@doemojisan
今から15年ほど前、20代後半の頃に個別指導系の学習塾で数年間働いていた。担当は男子中学生ばかりだったがその中に明らかにオーラが違うイケメンがいた。今で言えば坂口健太郎によく似ていたので、ここでは彼を坂口君と呼ぶ。坂口君は身長180弱、不良っぽさと中性的な部分を併せ持ったルックスだった。
実際、彼はよくモテていた。恥ずかしい話だが、私は女性の生態についての知見をほとんど彼から得たと言っても過言ではない。30歳手前の大人が14~5歳の少年から女について教わるという屈辱は私を大いに苦しめたが、童貞だった私には坂口君が無邪気に話すモテ話が抗いがたい魅力を持っていた。
「さっき逆ナンされてカラオケでセックスしてきちゃった」私が担当してすぐの頃、彼が述べた遅刻の理由である。成績の良い子が行くような塾ではなかったから真面目に勉強しに来ている生徒は少ない。それでもこの発言は衝撃的であった。事の真偽はともかくとして、私は注意するよりも呆然としてしまった。
イケメンの中でもよりすぐりの「超イケメン中学生」には凡人には想像し得ない奇跡のような出来事が毎日起きている。逆ナンパはそれこそ日常茶飯事だ。家電量販店で暇をつぶしていたら、見知らぬ40代のマダム風女性に当時、流行っていたゲームボーイアドバンスを買ってもらったこともあるという
奇跡というのはたとえば、繁華街ですれ違った20代の女性に道を聞かれ、親身になって教えたところ連絡先を聞かれ後日、お礼がしたいと食事に誘われる…といったようなことだ。そんなことがあるのだろうかと思う。私は42年間生きて、宗教の勧誘以外で一人歩きの女性に声をかけられたことがない
こうしたエピソードの一つひとつに何とも言えない迫力を感じ、私は授業中の彼の雑談、自慢話を黙認した。そういった話に私自身が興味を持っていた。彼の携帯電話の画像フォルダには今まで関係した女性との画像が収められていた。その数の多さ、写真に収まった女性の美しさには圧倒される思いであった
そのフォルダを全部見たわけではないが、一際目を引いたのは坂口君と同世代であろう白人とのハーフの美少女だ。玉城ティナ、トリンドル玲奈に似た雰囲気の彫刻のように美しい顔だった。とても中学生には見えない。そしておっぱいも、服の上からでもそれなりの大きさになっているのがわかった
何枚かの画像には私と同世代、もしくは30代であろう女性も写っていた。私には視線すら合わせない同世代の美女が15歳の少年には心を開き体も許しているのかと思うと、やるせない思いであった。自分の私生活がとてつもなく惨めに感じ、オスとしての能力の違いを見せつけられる思いであった
当時の私生活は今よりも悲惨であった。休日ともなれば昼近くまで惰眠を貪り、起きれば近所のコンビニへ行く。道中、美少女とすれ違えばその顔や胸の膨らみを凝視して目に焼き付け、帰宅後はその美少女を想像しながら自慰をする。そしてコンビニ弁当を食べテレビを見ながら夕方になるとまた自慰にふける
坂口君が恋愛ゲームを楽しみ女性を楽しませ、そして愛されている一方で、私は道行く美人を盗み見ては服の上から伺えるおっぱいの大きさを確認して脳裏に焼き付け、その乳房を揉みしだく妄想にかられながら一人慰め、果てる。東京砂漠とはこのことだろう。私は自分の情けなさに消え入りたくなった
坂口君を教えていて気付いたことがある。それは女も男と同じように気になる異性をチラ見するという事実だ。教室で隣り合って座っていた私にはそれが手に取るようにわかった。そしてチラ見された側は視線に完全に気付く。チラ見されている事に気付かれまいとあえて見ないようにする行為すらもほぼわかる
授業時間が終わり坂口君が帰宅しようとすると、いつも奇妙な光景が繰り広げられた。女子生徒たちがみなソワソワしながら坂口君の様子を気にしているのである。女子生徒の中でもカースト上位と思われる、沢尻エリカ似のリーダー格はいつも偶然を装って坂口君の周囲をうろつき会話の機会を伺っていた
