Tumgik
#次大夫堀公園民家園
gon-iii · 1 month
Text
Tumblr media
夏の縁側
2013年、次大夫堀公園民家園 。
ラムネを飲んで夕涼み。
174 notes · View notes
kennak · 4 months
Quote
第一次安倍政権から現在までの自殺・不審死を遂げた人物を挙げてみる。 1. 2006年1月18日  野口英昭氏・安倍晋三の講演会、安晋会の理事でライブドア・グループのエイチ・エス証券副社長  沖縄那覇市内のホテルで死体となって発見された。堀江氏の元側近で偽計取引のキーマンだった。 2. 2006年11月26日 森田信秀・森田設計事務所社長  安晋会会長ヒューザー小島進社長から設計の依頼を受けていたが全裸で鎌倉の海で死体となって発見された。自殺として処理された。   3. 2006年12月3日  竹中省吾裁判官  第一次安倍政権下の不審死。住基ネット(今のマイナンバー制度の前身)に「違憲判決」を出した3日後に自殺。首をつって自殺とされたが不自然だった。 4. 2006年12月17日  朝日新聞論説委員・鈴木啓一氏  東京湾に浮かんでいたところを発見され、「自殺」として処理された。リクルート事件のきっかけとなるスクープや政権批判の記事などで朝日の看板記者だった。最後の記事は死亡の翌日に掲載された「りそな銀行、自民党への融資残高3年で10倍」。 5. 2007年5月28日  松岡利勝農水相  衆議院宿舎の自室(1102号室)で首を吊っているところを発見され、慶応大学病院に搬送され死亡が確認された。現職大臣の自殺は日本国憲法下の日本ではじめてのことだった。献金問題報道や米国毒牛輸入の解禁に抵抗し、政権にとっては邪魔になっていた。司法解剖もせず謎が多い。 6. 2007年5月29日  山崎進一・緑資源機構元理事  前日自殺したとされた松岡農水大臣に政治献金をしていた疑惑が浮上し、28日まで事情聴取を受けていた。森林開発公団による官製談合事件の調査のさなかにマンションから投身自殺した。大物政界と接点 連日の訃報異常事態と当時の新聞も報じている。安倍首相による官邸での記者会見は「政治とカネ」疑惑への言及は一切なかった。 7. 20013年4月17日  内閣情報調査室参事官・加賀美正人氏  都内自宅の浴室で、死亡しているのが見つかった。浴室内に練炭がたかれた跡があり自殺として処理された。 8. 2013年  消費者庁審議官・神宮司史彦氏  夫婦で同じ日に自殺したが場所は別々のところ。ガチャ規制を推進していた。 9. 2014年  岩路真樹・報道ステーションディレクター  部屋のドアを目張りして練炭自殺、生前、「自分は絶対自殺しない、死んだら消されたと思ってください」と言っていた。甲状腺と被曝の手抜き除染等の番組制作。これを追求しようとした写真週刊誌フラッシュは当該号販売中止。 10. 2015年7月  神原紀之内閣参事  特定秘密保護法を治安維持法として批判していた。屋久島の岩場で死体となって見つかる。 11. 2016年2月11日  野田哲範氏・自民党山田健司衆議院議員秘書  西宮市内の路上に駐車された乗用車の中で変死死体となって見つかった。顔面の損傷が激しく身元特定にてこずっている。山田議員の不正を週刊誌に告発し「検察に行く」と言い残していた。練炭自殺として処理された。 12. 2016年5月12日  UR所管国交省職員  UR問題が表面化して甘利明国交大臣が入院した直後、合同庁舎3号館より飛び降りて自殺?した。 13. 2017年3月6日  田中造園土木社長の秋山肇氏  森友学園の8億円値引きの根拠となった残土処理を請け負っていて、「国に言われて埋め戻しをした」と証言していた。豊中市役所のトイレで自殺したとして処理された。家族の心臓発作を起こしたという証言と食い違っている。喉をかきむしった後があり毒殺説が出てきた。 14. 2018年3月7日  近畿財務局上席国有財産管理官・赤木俊夫  神戸市内の自宅で自殺。彼は払い下げ価格交渉を背負わされていた池田靖統括官の直属の部下だった。そして文書改竄に直接かかわっていた。事情聴取も受けていて政権にとっては、しゃべられては都合が悪かった。  安倍政権になって、「一強独裁政治」が続いている背景には、公安とつながりのある警察官僚を内閣府に取り込み、内閣情報調査室(内調)が公安をつかって、情報を収集して政権に楯突く官僚、議員、ジャーナリストに対して人格攻撃をかけていることが挙げられる。国民に対しては情報をコントロールして政敵に不利になるように印象操作をしている。  この事は、東京新聞社会部の望月衣塑子記者の著書を原案にした映画「新聞記者」によって明らかにされようとしている。安倍政権は政権維持のためにはなんでもありで、官僚もメディア関係者も多くの不審な死を遂げた人たちを目の当たりにして恐怖心を植えつけられて忖度する以外に道はないと感じているのである。死に至らなかった反逆者でも、籠池夫妻や山城博治さんのように「長期拘留」され、面会も許されずに獄死の危機にあわされたり、前川喜平元文科次官のように進路を絶たれた人も多い。  安倍政権の闇を暴き、参議院選にも打撃を与えようとしている映画「新聞記者」を制作した監督・藤井直人氏、脚本・河村光庸プロデューサー他スタッフの皆さんに敬意を表するとともに、今後何事もないことを祈りたい。
NPOマーケット - NPOマーケット -
1 note · View note
masakiyo · 4 years
Photo
Tumblr media
#次大夫堀公園民家園 (次大夫堀公園民家園) https://www.instagram.com/p/CI2znU0g0aq/?igshid=is7g3vvgtajq
0 notes
unibas · 5 years
Photo
Tumblr media
#次大夫堀公園民家園 のイベントのお知らせです。2020.3.21(土)。新潟は三条市より重房刃物さんをお招きして柳刃包丁の製作実演が行われます。これは、ぜひに見ていただきたい。 滅多に見られないことと言うこともありますが、それだけじゃないです。物づくりをしている人、そういう事に興味のある人、いや、もっと言うと、今は、そういうことに興味のない人にこそ見てもらいたいなあ、と私は思うのです。はい。 では、3/21、次大夫堀公園でお会いしましょう!(笑) https://www.instagram.com/p/B8Xox1SAhi2/?igshid=1i751i9nlty3z
