Tumgik
#東京バレエ団
butaimatome · 1 year
Text
ロマンティック・バレエの代表作『ジゼル』が、東京バレエ団で蘇る。
<まとめ> イベント名: 東京バレエ団による『ジゼル』全2幕の上演 日程: 5月19日~21日 会場:東京文化会館(上野) 上演作品: ロマンティック・バレエの名作『ジゼル』 物語の概要: 貴族の男性アルブレヒトと彼が愛した村娘ジゼルの悲恋を描く 初演年: 1841年 演目に用意されるもの: 豪華な衣装や美しい舞台装置 ダンサー: 東京バレエ団の優れたダンサーたち 特徴: 美しい音楽と優美なダンスで観客を魅了する。初めてバレエを見る方にもおすすめ。 備考:…
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
9uatre · 2 years
Text
Tumblr media
9uatre新アンバサダーは『平木菜子』さんに!!
アンバサダー。
いわゆる9uatreの顔。
そして9uatreにはたくさんの洗練されたデザイナーたちが立ち上げたブランドがバックにおりますので、
それらに負けない存在感を放つ「原石」となる人をここ数年探していました。
ただ美しいというだけではなく、内面の素直さ、ピュアさ、丁寧さ、聡明さも重要で、
菜子さんにはそれらが備わっていると短いやり取りの中からも感じられました。
Tumblr media
海外での活躍や生活を通じてバレエだけではなく、ファッションセンスなどの舞台を離れた場面での個性も素敵、というお声も届いており、まさに9uatreが求めていた感性。
ハンブルク時代の菜子さん☟
Maldireを既にご愛用されていました🍒
Tumblr media
さて、菜子さんのバレリーナとしての活躍や、バレエウエアの着こなしは9uatreのインスタグラムや菜子さんご自身のインスタグラムなどに随時アップしていきますので、
ここではあえて舞台以外の菜子さんの素顔をちょっぴりご紹介😉
まずはドイツで活躍されていた頃の菜子さんのファッションチェック☟
ジーンズを合わせたコーデが抜け感あって素敵&クール😌
Tumblr media Tumblr media
日本に帰って来られた時の菜子さん。。☟
雨の日でもオシャレ!
Tumblr media
そして個人的に一番好きなファッションはコレ!☟
Tumblr media
ハイファッションブランドをジーンズでドレスダウン。
脚の長さをさらに際立たせるトップスにボリュームを、の組み合わせが秀逸すぎ!
個人的にもジーンズが大・大・大好きで、菜子さんのファッションチェックをしていて気付いてしまった・・
きっと菜子さんもジーンズラバー、ってことを・・😏
そして、どのコーデにも共通することがあり、それは「媚」を感じさせないという点。
キャッキャしすぎず、でも辛口すぎずのこの絶妙なバランスが9uatre的にも好みど真ん中!
今後のバレエウエアの着こなしはもちろんですが、ファッションにもぜひご注目を!
最後に、実は9uatreの拠点地の一つでもある『広島』は菜子さんのゆかりの地でもあり、偶然なのか必然なのか、または運命なのか、、というご縁での繋がりもあったり・・。
今回この事を知った時は、鳥肌立ちました😲
宮島、厳島神社にて。。☟
Tumblr media
小さな小さな小箱のような9uatre。
でも関わる人たちはどこにも負けない大きな大きな存在と研ぎ澄まされた感性の塊。
その一つのピースとしてこの度平木菜子さんをお迎えすることになりました。
9uatreともどもどうぞよろしくお願いいたします。
☞菜子さんのプロフィールなどはコチラにて掲載いたしておりますので、ぜひご覧ください。
☞お写真一枚目撮影はYumiko Inoueさん。その他は平木菜子さんのこれまでのインスタグラムからの投稿を抜粋してシェアいたしております。
0 notes
kennak · 10 months
Quote
 服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)  今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の前編です)  ◇  ◇  ◇  ──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。 「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。  なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました」 ■父の米国巡業の縁で姉弟が服部家に  ──被害にあったのはいつ頃でしょうか。 「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。  諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」  ──服部家とはその縁で? 「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。  それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。  今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」  ──どんな印象でしたか? 「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基地内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。  ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」 ──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか? 「私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。  ヒーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。  それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。  パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。  そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」 ■姉からは「汚らわしい」と言われ…  ──母親には話さなかった?  「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。ぼく、なんだか気持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。  姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。  ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。  アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく) ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(2ページ目)国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」|日刊ゲンダイDIGITAL
7 notes · View notes
sdeet · 1 year
Text
今月観る予定の舞台など
Kidd Pivot REVISOR
クリスタル・パイトのカンパニーの日本公演
生で観られるやった~~久しぶりに舞台観るために遠征します。 公演は神奈川と愛知。
インバル・ピント 『リビングルーム』
これも久しぶりに日本公演でインバル・ピントの作品が観られる!やった~! 公演は東京と京都。
ここからは配信
NHKオンデマンド久しぶりに入って一気見でもするか。
プレルジョカージュ振付「ミソロジーズ」 購入期限:2023年5月19日
これもプレルジョカージュ振付 パリ・オペラ座バレエ「ル・パルク」 購入期限:2023年5月7日
私これ何回見るんだろう? コンテンポラリーの振付家の作品を意識して見だしたの明確にプレルジョカージュのル・パルクからなので思い入れがありすぎるんだよね。何回見たっていいよ。
グラインドボーン音楽祭2017 歌劇「ハムレット」 購入期限:2025年10月5日
ローザス 我ら人生のただ中にあって バッハ 無伴奏チェロ組曲 購入期限:2024年2月16日
ばたばたしてて結局見てないんだった。
そうそう、クリスティアン・シュプック振付 チューリヒ・バレエ「冬の旅」も見損ねまくっているのでもうこれもソフト買ったほうがいいんじゃないのか。シュプックはチューリヒからベルリン国立バレエに移るそうですね。どの演目もヴィジュアルがあまりにも好きすぎるのでチューリヒバレエのシュプック振付全部観たいしソフトもほしい。
★シュプック振付のロミオとジュリエットを5月13日~20日で無料配信するそうです。
Youtube
OperaVisionにまたオルフェオ入りましたね!! ありがとう!!!!
