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#ぬかびら源泉郷
amiens2014 · 2 years
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ヒグマ珈琲/北海道上士幌町【喫茶店】子鹿が遊ぶ糠平湖を見下ろしながらオリジナルブレンドコーヒーを堪能
ヒグマ珈琲とは ヒグマ珈琲(ヒグマこーひー)は、北海道河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷(ほっかいどうかとうぐんかみしほろちょうぬかびらげんせんきょう)にある喫茶店だ。 糠平湖畔園地に令和3年にオープンしたばかりの、新しい店だ。 糠平湖畔園地に佇む休憩施設です。 令和3年7月17日よりオープン。隠れ家的な場所でゆったりとした時間をお過ごしください。 ヒグマ珈琲(休憩所)|施設ガイド|北海道 上士幌町 から引用 ヒグマ珈琲 北海道河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷 (more…)
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shintani24 · 2 months
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2024年8月8日
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南海トラフ地震の想定震源域と今回の震源
南海トラフ地震臨時情報の対象の1都2府26県707市町村はこちら(朝日新聞)
気象庁は8日、初となる「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表した。対象となった1都2府26県707市町村は次の通り。同庁は今後1週間程度、地震や津波への注意を呼び掛けている。(内閣府の資料から)
茨城県 水戸市、日立市、ひたちなか市、鹿嶋市、神栖市、鉾田市、東茨城郡大洗町、那珂郡東海村
千葉県 銚子市、館山市、旭市、勝浦市、鴨川市、富津市、南房総市、匝瑳市、山武市、いすみ市、大網白里市、山武郡九十九里町、同郡横芝光町、長生郡一宮町、同郡長生村、同郡白子町、夷隅郡御宿町、安房郡鋸南町
東京都 大島町、利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、八丈町、青ケ島村、小笠原村
神奈川県 横浜市、横須賀市、平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ケ崎市、逗子市、三浦市、秦野市、厚木市、伊勢原市、海老名市、座間市、南足柄市、三浦郡葉山町、高座郡寒川町、中郡大磯町、同郡二宮町、足柄上郡中井町、同郡大井町、同郡松田町、同郡山北町、同郡開成町、足柄下郡箱根町、同郡真鶴町、同郡湯河原町
山梨県 甲府市、富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、韮崎市、南アルプス市、北杜市、甲斐市、笛吹市、上野原市、甲州市、中央市、西八代郡市川三郷町、南巨摩郡早川町、同郡身延町、同郡南部町、同郡富士川町、中巨摩郡昭和町、南都留郡道志村、同郡西桂町、同郡忍野村、同郡山中湖村、同郡鳴沢村、同郡富士河口湖町
長野県 岡谷市、飯田市、諏訪市、伊那市、駒ケ根市、茅野市、南佐久郡川上村、同郡南牧村、諏訪郡下諏訪町、同郡富士見町、同郡原村、上伊那郡辰野町、同郡箕輪町、同郡飯島町、同郡南箕輪村、同郡中川村、同郡宮田村、下伊那郡松川町、同郡高森町、同郡阿南町、同郡阿智村、同郡平谷村、同郡根羽村、同郡下條村、同郡売木村、同郡天龍村、同郡泰阜村、同郡喬木村、同郡豊丘村、同郡大鹿村、木曽郡上松町、同郡南木曽町、同郡大桑村、同郡木曽町
岐阜県 岐阜市、大垣市、多治見市、関市、中津川市、美濃市、瑞浪市、羽島市、恵那市、美濃加茂市、土岐市、各務原市、可児市、山県市、瑞穂市、本巣市、郡上市、下呂市、海津市、羽島郡岐南町、同郡笠松町、養老郡養老町、不破郡垂井町、同郡関ケ原町、安八郡神戸町、同郡輪之内町、同郡安八町、揖斐郡揖斐川町、同郡大野町、同郡池田町、本巣郡北方町、加茂郡坂祝町、同郡富加町、同郡川辺町、同郡七宗町、同郡八百津町、同郡白川町、同郡東白川村、可児郡御嵩町
静岡県(全域)静岡市、浜松市、沼津市、熱海市、三島市、富士宮市、伊東市、島田市、富士市、磐田市、焼津市、掛川市、藤枝市、御殿場市、袋井市、下田市、裾野市、湖西市、伊豆市、御前崎市、菊川市、伊豆の国市、牧之原市、賀茂郡東伊豆町、同郡河津町、同郡南伊豆町、同郡松崎町、同郡西伊豆町、田方郡函南町、駿東郡清水町、同郡長泉町、同郡小山町、榛原郡吉田町、同郡川根本町、周智郡森町
愛知県(全域)名古屋市、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市、半田市、春日井市、豊川市、津島市、碧南市、刈谷市、豊田市、安城市、西尾市、蒲郡市、犬山市、常滑市、江南市、小牧市、稲沢市、新城市、東海市、大府市、知多市、知立市、尾張旭市、高浜市、岩倉市、豊明市、日進市、田原市、愛西市、清須市、北名古屋市、弥富市、みよし市、あま市、長久手市、愛知郡東郷町、西春日井郡豊山町、丹羽郡大口町、同郡扶桑町、海部郡大治町、同郡蟹江町、同郡飛島村、知多郡阿久比町、同郡東浦町、同郡南知多町、同郡美浜町、同郡武豊町、額田郡幸田町、北設楽郡設楽町、同郡東栄町、同郡豊根村
三重県(全域)津市、四日市市、伊勢市、松阪市、桑名市、鈴鹿市、名張市、尾鷲市、亀山市、鳥羽市、熊野市、いなべ市、志摩市、伊賀市、桑名郡木曽岬町、員弁郡東員町、三重郡菰野町、同郡朝日町、同郡川越町、多気郡多気町、同郡明和町、同郡大台町、度会郡玉城町、同郡度会町、同郡大紀町、同郡南伊勢町、北牟婁郡紀北町、南牟婁郡御浜町、同郡紀宝町
滋賀県(全域)大津市、彦根市、長浜市、近江八幡市、草津市、守山市、栗東市、甲賀市、野洲市、湖南市、高島市、東近江市、米原市、蒲生郡日野町、同郡竜王町、愛知郡愛荘町、犬上郡豊郷町、同郡甲良町、同郡多賀町
京都府 京都市、宇治市、亀岡市、城陽市、向日市、長岡京市、八幡市、京田辺市、南丹市、木津川市、乙訓郡大山崎町、久世郡久御山町、綴喜郡井手町、同郡宇治田原町、相楽郡笠置町、同郡和束町、同郡精華町、同郡南山城村
大阪府 大阪市、堺市、岸和田市、豊中市、池田市、吹田市、泉大津市、高槻市、貝塚市、守口市、枚方市、茨木市、八尾市、泉佐野市、富田林市、寝屋川市、河内長野市、松原市、大東市、和泉市、箕面市、柏原市、羽曳野市、門真市、摂津市、高石市、藤井寺市、東大阪市、泉南市、四條畷市、交野市、大阪狭山市、阪南市、三島郡島本町、豊能郡豊能町、泉北郡忠岡町、泉南郡熊取町、同郡田尻町、同郡岬町、南河内郡太子町、同郡河南町、同郡千早赤阪村
兵庫県 神戸市、姫路市、尼崎市、明石市、西宮市、洲本市、芦屋市、伊丹市、相生市、加古川市、赤穂市、宝塚市、三木市、高砂市、川西市、小野市、加西市、南あわじ市、淡路市、加東市、たつの市、加古郡稲美町、同郡播磨町、揖保郡太子町
奈良県(全域)奈良市、大和高田市、大和郡山市、天理市、橿原市、桜井市、五條市、御所市、生駒市、香芝市、葛城市、宇陀市、山辺郡山添村、生駒郡平群町、同郡三郷町、同郡斑鳩町、同郡安堵町、磯城郡川西町、同郡三宅町、同郡田原本町、宇陀郡曽爾村、同郡御杖村、高市郡高取町、同郡明日香村、北葛城郡上牧町、同郡王寺町、同郡広陵町、同郡河合町、吉野郡吉野町、同郡大淀町、同郡下市町、同郡黒滝村、同郡天川村、同郡野迫川村、同郡十津川村、同郡下北山村、同郡上北山村、同郡川上村、同郡東吉野村
和歌山県(全域)和歌山市、海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の���市、岩出市、海草郡紀美野町、伊都郡かつらぎ町、同郡九度山町、同郡高野町、有田郡湯浅町、同郡広川町、同郡有田川町、日高郡美浜町、同郡日高町、同郡由良町、同郡印南町、同郡みなべ町、同郡日高川町、西牟婁郡白浜町、同郡上富田町、同郡すさみ町、東牟婁郡那智勝浦町、同郡太地町、同郡古座川町、同郡北山村、同郡串本町
岡山県 岡山市、倉敷市、玉野市、笠岡市、井原市、総社市、備前市、瀬戸内市、赤磐市、浅口市、和気郡和気町、都窪郡早島町、浅口郡里庄町、小田郡矢掛町
広島県 広島市、呉市、竹原市、三原市、尾道市、福山市、府中市、大竹市、東広島市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、安芸郡府中町、同郡海田町、同郡熊野町、同郡坂町、豊田郡大崎上島町
山口県 下関市、宇部市、山口市、防府市、下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市、山陽小野田市、大島郡周防大島町、玖珂郡和木町、熊毛郡上関町、同郡田布施町、同郡平生町
徳島県(全域)徳島市、鳴門市、小松島市、阿南市、吉野川市、阿波市、美馬市、三好市、勝浦郡勝浦町、同郡上勝町、名東郡佐那河内村、名西郡石井町、同郡神山町、那賀郡那賀町、海部郡牟岐町、同郡美波町、同郡海陽町、板野郡松茂町、同郡北島町、同郡藍住町、同郡板野町、同郡上板町、美馬郡つるぎ町、三好郡東みよし町
香川県(全域)高松市、丸亀市、坂出市、善通寺市、観音寺市、さぬき市、東かがわ市、三豊市、小豆郡土庄町、同郡小豆島町、木田郡三木町、香川郡直島町、綾歌郡宇多津町、同郡綾川町、仲多度郡琴平町、同郡多度津町、同郡まんのう町
愛媛県(全域)松山市、今治市、宇和島市、八幡浜市、新居浜市、西条市、大洲市、伊予市、四国中央市、西予市、東温市、越智郡上島町、上浮穴郡久万高原町、伊予郡松前町、同郡砥部町、喜多郡内子町、西宇和郡伊方町、北宇和郡松野町、同郡鬼北町、南宇和郡愛南町
高知県(全域)高知市、室戸市、安芸市、南国市、土佐市、須崎市、宿毛市、土佐清水市、四万十市、香南市、香美市、安芸郡東洋町、同郡奈半利町、同郡田野町、同郡安田町、同郡北川村、同郡馬路村、同郡芸西村、長岡郡本山町、同郡大豊町、土佐郡土佐町、同郡大川村、吾川郡いの町、同郡仁淀川町、高岡郡中土佐町、同郡佐川町、同郡越知町、同郡梼原町、同郡日高村、同郡津野町、同郡四万十町、幡多郡大月町、同郡三原村、同郡黒潮町
福岡県 北九州市、行橋市、豊前市、京都郡苅田町、築上郡吉富町、同郡築上町
熊本県 宇城市、阿蘇市、天草市、阿蘇郡高森町、上益城郡山都町、球磨郡多良木町、同郡湯前町、同郡水上村、同郡あさぎり町、天草郡苓北町
大分県 大分市、別府市、中津市、佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後高田市、杵築市、宇佐市、豊後大野市、由布市、国東市、東国東郡姫島村、速見郡日出町、玖珠郡九重町
宮崎県(全域)宮崎市、都城市、延岡市、日南市、小林市、日向市、串間市、西都市、えびの市、北諸県郡三股町、西諸県郡高原町、東諸県郡国富町、同郡綾町、児湯郡高鍋町、同郡新富町、同郡西米良村、同郡木城町、同郡川南町、同郡都農町、東臼杵郡門川町、同郡諸塚村、同郡椎葉村、同郡美郷町、西臼杵郡高千穂町、同郡日之影町、同郡五ケ瀬町
鹿児島県 鹿児島市、鹿屋市、枕崎市、阿久根市、指宿市、西之表市、垂水市、薩摩川内市、日置市、曽於市、霧島市、いちき串木野市、南さつま市、志布志市、奄美市、南九州市、伊佐市、姶良市、鹿児島郡三島村、同郡十島村、薩摩郡さつま町、出水郡長島町、姶良郡湧水町、曽於郡大崎町、肝属郡東串良町、同郡錦江町、同郡南大隅町、同郡肝付町、熊毛郡中種子町、同郡南種子町、同郡屋久島町、大島郡大和村、同郡宇検村、同郡瀬戸内町、同郡龍郷町、同郡喜界町、同郡徳之島町、同郡天城町、同郡伊仙町、同郡和泊町、同郡知名町、同郡与論町
沖縄県 名護市、糸満市、豊見城市、うるま市、宮古島市、南城市、国頭郡国頭村、同郡東村、島尻郡与那原町、同郡渡嘉敷村、同郡座間味村、同郡南大東村、同郡北大東村、同郡伊平屋村、同郡八重瀬町、宮古郡多良間村
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猛暑のせい?広島の夏の交通事故、死者数が倍に 警察が注意呼びかけ(朝日新聞)
7月以降に広島県内で起きた交通死亡事故数が、昨年の同時期を大幅に上回っている。県警によると、連日の猛暑による集中力や注意力の欠如が原因の一つと考えられるといい、注意を呼びかけている。
県警交通企画課によると、7月1日~8月4日の交通事故死者数は12人で、昨年同時期の5人から倍以上に増えている。
このうち、バイクや自転車、歩行者の死者数は計9人。日中の事故で亡くなった人は9人で、夜間は3人だった。
同課は、気温が高くなり、運転などに集中できないことが事故につながっている可能性があると分析。運転する場合はこまめに水分補給したり休憩をとったりし、体調に異変を感じる時は運転を控えるなどの対策が必要としている。
担当者は「交通事故を防ぐためにも、熱中症警戒アラートが発せられるような暑い日は不要な外出を控えて」と呼びかけている。
気象庁によると、広島市内では35度以上の猛暑日が8日まで10日間続いている。(遠藤花)
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「1990年に天皇の戦争責任を論じ始めたとき不安はなかったか、ですか? なかったと言えばウソになります」=吉本美奈子撮影
(インタビュー)昭和天皇の戦争関与 歴史学者・山田朗さん(朝日新聞)
「昭和天皇は戦争への主体的な関与をしなかった」「最後まで対米英戦を回避しようとした」。こうした昭和天皇像に、実証的な研究を通じて見直しを迫ってきた歴史学者がいる。明治大学教授の山田朗さんだ。「天皇の戦争指導」の実態はどうだったのか。その歴史を直視してこなかった戦後日本社会とは。
 ――昭和天皇(1901~89)が戦争中にどう行動し、そのことを戦後にどう考えていたのか。実証的に調べる研究を30年以上も続けていますね。
「きっかけは、昭和天皇の健康が悪化した88年から日本社会を覆った『自粛』現象でした」
「天皇が戦争にどうかかわったかについての先行研究はすでにありましたが、私には『昭和天皇には戦争責任がある』という結論ありきの研究に見えました。他方には『戦争責任などない』との意見もあったけれど、どちらも戦争中の実態を踏まえた議論とは思えなかった。史料を踏まえた実証的な研究が必要だと思いました」
