第十三回北区内田康夫ミステリー文学賞・特別賞受賞作品に基づく朗読劇上演台本
本作は声優・伊藤栄次氏が 二〇二一年十月二九日に配信上演した 「ひとりで朗読劇」の上演台本です。原作者・稲羽白菟が読み物として若干形式を整え、朗読劇の鑑賞を楽しむための資料として公開させて頂きました。「ひとりで朗読劇」はこちら(https://twitcasting.tv/c:eijiitoh1961/movie/707491244)にアーカイブされていますので、是非台本と併せてお楽しみ下さい。
1
一階のダイニングルームにご案内した三人のうち、最初に言葉を発したのは新郎のお母様、倫子夫人だった。
「なんだか古くさい洋館ね⋯⋯。本当に、 こんな所で結婚式を挙げる気なの?」
値踏みする様に高い天井の四隅を見比べ、 部屋の中央に一人進んでゆく夫人のつんけんした雰囲気に、クラシカルな部屋を嬉しそうに見渡していた野見山(のみやま)さんカップルの表情は見る見るうちに曇ってゆく。
〈私〉「こちらの旧古河邸は、知る人ぞ知る、とても人気のあるウエディング会場なんですよ。春と秋のシーズンには正面の南向きの窓の外、バラ園のバラがとっても綺麗に咲いて、庭も、洋館の中も、大勢のお客さんでいっぱいになっちゃうんです。……ですから、限られたオフシーズンの間、年間たった十数組しか挙式出来ない、ここは当社がご紹介できる中でもとっておきの会場の一つなんです」
「⋯⋯じゃあ、結婚式の時期、庭には綺麗なバラの一輪も咲いてないって事なのね……」
ここは、JR京浜東北線の上中里、山手線の駒込、東京メトロ南北線の西ケ原。この三つの最寄り駅それぞれから均等に遠い⋯⋯。おまけにどの駅も地味で、結婚式に向かう駅として華がない⋯⋯。今日待ち合わせをした駒込は一番メジャーだけど、そこからは登り坂だからお年寄りの参列者には不親切……。
倫子夫人は、根本的に何もかも考え直した方がいいんじゃないか──そんな文句を、ずっと口にし続けていた。
普段、ウェディング会場のお下見は、カップルお二人だけをご案内する事がほとんどだ。ごくたまに、熱心な親御さんが同行して仲良くプランを考える事もある。けど、半ば無理やりお母様が同行して、しかも、こんな露骨に文句ばかり言い続けるなんて、結婚式場紹介所『ポラリス・ウエディング』に入社してまだ二年の私には、初めての経験だった。
「高台の洋館、斜面のバラ園、そして、低地の日本庭園──ここのお庭は、本郷台地の傾斜に沿って階段状に設計されているんです。下の日本庭園になら、お式の頃にも、きっと綺麗なお花が咲いていると思いますよ」
「日本庭園?」
ダイニングテーブルの脇を進み、南に開いた窓際で夫人は斜面の下を見下ろす様に背伸びをした。
あっ! 確かこの建物からは──
「⋯⋯そんなの、どこにも見えないじゃない」
案の定、険のある夫人の声が部屋に響いた。
隣に並んだ野見山さんカップルのすがるような眼差しが、視界の端で私を突ついている。
何て応えよう?
考えをめぐらせる事に必死になり、私が笑顔を失いかけたその時、柔らかな女性の声がダイニングルームに響き渡った。
「──洋風のバラ園と純和風の日本庭園が連続して見えない様に、わざと常緑樹の林を間に挟んでいるんです。洋館からは洋風の風景、下の茶室からは和風の風景しか見えない。とっても良く考えられた設計なんですよ。⋯⋯ちなみに、日本庭園は京都の名匠「植治」こと七代目小川治兵衛の作、洋館と西洋庭園は鹿鳴館やニコライ堂の設計で知られる名建築家、ジョサイア・コンドルの作です」
「咲耶(さくや)さん!」
自称「旧古河邸のなんでも担当者」──高橋咲耶さんが、マホガニーの大きなドアの前に立っていた。
年上の人なのに、つい可愛いと思ってしまう様なチャーミングな笑顔。おっとりとした柔らかな雰囲気を身にまとっているのに、何故か「この人に任せておけばきっと大丈夫」そう思えてしまう不思議な信頼感。咲耶さんは、この洋館の管理と運営をしている財団法人「大谷地美術館」の職員、美術館学芸員さんだ。
「ようこそ、旧古河庭園へ。お出迎えしようと思っていたのに、すみません。シャンデリアの暈を磨いていたら、つい熱中しちゃって⋯⋯」
ドアの前で、はにかんだ笑顔を浮かべる咲耶さんの顔を、野見山さんカップルと倫子夫人は、なんとなくものめずらしげに眺めている。 私は自慢の姉を紹介するような気分で口を開いた。
「こちらは、この施設を管理する美術館の学芸員さんで、かつ、ウエディングの担当もなさっている高橋咲耶さんです。⋯⋯今日、お二人の結婚式のご希望についてご相談に乗って下さる方です」
「はじめまして、高橋咲耶と申します」
咲耶さんはにっこり笑って頭を下げた。 野見山さんカップルは姿勢を正して会釈を返す。
窓際の夫人は相変わらず、値踏みするような冷たい視線で咲耶さんの姿を遠く真正面から眺めている。
「ウエディングの相談も、シャンデリア磨きも学芸員が担当する⋯⋯。こちらはそんなに人材が不足しているのかしら?」
「⋯⋯ええ、そうなんです」
穏やかな笑顔を夫人に向け、咲耶さんは続けた。
「施設の管理、洋館見学ツアーのガイド、建物まわりの草むしり--出来る事は全部、私とあと二人の人間で手分けして行っているんです。貴重な歴史的建造物ときれいな庭園を後世に伝える事だけが目的の、とても小さな団体なものですから⋯⋯」
夫人の冷たい表情と、それを気にも留めない様子の咲耶さんの明るい笑顔──部屋の両端で向かい合う二人の対照的な様子になんとなくハラハラして、私は野見山さんたちに言葉を向けた。
「旧古河邸のウエディングはイベント会社の力を借りず、こちらの高橋さん一人が窓口になって色々と手配して下さるんです。専門の式場と違って、都立公園の一角、非営利団体が運営する洋館をお借りしての結婚式になりますから、お二人の様にアットホームな式を望まれる方、派手さよりも温かさを求められる新郎新婦様には、きっとご満足いただける会場に違いないと私は思うんです」
笑顔を取り戻した新郎の伸一さんは咲耶さんと正面に向き合った。
「今日は、こちらで結婚式を挙げさせていただく場合のプランについて、詳しくお話を伺いに参りました。どうぞよろしくお願いします」
伸一さんは咲耶さんに丁寧に頭を下げた。隣の麻里子さんもフィアンセにならってペコリとお辞儀をする。
「ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。このお部屋、いつもは喫茶室として営業しているんですけど、幸い今日は他にお客様がいらっしゃいませんから、ここでお話しさせていただきますね。……皆さん、紅茶、コーヒーのご希望は? 喫茶室のマスターとウエイトレス役も、私が一人でやってるんですよ」
「ありがとうございます。⋯⋯じゃあ、僕たちは紅茶をお願いします」
お二人と咲耶さんの間に生まれた柔らかな空気に、私はなんだかホッとする。
しかし!