L'ORFEO Monteverdi – Staatsoper Hannover
youtube
ずっと前から、海外のダンスとオペラと演劇観たいならMarqueeTV入ればいいじゃん、自分が観たいと思ってる作品だいたいある、って解決策はわかっているのだけど、ついこう、慣れてるチャンネルをチェックしてしまうね。あとArteとか……
月9ドルぐらいだし一週間トライアル期間もあるので一気見したいならMarquee入るべきなんよな。RSCとかもあるし。わかってる……こんどやる。
7 notes · View notes
Text
#05 中沢レイ
Tumblr media
一日の流れ
朝は6時半くらいに起きて朝ご飯とお弁当をつくります。家は私と息子と私の母の3人暮らしです。息子に持病があって、12時間おきに飲まなきゃいけない薬があるので、彼が寝てようが何してようが飲ませてから出かけます。職場は三重県内の市役所で、移住関係の仕事をしています。非常勤で働いてもうすぐ3年になります。
家から市役所までは車で山道を走って40分ぐらいで、道が混んでいたら小一時間ぐらいかかるときもありますね。仕事は17時15分までで、時間になったらすぐ家に帰ります。以前、息子と二人で暮らしていたときは夕飯のお弁当を買って帰っていましたが、今は母親が夕飯の支度をしてくれているので、それをありがたくいただいています。夕食後はだいたいぼーっとスマホを見たりして、気づくと2時間ぐらい経ってたりします。息子はゲームが好きで、夜はゲームのコアタイムだから私とは全然話をしてくれないんですよ。みんなが思い思いに過ごしているのを確認してからお風呂に入って、寝るのは23時ぐらいです。
市役所の仕事のほかにヨガを教える仕事もしていて、レッスンがあるときは、仕事のあと家に一旦帰って晩ごはんを食べて、借りているレッスン場に出かけます。土曜日はバレエ教室で子どもたちにコンテンポラリーダンスを教えています。ダンスというか、キャッキャ言いながら自由に動いたり、何でも試してみようというクラスですね。日曜は基本的に休みですが、移住の仕事は土日にイベントがあることが多いので、結構出張したりもしています。空いている日は子どもと一緒に過ごそうと、何をするわけじゃないけど、家にいるようにしています。
Tumblr media
生い立ち
生まれは岐阜県岐阜市です。母方の祖父母が縫製業を営んでいて、一家総出で服をつくっていました。両親は朝から晩まで、すごくうるさい工業用ミシンを踏んでいて、家には有名なブランドの布が置いてありました。だけど、私が小学校1、2年生の頃に景気が悪くなったのか、父が仕事を辞めて養鶏場に働きに出るようになりました。それまでは家にずっと親がいたけど、突然鍵っ子になって、弟は泣いていましたね。姉である自分はしっかりしなくちゃと思っていた記憶があります。
中学3年のときに親が頑張って家を建てて、引っ越しをしたんですよ。私は転校もしたんだけど、ある日修学旅行から帰ってきたら両親に「離婚するわ」って言われて。私から見たら仲は悪くなかったんだけど、実際はそうじゃなかったみたいです。せっかく建てた新居も出ることになって、その家は私の叔母さんが住むことになりました。弟は父に、私は母についていくことになったんですが、母の家に引っ越すと中学校を変わらなきゃいけないと言われたので、卒業までは叔母さんのもとで居候をしていました。叔母さんは私のことをかわいがってくれて、叔母さんというよりお姉さんという感じでした。
母は家を留守にしがちだったので、高校からは一人暮らしのような感じでした。家の下がうどん屋さんだったので、母が置いていったお金で天丼の出前を頼んだりしていました。高校3年のときに母が再婚して新しい家族ができましたが、私はもう高校生だし「あなたたちとは関わらないので」と言って、学校もあまり行かずに好きなように過ごしていました。高校卒業後は好きな英語を勉強するために、英語の専門学校に入りました。
Tumblr media
仕事のこと
私が専門学校に入った頃は超バブルの時代で、成績が良い子は先生の薦めで在学中から証券会社とか銀行に就職するんですよ。私も1年の終わりには学校に籍を置きながら商社で働きはじめました。同じころ、音楽をやっている友だちから「岐阜放送っていうラジオ局で話す人を探してるんだけど」と言われて。当時はバイリンガルのDJが流行っていて、私が英語を話せると思って声をかけてくれたんですね。実際はそんなに話せないんだけど、洋楽を聴いていたからそれっぽくは話せるんです(笑)。それでラジオ番組のDJをやることになりました。商社は1年勤めて辞めました。
田舎の放送局だけど案外仕事はありました。レコード会社の人がプロモーションで名古屋に来たときに、そんなに回るところがないから岐阜放送まで来てくれるんですよ。「若くてちょっと変わった子がいる」みたいな感じでいろんな人に良くしてもらって、外タレのアーティストに直接インタビューさせてもらったりもしましたね。でも、DJとかタレントになりたいという気持ちはまったくなかったです。どちらかと言うと裏方や制作をやりたくて、19歳ぐらいから台本や企画書を書いたりしていました。自分の番組では選曲も全部自分でやっていたし、そうした仕事が周囲に伝わって愛知や東京でもDJをやるようになりました。
Tumblr media
