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#雲ヶ畑小学校
a2cfuji · 2 years
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森の文化祭@雲ヶ畑 竹炭塩お願いしてる方からお誘いがあり、ツーリングがてらお邪魔した。 会場である京都市北区の山の奥深くにある旧雲ヶ畑小学校に着いた時はもう撤収寸前… 京大の山仕事サークル"杉良太郎"メンバーのお店で杉茶を頂けて癒された。 #雲ヶ畑 #雲ヶ畑小学校 #もくもく号 #山の文化祭 #京都市北区 #北山通り #洛雲荘 #京都大学山仕事サークル #杉良太郎 #鷹ヶ峰 #西賀茂 #西賀茂車庫 #柊野堰堤 #庄田橋 #志久呂橋 #竹炭塩 #溝上くんありがとう  (雲ヶ畑学校) https://www.instagram.com/p/Cko9FYJPoJM/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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hi-highmt · 2 years
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初アルプスはテント泊で白馬岳
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山サークルの企画で、白馬岳にて念願のアルプスデビュー!初アルプス、しかも大雪渓をテント泊装備で、軽アイゼンも未経験…と不安だらけのスタートでしたが、終わってみれば大満足の山行でした。
バスを降りたら、猿倉荘前からスタート。 この時点で既に土砂降りでした。 バスの中でゲイターを履いたりしていたせいか、酔ったらしく暫く吐き気が…。
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こんな感じの渡渉箇所が何度も。 滑らないよう、気を付けて渡ります。
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これで4回目ぐらいの渡渉かな? 昨夜から降っているせいか、水量が豊富です。
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半分小川と化したような道を歩き、大雪渓の入り口に到着。 ここでヘルメットを装着。 でも、大雪渓はもう少し登った先にあるのです。
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大きなキヌガサソウ(衣笠草)がお出迎え。
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いよいよ大雪渓。近くで見ると汚いなー。 ルート上に赤っぽく見えるのは、ベンガラという赤い粉。 これを頼りに雪渓を登って行きます。 始めて使う軽アイゼンが、良い仕事をしてくれました。
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前方と後方はガスって居るのに、見上げると青空。
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雪解け水が滝のように流れていました。
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一瞬晴れたけど、またガスって来ました。 雪渓の厚みが分かる1枚。
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雪渓の最後の辺りは、両サイドに水の流れが。
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アイゼンを外したガレ場の途中に、ミヤマキンポウゲ(深山金鳳花)が咲いていました。
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沢を慎重に渡ります。
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今度は雪渓をトラバース。 アイゼン無しで大丈夫でしたが、ポールのキャップは外した方が安心だったかな?
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クルマユリ(車百合)が緑に映えていました。
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お花畑にウキウキしているうちに、村営白馬岳頂上宿舎に到着です!
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頂上宿舎の食堂でテント泊の手続きを済ませ、いざテント場へ! 空はすっかり青空ですが、強風の中での設営となりました。
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テント場近くに咲いていたウルップソウ
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ミヤマキンバイ(深山金梅)
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ハクサンイチゲ(白山一花)
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シラネニンジン(白根人参)
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テント設営後、濡れた物を干したり軽く腹拵えなどして一休み。 本来は白馬山荘のスカイプラザまで行ってデザートを頂く予定でしたが、時間も遅いのでテント場の上の丸山に登ってみることに。 (呑兵衛組は、登らずに酒盛りスタートしてましたが…)
すると、テント場、山頂宿舎、白馬山荘、山頂が一望できるスポットが! みんな来れば良かったのに〜
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お、アレが丸山の山頂でしょうかね?
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途中に咲いていたタカネシュロソウ(高嶺棕櫚草)、別名ムラサキタカネアオヤギソウ(紫高嶺青柳草)。
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クモマミミナグサ(雲間耳菜草)
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丸山山頂からの白馬岳も格好いい!
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丸山の向こう側は雲海でした。 雲がどんどん迫り上がってきます。
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雲海の向こうに剱岳!!!
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雲が流れて、杓子岳と白馬鑓ヶ岳もクッキリと!
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大興奮で「待ってろ剱岳!」の写真を撮ってもらっていると、近くに居た山ガールが「こっちからの角度もカッコイイから、私に撮らせて!」と…
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こんな素敵な写真を撮ってくれました♬ ありがとう!!!
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テント場に戻る途中もお花探しが楽しすぎてが止まりません。
こちらはチシマギキョウ(千島桔梗)。 花の内側に綿毛が生えているのが特徴です。
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ハクサンイチゲ(白山一花)を上から撮影。
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ミヤマシオガマ(深山塩竈)も咲いていました。
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さてと、夕飯の支度をしましょうか! 米は丸山に登る前に吸水させておいたので、あとは炊くだけ。
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今回は軽量化のため、フリーズドライの野菜カレーにしました。
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が、何と炊飯失敗!!!家では上手く炊けたのに〜 汚れ防止にクッキングペーパーを敷いたのが失敗の要因だったようです。 (吹きこぼれがメスティンの内側で起こってしまい、見えなかった…)
明日の朝、この半分でお粥を作るつもりだったのに…と嘆いていると、Kさんが予備のアルファ米を恵んでくれました。 ありがとうございます〜〜〜〜〜(涙
カレーは、焦げていない部分と共に食べました。
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夕飯後、みんなのテントを撮影してみました。 うち2つは他所の方のテントですが、ステラリッジとカミナドームが色被り。 強風の中、ガレ場でテントを設営するのがいかに大変かを学びました。
そして23:00にテントから顔を出すと、満天の星空に天の川! 残念ながら旧型のiPhoneでは上手く撮影出来なかったけれど、念願の星空に大満足♬ 昼間は雨だったので、今回も星はナシか〜と思っていただけに嬉しすぎる!
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朝は3:00起床でテントの中で自炊。 頂いたアルファ米のわかめご飯と、玉子スープ、大豆ミート、ザーサイ、フライドオニオン、生姜、酢、胡麻油で今回も中華粥。 本当は桜海老も持参していたのに入れ忘れました…。
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テントを撤収し、朝焼けの残る中を山頂へと歩き出します。
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昨日寄り損ねたスカイプラザ白馬。 5:00〜営業中とのことなので、ちょっと入ってみると真っ正面に剱岳!
これはやっぱり寄るしかないよね、と30分のロスと引き換えに素敵な早朝ティータイムを楽しみました。 (朝からチーズケーキは重いので、Aさんと半分こ)
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スカイプラザから少し登ると、山頂です! 混み合う中、リーダーが個別の写真を撮ってくれました♪ やった〜、これが私の記念すべき初アルプス登頂記念写真です。
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これから歩く小蓮華山への稜線もクッキリ!
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ミヤマオダマキ(深山苧環)越しのアルプス
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岩場の陰にミヤマアズマギク(深山東菊)
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ヨツバシオガマ(四葉塩竈)
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言わずと知れたアルプスの女王、コマクサ(駒草)!
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一通りのお花を撮り終えたら、さぁ、稜線を歩いて行きましょう! 次に目指すは小蓮華山です。
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少し行くと、今度はシナノキンバイ(信濃金梅)が群生していました。
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雲海迫る杓子岳がカッコいい!
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小蓮華山の山頂。 本当の山頂は右側っぽいけど…ガレ場で危ないから入れないのかしら?
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コバイケイソウ(小梅蕙草)も咲いていました。
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ハクサンフウロ(白山風露)は終わりかけかな?
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コバイケイソウ越しのアルプス
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チングルマ越しの杓子岳
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振り返ると、今まで歩いて来た稜線。
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そしてこれから歩く稜線と、白馬大池が見えます。
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いよいよ池の全貌が見えて来ました。 池の縁に、少しだけ雪渓が残っていますね。 あそこを歩くのですが、滑ったら池にドボンなので、ちょっと緊張…。
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池の近くはお花畑。 コイワカガミが可愛らしく咲いていました。
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ハクサンコザクラ(白山小桜)もそこかしこに。 これ、ヤビツ峠で咲いているのを見つけたオジサマが興奮していた花ですね?
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大池の水は透明度が凄い! そして水面が近く感じるのは、登山道が低いのか…?
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雪渓に向かう途中にナナカマド(七竈)が咲いていました。
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ちょっと緊張する池の脇の雪渓を抜けたら、乗鞍岳まではひたすらガレ場が続きます。
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乗鞍岳の山頂標識はオンボロでした…
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そしてまた雪渓を下り、その先は長ーーーーーいガレ場。 いや、コースタイムでは大したことはないのだけれど、荷物が重いのと暑さでバテ気味でもの凄く長く感じただけかも…?
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ガレ場では余裕が無かったけれど、最後に1枚、ゴゼンタチバナ(御前橘)。
中学生の林間学校のチームと抜きつ抜かれつしつつ、予定より3.5時間遅れで栂池自然園に到着!
