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#竹内酒造直売所
doshinotake · 1 year
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The北海道ファーム~農家が作ったお米ソフト~
おいしいくりやま第40回は、栗山町の農産物取扱店「The北海道ファーム直営店」を紹介。
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田んぼの中に突如ソフトクリーム屋さんが出現
令和元年8月1日、道道3号線を角田から継立方面に向かう坂道の手前、栗山町旭台にオープンしたThe北海道ファーム直営店。
栗山の自社農場で育てた特別栽培米を“米麹の甘酒”として商品化。その甘酒を使用した“ライスミルクソフトクリーム”が看板メニュー。甘酒レベルが三段階で楽しめる。米麹のやさしい甘さが人気の甘酒フローズンもおすすめだ。
お土産には一日二十個限定の“北の白いプリンサルルン”が好評。栗山の自然の中で、お米を食べて育った黒翡翠鶏の水芭蕉卵を使用。卵の黄身は白く、プリンも真っ白で味の創造がつかないが、確かに濃厚な卵の味がする。新商品も続々登場しており、“米酢のピクルス”はカボチャやアスパラを使ったオリジナルのピクルスとなっている。
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葬儀屋さん、米を作る
The北海道ファームは、千葉県内で7つの葬儀場を運営する株式会社十全社のグループ会社。葬儀には欠かせない返礼品や料理に利用されるコメを自社で生産することを目的として、平成25年11月に設立された農業法人だ。同社は他にも葬祭関連で生花・料理・米販売事業も展開している。
農業法人立ち上げの際に北海道移住に手を挙げたのが、十全社の葬儀場の一つである浜野店で当時責任者を務めていた栗原直樹さんだった。現在は栗山町に移住し農業に従事、The北海道ファームでは取締役社長を務めている。
神奈川県出身で葬儀業歴約15年の栗原さんは葬儀業について「多くの人にとって初めての葬儀。ご家族のご相談にのり、フォローするやりがいのある仕事です。司会をはじめ業務は多岐に渡りますが、色々な方の人生を最後に少しだけ拝見させていただく、とても素晴らしい仕事なんです」と話す。
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千葉県は農業が盛んな地域であり、十全社に勤める従業員にも兼業農家が少なくない。根っからの葬儀屋さんである栗原さんが北海道に移住し就農するという大きな変化について、農業の厳しさを知っている従業員からは心配の声が上がったという。当の本人である栗原さんは、祖父が新潟で農業を営んでいたことで農業への興味があった事と、年数回旅行に訪れるほど北海道が好きで、関東に住んでいる自分が北海道に移住できるこの上ない好機だということでワクワク感しかなかったと話す。
栗山町で農業を営むということ
十全社の北海道への進出は、近年関東圏で北海道米がブランド米として認知度が高まっていること、企業としての大規模な農業展開を考えた時にまとまった農地が取得できるという理由からだった。十全社本社から羽田空港へのアクセスが良いこともあって、空港から近い栗山町は、食品加工場を持つ本社への生産物の輸送が容易であることもメリットが大きい。
「土地勘のない中での農地探しでしたが、実際にここで農業を始めて、土地のポテンシャルの高さに驚いています。環境に恵まれるとは正にこのことで、周りの農家さんがとても親切、風土もいい。栗山で良かったと心から思います」と栗原さんは話す。
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「企業が農業を始めるといっても、農��従事者となった自分たちは初心者だったわけです。毎日が新鮮で面白い。最初、“お米って花咲くんですね”って言ったら農家さんに笑われちゃいましたよ」と栗原さんは苦笑いした。
全く知識のないところから始まった栗原さんの米作り。基本に忠実に、おいしい米づくりを目指して真面目に取り組んだ結果、“北海道水芭蕉米むすぶ”が平成28年モンドセレクション金賞受賞。平成29年の第11回あなたが選ぶ日本一おいしいお米コンテストのプレミアム部門では優良金賞を受賞した。
十全社の本社機能を十分に生かした販売網も成長を加速させる。葬儀の返礼品だったお米が、実際に食べたお客様に好評なこともあって、購入を希望する人も増えてきたという。
「直営店をオープンしたことで、お客様の声が直に聞ける、顔が見える。やっぱりこれが一番嬉しいですね。会社が与えてくれた機会でしたが、今私たちはこの土地に住み、農作業をして生活を営んでいる。地域の一員としてこの土地、北海道、そして農業の魅力をもっと発信していきたいです」と栗原さんは語った。
2019.9.8 道新大竹販売所
The北海道ファーム直営店の情報
場所▶栗山町旭台168-63 TEL▶0123-72-2422
営業時間▶11:00~16:00 定休日▶不定休
※情報は変わることがあります。最新の情報は公式サイト・SNSでご確認ください。
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trinityt2j · 4 years
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ダ-ティ・松本 不健全マンガ家歴30年[-α]史 ●はじめに  この文章は同人誌「FUCK OFF!7」において書かれたものをベースにして逐次増補改定を加えていき、いずれ歴史の証言として、[というほど大袈裟なものでは無いが…]一冊の本にまとめたいという意図のもと、近年どんどん脳が劣化していくダ-松の覚え書きとしても使用の予定。事実関係は間違いに気付き次第 訂正。同人誌発表時のものも今回自粛配慮して、実名、エピソード等を削除した箇所有り。有り難い事に某出版社よりすでに出版打診があったがまだまだその時期ではない、マンガを描く事が苦痛になったら活字の方も気分転換にいいかも…。 /*マークは今後書き加える予定のメモと心得たし。 ●前史/修行時代・1970 さいとうプロの短くて濃い日々……  1968年に上京。数カ月後東京は戦場に。熱い季節の始まりだった。 2年後親元を飛び出し友人のアパートに転がり込む。場所は渋谷から井の頭線で駒場東大駅下車、徒歩5分。地図で見ると現在の駒場公園あたり。昼間でも裸電球を付けなければ真っ暗という馬小屋のような部屋。数メートル先には当時の建設大臣の豪邸が…。前を通りかかるだびに警備のおまわりがじろり。  いつまでも友人に迷惑もかけられないのでとりあえずアシスタントでも…と手元にあったマンガ誌をひっくり返し募集を探す。幸いさいとうプロと横山まさみち氏のところでアシ募集があり両方応募。どっちか一つ通れば…と思っていたら何と両方受かってしまい、双方に条件を聞く。当時高円寺 のアパート、風呂無し4畳半の部屋で相場12000円の時代。前者一ケ月の給料10000円、後者20000円との事。給料の方がボロアパートの家賃より安いとは…!どう考えても前者は食う方法がないと判断し、後者さいとうプロへ入社。  ここに居たのはたったの半年に過ぎないけれど今思えばこれだけで本が一冊描ける位の濃い半年だった。しかしこのあと2X年分も書かねばならないことを思えば今回はいくつかのエピソードを書くだけに留めよう。  ダー松が入った時は小池一夫氏[クビ?]、神田たけ志氏や神江里見氏、きしもとのり氏[現・松文館社長]等と入れ替わりの時で、きし氏の女遊びの凄さと神江氏の絵のうまさは伝説になっていた。現在「亀有」「ゴルゴ」が歴代単行本の巻数の多いベスト1、2位だが[ともに100巻を越えた]、3位は神江氏の「弐十手物語」[70巻以上]だという事は知ってる人は少ないだろう。  当時の制作部は、さいとうたかを[以下ゴリ]をトップに石川班[ゴルゴ13、影狩り]、甲良班[バロム1]、竹本班[シュガー、どぶ等]の3つに分かれ、それぞれのキャップにサブ・チーフが一人づついて、ヒラが2~6人いるというシステムで総16名。独立し現在も活躍中の叶精作、小山ゆう、やまさき拓味の3名がそれぞれの班のサブ・チーフ。ダー松は石川班で左右1メートル以内に叶氏とゴリにはさまれ、のんびり出来ない状態で、はなはだ窮屈。叶氏はほとんどマンガ家になりたいとも思った事のなかった人で、設計事務所みたいなところで図面を引いていた人がなぜマンガプロダクションに来たのか不思議だった。格別マンガ好きというわけでもなかったせいか現在まで全ての作品が原作もので、オリジナルは一本もないのはそのせい?祭りなどの人がうじゃうじゃ出てくる群集場面が得意。 やまさき氏は大の競馬好き、現在競馬マンガを多く描くのは当時からの趣味が生きたというべきか。もう一つの趣味である風俗についてはここでは書くのは差し控えよう。小山氏は後日ここの事務の女性と結婚するが、当時はつき合っているとは誰も知らず、スタッフの一人がやめる時その女性に交際を申し込んだら、茶店に呼び出されて小山氏からと凄まれたと聞いたが嘘か本当かは不明。  ここでの生活は新入り[ダー松を含めて3名]は朝の9時前に会社に行き、タイムカードを押し、前日のごみをひとまとめして外に出し、トイレ掃除をして、16人分のお茶を2Fで入れて制作部のある3Fへの狭い階段をふらふら昇り、机ごとに置いて歩き、終れば、一息ついて買っておいたパンと牛乳を3分で食べて、やっとそれから仕事。しかし新入りの3名の内1人折茂は常に遅刻なのでいつも佐藤と2人でやっていた。佐藤も遅れる時はダー松1人で。辞めてから10年位、16人分のお茶を持って階段をふらふら歩きお盆をひっくり返す夢をよく見たものだが、実際ひっくり返したのは折茂と佐藤の2人で、よく茶碗を割っていた。 たまには夕方6時には帰れるが、普通は夜10時までで、アパートに帰って銭湯に行けばもう明日にそなえて寝る時刻、このくり返しの日々。週1日は徹夜で明け方に帰り、その時は当日の昼12時出勤。休日は日曜日のみで忙しい時はそれも取り消し。つまり休みは月3日。[これで給料2万円!]そんな日々の繰り返し。  夕方までは皆和気あいあいと仕事していたが、ゴリが夕方6時頃に「おはようさん」と現れると、全員無駄口がたたけなくなり、仕事場はシーンと静まり返り、以下その日が終わるまでは疲れる時間がただひたすら流れるのみ。 当時石川班は「ゴルゴ13」と「影狩り」を描いていたがゴリは主人公の顔と擬音のみ。マジックで最後に入れる擬音はさすがに入れる位置がうまいと感心。ゴルゴの顔はアルバムに大小取り混ぜてコピーがとってあり、忙しい時は叶氏がピンセットで身体に合わせて「これが合うかな~」といった感じで貼り付けていた。  その頃すでに「ゴルゴ」は近々終わると噂されていたが、現在もまだ続いているとは感嘆ものだ。 ゴリと石川氏が「ゴルゴ」の最終回の終わり方を話しているのを聞いたら、何ともつまらない終わり方。しかしあれから20年以上も経つ事だし、きっともっといい終わり方を考えてあるだろうなと思っていたら、先日TVで本人が最初から考えてある終わり方だと言うのを聞き、がっくり。企業秘密だろうから書かないが、作品の最初の方に伏線が数度出ているのでわかる人にはすぐわかる筈。  辞めた小池一夫氏とさいとうプロに何があったかは知らないが、漏れ聞く話では結構もめ事があったみたいだ。 「子連れ狼」で「ゴルゴ13」と同じ設定の回があった時、「小池のガキャー訴えたるー!」とゴリが吠えていたものだが、結局たち消え。さいとうプロ作品で脚本を書いた本人が辞めた後、他の作品で同趣向の作品を書いても著作権は脚本を書いた原作者のものだと思うがどんなものだろう。その回のタイトルは忘れたが、ある場所に居合わせた人々が武器を持った集団の人質となり、その中に素人だと思われていた主人公、実は殺しのプロフェッショナルがいて、次々とその集団を殺していく、といったプロットで、ミッキー・スピレーンの短編に同じような作品があり、本当に訴えていたら恥をかいたと思うが・・・。  そういえば事務の方には山本又一郎という男がいたが、後年映画プロデューサーとして 「ベル薔薇」や「太陽を盗んだ男」等を創る事になるが、この野郎が生意気な男で当時皆に対して10歳は年上、といった感じの振る舞いだったが後日俺と一つしか年が離れてなかった事を知り、そんな若造だったとは、と皆怒ったものだ。以来奴の事を「マタさん」から「クソマタ」と呼ぶようになる。  さて半年後に先輩たちが積もり積もった不満を爆発させる反乱事件が勃発し、2年は居るつもりでいたここでの生活も、辞めるか残るかの選択を迫られる。残ればさいとうプロの現体制を認める事となるので、ダー松も退社。 しかし反乱グループとは別行動をとって一人だけの肉体労働のアルバイター生活へ突入。超ヘビーな労働の製氷工場、人使いの荒い印刷所、命綱もない高所の足場で働く建設現場等々。トラックの助手をしていた時は運ちゃんが「本宮ひろしって知ってるか?うちの息子の友達でさぁ、昔、おっちゃんメシ食わしてくれーなんて言ってきたもんだが、今は偉くなっちゃってさー、自分のビル建てたらしいよ。赤木圭一郎みたいにいい男なんだ。」とうれしそうに話してくれたが、運ちゃんには悪いがそいつは今も昔も一番嫌いなマンガ家なんだ。あの権力志向はどうにかならんか。天下を取る話ばかりだもんなぁ。  ところで後日、単行本の解説で高取英が「さいとうたかをのヤローぶっ殺してやる!」とダー松が言ったなどと書いているが、小生はそんな危ない事言った覚えはないのでここできっちり訂正しておきます。 「会社に火ィつけてやる!」位は言ったかも・・・[嘘] 。 悪口は言っても別に怨みなど無い。ところでアシスタントとしてのダー松は無遅刻、無欠勤以外は無能なアシだったと反省しきり。理想的なアシスタントとはどんなものか、それはまた別の機会に。 *入社試験はどんな事を? *さいとうプロには当時ほとんどろくな資料は無かった? *ハイジャックの回の飛行機内部の絵は、映画「大空港」を社内カメラマンが映画館で写してきたものをもとに描く。 *当時のトーンは印刷が裏面にしてあり上からカッターでけずったり出来ない。 *トーンの種類は網トーンが数種、それ以外はほんの3、4種類位しかなかった。 *仕事中のB.G.M.はアシの一人が加山雄三ばかりかけるので大ひんしゅく。好評だったのは広沢虎造の浪曲「次郎長三国志」、初代桂春団次の落語。眠気もふっとぶ位笑えた。 ダ-松が岡林信康の「見る前に跳べ」をかけてるとゴリは「何じゃー!この歌は!」と怒る。名曲「私たちの望むものは」はこの男には理解不能。 ●1 9 7 1 ~ 1 9 7 4  持 ち 込 み & 実 話 雑 誌 時 代    当時は青年劇画誌全盛時代で、もともと望月三起也氏や園田光慶氏のファンで活劇志向が強く、 主にアクションもののマンガを描いて持ち込みに行っていた。今のようにマンガ雑誌が溢れかえって、山のようにマンガ出版社がある時代ではなく、数社廻るともう行くところがない、という状態で大手では「ビッグコミック」があっただけで 「モーニング」も「スピリッツ」も「ヤン・ジャン」も当然まだない。テーマを盛り込んだ作品を持って行くと編集から「君ィ、うちは商売でやっているんだからねぇ」と言われ、アクションに徹した作品を持って行くと「君ぃ、ただおもしろいだけじゃあねぇ」と言われ 「おい、おっさん!どっちなんだ?」とむかつく事多し。この辺の事は山のように書く事があるが、有りすぎるのでパス。 *そのうち書く事にする。  ただ金属バットで頭をカチ割って脳みそをぶちまけてやりたいような奴が何人もいたのは事実。今年[’97]「モーニング」に持ち込みに行って、断られた奴が何万回もいやがらせの電話をかけて逮捕された事件があったが、そのうちトカレフを持って殴り込みに行く奴が出てくるとおもしろい。出版社も武装して大銃撃戦だぁ!などと馬鹿な事書いてどうする!とにかく持ち込みにはいい思い出が何もない。そんな中、数本だけ載った作品は渡哲也の映画「無頼」シリーズの人斬り五郎みたいな主人公がドスで斬り合う現代やくざもの[この頃の渡哲也は最高!]、ドン・シーゲルの「殺人者たち」みたいな二人組の殺し屋を主人公にした『汚れたジャングル』、陽水の「傘がない」が好きだという編集さんの出したテーマで車泥棒とブラックパンサーの闘士とのロード・ムービー風『グッバイ・ブラザー』、拳銃セールスマンを主人公にした『ザ・セールスマン』、等々10本ちょい位。  さてその頃並行してまだエロマンガ専門誌といえるようなものがなかったような時代で、実話雑誌という写真と記事ページからなる雑誌に4~10ページ位を雑誌の味付けとして描かせてもらう。当時、お手本になるようなエロマンガなど皆無で、エロ写真雑誌を古本屋で買ってきてからみのポーズを模写。マンガで裸を描く事はほとんど初めてで、これがなかなか難しいのだがエロシーンを描くのは結構楽しい。当時出版社に原稿持って行き帰りにグラフ誌をどっともらって帰るのが楽しみだった。SM雑誌の写真ページも参考になる。なお当時のペンネームは編集部が適当につけた池田達彦、上高地源太[この名前はいけてます。また使いたい]等。その数年後、逆にマンガが主で記事が味付けというエロマンガ誌が続々と創刊される。 *さいとうプロをやめたあと編集や知人に頼まれて数人のマンガ家の所へ手伝いに行く。秋田書店「漫画ホット」で『ジェノサイド』を連載中の峰岸とおる氏の所へ行き、仕事が終わったあとまだ売れてない頃の榊まさる氏も交え酒を飲む/川崎のぼる大先生のところへ数日だけ/3000円たこ部屋/小山ゆうオリオンププロ *当時のアルバイトは記憶によると時給150~200円位/大日本印刷市ヶ谷駐屯地/坂/ *一食100円/どんなに貧しい漫画家もみかん箱の上で書くやつはいない/TV萩原サムデイ *ろくでなし編集者 ●1 9 7 5 ~ エ ロ マ ン  ガ 誌 時 代 に 突 入   実話誌は意外とエロは抑え目で描くように口すっぱく言われていたのだが、以前活劇っぽい作品を描かせてもらってたが潰れてしまった出版社にいた児島さんが編集する「漫画ダイナマイト」で打合せも何にもなしに好きに描かせてもらい、ここでエロマンガ家としての才能[?]が開花する。描いてて実に楽しく眠る時間がもったいない位で、人に睡眠時間が必要な事を恨んだ程。出来る事なら一日中休まず描いていたい気分で完全にはまってしまう。  初の連載作品「屠殺人シリーズ」はこの頃から/『漫画ポポ』。中島史雄氏は大学時代にこの作品を見ていたとの事で、トレンチコートにドクター・ペッパー模様のサイレンサーつきマグナム銃で遊戯人・竜崎一也が犯しまくり殺しまくり、サディスト、マゾヒスト、殺人狂、まともな奴が一人も出てこない性と暴力の祭典。ちなみにタイトルページは描かないでいい、との事でどうするのかと思っていたら編集部が中のワンカットを拡大してタイトルページを創り、1ページぶんの原稿料をけちるというせこいやり方だった。けちるといえば、原稿の1/3にCMを入れる際、原稿料を1/3削った会社もあり。 ●1 9 7 6 ~   後に発禁仲間となる高取英と出逢い、『長編コミック劇場』で「ウルフガイ」みたいのをやろうと、怒りに震えると黒豹に変身してしまう異常体質の主人公を設定し、獣姦のイメージで「性猟鬼」なるエロマンガをスタート!しかしその号で雑誌が潰れる。この路線は今でもいけそうな気がするがどんなものだろう。  この頃の珍品に「快楽痴態公園」がある。タイガースに11-0とワンサイドで打ちまくられ���怒ったジャイアンツファンのおっさんが公園でデート中の女をずこずこに犯りまくり、その間にジャイアンツは9回裏に12-11とゲームをひっくり返してしまうのである!その時のジャイアンツの監督はもちろんミスター長嶋、先発堀内、打者は柴田、土井、高田、王、張本等々がいる。タイガース監督は吉田、ピッチャー江本、キャッチャーフライを落球する田淵、そしてあの川藤もいる。解説は牧野…… ●1 9 7 7 ~   上記2作品を含む初の単行本「肉の奴隷人形」が久保書店より発行。後にリングスの会場で逢った佐竹雅昭氏はこの本が一番好きとの事だった。  「闇の淫虐師」もこの年スタート。一話完結でバレリーナ、バトンガール等々、毎回いろんな女たちをダッチワイフのごとくいたぶりまくるフェチマンガとして1979年まで続け、単行本は「堕天使女王」「裂かれた花嫁」「エロスの狂宴」「陶酔への誘い」「終りなき闇の宴」の全5巻。ちなみに今年「闇の淫虐師’97」を『コミック・ピクシィ』にて発表。いつか『闇の淫虐師・ベスト選集』でも出したいところ。 [’98に実現、’99には続刊が出る] ●1 9 7 8 ~   久保書店より第2弾の単行本「狂った微惑人形」。収録作品の「犯された白鳥」は持ち込み時代に描いた初のバレリーナもの。結構気に入っていた作品なのに、後年再録の際、印刷所の掃除のおばさんが捨ててしまい、この世にもはや存在しない不幸な子となる。[’99に宝島スピード・ブックに本より直接スキャンして収録]  エロ、グロ、ナンセンスの会心作「恍惚下着専科」を発表。サン出版より同名の単行本発行。また同出版より「コミック・ペット/堕天使画集」として今までの作品を続々単行本化。全10巻位。これは今でも古本屋で流通しているとの事で、まだまだ世間様のお役にたっているらしい。  この年、「堕天使たちの狂宴」を描いていた『漫画エロジェニカ』が発禁処分、来年でもう20年目となる事だし、当時の人たちと集まってその大放談を収録し「発禁20周年特集号」でも創ってみようかと計画中。さて当時の秘話としてもう時効だろうから書いてみるけど、前述の『堕天使画集』に「堕天使たちの狂宴」は収録される事となり、当然修正をガンガン入れて出版されるものと覚悟していたら、米国から帰国後出来上がった本を見ると発禁になった状態のまま再録されている!以下桜木編集長との会話 ダ/いや~、いい度胸してますね。 編/だって修正してあるじゃない。 ダ/その修正状態で発禁になったんですよ 編/・・・・・ ダ/・・・・ 以下どんな会話が続いたのか失念…… それにしてもサドの「悪徳の栄え」の翻訳本は発禁後20年以上して復刻されたけれど、「堕天使たちの狂宴」は半年もしない内に単行本になっていたとはエロ本業界とは何といいかげんな世界!しかし作品そのものは、今見るとリメイクする気にもならないどうという事もない可愛い作品で、結局あれもあの時代の姑息な政治のひとかけらに過ぎなかったのだろう。いい点があるとしたら一つだけ、それまでのエロマンガになかった瞳パッチリの少女マンガ的ヒロインを登場させた事位か。今の美少女エロマンガは本家の少女マンガもかくや!という位眼が大きいが当時としては画期的だったかも。 ●1 9 7 9 ~   この年の「淫花蝶の舞踏」は「堕天使たちの狂宴」よりずっといい/『漫画ソフト』。今年出た「別冊宝島/日本一のマンガを探せ!」でベスト2000のマンガがセレクトされているが、ダー松の作品の中ではこの作品が選ばれている。教師と生徒、二人の女たちが様々な男たちの手によってに次々ともてあそばれ、闇の世界を転々として再び巡り会う時、女たちは蝶と化し水平線の彼方に飛び去り、男たちは殺し合い血の海の中で屍と化す。ダー松作品にはこのように男根が女陰の海に飲み込まれてに負けるパターンが多い。[性狩人、遊戯の森の妖精、美少女たちの宴、人魚のたわむれ・・等々]  この年からスタートの「性狩人たち」シリーズ[劇画悦楽号]はバレエ、バイオレンス、SEXの三要素がうまくからみあい、それぞれが頂点まで達する幸福な神話的作品だ。ここから派生した路線も多く、美少年路線は’83の「聖少女黙示録」へ。