沢尻の積極性に私は驚いた。女の子は相手次第でこれほどまでに積極的になるのである。カースト下位の女の子には坂口君と話す機会は与えられない。女子リーダー格の沢尻は、その地位を生かして他の女の子を牽制していたのかもしれない。授業が終わると上位グループが坂口君を取り囲むこともあった
坂口君と沢尻はもしかしたら関係を持っていたのかもしれない。なぜなら沢尻が坂口君に夢中になっていたのは誰の目にも明らかだったからだ。坂口君に入れあげていたのは沢尻だけではない。女性社員にもまた坂口君は人気があった。中でもある20代後半の女性社員が取った行動は生々しかった
の女性社員は波瑠に少し似ていたのでここでは波瑠さんと呼ぶ。長身でスレンダー、キリッとした顔つきが近寄りがたい雰囲気を出していて仕事が速かった。その波瑠さんは、愛想が良いほうではなかったが、坂口君と話すときだけは満面の笑みになるのである
志望校などを調査する資料を坂口君が提出し忘れたことがあったが、その時の波瑠さんの動きは凄かった。坂口君の席の隣にひざまずいて「ここに名前を書いて」「学籍番号はここ」と、手取り足取り教えながら書かせているのだ。どこに名前を記入するかなどバカでもわかる。波瑠さんの魂胆は明らかだった
波瑠さんが坂口君に資料を書かせている間、二人の物理的な距離が徐々に近づいていくのがわかった。波瑠さんは時に坂口君に覆いかぶさるように資料の書き方を教えていた。私には波瑠さんのおっぱいが坂口君の背中に当たっているように見えて仕方がなかった。いや、間違いなく胸と背中が触れ合っていた
波瑠さんは長身だったが胸はそんなに大きくなかった。体の線がはっきりとわかるような服を着てくることもなかった。私はそんな波瑠さんが自らの女の部分を強調していることに衝撃を受けた。よく恋愛マニュアルに「OKサインを見逃すな」なんて書かれているが、こういうことなのかと思った
女のOKサインとはかくも露骨なものなのだ。本物のOKサインとはこのようなものなのだと思い知らされた。恋愛マニュアルに書かれた「酔っちゃった~」なんていうセリフや、普通の男が「もしや」と感じるセリフなど、このときの波瑠さんのOKサインに比べれば勘違いに近い
手取り足取り教えられながら資料を書き終えた坂口君の行動も私を驚かせた。「疲れた~」と言いながら席を立った坂口君は「波瑠さんの肩揉んであげます」といって肩のあたりを揉みはじめたのだ。波瑠さんは顔を真っ赤にしている。あのクールビューティの波瑠さんが真っ赤になって動揺している
波瑠さんにひそかに思いを寄せていた私は激しく嫉妬した。童貞ゆえの自信のなさで会話すらままならなかったが、いつも彼女を盗み見ていた。服の上から伺える乳房の形を想像しながら自慰したこともある。年上の彼氏がいるという噂にうちのめされたこともあった
そんな高嶺の花だった波瑠さんが「どうぞ私を抱いて」と言わんばかりにオンナの表情をしていたことがショックだった。一見、ツンとしているように見える女性でもイケメンに見つめられたらイチコロなのだ。しかも相手は15歳の少年である。この事実は私を苦悩させた
その日、自宅に帰った私は波瑠さんの表情を思い出していた。肩を揉まれた時の波瑠さんはなんと幸せそうな表情をしていたことか。坂口君が波瑠さんを抱いている姿を想像してみた。すると嫉妬と悔しさで不思議と興奮してくるのがわかる。寝取られ好きの気持ちがわかった。私はその夜、何度も自慰をした
この一連の出来事は童貞を捨てたいという思いを強めた。風俗でもいいから童貞を捨てれば嫉妬に苦しまな��てもすむかもしれないと思った。次の休日、ネットで入念な下調べをし風俗へ向かった。初めての記念だからと一番美人でゴージャスな容姿の女の子を指名した
指名し部屋で待つ間、胸は高まった。期待と緊張が入り交じり、武者震いが止まらなかった。女の子が部屋に入ると緊張は限界を越えた。手足が震えている。まずい。嬢に童貞であることを悟られたくない一心で、手足の震えを隠し手慣れた様子を演じようとすればするほど震えは強まり会話にも妙な間ができた
