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#6歳2ヶ月
shinjihi · 1 year
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「米軍最強の海兵隊を全滅させた男」 を知っていますか? 彼の名前は、 陸軍中将・中川州男(なかがわ くにお) 太平洋戦争において 最大の被害を米軍に与えたと言われる 「ペリリュー島の戦い」を指揮しました。 日本兵1万に対して、 上陸してくるアメリカ兵は4万8000という 圧倒的な兵力差。 この圧倒的に不利な状況で アメリカ軍を追い詰めた作戦とは、、、 ==== ペリリュー島の戦いは アメリカ軍にとって、 隠したくなるほど不名誉で 甚大な被害を出した戦いだった、、、 1944年3月 ペリリュー島に派遣された中川州男 彼はこの時すでに、 絶対的な守備力不足を痛感していました。 「米軍と正面から ぶつかっても勝ち目はない…」 そう考えた中川は ある戦略を実行しました。 それは、、、 島内の中央部に「地下壕」を張り巡らせる というものでした。 ペリリュー島独自の特徴である 天然の洞窟や鉱石の採掘場 の存在に着目し、 大規模な地下陣地を 構築したのです。 日本兵たちは地下陣地を作り、 約5ヶ月という歳月をかけて 入念に準備をしました。 1944年9月、 完全に要塞化されたペリリュー島に 何も知らない米軍が上陸したのです。 まず中川は 米軍が上陸するであろうビーチに 砲撃を降らせました。 そして 米軍を島の内陸に追い込み、 日本兵の姿が見えなくなった と思わせたところで、 地下陣地で待機していた日本兵たちの 容赦ない攻撃が始まったのです。 兵器、兵士の数で 5〜6倍以上の差があったため アメリカ軍の計画では 島を4日で攻略する予定だったと言われています。 それにも関わらず、 最終的に2ヶ月半を要することとなり、 アメリカ軍の作戦計画を 大きく狂わせることとなったのです。 また中川は、 勝利だけにこだわったのではなく 島民への疎開指示を行いました。 そして 島が歪むほどの戦いと表現された ペリリュー島での戦いで 住民の犠牲者は1人も出さなかったのです。 このように中川州男は 圧倒的不利な状況の中でも 冷静に状況判断を行い、 一般市民や部下たち を守りながら 準備周到で アメリカ軍を迎え撃ちました。 そして「米軍最強」と言われた、 アメリカ海兵隊の第 1 海兵師団を 全滅へと導いたのです。 現在でも中川州男は アメリカで称賛されるほど有名ですが 日本では ほとんど知られていません、、、 このように 日本人には知られていない歴史が まだまだ存在します。 教科書では数ページで 終わってしまう近現代の歴史、、、 そこには 全く描かれていないような出来事の中にも 確かに日本人の歩みがあり 先人たちの葛藤や苦悩、 ドラマが詰まっています。 一人一人の軍人たちの生涯と 各局面での意思決定を追っていくと 今まで負けたことだけを クローズアップされていた 戦争の真実が 見えくるかもしれません、、、
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aiuqeo · 4 months
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味がある顔という褒め方(又吉直樹)
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6月で26歳を迎える。なんとそれも愛してやまない又吉と同じ誕生日。数年前までフィルムで撮り溜めていたセルフポートレート。今はやりたい仕事をしてやりたいように生きていて、自分としては充実した日々を送れているから、なんだかうまく写真を撮る事ができない。写真を見返してみると鬱だった大学生の頃の写真が一番屈折せずダイレクトに心臓に届いて刺々しかったんじゃないかと思う。二十歳の頃の写真なんてさいこう。ふつうの大人になっちゃってるんじゃないかって不安もあり、昔想像していた大人像になっているという安心もあり。でもやっぱりいくつになったって尖ってたっていいんだろって、おとなしく見せかけといて心のなかは常に噴火してるんだぞって。もっと自分が面白いと思う写真を撮り続けて撮り続けて一冊にする。こういうことはTumblrでしか言えないから、他ではいい子ちゃんやってるからTumblrはずっと日陰にいてね。使い勝手がだいぶ悪くなってる気がするけれど。
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近影。変態なのか前髪の伸びが異常だから美容室に行くと毎回2ヶ月分くらいの勢いで切ってくださいってお願いする。でも1ヶ月後には2ヶ月分くらい伸びている。中学生のときお風呂で切って次の日学校に行くとあだ名がクレオパトラになったのがトラウマなので自分では絶対に切らない。2年ほど前までは金髪刈り上げだったのに今や面影のかけらもない。人間の歴史。
6月から間借りで古本屋さんを始めます。わっくわっく。実は書店員で傍で自分の古本屋さんをやって、あとはいま、アロマショップでも働いてて、さらにそこにおいしいお菓子屋さんも加わって。プライベート?仕事?どれも違ってどれもそう。楽しみが先にあるって素晴らしい。木星は2024年5月26日に双子座に入るらしいからこれからいい年になるでしょうと期待を込めて。(占いは一切信じない人)
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koch-snowflake-blog · 2 months
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Haruka
生年月日 1996年5月2日
出身地 大阪府
血液型 O型
サイズ 身長160cm B90 W65 H85
器械体操を4歳から12年間、趣味でダンスやバトントワリングをしています。
今でも長い路地を見ると側転や倒立歩行したくなり細長い物を持つと回したくなります(笑) 。
母と同じ趣味を持ちたくて、3年前一緒に普通二輪免許を取得し、母とツーリング行くのも趣味の1つ。
思春期に”バストの急成長”で器械体操を辞めてしまいコンプレックスになりましたが、SNS で CYBERJAPAN DANCERS を見て、ボンキュボンのボディーラインに釘付けになり、当時とてもふくよかだった私の目標となりました。
コンプレックスを自信に変えたくて、自己流でトレーニングを始め、1年6ヶ月という史上最長の期間がかかりましたが、この度、CYBERJAPAN DANCERS への加入が決定しました。
継続は力なりをモットーに、自信の持てるボディーラインを追求し、内側から溢れ出る大人の魅了を追求し続けこれから活動したいと思います。
NAME HARUKA (バズーカ)
BIRTHDAY 5月2日
FROM OSAKA
SIZE 160cm
HOBBY 運動 倒立(逆立ち) 逆上がり お風呂での熱唱 映画鑑賞
SKILL
器械体操
バトントワリング
 普通自動車運転免許
 普通自動二輪車免許
 全国医療事務協会医療事務検定1級
 医療秘書協会全校協議会秘書検定3級
 文部科学省後援ビジネス能力ジョブパス検定2級
 文部科学省後援硬筆書写検定2級
日本コンピュータ能力教育協議会3
WORK 
CYBERJAPAN DANCER VOCAL MEMBER
  
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triflingdoodle · 21 days
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在日をやってると100
 最近、文章やスピーチをお願いされることがチラホラとあって、内心、「僕なんかに依頼して大丈夫なのか」と戸惑いながらもせっかくだしと引き受けては後になって後悔するというのを繰り返している。
 自分で読み返すと、語彙力も無いしなんて程度の低い感想文なんだろうと思うし、後になってあれも書けなかったこれも書けなかったと気が付いて反省することが多い。
 このブログでもシェアしたけれど、関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺から99年目の2022年の9月1日にはGQ JAPANに「関東大震災朝鮮人虐殺事件から99年目──僕たちは差別を止める側、弱者を助ける側に回れるのか?(https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220901-great-kanto-earthquake-massacre)」というコラムを書かせてもらった。2年経ったいまは在日クルド人をターゲットにしたヘイトスピーチがかなり危険ところまできていて社会はなかなか良い方向に進まないなと暗い気持ちになってしまう。  過去も現在も未来も、あの問題もこの問題も繋がっているというのがわかるようなのが書きたいなと思いながらなんとか書き上げて掲載してもらえたけれど、読み返すと、あのこともこのことも書けなかったし書くべきだったなと密かに反省していた。特に虐殺された中国人や社会主義者のこと。虐殺された社会主義者のことは僕の記事では完全に抜け落ちてしまっているし...。まとめて語られがちだけれど、数の多い朝鮮人の話がメインで語られる傾向があるけれど、そうなることでみえなくなっていることがある。虐殺された中国人ついてはぜひ @fukuyoken3daime さんのツイートの連投を読んでみてほしい。 (https://x.com/fukuyoken3daime/status/1830043385396342866)
 今年はいまのところ、2つのコラムを書かせてもらっている。一つは8月6日に発売された、広島から平和を希求するマガジン「TO FUTURE ZINE 2024 -ISSUE 18-」で、2023年と2024年の入管法改悪についての文章を書かせてもらった。もう一つは、先日開催された「スナック社会科横浜映画祭#2 特集:飯山由貴」の配布資料に掲載される文章。
   TO FUTURE ZINEの方はネット(https://online.recordshop-misery.com/items/88231992)で購入可能です。「スナック社会科横浜映画祭#2 特集:飯山由貴」の方ですが、公開して良いとのことなのでせっかくなので掲載しておこうと思います。作品をすでに観た人もまだ観たことない人も少しだけ違う視点をで作品を観れる文章が書けたらいいなと思いながら書いたけれど、読み返すとやっぱり上手く書けていないなと思ってしまって、あちこち手直ししたい気持ちになってしまう。でもいまそれをする時間の余裕もないのでそのままにしておきます。 
