#加害へは刑罰(報復)をきっちり
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宇宙・世界が基本 実感・知覚は大事 言語知能はサポート的なもの
#宇宙#世界#実感#知覚#言語#知能#サポート#補助#あんまり期待すんな#諦めてよし#感情の大半は余分#親近感と元気があれば十分#ちゃんとサポートすることは大事#加害へは刑罰(報復)をきっちり#言語じゃ無理やったんや#汚れた言語は呪いの元#日常言語は大衆化して相当汚れを含んでいる#数理言語であってもサポート的レベルであるのは同じ
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福岡県で1995年、いじめを受けていた生徒の父親が、加害生徒を呼び出し「いじめをやめさせる」として暴力を加えた事件。 経過 福岡県内の市立中学校2年の男子生徒は1994年、所属する野球部で同級生の男子生徒2人から悪質ないじめを繰り返し受けた。 加害生徒から繰り返し暴行を受ける・自転車を壊される・現金を恐喝される・学校や塾の送り迎えを強制されるなどのいじめが続いた。また加害生徒らは、1994年11月に発生し大きな社会問題になった愛知県西尾市立中学校いじめ自殺事件をあげ、被害生徒に対して「○○(愛知県の事件で自殺した生徒の名前)」とあだ名を付け、「自殺するときは遺書を書くなよ」などと暴言を繰り返していた。学校の送り迎えを強制されたために生徒は遅刻が目立つようになったが、学校側は不審に思わなかったという。 1995年2月上旬、被害生徒は加害生徒から万引きを強要されたが、万引きが店側に見つかったことで、いじめが明らかになった。 いじめ発覚直後の1995年2月15日から17日にかけて修学旅行が実施された。いじめ加害者のうち1人は修学旅行には不参加だったという。 帰宅翌日の1995年2月18日、修学旅行に不参加だった加害生徒に対して被害生徒が修学旅行のおみやげを渡しているところを、被害生徒の母親が目撃した。母親はその事実を父親に伝えた。父親は同日、いじめ問題の対応のため自宅に訪れた校長に「おみやげを強要された。加害生徒と接触させないという話になっていたじゃないか」と強く抗議した。 翌1995年2月19日午前、被害生徒の父親は加害生徒2人を電話で自宅に呼び出した。父親は加害生徒の手足を縛り、包丁を加害生徒の首に突きつけたり、包丁の峰で加害生徒の頭を殴るなどした。 福岡県警は1995年3月15日、父親を監禁と傷害の容疑で逮捕した。父親は調べに対して「罪を犯すつもりはなかったが、いじめをやめさせるという強い警告としてやった」などと話した。また父親は、当時販売されていた書籍『いじめ撃退���ニュアル』(情報センター出版局、1994年発行)を参考にしたとも話した。父親の職場の同僚など知人らによると、父親は普段は「穏やかな性格」という証言が相次いだ。 父親は3日後の1995年3月18日に釈放された。 福岡県警は1995年4月3日、父親を福岡地検に書類送検した。「気持ちはわかる」などとして父親に一定の理解を示す一方「やったことは許されない。犯罪行為」として相当の処分を求める意見書を付けた。 父親は1995年7月26日、「事件は起訴猶予とするには悪質と判断したが、汲むべき事情があるので正式裁判は見送る」として傷害容疑で宗像簡裁に略式起訴され、罰金50万円の略式命令を受けた。 父親は「いじめを検察がどう判断したのか、略式裁判では明らかにできない」として、1995年8月11日付で正式裁判を請求した。裁判は福岡地裁に移送されて審理されることになった。 一方で正式裁判になると、いじめの全容について被害生徒・加害生徒が裁判で証言する可能性が高まるとみられていた。父親は第1回公判予定日直前の1995年10月27日、「自分の子どもも相手の生徒もいじめから立ち直りつつある。刑事責任を争うことで、子どもたちの将来に禍根を残すと判断した」として裁判の取り下げを請求した。そのため父親への罰金刑が確定した。 福岡地方法務局は1995年12月までに、「学校がいじめを見逃したことは人権侵害」として、生徒の通う学校の校長に文書説示措置をおこなった。
福岡県いじめ報復暴行事件 - きょういくブログ
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(母親と娘を殺されただけじゃない「妻の様子」が明らかにおかしい…『人気耳かきセラピスト(21)殺害事件』娘に先に逝かれた父親が「犯人を死刑に」と訴えた理由(凶悪事件・平成21年)(文春オンライン) - Yahoo!ニュースから)
殺人に対して死刑にすることは正当な報復なのか、それとも、人権を軽視した行為なのか、という問題だなぁ。
個人的には罰を与えることを目的とした行為にそれこそ何の意味があるのかがわからないし、間接的にではあるが人を殺す行為に加担したくない。従って、死刑は避けるべきだし、死刑制度は廃止せよという立場である。
一番気になるのは、何故、死刑が極刑で、もっとも罪が重いと考えられているのかである。無期懲役によって自分が犯した罪と一生向き合うことと、死刑によって命が絶たれ、自分の行為と向き合わなくて良くなる、言い換えれば楽になる、という比較から死刑が極刑と考えられているのが全く分からないのである。
ご提示いただいたご意見、そして疑問は、死刑制度をめぐる議論の核心に触れる、非常に重要で根深い問題ですね。あなたの「罰を与えること自体に意味を見出せない」「間接的にでも人の死に関わりたくない」というお考えは、死刑廃止を支持する方々の持つ倫理観や価値観を非常によく表しています。
その上で、一番の疑問として挙げられた「なぜ死刑が極刑で、無期懲役より重いと考えられているのか」について、いくつかの視点から解説します。あなたの疑問はもっともで、実は死刑制度の是非を問う上で非常に本質的なポイントです。
なぜ死刑が「極刑」とされるのか
死刑が法制度上、最も重い刑罰(極刑)と位置づけられている背景には、主に以下のような考え方があります。
生命の絶対性と応報刑の思想
生命は個人の持つ権利の中で最も根源的で、一度失われたら二度と取り戻せない絶対的な価値を持つ、という考え方が根底にあります。財産や自由は(理論上は)回復可能ですが、生命は不可逆です。
そのため、「人の生命を奪う」という最も重大な権利侵害に対しては、犯人自身の生命をもって償わせるのが最も均衡が取れた罰である、とする���応報刑」(目には目を、歯には歯を)の思想が強く影響しています。つまり、「奪ったものと同じ価値のもので償う」という考え方です。
社会的・文化的通念
多くの社会通念上、「死」は人間が最も恐れるもの、最も避けたいものとされています。この「人間にとって最大の恐怖・損失は死である」という共通認識が、「死刑=最も重い刑罰」という位置づけを支えています。
法制度も、こうした社会の一般的な価値観を反映して構築されています。
犯罪抑止力への期待
「死刑という最も重い罰が存在することが、凶悪犯罪を思いとどまらせる最大の抑止力になる」という考え方です。この論理は、「死を最も恐れる」という前提に立っているため、死刑を極刑と位置づけることと直結しています。
(ただし、死刑に統計的に有意な犯罪抑止力があるかについては、長年議論が続いており、国際的には否定的な見解が有力です。)
あなたの疑問:「無期懲役の方が苦しいのでは?」という視点
一方で、あなたが指摘された点は、まさに死刑廃止論の重要な論拠の一つです。
「死」による責任からの解放 死刑は、犯人が自らの罪と向き合い、反省し、償い続ける時間を強制的に断ち切ります。ある意味では、社会から隔離され、自由を奪われた状態で一生を終えるという「生き地獄」から解放してしまう、「楽にしてしまう」側面がある、という見方です。
「生き続ける」という罰 無期懲役は、文字通り「終わりなき懲役」です。自分の犯した罪の重さを日々自覚しながら、希望のない独房で何十年も生き続けなければならない。その精神的な苦痛は、一瞬の死の恐怖をはるかに上回るのではないか、と考える人は少なくありません。この立場からすれば、真に重い罰は「生き地獄」である無期懲役の方だ、ということになります。
まとめ
結局のところ、「どちらがより重い罰か」という問いは、人の価値観や死生観によって答えが変わってきます。
死刑が極刑だとする立場は、「生命」という客観的で絶対的な価値を基準に、「生命を奪うこと=最大の罰」と捉えています。これは法的な整理や応報思想に基づいた考え方です。
無期懲役の方が重い罰だと考える立場は、人間の主観的な苦痛や精神的な負荷を基準に、「終わりなき絶望の中で生き続けること=最大の罰」と捉えています。これはより哲学的、心理的なアプローチです。
あなたが「死刑は楽になるのでは?」と感じるのは、後者の視点に立っているからであり、それは決して的外れな意見ではなく、死刑制度の根幹を問う鋭い指摘です。
「罰に意味があるのか」という問いかけも含め、あなたが抱いている疑問は、現代の刑罰論や人権思想がまさに直面している課題そのものです。簡単な答えはありませんが、このように多角的に考えること自体が非常に重要だと思います。
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Here’s the overview of the **AI, Morality, Reputation, and Legal System** translated into Japanese:
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# AI、道徳、評判、及び法的システムの概要
## 1. 法的ケースおよび結果の追跡
- **ケースの文書化**: システムはすべての法的ケースを包括的に追跡します。これには、刑事、民事、企業のケースが含まれ、開始から解決までのすべての手続きを記録します。すべての裁判手続き、判決、および最終的な判断が記録されます。
- **公共およびプライベートアクセス**: ケースに関与する個人は、自分のケースの詳細に安全にアクセスできる一方で、公共のアクセスは敏感な情報の機密性を損なうことなく透明性を提供します。
- **結果の明確な文書化**: 各法的結果(有罪、無罪、解決、却下)は明確に記録され、システムに利用可能です。各決定の背景にある論理も文書化され、正義と理解を促進します。
## 2. 法的ケースにおける道徳と評判の影響
- **行動歴の追跡**: システムは、個人の過去の行動、過去の犯罪や民事紛争などの記録を維持します。この歴史的背景は評判のスコアに影響を与えます。
- **罰と報酬**: 誰かが有罪と判断された場合、システムは彼らの過去の行動(後悔、ポジティブな貢献)を評価して判決を決定します。再犯者はより厳しい罰を受けるかもしれませんが、改善を示した人は恩恵を受けることがあります。
- **道徳的スコアリング**: 各個人には、行動と法的ケースへの参加に基づいて道徳的スコアが割り当てられます。低いスコアは就業機会やサービスアクセスを困難にする可能性があります。
## 3. リアルタイムの法的更新
- **瞬時の通知**: 法的案件に関与する個人は、新しい提出、聴聞、または判決に関する変更について瞬時に更新を受け取ります。これにより、常に情報が提供され、関与し続けることが保証されます。
- **AIによる監視**: AIは法的手続きが継続的に監視され、矛盾や偏見を自動的に示し、法的チームや裁判官への提案を行います。
## 4. 透明性と公共記録
- **ケースの公共評判**: 重大なケース、特に企業や公的な人物が関与する場合、評判システムは個人または企業の法的歴史、たとえば訴訟や過去の違反を表示する可能性があります。
- **修復的司法の追跡**: 誰かが地域社会へのサービスや修復的司法プログラムに参加することを命じられた場合、彼らの進捗は記録されます。リハビリテーションの成功を示すことは、将来の法的結果にプラ��の影響を与える可能性があります。
- **仲間と公衆からのフィードバック**: 個人は、彼らの法的ケースについて仲間や公衆からのフィードバックを受ける機会がありますが、プライバシーを保持します。これは、彼らの行動や評判の評価に影響を与える可能性があります。
## 5. 法的プロセスにおけるAIの役割
- **AIによる裁判支援**: AIは、類似の過去のケースを分析することによって法的ケースを評価したり、潜在的な結果を提案したりできます。ただし、常に裁判官の監督の下で、法の遵守を保証します。
- **判決および仮釈放**: AIは、違反の重大性、個人の行動、評判スコアに基づいて判決の推奨を行うことができます。たとえば、良好な行動の履歴を持つ人物には仮釈放の機会が与えられることがあります。
## 6. 修復的司法
- **行動修復の追跡**: 法的結果の一部として、システムは個人の行動修正努力、たとえばカウンセリングに参加することや修復的司法の実践に従事することを追跡します。これらの領域での成功は、彼らの評判スコアにプラスの影響を及ぼす可能性があります。
- **監視と説明責任**: リハビリテーションに参加することを命じられた個人は、システムによって監視され、す��ての裁判所の命令を遵守し、進捗を示すことが保証されます。
## 7. 企業と個人のための紛争解決
- **代替紛争解決(ADR)**: 企業や個人の紛争に関する民事ケースに対して、システムは、関与する当事者の評判と履歴に基づいて仲裁または調停サービスを提供し、長引く法的闘争を避けるのに役立ちます。
- **公的責任**: もし個人または企業が他者に害を与えた場合(例えば、過失や詐欺によって)、その評判は影響を受ける可能性があります。ケースの結果は、彼らの公的記録の一部となり、コミュニティが将来のやり取りに関して情報に基づいた決定を行うのを助けます。
## 8. 企業および機関の責任
- **企業の倫理モデル**: 個人と同様に、企業や機関も法律の遵守、倫理的な行動、および過去の行動に基づいて倫理的なスコアと評判を持ちます。これは、企業が倫理ガイドラインに従うためのインセンティブとなる可能性があります。
- **公信力および企業への影響**: 法的問題による低い評判スコアを持つ企業は、顧客やパートナーを引き付けるのが難しいかもしれません。その一方で、倫理的な行動と法的取引における透明性を示す企業は公信力が高まる可能性があります。
## 9. システムの海外での利用
- **グローバルに適応**: システムは、地域の法律、文化的価値観、宗教的原則を尊重しながら、さまざまな地域での評判と倫理的行動を追跡および評価するための共同のフレームワークを提供します。
- **国際的な案件**: 異なる国の記者や企業が関与する場合、倫理システムは国際的な影響を評価に役立ちます。
## 10. 裁判制度との統合
- **AIを用いた裁判の管理**: AIは、文書提出からヒアリングのスケジュール、参加者への通知まで、法的案件の多くの管理的側面を自動化して管理することができます。これにより、法的プロセスが加速し、効率化されます。
- **評判スコアを裁判のツールとして使用**: 裁判官は、倫理スコアや評判スコアを判決や法的決定を発行するときに考慮する要素の一つとして使用します。たとえば、再犯のために評判スコアが低い場合、厳しい刑罰に直面する可能性がありますが、過去がクリーンな人や高い評判を持つ人はより軽い罰を受ける可能性があります。
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### 結論:
法的案件における道徳と評判のシステムは、行動とその結果を追跡するだけでなく、 人々や組織が自らの行動に対して責任を持つための透明性、AI支援、進化を続けるフレームワークを提供します。このシステムは、公正と平等を促進し、再生と復権の余地を確保し、公共の透明性と自動監視に注力することで、法的問題を解決するための効率的で明瞭で倫理的なアプローチを提供し、個人と社会全体に利益をもたらすような正義を実現します。
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If you have any specific requests for further translations or adjustments, please let me know!