0 notes
setagayatoieba · 7 years
Link
2 notes · View notes
palakona · 3 years
Text
なんでもありの茨木新池
Tumblr media
2021年11月、茨木市豊川 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
どうも、こんにちは。ついにvw、hrkさんもヘラ師としてデビューすることになり、デビューの地として茨木新池が選定されました。Fさんの影響力恐るべしw。僕は午前中用事があったんですが、9時過ぎには「早よ来い」と叱責wのメールが入り、「もうすぐ終わります…」と言い訳しながら10時頃出発。新御堂筋の渋滞にイラッとしながら11時頃着いたんですが、駐車場が満車で停める場所がない…(ノ_-;)ハア。Fさんが、「停めたことないけど第2駐車場があるらしい」と言っていたので、人見知りが激しい僕には珍しく事務所に電話して「第2駐車場は?」と聞いたら、電話に出たおじいちゃんが「ない」と断言したw。仕方なくスマホで駐車場を検索すると、一番近いパーキングが510m向こうw。僕はヘラ釣りの資産が少ないので1回で運べるし、やむなく有料パーキングに向かう。画像の住宅街を通り抜けてモノレールの高架を越えたが、あるはずのパーキングがない!Σ( ̄□ ̄|||)。第2候補のパーキングは数百メートル向こうで、さらに遠くなったw。1時間200円のパーキングに車を停めて茨木新池に向かう。徒歩の時速4kmとして800m強だから徒歩10分ぐらいだが、釣り座椅子のバッグは肩紐が細くて肩に食い込んで痛いw。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
はあ〜、やっと着いた。二人はどこに?おっと、hrkさんが手をあげて呼んでくれたんで荷物を運んでご挨拶。料金を払いに事務所に行くが、何回呼んでも誰も出てこない。電話のおじいちゃんはどこ行った?お昼時で車の中でご飯を食べてた人が、「居てへんわ。池の方行ったらHさんがいてる」と言ってくれたのでHさんを探して料金を払ったがHさんて誰www。電話に出たおじいちゃんは何者www。Hさんに「第2駐車場ありますか?」って聞いたら、「あの建物の横です」と近くの建物を指さして親切に教えてくれた。おじいちゃん、第2駐車場あるやんかwww。早よ釣りしたいが、有料パーキングに車を取りに行って第2駐車場に車を置いた。第2駐車場は、郊外の大きな民家の前庭みたいな感じで広いしガラガラ。池のオーナーさんの家かな。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 (たぶん)iphone hrkさん撮影
釣り座を決めたらもう12時。コンビニで買ったお寿司のご飯を食べたが、強風に煽られてお寿司を桟橋に落としてしまう…まだ半分しか食べてないのに(悲)。こんなことで挫けへんぞ〜、さあて始めるか。僕は、西池→西池→寺口つり池→隠れ谷池と釣ってきて、宙釣り可は前回の隠れ谷池が初めてだったが、隠れ谷池でもウキからオモリまで1m以上の規定があったのに、茨木新池は生餌禁止以外はなんでもありらしい。ヘラ師としては極貧wで隠れ谷池でもFさんからグルテン餌をもらっていたが、さすがにこれ以上の寄生wはどうかと思い、今回は「赤へラ」(練り餌)を持ってきた。逆に言えば赤へラしか持ってないw。小学生か中学生の時に近所の公園の池で練り餌を使った鮒釣りをしていたが、その時使っていたのが「赤へら」「黒へら」だった。黒ヘラは廃番になったそうだが、赤ヘラは今も現行品なので買った次第。つうか、餌の種類が多すぎて何を買ったら良いかわかんない。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
午前中は渋かったらしく、2人は一枚ずつしか釣れてないらしい。赤ヘラ1杯:水1杯ぐらいの比率で硬めに餌を作ったつもりだが、餌持ちの良いグルテンに比べると練り餌は頼りなく、最初の振り込みで赤ヘラが鉤から落ちたw。足元にはルンペンのヘラブナがたくさんいて口をパクパクしている。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
これまで、ダンゴ→ウドン→ウドン→ウドン→グルテンって感じで釣ってきたので、中学生以来の練り餌は勝手が違うw。水に漬けるとすぐに溶けてバラける感じ。しかも軽いからタナに届くまでに無くなってるんちゃう?初心者のhrkさんはシブくウドンで底釣り(関西では床釣り)してるらしい。Fさんはダンゴかな?赤ヘラの売り文句を読んでみると、「マッシュポテトの締めに使う餌」みたいに書いているが、赤ヘラ単品で使っているとバラけまくっているような。ヘラブナも上ずってきて、餌を入れると群がってくるので、タナをドンドン浅くしていった。そんな時にウキがスポッと入って…釣れた!今日はランディングネットを忘れずに持ってきましたw。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
とにかく、赤ヘラに集まったヘラブナが水面直下に沸いているので、餌入れても沈下中に食べられてるんちゃう?で、タナを浅くしていったわけだが、茨木新池は意外に水が綺麗で結構見える。鉤に赤ヘラを付けて投入すると、ヘラブナがワッと寄ってきて喰ったように見えたのでアワセたらかかりやがった。ヘラブナのサイトフィッシングwww。初心者なので「カッツケ」って単語だけしかしらないが、水面直下でバラけ餌を使う勝負の早い釣りらしい…僕が今やってるのカッツケちゃうのw。
Tumblr media
2021年11月、茨木新池 SONY α7(APS-Cサイズ撮影)+SELP1650
餌落ちが早いのか意外に掛からないので釣果は伸びなかったが、車の駐車に1時間かかってw、ご飯も食べたので実釣3時間ちょっと。10枚近く釣った気でいたが、家に帰ってヘラブナの写真を数えると7枚しか釣ってなかった…。
ということで、11月6日の茨木新池はヘラブナ7枚でした。茨木新池は初めてなのですが、ワイルドな釣り堀でしたw。お腹の弱い僕はトイレが気になるので行く前や着いてから確認するのですが、大きい方の個室はあるので女性も大丈夫だと思いますが、男の場合小さい方は「外でする」らしいですw。っていうかそれ用の容器を見たようなw。自動販売機はありますが、食堂とかはなく、皆さん桟橋とか車の中でお弁当を食べてます。エサとか売ってないので現地調達はできないです。釣り堀で買ったウドンで釣るのが好きなんだけどなあ。エサ持良いしペレットまぶすだけで楽w。