無題(スナック社会科横浜映画祭#2 特集: 飯山由貴映画祭 によせて) 
初めて飯山由貴さんの作品を観たのは、2022年10月15日、16日と京都の龍谷大学響都ホールでの「オールドロングステイ」の上映会に実行委員会の一人として参加させてもらった時だった。 
ヘイトスピーチデモのカウンター行動で知り合った友人が、 僕が入管収容の問題に関心を持ち 大阪入管に収容されている人たちや一時的に収容から解放された仮放免の状態で生活してい る人たちの支援をしていることを知っていて映画に興味があるのではと声をかけてくれた。 
入管の被収容者や仮放免者を支援するようになって、 難民、 犯罪等で在留資格を取り消され た人、 技能実習先から逃げ出すなどさまざまな理由で非正規滞在となりそれが発覚し収容され た人、ほんとうにいろいろな人と出会ってきた。 いつも支援をしながら 「特別永住」という在留 資格で生活する自分の状況と彼ら彼女らの状況を照らし合わせて考えてしまう。 
支援を始めてすぐの頃、「永住者」 が犯罪で在留資格を取り消され退去を迫られている現実に 衝撃を受けた。「日本にしか生活基盤がない人に帰れってどういうこと?」 という僕の素朴な疑 問は世間一般の日本人にはなかなか理解してもらえない。 
難民が入管に強制的に収容されているというのも衝撃だった。 「特別永住」の在日朝鮮人の 中には戦後、政治的な迫害(済州島四・三事件など)から逃れるために「密航」してきた人たちも いる。 元技能実習生の面会では彼らが戦前戦後の朝鮮人労働者の状況と重なった。 
特別永住の資格ができる狭間で在留資格を得られなかった韓国人の老夫婦の帰国の支援を したことがある。 最初は「密航」で日本に来日し、親戚を頼って生活していたが、あるとき摘発さ れて大村収容所に収容され強制送還となってしまった。 「特別永住」の資格ができたあとに観光 で来日し、在留期限が過ぎた後もオーバーステイのまま滞在しずっと大阪でひっそりと生きてた という。 僕と出会った時の夫婦の年齢は80歳前後。 病気で倒れるまで現場作業でバリバリ働 いていたけれど、 非正規滞在のため健康保険も非加入で公的支援も何も受けられず、どうにも ならないと帰国することになってしまった。 1度目の強制送還がなければもしかしたら 「特別永 住」を取得する道もあったんじゃないだろうか。 僕よりも長く (最初の来日から数えると50年 以上)、ただ働いて生きてきただけなのになぜ医療も生活保護も受けられず日本から追い出さ れないといけないのかいまだに理解ができずにいる。 
日本人と外国人の間に引かれた線、 特別永住の外国人とそれ以外の外国人の間に引かれた 線、 永住の外国人とそれ以外の外国人の間に引かれた線、 あちこちに引かれた見えない線がほ んとうに正しいのか社会に問いかけるにはどうしたらいいのか。 そういうことを日々考えてい たときにたまたま観ることになった「オールドロングステイ」は大きなヒントをくれたように感じている。  外国人登録令による日本国籍喪失とその後の参政権や社会保障からの排除、 民族教育を否定 する通達、日本国憲法の制定過程など植民地主義を根にするさまざまな問題、ハンセン病療養 施設における朝鮮人差別と格差是正運動、 帰化制度における差別、 在日朝鮮人の中の障害者差別など、 在日であり障害者であることで受ける差別の背景に広く深く迫ることで引かれた線を次々に可視化しているのが良かったし、普段はなかなか可視化されない声なき声を描くのに、安易にわかりやすくして伝えない、受け手の本気度が試されるような表現の仕方もおもしろいと思った。  その後に観たのは、戦前に都内の私立精神病院に入院していた2人の朝鮮人患者の診療日 誌のことばをモチーフに、ラッパー・詩人の FUNI の声と身体で映像化した作品「In-Mates」。 この作品は東京都の指定管理施設「東京都人権プラザ」で開催された企画展「飯山由貴 あな たの本当の家を探しにいく」 (2022年8月30日~11月30日) において上映が禁止とさ れて大きな話題となった。 (詳細は記事を参照→東京都人権部による飯山由貴 《In-Mates》上 映不許可事件は、何を問うのか https://t.co/7fk561FzCn )
上映禁止について語られることが多いこの作品。 自分自身が在日朝鮮人であり、さらには父 親がアルコール依存症で精神科病棟に強制入院となってその中で死亡していること、そして、今 現在、入管の収容施設に強制収容されている人たちや、仮放免という身分で一時的には外に出 られたものの、 就労も、 健康保険加入も、移動の自由も制限され、ほとんど何もできない生活を 強いられている人たちの支援をしていることもあって、 強く心を打つ作品となった。 患者 A、患 者Bの生きてきた環境やそれによって形成されたアイデンティティを想像すると言葉にならな い感情が湧いてきた。 
入管の被収容者や仮放免者の支援をするようになって”自由”に対する感覚が随分とかわっ た。 アクリル板の向こう側、 握手すら��きないところで何ヶ月も何年も小さな部屋に閉じ込めら れている人との会話。 仮放免された瞬間の表情としばらくして就労もできず結局は自由がない 生活に苦しんでいる表情。 
「In-Mates」のエンディング、ニーナ・シモンの「I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free」は支援で出会った人たちの表情を思い出してしまいとても重かった。 
無いことにされてしまっている声、 叫びに気付き可視化していく飯山由貴さんの作品。 この先も追いかけたい。
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ogawa-xd · 1 year
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■サピエンス全史
もうかなり熟読しているが、少し時間ができたのでもう一度、ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」読み返す。至福だなぁ。
第一部 認知革命
第1章 唯一生き延びた人類種
135億年前「物理学」という物語りが始まり、38億年前「生物学」という物語りがはじまった。
7万年前、〈認知革命〉とともに歴史学がはじまった。そして1万2千年前に〈農業革命〉があり、500年前〈科学革命〉が起きた。
サピエンスは、人類のなかで唯一生き延びた種。ネコ科ヒョウ属にはヒョウもライオンもトラもいるが、人類種にはサピエンスしかいない。なぜか?
3万年前に近隣のネアンデルタール人が滅んだ具体的な理由は断定できない。しかし殺戮にせよ自然的淘汰にせよ、サピエンスの存在が関与していたことはまちがいがない。
その競争にサピエンスが勝ち残ったのは、「言語」によるものだ。
第2章 虚構が協力を可能にした
7万年ほど前に、サピエンスはその「内部構造」を変化させた。見かけこそ変わらないが、それ以降のサピエンスは認知能力(学習、記憶、意思疎通の能力)で格段に優れていた。
それ以前にアフリカを出たサピエンスはどれも成功しなかったが、それ以降の遠征は成功し、南極をのぞく世界���へくまなく進出した。
この「言葉」によるドラスティックな変革を〈認知革命〉と呼ぶ。聖書の創世記「知恵の木の実」を思わせる「言葉の獲得」だが、それ自体はたまたまサピエンスに起きた偶然の結果だった。
この認知革命が、世界の大変革につながるが、それは言葉のどんな効果によるのか。
• 存在しないものについての情報を伝達する能力
• たとえば伝説や神話、神々、宗教
• 総じて虚構、すなわち架空の事物について語る能力
実際には「虚構」は判断を誤らせる危険なものだ。だが、集団で嘘を信じることは、かぎりない力の元となった。鋭い牙や爪を持ったり、走力や筋力で勝ることより、桁違いに強大だ。
われわれはほとんど意識しないが、国もお金も人権も法律も会社も、みな虚構、擬制である。歴史の大半はどうやって膨大な数の人を納得させ、信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
サピエンス20万年の歴史の19万年分、つまり95パーセントは狩猟採集のという生活形態だった。認知革命は狩猟採集の時代に起きている。
文字ももちろんなく、詳しいことはほとんどわからないが、ある程度たしかなことをあげれば、
• 農耕以前は「石器」の時代というより「木器」の時代
• 彼らは毎月毎週、あるいは毎日すべての持ち物を手で持って移動していたので、運べるのは本当に必要な所持品だけ
• 精神的、宗教的、情緒的生活は、器物や道具といった人工物の助けなしでおこなわれた
• 狩猟採集社会のもっとも大きな特徴は「多様性」
• 「群れ」と成員は一つの例外「犬」をのぞいて、すべて人だった、つまり家畜もない
• 平均的な人は、自集団以外の人を見かけたり声を聞いたりすることなく何ヶ月も過ごした。一生を通じて出会う人はせいぜい数百人程度。
• つまりサピエンスは広大な範囲にまばらに分布していた。
• 「狩猟採集」というが、一般的な「狩りをする人」のイメージよりも「採集」がメインだった
• 狩猟採集には多大な「脳」力と技能が必要で、個人レベルで見れば、その頃のサピエンスが史上もっとも秀でていた
• 一般に背が高く健康的だったが、平均寿命は30〜40歳。それは子供の死亡率が高いせいで、60からときに80歳まで生きる人もいた
• その理由は食物の多様性、感染症の少なさなど
• 感染症は農耕社会以降の家畜は由来のものが多く、そもそも人同士の距離ががまばらで感染・伝播の機会がほとんどない
• とはいえ、きびしく、情け容赦のない、欠乏と苦難の社会ではあった
最後に、狩猟採集時代のサピエンスが、平和主義者だったか好戦的な種族だったのかは興味がつきない。対サピエンス同士、対他の人類間、どちらの相手にも、平和的な好戦的か断定はできない。好戦的な部族もあったかもしれないし平和的な部族もあったのだろう。とにかく多様であった。
第4章 史上最も危険な種
しかし、餌の対象となる他の動物たちにとって、危険極まりない存在であった。
オーストラリアの例
• 4万5千年前のオーストラリアへの進出は、屈指のできごとだった。コロンブスのアメリカ発見、アポロ11号の月面着陸に匹敵する。
• それ以前にオーストラリアへ到達した人類はいなかった。
• それはサピエンスが特定の陸塊で食物連鎖の頂点に立った瞬間だった。
• 大型カンガルー、フクロライオン、大コアラ、大サイズの鳥、ディプロトドン(象サイズのウォンバット)などすべて姿を消した。
南北アメリカの例
• 最後の氷河期は、7万5千年前から1万5千年前にかけて。7万年前と2万年前の二度のピークがあった。
• 1万6千年前、サピエンスはシベリアから凍結したベーリング海を超えてアラスカをとおりはじめてアメリカ大陸へ渡った。