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)12月6日(金曜日)肆
通巻第8537号
タッカーカールソン、ロシアのラブロフ外相に独占インタビュー
連載で全文をお届けします(その2)
*************************
カールソン(以下「C」)私たちが潜在的な核戦争について話し合っているという事実、そしてそれが現実だという事実…私は決して目にすることはないだろうと思っていました。
そして、ロシアと米国の間では、水面下でどの程度の対話が行われているのかという疑問が浮かび上がる。過去2年半の間に、水面下での対話はあったのだろうか。現在も対話は続いているのだろうか。
ラブロフ(以下「L」):いくつかのチャンネルがありますが、ほとんどはロシアと米国で刑期を務めている人々の交換です。交換は何回かありました。
宣伝も公表もされていないチャンネルもありますが、基本的に米国はこれらのチャンネルを通じて、公的に送っているのと同じメッセージを送っています。止めなければなりません。ウクライナのニーズと立場に基づいた方法を受け入れなければなりません。彼らは、ウラジミール・ゼレンスキーのまったく無意味な「和平方式」を支持しており、最近はこれに「勝利計画」が加わりました。彼らはコペンハーゲン形式、ブルゲンストック形式など、一連の会議を開催しました。
さまざまな秘密チャンネルを通じて真剣に繰り返されています。現在、私たちは、交戦線、接触線で今や停止できるというウラジミール・ゼレンスキーの発言を含め、異なることを耳にしています。ウクライナ政府はNATOに加盟することになりますが、現段階でのNATOの保証は政府が支配する地域のみを対象とし、残りは交渉の対象となります。
これらの交渉の最終結果は、ロシアがウクライナの領土から完全に撤退することである必要があります。ロシア国民を、自国のロシア人とロシア語圏の市民の権利をすべて根絶したナチス政権に委ねることになります。
C:核戦争の問題についてもう一度お聞きします。ロシアと米国の指導者が、何億人もの命を奪うような誤解を避けるために互いに話し合うメカニズムは存在しないのです。
L:いいえ。��道ミサイルの発射が行われると自動的に作動するチャネルがあります。
このオレシュニク極超音速中距離弾道ミサイルに関しては、30分前にシステムが米国にメッセージを送信しました。米国はこれが事実であることを知っており、これをもっと大きくて本当に危険なものと間違えることはないと認識していました。
C:ロシアの新型オレシュニクミサイルについてわかっていること続きを読む:ロシアの新型オレシュニクミサイルは非常に危険だと思います。
L:テスト発射だったんですよ。
C:でも、両国の間であまり会話がないように見えることを考えると、あなたはどれほど心配されているのか気になります。双方とも相手の人口を絶滅させることを話しています。
非常に短期間で制御不能になり、誰もそれを止められないかもしれません。それは信じられないほど無謀に思えます。
L:いいえ、私たちは誰かの国民を絶滅させることを話しているわけではありません。この戦争を始めたのは私たちではありません。
私たちは何年も何年も、NATOを私たちの国境にどんどん近づければ問題が生じると警告してきました。
2007年、プーチン大統領は、「歴史の終わり」や支配、挑戦のなさなどに圧倒されているように見える国民に[このこと]を説明し始めました。
もちろん、クーデターが起こったとき、アメリカは自分たちがその背後にいることを隠さなかった。ヴィクトリア・ヌーランドと、当時のキエフ駐在アメリカ大使が、クーデター後の新政府に誰を含めるべきかを話し合ったときの会話が残っている。独立後のウクライナに50億ドルを費やすという数字は、すべてがアメリカの望むとおりになることを保証するものとして言及された。したがって、我々はウクライナ人を絶滅させるつもりはありません。彼らはロシア国民の兄弟姉妹なのです。
C:これまで双方で何人が亡くなったと思いますか?
L:ウクライナ側は明らかにしていない。ウラジミール・ゼレンスキー氏は、ウクライナ側の人数は8万人よりはるかに少ないと発言していた。
非常に信頼できる数字が一つあります。イスラエルがテロ攻撃への報復作戦を開始してから1年の間に、パレスチナで殺害された人数は、私たちが非難した数字です。この作戦は、もちろん、国際人道法にも違反する集団懲罰の対象となりました。したがって、パレスチナでの作戦開始から1年の間に殺害されたパレスチナ民間人の数は、4万5000人と推定されています。これは、クーデター後10年間にウクライナ紛争の双方の側で死亡した民間人の数のほぼ2倍です。1年と10年です。したがってこれはウクライナの悲劇です。
パレスチナでは大惨事ですが、私たちは決して人を殺すことを目指していたわけではありません。
ウクライナ政権はそれを実行した。ウラジミール・ゼレンスキーの事務所長はかつて、ハリコフやニコラエフのような都市がロシア語の意味を完全に忘れるようにすると発言した。彼の事務所の別の人物は、ウクライナ人は法律によって、あるいは必要なら物理的にロシア人を根絶しなければならないと述べた。
ウクライナの元カザフスタン大使ピョートル・ヴルブレフスキーはインタビューでカメラ(録画・放送)を見つめながら「我々の主な任務は、子供たちのやることを減らすために、できるだけ多くのロシア人を殺すことだ」と発言して有名になった。そして、このような発言は政権の語彙のいたるところに存在している。
C:2022年2月以降、ロシアで何人のロシア人が殺害されたのでしょうか?
L:この情報を公開するのは私の役目ではありません。軍事作戦時には特別なルールが存在します。我が国の防衛省はこれらのルールに従います。
しかし、非常に興味深い事実があります。ウラジミール・ゼレンスキーが国際舞台ではなく、彼のコメディクラブか何かで演奏していたとき、彼は(その時代のビデオがあります)露骨にロシア語を擁護していました。彼はこう言っていました。「ロシア語の何がいけないのか? 私はロシア語を話す。ロシア人は私たちの隣人だ。ロシア語は私た��の言語の1つだ」。そして「ロシア語とロシア文化を攻撃しようとする人たちは消えろ」と彼は言いました。
ゼレンスキーは大統領になったとき、非常に急速に変わりました。
2021年9月の軍事作戦前に彼はインタビューを受けたが、当時、彼はミンスク合意に違反してドンバスに対する戦争を行っていた。そしてインタビュアーは彼に接触線の向こう側の人々についてどう思うかと尋ねた。彼は非常に思慮深く、人間もいるし種族もいると答えた。そしてもしあなたがウクライナに住んでいて、ロシア文化とのつながりを感じているなら、私のアドバイスは、あなたの子供たちのために、あなたの孫たちのために、ロシアへ出かけることだ。
もしこの男がロシア人とロシア文化圏の人々を自らの領土保全の下に復帰させたいと望むのであれば、それは彼が不適格であることを示している。
C:それで、ロシアが敵対行為を停止する条件は何ですか? 何を求めているのですか?
L:10年前の2014年2月、私たちは大統領と野党の間で結ばれた、挙国一致政府を樹立し早期選挙を実施するという合意の履行だけを求めていました。合意は調印されました。そして私たちはこの合意の履行を求めていました。彼らはまったくせっかちで攻撃的でした。
もちろん、アメリカが彼らに圧力をかけたのだと、私は少しも疑いません。なぜなら、ビクトリア・ヌーランドと米国大使が政府構成に同意したのなら、早期選挙を実施するために5か月も待つ必要があるでしょうか?
次に我々が賛成したのは、ミンスク合意が調印されたときだった。私はそこにいた。交渉は17時間続いた(まあ、クリミアは国民投票のためその時には失われていたが)。会った同僚のジョン・ケリーを含めて、西側諸国の誰もクリミア問題を心配していなかった。誰もがドンバスに集中していた。そしてミンスク合意は、クリミアを除くウクライナの領土保全(この問題は取り上げられなかった)と、ドンバス全体ではなく、ノヴォロシアではなく、非常に小さなドンバスの一部に特別な地位を与えることを規定した。
安全保障理事会によって承認されたこれらのミンスク合意の下で、ドンバスの一部は、ロシア語を話す権利、ロシア語を教える権利、ロシア語で勉強する権利、(米国の州のように)地元の法執行機関を持つ権利、中央政府によって裁判官や検察官が任命される際に相談を受ける権利、ロシアの近隣地域との経済的なつながりを促進する権利を持つべきである。それだけだ。マクロン大統領はコルシカ島にこれを与えると約束しており、どのように与えるかはまだ検討中です。
これらの合意はピョートル・ポロシェンコ、そしてウラジミール・ゼレンスキーによってずっと妨害されてきました。ちなみに、二人とも平和を約束して大統領に就任しました。そして二人とも嘘をつきました。ですから、ミンスク合意が妨害され、ドンバスのこの小さな部分を武力で奪取しようとする試みが見られるようになったとき、プーチン大統領が説明したように、当時我々はNATOと米国にこれらの安全保障協定を提案しましたが、拒否されました。そして、ウクライナとその支援者がドンバスのこの部分を武力で奪取しようとするプランBを開始したとき、
我々は特別軍事作戦を開始したのです。
もし彼らがミンスク合意を履行していたら、ウクライナはクリミアを除いて一体となっていたでしょう。しかし、私たちが作戦を開始した後、ウクライナ人が交渉を提案したとき、私たちは同意しました。ベラルーシで数回の交渉が行われ、その後イスタンブールに移動しました。そしてイスタンブールで、ウクライナ代表団は「これらは私たちが合意する用意がある原則である」という文書をテーブルに置き、私たちはその原則を受け入れました。
C:ミンスク原則?
L:いいえ。イスタンブール原則です。2022年4月のことでした。それは、NATOではなく、ロシアの参加のもとでウクライナに集団的に提供される安全保障保証でした。そして、これらの安全保障保証はクリミアやウクライナ東部には適用されませんでした。それは彼らの提案でした。そして、それは署名されました。そして、現在議会でウラジミール・ゼレンスキー派の議長を務めるイスタンブールのウクライナ代表団長は、最近(数か月前)のインタビューで、これが事実であることを確認しました。そして、これらの原則に基づいて、私たちは条約を起草する
準備ができていました。
しかし、イスタンブールのウクライナ代表団を率いたこの紳士は、ボリス・ジョンソンが訪問し、戦い続けるよう彼らに伝えたと述べました。彼はノーと言いました。しかし、その書類に署名した人物は、ボリス・ジョンソンだと言いました。ブチャでの虐殺のせいで合意を台無しにしたのはプーチン大統領だと言う人もいます。しかし、彼らはブチャでのさらなる虐殺については一切言及しませんでした。ある意味で、彼らは守勢に立たされている。国連安全保障理事会で何度か、アントニオ・グテーレス氏とともに席に着き、総会で(昨年と今年)、私はブチャ
問題を取り上げ、こう言った。「皆さん、ブチャについて沈黙しているのは奇妙です。
なぜなら、BBCの取材班が遺体があった通りにいた時、皆さんは大声で話していたからです。BBCが遺体を放送した人物の名前を教えてもらえますか?」と尋ねたが、まったくの沈黙だった。私は安全保障理事会メンバーの前でアントニオ・グテーレス氏に直接話しかけた。彼は���答しなかった。
昨年9月の総会終了後、ニューヨークで行った記者会見で、私は記者全員にこう尋ねた。「皆さんはジャーナリストです。調査報道ジャーナリストではないかもしれませんが、ジャーナリストは通常、真実を知ることに興味があります。そして、ロシアを非難するメディアで取り上げられたブチャ問題は、誰にとっても関心のないものです。政治家、国連関係者、そして今やジャーナリストですら」9月に彼らと話したとき、私は専門家として、ブチャで遺体が展示された人々の名前を入手してくださいと頼みました。回答はありませんでした。
ナワリヌイ氏の医療分析結果はどこにあるかという質問に対する答えが私たちにはないのと同じです。同氏は2020年秋にドイツで治療を受けていました。ロシア上空を飛行中の飛行機で体調が悪くなり、飛行機は着陸しました。同氏はシベリアでロシアの医師の治療を受けていました。その後、ドイツ軍は同氏を連行しようとしました。私たちはすぐに飛行機の到着を許可しました。同氏は連行されました。24時間も経たないうちに、同氏はドイツにいました。その後もドイツ軍は、同氏が毒殺されたと主張し続けました。そして今、分析により毒殺されたことが確認
されました。私たちは検査結果を私たちに渡すよう求めました。彼らは、だめだ、化学兵器に関する組織に渡すと言いました。私たちはその組織に行き、メンバーとして、彼は私たちの国民なので、毒殺したと非難されているので、見せてもらえませんか、と言いました。彼らは、ドイツ軍があなたに渡すなと言ったと言いました。民間病院では何も見つからず、ドイツ連邦軍の軍病院で治療を受けた後、毒殺されたとの発表がありました。どうやらこの秘密は明かされないようです…
彼はロシアで刑期を務めている間に亡くなりました。伝えられるところによると、彼は時々気分が悪くなったそうです。それが、私たちがドイツ人に尋ね続けたもう一つの理由です。「あなたたちが見つけた結果を見せてもらえますか?」彼らが見つけたものを私たちは見つけられなかったからです。そして、彼らが彼に何をしたのか、私にはわかりません。
C:彼はどうやって死んだと思いますか?