雷鳥に出会えなかったのとツクモグサが見られなかったのは残念ではあるものの、初日の夕方からは天候にも恵まれて、総じて忘れがたいアルプスデビュー戦でした。 
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帰ってから数日、左手首辺りの筋肉痛が治らないと思っていたら、どうも腱鞘炎になっているようで…。 自己診断ですが、腫れ具合やギシギシと鳴る感じからして、インターセクション症候群(腱交叉症候群)と思われ(トレッキングポールの使い過ぎ?)。
そして今週末の北アルプスは諸事情により中止に。 コレはしっかり手を休めろという事なのかな…。 腫れは少し引いて来たけど、左手首は包帯ぐるぐる巻きで固定中。 (自分で巻いたので適当ですが)
あと気になった点としては、歩荷練習でもそうだったけれど、ウエストベルトが腰骨に食い込んで痛い…。 1週間経ってもクッキリと跡が残ってる〜。 どうやら背面長の設定が間違ってるみたいです。 次回は少し長めにして、腰骨を覆うように嵌めてみようっと。
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judachigeiju · 6 years
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紀伊半島原付旅行記
早めの夏休みをもらったので、原付で伊勢湾フェリーを渡り紀伊半島を一周しようと思い立った。思い立って二週間後に出発した。紀伊半島とは精神の方面である。
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七月二日:浜松から新宮へ
排気量五十CCの原付〈一つ目家鴨〉号はキックスターターを使わないとエンジンが動かなかった。一抹の不安を抱えながら、七時半、原付に跨がった。曇空の下、国道一号線を西に進み、弁天島を回って国道四十二号線、表浜街道伝いに渥美半島を西へ進んだ。
坪井杜国の故地
赤羽根港に付属する道の駅で休んだあと和地交差点から西北に進路を変えて高田交差点で左折、高田西交差点で右折し、右手にある潮音禅寺こと潮音寺を訪れた。境内には柳原白蓮歌碑と山頭火句碑があり、空米売買で尾張徳川家の領地から追放され、渥美半島へ来た坪井杜国の墓碑がある。
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杜国墓碑の前に立っていると住職から 「俳句をやっているのですか?」 と声をかけられ、その日に咲き始めたという蓮を見せてもらった。蓮の初日はあまり開かないのだという。血統書付きの大賀蓮の水鉢もあった。住職は黒目高も二千匹に繁殖させたらしい。川を渡って「杜国屋敷跡」の看板のある角を左折すると畑のなかに小さな杜国公園。〈春ながら名古屋にも似ぬ空の色/杜国〉の句碑が建っており、投句箱もあった。
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十時を回っていたので急いで西へ向かい、二十分ほどで伊良湖岬のフェリー乗り場に着いた。標識交付証明書がなくても排気量を口頭で伝えただけで発券してくれた。合わせて三千九十円で、十円だけ人の方が高い。十時五十分発、五十五分に及ぶ伊勢湾の航海。波が荒かった。伊勢湾を渡っていると雨に降られた。船内のテレビで天皇の病態が報じられ、平成が来年五月までもたないかもしれない、と思った。鳥羽に着くと雨は止んだ。
嶋田青峰の故地
フェリーを出ると正午になろうとしていた。鳥羽フェリーターミナル二階のレストランで食事をとろうとすると係員のおっちゃんから「ここのレストランはおすすめしない。近くの錦屋がいい」と勧められ、錦屋でてこね寿司と伊勢うどんを食べた。若女将の愛想が良かった。食べているうちに梅雨晴間。志摩半島を縦断し、的矢で渡鹿野島を望もうとしたら、的矢は、ホトトギス同人から除名され新興俳句弾圧事件で逮捕された俳人嶋田青峰の郷里だった。句碑〈日輪は筏にそそぎ牡蠣育つ/嶋田青峰〉も、弟である嶋田的浦の句碑〈海うらら水平線は汽船を引く/嶋田的浦〉も夏草のなかにあった。杜国といい青峰といい不遇な俳人ゆかりの土地ばかり巡った一日だ。志摩半島の浦はどこも簡素で好きになった。尾鷲で小雨に遭い、虹を見た。ひたすら走り、いくつもの浦の潮が戻るのを見ながら走り、十九時に新宮駅近くへ投宿した。
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七月三日:新宮から田辺へ
目覚めるとサッカー日本代表が白耳義に惜敗していた。六時半に新宮市の「路地」を見てから霧雨の国道百六十八号を熊野本宮大社まで走った。
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山岳信仰とサッカー
観光客がほとんどいない大斎原や本殿を見た。熊野は大学一年生のとき以来だから十年以上ぶりだ。拝殿にサッカーワールドカップ関連の展示があったが、侍ブルーのユニフォームを着たスタッフが取り外していた。熊野の神に勝ったのだから確かに白耳義は赤い悪魔だった。
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八時半に給油してから山を下り、新宮市街まで戻ってから那智の滝を見た。数年ぶりに絵馬を書いたり護摩木を焚いたりした。熊野本宮よりも那智の滝を神体とする信仰の方が私にはわかりやすい。
鯨焼肉はレバーの味
十一時には那智を離れ、正午に太地町へ着いた。くじら博物館は千五百円を惜しんで入らなかったけれど鯨恵比須の鯨骨鳥居と燈明崎の山見を見て、道の駅たいじで鯨焼肉定食を食べた。血臭いのでやはり鯨肉は揚げた方がいい。
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尻ではなく太腿で乗る
国道四十二号線をひたすら西へ。里野で水泳パンツに着替えたがちょうど日が陰って寒くなり、海水浴はあきらめた。見老津のあたりで和歌山県警の軽パトカーに跡をつけられたので、先に行かせたら、また後ろに回られてスピーカーで停められた。職務質問だ。「浜松市」ナンバーを見なれないから停めたとのこと。浜松から原付で来たと説明すると「どうしてそんな気になったんですか」と訊かれた。「お尻が痛くならないんですか」とも訊かれたので「尻ではなく太腿で乗ると痛くならない」と答えた。ズボンの下は水泳パンツなので、ズボンの中まで調べられたら即逮捕だっただろう。別れ際に夜間に掛けられる光る反射タスキをもらった。それから道の駅ごとに休み、田辺を目指した。
交番へ出頭
十六時過ぎに道の駅椿はなの湯で休んだ。ベンチに座ってのんびりしていると別のベンチに座っていた老爺が「そろそろ行くか」と独り言を言い、軽トラックでどこかへ行った。老爺のベンチが日陰だったので日射を避けるべく私はその日陰のベンチに移動した。するとベンチの上に財布が落ちていた。あの老爺の財布だと思い、私は戻ってくるまで待つことにした。でも戻ってこなかった。道の駅は定休日で閉まっていた。仕方なく私はその財布を持って近くの椿駐在所まで行った。しかし駐在さんはおらず、備え付けの電話を架けると婦警が富田駐在所まで来ていただけるかと言った。住宅街のなかにある富田駐在所へ出頭し拾得物物件預り書一枚で解放された。一日に二回も警察沙汰だ。交番を出て国道四十二号線に出た途端に雨が降り出した。晴れ間をぬって沿岸を北へ進み田辺駅近くの美吉屋旅館へ投宿した。自動扉が開くと禿親父がソファに寝そべって歌謡ショーを観ていた。客かと思ったけれど主人で間違えなかった。夜風が吹いただけで骨組が唸る旅館の「菊」の部屋に泊まった。若旦那から純喫茶桂のご主人が亡くなって看板を下ろしたと聞いた。灯りが点いているのはどきどき奥さんがいるからだとのこと。
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七月四日:田辺から大和高田へ
北上するには二通りあった。海岸沿いに国道四十二号線を進む海ルートと高野山を経る山ルートだ。高野山は魅力だが山ルートにはガソリンスタンド問題があった。ただでさえ燃費が四十キロ前半まで落ちているのにガソリンスタンドが少ない山中を百数十キロ走るのはガス欠リスクが高い、それに近畿地方の天気予報は全域で雨なのであえて天候の見えにくい山間部を通ることもなく海ルートに決めた。
台風七号ブラピルーン
フロントに鍵を置いて五時半過ぎに出発した。みなべ町の岩代で、四つのH音のやるせなさが素晴らしい〈家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛/有間皇子〉が詠まれたという磐代の結松と畑のなかの寺脇にある歌碑を観た。八時くらいまで台風七号はおとなしかったがトンネルを出て由良町になってから本気を出し、激しく雨が降り出した。それでも走り続けたのでジーパンはもちろん下着までぐっしょり濡れた。なぜ走っていたのかと言うと大阪は午後から曇るという予報に賭けたからだ。和歌山市まで強く雨が降っていた。大阪府に入ると小雨になり時々晴れ間も見えた。雨雲レーダーを見ると高野山はもっと強く降っていたので山ルートにしなくて本当に良かった。岸和田城の横を通り和泉市で冷えた体の血流を回復させてから東へ折れ、富田林から河南、水越トンネルをくぐって大和の葛城に出た。山はやはり雨が降っていた。
葛城一言主神社では二人の男性が階段下の祓戸神社へ参拝してから昇段し、一言主神社の拝殿へ参拝していた。一言さんは地元の信仰を集めているらしい。それと拝殿に参拝する事前準備として拝む祓戸神社というシステムは熊野本宮にもあった。祓戸神社の祭神はいずれも瀬織津姫、近畿地方の格式ある神社の様式だろうか。大和高田のネットカフェで刃牙を読んだあと大和高田駅近くの福の屋旅館の「菊」に泊まった。また菊だ。女将一家の生活スペースと部屋が廊下一つを隔てて隣りあっているので、おばあちゃん家に泊まった感があった。女将は、橿原神宮の神武天皇が奈良県を大災害から守っていると言った。そういう信仰は美しい。
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七月五日:大和高田から浜松へ
近鉄大和高田駅のミニストップで食事をとった。ちょうど通学時間帯で女子中生・女子高生が目に入る。それは揚羽よりも速いという女子高生に会いに吉野へ行くからだろう。
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三重県南部は雨時々曇りという予報を見て急ぎ八時半には宿を出た。女将から缶珈琲をもらった。桜井を経て九時半過ぎに宇陀の阿騎野へ。吉野とは飛鳥の平地から見上げるような山地のことだった。東の野にけぶりの立つ見える阿騎野は菟田吾城という古代城郭があったらしい。鎌を持った小母さんから「この地は薬草で有名」「元伊勢」と聞いた。
人間のクズが国栖に
吉野川まで南下して国栖の里を眺め十一時前には国栖奏伝習所の横を通り浄見原神社を訪れ記名した。「鯨は人間のクズだ。ちなみにクズは国栖、先住民族の名だ」と言われてからずっと気になっていた土地「国栖」に立てた。
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県道十六号で国道百六十六号線に戻り、鷲家八幡神社の桂信子句碑・前登志夫歌碑・宝蔵寺の能村登四郎句碑を見て、高見山を仰いだ。そういえば吉野で女子校生は見なかった。汗に冷えた体で高見山トンネルをくぐった。それから虹の泉のほかは伊勢までひたすらに走った。
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近畿地方はあちこちで豪雨らしいが、幸運にも私は雨を数粒受けただけで水泳パンツを履いた意味がなかった。猿田彦神社を参拝し十六時前には鳥羽のフェリー乗り場に着いた。十六時半発のフェリーには間に合ったがガソリンが空になりそうだった。あこや真珠と中国産の淡水真珠の違いを聞いた。
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雨の帰浜
フェリーは伊勢湾に出ると波に揺れた。恋路ヶ浜を見下ろしてから国道二百五十九号線を通って豊橋市を目指した。国道二十三号線からは私が「ほぼ原付専用道路」と呼んでいるバイパス横の側道を通り湖西市へ。昼夜食堂港屋本店で浅蜊汁と鯵の開きを食べた。食堂を出ると雨が降り始めた。弁天島を経て国道一号線で帰宅した。四日間の走行距離は九百三十五キロメートルだった。あとヘルメットのシールドが割れていた。
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koudelkalightnovel · 6 years
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Collections of Hiroki Kikuta’s blog
1997年秋から1999年末まで携わった、 「クーデルカ」という仕事は、僕の人生の中で大きな意味を持つ。 嬉しかったこともあり、残念だったこともあり、しかし、制作に費やした二年間は、 無駄ではなかったと、今振り返って思う。 サクノス立ち上げに助力していただいた、元セガ副社長の故藤本敬三氏の思い出。 ロサンゼルスはウエストハリウッドでの夢のようなモーションキャプチャーセッション。 胸に浮かぶままに、語るべきことは尽きない。 ここでは、写真、設定資料、デザイン画を中心に、ゲーム制作のプロセスと、 その印象を綴っている。 クーデルカのための宣伝用イラストレーション/1998 岩原裕二 部分 このサイトは、1999年12月にプレイステーション向けホラーRPGとして発売されたゲーム「クーデルカ」のディレクター菊田裕樹が、制作資料の掲載や作品解説を目的として運営するものです。ゲームをプレイしてくれたユーザーが、より深くクーデルカの世界とその魅力に親しんでもらうために、僅かなりと助けになれれば幸いです。 --- 「クーデルカ」のモーションキャプチャーは、1999年1月、ロサンゼルスはサンタモニカにあるスタジオで収録された。技術面を担当したのはフューチャーライト。普段は「ゴジラ」等のハリウッド映画のSFXを担当している映像制作会社である。遡る1998年9月、僕はイベント系を担当する人員の不足から、それを全てモーションキャプチャーで賄うという構想を建てた。全体で見れば一時間をこえるイベントシーンを、手打ちのアニメーションとスクリプトで実現しようとすれば、5人がかりの仕事となる。しかも、一向に従来のRPGの域を出ない、面白みの無い方法だ。ゲームのドラマ部分を表現するために、効果的で、目新しくて、しかも大きな省力化になる方法として、モーションキャプチャーは画期的な試みだった。無論、問題はあった。技術的に不可能だというのだ。物語の性質上、最大4人を同時にキャプチャーし、併せて音声も収録する必要があったからだ。僕はまず、日本国内のスタジオで実験をし、手応えを掴んだ。その結果、モーションキャプチャーは十分に魅力的な効果を生み出すという確信を得た。しかし同時に、僕の要求する仕様は日本国内では実現不可能であるということも分かった。だが、そこで諦めてはクリエイターが廃る。幸い、以前「双界儀」の録音でお世話になったデイブレイク社の大竹氏が、海外のコーディネイターに詳しいというので、畑違いながら探してもらったら、ロスにそれらしい技術を持った連中が居るという。早速連絡を取り、俳優のオーディション方々会いに行った。ところが実際に会ってみると、彼等も僕が考えるような仕様でキャプチャーをしたことがなかった。4人を同時に、音声もいっしょに、しかも数分に及ぶ芝居をいっぺんに収録する。そんなの聞いたことがない。しかし驚いたことに、面白そうだから是非やってみょうと、彼等は言ったのだ。新しいことにチャレンジするのが嬉しくてしょうがないスタッフ達。こうして、この前代未聞の試みは実現したのである。 クーデルカを演じてくれたヴィヴィアンとエドワードを演じてくれたマイケル。100人程のアクターをオーディションした中から選んだ人達だ。アメリカのアクターの層は厚い。皆、良い作品に出演することを夢見て、演技の勉強をし、技術を身に付け、レストランなどで働きながらハリウッド近辺で暮らしている。アメリカでは基本的に、どのような有名な役���でも、名前だけで出演が決まることはない。必ずオーディションをして、その役に本当に相応しいかどうかを確かめられる。彼等は、役の大小に限らず、それを勝ち取ることに真摯で、また仕事に臨んでも出来るだけ良い結果を残そうとする姿勢を崩さない。 セッションに参加してくれたスタッフ達。フューチャーライト側から、モーションキャプチャーの陣頭指揮にあたってくれたダン・マイケルソンをはじめ、プログラマーのランディ、エンジニアのジョン。彼等は4日に及ぶセッションの中で起った、様々な問題に素早く対処してくれた。