踊りのこと ラジオと平行してやっていたのが、幼少期から続けていたダンスです。うちの親は全然そういう素養はなかったんですが、私が幼稚園のころに「バレエをやりたい」と言ったみたいで、母が習わせてくれました。ただ、習っていた先生が怪我をしてバレエをやめることになってしまい、次に入ったのがモダンダンスの教室でした。少しして「これはバレエじゃない」って気づいたんですが、それがかえって良かったんです。というのも、その先生は生徒にお手本を見せないんです。「シュッとなってパッよ」というふうに擬音で振り付けをするので、みんなそれぞれの「シュッとなってパッ」をやるんですね。中学高校と、その先生のもとでダンスを続けました。
あるとき、名古屋で開かれたダンスの大きなコンクールに通訳として参加したんですが、そこで出会ったのが(舞踏家の故・)和栗由紀夫さんです。和栗さんに「お前、踊りやってるのか。うちに遊びにこいよ」と言われて、東京に行ったら板橋にあった和栗さんの家に遊びにいくようになりました。ある日、和栗さんの家に行ったら、ベニヤ板を2枚出してきて、「ここに座って」と言われて。言われたとおり座ったら今度は「右手をこう出してみな。左手は上から出して。これが閉じてさ、開くんだよ」とか言われて。「こうですか?」みたいな。それで「今度舞台やるんだけど出ない?」とくるわけです(笑)。
Tumblr media
それで出演したのが、新宿のパークタワーホールでやった和栗さんの『エローラ〜石の夢』という作品です。その後、和栗さんが主宰していた「好善社」に入るとともに、東京に引っ越してきました。好善社の男の人たちは、それまでダンスをやったことがなくて突然踊りを始めているから、発想がとても面白かったんですよ。そこから結局6、7年は東京に住んでいたと思います。
その後、もう踊りはやめようと思うことがあって、カポエィラに打ち込んでブラジルに行ったりもしました。ダンスの世界は、なんだかんだ言って身体を動かすことが得意な人しか入ってこないけど、カポエィラは、趣味でやってますみたいなお姉さんとか、イケイケの男の子とか、格闘技好きのオタクっぽい子とか、いろんな人がいるんです。一般社会では絶対に仲良くならないような人たちが嬉しそうに一緒にやっているのがすごくいいんですよね。でも、ブラジルにいたとき、テレビから流れてきた音楽に合わせて、やめたつもりの踊りをふと踊っていたときがあって、やっぱり踊りはやめられずにいます。
Tumblr media
妊娠・出産
出産したのは38歳のときです。妊娠がわかったときは、当時結婚していた夫とフランスに住んでいました。日本では私がダンスをやっていると言うと、初対面の人にさえ「いつまでそんなことやってるの」と言われたりしましたが、フランスではまったく逆で、みんな興味を持ってくれました。現地の人たちと仲良くなって一緒に作品をつくったり、小劇場で即興の企画をやったりもしましたが、一方で自分の底が知れた感じもあって、妊娠を機に日本に帰ることに決めました。
出産はだいぶ時間がかかって大変でした。それでも元気に生まれて良かったと思っていたんですが、生まれてからがさらに大変だったんです。とにかく夜まったく寝なくて、ベッドに置いたらどれだけ寝ていても起きて泣いて……。子どもってそんなもんなのかなと思ってたけど、自分も寝れないから信じられないくらい痩せてしまって、布団で寝ていても背骨が痛くなってしまうほどでした。夫は仕事に行ったきりほとんど帰ってこなくて、赤ちゃんと二人暮らしみたいな感じです。しかも、夫の希望で都内からもう少し田舎に引っ越すことになって、それまでは遊びに来てくれた人たちも来れなくなって、本当に孤独になってしまいました。
Tumblr media
それでも息子を地元の幼稚園に入れてなんとか生活していたんですが、2011年の1月末に、幼稚園に息子を迎えにいったら、先生から息子の様子がおかしかったと言われました。確かに、家に帰っても何もしゃべらないし、ご飯も食べないんです。病院に連れていって、インフルエンザの検査をしたりしたけどなんともなくて。食塩水を点滴してもらって、ちょっと良くなったように見えたんですが、次の日にはもっと具合が悪くなってしまって。抱っこしたらびっくりするぐらい重たくて、これはおかしいと思いました。
再度病院に行って尿検査をしたら、測れないぐらいたんぱくが出ていて、大きな病院に行くように言われました。行った先で「これはネフローゼという病気で、治療に長い時間がかかります」と言われて、そのまま入院です。ステロイドを大量投与する治療をはじめたんですが、息子はステロイドを半量に減らしたところで再発してしまい、それから一切ステロイドが効かなくなってしまいました。
これはもう救急車で運ばなければという状態になってしまって、埼玉から東京の世田谷にある成育医療研究センターに救急車で運ばれて入院しました。それが2011年の3月11日です。病院について、しばらくしたらダアーッと揺れて点滴は倒れるわ、壁に亀裂が走るわで大パニックです。しかも原発事故で放射能がどうこう言われていたから、ガラケーで一生懸命情報を調べました。食事も大変で、子どもには病院食が出るけど、自分の食事は出ないからコンビニに行くんだけど食料がないんです。なんとかゲットしたパンひとつで一日過ごすなんてこともありました。