では、また。
2 notes · View notes
2ttf · 12 years
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁ��ǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多���体台地池知茶��長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
6 notes · View notes
gon-iii · 3 months
Text
Tumblr media
曇空の願い
2010年、次大夫堀公園民家園。
曇りでもカラフルな七夕飾り。
140 notes · View notes
xf-2 · 6 years
Link
第百二十五代の今上陛下は、 平成三十一年四月三十日、 譲位され、 翌五月一日、 皇太子殿下が践祚されて万世一系の皇位を践まれ 第百二十六代天皇となられる。 この流れには、一瞬の隙もなく、 今上陛下の譲位は、即ち新帝の践祚即ち即位である。 これが、皇統連綿、万世一系の皇位継承だ。 これを律しているものは、 天照大神の「天壌無窮の神勅」と、 この神勅を実践して万世一系現在に至る長い歴史のなかで生まれてきた 「皇室の慣習」のみである。   現在の我らは、 「法というもの」は、 実定法つまり国会などで議決したことを「紙に書いた文書」だけであると思いがちだが、 これは法というものが存在する形態の内のごく一部の「形式的な法」に過ぎず、 幽遠の歴史と伝統のなかに 慣例として存在する紙に書かれていない法が「実質的な法」なのだ。 そして、我が国こそ、 遙か彼方から続く歴史と伝統のなかにある「実質的な法」によって律せられた国であり、その中枢にあるものが、 我が国を日本たらしめている「万世一系の天皇」である。 この我が国の姿を、 フランスの社会人類学者クロード・レビィ=ストロースが、次のように表現している。 「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。 日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、 そこでは誰もが歴史と神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にある。」   また、先の伊勢神宮の式年遷宮を見たフランス人オリビィエ・ジェルマントマは、 フィガロ紙に「伊勢の聖夜」と題する次のような一文を記している。 「闇と沈黙のなか、女神アマテラスを聖櫃に奉じ、これに生絹を掛けて神官の群れが粛々と運んでいく。 生きとし生けるものの起源そのもののシンボルが、いま、眼前を通り過ぎてゆく。・・・東日本大震災の、抑えがたき自然の猛威にさらされて、 どこから己を取り戻すか、日本人が自覚していることの何よりの証拠である。 それは森羅万象の諸力を崇敬するという伝統の維持であり、 そこに日本的ジェニー(天才)はあるのだ。」   この、彼ら西洋人が指摘している 我が国おける「神話と歴史の間の密接な絆」 そして「生きとし生けるもののシンボル」とは何か。 それは、 天照大神であり、 天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づいて誕生した我が国の天皇が、 万世一系、皇統連綿、現在に至っているということである。 その「神勅」は次の通り。 豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、是吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。 宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治らせ。 行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と倶(とも)に窮(きわま)り無かるべし。   これが吉田松陰が斬首される十六日前に、 友である堀克之助への手紙に、 「神勅相違なければ日本未だ滅びず。 日本未だ滅びざれば、正気重ねて発生の時は必ずある也。 只今の時勢に頓着するは神勅を疑わふの罪軽からざる也」 と書き送った 神洲不滅の確信の根拠としての「天壌無窮の神勅」だ。 また、三島由紀夫は 「日本に命にかえても守らねばならないものが二つある。 それは、は天壌無窮の神勅と三種の神器である。」 と言った。 これらの吉田松陰や三島由紀夫の言葉は、 日本を日本たらしめている中枢のもの、 即ち我が国の「国体の淵源」を指摘したものだ。   そこで、まず、我が「国体の淵源」としての神話 から発する歴史のなかで生まれた慣例に基づいて行われた 昭和天皇の「御践祚」の実際を、 「昭和天皇実録」と 東宮侍従としてそれを見届けた木下道雄氏の「宮中見聞録」から記しておきたい。   大正十五年十二月、 病が重くなられた大正天皇は、神奈川県葉山御用邸で御静養されていたが、 同月中旬になって御容態が憂慮される状態となられ、 東宮(皇太子)殿下は急いで葉山に行かれて仮泊された。 以下、時系列に従って記する。 なお、当時の皇室典範は、現在のように国会で定める「法律」ではなく、 「皇室の家訓」であり、 その十条に 「天皇崩ズルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」 と定められている。 十二月二十五日午前一時二十五分、 大正天皇崩御、御年四十八歳、御在位十五年。 皇太子裕仁親王、 皇室典範第十条により直ちに皇位を践ませられる。 同日午前二時四十分、内大臣、総理大臣、連署の告示をもって崩御を公表。 同日午前三時十五分、 葉山御用邸謁見所内にて、 新帝が三種の神器を承ける為の 「剣璽渡御の儀」が行われる。 この儀は、 元帥大勲位伯爵東郷平八郎、大勲位公爵西園寺公望、 内閣総理大臣、枢密院議長ら顕官の立ち会いの下、 牧野内大臣が、先帝の二人の侍従に神剣と神璽を捧持させて、 新帝の前にある卓の上にこれを安置して、 新帝に、三種の神器を、謹んでお承け願う儀式である。   