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#ポーランド独立記念日
ari0921 · 7 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月1日(金曜日)
『中国の代理人』、最後の『パンダハガー』の大物
   怪物キッシンジャー、毀誉褒貶のなか、百歳の大往生
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 1971年、世界に孤立していた中国に「利」を説いて近づき、反米路線を大胆に修正させたリアルポリティックスの体現者は、その北京秘密訪問が劇的だったので、なぜかアメリカ外交の立役者のように言われた。
 じっさいに現在のホワイトハウスの対中影響力よりヘンリー・キッシンジャーの立場は強いと評価された(台北タイムズ、12月1日)。なお中国語のメディアはキッシンジャーを基辛格(環球時報、連合報)、季辛吉(台湾『自由時報』)と書く。
 キッシンジャーは1969年から1977年までの八年間、米国外交の舵取りを担った。ロックフェラ-の外交顧問だった彼を政権に招き入れたのはリチャード・ニクソン大統領だった。
ニクソンとキッシンジャーが、外交で重視したのはリアリティであり、モラルやイデオロギーより優先し、力の均衡で冷戦構造を形成した文脈では戦後米国外交の立役者ニクソンと並ぶだろう。
 ところがFBIの工作でウォーターゲート事件のスキャンダルに襲われたニクソンがレイムダック入りした時期に、キッシンジャーはするりと外交の主役の座をもぎ取っていた。
 従来の歴史学に重点に置いて学説、地政学の伝統に囚われてき外交を、リアルポリティックの実現に結び、米中関係の回復、ソ連の孤立化を導き出した。これは元来、ニクソン大統領の発想だった。ところが、北京秘密訪問を演じたキッシンジャーにスポットが当たった。
 当時、NYタイムズにでた風刺漫画を筆者は鮮明に記憶している。
ニクソンとキッシンジャーがホワイトハウスの庭を歩いている。柵外からみていた見物人が言う。
「ところでキッシンジャーのとなりにいるのは誰だい?」
 キッシンジャーは泥沼に嵌まっていたベトナム戦争を早期終結されるため、ラオス、カンボジアのホーチミンルートに秘密爆撃をなして圧力をかけ、ベトナムと交渉し、停戦をもたらす「功績」があった。
これでノーベル平和賞をうけたのが、彼の絶頂だったのではないか。
「あのノーベル賞はいかがわしい」とする世評をよそに、トニー・ブレア元英国首相などは「外交を芸術にした」などと褒めあげた。「和製キッシンジャー」と言われた若泉敬(佐藤栄作時代の沖縄返還の密使)は、「キッシンジャーの著作に書かれたことを信用するな」と言っていた。
NYタイムズのコラムには「偽善者」というコラムが掲げられた(11月30日)。
 キッシンジャーは中東和平でもエジプト、シリアを説得し、中東地域の秩序と安定を優先させたが、最大の成果はサウジアラビアとの密約で「ペトロダラー体制」を構築したことである。
 ▼リアリスト外交官の光と影
 一方でキッシンジャーはチリの軍事クーデターへの介入など暗い面も多く、セイモア・ハーシェ、オリバー・ストーン等はキッシンジャーを「戦争犯罪人」と呼んだ。ニクソンを継いだフォード政権下で引き続き米国外交を担い、ときに大統領よりパワフルだった。
 「中国は一つ」という幻影を作り上げたのはキッシンジャーであり、北京訪問は百回を超えたが、台北へは一度も足を踏み入れなかった。『中国の代理人』の面目躍如だ。
 「台湾問題は解決不可能。戦争を避けるには時間の経過をまって、米中の話し合いでしか前進はない」などと台湾を不快にさせる発言が連続した。台湾はキッシンジャーを評価しないのも当然である。
 
 1977年に理想主義を掲げたジミー・カーター政権が誕生すると、晴れ舞台をさった。替わって安全保障担当の大統領補佐官となったのはポーランド系ユダヤ人のズビグニュー・ブレジンスキーというグローバリスト、中国礼賛学者だった。
 大統領当選前の1976年にカンザスシティで開催された共和党大会で、ロナルド・レーガン「キッシンジャーとフォードの下でこの国は、二番手になることは致命的ではないにしても危険な世界で、軍事力で第二位になった」と指摘していた。
 米国の保守派はキッシンジャーを首肯していなかった。
1981年から82年までのレーガン政権では、キッシンジャーは共和党主流派から遠ざけられた。レーガンの支持者の多くがキッシンジャーを蛇蝎の如く嫌った。「反共」の信念が希薄だと言うのである。
このため、かれはロビィ活動と著作活動で、外野席からの影響力を保持した。
 キッシンジャーは1982年に親中ロビィ団体「キッシンジャーアソシエイツ」を設立し、スコウクラフトら歴代大統領補佐官を政権中枢の送り込み、事実上の中国外交を舞台裏で担う。最大の顧客は北京だった。
 晩年にニクソンは言った。
中国の不気味な台頭に「われわれの意図に反して、フランケンシュタインをつくってしまったのではないか?」。
米国外交は道を誤った。
 キッシンジャーは、結果的に「中国の代理人」だったことを忘れてはならないだろう。だから中国はキッシンジャーが訪中すると特別待遇で報い、五月の百歳誕生日にはわざわざ王毅外相がNYの国連本部に近いキッシンジャーのオフィスに挨拶に訪れ、七月の訪中でも習近平がじきじきに会った。
 ▼米国が中国の脅威を認識するに時間がかかった
 中国が軍事大国としてのしあがり、アジアの脅威となると、対中国スタンスを徐々に変えたのはオバマ政権後半からだった。
だが、オバマ政権は外交的手腕のないブレーンで周りを固めたため、大胆な方針の切り替えは出来ず、トランプの登場を待たなければならなかった。
トランプは就任前にキッシンジャーをNYのトランプタワーに呼んだ。しかし彼の言うことを「聞き置く」だけで、はっきりと安全保障方面では中国敵対路線に切り替えた。
この基本方針だけはバイデンも踏襲した。つまり、トランプ政権誕生でキッシンジャーの神通力は消えていたのだ。
 キッシンジャーが拘わった各国は如何なる反応をしたか?
 中国は「中国を理解した最大の友人を失った」とし、「米中時代の終わり」という論調が華字紙に溢れた。
 インドは「彼は一度、インドを蹴飛ばし、やがて近寄ってきた」(『ザ・タイムズ・オブ・インディア』、12月1日)と評価は冷たい。
 イスラエルは「ユダヤ人ならびにイスラエルにとって、キッシンジャーは英雄であり、また悪人である」(『ハーレツ』、11月30日)
 米国は「毀誉褒貶甚だしいが、かれが冷戦構造を形成した」(NYタイムズ)
 「権力こそが最大の媚薬であると信じた世界情勢の巨人」(英紙『タイムズ』)
 キッシンジャーは反日家だった。日本での講演はべらぼうな額をふっかける「商売人」の側面が強くあった。
 それはともかくとして、現在のブリンケンもサリバンも、最後のパンダハガーの威圧的風圧に比べるとその力量たるや、軽い、軽い。
平林たい子が中曽根を評して「鉋屑(かんなくず)のように軽い」としたが、バイデン政権における米国外交の担い手たちの軽きこと!
 ▼ロシアはいかなる反応を示したか?