Tumblr media
生きていてほしい
入院して息子の具合は良くなるどころか、同室の子から風邪をもらったのがきっかけで敗血症になってしまいました。ICUに入って人工呼吸器をつけられて、カテーテルを入れられて……まだ小さくて暴れてしまうので、鎮静をかけられて眠らされていました。そんな息子の姿を見たときに、親としてこんなことを言っていいかわからないけど、この子は何ヶ月も苦しんできて、これ以上苦しむなら、楽になって逝ってしまった方がいいのかなとも思いました。
でもあるとき、私が「今日はもう帰るね」と言ったら、小さくイヤイヤしたんです。鎮静をかけられていて目は開かないけど、耳は聞こえていたみたいで。ICUで隣だった女の子も、私からすると寝てるだけに見えるんだけど、その子のお母さんが「この子は嵐が好きなのよ」と言って、嵐の曲をかけると「喜んでる」って嬉しそうにするんですよね。それまで私は、寝たきりの人や重い障がいのある人が生き続けるのってどうなんだろうと正直思っていたんです。
だけど、1ヶ月ぐらい経つと、嬉しそうな感じがするとか、これは嫌なんだなって分かるようになるんです。それで、やっぱり息子には生きててほしいって思うようになりました。なんて言っていいかわからないけど、何もできなくても生きているという事実が目の前にあるだけで、周りの人が安心するというか。息子がイヤイヤする姿を見て「ああ、とにかく頑張るしかないな」って思ったんです。息子の病気をきっかけに、私の考えはすごく変わりました。
Tumblr media
やってみたいこと
治療は長くかかりましたが、幸い息子に合う免疫抑制剤が見つかって、1年くらいかけて普通の暮らしができるぐらいまで回復しました。何かあったときのために、そのまま入院しておくこともできたけど、外に連れていこうと思って思い切って退院させました。その後、息子が4歳になる前に埼玉から三重に移住して、間もなく夫とも離婚しました。 息子は小学校4年生ごろに自閉スペクトラム症の診断を受けて、学校生活も苦労しましたね。小学校1年生からずっと行き渋りで、6年生まで毎日送迎していました。下駄箱でしばらく入れずにいるのですが、なんとか中に入っていくのを確かめてから自宅に戻り、学校からの電話があるといけないので待機していました。中学3年間は完全不登校でしたが、この春から通信制の高校生になりました。
息子が東京で入院していたときは、家と病院が離れていたので、病院の近くにある(ドナルド・)マクドナルド・ハウスという入院患者の家族のための施設で寝泊まりしていました。そこには、地方から出てきて泊まり込みで付き添いをしているお母さんたちがいて、中には子どもが生まれてから10年間そういう暮らしをしている人もいました。みんな自分のことは置き去りで子どもに付き添っているんです。
そういうお母さんたちのために何かできないかと思ったけど、「ダンスしましょう」とは言えないじゃないですか。「ダンスなんてハードルが高いし、そんな気分じゃないわよ」って言われると思うんですよね。でも、みなさんマッサージとかにはお金を払って通っていたので、ヨガだったらやってもらえるかなと思って。これまでも障がい者施設や高齢者施設ではヨガやダンスをやってきましたが、病気の子どもたちに付き添っているお母さんのためのヨガも、いつか実現したいことのひとつです。
Tumblr media
みんなに場をつくりたい
私は踊るのは好きだけど、舞台の真ん中で踊りたいとは案外思っていないんですよ。私が踊りをやるのは「みんなに場をつくりたい」からです。1998年に「オービタルリンク」という即興のイベントをはじめたのも、あらゆるジャンルのパフォーマーが自分の表現を模索しながら、やる側も観る側もジャンルの垣根を超えて出会ってほしいという思いがあったからです。ラジオDJをしていたときも、自分が面白いと思ったら無名の人でもゲストに呼んだりしていましたからね。当時から今にいたるまで、やっていることは変わらないと思います。
今日撮影をしたアトリエ第Q藝術も、大きすぎない規模だからこそ「個人」が見えて好きなんです。劇場が大きくなればなるほど、後ろの方まで届くように表現しようと思って動きが大きくなり、身体の動きだけを見せることになることが多いと思うんです。そうすると結局、どれも同じような作品になってしまうというか。私は、踊りの完成度はどうでもよくて、その人が踊りを通して「本当のこと」を言ってるかどうかを知りたいんです。そういうことが見えるのは、このぐらいの規模の劇場かなと思います。チーフディレクターの早川誠司さんには以前からお世話になっているし、舞踏や演劇関係の友だちもよくここで公演をしているので、私のルーツのような場所でもありますね。
人生って、「あのときあそこに行ってなかったらあの人に出会ってない」とか、そんなことばかりじゃないですか。でも本当に好きなことを続けていたら、絶対にまた元のところに戻ってくるし、ずっと会っていなかった人ともまた会えるんですよね。もっと別の仕事をする機会も、別の人と付き合う機会もあったろうけど、そのときの自分がそれをやりたくて選んだんだしなって。自分は、いつも「こういうことを考えている人がいるなら、こういう場所をつくったらいいんじゃないかな」と思って、場所をつくって人と人をつなげてきたんですよね。さらに、自分の場合はそこに「踊り」がありました。そうしてここまでやってきて、今の自分があると思います。