日本側から、クーデルカのモーションを担当した竹原君。IPG側から、わざわざこのコーディネ���トのためにニューヨークから駆け付けてくれたポール。そして、サウンドエンジニアのキース。 写真中央、このセッションのディレクションを全て担当してくれた、IPGから参加のデビッド・ウォルドマン。彼は日本でビデオクリップのADをしていた経歴があり、日本語が話せたため、今回の仕事に適任として選ばれた。映像制作の現場でのノウハウや、その進行に関して、彼に学ぶところは大きかった。その後、ロスでムービーキャメラマンの学校に入り、本格的に映画制作を志しているらしい。左は、デビッドの女房役のADであるクレイグ。右に居るのは、9才のシャルロッテ役を演じてくれた12才のサラ・パクストン嬢。その可愛らしさで、スタジオの人気者だった。しかし、プロとしての意識は本物で、長台詞を覚え、慣れないキャプチャーに戸惑うこともなく、見事に演じてみせた。下の写真は、キャプチャーセッションに先立つ、リハーサルの時のもの。近くのホテルで部屋を借り、本番の時と同じように、全ての芝居をチェックする。この時キャラクターはどんな気持ちなのか、何を考えながら演じればいいのかを、ひとつひとつ、押さえていく。このシーンは、クーデルカとエドワードが、オグデンとベッシーにスープを振舞われるところ。中央に、いかにも人の良いおばさんを演じてくれた人の良いおばさん、デニス・ホワイト。 スタジオというよりは工場といった有り様だが、実際すぐ横にプロップを組み立てる工房があったりした。一応サウンドステージとして作られてはいるのだが、防音がしっかりしていないため、上空を飛ぶ軽飛行機の音がうるさくて、撮影が中断したのには参った。真中に置いてあるのは、ジェームズら3人が大聖堂に入る扉が開かなくて悪態をつくシーンのための大道具。例えば、扉を叩く芝居が欲しい時に、何もないのにそういう振りだけしても、リアリティーは生まれない。扉を叩く時には、そこに扉があるべきだ。下の写真は、ゴミの山に埋もれてひっそりと稼動しているSGIのONYX。これに限らず、驚くような機材が、ごく当たり前に使われているのをあちこちで見た。聞けばそれらは全て、レンタルなのだという。こういう所にも、日本との状況の違いを感じた。右は、連日に及ぶ深夜の撮影で疲れ果てて眠りこける僕。 2000/11/25 菊田裕樹 --- ヴォイニッチ文書 部分 Emigre Document 紀元前5000年をさかのぼる昔、ブリタニアには高度な巨石文明を持った民族が栄えていた。今も島のあちこちに残るドルメンやストーンサークルは、現代科学を持ってしても不可能と思われるほどの彼らの技術力を、我々に示している。彼らはケルト人が到来するまで、全世界でも最も進んだ文化と文明を持つ民族であった。エジプトでピラミッドが建築される遙かに昔。中国、バビロニア、イスラエル、どの文化圏よりももっと以前に、ブリタニア全土に分布する巨石遺構は建てられたのである。 その力の秘密は、彼らの持つ宗教にあった。彼らは大地より湧きいでる生命の秘密に手をかける術を知っていたのである。生と死を操り、不死や、あまつさえ死者の再生をも我がものにし、労働力としての人間ならざる怪物を生み出し、高度な文明を築き上げた。それは自然の持つ輪廻の法則そのものを御する行いであり、神の為す神秘に等しい。いや、彼らこそが原初の「神」だったのかもしれない。彼らはその「神を遙かに遡る世界の成り立ちの秘密」を、文字にして書き記すことはなかったが、その祭儀や術としてのノウハウは、ケルト社会のドルイド僧に引き継がれた。ドルイド僧は古代人の残した祭儀法を基盤に、自分たちなりの技術的アレンジを加え、古代人には及ばないまでも、天地の秘密を力に変換することを自らのものとした。 だが、彼らもまた、自分たちの慣習や宗教に関して書き残すことをしない。ケルト民族の在りように関して最初に言及したのは、まさにそこを征服せんとして兵を進めたユリウス・カエサルである。しかし、彼が紀元前50年頃に「ガリア戦記を」書き記す以前に、前4世紀頃ケルト民族と親交のあったアレクサンダー大王が、アレクサンドリアの大図書館に收めるべく、ドルイドの秘儀をギリシア語で文書化させていたのである。彩飾図版を交えて作成されたこの文献は、その任に当たった人物の名を取って「エミグレ文書」と名付けられた。 この文書は閲覧を禁じられた秘密の書として王宮の図書館に保管された後、戦禍を逃れて持ち出され、数世紀の間、各所を転々とする。その間にはキリスト教の成立やローマカトリックの隆盛などがあるが、6世紀に入り、アイルランドに様々な修道院が建設され、写本事業が盛んになった結果、イタリアの片田舎に忘れられていた「エミグレ文書」は、リンデスファーン島にある写本で名高い修道院に持ち込まれた。だが、ギリシア語に堪能でない彼らは、内容の美しさや彩飾の艶やかさに目を見張りこそすれ、文書の持つ本当の力に気づくことはなかった。 9世紀に入って、度重なるヴァイキングの来襲により、蔵書の保存に危機を感じた修道院は、重要な文献を各地に避難させ始める。アイルランド生まれで敬虔な信者であるヨアヒム・スコトゥスとダニエル・スコトゥスの兄弟は、大修道院長より「エミグレ文書」を託され、その内容に驚愕した兄ヨアヒムは弟ダニエルをウェールズの辺境にあると記される聖地へ赴かせ、自らは写本を携え、フランス王の元に庇護を願い出た。弟ダニエルは聖地で修道院を建て、祈りを捧げて一生を終わる。兄ヨアヒムは碩学として歴史に名を残すが、その死後、ローマ法王庁に写本を接収されてしまう。 キリスト教を脅かす力を持ったこの文書は、ローマ法王を恐怖させ、禁断の書物として誰にも閲覧を許すことなく、書庫の奥底にしまい込まれたが、13世紀になってその損傷の激しさから、新たな写本を作る必要が生じ、当時最高の知識人として名高かったフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンにその任が与えられた。彼は10年にも渡ってフランスに幽閉され「エミグレ文書」を精確に複製することを強いられたが、その過程で文書の知識は彼の物となった。秘密を守るため彼をそのまま監禁し、二度と世に出すまいという法王庁の意図とは裏腹に、彼は密かに外部と連絡を取り、自らが解読した文書の示す聖地へ赴き、生命の秘密を探る試みに取りかかるべく、着々と準備を進めていた。 彼は、先にダニエル・スコトゥスが建てた修道院を改修し、実験施設となるべきゴシックの大聖堂を建築させた。そこで彼がどのような秘術を試みたのかは、記録に残っていないが、法王庁の手を逃れフランスを脱出した彼は、二度と姿を現すことはなかった。彼は、姿を消す前に、新たな一冊の写本を残している。エミグレ文書の記述を元に、ウェールズ語の暗号で書かれたその写本は、聖地の修道院に残されていたが、16世紀になってエドワード・ケリーとジョン・ディーによって発見され、新たな写本として書き直され、さらにローマの修道院を経て、20世紀になって古物商ヴォイニッチによって再発見され、ヴォイニッチ文書と名付けられて、現在エール大学のベイニック図書館で閲覧できる。 また、ロジャー・ベーコンによって複製された「エミグレ文書」写本(原典は破棄された)は19世紀までヴァチカン宮殿の奥深くに秘蔵されていたが、1890年頃何者かに盗み出され、以後その行方を知る者はいない。ダニエル・スコトゥスが建てた修道院は1536年の修道院廃止例の後、政治犯や重要犯罪人を拘留し処刑するための施設へと転用され、聖なる場所で多くの人命が闇に葬られた。 (設定資料より) 2000/10/25 菊田裕樹 --- 2000/10/25 Hiroki Kikuta Koudelka Iasant 1879年生~没年不詳。イギリスはウェールズの田舎、アバージノルウィンの寒村生まれのジプシー。幼い頃から強すぎる霊能力を持ち、様々な怪異を起こすため、呪われた存在としてジプシーの世界から追放される。1888年9才頃ロンドンで霊能力者ブラヴァツキー婦人に拾われ、秘蔵っ子として厚遇されるが91年婦人が他界すると共に、再び放浪の旅へ。普段は霊媒として失せ物を探したりして、糊口をしのいでいる。 年は若いが、世の中の事情を一通りわきまえたところがあり、良く言えば大人、悪くいえばすれっからし。普段はあまり明るい顔をせず、大体において不機嫌そうで態度が悪いが、時折女らしいところを見せる。差別される者や愛されない者に肩入れする傾向がある。自分を表現することが下手。 (登場人物設定資料より) Notes クーデルカという名前は、著明な写真家であるジョゼフ・クーデルカから採ったものだ。口にした時の不思議な響きと、民族や国籍を感じさせないところが気に入って、名字ではなく名前として使わせてもらった。手元の資料を見ると、キャラクターデザインの岩原裕二氏にコンペ用のスケッチを発注したのは1998年の3月26日だが、遡る2月10日の段階で、僕はゲーム全体の進行手順と、シナリオの箱書きを完成させていたし、キャラクターの心理設計も完全なものとなっていた。クーデルカはジプシーの出身である。彼らはインドをもっとも古い故郷とし、放浪に生きる人々で、自分たちのことを誇りを込めてロムと呼ぶ。それは人間という意味である。一般社会の人間たちとは隔絶され、自分たちの血縁関係の中だけで生きている彼らにとって、追放はもっとも苦しい罰となる。クーデルカはその特異な能力ゆえに、子供の身でジプシーを追われることになった。僕は彼女を、どこにも安住することを許されない、最も孤独な存在として設定した。平和で豊かな暮らしの中に、彼女の居場所は無い。呪われた魔物や幽霊が跋扈する、廃虚の暗闇の中にだけ、かろうじて自分を置くべき空間を見出せる。クーデルカは、そういう悲しい存在なのである。 岩原氏はこのプロジェクトのために、100枚にも及ぶキャラクタースケッチを描いた。クーデルカだけでも数十枚になるが、そのほとんどはポリゴンによるモデル化のための制約から来る衣装デザインの試行錯誤であり、キャラクターの本質部分に関しては、最初から完成形に近いものを掴んでくれていたようだ。また、氏にはゲームの制作に先行して角川書店の雑誌で漫画連載を始めてもらい、ゲーム設定の1年後のストーリーという立体的な構成で、物語の厚みと魅力を増すことに貢献してもらった。 クーデルカのポリゴンモデルは、当時広島のコンパイル社の倒産で行き先を捜していた渡辺伸次氏に、経済的に援助するということで東京に移り住んで制作してもらった。彼は同社の仲間とCGスタジオであるD3Dを設立した。そのころの彼等には全く実績が無かったが、見せてもらったプロモーションムービーのキャラクターの動きに並ならぬ情熱を感じ、彼等と一緒に新しいチャレンジをする気になったのである。しかし実際、キャラクターのモデリングは難航した。ゲームスタッフ側の無理解も大きな原因だったが、D3D側もクーデルカほど高いレベルのモデルを作るのは初めてとあって、試行錯誤のために何ヶ月も時間が必要になった。リテイクに次ぐリテイクの嵐。最終的には、僕自身が彼等の後ろに付いて、鼻をもう少し縮めてだの、唇をもう少し上げてだのと細かく指示を出し、なんとか納得のいくものに仕上がるまでに半年近くかかっている。 モーションキャプチャーにおいて声と演技を担当してもらったヴィヴィアン・バッティカ嬢は、米サンタモニカ・スタジオで行ったオーディションの中で、クールで独特の色気があり、抑えた芝居の出来る人として選定した。ただ可愛いだけではなく、クーデルカの持つ陰の部分を表現するためである。彼女自身まだ若く経験も浅いとはいえ、その熱意と努力は相当なもので、10分にも及ぶ長丁場の芝居、何十行もある長台詞を、たった数日で完全に頭に入れて撮影に臨む辺り、なるほどプロというものはこういうものかと感心させられた。度重なる技術的不備にも嫌な顔をすることなく、エドワード役のマイケル・ブラッドベリーと現場の雰囲気を明るく盛り上げてくれたことには、感謝の言葉もない。 2000/10/25 菊田裕樹 llustrated by Yuji Iwahara このページ内の全ての画像及び文章の著作権、版権、複製権、二次使用権は全てその正当な著作者、権利所持者に帰属します。よって、無断複製、無断転載を含め、著作権法に違反する形態でのあらゆる利用を禁止します。 All Rights Reserved 1997 1998 1999 2000. クーデルカは(株)サクノス・SNKの登録商標です。 All Rights Reserved (C)SACNOTH/SNK 1999 --- Nemeton Monastery イギリスはウェールズ地方。アバースワースにほど近い、海沿いの断崖に、人気もなく廃墟と見まごうようなネメトン修道院がある。ちょっとした公園ほどもあるその敷地の中には9世紀頃に建てられたと思われるロマネスク様式を色濃く残した修道僧の宿坊をはじめ、13世紀頃に建てられた飛び梁も美しいゴシックの大聖堂、会堂をかねた図書館、鐘つき堂、屠殺場を兼ねた炊事場、処刑台に使われた東屋、近代になって建てられた宿舎などが、全体を囲む壁と一体化して並んでいる。16世紀に修道会を禁ずる制令が発布されるのを待たずして寂れ、廃墟と化したこの場所は、17世紀に入って政治的な犯罪者や虜囚などを閉じこめたり処刑したりする目的に使用された。今でもどこかに地下牢が隠されているといわれている��近代になって、訪れる者も居なくなり、荒れるに任せていたのを、ある資産家が物好きにも買い取って移り住んだが、程なくして彼は姿を消し、後には様々な憶測と噂だけが残った。あるいは、財宝が隠されたまま埋もれているといい、あるいは、悪魔が彷徨っているといい。再び廃墟と化したこの修道院を訪れるのは、人目を避ける犯罪者や一攫千金目当ての食い詰め者だけだった。 (制作資料より抜粋) ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 1998年2月の段階で、ゲームの進行に伴う、マップ全体像の設計は、ほぼ出来上がっている。八棟の建物、地下道、墓地など、全部で100個見当の区画からなる構成で、イベントと連動して移動できる範囲が拡がっていく。実は、このような閉鎖された空間を舞台として設定したのは、単に演出的な意図によるものではなく、人的物理的制約による結果なのである。例えば、高度に訓練されたグラフィックスタッフが20人居るならば、一年間に500から600枚を超える背景画を制作することが可能だ。しかし、楽観的に考えても数人が限度と思われる人材確保の現状を前提にすると、およそ100マップ200~250画面が、用意できる背景数の上限と見なければならない。一般のRPGのように、ワールドマップがあって幾つもの街があって、などという仕様は、最初から無理。そこで、極めて限定された空間を設定し、それを有効に活用しつつ、様々な雰囲気のバリエーションを提供できるような仕掛けを考案した。それがホラーRPGという枠組みだったのである。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 ネメトン修道院を構成する建物群は、そのひとつひとつが、建てられた年代も、目的も異なるものである。各々の建築様式の違いは、ドラマの進行と相まって、ユーザーを飽きさせないための装置として機能する。扉を開けて新しい建物に入る度に、物語が次なる展開を迎えたことを実感してもらうために。微にいり細にわたり、緻密に作り上げることが、あたかも実際にそこに居るかのような臨場感を生む。そのために最も必要だったことは、実際の建築物を参考にすることであった。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 物語上でアバースワースとしたのは、アイルランド側の海岸にその場所を置きたかったからだが、98年8月にスタッフを伴って訪れた実際の取材は、ウェールズの下側に位置する観光地ペンブロークシャーを中心に行った。その一帯は、草原から突然に切り立った断崖が現れ、地平線の彼方まで続く、不思議な景観の土地である。その周辺に夥しい数の修道院や城跡が存在する。あるものは往時を偲ばせて健在だが、ほとんど廃虚と化した遺構も多い。セント・デイビッド教会は、中世そのままの姿で我々の目を楽しませてくれると同時に、石造りの聖堂が持つ、独特な雰囲気を理解するのに役立った。また、垂れ込めた雲と雨が作るどんよりとした暗い空気は、実際にその場に立ってみないとイメージできないものである。近辺の修道院の壁や石組みを大量に撮影して、3Dモデル用のテクスチャーとして使ったのも、大きく意味がある試みであった。 さて、ネメトン修道院の大聖堂はゴシック建築として作られているため、本当ならば、その常として側廊が無ければならない。ゴシック建築は荷重を分散する構造にすることで壁を薄くし、ステンドグラスの設置を実現しているからである。しかし、ゲーム仕様上の制約としてプリレンダリングのマップを考えた時に、多数の柱を立体的レイヤーとして配置することが困難であるために、内部を単純な箱型にせざるをえなかった。