 ――日本が米英に対する戦争を始めたのは41年12月でしたね。「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という話が広く信じられていますが、事実でしょうか。
「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」
「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」
 ――昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった、という理解も広がっていますね。
「事実ではありません。大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官でした。形式的発言をするだけだったというイメージが広がっていますが、記録によれば、大元帥として出席した大本営御前会議では活発に発言しています。軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も、史料から見えてきました」
 ――昭和天皇が具体的に変えた事例を挙げてください。
「42年のガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう天皇は3回にわたって、出撃をしぶる陸軍に督促していました。3度目の督促の翌日、陸軍は派遣を決めています」
「45年の沖縄戦では『現地軍は何故攻勢に出ぬか』と言って、積極的な攻撃に出るよう要求しました。現地軍は持久戦でいくと決めていたのですが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながりました」
「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます。国家意思に影響を与えていた形です」
 ――作戦指導だけにとどまらず「戦争指導」も行っていたと著書で主張していますね。
「ええ。戦争指導は単なる軍事作戦指導とは異なり、外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねた、より高次の指導です」
「昭和天皇は43年のソロモン諸島などの攻防で、戦い方が消極的だと侍従武官長を厳しく叱責し、こんなことでは敵国の士気が上がって第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求めました。国際情勢をにらんだ上で国家としてどう作戦を立てるかという戦争指導の領域にこのとき昭和天皇は立ち入っていたと、私は思います」
 ――昭和天皇はなぜ作戦指導や戦争指導をしたのでしょう。
「大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題が背景にあってのことだったと思います。天皇を好戦的な指導者だったとみなすのは間違いです」
 ――構造的な問題とは?
「ガダルカナル戦で天皇が指導に踏み込んだのは、どちらが航空機を出すかでもめていた陸軍と海軍の対立を解くためでした。大日本帝国では陸軍も海軍も天皇に直属していて、両者を統合して指揮する統合幕僚長のような指導役が不在でした。陸・海軍の対立を調整できるのは当時、天皇だけだったのです」
「軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけでした。軍の最高指揮権にあたる『統帥権』は天皇にあり、統帥権は行政から独立していました。首相ですら軍事行動の詳細を知ることはできない構造です。外交や予算をつかさどる行政が軍部と分立していた中で、両者を架橋しえたのは実質的に天皇だけだったのです」
 ――「昭和天皇は戦争指導をしたのか否か」と問う以前に、「そもそも戦争指導をできる指導者は当時いたのだろうか」と考えさせられる話です。
「ええ。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自らが動くしかないと考えた可能性があります。陸軍と海軍が持つそれぞれの経験値では解決できない事態があり、政治が軍事を制御できる仕組みも見当たらない。そんな状況下での戦争指導だったのです」
 ――昭和天皇に戦争責任はあった、と主張していますね。
「実態を踏まえれば、昭和天皇には戦争責任があったと考えるべきだと思います。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのですから、およそ責任がなかったと言えるものではありません」
 ――連合国が戦後に日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、昭和天皇は訴追されませんでした。米国が占領統治のコストを下げるために見送ったとされます。
「裁判が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められました。天皇を守るためだったと語られがちですが、それだけではなかったと思います」
「戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できました。その人たちが戦後日本の権力を担っていったのです。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判でした」
 ――その歴史は現在に何か影響を与えているでしょうか。
「責任をとるべき人がとっていないという巨大な前例が今も生き続けています。宮内庁が編纂して今から10年前に公開された『昭和天皇実録』も、天皇は平和主義者だったというイメージを強化する内容でした」
 ――ウクライナ侵攻などが起きた影響もあって、今、日本政府はかつてない規模での防衛力増強に乗り出しています。
「戦争期の近代日本史が教えるのは、軍を政治的にコントロールすることの難しさです。軍事は軍事の専門家だけが理解できるものだという論理のもと、閉じられたサークルの中で『自己展開』していってしまう傾向が、軍事にはあるからです」
「昭和戦前期と違って今は一応、行政府が外交も安全保障もあわせて統括できる体制には変わっています。しかし、国民の代表である国会のチェックが安全保障政策に反映されているかといえば、答えはノーです」
 ――5年前に公開された新史料「拝謁記」に注目するよう訴えていますね。なぜですか。
「昭和天皇があの戦争のことを『戦後に』どう考えていたのかを、今までにない生々しさで伝えている史料だからです。拝謁記とは、初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇の戦後の肉声を記録したものです」
 ――何が分かったのですか。
「昭和天皇の中で戦後、『誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった』という考えが次第に強まっていった事実です。田島の耳に最後には言い訳だと聞こえてきたほどでした」
「陸軍が戦争の牽引者だったのは事実です。しかし昭和天皇はブレーキの壊れたジェットコースターの単なる乗客だったのではなく、操縦する側でした。ブレーキが壊れていたわけでもなく、実際、天皇の聖断という形で戦争は終わっています」
 ――その歴史からどんな教訓をくみとるべきでしょう。
「戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。再び戦禍に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います」(聞き手 編集委員・塩倉裕)
やまだあきら 1956年生まれ。専門は日本近現代史。軍事史や天皇制論に詳しい。著書に「大元帥 昭和天皇」(94年)、「昭和天皇の戦争認識」(2023年)など。
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ari0921 · 9 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
    通巻第8070号
 AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
  文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
 わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
 「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
 このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
 皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
 しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
 生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
 きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
 文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
 紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
 「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
 額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
 「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
 ▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
 『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
 『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
 古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
 江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
 井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
 上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
 近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
 描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
 谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
 「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
 ▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
 「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
 「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
 「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
 サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
 わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
 こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3 細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3 
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷��希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
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■中江兆民とルソー
 中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『翔ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)岩倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
 ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。どこまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
 この状態を、ホッブスは「自然状態」といって指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在を考え出して、この人になんとかさせようとしている。
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えたそうだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。 (私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという旧士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、 結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。 明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