Tumblr media
(2023年3月26日収録) 取材協力=アトリエ第Q藝術
2 notes · View notes
gssydancereport · 11 months
Text
英国ロイヤル・バレエ団「ロミオとジュリエット」東京千秋楽を観てきた。高田&平野+シッセンズ、リチャードソン+ギャリーという布陣。初々しいジュリエットと爽やかロミオ。今日の脇キャストもとても充実、本家マクミランの物語力を連日味わうことが出来て、幸せ至極。https://www.swarmapp.com/gssy1127/checkin/64a0f4d3f319a304160be7b5?s=ChlPosMrYwpSyV7GNyrynY06tUg
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
ryotarox · 1 year
Video
(【プロモーション映像】東京バレエ団 金森穣振付「かぐや姫」第2幕 世界初演 - YouTubeから)
https://twitter.com/nobi/status/1652616007259918336
Nobi Hayashi 林信行 @nobi パフォーマンス的には黒子と踊るという表現に衝撃。これはつまり1人で宙に浮いているということなのだろうか? そして舞台美術的には終盤の障子戸に衝撃を受けた。 「この方法があったか!」 シンプルながら、すごく表現力豊かな舞台美術装置!
概要/かぐや姫/2023/NBS公演一覧/NBS日本舞台芸術振興会
0 notes
kamakurah-review · 1 year
Photo
Tumblr media
素晴らしいニュースです! オニール八菜さん、最高位昇格 パリ・オペラ座バレエ団:東京新聞 TOKYO Web https://www.tokyo-np.co.jp/article/234489 https://www.instagram.com/p/CpW9Kn8r-Eq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
kimura-masabumi · 1 year
Photo
Tumblr media
チャコットDance Cubez ワールドレポート東京 2023/1/23掲載 苫野美亜プロデュース Dance Performance LIVE #8「mid/point」出演:尾本安代(谷桃子バレエ団シニアプリンシパル)松岡大(山海塾 舞踏手/NPO法人LAND FES代表)高瀬瑶子 坂本弘道 横山翼(東京舞座)片山夏波 (BATIK)REMAH(ROJOART)写真:木村雅章 https://www.chacott-jp.com/news/worldreport/tokyo/detail030217.html
0 notes
komogomo-blog · 2 years
Text
のす樽時ーの秋
皆さんお元気でしょうか。
暑かった夏も終わりの鐘がなるか、というところで冬用のコート投入され、ももひき腹巻の投入も続きました。ついに衣替えです。輝かしい葉も皺が増え、膝と腰が痛くなり、落ち葉に。。当たり前のようなことにしみじみ考えさせられる現在、もう十月でございます。
Tumblr media
毎度私事なのですが、最近はベルリン時代の友人と時間を過ごしました。あの伝説の大島先生です。もう10年か、ベルリンで知り合った彼も三年前からついに東京に拠点を移しました。今回は彼がベルリンの家を引き払うと言うので借り出され、荷物整理の手伝いをしました。彼の棚からは下着からリュックから、、私が必要としているものが次々と。お下がりで育った私にとってはまさに宝の山。
彼との時間はなんだかベルリン時代のフラッシュバックの連続でした。あの時間、モラトリアムというぬるま湯で水遊びをぴちゃぴちゃと存分に楽しませてもらって、あのときは本当に色々な人と出会って挑戦もして失敗もできたわけです。ということで海外逃亡モラトリアムは自分を試す意味でも悪くない選択であったのではないかと思うわけです。
ベルリンに到着したその晩に大島先生の友人のサウナパーティーに参加したので彼の友人たちにも久しぶりに会えたわけです。相変わらず終わりの無い酒に煙を楽しんだわけです。
Tumblr media
そしてベルリンの帰りに少し時間があったのでハノーファーも訪れました。
当時の私のベルリンモラトリアム時代の最終章にはまさに紆余曲折ありけり。最終的にドイツの大学に行くことを決めた私でしたが、肝心のドイツ語テスト(聞き取りのテスト)が受かりませんでした。そんな時でした。ドイツ連邦は私に、国はこいつは使えん!出てけ、ということで私を丸裸にし、パスポートを奪ったのでした。 あのモラトリアムから目を覚まさなければなりませんでした。ドイツ連邦がこんなちっぽけな私に国外退去命令を発動したのです。