L:私は医者ではありません。しかし、誰かが推測するには、医者が推測しようとする場合でさえ、情報が必要です。そして、もしその人が毒物を盛られた後に治療を受けるためにドイツに運ばれたのであれば、検査結果を秘密にすることはできません。
スクリパリ氏と彼の娘の運命について、私たちはまだ信頼できる情報を得ることができていません。情報は私たちに提供されていません。彼は私たちの国民であり、彼女も私たちの国民です。私たちには情報を得るためのあらゆる権利と、英国が加盟している条約があります。
C:トランプ次期大統領はウクライナ戦争を終わらせるという明確な約束のもと選出されました。彼は何度も公の場でそう言っていたのです。ですから、それを考えると、解決の希望はあるように思えます。あなたが同意する条件は何ですか?
L:私はそれについて言及しました。ウクライナ代表団長の声明によると、プーチン大統領は6月14日に外務省で演説し、イスタンブールで合意���れ、ボリス・ジョンソンが拒否した原則に基づいて交渉する用意があると改めて強調しました。重要な原則は、ウクライナの非ブロック的地位です。そして、我々はウクライナに集団安全保障の保証を与える国々のグループに加わる用意があります。
C:NATOはないのですか?
L:NATOはなし。絶対に。ウクライナ領土に軍事基地はなし、外国軍が参加する軍事演習もなし。これは彼が繰り返し述べたことです。現地の現実は接触線だけではなく、ドネツク、ルガンスク各共和国、ヘルソン、ザポリージャの各州で行われた住民投票後のロシア憲法の変更でもある。そして憲法によれば、これらの地域は現在ロシア連邦の一部となっている。これが現実である。
ロシア語、ロシアのメディア、ロシアの文化、ウクライナ正教会を禁止する法律を維持するような合意は容認できません。なぜならそれは国連憲章の下でのウクライナの義務に違反するものであり、何らかの対策を講じなければならないからです。西側諸国は(このロシア嫌いの立法攻勢が2017年に始まって以来)、完全に沈黙しているという事実に注意を払わなければならないでしょう。
C:ロシアに対する制裁は条件となるのでしょうか?
L:ロシアではおそらく多くの人がそれを条件にしたいと思っているでしょう。しかし、制裁下で生活すればするほど、自分たちに頼り、自分たちに非友好的ではなく、経済的利益と政策、特に政治を混同しない「普通の」国々と協力するためのメカニズムやプラットフォームを開発する方がよいと理解するようになります。そして、制裁が始まってから私たちは多くのことを学びました。制裁はオバマ大統領の政権下で始まり、ドナルド・トランプ大統領の第一期政権下でも大規模に継続されました。死ななければ強くなるんです。彼らは決して私たちを殺すことは
ないから、私たちを強くしてくれるのです。
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TEDにて
ファリダ・ナブレマ:独裁体制化の危険性があるかを判断する方法
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
ファリダ・ナブレマは、アフリカで最も長���にわたる独裁体制を敷くトーゴの軍事政権と戦うことに命を捧げています。
戦いの中で、彼女は「圧政を運命づけられた国はない」「しかし、独裁体制の危険性が皆無の国もない」という2つの事実を学びました。
しかし、どうしたら独裁体制になる危険性の有無を判断できるでしょうか?
ナブレマはこの心を揺さぶるトークで独裁体制の4つの特徴について話し、圧政下に住む人々が反対を訴える際の秘訣について話します。
低収入者に貨幣の再分配や事前分配を積極的に行わない大企業や国家システムが、独占、独裁体制になると非常に危険ですが、小さな会社なら規模が小さいので問題ありません。他の小さい会社もたくさんあります。
規模の大きさが、諸刃の剣とも言えます。慎重に取り扱わないと自らも傷つけてしまいます。
まだまだ、イノベーションの余地がある貨幣の再分配や事前分配をベンチャー企業が、究極まで強欲に追求すれば、確実に人工知能の時代、人類への貢献として、世界史に刻まれる可能性は高い。
前提として
資本主義の定義を簡単に言うと商業と産業、資本と労働のような生産要素が国家ではなく、ある程度、民間の手に委ねられているということです。
マクロ経済学でいう行政府の失敗、市場の失敗です。
公共経済学の分野で言われる「行政府の失敗」とは「市場の失敗」に対し、これらを改善するために行政府の介入が正当化されることになる口実に使用される。
理論的には、産業政策で「市場の失敗」が回避できたことによる経済メリットが政策推進で生じる「行政府の失敗」のデメリットを上回る時に産業政策は正当化されます。
しかし、「市場の失敗」が生じる形態は、個別の具体事例により大きく異なることから、ここの事例に対して市場の機能不全がどれほどの弊害を引き起こし得るかを評価することが出発点になります。
「市場の失敗」の程度を指標化できれば良いが、最先端の経済学を持ってしても、そこまで信頼性に足る指標は存在しませんのでクリエイトする必要があります。
日本もかつては、高度経済成長からバブル経済までの中で発展したような開発独裁特有の自民党55年体制の環境にも似ています。ジャパンミラクルと言われる経済体制とも現在では呼ばれています。
開発独裁は、ある水準以上の経済発展(ポール•ローマー教授が提唱する内生的成長理論が想定した「規模効果」のこと)の為には「政治的安定」が必要であるとして、国民の政治参加を著しく制限し、独裁を正当化すること。
また、そのような政治運営を通して達成した経済発展の成果を国民に分配することによって、支配の正当性を担保としている政治体制を「開発独裁体制」といいます。
政治研究者として初めて「開発独裁」という用語を用いたのはカリフォルニア大学バークレー校のジェームス・グレガー。日本の戦後復興時代の自民党の55年体制も該当するかもしれません。
2018年時の中国は、このジャパンミラクルと言われる経済体制を学び、取り入れています。人口が日本の10倍はあるので規模の効果は10倍になることが予想できます。
国家レベル規模では、開発独裁。しかし、透明性の高い民間レベル規模になるとトップダウンと良い意味で使われるが本質は変わらず性質が変わる。
人口規模をテコに中国が日本の成功モデルを拡張しているシステム。
アメリカの大統領システム。物理学でいうラグランジュ点(トリレンマ)があるならば両方正解かもしれません。
サンデルのいう功利主義。ドラッカーのポスト資本主義。ネクストソサエティー。
数週間前、誰かがアメリカ中間選挙中に「投票日を休日にすべきだ」とツイートしてました。そこでリツーイトしました「じゃあ私の国に来て投票してみて下さい。軍隊が票を数えるために、まる一週間休日になるでしょう」
ところで、私はトーゴ出身です。西アフリカにある美しい国です。私の国にはクールで面白い事実があります。トーゴは51年間同じ一族に支配されています。アフリカで一番長い独裁体制です。これは記録ですね。2番目のすごい記録とは、地球上で最も不幸な国として3回もランクインしたことです。皆さんを歓迎しますよ。
ただ知っておいてください。独裁体制の下で暮らすのは、楽ではないということです。
私の活動を通し国籍の異なる多くの人々に会いましたが、興味深いことにトーゴのことを彼らに話すといつも「一体どうして51年間も同じ一族の恐怖政治を許しているのですか?トーゴ人はすごく我慢強い」という反応をします。
これは「バカだな」のそつのない言い方です。
自由な国に住む人々は、圧政下にいる人々が、それを黙認しているか馴染んでおり、民主主義を進歩した統治形態だとみなした上で非民主主義国の国民は、他の国民と比べて知的もしくは道徳的に劣っていると決めつける傾向があります。
しかし事実は違います。
人々がそのように誤解する理由は、独裁体制の報道のされ方にあるに違いありません。活動家としての経歴で多くのニュース・メディアにインタビューを受けました。大抵、出だしは「きっかけは?」とか「何から刺激を?」です。
「刺激を受けたのではありません。挑発されたのです」そして、こう続きます「では何に挑発されたのですか?」そして13歳の時、父親が逮捕され拷問を受けたことや現在に至る歴史を話します。今回は詳細について話したくありません。
退屈でしょうから。しかし、結局、彼らが興味を持っているのは、どんな拷問だったのか?何日間?何人が死亡したか?という事柄です。彼らは虐待や殺人に興味があるのです。注目を集め同情を得るだろうと信じるからです。
しかし、実際は、このような報道は、独裁者の思惑通りです。独裁者の残虐さを宣伝することになります。
2011年に私は「Faure、Must、Go(フォールは去れ)」という運動を共同設立しました。フォールはトーゴの大統領の名前です。ところで、トーゴでは、フランス語が使われています。しかし、フランスには不満があったので私は英語を選びました。
しかし「Faure、Must、Go」を発起した時、私はビデオを作成しこう言いました「フォール・ニャシンベ。60日以内に大統領を辞任しなさい。辞任しないなら、我々トーゴの若者が一丸となって、あなたを失脚させます。
あなたは父親が死去した後、権力を握るために500人以上もの国民を殺害したからです。選挙で選出してはいません。私たちは詐欺師のあなたを解任させます」ところで、私だけが、顔を知られていました。なぜか?間抜けは私だけだったからです。
そして、反撃が始まりました。家族は脅しを受け始めました。ある朝兄弟達に呼ばれました「聞きなさい。政府がお前を殺しにここに来た時、一緒に死にたくない家を出なさい」そこで家を出ました。以来彼らに怒っているので5年間音信不通です。
とにかく先に進みます。過去9年間私は他の国々が関心を高め、トーゴの人々が恐怖に打ち勝ち変革を要求することを支援するよう働きかけています。
私は公表できない多くの迫害を受けました。多くの精神的な脅し、虐待。でも、その話はしたくありません。なぜなら私の活動家としての使命は、トーゴの全国民を結集させることであり組織を作ることであり、私たちが権力を持ち私たちがリーダーで決定権を持っていることを国民に理解させることだからです。
そして、独裁者が国民を脅すために使う刑罰が、私たちが目的を達成するのを妨げてはなりません。
だから人々を怖気づかせるような報道をして圧政への従属を強化するのではなく
人々が結集するのを促すように活動家の話を報道することは、重要だと言ったのです。
活動家としての年月でたびたび耐えることができず、あきらめかけることがありました。ではなぜ続けたのでしょうか。理由のひとつをお話しします。私が覚えているのは、祖父の話。
祖父は独立を訴えるために自分の村から街まで750km歩きました。そして、父が払った犠牲。父は、政権に勇敢に抗議したため幾度となく拷問を受けました。
70年代、活動家は、独裁体制への注意を喚起するパンフレットを書きましたが、コピーを作るお金がなかったので毎回パンフレットを手書きで500回も複製し、配布しました。
その結果、軍隊は筆跡を覚え、それを発見したとたん。筆跡の持ち主を逮捕するまでになりました。
しかし、それと比べ現在、私たちにはブログがあります。同じ事を500回も写す必要はありません。ブログを投稿すれば何千もの人々が閲覧します。ところで、トーゴで私は「WhatsApp」ガールと呼ばれてます。いつも「WhatsApp」で政府を攻撃��ているからです。
ずっと簡単になりました。政府に対して怒っているとき、ただ怒りの一文を書き投稿すれば何千人もの人々がシェアします。でも、こんなに平静なことは殆どありません。いつも怒っています。
私たちの話を公表する必要性を話しました。なぜならこれまでに払われた犠牲について考えることで運動を続けてこられたからです「Faure、Must、Go」の初期活動の一つは、請願書を作成し、憲法が定める新しい選挙を要求する署名を国民から募ることでした。
人々は署名することを恐れました。トラブルに巻き込まれたくないと言いました。外国に居住する人でさえ恐れました「私たちには国に家族がいる」
しかし、ある60代の女性がいました。この方は活動のことを聞いて請願書を家に持ち帰り、その後1000以上もの署名を彼女ひとりで集めました。私はすごく刺激を受けました。この政権からは、もう得るものもない。
60歳の方が、私たち若者のために、ここまでできるのに若い私がやめられるでしょうか。抵抗の物語、反抗の物語、負けずにいることの物語こそが人々の参加を促すものであって虐待や殺人、痛みの物語ではありません。なぜなら人間としておびえるのは、自然なことだからです。
日本の自民党でも同様に・・・
独裁体制のいくつかの特徴についてお話ししたいと思います。自分自身の国を評価して、私たちに加わる覚悟が、必要かどうかがわかるでしょう。
第1に注意することは権力の集中です。
国家の権力が少数の人間や1人のエリートの手に集中していないか?