そして、これと同時刻に、 東京の皇居の賢所では、 掌典長九条直実が賢所の神前即ち天照大神に、御代の移り替わりをご報告した。   なお三種の神器は、 天孫降臨の時に天照大神から皇孫に授けられた神鏡と神璽(勾玉)、 そして須佐之男命が退治した八岐大蛇の尾から出てきた神剣であるが、 神剣と神璽は陛下の一泊以上のご旅行の時は、 必ず侍従が捧持して行在所に安置するのが当時の風習で、 葉山でも陛下の御寝所近くに安置されていた。 神鏡は皇居の賢所に奉安されていた。 同日午前三時三十分、元号建定の為の緊急閣議。 閣議決定の後、枢密院にて、元号案可決。 同日午前九時四十五分、新帝、元号御裁可。 同日十時二十分、新帝、次の詔書に御署名。詔書は直ちに官報号外にて公布。 朕皇祖皇宗の威霊に頼り大統を承け万機を総ふ 茲に定制に遵ひ元号を建て 大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す。  御名御璽  大正十五年十二月二十五日   これが現在の「日本国憲法」以前の 皇室の歴史と慣例に基づいて行われた践祚、皇位継承の姿である。 つまり、大正天皇の崩御と昭和天皇の践祚、 剣璽渡御の儀(三種の神器の承継)と 天照大神への報告という 神事であり、 新しい御代の始まりを告げる新元号の公布と不可分である。 もちろん、これは、 我が国の、「神話と歴史の密接な絆」を基にして記された 大日本帝国憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、 同第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」 を体現するものだ。   その上で、 平成三十一年の今上陛下の御譲位と新帝の践祚の姿は、 この大正十五年の践祚から 如何に変容されるのかを見つめねばならない。 そうすれば、 その変容をもたらした「日本国憲法」とは何か? という戦後の根本問題、即ち戦後の根本的疑念に帰着することになる。 ここに、 「日本を取り戻す」つまり「日本の再興」という 我が国家の存亡をかけた課題があるのだ。 斯くして、我らは、 今上陛下の御譲位を、「国家の再興」に結びつけねばならないのである。   それは、即ち、まず第一に、 「日本国憲法」第一条の 「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、 その地位は主権の存する国民の総意に基づく」 というこの規定、 これは、そもそも真実なのか、ウソなのかと問うことだ。   この第一条には、ウソが書かれている。 これが、答えであろう。 天皇の地位は、 天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づいているのである。 これが日本と日本人の真実だ。 日本人とは、この真実を公言する者である。   そもそも、 我が国が大東亜戦争の降伏文書に調印した昭和二十年九月二日から 日本国憲法が起案され施行される同二十二年五月三日までの 一年八か月の間に、 天皇を誰にするかどうかの「国民投票」でもしたのか?!   重ねて言う。 「日本国憲法」第一条はウソだ。 第一、GHQ(占領軍総司令部、以下同じ)のトップである D・マッカーサー元帥自身が、 昭和二十年九月二日、戦艦ミズーリ号に 「大日本帝国天皇陛下及び日本政府の命によりかつその名において」来訪した 外務大臣重光葵を受け入れて降伏文書調印式に臨み、 さらに、同月二十七日に、 天皇陛下の訪問を受けて謁を賜り、 退出される陛下を見送るとき、 彼は天皇陛下を「ユアー・マジェスティー」と呼んでいたではないか。   要するに、 昭和二十二年五月三日に「日本国憲法」が施行されたから、 天皇が国民の総意で誕生したのではないのだ。 繰り返すが、 我が国の天皇は、 天照大神の「天壌無窮の神勅」によって天皇となり、 以後万世一系現在に至るのだ。 「日本国憲法」は、 日本を占領統治していたGHQの統治方針に基づいて「ウソ」を書いたものであり、 我が国の「神話と歴史の密接な絆」を前提にして書かれた 大日本帝国憲法とは全く違うものであることを確認しなければならない。 全く違うとは、「日本国憲法」は、 大日本帝国憲法と同じ日本の「憲法典」ではないということだ。   よって、ここにおいて、 我らは、この度の今上陛下の御譲位に際して、 如何なる課題に遭遇しているのか、その正体を見極めねばならない。 それは、この御譲位の課程に、 壮大な「文明の衝突」ともいうべき 「GHQの日本占領統治方針」と「日本の歴史と伝統」の相剋が 浮き彫りになっているということである。 この、「GHQの日本占領統治方針」とは 前記のクロード・レビィ=ストロースが「日本の最大の魅力の一つ」と言った 「日本の歴史と伝統」を奪い、 さらに、 戦力を奪うことによる「日本国家の無能力化」だ。   従って、この度の御譲位において、 七十五年前の大東亜戦争における 火器を用いた戦闘が終わった遙か後の現在においても続いている、 思想を用いた攻勢によって 我が国の「歴史と伝統」を消去しようとする勢力に対して 我が国の独自性を如何に守り抜くのかという 精神世界における重大課題が浮かび上がっている。 これ、まことに意義ある戦いが鮮明になっているというべきだ。 即ち、 今上陛下の御譲位に、 国家再興の切っ掛けが見えてきたと捉えるべきだ。 以下、この観点から論を進めたい。   まず第一に、 この度の御譲位において浮き彫りになった敵味方の識別、 つまり、戦後の我が国における「文明の衝突」の当事者の識別が必要だ。 即ち、「GHQの日本占領統治方針」を堅持する勢力は誰であるか? 鮮明になったその当事者は、 もはやGHQではなく、 GHQの下僕であり続けようとする日本国政府そのものである。 このことは、安倍内閣にして、 今上陛下御自ら鮮明にされた「譲位の御意思」に、 不遜にも頑なに目を閉ざし、 「生前退位」 としていることから明らかであろう。   「生前退位」なる言葉は、 我が国の万世一系の皇位継承の歴史の中で、未だかつて使われたことはない。 それ故、皇后陛下は、 平成二十八年十月二十日の御誕生日における宮内庁を通じて国民に伝えられたお言葉��、次のように言われたのだ。 八月に陛下の御放送があり、 現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。 