そうです、ハノーファーについてです。まさに縁が縁を呼び目の前に助け舟が流れてきました。というのも国外退去命令期限までの三ヶ月ほどに地元の友人のおばちゃまがうちにいらっしゃいと招待してくれました。ベルリン時代の低堕落な生活が仇となって、健康問題が勃発しました。さらにはちゃんとした保険に入ってなかった私は肉体的にも精神的にも、そして金銭的に追い詰められていた私に語学学校費から生活費から何やら何までおばちゃまはいやな顔を一つせずにこにこ現金払いでした。彼女はハノーファー市の音楽団で第一バイオリン奏者として活躍され、ボロボロの私をオペラにシアター、そしてバレエに連れて行ってその後は豪華な中華料理、、、まさにドイツ上級文化を垣間見ました。そして国外退去日の三日前に大学のテストを受けて日本に帰国したのでした。
アナログ生まれアナログ育ち、そのおばちゃまとは連絡が取れなくなり、さらにハノーファーに訪れるタイミングもなかなかなかったわけです。ということで今回は時間があったのでこれを機に挨拶に、とハノーファーに行きました。
おばちゃまの家を尋ねてみたのですが表札に名前はありませんでした。当時既に定年間近のおばちゃまは独り身で、定年退職したらスイスの山の見えるところで暮らすのよ、としきりに言っていたことを思い出すと、今はどこかのアルプスの麓で良い空気を吸ってゆっくりしているのでしょう。『私にこの恩を返すなら他の人に返してあげて 』 と常々言っていたあのおばちゃまの言葉ともども忘れてしまうところでした。
Tumblr media
ということでノスタルジーです。こんな私を最後まで見捨てなかったこのドイツ連邦や叔母ちゃまも始めとしまずはお返しの意味でも働きます。またあなたに会えればきっと記憶も戻ってきますから皆さまお元気で。
Tumblr media
0 notes
studio-dplus · 2 years
Photo
Tumblr media
. バレエクラス 月曜日 19:15〜20:30 中沢恵理子(東京バレエ団) メンバー 3チケット ビジター 2000円 バレエクラスも発表会後 香菜子先生から引き継ぎ 恵理子先生が 細かく丁寧にご指導して下さっています。 6月から始めたメンバーも 内容を少し変更するなど工夫してくれて 基礎から頑張っています。 バレリーナが目標ではないので発表会では成果を発表するのに作品を作ってもらい踊りますが  自分の身体の隅々までの意識や体の軸を作る コントロールできる筋力 バランスを補うなど たくさんの重要な要素が身につくように バレエクラスを設けています。HIPHOPと違い踊っている時の体のラインがはっきり見えて とても分かりやすいです。 もちろんバレエ のみ学びたい方も ビジターとしてご参加いただけます! 恵理子先生は現役のダンサーで舞台でも大忙し!!公演中はお休み 代行の時もありますので ご確認の上 ご参加ください。 . . . . #ダンススクール #ダンススタジオ #dance #hiphop #ヒップホップ #studiodplus #キッズダンス #西新井 #北千住 #足立区 #東京 #tokyo #無料体験レッスン #生徒募集 #English #英語レッスン #pop #バレエ #LOCK #フリースタイル #足立区習い事 #西新井習い事 #北千住習い事 #スタジオディープラス https://www.instagram.com/p/Ci_7gjdrA2B/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
kennak · 10 months
Quote
【独占インタビュー】  服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)  今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の後編です)  ◇  ◇  ◇  ──ジャニー喜多川氏に弄ばれたあとはどうしたのですか? 「なぜそうなのか、説明するのは難しいのですが、それからもジャニーとの関係は2年半くらい続きました。彼は毎週土曜日に来て、そのたびにまた私と一緒に寝て同じ行為を繰り返すんです。たぶん1年で30回くらいでしょうか。  秘密の快感と引き換えに、罪悪感は大きくなるし、体によくないという直感も働く。ましてそれが両親にバレたらジャニーが怒られるだろうということも分かるんです。  その頃、ジャニーは『ジャニーズ少年野球団』という、少年野球チームを持っていて、服部家にもそのチームの子どもたちを連れて遊びに来ていました。  彼の運転する車はテールの長いアメ車のクライスラー。それに乗ってドライブするのですが、昔の環状6号線なんか道路の高低が大きいので、まるでジェットコースターに乗ってるみたいで、みんながはしゃいで大騒ぎしたことを覚えています。  これはよく知られていることですが、雨で野球の試合が中止になった時、ジャニーと東京ジャニーズのメンバーが映画『ウエスト・サイド物語』を見に行って、ジョージ・チャキリスのダンスシーンのカッコ良さにしびれてしまい、『これからは歌と踊りだ!』とジャニーがひらめいたといわれていますよね。父の諦道氏も野球とショービジネスにたけていたからそのあたりは血筋でしょう」 ■彼を野放しにした日本社会の閉鎖性  ──なぜ家族が気づかないのでしょう。 「よく言われますが、私の場合ももしかしたら家族が気づいていたのかもしれない。でも、それを体裁が悪い、不都合なことは隠す、という日本的な閉鎖性があったのかもしれない。それが結果的にジャニーを野放しにしたのではないでしょうか。  