外側から見ると、飛び梁様の補強柱が一定間隔で取り付けられているが、現実の物として考えれば、全体の重量を支えるために、壁自体もさらに厚くせざるをえないと思われる。なお、大聖堂頂部の鐘突き堂は、そのものが飛び梁によって構成されている特殊な形式だが、これは架空の物ではなく、実際に存在するスタイルであることを付け加えておきたい。 2000/10/25 菊田裕樹 --- Library : クーデルカという物語 By 菊田 裕樹 – 2000年 3月 28日Posted in: Library, Library : ARTICLE    クーデルカという物語    2000年3月 公開    このサイトを御覧の方には僕の制作した    RPG「クーデルカ」を未プレイの向きも多いと思う。    手短に説明すると、19世紀のイギリスはウェールズの    片田舎にある今は廃墟同然と化したある修道院を舞台に、    クーデルカという19才のジプシーが出会う様々な    怪異をテーマにした、いわゆるモダンホラーと    呼ばれるジャンルに属するゲームである。    僕はこの作品のコンセプトに始まり、キャラクター設計、    マップ構成、シナリオ、ムービーや    モーションキャプチャーイベント部分の    ディレクション等など、様々な種類の仕事をした。    基本的な部分の組み立てには約3ヶ月ほど要しただろうか。    全部で100冊以上の本に眼を通したが、    物語の発想の土台となったのは、    「幽霊狩人カーナッキ」という本であった。    短編集で、主人公である怪奇現象研究家カーナッキが、    様々な「怪異」と「怪異に見えるもの」に遭遇し、    あるものは解決し、あるものは良く分からないまま    終わる(笑)という、味わいのあるホラー小説集だ。    興味のある方は是非一読されたい。    さて、僕が物語を組み上げる段階でこだわるところは、    歴史上の事実を曲げないということである。    実際に起こったとして、記録に残っている様々な事件を、    相互に関連付け、その隙間を虚構で埋めていくという    やりかたが僕は大好きだ。    同じ嘘をつくのでも、まったく根拠も無く考えるのと、    事実に基づいてその基盤を組み上げていくのとでは、    細かい部分でのリアリティーが違ってくる。    だから、クーデルカという物語には、    プレーヤー諸氏が考えているよりも、    ずっと多くの史実が含まれている。    エドワードやロジャーが実在の人物である事など、    歴史に興味のある方は、調べてみられるのも一興かと思う。    1898年は科学と迷信がせめぎあう世紀末の、    まさに移り変わる一瞬を捉えて興味深い時代である。    明ければすぐに1900年、近代科学文明の浸透の    象徴ともいうべき、パリ万博が開催される。    そしてそれこそが、僕がクーデルカの続編と    目論んでいた物語の舞台なのである。    ウェールズを描くために、ロンドンやペンブロークに    足を運んだのと同じように、僕はパリやベルギーに    取材をするつもりだった。    (パリ万博に出展されていた建物が、当時の    ベルギー王の要望で買い取られ、    ブリュッセルに現存するのだそうだ)    会場から郊外を結んで建設された地下鉄と、    そこで起こる怪異。エースネクスト誌連載中の    漫画版のエピソードを終えたクーデルカが、    拠ん所ない事情でパリを訪れ、地下に巣喰う    亡霊どもの争いに巻き込まれていく。    実はクーデルカの続編は、僕の頭の中では4作目まで    出来ている。第一部イギリス、第二部フランス・・・    とくれば、第三部はアメリカである。    時代は大きく跳んで、1973年アメリカはシカゴ。    主人公は、シカゴ大学で教鞭を取る文化人類学者、    クーデルカ・ロードメル。    クーデルカの娘アメリアが後に渡米して産んだ子供で、    つまりは孫だ。ベトナム戦争末期とあって、    帰還兵が持ち帰ってしまった悪霊が、    様々な殺人事件を引き起こすのを、まだ生きている    ロジャーの助けを借りて解きあかしていく。    (ちなみにロジャーはスーツを着て出てくる)(笑)    そして第四部は1984年奈良。    関西大学で教える友人の宗教学者の元を訪れたクーデルカは    何者かに命を狙われ、陰陽師や式神と戦う羽目になる。    奈良の巨石墳墓や京都の町並みが、    雰囲気造りに一役買うだろう。    残念なことに、今のところ僕がそれらの    続編を作る予定はないが、    小説のようなものであれば、書いてもいいかなあと思う。 Story of Koudelka : Library --- Haven: On Koudelka, you served as producer, writer, and composer. What were some of the goals you accomplished in taking on these various responsibilities? Were there ways in which the project could have been better realized? Hiroki Kikuta: Let me begin by saying, whenever you divide up responsibilities among a group of people concerning the judgments that get made on a project, the end quality is bound to suffer as a result. To keep the quality high and the schedule organized on a project, it's better for as few people as possible to be making key decisions, and for them to be communicating within the group with as few conflicts as possible. The ideal situation would be for but one director to be delegated the responsibility of expressing his or her creative vision. That said, for Koudelka, I was pursuing that degree of creative control. To prepare, in gaining an understanding of the game's setting, I read about one hundred books on English history, touching on periods from the Medieval era to around 1900. It proved useful in discovering relevant episodes which could be incorporated into the story. Having several events to ground the plot in a kind of historical reality, I then started building on that foundation with some fictional events. For example, the character of Edward is based on an actual Irish dramatist named Edward Plunkett, 18th Baron Dunsany, while the woman who writes a letter for Charlotte is based on Sophie Dorothea of Württemberg. Roger Bacon is, of course, a historically famous philosopher. Also, the incident on the Queen Alice really occurred and is recorded in the captain's log of the vessel. By filling out the gaps in those historical events with fictional incidents, such as the Emigre Document and reincarnation ritual, I aimed at providing a realistic basis to the imaginary aspects of the story. Before production, some members of our staff went on a trip to Whales to gather information and capture the genuine atmosphere of the place with our own eyes. We demanded extreme accuracy in providing the background details, and we even used motion capture technology to provide culturally appropriate body language for the characters, techniques advanced enough to compete with the standards of the Hollywood industry at that time. Those challenges, which were provided by the passion motivating that project, were the real essence of Koudelka. Koudelka, "Patience," music sample I remember that I was reading the critical biography of James Cameron, who was making Titanic at that time, on the airplane to England. I was overwhelmed by his tremendous efforts to capture those startling images. At that time, I realized that it is necessary for creative work to have a degree of obsessive passion involved. I hope that some degree of that conviction had a positive result on the end product. --- As soon as it is in the year 1900, the Paris World Expo is to be held as a symbol of the penetration of modern scientific civilization. And that is the stage of the story that I was thinking as a sequel to Kuderuka. In the same way that I went to London and Pembroke to draw Wales, I planned to cover Paris and Belgium. (It seems that the building which was exhibited in the Paris Expo is bought at the request of the King of Belgium at the time and exists in Brussels.) The subway built by connecting the suburbs from the venue and the monster occurring there. Kuderuka who finished the episode of the comic version in the series of Ace Next magazine visits Paris due to circumstances that are not based, and is caught up in the strife of ghosts who nest underground.    (The first line of the Paris Metro opened without ceremony on 19 July 1900,[4] during the World's Fair (Exposition Universelle - that is what is meant by subway) Actually, the sequel to Kudelka is made up to the 4th in my head. Part 1 England, Part 2 France · · ·     If you do, the third part is the United States. The era greatly jumped, in 1973 America was Chicago. The hero is a cultural anthropologist, Kurdelka Roadmel, who teaches at the University of Chicago. Kuderuka's daughter Amelia is a child who gave birth to the United States later, that is, it is a grandchild. With the end of the Vietnam War, the evil spirits brought back by the returning soldiers will solve various murder cases with the help of living Roger yet.     (By the way, Roger comes out wearing a suit) (lol) And the fourth part was Nara in 1984. Kurdelka who visited the origin of a religious scholar of a friend taught at Kansai University is targeted to someone, and it will be fought against the Yin Yang masters and the expression god.     The megalithic tomb of Nara and the townscape of Kyoto will contribute to the atmosphere building.     