身体障害者路線は’80の「遊戯の森の妖精」、’84からの「美姉妹肉煉獄」へと繋がる。’81の最終話「ハルマゲドンの戦い」ではせりふなしで24ページ全てが大殺戮シーンという回もあり、中でも一度やりたかった見開きで銃撃戦の擬音のみという事も実現。こんな事がエロマンガ誌で許される時代だった。ちなみにこの回は[OKコラルの決闘・100周年記念]だが、何の意味もない。単行本は最初サン出版より、その後久保書店より「白鳥の飛翔」「少女飼育篇」「ヘラクレスを撃て!」「眼球愛」「海の女神」の全5刊。現在入手出来るのは後の3刊のみ。[「海の女神」も最近在庫切れ]  この年出た「人魚のたわむれ」の表題作は性器に{たこ}を挿入するカットを見た編集長が「・・・[沈黙]・・・頭おかしいんじゃ・・ブツブツ・・気違い・・・ブツブツ・・・」と呆れてつぶやいていたのを記憶している。たこソーニューは今年出た「夜顔武闘伝」で久しぶりに再現。なおこの作品は’83にマンガと実写を噛み合せたビデオの珍品となる。水中スローモーションファックがなかなかよい。 ●1 9 8 0 ~   なぜか「JUNE」の増刊として作品集「美少女たちの宴」がサン出版より出版され、その短編集をもとに脚本化し日活で映画が創られる事となる。[「花の応援団」を当てたこの映画の企画者・成田氏は日活退社後「桜の園」等を創る。]その際、初めて映画撮影所を見学し、せこいセットがスクリーン上ではきちんとした絵になってるのを見て映画のマジックに感心。タイトルはなぜか「性狩人」で、’96にビデオ化された。監督・池田敏春のデビュー第2作となり現在までコンスタントに作品を発表しているが、出来のいい作品も多いのになぜか代表作がない。初期の「人魚伝説」が一番いいか。  この映画に合わせて「美少女たちの宴」を2~3回のつもりで「漫画ラブラブ」で描き出すがどんどん話がふくらみ、おまけに描いてる出版社が潰れたり、雑誌が潰れたりで雑誌を転々とし条例による警告の嵐がきた「漫画大飯店」を経て、「漫画ハンター」誌上で完結したのは’83になる。この作品でクリトリスを手術してペニスのように巨大化させるという人体改造ものを初めて描く。  この年の「遊戯の森の妖精」は身体障害者いじめ鬼畜路線の第2弾!森の中の別荘に乱入したろくでなしの二人組が精薄の少女の両親達を虐殺し、暴行の限りをつくすむちゃくちゃな作品で、雷鳴の中、少女の性器に男達のペニスが2本同時に挿入されるシーンは圧巻!しかしこのとんでもない男達も少女の性のエネルギーに飲み込まれ、朽ち果てていく・・・。 ●1 9 8 1 ~   美少女マンガ誌のはしり「レモン・ピープル」誌創刊。そこで描いたのが「白鳥の湖」。虚構の世界のヒロインを犯すというコンセプトは、アニメやゲームのヒロインをずこずこにするという今の同人誌のコンセプトと同じかも。バレエ「白鳥の湖」において悪魔に捕われたオデット姫が白鳥の姿に変えられる前に何にもされてない筈がないというモチーフにより生まれたこの作品は、悪魔に男根を植えつけられたヒロインが命じられるままに次々と妖精を犯して歩き悪魔の娘となるまでを描くが、あまり成功したとは言えない。ただ人形サイズの妖精をしゃぶりまくり淫核で犯すアイデアは他に「少女破壊幻想」で一回やっただけなのでそろそろもう一度やってみたいところ。「ダーティ松本の白雪姫」はその逆をいき、犯す方を小さくした作品で7人の小人が白雪姫の性器の中にはいり、しゃぶったり、処女膜を食べたり、と乱暴狼藉![ちなみに両者をでかくしたのが同人誌「FUCK YOU!3」の「ゴジラVSジュピター」]この童話シリーズは意外と好評で続いて「ダーティ松本の赤い靴」を上記の単行本に描き下ろして収録。童話は結構残酷なものが多く、この作品も切られた足だけが荒野を踊りながら去って行くラストは原作通り。 *近年童話ブームだがこの頃もっと描いておけば「こんなに危ない童話」として刊行出来たのにとくやまれる。 「2001年快楽の旅」もこの本に収録。快楽マシーンを逆にレイプしてしまう、珍しく映画「2001年宇宙の旅」風のSF作品。  掲載誌を決めずに出来る限り多くのマンガ誌で描こうというコンセプトで始めたのがこの年スタートした「怪人サドラン博士」シリーズ。「不死蝶」シリーズや「美少女たちの宴」シリーズの中にも乱入し���「漫画ハンター」最終号では地球をぶっ壊して[その際地球は絶頂の喘ぎ声をあげ昇天する!]他の惑星へ行ってしまう。今のところ10誌位に登場。いつかこのサドラン・シリーズだけ集めて単行本化したいところ。ちなみに「サド」と「乱歩」を足して「サドラン博士」と命名。作者の分身と言っていい。 [後年、「魔界の怪人」として全作品を収録して刊行、04年現在品切れ中]  この年描いて’82の単行本『妖精たちの宴』に収録の「とけていく・・」はレズの女たちが愛戯の果てに、肉体が溶けて一匹の軟体動物と化す、タイトルも内容も奇妙な作品。作者の頭もとけていた? ●1 9 8 2 ~ 1 9 8 3   ’83年に「美少女たちの宴」が完結。全てが無に帰すラストのページは真っ白のままで、このページの原稿料はいりません、と言ったにもかかわらず払ってくれた久保書店、偉い![明文社やCM頁の稿料を削った出版社=某少年画報社なら払わなかっただろうな……と思われる……]この作品以外は短編が多く、加速度をつけてのっていく描き方が得意のダー松としてはのりの悪い時期に突入。また10年近く走ってきてだれてきた頃でもあり第一次落ち込み期と言っていい。マンガがスタンプを押すように描けないものか、などとふとどきな考えまで湧いてくる。思えば一本の作品には、いったい何本の線を引いて出来上がっているものなのか。数えた馬鹿はいないだろうが数千本は引いている筈。一ヵ月に何万本とペンで線を引く日々・・うんざりする筈です。  この頃のめぼしい短編をいくつか書くと、少女マンガ家の家に税務調査にきた税務署員が過小申告をネタにねちねちいたぶるが、アシスタントに発見された署員は撲殺される。そして板橋税務署は焼き討ちにあう、といった作品「[タイトル失念]xx税務調査」。[後日読者よりこのタイトルを「色欲ダニ野郎」と教えていただく。ひどいタイトル *編集者のつけるタイトルはその人のセンスが実によくわかる。しかしサイテ-の題だなこりゃ…。 果てるまで「おまんこして!」と言わせながら処女をやりまくる「美処女/犯す!」はラスト、狂った少女が歩行者天国の通行人を撃ちまくり血の海にする。「嬲る!」はパンチドランカーとなった矢吹ジョーが白木葉子をサンドバッグに縛りつけ、殴って、殴って、殴りまくる。段平おっちゃんの最後のセリフ「・・ブスブスくすぶっちゃいるが・・・」「打てッ!打つんだ!ジョー!」「お前はまだ燃えつきちゃいねえ!」とはエロ・ドランカーの自分自身に向けて発した言葉だったのかも。トビー・フーパーばりの「淫魔のはらわた」は電気ドリルでアナルを広げてのファック!とどめにチェーンソーで尻を切断!いまだに単行本に収録出来ず。[’98の「絶頂伝説」にやっと収録]「からみあい」は夫の愛人の性器を噛みちぎる。「危険な関係」はアルコール浣腸をして火をつけ尻から火を吹かせる。この手は『FUCK YOU!2』の「セーラー・ハルマゲドン」で復元。そういえばこの作品の序章と終章だけ描いて、間の100章位をとばすやりかたはこの頃の「禁断の性獣」より。女性器にとりつき、男性器に変身するエイリアンの侵略により地球は女性器を失い滅亡する、といったストーリーで当時聞いた話では谷山浩子のD.J.でこの作品がリスナーの投書でとりあげられ、ダー松の名はダーティ・杉本と読まれたそうな。ヒロインの少女がひろ子という名前なのでこのハガキが選ばれたのかもしれないが、作者は薬師丸ひろ子からとったつもりだったのだが・・。[別にファンではない。] 「女教師狩り」は映画館で観客に犯される女教師とスクリーン上の同名のエロ映画の二本が同時進行し、一本で二本分楽しめるお得な作品。 ’83は’80に「漫画エロス」にて描いた「エロスの乱反射」の最終回の原稿が紛失したため単行本が出せないでいたのを、またまた「仏の久保さん」に頼んでラスト近くをふくらませて「漫画ハンター」に3回程描かせてもらい、やっと’85に出版。見られる事に快感を覚えるファッション・モデルが調教される内に、次第に露出狂となっていき、街中で突然裸になって交通事故を起こさせたり、最後はビルの屋上でストリップショー。そしてカメラのフラッシュの中に飛び降りていき、ラスト1ページはその性器のアップでエンド!  本格美少年・ゲイ・マンガ「聖少女黙示録」も’83。レズの姉たちの手によって女装に目覚めた少年がホモのダンサーたちに縛られなぶられ初のポコチンこすり合いの射精シーン。そして性転換して女となった主いるが、その中の’84の「白い肌の湖」はタイトルで解る通りのバレリーナものだがポコチンを焼かれた男が、一緒に暮ら人公が手術で男になった少女と暮らすハッピーエンド。この作品は単行本「美少女ハンター」に収録されてす二人の女と一人の男に復讐するエンディングがすごい!まず男の性器を切り取り、片方の女の性器にねじ込んだあと、その女の性器ごとえぐり取る。そしてその二つの性器をつかんだまま、もう一人の女の性器にフィストファック!のあげく、その二つの性器を入れたままの女性器をナイフでまた切って、ほとんどビックマック状態でまだヒクヒクうごめく血まみれの三つの性器を握りしめるとんでもない終り方!全くダー松はこんな事ばかりやっていたのかとあきれかえる。もう鬼畜としか言い様がない!しかし「ウィンナー」を二枚の「ハム」で包むなんて・・GOODなアイデアだ、又やってみよう。 ●1 9 8 4 ~   「漫画ハンター」で「闇の宴」前後篇を描き、後日これをビデオ化。雪に包まれた六本木のスタジオで痔に苦しみながらの撮影。特別出演として中島史雄氏が絶妙の指使い、東デの学生時代の萩原一至が二役、取材に来たJITAN氏もスタジオに入ってきた瞬間、即出演で生玉子1000個の海で大乱交。カメラマンが凝り性で照明が気に入るまでカメラを廻さず、たった二日の撮影はやりたい事の半分も出来ず。撮影が終ると痔はすぐに完治。どうもプレッシャーからくる神経性だったみたいでこれに懲りてビデオは一本のみ。 この年の「肉の漂流」は親子丼もので、近所の書店のオヤジからこの本はよく売れたと聞いたが、一時よく描いたこのパターンは最近では「FUCK YOU!3」の「母娘シャワー」のみ。熟女と少女の両方が描けるところが利点。「血の舞踏」は久しぶりの吸血鬼もの。股間を針で刺し、噛んで血を吸うシーン等々いい場面はあるが、うまくストーリーが転がらず3回で止める。短編「果てるまで・・」は核戦争後のシェルターの中で、父が娘とタイトル通り果てるまでやりまくる話。被爆していた父が死んだ後、娘はSEXの相手を捜して黒い雨の中をさまよう。  またリサ・ライオンの写真集を見て筋肉美に目覚め、マッチョ女ものをこの頃から描き出す。しかしなかなか筋肉をエロティックに描くのは難しい。 ●1 9 8 5 ~   くたびれ果ててすっかりダレてきたこの頃、8年間働いてくれたアシスタント女史に代わってパワーのかたまり萩原一至、鶴田洋久等が東京デザイナー学院卒業後加わってダーティ・マーケットも第2期に突入!新旧取り混ぜておもしろいマンガをいろいろ教えて貰って読みまくる。「バリバリ伝説」「ビーバップハイスクール」「ペリカンロード」「めぞん一刻」「わたしは真悟」「Be Free!」「緑山高校」「日出処の天子」「吉祥天女」「純情クレイジー・フルーツ」「アクター」「北斗の拳」「炎の転校生」「アイドルをさがせ」「綿の国星」「いつもポケットにショパン」「バツ&テリー」「六三四の剣」永井豪の絶頂期の作品「バイオレンス・ジャック」「凄之王」「デビルマン」等々100冊以上とても書ききれない位で、う~ん・・マンガってこんなにおもしろかったのか、と感動! そこで眠狂四郎を学園にほうり込んで、今まであまり描かなかった学園マンガをエロマンガに、というコンセプトで始めたのが「斬姦狂死郎」。「六三四の剣」ばりに単行本20巻を目指すものの、少年マンガのノリは今では当たり前だが、当時はまだエロマンガとして評価されず、ほんの少し時代が早すぎたかも。’86に中断、今年’97に「ホリディ・コミック」にて復活!果たしていつまで続けられるか? →後に���斬姦狂死郎・制服狩り」、「斬姦狂死郎・美教師狩り」として刊行完結  前年末から始めた「美姉妹肉煉獄」は身障者いじめの鬼畜路線。盲目の姉とその妹を調教して性風俗店等で働かせ、娼婦に堕していく不健全・不道徳な作品で、肉の快楽にひたっていく盲目の姉に対し妹も「春琴抄」の如く己の眼を突き、自らも暗黒の快楽の世界にはいり、快楽の光に目覚めるラスト。 また、これからは女王様物だ!となぜか突然ひらめき「筋肉女」シリーズの延長としてフィットネス・スタジオを舞台に「メタル・クイーン」シリーズも開始。これは単行本2冊分描いたが、連載途中でヒロインの髪型を歌手ステファニーのヘア・スタイルにチェンジしたり、レオタードもたっぷり描けてわりと気に入っている。  10年近く描いた「美蝶」先生シリーズもこの年スタート!こうしてみるとマンガを描く喜びに満ちた大充実の年だったかも。 ●1 9 8 6 ~   この年は前年からの連載ものがほとんどだが、「エレクト・ボーイ」は空中でファックするシーンが描いてみたくて始めた初の超能力エロマンガ。コメディ的要素がうまくいかず2回で止める。この路線は翌年の「堕天使輪舞」で開花。  「夜の彷徨人」は自分の育てた新体操選手が怪我で選手生命を失ったため、その女を馬肉のごとく娼婦として夜の世界に売り渡した主人公という設定。しかし腕を折られ、女にも逆に捨てられ、そして事故によってその女を失ったあげく不能となってしまう。失った快楽を取り戻すため無くした片腕にバイブレーターを取りつけ、夜の街をさすらい次々と女たちをレイプしていくというストーリー。がっちり設定したキャラだったのにまったく話がはずまず、男のポコチンは勃起しないままに作品も不発のまま終る。  「斬姦狂死郎」が不本意のまま終わったため学園エロス・シリーズは「放課後の媚娼女」へと引き継がれる。当時見ていた南野陽子のTV「スケバン刑事・」とS・レオーネの「ウエスタン」風に料理。ラストの「男といっしょじゃ歩けないんだ」のセリフは一番好きな映画、鈴木清順の「東京流れ者」からのもじり。単行本は最初司書房から出て、数年後ミリオン出版から再販、そして’97久保書店より再々販ながら結構売れて今年また再版。この作品は親を助けてくれる有難い孝行息子といったところ。 ●1 9 8 7 ~   さいとうプロOBで那珂川尚という名のマンガ家だった友人の津田が「漫画ダイナマイト」の編集者になっていて、実に久しぶりに同誌で「堕天使輪舞」を描く。超能力エロマンガの第2弾。今回はエロと超能力合戦とがうまくミックスされ一応成功といっていい。この路線は「エレクト・ボーイ」とこの作品、そして’96の「夜顔武闘伝」も含めてもいいかも。一時、この手の作品は数多くあったが最近はめったに見かけない。しかし、まだまだこの路線には鉱脈が眠っているとにらんでいるがどんなものだろう。 ●1 9 8 8 ~   「放課後の媚娼女」に続いて抜かずの凶一無頼控え「放課後の熱い祭り」を2年がかりで描く。’89に完結し司書房より単行本化。そして今年’97に改定してめでたく完全版として復刊!この頃が一番劇画っぽい絵で、たった2~3人のスタッフでよくこれだけ描き込めたなと改めて感心!エロシーンがちょっと少なめながら中島史雄氏がダー松作品でこの作品が一番好き、とお褒めの言葉を頂戴する。  TVで三流アマゾネス映画を見ている内、むくむくとイメージがふくらみ、昔から描きたかった西部劇と時代劇がこれで描けると、この年スタートさせたのが「不死蝶伝説」なるアマゾネス路線。昔々青年誌の創世期にあのケン月影氏がマカロニ・ウエスタンを描いていたことを知る人は少ないだろう。俺もあの頃デビューしていたらウエスタンが描けたのに、と思う事もあったが、このシリーズでほんの少しだけその願望がかなう。  この頃、アシスタントやってくれてた格闘技マニアの鶴田洋��に誘われ、近所の空手道場通いの日々。若い頃修行のため新宿でやくざに喧嘩を売って歩いたという寺内師範は、もう鬼のような人で、行けば地獄が待っていると判っててなぜ行く?と不思議な位休まず通う。体育会系はマゾの世界と知る。組手は寸止めではなく顔面以外は当てて可だったので身体中打撲のあざだらけ、ビデオで研究したという鶴田の体重をかけたムエタイ式の蹴りをくらい、右手が饅頭のように腫れ上がる。先輩たちの組手の試合も蹴りがもろにはいってあばら骨が折れたりで、なぜこんなヘビーな事をする?と思うが、闘う事によって身体の奥から何か沸き上がってくるものがある。スリランカの元コマンドと組手をやった時、格闘家の気持ちが少しだけ判るようになった。 ●1 9 8 9 ~   ’94まで続く「美蝶」シリーズでこの年は『ノスフェラトウ篇』を描き、シリーズ中これが一番のお気に入り。同人誌の「王夢」はこれが原点。  短編では「悪夢の中へ」はスプラッタ・エロマンガで久しぶりにチェーンソゥでお尻のぶった切り!はらわた引きずり出し、人肉食いちぎり!顔面叩き割り等々でラストに「ホラービデオの規制をするバカは俺が許さん!」などと書いているので、この年が宮崎事件の年か?世間は彼が日野日出志・作のホラービデオ「ギニーピッグ」を見てあの犯罪をおかした、としてさんざんホラービデオの規制をやっといて、結局見てもいなかったとわかったあとは誰一人日野日出志氏にもホラービデオさんにも謝らす゛知らんぷり。残ったのは規制だけで、馬鹿のやる事には全く困ったもんである。先日の「酒鬼薔薇・14才」の時も犯罪おたくの心理学者が、「これはマンガやビデオの影響です。」などと相も変わらずたわけた寝言をぬかしていたが、馬鹿はいつまでたっても馬鹿のまま。少しは進歩しろよ!お前だよ、お前!短絡的で幼稚な坊や、小田晋!よぅく首を洗っとけ!コラ!  「獣人たちの儀式」は退学者や少年院送りになつた生徒、暴走族、ヤクザ達が集まって酒盛りしながら女教師たちをずこずこにしてOB会をひらく不健全作品。編集長が「また危ない作品を・・・」とこぼしたものだが、岡野さん、田舎で元気にお過しでしょうか。この頃の「漫画エロス」には「ケンペーくん」だとか「アリスのお茶会」だとかおもしろい作品が載っていたものです。「爆走遊戯」は伝説のストーカー・ろくでなしマンガ家の早見純が一番好きな作品と言ってくれたが、なぜだかわからない。人の好みはいろいろです。以上3本は単行本「熱き唇の女神」に収録。 「ふしだらな女獣たち」はフェミニストの女二人が美少年をいじめる話。これは「氷の部屋の女」に収録。 ●1 9 9 0 ~   この年の「美蝶」シリーズは『ダンシング・クイーン篇』。マネキン工場跡でJ・ブラウンの「セックス・マシーン」にのせて5人プレイをするシーンや文化祭でのダンスシーン等々結構好きな場面多し。暗くて硬い作品が多いので、この「美蝶」シリーズは肩肘張らずに、かなり軽いノリでキャラクターの動きに任せて、ストーリーも、そして次のコマさえも先の事は何にも考えず、ほとんどアドリブで描いた時もある。  「不死蝶伝説」に続いてシリーズ第2弾「不死蝶」は2誌にまたがって2年位続ける。これも結構お気に入りの一遍。 ●1 9 9 1 ~ 1 9 9 3   「性狩人たち」の近未来版、といった感じの「夜戦士」は学園物が多くなったので、マグナム銃で脳天をぶっとばすようなものが又描きたくなって始めたミニシリーズ。全5話位。松文館より単行本「黒い夜と夢魔の闇」に収録。  この年から知り合いの編集者がレディス・コミックを始める人が多く、依頼されてどうしたものかと思ったが、エロなら何でもやってみよう精神と何か新しい世界が開けるかも、という事から’94位までやってみたものの結果的に不毛の時代に終わる。与えられた素材が体験告白物という事で、非現実的なものは描けないという事は得意技を封印して戦うようなもので苦戦を強いられ、これって内山亜紀氏がやまさき十三原作の人情話を描いたようなミス・マッチングで不発だったかな。今後、もしやることがあれば美少年SMのレディス・コミックのみ。そんな雑誌が出来れば、の話だが。  いくつかやったレディコミの編集の一人「アイリス」の鈴木さんは同じさいとうプロOBで、マンガ・アシスタント、マンガ家、マンガ誌の編集、そして今はマンガ学校の講師、とこれだけ多くのマンガに関わる仕事をしてきた人はあまりいないだろう。これでマンガ評論でもやれば全て制覇だが・・・。  この頃はいつもと同じ位の30~40本の作品を毎年描いていたが、レディコミは一本30~40枚とページが多く結構身体にガタがきた頃で、右手のひじが腱傷炎になり1年以上苦痛が続く。医者通いではさっぱり痛みがひかず、電気針で針灸治療を半年位続けてやっと完治。その後、住んでいたマンションの理事長を押しつけられ、マンション戦争の渦中に巻き込まれひどい目にあう。攻撃するのは楽だが、話をまとめるなどというのは社会生活不適格のダー松には大の苦手で「お前等!わがままばかり言うのはいいかげんにしろー!」と頭をカチ割りたくなるような事ばかりで、��たすら我慢の日々で血圧がガンガン上がり、病院通いの日々。確実に寿命が5年は縮まる。あの時はマジで人に殺意を抱いたものだが、今でも金属バット持って押しかけて奴等の脳みそをクラッシュしたい気分になる時もある。いつかこの時の事をマンガにしようと思っていて、まだ誰も描いてない「マンション・マンガ」というジャンル、タイトルは「我が闘争」。え?誰も読みたくない?  この間に出た単行本は「血を吸う夜」、「赤い月の化身」「熱き唇の女神」[以上・久保書店] /「牝猫の花園」「真夜中の人魚たち」[以上久保書店]、「美蝶/放課後篇」「美蝶/ダンシング・クイーン篇」「不死蝶/鋼鉄の女王篇・上巻」[以上ミリオン出版]。 ●1 9 9 4 ~ 1 9 9 5   ろくでもない事が続くのは厄払いをしなかったせいか、このままここにいたら頭がおかしくなる、と15年以上いたマンションから引っ越し。板橋から巣鴨へ移動し気分一新!以前からうちもやりましょうよ、と言われていた同人誌創りをそのうち、そのうちと伸ばしてきたものの遂に申し込んでしまい、創らざるをえなくなる。しかもそれが引っ越しの時期と重なってしまい大いに後悔する。しかしいろんな人にお願いして何とか一冊でっちあげ、ムシ風呂のような夏コミに初参加。これが運命の分岐点。レディコミもこの年で切り上げ、以下同人街道をまっしぐら。現在まで「FUCK OFF!」が9まで、「FUCK YOU!」が4まで計10+&冊創る。  ’95からダーティ松本の名前にも飽きてきたしJr,Sam名でも描き始める。 レディコミ時代は松本美蝶。あと2つ位違うペンネームも考案中。  この間の単行本「氷の部屋の女」「双子座の戯れ」[久保書店]、「黒い夜と夢魔の闇」[松文館]、「危険な女教師/美蝶」[ミリオン] ●1 9 9 6 ~   美少女路線の絵柄もこの年の「夜顔武闘伝」あたりでほぼ完成、今後また少し変化させる予定。しかしこの作品は超能力、アマゾネス、忍法エロマンガとでも呼ぶべきか。「グラップラー刃牙」みたいに闘技場での勝ち抜き性武道合戦までいきたかったけれど、残念ながらたどり着けず。  「冬の堕天使」は久しぶりの吸血鬼もの。都営住宅で生活保護をうけている吸血鬼母子のイメージが浮かび、そこから漫画家協会・加藤芳郎を撃つ有害図書騒動のマンガへ。吸血鬼少年が光の世界との戦いに旅立つまでを描き、「闇に潜みし者」は時空を越えて近未来での戦い。その間を描く作品を今後創らなければ。  「FUCK CITY 2006」はクソ溜めと化した近未来のTOKYOを舞台に久しぶりにダーティ・バイオレンスが炸裂!ハード・エロ劇画と同人誌風・美少女路線の合体は果たしてうまくいったかどうか?30ページほど描き足して、’97、9月にフランス書院のコミック文庫にて発売。[「少女水中花」]  「放課後の媚娼女」と「人形愛」刊行。[いずれも久保書店刊]前者は以前、上下巻だったのを一冊にまとめて。後者は近作を集めた同人時代を経ての初単行本で、同人誌を知らなかった読者はショックを受ける。メタルフアンから以下のようなお手紙を受け取る。「これはジューダス・プリーストの『ターボ』だ。ラストの『眠れる森の少女』は『レックレス』にあたる。しかしジューダスもその後『ラム・イット・ダウン』や『ペイン・キラー』という傑作を世に出した事だし、今後を期待したい」という意のダー松のようなメタルファン以外は意味不明の激励をうける。 ●1 9 9 7   同人誌「エロス大百科シリーズ」スタート!いろんな項目別に年2刊づつ計100ページ位を別刊シリーズとして出し続ければ10年で1000ページになり、以前「谷岡ヤスジ1000ページ」という枕に最適の本があったが、これも一冊にまとめて枕にして寝れば、目覚める頃は3回夢精しているなんて事に・・・などとまだたった40ページの段階で言っても何の説得力もないか。飽きたら2~3号でSTOPするだろうし・・。[推測通り「毛剃り」「美少年SM」「女装」3号でストップ中]冬にはやおい系にも進出の予定。  今年出した単行本は厚くて濃いエロマンガを集めた久保書店MAXシリーズ第2弾!「放課後の熱い祭り/完全版」と「夜顔武闘伝」オークラ出版。ともに大幅描き足して25周年記念出版として刊行。ティーツー出版よりJr,Sam名で「昼下がりの少女」、9月にはフランス書院より「少女水中花」の文庫本が出る予定で現在、この同人誌と並行して描き足し中。「斬姦狂死郎」第2部も「ホリディ・COMIC」誌にて6月よりスタート!年内創刊予定の『腐肉クラブ』なる死体姦専門のマンガ誌にも執筆予定。  さてさて25年間、旅行の時を除いて、現在まで2日続けてマンガを描かなかった事はほとんどない。これはその昔、伊東元気氏というマンガ家とお会いしたとき「今月何ページ描いた?」との問いに、「今月仕事ないんでぜんぜん描いてません」と答えたら、「そんな事じゃ駄目だ。仕事があろうがなかろうが、毎月100頁は描かなきゃ。」と言われ、以後その教えを守り[描けるページ数は減ったが]、マンガは仕事ではなくなり、朝起きたら顔を洗うのと同じで生活そのものとなり現在に至る。  今は何でも描けそうなハイな状態で、以前はたまには外出しないと煮詰まってしまうので週いち位ガス抜きをしていたものだが、最近はせいぜい月いち休めば十分の「純エロマンガ体」。[純粋にエロマンガを描くためだけの肉体、の意。ダー松の造語]  こうしてふり返ると、この路線はまだえぐり足りない、これはあと数回描くべし、なぜこれを一度しか描かない!等々、残り時間にやるべき事、やりたい事の何と多い事! 爆裂昇天のその日まで・・・      燃 え よ ペ ン !  なお続きは 1997年後期 1998年 INDEX
