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ウノスケは本棚の間を駆け抜けた。影を落とすその道を、カンテラの灯を差し出しながら、ひたすら走っていった。でも頭のなかでは今も、どこか追いたいままの鳥のことを描いていた。フアもまた、自分と同じように問いかけを聴いているかもしれなかった。未だ帰らない鳥もまた、あの窓の向こうで墜落しそうにいるかもしれなかった。喉全体がかゆくなるような、よく分からない気持ちだった。
前方からドドド・・という音がした。どうやら本棚と並べられた本が倒れて崩れ出した様子だった。ウノスケはまたしても頭を手で守りつつ 走り続け、そしてすぐ目の前にも崩れ出した本があることに気がついた。薄暗さのなかでなんとか立ち止まり、カンテラで別の通りを探したが、連なるようにどこも棚で覆われていて、開けたような通路は見えて来ず、出られる場所はそこになかった。本棚は崩れ続け、とうとうウノスケの頭の上に降りかかってきた。「やばい!」するとウノスケのお腹のなかから、何かがその本たちをゴスッゴスッとはねのけた。だがウノスケにはよく見えなかった。
その時、カンテラがその灯りを強くし始めた。さっきまでの温かさが消えていくのと同時に、橙色の光が溢れ出してきた。その光がひとつの筋を作り出し、ウノスケの差し出したカンテラは彼のお腹をかすりながら、円筒のようにその通路に立っていた。ウノスケの目はその光のなかを舞うほこりの粒に包まれていった。まるで照射標のようだなと、それにしては近すぎる眩さのなかでウノスケは感じた。「何を照らし出しているっていうの」「ここだと言うの ・・魔王は ここがお前の探すべき道だぞと,見させるの・・・」ウノスケはその光のなかに飛び込んだ。自分でもびっくりした程、頭でこねまわさずに、冷静に。。。
灰色の空間がちらついていた。光と影の粒のように、今ならもう見える...とウノスケは思った。身体が無いみたい、同化してしまいそうだった。
きっと魔王は、生けるものが何かを望むとき 善悪も知らせない姿で 我々の前で立ち続けているのだ。何を失うかを知らせもしないし、得るものを名乗りもしない。きっと あの資料室や迷路のような廊下にいたまま選りすぐれるものばかりでもなかった。魔王はいつでも、境を見出すんだ・・・。
(そしてこうやって道筋にさえ、すぐそこに見える森のその姿で こっちを見ている)
ウノスケはやっと森のなかに自分の輪郭を見た気がした。放り出されてなんていなかった 魔王を許すための世界を、他でもなく自分が持てた ような気がした ・・・ 答えの出し方を急かすことなどしてくれなかった、カンテラは手から形をなくしていった。ぼんやりではなく、温かい風が吹き込んで自分の外側を流れ、その重力を自分が持ち、階段のような足取りを確かめつつ歩いていった。先に彷徨った闇の境かもしれなかった。
視界の話ではなく 何かが見えてきた。「でも・・・いや、まだここも外ではないんだろうな」
ウノスケはそう思っていた。たちまち光が何かに吸い込まれて、辺りが暗くなっていった。
見出し続けるのはこの目だった。
絞られていく光線に目が眩みながら少しずつ歩いた。かすかに見えてきた場所はどうやら小さな街で、ここから観る限り、夜闇のなか窓から光がもれているらしき事が分かった。
ウノスケはその街のなかへ、ゆっくりと歩みを進めた。地面は土で とても乾いていた。
食べ物の匂いがした。湯気のような煙の影が��えた。外でも何かをかまどで煮炊きしているらしい…。
家からは声が聞こえ、話し声や笑い声で楽しそうだった。ウノスケ自身の影が、窓の外に落ちていた。
ウノスケはこっそりと、気付かれないようにして家のなかを覗いた。
玄関先や、家の庭にも飾られた果物に気がついた。家のなかには鶏肉の料理やグラスの飲み物、果物たちやパンにジャムと、上等にこしらえたものがわざわざと置かれていたし、各家々にいる大人や家族のような人たちはそれに手をつけていく様子はなく、平然と、でもどこか落ち着かない素振りで、何かを待っている様子だった。
その時、地面にも響くような歌声と楽器のような音が聞こえてきた。暗闇のなかから次第に姿を見せていた。あの世の物の様な、恐ろしい形相の仮面を被って、獣の皮を羽織ったり杖を構えた人々が、どこを見ているか分からない顔のまま行列をなして、一歩一歩の歩幅をでたらめにしながらずんずんとやってきたのだった。
ウノスケは半ば背筋が凍るような気持ちになって思わず息を潜めたが、彼らはお互いのことにさえお構いなしでそれぞれ踊ったり歌ったりしながら、庭でぞろぞろと足を止め、木の実やその家に入っていった。玄関に出た女性が抱えていた赤ん坊は、とたんにぎゃあぎゃあと泣き出した。ウノスケは声も出ずに、心配になりつつ、窓の外からこっそりと見続けた。そして、その一行によって、灯の燈る家々でご馳走が食べられていく様子を眺めた。