正常なコミュニケーションすら成立しない私を前に、風俗嬢は徐々に心を閉ざしていった。恐らく私は緊張と劣等感にまみれた恐ろしい表情をしていたのだろう。風俗嬢が私を不気味がり、怖がっているのがわかる。私はその雰囲気をどうすることもできず、無言で胸を揉み続けた
子泣き爺のように後ろから覆いかぶさり、ぎこちなく胸を揉みしだく私の表情をチラリと見た風俗嬢は、ほんの一瞬だが嫌悪の表情を見せ、その後は私をできるだけ見ないようにしていたと思う。私の性器に手を伸ばし、数回上下に動かしながら刺激を与え勃起を確認した彼女は無言でコンドームを装着させた
コンドームを装着されながら私は女体に感じ入っていた。初めて触る女性のおっぱい。その柔らかさ美しさに衝撃を受けた。女の乳房とはこんなにも男に幸せな感情を与えるのかと。ずっと揉み続けていたい衝動にかられた。しかしコンドームを装着させた嬢は女性器に何かを塗り込んだあと挿入を促した
正常位の体勢から、私はアダルトビデオの見よう見まねで挿入を試みた。しかし、これが意外に難しい。挿入しようとし、角度や位置の違いから押し戻される。それを数回繰り返すうちに動揺は強まった。童貞であることがバレたかもしれない。そして何より精神的動揺から勃起が弱まっていくのを感じた
萎えて柔らかくなった男性器を女性器の入り口に押し付け、どうにか挿入しようとして押し戻される滑稽きわまりないやりとりの後、私は挿入を諦めた。気まずさを誤魔化すため、私は風俗嬢のおっぱいにむしゃぶりついた。風俗嬢は事務的に私の性器を手でしごき、再び勃起を促した
胸を揉むとわずかだが、萎えた性器が復活する。ベッドの上にお互い向き合って座りながら無言のまま、私は胸を揉みしだき、風俗嬢は淡々と私の性器をこすり上げる重苦しい時間が20分くらい続いた。異様な光景だったと思う。やがてコンドームがシワシワになったところでタイマーの警告音が響いた
「時間…」とつぶやいた風俗嬢はコンドームを剥ぎ取り、激しいペースで性器をしごいた。私も胸を揉むペースを早める。すると数十秒後、精子が放出された。思わず「あっ」という声を上げてしまった。賢者モードに陥る私をよそに彼女はティッシュで精子を拭く。これが私のみじめな初体験だった
挿入に成功しなければ真の意味で童貞を脱したことにはならない。翌週も同じ店に行った。指名した娘は先週の子ほど美人ではなかったがとても愛想が良かった。武者震いしながら性行経験者を装う私のバレバレの演技にも笑顔だ。私を傷つけないよう、私が彼女をリードしている錯覚を与えながら挿入へと導く
メリメリという感覚の後、私の性器はするっと女性器の中に入った。挿入に成功した。私は激しく動くことで緊張を悟られないように努めた。しかし、このとき私は膣内での射精には成功しなかった。風俗業界ではこれを中折れと呼ぶらしい。結局、私は手と口で嬢に刺激されながらゴム内で発射させられた
恥ずかしながら私はセックスがこんなにも難しく、重圧がかかるものだとは知らなかった。機会さえあれば誰にでもできると思っていた。水を飲み、道を歩き、ベッドで寝る。そんな人間の当たり前の営みと同じく挿入と射精ができるのだと。しかし実際は違う。自転車の補助輪を外すような訓練が必要なのだ
風俗店から帰宅後、ネットで調べたところ、私のような症状は「膣内射精障害」と言うらしい。自慰ばかりしているモテない男が患う風土病のようなものだ。普通の男性が患うこともあるが、多くは加齢、飲酒、あるいは倦怠期で刺激を失ったことが原因であり、コンディション次第ですぐ回復する
自慰ばかりしている男性は、しばしば自分の性器を強く握りしめる。そして、それは膣が加える刺激を上回る。性交よりも自慰の回数が圧倒的に多い非モテ男はそれに慣れきってしまい、いざ性交するときに刺激が足りず射精に至らないのだ。オナニー病、モテない病と言える。こんなに哀しい病があるだろうか