• それ以前にアメリカ大陸へ渡った人類はいなかった。
• アメリカに到達からわずか1000年から2000年の間に大きなげっ歯類、馬、ラクダ、巨大アメリカライオン、サーベルタイガー、象より大きなオオナマケモノなどを駆逐しながら南米南端に達する。
• この騒ぎからただ一つ無傷だったのがガラパゴス諸島。
そして第二部の農業革命に続く。
余談だが、訳者の柴田裕之(しばたやすし)氏は、自分の愛読書の主要なところで顔を出す。
• 「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ
• 「ホモデウス」ユヴァル・ノア・ハラリ
• 「神々の沈黙」ジュリアン・ジェインズ
• 「ユーザーイリュージョン」トール・ノーレットランダージュ
柴田さんが訳しているのなら、読む価値があるかな、などとも思う。
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kennak · 4 months
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少子高齢化で一番の問題は、高齢化による医療費の増大です。 先ずは80歳以上の高度医療は廃止し緩和ケアに振替(北欧はすでに実施)。 知り合いの高齢者がガンの手術の為に持病の心臓弁膜症の手術をしてからガンの手術をして2度の手術で体力が落ちて6ヶ月で亡くなりました。 本当に本人の為になったのでしょうか? 80才以上の医療費が5割近くを占めている現在改革が急務です。
【都道府県別】2024&2025年度「後期高齢者医療制度」値上げが決定…最も保険料が高い都道府県はどこ?(LIMO)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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myonbl · 14 days
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2024年9月9日(月)
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今日は我が家の同居猫・ココの満18歳の誕生日である。2006年の12月、ツレアイの友人からマンションの前に猫が捨てられているとのことで、長男が運転して大阪まで引き取りに行ったのだった。動物病院で検査してもらった結果、生後3ヶ月程度ということで覚えやすく9月9日を誕生日としたのだ。近頃は腎臓が弱くなって貧血気味、それでも点滴と増血剤の注射で何とか日々を送っている。人間にすれば私より遥かに高齢者、無理せずノンビリやっていこうね。
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3時起床。
日誌書く。
二度寝。
5時45分起床。
洗濯機回す。
ツレアイは息子たちの朝食と次男のおにぎりを用意する。
私は午後に内科受診が控えているので朝食はパス、珈琲だけいただく。
洗濯物を干してから、改めてシャワーを浴びる。
ツレアイは午後からの勤務、あちこち買物に走る。
O工務店に依頼して1階のトイレを改修したのは7月下旬のこと、やっと請求書が届いたのですぐに振り込む。
<東北笑生会>からニュースレターと振込書が届く。
ごぼう茶煮出す。
ガーリックオイル作る。
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ランチ、ツレアイには伊勢うどん、三男にはサッポロ一番しょうゆ味。
彼女は13時前に自転車で出発、火曜日の午後は2件の訪問。
私は春日郵便局で東北笑生会の会費を振り込み、京都南病院へ。
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この1ヶ月の血圧の平均値を主治医に報告、自宅では落ち着いているのだが、診察室ではいつも高くなるのはこの歳になってもちと恥ずかしい。次回は1/20(月)13時30分に予約を取る、授業が終わるまで来られないからだ。
診察室での体重は6週間前に比べて0.2kgプラス、思いのほか酷くなくてホッとする。気が緩んで、帰宅してからチキンラーメンを食べてしまった。
冷蔵庫の食材をチェック、すじ肉が残っていたので炊き合わせにしよう、コレモ七条店まで買い物に出る。
炊き合わせ仕込む。
17時30分、仕事の後の買物終えて彼女が帰宅、一緒に夕飯準備。
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豚バラ肉のゴマよごし・すじ肉の炊き合わせ・レタスとトマト・冷や奴。受診が無事に済んだので、セブンイレブンで50円引きで買ったビールを頂く。
録画番組視聴、名探偵ポワロ。
第2話「ビッグ・フォー」/ The Big Fourシーズン 13, エピソード 2 ヘイスティングス、ミス・レモンのもとにエルキュール・ポワロ死亡の知らせが届く。手配したのは最近警視監に昇進したジャップ。一方、『ビッグ・フォー』 と呼ばれる組織の存在が世間を賑わせていた。新聞は彼らが世界戦争を企む国際的な秘密結社で、最近起きた列車衝突事故や暴動はすべてビッグ・フォーの仕業 だと報じていた。その4週間前、新聞記者タイソーのもとにビッグ・フォーに関する警告文がたびたび届いていた。
風呂の順番を待つ間に、やはり寝入ってしまった。
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辛うじて3つのリング完成。
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taquaone · 5 months
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【翻訳】This is Peter Hewitt!
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今回はThrasher2024年4月号に掲載された「This is Peter Hewitt!」の翻訳です。この記事はいわゆるQ&A形式のインタビューではなく、テキストだけ読むとPeter Hewittの独白のようになっています。翻訳だけを載せても何について話しているのか分かりづらいのでは?という理由から各節に番号・タイトルをつけてあります。画像は内容に関連するものを選んだつもりです。楽しんでいただければ幸いです。 ―TQ
1. My First Board
初めてのスケートボードをゲットしたのは6歳ぐらいの時で2年ぐらいは膝を使って乗ってた。いつも顎にかさぶたをつくってたから、母さんが「なんでいつも顎にかさぶたがあるの?乗り方、間違ってるよ」ってデッキを持って道路をカービングしたんだ。「うわあ!ああやって乗るものだったんだ」って思った。少しずつ立って乗ることも覚えていったけど、膝を使って乗る方が全然うまく滑れた。歩道に乗り上げたりできたしね。最初のうちはほとんど移動手段として使ってたよ。バックパックにGIジョー人形をいっぱいに詰めて町の反対側に住む友達に会いに行ってたんだ。
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オレらは峡谷で戦争ごっこしたり、木材を工事現場から盗んでた。その木材を引きずれるところまで引きずっていって、「もうここでいいだろ。もう無理だよ」って場所にランプを建てた。ドライブウェイに兄弟で作ったランプがあったんだけど、そこがランプなんかを持ってる人たちに出会う場所になった。オレは他の子たちよりちょっとイカれてたんじゃないかな、喜んで痛い目をみようとするみたいなところがあったね。
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母さんはオレたちを週末にDel Mar(Del Mar Skate Ranch ※カルフォルニア州デルマーにあったスケートパーク)に連れてってくれた。はじめて胸を打って息ができなくなっ��のは、60~90㎝ぐらいのマジで狭いプラットフォームに立ってた時。Neil Blenderがいろんなインバートをやってて彼は口笛を吹いてたんだ―インバートでストールするたびに曲でも吹くみたいに。たぶん彼の足が当たったんだと思うんだけど、バランス失っちゃって後ろ向きに倒れこんで背中で着地して息ができなくなった。なにが起こったのか分からなかったよ、今までそんな目にあったことなかったからね!それから這い出していってわけのわからない状況のなかで呼吸を整えなきゃならなかった。Del Marの一番のショーはKeyhole Poolだったんだけど、オレらみたいなキッズはそこでセッションするなんてできなかったから他のセクションで滑ってた。Chris Millerが現れてパーク全体を滑ってたのを覚えてる。これこそ見たいものだった。この人たちは後ろにあるボウルをどうやって滑るんだろう?オレらがいつも滑ってるボウルは?ってね。あれはクールな見ものだったな。
2. Z to Team Hosoi
始めて袋叩きにあったのはFred Olande(※元Z Products・New Deal Skateboardsのライダー)が持ってたランプでのこと―目の周りにアザをつけて帰ったよ。そこはJay AdamsとGeorge Wilsonに出会った場所でもあるんだけど、オレたちはそれがJay Adamsだって分からなかったから「ジッパーヘッド」って呼んでた。理由は彼の頭にはジッパーのタトゥーがあったから。彼らは一度もパッドをつけなかったし、Jayはいつもかわいいコを連れてた。そんな流れでZ Products―オレの最初のスポンサーがついたんだ。特に問題なくZ-Roller(※ハンガー部分が回転する仕様のトラック)でも滑ってたよ、見た目も好きだったし、ロゴも好きだった。ライダーにはButch Sterbinsがいたな。タフなファッキン・チームだったよ。Hosoi(Skateboards)がスポンサーになりたての頃、Fredに言われたことを覚えてる。「ただZを抜��るってわけにはいかないぜ、注目されないとダメだぞ!」ってね。