 モスクワタイムズは次のように報道した(11月30日付け)
「キッシンジャーは、冷戦時代に米国のソ連との緊張緩和の主要な立案者として、米国の外交政策だけでなく、ロシアの外交政策にも消えない足跡を残した。ウクライナ戦争中、ロシアと米国の対立が激化していることに深い懸念を表明する一方で、ウクライナのNATO加盟支持を途中から(23年5月から)主張するようになった。」
 英誌『エコノミスト』で、「もし私がプーチン大統領と話したら、彼もまた、NATO加盟国であるウクライナのほうが安全だと言うだろう」とし、ロシアと中国の関係の将来については懐疑的だった。
キッシンジャーは同誌のインタビューで続けた。
「両国間の制限のないパートナーシップの公式宣言にもかかわらず、北京とモスクワ双方での相互軽蔑を感じた。私は中国について良いことを言ったロシアの指導者に会ったことがない。そして、ロシアについて良いことを言った中国の指導者に会ったことがない」
クレムリン宮殿は下記のプーチン談話を発表した。
 プーチンはキッシンジャー氏を「優れた外交官、賢明で先見の明のある政治家」と評し、「外交政策への現実的なアプローチはヘンリー・キッシンジャーの名と密接に結びついており、国際的な緊張緩和を実現し、世界安全保障の強化に貢献した最も重要なソ連・アメリカ協定を締結することを可能にした」と評価した。ホンネとはとれない。 
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 最後にキッシンジャー路線とは距離をおく情勢の流動化のなか、米国の「レーガン基金研究所」が11月30日に発表した世論調査では「中国が台湾侵攻した場合、アメリカ国民の72%が台湾独立を支持する」とした。
 NYタイムズは台北総督府で蔡英文総統にインタビューを行った。これも異例の珍事である。
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mode8jp · 20 days
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低評価につながっちゃう…。無論、「お~、これは凄いね!」というサービスもあります。(…mode8.jp  私も価値を下げない様、Web制作に真正面から向き合い、よりBetterを目指して皆様の笑顔と出会えるよう邁進します! 皆様のWebライフが、より美しいものになることを願って…。 ##シーフー #モードエイト #安かろうは悪かろう #品位 #いいものが使われるには時間が必要   #Mode8 #mode8jp 元記事:コチラ #Mode8 #mode8jp #いいものが使われるには時間が必要 #モーハチ #品位 #安かろうは悪かろう
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taketea44 · 2 months
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毎日が記念日
5月1日は…
メーデー
1886年にシカゴの労働者が「8時間労働制」を求めてストやデモを行ったことを記念し、1889年の第二インターナショナル創立大会で5月1日を国際的な労働者の祭典・万国労働者団結の日と定めました。翌1890年に第1回メーデーが開催されたのです。
日本でのメーデーは1920年5月2日に上野公園で行われたものが最初で、その後全国に広がったが、1936年に政府によって禁止され1946年まで中断されました。
元々は、ヨーロッパでこの日に行われていた春祭りで、花の冠を被らせて「5月の女王(May Queen)」を仕立て、遊戯等して楽しむ日だったのに…ね。
【疑わしいAI-イチロウによる5月1日の出来事】
1.1898年5月1日、アメリカのハワイ・ホノルルにあるイオラニ宮殿で、ハワイ王国の独立を廃止し、アメリカ合衆国に併合する条約が調印された。
2. 1931年5月1日、ナチス・ドイツが労働者の祝日であるメーデーを利用して、ドイツ全土で大規模な人種差別主義的・反ユダヤ主義的デモを行い、大量のユダヤ人が暴力や戦車などで襲われた。
3. 1960年5月1日、フランス領アフリカが独立し、アフリカの16カ国が国際連合に加盟した。
4. 1979年5月1日、マーガレット・サッチャーがイギリスの首相に就任し、国内の経済政策を大規模な自由貿易主義的な改革に導いた。
5. 2004年5月1日、ヨーロッパ統合エリア(EU)が拡大し、チェコ、エストニア、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、ポーランド、スロバキア、スロベニアの8カ国が加盟し、EU加盟国は現在28カ国にまで増加した。
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seimeikatsudou · 11 months
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個展「bolshevik nights/ボリシェヴィキの夜」
単独では約4年半ぶりの展示をおこないます。ジャック・ランシエール『プロレタリアの夜』(1981, 未邦訳)を展覧会名の下敷きにした本展では、会場名である「十月」を出発点に、いくつかの「10月」を念頭に制作したグラフィックによって、空間に「蜂起」の風景を立ち上げることを試みます。1917、1944、1968、あるいは来る未来の〈そのとき〉にむかって、消尽できる「夜」のすがたを、わたしたちはいかにして見いだすことができるでしょうか。暗闇のなかで、いつか星座になる夢を見ながら、わたしは矯正視力〇.六以下の鳥目を必死で擦っています。
ひさびさの展示、これまで会ったことのあるかたも、ないかたも、おいでくださるとうれしいです。会場はバーですので、ぜひ乾杯いたしましょう。 [ステートメントより抜粋] (…)そこで試みられているのは、19世紀の労働者たちが一日の労働を終えた「夜」に、どのような生の技芸を行使していたかの調査研究である。その渉猟のなかに彼が見いだそうとしたのは、「資本」に対する「抵抗」である、という認識が、本展タイトルの基底にある。 抵抗……。その名で呼ぶに一切のためらいは不要であろう、3つの「十月」がわたしのなかでむすばれている。1917・ロシア・サンクトペテルブルグ。1944・ポーランド・アウシュヴィッツ=ビルケナウ。1968・日本・新宿。国も時間も隔たった、この3通りの「蜂起」を下敷きに、来る未来の〈そのとき〉にむかって、イメージを構成する。その過程で生まれたのが、この「十月」に配置されている作品群である。 わたしたちはいま、「十月」の「夜」に坐している。労働のあとの、あるいは、労働のてまえの。(…)
[会期] 2023.8.16[水]-31[木]、18:00-23:00 ※土日休み [在廊予定日] 16[水]、17[木]、 18[金] 29[火]、30[水]、31[木] ◉変更がある場合は下記[最新情報]にておしらせいたします
[会場] 新宿ゴールデン街・BAR十月 東京都新宿区歌舞伎町1-1-10 2F チャージ料金¥1200 ビール¥600 ◉ちいさなお店ですので少人数でのご来店をおすすめします
[最新情報] ▶︎Twitter ▶︎Instagram
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datacentercafe · 2 years
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モバイル通信網が被害を受ける中、ウクライナのStarlink料金がほぼ2倍へ
ウクライナのモバイル通信網がロシアによる電力網への攻撃の影響を受け続けている中、ウクライナにおけるStarlink通信機器の価格はほぼ2倍になる見込みとなるようです。 Starlink社のウェブサイトによると、ウクライナの新規ユーザー向け価格は700ドルに値上げされる予定となっています。尚、これまでの価格は385ドルでした。 月額のサービス費用についても増加し、夏には100ドルから8月24日のウクライナ独立記念日に60ドルまで下落する変動があったものの、75ドルにまで上昇しました。同国のStarlinkユーザー向けの新価格は、12月29日から開始さ れます。 隣国のポーランドも価格高騰の影響を受けているが、他の大半の欧州諸国では価格据え置きとなっている、とFinancial…
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shintani22 · 2 years
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2022年11月17日
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国際親善試合 日本代表 1-2 カナダ代表@アルマクトゥームスタジアム(アラブ首長国連邦)2971人/9分 相馬 勇紀、21分 スティーブン ビトリア、90+5分 ルーカス カバリーニ
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FIFAの処分を受け…磐田が来季加入内定の東京国際大FW師岡柊生との仮契約解除を発表、鹿島が同選手を獲得(ゲキサカ)