(お客なんだな・・・?)行列の者たちは家に入ってからは、あまり長居はせずに出て、次の家に向かった。彼らはいかにも脅かすためのような格好をして家の人々にもてなされていたが、すぐ近くにいたウノスケにはまるで気がつかないか目もくれない様子だった。赤ん坊はまだ家のなかで、一層強くぎゃあぎゃあと泣いているようだった。
ふと、窓辺に現れた魔王のことを思った・・・。魔王はもてなされる事を要求しなかったけれど・・。それでも、すぐには現れてくれなかった。俺がそこに来るまでは、と、そういう、ことなのか。
ウノスケはふと、ずっと[ここ]が、テイト邸の問いのなかである、という事を掴もうとした。見たものや感じることの普くが、自分にとって自分が反射し合う世界のような事なのだとして…。ふと考え込んでしまった。これまでだったそんな・・・。どれだけ答えの場所が分からなくなったか?! ウノスケは自分にひとつの身体があることを感じた・・。
「あらゆるものに役割や意味があると思いたい、...思っていたいものだけれど。この時をこの迷いを、自分から離すことなんて出来る世界なのだろうか?」
一瞬天を仰ぐようにしてしまったあいだも、お祭りのような熱を持って、行列はもてなされていった。その様子をウノスケもただ、ぼーっと眺めてみたくなった。-自分を構わずに進む、彼らのひとつのパーティーが、なにか無為で寂れたことのようにも感じられた。もてなした人々の思いや優しさなど、彼らには通じないのではないのかな。ウノスケは、自分は他所者のままここにいてもまた どうにも言葉の持てない人間のような気持ちになって、話し声にも自動で阻害されるような感覚になった。ずっと問われているけれど、何が答えかなど、知れないままの時も・・・。
その時、陶器のお皿が重なる音が聞こえた。
またそっと 窓から覗いた。魔の物、魔の者たちが食べて捨てていく 空っぽになったご馳走を改めて見て、ほっとした様子の家々の人たちの姿があった。
それだけだったのだけれど。―「何で・・・。」
彼らはそうやって取り戻すんだな。朝が来ないとしても、今ここにある闇を自分たちの手で、あるべき形に戻そうとしているんだな。朝を待ち望む人々の、生活なのかもれない・・。ウノスケは以前、何かの本でそういうことを読んだような気がしてきた。気持ちがそれのどこにあるのかを読み解けたことはなかった。そして、フアとその祖先を敬うためであると口にしていた仮面のことを思った。
ここにいる今、魔物の仮装をした彼らよりも自分自身が異質なもののように感じられた。
騒ぎを無意味に感じたことも、寂しくなったことも、自分の調子の良さを映すような気になっていって。ウノスケは息を小さくしながら自分の肩をぎゅっと抱いた・・。いなくなることなんて 本当には出来ないのだ・・・ここでは。
さっきまで行列が歌っていた道に出て、静かに立った。
俺の姿は、今彼らには見えない。でも心細さではなかった。「やることがあるのは、俺もだよ」気持ちとしては、まるで夜の世界に隠れたままにされた日光の存在のようなものだった。
きっと、恐怖が彼らを闇に映していく・・。だけどこれは、太陽の光だけではなく、紛れもなく 夜闇に対する畏れなのだ。それによって、彼らはやることがあるのだろうな。
ふと、木々が揺れた。
魔王というのは、ほんとうにどこにでも 放り出された世界よりも強かに、時に締め付けるようにして 見守っているのだな・・・。眩いものを忘れないままで・・・。
急にお腹がすいてきた。でもこんなにも満腹のような気持ちで。これほどに・・・ウノスケは自分の身体に不思議な温度を感じていた。
行列は、奥のほうに建てられたテント小屋のような広場の方へと向かっていった。ウノスケもそれを静かに追った。テントには松や葦で作られたようなトーチと、ガス灯が備え付けてあり、家からもれる灯よりも明るかった。入り口に木で出来た門のようなものが建てられていて、その奥のテーブルに 先の家々のものよりは質素で普段食べるような料理や果物の籠が置かれているのを見た。行列はまもなくその門へ差しかかろうとしていた。
(あの門、なんだか鳥居みたいだな・・・)ウノスケはその門のせいなのか、テントのなかまでは近づけなかった。少し遠くからそれをじっと、見ていた。
その時だった。ウノスケは鳥の姿を捉えた・・・。
光の鳥たちが鳴きながら羽ばたいて、彼らを導くかのようにして夜の上空を飛んできたのだ。とても遠くにある光のように、星たちも照らされておて、目覚しくて輝かしい光景だった。鳥たちはその群れを、空を穿つ光のなかに溶かしていくようだった。
(ここが・・・、彼らの飛ぶべき空なのか・・・?)