中江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、 迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、 日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。 かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。 《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179 (中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、 「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」 (西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれどもどちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。 ……このシーン、小説のよう。 川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山麓で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を 著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のためだけに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。 殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。 これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。 最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。 探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。 西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに。これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に深みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、 眠りから覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、 眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。 利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。 凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。 なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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hokuto-yuasa-journal · 5 months
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20240502
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釣りを始めた。
正確には再開した。
子供の頃はバス釣りブーム世代で最後に釣りをしたのは多分大学生ぐらいだったと思う。もう二十年も前の話だ。
夏に帰省したはいいが暇過ぎて物置から道具を引っ張り出して夜中に釣りをした。湖面に反射する橋の街灯の明かりを狙うとブラックバスが釣れた(つか夜釣り禁止)。思えばインターネットの全面的な普及前夜、ましてiphoneもYouTubeもSNSもない世界。田舎の夜の闇には茫漠として底知れない暗さがあった。
その後実家の車に竿を入れておいたらお袋が窓に挟んでへし折り、いつしか釣りもやらなくなった。
東京時代は下宿のまん前に多摩川がありスモールマウスバスやサクラマスまで釣れるポイントだったという。ただ哀しい哉、我が身の振り方でそれどころではなかった。
その後帰郷してからこれまで10年以上、目の前に富士五湖があるにも関わらず釣りをしようという気は起こらなかったが、これはどっかで釣りをタブー視していたからだと思う。
私はギャンブルを覚えたらやばい自覚があり若い時分から一切手を出さなかった。(年末の宝くじ以外。)
なんというか釣りもそれと同じ匂いがする。あとサッカー観るのもそう。
私にとっては(強調)釣りもサッカーも技術、釣法、戦術云々よりあくまで偶然や運、カイヨワの分類でいうアレア(サイコロ遊び)の領域や属性であって退屈と興奮のフォーミュラ、その妙が重要なのだ。
それが去年ぐらいからYouTube上にある山奥の源流部まで遡上して野営しながらテンカラやルアーで岩魚を釣る動画を見ていたらだんだんと釣りが気になり始めた。
つり人社のチャンネルの動画
☞ https://www.youtube.com/watch?v=Ctgz92afs_I&t=2358s
今年になり雪山登山を解禁した流れで釣りもやってみようと思った。
いざ何を釣るかとなると加齢に伴う趣向の変化もありバス釣りってのもしっくりこない気がする。もうちょっと燻製臭さというか少し枯れた感じが欲しい。渓流釣りが理想だが実釣するまでに踏む過程が多く敷居が高い。海釣りも然り。
試しに本栖湖に行ってみてこれだと思った。
スプーン(金属製の疑似餌)の鱒釣り。
その足で湖仙荘に行って遊漁券の年券を買った。
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水が栄養化した河口湖や他の湖と違って本栖湖は藻類が乾いた生臭さが一切ない。静けさの中青く透き通った水と富士山や周辺の山々を見ながら水面に糸を垂らしていると釣れなくてもそれはそれでいいという気になってくる。
聞けばデスレイク呼ばわりされるほど釣れないがそれでもハマって通う釣り人が多いのだという。
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少し飽きたらお湯を沸かしてコーヒーをたてて、鳥の声や水の音を聴きながら星野道夫のエッセイ集や最近買った西川美和の短編小説を読んだ。雪化粧した山並みをぼーっと眺めている時ふいに、田舎に帰っても何もないぞと嘲りを含んだ知人の言葉を思い出す。
確かに何もなかった。
だがこれ以上の何があるというのだろう。
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小学生以来に買った釣り竿とリール。
リールはバス用、竿は万が一の大物も対応できるネイティブトラウト用。共にシマノ製。下手の横好きは自認しているのでそれなりの道具で満足。いわゆるハイエンドの機種ではないが釣りに興味がない人からすれば安くもない。
兎にも角にもいっ��ょ前の太公望である。
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本栖湖はその透明度の高さから水が青く虹鱒の背が保護色で青くなるという。誰が呼んだかブルーバック・レインボー、幸せの青い鳥ならぬ青い鱒を追うのだ。
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休みの日の夕方か明け方に数時間、何日か通ってみるも噂通り、全然釣れない。何もかも手探り状態でこの釣りの最適解がわからない。
まじで釣れねえ。
釣れない釣りはどこか宗教的行為に近い。何かの到来を期して待つという部分では、リールのハンドルを回すのもチベット仏教の仏具、マニ車を回すのも特段の違いはない。
奇しくも釣れないことを俗に「ボウズ(坊主)」という。
連続ボウズ記録更新中の三月のある日の明け方、突き出た岬の中腹の辺り。日の出に合わせてティムコの赤金の10gのスプーンを投げる。ティムコってちんこみたいだなと思いながら表層を早巻きしているとゴツ…ゴツ…とアタリ。
目をこらすと黒い影がスプーンの周りをビュンビュン動いている。
ぐっと堪えて食った瞬間合わせた。
しかし久しぶりすぎて合わせが甘く何回か跳ねた後足元に手繰り寄せたとこでバラしてしまった。30cmぐらいの何らかの鱒。銀色の残像だけで噂の青い背中はわからなかった。
それから全く釣れなくなり、取り逃した魚の感触ばかりを思い返す日々。
Life is like fishing、初恋は祟る。
それからさらに経ち四月の上旬。
3時に起き毎度の国道139号線。
青木ヶ原樹海の脇を抜け明け方4時前にいつものポイントに着くと裏手の山の森でトラツグミが幽霊みたいに恨めしく鳴き、時折鹿が奇声をあげて合いの手を入れる。
空を見上げれば人工衛星かはたまたUFOか。謎の発光体が明滅もせず南東の方角へゆっくり移動していく。あれは一体何なのだろう。
遠くの浜の方から波の音が微かに聞こえてくる。
湖は風もないのに音を立てて荒れていた。
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ライトで照らすと黄泉の国の入り口が浮かび上がる。
まるでタルコフスキーのソラリス。水深120mという深さと日本屈指の透明度もあり波が立つと湖全体がうねり一つの生命体に見えてきてすごく不気味だ。
東の空が白み始めるのを待って釣行を開始。まだ一投目だというのに私は一体何をしているのだろうという気持ちがすでに頭をもたげている。
今日も釣れない気がする。
あまりに釣れないことが続くとその行為の目的を問う意識が海嘯の如く内面に向かい始める。
同年代の人々は疾うに人の親になったというのに、とか。どうやら私の両親は私の子供を抱くことはない、だとか。そんな世間から押し付けられたのか、はたまた自身の先への不安や負い目なのか最早わからなくなった色んなアレコレ。それをぶん投げてとりあえずしまっといた暗い部屋。その扉の隙間からドロドロの中身が泡を立てて上がってくる。
酷かった子供時代のこと。誰かを傷つけたこと。誰かを憎んでいること。これまで飲み込んだ人の悪意、ありとあらゆる負の記憶たち。それが湖の波の形になってグニャグニャと湖面を揺らしている。
何の本で読んだか、文化人類学者の中沢新一が原始的な仏教の形が色濃く残るバリ島で呪術師に悟りについて尋ねると毎晩夜釣りに連れて行かれたという。釣りそのものに意味があるのではなく、暗闇の中の気配に意識を集中することで心の深淵に下りていくのだと。
眼前に広がるのは湖へ投射され顕現した潜在意識だ。
ヘドロの塊のようでいてどこまでも透き通っている。
思えば昔からよく水辺に行って水を眺めてきた。
釣りをやめてからは眺めるだけ。村上春樹のいうところのデタッチメント。一定の距離を保つ。
子供時代に海に連れて行ってもらったことはない。
多摩川も川岸に座ってただ眺めるだけだった。川面は光を反射し時に透過させその内側の世界を私に見せる。
釣りはその細い糸一本を通して水の中の世界との交感を試みる行為である。
気づけば再び水との境界線を越えていた。
たかだかおっさんが趣味で釣りを始めただけのくだらない話だが私にとっては何か象徴的な儀式みたいに思えた。
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天子山地の向こうから山肌を舐めるようにドロドロと下りてきた雲が湖を渡り東側の富士の樹海上空にどんよりと溜まっていたが、その雲をかき分けて陽が昇り的礫と水面を照らす。
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水面は朝日を反射し偏頭痛かLSDの見せるサイケデリックなビジョンみたいに幾何学的に像を結び、解ける。つか酔いそう。黒曜石の破断面のようにも見える。
前に釣りかけた時のティムコのスプーンに執着していたがパターンを捨てた。
所詮過去だ。
過去の魚は釣れない。
当たり前だが。
アワビの貝殻のキラキラが貼ってある赤金の少し小さいスプーンを直感で選ぶ。予感…、シンクロニシティが起きる直前と同じ気配がする。
朝日が照り返す辺りへ向けて50m近く遠投する。重い金属製のスプーンの釣りは根掛かりこそ多いが、かっ飛ぶので爽快だ。
着水し巻き始めた直後にゴン!とアタリ。距離かナイロンラインの特性か少し伸びる感じ。今度は確実に合わせた。
魚は針を外そうと二度水面を飛び跳ねる。慌てて竿先を水中に入れた。鱒は口が弱いらしく合わせてから取り込むまでの距離が長くてヒヤヒヤした。
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手掴みで取り込む。
青い。
ランディングネットは一匹釣れるまではと用意していなかった。
弱らせないように針を外し写真を撮ってすぐ逃した。
そういえば大きさを計り忘れた。35cmぐらい。
ほんとに釣れた。
最初に釣った魚は逃がそうと何となく決めていた。
一瞬だけ交わりもう会うことはない。
私の釣ったあの鱒は今も深い湖のどこかを泳いでいる。
それを想像するとなんだか不思議な感じがする。
心の奥の森にいつしか魚のいなくなった湖がある。
そこに青い背をした魚を放した。
そんな感じ。
静かな気持ちだ。
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さて。
次は食う。
多分。
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toridaikanbun · 1 year
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今日の漢文(2023/4/1)
今日紹介する漢文は、陶淵明の『帰去来辞』です。
陶淵明は、東晋から南朝の宋の時代に活躍した、六朝文化を代表する詩人です。陶潜とも呼ばれています。41歳の時に官を辞し、故郷で隠遁生活を送りました。日常生活や農村といった身近なテーマを扱っていることが特徴的で、中でも酒を詠った詩は多くみられます。『帰去来辞』や『桃花源記』は有名な作品です。
原文
歸去來兮,田園將蕪胡不歸?