ジュビロ磐田は17日、2023シーズンの加入が内定していた東京国際大のFW師岡柊生(21)について、国際サッカー連盟(FIFA)の紛争解決室(DRC)からのクラブに対する「今後2回の登録期間(2023年第1および第2登録期間)における新規選手登録の禁止処分」に伴い、仮契約を解除することになったと発表した。
これを受けて、鹿島アントラーズは同日に師岡の来季加入内定を発表。クラブは公式サイトを通じて経緯を説明し、同選手について「ゴールへの鋭い動き出しと嗅覚に優れたFW。豊富な運動量で攻守においてハードワークができ、安定したボディバランスで前線の起点となる」と特徴を紹介している。
本件においては、21年に磐田に加入したFWファビアン・ゴンザレス(29)が前所属のアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)退団後、磐田と契約を結ぶ前にタイのクラブと取り交わした契約が存在したという問題が発覚し、タイのクラブが昨年4月13日にF・ゴンザレスおよび磐田を相手方とし、FIFAのDRCに申立てを行っていた。
そして、FIFAは10月19日に磐田とF・ゴンザレスに対し、次のように処分内容を発表。クラブは同日にスポーツ仲裁裁判(CAS)へ上訴したことも伝えていたが、今月17日付で師岡との仮契約を解除することになった。磐田は「この度のクラブ事情により仮契約解除に至りましたことについて、このクラブでプレーすることを選んでくださった師岡選手をはじめ、ご家族の皆様、サッカー選手としての成長に携わってこられた方々、ジュビロ磐田のファン・サポーター、すべての関係者の皆様に、心よりお詫び申し上げます」とコメントしている。
■処分内容
ファビアン ゴンザレス選手に対して、タイのクラブへの約5万ドルの賠償金の支払命令。なお、ジュビロ磐田は当該支払義務を選手と連帯して負う。
ファビアン ゴンザレス選手に対するスポーツ制裁として、4ヶ月間の公式戦出場停止処分。
ジュビロ磐田に対するスポーツ制裁として、今後2回の登録期間(2023年第1および第2登録期間)における新規選手登録の禁止処分。
※トップチームを含め、全ての年齢カテゴリーの男子のチームが対象。ただし、当クラブの選手の登録区分変更(例:ユースチームからトップチームへの昇格)、期限付移籍中の選手が移籍期間満了に伴いクラブに復帰する場合等は、スポーツ制裁の対象外。
※U-18、U-15、ジュビロSS、サッカースクールにおいて、2023年度に当クラブに新規入団する新高校1年生、新中学1年生、新小学5年生および新小学6年生は、2023年1月から2023年12月までの間、日本サッカー協会(JFA)への登録が必要となる大会・活動への参加が認められない(ただし、2022年に当クラブで登録済の選手は除く)。
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ポーランド着弾で「意図的な攻撃示すものない」 NATO総長(AFPBB 11月16日22時20分)
【11月16日 AFP】北大西洋条約機構(NATO)のイエンス・ストルテンベルグ(Jens Stoltenberg)事務総長は16日、ポーランドにミサイルが着弾し2人が死亡したことについて、ウクライナの防空システムによる可能性があるものの、同国における「戦争の究極の責任」を負うのはロシアだと指摘した。
ストルテンベルグ氏はNATO大使との会合後、「事件に関する調査は進行中であり、その結果を待つ必要がある。しかし、これが意図的な攻撃の結果であることを示すものはない」と述べた。
さらに、「われわれの初期分析では、事件はロシアの巡航ミサイル攻撃からウクライナ領を守るために発射された、ウクライナの防空ミサイルによって引き起こされた可能性が示唆されている」と述べた。
その上でストルテンベルグ氏は、「だがはっきりさせておきたいのは、これはウクライナのせいではないということだ。ロシアはウクライナに対して不当な戦争を続けており、究極の責任はロシアにある」と強調した。
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ポーランド領空警備に戦闘機派遣を提案 独国防省(AFPBB 11月16日23時11分)
【11月16日 AFP】ドイツ国防省報道官は16日、ポーランドにミサイルが着弾したことを受け、同国領空の警戒活動に自国の戦闘機を派遣する用意があると表明した。
報道官は「ポーランドでの事件に対する緊急対応として、ドイツのユーロファイター(Eurofighter)によるポーランド領空の警戒活動の強化を提案する」とし、「ポーランドが希望するなら、あすからでも実現可能だ」と述べた。
報道官によれば、戦闘機をポーランドに配置する必要はなく、「ドイツの空軍基地から」発進可能との見解を示した。
また、クリスティーネ・ランブレヒト(Christine Lambrecht)国防相がポーランド側と16日中に協議できるよう調整するという。
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ポーランド着弾、責任はロシアに 米国防長官が示唆(AFPBB 2時06分)
【11月17日 AFP】ポーランドにミサイルが着弾し2人が死亡した問題について、ロイド・オースティン(Lloyd Austin)米国防長官は16日、ロシア軍がウクライナの民間人やインフラを攻撃していることが背景にあると指摘し、最終的な責任はロシアにあるとの見方を示唆した。
当初の報道では、着弾したミサイルはロシア軍が発射したものとされ、ロシアのウクライナ侵攻の大きな激化が懸念された。だがポーランドはその後、ミサイルはウクライナ軍の防空システムが発射した可能性が高いとの見解を示した。
ウクライナを支援する数十か国で構成する「ウクライナ防衛コンタクトグループ(Ukraine Defense Contact Group)」のオンライン会議の冒頭で演説したオースティン氏は、「同盟国ポーランドなどと緊密に協力し、情報収集を続ける。北大西洋条約機構(NATO)の同盟国や重要なパートナーとも緊密に協議を続けていく」と言明。ミサイル着弾の背景として、「ロシアは戦場で後退を繰り返しており、ウクライナ市民と民間インフラを標的にしている」と指摘した。
一方、同会議の出席者に含まれるNATOのイエンス・ストルテンベルグ(Jens Stoltenberg)事務総長は、より直接的にロシアを非難。NATOの大使級会合後に開いた記者会見で、「これはウクライナの責任ではない」とし、「ロシアはウクライナに対して不当な戦争を続けており、究極の責任はロシアにある」と述べた。
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ポーランド着弾は「ロシアのミサイル」 ゼレンスキー氏、改めて主張(AFPBB 5時17分)
【11月17日 AFP】ポーランドにミサイルが着弾し、2人が死亡した問題で、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領は16日、ミサイルはロシアのものだったと改めて主張した。
ゼレンスキー氏はテレビ放送で、ミサイルがウクライナのものでなかったことに「疑いはない」と述べ、「われわれの軍事報告に基づき、ロシアのミサイルだったと考えている」と明言。ミサイルが自国のものだったことを示す証拠は確認していないとし、ウクライナが調査に参加する必要があると指摘した。
一方、ポーランドと北大西洋条約機構(NATO)はゼレンスキー氏とは異なる見解を示し、ミサイルはロシアの攻撃を迎撃するためにウクライナの防空システムが発射したものだった可能性が高いとしている。
米ホワイトハウス(White House)は同日の声明で、ポーランドの見解を支持しつつも、「究極の責任はロシアにある」と批判した。
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ハンガリー、ゼレンスキー氏の主張批判 ポーランド着弾で(AFPBB 5時57分)
【11月17日 AFP】ハンガリーは16日、ポーランドに着弾したミサイルがロシアによって発射されたものだとするウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領の主張を、無責任だと批判した。
ポーランドはこのミサイルについて、ウクライナの防空システムが発射したものだった可能性が高いと発表。米国も、この見解を支持している。
ハンガリーのグヤーシュ・ゲルゲイ(Gulyas Gergely)首相府長官は記者会見で、「このような状況では、世界の指導者は責任ある発言をすべきだ」と指摘。「ウクライナの大統領が即座にロシアを非難したのは間違いであり、悪い手本だ」と批判し、ポーランドと米国の慎重な姿勢を称賛した。
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ポーランド着弾、ロシアに「全面的な責任」 ウクライナ外相(AFPBB 20時49分)