私は以前より、 皇室の重大な決断が行われる場合、 これに関われるのは皇位の継承に連なる方々であり、 その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、 皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた この度の陛下の御表明も、 謹んでこれを承りました。 ただ、新聞の一面に 『生前退位』 という大きな活字を見たときの衝撃は大きなものでした。 それまで私は、 歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、 一瞬驚きとともに痛みを覚えたのかもしれません。 私の感じ過ぎであったかもしれません。   このお言葉の中で 皇后陛下は二つの重大なことを指摘されておられる。 その一つは、 「皇室の重大な決断」を 「謹んでこれを承けたまわりました」とされていることだ。 これは、 聖徳太子の十七条の憲法の三「承詔必謹」、即ち「詔を承れば必ず謹め」 という教えの通り、 陛下の御意思を承けたまわるべしということである。 その次は「生前退位」という言葉は 皇室の長い伝統の中で使われたことがないということだ。 今上陛下は、 平成三十年十二月二十三日の御誕生日においても、 「来年春には私は譲位し、新しい時代が始まります。」 と一貫して、譲位であると国民に述べられて、 皇后陛下もこのお言葉を謹んで承っておられる。 もちろん我々も謹んで承っている。   しかるに、日本国政府、安倍内閣は、 陛下の御意思を、 謹んで承らず、 平然と「譲位」ではなく「退位」として扱おうとしている。 その理由は、「日本国憲法」が譲位を想定していないからである。 「日本国憲法」は、 天皇は 「国政に関する権能を有しない」と規定している(第四条)が、 「内閣の助言と承認」によるとはいえ、 天皇は、 内閣総理大臣と最高裁判所長官を任命し(六条)、 国会���召集し、衆議院を解散し、法律を公布する、等々(七条)の、 我が国政上「最高位」にある。 その上で、 今上陛下は、 この国政上最高位の地位を皇太子に譲る、 と決められ、 その旨国民に表明されたのだ。 そこで、 安部内閣と政府機構の法匪達は、腰を抜かした。 何故なら、これは、 天皇が「総理大臣を任命する地位」を譲るということであり、 これは、即ち、「国政に関する最高の権能の行使」に他ならず、 「日本国憲法違反」であるからだ。 従って、内閣の法匪達は、 目をつぶれば世界はなくなると信じる者の如く装い、 これは、 天皇の御意思による「譲位」ではなく、 御意思によらない「退位」とした、という訳だ。 即ち、彼らは、 今上陛下の御譲位を、 こともあろうに、 帝政崩壊によるフランスのルイ十六世やロシアのニコライ二世の退位 と同じように扱っている。 従って、安部内閣は、 践祚による新しい御代の始まりと新しい元号の制定は同時で不可分であるのに、 それをバラバラにしようとしている。 つまり、彼らは、 我が国の歴史と伝統よりも、 「日本国憲法」を重視している。 即ち未だにGHQにお仕えしているのだ。 政府の官僚機構の中に巣くう左翼ならともかく、 安部内閣に、 今上陛下に対して悪意があるとか、 皇后陛下に衝撃を与えて悲しませたいとかの意図はないとは思う。 しかし、「日本国憲法」への、 この無邪気で悪意なき羊のような服従と、 GHQの意向(日本国憲法)に逆らうのではないかと恐れる臆病にこそ、 我が国家と国民の危機を招き入れるものであることを知るべきである。 内閣のこの服従と臆病のなかで、 多くの国民が北朝鮮に拉致され、 竹島が韓国に実効支配され 尖閣が中共に奪われかけているではないか。 このように、内閣の「日本国憲法」への服従は、 国家と国民に惨害を与え、 国家と国民への裏切りである。 内閣総理大臣安倍晋三には、 「従来の京都で作られた律令などで律せられれば被害を被る、 だから俺は、俺たちが古くから従っていた慣例に基づいて行動する」 と表明して、 関東御成敗式目を制定した北条泰時の心意気のコレッポチもないのか。 今上陛下の御譲位という 歴史的な尊い出来事が迫る今が、 まさに、北条泰時の心意気に見習うべきであるのに。   そもそも、 我が国の天皇は、 神話の世界に発して断絶なく現在に続く存在であり、 「日本国憲法」や、 法律としての「皇室典範」によって、 戦後につくられたものではない。 従って、 その「日本国憲法」が想定していない皇位の譲位が為されるならば、 これは「日本国憲法」の想定外のことであるとして、 無理をして「日本国憲法」に基づくのではなく、 太古から続く歴史と伝統に基づいて 古来の例に従ってこの度の御譲位は執り行われるべきである。 これこそ、自然なことではないか。   とはいえ、現実には、 GHQの意向に従順かつ臆病に従うのが安部内閣なのであるから、 この度の御譲位と践祚から、 先に記した昭和天皇の践祚にある神事としての本質を 隠蔽する姑息な工夫をして執り行うであろう。 しかしながら、 如何にGHQに従う臆病者が狡智を以て工夫しても、 今上陛下の御譲位と新帝の御践祚の本質が、 我が国の神話と歴史の連続性の中で執り行われる神事であることは 紛れもない事実として国民の眼前に顕れる。 安部内閣が、 御譲位を生前退位だ、白を黒だ、と言い繕っても、 御譲位は御譲位、白は白だ。 しこうして、 この度の御譲位で、我が国の最も大切な中枢は、 神話と歴史であり、 「日本国憲法」ではないことが明確になる。 よって、安部内閣の誤魔化しが、 却って 「日本国憲法」こと「GHQの日本占領統治方針」からの脱却、 即ち 「日本を取り戻す」方向に扉を開く画期となるのだ。 ここに、 この度の今上陛下の御譲位がもつ歴史的な意義がある。   振り返れば、 第百八代御水尾天皇は、 こともあろうに朝廷を幕府の統制下におく「禁中並に公家諸法度」を制定した 大御所徳川家康と二代将軍秀忠の構築する徳川幕藩体制に対抗して、 三十三歳で御自分の皇女である七歳の明正天皇に譲位された。 そして以後、五十一年間、 上皇として幕府に対抗され、 天下に対し幕府を越える尊い権威としての朝廷の存在を示し続けられた。 そして、この御代に、 二百五十年後の王政復古による明治維新を成就させる 山崎闇斎や山鹿素行や徳川光圀らの尊皇の思想家が生まれた。   同様に、 この度の第百二十五代今上陛下の御譲位も、 歴史の転換としての 「戦後体制」即ち「日本国憲法体制」崩壊の地殻変動をもたらすこと確実である。 