〈倫子夫人〉「あなたのお話を聞く必要はないですから、私にはどうぞお構いなく」
うんざりした表情を浮かべる伸一さん。
辛そうにうつむいてしまった麻里子さん。
少し驚いた表情で夫人の顔を見つめる咲耶さん。
そして、さすがに堪忍袋の緒が切れそうになってきた私……。
そんな私たちの方に、夫人はスタスタと近寄って来る。
「母さん、いい加減に──」
「お母さん、マコトと一緒に外で待っているわ」
マコト?──一瞬誰の事か解らなかったけれど、「お庭で待ってるね」と言っていたもう一人、ご一行に付いて来ていた制服姿のおとなしそうな妹さんの名前なんだろうと私は察した。
ドアノブに手を掛けた夫人はちらりと咲耶さんを振り返る。
「──坂の下のお庭は随分広そうだけれど、こちらのお庭にはキツネなんて住んでいるのかしらね?」
「きつね、ですか? さすがにそれはいないですけれど⋯⋯」
「母さん! そんな馬鹿な事、もうこれ以上言わないでくれ!」
ずっと穏やかだった伸一さんが突然上げた大声に構う事なく、夫人は小さく鼻を鳴らしてドアの外に出た。
麻里子さんは今にも泣きだしそうな顔で俯いていた。
2
「お待たせしました。さぁ、どうぞ──」
咲耶さんが、野見山さんカップルと私が座る窓に近い四入掛けのテーブルにお盆を置き、お茶のセットを並べてくれる。
「お茶はアールグレイ、お菓子はここのお庭のばらの花びらを使って作った『ばらの羊羹』。⋯⋯ここの愛称『ばらの洋館』と掛けた駄洒落みたいな名前ですけど、れっきとしたうちの名物なんですよ」
お茶を配り終えた咲耶さんに、私は改めてお二人を紹介した。
「こちらは野見山伸一さん、そして、長尾麻里子さん。この洋館をご紹介したら、お二人とも、とっても関心をもって下さったんです」
「そうですか。……あの、あまり聞かないめずらしいお名前ですけど、もしかしたら、野見山冴子さんのご親…とか?」
「さすが、よくご存知ですね。野見山冴子は僕の伯母、父の姉に当たります」
「⋯⋯⋯その方、どなたなんですか?」
「掛軸や屏風なんかの日本画を描く、一応プロの画家です。⋯⋯⋯世間一般には、そんなに知られていないと思うけど、KANAKOの母親って言ったら、ご存知なんじゃないかな」
歌手のKANAK0といえば、ダンディーな大御所ミュージシャン・杉山亮一の娘──
「すごいじゃないですか! うちの父、若い頃から杉山亮一さんの大ファンなんですよ。杉山さんが伯父さんだなんて、うらやましいなー」
あ⋯⋯。
数ヶ月前、KANAK0がたった一年で離婚したニュースが話題になった時、実はご両親も数年前に離婚していたとレポーターが言っていた気がする。
離婚関連の話題。しかもご親族の。
ウエディングの仕事をしている人間として、これは、かなりまずい失言だ……。
「気にしなくて大丈夫ですよ。伯母の一家は伯母の一家、僕たちは僕たち。僕と麻里子はちゃんと幸せになりますから」
「失礼しました。⋯⋯お優しいお言葉、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「──素敵なお二人の事、よかったら詳しく聞かせてくれないかしら?」
咲耶さんの声で、私はゆっくり頭を上げた。
咲耶さんは私を励ますように微笑んでくれている。
伸一さんも優しい表情を私に向けてくれている。
麻里子さんは少しうつむきがちにティーカップを眺めているけれど、その表情は穏やかだ。
お伺いを立てるように私が向けた視線に、伸一さんはうなずきながら応えてくれた。
「良かったら、僕らに代わってお願いします」
「⋯⋯はい。 お二人は王子稲荷の境内にある幼稚園の同級生、幼なじみでいらっしゃいました。しかし、小学校に上がる時に麻里子さんが引越して、長い間交流が絶えていたんです。それが三年前、王子の大晦日のお祭り『狐の行列』の参加者同士として運命的な再会をしました。そしてこの春、めでたくご婚約なさったんです⋯⋯」
正面のお二人に、私は満面の笑顔を向けた。
江戸時代、関東全域のお稲荷さまの御使い狐たちが王子に集まり、村の入り口の榎の下で正装に着替えて王子稲荷さまに新年の挨拶をしに行った……そんな伝説をもとに、昔、その榎の木があったという王子駅の東側「装束稲荷神社」から、駅西側の「王子稲荷神社」まで、狐の扮装をした人たちが提灯の明かりを灯して行列する『狐の行列』。
自分たちのふるさと、再会した大切な場所に近くて、ご両親がすでに亡くなっている麻里子さんのためにアットホームな式を挙げたい――それが伸一さんのご希望だった。
だから私は「ここしかない」──そう思ったのだ。
あれ?──私は少し戸惑った。
伸一さんはさっきまでと同じように穏やかに微笑んでくれている。
麻里子さんも同じくうつむきがちにティーカップを眺めている。
けれど、その表情にはそれまでとは少し違った妙な寂しさ、わずかな悲しみの影の様なものが加わっていた。
何かまずい事、また言っちゃった?