結局、膣内での射精に成功するまで、童貞を捨てた日から3年以上の月日がかかった。風俗店へ通いつめた回数は40回を超える。30歳を超え、ようやくである。中折れし途中で萎えた性器を手でしごきあげられ、射精させられるという情けないセックスを40回以上も繰り返したのだ
童貞を捨てれば消え去るかと思われた劣等感はさらに巨大になった。3年の間、自らの性的能力の低さ、異常さを突きつけられた思いがした。15歳の少年がいとも簡単に、毎日のように行う「普通の性交」にお金を支払ってもなお達しないのである。波瑠さんら女性社員や生徒がこれを知ったら、蔑み笑うだろう
恥ずかしい話だが、今でも私は2回に1回は膣内射精に失敗する。これは異常なことだろう。しかし、異常者なりに気づきもあった。風俗嬢に「実は素人童貞で経験が少ないんです。リードしてください」と白旗を上げるのだ。すると精神的に少し楽になることがわかった。少なくとも手足の震えは軽減した
裸の女性を前にした緊張、武者震い、手足の震えは、恐らく素人童貞を恥に思い隠そうとする男のチンケなプライドと密接に関わっている。あえて白旗を上げることで、それはいくらか軽減する。しかし「途中で萎えたらどうしよう」という重圧は依然として残る。この重圧から逃れる方法を私はいまだ知らない
風俗嬢に「経験が少ないのでリードしてほしい」とカミングアウトすると、高確率で「そういうお客さんの方が好き」と言われる。これは好き嫌いというよりも、その方が業務上、楽なのだろう。世の女性が素人童貞を好きというわけではない。むしろ素人童貞で射精障害のおっさんなど視界にすら入っていない
しかし指名した子がドンピシャで好みだった場合は、経験が少ないことを明かせずにいた。もしかしたらこの娘と付き合えるかもしれないという下心からである。冷静に考えれば風俗嬢が客と付き合うことなどあるはずがない。にも関わらず、自分を偽りカッコつけてしまうのだ
なぜか。それは女性との接触が極度に少ない非モテには万に一つの可能性でさえ貴重な機会だからだ。自分でも狂っていると思う。しかし非モテの劣等感とは、これほどまでに人間の判断力を狂わせるのである。こうして性に習熟した大人の男を演じようとして射精に失敗し呆れられる。私はこれを繰り返した
風俗店通いで不快だったのは待合室の存在だ。見るからに女と縁がなさそうな醜い男たちが折り重なるように狭い部屋に押し込められ、煙草の煙にまみれながら携帯電話の画面を覗いている。そしておそらく彼らは軽く勃起している。この世の終わりみたいな場所だ。気持ちの悪さに身の毛がよだってしまう
フェミニストが憎み、罵り、滅ぼそうとしているのは風俗店の待合室にいるような男たちのことだろう。決して坂口君のような美少年ではない。この点に関して、私はフェミニストに深く同意する。彼らを消し去ることで、世界は少しだけ良くなると思わざるを得ない。私も消えてしまうけれども
おそらく坂口君は、平均的な非モテ中年の何十倍、何百倍もの女性を傷つけ、悲しませ、不安にさせてきたはずだ。しかし、世の女性はそれでも坂口君を愛する。そして彼に特別扱いされることを望む。フェミニストも坂口君を攻撃することはない。彼の存在そのものが女性を幸せにするからだ
私のような非モテ中年がフェミニストにお願いしたいのは、せめて我々が生きる権利だけは奪わないでほしいということだ。風俗店の待合室に来てしまうような種族は、自分ではどうにもできない性衝動と法律の折り合いをつけ、やむにやまれず安月給を工面して数万円を握りしめてやってきた善良な市民である
男がお金を払って快楽を得ようとすることに関して、女性の目は厳しい。それは本来なら淘汰され、消えてなくなるべき遺伝子が、お金の力で力を得ることへの本能的な嫌悪であると思う。この本能は現在の人権制度、博愛主義と完全に対立する。この点について現代社会はまだ答えを見いだせていないと思う