何故なら、 明治維新が、厳しい国際情勢の中で、 国家のサバイバル・生き残りをかけた変革であったように、 現在も、 我が国家の生き残りの為に 戦後体制即ち「日本国憲法体制」からの脱却が必要であるからだ。   ここまで記してくれば、 この度の御譲位に直面する我々の 「臣民としての任務」が 見えてくるではないか。 それは、我が国から、 日本が日本であり、国家であることの本質を奪おうとするものの正体を摘発して、 それを廃棄することである。 戦後に生まれ生きる我々は、この任務から目をそらしてきた。 しかし、今こそ、 はっきり見なければならない。 つまり、 「日本国憲法」は 有効なのか無効なのか、 それを見つめろということだ。 見つめれば、必ず見える。 「日本国憲法」 は明らかに無効だ。   昭和二十年九月二日に調印された降伏文書によって、 我が国を軍事占領して 天皇と日本国政府を統制下においた 連合軍最高司令官D・マッカーサーに対して、 ワシントンの統合参謀本部は、 「日本の占領と支配のための連合軍最高司令官に対する降伏後初期の基本指令」 と題された命令(JCS1380/15)を発した。 その命令におけるアメリカ政府の、 日本占領マスタープランは、 「軍事占領中に日本社会を恒久平和に役立つように変革すべし」 というものであった。 そして、その命令を実施するための具体的施策として、 D・マッカーサーは、 GHQ民政局の若手二十五人に、 昭和二十一年二月四日から十二日までの九日間で 「日本国憲法」を書かせ、 それを形式的に日本人の議会によって決定されたように装った。   従って、「日本国憲法」は、 最初から、「日本の憲法」として書かれたのではなく 「アメリカの日本統治基本方針」として書かれたのであり、 冒頭にウソの第一条を記して天皇から神聖を奪い、 第九条で我が国から軍事力を剥奪し、 第三章の人権規定では、 家庭や社会や国家からも歴史と伝統からも拘束を受けない 「砂粒のような個人」 を人権の保障された理想的な存在として、 日本人の共同体をバラバラにしようとし、 さらに古来からの日本人の風俗習慣と密接に関わる神道を敵視したのである。 この「GHQの日本国憲法」に縛られて 「御譲位」を 「生前退位」とする安部内閣は、 我が国の最も神聖なことに関して、 GHQとマッカーサーの後継者に堕落している。 この安部氏が、 「戦後体制からの脱却」とか「日本を取り戻す」とかの志を掲げたことを思うと なお許せんのだ。 また、 この安部氏をはじめとして、憲法改正を掲げる人士が多いので言っておく。 「日本国憲法」は、 もともと憲法ではなくGHQの日本占領基本方針なのだから、 「改正」しても憲法の「改正」にはならん。 「毒の樹」の幹を温存して葉や枝を変えても 「毒の樹」は「毒の樹」で、有害さは変わらない。 無効なものを改正するバカがどこにいる。   さて、 今上陛下の御譲位によって、新しい御代が始まる。 この新しい御代において、 「日本国憲法」の無効を確認して 「大日本帝国憲法」を甦らせ、 改正するなら 「大日本帝国憲法」の改正規定で改正をするのが、 法論理上の正道である。 同時に、 我が国を取り巻く内外の厳しさを増す情勢に鑑み、 早急に自衛隊を 国軍に再編するべきだ。 即ち、 今上陛下の御譲位を切っ掛けに、 我らは、 本来の日本、 本来の日本人を 取り戻す時が来たのだ。
2 notes · View notes
masakiyo · 4 years
Photo
Tumblr media
#次大夫堀公園民家園 (次大夫堀公園民家園) https://www.instagram.com/p/CI2zdY9APSR/?igshid=9l5jrgtawmps
0 notes
unibas · 8 years
Photo
Tumblr media
雛飾りされてました。 #次大夫堀公園民家園 #雛祭り
4 notes · View notes
theatrum-wl · 6 years
Text
【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回  銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
Tumblr media
〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館  銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
Tumblr media
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプル��物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
Tumblr media
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
Tumblr media
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
Tumblr media
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
Tumblr media
〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
Tumblr media
〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
Tumblr media
〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
Tumblr media
〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
Tumblr media
〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
Tumblr media
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~  総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
3 notes · View notes
ji2lancru80 · 3 years
Link