とりあえず話題を変えよう──
「⋯⋯そうそう咲耶さん、麻里子さんは最近フラワーアレンジメントをご趣味で始められたんです。結婚式に、新郎様のご実家のお庭に咲いているお花を使ってブーケを作る──そんな素敵なアイディアを、麻里子さんは思いつかれたんですよ。この洋館の雰囲気に合うかどうか、今日は見本を作って来て下さったんですよね? よかったら、そのブーケを見せて下さいませんか?」
麻里子さんは隣の伸一さんの顔をちらりと見上げ、脇に置いた紙袋からそっとブーケを取り出した。
小さなブーケは、白、ピンク、ブルー⋯⋯いろんな色と形の花が、バランスの良い球形に綺麗にまとめられていた。
咲耶さんは微笑みながら、テーブルの上のブーケに指を伸ばした。
「こんな素敵なブーケ、お花屋さんに頼んでもなかなか作ってもらえませんよ」
「⋯⋯ありがとうございます」
咲耶さんの明るい声に心ほぐされたのか、麻里子さんと伸一さんの表情にわずかな明るさが戻る。
お花の一つ一つを指さしながら、咲耶さんはリズミカルに言葉を刻んだ。
「千鳥草に矢車草、白妙菊、そして、孤の手袋⋯⋯」
スズランの様に茎から垂れ下がる細長いピンクの花、『狐の手袋』と言ったその花を指さした瞬間、麻里子さんと伸一さんの口元から笑みが消えた。
「──狐の手袋。学名、ジギタリス。小動物の指サック、手袋みたいな形だから、そんな可愛らしい名前が付いたんでしょうね。⋯⋯けど、この植物には毒があるから、くれぐれも気を付けて下さいね。もしこの葉っぱを食べちゃったら、めまいや幻覚を起こして、場合によっては命にも関わる⋯⋯」
言葉を区切った咲耶さんと野見山さんカップルの間に、なんとなく奇妙な空気が流れ始める。
〈私〉「⋯⋯まぁ、前置きのお話はこれくらいにして、さっそく、本題のお話を始めましょう。こちらの洋館をお借りして、このダイニングルームで五十名様規模の式を挙げるとすると⋯⋯」
その時咲耶さんが、穏やかな眼差しで私の目をじっと見つめて言った。
「あなたのお仕事の目的は、お二人の素敵な結婚式? それとも、お二人の素敵な結婚?」
咲耶さんの言葉の意味がよくわからず、私はしばらく考え込んだ。
「⋯⋯素敵な結婚式をプランニングするのが私のお仕事ですけど、一番大切なのは、もちろんそれから先、お二人の幸せなご結婚生活に決まっています」
「そうよね」
正面のお二人に顔を向けてにっこりと微笑んでから、咲耶さんは言葉だけを私に向けた。
「その目的を果たすためには、結婚式のプランのお話の前に、ちゃんと考えなきゃならない事があるんじゃないかしら⋯⋯」
正面のお二人に、咲耶さんは言葉の舵を切り替える。
「私、昔から少しおせっかいな性分なんです。だから、ここの仕事でも『なんでも担当者』になっちゃって⋯⋯。 もし差支えなければ聞かせて下さらないかしら? お二人のご結婚と『きつね』。そこに一体、どんな問題が起こっているのか──」
3
しばらくして伸一さんは深いため息をつき、まるで独り言のように小さな声で言った。
「いや⋯⋯お話しするのもはばかられるような、馬鹿げた話なんです⋯⋯。怪文書というか、何というか⋯⋯変な手紙が先週僕の実家に届いて、それから、少し奇妙な出来事が⋯⋯。僕たちの結婚に反対するような内容に、何かの葉っぱの恨みがどうの──っていう、よく解らない和歌が添えられて⋯⋯」
神妙な様子で、伸一さんは口を閉じた。
麻里子さんも、その隣で黙ってうつむいている。
背後の大きな窓から差し込む晴れやかな初夏の光が、お二人の顔に一層深い影を作っているかのようだった。
「こいしくば たずねてきてみよ いずみなる しもだのもりの うらみ くずのは」
伸一さんと麻里子さんはハッとした様子で顔を上げ、目を丸くして咲耶さんを見つめた。
「それです! その歌です! ⋯⋯でも、どうして、それが?」
「これは『葛の葉』という歌舞伎に出てくる和歌なんです。人間の女性に化けた狐、『葛の葉』が主人公のお話。だから、これかな、と思って⋯⋯」
麻里子さんに視線を向け、咲耶さんは続けた。
「ちなみに、ここで言う『うらみ』は怨念とか復讐とか、そんな意味の『恨み』じゃなくて、子供と別れなければいけなくなった母親の『未練』という意味の古語なんです。そして、この『うらみ』という言葉には、『葛の葉』が障子に書き残した和歌を『裏から見るように』という意味も掛かっている──」
麻里子さんは驚いた様子で伸一さんと顔を見合わせた。そして、とても深刻な表情を咲耶さんに向けた。
「裏から見る⋯⋯というのは、どうして⋯⋯なんでしょうか?」
「狐に憑かれた女性は鏡文字、つまり、左右反転した逆さ文字を書くという俗信が、昔の日本にはありました。だから、『葛の葉』役の役者さんは筆を口に咥えたり左手で持ったりしながら、鏡文字でその和歌を障子に書く。それが、このお芝居の一番の見せ場なんです。まぁ、『葛の葉』は狐憑きではなくて狐の変化(へんげ)ですけど⋯⋯」
麻里子さんも伸一さんも、茫然と咲耶さんの顔を見つめている。
伸一さんは、隣のフィアンセに顔を向けた。