ウノスケは動けず、瞬きも出来ずにその光景を見つめていた。
その間に、行列が門をくぐる時、すべての音が消えた。鳥たちは門の向こうへとくぐり抜けて飛び、ご馳走をついばみ、一斉に秩序をもって羽ばたいた。
その時、茂みのほうから駆けて来た何人かの子供たちが、その行列に向かって何かを叫んでいた。 ご馳走をもてなされて満腹になった彼らが、耳も持たずに眩い門を通り抜けて行く。その姿には影はなく、本当に何もなく、透き通っていくような気がした。ウノスケは、自分があの果物の柄のあしらわれた鏡をくぐったことを思い出した。「やつらはどこに行ってしまうというの・・・?」
意味とかではない、生活であっても、何も当てのない・・・。
ウノスケは気がつかなかった。街は朝になろうとしていたのだ。
テントのすぐ奥には森が拡がっていた。ウノスケは静寂に包まれた街の通りを走っていった。テントの裏側を覗いたが、何もなかった。
その時、一冊の本がウノスケの肩に落ちてきた。(文庫本のように小さくて薄いがハードカバーで出来ていた。)とても古いのか、タイトルは分からなかったし、おまけに表表紙と裏表紙だけのようだった。
その本を開いてみた。すると、ふたつの眼のような光がまじまじとウノスケを見つめ、その眼と頬を眩しく照らした。ウノスケは一瞬びっくりしたが、そらすことをしなかった。
そして今度は、自分自身に手を伸ばすようにし、小さく呟いた。「魔王に誓って」その透明な光をじいっと見た。自分の眼の奥へ、抜けるかのように。
ウノスケはその本をぎゅっと抱きしめつつ、するすると腕から消えていくような感触を覚えた。ウノスケは待ってくれといわんばかりに自分のお腹のほうを見た。すると、そこには つば付きの帽子があった。その光は顔をあげた。エスレイだった。ウノスケはエスレイの目を見て、抱きしめながら、幾ばくか、その光のなかを下ったような気がした・・。
「あぁ、エスレイ 俺はやっと今、最も近く、そして一番の外から見ようと思うんだ この家を、この森をね」
ウノスケは、光の鳥たちと行列のやるべきことを見届けたのだと思い頷いた。エスレイと初めて会ったのも、夜明けだった気がするよ。
「欲望は 自己の在り様を、自分がどのようかを 試したりはしない」
エスレイとともに街を抜けるとき、今自分がいるのは、透明に守られた、辛うじた強い光の筋だった。
(今なんじゃないかな。)何かを、何かを手にしてもウノスケはまだ不安で、でもエスレイより早く、森の茂みを小走りで駆けた。すると、光る水面が現れた。川が流れていたのだ。街まで繋がっていたに違いない。
川辺には丈の長い草たちが沢山並んで生えていた。ウノスケは鼻に入り込む冷たい空気にくしゃみをした。この空間に朝が来ていたことをやっとのことで知ったのだった。
少し歩いてみると、目の前に渡船場と言えるほどではないが、誰かが木で作った桟橋のようなものが見えた。けれどそこには船は繋がれていなかった。
そしてその浅橋の上に、いくつかの四角い包みが置かれているのを見つけた。
ウノスケは足場を確かめつつ渡り、それに近寄った。
その包みは、何かプレゼントのようだった。(ここで、誰に・・・。)あの街の人々か、あるいは訪れた人の、忘れ物なのかもしれないが・・・。よく見るとその包みには、見知らぬ並びの日付と、なにか謝る言葉が書かれていた。
あの魔物の行列のことが思い浮かんだ。渡されるべき贈り物だったのではないのか?もしかしたら誰かが満腹を知れず、あの門をくぐり損ねていたとか・・・。
ウノスケは急に、自分に向けられたものかのように、キュッとする切なさに襲われた。
エスレイはウノスケを見て、そのあと包みの言葉を見て、帽子を脱いだ。帽子のなかにその包みを載せたのだった。ウノスケはふと、船に乗る自分たちの姿が浮かんだ・・・。「この世界では運ぶべきものがどんな形でも現れるのかもしれないね・・・」
街はきっと、もう朝を取り戻しただろう。自分はもう、それを見ることが出来たのだろう。
置き去りになった包みが、今自分のための時間で、置かれたままになっている必要がなかった。
だけどここには船がなかった。
ウノスケは目の前の川を渡ることを、エスレイと顔を見合わせたあと、一呼吸して判断した。 変わり続ける姿をいつでも纏う、風さえも捉えていた。
「葦だ。この葦で船を作ろう。」 ウノスケは川辺に生えていた葦で、作り方も分からないまま、船を組みだした。自分のなかに、さっきの街で見た暗闇と、差し込む光のいくつかが、ひとつひとつ、溢れていくような気持ちだった。
思いのほか次第に集中していき、ふと背中に汗がこぼれた。葦が乾燥する時間もなにもないような気はしたけれど、――何故だかみるみると、無心のままで組むことが出来た。
すべてが今、目の前で、ここに、留まって、待ってくれているような、そんな計り知れない真っ白な気持ちだった。これほどに これほどに?・・・視界が明るくなっていった。太陽がウノスケを照らし出していた・・・。ここにいるエスレイが力をくれている気もしたし、導かれているような気がした。だけど・・。
いつも木で船を組む作業の手伝いをしていた自分が、自分のために何かを形作る瞬間が訪れていたのは確実なはたらきだった。
不思議だ・・・・・・。
(今見えているエスレイは、どうしたら[ここ]にいてくれるんだろう・・・。これほど近くに見ているのに、まるで遠いんだ。。)
ウノスケは脳裏に焼きついていた、あの鏡での自分を思い出していた。
ー光の鳥たちは街までの道を この川を 最初からちゃんと知っていたのかな・・・
今頃フアには、なにか灯台のようなものは存在するだろうか?・・森での 生ける物のすがたはどれも不思議で、束の間なのだとどこかで思っていた・・・自分は何を永遠に出来るというのかな・・・。彼女は彼女のそれに気がついただろうか?あるいは、気がついていたことに、再び出会えただろうか?