0 notes
crazyclay · 6 years
Photo
Tumblr media
#ラン蕎麦マスタープレゼンツ … 今週末の蕎麦畑作業は  #堆肥返し 蕎麦の花が咲き始めたよ。 今度の土曜日には満開です(^ ^) #photooftheday #IGersJP #おなかすいた #はらへった #ご馳走縦走 (次大夫堀公園民家園)
1 note · View note
kadookanobuhiko · 6 years
Text
みちのく三都物語 ③
     <青森・金木町>
   青森は4度目と書いたが、数年前に東北の民謡に興味を持ったのが、そもそものきっかけだった。青森の民謡と津軽三味線を地元で聴き、たちまち魅了された。やはり、生演奏は違う。以後、毎年訪れている。
 今では全国各地で津軽三味線の技を競う大会が開かれているが、やはりなんといっても地元で開催されるそれがレベルは高い。
 その中でも私と北川景子は、五所川原市の金木(かなぎ)町で、5月の大型連休におこなわれる「津軽三味線全日本金木大会」(以下、金木大会)に、毎年エントリーしている。ただし、聴衆としてである。
 金木町は、台形に突き出た津軽半島のほぼ真ん中に位置している。津軽三味線発祥の地として知られ、太宰治と吉幾三の出身地でもある。ちなみに吉の父親は、民謡歌手だった。
 聞きたい種目まで時間があったので、町内にある津軽三味線会館を見学する。発祥と発展の歴史が展示してあり、先達の音源を聴くことができる。
 津軽三味線の元祖として知られ、金木大会の最高賞にもその名を冠せられているのが、仁太坊(にたぼう)である。彼の経歴は、次のように記されている(一部省略した)。
<1857年(安政4年)、金木新田の一つ神原村で生まれた。父・三太郎は岩木川の渡し守である。渡し守は、当時の階層「士農工商」のさらに下である「筋目悪しき者」賤民であった>
 身分制をあらわす「士農工商」はあくまでも比喩表現であって、実態を示したものではない。したがって現在では、教育現場などでは使われていない。また、「賤民」はまだしも「節目悪しき」の意味が、よくわからない。ともあれ、仁太坊と私は”同胞”ではないか。だから津軽三味線に惹かれたわけではないのだが・・・。
 ちなみにインターネットの「コトバンク」では、仁太坊は<女盲の三味線弾きの子として生まれ>とだけあり、父親につては触れられていない。
 仁太坊は疱瘡を患い、8歳で両目を失明。早くに両親を亡くし、生きるために三味線の技を身につけた、という説明のあと、こう続けている。
<幼少から人並みはずれた聴覚と記憶力を持つ仁太坊であったが、社会の最下層の生まれからなる「ナ、ナンダモンダバ!」という反骨精神が、その芸を更に磨き大きく飛躍させるバネとなった>
 ナンダモンダバとは、なにくそという意味だろうか? 独特の叩き奏法を編み出し、即興性に長けた演奏を確立した仁太坊は<乞食坊主ではない「芸を売って糧を得る芸人」として一生を全うし>多くの弟子を育てた。1928年(昭和3年)歿。享年71。
 津軽三味線の創始者が賤民で、その出身地まで書いてある。身分によってはルーツを曖昧にする傾向がある昨今、はっきりしていていい。
 津軽三味線は、和太鼓とともに邦楽の雄である。その祖が賤民であったことを、演奏者をはじめ、どれだけの人が知っているだろうか。
    <金木公民館>
 はるか彼方に、冠雪した岩木山が見える。広大な田園に囲まれた公民館で、金木大会は開催される。築半世紀は経つ、いい感じの老朽施設である。
 大会は、小学生以下から大人まで、個人と団体に分かれている。大会の目玉で掉尾を飾る「個人・一般の部 A級」(以下、A級)は、他と違ってトーナメント制である。
 A級以外や他の多くの大会は、自分の得意曲を参加者全員が順番に演奏し、最後に順位が発表される。一方、A級は、参加者のくじ引きで対戦相手が確定し、1戦ごとに7人の審査員が、どちらの奏者が優れていたかを判定する。前年の成績優秀者は、予選は免除される。予選、1回戦、準々決勝、準決勝、決勝と4~5回勝たなければ、頂上に立てない。
 課題曲は回戦ごとに、じょんから節、あいや節など津軽5大民謡の中から、聴衆がくじ引きで決める。
 つまりA級は、偶然性を多分に含み、そのため実力者が早々と戦列を離れることも珍しくない。課題曲、対戦相手の組み合わせによって勝敗が左右されるので、演奏者は緊張を強いられ、聴衆はそのドラマを堪能できる。
 運はあるものの、むろん実力がなければ勝ち進めない。ちなみに第1回大会の優勝者は、現在も第一線で活躍する上妻宏光である。
 参加者は年齢、性別、演奏歴を問わない。10代から壮年までのプロ、アマが、ガチンコで技を競う。およそ何の制限もない競技というのは、ジャンルを問わず、いまどき珍しい。
 弘前で開かれる世界大会は、大ホールが会場で、ネットでも中継されているが、金木は前記したように公民館である。会場の後ろ半分はパイプ椅子、前半分はござが敷いてあるだけだ。
 入場はなんと無料で、見放題、聞き放題。数百人の聴衆は、地元住民をはじめ、大会参加者やその家族で占められる。私たちのような純粋なファンは、あまりいない。5月の連休に金木に行くと言えば、よく大会参加者に間違えられる。
 今年のA級の参加者は15人で、演奏のレベルは、例年以上に高かった。後に、5年前に1位に輝いた奏者がエントリーしていたことを知る。3年前は中学生で体も小さく、三味線が大きく見えた本多凛さん(石川)は、予選で1-6の大差で敗退し、敗者復活戦でも同じ点差で敗れた。
「あるレベルまでいったら、誰もがぶち当たる壁なんでしょうねえ」
 後に参加者のひとりは、私に教えてくれた。
 強豪は、まだまだいる。前日、青森市でおこなわれた「津軽三味線日本一決定戦」で2位に輝いた白藤ひかりさん(東京)は、1回戦は6-1で勝ったものの、準々決勝は3-4で惜敗している。
 ちなみに白藤さんが準優勝した日本一決定戦で、最年少優勝した中3の中村滉己君(愛知)は、金木大会の常連である。今年の金木大会には顔を見せなかったが、もし参戦していたら、より激しい戦いになっていただろう。
 やはり金木の常連で高1の大塚晴也君(静岡)は、今回、個人的に注目していた。晴也は「せいや」ではなく「はれるや」と読む。昨年は準優勝しており、優勝候補の筆頭である。
 なぜ、注目していたかというとーー。津軽三味線会館を見学していたとき、入り口付近でスタッフに声をかけられる夫婦がいた。「大会に参加するんですか?」と聞かれ、「いえ、大塚晴也の親です」と答えているのが、入り口付近にいた私にも聞こえた。