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Linda Vista Boys Club(※サンディエゴにあったスケートパーク)から本当にいろんなことが繋がっていったんだ。近所の住人はラフだった。有料のパークで、ほとんどのローカル・キッズたちはそれが支払えないって環境だから緊張があった。オレたちは彼らのテリトリーにいるわけだから。スケートしてるとキッズたちが駐車場で車に侵入してるのが目に入るんだ。あそこは無法地帯だったね。オレたちは好き放題やってたよ。幸いなことに、ルールを教えてくれる年上の大人が何人かいたんだ。「同じ場所から2回ドロップインするな」みたいなこと言ってくれるGraham Stanners(※初期Foundationのライダー?)がオレたちの中で一番のインフルエンサーだったな。彼はどうやってそのランプをカービングするかとかを教えてくれたんだ。16歳の時、あの場所でHosoiのハンマーヘッドに乗ってマックツイストを覚えた。習得には一ヶ月かかったよ。そこでは別のルールもあって、「同じトリックを繰り返してセッションを妨害してはならない。自分のランの最後にトライするか、セッションの最後ですること」。それが決まりだった。同じトリックを何度も何度も続けてセッションを台無しにしたくないよね。その後すぐローカル・キッズがあるランプを全焼させて、そこは閉鎖になっちゃたんだ。
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Grahamは、オレたちをはじめての冒険に連れて行ってくれた。オレ、Matt MoffettとSteve Bailyを連れて、(オレたちにとって)はじめてのヨーロッパをスコットランド人たちと一緒に回ったんだ。はじめてMarseilles(※マルセイユ。フランスの港町)をスケートしたんだ-当時はグラフィティなんて全然なくて真新しかったよ。Grand-Bornad(ル・グラン=ボルナン。フランス東部)では、はじめてのプロ・コンテストに出場したし、大勢の酔っぱらった小さなキッズが町のあちこちで暴動を起こしてるのも見た。あれはヤバかった。
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3. Back to San Diego
ヨーロッパから戻って「よし、オレはプロ・コンテストに出てたんだからプロになったんだぞ」みたいな感じでいた。Santa Cruzからデッキももらってた。同時に両方の膝の手術も受けなくちゃいけなかった。オレの膝はその頃すでに壊れてたんだよ。両ひざを一緒にやっちゃってて、Santa Cruzからは、なんていうか「お別れのギフト」みたいにファミコンが送られてきたんだ。後から思えば「お別れのギフト」だったんだよ。「ほら、これがお前のファミコンな」って感じで送ってきた。彼らがオレを追い出すことはなかったよ―必然的に俺から電話しなくなっただけ。医者は半月板を縫合したんだけど、治療が終わったらまたすぐにスケートして、また両方ダメにしちまった。一年以上もスケートから離れることになったんだ。
もっと上手くなろうって決意してて、それがオレを前に進ませていたんだと思う。よく怪我してたけど、いつもすぐに「まあ、そういうもんだ」みたいに考えてた。でもそれから「治療モード」に頭を切り替えて、単純に完治させるぞって決意したんだ。そのほとんどは「信じる」ってことだと思う―自分が「治るんだ」って信じることが一番大きい意味を持つんだ。「もう、おしまいかな」って感じた時もあったけど、「じゃあ、違うことするか」って気持ちになったことないな。一度もスケートをやめたいって思ったことはないんだ。
何年か山で仕事をして、San Diegoに戻った。オレたちには暮らしていけるだけのかなり多くのルームメイトがいたんだ。オレにとっての「大学時代」。Eddy Alioto、Sam Hitz、Darren Nvarrette、Al Partanen、それにオレらの友だちSlayarで一軒家を持ってたからね。3年間そこに住んで20人ぐらいのファッキン・ルームメイトと暮らした。そこではクレージーなパーティーをしてたよ―単純に野蛮な破壊行為。25歳の誕生日にNihilist(デスメタルバンド)が祝ってくれたけど、その頃の彼らはコナン・ザ・バーバリアン(映画)みたいな髪型をしたSlayerを演奏するまだ小さなキッズだった。あれはすごかったな。
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4. The First Backyard Pool/Antihero/Red
最初に行ったバックヤード・プールの一つがNude Bowl。オレらが小さかった頃にオレ、Matt、Baileyでそこに連れて行ってもらって夜通しスケートしたんだ。のちにPrestonやRhinoそして彼らの仲間のプール・スケーターたちと出会うことになった。それまでそんな全く別のシーンがあるなんて考えもしなかった。彼らは物凄くたくさんのSan Diegoにあるプールを知ってたよ!衛星電話みたいのができる以前から路地裏を回ってプールを探してたんだ。オレらの可能性をかなり広げてくれるできごとだったよ。
Antiheroで滑る発端ができたのは99年で、最初に開かれたMarseille(※マルセイユ・フランス)でのコンテストだったと思う。John(ジョン・カーディエル)と Julien(ジュリアン・ストレンジャー)と一緒に滞在してて「お前をチームに加えたいけど、それには少し時間が必要なんだ」って言われたから「わかった」って返事したんだ。それからただ待ってたよ。最初に(商品が入った)ボックスが届いたのは2001年、Rabbi、Shaggyと一緒にSeattle(シアトル・アメリカ)に住んでいた時。それまでスケートボード会社にスポンサーされたのは、なんていうか短期間だった。その時は、まさか終の棲家になるとは思わなかったよ。20数年経った今でもまだ一緒に続けてるんだ。なかなかスゴいよね。
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長い間、コンクリートのスポットって聞いたことはあるけど実際にはもう滑れるものじゃなかったんだ。クラストがいる場所もあったからね。Jakeはどこへ行けば見つけられるか知っていた。彼はオレたちのツアー・ガイドだったね。その後MonkとRedがそれぞれGrindline、Dreamlandでコンクリート・パークを建設していって、オレたちのロードに出る言い訳のほとんどはRedが建設中のパークを見に行くことだった。何年か、いやもっと多くの年月だな、そんなことを続けていたんだ。Redと彼の仲間たちの背中を追いかけてね。Redの作ったパークに到着する、そこを滑る、それから彼の仕事が終わるのを待つ。そうすれば彼の動きが見れるからね。それ皆で「おお、この場所はあんな風に滑ればいいんだ」ってなるんだ。
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5. The Loop
あのループはTony Hawkが闘牛場に建てたランプで経験済みだったけど、Tampa(※スケートパーク)のイベントではギャラが支払われることになってたんだ。「マジか。どう滑ればいいか知ってるぞ」って思った。前夜にオールナイトでファッキンJake Brownとパーティーしてたんだ。オレは2回ぐらいでやめたけどJakeはまだ滑り続けてた。オレが見た時はまだパーティー・モードで攻め続けてたよ。たしか3回目のトライの後、「よし、じゃあスウィッチでトライしてみてもいいかもな」ってなった。で、あの古典的なパンプをしちまった―それは一番やっちゃダメなやつなんだけど。パンプして頂点で撃ち落とされて頭のどこかを打ち付けたんだと思う。担架の上で目が覚めて救急車に詰め込まれた。救急車で出発を待ってたら、「待て!もう一人いるぞ!」ってなったんだ。で、運ばれてきたのはBrian Schaeferだった。彼は「ヘイ、頭のストラップを緩めてくれないか?」って繰り返し尋ねてたよ。オレは「ヘイ、Brian。リラックスしなよ」って感じだった。それからオレたちは病院に担ぎ込まれたんだ。
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6. Jake and P-Stone
一日を始めるにはJakeとP-Stoneは最高の人たちだよ。二人とも、自分たちがどこにいるかの知識を持っていたんだ。どこに行ってもその地域の豆知識と実際の状況を知ってた。オレたちがイタリアのコンテストに顔を出した時なんだけど、P-Stoneは到着するなりたくさんのビールを砂の中に埋めさせたんだ。「オレらは一体なにやってんだ?」って思った。それから一日が終わって、楽しかったし、あれやこれやしてたらビールが切れちゃった。砂にビールを埋めまくったことなんて皆忘れてたよ―P-Stone以外はね。彼はそれを掘り出しに行って、持ち帰ったビールはキンキンに冷えてた。砂って天然アイスボックスみたいなもんなんだ。準備、P-Stoneは常に準備を怠らなかったね。
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Baileyが日本行きのミッションをまとめたんだ。あいつは北海道の「温度計(※温度計のような形状をしたセクション)」についての情報を持ってた。そこに行って「温度計」をスケートする、それがオレたちのメインの目的。その他すべては特典だった。Jakeはこの旅行にものすごく興奮してたね。この旅行はBailey、Luke、Diego、それにオレとJakeっていう構成で、この後たしか取り上げられたんだけどThrasher名義のクレジットカードを持ってた。かなり贅沢に過ごしてたよ。すごく良いホテルに泊まってた。ペントハウスのバーに行って飲んだりしたけど、Jakeは「なあ、あそこにサングラスしてるやつらがいるだろ?あれヤクザだぜ」なんて感じだったよ。
7. Washington Street
オレはWashington Street(※DIYスケートパーク)が、あの場所にどうして存在できてるのかさえ理解できてないよ。どうしてオレたちのプライベート・パークになったのかも分かってないし、保険についても完全に謎だし、どうやって未だに成り立ってるのか分かってないんだ。Chris Copeがあのパークで一番ヤバいスケーターなのは間違いない。あそこで滑ってる奴らの中じゃ、オレのリストではトップにいる。彼は隅々まであのパークを知り抜いてるんだ。さらに情熱を持って愛していて―オレは全部変えてしまいたいあのパークの何ひとつ変えたくないんだ。それも彼を大好きな理由だね。だけど、DIYスケートパークが年月を経たら変化が必要だし、進化していかなきゃいけないし、そうなるんだ。物事は変わっていくし、ただそれには時間がかかるんだ。
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8. The Balance
オレがNikeから追い出されたのは家のローンの書類にサインした直後。ヘコんだよ、短い間だけどね。なぜって、「バランス」が機能したんだって知ってたからね。そこにはなにかバランスを保つ必要があったってこと。ギブ・アンド・テイクっていう均衡がとれた状態に戻っていくんだ。「うまくいかなかった。てことは、ある程度バランスを取らなきゃいけなかったんだな」ってオレは考える。物事はそういう見方をするべきだと思うな。オレはそういう風にしか見れないし、それ以外は単純にエネルギーの浪費だね。
