Tumgik
#長崎市旅行
takeshi-noguchi · 2 years
Photo
Tumblr media
長崎駅の海鮮炙り屋いぶき地へ!@ta0416 #長崎駅前 #いぶき地 #長崎グルメ野口剛 #長崎駅前グルメ #長崎駅グルメ #長崎駅居酒屋 #長崎グルメ野口剛 #長崎で飲み会しましょう #長崎で会いましょう #長崎で楽しもう #長崎グルメ #長崎市グルメ #長崎居酒屋 #長崎市居酒屋 #長崎駅前居酒屋 #長崎旅行 #長崎観光 #長崎市観光 #長崎市旅行 #長崎ってなんかいい #nagasaki #nagasakilovers #nagasakiizakaya #nagasakigourmet #izakaya #nagasakigood #長崎 #長崎市 #長崎県 #長崎駅周辺 (長崎駅前) https://www.instagram.com/p/CpxI1TAylu2/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
kyotomoyou · 2 years
Photo
Tumblr media
【長崎県】大三東駅 . (20//撮影) . #大三東駅 #海に近い駅 #海の駅 #海の見える駅 #島原鉄道 #島原鉄道大三東駅 #島原観光 #島原市 #長崎旅行 #長崎観光 #旅行 #日本旅行 #国内旅行 #旅行好き (大三東駅) https://www.instagram.com/p/CkLFY3DvwD8/?igshid=NGJjMDIxMWI=
14 notes · View notes
yaoyuan6478 · 2 years
Photo
Tumblr media
#長崎 #長崎観光 #長崎旅行 #長崎ランタンフェスティバル #長崎中華街 #長崎県 #長崎市 #長崎前撮り #長崎観光スポット #長崎ドライブ (長崎県長崎市) https://www.instagram.com/p/CoQoQoNhVOQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
roundtripjp · 2 years
Link
2022年最新日本住宿情報!2023年(令和5年)4月1日起,長崎市將對於住宿於市內的旅人加徵「宿泊税」!
1 note · View note
kamigata · 2 years
Video
平戸を歩く Hirado, Nagasaki 2018.12.31 平戸城、木造家屋、崎方公園、幸橋(オランダ橋)、平戸桟橋バスターミナル
平戸中心部のイラストマップ(Stroly): https://viewer.stroly.com/1619770826/ https://stroly.com/maps/1619770826/ 松浦鉄道 佐世保中央→佐々→たびら平戸口 鉄軌道 日本最西端の駅へ 2018.12.31 日本の鉄軌道で一番西の駅 たびら平戸口駅 すれ違い MR-600形603 伊万里行&レトロン号 MR -500形501 佐世保行 西肥バスで平戸大橋を渡る たびら平戸口から平戸へ 松浦鉄道 たびら平戸口駅 MR-600形606 伊万里行。佐世保行 604とすれ違い→出発 松浦鉄道 MR-600形606 伊万里行 たびら平戸口駅→松浦→伊万里車窓 佐世保駅バスターミナル 西肥自動車&させぼバス 1990年代製バスが健在! まとめて 2018.12.31 <プレイリスト> 九州のウォーキング 展望地 Viewing Spot 九州の観光地 Kyushu Tourism Spot 海の風景 Sea 商店街 Shop Street 城下町 日本の公園 Japanese Parks 日本の城2012- Casle, Japan 2018~2019年末年始 西九州旅行 九州地区のバス Japanese Bus 路線バス2016-2018 バスターミナル Bus Terminal -2019
1 note · View note
manabamba · 22 days
Text
I realized I haven’t done much with this blog specifically as a langblr (so much as a repository for various jokes and study suggestions that I haven’t really heeded) but now that I have booked my tickets for a long-ish trip to Japan, I should change that. I’m not the most aesthetically inclined or gifted person so this almost certainly won’t be the beautiful langblr of one’s wildest Pinterest dream but we make do. If anything it would be just be a ‘this is what I did and how, these are some interesting things I learned, grammar is still kicking my ass’ list post.