坂口君には女性を虜にする必殺技があった。それは笑顔で挨拶することだ。なんだ、それだけかと思うかもしれない。しかし彼は笑顔だけで女性を完全にコントロールしていた。私が見る限り、彼はいつも同じように笑顔の挨拶をしていたわけではない。人や状況に応じて、振りまく笑顔の量に濃淡をつけていた
坂口君が最大級の笑顔で挨拶をすると、女たちは皆、有頂天になった。成人女性とてそれは同じだった。みな狂ったように喜んだ。しかし、いつもそれをするわけではない。そうやって濃淡をつけることで、不安にさせたり、嫉妬させたりしながら女たちの行動をコントロールするサイコパス的な側面があった
それは幼少期から女性と濃密なコミュニケーションをすることで得られた天性の能力だろう。真似しようとしてできるものではない。「女性に優しく」と、よく恋愛マニュアルに書かれているが、大半の男が考える優しさは「弱さゆえの優しさ」であって、本質的には媚びや譲歩に近い
そしてこれは重要なことだが、女性はその「弱さゆえの優しさ」には興味がない。いや、嫌悪すらしていると思う。「弱さゆえの優しさ」でどんなに高額のプレゼントを貰おうとも、女たちはなびかない。むしろ坂口君から時に冷たくされ、時に嫉妬させられながら、ごくたまに優しくされる恋愛を選ぶ
坂口君に話しかけられた女性の反応は、若くてハンサムな白人男性に話しかけられた日本人女性のリアクションに近い。若い白人男性が日本人女性を次々といとも簡単にナンパする動画がネット上で賛否を呼んでいたことがあり、私もそれを興味深く観たが、あれはまさしく坂口君の周りで起こっていたことだ
六本木などを歩けばわかることだが、ハンサムな白人男性を連れて歩く日本人女性は不思議と欧米風の所作になる。彼女らは白人男性を連れて歩いているという状況そのものに酔っていて、「みんな見て、これが私の彼氏よ」とアッピールしたくてたまらないように私には見える
白人男性と交際すること、それを周囲に認識させることが自らの格をも上げるのだと確信していないと、ああはならないのではないか。少なくとも冴えない日本人男性を連れて歩く日本人女性は、六本木を彼女らほど我が物顔では歩かない。もっと申し訳なさそうにそそくさと歩いているように私には見える
思えば沢尻や波瑠さんは、坂口君と話しているとき、とても得意げだった。周囲に見せつけるように、「坂口君とこんなに仲が良い私」をアッピールしていた。そして我を忘れて会話を楽しんでいた。沢尻はともかく、波瑠さんまでが中学生相手にそんなになってしまったことは、私に強い衝撃を与えた
私が初めて風俗店へ行ってから数週間後、沢尻の母親からの電話が私の勤務する学習塾を大混乱に陥れた。最初に電話をとったのは私だ。母親が言うには沢尻が波瑠さんからしきりに服装について注意を受け精神的に参っていると。服装についての規則はないはずでは?何が悪いのかということだった
これは沢尻の母親に理がある。生徒の服装を職員が注意することは、基本的にはないはずだ。そんな場面を見聞きしたこともなかった。これは奇妙だ。そして母親は言いにくそうに、話を続けた。「あと…娘が波瑠さんにあなた処女じゃないでしょって言われたみたいなんですけど…」。私は耳を疑った
沢尻母が校舎へやってくると、室長室へ通し、私は退席した。約1時間後、沢尻母が帰ると、今度は波瑠さんが室長室へと呼ばれた。授業時間になっても波瑠さんは戻ってこない。私は嫌な予感がした
納得がいくようでいかない、なんとも要領を得ない説明である。「波瑠さん、沢尻に派手な下着を着るなとか、ピタっとした服を着て来るなとか言ってたらしいですよ…。で、別の教室へ行って、すぐ辞めたみたい…」。私はそのことを坂口君から聞いた。そして事の真相にある程度の察しがついた
一連の騒動はおそらく坂口君をめぐる沢尻と波瑠さんの潰し合いなのだ。そして沢尻が勝ったと。坂口君と沢尻がイチャついていたのを見た波���さんが嫉妬し、坂口君におっぱいを密着させて接近した。それを察知した沢尻は波瑠さんのクビを獲りにきた…。そういうことなのではないかと