【11月17日 AFP】ウクライナのドミトロ・クレバ(Dmytro Kuleba)外相は17日、ポーランドにミサイルが着弾して2人が死亡したことについて、責任を負うのはロシアだと述べた。米国は、ウクライナの防空システムが発射した可能性があるとの見方を示している。
クレバ外相はツイッター(Twitter)への投稿で、アントニー・ブリンケン(Antony Blinken)米国務長官と電話会談を行ったと明かし、「われわれは、ロシアによるミサイルテロや、その結果としてウクライナ、ポーランド、モルドバの領土で起きる事態に関して、ロシアが全面的な責任を負うという認識を共有する」と表明した。
ポーランド着弾、「何が起こったのか分からない」 ゼレンスキー氏(AFPBB 23時26分)
【11月17日 AFP】ウクライナ国境に近いポーランドの村にミサイルが着弾し2人が死亡したことについて、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領は17日、何が起こったのか完全には把握していないと述べた。先には、ロシアに責任があると非難していた。
ゼレンスキー氏は「私には何が起こったのか分からない。われわれには、確実には分かっていない。世界は分かっていない。しかし私は、ロシア製のミサイルだったことは確信しており、われわれの防空システムから発射があったことは確信している」と述べた。
その上で、「しかしきょう、あれがウクライナの防空システムだったという、何か具体的なことについて話すのは不可能だ」と話した。
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ポーランド着弾現場 上空から撮影した独自映像
偽者の仏大統領と「電話会談」 着弾の日、実はロシア人―ポーランド大統領(時事通信 11月23日)
 【ワルシャワAFP時事】ポーランドのドゥダ大統領がフランスのマクロン大統領と思い込んで意見を交わした相手は、ロシア人だった―。ポーランド大統領府は22日、いたずらを働いた2人のロシア人が流出させた会話の音声について、実際にあったやりとりだと認めた。
大統領府はツイッターに、ウクライナ国境に近いポーランド東部プシェボドフでミサイルによる爆発が起きた15日、マクロン氏を名乗る電話があったと投稿。「ドゥダ氏は話しぶりからペテンかもしれないと気付き、電話を切った」と釈明した。
7分半にわたる電話の音声は、ロシアの治安当局とつながりがあるとされるロシア人2人が動画投稿サイトに投稿。音声では、強いロシア語なまりの男がマクロン氏をかたり、ドゥダ氏とミサイル着弾について議論している。
ドゥダ氏はこの中で「ロシアを責めるつもりはない。ロシアと戦争はしたくない」と強調。北大西洋条約機構(NATO)加盟国の集団防衛義務を定めた同条約第5条の発動は考えていないなどと話している。
ドゥダ氏は2020年にも、グテレス国連事務総長のなりすましにだまされたことがある。
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内閣支持横ばい27.7% 不支持、3カ月連続で上回る―時事世論調査(時事通信)
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時事通信が11~14日に実施した11月の世論調査で、岸田内閣の支持率は前月比0.3ポイント増の27.7%とほぼ横ばいだった。不支持率は同0.5ポイント増の43.5%。3カ月連続で不支持が支持を上回り、その差は15.8ポイントに拡大した。
電気・ガス料金の引き下げなどを柱とする総合経済対策については、「評価する」33.5%、「評価しない」35.2%で、賛否が拮抗した。
北朝鮮の相次ぐ弾道ミサイル発射を巡り、政府の対応を尋ねたところ、「適切ではない」が49.9%と半数近くを占めた。「適切だ」は19.9%。
政府の新型コロナウイルス対応は、「評価する」が40.1%(前月比2.0ポイント増)、「評価しない」が33・5%(同0.1ポイント減)だった。
内閣を支持する理由(複数回答)は、「他に適当な人がいない」が最多の11.4%、「首相を信頼する」6.7%、「首相の属する党を支持している」5.5%と続いた。支持しない理由(同)は、「期待がもてない」23.7%、「リーダーシップがない」20.9%、「政策がだめ」16.0%の順だった。
政党支持率は、自民党が前月比0.7ポイント減の22.8%、立憲民主党は同1.2ポイント増の4.8%。以下、公明党3.7%、日本維新の会2.8%、共産党2.0%、国民民主党、れいわ新選組、参政党が0.6%で並び、NHK党0.3%、社民党0.2%だった。「支持政党なし」は58.9%。
調査は全国18歳以上の2000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は61.7%。
教団の解散命令「請求すべき」7割 山際氏人事に反対63%―時事世論調査(時事通信)
時事通信が11~14日に実施した11月の世論調査で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題を巡り、政府が裁判所に解散命令を請求すべきか尋ねたところ、「請求すべきだ」が69.4%で、「請求すべきでない」の6.9%を大きく上回った。
旧統一教会との接点が相次ぎ発覚し、事実上の更迭に追い込まれた山際大志郎前経済再生担当相が、自民党の新型コロナウイルス感染症対策本部長に就任した人事については、「反対」が63.3%に上り、「賛成」は8.4%にとどまった。
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寺田総務相、自民に早期辞任論 補正審議への影響懸念(時事通信)
自民党内で寺田稔総務相の早期辞任論が浮上した。岸田文雄首相が擁護し、党内にもその判断を容認する声があったが、2022年度第2次補正予算案の審議入りを来週に控え、このまま続投させれば国会日程や政権運営に影響しかねないとの空気が強まった。首相は東南アジア歴訪から帰国する19日以降、判断を迫られそうだ。
自民党関係者は17日、寺田氏を念頭に「問題のある閣僚は代えればいい」と語った。閣僚経験者は「辞めさせた方が寺田氏のためだ」と明言。党幹部の一人は「首相は帰国したら決断すべきだ」と語った。
党内には葉梨康弘前法相の辞任後、「辞任ドミノを止めなければ政権がぐらつきかねない」(関係者)と懸念する声が出ていた。だが、これまで取り沙汰されてきた寺田氏の「政治とカネ」を巡る疑惑はさらに拡大。国会審議への影響を危惧する声が広がった。
首相はタイ・バンコクでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席した後、19日に一連の東南アジア歴訪を終えて帰国する。21日には2次補正が審議入りする予定で、首相の判断が焦点になりつつある。
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山際大志郎前経済再生担当相と葉梨氏の辞任の際、首相は後手に回ったと批判を浴びた。寺田氏については東南アジア出発前の更迭を求める声もあったが首相は応じなかった。葉梨氏と寺田氏はともに岸田派で、党内には「首相は身内に甘過ぎる」(閣僚経験者)との不満も渦巻く。
週刊文春は17日、寺田氏が昨年の衆院選で、公職選挙法が禁じる運動員買収を行っていた疑いがあると新たに報じた。衆院総務委員会に出席した寺田氏は「確認する」と調査を約束した。立憲民主党の奥野総一郎氏は寺田氏を巡る疑惑の多さを「疑惑の見本市」と表現し、辞任を迫った。
立民の安住淳国対委員長は党会合で「このままなら予算委員会を含めて徹底的にやる」と述べ、週明け以降の予算委などで政権と厳しく対峙する考えを示した。
寺田氏以外に秋葉賢也復興相も「政治とカネ」の疑惑を抱える。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題を踏まえた被害者救済新法などの課題が山積する中、12月10日の会期末を控えて火種はなおくすぶっている。
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【本日(11/17)の広島県内の感染状況】(広島県)
新型コロナ 広島県内で2720人感染 4人死亡 17日発表(NHKニュース)
広島県では17日、新たに2720人が新型コロナウイルスに感染したことが確認され、4人が亡くなったと発表されました。
感染が確認されたのは、▼広島市で1189人、▼福山市で422人、▼東広島市で239人、▼廿日市市で142人、▼呉市で130人、▼尾道市で115人、▼三原市で74人、▼三次市で64人、▼府中町で49人、▼海田町で48人、▼庄原市で40人、▼江田島市で37人、▼安芸高田市で33人、▼竹原市で29人、▼大竹市で25人、▼北広島町で21人、▼府中市で16人、▼熊野町で15人、▼坂町と世羅町でそれぞれ11人、▼神石高原町で4人、▼安芸太田町と大崎上島町でそれぞれ3人のあわせて2720人です。
1週間前の木曜日より382人増えていて、13日連続で前の週の同じ曜日を上回りました。
これで県内での感染確認は、のべ50万551人となりました。
また、県内では患者4人が亡くなったと発表されました。県内で新型コロナウイルスに感染し、その後、死亡した人は822人となりました。
新型コロナ医療の現状 病床使用率48.1% 16日時点(NHKニュース)