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xf-2 · 6 years
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「バレンタインデー」の季節である。あさって2月14日の「バレンタインデー」を前にして、日本中どこでもチョコレート商戦が活発だ。私が住んでいる地域のスーパーマーケットでは、おニャン子クラブ時代の国生さゆりの「バレンタイン・キッス」がBGMとして流れている。ほぼ同世代の私にはとってはなんだか不思議な気分だが、懐かしさを感じたりもする。
 日本人の多くは「バレンタインデー」がいつ日本で始まったかについては、あまり関心がないかもしれない。もはや「伝統」といっても問題ないくらい定着しているからだ。
 廃棄ロスが社会問題化している節分の恵方巻きとは違って(参照:本コラム「節分には恵方巻? 「伝統」はこうして誕生する」)、同じ食品であってもチョコレートの賞味期限は、はるかに長い。廃棄ロス問題がないという点に関しては、バレンタインデーのチョコレートに目くじらを立てる人はあまりいないだろう。
 今回は、そもそも高級チョコレートが日本で定着することになった時点から歴史をふりかえってみたい。その主人公となるのは、今から約100年前のロシア革命による混乱から逃れて、亡命先の神戸で洋菓子店を開き、日本人に本場のチョコレートを紹介したモロゾフ一家である。
 ただし、モロゾフ一家と日本の洋菓子メーカー「モロゾフ」(兵庫県神戸市)とは直接の関係はない。その事情についてはモロゾフ一家の物語に触れるなかで取り上げることにする。
第1次世界大戦後、洋風の食生活普及が始まった
 日本で本格的なハムやソーセージが製造販売されるようになったのは、今から約100年前の1920年代のことだ。
 第1次世界大戦の青島攻略戦で日本軍の捕虜となり、日本各地に収容されていたドイツ人職人の技術が日本人に移転されたことによる。このことについては、このコラムでも紹介した(参照:「日本に住みつき『技術』を伝えたドイツ人捕虜たち」)。
 本格的なチョコレートが製造され販売されるようになったのも、やはり第1次世界大戦後のことだ。現在では世界最高水準との評判で、価格も上昇中の日本産シングルモルト・ウイスキーもまた同じ時代に誕生している。
 現在では当たり前になっている洋風の食生活が普及し始めたのは、第1次世界大戦後の1920年代のことであり、日本では大正時代にあたる。「大正デモクラシー」として知られている大正時代には、食生活を含めた生活全般の洋風化も始まっていたのである。
 戦争と革命は多大な犠牲をもたらすが、一方では新たな文化の誕生と普及にもつながる。第1次世界大戦において、日本は直接的な被害は受けなかったが、間接的な影響は社会全体に及んでいた。
バレンタインデーのチョコは日本人の発明
 バレンタインデー(Valentine’s Day)のバレンタインとはキリスト教の聖人、聖バレンタインであることは、ほぼ日本人の常識となっているといっていいだろう。
聖バレンタインは、正確にいうと聖ヴァレンティヌス(Valentinus)という3世紀に生きた人だ。ローマ帝国でキリスト教が迫害されていた時代の司祭で、絞首刑に処せられ殉教者となった。キリスト教がローマ帝国で公認されたのはその後の313年、コンスタンティヌス帝によるミラノ勅令による。
 殉教者となった聖バレンタインは、カトリック教会とその流れを組む聖公会、東方正教会で聖人とされている。カトリック教会では“恋人たちの守護聖人”とされてきたため、聖バレンタインの殉教日である2月14日がバレンタインデーとなったのである。
 日本で「バレンタインデー」とチョコレートを結びつけたのは、メリーチョコレートカムパニー(東京都大田区)だとされている。今から約60年前の1958年(昭和33年)2月、東京都内の百貨店の催事で初めて手がけた販促として始まったのだという(参照:「メリーのバレンタインヒストリー」)。このことは、すでに本コラムでも取り上げている。
 だが、日本で高級チョコレートを普及させたのは、ロシア革命後に日本に亡命してきたロシア人のモロゾフ一家である。亡命先の日本で生計を立てるため、1926年(大正15年)に港町神戸で洋菓子店、神戸モロゾフ製菓を開設。ここから高級チョコレートが広まった。この原点はぜひ知っておくべきだろう。
ロシア通小説家が執筆した2つの評伝
 NHKの連続テレビ小説(いわゆる「朝ドラ」)で2014年から翌年にかけて放送された「マッサン」は、日本で初めて本格的なウイスキーの製造販売を始めたニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の生涯を描いたものであった。
 広島の日本酒醸造家に生まれた竹鶴政孝氏が、ウイスキー製造の修行のためにスコットランドに滞在していたのは、1918年から1920年にかけてである。ちょうど第1次世界大戦中から戦後にかけてのことであった。
 日本に帰国する途上でスコットランド出身の新婦リタとともにフランスに立ち寄った竹鶴は、世界大戦の戦場となって荒廃した国土を直接見聞している。日本経済新聞に連載された「私の履歴書」には、そのときの感慨をつづっている。「労働力は減り、生産力は破壊されて、フランスの北の方は、ちょうど戦後の東京の焼け野原のような状態で放置されていた」、と。
大正十五年の聖バレンタイン―日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語
』(川又一英著、PHP研究所)
「マッサン」の原作は、『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年、テレビ小説の放送時に文庫化)だが、著者の川又一英氏は早稲田大学文学部ロシア文学科出身のロシア通であった。『ヒゲのウヰスキー誕生す』の次作として発表したのが、『大正十五年の聖バレンタイン―日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984年)だ。この2つの作品は、ほぼ同時期を題材にしている。
 以下、モロゾフ一家についてはこの本の内容に沿って記述していくが、この本は現在では絶版のままであり、文庫化もされていない。テレビドラマに取り上げられることもないのは残念なことだ。
波瀾万丈の亡命者、モロゾフ一家の苦闘
 さて、1926年(大正15年)神戸で初めて高級チョコレートの製造販売を始めたモロゾフ一家だが、そのファミリーヒストリーは波瀾万丈で、まさに苦難の連続であった。モロゾフ一家はいわゆる「白系ロシア人」。「白系」の「白」とは、共産主義を意味する「赤」の反対語で、帝政側の立場にいた人を意味している。白人という意味ではない。
 共産主義を掲げて私有権を認めないボルシェヴィキが暴力によって政権を奪取した「10月革命」(1917年)のあと、ロシアは大混乱状態に陥っていた。そんな状況のなか、資本主義時代のロシアで商売に成功していたモロゾフ一家は、シベリア経由で満洲のハルビンに脱出。ハルビンではボルシェヴィキ率いる「赤軍」に対する反革命の「白軍」の資金援助のために貿易活動を行っていた。だが、ロシア内戦の終了のため計画は失敗、1923年には日本を経由し、親戚を頼って米国西海岸のシアトルに渡った。
 ところが安住の地を求めたシアトルでは生活再建ができず、再び日本に戻って東京でやり直すことに。しかし、関東大震災(1923年)のため横浜港に船が寄港することができず、寄港地変更のため神戸港に上陸することを余儀なくされた。その神戸で腹を括って、人生の再建に取り組んだのである。華僑流にいえば「落地生根」といったことになるだろう。
 所持金は全部で3000円、当時の日本では月に100円あればそれなりに裕福な暮らしができたようだが、そのままでは資産を食いつぶしてしまう。その前になんとか所持金を元手に、確実にカネになる事業に踏み込まなくてはならない。家長である「無国籍の亡命者」フョードル・モロゾフにとっては、起業はまさに死活問題であったのだ。無国籍の外国人を雇う会社など、当時の日本では存在するはずがなかったからだ。
 幕末に開港した横浜と並んで、神戸もまた日本では最も早く生活の洋風化が始まっていたが、モロゾフが目をつけたのが洋菓子、なかでも高級チョコレートの製造と販売であった。当時の日本では、チョコレートといえばキャラメルと同様に駄菓子���度のものでしかなく、高級チョコレートにビジネスチャンスがあると見てとったのだ。そしてそれは正解であった。
 1926年(大正15年)に開業、ハルビンからロシア人の洋菓子職人を呼び寄せ、息子のワレンティンには15歳で菓子職人の道を選ばせた。後ろ盾も国籍もない異国の地で始めた洋菓子の製造販売は軌道に乗り、神戸だけでなく東京にも販路を拡大し、日本での定着は成功したかにみえた。
ファミリーネーム由来の「モロゾフ」の商標を喪失
 だが、一難去ってまた一難。異国の地での苦労は簡単には終わらない。なんと、事業拡大のための設備投資に必要な資金を調達するため増資した際、出資によって共同経営者となった日本人から裏切られたのである。商標権をめぐる訴訟に敗れた結果、コーポレートブランドであったファミリーネームの「モロゾフ」(Morozoff)が使えなくなってしまったのだ。
日本語が不自由で無国籍者のロシア人モロゾフとの契約をうまく利用し、契約を楯にとって創業家を事業から追い出したのである。まさに狡猾な日本人としか言いようがないが、近代日本が法治国家である以上、契約書記載事項をめぐる訴訟の結果を受け入れるしかない。とはいえ、信頼していたパートナーから裏切られたことは、どれだけ創業者一家には精神的にもダメージになったことだろうか。この時点で、モロゾフ一家とモロゾフ製菓とは関係がなくなった(1936年に神戸モロゾフ製菓からモロゾフ製菓に商号変更している)。
 モロゾフ一家は1941年(昭和16年)からは、「コスモポリタン」(Cosmopolitan)という名前で再出発した。商標の重要性について身をもって知ることとなったわけだが、他方では全面的に支援してくれた日本人たちもいた。第2次大戦後の再建も、顧客を含めた支持者たちのおかげであったことはいうまでもない。
 神戸は阪神大震災(1995年)によって壊滅的打撃を受けたが、洋菓子産業は復興後の神戸で元気産業の1つとなっている。だが、「コスモポリタン」は2006年に業績不振を理由に自主廃業している。モロゾフ製菓とは大きく運命が分かれたことになったわけだ。時代の変化について行けなかったのであれば、経営能力にかかわるものであり、仕方ないことだ。ロシア語なら「ニチェヴォー」とつぶやく状況であろう。
 神戸には、同じく白系ロシア人亡命者マカロフ・ゴンチャロフによって1923年(大正12年)の創業になる「ゴンチャロフ製菓」がある。こちらは現在でも健在であるが、モロゾフ一家とは違って、創業者のゴンチャロフは創業から10年後に会社を売却して日本を出国している。
 チョコレートの味は甘く、人生の味は苦い。そんな気持ちにもさせられる亡命ロシア人モロゾフ一家の物語である。 
「白系ロシア人」がなぜ日本に亡命したのか
 ここで、「白系ロシア人」が生まれた時代背景について見ておくことにしよう。
 ロシア革命は、第1次世界大戦のさなかに起こった出来事であったが、革命前の帝政ロシアは、日本もその一員であった英仏主導の連合軍に属しており、欧州の東部戦線ではドイツ帝国およびハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)と戦っていた。
 ロシア革命後に、ブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和を実現したボルシェヴィキ政権は東部戦線から離脱し、ドイツは全勢力を西部戦線に振り向けることが可能となった。この状況に強い危機感を感じていたのが英国とフランスである。
 この英仏からの強い要請に応じてロシア極東とシベリアに干渉軍を派遣することになったのが、1918年に日本と米国の連合軍を中核とした15カ国に及ぶ多国籍軍であった。いわゆるシベリア干渉戦争(Siberian Intervention)である。1904年の日露戦争で激しく衝突した日本とロシアだが、その後4次にわたる「日露協商」を通じて政治的にも軍事的にも良好な関係にあったことは、意外と知られていない。皇室どうしの関係も良好であった。
 日本が指揮権を握ったこの干渉戦争は、日本では「シベリア出兵」と呼ばれている。ロシア領内に侵攻して、厳冬期にはマイナス40℃にもなる極寒のシベリアで、神出鬼没のパルチザン(いわゆ��農民主体のゲリラ部隊)と戦ったこの戦争は、一般市民を巻き込んだ虐殺や略奪を伴い、文字通りベトナム戦争に匹敵する泥沼の戦争となった。
連合軍の中核となっていた日米だが、出兵当初から同床異夢といった状況であり、米国が1920年に撤兵したあとも日本は単独出兵を続けた結果、国際的な非難を浴びることになる。シベリア出兵は、日本にとっては最終的に10億円(当時)を越える莫大な戦費と3500人を超える戦死者を出したが、ほとんど何も得ることができなかっただけでなく、革命後のソ連とロシア人に反日意識という大きな禍根を残すことになった。これが第2次世界大戦末期(1945年)の日ソ戦とシベリア抑留につながっているのである。日本人はこの歴史的事実を認識しておく必要がある。
 モロゾフ一家が、日本を亡命先に選んだのは、そんなシベリア出兵の時代であった。モロゾフ一家は、「白系ロシア人」として反革命勢力の「白軍」を支援しており、同じく白軍を全面的にバックアップしていた日本や米国を亡命先に選んだのは、そういう文脈で捉えることが可能だろう。
 日本だけでなく、米国もまたボルシェヴィキ政権の「赤軍」と戦っており、戦死者も出している。米ソ対立は第2次大戦後後の冷戦時代に先鋭化したが、その根源はシベリア出兵の時代にあったのである。
「無国籍者」を貫いたモロゾフ一家
『大正十五年の聖バレンタイン―日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』の記述をベースに「白系ロシア人」の亡命者モロゾフ一家について見てきたが、この本が出版された当時の店主、ワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフのファーストネーム「ワレンティン」は、英語でバレンタインとなる。書籍のタイトルはそこから取られたものだ。
 1911年生まれで6歳のときに両親とともに生まれ故郷のロシアを離れ、各地を転々としたのち13歳から日本に定住することになったワレンティンは、死ぬまで「無国籍」のままだったという。祖国の帝政ロシアに強い愛着をもち、ソ連の国籍も取得せず、また日本国籍も取らなかった。国籍変更によって名前を日本風に変えるのは、祖国とのつながりを断ってしまう行為に思えたからだという。
「無国籍」状態がいかに大変なことかは、陳天璽氏の著者『無国籍』(新潮社、2005年)に詳述されている。陳天璽氏は、台湾人家庭に生まれたが1972年の日中国交回復後に、親の方針で国籍放棄した結果、無国籍になっていた(現在では日本国籍を取得しているようだ)。日本に定住していながら日本のパスポートを取得できないため、海外渡航に際しては不便きわまりないが、それだけではなく、自らのアイデンティティに直結する問題であるのだ。
「白系ロシア人」といえばモロゾフ一家のほか、野球選手として読売巨人軍でピッチャーをつとめたヴィクトル・スタルヒンが有名である。スタルヒンもまた一生を通じて無国籍のままであった。また、バレエ教師として数々の日本人バレリーナを育成した「日本バレエの母」エリアナ・パブロワもそうだ。ロシア貴族出身のエリアナ・パブロワは、1937年に日本に帰化して日本国籍を取得している。
 モロゾフ一家に限らず、異国の日本で人生を再建せざるを得なくなった人たちは少なくない。それぞれ異なる人生ではありながら、絶望的な状況のなかでも前向きに道を切り開いていった人たちの物語を知ると、勇気が湧いてくるのではないだろうか。
 日本の高級チョコレート誕生の原点に、そういった亡命ロシア人が存在したことを、記憶にとどめておきたいものである。
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myonbl · 6 years
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第11回露新軽口噺@太陽と月
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露の新治・新幸師弟の「研鑽の場」としてスタートしたこの会も、数えて11回目。色々と考えることもあり、このような形での開催は今回で一旦小休止、今後のことは改めて考えるとのこと。そんな「最後感」があったのか、いつもより皆さん出足が早く、開演30分前にはほぼ席が埋まる盛況。終演後の懇親会も盛り上がり、世間より一足早い「師走感」を堪能したことでした。
「手紙無筆」露の新幸(18分)
毎回のネタおろし、演者には大変だろうと思います。今回の新幸さん、笑福亭竹林師匠から稽古していただいたネタだとか。個人的には、竹林さんは私よりも若いのですね・・・。それはともかく、「無筆」ということ自体がほぼ有り得ない現状にあって、「落語の世界」ならではのほのぼの感を楽しむ噺です。
オジサンから来た手紙、自分が読めないので町内の字の読める人に読んで貰うのですが・・・。竹林師からは「笑福亭らしさを伝えてくれれば・・・」と言われたそうですが、もちろん新幸さんの年齢からすれば6代目の息や間は実体験は(ほぼ)ないはず。しかし、私など若い頃に角座で何度か生で聴いている噺、懐かしくも楽しく拝聴させていただきました。
もちろん、ネタおろしですから細かなミスはあって当然。現に、お膳の数から盃の数へと至る展開で、お膳と盃を言い間違えたのはご愛敬。ただ、お膳が「おぜん」ではなく「おでん」と聞こえたのは「あれ、竹林師ではなく文福師からのネタ?」と一人突っ込み(笑)。
しかし、無筆の人が(ほぼ)いなくなったからといって廃れる噺、ということではありません。新幸さんの声と語り口、案外笑福亭の息に合っているかも知れません。新治師匠の爽やかで端正な語り口とはまた違い、新幸さんの個性に合った持ちネタとなる可能性を感じさせてくれました。
「禁酒関所」露の新治(26分)
この会では、一席目にネタおろしとなることが多いのですが、あまりそれらしい雰囲気が感じられません。実は、事前に師匠からネタを聴いていたのですぐにそれではないと感づいた次第。「悪法でも法は法とはどうか・・・」というマクラから、想像通りのこのネタに入りました。
家中の酒の上のもめ事から禁酒令、それに対する工夫のあれこれ。呑む側と売る側、介在する関所役人との対応3パターン。ポピュラーな噺だけに新鮮味を出すことは難しい、それ故演者としては丁寧に演じ分けることが肝要です。新治師匠の強みは、上方では珍しく武士の凛とした造けいが鮮やかな点にあります。それ故に、肩肘張った関所の役人のお役所仕事らしい対応が、酒に酔って崩れていくところが楽しいのです。噺を聴いているうちに、思わず舌なめずりをしてしまう、私自身も酒飲みであることを再確認したことでした。
「鉄砲勇助」露の新幸(13分)
プログラムは事前に知らされていないのですが、時計からして仲入りにはまだまだ、「私の後に師匠がもう一席、その後仲入りとさせていただきます」とのこと。短い時間であっさりとこのネタ、すでに自家薬籠中のもの、誠に安心・安定の展開であります。
「蛸坊主」露の新治(21分)
今回は仲入り前に2席ずつという、贅沢な番組となりました。袴に着替えての登場に芝居がかりの所作を予想しましたが、何しろ会場の天井が低い。中腰になると、頭が使えそうになって勝手にこちらで心配してしまいます。
個人的には、新治さんを初めて聴いた五年前にこのネタに出会いました。小品ではあれ、師匠・五郎兵衛師から新治さんだけが継いだネタの一つ、途中芝居がかりになるのも楽しい。
高野山で修行したとの触れ込みで料理屋にあがり、精進料理を所望したのに鰹だしの吸い物を供したところへ難癖。厳しい修行をふいにさせられたと、店をゆすろうとする売僧に困っているところへ別の僧が仲裁に入り、やがてその僧が・・・。大仰な見得を切った後の、絵面が浮かびそうな楽しいサゲでこちらの溜飲も下がります。
仲入り
「鼠穴」露の新治(48分)
今回のネタおろし、暮れに向かって満を持して演じるものが多い大ネタ。田舎を出て成功した兄と田畑をなくして兄を頼ってきた弟との間で展開される兄弟の確執、商売の綾と災難、親娘の愛惜と冷徹な現実・・・。