坂口君はなぜ波瑠さんの「その後」を知っていたのか。私は彼に「そんなこと誰から聞いたの?」とは聞けなかった。仮に聞いたら、彼はおそらく「だって波瑠さん、俺のセフレだよ」と無邪気に答えたであろう。波瑠さんに想いを寄せていた私は、それだけはどうしても聞きたくなかった
坂口君は波瑠さんのOKサインを見逃してはいなかったのだ。そして彼は波瑠さんとセックスしていたのだと思う。室長の聞き取りで波瑠さんは、沢尻への仕打ちだけでなく余罪も白状した。そして警察沙汰を恐れた塾側は、噂になる前に波瑠さんをクビにした…。これが坂口君の口ぶりから察した私の仮説である
坂口君と波瑠さんは、いったいどんなセックスをしていたのだろう。15歳にして180cm近い長身、私より10cm以上も高い。きっと性器も立派なのだろう。少なくとも私のような仮性包茎のイカ臭い、粗末な性器ではないはずだ。場馴れした手つきで波瑠さんをリラックスさせ、「好き」と囁き合ったのではないか
坂口君は30人以上とやったと豪語していた。多少盛っていたかもしれないが、説得力はあった。セフレの女子大生からの「生理来たよ」というメールを見せてきたこともあった。当初、私はその意味がわからなかった。数日してようやく危ない日にコンドームなしでセックスしたことを意味するのだと悟った
童貞の男はそんなことも分からないくらい察しが悪い。そのくせ嫉妬深い。坂口君と波瑠さんがセックスしていたことに気付いた日、私は帰宅するなり自慰をした。波瑠さんを奪われた怒りに近い感情が、なぜか興奮を高めた。怒りと興奮で顔を紅潮させながら、あらん限りの力を込めて性器を握りしめていた
そのときの私はこの世のものではないくらい醜い顔をしていたはずだ。嫉妬に狂いながら坂口君が波瑠さんを愛撫する姿を想像し、「畜生、畜生…」と呟きながら性器を握りしめた。膣内射精障害が悪化するとも思ったが、どうにでもなれという自暴自棄の気持ちが勝っていた
そのときなぜか波瑠さんが小ぶりなおっぱいを精一杯寄せて、坂口君の性器を挟んでいる像が思い浮かんだ。パイズリだ。なぜそんなイメージが浮かんだのかはわからない。心の奥底に閉じ込めた性衝動が脳内で不可思議に暴発したのだと思う。そして、その瞬間、私の性器は精子を垂れ流した
その後、私は坂口君の立派な、私の倍くらいはあるだろう性器を波瑠さんが小さな乳房で一生懸命に包み込んで奉仕している場面を思い浮かべながらもう一度、射精した。その後、今度は波瑠さんが坂口君に攻められ、涙声で「ごめんなさい」と言いながら絶頂に至る妄想でさらにもう一度、射精した
それにしても波瑠さんはなぜ沢尻なんかに目くじらを立てたのだろう。たしかに職員にとって沢尻は苛立たしい存在ではあった。反抗的で知性に欠け、徒党を組むタイプの女だ。が、所詮中学生。美人だが波瑠さんの上品な美しさとはモノが違う。しかし沢尻にあって波瑠さんにないものが一つだけあった
大きな乳房だ。沢尻は中学生の割におっぱいが大きかった。それを見せつけるように胸の谷間も露わなキャミソールを着てくることもあった。波瑠さんは沢尻の胸の大きさに嫉妬していたのだろうか。普通ならば、そんな結論には至らない。何より女性は男が思うほど、恋敵の胸の大きさを気にしない
本当のところはわからないが、少なくとも気にしない素振りを見せる。しかし、こんな普通じゃない状況になった今、どんな可能性だってありうるように思われた。沢尻が大きな胸で坂口君を誘惑していると確信した波瑠さんが、嫉妬にかられ派手な下着や体のラインが出る服を着ないよう命じた…
そんなのはアダルトビデオの中だけの話。そうやってシンプルに考えられる人を私は羨む。いろいろな可能性を考えたとしても、それは何も生まない。真相は本人に聞いてみなければわからないのだから、考えたって仕方がないのだ。本人ですら、自分が何を考えているのかわからないのかもしれないが