16日の時点で病床の使用率は48.1%(確保病床538床、入院患者259人)、このうち重症患者用の病床使用率は14.3%です(確保重症病床42床、重症の入院患者6人)。
軽症の人や症状がない人が入る宿泊療養施設は1047室を確保し、283人が過ごしています(利用率27.0%)。
直近1週間の人口10万人あたりの新規感染者数は596.83人です。
現在、広島県の感染状況はレベル0から4の5段階のレベルのうち、医療体制への負荷が生じはじめていることを示す「レベル2」です。
【新型コロナ 厚労省まとめ】133人死亡 9万3005人感染(17日)(NHKニュース)
厚生労働省によりますと、17日に発表した国内の新たな感染者は、空港の検疫などを含め9万3005人となっています。また、国内で亡くなった人は133人で、累計4万7959人となっています。
東京都 新型コロナ 6人死亡9755人感染確認 13日連続前週上回る(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 7人死亡 新たに4126人感染確認(NHKニュース)大阪府内の感染者の累計は222万8032人となりました。府内で感染して亡くなった人は合わせて6675人となっています。
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ボージョレ・ヌーボー きょう解禁 軍事侵攻影響などで値上がり(NHKニュース)
フランス産のワインの新酒、「ボージョレ・ヌーボー」の販売が、17日解禁されました。ロシアによるウクライナ侵攻の影響で輸送費が上昇したことなどで去年より大きく値上がりしています。
東京 渋谷区のバーでは、コロナ禍で開催できなかった対面のカウントダウンイベントが3年ぶりに開かれ、17日午前0時を迎えると、解禁されたばかりのボージョレ・ヌーボーが招待客に振る舞われました。
ボージョレ・ヌーボーはフランスのボージョレ地区でその年に収穫されたぶどうで造るワインの新酒で、毎年11月の第3木曜日に販売が解禁されます。
輸入元のひとつ、サントリーによりますと、ことしはロシアによるウクライナ侵攻の影響で空輸のルートが遠回りになり輸送費が上昇したうえ、円安も重なったことなどから、店頭価格が去年の1.4倍から2.2倍に上がる見込みです。受注が伸び悩む中、会社では取り扱う品目の数を減らし、輸入量は去年のおよそ4割にとどまっています。
サントリーの吉雄敬子ワインカンパニー社長はこの夏が温暖でよい味わいに仕上がったとしたうえで、「例年より高いもののお楽しみいただける価値があると思う」と話していました。
一方、大手スーパーイオンリテールの千葉県内の店舗では、ボージョレ・ヌーボーの特設コーナーが設けられ、午前0時の解禁直後から早速、客が買い求めていました。この会社では、自前で調達した商品の一部の容器を瓶からペットボトルにかえ軽量化したことで、空輸のコストの増加をできるだけ抑えたということです。
ボージョレ・ヌーボーが値上がりする中、ほかのスーパーや酒店などでも小型のサイズの品ぞろえを増やしたり、国産ワインの新酒を取りそろえたりして、ワインの消費を促そうと対応する動きが出ています。
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petit-pyg · 6 years
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11月11日はマッチ棒の日!? •ポーランドの独立記念日 そして今年は100周年でした!! 日本でも大阪湾にポーランドの帆船「ダル・ムウォジェジ」が寄港、かっこよい船 生で見たかった!! #ポーランドの帆船 #ダルムウォジェジ #Darmładziezy 察してか 娘 ママへのアクセサリーを作ってくれました✨ 偶然にもポーリッシュカラー 下が赤がポーランドだよ!って教えてあげたら そのように向きをしてくれました❤︎ #ポーランド独立記念日 #lovemydaughter #ぴ店スタッフ #100周年 #pygmalionshokai #実店舗ぴ店 #名古屋千種区 #ポーランド食器専門店 #polishpottery #ピグマリオン商會 #ポーリッシュポタリー #11月のぴ店は毎金土営業します (ピグマリオン商會|ポーランド食器と雑貨) https://www.instagram.com/p/BqLeWWHgI_D/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=154yokkat6wr9
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herbiemikeadamski · 2 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 5月26日(木) #大安(己卯) 旧暦 4/26 月齢 25.3 年始から146日目(閏年では147日目)にあたり、年末まではあと219日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 1週間って早い💦イヤッひと月っての あっという間だし一年だって直ぐに 終わっちゃう😅💦歳を重ねる度に その加速が止まりませんね🤣😆🤣 これは防ぎ様が無いから仕方ないで 片付けてしまうのも嫌なんだが⤵️ . って事で何が要因なのか判ってるが 敢て言いませんが、嫌だっ❗️っての で、驚いた事が💦昨日の朝に郵便局 へ8時過ぎに行ったら営業時間外で 9時からオープンだなんて呑気な😅💦 東京だったら8時から開いてるよw . こ云うの仕方ないだよね🤚しょうが ないとも💦なので、今日こそ早くに 帰ってペースを取り戻そうって気もあ ってか、定時で退散し郵便局へ直行w 小銭が貯まって邪魔なので局に預け ようって魂胆だったけど驚くってよ . りも、💢怒ったね😡硬貨を預ける と手数料がかかると⤵️1枚〜25枚 までが110円の手数料だ���て流石に 切れた😤キャシュディスペンサーで表示され るのを、よく確認せずにポンポン進め ちゃうんだけど、この時はガン見😳 . この頃、テレビも観ないラジオも聴かん し新聞雑誌も見ない「さんない」で すので世相の動きに疎くなってるが 酷い社会になったなぁーって⤵️⤵️ 恐らくですがキャッシュレス推進の一環で こんな事してるんだろうけど酷すw . もっと徹底的にキャッシュレス化が進んで くれたら良いけど中途半端じゃ❓ 未だにカードも使えない店とかあるし 弁当屋さんだってニコニコ現金じゃない と駄目だって云うし😅💦だからさ つくばに来ていつも硬貨を用意して . るんだけど、流石に一円玉とか五円 は使えないよね⤵️このちっちゃな 端数は今後どうしろって云うのか💢 どぶにでも捨てろって云うのかね💢 一円玉24枚の24円のお金を預ける のに手数料110円も払えますかっ💢 . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #東名高速全線開通記念日.  1969(昭和44)年5月26日(月)、東名高速道路、大井松田ICと御殿場IC間が開通し、東京から愛知県小牧市まで、346キロに及ぶ全線が完成しました。  小牧ICで、先に開通した日本初の高速道路である名神自動車道と接続、東京~西宮間の536キロが高速道路で結ばれました。 . #大安(ダイアン). 六曜の中で最も吉の日とされる。 何事においても吉、��功しないことはない日とされる。 . #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。  この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 . #天恩日(テンオンビ).  天の恩恵をすべての人が受ける日。 民間暦でいう吉日の一つ。 . #母倉日(ボソウニチ).  暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。 . #メープルもみじの日. . #竹内洋岳8000m峰14座登頂の日. . #源泉かけ流し温泉の日. . #風呂カビ予防の日. . #ラッキーゾーンの日. . #ルマンの日. . #ツローの日. . #推古地震. . #プルーンの日(毎月26日). . #県民防災の日(#秋田県). . #ジョージア独立記念日. . #ガイアナ独立記念日. . #ポーランド母の日. . . ■今日のつぶやき■. #蹴る馬も乗り手次第(ケルウマモノリテシダイ) 【解説】 人を蹴る癖のある暴れ馬でも、乗る人が上手く調教すれば大人しくなる事から。 乱暴で扱いにくいような者でも、上手い扱い方はあると云う事の例え。 . . 1977(昭和52)年5月26日(木) #入野佳子 (#いりのよしこ) 【女優、モデル】 〔兵庫県〕 . . (守谷駅) https://www.instagram.com/p/Cd_0KGfBHSF1fT3AfcJMYnKM7OC4Q8UgoriTxs0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kafka1989 · 2 years
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[補遺/隣人論] ウクライナの隣人としてのポーランド