 前日、彼が弘前において開催された別の大会で入賞した話になり、スタッフがスマホで名前を確認しようとしたが、なかなか見つからない。私は当日の地元紙・東奥日報を読んで、彼の名前が掲載されていることを知っていた。たまたま持っていたので、受付けでそれを彼らに見せた。新聞だと、すぐに見つけることができる。両親はたいそう喜んでおられた。スマホで名前を見ても、それほど感動しないだろう(と活字人間の元地方紙記者は思う)。
 そんなことがあったので、晴也君の演奏に注目していた。もはや、聴衆ではなく、親の目線である。彼は1回戦は不戦勝、準々決勝を7-0、準決勝を6-1と圧倒的な強さで勝ち上がり、順当に決勝戦まで駒を進めた。
 対戦相手は、A級初参加の鈴木利枝さん(大分)。現在31歳で、年齢だけを見ると、倍は違う。鈴木さんは1回戦で常連の藤村由慈君(岩手)を6-1、準々決勝で前出の白藤ひかりさんを4-3、準決勝では常連の佐藤晶君(青森)を5-2で下している。
 佐藤君は、3年前に青森県黒石市のみやげ物屋の蔵を改造した小さなホールで、北川と私のたったふたりを相手に演奏してくれた若者である(当ブログの2016年5月掲載の『津軽』を参照)。酷使した指が自由に動かない病・ジストニアにかかっていたが、それを感じさせない演奏で、鈴木さんには敗れたものの、今回はこれまでで最高位のベスト4に入った。青森の参加者は彼だけで、地元の意地を見せた。
 さて、決勝戦である。A級初参戦の鈴木さんは、桃井かおりにそっくり(個人の感想です)。何よりも背筋がぴんと伸び、演奏する姿が美しい。撥(ばち)が、正確に弦をはじいている。だから音が力強く、かつまた美しい。
 野球の打者でたとえるなら、ボールをバットの芯に確実に当てている感じ。打球の速さや飛距離が、格段に違う(松井秀喜がそうだった)。
 アコーディオン奏者のCOBAが、逸材であるがゆえにイタリアに留学した際、最初に教えられたのが椅子の座り方、楽器の構え方だった。基本ができてこそ、より高いレベルに到達することができる。
 決勝戦の課題曲は、津軽三味線の代表曲の津軽じょんから節。晴也君は高校生にして数々の大会に出場し、すでに舞台慣れしていた。緊張している様子は、まったく感じられない。会場からの声援にも、余裕の表情でこたえていた。
 本番は安定した撥さばきで、3分以内の演奏を終えた。一方、鈴木さんは音の強弱、テンポを自由に操り、聴衆の心をつかんだ。まさに、甲乙つけがたい。
「審査員じゃなくて、よかったーっ!」
 思わず出た司会者の叫びに、私たち聴衆もうなずいた。
 結果は4-3の僅差で、鈴木さんが制した。両手で顔を覆う桃井かおり。どちらが勝っていても、誰も文句を言わなかっただろう。稀に見る、充実した優勝決定戦であった。
    <愛知⇒青森⇒アジア⇒大分>
 鈴木さんの経歴がユニークだ。名古屋市の出身。小学高学年で三味線を始め、中学生で津軽三味線に心を奪われる。だが、そこから、流浪の旅が始まる。
 青森の中学校に転校し、修行を続ける。4歳で母親と死別したため、青森には父親とともに移り住んでいる。ところが新天地で人間不信に陥り、ひきこもりに。<人生で一番辛い時期>(ブログ)を過ごす。
 高校には進学せず、父親とともにネパール、インド、カンボジアを数年間、放浪する。三味線を持っていったのだろうか。どうもこの父親が、彼女にとってキーパーソンのようである。
 帰国後は大検資格を取得し、大分の立命館アジア太平洋大学に入学する。前後して東京や関西で開催された津軽三味線の全国大会で優勝を果たす。大学卒業と同時に、大分で教室を主宰し、現在に至る。
 人生のどん底を過ごした、青森での快挙。大会に参加する弟子に誘われ、自身もエントリーした。いまは、弟子とともに人生がある。ブログには<複雑な思いがあった青森でしたが、たくさんの温かい思い出に変わりました>とつづっている。
 愛知⇒青森⇒アジア⇒大分と移動し、楚々とした印象からは想像できない険しい道を歩んでいる。あの美しくも激しい音色は、彼女の人生経験を凝縮したものなのだろうか。
    <青森空港>
 空港の待合室で、見おぼえがある靴が目に入った。黒のローファーだが、上辺だけ白い革があしらわれている。金木大会のA級に参加していた堀尾泰麿さん(愛媛)ではないか? 座敷席から、演奏者の靴がよく見えるのだ。
 靴から視線を上げると、黒いスーツに、白いワイシャツ。本番のときのように、真っ赤なネクタイこそしていなかったが、やはりそうに違いない。10代、20代の大会参加者が多い中、47歳は最高齢であろう。
「堀尾さんですか?」と声をかけると「そうです」と応じてくれた。私たちと同じように大阪まで飛び、そこから愛媛に向かうのだろう。
 堀尾さんは、予選では0-7で前出の佐藤君に敗れ、敗者復活戦で本多凛さんに6-1で勝った。だがそのあとの1回戦において、宮﨑啓佑君(神奈川)に2-5の判定で苦杯をなめている。宮﨑君は、ベスト4に残った強者である。
「惜しかったですねえ」と水を向けると「5年前に優勝したんですが、思うところがあって出場しました。でも、やることはや���たので、納得してます」とおっしゃった。調べてみると、確かに言われた通りだった。
 驚くべきことに優勝した翌年も出場し、決勝戦で破れている。さらにその翌年も参加し、ベスト4に名を連ねた。1位に輝いた勝者が、翌年に出場しても再び勝てるとは限らない。なぜ、挑戦し続けるのか? トップに立った者にしかわからない”何か”があるのだろう。
 今大会は、最初は音が響かなかったので、後に音程を上げて演奏したという。優勝した名人であっても、試行錯誤があるのだ。
 空港の待合室の椅子に、ひとりぽつんと座っている姿は、心なしか寂しそうではあったが、「やることはやった」という言葉に、いつまでも挑戦し続ける堀尾さんの心意気を感じた。
 堀尾さんは愛媛で津軽三味線を教えながら、演奏活動を続けている。今回優勝した大分の鈴木さんは、昔からの知り合いで、海を隔てているものの隣県同士であることから、ジョイントライブを開くこともあるという。ふたりのかけあいを、いつか聴いてみたい。<了> 
(2018・5・15)
1 note · View note
gon-iii · 15 days
Text
Tumblr media
縁側の秋支度
2011年、次大夫堀公園民家園。
十五夜のお供物が揃う古民家の縁側。
43 notes · View notes