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9. Bucky's Bowl
Bucky(バッキ―・ラセック)のボウルがあった頃、滑りたいと思うのはあの場所だけだったよ。Buckyのボウル最高、以上。あそこはマジでお気に入りの場所だった。最高の2つの世界があった―「でかいトランジションと、どでかいボウル」というね。Darren(ダレン・ナヴァレッテ)とオレはすぐに、毎回あの場所を掃いておく必要があるって気づいた。目では見えないものがボウルの底に落ちてるんだ。あらゆる動物やらモノを引っ張り上げたよ。オレたちの間では「鷹が獲物の息の根を止めるために一度落下させて、それから急降下してそれを持ち去ってる」って説が有力だった。いつもその上空で鷹たちが急降下を繰り返していたからね。
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10. Another Bridge
亡くなった友達の全員、それぞれの形でオレに影響を与えてるよ。たとえば、Grosso(ジェフ・グロッソ)は、あるエリアの人たちとオレを繋げる橋になってた。彼がいなければ、もうその橋はない。でも時が経っていくと、他の人たちとの橋や道、違うコネクションを見つけていくもんなんだ。それと同時に、JakeとP-Stoneがいないスケート・トリップは全然違うものになったね。けど、なんて言えばいいのかな、彼らと何年も―25年以上の楽しい時間を過ごしてきたんだ!それってかなりファッキン長い年数だけど、さらに追加することもできたんだ。だから考えちゃうよね。でもまあ、不思議なことだけど、ある人たちが去って行っても―他の人たちがその代わりになるわけじゃない―たぶん、その人たちはできた溝みたいなもの埋めていくんだね。たとえばJeff(ジェフ・グロッソ)が生きてた頃、Mike Lohrman(初期Black Labelのライダー)はスケートしてなかった、だけど今オレは彼と一緒に滑ってる。それってかなりクールだよね。違う橋とまた繋がったってことだから。
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11. Skating with Neil
Neil(ニール・ブレンダー)とのスケートは、朝起きて一日を始めるのにナイスなやり方。なんでかっていうと、オレはいろいろやりたいけど良い感じのペースでやりたい。それと、Neilは朝方スケートする。だいたい9時から11時ぐらいの間、一緒に滑ってるよ。ほとんどの場合、まあ楽しもうって感じでね。カップのふたを見つけたらフリスビーみたいに投げて遊んでるみたいな、わかる?よく落ちてるものを見つけるんだ。(訳注:サン・ディエゴにある)OB(スケート・)パークは世界で最も衝突事故の起こるスケートパーク。ちなみに毎年3、4回は衝突事故が起こるね。計算してみてよ―あのパークは20年以上あるんだ。相当の数、自動車事故が起こってるってことになるよね。だから、あそこにはいつもなにか拾って投げたり遊んだりするものが転がってるんだ。
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12. Frank Gerwer
Frank(Antiheroのライダー、フランク・ガーワー)とオレは間違いなく20年以上ツアー・バンの後部座席に一緒に座ってるよ。ともかくオレたちはお互いを楽しませる必要がある。ナンセンスなくだらないことばかり言ってるね。ナンセンスであればあるほど、面白い会話になるんだ。二人でちょっとした企画をやってて、さっと描いた絵から台詞を思いつくんだ。ある時は数日間、そのキャラクターになりきってるし、それが次のトリップまで続くこともある。時にはそのキャラクターが変形していくこともある。時々、運転手の顔を見上げてるFrankの気を紛らわす必要がある。彼の目に恐怖が宿ってるのを見ることがあるからね。Cardiel(ジョン・カーディエル)が運転してる時―彼は素晴らしいドライバーだけど、たまに後ろから見てるとさ…気を紛らわしてやる必要があるんだよね。
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13. My Wife
歳は50で既婚者、家を持ってて二人にはナイスな住宅ローンがある。オレの奥さんはヨガ・インストラクターで、そのおかげで週に1回はヨガをやってる。今のところ週1ヨガ野郎だね。だけど楽しんでるよ。健康にものすごく役立ってる、うん。オレは単純にハッピーでいたいし、いまだに楽しめることを探してる。ただ楽しみを追求する、それがオレがやろうとしてきたことだよ。人生はあっという間に過ぎていくもの、だからあんまりシリアスになり過ぎない方がいいと思うよ♠
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♠記事と関連した動画もお見逃しなく!
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14-sakiii · 3 months
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引越しの記録
6月26日(水)
引越し作業が辛くてヘロヘロ。本当にすぐに疲れてしまう。疲れてて泣けてくる。
6月27日(木)
ノンちゃんとご飯。誕生日プレゼントを渡した。体調が悪かったので健康的なものが食べたいって思っていたら、猫吉というお店に行こうって提案してくれて助かった。とろろご飯の定食を食べて大満足。そしていつもの喫茶店。名前とメニューが変わっていて、あの美味しいパスタは食べられないという事実に驚いた。ずっと続くものなんてないのか?今、続いていること全て、すごいぞ。私はこの日もヘロヘロだったのだけど、ノンちゃんと話している途中で疲れを忘れていた。ノンちゃんはすごい。この日から左耳がなんだか塞がったような感じがし始めた。少し心配。
6月28日(金)
引越し前日。最後の出勤。みんなにレモ��ケーキを配った。自分��同じ歳の双子ちゃんと一番仲良くしてくれたYさんから可愛らしいお菓子を貰った。Yさんが寂しいと言いながら本当に泣いてしまいそうで焦った。しんみりしないようにちょっとヘラヘラしてしまった。家に帰って来てからじわじわと寂しさにおそわれた。4年間、居たんだな。夜、業者の人に不用品を持って行って貰った。軽トラで来る話だったのに普通のトラックで来てびっくり。雨だからという理由だった。約束していた値段は変わらなかったから、ラッキー。「若いから」という理由でなんでもかんでも積み込んでもらえた。カタコトの日本語と微笑み。その後、土屋さんとノンちゃんと電話。いよいよだなという壮大な計画が始まった。
6月29日(土)
引越し当日。体力勝負。沢山動いてヘトヘト。引越し先までどうやって移動しようか迷っていたら引越し屋さんが助手席に乗せてくれてラッキーだった。開口一番、あいみょんみたいですねと言われた。何度か人からあいみょんみたいと言われたことがある。似ているのか?仕事の話になり、これまでの経緯を聞いていたらインタビューしている人の気持ちになってなんだかアツかった。その人は正社員になる必要性に対し、疑問を感じているタイプの人だった。共感がほしい訳ではなく、自分の意見はしっかり突き通す感じだったので、言葉の厚みを感じた。無事に到着。すると、母と父と妹もやって来てびっくり。生まれて初めて引越し蕎麦を食べた。そんな文化があること自体知らなかった。年越し蕎麦みたいでワクワク。ドーナツと私の大好きな和菓子屋さんの饅頭も食べた。その後、雨樋が詰まっているとのことで、業者の人とまた色々やり取りをした。人と話しすぎて疲れた。
6月30日(日)
すんごくバタバタ。毎月恒例の一ヶ月の振り返り投稿は意地でもやりたくて更新。この日は部屋の引き渡し・立ち会い日だった。掃除を頑張ったのだけど、壁にサーっと傷があり、2万円くらい損した。悔しい。こういうことで悔しくならないような人間になると心に強く誓った。悲しかった。おまけに物干し竿を持って帰らなくちゃいけなくて、握り締めながら電車に揺られ、そのまま帰宅。もう、あまりにも疲れていた。寝る前にピルクルのミラクルケアのむヨーグルトを飲んだ。6月は人生最大の疲労だったなと思う。
7月1日(月)
やっほー、七月。妹の誕生日。喧嘩をしていておめでとうって伝えられなかった。転出届と転入届を出すために市をハシゴ。1万歩歩いた。市役所で健康的なお弁当に出会えて嬉しかった。野菜がたっぷり。そういえば最近野菜を食べていなかったのだ。雑穀米も美味しかった。元気が出て、免許の書き換えもやりに行くことが出来た。警察署に入るのは、悪いことしていなくてもどきどきする。お年寄りが多かった。お年寄りの人が普段何をしているのか疑問だったのだけど、こういった場所に集まっているのだなって謎が解け、スッキリした。この日の移動中は服部みれいさんの「あたらしい自分になる本」を再読。早速、無印でオーガニックコットンの下着を購入。自分に優しくなりたい。
7月2日(火)
耳鼻科へ。聴力検査の結果、やはり左耳の聴こえが悪かった。薬をもらえたからしっかり治していきたい。治りますように。その後、美容院だったのだけど30分前にキャンセルの電話が来てびっくり。落ち着くためにコメダへ。あみやきサンドとホットミルク。お腹が満ちると落ち着く。金曜日に変更。気を取り直して図書館へ。小さい頃によく行っていた図書館で匂いがすごく懐かしかった。カードを無事に再発行できた。工藤玲音さん、服部みれいさん、銀色夏生さんの本を数冊借りた。機械に重ねて置くだけで借りられてハイテク過ぎて驚いた。電子書籍も借りられる。すごいすごい。帰りに妹の誕生日プレゼントを購入。コスメキッチンの人に全部決めて貰った。プロに聞くのが結局早い。渡すのが楽しみ。帰宅後、父に頼んでいた机が届いた。早すぎる誕生日プレゼント。これでようやく椅子に座って字を書ける日がやって来た。色々頑張りたい。
7月3日(水)
メンタルが圧倒的に安定した。安心、安心。早寝早起きが習慣化している。祖母のおかげだなって思う。今日は祖母もお休みだったから粗大ゴミの整理を一緒にやった。なんとか処理の仕方がわかってよかった。電話の女の人が凄く丁寧でわかりやすかった。出掛けずにひたすら部屋の整理や連絡を頑張った。夜ご飯は炒飯を作った。美味しくできてよかった。そろそろ仕事を決めなくちゃ。この先の檸檬の予定が決まっているからこそ!仕事一筋だった祖父の仏壇に向かってお祈りしてみた。
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dainanagekijo · 3 months
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ヘッダ・ガーブレル Hedda Gabler