「麻里子、あんまり人に話す様なことじゃないけど、聞いてもらう意味があるんじゃないかと思うんだ」
麻里子さんは深刻な表情でうなずき、咲耶さんと私の顔を交互に見つめた。そしてゆっくりと語り始めた。
「伸一さんの実家に届いた手紙は、私が小さい頃に亡くなった母について書かれた手紙だったんです。私の母は狐憑きだった。狐憑きの娘を家に入れると、伸一さんのお家に災いが起きるだろう──って」
「そんな手紙のせいで、お義母様はあんな調子に?」
「いいえ。それだけじゃないんです……。一昨日、ブーケ用のお花を選びに伸一さんのお家に行った時、使わせてもらった和室の障子の一面に、手紙に書かれていたのと同じ和歌が、部屋を離れている間に、墨で大きく書かれていました。どうして障子にあの和歌があんな方法で書かれていたのか、私には全く意味が解りませんでした。でも、今のお話を聞いて理解しました。その文字は、部屋の内側から読めるように書かれていたんです。つまり、桟のない障子の外側から、鏡文字で書かれていた──」
麻里子さんは両腕で自分の体を抱きしめた。
「私の母が狐憑きだなんていう中傷、私は今の今まで、これっぽっちも信じていませんでした。⋯⋯けど、その和歌が子供と離れる未練の歌だと知って、鏡文字が狐憑きの特徴だと知って、もしかすると私のお母さんは本当に狐憑きだった……あの障子の和歌は、若くして亡くなったお母さんの霊が私に向けて書いたものだったのではないか──そんな風に、今は思っています。⋯⋯だから、狐憑きの娘の私は『狐の行列』で伸一さんと再会する事が出来た。そして結局、その呪われた運命のせいで私は伸一さんと結婚する事が出来なくなる──。これからも私は一人ぼっちで生きていかなきゃいけない──そんな悲しい運命が待っているのかも……」
突然開け放たれた窓の外から雨粒が葉っぱを叩く音が聞こえだした。雨は降っているのに、空は青いまま──それは不思議な景色だった。
これって……「きつねのよめいり」じゃない⋯⋯。
狐憑きにまつわる中傷と奇妙な出来事のせいで苦しんでいる花嫁の麻里子さんに、まるで不吉な追い討ちをかけるような不思議な天気雨──「きつねのよめいり」という因縁めいた不思議な天気に不吉を感じない位に、麻里子さんと伸一さんは、今自分たちが置かれた状況にまいってしまっていた。
「ちょっとごめんなさい。⋯⋯窓、閉めますね」
咲耶さんは席を立って、外に開かれた窓を閉じようと身を乗り出した姿勢で、ふと動きを止めて、窓の外、左斜め前の方角をじっと見つめた。 私は咲耶さんの視線の先を追う。
洋館東側の芝生の庭から、南に向かって突き出した展望台―― 屋根のある四阿(あずまや)に雨を避けて駆け込んだ倫子夫人と制服姿の女子高生の姿が、そこには見えていた。
派手な花柄のサマージャケット、紺色のブレザー。
それぞれの服に付いたにわか雨の水滴を、ハンカチで払い落としていた。
窓を閉じて席に戻った咲耶さんは、正面のお二人の顔をじっと見つめた。
「その手紙に、お母様が狐憑きだという具体的な根拠は書かれていたのでしょうか。」
「それは⋯⋯」
「麻里子のお母さんは逆さ文字を書いていたと、手紙には書かれていました⋯⋯⋯。念のため、その手紙も、障子に書かれた和歌も、タブレットで撮影しています。よかったら、ご覧いただけますか?」
「はい。見せて下さい」
「これが、その手紙です。⋯⋯麻里子、お二人に、読んでもらってもいいね?」
伸一さんの言葉に、麻里子さんは黙ってうなずく。
「できれば、お二人にこんな話をした事は、母には内密にお願いします」
タブレットに写っていたのは、便箋に筆か筆ペンで書かれたごく短い手紙だった。
『近く野見山の家に嫁入りする花嫁は、逆さ文字を書く狐憑きの女が産んだ娘。大なりこまの子もまたなりこま、狐憑きの血が混ざれば野見山の家に災いが訪れるだろう』
そして二枚目の写真には、同じ便箋の一面を埋めるような大きな文字で、さっき咲耶さんが諳んじた和歌が書かれていた。
『恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる
信太の森の うらみ 葛の葉』
私は顔を上げ、咲耶さんに尋ねた。
「達筆⋯⋯なんですかね?」
「きっと達筆な人なんだろうけど、なんとなく、わざと筆跡をごまかしているような、不自然な運筆の部分があるわね。……ところで、麻里子さん、お母様は本当に、鏡文字を書いていらしたんでしょうか?」
しばらく黙ってから、麻里子さんは消え入りそうな声で答えた。
「母の書いたもの……学生時代のノートを引っ張り出して見てみたら、確かに鏡文字で書かれている部分がありました⋯⋯。一冊のうち、ほんの数行でしたけど⋯⋯」
「そうですか。⋯⋯お母様は、どんな方だったんですか?」
「母は、私がまだ五つの時に乳癌で亡くなりました。⋯⋯だから、あまりはっきりした記憶はありません」
「何か、お仕事は?」
「美大に通っていた時に父と学生結婚をして、そのまま専業主婦をしていました」
「大学では、どんな勉強をなさっていたんでしょう?」