確かに、人物・場面・ストーリー、やりようによっては壮大なスケールの2時間ドラマ。しかし、「落語」であります。場面転換とストーリーの連続性において難しい噺であることは誰もが認めますが、あくまでも「落語」であります。
兄を善人とするのか悪人として演じるのか、弟を素直一途とするのかいい加減な遊び人とするのか、演者の選択も多様です。田舎から自分を頼ってきた弟に対して「茶屋酒が抜けない」と見抜いた兄の眼力、兄から商売の元手を得たという気楽さで商人としての未熟さを示す弟の軽薄さ、兄弟のキャラクターを最初にきちんと設定することによって、後の展開を安心して楽しむことが出来ます。
10年の後、兄に商売の元手を「たたきつける」つもりでやってきた弟、兄自身の口から明かされる当時の気持ち、涙腺の弱くなったオジサンにはたまらないシーンであります。この後は火事の夢を経てサゲへと繋がりますが、普通にやればお涙頂戴の人情噺パターン。さすがに新治さん、その前に一工夫、弟が夢から覚めた���階で兄の問いかけで夢の中身の再確認、ここでしっかり笑いをとって聴いている側をホンワカした気分にしてくれます。
柳家さん喬師からいただいたというこの噺、一面では綺麗すぎる展開=演出という意見もあるかも知れません。しかし、人権落語家・露の新治の表現として、寒く暗い時代に灯す笑いの火、そんな気持ちで嬉しく楽しく聴かせていただきました。
三味線:岡野鏡
今回は、終演後の懇親会にも参加させていただきました。コアなファンならではの情報交換、こんな席ならではの師匠からの秘話(?)。楽しい時間の最後には、新治さんを介して知りあった落友とのプレゼント交換と、本当にあたたかな時間を過ごすことができました。
新治さんの落語、年内の���のスケジュールでは年末の新開地・喜楽館昼席のみ。さっそくチケットをゲットして、今から楽しみにしています。
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kiyohiko-kotake · 6 years
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既刊情報
紹介も兼ねまして、今までの作品をちょっと振り返ります。
【幻狼ファンタジアノベルス時代】
●2009:アップルジャック
→初の商業出版は、幻冬舎コミックス様のレーベル、幻狼ファンタジアノベルスから。
殺人鬼を狩る殺人鬼の紳士と、殺人鬼の少女を巡るお話で、香りで人を操る魔女や戦場帰りの殺し屋も絡む娯楽作品。
そして、人を結びつける場所としてバーでの場面を多用した作品でもありました。
一本の映画をイメージして組み立てた作品でもあり。因みに発刊当時からLEONに影響されたのかよく聞かれましたが、書いた当時はまだLEONは観てませんでした。後から観たけど、まあ全然違う内容で。大好きな映画になりましたけど。
挿絵はmebaeさん。登場人物の設定画が送られてきたとき、アップルジャックもシトロンもストレガも、最初からイメージぴったりで、今考えると流石だったなあと感じています。一方、スプリッツァーだけは、最初の設定画が物凄く厳つくて、圧倒的に顎が割れていて、この人だけ幾分スマートな姿に直していただきました。
表紙の絵は凄いインパクトがあって、上がってきた当時、僕も担当氏も凄いの来たと興奮したことを覚えています。一冊目の表紙がこれだったのは本当に恵まれていたなあと。
 ●2010:カルテット―それが彼らの音楽だった―
→ずっと同じメンバーで活動し続けていたジャズのカルテットがあって、みんないい歳になって、ギタリストが最初にこの世から去る。残された三人は彼の遺した楽譜を整理している最中に、奇妙な楽譜を見つける。楽譜から、何らかの『込められた意味』を感じ取った三人は、謎についてディスカッションする中で、ギタリストと共に歩んできたこれまでの時間を振り返っていく。
 と、いう、完全に人間ドラマ主体の作品。幻狼ファンタジアノベルス様は名前の通りファンタジーを中心に刊行していたレーベルで、よくこの作品出してくれたなあと今も思っています。
 実は、アマ時代に書いた『遺作』というタイトルの原型が存在していまして、色々経緯があって編集部内で遺作が読まれ、デビューの足がかりになったという裏話があったりします。
 挿絵は藤ちょこさん。光の表現が巧みな優しい絵柄で作品を彩って下さいました。
  ●2010:アップルジャック2 ―Pousse-café―
→アップルジャックの続編。殺人鬼を狩る殺人鬼のお話再び。殺人鬼の少女、シトロンが主導するチームに、新たな協力者としてハッカーの少女にしてヤクザ組長の孫娘、桐嶋桜と、桜の相棒で何でも屋の神無木が参戦。一方、シトロンたちの標的となったのは殺人鬼のチーム『プース・カフェ』。一人一人が特異な能力を持つプース・カフェは、シトロンたちの動きを逆に探り、カウンターを仕掛けてくる。
 という、娯楽作品二つ目。特異な能力を持つチーム同士の激突、という辺りが特に書きたかったところ。また、よく喋る新メンバーが二人も加わったことで、書いていて楽しかった作品。
 そういえば、当時、僕はB級アクション映画に少しハマっていて、タランティーノとかギターウルフが主演したゾンビ映画ワイルドゼロみたいなの小説でも出来ませんかねーと当時の担当氏に話したところ、もうちょっと知名度上げないとねーと言われたんですが。
 あとでこの作品を読み返したら、殺人鬼とヤクザが伊勢佐木町で銃撃戦したりしていて、あれ、もうやってるぞ。それもかなり思い切り、と感じてみたり。
 挿絵は前作から引き続きmebaeさん。ヤクザ描くのが凄く楽しかったらしく、桐島組組長の設定画だけ明らかに他の設定画と画風が変わっていて、永井豪先生が憑依したかのようで。僕が当初抱いていたイメージとは全く違ったんですが、mebaeさんの絵のパワーに引っ張られて、僕の中でも最終的に同じイメージへ落ち着いたことを覚えています。
  ●2011:Wizard ―Daily Fairy Tale―
→アップルジャック2で登場したハッカーの少女、桐嶋桜と、何でも屋の神無木大介のコンビにスポットを当てたアップルジャックのスピンオフ。
 二冊同時発売の一冊目。こちらは桜と大介が関わった事件や二人の過去を、短編連作形式で���っていく内容。基本的に一話完結だけど、時系列に並んでいるため、前の事件で登場した人物が次の話に出てきたりして、色々繋がっています。
 とにかくよく喋る二人を中心に据えたことで、とにかくよく物語が回り、書いていて最高に楽しかった作品。
 何でも屋の神無木大介は、とにかく人をよくおちょくる男なんですが、彼を描いていると、普段の僕では絶対に思いつかないような喋りが次々と閃いて、不思議なもんだなあと今でも思っています。
  ●2011:Wizard ―Passion Fruit―
→ウィザードその2。二冊同時刊行の二冊目で、実質下巻。これから読まれる方は、是非Daily Fairy Taleの方から読んでみて下さい。
 時系列でもDaily Fairy Taleのあと。上巻が短編連作の形式だったことに対して、こちらは丸々一冊使った長編。上巻で登場した面々も大体再登場します。
 この作品、上下巻で意図的に描き方を変えていて、下巻のこちらは、桜の心情にかなり踏み込んだ描き方をしていました。
 桜の祖父が組長を務める桐島組も巻き込んでの二人の大立ち回り。二人の目的は、友達の笑顔を守ること。以前twitterで『僕は大切な誰かのために戦う人の話が好きなんだな』といったことを呟いたと記憶してるんですが、そういえばこの頃から変わらず、そういうお話を書いていました。
 上巻より全体的にシリアスなんですが、大介の人をおちょくるムーブはこちらでも絶好調で、読み返すと、織田信長の件なんか、よくこんなネタ思いついたな、と自分に驚いたりします。
 ウィザードは上下巻とも、挿絵は緋原ヨウさん。僕は、上巻の冒頭に収められている、桜の部屋で楽しげな時間を過ごしているキャラクターたちを描いたカラー口絵が今でも凄く好き。あと、チーム黒星の子供たちは、当初のイメージでは地味な感じだったのですが、挿絵が上がってきたら凄くポップな外見の子供たちになっていて、でもそれが意外だったけど凄く良くて、僕の方のイメージがまた上書きされました。
  ●2012:おやすみブラックバード
→主人公、千春は、古い雑居ビルに引っ越してきた夜、奇妙な夢を見る。どこまでも続く埃っぽい風景の中で、上から下まで真っ白な少女と遭遇し、直後に不気味な怪物たちに追い回され、二人の女性に救われ、という荒唐無稽な夢。翌日、引っ越しの挨拶をしに同じ階の住人たちが住む部屋を訪れた千春は、夢の中で自分を助けた面々と、もう一度会うことになる。彼ら、彼女らには、ある目的があった。
 という、ファンタジックな夢の中での冒険と現実世界を行ったり来たりしながら、戦ったり謎解きをしたり、というお話。
 そういえば、僕の作品では、チームを組む面子が集まって飲み食いしているホームみたいな場所がしばしばあって、アップルジャックではバー・ハニーサックルローズでカクテルを飲み、ウィザードでは桜の部屋で、大介や桜の世話役、金ちゃんの用意した様々なお茶や料理に舌鼓を打っていたわけですが、おやすみブラックバードでは千春の部屋がたまり場になり、御子柴椿が様々なバリエーションのカレーを作っていました。
 一方で、これまでの作品と少し違うのは、登場人物たちが現実世界では飛び抜けた能力を持った人たちではなかったこと。当時の担当氏から『今までは特異な能力を持った人たちを描いてきたので、ここで一つ、そうではない人たちを描いてみては』というお題を頂いたのが切っ掛けでして。主人公の千春は、以前はバンドをやっていたけど今はギターに触ることもあまりない、下っ端のサラリーマンですし、他の面子も、よくあるミステリの人物紹介風に端的に書き出すと、フリーターと古着屋の店員と、何をやっているのかよく分からない胡散臭いちょい悪なおっさんと、ニート、という、これで何かを解決出来たりするの? と、大いに不安になる面子でした。
 ただ、個人的には忘れ得ない面子。彼ら、彼女らと一緒に泣いたり笑ったりしながら書いたことを僕は忘れられません。
レーベルの末期にひっそりと刊行され、2018年8月現在、まだ電子書籍化されていない一冊なのですが、ウマが合って楽しんでもらえる方と一人でも多くこの本が出会えることを今でも願っています。
挿絵は加藤たいらさん。中の挿絵も素敵なんですが、何と言っても表紙の絵が凄く印象深かった。全体的に暗めのトーンでまとめられた絵は、今までの作品と全く印象が違っていて、完成品を初めて見たとき、ハッとさせられたものです。
  【kadokawa L文庫時代】
●2014:バー・コントレイルの相談事
→通勤の途中、いつも見かけていて、少しだけ気になっていたバー。ある日、会社で辛いことがあった縁は、思い切ってバーの扉を開けてみた。落ち着いた雰囲気のバーテンダーと、間違って日本に生まれたイタリア人という触れ込みの料理人がいる小さな店で楽しい一時を過ごした縁は、会話の流れで、その日、自分に起こった出来事を話してみると、バーテンダーの羽鳥は彼女に思わぬことを伝えた。
 という、横浜の小さなダイニングバーを舞台にした人���ドラマもの。当時、いわゆる『お仕事もの』の作品が売れ出していて、L文庫の創刊ラインナップにそういう作品が欲しいという打診を受けて、でも時間が限られていたので「バーの話だったら書けるかも」と返したらそのまま刊行まで行ってしまった作品。
 知り合いの店に何度もお邪魔して取材させてもらい、メニューに無い料理まで作ってもらったり、複数の店でカクテルの味を飲み比べたりしながら書き上げた作品で、正直今までで一番取材に時間をかけました。
 序盤が短編連作、中盤に中編、後半にまた短編連作という、今考えるとちょっとトリッキーな構成。ブランクがあったり、慣れない分野だったり、出版社が変わったりと色々手探りで、結構な難産でした。
 あとがきにも書きましたが、バー・コントレイルは架空の店です。でも、作中に出てきた酒と料理は全て実在します。この作品を読んで、あれを飲んでみたい、これを食べてみたいと思った方は、是非実際に、店へ足を運んでみて下さい。
 表紙絵はしのとうこさん。事前のオーダーで、実際のバーの写真やボトルの写真などをお送りしたところ、物凄い絵が仕上がってきて驚愕したものです。バックバーのボトルとか、思わず拡大して見てしまいました。キャラクターたちの造形もイメージぴったりで、この方が描いたコントレイルのイメージをもっと見てみたかったですね。
  ●2014:その答えは、楽譜の中に
→L文庫の二冊目は、かつて幻狼ファンタジア文庫で刊行された『カルテット ―それが彼らの音楽だった―』のリニューアル版である本書になりました。
 一つの章の内容を丸ごと差し替えた大手術もあれば、細かい言い回しを一つ一つ辿って直していった部分もあり、書き足した部分もあって、描き方は色々変わっている部分がありますが、物語の大筋は変わっていません。
 アマ時代の『遺作』から数えると改稿三回という、なんとも僕にとって因縁深い作品となりました。
 さりげなく韓国語版も出ていたりします。向こうの方がどんな感想を持たれたのか、ちょっと聞いてみたいものです。
 表紙絵は田倉トヲルさん。登場人物四人だけのシンプルな構成で描かれた表紙なんですけど、これがまた凄かった。四人の半生を辿る作品だったわけですが、絵の四人からも辿ってきた時間が伝わってくるというか。一人一人が物凄く存在感あって、本当にいい表紙を頂いたなあと思っています。
  【kadokawa カクヨム公式時代】
●2016:デスペラード・フェアリーテイル
→初のウェブ連載。各国のマフィアが抗争を繰り広げた先で、壁に囲まれて周辺地域から隔離され、生き残った四大マフィアの自治区と化した近未来の野毛周辺を舞台に、四大マフィアのエースたちがチームを組んで野毛の治安を守っているという『デスペラード』なピースと、ラボで生み出された人知を超える力を持つキャリアたちという『フェアリーテイル』なピースを組み合わせて作られた久々の娯楽作品。
 いやそれSFだろ、何がフェアリーテイルだという声が聞こえてきそうですが、まあ読んでいただければ分かる。かもしれない。と、思ったりもします。
 封鎖区画を自治しているマフィアは、中国、ロシア、イタリア、日本の四つ。エースたちは中国から拳法の達人、ロシアから全身を機械化した女性、イタリアから火器や爆発物のエキスパート、日本から若き剣客という顔ぶれで。ジャンル違いの作品から主役級が集まってチームを組んでいる、というようなイメージでした。
 初の連載ということで、書き下ろしとはまた違った感覚があって。特にキャラクターとは書き下ろしより長い付き合いになり、今でも深い思い入れがあります。
 スピンオフを書きたいと思いながら今に至りますが、温めているプロットはあるので、いずれ、形にしたいですね。
 因みに、当初三話分の書き溜めがある状態でスタートしたんですが、カクヨムのオープン日と、僕の更新日の関係で、オープン日に1話、翌日に2話が公開され、一瞬で書き溜めが1話分になるという展開となり、その1話分も早々に無くなり、中盤以降は一週間一話の自転車操業で書いていました。よく休載無しで完走出来たものだと。
 尺が少ないこともあって、描写に裂く文字数をこれまでの作品より極限まで抑えていて。カクヨムは基本的に挿絵無し文章のみがコンセプトのプラットフォームだったわけですが、皮肉なことに最も挿絵が欲しい作品でもありました。
    2018年現在、新刊の予定はありませんが、実はおやすみブラックバードのあとに依頼を受けて第一稿を仕上げたものの、種々の事情でお蔵入りした作品があり、ウェブで個人的に公開しようと考えておりまして、現在調整中です。いろいろとやりながら、合間合間での作業になっていて、まだ時間がかかるかもしれませんが、いずれはお届け出来るかと。
 幻狼、kadokawaの作品は、おやすみブラックバード以外の全ての作品が電子化されていますので、この文章を読んで興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、是非探してみて下さい。
 デスペラード・フェアリーテイルは全13話で完結していまして、今でもカクヨムで読むことが出来ます。URLはこちら。
 https://kakuyomu.jp/works/4852201425154961458
   取り敢えず、色々ありますが元気にしており、創作の試みも続けております。
 という、近況のご報告も兼ねまして。
 今後とも、宜しくお願いいたします。
                           Aug. 5th. 2018. 小竹清彦 
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tsuntsun1221ts · 4 years
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2020.11 宮之浦岳(2日目)
1日目の続き
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宮之浦岳山頂より全周、訳あって2日連続で登った
まわりは4時くらいから起きて出発の準備をしており、そのときに目が覚めてしまったがシェラフの中でゴロゴロしていた。5時に起き上がったときには、小屋の半分くらいの人たちはすでに出発していた。たぶん荒川登山口へ向かうんだろうけど、バスが10時の次は15時?と、すごい間が空いてしまうから早く出ないといけないんだろう(この日に飛行機や船で帰るのかもしれない)。けどこの時間はまだ真っ暗で、1時間くらい歩いた先にある縄文杉も全然見えないんじゃないかな。
自分は荒川登山口ではなく白谷雲水峡へ抜けるので7時くらいに出発すれば問題ないし、みんな出てしまった小屋の中で一人だけゆっくりしている。
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7時になり小屋を出発したところ、とんでもない晴天・・・え、このまま下山しちやっていいのか!?屋久島に来てこれだけの天気は滅多にないんじゃないかな、少なくとも自分が今後訪れるかもしれない中でこんな快晴は無いと思ったほうがいい・・・ということで、昨日は若干消化不良であった宮之浦岳からの最高の景色を求め、予定を変更してもう一度登ることを決心!!昨日ガスった山頂で、これが屋久島らしいじゃないかと自分自身を説得させたのだが、5年くらい前学生の時に来た時にもまさしくこれくらいの晴天の日を逃しており、再びそのチャンスが来たわけだ、なんという島の神のお取り計らい。
昨日は山頂から山小屋まで下るのに1時間くらいだったので、登り2時間と想定、下山も併せて本来の予定+3時間の追加となる。北アルプスで鍛えられた体を今使わないでどうする。必要ない装備は小屋内にデポし、飲み物と上着と行��食をザックに残して出発、かなり身軽さを感じる。
荷物を全て背負ったまま昨日入山した淀川登山口へ下山することも考えたが、あちらの最寄バス停は1日2便しかバスが来ず到着してもかなり待たされることと、やっぱ屋久島に来て縄文杉を見ないのはモグリですよ!
【コースタイム】 新高塚小屋(0720)→第2展望台(0745)→平石岩屋(0805)→平石(0815)→宮之浦岳(0840-0900)→焼野三叉路(0910)→平石(0920)→平石岩屋(0925)→第1展望台(0955)→新高塚小屋(1010)→縄文杉(1100-1120)→大王杉(1140)→ウィルソン株(1200)→大株歩道入口(1215)→楠川分れ(1255)→太鼓岩(1345-1355)→白谷雲水峡(1500)
約8時間とかなりハードに見えるが、大部分はハイキング的な要素で占められている。
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昨日はガスって山頂ほとんど見えなかったのに今日は凄いな、期待できる!
昨日はこの道を通過したのがお昼近かったので溶けてしまっていたんだろうが、さすがに九州とはいえ標高が1500m以上では夜から朝にかけて氷点下となり、道がツルツルに凍っていて凄く滑るところが何ヶ所かあった。何度も転びそうになり危うく怪我をするところだった。
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途中の道は昨日の分の方に書いてあるので省く。新高塚小屋から山頂までは予想よりも早い1時間半くらいで到着。山頂には自分を含めて3人。
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いや、これはもうヤバい。屋久島は洋上のアルプスと言われているが、360°海で囲まれており、見えるべくものは全て見える、100パーセント。5年の歳月を経て屋久島の神々に受け入れられたかのよう。
写真中央には富士山に似た鹿児島県の百名山 開聞岳と、その少し右には桜島(写真では見えづらい)。そのまた右には横に幅広く大隅半島。
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手前は永田岳と、その奥にはお隣 口永良部島。
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眼下には先程歩いてきた道と平石岩屋の巨岩群がみえる(中央左)。写真中央から右にかけては屋久島原始林。右上の海には細長く種子島が見える。
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左上には3つほど島が見えているが、奄美諸島の口之島、中之島、諏訪之瀬島だろうか?
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鬼界カルデラは大昔、九州南部の縄文人を絶滅させたことで有名な火山の跡で今は海底に沈んでいるが、それの外輪山である硫黄島(写真中央)と竹島(右、見えづらい)。
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淀川登山口方面。
どの方向を見渡しても町が見えず、逆にいうと屋久島のどの町からも宮之浦岳を臨むことはできない。このような山は奥岳と呼ばれている。
山頂ではちょっと早めの昼食をとり20分滞在。この後は白谷雲水峡まで長時間の歩行(白谷雲水峡まで14km)が待っているので、快晴の下でとても惜しいのだが下山する。本当に、登り返してきてよかった、この選択は間違っていなかった。計画に3時間の工程が急遽加わるというのは流石に躊躇したが、自分の体力・実力を熟知し実行可能であると判断した上であり、登山歴5年目くらいにしていろんな意味で成長したと言えるだろう。
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昨日は山頂がずっと雲で覆われていた永田岳がばっちし、どこを見てもすばらしい景色。けどね、なにか物足りなさを感じるんだよね。そう不思議なことに、ガスがかかっていたほうが屋久島らしいという感じがするのであった。(贅沢な要望だな!)もちろん年間降水量が非常に多い屋久島で、これだけの晴天の下で山頂を踏めたことは大変感謝している。
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昨日も(今朝も)通った下山ルート。中央手前の白い空間が平石、左奥の巨岩群が平石岩屋、海には大隅半島(左)と種子島(右)。贅沢ー!