『現代思想』(2022年6月臨時増刊号 総特集=ウクライナから問う)に拙稿が掲載されました。
「ウクライナの隣人としてのポーランド――戦後ポーランド知識人の思想と行動から辿る二国間関係――」というタイトルの小論で、イェジ・ギェドロイチ、ヤツェク・クーロン、そしてヘンリク・ヴイェツの三人のポーランドの戦後を支えた知識人らによる「ウクライナ支援・協力」の歩みを辿ることで、今日のポーランド・ウクライナの協力にみる「友好関係」の来歴を捉え直すという主旨のもと執筆しました。
奇しくもロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始した時分、日本に滞在しており、日々日本での報道を追っていました。その際、報道各社がポーランドに中継拠点を設け、ポーランドでのウクライナ難民支援の様子が多く報じられ、「良き隣国」としてのポーランドについて、ウクライナの「支援者」としての面が強調されることもあったように思われます。しかし、ロシアとウクライナのような直接的な軍事衝突に結びつくものではなかったにせよ、ポーランドとウクライナの間にも歴史問題(ないしは歴史認識問題)は存在しています。そして、その問題の苛烈さは、時にウクライナがロシアとの間に抱えている/いた問題と同程度に両国関係に困難をもたらしてきました。特に「記憶の政治」の問題は、近年の両国関係を考える上で非常に重要な問題であり、そうであるにもかかわらず、「ではなぜ、今、こうした友好的な関係を保ち得ているのか」という点をこそ説明する必要があるように、ポーランドの歴史研究に携わる人間の一人として感じたことが、執筆の背景にあります。
とはいえ、構成の関係などで含められなかったこともあり、校了後、不十分と思われる点に多く気づきました。特に、「記憶の政治」に関する問題については、言及しなかったことで論点が十分に伝わらないのではないかと考えています。そうした点について、こちらで補足の追記を行っています。
以下、本論の構成に沿って、書き足りなかった点に言及しています。適宜、脚注ではなくテキスト内のハイパーリンクで関連の文献なども紹介しています。
(2022年5月10日執筆・13日加筆)
*****
1.「隣人論」
タイトルにあるように、この論考はひとつの「隣人論」として書き始めました。国家関係ではなく、二つの国のあいだにあった、個別具体的な人間の活動を紹介したいという思いもあり、「隣国」ではなく「隣人」という言葉を使用しています。(これはまた、ポーランドが、あるいはウクライナが独立した国家として成立していない時期であってもポーランド人とウクライナ人とのあいだに、当然のことながら関係があったということも念頭に置いての語の選択です。)
この側面は(深く掘り下げることができませんでしたが)、キリスト教(カトリック)がきわめて重大な役割を社会・政治的にもつ国であるポーランドにおいて、「隣人愛」の原則をどのように考えるのかというのは、今般の協力という文脈においても重要なのではないかと思います。それは、宗教分布においては、ポーランドよりも多様なウクライナという国のありかたと対比させると、さらにその同質性が強化される点でもあるでしょう。
また、「隣人(Sąsiedzi)」という言葉を用いると、歴史社会学者ヤン・グロスの、同名の歴史書が思い浮かびます。同書は、第二次大戦下のポーランドで起こった、ポーランド系住民によるユダヤ系住民の虐殺(ポグロム)についての研究です。2000年に出版されて以降、ポーランド国内外のユダヤ人コミュニティ、そしてポーランドに関係する歴史学者の間で大きな論争を巻き起こしました。この前後から、第二次世界大戦中の、あるいは戦前の、ポーランド人による、他民族・他集団への加害の歴史が、その否定論も巻き込みながら、検証へと晒されていくきっかけになりました。(グロスの著作とその反応について言及した論考もあります。)
同書における「隣人」やユダヤ系の住民ですが、同様の加害関係について、ウクライナもきわめて複雑な関係にある隣人であるのは、本誌の「はじめに」でも触れたとおりです。
(*本文中では鉤括弧をつけた表現とつけない表現を用いていますが、いわゆる「隣国」と近いニュアンスで表現している箇所は括弧をつけず、上記のような隣人観の検討とつながりそうな部分は括弧をつけて記しています。)
2. 「記憶の政治」の問題、両国関係の歩み
ウクライナとポーランド双方の「記憶の政治」の問題も二国間関係を考察する上で欠かせない点でありながら、考察が及びませんでした。両国の記憶と和解、歴史認識、そして記憶の法制化を巡る応酬は、特に近年、大きく研究が進展した分野と言えます。(昨年末には英語での専門書も出ています。)
誌面では、社会主義時代のポーランド・ウクライナ関係や、ポーランドの民主化、そしてウクライナの独立以降の両国の公的なレベルでの和解の歩み、その揺り戻しについて一言でも触れていなかった点は(あるいはそうしたことに言及しない旨明らかにしなかった点は)、論考の最大の瑕疵であったと認識しています。
同時に、これらの点はそれだけで十分な検討を要するテーマであり、実際に多くの論考が出版されていますので、いずれにせよ、また別の機会にじっくりと考えてみたいと思っています。(一例として、ウクライナの非共産化の法制化について論じた論考など。)
ここでは、補足として、拙論の関連する範囲での公的な両国の歴史とその問題について簡単にまとめます。
まず、社会主義時代の両者の関係については、ウクライナがソ連の一共和国であったということで、「ウクライナ」と「ポーランド」という枠組みでの取り組みは多くはなかったことが知られています。(他方、こちらで紹介している史料のように、ソ連側が「ウクライナ」とポーランドの友好を演出するような特殊な事例もありました。)戦後すぐにウクライナ系住民の移動がポーランド政府によって強いられたこと、そしてその過程でポーランドにウクライナ系住民の教育活動を行う文化機関が、ポーランド人民共和国内で活動を許可されていたことなどが公的なレベルでの重要な事実にあたるかと思います。
次に、共産圏の崩壊以降の関係については、公的には和解に向けた取り組みを開始するものの、2010年以降は、それぞれの国の歴史に関する事象の法制化に伴い、いよいよ対立が深まっていたところです。
両国は、1997年、歴史問題に取り組むことを表明した共同声明を発布し、追悼式典などを共同で開催するため尽力してきました。2003年と2013年���は、ヴォルィーニで追悼式典(それぞれヴォルィーニの虐殺事件より60周年、70周年の節目に開催)が、2007年には「ヴィスワ作戦(戦後初期ウクライナ系住民の強制移住)」に関する記念式典が開催されました。これらの式典全てがスムーズに行われたわけではありませんが、公的な「和解」を目指していたことが確認できます。
しかし、直近の十年の間に、状況は大きく悪化します。それぞれの国で「自国の歴史」に関する法制化の動きが見られ、時の政権のもとで「記憶」が政治の争点となっていったからです。
2015年、ウクライナ議会は、自国の独立とそれに貢献した「英雄」たちの地位の尊重を定める法律を制定しましたが、その中には(今回のロシアのウクライナへの軍事侵攻で日本でも名の知られることになった「バンデラ主義者」などの)民族主義的な思想のもとにポーランド系住民の虐殺を行なった集団もあり、ポーランド側はこれに激しく抗議しました。
ポーランド側も、同様の法制化を急速に進めていきます。2016年、ポーランド下院は、ウクライナ民族主義者によるジェノサイドを恒久的な犯罪とする法を成立させました。(ベラルーシに対しても同様の法律を2017年に制定しています。)さらに、2018年、ポーランドにおける第二次大戦時の記憶についての法案の、その改正案で、「ウクライナによるポーランドへのジェノサイドを否定すること」に対し刑事罰を課す点が盛り込まれました。(なお、ホロコーストに関しても、「ポーランドによる加害性」を事実に反して主張した場合、同様に刑事罰が課される法律が施行された結果、既に欧米の歴史学者の著作を対象とした裁判が起こっています。)
こうした記憶の「政治資源化」の問題は、旧東欧諸国で広く見られる現象ですが、ポーランドの事例も合わせた紹介として、『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題――ナチズムと社会主義の過去をめぐる葛藤』(ミネルヴァ書房、2017年)が網羅的です。
ユーロマイダン(マイダン革命)以降は、こうした法制化が顕著になっていきましたが、論考のヴィエツの支援の意味は、こうした点からも考えなければいけないものでしょう。
こうした流れを踏まえつつ、ウクライナでも、ポーランドでも、歴史に関する法制化、歴史・歴史研究の政治資源化に対して、批判的な声はあり、左派系知識人を中心としつつもひろく専門家集団一般に及ぶ問題として認識されていた点も重要かと思います。
3. 本件に関する”現代の”ポーランド知識人の反応、国内世論など
この点については、「自由と平和のための京大有志の会」のこちらのリンクを参照していただければ、とても早い段階で彼女ら彼らがどういう反応をしていたのかが分かるかと思います。以下にリンクを紹介します。