「三峰先生という偉い先生のもとで、ケンポンという絵を勉強していたと聞いています。⋯⋯学生の中でも一番将来を期待されていたのに、自分と結婚したばかりに何も残すことなく早死にさせてしまった──三年前に死んだ父は、いつも悲しそうに話していました⋯⋯」
両親の不幸を自分たちに重ね合わせるかのように、麻里子さんは悲しげな視線を隣の伸一さんに向けた。
伸一さんもまた、何ともいえない悲痛な表情でフィアンセの眼差しを受け止める。
「今日、何かお母様がお書きになったものなんて、お持ちではないですよね?」
「はい…。こんなご相談に乗ってもらえるなんて思ってもいませんでしたので⋯⋯。わかっていれば、そのノートを持って来たんですが。あっ、ノートを探した時に出てきた、母が鉛筆で描いた小さな絵なら持っています。⋯⋯でもそんなのじゃ、お役に立ちませんよね?」
「いえ、見せていただけますか?」
麻里子さんは脇に置いたバッグの口を開き、パスケースを取り出した。開いたパスケースの内側、プラスチックの写真入れの部分に入った一枚の小さな絵をそっと取り出し、私たちの前に差し出す。
古びた名刺サイズの紙には蜜柑が一つ、ぽつんと…鉛筆書きのデッサンで描かれていた。
咲耶さんは、じっと、その絵を真剣に見つめ続けている。しばらくして顔を上げ、伸一さんに言った。
「障子の写真も、見せていただけますか?」
「はい。……これが、その写真です」
伸一さんが示したタブレットの画面には、室内から撮影された和室の障子が写っていた。
夕方ぐらいだろうか、柔らかい日差しを背後から受けたその障子には、さっき見た手紙と同じ和歌が、手紙とほぼ同じ筆跡で、墨と筆を使って大きく書かれていた。
よく見てみると、確かに、室内側の白木の桟に邪魔されることなく、その文字は平らな裏側から鏡文字で書かれているようだった。
黙って写真を眺め続けてから、咲耶さんは麻里子さんに顔を向けた。
「この時の状況を、詳しく教えてください」
麻里子さんはコクリとうなずき、口を開く。
「一昨日の夕方五時頃、私は伸一さんのご実家にお邪魔したんです。お庭に面した和室に荷物を置かせてもらって、私は伸一さんと一緒にお庭でブーケ用のお花を選んでいました。その時に、うっかり、からたちの枝で腕に切り傷を作ってしまって、和室の隣のリビングルームでお義母さまに応急手当てをしてもらったんです。それからしばらくして和室に戻ったら、障子があんな事に⋯⋯」
麻里子さんは両手で自分の腕を抱いた。
今まで気がつかなかったけれど、白いワンピースに羽織ったベージュのカーディガンの袖口から包帯らしきものがほんの少しのぞいていた。
「⋯⋯じゃあ、お二人がお庭を離れて和室に戻るまでの間に、誰かがそんないたずらをしたという事ですね。お庭を離れて和室に戻るまでの時間はどれくらいでしたか?」
「そんなにはかからなかったと思います。長くて、十四…五分⋯⋯といったところでしょうか」
「その間、お母様は?」
「麻里子の傷の手当を少し手伝ってから、なんとなくよそよそしく、僕と麻里子の様子を眺めていました。その前々日に例の手紙が届いて、母は僕らの結婚に否定的な事を言い始めた頃でしたから⋯⋯。そのあと、あの障子を見て、母は完全に結婚に反対するようになってしまい、それで今日もあんな調子で⋯⋯」
「妹さんも反対一派なんですか?」
「いえ、真琴と僕は仲が良いので⋯⋯。きっと、母の様子を心配して付いて来てくれたんだと思います」
「なるほど。そうですか──。庭に面した和室とリビングルーム、その他の間取りはどうなっているんでしょう?」
「玄関から延びる廊下の突当りのドアを入るとリビングがあって、その廊下の右手に和室が二つ。例の和室はリビングに近い方です。廊下を挟んでその向かい側には、玄関の方からお手洗いと浴室、そして、父の趣味のオーディオルームがあります。二階は両親と僕、妹、それぞれの寝室になっています」
「なるほど。⋯⋯ちなみに、お父様の音楽のご趣味は?」
「オペラ⋯⋯のようですが、それが、何か?」
「⋯⋯いいえ、大したことではありません。けど、今のお話でおおよその事は解りました。ご家族に事情をご説明したいので、申し訳ありませんがお母様と妹さんを呼んできて下さいませんか?傘は玄関ホールの傘立ての傘をお使いください」
「おおよその事……? それは一体、どういう事なんでしょう?」
テーブルの上に身を乗り出す伸一さんに、咲耶さんは困ったような微笑みを浮かべて見せた。
「あの…出来れば、お母様と妹さんのお二人とお話がしたいので、呼びに行った替わりに、伸一さんと麻里子さんは少し四阿(あずまや)でお待ちいただけませんか? あの四阿は、この洋館と斜面のバラ園、坂の下の日本庭園――ここのすべてが見渡せる、唯一のビュースポットなんですよ。しばらくの間、お二人はきれいな景色でも楽しんでいて下さい。あと、麻里子さん、お母様の絵、少しの間お借りします」
不安げな様子のお二人に向かって、咲耶さんはにっこりと微笑んだ。
4
「とんだ狐の嫁入りね──」
さっきまで麻里子さんが座っていた席に座り、倫子夫人は忌々しそうに背後の窓の外を眺めた。
窓の外ではまだ天気雨が降っている。