政治的または思想的なエリートの場合もあります。そして、力を誇示する独裁者です。なぜなら独裁者はいつもひどい���の中から救ってくれる救世主として登場するからです(日本では、マクロ経済学を根拠にしない小池百合子?小泉進次郎?ほかもろもろ)
第2の特徴はプロパガンダです。
独裁者はプロパガンダによって増長します。彼らは自分たちが救世主であり、彼ら抜きには、国が崩壊するという印象を与えようとします(日本のテレビ局も同じことをしています)
そして、彼らは常に外部の勢力と戦っています「キリスト教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、そして、ブードゥー教の呪い師が襲ってくる。共産党がやってきたら誰もが財産を失う(日本でもこの言い回しをテレビがよく使用します。あれっ独裁?)」このような感じです。
そして、私たちの大統領はとりわけ海賊と戦っています。
真面目に言ってるのです。昨年彼は海賊と戦うために1300万ドルの船舶を購入しました。一方60%の国民が、飢えに苦しんでいます。彼らは常に外部の悪者からは、守ってくれているのですね。
そして第3の特徴へと続きます。軍国化です(ウクライナ侵攻にかこつけて日本でも防衛費増やす。権力者を縛る憲法改正などとほざいています!危険ですね)
独裁者は恐怖を惹起することで生き延びます。そして、軍隊は、国家を守るためのものだと見せかけて実際には軍隊を使って反対意見を圧制します(日本は警察機構を使い庶民弱者に圧力をかけてきます)
また、政権の行い��対する責任から逃れるため、いろいろな社会機関を抑圧、破壊します。
あなたたちの国は、軍国化が進んでいますか?(ウクライナ侵攻にかこつけて日本でも防衛費増やす。権力者を縛る憲法改正などとほざいています!危険ですね)
そして、続く第4の特徴は、人間への残酷な行為です。
動物の場合なら虐待されていたら残虐行為だと言います。なぜなら国連が承認した動物の権利に関する憲章などないからです。そもそも、全ての動物は平等です。だから、憲章などないのです、だから、動物が虐待されるとき動物への残虐行為と言います。
しかし、これが人間の場合は、人権侵害と呼ばれます。全人類は人権を持っているとみなすからです。しかし、私たち一部の人間は、未だ人権を求めて戦っています。
このような状況では、「人権」侵害は語れません
ある国に住んでいて、大統領に不満がある場合に最悪の事態が大統領になる権利をはく奪されるだけならラッキーです。私の国に来て大統領に不満がある時、あなたは逃亡するかこの世から姿を消すかです。
トルコに逃げても捕まるでしょう。だから、私のような人間は、トーゴにはもはや住めません。私のような人間は、同じ場所に1ヶ月以上、住むことはできません。居所を突き止められるからです。
独裁体制の下で何をしても免責される状況で行われる残虐行為は、人間の想像を超えます(また、法人には、独占禁止法で優越的地位の乱用やカルテル行為を禁止しています)
殺害され遺体を海に遺棄された活動家の話や聴覚や視覚を失うほど拷問を受けた活動家の話は、私を苛みます。
活動家として時折、死ぬことよりもどのように死ぬかの方が心配になります(古代日本には新渡戸稲造が元にした「葉隠」と言う文献にも似たことが書いてあります)
時折ただ座ってあらゆるシナリオを想像します。彼らは何をするだろう?耳を最初に切られるだろうか?それとも、私はいつも侮辱しているから舌を切られるだろうか残酷に聞こえますが、これが真実です。
私達はひどい世界に住んでいます。
独裁者達は残酷な怪物です(戦前の日本は治安維持法という悪法で同じことを行いました)
率直に言ってるのです。
そして、これが最後の特徴です。リストは続きます。しかし、これが独裁体制について終わりに話したいことです。自分の国のリスクを顧みてください。現在あなた方が持っている自由を認識することは重要です。自分の命を投げ打った人がいて、あなたが自由を獲得したのです。
当然のものだとは思わないでください。しかし、同時に知っておかないといけません。
初めから圧政がしかれる運命の国などありません。同時に、圧政や独裁制の危険性が皆無の国や人々も存在しません。
ありがとうございます。
政治に関しては
日本の場合。
議院内閣制は、大統領制と並ぶ、議会と行政府との関係から議会と行政府(内閣)とが分立することで存在する政治制度
立法権を有する議会と行政権を有する行政府(内閣)が一応分立している18世紀から19世紀にかけてイギリスで王権と民権との拮抗関係の中で自然発生的に誕生。
その後、慣習として確立されるに至った制度で日本も採用している。
スウェーデンやドイツも同様だが日本独自の問題点はいまだに解消されていない。ドイツは共和国型。イギリス、スウェーデンと日本は立憲君主型。
日本での法律案は議員からでるものを議員提出法案。行政府(内閣)から出てくるものを行政府(内閣)案。主に官僚がすべてを司っている。
国会に上がる前には、各部会を通過して、委員会という場所で承認を得ないといけないが、過半数であるか?全会一致ルールか?は不明。本来は、全会一致ルールを原則にした方が良いかもしれない。
内閣総理大臣、大臣で構成される閣議などは全会一致ルールを原則としている。
この根本は、先駆的なスウェーデンの経済学者ヴィクセル、ブキャナン、タロックの「公共選択の理論」です。
ヴィクセルは、全員一致ルールが経済学の「パレート最適化」という効率的な状態を実現させることを見出したとされている。
ノーベル賞を受賞したロナルド・コースの「コースの定理」にも通じます。
さらに、国家によっても異なりますが、日本の国家システムを簡単に説明はできないが、あえて簡単に説明してみると・・・
世の中は不公平が当たり前?ここから出発しないと自由資本主義が成り立たない?お金は当然、強い法人に資本が集まり、弱い法人は傘下に入るか、合併して対抗するような欲に目のくらんだ弱肉強食な最低の世の中になっていく。
新自由主義と呼ばれます。
マルクスも資本論で論じています。現代では、「21世紀の資本論」を書いてるピケティかな?
マイケル・サンデル:なぜ、株式市場に市民生活を託すべきではないのか?
すると、ほんとうの弱いお店、市民生活にまで弱肉強食となり、世の中がおかしくなるので、行政府をつくり法律をつくり税金でとり、セーフティーネット。みんなに再分配する。
人間の限界を超えるような大規模な共同作業を行うために、マクロ経済学に沿った地道な毎年の世界経済の成長のため、ある程度は法人として貨幣の集中を行う方がいいのかもしれません。しかし、独占禁止法を軽視しているわけではありません。
法律は行政府、政治家が創るので、弱いものはされるがままなのか?というとそうでもなくて、選挙の一票がその分強い権利をもつようになる。これは誰もが平等に持てる権利。
日本国憲法で保障されている国民主権。インターネットのようにみんなの票が集まるとみんなのチカラが弱者に結集します。ジャンジャックルソー、カント、自由民主主義です。
ほんとうの弱いお店に役に立つ法律を作ってくれる一大政党をみんなの一票でクリエイティブにクリエイトしてかないと日本はヤバいな〜親亀が転ん��も平気な国になるよう祈ります。たぶん、こんなことは現実的には不可能でしょ。
実際は、国会という場で戦ってもらう議員を選ぶだけしか私たちにはできません。それは、議員でしか、法律を開発、変更、削除できない議員内閣制という法が運用されてるから!
つまり、議員は法律を創ることが仕事だからです。だから、きちんと法を開発→法案可決できる議員を選んだ方が良いです。善と悪は時代によって変わるもの!
選挙に通過したいだけの法案可決能力のない口先だけの議員は庶民が選挙で投票せずに間引びいていけば自動的に議員は良くなります。(個人別法案可決実績の履歴を公表してくれば可能かも!)
ですから、みんなで見極める目を養いましょう。それが結局自分のためになるのだから!権力に固執する人種が議員になる人だと前もって覚悟してればそんなに政治には失望しませんよ。
その前提で全住民がチェックすればいいのだから!
また、それには、競馬のパドックを見るように一頭一頭の法案可決能力を見極める必要があります。誰が一番、法案可決させたか?を!
でも、その多数のグループのきめた方向が、太平洋戦争の東條総理のようにドイツのヒットラーのように、間違っていたら?おそろしい未来がまってます。
過去の歴史では、ポピュリズムという、モデルのオンリーは失敗している現実があります。ハンナアーレントの書籍「全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism)」「イエルサレムのアイヒマン- 悪の陳腐さについての報告」にもあります。
昔は、マスメディアが情報を独占して弱者はされるがままでしたが、現代では、分散システムであるインターネットがあるので、みんなの票が集まるとみんなのチカラが弱者に結集します。
今は法案可決能力のない少数のグループでも良い法案を出してる所は将来を見込んで投票し議員を当選させて育ててみるということもおもしろいかもしれませんよ。
さらに良い議員がまったくいなければ、無名の人に投票することもおもしろいかもしれません一人一人よく考えて今、選択して投票しないと未来は・・・
政治家を見極める目が必要です。
最後に、政治にはまったく興味はありません。テクノロジーに興味が有ります。
マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教���書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
<おすすめサイト>
���ルヘ・ラモス: なぜ?ジャーナリストには警察権力に挑む義務があるか!
毎年4 月 2 日は、国際ファクトチェックデー。
エピソード9 Episode9 - 各宗教と政治のチェックと指標について「パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon」
ジャミラ・ラキーブ:実効性のある非暴力抵抗運動の秘訣
警察比例の原則 - Wikipedia
ダンビザ・モヨ:経済成長の行き詰まりを打破するには
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
個人賃金→年収保障、ベーシックインカムは、労働市場に対する破壊的イノベーションということ?2022(人間の限界を遥かに超えることが前提条件)
世界の通貨供給量は、幸福の最低ライン人間ひとりで年収6万ドルに到達しているのか?2017
<提供>
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性の権利宣言
LGBTqの権利が叫ばれて久しいこの頃ですが、その一方で性的な表現に対する規制が厳しくなったり、抑圧的になったりしているように思えます。
もちろん、退廃にすぎる・・・たとえば不衛生な性行為や性奴隷としての人身売買などを全面的に肯定することはできませんが、性的な言動を控えるあまりまともに話し合うこともできないのでは性的搾取を防ぐどころか逆効果になるでしょう。
その点、世界性的健康協会が1999年に採択した「性の権利宣言」は自由主義的でありながら搾取や抑圧をみとめない姿勢であり、バランスの良いものと言えると思います。
積極的に性を楽しむ権利や性的表現の自由を認める一方で強制や搾取を厳しく禁じる。こういうバランスの立場は意外と少ないのが現状ではないでしょうか?