既自以心為形役,奚惆悵而獨悲?
悟已往之不諫,知來者之可追。
實迷途其未遠,覺今是而昨非。
舟遙遙以輕颺,風飄飄而吹衣。
問征夫以前路,恨晨光之熹微。
乃瞻衡宇,載欣載奔。
僮僕歡迎,稚子候門。
三徑就荒,松菊猶存。
攜幼入室,有酒盈罇。
引壺觴以自酌,眄庭柯以怡顏。
倚南窗以寄傲,審容膝之易安。
園日涉以成趣,門雖設而常關。
策扶老以流憩,時矯首而遐觀。
雲無心以出岫,鳥倦飛而知還。
景翳翳以將入,撫孤松而盤桓。
歸去來兮,請息交以絕遊。
世與我而相違,復駕言兮焉求?
悅親戚之情話,樂琴書以消憂。
農人告余以春及,將有事于西疇。
或命巾車,或棹孤舟。
既窈窕以尋壑,亦崎嶇而經丘。
木欣欣以向榮,泉涓涓而始流。
善萬物之得時,感吾生之行休。
已矣乎!寓形宇內復幾時?
曷不委心任去留?
胡為乎遑遑欲何之?
富貴非吾願,帝鄉不可期。
懷良辰以孤往,或植杖而耘耔。
登東皋以舒嘯,臨清流而賦詩。
聊乘化以歸盡,樂乎天命復奚疑?
引用元:ウィキソース「 歸去來辭並序 」(https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AD%B8%E5%8E%BB%E4%BE%86%E8%BE%AD%E4%B8%A6%E5%BA%8F)
書き下し文
帰りなんいざ
田園将に蕪(あ)れんとす 胡ぞ帰らざる
既に自ら心を以て形の役と為す
奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として独り悲しまん
已往(いおう)の諫(いさ)められざるを悟り
来者の追う可(べ)きを知る
実に途(みち)に迷うこと其れ未だ遠からず
今の是(ぜ)にして昨(さく)の非(ひ)なるを覚(さと)る
舟は遥遥(ようよう)として以て軽く颺(あ)がり
風は飄飄(ひょうひょう)として衣(ころも)を吹く
征夫(せいふ)に問うに前路を以てし
晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む
乃(すなわ)ち衡宇(こうう)を瞻(み)
載(すなわ)ち欣(よろこ)び載ち奔(はし)る
僮僕(どうぼく) 歓(よろこ)び迎え
稚子(ちし) 門に候(ま)つ
三径(さんけい) 荒(こう)に就くも
松菊(しょうきく) 猶ほ存す
幼(よう)を携えて室(しつ)に入(い)れば
酒有りて罇(たる)に盈(み)つ
壺觴(こしょう)を引きて以て自(みずか)ら酌(く)み
庭柯(ていか)を眄(み)て以て顔を怡(よろこ)ばす
南窓(なんそう)に倚(よ)りて以て傲(ごう)を寄せ
膝を容(い)るるの安(やす)んじ易(やす)きを審(つまび)らかにす
園(えん)は日びに渉(わた)りて以て趣(おもむき)を成し
門は設くと雖(いえど)も常に関(とざ)せり
策(つえ)もて老いを扶(たす)けて以て流憩(りゅうけい)し
時に首(こうべ)を矯(あ)げて遐観(かかん)す
雲は無心にして以て岫(しゅう)を出で
鳥は飛ぶに倦(う)みて還(かえ)るを知る
景(ひかり)は翳翳(えいえい)として以て将(まさ)に入らんとし
孤松(こしょう)を撫(ぶ)して盤桓(ばんかん)す
帰りなんいざ
請(こ)う 交わりを息(や)めて以て游を絶たん
世と我と相(あい)遺(わ)する
復(ま)た駕(が)して言(ここ)に焉(なに)をか求めん
親戚の情話を悦(よろこ)び
琴書(きんしょ)を楽しみて以て憂いを消さん
農人(のうじん) 余(われ)に告ぐるに春の及べるを以てし
将(まさ)に西疇(せいちゅう)に事(こと)有らんとす
或(ある)いは巾車(きんしゃ)を命じ
或いは孤舟(こしゅう)に棹(さお)さす
既(すで)に窈窕(ようちょう)として以て壑(たに)を尋(たず)ね
亦(ま)た崎嶇(きく)として丘を経(ふ)
木は欣欣(きんきん)として以て栄(えい)に向かい
泉は涓涓(けんけん)として始めて流る
万物の時を得たるを善(よ)みし
吾(わ)が生の行〻(ゆくゆく)休するを感ず
已(や)んぬるかな
形(かたち)を宇内(うだい)に寓すること復(ま)た幾時(いくとき)ぞ
曷(なん)ぞ心に委(ゆだ)ねて去留(きょりゅう)を任せざる
胡為(なんす)れぞ遑遑(こうこう)として何(いず)くにか之(ゆ)かんと欲する
富貴(ふうき)は吾(わ)が願いに非ず
帝郷(ていきょう)は期(き)す可(べ)からず
良辰(りょうしん)を懐(おも)いて以て孤(ひと)り往き
或(ある)いは杖(つえ)を植(た)てて耘耔(うんし)す
東皋(とうこう)に登りて以て舒嘯(じょしょう)し
清流に臨みて詩を賦(ふ)す
聊(いささ)か化(か)に乗じて以て尽くるに帰し
夫(か)の天命を楽しみて復(ま)た奚(なん)ぞ疑わん
引用元:Web漢文大系『 帰去来兮辞(陶潜) 』(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)
単語の意味
帰去來兮:さあ、帰ろう。
形:からだ。肉体。
役:使う。働かせる。使われる。
惆悵:嘆き悲しむ。
已往:以前。過去。
来者:今から後にくる事。将来の事。
是:ただしい。よい。
遥遥:ゆれ動くさま。
飄飄:風が吹くさま。
征夫:旅人。
前路:これから行く道
晨光:朝日の光。
熹微:光がかすかなこと。
恨:残念に思う。
乃:そこではじめて。やっと。
衡宇:木を横たえた軒。転じて、粗末な家。
瞻:見上げる。あおぎ見る。
僮僕:召し使い。
稚子:幼い子ども。幼児。
三径:隠者の住まいの庭園をいう。漢の蒋詡が庭に三径(三つの小道)を作り、松・菊・竹を植えた故事に基づく。
壺觴:酒壺とさかずき。
庭柯:庭の木の枝。転じて、にわき。
倚:もたれる。よりかかる。
寄傲:気ままにのびのびとくつろぐこと。
流憩:あちらこちら歩き回ったり、立ち止まったりして休息したりすること。
遐観:はるかにながめる。遠く見渡す。
岫:山のほら穴。
倦:疲れる。くたびれる。
翳翳:日がかげって薄暗いさま。
盤桓:さまようさま。ぐずぐずしていて進まないさま。
駕:馬・馬車などに乗る。また、牛馬・馬車などを扱う。転じて、役人になる。
情話:まごこころからの話。愛情のこもった話。
琴書:琴と書物。琴を演奏することと読書すること。
西疇:西方の畑
或:あるときは
巾車:ほろをかけた車。ほろ馬車。
孤舟:ただ一つの舟。つれのない舟。
棹: 棹をかいで船を進める。
窈窕:奥深いさま。
崎嶇:山路のけわしいさま。
経:通る。めぐる。
欣欣:草木の生き生きしているさま。
涓涓:水がちょろちょろ流れるさま。
善:心にかなう。喜ぶ。好む。
已矣乎:もうだめだ。これまでだ。絶望のことば。
形:肉体
宇内:天地の下。天下。世界。
寓:身をよせる。仮住まいをする。
幾時:どれほどか。疑問・反語。
去留:去ることと、とどまること。死ぬことと生きること。
胡為:どうして~しないのか、いや、~しない。
遑遑:あわただしいさま。
富貴:家が富んでいて身分が高いこと。
帝郷:仙人のいるところ。
期:あてにする。希望する。まつ。
良辰:おだやかで気持ちの良い日。
耘耔:田畑の雑草を取ること。草の根元に土をかけること。
東皋:東方の丘。また、東方の田畑。
舒嘯:ゆるやかにうそぶく。静かに口ずさむ。
聊:かりそめ。しばらく。
尽:死ぬ。命がつきる。
参考文献:大修館書店『新漢語林 第二版』、尚文出版『必携 新明説漢文』
現代語訳
さあ帰ろう、
田園は荒れ果てようとしているのにどうして帰らないのか。
自分から精神を肉体のしもべにしてしまったのだ、
どうしてそれをひとり嘆き悲しんでいてよいだろうか。
過去は訂正できないと悟り、
未来を追い求めるべきだと知った。
まことに道には迷ったがそれほど遠くへは行っていない、
(引き返してみて)今が正しく昨日までが間違っていたことに気づいた。
舟ははるばるとした水面をかろやかに船首を上げて進み、
風はひらひらと我が衣を吹く。
旅人にこれから先の道のりを聞いてみる。
朝の光がうっすらとおぼろなのが恨めしい。
やっと粗末な我が家が見えて、
喜んで走り出した。
子どもや下男がうれしそうに出迎えてくれ、
幼い子は門の所で待っている。
庭の三本の小道は荒れ始めていたが、
松と菊はまだ元気に残っている。
幼子の手を引いて部屋に入ると、
酒が樽にいっぱい用意してある。
徳利と杯を引き寄せてひとりで飲み、
庭の木の枝ぶりをながめて顔をほころばせる。
南の窓辺に寄りかかって何にも縛られない気持ちを託し、
やっと膝が入る狭い空間の居心地のよさをじっくりと味わった。
庭は毎日歩いていると自然と味わいもでてきて、
門はこしらえてはあるがいつも閉じたままである。
扶老という藤で作った杖をついてしばらく休憩し、
時に顔を上げて遠くをながめやると、
雲は無心に山の峰から出て行き、
鳥は飛ぶのに疲れてねぐらに帰るのを心得ている。
日はほの暗く西の山に沈もうとする、
わたしは一本松をなでて立ち去りがたくたたずむ。
さあ帰ろう、
世間との交遊をきっぱり断ち切ろう。
俗世とわたしとは互いにそむき合っているのに、
もう一度仕官していったい何を求めようか。
親戚の者たちの心のこもったことばにうれしくなり、琴と書物を楽しんで憂いを消そう。
春がやってきたと農夫がわたしに知らせてくれた、
西の田畑でいよいよ仕事が始まる。
幌車を命じてそれで行くこともあれば、
一そうの小舟に棹さして行くこともある。
舟では奥深い谷川をたどりゆき、
車では険しい丘を通った。
木はうれしそうに生き生きと花をさかせようとし、