四阿の中には、麻里子さんと伸一さんが並んで立つ姿が見えている。
夫人は咲耶さんに視線を戻した。
「で、お話って? 私はあの二人がここで結婚式を挙げる事に賛成している訳ではないですから、あなたとお話しする事は、特にないと思うんだけど」
隣に座った妹さんが、横を向いて小さな声で言った。
「やめなよ、そんな言い方」
「真琴は黙ってなさい。⋯⋯で、お話というのは?」
「おせっかいな事は承知しています。しかし、先ほどお二人からお話を聞かせていただいて、いくつか気付いた事があったものですから⋯⋯。まず、麻里子さんのお母様が逆さ文字を書いていた――という手紙の一文の真偽」
「あの子、そんな話まであなたにしたの? 赤の他人に、まぁ、ベラベラと⋯⋯」
夫人は憎々しげに四阿の方に視線を向けた。
「赤の他人だからこそ、客観的に物事を見られる場合もあります。⋯⋯その手紙の一文は、どうやら事実だった様ですね。その昔、通常では理解し難い不思議な現象を『神懸かり』や『憑き物』と定義して、人々はその謎を受け入れていました。けれど、現代の、科学的・医学的見地から考えれば、例えば解離性同一性障害やてんかんの発作など、そのほとんどには合理的な説明がつくはずです。⋯⋯もちろん、私はその分野の専門家ではありません。ですから、それらの状態がそれぞれ医学的に何と言うのか、細かな説明をする事は出来ません。しかし、手紙に書かれていた現象『逆さ文字を書く』つまり『鏡文字』については、私の専門分野とも少し関係がある事なので、ある程度ご説明する事が出来ると思います」
咲耶さんの正面で、夫人と妹さんは真顔で黙り続けている。
「鏡文字を書いた事で知られる有名人は『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロル、相対性理論のアインシュタイン、そして、かのレオナルド・ダ・ヴィンチ。⋯⋯才能豊かな人たちばかりですね。なぜ彼らは鏡文字を書いたんでしょう? 彼らは『狐憑き』だったんでしょうか?⋯⋯もちろん違います。現代医学において、そういった症例は『ディスレクシア』という学習障害の一つだという事が広く認識されています。脳への言語的な入力、出力、そのそれぞれに、人とは違った特徴が見られる状況を、現代医学ではそう定義します。今、挙げた人たちは『出力』に特徴がある場合です。『入力』に関するディスレクシアは、例えば、知能には何も問題がないのに、書かれた文字だけはどう頑張っても読む事が出来ない──俳優のトム・クルーズは、自分がそんなタイプのディスレクシアだと、堂々と公表しています」
「それは、いわゆる精神病の一種⋯⋯なの?」
「いいえ、そうではありません。学習障害は、脳の使われ方が他の人と『少し違う』という、ただそれだけの事で、病気や異常という訳ではないんです。それを証拠に、今、例に挙げた人々はみんな才能豊かで、ある意味『天才』と呼ばれるようなタイプの人たちです。もちろん、ディスレクシア=天才、と短絡的に考えるような事でもありませんが⋯⋯。しかし、鏡文字を書くディスレクシアの人たちには、ある共通する傾向が見られるそうです。それは──」
咲耶さんは左の掌を自分の顔の横に持ち上げて見せた。
「鏡文字を書く人は、圧倒的に左利きの場合が多いという事。そして、左利きを右利きに矯正しようとした場合に、文字が逆さまになってしまう事が多いという事──。そこにある絵は、麻里子さんのお母様が、むかし描かれた絵だそうです。⋯⋯蜜柑の後ろに描かれた影を見て下さい。鉛筆を斜めに動かして描いた影、その方向に注目して下さい。左上から右下、そして左上⋯⋯筆跡はそう動いています。この線の動き方は、左利きの画家、レオナルド・ダ・ヴィンチの描く影の線の動き方と共通しています。つまり、麻里子さんのお母様は左利きだった可能性が高いのではないかと……」
正面の倫子夫人の目をじっと見つめ、咲耶さんは言葉を続けた。
「もちろんこれは、そういった可能性がある──という私の推測に過ぎません。しかし、『狐憑き』と『ディスレクシア』 どちらの見方で『鏡文字』という不思議な現象を捉えるのか、現代人の私たちの選択は自ずと決まっているはずだと、私は思います」
咲耶さんは言葉を結んだ。
しばらくの間、ダイニングルームに沈黙の時間が流れる。
窓の外、天気雨がバラの葉を打つ音だけが、小さく私の耳に聞こえ続けた。
部屋の沈黙を破ったのは倫子夫人の不服そうな声だった。
「⋯⋯その件については解ったわ。けど、あの障子の文字はどうなのよ? もともと鏡文字が書ける人間じゃなきゃ、短い時間で、あんなきれいに鏡文字を書く事なんて出来ないはずでしょ? 麻里子さんのお母さんの幽霊が書いたなんて、さすがに私もそんな事は言わないわ。でも、どこかの誰かから悪意のある怪文書を送られて、その上、うちの家にあんな不気味な嫌がらせをされる娘さんを、私は自分の大事な息子の花嫁に迎えたくないのよ⋯⋯。子どもの将来を大事に思う親の気持ちは、あなたにとやかく言われるべき問題ではないはずよ」