Unfortunately, for the moment I have no plans to make those sequels, but if it's like a novel, I wonder if I can write it. --- RocketBaby: At what age did you become interested in music? Hiroki Kikuta: When I was ten years old, I met up with the music of Emerson, Lake & Palmer. I had never heard such marvelous music before. It was quite an impact for me. A few months later I heard that Keith Emerson was using a particular instrument called MOOG synthesizer. RB: At what age did you start writing music? HK: When I was twelve years old, the Folk blues movement came over to Japan from America. I studied Acoustic Guitar and started to create an original song immediately. I wanted to be a singer/ songwriter... if I wasn't a terrible singer. Actually, Digital equipment opened up my potential as a music composer. Without a musical sequencer, I can't create any complicated tunes. When I first acquired a YAMAHA SY-77 synthesizer/sequencer, I felt as if I got a ticket to a different world. RB: Why did you start Sacnoth? HK: I had held many original ideas about video games and visual expression for a long time. The most important purpose is to create an entertainment. When I was searching for a way to achieve my dream, I met a dominant business advisor. He introduced me to the chairman of SNK. I told him about many pitfalls that every existing RPG had. I thought those were lacking a comprehensive insight and a integrative interpretation. It is a structural defect of game production. To resolve the problem, it is necessary to get the picture of each element of game creation at the same time. I have an ability to do that. I established a company SACNOTH and took up my position as CEO in order to produce a new horror RPG project, Koudelka. But unfortunately... Though I conceived a grand scheme to realize an innovative game system and visual expression, many old staffs from SQUARE were not able to accept real change without hesitation. I say that the person who will have no change is already dead. After termination of Koudelka project, I retired as CEO of SACNOTH. It was my choice. RB: As a composer how should music effect the game? As a developer how should the music effect the game? HK: A music composer wants to create a good tune with utter simplicity. But if you want to create a good game as a developer, it is not enough. Because good music does not necessarily fit a good game. The most important problem is adjustment of each of the elements. If the visual element exactly synchronizes with the musical element, a dramatic effect will be generated.. And I take it for granted that everybody wants to hear a good melody in the end. RB: What were your influences for Koudelka? HK: In the first instance, I designed all concepts and fundamental settings of the Koudelka's world. I gathered various graphic and text materials in London and Wales. I did character design, map design, event design, scenario writing, direction of computer graphics movie, direction of motion capture... I got involved with all of the integral parts of Koudelka except battle and game system. Especially, I had no influence in battle section. I still have a great regret. I wish I could have designed it. And a quick digression, I consulted many movies and books for Koudelka. A most impressive movie is The Name of the Rose (Jean Jacques Annaud 1986). I also read the original book which was written by Umberto Eco. It is a definitely masterpiece. If you want to know some origins of Koudelka's world, you may read Carnacki the Ghost Finder written by William Hope Hodgson and The Case of Charles Dexter Ward written by Howard Phillips Lovecraft. Many fantasy novels by Lord Dunsany (His his full name and title is Edward John Moreton Drax Plunkett 18th Lord Dunsany) are also important. If you want to know about visual origin of Koudelka, see photographs created by Bob Carlos Clarke and Jan Saudek and Holly Warburton. Those are extremely exciting works. RB: How did you manage to write, direct and compose the music for Koudelka? HK: Writing a scenario. Directing a CG movie. Composing a BGM. Each of those is no more than a single face of game creation. When I imagined the world of Koudelka, I figure graphic elements and story elements and sound elements all at once. Because, those are mingled with each other organically. So I think that It is rather easy to manage multiple affairs. RB: What was the easiest aspect of working on Koudelka? What was the hardest? HK: The easiest aspect is music composing. Because I can create a music by my lonesome. It makes me free and I feel comfort. Hardest aspect is behind-the-scenes maneuvering of power game in company organization. I am so tired to do that. Let's get something straight, I am not a buccaneer but rather a creator. All aspects about creation are really pleasant for me. RB: Why do you make music? Why do you make games? HK: Music composing is a natural behavior for me. Like breathing. I usually conceive a good melody and a harmony without suffering. So I have no reason to make music. I think that it is my vocation. Meanwhile, creating video game is not my vocation. It is my wish. I want to produce high quality entertainment in the future. When I write a story and a plot, I usually suffer by myself. Though it is very hard and thorny, I feel maximum accomplishment. RB: What inspires your melodies? HK: Many great works of famous composers and musicians inspire me. If I must respect only one person or group as a music composer(s), I will take Pink Floyd. RB: What are your hobbies and why? HK: Good question. Riding bicycles is my hobby. I also love my yellow Peugeot MTB made in France. I also have some fun playing with my cat. She is extremely pretty. RB: When did you begin working at Square? HK: I began work at Square in 1991. I was twenty seven years old. In those days, the production studio of Square was placed in Akasaka Tokyo. It was small and homey, different from now. I remember that Nobuo Uematsu and Kenji Ito interviewed me in their office. We talked about progressive rock music and famous guitar player Allan Holdsworth with each other. I created sound effects for Romancing Saga at the start of my career. A few of graphic staff worked with me to design a lot of novelty sounds. We worked hard in night and day. RB: How much freedom did you have making music at Square? HK: In a sense, I had perfect freedom. Because, the planning staff of Square put none of the assignments relevant to the menu of music work and schedule in my hand. Nobody explained to me about game detail which they were producing. I had to think and imagine what kind of music was needed for our game project. Changeover,changeover, and more changeover of specifications. It was difficult to foresee the final image of it. But I did. RB: What is favorite game that you worked on at Square and why? HK: May be Seiken Densetsu 2 (Secret of Mana). I think that it was a pretty good game except for the big BUG. The multi player system was extremely fresh and delightful. In the aspect of music, I was fully challenged in regard to sound expression using 8 voice PCM system of SNES hardware. Please see and hear the opening sequence of Seiken Densetsu 2. It is so simple but so lyrical, isn't it? I am really proud of my visual direction and music composition. RB: Did Nobuo Uematsu influence your work? HK: I think there is no influence from Nobuo Uematsu. I have never taken any lessons about composing game music. The style and the melody of my music are totally conceived by myself. Just the same, every staff composer at Square were free from influence of somebody else. Originality and personality were cheerished in our studio. It was the policy of