泉はちょろちょろと流れ始めている。
万物が春のよき時節を得たのを喜び、
(それにひきかえ)自分の生命が死に近づきつつあるのに心を痛ませる。
どうしようもないことである。
肉体を宇宙の間に寄せるのがどれくらい長いというのか、
どうして心を預けて自然の運命に任せないのか。
どうして慌ただしくどこへ行こうとするのか。
富と高い地位は私の願うところではない、
仙人の世界も当てにはできない。
おだやかな良い日を待ってひとりで出かけて、
杖を立て草を刈ったり苗に土を掛けたりする。
東の丘に登ってゆるやかに口笛を吹き、
清らかな流れを見下ろし詩を作る。
まあまあ大自然の変化に任せて死へと帰ろう。
あの天命なるものを楽しんでもう何をも疑わない。
引用元:釜谷武志「ビギナース・クラシックス 中国の古典 陶淵明」 角川文庫
参考文献:世界史の窓「陶潜/陶淵明」(https://www.y-history.net/appendix/wh0301-073.html)
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mskdeer · 2 years
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渓谷竜シリーズ時系列
竜シリーズ時系列と流れまとめ。ルアハの花(本編)より前を前日譚に分類してます。
朽ち葉の塔の公子 竜が生まれた
Liberta Libertus 竜が神話になった
木洩れ日の竜殿、一筆申し上げます 竜が大陸になった
聖アヴァルクの儀仗官 竜の大陸が繁栄した
ルアハの花 竜と出会った(本編)
細濁り 竜が死んだ(分岐未来)
星の落日 竜の呪いを解いた
Blauer Dunst 上記全てと同じ時間軸
以下、大変なネタバレ。
*
上記のリスト数字と下記のリスト数字は特に対応していません。
「朽葉の塔」で竜スマラグドが生まれ育ち、故郷でたった一人生き残った彼は「LL」で神と崇められた。ここまでが神話の時代と呼ばれる。後世の宗教では、以上の世界は極楽浄土や天国的な扱いをされる。
「LL」で竜同士の争いが勃発。世界は崩壊の危機に瀕し、神話の時代は終焉を迎えた。陸地を支えていた星の落日(大陸)が海に沈み、多くが水底に消えた。辛くも生き延びた人々は竜の遺児たちに誘われ、竜の死体の上へと逃げ込んだ。
竜の身体にたどり着けなかった者は、わずかに残った陸地に身を寄せ合った。だが秩序たる竜を失った外界では、彼の遺児たちが狂気に呑まれていく。人を庇護していた物が一夜にして怪物に変わった世界で人々は無限に続く暗黒時代を耐え忍んだ。
かたや、竜の身体がひとつの大陸の形を成すと、「木洩れ日」で国が成立した。木洩れ日の国は大陸竜と縁深い金目の人々が作った。そのため竜大陸は繁栄し、人が生きるにふさわしい肥沃な地となった。以降、同大陸では様々な国が興り、「聖アヴァ」にて帝国や連邦国といった本編の主要国家が登場するようになる。
こうして本編「ルア花」の時代が到来した。堕ちてなお衆生を守らんとした大陸竜。そして親竜を愛した、翼を持つ遺児たち。金目の秘密が暴かれ、魔法と呼ぶ存在が紐解かれ、竜の遺児たちが胸に秘め続けた想いが語られる。かくて意志を継ぐ者が現れた時、大陸竜の物語は終わったかのように思えた。
この時、主人公の一人がある選択を迫られる。その選択によって竜の生死が分かたれた。竜死亡ルートでは、大陸は沈む。海溝深く、深海のもっともっと奥まで沈む大陸。そこで竜の身体は腐り続けた。やがて魔力を持った屍体は黄泉となり新しい生命を生み出す。昏、と呼ばれし妖を。彼等は「細濁り」の世界で人と共存していく。
いっぽう、竜生存ルートの正史では。全てが丸く収まったかのように思えた二年後、かつて大陸竜が身に受けた呪縛が後継者にまで及んでいると判明した。新しき竜の友人は、「星落」にて人の身を捨てた友を救う手立てを求めて、大陸の外へ飛び出した。
大陸の外では狂気に呑まれた遺児や幻獣が人々を圧倒していた。竜大陸は世界の光だった。外界は一寸先も見えない闇だった。それでも人々は命を繋ぎ、同じ人間とは思えぬほど膨大な魔力を自在に操っていた。この地で出会う多くの遺児、竜の力の源、全てを知れば後継者を呪縛から解き放つ方法はおのずと見つかった。この後日譚を以て、大陸竜スマラグドに連なるストーリーは完全に終わる。
だが、神話の時代に竜が落とした右の片角――異邦人である金目ニアラスについては全ての謎が明かされていなかった。なぜ彼は神話の時代に単独で動いていたのか。なぜ彼だけ永遠と転生しつづけたのか。なぜ、竜の朋友たる魔女シャルディニーは理の外に触れることが出来たのか。物語は竜の生きた世界を離れ、近未来SF「BD」の世界へ。
最後の主人公はスマラグド。たぶん。
.
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kachoushi · 2 years
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雑 詠
花鳥誌 令和5年1月号
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雑詠巻頭句
坊城俊樹主宰選 評釈
雑詠巻頭句
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鎌倉に秋草を引く柏翠忌 馬場 省吾
 鎌倉は寿福寺あたりか。九月の秋の草をそこで引く。柏翠もこの寺に幾度来たことか。すべてそれも虚子や年尾との繋がりにあった。私も幾度かそこでお会いした。まだ小学生のころから。その時から柏翠さんはベレー帽を被ったお爺さんだった。
愛子墓小さし秋草にも世にも 馬場 省吾
 寿福寺に愛子の墓と称する墓石がある。お骨が分骨されてはいないと聞いていたが、確たることは知らない。斜めに虚子の墓へ向いている。その距離はたった数メートル。柏翠が建てたとも。小さな品の良いそれは秋草によく似合う。そして世の中へも謙虚に背を向けて立っている。
寿福寺に一礼萩を見て去りぬ 馬場 省吾
 これはそこを去るときか。萩の路から帰るとき。寿福寺の門はとても小さい。そこの墓園には虚子、年尾、立子、晴子などの墓と北条政子の墓なども。この特別の空間は俳人としての矜恃かも。
破れ蓮の静寂に焦れて亀の浮く 勢木 宇太郎
 蓮池の静寂は深い。その池は静謐で何の音すら無い。亀は焦らされて浮いてきた。どれも神の手捌きによるものか。深閑とした苑の池を思う。
割れ初めてルビーの覗く石榴かな 勢木 宇太郎
 石榴の実をルビーと見なした。それは尊く美しい。割れてやっと顔を覗かせたそれは命の源泉。比喩を上手くつかった句の見事な完成体。
大音声稲に潜りし群雀 勢木 宇太郎
 「だいおんじょう」と読ませたい。雀たちの騒々しさ、というよりそれは喝采か。実った稲の林り中にそれは隠れている、しかし次の瞬間、それは轟音となって飛翔する。
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あめつちの闇をほぐすや星月夜 宮崎 悠紀子
 闇をほぐすという措辞が美しい。天地の空間に鏤められた闇や星をこの空がほぐしている。一幅の絵であり詩である。
大花野彼の世此の世の境なく 宮崎 悠紀子
 花野というものはその境が曖昧。それはこの世から彼の世への入り口か。桃源郷のようなそれに迷い込むとどちらの世界か曖昧となる。
秋冷のとどく早さやおくれ髪 宮崎 悠紀子
 この女性の嫋やかなおくれ髪。すっと耳の横へ流れている。そこは既に秋冷の世界。品の良い色香が流れる。
人去りて寺門の錆や後の月 佐藤 ゆう子
 静寂の寺。後の月の寂しさがより一層。錆びた門の金具がそれを象徴する。
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甓墓に燃え移りたる曼殊沙華 四本木 ただし
 この由緒ある、しかしもうかなり古い墓に曼殊沙華の赤が燃え移る。生命の深淵。
現し世のどんぐり星霜の墓碑へ 棈松 政江
 この世の団栗とて乾く定め。歴史を刻む墓碑はかなり古く百年は経つか。
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稲架掛けて風に段畑あけ渡す 松本 洋子
 やっと稲架をかける段取りに。全ての風はそこへ駆け上ってくるのか。
時計塔の針晩秋を指してをり 岩佐 季凜
 かなり大きく高い塔だろう。その針は大空の晩秋の方向を指している。もう冬。
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空稲架や今も煙吐く御岳山 上嶋 眞理子
 何も掛けていない稲架。その遠くには今も活火山の噴煙が上がっている。
城濠へ空明け渡す敗荷 杉原 久美子
 敗荷はどこか敗残兵を思う。城のお濠の空もまた明け渡さねばならない。
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mofmofp · 2 years
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ぬかびら源泉郷の足湯と紅葉 北海道 Nukabira Gensenkyo footbath and autumn leaves Hokkaido...