じゃ、私にできることは、何もないのね。
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彼女はなぜ原稿を燃やし、銃の引き金に指をかけたのか——。
自分の生と自己についての実感を求めて、空虚の中で心を圧された女性「ヘッダ」。生きている価値、妻であることやパートナーの意味や意義、ひとりの人間として必要な承認をめぐる、生が自己を求める切実さを描く物語。
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開演日時: 2024年8月31日(土) 14:00・18:00 / 9月1日(日)14:00 ※各回終演後に演出家によるトークセッションを実施予定 ※受付開始は開演の45分前、開場は30分前 ※上演時間は100分を予定
託児サービスあり(先着順・有料) 9月1日の回が対象。公演2週間前までに要申込。 (三重県文化会館 TEL059-233-1122)
英字プログラムあり
会場: 三重県文化会館 小ホール(三重県津市一身田上津部田1234) ※三重県文化会館へのアクセス
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原作:ヘンリック・イプセン 構成・演出・美術:鳴海康平
出演: 木母千尋、三浦真樹 諏訪七海、桑折 現 山形龍平、梨香
舞台監督:北方こだち 照明デザイン:島田雄峰(LST) 音響:平岡希樹(有限会社 現場サイド) 照明操作:前田遥音 衣装:小野花弥 肖像画製作:永村清華 フライヤービジュアル撮影:松原豊 フライヤーレイアウト:橋本デザイン室 アダプテーション:鳴海康平
フライヤー撮影協力:Bon Vivant(三重県伊勢市本町20-24)
※原千代海訳、毛利三彌訳、福田恆存訳、 Deborah Dawkin and Erik Skuggevik 英訳、 Terje Sinding 仏訳を参考にさせていただき、上演台本を作成しています。
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料金:(全席指定) 一般前売 2,500円(当日 3,000円) 22歳以下 1,000円(前売・当日とも)
チケット取り扱い(チケット発売日:6月29日10:00)
▋三重県文化会館 チケットカウンター(窓口・電話) tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) WEBチケットサービス「エムズネット」 https://p-ticket.jp/center-mie/
▋第七劇場(予約のみ) https://www.quartet-online.net/ticket/hedda24
※未就学児の入場不可 ※22歳以下チケットでご入場の際は、年齢の確認できる証明書のご提示をお願いいたします。
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三重県文化会館 公演情報ページ https://www.center-mie.or.jp/bunka/event/detail/48724
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関連企画
「ヘッダ・ガーブレル」を読んでみよう
演出家・鳴海のナビゲートで、実際の上演台本を使った読み会を開催します。みなさんで声に出して読みすすめながら、作品を紐解いてみましょう。
日時:8月12日(月・祝)14:00〜16:00 会場:三重県総合文化センター 生涯学習センター棟 2階 まなびラボ 参加料:1,000円
事前申込制(先着)
参加料は当日精算
定員 15名
申し込み受付は6/29(土)〜8/3(土)※必着
お申し込み・お問い合わせ
tel: 059-233-1122 窓口:三重県文化会館 チケットカウンター  10:00〜17:00/月曜休館(祝日の場合は翌平日休館) 申込URL: https://www.center-mie.or.jp/bunka/
※未就学児のご参加はご遠慮ください。 ※筆記用具をご持参ください。 ※定員に達し次第、受付終了となります。
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ヘッダ・ガーブレル
1891年、ミュンヘンで初演。研究者の夫テスマンとの関係に息苦しさを感じている妻ヘッダは、退屈な日々と、身近な生気に溢れた人たちに苛立ちを覚える。テスマンの研究者としてのライバルでありヘッダの元恋人レェーヴボルクの死、ヘッダの古い友人テアとテスマンの研究上の意気投合、レェーヴボルクの死に関する判事の思惑が交錯し、嫉妬と羨望と絶望が高まる中でヘッダは、自身の行動で自らを追い込み自殺してしまう。
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ヘンリック・イプセン(1828〜1906)
ノルウェー出身の劇作家・詩人。「近代演劇の父」と呼ばれる演劇史上の巨人。シェイクスピア、チェーホフと並び、現在でも世界中で盛んに上演される。19世紀当時一般的だった勧善懲悪の物語や歴史上の偉人が登場する大作から離れ、個人の生活や現実の社会の課題などを題材に戯曲を執筆。
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第七劇場
1999年、演出家・鳴海康平を中心に設立。主に既成戯曲を上演し、言葉の物語のみに頼らず舞台美術や俳優の身体とともに多層的に作用する空間的なドラマが評価される。国内外のフェスティバルなどに招待され、これまで国内25都市、海外5ヶ国11都市(フランス・ドイツ・ポーランド・韓国・台湾)で作品を上演。代表・鳴海がポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間滞仏後、2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。2014年、東京から三重県津市美里町に拠点を移設し、倉庫を改装した新劇場 Théâtre de Bellevilleのレジデントカンパニーとなる。 https://dainanagekijo.org
写真「三人姉妹」2023・三重県文化会館 ©松原豊
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鳴海康平
第七劇場、代表・演出家。Théâtre de Belleville、芸術監督。1979年北海道紋別市生まれ。三重県津市在住。早稲田大学在籍中の1999年に劇団を設立。「風景」によるドラマを舞台作品として構成。国境を越えることができるプロダクションをポリシーに製作し、ストーリーや言語だけに頼らないドラマ性が海外で高く評価される。ポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間渡仏し活動。帰国後2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。AAF戯曲賞審査員(愛知県芸術劇場主催 2015〜)。名古屋芸術大学芸術学部舞台芸術領域准教授(2021〜)。
写真 ©松原豊
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主催:三重県文化会館[指定管理者:公益財団法人三重県文化振興事業団] 共催:レディオキューブFM三重 助成:公益財団法人岡田文化財団  文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業(地域の中核劇場・音楽堂等活性化事業))  独立行政法人日本芸術文化振興会 特別協力:名古屋芸術大学
製作:合同会社 第七劇場
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お問い合わせ: 三重県文化会館 tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) 第七劇場 [email protected]
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xx86 · 2 years
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運命ジプシー
唇はひとつ、と思いながら取り憑かれたようにリップを買ってしまうのを繰り返している。まるで女子高生のように、買ったばかりのリップを近くのトイレに駆け込み鏡の前で塗りたくったりしている。バカピンクじゃん、失敗したとがくりと肩を落としたりもしている。結局、デパートでBAさんに泣きつくのが確実だけど、なんだかんだコロナ前よりも丁寧なタッチアップが難しい今、似合うリップ探しは前にもましてギャンブル度が増している。今は丁寧に一本を探し出すよりも暴力的に目に留まった色を買う方がしっくりくるし。そのせいで来る春に浮き足立ち、安いラブホの壁紙みたいな全く似合わないピンクのリップをこの1ヶ月で何本買い何回頭を抱えたか考えたくない。
深い赤ともピンクとも取れるような、青みのラメがざくざく入ったグロスや、葡萄色のこっくりとしたリップが好きだったし、これさえつけとけばばちりと顔が決まると思っていた。が、ある日突然急激に似合わなくなった。同時にCCカールのマツエクも。昨日まで馴染んでいたのに、今日は貼り付けたように派手だ。年齢なのか、好みの変化の問題なのか。まあいい、シンプルなのはシンプルで好きだし。歳を重ねるとシンプルが似合うようになるのは無駄をそぎ落として洗練されていくみたいで良い。間違えて買った黄みがかったピンクベージュのリップがすとんと馴染んでまた一つ大人になったのだなあと嬉しくなった。
早生まれで良いと思っているのは、自分の年齢を受け入れる助走が出来ることだ。15を過ぎた頃から、実際の年齢と想像していたその年齢の成熟度にギャップがうまれて恐る恐る歳を重ねていた。自分がもう〇〇歳なんて、と震えていた。しかしながら周りの友人達がいち早く歳を重ねていくのをみて、もう〇〇歳なんだという実感を1年かけてできるようになったので、3月末の自分の誕生日にはやっとこさ〇〇歳か、と思えるようになった。私も気分はすっかり27歳だけれどあと1ヶ月は26歳だ。そして6月ぐらいにはすっかり28歳の気分になっているのだろう。
便利な脳みそをしているので、私はよくわすれる。なんで親族を恨んでいるのかとか、どうして結婚したくないのかとか、男の人の怒鳴り声をきくと動けなくなるとか。そうではない時はわすれてしまう。だけれどその現場に居合わせると押さえつけていた蓋が開いてしまうようにすべてを思い出すのだ。そうだ、私は幸せになって欲しいという言葉が血反吐を吐くほど嫌いだということとか。