1965年にジャニーズ事務所が独立した頃もジャニーやメリーも服部家に出入りしていましたが、私とのことは何もなかったかのような振る舞いだし、そもそも彼も少年愛の年齢ではもうなかったからでしょう。私も、記憶の底に封じ込めてしまったのでしょう。そのほうが気持ちが楽ですから。  ただ、その頃ジャニーズ事務所というジャニーにとっては、“趣味”と実益を兼ね備えた“格好の場所”が確保されたわけで、新たな被害者を生み出すことになったのを防ぐことができなかったのは忸怩たるものがあります。  余談ですが、高校生の頃、演劇部の稽古で深夜になることもあって、そんな時なんか、母がジャニーを呼んで『車の運転頼むわね』と、成蹊の演劇部の部室まで迎えに来させるわけです。さすがに彼も憮然とした顔をしていましたが(笑)。  私が大人になってからも、ジャニーは父の主催するコンサートなどにマメに顔を出していました。私はアングラ劇団で役者をしていましたが、生活のために一度だけ兄の克久が音楽を担当した少年隊のミュージカルに出させてもらったことはあります。その時も、『いいよいいよ』とジャニーは二つ返事だったそうです。ただ、慰労会と称した乱痴気騒ぎで若い女優たちをホステス扱いするような世界とはなじめず、それっきりでした」 ──ジャニーズ少年野球団との交流は? 「同じ頃、ジャニーの車で『少年野球団』のメンバー3人と僕の友だちの総勢6人で父の軽井沢の別荘に1泊旅行することになったんです。大人はジャニーだけ。  同行した私の友人Mは今でいうジャニーズ系の美少年で、父の誕生パーティーに彼を呼んだ時に、たまたま来ていたジャニーが彼を見てぞっこんだったようです。『あの子も連れておいで』と言われたので一緒に行くことになりました。  父のコテージは和室と洋間の2部屋。和室が寝所で、両サイドが2段ベッド(4人)で畳に4人分の布団が敷けるから8人は泊まれるんです。  夜、トランプ遊びをした後はジャニ���のお定まりのコースです。部屋を暗くして布団に入ったら、気配が伝わってくるんです。『あっ、始めたな』って。  まず2段ベッドの野球少年たち、そして同級生、それから僕。まるで『鴬の谷渡り』みたいに、一晩で5人の間を渡り歩くなんて彼にしてみれば夢の饗宴だったでしょう。大人はいないし、やり放題。ただ、それから数十年後にM君にこの時の話を聞いたら、こう言われました。 『あの時、怖くて外でしくしく泣いていたら、隣のコテージの女性が異常を感じたようで、僕に“どうしたの?”って聞くので途切れ途切れに今自分が体験したことを話したら、そのお姉さんが部屋にいるジャニーを問い詰めたんだ。ジャニーは弁解したけど、彼と同じくらいの年齢のお姉さんは、かなり怒っていた』と。  このことが両親に漏れたら、おそらくジャニーは服部家にも出入り禁止になっていたでしょうけど、言い逃れして事なきを得たのだと思います。この事件後も、ジャニーは服部家に出入りしていましたし、私も何食わぬ顔で接していましたから」 ──ジャニー氏は良一氏の葬��にも参列されたとのことですね。 「父・良一が亡くなった時、私が喪主である兄の代わりに葬儀を取り仕切っていたのですが、お通夜の時、ジャニーが『よっちゃん、明日の本葬も大変だろう。うちのペントハウスがあるから泊まっていきなよ』と言うので、いわゆる『ジャニーズの合宿所』の最上階に泊まりました。  ぼくの妻と子供たちも一緒。トイレ、和室、プレールーム、風呂場などすべての部屋にテレビがある広大な部屋でした。妻は『こんなことしてくれるのは今度は有吉に食指を動かしてるのよ』と言って、葬儀の時も片時も有吉から目を離さなかったみたいです。有吉は12歳でしたから」 ■“PTSD被害”を再生産した罪  ──結局ジャニー氏はどんな人だったのか? 「マメで気が付くし、気くばりの人。片付けも一人でみんなの分をさっとやるし、いいオジサンであるのは確かです。でも、ステージに立つ夢を抱きながらジャニーズ事務所の門戸を叩いた少年たちの心と体を傷つけむさぼるように快楽にふけった罪は許せないです。  これはあくまでも私見であり、飛躍しているかもしれないけど、彼は日系2世として朝鮮戦争に従軍してるし、アメリカでの日本人差別も経験している。彼もPTSDに苦しみ、それは性加害という形で発現されたのかもしれないと、一度は彼を戦争の被害者の一人として許す気になった時もあります。  しかし、戦争によるPTSDの被害を知るようになるにつれ、彼はPTSDを再生産し、幾何級数的に増殖するシステムを構築してしまった。その現実が見えた今、彼の罪深さは計り知れないと思います。  私自身、その時のPTSDに苦しみながら、なぜ70年間も告白できなかったのか。あらがえなかった、沈黙してしまった、それがジャニーの性被害を育み、果ては主要メディアの沈黙にまで手を貸してしまった。引き返せない歳月を取り返したい。マスコミの糾弾はもっと厳しくあってしかるべきだと思います」 ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(3ページ目)ジャニーズ性加害構造の萌芽は70年前に…一晩で5人の少年の間を渡り歩いた“軽井沢事件”の全貌|日刊ゲンダイDIGITAL
3 notes · View notes
sdeet · 4 months
Text
観たいものメモ3