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sac0518 · 4 years
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. あぁ、この自然を求めて帰ってきたんだあ〜っていう1日🌿 空気も美味しくて、都会の雑踏もなく、満点の星空見える露天風呂があったり、、、💫 すごーく素敵です、上士幌🐄 辻さん案内ありがとうございます💓 西野くん運転ありがとう🥺✨ 今度は弾丸ではなく、みんなでゆったり温泉旅行したい😊 . #20200930 #上士幌町 #ナイタイ高原牧場 #tobachi #tobachiハンバーグ #dreamhill #道の駅かみしほろ #ぬかびら源泉郷 #糠平温泉中村屋 #めがねばし #タウシュベツ川橋梁 #タウシュベツ展望台 (北海道上士幌町) https://www.instagram.com/p/CFzOUMqhsoq/?igshid=1sipaduvh0tlj
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amiens2014 · 2 years
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タウシュベツ川橋梁/北海道上士幌町【日本唯一の季節によって見え隠れするアーチ橋】
タウシュベツ川橋梁とは タウシュベツ川橋梁(タウシュベツがわきょうりょう)は、北海道上士幌町の糠平湖にある、旧国鉄士幌線のコンクリート製アーチ橋だ。 夏頃には湖底に沈むため幻の橋といわれる、日本唯一の季節によって見え隠れするアーチ橋とされる。 1937年完成、長さ130mのコンクリートアーチ橋です。 ダムの水が少ない1月頃から凍結した湖面にその姿を現わし、水位が上昇する5月頃から沈み始め、夏頃には湖底に沈みます。このように、季節によってその姿が見え隠れするアーチ橋は日本でここだけで、それが幻の橋といわれる所以です。 旧国鉄士幌線 タウシュベツ川橋梁 | 上士幌町観光協会/四季折々の感動エリア ひがし大雪 KAMISHIHORO から引用 タウシュベツ展望台 北海道河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷 (more…)
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yoga-onion · 4 years
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Japanese Mythology & Deities
Major Gods in the Chronicles (4)
Kamimusuhi-no-kami
~The god of resurrection and rebirth of life
It is considered one of the three gods of creation, the third one to appear after Ame-no-Nakanushi and Takamimusubi.
The divine name means "spiritual power of divine generation". Together with Takamimusubi, it is a being who deifies the generative force, but while Takamisubi is strongly related to the "heaven", this god is strongly related to the "earth".
It is notable that "earth" in this case encompasses not only the real world (this world), but also in a broader sense the other worlds (the realm of the dead), such as the Borderland of Roots and the Land of the Dead (World of Darkness).
According to the myth of the origin of the five grains in the Kojiki (Records of Ancient Matters), he was the great god who brought forth the seeds of the five grains from the corpse of the goddess Ogetsuhime.
He also resurrected Ookuninushi-no-kami, who had been conspired against him by his elder brother, on two occasions during the suffering of Ookuninushi.
(*Ookuninushi-no-kami is one of the representative deities and is considered to be the presiding deity of the earthly gods.)
In the myth of Okuninushi's nation-building, he appears as an ancestor of Sukunabikona-no-kami of the Everlasting Kingdom (Utopia) and asks Sukunabikona to support him in his efforts to build a nation at a standstill.
日本神話と神様たち
記紀に登場する主な神々(4)
神産巣日神 ~生命の復活と再生を司る神
天地開闢の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)・高御産巣日神(たかみむすび)の次に高天原に出現し、造化の三神の一柱とされる。
神名は「神々しくも神聖な生成の霊力」との意味である。
高御産巣日神とともに生成力を神格化した存在であるが、高御産巣日神が「天」と強く関わるのに対し、この神は「地」との関連が強い。
この場合の「地」は、葦原中国 (あしはらのなかつくに)=現実世界 (現世)だけでなく、広い意味で根堅洲国 (ねのかたすくに) や黄泉の国など、死者がおもむく他界 (幽界)をも包摂している点で注目される。
古事記の五穀の起源神話によれば、大気都比売神 (おおげつひめ)の屍体から生じた稲麦などから五穀の種をもたらした大御神であり、大国主神 (おおくにぬし)の受難に際しては、兄神に謀殺された大国主神を二度にわたって復活させる。
(*大国主神 (おおくにぬし)は、国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。)
また、大国主神の国づくり神話では、常世国 (理想郷のこと)の少名毘古那神 (すくなびこなのかみ)の御祖先神として登場し、行き詰まった国づくりを少名毘古那神に支援させる。
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ari0921 · 11 months
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我が国の未来を見通す(92)
『強靭な国家』を造る(29)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その19)
宗像久男(元陸将)
────────────────────
□はじめに
 久しぶりに私的なことを書かせていただきます。
4日の土曜日、神保町まで足を運び、開催中の「神
田古本まつり」で手当たり次第に古本を物色したと
ころ、いつものように“即決”を繰り返し、なんと
12冊もの書籍を一挙に購入してしまいました。
“秋の夜長”などと悠長なことは言っておれない日
々を送っているのですが、ジャンルも違い、著者も
発刊年次もばらばらな書籍をみて、改めて自分の
“好奇心の旺盛さ”に驚くほどでした。
実は書きたかったことは別にあります。どの書店を
訪れても、古書ではありますが、それぞれの分野の
“専門書”が小説や雑誌などに交じって“所狭し”
と陳列されていました。改めてそれぞれの分野の研
究に一生を捧げ、書籍のような形でその職責を残さ
れた専門家の皆様のご苦労とか責任とか愛情とかが
伝わってきて感慨深いものがありました。
そして、古本だけによけいに時代の流れとか歴史を
感じ、その積み重ねの延長に“現在社会”があるこ
とを再認識し、改めて自分の浅学菲才を恥じ、敬意
を表するばかりでした。
最近は、必要な古書はほとんどアマゾンで買ってし
まいますので、本当に久しぶりの神保町でしたが、
もう少し時間の余裕ができれば、足を運ぶ回数が増
えそうです。
5日の日曜日は、「ゴジラー1.0」の映画を観賞
しました。これから観られる人たちのためにあらす
じの紹介は省略しますが、終戦直後の東京にゴジラ
が上陸するというシーンでした。
ゴジラ自体はフィクションなのですが、ゴジラに立
ち向かった主人公をはじめ、関係者の勇敢さはみご
となものでした。しかし、それ以上に、製作者がこ
の映画を通じて訴えたかった、当時の「日本人の精
神」のようなものが手に取るようにわかり、「日本
もまだこのような映画が作れるのだから“捨てたも
のではない”」と安堵しつつ、本映画の製作自体に
感動して涙が流れました。この“捨てたものではな
い”の続きは、本論で取り上げましょう。
▼「国家意思」として目指したいこと
 さて前回の続きです。一般的な意味で「伝統」と
か「文化」などと言っても、具体的なことがわから
ないと実際に「誇り」を持つことなどできないでし
ょう。
しかし我が国は、実際には、他の国にはなく、日本
(人)独特の「良さ」とか「利点」とか「強み」な
ど表現される、いわば“本質的特性”のようなもの
がたくさんあります。それらが実際の「伝統」や
「文化」を形作っているのでしょうし、「誇り」の
対象にもなり、かつ個人の意思や精神の集大成とし
て「国家意思」のコア(核)として“目指す方向”
にも直結するものになると考えます。
戦後の“行き過ぎた教育”のせいもあって(その細
部はのちほど触れましょう)、多くの日本人の頭が
消え去ってしまっている、日本(人)の“本質的特
性”のようなものについて、有識者が紹介している
ものを列挙してみましょう。
まず、ケント・ギルバート氏は、「日本で左派思想
に惹かれる人々の中にも、実は驚くほど『伝統的な
価値観』なるものを持った人がいる」として、安倍
総理の『美しい国、ニッポン』に猛反発しても、日
本という国や郷土に対しては、何の嫌悪感を持たず、
むしろ絶対的な信頼と愛着を持っていることを強調
し、つまるところ、彼らも“純粋すぎる日本人”で
あると結論づけています(『ついに「愛国心」のタ
ブーから解き放される日本人』より)。
この指摘のように、巷には、(偏ってはいても)強
いプライドとシャイさが同居しているような“純粋
すぎる日本人”がたくさん存在することは事実です
ので、ケント氏のこの結論にこそ “彼らをしてその
気にさせる”大いなるヒントが含まれているのでは
ないでしょうか。
保守層がよくやっている、“上から目線でたたみか
ける”ような物言いでは彼らの反発を強くするだけ
で、心を動かすことは難しいと考えます。知的レベ