Nobuo Uematsu. RB: What are the best and worst memories that you have of Square? HK: Hmmm... Best memory... it seems a trip to MANA island of Fiji republic. After a production of the game Secret of Mana, I and my friend decided to visit an island placed in South Pacific Ocean. We played skin diving everyday and watched some corals. Those were extremely beautiful. It looks like a blue heaven. I will never forget the view of the sunset from Mana's beaches. It is one of my treasures. By the way... Worst memory is a dissolution of the game team in which I was supposed to participate. I wanted to propose an innovative game system using music and sound effects. RB: Who is your favorite Square composer and why? HK: I recommend Jin Sakimoto (Hitoshi Sakimoto). His works are extremely dense. RB: One of our favorite soundtracks of yours is Soukaigi. The sound quality and styles are some the best for a game. HK: Soukaigi has many characters of sound. I designed it with different complex styles. House music meets real performance, fusion meets folk choirÖÖ It was an adventure for me. To tell you the truth, the style of music does not a matter. I don't dwell upon it. Though I put a high value on counterpoint it does not bind me. It is only a method. In the case of Soukaigi, I was mainly influenced by East European pops like Varttina. RB: Why did you leave Square? HK: I wanted to direct not only musical expression but also visual expression. And of course, I wanted to write a fine scenario which is different from existing one. I had felt a big complaint against those juvenile works. But unfortunately, I couldn't get a chance to take a part in those kind of production works in Square. I suffered terribly for a long time. After all is said, I left Square and established new company Sacnoth to achieve my idea. RB: Do you perform your music live? HK: If I have a chance to do that, I wish to play my music as a live performance. I didn't make an attempt to do that in Japan yet. Do you want to hear my music in front of your eyes, ya? RB: Who would you like to make music with? HK: Jin (Hitoshi) Sakimoto. Because, I could not collaborate with him on composing game music when we were hired together by Square. I respect him. Except for game music composer, I want to collaborate with Allan Holdsworth, a fusion guitar player. His music is a miracle. RB: How do you think game music compares to other genres of music? HK: I think that is similar to movie soundtracks. It is important to synchronize the music with visual element. It has an expressive purpose. If you want to create a game music, don't forget to construct it as an emotional device. RB: How will the next generation consoles allow you to express yourself as composer and game designer? HK: I feel a strong attraction to X-box and Game Cube. A big visual capability makes me hot. I have many ideas to display fascinating characters using real time computer graphics. They will sing and dance and talk with real emotion. Don't you want to play the Musical RPG on Network? I want to play it. RB: What would your advice be to people who: A. People who want to create game music. HK: Listen to as much music as you can. Don't confine yourself to your room. The genre of music is meaningless. If you want to find your treasure, you must challenge the common practice at any one time. B. People who want to create games. HK: Video games are not art. They are an entertainment. You must amuse your audience first instead of amusing yourself. I am always conscious of the feeling to accommodate someone with a fun service. Can you create a lot of gimmicks for the player? If you work so hard and push yourself enough, the day will come to collaborate in some way with me for sure. Let's think of a next game together. RB: What is in the future for Hiroki Kikuta? HK: I will be involved in some new game projects that are not directed by me. I will be a technical advisor. I will create computer graphics and sounds. But soon, I hope to form my studio and develop my own game project. So now I am looking for new investors around the globe. RocketBaby would like to thank Mr. Kikuta for chatting with us.
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utautain-suzuri · 4 years
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🕊️11~20
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鳩3「下鴨神社南にある糺の森の由来は諸説あります。“直澄”と、清らかな水を言ったもの、“只洲”と洲である事を言ったもの等。その後“正す”に通じます。他にも鴨川沿いに川由来の地名があります。縄手通は“畷”、鴨川の土手から。河原町通は河原。鴨川は昔、川幅が縄手通から河原町通まであったのです」
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鳩0「万葉集で登場する”鴨川”は今の木津川の事だろうと言われています。賀茂川は古典で“せみの小川”の名で登場する事もあります。山城国風土記では本流を指していますが、分流の泉川の事をいう、とする説もあります。鴨長明は“石川やせみの小川の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ”と詠んでいます。」
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鴨川の源を探る鳩「鴨川の源は雲ヶ畑の桟敷ヶ岳にあり、志明院の湧水がそれであるとされています。ここは歌舞伎の鳴神で竜神を封じ込めた場所です。貴船や鞍馬の川が注ぎ込み、出町柳で高野川と合い、白川と合う。そして下鳥羽で西高瀬川と合い、桂川に流入します。川が海に注ぐ事は朝すると言います」
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鴨川の分流を追う鳩「上賀茂神社の境内を通る御手洗川(明神川/楢の小川/御物忌川)が、葵祭の斎王代御禊の儀を行う場であると以前触れました。下鴨神社の境内には別の楢の小川と、高野川から分かれた泉川が流れています。泉川の名は木津川の古名から。みかの原わきて流るる泉川…と百人一首に現れます」
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鴨川の分流を更に追う鳩「鴨川の本流に沿う形で流れる、みそそぎ川もあります。丸太町南~五条まで地上を流れ、二条下で高瀬川にも水を分けます。これは昭和10年の大水害の後の“千年の治水”で設けられ、今では夏に床を出す場所であり、蛍も飛び交う川です。分流は治水のみならず様々な役割を担います」
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鴨川の支流の高野川を眺める鳩「糺の森の辺りでY字形に鴨川に注ぎ込む高野川。平安遷都以前は今より南に合流点があったようです。古くは埴川と称され、焼き物や土染めに用いられる埴(質の良い黄赤色の土)が採れました。上高野の川辺にある崇道神社の御祭神(且つ桓武天皇)の母は高野新笠といいます。」
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鴨川に注ぐ琵琶湖疎水を眺める鳩1「琵琶湖から水をひく琵琶湖疏水は明治になって造られました。第三代京都府知事北垣国道が計画をし、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎が設計監督を担いました。日本初の営業用水力発電所、蹴上発電所が建てられ、その力を用いて日本初の電気鉄道が通りました。」
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鴨川に注ぐ琵琶湖疏水を眺める鳩2「疏水は多くの見所があります。南禅寺の水路閣、インクライン、捩るような形の煉瓦積みのトンネル“ねじりまんぽ”、山科には日本初の鉄筋コンクリート橋があり、当時の土木技術の高さを見られます。そして哲学の道、東山の庭園の水のある景観もうみだしています。」
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鴨川に注ぐ琵琶湖疏水を眺める鳩3「大津~伏見間での船の運航は、貨物と旅客がありました。然し常に鉄道などの陸運と競う形で、1951年に山科まで砂利が運ばれたのが最後となりました。旅客は安さから利用されましたが、現在の京阪の充実により船会社は廃業しました。今では観光船が浮かんでいます。」
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鴨川に注ぐ琵琶湖疏水を眺める鳩4「琵琶湖疏水の水は水道水源として今も京都市民の喉を潤しています。それ以前は地下水に頼っていたのですが、質や量の低下が問題となりました。トンネル造りの第2疎水を通り、日本初の急速濾過方式が用いられ管理され、安定した日々の水道利用が可能となりました。」
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omeome-ome · 5 years
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2019年10月
10月末にまたgoodなお知らせができる予定です。
どうか首を洗って待っていてください!(^^)d
そんなことよりまたすごそうな台風がきますね
台風の予報を聞くたびに雲ヶ畑は大丈夫だろうかと心配になってしまいます😢
そういえば「鴨川ドライブ」を描くとき、改めて雲ヶ畑へ取材に訪れたのですが、その時はただ鴨川(賀茂川)の支流があるところ、という情報しか知らず、川を見るほかに何かあるのかな~などとぼんやりしながら向かおうとしていました。
市内から雲ヶ畑へ行く方法は、マイカーか乗り合いバスに乗って行くのが主ですが、乗り合いバスは1日に2本だけ、朝9時と昼3時にしか運行していません。飯屋もコンビニもない、携帯の電波すら届かない山の中で、およそ6時間過ごさなければならなかったのです。
でどうしようかと思っていたら、乗り合いバスで偶然学生さんと相乗りすることになり、その方は土地勘があるようで、お寺があるとか神社があるとか色々教えてくださいました。しかも運良くその日は、雲ヶ畑の小中学校で文化祭があり、学生さんはその文化祭のお手伝いで来られていたのでした。そのおかげか雲ヶ畑も普段よりにぎわっている様子で、わたしは神社やお寺を行き川へ行き、そして文化祭を覗き、雲ヶ畑を満喫していました。
今思うと、その学生さんと居合わせなかったら、きっと山の中をさ迷っていたと思います()とてもありがたかったです。もしまたお会いできたら、例の本を差し上げて、おかげさまで漫画が描けましたとお礼��伝えたいです。
漫画に限らず作品を創ることって、自分が創りたいからつくるというより、創るべくしてつくらされるのかもしれないな?なんて思います🤔創られるべき作品であれば、いくら時間がかかってもいつか必ず完成するように、何かに導かれているような感じが、なんとなくいつもあります。
良いこと言ったな~~~!!(⌒‐⌒)がんばろ!