貞松・浜田バレエ団 創作リサイタル35 新制作 白鳥の湖 -The Lake-(世界初演)
振付が森優貴なので観たい。
イスラーム映画祭2024
『炎のアンダルシア』という作品があるんですけど、これアヴェロエスを主役にした創作映画だっていうんで前から観たかったやつなので頑張って観に行く。
NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)プレミアム・ジャパン・ツアー2024
チケット発売は3月 絶対観るやつ 絶対観るやつ
金剛流能『石橋』 / 舞囃子『乱』『雪』
行けたら行きたいがこの週末たてこみすぎてる
京都芸術大学 2024年度 公開連続講座日本芸能史「大地母神信仰と芸能・芸道」
これすごく気になってるんだけど、特に聞きたい講演の日程が絶対外せない用事がある日とかぶっててどうにもままならない。
平山素子「POISON」リ・クリエイション|Motoko Hirayama dance Shakespeare.『POISON recreation』
youtube
シェイクスピアもの。無料公開中。
平山素子 × 笠井叡「フーガの技法」を踊る|Motoko Hirayama × Akira Kasai Dance by ’The Art of Fugue’
youtube
 平山素子作品好き。
0 notes
jaguarmen99 · 2 years
Quote
8外部リンク 9の言語版 AzərbaycancaDeutschEnglishFrançaisMagyarBahasa IndonesiaSimple EnglishTagalog中文 Toggle the table of contents 森英恵 ページノート 日本語 閲覧編集履歴表示 その他 閲覧編集履歴表示 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2022年8月17日 (水) 17:47 (UTC)貼付。(表示終了予定:2022年8月24日 (水) 17:47 (UTC)) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "森英恵" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年4月) 森 英恵1974年当時の森英恵生誕 (1926-01-08) 1926年1月8日 日本・島根県死没 (2022-08-11) 2022年8月11日(96歳没) 日本・東京都出身校東京女子大学職業ファッションデザイナー 森 英恵(もり はなえ、1926年1月8日 - 2022年8月11日)は、日本のファッションデザイナーであり、日本人で唯一のパリのオートクチュールデザイナー。地域経済総合研究所評議員。森英恵ファッション文化財団理事長。文化勲章、レジオンドヌール勲章オフィシエ章を受章。 1965年にニューヨーク・コレクションで成功をおさめ、日本人デザイナーの海外進出の先駆けとなった[1]。1977年には東洋人として初めてパリ・オートクチュール協会(サンディカ)のメンバーとなる[1]。バルセロナおよびリレハンメルオリンピックの日本選手団の公式ユニフォームのデザインや、海外のオペラやバレエの舞台衣裳を担当するなど、ファッション界の第一人者として活躍した[1]。2004年7月のパリ・コレクションで引退[1]。
森英恵 - Wikipedia
0 notes
Photo
Tumblr media
@東京文化会館、本番始まり観客の拍手に不覚にも目頭が熱くなる#東京文化会館 #東京バレエ団 #シアターオーケストラトーキョー #spectateurs #ballet #tokyobunkakaikan #ueno #japon (東京文化会館 Tokyo Bunka Kaikan) https://www.instagram.com/p/CFmjmq4Fg5_/?igshid=1jdijsty2xhbe
0 notes
kunimacoffeediary · 4 years
Text
Tumblr media
昨夜は早仕舞いさせていただき、東京文化会館で公演中の東京バレエ団『くるみ割り人形』を鑑賞してきました。 くるみ割り人形といえば有名な古典演目。今回は演出や振付、衣装や舞台装置までリニューアルされた新生くるみ割り人形ということで心待ちにしていましたが、その期待以上に本当に素敵な舞台でした。 馴染み深いチャイコフスキーの音楽に合わせて、役それぞれの個性が魅力的な生き生きとしたダンス。 個人的には、第1幕のくるみ割り王子率いる兵隊人形軍💂🏻‍♀️VS 🐭ねずみ軍のシーンがとっても楽しくて大好きです。どこかを見ていると別のところでも何かが始まっている、めくるめく展開。目がふたつじゃ足りない、何度も繰り返し見たいシーンです。 (騎馬隊の衣装かわいい🐴✨) ロシアから届きたての美しく重厚な舞台装置は、心地よいゆがみが不思議な夢の世界を演出し、贅沢な転換を見せてくれました。 (空飛ぶそりみたいな乗り物かわいい🛷✨ アドベントカレンダーみたいな窓もかわいい🏰✨) まるでサンタクロースの袋の中のように、きらきらした贈り物がぎゅっと詰め込まれた舞台。ちょっと早めのクリスマスプレゼントをいただいた気分です。 🎄🛌💫
0 notes