どれくらいの時間が経ったのだろう。葦の船は編みあがり、一旦完成したように思えた。ウノスケの手や服からも、川からも、青臭い匂いがたちこめていた。初めて作ったにしてはよい出来だと思った。「やったぞ・・・!」ウノスケはその他のことの一切を置き去りに、ただ嬉しかった。
そして朝日の傾きで半時間ほどか待ってみたのち、少しだけ頼りない桟橋から、自分の手で進水式をした。慣れた掛け声をひとりで叫んだ。「この包みは祝福のようにさえ見えてきたな」
エスレイは包みを両手に持ちこぼれそうで、それを持つのを手伝った。そのまま、なにか急かすようにしてウノスケをまじまじと見た。
ウノスケはその包みを船に乗せたあと、自分の足を船につけた。そしてエスレイの身体をゆっくりと降ろした。 出発だった。
なんとか大丈夫そうかな・・・。足場に立てかけてあった竹のオールを借用することにして、朝日のほうへと漕いでいった。ふと顔をあげたとき、朝日に目が眩みながら、川と泥のような匂いの奥に、ふと海のような空気がある気がした。
両方、の予期をした。また放り出されるか、何か目印が現れるのか・・・。今は、自分自身で船を漕いでいることだけが確かだった。この船では、海には行けないかもしれない・・・
ウノスケは少し焦った。釣りだけしてればいい川じゃないのかもしれなかったし・・・。
エスレイがウノスケの前に座って、包みをしっかりと抱えていた。
エスレイがいる心のなかで、どこにもいかないその一筋の光の果てに、フアを追った。この時、なんだか沢山の声が聞こえてきた。何かが・・・自分の名前を呼ぶんだ・・・。
これ以上は ここより先はそっちへ行くな 飲み込まれるな 任せて自分を使うな
あの透明な瞳は、いつまでもこの世界を 人々を見ているのだろう・・・。
これほどに魔王の声を聞いたことはこれまでなかった。光の下で・・・。
魔王に落ちる影があることを、ウノスケは思った。
進んでいる手応えがあまりなかった。いまは少しだけ怖くて、ただただ心が熱かった。
「自分がどこか遠くにある気がするのはもうあんまり嫌だな・・・」
ウノスケは、自分に言い聞かせるように言ったようにも思えた。でもそれにしては意味が分からないんだけれど・・・とも思った。 ウノスケは途切れ途切れな感情のひとつひとつが、生まれていく感覚を実感していた。机の上に散らかるままのメモを繋げられる気もした。今あの机の上だったらなぁ...。
―あの鏡のなかの自分が、『逃げていく』と口にしていたことは、何か不安や恐怖が言わせているのだと思ってた。でも・・・そうじゃない・・・。ウノスケはエスレイを見つめた。
その時、魚が何匹か川を楽しそうに跳ねた。船の下にもゴツッと当たって少し揺れた。
「エスレイ見てくれ 魚だよ、やつら、ちょうど海から来たのかも・・・」
ウノスケは自分の故郷のことを思った。造船所でいろいろと観察をしていて良かったんだな。そして、再び漕ぎ出した・・・。名前のない幸福感とともに、言いようのない心許なさがウノスケを締め付けた。自分はこのまま、大丈夫かな・・・?