Introduction/自己紹介
宛名: 茉娜 (マナ)、ニューヨーク市
宛名由来: 長崎弁で 「学ばんば」は学びましょうという意味です。大学卒業後JETプログラムで一年間長崎に住んでいました。その間に国体ゲームが開催されていて、ガンバちゃんとランバくんというご当地キャラが好き好んだ。こうして、私はマナです✌🏼
短期目標: 旅行に先立って普通に日本語勉強するのを習慣にしている。このブログにその尽力や悩みを記録しよう
長期目標: (さすが) 来年JLPTのN2合格
超長期目標: いつかにJLPTのN1合格
9 notes · View notes
ari0921 · 16 days
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2024年)9月11日(水曜日)弐
  通巻第8403号   <前日発行>
 四重国籍者の愛国心はどちらにあるのか、まったくないのか
  テレグラムCEOドゥロフはロシア軍の暗号通信にも貢献した
*************************
 テレグラムCEOの逮捕劇は謎だらけなのである。
 第一に逮捕にいたる捜査は児童虐待の捜査を担当するOFMINというフランスの警察部門から始まったことである。暗号通信の過激派の運用を監視しなかったという不作為に対しての初動ではなかった。
 ドゥロフ容疑者に対する審問は、偽名を使った覆面捜査官がテレグラム上で性犯罪容疑者と接触した秘密作戦に端を発している。容疑者はオンラインメッセージで、オンラインゲームのプラットフォームで未成年の少女と接触し、その後「自作の児童ポルノ」を送るよう説得した経緯を説明した。
 
 第二に実弟のニコライにも逮捕状がでていることだ。
捜査官らはプラットフォームの背後の人物に注目し、2024年2月、パリ検察庁の要請により、OFMINはドゥロフと、アプリの技術インフラを担当する弟のニコライ・ドゥロフに対する予備捜査を開始したという(『ポリティコ』、9月6日)
そして3月25日にデュロフ兄弟に対する逮捕状が発行された。法執行当局はテレグラムが情報提供の要請に応じようとしなかったことを重視した。
 しかしニコライはロシアのサンクトペテルブルクに居住したままで外国へでることに興味が無いようにみえる。ニコライはロシアアカデミーの数学研究所に在籍している。
テレグラムはロシア軍の通信に活用されていることがわかっており、パベル・ドゥロフは50回にわたりロシアを旅行した事実も判明している。
 愛国者の顔はロシアに向けられていたのか?
2024年8月28日、デュロフは、プラットフォーム上で犯罪行為を助長したことや、法執行機関への協力を拒否したことなど6つの罪で正式に起訴され、500万ユーロの保釈金で釈放された。ただしフランスからの出国は許されず、週二回は警察への出頭が義務づけられている。
 ▼一番妖しいのはマクロン大統領とドゥロフの関係だ
 第三の謎はマクロン大統領との妖しい関係である。
マクロンはドゥロフとの食事会で、彼にフランス市民権を贈った。異例の措置で、しかも彼はロシア国籍を捨てておらず、同時にUAE(アラブ首長国連邦)とセントクリストファー・ネイビスの国籍も持っているから四重国籍である。
日本のような二重国籍は犯罪という概念は外国では通じないが、よっつも国籍をもつのは基本的に疑わしい人物ではないのか。
ル・モンドによると、2人はマクロンが大統領に就任して以来「複数回」会っていると報じている。またマクロン大統領は10年前からテレグラムを使用しており、閣僚らから使用をやめるよう正式に要請されたにもかかわらず、今も使い続けている。 
 ウォール・ストリート・ジャーナルはマクロン大統領がデュロフにテレグラム本社をパリに移転するよう説得し、その交換条件でフランス国籍を与えたという。
 フランスの思惑ははっきりしている。
暗号通信のプラットフォームであるテレグラムの活用であり、憶測の中には西側諸国がテレグラムを支配しようとしている懸念がある。なぜならロシアが異様は態度でフランスを批判しているからである。
サンクトペテルブルク生まれのドゥロフは、クレムリンとの緊張が高まる中、2014年にロシアを離れた。2013年から2014年にかけてのウクライナの「マイダン運動」に際して、ウクライナの民主化活動家の連絡先を引き渡すことを拒否したという。
 純資産が150億ドル以上と推定されるデュロフには、パリのエリート層を構成する銀行家、投資家、起業家の間で友人がほとんどいない。にもかかわらず彼とマクロン大統領との関係は、マクロン大統領が就任当初、世界のテクノロジーリーダーたちにフランスへの投資を誘致するためにあらゆる努力を払っていた頃にまで遡る。
 テクノロジー政策に携わるフランスの或る高官は、デュロフのケースはまれ。フランス政府刊行物によると、ドゥロフ氏は2021年に正式に市民権を与えられたがフランス語をほとんど話せないとした。
 私生活も謎が多い。
 ドゥロフは少なくとも5人の子供を法的に認知している。うち2人は元パートナーだったダリア・ボンダレンコとの間に、3人はそのあとのパートナーだったボルガルとの間に生まれた。
ボルガルはスイスに居住しており、またドゥロフは精子提供により100人以上��実子をもうけたとボルガルが主張している。
天才と「なんとか」は紙一重!