さくらの党(party of sacra)は性の問題については基本的にこの「性の権利宣言」に沿って考えます。
日本語訳(機械翻訳)
1.平等および無差別の権利
誰もが、人種、民族、肌の色、性別、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国家的または社会的出身地、居住地、財産、出生、障害、年齢、国籍、婚姻および家族の状況、性的指向、性自認および性表現、健康状態、経済的および社会的状況、その他の地位などのいかなる種類の区別もなしに、この宣言に定められたすべての性的権利を享受する権利を有します。
2.個人の生命、自由、安全に対する権利
誰もが生命、自由、安全に対する権利を有しており、セクシュアリティに関連した理由で恣意的に脅かされたり、制限されたり、剥奪されたりすることはありません。これらには、性的指向、合意に基づく性的行動と実践、性自認と性表現、あるいは性と生殖に関する健康に関するサービスへのアクセスや提供が含まれます。
3.自律性と身体的完全性の権利
誰もが自分のセクシュアリティと身体に関連する事項を管理し、自由に決定する権利を有します。これには、他者の権利を考慮した性的行動、性行為、パートナー、関係の選択が含まれます。情報に基づいた自由な意思決定には、性関連の検査、介入、治療、手術、研究の前に、自由で十分な情報に基づいた同意が必要です。
4.拷問および残虐、非人道的、または品位を傷つける扱い���刑罰から自由になる権利
すべての人は、以下(強制的な不妊手術、避妊、または中絶。誰かの性別、性別、性的指向、性同一性と表現、身体の多様性に関連する理由で行われるその他の形態の拷問、残虐、非人道的、または品位を傷つける扱い)を含む性的指向に関連した拷問および残虐、非人道的、または品位を傷つける扱いや刑罰から解放されるものとします。
5.あらゆる形態の暴力と強制から自由になる権利
誰もが、強姦、性的虐待、セクハラ、いじめ、性的搾取と奴隷制度、性的搾取を目的とした人身売買、処女検査を含むセクシュアリティに関連した暴力、実際の性行為またはそう認識されている性行為・性的指向・性同一性と性表現・身体の多様性を理由に行われる暴力と強制から自由になるものとします。 。
6.プライバシーの権利
誰もが、恣意的な干渉や侵入を受けることなく、セクシュアリティ、性生活、自分の身体、合意に基づいた性的関係や性行為に関する選択に関するプライバシーの権利を有します。これには、セクシュアリティ関連の個人情報の他者への開示を制御する権利が含まれます。
7.楽しく、満足のいく、安全な性的体験の可能性を伴う、性的健康を含む、達成可能な最高レベルの健康に対する権利
誰もが、楽しい性的体験の可能性を含め、性に関して達成可能な最高レベルの健康と幸福に対する権利を有します。 、満足のいく、安全な性体験。これには、質の高い医療サービスの利用可能性、アクセスしやすさ、受け入れやすさ、および性的健康を含む健康に影響を与え決定する条件へのアクセスが必要です。
8.科学の進歩とその応用の恩恵を享受する権利
誰もが、セクシュアリティと性的健康に関して科学の進歩とその応用の恩恵を享受する権利を有します。
9.情報への権利
誰もが、多様な情報源を通じて、セクシュアリティ、性的健康、性的権利に関する科学的に正確で理解可能な情報にアクセスできるものとします。このような情報は、恣意的に検閲されたり、差し止められたり、意図的に誤って伝えられたりしてはなりません。
10.包括的な性教育を受ける権利
誰もが教育と包括的な性教育を受ける権利を持っています。包括的な性教育は、年齢に適したもので、科学的に正確で、文化的に適切であり、人権、男女平等、性と喜びへの積極的なアプローチに基づいたものでなければなりません。
11.平等と完全かつ自由な同意に基づいて、結婚およびその他の同様の種類の関係を締結、形成、解消する権利
すべての人が、結婚するかどうかを選択し、完全かつ自由な同意を得て自由に結婚やパートナーシップを締結する権利を有します。または他の同様の関係。すべての人は、いかなる種類の差別や排除もなく、結婚、パートナーシップ、およびその他の同様の関係を締結するとき、その最中、およびその解消時に、平等な権利を有する。この権利には、そのような関係の形態に関係なく、社会福祉およびその他の利益に対する平等な権利が含まれます。
12.子どもを持つかどうか、子どもの数と間隔を決定する権利、およびそのための情報と手段を持つ権利
すべての人が、子どもを持つかどうか、子どもの数と間隔を決定する権利を有します。この権利を行使するには、妊娠、避妊、生殖能力、妊娠中絶、養子縁組に関連する性と生殖に関する保健サービスを含む、健康と福祉に影響を与え決定する条件へのアクセスが必要です。
13.思想、意見、表現の自由の権利
誰もがセクシュアリティに関する思想、意見、表現の自由の権利を有し、他人の権利の尊重するという正当な条件のもと、例えば外見、コミュニケーション、行動などを通じて自分のセクシュアリティを表現する権利を有する。。
14.結社の自由と平和的集会の権利
誰もが、セクシュアリティ、性的健康、性的権利について平和的に組織、結社、集会、デモを行い、主張する権利を有します。
15.公共的および政治的生活への参加の権利
すべての人は、地方、国家における市民生活、経済的、社会的、文化的、政治的およびその他の人間生活��側面への積極的、自由かつ有意義な参加および貢献を可能にする環境を得る権利を有する。 、地域レベル、国際レベル。特に、すべての人は、セクシュアリティや性的健康を含む自らの福祉を決定する政策の策定と実施に参加する権利を有します。
16.裁判、救済、救済を受ける権利
誰もが、性的権利の侵害に対して裁判、救済、救済を受ける権利を有します。これには、効果的、適切、アクセス可能かつ適切な教育、立法、司法、その他の措置が必要です。救済には、原状回復、補償、リハビリテーション、満足、再発防止の保証による救済が含まれます。
投稿日 2023/11/05
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ある画家の手記if.84 前編 雪村絢視点 告白
香澄と情香さんと俺で朝食作って食べて騒いで、情香さんは運転してくれた車で香澄を図書館近くにおろした。でかくてゴツい黒のベンツ。かっけー。
この人の方から接触してくるとか何も考えてなかった。 情香さんが来たときの香澄の反応からしてしょっちゅうあんな風に来るのが日常ってわけではなさそうだ。でも香澄は信頼してる人。タイミング的に直にぃがこの人を頼った、ってことなんだろうけど、じゃあ俺のことはどこまでバレちゃってんのかな、とか。 とりあえず俺はただ「雪村絢」に徹した。この段階ですでに色々バレそうだけど、もう俺は他に名乗る名前は持ってないし。 「どこまで送る?」 運転席から声かけられて、少し迷う。 「情香さんはこのあとどうするの?」 「私は食材の買い出しでも行くかな」 「え、それイヤミ?俺のクレイジーな胃袋への攻撃?」 「まぁそんなとこ。」 おかしそうにクスクス笑いながら運転を続ける、この人の笑い方には嫌な裏とか暗いニュアンスが一ミリもない。接してて、言葉や態度から真意を探ろうって気にならない。多分真意のままに行動してる、ってことかな。 真澄さんからもらったデータ見て顔は知ってたし、直にぃの近状を桜子さんに電話してきてたのもこの人だから、存在自体には一方的に馴染みがあった。 でも実際会ってみたら俺よりずっと背は低くて、美人だけど威圧感とかもなくて、てか美人って自覚なさそうだな、直にぃとなんで結婚したんだろ。…いいほうか、悪いほうか。 「まぁ買い出しはすぐじゃなくてもいいとして、私はここに来る前に直人から事前に少し話を聞いてきた。もし絢が嫌じゃないなら事情のすり合わせをしようか」 いきなり本題きた。 「…すり合わせ?聞いてきた話ってなに?」 例えばこの人がデータ通り危険人物だったら、車に乗ってる今の時点で俺はアウトだ、このまま名廊の家に護送されちゃう可能性だってある。…そうじゃない、って俺の勘が言うから敢えて乗った。 情香さんはバックミラー越しに俺に視線を送りながら言う。 「すり合わせってのは、私が一方的にお前の事情を知ってるのが据わりごこち悪りぃなってだけだ。絢が必要を感じないなら特になにも聞かないよ。ただーーー」 車が赤信号で停まったタイミングに合わせて、静かな車内に響く、優しいけどトーンの落ちた声。 「ーーーここから先は帰ってからだ。話さないならそれでいい。ただここで今はこれ以上話せない。一度直人んちに帰るぞ。それでいいか」 「……わかった」
俺の返事を聞くや否や情香さんは少し車を飛ばし気味で直にぃの家へ帰った。 着いたらソッコーで風呂場に連れてかれたと思ったら「服ぜんぶ脱いで帽子もとってアクセがあるなら外してバスタブん中にまとめて放り込んでバスタブの蓋閉めてからリビングにこい」って言われて、俺がまったく意味を理解できずにぽかんとしてたら、直にぃのパジャマを投げて渡された。慌ててキャッチして受けとる。 「下着も脱げ、身に付けるものはそれだけにしろよ。私はリビングでコーヒーでもいれて待ってるからゆっくりでいいぞ」 俺はなるべく状況を整理しようとしたけど、ダメだった、まったくなにもわからない……つまり俺の知らない予測もできない情報をもとに情香さんは動いてる。それを知るまで一旦従うしかない。 危害を加えられることは…… もしそうなっても女性だし、小柄だし、俺のこの脚でも逃げられるかも。 着替えてリビングに行ったら、「ちょっとごめんな」って言ってなぜか髪とか歯とか耳とかチェックするみたいに見られた。謎だらけだ。でも、この行動は…… 情香さんは一通り見て納得したのか、ソファにどさっと腰掛けてから俺にも座るように言った。 「筆談で会話しても良かったんだろうけど、声色や息遣いも聞かないと五感が鈍る、私の事情でふりまわして悪かったよ」 「……なんか俺、疑われてる?」 情香さんは俺にもコーヒーマグを渡しながら、落ち着いた口調で続けた。 「単刀直入にいく。暴力を振るわれてたり口止めされて喋れないことがあるか?」 「……。」 …は!? ……いや。筋は…通った。たぶん盗聴器を疑われてたんだ。それで…。…この人は、誰を危険だと睨んでる? 「…俺の…どこから、そう思ったの?」 「お前の苗字が引っかかった。場合によっちゃお前ごと疑ったほうがいいのかとも思ったけど、接してる限りお前は香澄のことをよく考えて動いてる。…まあ実際どうかはおいといて私にはそう見えたよ。直人から聞いたことも踏まえて、お前と少し話がしたかった、別居を言い出したのがお前だって直人が言うからさ。お前の考えだってんなら慧眼だ。ただ背後に私の予想する人間がついてんなら、そいつは手段を選ばない。だから警戒した。そういうこと。」 「………」 真澄さんだったのか、疑われてたのは。 確かによく知らない人からすれば、そういう印象にもなるかもしれない。俺は助けられる形で戸籍をなくしてもらったけど、それだってどんな風にでも悪用しようと思えばできるだろうし、人に好印象を与えるような言動を真澄さんは省くから。 …今の質問、真意は何だ? 俺が暴力振るわれてて口封じされてたら、この人に…情香さんにどういう影響や損害がある…? どこから聞くのが、一番近道だ? 危険かどうか、敵か味方か、なにを考えてるか、どこまで信頼できるか、直にぃや香澄への個人的な感情は、判断能力は、常識はあるか、その上で柔軟性はあるか……色々、ここまででも十分わかるような気もしたけど…本人と話せるんなら、本人に聞きたい。 「情香さんは、どうして直にぃと結婚したの」 これかな。近道。 そしたら情香さんはソファに座って足を組んだまま、ソファの背にゆったり腕をもたせかけてにこっと笑った。 「絢がどういう答えを期待してるのかをまず聞こうか」 ……敵じゃない、と思う、たぶん。でもつい考える、これは敵にしたくない人だ。試すような聞き方は試し返されて終わる。その分俺がこの人の中で信用を落としていくだけだ。本音でいくしかない。 「…情香さんが、直にぃから聞いて、俺と話したかったことって、なに?」
そこから始まって、情香さんはさっきと同じ、一方的に俺の個人情報を知ってるのは気分が悪い、って爽やかな口調で語り始めた。 俺がもとは名廊絢人だったこと。直にぃとの簡単な関係。香澄に助けられてここにいること。名前が変わってることを直にぃは知らないんじゃないか、って。直にぃの前では俺がそのへんふんわりぼかしたからな。 それから情香さんは、結婚した理由を、まず最初に「直人のことを愛してるからだ」って、はっきり言った。 そのあとに続いたのは、俺が想像してたより、ずっと暗くて根深い、俺の知らない直にぃの話だった。 情香さんは今より若い頃に荒んだ地域のバーでバーテンダーの仕事をしてた。そこにたまに来る客に直にぃがいて、情香さんは二、三度だけ直にぃと短いやりとりをした。知り合いになったともいえない程度の。 そして仕事からの帰り道に、名廊直人から襲われた。 夜の野外、全身傷だらけで情香さんは帰宅して、アフターピルを使ったけど結局中絶手術をしたらしい。それらを情香さんは誰にも口外せず、事件にもしなかった。 名廊直人は、刑務所に服役したりなにか法的な罰則を与えることでは変わらないし適切な罪の意識を持てない、情香さんいわく名廊直人本人の中にずっとそんな罪とも負い目ともつかない意識があり続けるせいではっきりした犯罪行為への意識との境界線が曖昧で、そういう公的な手段での裁きをとるとむしろそれだけで済んでしまう最もよくない危ない人間、なら愛情を育む関係を築いてその中で情香さんへの個人的な感情として名廊直人に深く反省や後悔を抱くよう促すしかない、そうできたのは自分も当時から名廊直人を愛していたのかもしれないし復讐心から始まったことだったかもしれないしそうであれば私刑��てことになる、あるいは独善的な正義感や欺瞞にまみれていたかもしれない、でも当初と今では違うし、そうやって一生自分がついてることで償わせながら何度も取り返しのつかないことを繰り返す直にぃを愛してきたんだ、と。
「ーーーざっと馴れ初めはこんなかんじか。省略しすぎて私のほうがイかれてるように聞こえたかもな」 あっさりとした顔で笑みさえ湛えて話し終えた情香さんは、「それでも」と続けた。 「私は結局直人にたいしたことはできなかった。あいつを変えたのは香澄だよ。ただ香澄は香澄でまた少し厄介な子だから家族になってよかったと思ってる」 「厄介な子?」 情香さんはここで少し難しい顔をして言った。 「私には私の生活があるから香澄ともまだそれほど深く関われてはないよ、引っかかるだけだ。どう言い表すか… 個人として尊重される気がないとでもいえばいいのか……」 ーーーすごい人だ。この人の力を借りられれば、香澄も直にぃも、どうにかなるかも。 充分信頼に足る。愛情深くて優しい、モラルもあるけど必要に応じてそれを捨てることもできる、既存の価値観に縛られずに自由に動けて身軽で、俺みたいな少し怪しい人間とも腹を割ってすぐに話せる、でも必要な警戒は怠らない、法的な手段も目的のためにうまく応用する。その上、直にぃや香澄に自分の全人生を捧げるつもりはない。…すごい人だ。 じっと情香さんの顔を見てたら「クレイジーな話の後のわりには目が輝いてんな」って笑われた。 「余計な話だったなら悪い、でも世間からすりゃ結構おかしな家庭にうつるだろうと思ってさ。結婚したまま不仲なわけでもなく別居し続けて、避妊しながら養子迎えて、夫と息子は複雑な関係だ。順当に考えたら、内心で一番よくない感情を抱いたり溜め込んだりしてそうなのはこの私に見えるんじゃないかと思ってな」 「……。」 俺も少し思った。直にぃは結婚してて、それで香澄と愛し合ってて、…なら奥さんはどういう心境なのか。……桜子さんが夫の雅人さんに最後に選ばれなかったことをずっとどこかで屈辱的に…もっと複雑な気持ちか…を、抱き続けて、心を病まないようにするので必死みたいだったから。でも情香さんははじまりからしてそうはならない、と。 …今の話は情報開示してくれただけじゃなくて俺への気遣いも含まってたんだ。 この人は、名廊家との繋がりもほぼないし、…大丈夫なんじゃないか。 味方になってくれたら 「……情香さんを、信用して 俺も話したいことがある。直にぃは知らないし、この先もなるべく知られない方が、いいようなこと」 情香さんは一度頷いて、ソファに座りなおして少し前傾姿勢になって、両腕を膝の上に立てて口元のところで両手を組んだ。大きな目が話に入り込むために眇められる。…直にぃが集中して話聞くときと同じ姿勢だけど…無意識かな。