波瑠さんは胸は小さく、おそらくAカップかBカップといったところだったが、170cm近い長身で顔が小さく手足が長い。他人の美貌に嫉妬するようなコンプレックスがあるようには見えなかった。沢尻は165cmくらい、Dカップくらいだろうか。大人びてはいるが品の無いヤンキーみたいだなと思うこともあった
私は波瑠さんに話しかける勇気はないくせに、チラチラと盗み見ていた。ブラウスの間からブラジャーが見えていて、凝視してしまったこともあった。もう少し角度をずらせば波瑠さんの胸の大きさが確認できるような気がした。思えばあれは気付かれていただろう。なんとも情けない話だ
真剣佑という俳優が14歳当時、37歳の子持ち既婚女性と肉体関係を持ち、その女性が真剣佑との間に生まれた子供を出産したというスキャンダルがあったはずだ。私はこの報道を聞いて真っ先に坂口君と波瑠さんのことを思い出した。この世には現実にこういうことがあるのだ。「事実は小説より奇なり」である
37歳人妻の理性はなぜぶっ壊れたのか。希少性の法則という言葉がある。人は希少なものや機会には価値があると思い込み、しばしば非合理的な行動をとる。旅先で割高な土産物を買ったり、閉店セールで安いからと絶対に使わないものを買ったりしたことはないだろうか
希少性の法則は性愛においてこそ当てはまると私は考える。目の前にいる美少年が完全に自分の好みのタイプで、彼にいま好意を伝えなければもう会えないかもしれないという状況があったとしたら、女の理性は少しづつ壊れていく。「こんな子にはもう出会えないかも」「今しかない」という感覚
それでも法に触れることを恐れて、性衝動を理性で強引に閉じ込めるのが普通の人間だ。しかし、心の奥底に折り畳まれた性衝動を侮ってはいけない。理性で閉じ込めるたびに性衝動は力を増す。性的な衝動を発散する機会が少ない、抑圧された女性の性衝動は男の数倍強い
希少性の法則を突き詰めれば、非モテ男の生存戦略は希少性を獲得することということになる。容姿に恵まれていないが幸せな性愛生活を送りたいと願うなら、希少な存在になるべきだ。この観点から、モテたくてバンドをやる、芸人を目指す、漫画家を目指すという行為はまったく正しい
希少な存在だけが女の心を揺さぶり、理性の扉を開くことができる。モテたいのに会社員になってそれなりの年収を貰おうと努力するのは完全に間違っている。そもそも非モテは会社で出世できない。会社とは非モテがせっせと努力して得たものをリア充がまるで自分の手柄のようにかっさらっていく場所だ
イケメン男子中学生に手を出した年上の女は、遊ばれた挙げ句、無残に捨てられるだけなのになぜ…?と理解ができない人もいるだろう。非常に浅はかな考えだ。性愛に賭ける女の深い情念を甘く見すぎている
女はイケメンに近づけば遊ばれ捨てられることなど百も承知なのだ。15歳の美少年に手を出せば、彼と同世代の美少女と比較され、子供と侮っていた女に男を奪われ、時に恋敵の女子中学生よりも胸が小さいというみじめな現実を突きつけられ嫉妬に狂うことだって覚悟の上なのだ
男子中学生と成人女性の間には、事実、性愛関係が成立する。たった今も地球のどこかで男子中学生と成人女性はセックスをしている。にも関わらず、それは世間的には許容されない。いや、法的、社会的、道徳的、教育的などあらゆる観点からそれは否定される
そして弱虫や嘘つき、偽善者たちは、男子中学生と成人女性の性愛関係など、この地球上にまるで存在していないかのように振る舞う。しかし、私は文学的、ないし芸術的な観点からは、それを肯定したい。少なくとも私には坂口君に肩を揉まれ至福の表情を浮かべる波瑠さんを咎める気にはなれなかった
私は数日前にTwitterでここに書いたトラウマを吐き出したことで、ようやく性愛と向き合うことができた。性愛以上に大事なものはこの世に存在しないことにようやく気付いた。そして素人童貞なりに、この世にどうにか自分の爪痕、生きた証を残したいという強い生の衝動に突き動かされてこれを書いている