9 notes · View notes
kennak · 4 months
Quote
自身が勤務していた埼玉県内の公立中学校などの男子生徒多数に対してみだらな行為などをしたとして、児童買春・ポルノ禁止法違反や児童福祉法違反などの罪に問われた、元中学校教諭外崎三吉被告(44)の判決公判が7日、さいたま地裁であり、中川卓久裁判官は外崎被告に懲役3年(求刑・4年6月)の実刑判決を言い渡した。中川裁判官は判決公判で、一部の犯行について「違法性が際立っている」と断罪し、「強く非難されなければならない」と強調した。     判決によると、外崎被告は2022年4月~昨年9月までの間、自身が勤務していた埼玉県朝霞市内の中学校の生徒や、顧問を務めた吹奏楽部員ら10人超に対して、同校内をはじめ、県外の温泉施設や修学旅行先、部活合宿の宿泊施設内で、生徒らを盗撮するなどして児童ポルノを製造したり、自己の性欲を満たす目的でみだらな行為をした。  判決理由で中川裁判官は、今回審理された事件の中には、悪質性が高い行為や児童ポルノ製造があったとし、学校教諭や部活動顧問として生徒らの成長に向けて指導する立場でありながら、勤務する校内などで生徒を性的欲求の対象とした犯行は「違法性が際立っており、被害生徒の心身に与える影響が懸念される」と指摘。教諭や部活動顧問に対する信頼を裏切るもので、常習的に犯行に及んでいたとすれば「被告人の規範意識は相当低下していた」とした。  一方弁護側は、被害者に謝罪文を送付し、一部では示談が成立していると主張。勤務していた学校を懲戒免職になっていることなどの社会的制裁も受けているとした上で、社会復帰後も家族の監督によって更生が期待できるとして、執行猶予付きの判決を求めていた。  外崎被告はこの日、緑の半袖ポロシャツに灰色の長ズボン姿で視線を下に落としながら出廷。主文の読み上げが終わると立ち上がり、裁判官へ深く頭を下げ法廷を後にした。
生徒にわいせつ行為…修学旅行先や部活合宿の宿泊施設で 顧問の部活動の生徒10人超を盗撮やみだらな行為 「違法性が際立つ」と元教諭の44歳男に懲役3年 指導する立場での犯行「強く非難」 すでに学校を懲戒免職に(埼玉新聞) - Yahoo!ニュース
7 notes · View notes
chiyoha1488 · 11 days
Text
Tumblr media
今日のちよ旅は大分県竹田市の「隠しキリシタン信仰」
九州はご存知の通り、熊本県天草や長崎県をはじめとしてキリスト教信仰が盛んだったり、江戸時代には厳しい取り締まり受けたり、そういう土地です
そんな中、大分県竹田市と聞いても、教科書でも取り上げられることはないのであまりピンと来ない方も多いと思います
というのも、「隠れ」キリシタンは有名ですが、竹田市では藩ぐるみで城下でのキリシタン信仰を隠蔽したことから「隠し」キリシタンと、能動性を持って呼ぶほど組織的な隠蔽が行われていたそうで、「見つからなかったから有名にならなかった」ということなんですね
逆に、その隠し方の甚だしいほど徹底しすぎており、基本口伝、記録などは殆ど残っておらず、もはや誰も由来すら知らない遺構やモチーフ、信仰ばかりだそう
まあそんなミステリアスな部分に惹かれて今回のちよ旅のテーマにした次第です
Tumblr media
竹田市では見慣れない姿の仏像や神像、いわゆる異形仏像/異形神像が多く見つかっています
神様仏様なんかはいろんな人の手によって描かれたり造形されたりしますが、美術館や博物館や寺院や図録で見るとちゃんと名前が判明していますよね
というのも、そのキャラを特定する特徴、モチーフ、持ち物、ポーズ等々そういうレギュレーションがあって、「アトリビュート」って言うんですが、そういうものが大体盛り込まれているものなんですよ
さて、そういう文脈があった上で、異形像がなぜ異形と言われるか
異形像は一見「それっぽく」見えるんですが、アトリビュートの観点をもってみるとチグハグで、まさしく「異形」なのです
例えばこれ
Tumblr media
仏様が赤ちゃんを抱いています
そんなアトリビュートを有する仏様はちょっと見当たらない
でもこれをキリスト教まで拡げると「幼いキリストを抱いている」というアトリビュートから聖母マリアだと解釈できるんですね
カモフラージュのために見た目とアトリビュートをチグハグ、故に異形に見えるのですね