「お母様のお気持ちは、解るつもりです。 けれど、障子の一件は『悪意のある嫌がらせ』なんかじゃなくて、大好きなお兄ちゃんを他人に取られるのが少し寂しかった──そんな思いが原因の、ちょっとしたいたずらに過ぎなかったんじゃないかと私は思っています。⋯⋯ね? 真琴さん」
「あなた、一体何を言い出すの? うちの娘は左利きでもないし、鏡文字なんて今まで一度も書いた事がないわよ。馬鹿な事を言わないで頂戴!」
茫然とする妹さんの隣で、夫人は我が子を庇うようにまくしたてた。
夫人の剣幕に臆する事なく、咲耶さんは妹さんに穏やかな視線を向けた。
「⋯⋯国立劇場の『高校生のための歌舞伎講座』今年の演目はたしか『芦屋道満大内鏡(あしやどうまんおおうちかがみ)』 つまり、『葛の葉』。きっと、学校行事のその舞台を、ちゃんと真面目に見ていたから、あの和歌の意味が解って、それで、障子にあんないたずらをする事を思いついた⋯⋯」
「だから、うちの娘は鏡文字なんて書かないって言ってるでしょ!」
夫人に向き直り、咲耶さんは静かに、ゆっくりと言った。
「誰でも障子に鏡文字が書ける条件が、野見山さんのお宅にはそろっていたんだと思います。―おそらく、一階のオーディオルームには、オペラ鑑賞用のビデオ・プロジェクターがあるんじゃないでしょうか?」
「それは、確かにあるけれど⋯⋯。それが、どうしたって言うのよ⋯⋯」
言いながら、夫人は隣の娘にゆっくりと顔を向けた。妹さんは何も言わず、青ざめた顔を下に向けている。
咲耶さんは、妹さんに視線を向けた。
「携帯かデジカメで撮影した手紙を、向かいの部屋の障子にプロジェクターで映写する。それを外から筆でなぞる⋯⋯。そうすれば、誰にでも、短い時間で手紙と同じ筆跡の鏡文字が書けるはずです。そんな事が出来るのは、プロジェクターの存在を知っていて、家の中から操作ができるご家族以外にはありえない──」
「真琴⋯⋯あなたがやったの?」
しばらく黙り続けてから、妹さんは小さな声で「ごめんなさい」と応えた。
「なんて馬鹿な事を! じゃあ、あの手紙も、あなたが⋯⋯」
〈咲耶〉「それは違います。怪文書を書いた、麻里子さんのお母様のディスレクシアを知っていた人物。そして、障子に落書きをしてしまった真琴さん──。それぞれのちょっとした悪意と出来心が重なって、思いがけず大きなダメージを麻里子さんと伸一さんに与えてしまった──今回の一件はそんな不幸な出来事だったと、私は思っています」
「じゃあ誰が、どうしてあんな手紙を? それがはっきりしない限り、私はとても安心できないわよ⋯⋯」
「手紙には『大なりこまの子もまたなりこま』という一文がありました。『なりこま』というのは歌舞伎役者の屋号『成駒屋』。『大成駒』というのは玉三郎以前、戦後の歌舞伎界最高の女形として君臨していた六世中村歌右衛門、
その人個人を指す屋号です。⋯⋯例の一文はおそらく、歌舞伎の芸の血筋のように、狐憑きもまた親から子へと受け継がれる──そんな意味を表現しようと、大成駒の『葛の葉』の芸をイメージしながら書かれたものだと思います。歌右衛門が亡くなったのは、十四、五年前。高校生の真琴さんが手紙の主でない事ははっきりしています」
倫子夫人の目を、咲耶さんはじっと見つめた。
「怪文書の筆跡を誤魔化さなければならないほど、野見山さんご一家に近い人物。ご自身とお嬢さんの結婚が失敗し、親戚の幸せが妬ましく見えてしまった人物。歌舞伎を画の題材にする事もあり、歌右衛門を当然知っている人物。そして、麻里子さんのお母様とも知り合いだった可能性が高い人物……。ご親戚の日本画家、野見山冴子さんが手紙の送り主なのではないかと、私は推測します」
しばらくの間、倫子夫人は黙って咲耶さんの瞳を見つめ続けた。
「まさか、冴子さんが⋯⋯。お金にも、名誉にも恵まれているあの人が、どうして⋯⋯?」
「人の幸せ、人の嫉妬の理由はそれぞれです。もしかすると、麻里子さんのお母様の才能や人生に対する複雑な感情⋯⋯というものも、そこにはくすぶり続けていたのかもしれません」
夫人は問いただすような視線を咲耶さんに向けた。
「義姉と麻里子さんのお母さんが知り合いかもしれないというのは、どうして?」
「麻里子さんのお母様は、三峰禎造先生の門下で、絹本の勉強をなさっていたそうです。野見山冴子さんも、たしか三峰門下だったはず──。狭い日本画の世界、同門のお二人が大学で友人同士だった可能性は低くないと思います。在学の時期を確認してみなければ、はっきりとした事は言えませんが⋯⋯」
曖昧に言葉を結んだ咲耶さんの顔を、倫子夫人はじっと見つめた。
「確か、麻里子さんのお母さんと義姉は、同い年だわね⋯⋯」
それから、ぼんやりと宙を見ながら、夫人は小さな声で言った。
「真琴、どうしてあんな事を⋯⋯?」
深々と俯き、妹さんは今にも泣き出しそうな声で答えた。「そのお姉さんが言った通り」と……。
ダイニングの高い天井を見上げ、夫人は呆然と言った。
「麻里子さんに、悪い事をしたわね。⋯⋯お母さんと一緒に、麻里子さんにちゃんと謝りましょう」
下を向いたまま、妹さんはコクリとうなずいた。
解決、したのかな──?