●ポーランドの知識人・文化人による「ウクライナとの連帯とロシアの侵攻阻止を求めるアピール」に寄せて(2022/02/23) (訳者である小山哲氏の解説)
また、ポーランド国内にも、当然ながらウクライナ支援に関するさまざまな意見があります。ただし、それでも世論調査などを見ている限りでは、この戦争に関する個々人の関心は強く、そして、ポーランドが現在行なっている支援をおおむね支持している傾向にあるようです。
第三次世界大戦が起こるのではないかという不安も、第二次世界大戦の最初の舞台となったポーランドではさかんに議論されていた話題です。実際に、三月後半以降、ロシア政府関係者がポーランドを名指しで批判する(メドベージェフ国家安全保障会議副議長・前大統領のTelegram投稿。ここでも、ポーランドを含むスラブ世界の歴史ということが問題になっていました。)といった報道もあったため、こうした懸念も妥当なものでしょう。
他方、それでもウクライナへの支援を止めるべきである、支援を止めれば標的にならずに済む、といったような声は耳にしません。ポーランドの現政権に対して不満があるか否か、2.で述べたような問題に対してどういう意見を持つかを問わず、多くの人が支援を当然と考えているという点は特筆すべき状況かと思います。
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以上が主要な補足点ですが、以下、論中に名前が出てきた人物などについても、一部付け足す内容があります。
ギェドロイチの出身地:ギェドロイチの出身地はミンスクで、彼自身がUBLにあたるポーランド東方領土の出身であるということ、それゆえ、彼の議論はそうした自分の郷里を捨ててでもポーランド、そしてULBの三カ国が自主独立の道を歩むことを訴えたものとして読まれる必要があります。また、彼はモスクワで十代を過ごしており、ソ連の現実についての知見が深かったという点も重要な事項です。
現ポーランド首相(モラヴィエツキ首相)と「連帯」:現在の二国間関係において、戦禍のキーウ訪問を各国と調整するなど、重要な役割を担うモラヴィエツキ首相も、その父親とともに、かつての「連帯」の徒でした。彼もまた、クーロンやヴィエツ同様、「連帯」運動の理念の中に、ウクライナの自由を支えることが大きな使命になっていることを示す一例かもしれません。
ウクライナ「60年世代」:本論で触れた「ウクライナ60年世代」の詩人に、Vasyl Holoborodkoというルハンスク出身の詩人がいますが、ゼレンシキー・ウクライナ大統領がコメディアン時代に出演して話題になった『国民の僕』の主人公の名前はVasily Petrovych Goloborodko(ロシア語読みGはウクライナ語でHになる)で、おそらくこの作家の名から来たのだろうと思われます。
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また、まったくの余談ですが、入稿の前後、Twitterで国際政治学と歴史・文学研究とで、対象とする国や地域にどう向き合うかが異なり、そこに違和感を感じるか否かといった話題がタイムラインに漂着してきたことも後々気にかかりました(本当に締め切り前で時間がなく詳しくは追っていませんが、後からそういう話だったのだと理解しました)。というのも、「はじめに」で自分も、”安全保障上の関心じゃなくて歴史的に見れば”というような文言を挟んでいたため、安全保障の研究に取り組む人から「やっぱり歴史学方面の人間はそういう風に専門領域で括って語るのか」と思われもするのだろうかなと考えたからです。特にそういう意図があったわけではなく、「(文学などと比べても)歴史学の反応は腰が重い感じがするな、もっと皆んなこういうときに何かすべきじゃないかな」という想いがあったため、寧ろその点を意識して入れた文言であったということも追記しておきます。
現実には、この戦争の前には、ポーランドでもウクライナ人労働者を差別するようなことも頻繁に聞かれましたし、隣人としての真価が問われていくのは今後なのではなかろうかとも思うのでした。
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ari0921 · 4 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月15日(木曜日)
   通巻第8133号 
 米国へ中国人の不法移民は三倍以上。エクアドルから密林を越えて
  中国人はなぜ国を棄てるのか? なぜ遠きアメリカへ行きたがるのか
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 ロシアのウクライナ侵攻が始める前まで,中国マフィアとウクライナの犯罪組織が組んだ「人間の密輸」ルートがあった。
ウクライナと国境を接するハンガリー、スロバキア、モルドバ、ポーランドを経て、いったんEU加盟国に這入り込んでしまえば「シェンゲン協定」によって欧州域内の移動は自由になるためドイツ、フランス、伊太利亜などを目指した。
次に狙われたのはギリシアンのピレウス港でコンテナターミナルの管理運営権を中国は30億ドルで買った。コンテナに隠れての密航が取りざたされた。
独仏伊ばかりかオランドにも、いやシチリアにもチャイナタウンが出来た。アムステルダムのレッド・ライト・ディストリクト(赤線地帯)は世界に悪名高いが、あの地域は事実上のチャイナタウンに変貌している。ちょっと裏道へ入ると、驚き桃の木、道教寺院、中国料理レストラン、妖しげな飲み屋が集中している(小生も撮影に行きました)
 コロナ禍でEU諸国の国境検査が厳しくなり、さらにウクライナ戦争でウクライナ・マフィアの暗躍の場所が失われ、次に中国人が目指したのは米国だった。といっても米国にはすでに450万人ともいわれる先住の中国人がいる。かれらは苦力(クーリー)の時代に米国へ渡った中国人が,ゴールドラッシュが終わったあと、サンフランシスコやロス、シアトルなどに形成したチャイナタウンに居着いた。
その足場を元に労働力の補給として紛れ込んだ,半ば合法の移民と留学生がそのまま居着いた「新移民」がある。たとえばNYのカナルストリート周辺は古くから拓けたチャイナタウンだが,広東省出身者が主力で、新移民たちは新たにラガーディア空港近くのフラッシングに新チャイナタウンを構築した。
 米中経済摩擦が激化し、トランプ政権からの規制強化で学生ビザは一年ごとの審査となったうえに入国拒否となるケースも続出し、なかなか困難になった。観光ヴィザでの入国は殆ど不可能となった。ヒューストンの中国領事館も、全米の大學に設置されていた孔子学院も廃校となった。
 それ以前にアフリカや中東諸国に住み着いた中国人というのは「一帯一路」で派遣された労働者が、そのまま帰国せずに定着したケースが多い。いまやドバイにまでチャイナタウンがある。
 ▼コロンビアの密林を経由する闇のルート
 さて米国である。
 中国企業並びに中国人排除は、ウォール街における中国企業の上場数が象徴する。一時は500社を越えた中国企業のNY株式市場上場は、かれらの錬金術の戦場でもあった。その後、ランキン珈琲などのインチキ決算や不正経理、企業情報の不透明などがばれて、上場が難しくなった。
2024年一月時点での中国企業のウォール街上場は2022年比で17・5%減の265社となった(一覧は下記報告書の8pから26p)
2022年頃までは年間一万人前後がメキシコから不法入国していた。中南米諸国のヒスパニック系に混ざって,ベトナムやアフガニスタンからの亡命希望が多かったが,中国人も混じっていた。年間一万人ほどだった。
米国では『亡命申請』をすると、ほぼ滞在が認められる。強制送還に中国が応じないため、メキシコを超えてアメリカに入りさえすれば、亡命は成功なのだ。
23年8月時点で不法入国のなかの『亡命希望』は130万人、このうちの10万人が中国人だった。
異変は2023年から起きた。中国経済が「心肺停止」状態となって、ネットでは「走線」や「潤出去」(豊になるために国をでよう)という語彙が頻出する。密輸斡旋業者が、密航を手伝う。
凡そ37000人強がアメリカに亡命もしくは難民申請あるいは不法入国に成功し、そのままドロン、かれらは全米各地のチャイナタウンにすぐに溶け込む。この流れ込む中国人の新移民を救援する組織もあって衣食住には困らないことになっている。
 急増の理由がコロナ禍とは無縁で、職を失った人が多く、主因は政治的要素ではなく経済的理由である。新たな稼ぎ場を求めての逃避、現地を取材した記者によれば『不動産販売委員だった中国人が目立つ』という。
 かれらの「走線」の典型的ルートはまずビザが不要のタイへでて、それからエクアドルへ空路で向かう。エクアドルも中国人にはビザ免除措置を講じているからだ。
 エクアドルから斡旋組織に依頼して、メキシコまで3700キロ。密林や難所を抜け、治安の悪いコロンビアを通り、舟などでメキシコへわたる。こうして平均一人5000ドルの大金をかけて、命がけで「アメリカン・ドリーム」の国に行きたがるのである。
 だがアメリカは中国より治安が悪い。その上、猛烈なインフレで物価が高い。子供連れなら学校と言語の問題もある。そこまでして何故アメリカへ行きたいのか? 日本人から見れば理解不能だろう。
 答えは簡単である。
中国は人間尊重という理念がなく、なにごとにも不自由で、永久に住みたい国ではないからである。
 嗚呼,悲しい中国人!