ルの高い人(特に高齢者)ほど自分自身(の考え方)
に自信を持ち、プライドも高く、信念も強いでしょ
うから、これを“軟化”するのは簡単でないことを
知る必要があるのです。
加瀬英明氏は、「日本は『和』の国である。日本の
『和』の心は他国には存在しない。日本の『和』は、
人々が合意することによって成り立っているもので
はなく、人々が意識することなく存在している」と
語ります(『新しい日本人論』〔加瀬英明、石平な
ど共著〕より)。
加瀬氏は、その「和」は“性善説”に基づいている
として、国内的には大きな強みだが、“性悪説”を
とっている他国には通ぜず、国外に対しては大きな
弱点になることも指摘しています。
これこそが、これまで再三述べてきた“孤立国・日
本”の限界でもあり、「和」の考え方が、人類社会
の理想に近いものであっても、これを世界の隅々ま
で普及させるのは永遠に不可能であると悟り、“で
はどうすればよいか”を詰めていく必要があると考
えます。
数学者の藤原正彦氏は、「この国は再生できる」と
して「美意識と武士道精神で、危機の時代を生き抜
く」、あるいは「『日本人の品格』だけが日本を守
る」ことを強調しています(『日本人の真価』より)。
その卑近な例として、このたびのコロナ禍において、
「人権に気を取られている民主主義より全体主義の
方が人の命を救う点で優れている」と主張しつつ
“強権”を最大限に活用した中国と違い、あるいは、
国民の自由に任せたところ、大パニックに陥って膨
大な犠牲者を出す結果になった欧米列国とも違い、
日本は、医療従事者の献身をはじめ、国民の高い公
衆衛生意識、規律や秩序など高い公の精神などの
“高い民度”を活用して、自粛要請という静かな決
意でコロナを抑え込んだことを取り上げています。
この事実は、世界的意義のあること結論づけます。
以前にも紹介しましたが、『「見えない資産」の大
国・日本』(大塚文雄、R・モース、日下公人共著)
は、中国やアメリカにはない強みとして、日本は、
「インタンジブルズ」の宝庫であると強調します。
つまり、「日本人には美を求める心や平和を尊ぶ心
や愛の心がたくさんある。また『道徳心』『好奇心』
『忠誠心』『愛国心』などが、どこの国にも見られ
ないほど豊かである」として、これら“無形のも
の”が、場面場面で「一生懸命」とか「工夫する」
とか、「約束を守る」「仕上げに凝る」「仲間を助
ける」などの“形になって現れる”と強調していま
す。
私が尊敬する奈須田敬氏は、東日本大震災の直後の
平成23年に『天下国家を論ず』と題して、30年
にわたって発刊し続づけた『ざっくばらん』巻頭言
20選を取りまとめた1冊を上梓しました。
本書の最後に「何百年に一度かの天変地異に見舞わ
れて、現実は見るとおりの悲惨さ、というほかはな
い。こうなっては総理大臣、一市民のちがいもない。
与党、野党のちがいもない。日本国民は肩をこすり
あわせていきのびていくほかあるまい。─そう腹を
決めたころから、新しい日本国民の芽生えを見出す
ことができそうだ。その芽は『ボランティア』とい
う形ですでにかいまみせている」として「90年の
生涯もけっして無駄ではなかった」と結んでいます。
ガザ地区などでも現に起きているように、他国なら
略奪が発生してもおかしくないような悲惨な状況の
中で、被災者は食べ物を分け合い、文句を言わず長
蛇の列に並び、そして多くのボランテイアが被災地
に入って、泥だらけになりながら様々な活動を続け
ました。奈須田氏は、そのような日本人の姿を“芽
生え”としてとらえ、安堵されたのでした。
保守の論客・中西輝政氏は、自書『強い日本を目指
す道』の中で、「グローバル化した世界だからこそ、
その中で日本はむしろ、つねに『フルセット自前主
義』の文明伝統に立ち返り、多極のなかで、『一極
として立つ』という気概を示さねばならない。多極
化世界でこそ、「自立の日本」を求められ、また可
能となるのである」と提言しています。
この続きは、読む人が読めば感動ものでしょう。
「この気概に気がつけは、再び日本が世界を引っ張
っていく存在になることは不可能なことではない」
として、「安定した時代の日本人は、皆『和魂(に
ぎみたま)』の持ち主で、『荒魂(あらみたま)』
は眠り込んでいる。『和魂』は『目的喪失』危険も
背中合わせなのである。だがひとたび危機の時代が
到来すると、必ずや『荒魂』が眠りから覚め、『目
を覚ませ日本!』と訴える。そして、世界の人々も、
その声に耳を傾ける」と訴えます。
そしてこうしたリズムを繰り返すのが日本文明の一
大特徴なのであり、「もはや途絶えた」と見えても
「地下水脈」として日本人の奥深くに流れている。
これこそが日本文明の核心たる「大和心」であり、
「日本の底力の源泉」であると結論づけています。
さらに、「このことのもつ、ただならぬ重要性に気
づいて、教育の場やマスコミでどんどん論じられる
ようになれば、日本人は急速に力を発揮する・・・
それは各時代の日本人が証明してきたことだ」と付
け加えます。中西氏もまた、日本は“豹変”する国
であることを分かっているのではないでしょうか。
▼「国家意思」を表明することがスタート
いかがでしょうか。これらはほんの一例に過ぎない
と考えますが、冒頭の「ゴジラー1.0」で述べた
ように、私が「日本はまだまだ捨てたものではない。
まだまだ明るい希望が持てる」との想いを強く持て
るのは、まさにここに紹介したようなところです。
しかし、“希望を現実のものにする”には大ナタを
振って荒治療する必要があることも事実でしょう。
顧みますと、戦後のわが国は、GHQの巧妙な「対
日戦略」に何ひとつ逆らうことなく国家を運営して
きました。講和直後の「吉田ドクトリン」などはそ
の典型と考えますが、それからしばらく経って、G
DPが戦前を上回った1956年頃から「もはや戦
後ではない」との言葉を一人歩きしました。また、
安倍元総理は、「戦後レジームから脱却」を掲げ、
「教育基本法」の改正にも着手しましたが、その成
果が上がっているとは言えないことはすでに取り上
げました。
これらを総括するに、戦後世代の最大の過失は、
「国家100年の計」といわれ、後に続く世代の
「教育」に特段の関心を持たないまま放置してきた
ことにあると言えるのではないでしょうか。
つまり、GHQによる強制的な“墨塗り”教科書の
内容を見直すことなく、70数年あまり、“行き過
ぎた教育”を継続してきました。その結果、ここに
紹介したような、日本の“本質的特性”を若者に教
え、多くの日本人に認識させることができないまま
時が流れました。
このような状況を創った最大の要因も終戦直後まで
さかのぼると考えます。少し補足しましょう。少し
前の調査結果によれば、「自衛隊は憲法違反だ」と
答える憲法学者は約6割を数えるそうですが、素人
の私などからみても、憲法第9条を正確に読めば、
この数字は法理論的には納得できない数字ではない
と考えます。問題はそれから先です。この6割の学
者のほとんどが「だから自衛隊を解体しろ」の方に
走ってしまい、「自衛隊抜きでは国防が成り立たな
い。これは一大事だ。憲法を改正しよう」と声を上
げている人は数えるほどしかいない状態が続いたの
でした。
言葉を代えれば、最も高い知性を有すべき法学者を
して、法理論の解釈を先行するあまり、「国防」と
か「国のあり方」などに疑問や関心を持たない程度
の“知的レベル”に留まってしまいました。
戦前の反省や軍への反発などについて理解できない
��けではないですが、極端な話をすれば、「こちら
から泥棒に入らなければ、我が家に入る泥棒はいな
い。よって、戸締りをする必要はない」と言ってい
るようなものなのです。そのようなことになぜ疑問を
持たないのか、私は長い間、理解不能でした。
そして、このような恩師(達)のもとで、同じよう
な思想や法理論を叩きこまれ、自らの知性や主義主
張になんら疑問を持たないまま拡大再生産された多
くの大人たちが、やがて法曹界、教育界、経済界、
さらには政治家、官僚、有識者、マスコミ人などそ
れぞれの分野を“牛耳る”ようになりました。最近、
政府の有識者懇談会による「日本学術会議に社会貢
献要求」との記事を見つけ、当会議はこれまで“社
会貢献すらしなかったのか”と呆れました。
このような状態では、「国家100年の計の教育を
見直そう」との雰囲気などできるわけがなく、70
数年余りの長きにわたり「教育」は放置されたまま
になってしまいました。私たち大人世代は、最近の
「Z世代」を批判する資格はないと言えるでしょう。
自分たちが「Z世代」を生んできたのですから。
さて、話を戻しましょう。周辺国が“日本をこのま
ま眠らせておき、覚醒しないように”と歴史問題な
どを蒸し返す狙いは、紹介したような日本(人)の
“本質的特定”に“こわさ”を感じているからなの
かも知れないのです。その考えが過剰防衛に走り、
軍事力の拡大路線を走らせている要因の一つになっ
ていると言えるでしょう。
私たち日本人は、認識しているか否かは別にして、
日本文明の「心」あるいは「コア(核)」とも言え
るような特性を依然として保持しています。保持し
ていることが日本人のアイデンティティそのもので
しょうから、これらを「誇り」として、今こそ、個
人の意思や精神の集大成として「国家意思」の“目
指す方向”に掲げることを求められていると考えま
す。
戦後の「教育」によって造成された価値観に凝り固
まっている人たちにとっては、“思いもよらない”
「国家意思」のたたき台を提示されても、にわかに
賛同することはないでしょうから、我が国の無形の
「資産」として後世に残すべき日本文明の「心」を
謳うことについては譲れないとしても、どのような
言葉や文章をもって表現すればよいか、などについ
ては最大限の工夫が必要でしょう。
そのような内容を包含する「国家意思」を表明する
ことがスタートであり、それを受けて、中西氏の言
うがごとく、政界や教育界やマスコミ界で活発な議
論を展開して頂きましょう。その結果、本質さえ変
わらなければ若干の修正は“良し”としましょう。
いずれにせよ、「国家意思」の表明がスタートであ
り、「国家戦略」とタッグを組むことによって、輝
かしい未来をつかみ取ることができると私は確信し
ています。今回はこのくらいにしておきます。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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liliyaolenyeva666 · 3 years
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🎼 01243 「Unconditional Love」。
2021年10月7日。北海道は十勝地方の北のあたり、上士幌町にあります、アイヌのことばで "人の形をした岩" という意味らしい "ぬかびら源泉郷" で最低気温 -0.4℃、稚内市の中の声間村沼川で -0.4℃、日本最寒記録を持つ 雨竜郡幌加内町の朱鞠内 (シュマリナイ) で -0.1℃を記録し、今季初めての "冬日" を迎えた日、パキスタン・イスラム共和国 (Islamic Republic Of Pakistan) のどこかにあります "バルチスタン (Balochistan)" で M5.9の大きな揺れが起き、その辺りで暮らしている方々が被害 (相当数の負傷者が生じている模様) を受けているやうで、ヤバミだなって思ったその日の夜 22時41分頃、M6.1の強い揺れが 千葉県北西部で起き、ただでさえヤバミな有様な我が家が さらに こっぴどくヤバミになりました。そんな中、ジャレコの "忍者くん" だったらいいなって感じの 忍者グッズを頂きました。