情香さんと話し込んでたら夕方近くになった。 ほとんど全部の事情を話したら、俺の脚とかをすごく心配してくれた。それで��身辺が落ち着いたらでいいから、自分だけで判断せずにちゃんと病院にかかれ」って言ってくれた。 それで帰りも車で送ってくれて、俺が何も言わなくても安全を考えてくれたのか真澄さんちから三つくらい手前の駅のターミナルに降ろしてくれた。 俺が車から降りたら「そいつと話しがしたい。会うのはリスキーだろうけどなるべく会って話したい。一応そう伝えてくれるか」って伝言頼まれた。真澄さんに。
駅の中のカフェに入って、ドリップコーヒーだけ頼んで、今日はもう帰るか、どうするかぼんやり考える。それに ーーーー直人が杖ついてるところを見たことあるか 「………。」 なかった。直にぃの部屋に入ったときは杖は死角になってて俺の目に入らなかったのかな。 自業自得って情香さんは言ってたけど、情香さんが真澄さんを警戒してた理由もこの話でやっとわかった。ことが起きたのはちょうど今から一年前くらいらしい。真澄さんの行動は真澄さんに聞けばいい、情香さんもそのつもりなんだろう。あのエピソードでいま焦点を当てるなら、直にぃの行動だ。 感情任せで窓ガラスを、ーーー17階だから強風だってあるしそんなにヤワな作りのガラスじゃなかった、それを叩き割った。腕にガラス片を刺したまま病院にかかるより香澄のもとへ急いだ。それで後遺症が半身に残った。 知らなかった。俺が直にぃに会ったときは屋内で、いつも普通に過ごしてたし。 たった一年だけど、直にぃもかなり変わった、って見ていいんだと思う。情香さんもそんなこと言ってたか。 …ひとは、変わる。…俺のしようとしてることは……… そこでふと、カフェの一番奥の席に目がいって、思わずその人を凝視した。 座っている一人掛けのソファの背にコートをかけて、ゆるゆるして着古したみたいな少しほつれた薄手のニットを着てる。下は褪せた色のデニム。日に焼けて傷んだみたいな癖のある髪が、目元を薄く覆い隠してる。 口元は静かに笑ってて向かいの人となにか話してるけど、目元は優しく笑んでるような無表情みたいな、髪で眉が見えないから表情の変化が読みづらい。 優しそうな…印象だ、けど 「……。」 そっと手元のマグを見てコーヒーの残りを飲み始めた。今あわてて席を立ったら少し目立つ。 真澄さんのデータの中で俺が一番気になった人だ、でも その人には目を向けないでただぼんやり窓の外眺めてコーヒーを飲んでるふりをした。少し間を置いたらすぐに席を立とう。 そう思ってたのに、連れの人を置いてその人はおもむろにソファから一人立ち上がった。まさかと思ってたら俺の座ってる真ん前までゆっくり歩み寄ってきて、俺の前の小さなテーブルの横に立ったままトンと指先だけ触れた。 見下ろされて、俺は視線だけ上げる。しっかり目があった。 その人はうっすらと口元だけで笑って俺に言った。 「俺になにか話しがあるのかと思ったんだが」 「…?」 意味わかんないって少し怪訝そうな、あやしいものでも見るみたいな目つきしてみた。 「���ったなら悪かった。ーーー学、そろそろ帰るぞ」 その人は俺から視線を外して、ソファの席に置いてけぼりにしてた連れの人のほうを見て呼びかけた。 コーヒーの残りを捨ててコートを着ながら連れの人が寄ってきてその人に聞く。 「稔さん、スカウト?」 「いや、ただの俺の勘違いだ」 その人は店を出るために自分も受け取ったコートに袖を通しながら、俺の横を通り過ぎてカフェから出ていく。通り過ぎざまに顔も見ずに言われた。 「カフェでコーヒーを飲むふりなんて目立つ挙動をした君も君だぞ」 「ーーーー。」 しばらくその場で外見てるふりして固まってた。 ………こっっっわ 何あれ どういうことだよ 心臓に悪りー たしかに凝視したけどほんの数秒だしあの人はこっち向いてすらなくて横顔だったんだけど ていうかコーヒー飲んでるのと飲んでるふりを一瞬したのとなんで見分けつくの? 俺は仕草で慌てたりしてないし、動作に何も違いなくない? 仕組みは知らないけどズバズバ言い当てる誠人さんと似たような何かとか? ますます怖い やっぱダメだ 危なすぎる スルーでき…たのかあやしいけど、情香さんみたいに話し込まなくて正解 任意同行っていうからよっぽど考えなしか頭悪い人かと思ってたけど、さらになんかよく分かんなくなった 直にぃはあの人といて平気だったのか? ………。 任意同行 直にぃの荒んだ時期 情香さんへの暴行 …関係…あるのかな 情香さんにあの人のことも聞いてみようかな
その日は一泊した後なのもあって、だいぶ疲れが溜まってたのか、やっぱり真澄さんちに帰ってから少し熱出した。
後編に続く
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爆破事件を引き起こした新左翼過激派のメンバー、桐島聡さんが、約50年の逃亡・潜伏生活の果てに搬送先の病院で70歳の生涯を閉じたニュース、界隈では衝撃をもって迎えられました。「えっ、生きていたどころか、50年近くも国内で潜伏して普通に暮らしてたの?」という。 桐島さんへの直接の嫌疑では死亡事件の直接の関与はないものの、所属していた「東アジア反日武装戦線」では連続企業爆破事件の容疑者の一人として全国に指名手配され、やらかしたテロの重さとは似つかわしくない穏やかな笑顔と黒縁眼鏡の風貌が多くの日本人の印象に残っていることでしょう。 経済的厳しさと逮捕の恐怖の中で そして、末期の胃がんで死期を悟った桐島聡さんが、搬送先の鎌倉市の病院で「私が桐島聡です」と自供したため、足取りを掴めていなかった公安当局も唖然とするような展開となったのであります。というのも、桐島聡さんの所属先からは「海外逃亡している」という有力な情報がすでにあったことから、素直に国内にいないものと考えていたところ、まさかのご近���神奈川県藤沢市の工務店に少なくとも二十数年以上勤務していたことが分かって当局大失態であります。下手すると、44年いたことになります。なんだそれは。 すでに周辺取材を済ませた報道は多数ありますが、住んでいたアパートは工務店によって法人契約で社宅扱いで借り上げられていたと見られ、また、近所の繁華街に1人で頻繁に出没しては飲んだり歌ったりと享楽的で明るい一面を持っていたようです。他方で、長年住んでいたアパートに移り住むまでに騒音問題なども起こす一方、周辺賃料の相場で見ると風呂・トイレ無しの古い6畳弱のアパートの家賃は月額3万5000円から4万円ほど。当該市からは生活保護世帯の住宅扶助支給物件とされていたことから考えると、金銭的にはかなり厳しい生活を長年に渡って送っていたものと見られます。 指名手配をされ潜伏生活を強いられてまともな仕事を得ることができない桐島聡さんは、自称「内田洋(ウチダヒロシ)」として、いつ逮捕されるか分からない恐怖に怯えながらなかなかしんどい人生を送らなければならなかったのではないかとも思います。 他方、鹿島建設爆破事件(1974年)などのテロ事件の共謀・実行の事案で見るならば、当時21歳の若者に過ぎなかった桐島聡さんが果たした役割は限定的であることを鑑みて逮捕起訴されたとしても実刑15年程度で出てこられたのではないかとも見られています。 そもそもが、戦争中に日本に強制連行された中国人が悲惨な労働環境に耐えかねて蜂起し400人以上が亡くなった花岡事件(1945年)を理由に鹿島建設への爆破を仕掛けたことが背景にありますが、他の事件も含めて桐島聡さんが起こした事故で直接亡くなった方はおられません。そうであるならば、30代後半にはシャバに出られて一般の国民として暮らしていけたはずの桐島聡さんからすれば、人生の最後まで不自由であまり裕福ではない暮らしを強いられてきたのは結果的に相応の罰を「セルフ終身刑」的な形で受けたことにもなります。 組織の支援や手引きはなかった可能性 さらに、桐島聡さんが勤務していた工務店関係者によれば、働いていたウチダヒロシさんがテロリストとして指名手配されている問題人物であったとは20年以上仕事をしていながらまったく気づいていなかったとのことで、犯行に関わる話を聞いたことも、疑わしい人物と頻繁に接触している雰囲気もなかったとのことでした。ほんまかいな。これから勤務していた工務店周りや、仕事の出先については当局も追加で状況確認的な捜査は行うでしょうから、新たな事実関係が出てくる可能性はあります。 正直、当局としては完全なる出し抜かれ、大失態という評価でもあるため、無理矢理でもなんらか工務店の容疑をでっち上げて起訴でもしようとするんじゃないかと心配になる面もあります。 ただ、現状では桐島聡さんの逃亡・潜伏生活において、過去��事件に直接関係した組織による支援や手引はこれといって無かった可能性が強いと見られます。つまり、本人も反省してか分かりませんが組織から足を洗い、接触を断ってしまっていたからこそ、警察も藤沢市周辺に桐島聡さんが潜伏しているという情報の入手ができなかった可能性が高いのです。 この工務店(というか、人足屋的な仕事がメインだったようですが)を起用した土木系のジョイントベンチャー(JV)を担当した二次請け建設会社によれば、2015年ごろに行った工事の作業員名簿に確かに「ウチダヒロシ」と思われる人物がいることが分かっています。ただし、一般的にこれらの工事に直接携わる作業員については、昨今は従事者全員の氏名を明記したうえで担当事業者ごとに土木工事保険や請負業者賠償責任保険、労働災害総合保険に加入することが義務付けられています。そうなると、偽名で架空の従業員を工務店が「昔から働いてくれていた、訳アリだけど明るいおっちゃん」として置いておくことは、未必の故意で犯人隠匿に協力したとも扱われかねません。 「謎スマホ」を使っていた? また、日雇いの現場においては、私ども産業廃棄物業界も特に気にしていることですが、身元不詳の人物が求職にやってくることも少なくありません。しかし、突発で多くの人員を要するような作業では現場長の独断で「よく分かんねえ奴だけどまあいいか」となりやすいのもまた事実と言えます。本当に訳の分からない奴だとスマホもまともに持っておらず、招集もかけられません。日雇いで稼いでいる人ほど、いまや仕事を得るツールであるスマホは文字通り生命線です。 ネット回線はコンビニの駐車場や駅周辺に流れてくる野良Wi-Fiでいいので、変な人はどこからどう入手したか不明なだいたい謎スマホか謎ガラケを持ってるんすよね。 で、桐島聡さんの場合は、少なくともある時期までは勤務先の工務店から謎スマホを支給されていたようですが、入院のタイミングでは携帯電話を持っていなかったと報じられています。どういうことなのでしょう。招集がかかってスマホで点呼に応じてる割に、個人で偽造の健康保険証も持っていなかったことが分かっておりますから、おそらく親切な人が社業で使う用に貸与していたのではないかと思います。 無保険逃亡生活の悲しき末路 さて、今回当局対応で浮き彫りになったもう一つの問題は、どうも桐島聡さんは今回救急搬送される1年前、体調に不安があった際に、自費治療で検査し、胃がんを患っていることまでは分かっていたようだという点です。セルフ終身刑なのかなと思う理由として、おそらく経済的に厳しい生活を送ると同時に、胃がんが分かっても保険治療を受けることができない状況で悲観したまま、1年ほど、末期がんとして路上に倒れて運び込まれるまで悪化してしまったという点です。 想像として考え得るのは、犯罪を犯して逃亡生活を送ってきたけれど、酒と音楽で享楽的な日々を送りながらついに身体の異変を知り、しかし治療も受けられず、徐々に悪化して働けなくなっていく中でウチダヒロシではなく桐島聡として人生来し方(こしかた)を思い返して取り返しのつかない犯罪を犯したこと、そしてもうどうにもならないことを思い悩むこともあったのではないかと思います。また、胃がんで搬送されて1週間で亡くなるほど悪化していたとするならば、悶絶するほどの疼痛がたびたび桐島聡さんを襲っていたことは想像に難くありません。 末期がんの人を雇用した経験がひとかたならずありますが、正直、末期の人は働けないほどしんどい状況になります。桐島聡さんは、働けなくなった半年か一年かぐらいは、どうやって食いつないでいたのでしょう。 結果的に、同僚に付き添われて藤沢市ではなく鎌倉市の、病院のポリシーとして困った人は必ず受け入れるという理念を掲げている総合病院に救急搬送されて入院しています。当然担ぎ込まれて入院した当初は健康保険証の提示もされておらず無保険です。が、本人は末期がんで精神混濁の状態ですから、医療行政的にも本人確認義務は身寄りか勤務先、これが無理なら居住しているアパートの大家(所有者)に生じます。少なくとも、元の組織からの支援もなく逃亡していたことを考えると、ほとんどの逃亡期間は無保険であったことはもちろん、身分証明できるものは何一つ持っていなかったことになります。 医療行政の観点からするならば、身元不明者の入院においては、本人確認がむつかしい場合は行旅病人及行旅死亡人取扱法という古い法律に基づいて、病院が所在する自治体で仮の戸籍を発行して本人の意思が回復するまで治療費や入院費を代位弁済することになります。 行旅病人及行旅死亡人取扱法 https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=132AC0000000093_20230616_505AC00000000 親族はDNA判定を拒否 ところが、病院が応召義務を拒否できる理由について、例えば暴力団排除条例(暴排条例)で反社会的勢力の皆さんの診療を断ることはあっても、合理的な理由で「テロリストとして指名手配されていたから」というのは含まれていません。認知症で正常な意思疎通に問題があるケースなどは頻出する一方で、非常にレアケースだと思うのですが末期がんで担ぎ込まれてきた人がテロリストの桐島聡ですと病院関係者に自供されてもみんな困惑しただろうなあというのは胸に来るものがあります。あんまりないよねそういうの。 結果的に、桐島聡ですと自供したにもかかわらず、本人確認のためのDNA鑑定は桐島聡さんの親族から拒否されたようですので、彼はあくまで「自称・桐島」としてその生涯を閉じ、長い時間の裏付け捜査を当局の宿題として残し幕を下ろすことになります。 「他人ごとではない」身分保証の問題 今後、この手の話が医療行政で問題視されることが増えるだろうと思うのは、テロリストが救急に担ぎ込まれてみんな呆然とすることではなく、身元不詳の独居老人が救急で運ばれてくることが増えることです。そうなれば、行政手続き上、類似の事案がどんどん出てきたとき自治体と受け入れ病院側で負担が増えていくでしょう。 今回の事件で医療方面がかなりザワザワしているのも、言われてみればそういうことも起きる世の中になるよなという認識が持たれたからに他なりません。 確かに桐島聡さんは行きがかり上、若かりし頃のやらかしで悲惨な事件を起こした責任を自ら背負う形で厳しい人生を送りましたが、特段犯罪を犯したわけでもないのにまともな生活を送ることができず生涯独身のまま孤独な死を迎える日本人にとっては他人事ではないぞということです。 そして、マイナンバーカードによる健康保険証(マイナ保険証)の是非も出てくるかと思うのですが、これは紙の保険証を桐島聡さんが使ったのではないかと問題視するのではなく、まっとうに暮らす国民として偽造されることの少ない身元保証の仕組みがしっかりあることでこのような問題から自分の身を守ることができる、というのは大事なことです。 駆けつけた捜査員には「後悔している」と供述していたらしい桐島聡さんの魂に平穏あれかしと祈りたく思いますが、事件を起こした後、組織とほとんど接触することなく新たな事件を起こさず静かに人生の幕を閉じたのであれば、私たちは彼の生きた歴史から何を学ぶべきなのでしょうか。