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nagatafolio · 6 years
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世界を股にかけるダンディな海の男! 前田 勝彦さん
(駒ヶ林浦漁業会会長、神戸市漁業協同組合副組合長理事、岩松興産株式会社 代表取締役)
漁業だけでなく神戸の食を盛り上げるために世界を飛び回りながら活躍されている駒ヶ林浦漁業会会長で、神戸市漁業協同組合副組合長理事も務められている前田勝彦さんにお話を聞きました。(2018年7月31日にインタビュー)
ご挨拶の際にいただいた名刺がなんと3枚!しかも表裏に違う社名が書かれていたりと、それだけでとても幅広い活躍をされているすごい方なのだなと圧倒されたのですが、前田さんの軽快な語り口とバブルを感じさせる話題ですっかり楽しく盛り上がり、気づけばもうこんな時間!という満足感でいっぱいのインタビュータイムとなりました。
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小さい頃はどんな子供でしたか。
中学に入るまでは、とにかく人としゃべれない人見知りでした。女子とは高校まで話せませんでした。小中高と自分で殻を破れず、ぎゅっと押さえつけて生きていたのですが、大学デビューで一気にはじけたんですよ。
映画が好きで、小さい頃は20世紀FOXの社長になりたくて。親父に付き合ってもらってよく映画を観に行ってました。スターウォーズ、007、地獄の黙示録…大学に入って、映画研究会に入って、ホームビデオで映像を撮って自主制作してました。3本くらい作ったかな。
どんな大学生活だったのですか。
映画研究会をやりながら、明石でバイトして、バイト代が入ったら当時流行りだしたキャバクラに行って、そこで女優をしてくれそうな子を探して誘っていました。センセーショナルなタイトルを付けたり、既存の映像をインサートしたり、かなり際どい作品を作ってましたよ(笑)
それを1・2年と続けて、ここからが本領発揮!この映画サークルをパーティー屋というか、企画サークルに転身させたんです。新神戸オリエンタルホテル(現ANAクラウン)のKing&Queenや、大阪の梅田や宗右衛門町のマハラジャとかで、新歓コンパやダンパとか企画して。地下で600人入る「NGKシアター デッセジェニー」というハコがあったんですが、ここを満員にするという目標でめっちゃ頑張りました。その頃ってバブルだったんで、企業がお金出してくれたんですよ。東京の広告代理店がスポンサーになってバックアップしてくれたり。この広告代理店が、今のミント神戸である新聞会館にあったJTBの一角を間借りしてくれて、我々が事務所として使ってました。
あと、ねるとんの真似事みたいなこともしてました。今でいう合コンのあっせんみたいな。その中から結婚したカップルもいるんですよ。それきっかけでサンテレビの番組に出演したりもしました。
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漁師になろう、漁業に携わろうと思ったのはどのタイミングですか。
実は、サークル設立のために親から100万借金してました。そして、この活動に全部注いでたので、1年留年したんですよ。そしたら初めて、親父に怒られたんです。卒業する気ないなら今すぐ働けって。
そのイベントで関わってた社会人の、芸能人と付き合ってるのとか見て広告代理店に行きたいとか思ってたんですけど、親父から怒られた時に俺のやるべきことはこれやと思って、留年した1年の休みの日は漁に出てました。就活せずに。子供の頃は漁師になると思ってなかったんですけどね。
漁師になって、家を継がれてからはどのような仕事をされていますか?
漁を手伝ったり、家に漁師仲間が飲みに来たりしているときに、親父がやってきたことを聞かされるわけですよ。それを聞いてて、もっとやったろう、映画サークルを企画サークルに変えたように、ころっと経営を変えたろかって思ったんですよね。どんな不漁にも耐えられる体質にしないといけないと。で、引き継いだときに全部変えました。定年を取り入れたり、給料体系も変えて昇級のルールをしっかり決めたり。株式化して、融資を受けて続けられるようにしたり。帳簿見ながら、現場も見る、というやり方に変えました。まぁやったことはいわゆるコストカッターですよね、だから周りからは嫌がられました。周りの敵も多かったし、以前から勤めていた古参の従業員からはずいぶん嫌われていたと思います…。でも、弟が味方してくれて。弟は今、現場責任者で一番強いよ(笑)
漁師の仕事はおもしろいです。大学もおもしろかったけど、ダイナミズムがある。獲れたら獲れただけ儲かる。
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奥さまとの馴れ初めを教えてください。
友達が主催していたパーティーでナンパしました(笑)ちょうどハーバーランドのモザイクが出来た頃でしたね~。多井畑幼稚園で働いていたので、何とか付き合ってほしくて、運動会を見に行ったり遠足を見に行ったりしました(笑)嫁はすごい真面目で、自分とは真逆。そして子供たちもみんな真面目に育ってて、長女は養護教員、次女は大学生で幼稚園の先生を目指していて、長男は今高校生で、教員になりそうなんですよ。唯一、次男は今小学生なんですが、船に乗ってるので、こっち側に来るかな~と思ってます。
ハワイによく行かれていると伺いました。
年に3回は行ってますね。30年前におじいちゃんおばあちゃんの付き添いで行ったのがきっかけです。その時は12日間くらい行きましたね。ハワイっておもしろくて、出雲大社の分社とか、金毘羅宮や大宰府なんかもあるんですよ。アメリカ本土の人はハワイ島が一番って言いますね。ハワイはじめてならまずワイキキをおすすめします。シーズン的には8月が湿度が低くカラッとしていて過ごしやすいけど高くて、2・4・11月が空いていてよいです。僕が今一番好きな場所は西海岸のコオリナ。コオリナのマリオットとワイキキのヒルトンのタイムシェアの権利を買いました(笑)
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漁業以外の活動もたくさんされてますね。
年に1回、漁業について小学校で教えています。20代の頃からやってますね。授業をすると、「将来漁師になる!」という子が出てくるんですよ。東京・福岡・大阪の就職セミナーの参加者も年々増えてます。普通科の高校生が増えてますね。
漁師って、1人前になるのに10年かかるんですよ。その中でも独立型と雇用型があって、独立型は田舎や過疎地に多い。国の方針として、漁業権を減らしていく動きが出ています。漁業権を開放して、一般参入を増やそうとしている。神戸市の漁業は、世代交代がうまくいったせいか組合員数も安定しているので当分はこのままの形で存続できるのではないかと思ってます。
あと、神戸市漁協はいち早く30年前から、獲ってきて、加工して、流通に乗せて売る、という6次産業化に取り組んでいて、昨今新しい試みとして海外展開を進めてます。神戸は有利な立地なので、その先進都市としてとにかくやっていかないと、という思いもあり、久元神戸市長が提唱されている「食都神戸」構想に賛同して、海外展開促進協議会の立ち上げ当初から参加して、その中心的な役割を漁協で担ってます。
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新長田をどんな風にしていきたいですか。
新長田を…というのとはちょっと違いますが、長田の人にも神戸の人にも、神戸で漁業があるのを知ってもらいたい。とてもいい漁場なんですよ、熱帯魚以外は全部獲れる。みんなの想像する魚類はすべて神戸沖にいる。しかも脂がのってて美味しい。築地や名古屋、金沢では評価が高いんですよ。それをもっと神戸の、長田の人に知ってもらって、盛り上げていきたいです。そのためのイベントも今、考えてます。
前田勝彦さんに会うためにはここへ
神戸漁業協同組合駒ヶ林支所 〒653-0043 兵庫県神戸市長田区駒ヶ林町4丁目1−7
朝7時半ごろなら競りが見られるかも!
https://goo.gl/maps/DDB8uAUxdj52
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インタビュー会場はJR鷹取駅前にある、前田さん行きつけの何でも美味しい居酒屋さん
お食事処なつき 神戸市長田区長楽町2丁目3-8
TEL:078-735-2200 
http://bit.ly/2oRpJxo
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kachoushi · 6 years
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3月の各地句会報
平成30年3月の特選句
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 栗林眞知子選 岡田順子選
平成30年3月1日 三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 羽子板に負けて顔中墨一杯 柏葉 春寒や小指立てたる夢二の絵 都 雛���び浮名の君も老いけらし 都 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句 男坂下なる宿は雛の家 いづみ 天神の生臭きかな梅まつり 伊豫 囀に上野の鐘の応へけり 慶月 梅の香に塗れてをりし路地の子は 眞知子 凡百の梅に埋もるる琵琶法師 亜羅多 浮世絵とおぼしき梅ヶ枝の黒き いづみ 女坂なり豊穣のものの芽に 千種 浅蜊売る江戸の女に女惚れ 千種 置屋鎖し梅紅白を契りとし 順子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月7日 さくら花鳥句会 栗林眞知子選 特選句 籠りゐる部屋から雪の花を見る 紀子 料峭の石橋包むむしろかな みえこ 雪解けの道を選びてこぐペダル 栄江 豪雪に静寂も闇も埋もれぬ 登美子 さざなみの立つ川岸や鳥帰る 寿子 豪雪のニュース福井の名が流れ 実加 暇さうな踏切眺め春の昼 登美子 写経寺へと雪道を辿り行く 令子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月9日 芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 山に住む人みな老いて長閑なり 孝子 啓蟄や取りに戻りし忘れ傘 よみ子 長閑とはこんな日のこと老二人 久美子 この雪の下に田もあり畑もあり 由紀子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月10日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句 流氷の哭くや網走番外地 岬月 流氷といふ大陸へ出航す 岬月 屋上の剥げたパンダや春の雨 のりこ いつしかに父のしごとの雛飾り のりこ 雪間より森の大樹の影を曳く 秀夫 日めくりの七曜淡し二月尽 親子 野あそびへ投げ出す子らのランドセル 和加 春めきぬ陶器の犬の艶めきも 清 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 雪囲ひ解いて仏間を明るくす 文子 子育ての頃の社宅のチューリップ 昭女 大潮の引くが如くに雪解かな 雪 春炬燵和服の女膝入れず 世詩明 啓蟄や散歩帰りの犬の鼻 英美子 天帝の笑へば山も笑ふかな 錦子 春立ちしばかりと云ふに逝きしとは のぶ子 豪雪や音なき音を積み上げて みす枝 蕗の薹とも見えざりし蕗のたう 雪 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句 梅満開翳れば香り満ちて来し 俊子 草萌や小さき地蔵のとろみし目 都 凍らせて蝦夷のしじみの届きたる 幸子 春光や翼のあれば鳥と飛ぶ 佐代子 連結の貨車の入替へ春近し 幹也 老いぬれば寡黙の夫と春炬燵 和子 山の端で二つに解け春の雲 栄子 浮上して春を背鰭に六六魚 悦子 魚売女鰈干しをり東風の浜 史子 雛祭る祖母手作りの犬箱も 益恵 空青し金柑友と捥いでをり 立子 春の鳶虚空蔵菩薩の空舞うて すみ子 春愁の耳に調音訥々と 美智子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月12日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句 蜷の道辿れば杭の裏に消え 和魚 蜷の道途切れて水の嵩の増し 貴薫 きらきらと波綾なして葦の角 三無 蜷の道辿りてはかな見失ふ あき子 枝移りする鳥影や春障子 怜   春障子影絵となりし背の丸味 三無 きつ先の僅かに割れて蘆の角 秋尚 行先のこんがらかつて蜷の道 秋尚 波の如煌めく葉影春障子 せつこ ぼんやりと影の膨らむ春障子 秋尚 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月13日 萩花鳥句会 白魚網光を掬ひ上げしのみ 牛子 ハンドルで巡りし探梅恋しくて 祐子 椿咲く岬や野点デビューの娘 美恵子 残る世も花も待たずに兜太去る 健雄 啓蟄の光やはらかガラス拭き 晴子 休耕田若者集ひ野焼かな 圭三 白魚の光もろとも掬はるる 克弘