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第1展望台より。昨日はここを通過した際は天気が悪くなりつつあったので景色が見えず、一体何が見える展望台なのか全くわからなかったが、なるほど、宮之浦岳が見えるわけですな。ここまで山頂から約1時間。あとは森に突入するので道中の説明は省く。
山頂から新高塚小屋までは約1時間。荷物が軽かったので昨日より少し早い到着。デポっていた荷物を回収し、3時間遅れで本日の予定に戻る。
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新高塚小屋から縄文杉までは森の中を約1時間歩くが、その前に縄文杉のすぐ近くにある高塚小屋の見学。自分が泊まった小屋は「新高塚小屋」で、こちらは名前に「新」と付いていない方の小屋なのだが、こちらのほうが多分新しい。しかもなんとこの小屋、個人の方の寄贈である。
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3階構造となっており、定員は20名くらいと新高塚小屋の半分くらいか。テン場が無さそうなのと、トイレが1つしか無い(?)という違いがある。
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高塚小屋から10分で縄文杉に到着。これ以上近づけないのでその大きさがいまいち実感がわかないのだが。
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こちらの看板に大きさの比較がわかりやすく描かれている。
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幹の直径はこの展望デッキとほぼ同じくらいという巨大なもの。ちなみに2017年にデッキが新調されたらしい。たしかにきれいかも。仙人のような奇抜な格好のガイドさんが周りにいる人たち10人くらいで手繋いで輪になろうということで(縄文杉の幹周り16mは大人10人が手をつないだくらいの太さ)、たまたまその場にいた自分も人数に入っていたらしく、全く知らない人と手をつないで輪になった。縄文杉の巨大さが大変よく実感できるのと、その様子を写真で是非撮りたかったが両手がふさがっていたから残念。
縄文杉について少しうんちくを。
ガイドの話を盗み聞きしていたが、遺伝子検査の結果3000年以上であることは確かであるが、7300年前に鬼界カルデラが噴火したときは火砕流でここも焼け野原となっていたので、それ以降に生まれただろうと、すなわち3000~7300歳。なお、落ちた枝を調べてみたら1000歳だったとのこと。樹齢1000年以上の杉を屋久杉と呼ぶが、枝だけで屋久杉級って・・・。
別の杉の切り株が縄文杉の近くで発見され、江戸時代に伐られた株であることがわかったらしい。けれどその近くにある巨大な縄文杉の存在に当時の人も気づかないわけがなく、江戸時代から地元の木こりたちには縄文杉の存在が知られていたと思われる。しかしなぜ縄文杉は木材として伐られることなく残っていたのか、一説によると、形が歪なので木材として売り物にならないとされていたかららしいが、ガイドさんの個人的な想像というか願望としては、やはり島の御神木として残されたのではないか、とのことである。自分もこっちの説がいいなー。
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新しい展望デッキも建てられており、縄文杉とほぼ同じ高さで横から見ることができる。
20分くらい休憩し縄文杉を後にする。今日は宮之浦岳に登り直したことで3時間も工程が追加されているから、帰りの最終バスには間に合わせないと。
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ここから先は学生時代も通ったことがある懐かしの道。相変わらず道が整備されていてハイキング気分。歩きやすく、帰りのバスまでに余裕をもって到着しておきたいので自然と速歩きになる。自分が縄文杉に到着した時刻は、ちょうど荒川登山口から登ってきた第一陣の人たちが到着した時刻と重なっていたらしく、自分は早々に下山したため、これから登ってくる人たちとのすれ違いが多かった。といっても、全部で100人くらいか?道が狭いのですれ違う度に下山者である自分が登山者を通すために一時停止(登り優先がマナー)。この回数がかなり多かった。
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とはいえ縄文杉から40分でウィルソン株に到着。高校生くらいの女の子3人組と少しお話して心がさらに癒やされました(グヘヘ)。
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ウィルソン株の中からハートに見える位置がよくわからなかったので、女の子たちに教えてもらった(本当は知っていた)。てか、冷静に考えてみればこの株の太さもすごいよな。屋久杉の大きさを一番実感できる場所ではないかと思う。
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縄文杉から約1時間で登山道入り口である大株歩道入り口に到着。荒川登山口へ下山する人はここから延々とトロッコ軌道となる。
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前後には誰一人として歩いていない。みんなまだ縄文杉の方向にいるだろうし、この時間から入山する人もまずいない。聞こえるのは軌道の上に敷かれた木道を歩く自分の足音だけ。とても気持ちがいい。ただ、退屈といえば退屈なのである。せめて動物が出てくれれば気が紛れるのだが、今日は遭遇しなかった。
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40分ほどトロッコ軌道を歩くと楠川分れに到着。白谷雲水峡へ向かう場合はこの分岐点で再び山道に入る。
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楠川分れから太鼓岩までは延々と上り坂、傾斜は普通だがこの荷物ですでに何時間も歩いてきた身としては辛い。標高が低いせいか気温が高い15℃くらい?今回初めて汗が出てきた。
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途中ですごい岩があった。登山道の真上を屋根のような岩が7mくらい張り出している。しかもその岩の上には普通サイズの杉が生えている。撮影スポットらしく、登山客が岩を持ち上げているポーズで写真を撮られていた。太鼓岩のすぐ近くにあったのだが、前回来たときはここまで足を伸ばさなかったので初めてこの岩の存在を知った。
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楠川分���から約1時間登り続け、最後のピークである太鼓岩に到着。とりあえす無心で登っていたらあっという間だった、トロッコ軌道から来るとこんなに近いのか(前来たときは白谷雲水峡から)。ご覧の通り柵などは設置されておらず、他人にザックを当てて転落するなんてことがないようデポったほうがよい(昔ガイドが客のザックに押されて転落して大怪我したことがあるんだと)。
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相変わらず素晴らしい天気で、むしろちょっと逆光気味。写真奥の方から安房川?に沿って歩き、写真中央辺りで右手前に向かって登ってきた。縄文杉は写真右の山の中にあるらしい。
写真最右上端に朝登ってきた宮之浦岳山頂が写っている。左上端にピッと立っているのが天柱石で、あとでネットで調べてみると凄い形をしている。
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天柱石は大忠岳の山頂に立っているらしく、ヤクスギランドから片道2時間くらいで登れるらしい。種子島から発射されるロケットをあそこから見ることができるらしい。
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宮之浦岳。その左にこれまた大きそうな岩が立っているのが翁岳かな。
太鼓岩では10分くらい休憩、本日初めて座った。岩の上で昼寝したいくらい景色も天気も素晴らしい。
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白谷雲水峡へ向けて下山する。基本的に足元に水が流れているか湿っている。縄文杉同様に、こちらもガイドを連れている登山者が結構いる。途中に奉公杉コースという、プラス2kmくらい追加していろんな杉が見れるルートがあるのだが、さすがに疲れたので今回は直帰。
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くぐり杉
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白谷雲水峡は屋久島で1番好きな場所かもしれない。足元に水が流れる音が優しい、しっとり湿った空気、深い森、苔・・・とても心が落ち着く。
対して縄文杉へのコースはなんか殺伐としている感じ。早朝の登山バスで一斉に登山開始する登山客の殺気立つ空気、荒々しい川、太古の杉達。同じ島の同じ森の中なのに、だいぶ異なる自然の側面である。
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水・緑・太陽の日差し。ほんと自然に癒やされるー。
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白谷雲水峡に到着、活動開始から7時間半かかった。全体的に道が整備されていたとはいえ、テント泊装備を背負っての山行お疲れ様でした。屋久島の神々よ感謝申し上げます。おかげさまで最終のバスの1時間以上前に到着した。
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白谷雲水峡から宮之浦の町まではバス。途中の道からは宮之浦の町を見下ろすことができる。
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本日は「やくすぎ荘」に宿泊。1万円(Go To割引で6500円+2000円の商品券付)で夕食と翌日の朝食が出てくる。
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夕食に出てきたのは・・・でた~!屋久島名物トビウオの姿揚げ。頭からシッポまで全部かじれる。外食するよりも、ちゃんとした宿で朝も夜も出してもらった方が全体のコスパいいな。
宿の目の前に地元のスーパーがあり、お疲れ会の夜食を購入。酒はもちろん屋久島で有名な三岳(焼酎)、屋久島産のタルメ。魚コーナーの店員さんにタルメって何ですか?て聞いたら …わからないですって言われて、まあこっちの人はタルメはタルメでしかないのね、目鯛のことらしい。
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翌日はお土産を買って帰るだけ。朝から風がかなり強く雨がパラついており、台風の接近を思わせるかのよう。案の定海はかなり荒れており、沖に出たらなんと3mの波。帰りも鹿児島までは高速船なわけだが、とにかくすごい動揺で前後左右全てに大きく揺れる。そこまで大きい船ではないのでかなり煽られている。エチケット袋もってトイレに向かう人が5人くらいいたし、さすがに自分も気持ち悪かったな。まぁ帰りの羽田行きの飛行機のこともあるし、出航してくれただけマシだが。鹿児島に近づくと波は穏やかになり安定してきた。
13時くらいに鹿児島港に到着。昼食は「ラーメン小金太」の 豚骨入りラーメン(豚骨ラーメンではない)。 名前のとおり骨付きの大きなチャーシューが入っており、その骨が軟骨よりも柔らかくて全部かじることができる。・・・煮込んだだけでこんなに柔らかくなるの?薬品に漬けてるわけじゃないよね笑
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鹿児島空港では滑走路の先に韓国岳やら高千穂峰やら新燃岳がそびえ立っているのが見える。もちろん上空からも見ることができた。あちらも百名山なのでいつか登ることになるだろう。
近年まれに見る、素晴らしい旅だった。文句の一つもつけようがない。今回ほどまでを望まなくとも、やはり数年に一度は訪れたい場所である。いくら本州の山々を登っても、(北アルプスの山々でさえも)屋久島の自然の威厳を超えるところはなかった。コロナ禍ということもあり比較的人が空いていたのかもしれない、こんな屋久島は二度とないのだろう。おそらく何度かこの記事を見返す度に、屋久島の自然から勇気と元気をもらうことだろう。 屋久島は今回で2回めだけど、また着たいなと毎回思わせてくる。ここまで自然からエネルギーを貰える場所は無い。飛行機は2ヶ月くらい前までに予約すればかなり安くとれるし、鹿児島~屋久島間も船で乗り継ぐよりはラクだからやっぱ飛行機がいいな(酔わないし)。
屋久島のいろいろ
下山して宿へ向かって道を歩いているとき、地元の小学生や中学生とすれ違ったんだけど、みんな「こんにちは」と挨拶してくる。すごい文化だ。
宮之浦岳山頂には登山には明らかに場違いの服装の人が一人いた。舐めているならまだしも、登山とはどういうものなのか何も知らないんだろうから注意のしようも無い。宮之浦岳をあの格好で登れたのは幸運にも天気が良かったからで、とにかく雨が多いこの山では低体温症になっても不思議ではなく、いかに危険な行為なのかわかってほしいんだけど。多分、縄文杉とセットで軽い気持ちで来てしまうんだろう。そんな軽い気持ちで登ってしまう人ほど、ちゃんと装備を整えて本格的に登山始めてしまえばもっと楽しめるのに、と毎回思うのである。
タクシーのうんちゃんの話によると、屋久島のガイドは島民よりも、むしろどこからか来た外部の人間が多く、シーズンを終えて仕事が少なくなってくなると自分たちの故郷へ帰っていくから、稼いだお金が島に落ちていかないのだとか。実は縄文杉のデッキでガイドの人たちが「今年はいつ戻るのか」みたいな話をしているのが聞こえ、あぁこのことかと。法律に違反しているわけではないし特に悪いことはしていないんだけど、考えさせられる。
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h-itaru · 4 years
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2020年8月~9月 嬬恋・上田
長和町 農産物直売所 :旧中山道 和田宿付近
長和町 マルシェ黒曜(道の駅 ながと内)
佐久穂町 黒澤酒造
嬬恋村  佐藤ファーム直売所
嬬恋村鎌原  やわら2051直売場
東御町  そば処 草笛
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長野県 売出中の葡萄「ナガノパープル」皮が食べやすい種無し新品種
今年から長野県外でも栽培できるようになったそう
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嬬恋のキャベツ直販
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佐久穂町の黒澤酒造
酒博物館併設 下に駐車場と喫茶室がある
水だしコーヒーが美味しかった
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旧中山道和田宿付近の直売所 
送るナガノパープル等と
竹内農園の野沢菜漬け(無着色)を購入
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嬬恋村 有料道路わきのワイルドな直売所
地元のキュウリ(鎌原きゅうり)が掘り出し物だった
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隣の施設の蜂モニュメントが目印になる
やはり長野と思う蕎麦 量がすごかった
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doshinotake · 7 years
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小林家~男は酒をつくり 女は家を守った~
『おいしいくりやま』第22回は、栗山町の和喫茶「小林家」を紹介。
明治建築の趣を肌で感じて
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栗山町の観光スポットとして人気のある小林酒造敷地内の一角に、“小林家”という日本家屋がある。その名の通り、小林家の人々が平成25年まで実際に住んでいた家で、平成18年には登録有形文化財に指定された歴史ある建物だ。
明治蔵元の生家“小林家”として一般公開をはじめたのは3年前の7月。建物の維持管理を目的として1人千円の見学コースを設け、今年の夏には見学者6000人を突破した。
施設は全て小林一族の女性たちで運営されており、歴史の語り手として館内を案内してくれる。
「酒造りを支え、質素な生活で家を守ってきた小林家の女たちの物語を私たちがご案内します。話を聞いているうちに泣いてしまう方もいて。昔おばあちゃんが苦労したっていうのはきっと、どこの家にでもあることで、胸の奥に詰まった何かに触れるんでしょうね」と話すのは、小林家の代表で小林酒造四代目社長の姉、小林千栄子さん。
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自身も高校生までこの家に住んでいたそうで、当時は寒すぎるのが嫌だったと苦笑いする。話し上手で、初対面の人でも親しみやすい人である。
「実は見学コースのリピーターさんには初回とは違うコースをご用意しています。3回目を終えた頃には、すっかり小林家の人になっちゃうんですよ。そういう人たちに支えられて、祖先から引き継いだこの家を取り壊すことなく維持できています」と、しみじみ語った。
錦の立地にあり、重厚でどこか神聖な雰囲気もある小林家を訪れるのは、町民には少し勇気がいるかもしれない。しかしながら、聞けば喫茶スペース兼休憩所として座敷を開放しているそうで、誰でも入館が可能。子供連れや車いすでの来店も安心だ。
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閑静な外観からは想像つかないほど、館内は日本らしい色で賑やかで、どこか懐かしい空間に心が温まる。コーヒーや抹茶などの喫茶メニューも用意され、手づくりの干菓子もついてくる。一番の人気は“甘酒しるこ”だそうで、小林酒造の香り高い大吟醸粕を使用しており、通常の甘酒とは一味違う。
大切に受け継がれてきた食器や布の一枚一枚に、小林家の小さな物語が詰まっている。話を聞いて小林家の歴史に触れるうちに、自分もまた、小林家の一員になったようなそんな気分になる。
ここに文字で語るにはもったいない。明治建築の雰囲気をゆったり味わいながら中庭に臨む紅葉もまた、薄茶の干菓子に等しいというものだ。実際に小林家へ足を運び、小林家の百二十年に渡る物語をこの家の守もりびとたちから直接聞いてみてほしい。
(2017.10.20 道新大竹販売所 ※コンテンツの無断転載禁止※)
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小林家の情報
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店名 明治蔵元の生家 小林家 所在地 〒069-1521 栗山町錦3丁目109番地 TEL 0123-76-7228 営業時間 [4月-10月] 10:00~17:00 [11月-3月] 10:00~16:00 定休日 水曜日 URL https://www.kobayashike-maruta.com/
近くのお店はこちら
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栗山の中心から北長沼方面にアンダーパスをくぐり抜け、レンガ造りの建物の間、ななめ通りを進む。小林酒造の建物と並んで、静寂の中にひっそり佇む古民家が“錦水庵”。こだわりの九一そばで、道外からわざわざこの店のそばを食べにくる客も多いという......
記事をもっと読む↓↓↓ 酒とそば 錦水庵~こだわり手打ちの九一そば~
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ari0921 · 7 years
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モース『日本その日その日』 E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』東洋文庫171,172,179,平凡社,1970-1971.  E・S・モース (Edward Sylvester Morse, 1838~1925) は米国の動物学者で、腕足類の研究のため1877(明治10)年6月18日来日した。日光見物の後、江ノ島で腕足類の研究を始めたが、そこで発足間もない東京大学生物学講座の動物学教授に招請された。9月にモースは東大の学生を動員して大森貝塚を発掘調査し、その後数回にわたって本格的な発掘を行なった。モースは大学で進化論を講義したが、当時のお雇い外国人には宣教師も多く、モースを攻撃する者が多かった。モースは米国での公演のため、11月に帰国した。  1878(明治11)年5月、モースは二度目の来日をした。東大で講義する一方、7~8月には北海道を旅行し、標本採集を行った。翌1879(明治12)年5月には、長崎・熊本・鹿児島でも標本採集や貝塚の調査をした。  1882(明治15)年6月、モースは陶器蒐集のため三度目の来日を果たした。7月26日、モースはビゲロウ (William Sturgis Bigelow, 1850~1926) およびフェノロサ (Ernest Francisco Fenollosa, 1853~1908) とともに、京都・広島・岩国・和歌山・奈良等を回って美術品を蒐集した。この三人の貢献によって、ボストン美術館の日本美術コレクションは、日本国外では最も充実したものになった。  本書 (Japan Day by Day) は、1917年にボストンで出版された。モースは大の親日家で、日本人の鄭重さや正直さを大いに賞賛し、「それに比べて米国人と来たら…」と批判する。執筆時のモースは80歳近い老人で、「米国の最大の脅威は若い男女の無頼漢的の行為である」というボストンの警察署長の言葉に深く共鳴し、若者への嫌悪感を強めていたらしい。 日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。 (1巻, p. 6) 巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出てきたのを見ると、押し合いへし合いするするものもなければ、高声で喋舌る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。 (1巻, p. 18) 日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。 (1巻, p. 30) 汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の甑にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言とを比較した。 (1巻, p. 30) 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。 (1巻, p. 34) いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。 (1巻, p. 37) 汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。 (1巻, p. 38) 同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊細で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。 (1巻, p. 39) 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。 (1巻, p. 40) 日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は綺麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。 (1巻, p. 55) 我々に比して優雅な鄭重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。 (1巻, p. 89) 日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、二六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。 (1巻, p. 100) 田舎の人々――農民――は、概して不器量である。男の方が女よりもいい顔をしていて、時々知的な顔を見受ける。私は綺麗ともいうべき娘を五、六人見た。 (1巻, p. 102) 外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声の無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。 (1巻, p. 102) 仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。 (1巻, p. 154) 然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向かって叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。 (1巻, pp. 157-158) 日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎れぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。 (1巻, p. 171) 日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼らを卑怯者といわねばならなかった。 (1巻, p. 199) 日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思える。 (1巻, p. 222) ��国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力車なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他、いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。………酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遥かに大なる自由を持っているということ丈である。(2巻, pp. 4-5) 日本の召使の変通の才は顕著である。私は四人雇っているが、その各の一人は、他の三人の役目をやり得る。 (2巻, p. 119) 東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に綺麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。 (2巻, p. 217) 日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。 (3巻, pp. 32-33) 和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体躯にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。 (3巻, p. 36) 国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲にして二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼らを取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲笑するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行[壬午軍乱]に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮かべ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。 (3巻, pp. 104-105) 火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少なくとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ボストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。 (3巻, p. 152) 日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。 (3巻, pp. 155-156) 日本の農夫は、一日に五、六回、主として米、大根、魚等の食物を食う。実際測ったところによると(医学生である竹中は私にかく語った)、日本人の胃は外国人のそれよりも大きい。これは、彼等が米を多量に摂取するからかも知れない。田舎の子供達が、文字通りつめ込んだ米のために、まるくつき出した腹をしているのを見ては、驚かざるを得ぬ。 (3巻, p. 165) 粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたものであると考えられていた。 (3巻, p. 234)