あの鏡のなかの自分が追っていた鳥は、自分のものではないのかもしれない。それでも頷ける道がきっとあったんだよな、あの俺には。そして今・・・。
エスレイが何かにキョロキョロし出した。ウノスケはふと我に返った。
海の、深い、つよく荒むような匂いがした。船は何かと衝突したかのように、向きを回転させ始めた。
視界に何も見えないまま、ウノスケとエスレイを乗せた船は崖のような何かに差し掛かって、川の水の流れとともに墜落していくように思えた。うそだろ!なんで・・・どうしてこのままじゃ辿り着けない? エスレイは、手に取った帽子で包みを支えながら流れに沿って落ちた。船は洪水とその水中へと叩きつけられていった。「まって・・・待ってくれ!!」ウノスケの頭は、自分が何も無くなってしまうような空白に支配された。
その時、頂上に霞をつくるほどの山々が棚をつくる、斜面が、さかさまに見えた気がした。
ずっとどこかに感じることが出来ていた 温かい何かは
今は、ウノスケを守ってはいなかった。
雲のような、水滴のつくる霧のような何かが、すべての音を飲み込んだ。その静寂は、ウノスケとエスレイを包み、どこかへ連れ去っていった。
ウノスケはエスレイを抱きしめた・・・・・。
光と水の粒が 絶え間なく反射していた
まるで薄水色のレンズがつくる球のような瑞々しい大気は、ウノスケの視界のすべてを覆っていた・・・。その向こうに、あおあおとした海が拡がっている。嘘のように意味が分からなくて、ただただ、恐ろしかった。海原に、雲の陰が落ちていた・・・ ここで...今、「とても広いもののなかで何かがそこに在ること」をウノスケは捉えた。
いつの時も雲のこちら側を見ていた 見ていたはずなのに・・・
偉大なる海に遊ばれるように・・・自分自身との距離はとても近すぎるから。こんなにも放り出されてしまうというのか・・・。
ここは、今までいられた場所や持てていた落とし所とは 全く違うのだ ともて怖いけれど、確かに。――ここにいるまま・・・。
ウノスケはふと、自分が灯台の放つ光のなかにいる事を感じた。自分がいつの日も目指していた場所とは、ここだったのではないか?その時、何か雲のようなものに包まれて漂っているような感覚だった。
エスレイは包みを抱きしめていた。
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心のなかがまるで何もない 空っぽのようになった気がしたのに、フアは薄明かりのなかでさらに沈んだ。フアは頭と肩で向きを変えながら、必死で。せめてもの、漂った。海底火山のようなものの連なりを、山の峰を見た。
フアはその実少しだけれど、何かが分かった気がした・・・。その山々は、自分のふるさとによく似ていると、思わせた。あの道を許す、あの街・・・。自分はここを見ないといけなかったのかな。
白い鳥のような眩しさを目にして驚き、手を伸ばしたが、溺れながら沈んでいった・・。瞬間に気が遠のいて、頭が重かった・・…. 強くギンギンと痛んだ。 まずい… 頭を抑えながら、今も頭飾りに挟んだメモとチケットがあることを確認した。(この頭の重さは もしかしたらこのメモたちの重さなのかしら)自分ではないような何かが、とても重たい 自分だけではどうにもならないような、あの廊下のようには導かれない、やるせない戸惑いが深まっていった。何か別の…自分以上のものが___沈みたがっているみたいに・・・。 (ウノスケの考えていたことや 誰かが追い求めていた事柄は 答えをこの海底に目指しているということなの・・?だとしたら この嫌な感じはどうしたらいいのだろう 私はどうしたらいいの・・・ )この、この引力は本当にこの荷物の進みたい方向なのだろうか?
引力のようなものによって直線的に沈みながら、けれどフアは自分に圧し掛かるその何かが、ここで宛てのないままの意思だとしてもそれは仕方ないのかもしれないとさえ思えた。身を任せながら、焦っていたことにさえ気付いたのだ。けれど心のなかの起こる嫌な感じは、捨て切れなかった。
景色が山々になっていき、その海底火山の連なりの隙間に谷があって、そこに平地が拡がっていることが分かった。どれだけ深く潜ったのか、遠いのか近いのかも最早分からなかった。その平地では、何かの明かりが反射し合って薄明るくぼんやりしていた。
フアは落とされるわけでもなく着地した。そこから上に広がる景色を見上げたとき、鳥たちがバサバサと飛び交っていた。そして何か布か紙のような、包みのようなものがこの平地の全体を覆っているような影を見た気がした。頭が重たくて景色もかすんで見えたが、何か濃ゆい青みの、丸いかたちのものが見えてきた。
洞窟だった。そのなかから、光がいくつも集まったり散らばったりしていた。
着地してもなおここでの歩みは難しかったが、フアは意気込んで全速力でゆっくりと、洞窟のほうへ歩いていった。するとそこから、白い鳥がフワッと、またしても一目散に飛んでいったのだった。
洞窟のなかは不思議と、上部に空気のようなものが残っていた。といってもフアの背よりも高い水位だったため、そのままゆっくりと歩いていった。長い音を立てて水面が揺れた。
その奥には、空っぽの鳥籠がいくつも大量に置かれていて、フアが動くとときどき擦れて金属音を立てていた。洞窟のなかに置き去りにされているような、かなり不自然な景色だった。さっき見た鳥たちは、ここから放たれていたというのだろうか。
(―誰かがこの場所ごと捨てていったようにしか思えないけれど、この奥にもまだ何かあるのかしら・・・それに、なぜ鳥たちは私と違ってあんなにも軽く羽ばたいていけたのかしら・・・)
幾つかの疑問が浮かんできたそのとき、フアの頭飾りに付けていたウノスケのメモとふせんたちが、ハラッと下の地面に、漂うことなく、零れ落ちた。するとたちまち、紙の端から燃えて、水のなかだというのに少し煙ったあと、小さな火に変わっていった。そして、自ら少しずつ浮かび上がったのだった。