私の書く文章を気持ちが悪いと思う人は多いだろう。作り話だ、決めつけだ、素人童貞に何がわかるという意見だってあるはずだ。批判したければ批判するがいい。笑いたければ笑えばいい。しかし、批判しても笑っても、すべての人間に気色の悪い性的衝動が存在する事実を消し去ることはできない
この一連のツイートを波瑠さんと、私を射精に導いたすべての女性に捧げる…って、捧げられても困るか…。まあいいや(完)
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sumirekuribayashi · 3 years
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2021.4月以降の演奏予定
4/4(sun) 江古田そるとぴ〜なつ with 坂井紅介b
4/8(thu) 20:00柏ナーディス with小牧良平b(初共演)
4/10(sat) 成城学園前カフェブールマン with 岡部洋一perc
4/17(sat)渋谷公園通りクラシックス with 藤本一馬gt西嶋徹b福盛進也ds Start : 07:30 PM開場:19:00 開演:19:30料金:¥3.500 4/18(sun)18:00 上福岡 音喫茶一乗 with 会田桃子vln
4/20〜 "梟の森"北海道ツアー 吉田つぶらtapマーティホロベックb   4/20 小樽NewPort   4/21 帯広BbM7        4/23 旭川じゃずそば放哉        4/24  札幌JAMUSICA 
延期になりました 4/27(tue) 19:30 下北沢アポロ 吉田つぶらtapマーティホロベックb
延期になりました5月 2日 (日曜日)成城学園前カフェブールマン 酒井麻生代 : flute + 栗林すみれ : piano + 福盛進也 : drums
5/3(mon) 石井智大カルテット
5/5(wed) 朝霞台停車場 大井澄東d (吉田豊b)予約のみ (当日入店不可)
5/8(sat)渋谷公園通りクラシックス with林正樹p 13:30開場/14:00開演 charge:¥3500
中止になりました5/16(sun)成城学園前カフェブールマン with 藤本一馬gt西嶋徹b福盛進也ds
5/21(fri) 18:30 約70分1set 吉祥寺サムタイム with 金澤英明b 5/23(sun) 配信 小山豊group
追加5/30(sun) 14:00 栗林すみれソロ 新宿3丁目ポルカドッツ ※演奏中飲食無し。マスク着用をお願いします。¥2500
6/6(sun) 17:30 吉祥寺ストリングス 栗林すみれソロ ¥3000
6/12(sat) 柏ネフェルティティ with 松丸契as
6/17(thu) 渋谷公園通りクラシックス with 藤本一馬gt西嶋徹b福盛進也ds
Start : 07:30 PM開場:19:00 開演:19:30料金:¥3.500
6/20(sun)名古屋 金山ケニーズ SOLO
6/26(sat) 山本玲子スクエアーピラミッド
7/3(sat)19:00 成城学園前カフェブールマン with 岡部洋一per
7/8(thu) 中野スイートレイン with 中牟礼貞則gt 7/11(sun)18:00 江古田そるとぴ〜なつ with坂井紅介b
7/18(sun) 渋谷公園通りクラシックス with林正樹p 13:30開場/14:00開演 charge:¥3500
7/21(wed) 吉祥寺strings with Shiho(vo)
7/25(sun) 18:00 柏ナーディス with松丸契as
7/31(sat)小岩コチ with 金澤英明b
8/11(wed)成城学園前カフェブールマン with ファルコンgt
8/15(sun)Tommy's by the park with 松尾由堂gt
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