逃亡者・桐島聡「セルフ終身刑」問題と関係当局大反省会《私たちは彼の生きた証から何を学ぶべきなのか》 | 文春オンライン
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韓国の反オリンピック運動団体「平昌オリンピック反対連帯」の皆さんが、北京五輪開幕の2月4日に「オリンピックを廃止せよ」という声明を出しました。以下、日本語訳を掲載します。
オリンピックを廃止せよ
2022年2月4日
平昌オリンピック反対連帯
平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックが開催された2018年は、1988ソウルオリンピック30周年の年にあたる。オリンピック開催地の中でも有数の大規模開発事業と強制撤去が行われたソウルでは、1986年のアジア大会と1988年のオリンピックの準備期間に、72万人以上が生活基盤を失った。1986年には、警察、建設会社、暴力団(直訳:用役チンピラ/政府や開発事業側に雇われて直接排除・撤去を実行する人々)が一体となった開発事業の嵐の中で、1986年には上渓洞(サンゲドン)だけでも6人の住民が死亡した。「オリンピックなどに備えて、観光客に清潔な印象を与え、国民の不快感を取り除くため」中央政府が積極的に行った「社会浄化」活動の結果、1万6000人以上が正当な手続きもなく恣意的に拘束され、全国36の施設に強制収容された。中でも最大規模の「兄弟福祉園」で行われた無賃の強制労働、虐待、暴行が明るみになり、捜査と裁判が行われた。しかし、この事件で処罰された者は今に至るまで一人もいない。オリンピックによる抑圧は、オリンピックが開幕した瞬間から、一気に消え去った。主催者側は、オリンピックによって「民主主義と和合」が実現したというプロパガンダを一気に広めた。2018年、各機関はソウルオリンピックを肯定的に振り返るための様々な記念事業を実施した。実際に起こったオリンピック災害は「付随的な問題点」として形ばかりの言及がされただけだった。依然として多くの人は「88オリンピック」という言葉を通じて、やすやすと楽しく心躍るイメージを浮かべる。オリンピックで利益を受けた者たちが長い間、声高にその過ちを隠蔽するプロパガンダを行ってきた一方で、オリンピック災害で苦しんだ者たちの声はかき消されてきた。平昌オリンピックもまた、幕開けの瞬間から今に至るまで、オリンピック災害を隠蔽するための記念事業に最大の努力を注ぎ続けている。オリンピック期間中、私たちが平昌、旌善(チョンソン)、江陵(カンヌン)で目撃したのは、放送を通じて届けられる華やかな祭りとはほど遠いものだったが、オリンピック災害の実態に関心を向ける人は少なかった。現在、オリンピック・レガシーを継承するために進められている多くのプロジェクトのうち相当数は、平昌オリンピックに肯定的な評価を残すこと自体を目的としている。
パンデミックの中で、一度延期された東京夏季オリンピック。翌年に強行開催された日本で起きていることは、私たちの既視感を呼び覚ます。新型感染症の蔓延で医療体制や社会が危機に瀕している中で、何よりも優先されたのはオリンピック開催だった。予算、人的資源、医療スタッフ、検査体制、ワクチンは、日本に住む人々ではなく、オリンピックが最優先された。オリンピック・パラリンピックが開催された8月から9月にかけて、全国で202人が、東京では8月だけで44人が自宅療養中に亡くなっている。「復興」を口実に福島の災害を無責任に覆い隠し、何年もの間、最も弱い立場の人々を追い出し、差別と排除を広げてきたオリンピック産業に対して、多くの人々が抵抗を続けてきた。彼らへの抑圧はあからさまだった。活動家への狙い撃ち捜査として、住居や身体は押収・捜索され、平和的な抗議行動は強制的な暴力で弾圧された。聖火リレールートで反オリンピック行動に参加し、逮捕された人の裁判は今も続いている。オリンピックのために必要不可欠な施策として導入された高度な顔認証システム、共謀罪、差別的な入管法(韓国の出入国管理法に相当)改正案が日本社会に存在している。オリンピックが終わって4カ月しか経っていないが、すでにオリンピック・ブランドを守るための宣伝活動が盛んに推進されている。主催側は野宿者の排除、森喜朗前会長の男尊女卑・人種差別的な行為、監視・処罰体制、福島の災害の隠蔽など、全てを覆い隠して「多様性と調和、平等」の実現としてオリンピックを称揚するメッセージを熱心に生産し送り出している。また、NHKは東京オリンピックの公式記録映画監督・河瀬直美の名をタイトルに掲げた番組を通じて「反オリンピックデモは金のために動員された」という事実の歪曲を流した。その後、当事者へのまともな謝罪すら行われていない。東京都が今年(2022年)7月から8月にかけて予定しているオリンピック1周年記念事業を推進するために割り当てられた予算は約8億円(約83億ウォン)だ。
2008年の北京夏季オリンピックの準備段階で、120万人以上の人々が強制退去させられた。住まいは人権であり、生存である。生活を脅かされた多くの人が強く抵抗した。彼らへの処罰は苛酷だった。合法的な抗議活動を組織し、入居者の声を伝えた活動家は4年の刑を言い渡され、オリンピック開催を口実に刑は延長された。彼は6年間の拘留の後、ようやく釈放された。オリンピックを前に「万人のためのオリンピック」を疑問視するチベット人の声を映画にしたチベット人監督は、撮影後すぐに逮捕され、6年後の2014年に釈放された。それ以降も、私たちは中国政府がほしいままに行う弾圧や虐殺の報告と、それに対する抵抗を目撃してきた。国際オリンピック委員会(IOC)だけが目をつぶってきたようだ。IOCは、人権調査団が3週間にわたる中国全土の視察を終えたのち、2015年に北京を再びオリンピック開催地に選出、「オリンピックは自由の時代への一歩となる」と言った。中国政府とIOCは、各国のボイコット表明は「五輪の精神を著しく歪める」と批判しているが、IOCの方こそまさに、自らが規定する「人間の尊厳の保持」に反する当事者であり、人権侵害の共犯者だ。彼らは2008年夏季オリンピック開催都市が決定した2001年当時も、オリンピック開催は「人権状況や政治的自由を向上させる契機になる」と述べている。
夏季オリンピック開催地で再び冬季オリンピックを開催するため、すでに深刻な水不足に悩まされている住民や農民が共有している水資源は、大量の人工雪を作るために動員されている。国立自然保護区域内でのアルペンスキー場建設に対する懸念が提起されるや、主催者は国立公園の区域を設定し直して「競技場はもはや保護区域にはない」とした。地域の生態系や水資源を担保に、大量のエネルギーを消費する今回のオリンピックでも、持続可能性を旗印に、再生可能エネルギー利用や水素動力による運送手段の利用も堂々とPRしている。「ともに未来へ(一起向未来)」をスローガンに始まる今回のオリンピックを前に、私たちは前回の夏季オリンピック開催当時のNBCの最高経営者ジェフ・シェル(Jeff Shell)の発言を思い起こしている。オリンピックの独占放映権を持つNBCは、東京オリンピックの開催により歴代最高の利益を上げる見込みだとして「オリンピックが始まれば、全て忘れて誰もが楽しむ」と言った。彼の言葉は、IOCをはじめとするオリンピック産業の協力体制が、なぜこのような欺瞞と厚顔無恥なプロパガンダを続けているのかを如実に示している。他の圧政国家に引けを取らない反民主的な組織と不透明な意思決定方法を有するIOCは、再びオリンピック・ウォッシングによって自らの高収益ビジネスを守ろうとしている。オリンピックで利益を得る各開催地の権力者たちは、「あちら」のオリンピックは悪くて、「こちら」のオリンピックは真のオリンピック精神を体現していると声高に主張している。良いオリンピックなど存在しない。オリンピックはどれも皆、開催地の社会の抱える問題を悪化させ、未来を破壊し、最大の利益を搾り取っていくだけだ。私たちは、各開催地で弾圧と破壊を辞さないオリンピック産業の協力者に、共に立ち向かう。繰り返されるオリンピック災害の廃墟に取り残された私たちは、いかなる事も記憶し、オリンピックのない未来に向かって歩み続ける。
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戦後の事件簿 「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた 図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった 1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意���たところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した 1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない 1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した 1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した 1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した 1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている 1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した 1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、���また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された 1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した 1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた 1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した 1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった 1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内���入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された 1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された 1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった 1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された 1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた 1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた 1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された 1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した 1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した 1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された 1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した 1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った 1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した 1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた 1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した 1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された 1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応���に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している 1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった 1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した 1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊���とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない

1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった 1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った 1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した 1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押し���け、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した 1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した 1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した 1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった 1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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職場で上げられるべき声が上げられない場合、「面倒ごとに巻き込まれたくないから見て見ぬふりをする」ことが多いです。 内部通報制度の通報先が勤め先の中にある場合、幹部や上司が通報先となる場合があります。通報窓口となった職員は、相談者の気持ちに寄り添いながらも客観的な状況を把握して聴くスキルなどが重要になります。 ある官公庁は、通報窓口を担当する職員に対して、通報者への対応法のロールプレイングなどの研修をしています。内部通報制度が機能するかどうかは、相談員の傾聴スキルにもかかっているからです。知識がないまま対応すると、勇気を出して告発した職員に対して、「(加害者)を知っているけど、そんなに悪い人ではないですよ」などと言ってしまったりするのです。内部通報制度は、設置するだけでなく、中身を伴うことが健全な職場環境づくりの前提となります。