Tumblr media
極め付けはこれです
「山の神」として祀られていたそうなのですが、
一つ目なのはまだしも鳥の姿なのは山の神としても異形すぎる、まるで邪神にすら見えます
ただこれもキリスト教まで拡げると、
ウィンプル(頭巾)をつけているように見える、
翼がある、
手クロスに組んでいる、
一つ目では無く「⚪︎」=まるや=マリア
という風に解釈でき、マリア信仰の像なのではないか?ということらしいです
ちなみにこの山の神のお祭りは由来は不明なのですが12月24日に行われていたそうで、そこも証拠になっています
(続く)
4 notes · View notes
hachikenyakaiwai · 1 year
Text
Tumblr media
【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八月十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台地フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図書館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑��尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
16 notes · View notes
takeshi-noguchi · 2 years
Photo
Tumblr media
魚たつのランチに行ってきました!@ta0416 いつも大満足でございます😆 魚菜創作ダイニング 魚たつ 五島海山 〒850-0036 長崎県長崎市五島町3−22 095-825-6455 https://maps.app.goo.gl/Q7A6uSjzYhrs83ix7 #長崎グルメ #長崎市グルメ #魚たつ #長崎ランチ #長崎市ランチ #長崎居酒屋 #長崎市居酒屋 #長崎観光 #長崎旅行 #長崎 #長崎ランタンフェスティバル #長崎海鮮 #五島うどん #舞い上がれ #Googleローカルガイドレベル10野口剛 #Googleローカルガイド野口剛 #長崎グルメ野口剛 #長崎ってなんかいい #長崎五島うどん #五島うどん地獄炊き #長崎刺身 #長崎刺身定食 #長崎駅前グルメ #長崎駅前ランチ #nagasakigram #nagasakigourmet #nagasakigood #nagasaki #nagasakilanternfestival #nagasakilantern (魚たつ) https://www.instagram.com/p/CoOW_RVyUXt/?igshid=NGJjMDIxMWI=
4 notes · View notes
kyotomoyou · 2 years
Photo
Tumblr media
【長崎県】古部駅 . (2020/09/09撮影) . #古部駅 #島原鉄道 #島原鉄道古部駅 #長崎旅行 #長崎観光 #長崎県 #長崎県島原市 #海の駅 #海の見える駅 #鉄道風景写真 #旅行 #日本旅行 #国内旅行 #旅行好き (古部駅) https://www.instagram.com/p/CkIqdPTvvFG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
14 notes · View notes
yaoyuan6478 · 2 years
Photo
Tumblr media
#長崎 #長崎観光 #長崎旅行 #長崎ランタンフェスティバル #長崎中華街 #長崎県 #長崎市 #長崎前撮り #長崎観光スポット #長崎ドライブ (長崎県長崎市) https://www.instagram.com/p/CoQnyBlByVd/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
fukagawakaidan · 1 month
Text
「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なり���ぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地��いわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