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kojimabar-blog · 7 years
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Workshop
ポーセラーツ・グルーデコサロン Rainbow Rose ポーセラーツ体験 白い器にシール状の転写紙を貼って世界に1つだけのオリジナルの食器をお作りいただけます。今回はハロウィンデザインのものもご用意しております。 3匹のコブタ♪ フラッグガーランドつくり お部屋の模様替えに、玄関のアクセントに。ハロウィンの生地もご用意していきます♪自分好みのフラッグガーランドを作りませんか? sicogirl 子供服・ヴィンテージリメイクアイテムの販売 フランスからのカラフルインポート子供服や、ヴィンテージ古着・布を利用したリメイクアイテムをお持ちします。個性派アイテム達がハロウィンパーティー気分を盛り上げます♪ *sonrisa* ロゼットづくり&販売 糸も針も使わず、どなたでも簡単に作れるオリジナルUN-DECORロゼット作りです★ plus5°/Alie D'ore/MiLi MiLi ネイル体験 詰めが弱い方やこども様のお爪にも優しい胡粉ネイルなどネイリスト3人で可愛いデザインをご用意してお待ちしております♪指先を彩ってハロウィンを楽しんで♪ MINE/大人 mine アクセサリー・雑貨販売 キラキラキッズ&ベビーのアクセサリー&雑貨販売。淡水パール・スワロフスキー、シャネルなどを私用した大人の女性がカジュアルにコーディネートできるアクセサリー販売。 mehndi room Laule'a へなアート体験 ボディアート体験 体に絵を描く事に抵抗があるかたでも、自然の植物ヘナを使って、消えるタトゥーを体験してみてください。ボディアートは、ボディペイント用の絵の具で描いていきます。ハロウィン柄も用意してあります。 HANDMADE CANDELS ~la luce dolce~ (ラ・ルーチェ・ドルチェ/キャンドル) キャンドルワークショップ&キャンドル販売 岡山市西口から徒歩約5分・奉還町商店街にある本格的な手作りキャンドルアトリエ&ショップです。今回はハロウィンカラーで不思議なマーブルキャンドルを作ります。秋〜冬に楽しんでもらえるキャンドルの販売もあります。 DIYSHOP&WORKSHOP[nats] DIY用品の販売とワークショップ DIYを可愛く楽しむアイテムの販売。ワークショップはお家のハロウィンパーティーを盛り上げる物が作れます♪ からふるうろこ 魚のうろこを使ったアクセサリーつくり&販売&WS 魚の鱗を染色加工した素材をメインにしたアクセサリー雑貨。ハロウィンバージョンのアクセサリーをプラスしてイベントもハロウィンも楽しんでくださいね。 Cyabu*Cyabu&工作のお家 アロマ雑貨とレーザー加工食品の販売 手作りを楽しむアロマワークショップ レーザー加工機を使ったオリジナル商��とアロマ雑貨をお持ちします。100%の精油は心と身体に素敵な働きをしてくれます。自分だけの香りを作ってみませんか… Jugendo Daily Style 日本の草根木皮をブレンドした 「寿元堂茶」の販売 日本の様々な場面で使われてきた草根木皮をブレンドした「寿元堂茶」を販売します。体が求めている味があるかも。
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xf-2 · 6 years
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事実を知らしめることが親善に
豊田有恒(作家)
愛国の一方で政府批判
 このところ、韓国の反日が常軌を逸したものになっている。いわゆる従軍慰安婦の問題は、日本の巨大新聞が、その強大な影響力を行使した結果、世界中にまき散らされた虚構なのだが、いわば韓国との連携のもとで、拡大した側面も見逃せない。
 明らかに、韓国は、変わってきている。なぜなのだろうか? 私は、1970年代の初頭から、韓国へ通い始め、韓国語も学び、多くの著書を上梓してきた。しばしば、親韓派と目されてもきた。弁解になるが、これには、理由がある。70年代の当時、例の巨悪の源泉である新聞社は、北朝鮮一辺倒だったのである。今日では考えられないことだが、北朝鮮を「地上の楽園」と美化し、相対的に韓国を独裁政権と規定し貶(おとし)めてきたのである。
 私は、もともと、小説家であり、思想的な背景はない。韓国へ行くようになったきっかけは、小説の取材のためでしかなかった。韓国は、あの新聞社が報じるように、独裁政権の国だと思いこんでいた。これは、おおかたの日本人の当時の平均的な理解だったろう。なにしろ、良心的と目されていた大新聞が、北朝鮮への帰国事業などを後援し、後にノーベル賞を受賞する有名作家や、国際無銭旅行で大ベストセラーを出した評論家などが、すっかり賛同しているのだから、実際に韓国へも北朝鮮へも行ったことのない人間は、そうだと信じこむしかなかった。
 しかし、韓国へ通ううちに、日本の報道が、おかしいのではないかと、うすうす思いはじめた。三十代はじめで若かったせいだろう、フットワークが良かったから、取材目的の古代遺跡のほかにも、あちこち歩きまわる。ディスコで知り合ったディスクジョッキーをやっているという同年輩の韓国人と意気投合したが、この男、どこでも政府批判ばかり口にする。こちらが、心配になって、周囲を見回したほどだった。日本では、KCIA(韓国中央情報部)の悪行ばかりが報道されていたから、言論の自由はないという先入観にとらわれていたが、こうした報道が、変ではないかと感じはじめた。
 また、一方では、政府批判もするが、この男、愛国心を口にする。ディスクジョッキーという軟らかい職業の男が、愛国心を口にすることに、違和感も持ったが、やや羨ましくもあった。当時、日本のマスコミは、左翼デマゴーグに牛耳られていたから、愛国心などと言えば、右翼と間違われかねないような風潮が、蔓延していた。しかし、韓国では、こうした言説は、この男だけではなかった。あちこちで、北朝鮮に偏している日本の報道がおかしいとする、多くの韓国人の批判を耳にするようになった。また、必ず日本に追いついて見せるという、愛国心をむき出しにした意見にも接した。
韓国の実情紹介に誹謗中傷
 韓国語が判るようになると、行動範囲も広がってくる。こうした韓国人が、KCIAに監視されているから、点数かせぎに愛国心を口にしていたわけではないと、だんだん判ってきた。バイク・カーマニアだったので、現代(ヒョンデ)自動車(チャドンチャ)や大林産業(テーリムサノプ)のショールームに足を運んで、韓国の自動車・バイク事情に関心を持ちはじめた。
 日本で報道されるような「暗く抑圧された独裁国」といったイメージでないことが、しだいに判ってきた。日本で、しばしば誤解されていることだが、反日の激しさから、韓国人に険しいイメージを持つ日本人が多い。一面では当たっていないこともないが、日常の生身の韓国人は、妙になれなれしく陽気で人懐(ひとなつ)こい。
 あの大新聞は、「暗く抑圧された独裁国」という疑似イベントを売りまくって、北朝鮮を美化し、韓国を貶める方向へ、日本国民をマインドコントロールしていたのだ。
 韓国では、確かに日本より言論の自由が制限されていた。しかし、それは、金日成の個人崇拝による究極の独裁国家である北朝鮮と対峙するためであり、ある程度は強権政治を敷くしかなかったのである。当時、韓国では「誤判(オバン)」という表現が、しばしば使われていた。韓国国内が混乱していると見てとり、好機とばかりに北朝鮮が南進に踏み切るのではないかというわけだ。つまり、北朝鮮に誤判させないように、常に国内を安定させておかなければならなかったのだ。全ての韓国人が、ほん(・・)もの(・・)の(・)独裁国家である北朝鮮を恐れていたからだ。
 こうした韓国の実情を、広く知らせたくなった。小説家という職業柄、書くメディアには、事欠かない。小説家の仕事ではないという躊躇(ためら)いもあったが、最初のノンフィクションとして「韓国の挑戦」(祥伝社)を上梓したのが、昭和53(78)年のことだった。書評では、これまでの日本の対韓認識を一変させたとまで、評された。当時の私には、巨悪と戦おうなどという大それた問題意識は、まったくなかった。
 だが、ベストセラーにはなったものの、あれこれ、雑音が耳に入ってきた。この問題が、当時のマスコミ界では、タブーになっていると知ったのは、発売されてからだった。つまり、ほんとうのことを言ってしまったため、このタブーに抵触した。期せずして、あの大新聞と言う虎の尾を踏んでしまったわけだ。
 朴政権に買収されている―は、まだしも上品なほうで、韓国に愛人がいるとか、韓国成り金だとか、いろいろ悪罵を聞かされることになった。そこで、子供たちもつれて、一家5人で毎年夏休みに韓国へ遊びにいき、印税を使い果たした。
日韓のため尽くした金思燁氏
 あの大新聞が主導して、日本人を親北朝鮮、反韓国という方向へ誘導していたわけだが、最近は、かつての報道姿勢が嘘だったかのように、あの大新聞は、北朝鮮を賛美するようなこともなくなり、いつのまにか北朝鮮への批判を、臆面もなく展開するようになった。
 それどころか、70年代当時あれほど嫌っていたはずの韓国に過剰に感情移入し、悪いのは全て日本人式の報道姿勢で、虚構に基づく従軍(・・)慰安婦(・・・)なる疑似イベントを垂れ流す始末である。多分、従軍(・・)慰安婦(・・・)報道についても、いったん非を認めたものの、真剣に謝罪するつもりなどなく、なし崩し的に、鉄面皮を決め込んで、風当たりが収まるのを待っているのだろう。
 実際、当時、私は、韓国人の魅力にハマってもいた。日本人のように、控え目でなく、陽気に自己主張する姿勢が、一度も宮仕えしたことのない私のような一匹オオカミの作家には、波長が合っていると錯覚したせいでもある。
 当時、知り合った韓国人のなかには、私の終生の師と仰ぐ人も、少なくなかった。東国大学の金思燁(キムサヨプ)先生とは、シンポジウムの席で知り合った。日韓バイリンガルの世代的な体験から、「日本書紀」「万葉集」を韓国語に、「三国(サムグク)史記(サギ)」「三国遺事(サムグンニュサ)」を日本語へ翻訳され、日韓古代史の研究におおいに貢献され、また、東国大学に日本学研究所を設立され、初代所長として、日本研究を韓国に定着させた功績は、おおいに評価されるべきだろう。
 金先生に招かれ、東国大学で講演したこともある。最初、韓国語で話しはじめたのだが、見るに見かねて、助け船を出してくださったのは、先生の優しさだった。私のほうも、日本人を知る方々が物故して、日本語スピーカーが減っていることに危惧を覚え、毎年、拙著も含めた文庫本を教材として日本学研究所へ寄贈し、日韓親善に努めたものである。金先生は、私のささやかな協力に、研究所からの表彰という栄誉で応えてくださった。ほんとうに尊敬できる立派な方だった。
 また、在日の人では、作家の故・金(キム)達(ダル)寿(ス)さんとは、古代史の会を通じて、親しくしていただいた。「日本の中の朝鮮文化」は、十数巻にわたる大著だが、日本全国に足を運んで、いわばライフワークとして書かれる際、金さんが自分に課していたことが、ひとつだけあった。韓国・朝鮮人の書いたものは、絶対に引用しないことだった。韓国・朝鮮人の書いたものなら、例の剣道の起源の捏造のように、なんでも朝鮮半島から渡来したと、こじつける文献が、いくらでも見つかるだろう。
 おそらく、金さんは、韓国・朝鮮人の書いた文章を引用したいという誘惑に駆られたこともあったにちがいない。しかし、日本人が書いたものしか引用しないと、いわば、痩せ我慢のように、心に決めていたのだ。
 金達寿さんとは、酒を呑んだり、旅行したり、また拙著の解説をお願いしたりしたこともある。艶福家で豪快な人だった。
今に伝わらぬ統治のプラス面
 時の政権を批判して、亡命同様に日本へ渡り、「コリア評論」を主宰されていた金三(キムサム)圭(ギュ)さんとも、知り合った。何度か、同誌をお手伝いした記憶がある。金さんは、東亜(トンア)日報(イルボ)の主筆の体験を生かして、当時は画期的だったクロス承認方式を提唱して、健筆を奮っておられた。南北朝鮮の対立状況を解消するため、中ソ(当時)が韓国を、日米が北朝鮮を、それぞれ承認することによって、平和を担保するというアイデアだった。
 しかし、その後の経緯を考えれば、中露は韓国を承認したが、日米は、北朝鮮と国交を持たないままである。あの当時は、かの大新聞の陰謀で、日本では伏せられていたが、北朝鮮という史上かつてない独裁国家の実像と戦略が、今や全世界で周知のものとなったからである。
 例の大新聞は、韓国を独裁国家と決めつけて、あれこれ捏造報道を繰り返したが、まもなく馬脚をあらわすことになった。あまり、褒められた話ではないのだが、不純な動機ながら、多くの日本男性が、韓国を訪れるようになり、本物の韓国を実際に目で見るようになったからだ。
 今も変わらぬ売春大国は、当時から有名だったのだ。空港などでは、団体旅行の男たちが、昨夜の女がどうのこうのと、聞えよがしに話しているのは、同じ日本人として、気が引ける思いだった。当時は、日本世代の韓国人が健在だったから、日本語を理解できる。あまりの傍若無人さに、舌打ちをしながら、露骨に「ウェノム」だの「チョッパリ」だの、差別用語を口にしている韓国人も、珍しくなかった。こうした日本人は、韓国語が判らないから、差別用語で呼ばれても、判��ないのだから、おめでたい話だ。
 しかし、不純な動機から訪韓しようと、実際の韓国を見てくれば、韓国が制限付きながら、自由主義の国だと判る人が増えてくる。とうとう、例の大新聞も、疑似イベントのような韓国=独裁国家論を、引っ込めるしかなくなったようである。
 免税店などでは、日本世代の年配の女性が、若い人に日本語を教えているケースもあった。何度か訪れ、親しくなると、世間話のようなこともするようになる。さる女性は、つい最近(当時)、女学校の同窓会を行なったところ、多くの同窓生が日本から駆けつけてくれたと、嬉しそうに話してくれた。
 当時、女子の高等教育は、日本でも朝鮮でも、まだ途上だった。女学校は、いわば最高学歴で、いい家の子女しか、通えなかった。したがって、この方の同窓生は、かつてソウルに住んでいた日本人が多かったわけだ。いや、この方も、元日本人であり、内地か朝鮮かなどと、出自を気にすることなく、自由に青春を共にしていたのである。
 多くの悲劇も誤解も矛盾もあったが、こうした日本統治時代のプラス面が、日本でも韓国でも、今の世代に正確に伝わっていないことが、日韓の最大の問題なのだろう。
良好になりつつあった日韓関係
 70~80年代にかけて、韓国では、慰安婦も歴史認識も、話題にすら昇ったことはなかった。その後、韓国を独裁政権扱いする報道も影をひそめ、日韓関係は、良好な方向へ向かいはじめた。もちろん、一部では、反日もあるにはあったものの、顕在化しなかった。
 むしろ、日本人のほうが、韓国への好感度を増していった。「冬のソナタ」のヒットの影響もあったろう。元のタイトルは「冬(キョウル)恋歌(・ヨンガ)」である。主役の裴(ペ)勇(ヨン)俊(ジュン)の魅力もあったろうが、誰が訳したのか、ソナタという言葉が効いたせいもあるだろう。
 70年代、日本世代の免税店のおばさんたちは、男ばかり来ないで、女性にも韓国へきてもらいたいと、いつもぼやいていた。家内を同行すると、おおいに喜ばれた。当時、ビーズのハンドバッグ、螺鈿(らでん)の漆器、絞り染めの生地など、男には価値の判らない土産物が、韓国では安く買えたのである。時代は、様変わりして、多くの中年女性が、日本から韓国を訪れるようになった。
 私も個人的に、日韓親善に尽くしてきたつもりである。東国大学以外にも、たまたま知り合いができた祥(サン)明女子(ミョンヨジャ)大学(テーハク)など、いくつかの大学へ、文庫本を教材として寄贈しつづけた。韓国の日本語スピーカーを減らさないためである。
 また、本業に関して言えば、日韓の推理作家協会の交流プロジェクトが、行なわれた際には、おおいに働いたと自負している。韓国では、減ったとはいっても、日本語で案内してくれる作家に、事欠かない。しかし、日本では、「韓国の独裁政権、やっつけろ」式の景気のいいスローガンをぶち上げる作家は、たくさんいたものの、韓国語で案内できる作家が、ほとんどいなかった。「あれ(イッチョ)に(ゲ・)見えます(ポイヌン・)建物(コンムル)は(・ン)、国会(クッケ)議事堂(ウィサタン)で(・イ)ございます(ムニダ)」などと、東京観光ではバスガイドのようなことも、しなければならなかった。
 90年代には、日本人の韓国に対する関心と、好感度も高まり、韓国人の日本への興味、関心も、増していった。サッカーW杯の共同開催に向けて、日韓関係は、新たなステージに向かうかに見��た。
日韓離反狙う慰安婦捏造報道
 だが、ここで、あの大新聞は、またしても、その強大な権力を行使して、日韓離反の挙に出た。
 1991年、いわゆる従軍慰安婦なる虚構が、報道されたのである。この巨大新聞は、現在では、いちおう虚妄だったことを認めてはいる。だが、軍隊相手の売春婦である慰安婦と、勤労動員で働いた挺身隊を、混同した報道に関しては、当時は事実関係の研究が進んでいなかったためと、弁解している。
 しかし、年齢の離れた姉が、あのころ女学生で、勤労動員により中島飛行機の工場へ、自転車で通っていたのを、私ははっきり覚えている。もちろん、慰安婦とは、何の関係もない。ことは、姉の名誉とも関わってくる。
 平成に入って早々のころには、あの新聞社にも、私と同世代の社員が、まだ現役でたくさん働いていたはずである。知らないはずがない。二十数年も訂正することなく、頬かぶりをしてきたのは、単なる誤報などではなく、あの大新聞が仕掛けた日韓離反策の一環で、意図的なものだからなのだろう。
 日韓離反を図る大きな意思は、あの新聞の言論支配のもうひとつの柱として、吉田某なる人物による、済州(チェジュ)島(ド)における日本官憲の女狩りという、とんでもない虚構を付け加えることによって、さらに拡大していく。
 しかし、その後の十数年は、この大新聞の企みは、まだ功を奏さなかった。日本では、韓国ブームが続いていたからである。これまで訪韓したことのない、中年婦人層が、韓国を訪れることが多くなり、韓流にはまった韓国語学習者も、増えていった。そればかりでなく、男性のなかにも、韓流ドラマにはまる人が多くなった。韓国の大河ドラマ「朱蒙(チュモン)」は、高句麗の開祖朱蒙を主人公とした作品だが、私の近くのDVD店では、新作が十巻入っても、即日借りだされるほどの人気だった。
 朱蒙は、もともと「三国(サムグク)史記(サギ)」に記録される神話上の人物なのだが、それを強引に歴史ドラマ風に、仕立て上げるところが、まさに韓国人である。元ネタが僅かしかないので、古今東西のエンタテインメントから、使えそうな要素を、流用している。水戸黄門のような部分も、大奥のような部分もあるが、臆面もなく、受けそうな要素を投入しているから、たしかに面白いことは面白い。
 また、韓国側も経済力の伸長と共に、訪日して実際の日本を肌で知る人々が増えてきてもいた。別府の大ホテルなど、経営危機に陥った苦境を、韓国からの観光客の増大で乗り切ったほどである。国際化というスローガンが、しばしばマスコミを賑わすが、お互い知り合う以外に、国際理解が進むことはない。 
慰安婦と同構造の原発報道
 だが、挺身隊=慰安婦という虚妄、済州島女狩りという捏造は、徐々にボディブローのように効いていった。韓国では、従軍慰安婦像なるものが、日本大使館の前に設置され、アメリカ各地へ飛び火していく。あの像は、新聞報道にあった12歳の少女として造られている。挺身隊=勤労動員には、中学生、女学生も動員されたから、その年齢の生徒たちも少なくなかったが、軍隊相手の慰安婦に、その年代の少女がいたという記録もないし、事実もなかった。
 韓国では、挺身隊問題対策協議会という団体が、活動し続けている。あまりにも長ったらしいので、挺(チョン)対(テ)協(ヒョプ)と略している。あの大新聞が垂れ流した挺身隊=慰安婦という虚構を、そのまま踏襲しているわけだ。語るに落ちるとは、このことだろう。
 事実関係が、はっきりしたのだから、あの新聞の責任で、韓国側に訂正を求めるのが、筋だろう。だが、あの新聞は、それをしない。それどころか、慰安婦の存在は事実だから、これまでの方針に変わりないという態度を、とりつづけている。
 なぜ、こうなるのだろうか? 韓国の問題と離れるが、私も筆禍に遭ったことがある。あの新聞社は、取材も検証もしないで、記事を書くことが、はっきり判った。私が受けた筆禍など、些細なことだが、問題の根は、共通している。
 私は、本業のSF小説の未来エネルギーとして、昭和30年代から、原子力に興味を持っていた。そして、日本中の原発と、建設予定地の全てを、取材した。当時、人気の「朝日ジャーナル」誌が、特集を組んだなかに、私の名前も、名誉なことに入れてあった。その特集とは、「わたしたち(原発反対派)を未開人と罵った識者十人」というものだった。もしかしたら、原発反対派を未開人と罵った粗雑な人間が、その十人の中に、いたのかもしれない。
 しかし、私は、そういうことを言ったこともないし、書いたこともない。それどころか、立地点の住民の反対を尊重すべきだと、常日頃から主張してきた。また、すでに物故したが、反対派の大立者の高木仁三郎は、私の中学の同級生で、同じ大学に入った間柄であり、かれが反対意見を発表できないような事態になったら、私と意見が異なってはいても、かれの言論の自由を守ると宣言してきた。さらに、原発に反対する自由のない国は、原発を建造すべきではないと、何度も書いたことがある。
 ことは、原発賛成、反対という問題ではない。こうした報道をするからには、私をふくめて、そこに記された十人が、そういう発言をしたかどうかを、取材確認する必要がある。
 ところが、私には、まったく取材は来ていない。そこで、私は、雑誌「諸君」のページを借りて、当時人気だった筑紫哲也編集長宛てに、私が、いつ、どんなメディアで、そういう発言をしたかと、問い合わせた。もちろん、そんな発言など、あるわけがない。筑紫編集長の回答は、のらりくらりと、話題をすりかえることに終始した。
韓国人と〝あの新聞〟の共通点
 つまり、あの大新聞は、取材も検証もしないで、主義主張に基づくフィクションを、報道の形を借りて、読者に垂れ流しているわけだ。原発などに賛成し、傲慢な発言をする非国民が、十人必要になった。そこで、関係ない人間もふくめて、誌上でさらし者にしたわけだ。つまり、原発推進めいた意見を、圧殺する方針だったのだろう。
 いわゆる従軍慰安婦の報道と、まったく同様の構造である。
 従軍慰安婦なるフィクションを、あたかも事実であるかのように、売りまくって読者を欺いた責任は、まさに重大である。しかも、日韓関係を破壊したばかりでなく、全世界にわたって日本の名誉を泥にまみれさせた罪科は、きわめて悪質である。
 誤報ではなく、明らかに意図的な捏造である。この捏造が,韓国に飛び火すると、さらに拡大していく。その意味では、この大新聞の離反策に、うまうまと乗せられた韓国も、いわば被害者と言えるかもしれない。主義主張を真っ向から掲げて、事実の確認も検証もしない韓国の国民性と、あの新聞の社是(?)は似ているかもしれない。
 私は、過去四十数年にわたって、韓国と関わってきた。最初、自宅ちかくの笹塚の小さな教室で、韓国語を学びはじめた一人に産経新聞の黒田勝弘さんがいる。あちらは、ソウル在住が長いから、私など到底及ばないネィティブスピーカーに近い語学力だが、スタートは一緒だった。
 以後、折々に韓国関係の著書を上梓してきたわけだが、その都度、親韓派、嫌韓派などと、勝手に分類されてきた。例の大新聞もふくめて、日本のマスコミが北朝鮮に淫していたころは、日本のマスコミ批判とともに、韓国擁護の論陣を張り、顰蹙を買った。また、韓国の反日が、度を過ぎたと思えば、遠慮なく韓国批判を展開してきたつもりである。
 国際親善には、王道はないから、知る以外に近道はないと考え、「日本人と韓国人、ここが大違い」(文藝春秋)「いま韓国人は、なにを考えているのか」(青春出版社)など、比較文化論ふうの著書もあり、口はばったい話だが、日本人の韓国理解に貢献してきたつもりである。
 もちろん、私の独断と偏見に堕す危険があるから、多くのコリア・ウォッチャー仲間から、助言や意見も頂戴し、拙著の間違いも指摘された。
転向左翼の韓国利用
 いわゆる韓国病にはまりかけていたとき、早大名誉教授の鳥羽欽一郎先生から、たしなめられた。「豊田さん、日本人と韓国人は、おたがい外国人なのだから、同じ視点に立つということはできませんよ」と、確か、こんなことを言われた。そのときは、むっとしたが、先生は、韓国にのめりこみすぎている私に、ブレーキをかけてくださったのだ。
 70年代、韓国にまじめに取り組もうという日本人は、それほど多くはなかった。田中明氏のような大先達のほか、外交評論の大御所岡崎久彦氏にも、お目にかかり、励ましを頂戴したことがある。外務省在勤中で、本名をはばかったのか、「隣の国で考えたこと」を、長坂覚のペンネームで、早い時期に刊行されている。現在は、本名で再版されているから、入手可能な名著である。
 また、産経新聞の柴田穂さんも、大先達の一人だった。韓国関係の会合で、何度か、お目にかかり、アドバイスを頂戴したこともある。なにしろ、中国政府に批判的な記事を書き、産経新聞が北京支局の閉鎖に追いこまれたと���、支局長として残務を整理し、従容として北京を退去された剛直な方である。支局閉鎖という事態を招いたのだから、本来なら責任重大なはずだが、言論の自由を守ることを優先したのである。
 それに引き換え、当時あの大新聞は、中国べったりの記事を、垂れ流しつづけていた。この新聞社には、Aという名物特派員がいた。中国通をもって自任していたはいいが、他社の記者まで、このA特派員に、お伺いを立てるようになったという。どこまで書いたら、中国政府の逆鱗にふれるか、A特派員に、判断を仰ぎに来たのだ。早い話が、あの大新聞が、日本の中国報道を検閲していたことになる。
 70年代、北朝鮮一辺倒だった日本の文化ジャーナリズムの世界で、一つの伝説があった。いわゆる進歩的文化人は、自分の名前だけ、ハングルで書けたというのである。申し合わせたのかもしれないし、あるいは、あの大新聞の関与があったのかもしれない。現在からは、信じられない話だが、ハングルで名前を書いてみせるだけで、朝鮮問題(?)の権威扱いされたそうである。
 しかし、現在の日韓の確執を眺めると、妙なねじれ現象がある。竹島問題にしても、従軍(・・)慰安婦(・・・)にしても、韓国側と共同歩調を取っているのは、70~80年代、あれほど韓国を独裁国家扱いして、忌み嫌っていた進歩的文化人なのである。節操もなにも、あったものではない。日本叩きに資する、あるいは、商売になると判ったら、かつて贔屓にした北朝鮮を見捨て、韓国に媚びるのだから、こういう世渡り上手と戦うのは、容易なことではない。
事実伝えることが真の親善に
 翻って、現在の韓国である。反日は、狂気の沙汰の域に達している。これには、日本世代が現場から退き、あるいは物故したという事実が、おおいに関係している。私が、多くの教示を受けた方々は、もし存命なら、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、日韓双方の美点を兼ね備えておられた。
 もう一歩、踏み込んで言えば、日本の教育を受けた方々だった。立派な方というと、ややニュアンスがずれるが、韓国語でいう「アルンダウン・サラム」という方が多かった。こういう世代が亡くなり、反日が質量ともに、変わってしまった。まず、かれらが考える仮想の日本人に対して、際限なく敵意をむき出しにした、いわばバーチャル・リアリティの反日になっている。
 日本では、韓国人は、険しいイメージでとらえられがちである。反日の激しさを見れば、間違いではないが、一面的に過ぎる。日頃の生身の韓国人は、お喋りで、陽気で、図々しいくらい人懐こい。日本人は、以心伝心を理想とする文化を生きているが、韓国人は、口にしたことが全てである。発信能力を磨かないと、生きていけない社会である。たとえ嘘でも、自分の主義主張を正面に掲げないと、たえず足をすくわれる危険に直面している。
 そのため、国際的には、日本人より判りやすいと定評がある。よく見てもらえれば、日本人の誠意が通じるはずだが、韓国人のほうが声が大きいから、知らない人が聞くと本気にする、と言った程度には、説得力を持ってしまう。
 大方の日本人の対韓姿勢は、「また、韓国人が騒いでおる。放っておくのが、大人の態度」といったものだろう。これが、日韓摩擦を拡大した主な原因のひとつである。日本からの反撃がないから、向こうは、さらに反日をエスカレートさせるのだ。
 日本は、和の社会だとされる。これには、聖徳太子が引き合いに出されることが多いが、贔屓の引き倒しの面がある。有名な十七条憲法の第一条が、はきちがえられている。太子は、談合のような和を勧めているわけではない。あくまで論じてからと、なれあいを戒めている。