フアは驚いて、どうしたらいいのか分からなかった。(このメモたちの意思はここにたどり着くことだったの?そうしたらもう消えて無くなってしまうってこと?)フアはやるせない思いとウノスケの顔を思い浮かべながら、頭の重さが少しずつだけど引いている感じがした。その時、ひらめくような気持ちになって、ふいに地面を蹴りつけて、空気のあるところまで顔を出してみた。だけどその時フアはとても熱く、苦しくなって、息が出来ずにむせながら再び水のなかに戻った。
フアはむせたのと訳の分からなさで少し涙目になったが、そのとき顔の前で炎が揺れた。その炎は消えてなくなりそうに思えた。「嫌!ここで置いていかないで!」フアは思わず叫んでしまった。炎は揺れ続けたが、ふと燃えていくのが緩やかになった。フアがその火を見つめていると、チケットとメモに描かれていた記号たちが炎をまとって浮かび上がった。あのチケットに描かれていた太陽か月のような円の絵を揺らしながら、泡のような膜を作り、包まれたまま丸い炎になった。まるで盾のようだった。
どこに行きたいのかも知れないその揺らめきは、フアの前で勇敢な背中のようにして動き出した。ウノスケの描いた矢印は、炎の剣のようになって、泳ぐように洞窟の入り口のほうへ向かった。→
フアは驚いて、とてもびっくりして、けれど何だかとても安心して笑ったら、なぜかさらに泣いてしまった。その涙はここでは見えなかった。
ゆっくりと歩きながらその盾と剣のほうへ向かうと、洞窟の外とはるか上空に、白々と水面に差し込む太陽のような光線が見えた。 フアはとっさに、あれが外なのね、と思った。もう一歩進もうとした瞬間、炎はシュンッと力をなくすようにして空気のなかで小さくよろめいた。矢印は地面に突き刺さるようにして落ちてしまった。
「待って!!消えないで・・・!」
フアは急いで、洞窟の外まで顔を出してみた瞬間、また頭が痛くなった。(このメモたちの重たさではなかったの・・?いえ、だからこそ、なの・・・?)フアは息を止めないように、まだ放さずに確かめるように、こらえるように、ゆっくりと重たい一歩を踏み出しながら、炎と矢印を慎重に抱き上げた。「ああ、どうか!お願いです! 私がきっと連れて行くから この手で連れて行くから 頑張って 見失わないで お願いよ・・・」
ふと、自分がいつの時も、お腹に山になるほどの荷物や洗濯物を抱えて、くたびれながら帰ったあのふるさとの道と、焚き火の焦げた匂いのするあの庭を思い出したのだった。大事なことばかりに囲まれて、――日々と不作の土地に追われながら、追いかけることで、感謝に身を置いていたわ。でも今は・・・。 ・・駄目だった。あのままでは・・・どうしようもなかったのに。
フアはまだ泣いていた・・。
洞窟の外に出てから意思を失ったかのような、炎と矢印を誘導するようにし、気持ちを集中させて、ゆっくりと開けた平地のほうへと歩いていった。「私は」
ここにいるわ。きっと私、ここにいるから。
フアの両手は炎の傷みを感じていた・・・。
谷の底で、辺りが平たくなったその時、その平らな地に映し出されていた光景はさっきとは全く別のものだった。洞窟の方向から小さな鳥がまた何羽か、水の中で羽ばたいたとたんに、泡の音を立てながら 尾ひれを作り出し、魚に変わってその両手を降ろしたのだ。その魚たちはまた一目散に、その海のなかを群れになって泳いでいったのだった・・・。
ー 私の名前はここで、私になるのだわ。私が私のために声をあげるのだわ。
フアは辺りをしっかりと、見渡した。そして広場のなかほどに来たことを感じ、ふと足を止めた。かろうじて浮かぶ炎を目前にして、光の筋をそこに留めるようにして、こみ上げてくる気持ちのまま、体を動かして、踊った。自分がいつも踊っていた、家族や祖先やきょうだいと通わせていた、あの命だった。ああ、それなのに上手く身体が動かない。
動こうとしてもがくと、さらに重たくて苦しかった。。。
訳もわからず、何も気がかりに出来ないまま、そしてふるさとの祈りの唄をうたった。
そしてその唄にはないことばを思った。
(どこか果てしないと思っていた異なる地では 雨がいつでも恵みとしては現れなかったように 私はその声を 喜びも苦しみも 慈しみとして見るでしょう・・・)
魚たちがフアの目の前を羽ばたいていった。泡が帯のように、フアをかすめていった。息が苦しかった・・・。
その時、なに不自由なく飛ぶあの鳥たちが、またこちらに一目散に向かってやってきた。。。今や、それだけのためにと言いたくなるほど忙しなく、どこか苦しそうに、フアの前で向きを変えて鳴き声をあげた。フアは鳥たちの羽ばたきに合わせて両手を動かし、応えるようにして踊った。今度はしっかりと、捕えるようにして・・・。
炎と矢印は、再び自らの意思で動き出した。そして盾と剣のようにして、フアの手をとった。
フアは両手をいっぱいに伸ばして、その燃える炎を空にかざした・・・。
私は ここにいます ふるさとよ 私はここで きっとここに あなたをさびしいものになど決してしません ここでは運び出せずに 私とともに在りますからね 大地とともに 生きますからね
きっと私 ここにいるから いつのときも どこからでも
この声を 世界中のすべてへ 届けてくださいね・・・
その時、フアの前で景色が変わった。苦しさも頭痛もすっかり消えていた。フアのその言葉のひとつひとつに、手を繋ぐように頷くようにして、いたずらに飛んでいた鳥たちが交錯して、お互いに動きをサインし合うようにし、舞い上がっていった・・・。そして、-
ーーー知らない誰かの机から盗んできたそのチケットの形になって、風になるようにしお互いを支えあいながら、水面の向こうへと羽ばたいていったのだった。どこまでもどこまでも、視界の果てへ向かって、漂い続けていった。
フアは自分の踊りが時を止めたような気持ちになった・・ーー
(私が、・・・私がこの空へ、この心を向けていたの・・・?)