3 notes · View notes
tokyomariegold · 5 months
Text
2023/12/25
Tumblr media
12:30新大阪     御堂筋線なかもず行 12:45心斎橋    長崎堂    ホテル
13:30ホテル 13:35堺筋本町     堺筋線高槻市行 14:09南茨木     大阪モノレール門真市行 14:24万博記念公園     徒歩 14:40国立民族学博物館
Tumblr media
16:25国立民族学博物館 16:42万博記念公園     大阪モノレール 16:44山田駅     阪急千里線天下茶屋行 17:26堺筋本町駅 17:29ホテル
Tumblr media
10:30ホテル 10:41堺筋本町駅     中央線コスモスクエア行 10:53大阪港駅 10:58大阪税関
11:27大阪税関 11:33大阪港駅 11:44本町駅    四つ橋線西梅田行 11:58西梅田 12:01梅田
Tumblr media
大阪に来ています。 体調とか心配事とかが多くて今回は帰るのが楽しみな大阪旅行になってしまった(よくない!)。 行きの新幹線で今日と明日のタイムスケジュールを立てて、そのまま名古屋から新大阪までずーっとうとうとしっぱなしだった(よくない!)。 せっかくの窓側の席を取ったのに。 そして年末のまずまず混雑する車内で、私の隣2席はずっと空席だった。
うとうとしながらあのちゃんのアルバムを聴いて、曲名はわからないけれどとてもポップで良い曲があった。
Tumblr media
新大阪駅から御堂筋線で心斎橋で下車。 地下鉄から大丸とPARCOに直結している!と訳もなく寄り道したくなってしまう。 大丸の前の道は歩道の工事をしていた。 東京もだけれど、大阪も至る所で工事をしていて、思った以上に万博ムードを高めるキャンペーンがされているようだった。
今回のお土産はここで買いたい!あわよくばクリスタルボンボンも…と調べていた長崎堂へ。名前の通りカステラが名物らしく、大阪なのに長崎…と、違う焼き菓子とクリスタルボンボンを購入。 クリスタルボンボン用の紙袋も入れてくれた。
一旦ホテルに荷物を置いて、万博記念公園へ向かう。大阪から1時間もかかるし、めっちゃ広いと聞いていたので予定を立てて疲れてしまいあまり気乗りせずだったけれど行って良かった。 地下鉄から阪急電車に乗り入れている路線で、京都まで行ける。京都・大阪・奈良・神戸などアクセスしやすい関西圏の感じがとても好き。それぞれに文化があって、ちょっと遊びに行ける近さが共存している。
Tumblr media
万博記念公園は若い子がたくさん下りるな〜、意外、と思っていたら、みんなららぽーとに吸い込まれていって今住んでいるアド街ック地獄を思い出した。でも観覧車のある超巨大!ららぽーとの様でバイキングもあった。 そして舞浜駅からディズニーランドの入り口までのペデストリアンデッキみたいな道から太陽の塔がずっといる。 モノレールの駅から高速道路を挟んだ向こう側が公園で太陽の塔がいる。「万博のために交通網が発達したのよ」と関西出身の職員さんが教えてくれた風景だった。
公園の中は人がとても少なくて、ところどころにあるスタンド型の飲食園の感じ(ちょっとおしゃれ風にしたクレープ屋、ベビーカステラ、タンドリーチキンなど)とか、ゴミ箱が大きい感じとか、なんか全然可愛くもおしゃれでも経年したレトロ感でもない、表面的な明るさと侘しさが西武遊園地と似ていた。
(もしかしたらあの時代のテーマパークは、大阪万博をお手本にしているのかも。) イベントスペースのラーメン博は、今日はお休みでただの白いテントの屋根だけが並んでいた。
Tumblr media
そしてお目当ての民俗学博物館はとても良かったです! 建物もメタボリズム的ユーモアと巨大なスケール感。大阪の友人が教えてくれた様に、とっても展示がたくさんあったので駆け足で鑑賞。いろんな民族の衣食住、ハレとケ、音楽、教育をみることができる。アーカイブの対象や展示方法が楽しい。 スイカの種とかカレンダーとかあらゆるパンとかさまざまな用途のカゴやパンの焼印など。 友人にポストカードを送ろうと物販コーナーへ。 オリジナルグッズに後ろ髪引かれつつタイ族のポストカードを購入。
Tumblr media