 まさに韓国相手では、論じなければ駄目なのだ。相手は、合理的な議論が苦手だから、徹底して、論拠を上げて、言い負かすつもりで、追いつめなければ、非を認めない。一見、乱暴なようだが、反日が、高くつくという事実を、知らしめないかぎり、韓国の反日は、拡大するばかりで、絶対に解消しない。
 現在の韓国は、日本世代がいなくなり、歯止めがかからなくなっている。さながら李朝時代の政争のような、権力闘争すら起こりはじめている。日本が、関わりを持つ以前の時代へ、先祖がえり(atavism)してしまった感がある。ここに乗じて、あの大新聞が、新たなテーマで反日の捏造を加えて、逆襲してくる畏れもある。いや、その萌芽は、すでに現れている。
 私の「どの面下げての韓国人」(祥伝社)は、やや刺激的になるのを承知のうえで、出版社と協議して決めたタイトルである。さっそく、左翼弁護士が、噛みついてきた。ヘイトスピーチだというのである。しかし、ネットでは、すぐ反論されている。つまり読んでいないことを白状したようなものだというのである。なかには、あの本は韓国に同情しているのだ、とする感想もあった。こういう応援は、ありがたい。
 私は、あるときは親韓派、あるときは嫌韓派というレッテルを、貼られてきた。私は、日本人であり、日本を愛している。その都度、批判すべきことは、日本であれ韓国であれ、批判してきたつもりである。
 あの大新聞は、苦境を打破するため開き直って、韓国批判の本には、すべてヘイトスピーチだという烙印を押して、葬り去ろうというわけなのだろう。また、いわゆる従軍慰安婦の仕掛け人の元記者の就職先や自社に、脅迫があったという事実をもとに、言論の自由を盾にして、被害者の立場へ逃げこもうとしている。自分が、強大な権力をふりかざして、異なる言論を圧殺してきたことには、すっかり頬かぶりしている。
 韓国には怒りを込めた反論を、あの大新聞には、厳しい追及の手を緩めてはならない。それが、ほんとうの日韓親善につながるからだ。
 とよた・ありつね 昭和13年前橋市生まれ。父の医院を継ごうと医者をめざし、合格した東大を嫌い慶應大に入るも、目標が変わり武蔵大に入学。第1回日本SFコンテストなどに相次いで入賞して在学中の37年作家・シナリオライターとしてデビュー。手塚治虫のもとで「鉄腕アトム」のシナリオを二十数本担当。「スーパージェッタ―」「宇宙少年ソラン」の脚本も手掛ける。『倭王の末裔 小説・騎馬民族征服説』が46年にベストセラーとなる。47年東アジアの古代史を考える会創設に幹事として参画。50年「宇宙戦艦ヤマト」の企画原案、SF設定を担当。SF作家クラブ会長、島根県立大学教授などを歴任。63年オートバイ日本一周を達成。近著に『日本の原発技術が世界を変える』『どの面下げての韓国人』(ともに祥伝社新書)など。
※別冊正論23号「総復習『日韓併合』」 (日工ムック) より転載
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no1-shochu · 6 years
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【鹿児島県三大祭り お釈迦祭り】 (おはら祭り[鹿児島市]、お釈迦祭り[志布志市]、弥五郎どん祭り[曽於市]) 鹿児島県三大祭、お釈迦祭りが志布志市で有ります\(^o^)/ お釈迦まつり情報 【日時・場所】(2018年、平成30年)  ◆4月28日(土) 前夜祭 18:00~21:00   会場:宝満寺公園  ◆4月29日(日) 本 祭 9:30~20:00   会場:宝満寺公園、志布志市街地 お釈迦まつりは、江戸時代から行われている釈迦降誕を祝うお祭りです。旧暦の4月8日に行われていたことから「しがつようか」がなまり、「しがっじょか」とも言われます。  花嫁を乗せたシャンシャン馬、踊り連パレード、稚児行列、竹灯籠、千軒まち大市など多くの市民や観光客で賑わう県内屈指のお祭りです。 若潮酒造株式会社も地元志布志を盛り上げる為にお祭り、パレードに参加いたします\(^o^)/ 皆さん是非、御釈迦祭りに、若潮酒造焼酎ブースに遊びに来て下さいね~(#^.^#) 焼酎片手にお祭りを楽しんでみてはいかがでしょうか? それでは皆さん、お祭り会場にてお会いしましょう\(^o^)/ __________________________ ※若潮酒造の焼酎は、プリン体0・糖質0・甘味料0 、体に優しい芋焼酎です(^^♪ (焼酎飲み方案内) 冷やしてストレート、グラスにいっぱいに氷を入れ���ロック、グラスにいっぱいに氷を入れて炭酸水を入れてソーダ割り、グラスにお湯を入れてお湯割り、色々な飲み方をして楽しんで下さいね~(*≧∀≦*) 日本全土 、 全都道府県 に若潮酒造の焼酎が広がるように頑張ります。 ( 北海道 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県 新潟県 茨城県 群馬県 栃木県 埼玉県 東京都 千葉県 神奈川県 山梨県 長野県 富山県 石川県 福井県 静岡県 愛知県 岐阜県 三重県 大阪府 京都府 滋賀県 兵庫県 奈良県 和歌山県 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 愛媛県 高知県 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県 沖縄県 ) ★若潮酒造は見学、ツアーも出来ますので皆さん是非若潮酒造に遊びに来て下さいね\(^o^)/ (会社が休みの場合も有りますので、見学に来られる際は事前に御連絡して下さいね(^^♪) 若潮酒造株式会社への商品お問い合わせ 若潮酒造電話番号=099-472-1185 若潮酒造住所=鹿児島県志布志市志布志町安楽215 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ ※オンラインショップ、直売所限定焼酎も販売しています\(^^)/ ※若潮酒造株式会社公式オンラインショップ 情報 = http://wakashio.shop-pro.jp/ ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ #志布志 #若潮酒造株式会社 #若潮酒造 #わかしおしゅぞう #鹿児島県 #志布志市 #志布志町 #しぶし #焼酎 #本格焼酎 #芋焼酎 #麦焼酎 #國酒 #国酒 #焼酎志布志 #白若潮 #黒若潮 #若潮酒造服部明 #鹿児島県三大祭 #お釈迦まつり #お釈迦祭り #祭り #宝満寺 #港湾商工課 #しがつようか #しがっじょか #シャンシャン馬 #踊り連パレード (Shibushi, Kagoshima)
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aliyanproject · 8 years
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建国以来の大変化 「敗戦」 他国による占領」 米軍の爆撃機 機銃掃射 空から焼夷弾 空襲が日常茶飯事 防空豪 小学校が炎上 鮭の缶詰 学徒動員 終戦の詔勅
今世紀(20世紀)は、我が国にとって建国以来の大変化に次々と遭遇した世紀であった。 約300年の鎖国から明治維新を経て世界の舞台に再登場した直後、日清戦争、日露戦争、更には第1次世界大戦と、世界の大国を相手とした戦争を続けさまに経験し、遂には第2次世界大戦に突入して、日本の歴史で初めての「敗戦」と「他国による占領」を体験した。 
私は1937年(昭和12年)の生まれであり、この年は偶々第2次世界大戦が始まった年でもあった。 敗戦を迎えた時は7歳(小学校2年生)であった。 「第2次世界大戦」「敗戦」「他国による占領」と言う歴史的大変化の時期に、自分の身近で起きた出来事を記載して次の世代に伝えておくことは、貴重な体験をさせてもらった者の義務であろうと考えている。
当時私達の家族は西宮市に住んでいたが、もの心がついた頃には既に米軍の爆撃機による毎日の様な空襲が始まっていた。 空襲は昼夜を問わず何時来るか分からないので、寝る時も服と防空ズキン(雪国で子供たちが被っている綿入りの���角い頭巾)を常に枕元に置いておき、空襲警報が鳴れば直ぐに起き出して、防空壕へ逃げ込める様に用意していた。
米軍の爆撃機B-29(アメリカ ボーイング社製の4機プロペラを持つ大型機)が南の島(硫黄島か沖縄)から飛んで来ると先ず「警戒警報」が発せられ、ラジオが通常放送を中断して敵機が近付きつつあることを伝え、サイレンが鳴らされる。 更にB-29近づくと2段階目の「空襲警報」が放送され、短い間隔で断続するサイレンが鳴らされる。 敵機が去ってしまうと「空襲警報解除」となる。
昼間学校にいても「警戒警報」が鳴ると授業を中止して家へ帰って、近くの防空壕へ非難することになっていた。 通常は「警戒警報」があってから2、30分の時間を置いて「空襲警報」が発せられるのだが、時には「警戒警報」と「空襲警報」がほぼ同時に出たり、「警戒警報」が出ずいきなり「空襲警報」が出る時もあった。
ラジオの警報ではアナウンサーが、「敵B-29の編隊は、現在潮の岬方面にあって摂津地方に向かっています」などとわざわざ古い地名(摂津、播磨、難波など)を使っていた。 これは米軍がラジオを聞いた時に意味が分からない様にするためだと聞いたが、全く馬鹿げた話である。 自分達が被っていた防空ズキンもどれほどの効果があるのか不明だし、竹槍の使い方を練習して米軍が上陸してきたらこれで戦うと言っていたのだから、今から思えば何の効果もない単なる精神論であったように思う。
ある日こんなこともあった。 学校にいると空襲警報が鳴りだしたので授業は中止となり、給食のコッペパン(少し味の付いたパン)を貰って同じ小学生の仲間2、3人と帰宅していた。 学校から家までは500メートル程だったが、途中道を歩いていると空から艦載機(航空母艦から発進するグラマン社やロッキード社製の戦闘機)が飛んできて、空から機関銃で我々を撃ってきた(機銃掃射と言っていた)。 慌てて道添いのよその家に逃げ込んで無事だったが、艦載機は地上から操縦士の顔が見える程低空を飛ぶので本当に恐い。
B-29の場合はかなり高空を飛んでくる。 1センチ程の大きさに見えたと思うから5000とか8000メートルの高度であったろうか。 晴れていると5、6機が編隊を組んで飛んで来るのがよく見えた。 あまり恐いとも思わず眺めていた。 高射砲(飛行機を撃ち落とすため地上に置かれた大砲)が鳴るのは何度も聞いたが、撃ち落とされるのを見た事はない。
 B-29が空から焼夷弾(しょういだん 直径約10センチ、長さ約1メートルの鉄製の筒に油性の燃料が詰められている)を落とすのを見たこともあった。 それは夏の夕方で、花火が落ちてくる様に見えた。 焼夷弾は飛行機から落とされる時は10本程が鉄製のベルトで束ねられており、落ちてくる途中でベルトが外れて1本づつばらばらになるようになっている。 そのため夜間地上から見ていると、雲の上から小さな花火の様にひかるものが何10個と落ちてきて、途中ではじけて沢山の花火に変わりながら更に落ちて行く。
10分か15分もすると、さっき花火が落ちた辺りの空が明るくなる。 下では民家が焼けて空を明るくしているのだ。 悲しいがきれいな光景であった。 しかし「空襲が恐い」と感じたことはなかった。 なにしろ、もの心付いた時は既に戦争の真っ只中であり、空襲が日常茶飯事となっていたので、空襲は私にとって通常の生活そのものとなっていたのだから。
 我々が何時も避難していた防空豪は家から200メートル程離れた所に作られた大型のものだった。 100人は十分収容できたと思う。 小高い砂山を掘って幅7、8メートル奥行き20メートル程のトンネルになっていた。 内部は酒造メーカーが使っていた大型の酒樽の廃材(厚さ5センチ、幅30センチ程の木の板)を利用して、土が崩れてこない様に壁と天井を支えていた。 
昭和20年7月頃のある夜中、母親が「空襲警報やで。 起きよ。」と起こしてくれたので、何時もの様に服を着、防空ズキンを被って家族と共に防空壕へ避難した。  例によってB-29が飛来し、その夜は防空壕のすぐ近くにあった10数件の新築の家に焼夷弾が落とされ全戸が火事となった(なぜかそんな時期に10数件の家がまとまって新築されていた)。 目の前が火事となり、防空壕へ燃え移るかも知れな状況となったため、防空壕に避難していた全員はちりじりになって壕から逃げ出し避難した。 私は防空壕から出る際、家族と離れてしまい兄(小学校5年生)と近所のおばさんの3人で、広い麦畑(ねぎ畑だったかも知れない)に逃げ込んだ。
少し経って焼夷弾の投下は治まったので、麦畑を出て毎日通っていた小学校の方に向かった。 校門を入ると、木造2階建てで明治に建てられた小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の校舎がバリバリと大きな音をたて、夜空に炎を上げて我々の目の前で燃えていた。 同じ夜の空襲で焼夷弾を落とされたのだった。 自分の通っていた学校が炎を上げて焼失するのを、兄と一緒にただ呆然と眺めていたことを今でも鮮明に思い出せる。
小学校で常々やっていた、水を入れたバケツを大勢の人がリレー式に運ぶ消防訓練や、棒の先に縄を結びつけた火消し棒(現在拭き掃除に使うボンテと同じ様なもの)で叩く消火練習は、何一つ役に立たなかった。 B-29と焼夷弾に歯が立つ訳もなかったのである。 その後3人で家に帰った。 幸い我が家は焼けずに残っており、家族も全員無事であった。
学校が焼失した翌日、兄と学校へ行った。 空襲が激しかったためか、或いは休みの日だったのか定かではないが、学校にはほんの少しの生徒しかいなかった。 完全に焼失した校舎の焼け跡を何とはなしにうろついていた時、その一角に鮭の缶詰が沢山散らばっているのを見つけた。 鮭缶は現在売られているのとほぼ同じ大きさで、中身も同じである。 焼けてパンクしているものや、外側は黒焦げになっているが缶はしっかりしているもの、殆んど焼けていないものなど、様々である。 さっそく手で摘まんで食べてみると、何と美味しいことか。 二人で食べた鮭の味は、こりこりしたあの鮭の骨の歯ごたえと共に、今でもはっきりと思い出せる。
この缶詰は学校に駐留していた日本の軍隊が非常用として教室に備蓄していたものであった。 その後何日かして、この缶詰が生徒全員に分配され、家で食べた記憶がある。 私にとっての鮭缶は、特別の思い出のある食べ物である。
そんなことがあった少し前、小学校の校長が交代し、新校長の就任式があった。 校庭に生徒達が並び、その前を校長を先頭に何名かの人達(先生達であったかも知れないが、記憶が定かでない)が静かに行進して所定の場所についた。 校庭には畑や防空豪もあった。 学校のどこかに兵隊が駐屯していた様な気がする。
校長は戦闘帽(薄茶色の布製の帽子で当時そう呼ばれていた)をかぶり、鉄兜(鉄製のヘルメット)を首の後ろに掛けて、軍人と同じ服装をしていた。 校長が戦争をするわけでもないのだが、当時は大人達の多くがその様な格好をしていた。 要は何時でも戦えますよと言う「格好付け」である。 総ての国民が軍隊色一色に染め上げられていた。 悲しいことに日本全体が「軍人にあらざれば、人にあらず」の雰囲気になっていた。 学校もその雰囲気にどっぷりとつかっていた。 何しろ「学徒動員」と称して中学生まで戦争に駆り出されていたのだから。
私と同じ学校に通っていた姉(小学校高等科と呼ばれて、今の中学2年生に当たる)も��の学徒動員で、学校から何人かの級友と共に兵庫駅近くの工場(今思うと、家から1時間はかかっていたと思う)に派遣されていた。 そこには軍需工場があり、どんな仕事をさせられていたのかは知らない。
ある日その姉が工場から帰ってきて、家へ着くと同時に母親にすがって泣き出したことがあった。 聞けば何かの事情で工場から全員が家に帰ることになったのだが、電車が不通で利用できず、友達と一緒に線路を伝って家まで歩いて帰ってきたのだと言う。 当時電車でも30分は掛かり、距離にすれば20キロはある。その道のりを中学2年生の女の子達が線路の上を歩いて帰ってきたのである。 どんなに恐く辛かったことか。 今思い出しても涙が出る。
空から米軍の飛行機が反戦ビラを撒いたこともあった。 内容はよく覚えていないが、早期の降伏を勧告するものだった様に思う。 その内容で一つだけ覚えている言葉がある。 それは「・・・は焼け野原、花の都は後回し」と言うもので、・・・は大阪だったか何処だったか忘れてしまった。 要は花の都即ち、京都、奈良は当分無事で、空襲しないと言うことだった。 京都、奈良は歴史的な建物が多くあり(軍需工場は少ない)アメリカとして���多くの文化財を灰にするのは忍びなかったのであろう。 また、それだけの余裕を持って日本と戦っていたのだ。 それに比べて日本は「鬼畜米英」(アメリカ、イギリスは鬼や畜生、人間ではない)と称して唯々敵視し、国民の不満や恨みを国内問題から国外へ向けさせるのにやっきになっていた。 
 そんなある日、ラジオで重大放送があると言う話が何処からか伝わってきた。 昭和20年8月15日、終戦の詔勅(玉音放送)であった。  当時、ラジオのない家庭が多かったが、たまたま私の家はラジオがあったのでそれを聞くことができた。 初めて聞く天皇の声は、低くて抑揚が少々ずれた感じのする、私には全く意味不明の内容であった。 ラジオ放送は未だ民間放送などなく、NHK第1、第2放送のみであった。 小学生の私には終戦が何を意味するかさえ理解できなかった。 何しろもの心付いた時は既に戦争の真っ只中であり、空襲が日常の出来事の様に感じていたのだから。 しかし、これで総べてが終わった。
戦争が終わった後も、小学生の私には特別変わったことはなかった。 毎日の空襲はなくなったが、焼けた小学校は戻って来なかった。 校舎がなくなったので、1キロ程離れた別の小学校の教室を借りて授業が始まったが、校舎再建の目途はないので、翌年の4月には元の小学校は廃校となり、間借りをしていた学校に吸収されてしまった。
進駐軍(米軍)の戦車や隊列を組んだ軍隊などは全く見かけることはなく、平穏な占領であった。 時たまMP(米軍の警察兵)がジープに乗って通り過ぎることがあったり、米兵が遊びで町を歩いているのを見る程度だった。
ここまで書いてきたことは総べて終戦もま近となった、昭和20年の夏頃から翌年に掛けての思い出である。 ほんの1年ばかりの思い出であるが、生涯忘れることの出来ない鮮烈な印象である。
戦争の体験(その2 戦後)
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geidaisounddesign · 8 years
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東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第11期生修了制作展
みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙 vol. 2
わたしたちは遊ぶ 映画で遊ぶ この遊びとはなんだろう いくつか定義がある ここに二つ、三つその例を示そう 他人の鏡のなかに 自分の姿を映してみること 世界と自分自身とを 素早くそしてゆっくりと 忘れそして知ること 思考しそして語ること 奇妙な遊びだ これが人生なのだ
───「みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙」より ジャン=リュック・ゴダール
本上映会は東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第11期生の修了制作展です。最初の上映から一年、四通の新しい手紙を書き送ります。
◆2017年1月28日(土) 29日(日) 横浜会場:東京藝術大学横浜校地馬車道校舎
◉2017年3月4日(土)〜10日(金) 渋谷会場:渋谷ユーロスペース
Twitter:@GeidaiFilm_11 Facebook:https://www.facebook.com/mintomo11/
◆横浜会場 【会期】2017年1月28日(土) 29日(日) 【会場】東京藝術大学横浜校地 馬車道校舎 3階大視聴覚室(103席) 横浜市中区本町4-44(みなとみらい線「馬車道」駅5、7番出口すぐ) 【料金】入場無料・予約不要 【主催】東京藝術大学大学院映像研究科 横浜市文化観光局 【スケジュール】 1月28日(土)12:30開場 13:00 『ミュジックのこどもたち』 14:30 『みつこと宇宙こぶ』 15:30 『わたしたちの家』 17:10 『情操家族』
1月29日(日)12:30開場 13:00 『情操家族』 14:40 『わたしたちの家』 16:20 『みつこと宇宙こぶ』 17:20 『ミュジックのこどもたち』
◉渋谷会場 【会期】2017年3月4日(土)~10日(金) 【会場】渋谷ユーロスペース 渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 3F 【会場ウェブサイト】http://www.eurospace.co.jp/ 【お問合わせ】03-3461-0211 【料金】前売券:700円 当日券:900円(均一) フリーパス券:1500円(会期中何度でも入場可能) 【主催】東京藝術大学大学院映像研究科 【スケジュール】 3月4日(土) 『情操家族』 3月5日(日) 『わたしたちの家』 3月6日(月) 『みつこと宇宙こぶ』 3月7日(火) 『情操家族』 3月8日(水) 『ミュジックのこどもたち』 3月9日(木) 『わたしたちの家』 3月10日(金) 『みつこと宇宙こぶ』『ミュジックのこどもたち』 ※連日21:00から上映 ※会期中舞台挨拶・トークあり
単純明快な作品などひとつもない。みんなそれぞれに、何か大きなものに挑み、気持ちのいいくらいの試行錯誤を繰り広げ、複雑で重層的な語り口の中から、必死で信じるに足るものを探し出そうとしている。そしてその中から、おそらく偶然なのだろうが、全ての作品に共通の物語的主題がはっきりと浮かび上がってきていることに驚いた。そのひとつは、いまや従来の家族はまったく機能していないという点。もうひとつは、男はほとんど役に立たないか傍観者にすぎず、主体は女性の手に握られているという点。……なるほど、そうかもしれない。しかし4人の若い作家たちにとって、そのことは決して悲観すべきことではなく、むしろ希望、世界と映画に立ち向かうための絶好の主題であるように思える。 黒沢清(東京藝術大学大学院映像研究科教授)
ふと、昔見たある映画の中のセリフを思い出す。「世界を救うのはこどもや兵士や狂人なんだ」と。こどもとは、疲弊して色彩を失った世界を真新しい視線で再び息づかせるものであり、狂者とは、自分が何者であるか知らぬままに、世界の秩序や意味をかき乱し再生させるものであり、兵士とは、我を忘れて戦いに身を投ずるものであるとするなら、この4本の映画の中では、確かにそのようなものたちが、自ら傷つきながらも���き生きと行動し、世界に新たな光を与えているように見える。奇抜なアイディアや、派手な出来事によって映画を飾り立てることもないが、4本の映画はこどもと兵士と狂者とともに、それぞれの回路で世界に亀裂を生じさせ、映画と世界の新たな接続を試みるのである。 諏訪敦彦(東京藝術大学大学院映像研究科教授)
『ミュジックのこどもたち』
『ミュジックのこどもたち』 2017年/75分/ヨーロピアンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督・脚本・編集:佐々木健太 脚本:木村暉|プロデューサー:池本凌太郎 渡邊健悟|撮影:龍浩錕|照明:上野陸生|美術:美崎玲奈|衣装:栗田珠似|衣装協力:山崎忍|サウンドデザイン:川神正照|サウンドデザイン助手:仲間章雄|記録:李奥洋|助監督:野頭雄一郎|俳優担当:小林のんき|製作担当:森田雄司|音楽:高橋宏治 出演:伊東茄那 中崎敏 新津ちせ 鎌滝秋浩 長内映里香 生津徹 菊池芙美 小林永実
【あらすじ】 女子高生のマーフは、幼い時に母を亡くし、実父と義母、そのこどもである6歳のまあやと暮らしている。しかし酒に溺れる父には乱暴に扱われ学校でも孤独な生活を送っていた。夢見がちな幼いまあやとだけはいつも一緒にいる。ある日、森に迷いこんだマーフたちは、狩猟を生業とし、森の入り口に建つ古びた一軒家に住むマサとその叔父の次郎に出会う。マサと過ごす日々に、亡くなった母親の記憶やなつかしいうたを思い出すマーフ。音楽とうたのあふれるふしぎな森から、こどもたちの新たな旅がはじまる。
【監督プロフィール】 1985年北海道生まれ。立教大学映像身体学科卒業。大学在学中に『クーラン・オプティック』が仙台短篇映画祭に入選。『帰って来た珈琲隊長』は、ぴあフィルムフェスティバル2015にて上映された。藝大で16mm短編作品『どうでもいいけど』(脚本:木村暉)、他に杉野希妃主演のファンタジー短編『Alice』。
毅然と憎しみの感情を爆発させる主人公のたたずまいが美しい。憎しみが美しいというのが粋である。映画のヒロインとはこうでなければならない。家の内から外へ、あるいはその逆へ、彼女は自分の居場所を見つけようと絶え間なく移動する。まるで映画そのものが居場所を見つけ出そうとしているかのように。それにしても、ここはいったいどこだろうか。街のような森のような、この世のようなあの世のような…全ての境界線が曖昧になった一種の寓話的世界で、コミュニティの崩壊と再生が思いのほか壮大に描かれる。それと、森の中で突然行われる情事がまことにエロチックだった。 黒沢清
映画は、たとえどんなに荒唐無稽な世界であっても、それを「信じる」ように仕向けられる。その世界に綻びがないよう細心の注意が払われる。しかし、ここでは映像と映像が相互に補いながら一つの出来事をスムーズに了解させるよりむしろ、断絶し、エッジを際立たせ、世界は軋みはじめる。震えのようなその綻びには、何かのっぴきならないアンビバレンツな力学が働いており、そこに「映画」と向き合う作者の精神が現れていると思う。山間の古い家屋で世界と隔絶し、銃によって「命を頂いて」暮らし、やがて気球で好きなところへ自由に飛んで行こうとするマサたちの暮らし=孤立したユートピアが箱庭のように描かれるのであるが、地上にもはやユートピアが不可能であるとすれば、本当に空を飛んでいかなくてはならないのかもしれない。しかし、私たちは目に見えるものよりも、この軋み(音楽)こそを信じるべきなのだ。冒頭のマーフの微かな歌声が、やがて、堂々とした死者とのコーラスとして響くとき、音楽はその綻びから物語を超えて世界へ染み出すような感動的な響きを湛えている。 諏訪敦彦
『みつこと宇宙こぶ』
『みつこと宇宙こぶ』 2017年/40分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督・脚本:竹内里紗 脚本協力:峰尾賢人|プロデューサー:池本凌太郎 関口海音|撮影:松島翔平|照明:諸橋和希|美術:侯捷 王慧茹|衣装:栗田珠似|録音:清水裕紀子|サウンドデザイン:伊豆田廉明|編集:小林淳之介|助監督:川上知来 大杉拓真 山本英|製作担当:崔得龍|ヘアメイク:熊谷七海|特殊メイク:征矢杏子|音楽:金光佑実 出演:小松未来 金田悠希 島野颯太 宮野叶愛 百合原舞 伊原聖羅 篠崎颯夏 根矢涼香 坂井昌三 永山由里恵
【あらすじ】 9月20日。晴れ。目に見えない部分だから気になるのかな。最近「こぶ」の中身についてよく想像をふくらませてる。学校に行く道でも、お風呂に入っていても、夜に眠れないときも、ずうっと考えちゃう。だって「こぶ」の中身がわかれば、他のことについてもわかるような気がするんだ。
【監督プロフィール】 1991年生まれ。神奈川県出身。立教大学映像身体学科・映画美学校フィクションコース卒。大学の卒業制作として監督した『みちていく』が第15回TAMA NEW WAVEにてグランプリとベスト女優賞をW受賞し、翌年劇場公開。現在、DVDがレンタル・発売中となっている。DVDには藝大にて1年次に制作した16mm実習の短編『感光以前』も特典として収録されている。
主人公は13才の女子中学生だ。だから彼女の人間関係は学校を中心として形成されている。にもかかわらず、授業も教師も出てこない。彼女も作者もそういうものにまったく関心がないのだ。それより彼女は、驚くべき執着で何でも破壊してまわる。おそらく表面を砕いてその中身を確かめたいのだろう。それが大人になるための通過儀礼なのか、それとも子供の領域だけに許された遊戯なのかはわからない。しかし、一途に突き進む彼女の身のこなしは、有無を言わせぬ感動を呼ぶ。ふとジャン・ヴィゴの名前が浮かんだ。映画はきっと、このような者を肯定するために発明されたのだろう。 黒沢清
映画の中のこどもは、多くの場合その可愛らしさを利用されたり、大人が見たいと思う子供らしさを演じさせられたりする。しかし光子がしりとりをしながら商店街を駆け抜けるスピード、横断歩道でフラミンゴのように片足をブラブラさせる立ち姿、セリフの間合いやちょっとした仕草が、彼女を映画世界の中にユニークに息づかせる。撮影、美術、音響も演出を的確に実現しているが、監督が俳優のユニークさを捉え、その身体を生かしながら、一方的な操作に陥らぬよう、共働者として光子を演じる俳優に映画作りに参画させているように思える。そのことで、私たちはまだ子供っぽい光子の妄想を生きることが可能になる。こぶを恋心のシンボルのように扱ってしまえば陳腐なイメージになってしまうが、こぶは光子の言うように宇宙そのものであって、その妄想を生きる狂気が、世界を息づかせるのだ。こぶが消えると、光子は大人になって、この現実世界に回帰する。彼女の身体表現や発話を変化させて成長というものが確かに視覚化されていることが素晴らしいが、光子がさらに別の宇宙を生きる結末を見てみたい気もする。 諏訪敦彦