平成30年3月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句 後輩に団旗引き継ぎ卒業す 霞牛 日に酔ひしごと雪吊の縄弛む 霞牛 卓の上に廻る事なき風車 雪 金銀の折鶴乱舞春灯 雪 小屋裏の積みし残雪獣めく みす枝 岩壁を鎖り頼りの遍路なる 玲子 如月の客は疎らに船だまり 一仁 梅香る合格の絵馬踊り出す ただし 花ぐもり寝釈迦手枕して在す 世詩明 猫柳きらりと光る銀鼠 世詩明 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月17日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句 受験子のリュック重たし坂長し ゆう子 三椏の終の香りや石の門 百合子 ランドセル飾り一礼卒業す 清子 伸び急ぐアスパラガスの午前午後 亜栄子 春の野に鴉の尾羽根落ち青き ゆう子 参考書静かに閉ぢて大試験 白陶 青空に弾む光や花辛夷 百合子 春光や多摩川面の伸び縮み 美枝子 春の香に満ちる野に出で綻びぬ 節子 童謡の二番を散らす春疾風 ゆう子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句 ものの芽の赤く尖りて句碑守る 眞理子 初花のときめき知らず子の遊ぶ 慶月 武士の墓の剥落涅槃西風 眞知子 花辛夷明かりや鐘の天女像 久子 耄けゆく土筆電車を聞きながら 慶月 内陣の如来を遠く春灯 佑天 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句 土佐水木黄の甘やかに涼やかに ゆう子 花みもざ影を動かす風を呼ぶ 陽子 もてなしは多摩の春野と年尾句碑 亜栄子 住職と檀家総代春火桶 千種 紅椿喝采の眼を浴びて落つ 三無 春愁やカレー饂飩の染みひとつ 眞知子 内陣の如来を遠く春灯 佑天 初桜雲間より日の躍り出て 三無 塋城へ続く椿の暗き道 千種 羊羹に挿す爪楊枝初桜 眞知子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月21日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 フルートの音に高校を卒業す 和子 雛の日まなざし遠く遊ばせて 和子 仔犬そと地べたにおろす暖かし 昭子 大雪は解け降灰はのこるなり 令子 下萌えて殿と動かぬ力石 千代子 古民家のひよこ三匹山笑ふ 雪子 指の傷まだ癒えずをり水温む 雪子 単調な雨音聞いてゐる朝寝 雪 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月22日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 啓蟄や庭の鏡に蜘蛛一つ 雪 思ひきり髪を乱して朝寝かな 雪  啓蟄と云ふ靴磨きたくなる日 雪 背戸山の芽吹きの風を聴く庭かな 越堂 桃の花赤子やはらかよく笑ふ みす枝 大朱蝋の大蝋涙や涅槃寺 ただし 東京の渋谷区も降る春の雪 世詩明 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月25日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句 戦跡の石の一つへ花の影 眞知子 大鳥居裳裾に花を侍らせて 梓渕 こごむ背の小さき人へ菫かな 眞知子 飴玉のなかなか溶けぬ花の下 政江 初蝶の野に引いてくる乳母車 順子 菫へと大きな影の過りけり 眞知子 片側は隠れて春の鳥居かな 小鳥 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林圭魚選 特選句 一条の光差しては椿落つ 政江 堅く閉づ女子校の門糸桜 眞理子 戦跡の石の一つへ花の影 眞知子 花一片能楽堂の昏きへと 要   献木の蘖として花ひとつ 俊樹 一片の目の端に落つる花明り 伊豫 墨の香の塔婆に触るゝ花ミモザ 政江 川沿ひはけもののぬくみ桜咲く しの 花の下はないちもんめの樹霊かな 亜羅多 菫へと大きな影の過りけり 眞知子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月22日 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句 強東風や鳶を吹き上げ吹き下し 由紀子 来ぬ人を待つ頰杖や風信子 眞知子 生者にも死者にも潤み春の月 豊子 白魚の水にしあれば水の色 孝子 春眠の膝に西条八十と猫 寿美香 貝寄風や耳のかたちの貝の殻 豊子 相寄りて添へぬものなり柳の芽 睦子 白魚の番屋胴長下げて留守 光子 貝寄風や藻屑に混じる虚貝 豊子 春田打つ媼に風の集まり来 洋子 分校のたつたひとりに燕来る 寿美香 学舎を振り向かぬまま卒業す 久美子 七曜の過ぐる早さに木の芽吹く 孝子 春の虹かけて海へと大裾野 洋子 (順不同 特選句のみ掲載)
栗林眞知子選 特選句 朝東風や愛宕の神馬嘶きて かおり 雲雀東風羅漢五百の顔さまざま 由紀子 山焼くやおのづと現れし地震の跡 孝子 汽水へと波の穂美しき彼岸潮 千代 旅客機の透けて南へ柳の芽 勝利 春昼の納屋に古りたる糸車 初子 連獅子となりて芽柳大揺れに 睦子 白魚の番屋胴長下げて留守 光子 星一つ加はる宵や涅槃西風 千代 囀や尼寺への途はかく細し 睦子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月 県民会館花鳥句会 坊城俊樹選 特選句 雪籠してゐて入つて来る噂 清女 銭湯の消えて機町小正月 龍聲 金剛の雫煌めく軒つらら 越堂 念力の失せて卒寿の二月尽 龍聲 二ン月の二十八日ふと淋し 和子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年3月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句 母のよな叔母の旅立つ春の星 千代子 腰伸ばし白山眺め畑を打つ 千代子 本堂の前に最も残る雪 雪   木々芽吹く音聞こし召す観世音 雪 春の日や露座の観音乾きつゝ 匠   踏青の野に人影のすでにあり 匠 豪雪のあとの晴間の道を行く 天空 春水となり九頭竜の川ゆたか 越堂 白梅の香の枝折戸の向かうより 和子 (順不同 特選句のみ掲載)
平成30年2月19日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句 雪籠心に祀る幾仏 雪 鉄瓶の音の噴き出す雪の夜 のぶ子 泣きにゆくところを得たり雪岬 世詩明 砦めく卍が辻の雪捨場 昭子 海は吠え水仙の岬黙すのみ 越堂 墓じまひの話ちらほら冴返る みす枝 振り返る一乗谷の雪女 昭女 褪せてなほ正座崩さぬ内裏雛 みす枝 その時のセーター赤き青年よ 雪 間のびせし柱時計や日脚伸ぶ 文子 豪雪に埋れて村の沈黙す さよ子 (順不同 特選句のみ掲載)
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koumorigashi-blog · 6 years
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おはようございます! 本日もオープンしました◎ 今日は小学校の卒業式だそうです🏫今は雨が上がっているので、このままお天気がもつことを願います☆ . さて、先日お知らせしていた『Dongree Camp Market』のバスチケット販売のお知らせです! Dongreeさんのpicを拝借しまして…詳細を載せておきます◎まだ購入されてない方はぜひ! . 【シャトルバスチケット販売スポットのご案内】 ・ ・ 「シャトルバスのこと、イベントのことを詳しく聞きたい」、「せっかくなら紙のチケットが欲しい」という方は、以下の4つの購入スポットをご活用ください。引き続きWEBでも販売しております! ・ ・ 【左京区】cafe wakka @wakka.tsukimi 京都市左京区田中東高原町3-5アトリエRay2階 いつも出店イベントではご一緒させて頂いています。焼き菓子たくさん、優しいお味のミルクスコーンはいつも人気で即完売になるほど😋 ・ ・ 【右京区】こうもり菓子 @koumorigashi 京都市右京区梅津罧原町17ー5 焼き菓子と自家製天然酵母のパンを販売。お昼にはほとんど売り切れる日も多々あるくらい。美味しいです😋 ・ ・ 【中京区】若葉屋 @wakabaya_kyoto 京都市中京区三条通西洞院西入塩屋町53 器を中心に雑貨など販売されておられます。気さくで明るい女将マッキーのファンも多し。そんなマッキーを横からそっと支える旦那さん。素敵なご夫婦です☺️ ・ ・ 【移動式】スズキさん @suzukiriu 京都市内を走り回る四つ葉のように『出会えて乗れたらラッキー!』な移動する販売所スズキさん。 気ままに普段通りに過ごしていただく中で販売してもらいます。 出現頻度の高いお店さんなどに行くと確率が高まります。今どこですか?とは聞かず、たまたまの出会いを楽しでください👍🎶出会えず日程も迫っているし…としびれを切らされた方は、他店舗さんor Dongree、WEBにてお買い上げいただければと思います。 ・ ・ ・ 【バス詳細】 発着駅:『叡山電鉄 市原駅』(叡山電鉄へは、京阪電車『出町柳』で乗換え) 料金:往復1,000円(未就学児は無料) ・ 運行ダイヤ(移動時間約20分) ■会場行きバス 第一便 8:30発 第二便 9:30発*(ベビーカーサポートあり) 第三便 10:30発 第四便 11:30発*(ベビーカーサポートあり) ・ ■帰り便(市原駅行き)バス 13:30~17:00の間、約30分間隔で運行。 ・ 同時刻のバスに集中した場合、1時間ほどの待ち時間が発生する可能性もありますため、混雑回避の意味でも当日会場にておかえり時間のご予約をご協力ください。(会場到着時に係員がお聞きします) ・ ・ ・ Dongree Camp Market in 雲ヶ畑 日時:2018年3月31日(土) 9:00~16:00 会場:京都市北区雲ケ畑出谷町138 はたか前広場 入場無料 荒天時中止 ・ 会場となる雲ヶ畑へは公共交通機関が少ないため、必ずシャトルバス往復券(1000円)を事前購入の上、ご来場いただきますようご協力お願い申し上げます。 *駐車場はありません。 *バイク、自転車、徒歩でのご来場は可能です ・ www.dongree-camp-market.fun ・ ・ #dongreecampmarket #雲ヶ畑 #雲ヶ畑もくもくプロジェクト #dongree #dongreeコーヒースタンドと暮らしの道具店 #こうもり菓子 #若葉屋 #スズキさん (こうもり菓子)
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