私は胸をなでおろしかけた。
しかし次の瞬間、それまで気の抜けたようになっていた夫人の顔に、突然険しい表情が浮かび上がった。
混乱、苦悩、戸惑い──そんな感情がごちゃ混ぜになったような、まるで何かに取り憑かれたような何ともいえない表情を浮かべ、夫人はすがるような眼差しを咲耶さんに向けた。
「私、これからどうすればいいの⋯⋯? 義姉からはつまらない嫌がらせをされる。娘は軽はずみないたずらをする。そして私まで、麻里子さんに散々バカな意地悪をしてしまった──。伸一にはもったいないくらい、麻里子さんが良いお嬢さんだって事、私、ちゃんと判っていたのよ⋯⋯。これからは私が、ご両親の代わりにあの娘を守ってあげなきゃならないって、ちゃんとわかっていたのよ⋯⋯。なのに、浅はかな私たちが、寄ってたかって二人の間にケチをつけてしまった。せっかくの息子の良縁を、母親の私が壊してしまった⋯⋯。あの子に、これから私、どうやって顔向けすればいいの⋯⋯」
言い終えると同時に、夫人の両目から滝のような涙が溢れ出した。
さっきまで俯いていた妹さんは、驚いた様子で母親の顔を見上げている。
咲耶さんは何かを考え込む様に、真顔で夫人の顔を見つめている。
「やっぱり狐のせいよ! 私たち、きっと狐に憑かれていたのよ。冴子さんも、真琴も、私も⋯⋯。そして麻里子さんのお母さんも、もしかしたら、麻里子さんも⋯⋯」
悲鳴の様な叫び声を上げ、夫人はテーブルの上に突っ伏した。
駄々っ子のように首を左右に振りながら、夫人は叫び続けている。
こんな風になってしまった女の人を、もしかすると昔の人は『狐憑き』だと思ったのかもしれない──。
「狐に憑かれているかどうか、見極める方法がありますよ」
咲耶さんの声で、徐々に倫子夫人の嗚咽は収まり、部屋は静けさを取り戻してゆく。
しばらくして夫人はゆっくりと顔を上げた。その頰には、涙の流れに沿ったアイラインの筋が出来ている。
まるで無心の子供のように、倫子夫人は咲耶さんの瞳を見つめた。
夫人の瞳を見つめ返し、咲耶さんはゆっくりと言葉を繋いだ。
「江戸時代のとある文献に、女性が『狐憑き』や『狐の変化(へんげ)』かどうかを見破る方法として紹介されているお話があります。⋯⋯雨の中遠目に見て、もし、着物の柄が異常なまで派手に、はっきり見えたなら、その女性には狐の因縁がある──と。窓から、四阿にいる麻里子さんの姿が見えるはずです。雨の中遠目に見て、麻里子さんの服の柄がはっきりと派手に見えるかどうか、お母様ご自身の目で確認してみてはいかがでしょう?」
咲耶さんの言葉に従うように、夫人は黙って椅子から立ち上がり、呆けた様子で窓際に進んだ。
咲耶さんも静かに席を立ち、夫人の方へと歩いてゆく。私も立ち上がり、咲耶さんの後を追って窓際へと進んだ。
窓の外の景色を見て、私は思わず声を上げてしまった。
四阿の下、伸一さんと手を繋いで空を見上げている麻里子さんの後ろ姿──。
白いワンピースとベージュのカーディガンは、当然、これっぽっちも派手には見えなかった。
私が思わず声を上げて見とれてしまったたもの⋯⋯それは、お二人が見上げる空の向こう、まだ天気雨が降っている青空に浮かんだ、とても綺麗な七色の虹だった。
〈私〉美しい虹が、私たちの正面の空高くに浮かび上がっていたんです……。
まるで、手を取り合って雨や嵐の困難を乗り越えてゆこうと決意するお二人を祝福するかのように──。
「⋯⋯きつねの、よめいり」
窓の外を眺めながら、咲耶さんは静かに言った。
「偶然の条件が重なって降る、ミステリアスな天気雨。⋯⋯そんな雨が降ったからこそ、あの美しい虹は生まれました。失敗も、過ちも、後悔も、涙も──
もしかしたら、より美しい未来にたどり着くための貴重な回り道なのかもしれませんね」
黙って窓の外を眺め続ける夫人の姿が、窓ガラスにうっすらと映っている。
母親の横に静かに近寄る妹さんの姿が、その隣に映る。
妹さんがそっと差し出したハンカチを受け取り、倫子夫人は頬を拭きながら小さな声で言った。
「ありがとう⋯⋯。 真琴、二人を呼んできてくれないかしら?」
ダイニングルームに戻った野見山さんカップルの姿を、しばらく黙って眺めてから、遠慮がちな様子で倫子夫人は言った。
「お母さん、結婚式の会場は、絶対ここがいいと思うんだけど⋯⋯。二人は、どうかしら?」
野見山さんカップルは目を丸くして夫人の顔をまじまじと見つめた。
狐につままれたような顔──お二人の表情は、まさにそんな風だった。
「僕は、こんな良い場所は他にはないと思うけど⋯⋯いいのかい?」
穏やかな表情でうなずき、夫人は麻里子さんに体を向けた。
「麻里子さんは、どうかしら?」
「⋯⋯お義母さまもここを気に入って下さったなら、私は、本当に嬉しいです」
「そう⋯⋯良かった」
そう言って微笑んでから、夫人は神妙な表情を浮かべた。
「あなたたちの幸せを一番に守ってあげなきゃいけないはずの私が、下らない事でうろたえてしまって、本当にごめんなさい。……麻里子さん、あなたには改めて家族と一緒にお詫びしなければいけない事があるけれど、まずは私の愚かさを、どうか許して頂戴」
深々と頭を下げる夫人に、麻里子さんは恐縮した様子で応えた。
「許すだなんて、そんな⋯⋯。私こそ、ふつつかものですが、末永く、どうかよろしくお願いします」
麻里子さんと互いに深く頭を下げあった後、夫人は私と咲耶さんに体を向けた。
「今日は散々失礼な態度をとってしまって、本当に申し訳ありませんでした。どうか許して下さい。そして、この二人の幸せのために、これからも、あなたたちの力を貸して下さい」
姿勢を正して頭を下げる夫人に、私は慌てて頭を下げ返した。
「ありがとうございます! 精一杯、務めさせていただきます!」
「最善を、尽くさせていただきます──」
頭を上げた私の目の前、幸せな様子で並ぶご一家の姿があった。
ほっとした様子で見つめ合う野見山さんカップル。
なんとなく気まずそうにしながらも、確かな祝福の眼差しをお兄さんたちに向ける妹さん。
そして、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな表情になった倫子夫人──。
良かった……。
私はほっと胸をなでおろし、隣の咲耶さんに顔を向けた。まるで親戚のお姉さんのように、咲耶さんは笑顔で野見山さんご一家の様子を眺めている。
「──咲耶さん、本当にありがとうございます」
「ん? なあに?」
どうしてお礼を言われたのかわからない──そんな様子で首をかしげ、咲耶さんはにっこりと微笑んだ。
《おしまい》
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