そのままサクサクと太陽の塔と月とお祭り広場を眺めつつホテルへ戻った。博物館はまた行こう。
“名建築で昼食を”と“わたしの一番最悪な友達”のロケ地の建物が近くにあり、お散歩がてら行ってみる。生駒ビルディングと青山ビル(市川実日子のクリーニング屋さん)と綿業会館。途中、川のほとりでイルミネーションが開催されていて、BGMにももクロのサンタさんが流れて楽しくなって写真を撮った。知らない街だから夜もフラフラ歩けてしまう。(だからやっぱり住んだりしない方が良いのかな。)
Tumblr media
コンビニを梯子して食事を用意してホテルでこれを買いています。明日無事帰れて、なるべく健康でいられます様に。 12階のホテルの窓が開けられず息苦しい。 大阪でも月ばかり撮ってしまった。
4 notes · View notes
ari0921 · 28 days
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2024年)8月29日(木曜日)
  通巻第8387号
 チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その4)
   中国映画も興業収入が半減。映画館に行けなくなった
*************************
 中国人の娯楽は反日映画(ほぼマンネリ、演技下手の無内容)を見て、日頃の政治の貧しさに対しての鬱憤をはらし、溜飲を下げ、山のように飯をかき込み、あとは昼寝だった。
改革開放政策に移行して以後は、ある程度の国際化を果たして日本や欧米の映画が輸入されるようになると、その映像の美しさ、アクションのすさまじさ、自由は表現、辛辣な批判の台詞に驚いた。
80年代のおわり頃から情報の公開がちょっぴり進んで、90年代にはハリウッド映画は新作がすぐ海賊版となり、一枚70円とか、百円だった。米国の映画館で盗撮である。台湾でも街の辻で屋台の書店、禁止されていた党外雑誌が売られても警官が取り締まらなくなった。
台湾でも当時、日本映画の輸入は一年に四本だった。それも小津安二郎、黒澤明などで、ならば庶民はどうしていたか。日本でヴィデオをかって複製をつくり、下町へ行くとNHKの大河ドラムからプロレスまで、なんでもあった。
なにしろ台湾では英米の書籍を写真製版した海賊版が出回っていて、500円程度でアメリカのベストセラーも買えた。
このような海賊行為に対して著作権に五月蠅い日米欧が中国にやかましく言うと、街からは消えた。ところが通信販売という手があった。オークションのかたちにすれば、封切り映画でも精巧な海賊版が入手できる。北京の秀水市場は贋物、模造品のデパートで、たとえば20万円のルイビュトンが2万円とか。抗議しているアメリカ人が一番買い物にくるところでもあった。
 日本映画は「君よ憤怒の河を渡れ」が大ヒットし、「おくりびと」などが続いたが、年間12本に規制されているので最近のヒットは「どらえもん」、「クレヨンしんちゃん」、「コナン」など、お子様市場である。
 バブル崩壊、消費激減、経済の沈滞、賃金の低下などにより、中国人は映画館に行かなくなった。いや「行けなくなった」のだ。
 食費についでの娯楽費はスマホに消える。書籍を買うなんて発想はない。
 料金は中国ではシーズン、オフシーズン、時間帯などによって映画館が勝手にきめる。40元(770円)から80元(1500円強)と幅広い相場である。
しかし封切りにカネを遣うのは勿体ない、自宅で見るという若者が増えて、映画館の観客はピーク時の半分になった。最近のヒットは「逆行人生」、「長津湖」、そして「海街奇譚」くらいだろうか。
いずれの作品も基調が哀愁、派手なアクションも、コメディも下火である。
 「海街奇譚」という映画の粗筋は失踪した妻を追って不思議な旅に出た男が旅先で知り合う田舎の女性教師、ダンサー、安宿の女将。それぞれが憂いをかかえ、絶望の未来を見透し、日常を送っている。あのエネルギッシュな中国人がそこには居ない。
 「長津湖」は朝鮮戦争を舞台に中国人兵士が激戦と悲惨な状況を耐え抜くという映画、なんだか不況に耐える風潮を象徴している。「逆行人生」は前号で紹介した。
 かくして最大の娯楽産業だった映画も中国ですら斜陽化の兆しが見られ、中国の若者はテレビゲームである。
 将来の夢を語る雰囲気は希薄である。
2 notes · View notes