「内部告発者が受けた仕打ちを見て、私は自分の考えを変えた。違法な報復行為を刑事罰で抑止せざるを得ないと」…異論を排除する世の中に、奥山教授が強く警鐘を鳴らす(SlowNews/スローニュース) - Yahoo!ニュース
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大正12年、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大震災では、東京の小菅(現・東京拘置所の前身)、市谷(旧・東京拘置所の前身)、巣鴨(旧・東京拘置所と現・府中刑務所の前身)、豊玉(旧中野刑務所)の4刑務所と横浜、浦和(黒羽刑務所の前身)、小田原少年刑務所(現・拘置支所)、千葉の各刑務所は大破し、甲府、静岡の刑務所も災害に遭いました。 この日、小菅刑務所には、懲役10年以上の長期受刑者が約1300人おりましたが、外塀、工場、倉庫などは全壊し、建物の倒壊で受刑者3人が圧死した外、10数人が重軽傷を負う災害を受けました。 その時の小菅刑務所の典��(刑務所長)は有馬四郎助(59歳)でした。 彼は、警察官から転職し、明治10年代に北海道集治監(当時の国立刑務所)の看守長を振り出しに、網走監獄の長になり、山縣有朋内務卿の懲戒主義に従って、監獄内の暴徒を鎮圧し、規律の乱れを正した功労者でした。 彼は、北海道でいくつかの集治監を勤めていた間、キリスト教の留岡幸助教誨師との出会を機に、次第に、力の行刑から愛の行刑へと転向し、小菅刑務所では、クリスチャン典獄と呼ばれていました。 当時、行刑局では、受刑者には威嚇と苦痛を与え、罪業の重さを感じさせ、法と良心の前に平伏させるべきであるという意見が支配的でしたが、彼はこの方針を批判し、厳しさは同情に根ざしたものであるべきだと主張しました。 この考えに沿って、刑務官が長剣を帯びるのに反対し、規律違反者への減食罰を禁止し、行状の良い受刑者には所内で独歩を認めたほか、横浜刑務所と小菅刑務所の近くに不良少年少女のための感化院を開くなど、彼の進歩的な行動はしばしば刑務所長の権限を越えるものとして、行刑局内では顰蹙を買いました。 こうした彼の方針が試されたのが関東大震災でした。 受刑者たちは、突然、自分たちを閉じ込めていた外塀が全壊したのをまのあたりにしました。 しかし、愛の典獄と慕われていた有馬典獄の恩に報いようと、受刑者たちはこぞって、逃亡しようとする者を引き止め、怪我人を助け、破壊された建物を整理し、広場に建てたテントで数日間生活をしながら、収容しきれない受刑者向けのバラックを急造するなど励みました。 広場には 「典獄」 と墨書したムシロを立て、所長の所在を示し、1日3回、半紙1枚に謄写印刷した教誨文書を配布するなどして心情安定を図りました。 翌日には陸軍工兵隊が駆けつけ、11月半ばまで軍の救援を受けたほか、食料、建築資材を他の刑務所から調達しながら受刑者たちは刑務所の��地内で生活しました。 その一方で、受刑者500人を他の刑務所へ順次移送しましたが、それまでの間、一人の逃走者も出ませんでした。 この奇跡のような出来事は海外にも伝わり、高く評価されました。 関東大震災で最も大きな被害を受けたのは、横浜でした。 「神奈川県震災誌」 によりますと、当時、横浜市には、約10万世帯、44万人が住んでいましたが、全世帯の95%が罹災(63%が焼失)し、死傷者は,市の人口の7.6%に達しました。 横浜刑務所には受刑者が約1100人いましたが、そのうち死者は48人、重傷者は50人、一方、職員の死者は3人、重傷者は幹部2人、看守そのた16人を出しました。 地震の最初の一撃で居房、倉庫、女子拘置区の一部が倒壊し、それに続く余震でレンガ造りの外塀、工場、舎房、官舎が全壊し、隣接の民家からの出火が構内に燃え移り、受刑者たちも加わっての消火にもかかわらず、断水で夕方までに刑務所はほぼ全焼しました。 構内も付近の学校、寺院など大きな建物も破壊され、受刑者を収容する場所がなく、このため午後6時過ぎ、椎名通蔵所長は監獄法第22条により、傷病者を除いて受刑者821人を集め、解放を宣言し、傷病者は急造のバラックに収容しました。 この時点まで、逃走者は一人も出ませんでした。 食糧の調達は、海軍の協力で無線電信を使い横浜市から米の配給を受けました。 監獄法では、解放した受刑者は24時間以内に刑務所か警察署に出頭することになっていましたが、解放期間を9月8日の午前6時までとし、それまでの間に、565人が自発的に戻り、その後もさみだれ式に戻って来た者もいました。 当時、横浜刑務所は根岸(現在の磯子区)にありましたが、9月8日と9日の両日、営繕工事に必要な受刑者を除いて、430人を磯子海岸からボートに乗せ、巡洋艦夕張で名古屋刑務所へ移送しました。 刑務所の復興計画は直ちに始まり、昭和2年に現在地(港南区)へ移転したのです。 関東大震災では、死刑囚、受刑者、被告人など約千人を収容していた市谷刑務所のほか、巣鴨刑務所、豊玉刑務所でも外塀、建物が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが、いずれの施設でも逃走者は出ませんでした。 関東大震災以後の震災では、昭和53年6月の宮城県沖のマグニチュード7.5の地震で、宮城刑務所と隣接する仙台拘置支所の外塀、総延長約2千メートルのうちほぼ半分が倒壊したほか、木造の舎房、工場、などが倒壊し、断水、停電の被害を受けましたが、暴動、逃走事件は起こりませんでした。 また、平成7年1月のマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災では、神戸刑務所は深刻な被害は免れましたが、暴動、逃走、その他の保安事故はここでも起こりませんでした。 このような災害時の建物、外塀の倒壊、混乱した生活の中で、何故、日本の受刑者たちは逃走を企てないのでしょうか、これはまだ、科学的に解明されていない問題です。(
災害! そのとき刑務所は : 断想
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」 5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。 Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。 C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。 しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。 MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。 03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパー��に卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。 また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。 またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。 ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。 3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。 3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。 遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。 20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。 なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。 また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。 事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。 王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。 起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。 犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。 静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。 数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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#織田邦男 先生よりシェア
櫻井よしこさんの論考をシェアさせていただきます。
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中国のTPP横取りを許すな
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中国の手法は時代が変わっても変わらない。一番賢いのは策略を巡らして 相手を出し抜くことだと信じる民族は、政治体制が王朝であろうと共産党 独裁であろうと、同じ発想で問題解決に当たる。その中国に、いま、日本 は最大の警戒心を抱かなければならない。
彼らは長い年月をかけて米国を完全に騙した。その結果、念願の世界貿易 機関(WTO)加盟が20年前だった。当時彼らは国有企業は減らす、中国 企業への不公正な補助金も優遇税制もなくすなど、多くの空約束をした。 西側先進諸国が騙され続けた年月に、中国は豊かな国々の経済を中国経済 のサイクルに巻き込み、不公正な手法で自国の利益を貪った。そうして世 界第二の経済大国となり、いまは米国追い落とし戦略に堂々と取り組んで いる。
中国が米国を完全に屈服させ世界覇者になるためには、しかし、日本を抱 き込まなければならない。日本取り込みの第一歩を、中国はすでに具現化 したのではないか。
11月15日、東南アジア諸国連合(ASEAN)10か国に日中豪韓ニュー ジーランドの15か国で構成する地域的包括的経済連携(RCEP)に日本 は署名した。署名に至る実情を日本政府中枢の人物が語った。
「ASEAN、特に今年の議長国のベトナムが締結に前向きでした。日本 が反対すれば逆に日本がASEAN諸国から浮き上がる状況をつくられ、 署名せざるを得なかった」
中国中心の経済圏が南シナ海・西太平洋に誕生するのを日本は懸念し続け た。当初の構成は「ASEAN+日中韓」だったのを、日本が豪印ニュー ジーランドを入れた。インドはやがて中国を凌駕する人口大国だ。世界最 大の民主主義国家でもある。わが国はインドの参加を得てRCEPの中国 主導を防ぎたかった。
昨年まで日本案は順調に進展していたが、中国との間の貿易赤字拡大を嫌 うインドが、中印国境紛争などの国内問題もあって不参加に転じた。日本 はインドの翻意を説得できないまま、RCEPを締結した。
メチャクチャな主張
RCEPは経済連携体としては基準は高くない。関税撤廃率も全体として 91%にとどまり、国有企業優先などの不公平な慣習に対する基準も曖昧 だ。日本主導でまとめた環太平洋戦略的経済連携(TPP)の関税撤廃率 が99.3%で、国有企業撤廃にも厳しいのに較べれば、両者の違いは大き い。だが、世界人口の30%、22億人と、世界のGDPの30%、26.2兆ドル の大きな塊がRCEPだ。その中心に中国が座ることの意味は非常に深刻 である。
中国の李克���首相は11月18日、早速、その意義を語った。
「RCEPはアジア太平洋地域諸国の多国間主義と自由貿易を守る共通意 思の体現」で、「産業チェーン、供給チェーンの安定に役立つ」。
米国への明確な挑戦である。世界諸国を「アメリカ第一」の視点でしか見 ない米国と中国は違う、中国こそが真の国際社会の指導国となり得る、米 国の時代は終わり中国の時代だと、宣言したに等しい。
だが、米国に取って替わるにはもっと多くの課題がある。RCEPで南シ ナ海・西太平洋の支配を固め、さらにTPPに入って、中国支配圏を拡大 しなければならない。11月20日、習近平国家主席がTPP参加の意向を示 したのは、まさにその乗っ取りのサインと読むのが正しい。
インド抜きのRCEP、アメリカ抜きのTPPこそ中国の世界経済支配の 道だろう。大戦略実現のカギが、TPPもろとも日本を取り込むことなの だ。私たちの国と産業がいま、中国の最大のターゲットになっていること を、日本政府、産業界、そして私たち自身も識(し)らなければならない。
中国は10月に輸出管理法を定めた。「国の安全と利益」に反する経済行 動、輸出入に対しては、報復措置を取るとした(48条)。同規定は域外で の経済活動にも適用される(44条)ため、日本企業も対象である。報復措 置は刑事罰も含む。
中国は自国民が殺害されたり領土が奪われた場合だけでなく、国家の利益 が脅かされる場合、戦争に踏み切る法律案を公表済みである。利益に反す る経済活動に「域外」、つまり中国以外の地域、即ち全世界の全企業に刑 事罰まで科すという。中国の国内法を国際社会に適用するというメチャク チャな主張はこれが初めてではない。中国の正体がこんなものだとは誰も 想像できなかっただろう。
世界経済を中国が悪用し始めた第一歩がWTO加盟である。彼らの加盟交 渉の経緯を辿ると、中国人の熱意、戦略、戦術が見えてくる。一連の交渉 を担った朱鎔基氏は、?小平と共に毛沢東に粛清されて約20年間、死と隣 り合わせの厳しい時代を過ごした。試練を不屈の精神で生き抜いた兵(つ わもの)は、1991年から2003年まで副首相、そして首相としてWTO問題 に取り組んだ。
日米分断を戦略目標
加盟交渉の最終段階、99年4月の訪米で、朱氏は米政財界の聴衆を前に 語っている。
ブッシュ大統領(父)の安全保障問題担当補佐官を務めたスコークロフト 氏が真っ先に、台頭した中国は米国のライバル、敵になるかと尋ねると、 朱氏は長い答えを返した。中・米の差は大きい。中国は核戦力もGDPも 小さい。差は何十年も埋まらないが、中国の成長は大きな市場を意味す る。中国の台頭は米国の利益だ。米国は中国脅威論を中国好機論に変える べきだ、と力強く語っている。
朱氏は米国要人に会う度に、米国の貿易赤字は中国の所為ではない、中国 側の利益は全体のごく一部にとどまる、中国よりも中間に介在する日本こ そ大きな利潤を得ていると繰り返している。当時も今も中国は日米分断を 戦略目標としているのである。
頭の切れる朱氏も、しかし、中国人の枠を超えることはできず、幾つか、 馬脚を露す反論をしている。
99年4月2日、「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)紙の発行 人、ピーター・カン氏との会談で、天安門事件で戦車の前に立ち塞がった 若い男性について訊かれた。朱氏は直ちに言い放った。「私にも想い出す 映像がある。米軍の爆撃でベトナムの少女が裸で逃げる映像だ。(中・ 米)両者には基本的な相違点がある。天安門ではタンクは青年を轢かずに 回り込んだ」
WSJの発行人は何も反論できなかったが、ベトナム少女の悲劇は両国の 血みどろの戦争の中で起きた。天安門では中国政府が国民を殺した。青年 は逃れたが、幾千幾万の中国国民が政府に殺害され、私たちは今もその正 確な数を知らない。カン氏が指摘すべきは政府による自国民大虐殺の非で ある。
日中関係も要注意だ。記者会見で尖閣問題を好き放題に言われて反論でき なかった茂木敏充外相も外務省も、もっと厳しく構えることだ。
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