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nanaya-waterfall · 4 years
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暗チで行く北陸旅行・3日目
<8月8日①・石川県羽咋市・コスモアイル羽咋> 羽咋市には世界の宇宙探索の歴史を詳細にまとめた博物館があります。宇宙船の素材や宇宙の構成、探索に行ったときの人選等展示があり科学的な勉強にはもってこいの場所かと思うのですが、色々突っ込みしかないです。 ヘタリアのアメリカさんのお友達ことトニーさんを熱烈に推していまして、羽咋駅や市街地は宇宙人でちらほら。どこぞの仮面ライダーアマゾンズではありませんが、「お前は誰だ!!」とシャウトしたいです。
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駅前のレトロアンティークを楽しめる純喫茶で軽食をとり、トーストにクリームコーヒー、フルーツトマトを頂きました。ふわふわなトーストにクリームかけると優しい甘さが広がります。鉄や錫を使うアンティークはメタリカやマライヤの独壇場だったりして・・・
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<8月8日②・加賀温泉郷・山中温泉> 1年ぶりに加賀温泉に来ましたが今回は山中温泉に宿泊。温泉街のなかでも此方の温泉は比較的静かなところです。(昨年は身内に引きずられて山代温泉へ。市街地から離れた宿が山代温泉より多いのかな?) 町の総湯まで遊びに行くとちょうど櫓時計が動いていました。山代温泉同様、総湯を中心にお土産屋さんや喫茶、美術館を楽しむことができます。
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足湯や飲泉は出来ますが、タオルの扱いやコップの持参、密を避けた利用など注意書きが仔細に書かれています。コロナの影響は小さくないですね。ロマンシング佐賀で嬉野温泉の蒸し湯を経験してから足湯が楽しみですが、どこも源泉に近い場所だからかべらぼうに熱いっす。前にゾイドで撮影したときお湯の熱さでプラが変形するかと思いました。
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<8月8日③・加賀温泉・山中温泉> ご主人自ら館内の調度品を設えたり料理に使う器を選ぶ宿に宿泊しました。古美術の本を何冊か拝読しましたが、書や陶磁器、神仏の歴史を読むことが出来て面白かったです。 一泊目・二泊目は海の幸が多かったのですが、ここでは山の幸を取り入れたお料理を堪能。先に泊まった宿同様、器とお料理で季節や風雅を感じされる趣向を凝らしたものが沢山出されました。なかでも、冬瓜やキュウリをくりぬいて器にしたお野菜のジュレに度肝を抜かれました。メローネ・・・お前ともあろう者が何故こんなにも変わり果ててしまったのか・・・
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benediktine · 4 years
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【曽野氏コラム、共生願う心に波紋 「国際社会で通じぬ」】 - 朝日新聞デジタル : http://www.asahi.com/articles/ASH2J5SYDH2JUTIL04H.html : https://archive.is/dtHhu 牛尾梓、清水大輔、山本孝興、斉藤佑介 2015年2月17日05時33分
 {{ 図版 1 : 産経新聞に掲載された曽野綾子氏の文章の一部=時津剛撮影  {{ 図版 2 : 池袋駅周辺では、日本の店に混じって中国系の商店が軒を連ねている=16日夜、東京都豊島区、山本孝興撮影 }}
 外国人と居住区だけは別にした方がいい――。11日の産経新聞紙上に掲載された作家・曽野綾子氏のコラムが波紋を呼んでいる。ともに住めば摩擦もある。でも、互いに歩み寄れば解決できると、多文化共生を進めてきた街の住民たちは語る。(牛尾梓、清水大輔、山本孝興、斉藤佑介)
 {{ 曽野綾子さん「アパルトヘイト称揚してない」 : http://www.asahi.com/articles/ASH2J5TWDH2JUTIL04N.html : https://archive.is/d8X8t : https://benediktine.tumblr.com/post/622611700505591808/ }}
 「居住を分けることはまさにアパルトヘイト。看過できない」。産経新聞社と曽野氏に抗議文を出したNPO法人アフリカ日本協議会の斉藤龍一郎事務局長は言う。  南山大(名古屋市)などで講師をする南アフリカ出身の歌手プリスカ・モロツィさんは曽野氏の主張について「どうしてそんなことが言えるのか。アパルトヘイトでたくさんの黒人が死んだのに」と憤った。
 11日の掲載後、ロイター通信など海外メディアは「首相の元アドバイザーがアパルトヘイトを称賛」などと報じた。ネット上で問題視する声が広がり、プリスカさんも日本に住む英国の友人からフェイスブックで教えられ、同郷の友人らともネット上で議論した。
 両親はザンビアに亡命。南アの祖母宅を訪れた際には、白人の警察官に「ニガー(黒人の蔑称)」と呼ばれた。バスもトイレもすべて白人とは別。母の実家は土地を奪われ、反アパルトヘイトを唱えた親戚は殺された。プリスカさんは「日本人はほかのアジア人より上だと思っているの? 私たち人間に上も下もない」。
 東京・大久保に15年前から住む40代の韓国人男性は「ばかげている。国際社会では全く理解されない主張ではないか」。
 来日当初は、部屋探しで不動産業者から「外国人お断り」と言われることが多かったが、最近では中国や中東の人たちも普通に暮らす。半面、ヘイトスピーチがきっかけで商店の客足は激減。「居住は別という考えもヘイトスピーチも、異なる相手を一方的に拒絶する点で同じでは」
 南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使らからの抗議を受けて、産経新聞は15日朝刊で小林毅・東京編集局長が「(コラムは)曽野氏ご本人の意見として掲載した。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」とコメント。同社広報部は16日、朝日新聞の取材に「15日に掲載した記事以上にお話しすることはありません」とした。(牛尾梓、清水大輔)
 群馬県大泉町では1990年の入管法改正後、企業城下町として日系人労働者が集中し、ピーク時の08年には町の人口約4万2千人のうち日系ブラジル人が5140人(12・2%)を占めた。
 町多文化共生コミュニティセンターによると、当初は、ゴミ分別の習慣がないことや、週末のバーベキューパーティーの騒音などで、地元住民との摩擦も少なくなかったという。
 日系3世の平野勇パウロさん(36)は「自分たちのコミュニティーで完結して交流を持つ必要もなかった」。だが互いを理解しようとする姿勢が生まれ共生が進んだ。町は月1回、ポルトガル語の広報紙を配布。平野さんも日本人向けにブラジル人コミュニティーを紹介する季刊紙を発行した。
 東京・池袋。地元の豊島区観光協会の斉木勝好会長(76)は中国人店主らにこう繰り返したという。「私たちも中国の文化を理解する。だから、あなたたちも日本人の作法を理解して」
 90年代ごろから、家賃の安いアパートに中国出身の留学生らが集まり、次第に中国系商店も立ち並びだした。通りに勝手に物を置く。商店街の会費も払わない。そんな姿勢だった店主らも少しずつ日本の文化になじんできた。中国系2世の店主らが商店街の役員にもなった。
 斉木さんは「他国の文化を受け入れるには時間がかかる。それでも、少しずつ歩み寄り、理解することで共生出来る。それを拒めば、対立しか生まれない」と話した。(山本孝興、斉藤佑介)
■《メディア間で検証を》
〈山田健太・専修大教授(言論法)の話〉 日本では人種差別表現を直接規制する法はない。メディアが表現の限界を自主的に検討するかたちで社会的合意が作られてきた。人権への配慮は報道機関の倫理であり、編集権を担う者は、記事でも外部筆者のコラムでも、人種隔離を肯定する言論を載せるべきではない。ただ、部落差別問題と同じで、差別用語の使用自体が問題なのではなく、文脈での内容の批評が必要。今回の表現が、批判されているような「アパルトヘイトの美化」なのかどうか、メディア同士で検証、批判し合うべきだ。
■《国際問題になりうる》
〈日本の南米系移民や排外主義に詳しい樋口直人・徳島大准教授(社会学)の話〉 国際的に「人道に対する罪」と確定しているアパルトヘイトを肯定するような内容で、国際問題になりかねない。ホロコーストにも良い点があったという発言に近い発言であることを認識する必要がある。アパルトヘイトは提唱していないと言うが、居住を区切るには法制が必要で、コラムは人種隔離体制で外国人労働力を受け入れよと言っているに等しい。居住を分ける根拠として、生活習慣の違いを指摘しているが、例えば日本で外国人がゴミ出しを守らない例があるとして、それは民族の問題でない。派遣労働や夜勤など生活サイクルの問題だ。
在日外国人にとっては、社会的な排斥と受け取れる内容が、影響力を持つ人の意見として全国紙に載り、社会に浸透していく恐怖感を持つだろう。政治的立場、人権感覚の問題以前に、国際問題となるようなものは、芽を摘んでいく必要がある。
     ◇
■《産経新聞に掲載された曽野氏のコラムの要旨》
 他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい。
 日本は労働移民を認めねばならない立場に追い込まれている。そのためのバリアは取り除かねばならない。同時に移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。それは非人道的ではない。
 南アフリカ共和国の実情を知って以来、居住区だけは白人、アジア人、黒人と分けて住む方がいいと思うようになった。白人だけが住んでいた集合住宅に、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。彼らは大家族主義で、1区画に20?30人が住みだした。マンションは水の出ない建物になり、白人は逃げ出し、住み続けるのは黒人だけになった。研究も運動も一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい。 {{ 【参考】Hiroko Tabuchi @HirokoTabuchi - 午前11:45 ・ 2015年2月12日 : https://twitter.com/HirokoTabuchi/status/565703246275444737 : https://archive.is/xG0pZ : https://benediktine.tumblr.com/post/622609584430923776/ }} 
     ◇
●〈アパルトヘイト〉  かつて南アフリカ共和国で行われていた人種隔離政策。約2割の白人支配層が非白人を差別し、居住地区を定めたり、異人種間の結婚を禁じたりした。参政権も認めなかった。多くの黒人は都市へ出稼ぎに行き、安い労働力の供給源となった。1960年代から反対闘争が激化。国際社会の批判も高まり、91年にはアパルトヘイト関連法が廃止された。初の全人種参加となった94年の総選挙で故ネルソン・マンデラ氏が同国初の黒人大統領に就任した。
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