幸せになって欲しいって何。なんでそんな上から目線なの。私は今でも充分幸せなんですけど。何?じゃああんた私に全財産とあんたの人生寄越せる?何一つ捨てられない人間が幸せになって欲しいとか軽々しく口に出すなよ。なあ。私の人生不幸がってオナニーすんなよ、と箱から溢れ出た言葉をにこやかに笑って飲み込む。なるほど、だから私は忘れていたのだ。憎悪を飼い慣らすことができない。
結婚に興味がある、もってないものだから、という人に私も最近ボッテガのリングがもってないデザインで可愛いから欲しいと思ってるんだけどそれと似てるかな?と馬鹿正直に聞いたら空気がめちゃくちゃ悪くなってウケた。なんやねん難しいなあ。27歳未婚、結婚はリアルすぎて火傷。
辞めたかったお花のサブスクを漸く解約した。2ヶ月しか続かなかった。私お花が好きというよりお花屋さんが好きだということに気づけたから良い。
最近、アクセサリーは結婚指輪のみ可、という社則をみて結婚してなくても結婚指輪しても良いのかはたと考えた。だって結婚してる人だけずるいじゃん。私だって結婚はしたくないけど結婚指輪はしたいのだ。めちゃくちゃ可愛いから。
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tokyomariegold · 4 months
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2024/1/6〜
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1月6日 なるべく早起きできて、初詣をして、歯医者に行って、カレーを作って、ヨガをして、たくさん生活に追われて、とってもとってもヘトヘトになった日。 ロキソニンを飲み続けているので気付けないだけで、発熱とかしてるのかな。
昨晩は、もうだめだと思い近くに住む友人へこの連休に少し会えないか連絡をしてしまった。 報告は受けていたのに忘れていたけれど、友人は引っ越しをしていて、より近くに住んでいた。 月曜日に時間をとってくれることになり、ありがたいし、安心している。だめだとわかっている状態でも会う約束をしてくれる友人がいてくれることに安心している。
行きの電車で3ヶ月前の日記の文字起こしをして、やっぱり他人みたいだと思った。たまにいいことを書いていて元気づけてくれる。3ヶ月に一回の歯科検診に行って、今日もまた少し黒ゴマラテいじりを挟まれつつ、3ヶ月後の予約をとってきた。4月なんて想像もできない。
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初詣は豪徳寺へ行った。 猫を納めて、また猫を連れて帰ってきた。 早い時間だったけれどいつもより人が多くて、特に外国の観光客が多い。立派な観光地だった。 猫やお守りの販売所には“どのサイズの猫でも1人1匹として下さい”と注意書きが大きく日・英表記で掲示されていた。
大きい猫にしようか(毎年号数を上げているけれど、ここ2年は同じサイズ)迷ったけれど、一つ上の号は売り切れだったのでまた今年も同じサイズの猫にした。 おみくじもあったので引いてみたら大吉だった! 落ち込み続きのところで信じられないけれど、頑張れば道は開けて叶う、的な内容だったので頑張ります。
でもその後会った歯科衛生士さんとの世間話で「大きい(由緒正しき?)神社は大吉を入れないんですって」と言われ、さっき大吉を引いたことを言えなかった。
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年末から飾っている白いチューリ���プをそろそろさよならしたいと思ったので、帰りに黄色と赤のチューリップを買った。お部屋を暖かくすると花開くチューリップが可愛いので、夜はなるべく暖かく過ごそう。
ここに生活のことを書きたくない。 でも帰って、出かける前になるべくできるだけつけ置き洗いをしたので、それらを洗ったり、水回りのお掃除を挟みつつヨガをしたり、何とかやり過ごす術を試しては何とかしているので、えらい!と書きたい。
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みたい展示がなくて悲しい気持ちでTABを開いたら、某写真家の訃報を知ってしまう。うっ…となり、何歳だったんだろう、とか死因は…とか思った事を、次の瞬間に、でも死んでしまったらもう何も撮れないし作れないんだから何でも同じだな、と思っていた。
時間がなくて行けなかった東京農大の博物館に近いうちリベンジしたい。
頭痛と目眩から解放されたすぎる。 みんな元気でいてほしい。
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1月7日 届いたMIYAOのお洋服がとてもかわいかった! それ以外は全てのことに悪態をついてしまった1日だったので今日は終わり!
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blue-aotan · 4 months
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アリスについて2024.6.7
2024年6月6日5:18
飼い猫のアリスが天国へ旅立ちました。
16歳と5ヶ月でした。
本当に最期まで手のかからない子で、悪さも一切しない良い子すぎる程の良い子でとっても大人しい猫ちゃんでした。
今年の1月、動物病院に連れて行った時にあとどれくらい一緒にいられるだろうと毎日覚悟してきました。
毎日、可愛いね、大好きだよと声をかけて日々を大切に過ごしてきました。
亡くなる2週間前くらいからあまり餌を食べなくなって、チュールなら食べるからと50本入りのチュールを買ったばかりでした。
すぐに動物病院へ連れて行き点滴に吐き気止めを混ぜてもらいましたが、そこから急激に弱ってしまい翌日にはもう歩く事もあまりできなくなりました。
その翌日もアリスが少しでも楽になるならと点滴をしてもらい帰宅しましたが、それからもう横たわっていることしかできなくなりました。
一晩中横にいて、沢山話しかけました。
最後の最期まで前足を動かして動こうとアリスは頑張っていました。
耳元でずっとアリちゃーんずっと横にいるよー。ありがとう、今まで本当に楽しくて幸せだったよアリスのお陰だよ毛玉取ったりブラッシングしたり嫌な事いっぱいしてごめんね、引っ越して長い時間寂しい思いさせてごめんね、いっぱい救われたよ助けてもらったよありがとう、と何度も何度も伝えました。
アリスは私と同じで干渉することをあまり好まなかったので、最後までうるさいなって思われてたかもしれませんが笑
ずっときつそうにしていたので、最期までよく頑張ったねーえらいね。ゆっくり休んでねまた会おうね、と抱っこしてお別れしました。
もっと一緒に��たかったなぁ
ふとした場面で色んなアリスの姿を思い出して寂しくなるんだろうなと思います。
ありたんの為に開けてたクローゼットを閉めたり、カーテンを閉めたり、ドアを閉めたり洗面器に水を汲んでたものを片付けたり…部屋の中にアリスの姿がない事がとても寂しいです。
私もゆっくり心をケアしながら、アリスのいない世界に慣れていこうと思います。
YouTubeの方では動画や配信でアリスを可愛がって下さった皆様、本当にありがとうございました。
R6.6.6で誰かが悪魔の日とか言ってました←
ディズニーの新エリアオープンの日にアリちゃんは旅立ちましたね。
頭痛と吐き気がすごいのですが、きちんとご飯を食べて前に進みます。
アリちゃんずっと大好きだよ
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kozy-ogawa · 1 year
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2023.03.27 国家資格である介護福祉士試験に合格しました。
54歳から介護の仕事を始め、58歳にて介護福祉士の資格を取得しました。今話題のリスキリングの典型例です。大学受験以来40年ぶりに試験勉強をしました。
1.勉強方法
試験前6ヶ月間で計画を立てました。
8月~10月、実務者研修受講。
11月~1月、試験勉強。
テキストは
・『介護福祉士完全合格過去&模擬問題集2023年版』翔泳社
・『介護福祉士完全合格テキスト2023年版』翔泳社
の2冊を使用しました。
2.試験攻略法
125点満点中60%の75点が合格基準点。その年の出題難易により合格最低点は補正され、これまで最高でも78点であったため、80点以上取れれば合格できます。勉強しなくても60点は取れますが、勉強しないと80点は取れません。勉強すれば100点は取れる試験です。選抜試験ではないので高得点を取る必要はありません。むしろ25問は捨て問として、いかに確実に100点を取るかが攻略法です。実際の得点は106点でした。
3.介護の仕事を始めたきっかけ
35歳でアーリーリタイアし、20年間FIRE生活を送っていました。4年前に所有している不動産のテナントを募集したところ、千葉県最大規模の訪問看護・介護事業所様より障害児向けの放課後等デイサービスの開業をしたいというお問い合わせを受けました。この案件は成約しませんでしたが、こうしたお問い合わせを受けるということは、その物件がデイサービスを開業するのに立地が適しているということであり、それなら自身でデイサービスを開業できないかと考え、介護業界について調べてみました。
すると初任者研修という資格があり、業界の勉強のため資格取得を考えました。そしてカイゴジョブアカデミーに資料を請求したところ、折返し電話があり「小川さんなら受講料はいりません、話を聞きに来ませんか」とのこと。「え、5万円の受講料がいらない!どういうこと?」と思い、話を聞きに行くと「特待生で受講料はいりません。その代わり受講期間中に、こちらが斡旋する事業所の面接を受け内定をもらってきてください」とのこと。「ああなるほどね。その事業所から紹介料が入り、その一部が受講料に当てられるわけね。」ということで翌日から何もわからないまま、飛び込み面接。そして2019年4月にオープンした西船橋の特別養護老人ホームに入職することとなりました。その後、2021年4月に自宅の目の前に特養がオープン、転職し、現在はこちらの施設で介護職員をしています。
4.介護業界の率直な感想
介護業界は一言で表すと「ブルーワーカーとお局様と外国人」の世界です。当初はこの業界には全く馴染めませんでした。伝達事項は「張り紙」と「ノート」。連絡手段は「電話」と「FAX」。パチンコと競馬が趣味のブルーワーカー。PCが使えないお局様。日本語が話せない外国人。ああこういう世界もあるんだなと毎日が社会勉強でした。仕事の内容も認知症の高齢者の食事、排泄、入浴といった日常生活のお世話であり、やり甲斐や楽しさを感じたことは全くありません。国家資格である介護福祉士の資格を取得しても非常勤(パート)の場合、時給1200円以上の求人はありません。こういう業界ですから慢性的な人手不足でブラックであり、若い人には絶対おすすめしません。