「どこまでも、行きなさい」
――
頭は元より軽くさえなった気がした。フアは髪を手ぐしで軽くまとめた。
なにか静かな・・・ゴウ、ゴウという音が聞こえる。そして遠くでも何か鳴っている・・・。笛のような、何か・・・どこか苦しそうな、繰り返される音が・・・。
布のようなものが、包んでいたように思えたその水面がゆっくりと引いていき、同時にこの海ごと乾かすような、木々の根の生える大地のようなものが見え始めた。
谷がつくる隙間の平地のなかで、棚のようになった丘が その形に強い影を落とし、そのうち水溜りにでもなってしまいそうだった。
もう夢なのかもしれない、とそれを見ながらフアは思った。何かの声に気付いたとしても 抱えきれない・・・。ここに置いていって欲しい程・・・。魔王が見せていた苦しさは、苦しさとしての意味を変えようとしていた。
フアは、次第に温かくなる空気を感じながら、今自分の手のひらで燃える盾と剣に対して祈った。 「置いて行くことはできない・・・私が 再び必要を知るまで・・・」
私が知りたいのは、この森のことよ。この空ごと、途方もないくらいにすべて。彼らの知りたいこともまた、ここの事なのよ。この掌でも、失くさないのよ。
勝利の炎は、おそらく与えられたものの形をしてはいなかったのだ
フアの頬を涙が流れた・・・。
届くべきものがあるものは、その境を決して見失わないわ。連れて行かなきゃ。
信じるということをフアはこれほどに捕らえたような気持ちになったのは初めてな気がした。盾と剣は、フアの両手に支えられながら、さらさらと黒い砂になった。
「温かい記憶は 優しい記憶は、きっと発見すべきだったものを隠してもいたけれど、けして私の成長を妨げようとはしていなかった 」
フアは 黙って走り出した。笛の音の繰り返されるほうへ。もう身体は重くなかった。土に飲み込まれていく水面と、輝き出す光線は、徐徐にフアのつま先を、肩を、のどを、照らし出し乾かしていった。自分の呼吸を、軽くなった身体で聞いていた。
フアの蹴る大地は、木々のあいだを見つけては その香りを大気に跳ね上げ、太陽の光を浴びていったのだ。
――――
笛の音は、吸い込まれるようにして消えていった。フアは少し不安になって、ふとあたりを見回すと、とたんにズサッと転んでしまった。足元に固い地面があった。煉瓦か石のような、均された地面だった。
その肌色の地面が、視界に霧がたちこめたような白くて湿度の高い空間にただただ延びていた。
フアは、慎重に身体を起こした後、ふらつきながら、この地面を歩いてみた。自分がまるで何も持たない空っぽのような、羽の生えたような気持ちになった。
――― ―――― ――――
フアが辿りついたのは、水色の空気が漂う、反射する空間だった。
ここはどこなの・・・?水も炎も光も風もすべて、ここに閉じ込められているような気がした。
踊りの途中で溢れていったような感覚は、消え去ってはいなかった。そう・・・。このとてつもない深い悲しみは・・・。
霧が晴れていくように、誰かの姿が見えた。
ウノスケとエスレイだった。
髪の青い少年の、手を振る姿が見えた。「フアだよね?」
「そうよ! (彼女は思わずふき出して)
ウノスケなんでしょう?」
エスレイがフアを見つめた。エスレイは何か包みをしっかりと抱えていた。
「ウノスケ・・・。これ、は?」
「えっと・・。連れて来るほかなかった物だよ」
フアは彼が大丈夫だったことに、とても安心した。
「じゃあ…エスレイ・・・それはなに?」
その時、エスレイの抱えた包みが強烈な光を放ち、バサバサと包み紙を祓い捨てて、空高くに消えていった。エスレイはハッとしたような丸い目をして、その光線を纏いながら、それを追うように、空まで上っていった。そびえ立つ塔のように思えた。
「どうして・・・?」フアとウノスケはエスレイを目で追った。
エスレイが、何か見えない、眩いものを、捕まえようとしていた・・・。
ウノスケとフアは沈黙したあと、顔を見合わせた。「変われるよ」「変わるんだわ」
花のように移ろい、変わっていく、自分たちを受け入れる家が・・・。
彼らはいま、自分自身を見届けていた。
――――
フアはウノスケをじっと、黙りながら見た。
ウノスケは遠くを見ながら呟いた。
「良かった、本当に」
フアも頷いた。