『わたしたちの家』
『わたしたちの家』 2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督:清原惟 脚本:清原惟 加藤法子|プロデューサー:池本凌太郎 佐野大|撮影:千田瞭太|照明:諸橋和希|美術:加藤瑶子|衣装:青木悠里|サウンドデザイン:伊藤泰信|編集:Kambaraliev Janybek|助監督:廣田耕平 山本英 川上知来|音楽:杉本佳一 出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ
【あらすじ】 ある一軒の家には二つの時間が流れていた。 14歳のセリは母親の桐子と二人暮らし。セリは桐子が新しい恋人をつくったことに反発している。ある日、セリはお父さんの倉庫からクリスマスツリーを出してきて……。 自分がどこからやってきたのかわからない、突然記憶を失くしてしまった女、サナ。目覚めた船の中で、サナは透子という女に出会う。あてのないサナは透子の家で暮らし始める。
【監督プロフィール】 1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒。同大学在学中に監督した『暁の石』がPFFアワード2014に入選。同卒業制作の『ひとつのバガテル』がPFFアワード2015に2年連続で入選、第16回TAMA NEW WAVEにノミネートされる。他に藝大で制作した『しじゅうご円』『音日記』がある。
暗い古風な家の中で二つの物語が交錯していくわけだが、よくこんなアイデアを思いついたものだ。しかも、その突飛な設定がまったく上滑りせず、あらゆる画面にサスペンスとして機能している。これを実現するには、相当な才能と計算が必要だろう。また、海の向こうがザワザワしていて、妙に気になった。ここは多分どこかの島なのだろうと思うが、ひょっとすると黄泉の国? もしかして、どちらかが幽霊なのか!? そう言えば、冒頭は少女たちが白衣をまとって暗闇の中で揺れているシーンだった。あれが恐ろしい物語が始まる予兆だったのか!! 興味は尽きない。 黒沢清
目覚めると記憶を失っていた女は自分が誰であるのか分からないまま、偶然に出会った女と共同生活を始める。亡くした父の面影と、新しい母親の恋人との間で揺れる少女の日常。全く関係のない二つの物語が、いわゆる平行世界として同じ一つの家屋で進行してゆく。二つの別の脚本を、一つの家屋を舞台に撮影するという実験は、ともすれば作り手の作為が透けて見えるようなものになりかねないが、この作品が魅力的なのは、平行世界を俯瞰して操作するような作者の視点を消し去り、ただポリフォニックに響き合う二つの世界の音楽に耳を傾けるように寄り添い構成されていることにあるように思える。1+1が2になるのではなく、互いに依存することも葛藤することもなく、ただ1と1としてあることで世界を開いてゆく。その「開かれ」に風が吹き込むように、それぞれが奏でる淡い物語はやがて溶け合って、世界をみずみずしく息づかせるのである。 諏訪敦彦
『情操家族』
『情操家族』 2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督:竹林宏之 脚本:今橋貴|プロデューサー:池本凌太郎 井前裕士郎|撮影:城田柾|照明:上野陸生|美術:侯捷|衣装:栗田珠似|録音:伊豆田廉明|サウンドデザイン:清水裕紀子|編集:小林淳之介|助監督:西川達郎 大杉拓真|製作主任:林宏妍 鈴木麻衣子|ヘアメイク:橋本申二 中麻衣子|音楽:久徳亮 出演:山田キヌヲ 韓英恵 遠藤史人 松田北斗 川瀬陽太 柳谷一成
【あらすじ】 冬休み、小学校教師・小野今日子は勉学に遅れがある生徒・鉄平の補講授業を行う事になる。今日子は、鉄平の母・美映と不思議な絆で結ばれるのであった。一方、冬休みの合宿に行っていたはずの今日子の息子・三四郎が、なぜか万引きで捕まったという報が入り、ある隠し事をしている事が発覚するのだった……。
【監督プロフィール】 1988年生まれ、福岡県出身。明治学院大学文学部芸術学科に入学後、映画史を学び、映画制作を始める。主な監督作に『ハチとミツ-新しい季節-』(14)『帰れないふたり』(15)『ジョンとヨーコ』(16)がある。
面倒見のいい女教師が、何でもかんでも面倒を背負い込み、実に面倒臭いことになっていく物語。それにしても素晴らしくヘンな映画だった。まず主人公を含めて大人たちがみんなヘン。あまりにもずけずけと物を言う。家の構造もヘンだ。熱演する山田キヌヲが部屋を飛び出してクリスマスツリーか何かを押し倒すバルコニーのような場所のヘンさ。別れた夫がどうやら海辺の堤防と思われる場所で、突然タップダンスを踊るシーンでそのヘンさは極まる。息子もつられてタップを踏むのだが、これまで見たことのない異様な光景だった。テッペイという子供だけが唯一マトモで、物言わぬ彼のたたずまいが不思議と印象に残る。 黒沢清
小学校教師今日子は、彼女を取り巻く世界を律儀に秩序づけようと奔走し、同時にその過剰な行動によって世界を撹乱するトリックスターである。主婦仲間の下らない雑談から立ち去る今日子が、突如直角に方向転換して走り出す後ろ姿のように、彼女には他人や自分に見せようとする私と、彼女を突き動かす衝動の間をとりまとめる中間というものはなく、その変化は不意打ちとして周囲をたじろがせるのだ。しかし、不意打ちを食らうのはむしろ彼女のほうである。彼女の秩序は彼女だけのものであり、世界のほうは常に今日子の期待を裏切るように出現する。奇人、変人による(スクリューボール)コメディというジャンルに敬意を払いつつ周到に造形された脚本が素晴らしいが、一歩間違えばから騒ぎに陥ちるかもしれない狂気の主人公と世界との喜劇的対決を、俳優の演技、身体を信頼し、活写する演出の手腕がしなやかで恐ろしいほどに冴えている。 諏訪敦彦
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shibaracu · 5 years
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●木花咲耶姫 コノハナノサクヤビメ
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●木花咲耶姫 コノハナノサクヤビメ 木花之佐久夜毘売 コノハナサクヤヒメ 木花開耶姫 ★コノハナノサクヤビメ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/コノハナノサクヤビメ コノハナノサクヤビメは、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、又は単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。   ★絶世の美女、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の神話と祀られている神社 https://www.e-sogi.com/guide/27985/ 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは、日本神話に登場する女神です。非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれています。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっています。絶世の美女と謳われた木花咲耶姫とは、どのような神様なのでしょうか。そのご神ご利益・ご神徳や祀られている神社をご紹介します。 目次    1 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは    2 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)のご利益・ご神徳    3 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が登場する神話のストーリー    4 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が祀られる神社    5 まとめ   ★八百万の神大図鑑- 木花佐久夜毘売 https://00m.in/9zMrY 【和魂】美『開花の時です』. 蕾が���開くときです。 人は美しいものに引き寄せられます。 内面だけではなく外見を磨くことであなたの魅力が増します。 後回しにしていたことに挑戦してください。 心地の良い環境が整うでしょう。 今は美容関係と縁が深くなっています。 あなたに相応しい相手を引き寄せるでしょう。   ★木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様からの神示 http://kibanamano.cocolog-nifty.com/ 2006/10/23 地球にある者全て神の恵みなり。 そを我が国の物とし、また、自国に無き物他国からとりてもと、考ゆる汚れし者たち。 大きな神罰、いずれ下りしもの。 世界の神は一つなること気づけば争いなくなるらん。   ★コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)とは|ご利益や祀られる神社 https://00m.in/yv9XL 2018/08/18 - コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)とはどんな神様なのか?神話の中のコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)の話から、ご利益(御神徳)、祀られている神社、富士山とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)との関係と言った話まで解説をします。   ★木花咲耶姫とは (コノハナサクヤビメとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%A8%E8%8A%B1%E5%92%B2%E8%80%B6%E5%A7%AB 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の元に姉のイワナガヒメと共に嫁がされるが、イワナガヒメは大変醜かったため追い返され、木花咲耶姫だけが妻となった。   ★絶世の美女、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の神話祀られている神社 https://www.excite.co.jp/news/article/ESogi_27985/ 2019/11/19 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とは、日本神話に登場する女神です。非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれています。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっています。絶世の美女と謳われた木花咲耶姫とは、どのような神様なのでしょうか。そのご神ご利益・ご神徳や祀られている神社をご紹介します。   ★木花咲耶姫命 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/konohana.html 別称:木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメノミコト)、神阿多津比売命(カミアタツヒメノミコト)、豊吾多津媛命(トヨアタツヒメノミコト)、神吾田鹿葦津姫命(カミアタカアシツヒメノミコト)、酒解子神(サケトケノコノカミ)、木花知流比売命(コノハナチルヒメノミコト)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)性別:♀系譜:大山祗神の娘。邇邇芸神と結婚し火照(ホデリ)命(海幸彦)、火須勢理(ホスセリ)命、火遠理(ホオリ)命(山幸彦)を産む。姉は石長姫命(イワナガヒメノミコト)神格:山の神、火の神、酒造の神神社:富士山本宮浅間(センゲン)神社、浅間神社  日本の木の花の代表といえばもちろん桜である。  その桜の美しさを体現しているのが木花咲耶姫命だ。  「木の花」が美しく「咲く」というのは、ものごとの繁栄を象徴する名前である。  神話には、日本の山の神の総元締の大山祗神の娘で、天孫邇邇芸命と結婚してその子を産む、見目麗しい女性として描かれている。  ただ、桜の花は満開になればやがて散る。 美人薄命という言葉があるように、この神はまさに美しさと同時に花の命のはかなさも象徴している。  これを表しているのが天孫の寿命の神話だ。   詳細についてはそちらを参照していただきたい。   ★木花咲耶姫さまと共に - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/konohanasaku/ 2014/08/25 2006年、全ての龍の孤高の王たる白き龍が目覚めた。 始まりは、2005年秋. 神社仏閣*足跡つけし場. 神仏は 人々の直ぐ傍におられます。 ぜひ、心を向けて下さい。必ずお導きがあります。 困った時だけでなく心を向けられることをお薦めします。   ★木花咲耶姫様の御神示 http://konohanasakuya.blog.jp/ ウイルスにも役割がある この世の万物事象すべてに役割あり。 山や海や川に住む生命も小さな虫も雑草も、小さな石ころでさえ役目ありてつくられたり。 大元の神が善の神と悪の神をつくられたるは、この世を調和させる為ならん。 細菌とて善玉菌悪玉菌あるように、ウイルスも同様なり。 ウイルス、細菌の感染症に対し、人間は都度薬を作りて対応するなれど、結果さらに強きウイルス、細菌作り出す。   ★神無月特集(9) 邇邇芸命と咲耶姫 http://www.ffortune.net/calen/izumo/sinwa/sinwa09.htm さて地上の国が天照大神の子に譲られることになったので、天照大神は最初 の予定通り天之忍穂耳命を下らせようとしますが、このとき天之忍穂耳命に 子供が生まれたので、その子(天照の孫)邇邇芸命が代わって降臨すること になりました。 この邇邇芸命(正式には天邇岐志 国邇岐志 天津日高日子番能 邇邇芸命と いう長い名前である)には八尺の勾玉・鏡・草薙剣の三種の神器が渡され、 天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・思金神・手力 男神・天石門別神などの神が付きしたがって地上へと降りて行きました。   ★木花咲耶姫を祀る神社の写真集   http://www.kaiunnoyashiro.com/jinja-link/0-konohanasakuyahime.htm 東口本宮冨士浅間神社 静岡県 小山町 木花開耶姫命・大己貴命・彦火火出見命 一幣司浅間神社    静岡県 御殿場市   木花開耶姫命 北口本宮冨士浅間神社 山梨県 富士吉田市 木花開耶姫命・彦火瓊瓊杵命・大山祇神 箱根神社   神奈川県 箱根町    瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花咲耶姫命 木花咲耶姫 安産の神、子育ての神。 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘。 天孫ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。 ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。ホオリの孫が神武天皇。 火中出産の説話から火の神として祀られるようになり、富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになったとされているが、 浅間神社の総本宮である富士山本宮浅間大社では、水の神として富士山の噴火を鎮めるために祀られたとしている。 別名 木花之佐久夜毘売・木花開耶姫・神阿多都比売(カムアタツヒメ)・鹿葦津姫・葦津姫(カヤツヒメ) ★木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の神話やゆかりの神社 | SPIBRE https://spirituabreath.com/konohanasakuyahime-11009.html 2019/05/01 物語における登場人物としてヒロインと言うのは今も昔も欠かせないものであり、日本神話と言う物語においてのベストヒロインと呼べる神様は誰かと言われたらそれは恐らくコノハナサクヤヒメであると言えるでしょう。またコノハナサクヤヒメは「富士山信仰」とも関係がある神様でして、日本神話をちょっと詳しく知りたい方には是非とも知っておいて貰いたい神様の一人。 そこで今回はこの日本神話における当時の日本人にとっての理想を詰め込んだとも言えるコノハナサクヤヒメについて御紹介させていただきます。 目次 1.神話に出てくる神様と言う目で見た姿 2.祭られる神様として見た姿 3.神話「ニニギノミコトとの誓約(うけい)」 4.2つの役割を持つコノハナサクヤヒメ 5.まとめ   ★相撲は神事 : 木花咲耶姫様の御神示  2017/11/27 http://konohanasakuya.blog.jp/archives/27374271.html 相撲は神事 相撲は神に捧げる神事ならん。 なれどその意識は今は薄れ、ただ力と力のぶつかりあい、最後には我と我のぶつかりあい。 長きに渡り受け継がれたる神聖なる相撲のその世界に入るものは覚悟をして臨まねばならぬ。 日々修行続けるは魂を磨くためなり。争いをするためにあらず。 相撲は宇宙を表す国技なれば、土俵は黄、四本柱の青、赤、白、黒、五行を表すなり。 日本の誇れる国技も暴力、嘘、隠蔽、体質と変わりぬればもはや神事にあらず。 相撲に携わるもの指導するものはいつも正しき行動にて魂を磨き少しの事に感情を揺さぶられぬ強さ、寛容さ必要ならん。 相撲を観る者もまた相撲は神事なることをしっかり心に刻み神聖なる心をもちて観らねばならぬ。 相撲の世界穢れるは神への冒涜となりにけり。   ★みやざきの神話と伝承101:可愛岳と可愛山陵 https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/021.html  ●「花米」を供え参詣  北川町ではニニギノミコトの山陵について、国が指定している「伝説地可愛山陵」とは別に可愛岳(727.7メートル)を山陵とする伝承が古くからある。可愛岳は西南戦争で、西郷軍の鹿児島・城山への最後の敗走が始まるところである。政府軍もよもやここを越えるとは、と思ったほど険しい山である。  可愛岳は行縢山とともに古代から信仰の山であった。天永元(1110)年の可愛岳に関する記録に、「年籠(としごもり)用途分」(年末に用意するもの)として「愛(エ)山正月1日鏡餅3枚 花米」とある。「花米」は神社参詣のとき神前に供える米のことである。八幡宮の神事、およびそのために用意しなければならない品物の目録に可愛山に供えるものが記されており、信仰の古さを知ることができる。   ★岸町二丁目 木花咲耶姫の山車 - 川越まつり https://kawagoematsuri.jp/dashi/25konohanasakuya.html 山車は二重鉾、四つ車、唐破風付き囃子台で廻り舞台。原型は昭和27年の牛車に屋台を乗せた小さなものだった。昭和33年以降その原型に改修を重ね、平成27年に現在の形に完成させた。 人形は岩槻の福田東久の作。古事記に安産、子育ての神として登場する神武天皇の曾祖母 木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)。山車の彫刻や見送り幕、四方幕の図柄にも木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)に関連する物語が表されている。なお四方幕は現代の名工桐生市の大沢紀代美の作。彫刻は掛布の松林洋。   ★木花開耶姫神社-R指定な川柳がいっぱい!珍しいハート形の神様【雲仙】 https://www.9navi.jp/konohanaya-shrine.html (注意) *この文面の中には一部に【閲覧注意】が含まれます。 卑猥なものが苦手な人は見ないで下さい。↓↓. 温泉地で有名な九州の雲仙。 こちらの温泉街の裏手を少し歩くと、原生沼が広がり散策コースとなっています。 この原生沼のすぐ横にあるのが木花開耶姫(このはなさくやひめ)神社です。 古事記や日本書紀にも出てくる女神様でロマンティックな響きがする名前だから、さぞかし神社もロマンに満ちたものと思いきや、、、?! もくじ    1 山道には短冊がいっぱい    2 注意点その1:大人限定    3 注意点その2:山道    4 注意点その3:駐車場   ★富士山と女性の深い繋がり【あなたの知らない富士山 ... - TABIZINE https://tabizine.jp/2018/07/07/192878/ 2018/07/07 7月1日は、日本の象徴かつ世界遺産である富士山の山開きです。富士登山はもはや日本人のみならず、海外旅行客にも人気。そこで、「祝!富士山開山」として、富士山のトリビアを全8回特集でお届けします。第7回目は「女人禁制」だった富士山について。 目次    1 江戸時代に、富士登山が大流行    2 富士講ってなに?    3 富士講本部は渋谷の道玄坂にあった    4 女人禁制だった富士山    5 富士山に行けない女性はどうしたの?    6 はじめて富士山に登った女性は    7 実は紀元前にすでに登頂した人物がいた    8 ドラマティックな木花咲耶姫の人生    9 富士山の神様は女性    10 富士山は女性と縁が深い山だった   ★女子力アップ!木華佐久耶比咩神社ー岡山県の ... - 岡山の街角から https://www.okayamania.com/spot/rekishi/konohanasakuyahimejinja.htm 美の神様を祀る、倉敷市の木華佐久耶比咩神社をご紹介します。 詳細 祭神:木華佐久耶比咩命     大山祇命     大國主命 別名、愛称:福南山神社 所在地:倉敷市福江1671-4 駐車場:有り、無料 参拝は24時間可   ★霧島神宮・御由緒 http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html 霧島神宮の御由緒や御祭神について御紹介しています。 相殿神:木花咲耶姫尊(お后)・彦火火出見尊(御子神)・豊玉姫尊(御子神のお后)・鵜 草葺不合尊(御孫神)・玉依姫尊(御孫神のお后)・神倭磐余彦尊(御曽孫神).   ★このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~ - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~cerasus/ 日本最古の書「古事記」に登場する木之花咲耶姫(このはなさくやひめ:さくらのように美しい姫の意)は桜の女神です。 「このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~」は桜をこよなく愛する者が桜を探求するあまり、出会った一期一会の桜図鑑です。  本サイトは、桜図鑑 桜の品種データベースです。 Last update 2020/2/15 MENU 日本の桜について・桜の名前から-桜図鑑 桜の各部位・花の咲き方から-桜図鑑 桜の花の色から-桜図鑑 ※現在編集中 桜の系統と品種について   ★海援隊の盗作と、木花咲耶姫様からの神示 | 愛上王 上を向いて歩こう http://firstdoor.jugem.jp/?eid=433 2012/04/20  今朝、某ブログランキングに並んでいます記事タイトルを眺めていましたら、 パクリに関した話題らしき記事を発見。(臼さんとこですな。 今回はでかしたわ。) で、自分のこの目で確認しました所、 以前にもブログ、「イスファロン」から盗作したのが発覚した海援隊がまたヤッタようです。 今回は二つ盗作していたのが明るみになりました。 イブの地球 宇宙昆虫 2012年3月17日 10:35 http://blog.iruka.holy.jp/?eid=760 http://megalodon.jp/2012-0419-0616-43/blog.iruka.holy.jp/?eid=760   ★木花咲耶姫さまからのメッセージ - 宇宙∞sora - Goo ブログ https://blog.goo.ne.jp/sora_666/e/509a3212085cb0c79f4dca849a980b9b 2011/08/28 久しぶりに木花咲耶姫さまがおこしでした マイラと私にメッセージをくださいました "あなた方がしていくことが やっとわかりましたね 地球上に光を降ろすのです あなた方にしかできないこと あなた方はシリウスにも魂があります" 私たちは金星やベガやシリウスにもいたようです いたというより魂の系列なのでしょうが   ���木花咲耶姫様からのスピリチュアルメッセージ | 愛とソウルメイトを引き寄せる https://ameblo.jp/romantic-alfred/entry-10878178240.html 2011/05/01 先日、 とても素敵な神社を 見つけました。 この神社は、 雑誌や本などでは 載っていないので、 あまり有名な神社ではないのですが、 すばらしい神社です。 その神社には、 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと) が祭られていて、 木花咲耶姫様の像があります。   ★【再掲】発展の歪 : 木花咲耶姫様の御神示 http://konohanasakuya.blog.jp/archives/1479919.html 2015/04/14 文明の急速なる発展の歪みは今この世に表れんとす。 便利なる物品あふるるは人間の知恵深きゆえなれど、便利さと共に失いたるものも多かりなん。 そのつけは時に人間の想像を遙かに超え表るるなり。 重大事が起こる前に、文明の過ちに気づきて改めねばならぬ。 人が撒きたる毒による病も、今表面化したるはまだまだ氷山の一角。このままなれば、人が撒きたる毒にて人が滅びる恐れありと悟るべけれ。 文明栄え、便利になるは悪しきにあらず。 宇宙の理に適う文明なれば、人の命を疎かにすることはなし。   ★木花咲耶姫からのメッセージ | 本質からの喜びへと還ろう https://ameblo.jp/purna-aqua/entry-12316693267.html 2017/10/04 富士山リトリートツアー ~ Part4~ のつづき、まとめですkira* こちらの記事 たくさんの方にお読みいただきました。 それでは、最終章を・・・ 必要な方へと届きますように   ★大山祇神社 「木花咲耶姫」と「瀬織津姫」が同一と言われる理由  https://makild.exblog.jp/16302761/   2011年 10月 30日 昨日は、大山積神に5つの名前があるということをお話しました。 そして、716年、宮浦の本宮が完成した時、一緒に、4つの神社が建てられ、その神社の神々は、5つの名前があるという、本当の意味の神々の神社だった。 かなり長い文章になってしまい、よくわからなかったかもしれませんが、根本の考えは、5つの神の名前があるということです。 それが、古事記の中での名前と、それと同じ意味を持つ、本当の神の名前の神社だということでした。   ★木花開耶姫:玄松子の祭神記 https://genbu.net/saijin/konohanasakuya.htm 木花開耶姫   このはなさくやひめ 別名 木花咲弥姫命:このはなさくやひめのみこと 木花之佐久夜毘売:このはなさくやひめ 神阿多都比売:かむあたつひめ 豊吾田津媛命:とよあたつひめのみこと 神吾田鹿草津姫命:かむあたかあしつひめのみこと 許乃波奈佐久夜比売命:このはなさくやひめのみこと 酒解子神:さかとけのみこがみ   ★古事記の日本神話『コノハナサクヤヒメ』をラノベ風に現代語訳して http://kojiki.co/nihonshinwa/episode32.html 日向に建てた宮殿で国造りを進めながら、ニニギは立派な大人へと成長した。 そんなある日、高天原から葦原の中つ国まで案内してくれたサルタビコが、故郷に帰りたいと言い出したので、ウズメに送らせることにした。 そのついでに、ウズメが1人でサルタビコに声をかけた時の勇気を称えて、名前���あげた。   ★コノハナサクヤヒメ - 日本神話・神社まとめ https://nihonsinwa.com/page/75.html オオヤマヅミ神の娘で、天孫ニニギ命と結ばれて、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を産む。姉はブサイクで頑丈なイワナガヒメ神(石長比売)。燃やした小屋で出産したことから火の神ともされ、古代ではバリバリの活火山だった富士山の浅間神社の祭神でもあります。花とその儚さを体現した美しい神。父のオオヤマヅミ神が酒を造ったことから酒造の神として一緒に祀られることも。
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