5.介護の仕事をして良かったこと
こんな介護業界ですが、介護の仕事をして良かったこともあります。1日中立ちっぱなし、歩きっぱなしのため、自身の健康促進に繋がります。また利用者を毎日移乗しているため人生で最も筋肉が付きました。集客や売上のノルマがないため精神的には楽ですし、シフト制なので自分の担当時間が終われば帰宅できるため予定が立てやすいです。無理せず体力が続く範囲で仕事を続け、休日は好きな音楽ライブに行って楽しく過ごしていければと考えています。
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ashrhal · 6 months
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20240407
「東京の街に出てきました。相変わらずワケの、わからないこと言ってます。」というのはくるりの東京という曲の歌詞だが、20代前半に北海道から東京に戻ってきたよりも一層色濃く、この歌詞が身体に馴染んで俺はいつまでも相変わらずワケのわからないこと言っていますなんだろうなと思う。
東京での暮らしが始まって1週間が経った。歳を重ねれば重ねるほど、時間が過ぎる速度は加速していくものだが、この1週間はこれまでの北海道での一ヶ月よりも一年よりも長く感じた。その理由は二つあって、一つは家の問題と一つは仕事の問題だった。
つまらない方から書く。仕事の問題だ。俺は北海道の職場ではそれなりにブイブイ言わせて活躍することができていたが、東京の仕事を知って感じたことは無力さだった。大学で人気者だった新卒の男の子たちが一般的に感じる無力さ同様、俺は東京の仕事量や周りのスキルにきちんと圧倒され、あーばばばと宣うこととなった。
具体的に言えば、Excelでピポットテーブルを使いこなすことなぞしたこともなかったが、周りのみんなはそれを呼吸するがの如くできる。他部署や他社との電話での"お話"をすることなんて今まで俺には無く、急にやらざるを得ない状況になった時に無意味なエヘヘへ〜という不気味な笑みを電話相手に聞かせてしまい気色の悪い結果となるが、周りの人はそんなことを普通にやってのけてしまう。そんな環境であることを期待していたにも関わらず、今の周りにとって普通のことを普通にできないという事実に直面してきちんと落ち込んでいるし、まあ新卒みたいなもんだからいずれできるようになるっしょという気持ちでなんとか乗り切ろうときちんと四苦八苦している。
業務量も北海道の頃の体感比4倍で、午後になるともう頭がピヨピヨしてしまう。労働時間もこれまでは19時まで残業したら俺は今日頑張った!と思っていたが、今は朝6時に起き19時半まで働くことがデフォルト。19時半からが残業だよなあと錯覚してしまうような環境がまだ1週間も働いていないのに当たり前と化している。
「なんで東京で働きたいの?」と質問されたらどう答えよう。理由は死ぬほどある。前の日記に書いたように、若かりし頃に得た東京の暮らしへの憧憬だとか、父親が高卒ででかい会社の偉い人になったからその視点や世界を味わってみたいだとか、目標や乗り越えなくてはいけない壁のようなものがないと退屈してしまう俺の性質だとか、社会人として北海道時代の俺への評価は果たして適切だったのか知りたいというような自身の社会性への期待だとか、シンプルに金が欲しいという浅ましい気持ちだとか。
それらさまざまな理由をもって東京に来たはずだったが、現実はそう甘くはない。今はなんとか、持ち前の「全員殺すぞ」という気持ちと、「なるようにしかならない」という適当な気持ちで4月1日からの1週間を乗り越えることができたが、今後どうなっていくのかは正直わからないという気持ちもあるし、まあ俺はなんだかんだで上手いことやっていくでしょうという根拠のない自信も微かにある。アサハラ鬱病編が人生に無いことを祈りつつも自分自身に健闘を祈る。
二つ目が家の問題だ。北海道では綺麗な1LDK、浴室乾燥機付、エアコン付、札幌中心まで徒歩5分で家賃7万円程度という、こと"家"という観点では何不自由ない暮らしをしていた。東京に引っ越すとなった時に、選択肢としては自身で賃貸を借りる、社宅に住むという2択があった。今でこそ思考停止していたなと反省することではあるが、奥さんと2人で住めるような家で、俺が住みたいエリアに住む家を借りて住むとなると家賃は最低でも12万円ほど必要だった。それに比べて、社宅は家賃1万円。年間コストで言えば120万円社宅に住む方がお得だった。その120万円という暴力にあえなく屈し脳死で社宅を選んだが、これがとんでもない物件だった。
駅徒歩15分、は最悪許せる。6畳間の和室が二つあることも最悪許せる。エアコンやガス台がないことも最悪許せる。部屋の壁と床に隙間があり、そこから冷気が流れ込んでくることや、小さな蜘蛛たちがどう頑張ってもそこかしこで跳梁跋扈してることも全然許せる。なぜなら俺は元無職だから。汚い家にはそれなりに慣れているつもりだから。が、しかし社宅のそれは俺の想像を悠々と超えており、初めて家に対して生理的に無理という気持ちを抱いた。
問題は水回りにあった。まず風呂がバランス釜。バランス釜って言葉みんな聞いたことある?少なくとも俺はこの家に住むまでなかったよ。加えて風呂の床は汚い雑巾みたいな色をした石でできており、シャワーの水圧は猫のおしっこよりも弱い。キッチンは一切水を流してなくとも時折ゴポッという音を立てて、ゲロを煮詰めたような香りが定期的に部屋に供給される。洗濯機置き場という概念が部屋に存在せず、今も洗濯機はキッチンの片隅で深い寝息を立てている。形として家のていをなして入るものの、昭和末期の団地の暮らしに時間軸を移行された感触がして、住めるような努力の手段も考えたが、とても住めたものではないというのが率直な感想だった。
可哀想なのは妻だった。俺の目的で東京の正社員を辞め北海道で暮らし始め、結婚して生活が安定してきたと思ったらまた俺の目的で東京に連れ戻され、住んだ家はゴミ廃墟、在宅勤務の妻にとって家というものがどんなに重要かは計り知れないが、結果的に相当量のストレスを与えることになった。
今日4月7日はそんな現状を打破すべく、2人でヘロヘロになりながら不動産屋を駆け巡り、ようやく良さそうな家を見つけたものの、いつも通り俺のキモさのせいで妻との話し合いがうまくいかずに喧嘩になって引越しの話は宙空に霧散した。
自分の嫌なことの話、お金の話など、すったもんだの言い合いの末、妻は俺に対して「決めて欲しい」と言った。俺は「引越しをしよう」と言った。その後に俺は自分だけが責任を取るのは嫌だと思いその浅ましい気持ちを忌避するために「その上で最終決定をして欲しい」と妻に言った。それまでの流れから、最終的には2人で引越しを決めるという大円団を想定していたが、妻は少し逡巡したのちに「この家で頑張って暮らしていこう」という結論を俺に伝えた。
新しい生活には不安はつきものだ。俺は自身の自己肯定感と全能感でそんなものはお釣りがくるもんだと鷹を括っていたが、何事もそんなにうまくはいかないらしい。ひとまず明日の朝までに俺はこのゴミみたいな家で、これから暮らす覚悟をしないといけない。今日の日記は本当につまらないな。
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kennak · 8 months
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自分は中学に入るまで、周囲の同級生はもちろん、兄の友人たち、両親、教会やスイミングスクールの大人たちとも、話が通じないと思ってほとんど喋らなかったし、塾に通っても(小6の10月からの4ヶ月だけだが)特に変わらなかったのだが、中学に入ったら色々話せる人ができたので、中学受験したのは良かったと思っている。 今でも覚えているのは、中1の終わりか中2くらいに、バレー部を辞めて帰宅部になっていて、タイムマシンはどのようなものかだとか、人間を人間たらしめている性質は何かとか、そういう話を(部活の日ではなかった)同級生と放課後に黒板の前で暗くなるまで話したりしてたのを思い出す。そんな話に付き合ってくれる人、それまでの人生で一人もいなかったから、本当に嬉しかった。あと、NHK のラジオ講座を手当たり次第に聞いたり、通学定期の途中下車して1時間くらいかけて古本屋を回ったりしながら歩いて帰ったりしたことで、中3になって本格的に将棋部で活動するまでそういうのが続いたが、20歳までの期間では、あの時期が一番幸せだったと思う。 で、妻によると、上の子(9歳)は話していると20-30歳の子と話しているみたいだと言っていて、逆に上の子と自分が話すと上の子は「ママと話すと10代の子と話しているみたい」と言っていて、全く自分の小学生時代と同じなので、その気持ちはよく分かる。(妻は児童精神科で働いていて、10代の子と毎日話したりするので、そういう感覚になるのだろうと思う) 自分が上の子と同じ年齢のとき、弟2人が3-4歳だったのだが、母に向かって「弟たちを任せてくれれば英才教育してあげるのに」みたいなことを言ったことがあり、いつも温和でこれまでの人生で3回くらいしか起こったのを見たことがない母が急に怒り出して「そんなことがしたいなら、自分に子どもができてから自分の子どもにし��さい」と言われたのを強烈に覚えているが、その後自分も20代で価値観が変わって今では母に全く同意で、英才教育なんかはしない方が良いと思っている。 父や母は勉強に感しては完全ノータッチであった(勉強がどれだけできようが褒められた記憶はゼロだし、通信簿もあまり見せた記憶がない)代わり、母は「こういうとき普通の人にはこう思われるから、自分で変だと思ってもこのように行動した方が生きていきやすい」というようなことは時々聞いていて、今思うとそれが一番大事な「教育」であったように思っている。あとは、企業戦士で朝から晩まで会社にいた父が毎週キリスト教(プロテスタント)の教会に連れていってくれていたことで、父からは「あれで子どもたちと一緒に過ごしているつもりだった」ということを割と最近に聞いたのだが、これも通っていた意味が分かるようになったのは、実際に子どもが生まれてきてからである。 それで、自分自身も上の子に対しては、完全に自分の両親が自分にしてくれたことをしてあげている、みたいな感じになっていて、自分自身はほとんど放置されていると思っていたが、扱いにくい子だったんだろうなと思って、慚愧に堪えない(← iPhone で一発変換できなかった)。
XユーザーのMamoru B Komachiさん
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