白い霧がまた立ち込めていた。その霧を割くようにして、煙のような雲もこちらへと流れてやってきていた。
何か、ゴウ、ゴウと笛の音がするのだ。
塔のようにそこに残る残像が、影のように立ち尽くしていた・・・。
「笛の音がする・・・。 私、さっきこの音をずっと聴いていたのよ」
「これも・・・霧笛かな」
「どういうこと?」
「霧や靄で灯台の光が見えないときに、船に向かって こっちだぞと鳴らしてくれるんだ」
フアはふるさとの、狩りの笛を思い出していた。
何かが遠くに見えてきた。何かが・・・。
この、形のない言いようの無い街全体が、まるでそこに隠すものまでを照らし合うような、とても懐かしい景色だった。
雲の上でも歩くかのように、自分の重さが掴めなかった。
「不思議だわ。ここの場所だけはずっと在り続ける気がするもの」
ウノスケは静かに、深く頷いて、そのあとの沈黙の時、思わずまじまじとフアを見た。
「こんなに・・・こんなにも心が寂しくなると思わなかった」
何か、歌うような声が、とても近い場所から聞こえる・・・。
「あぁ・・・きっと応える力を求めていく、私は沢山の声を、きっと聞く」
「私はきっとことばを持つ」
それまでもてなされる予定さえなかった場所であっても、門は、ほんとうはいつの時も開かれていたのかもしれない。許されることを ここまで 待たせることもせずに―
何か今も留まるものを引き出すように、フアが囁く声で呟いた。
「パレードは・・・」
「大丈夫」
「俺は・・見たよ。彼らの命を」
フアは内側から何かを知るような、新しい風が吹くような気持ちがして、抱えていた胸を撫で下ろした。再び自分がいたことのある大地に戻ってこられたような気がした。
人々の話し声がしてきた。人影がいくつも行き交おうとしていた。
小走りで路地を抜けながら、
「そうよね 私も受け取れたのよ 預かったのよ そこにいる私から」
--もしくは、本当にあの部屋から突然運ばれるようにして、出て行ったものから。
フアはふと遠くを見たのだった。
瑞々しい空気が漂っていた。光を捕えるような、絶えず映し合いながら伸びる光線を放つような、そんな円環した世界のように思えた。
「ここもまた、テイト邸なのかしら?」
「・・・分からないけど・・。でも君の開いた扉の場所だと思う」
笛の音が小さくなっていった。ふと立ち止まってしまったが、そんなことはないと思わせた。
ふたりは港までの、舗装された道を歩いた。
エスレイが薄い霧のなかで、影のような服を纏って、待っていた。渡船場をもうけた海岸と浜辺とが、いくつもの装飾された船を用意して、多くの人々や多くの荷物を待ち受けていた。
フアは立ち止まって黙っていた。そしておもむろに聞いた。
「ウノスケは・・何を見たの?」
ウノスケはふと止まって、フアを見た。
「魔王がいてくれたおかげだった 途方もない闇が本当はあるような気がした それを知れてしまった・・・」
ウノスケは心のなかで、太陽の影を受けた。そのなかで、エスレイの先導する船を漕ぎ続けた。
両手をゆっくりと、泳ぐようにして、掻いてみせた。
フアも手のひらを海に向け翳して、波を見ながら繰り返し後ろへ波をつくってみせた。
何かを勝ち取るということが、口にさえすることが、どれほど恐ろしい望みであり続けるか、何に背中を掴まれていくのか・・・それでも救い出すものが待っていることを、忘れてはいけなかった。その手を見紛うことを、しっかりと恐れたかったんだ。
「かならず戻ろう、帰るためにここまで来たのだから」
フアは静かに呟いた。「そうね。・・・でも、帰らないままの自分を許せたら、きっと誰かも どこかを待ち望めるわよね」
ウノスケは、彼女のなかに海が生まれたような感覚になった…。何に出会ったのかな。
「私も きっと歩きなおすわ 迷子を引き受けましょう」
なんたって優しい言葉だろうかと、ウノスケは思った。
すべてが秘密になっていくような、すべてが光に乗って知らされていくような、そんな気持ちだった。
ウノスケは 指先から 世界が生まれていくのを見送っていた。かの山を行く、あの海を行く その道で。
フアは自分を見つめるエスレイの額に触れた。
「ゴンドラに乗りたい」と、言った気がした。
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