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chikuri · 5 years
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ロシアの思想宣伝が作りだした平和ボケからウクライナ国民が覚醒したのは、ロシア軍の侵略が始まってからだった。 ■1.「貴方が望んでいる日本の未来はこれなのか?」  こんな国があった。 __________ ・国民は平和ボケしている。 ・「軍隊はなくてもいい」という論調が強い。 ・近年、国益を明らかに損なった売国政権を経験している。 ・外国に媚びた弱腰外交を行っている。 ・愛国者は「ナショナリスト」「ファシスト」とレッテル貼りされている。[1, 5]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  まるで、我が国の事を言っているようだが違う。ウクライナである。ウクライナは1991年にソ連から独立した際に多くの核兵器と巨大な軍隊を引き継いだが、維持費がかかるのと、隣国ロシアから警戒されるという理由で、すべての核兵器を廃棄し、軍隊を大幅に削減し、大国の対立に巻き込まれないようNATO(北大西洋条約機構)の集団安全保障体制にも加わらなかった。  日本の9条教徒なら「素晴らしい非武装平和主義政策」と称賛するだろう。その結果はどうなったか。ウクライナ出身で、今は日本で活躍している国際政治学者グレンコ・アンドリー氏はこう訴える。 __________ こんな政策は素晴らしいと考えている方を是非ウクライナの前線に連れて行きたいです。戦火で燃え尽きた村の廃嘘、ミサイルが落ちている中で学校の地下に隠れている子供、二十歳まで生きられなかった戦没者のお墓を見せて聞きたいです。貴方が望んでいる日本の未来はこれなのか? 戦争を言葉によって止められるものなら、その言葉を教えてくださいよ![2]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ウクライナのクリミア自治州と東部2州では、2014年2月からロシア系住民による反乱を契機に戦闘が広がった。ロシア軍が背後で糸を引いていたとされる。現在までにウクライナ軍16千名以上、ロシア系分離主義者・ロシア軍7千人以上の死傷者が出ている。国連総会では、現状を「ロシアによる占領」と認めている。[3]  空想的平和主義がどんな悲劇をもたらすか、ウクライナは事実でこれを示している。その事実をアンドリー氏の著書『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』[3]から見てみよう。 ■2.劇的な「軍縮」  まずはアンドリー氏の著書から、ウクライナの「軍縮」の実態を見ておこう。 __________  ウクライナが1991年末にソ連から独立した時点で、ウクライナ軍は次のような編成であった。兵士780万人/戦車6500両/戦闘車両7000両/大砲7200門/軍艦500隻/軍用機1100機、そして1500発以上の戦略核弾頭と176発の大陸間弾道ミサイルという、当時世界第三位の規模の核兵器も保有していた。[1, 1099]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  まず、核兵器を放棄するようアメリカとロシアの双方から「脅迫に限りなく近い非常に強い圧力」[1, 1104]がかかった。ウクライナの指導者たちはこの要求をすべて呑み、「3年間ですべての核兵器を放棄する」という約束をした。見返りは「米英露はウクライナの領土的統一と国境の不可侵を保障する」という覚書だけだった。  覚書は国際条約ではなく、それを守る法的義務はない。その結果がロシアのウクライナ侵略と、米英の口先だけのロシア非難だった。アンドリー氏は、せめて代償として経済支援か、最新の通常兵器提供かを求めるべきだったとしている。あるいは核廃棄に長年をかけて交渉カードにしていれば、その間はロシアの侵攻を防げただろう。  多くの通常兵器は外国に売却されるか、国内で解体された。古い航空機などはアジアやアフリカの発展途上国に売れた。未完成の航空巡洋艦ヴァリャーグは中国が買った。中国は、軍事的使用はせず水上カジノにする、と約束をしたが、すぐに反故にして、中国最初の空母「遼寧」として完成させた。 ■3.ロシアの情報戦で作られた平和ボケ  核兵器廃絶と軍隊の大幅削減という大軍縮が行われた背景には、米露の圧力、財政問題、軍の腐敗などもあったが、最も大きな原因はウクライナ社会の「平和ボケ」にあった、とアンドリー氏は指摘する。ソ連が崩壊して、ウクライナが独立した時、人々の間に広まっていた考えは次のようなものだった。 「軍は金がかかるだけ」「これからは平和の時代だ。戦争が起こるはずがない」「そもそも戦う相手がいない」[1, 1693] この平和ボケはロシア側の情報戦の結果であったと、氏は指摘する。 __________  ウクライナが独立して以来、ロシアは連綿とウクライナ国内で情報戦を繰り広げていた。テレビ局の約半数や、人気の新聞や雑誌の半分以上はロシア寄りの報道、もしくはロシア政府の公式の立場をそのまま流していた。多くのメディアはロシア資本やロシア系の資本で運営されたのだ。[1, 1527]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  情報戦には、ソフト的な内容も含まれていた。 __________  ロシア製の映画やテレビドラマが大量にウクライナで放送されていた。それを通して、さりげなくロシア人やロシアでの生活にシンパシーを持たせていた。  特に大きな役割を果たしていたのは、ロシア軍や諜報機関、またはロシアの警察を英雄扱いしている作品だった。このような作品を通してロシア国家の威厳が強調され、親露感情が誘導されていたのである。[1, 1536]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  さらに「ウクライナとロシアは姉妹だ。今のウクライナ政府は家族を裏切って、ウクライナを西洋支配下に置いている」「争いは良くない。きっと平和的な解決があるはずだ」などと「平和的」メッセージが国民心理に刷り込まれていった。  不幸な事件もあった。2000年のミサイル発射の演習で一基のミサイルが弾道から外れて、民間マンションを直撃した。この事件が「軍人が無能で国民を危険にさらすなら、こんな軍はいらない」「民家に当たるかもしれないミサイルを飛ばすな」という反軍的世論を巻き起こした。背後にはロシアの世論工作もあったろう。  さらに「ウクライナはもうだめだ。汚職が蔓延している。若者は国外に逃げていく。もうこの国に希望はない」などの自虐メッセージも吹き込まれていった。こうした報道は、自国を「守るに値しない国」との先入観を植え付け、祖国のために戦おうという気概を萎えさせ、「寄らば大樹の陰」との依存心を増長させる。 ■4.「両国が共に歩んだ歴史」?  国内での情報戦に呼応して、ロシア側からの内政干渉も続けられた。ウクライナ国内のロ��ア系住民は平均で17.3%。西部でこそ5.4%だが、東部では30.3%、クリミア半島では60.4%にも達する[4]。これはソ連時代からウクライナ人の多くがシベリアや極東(我が国の北方領土を含め)に移住させられ、代わりにロシア人がウクライナに流入した結果だった。  これらウクライナ国内のロシア系住民の処遇について、ロシアは、ウクライナ語ができなくとも行政や教育など全てのサービスがロシア語で受けられるよう要求した。ロシアの歴史的蛮行を明記した歴史教育をしようという動きがあった際には、「両国が共に歩んだ歴史が侮辱されている」と非難した。  ロシアからの理不尽な要求を、歴代ウクライナ政権はほとんど呑んで、譲歩を続けた。政府や多くの言論人は「ロシアを挑発してはいけない」「ウクライナはロシアと歴史的なつながりがあるので、ロシアの意見を無視してはいけない」と主張した。  ウクライナが譲歩するほど、ロシアの要求はエスカレートした。挙げ句の果てに、ロシアはウクライナにEUとの協力協定締結を止めさせ、ロシアとの関税同盟に入るように要求した。この要求を併合の前段階だと危機を抱いた国民が、親ロシア政策をとるヤヌコビッチ政権を倒した途端、ロシアはウクライナへの侵攻を始めたのだった。 ■5.「NATOの戦争に巻き込まれる」  アンドリー氏は、せめてウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に加盟していれば、ロシアの侵略を受けなかったろう、と指摘する。旧ソ連構成国のうち、ウクライナとジョージア(旧グルジア)は侵略を受け、バルト3国は受けなかった。  バルト3国のうち、ラトビアとエストニアはロシアと国境を接し、200万人足らずの人口の4分の1はロシア系である。ウクライナとジョージアと同様、ロシアの侵略を受けても不思議ではなかったが、そうはならなかった。NATOに加盟していたからだ。  NATOは加盟国が外部から侵略されたら、加盟国すべてが共同で防衛する義務を負う。その加盟国には、アメリカ、イギリス、フランスが入っているのだから、ロシアも手が出せない。1949年のNATO成立以来70年間、その加盟国の領土は一度たりとも武力攻撃を受けたことがない。  なぜウクライナはNATOに入らなかったのか。ウクライナ政府は加盟を進めようとしたことがあったが、国民世論の6割は加盟反対だった。「NATOの戦争に巻き込まれる」「NATOに支配される」「軍事費が増える」、そして「ロシアが反発する」などの理由からだった。加盟に反発するロシアの外交的圧力もあったが、国内世論もNATO加盟を許さなかったのである。 ■6.売国政権による意図的な軍の解体  2014年2月のロシア侵攻の引き金になったのは、ヤヌコビッチ政権の崩壊だった。親ロシア政策をとっていた同大統領はウクライナの最高議会(国会)で解任決議がなされた後、ロシアに亡命した。  ヤヌコビッチ政権が売国政権だった事は、防衛大臣がロシア国籍を持つロシア人だったことで明らかになった。この人物も政権崩壊後に、ロシアに逃亡した。そしてモスクワのクレムリン宮殿で行われたクリミア編入を祝う式典に出席した。彼がロシア国籍を放棄していなかったことは、逃亡後発覚したのである。 __________  このような人を防衛大臣に任命する大統領はどういう人か、想像がつくだろう。この4年間の売国政権の間は、それまでに無秩序に起きていたウクライナ軍の衰退が、意図的に軍の解体に変わった。あの売国政権は、ロシアの指示を受けてウクライナの防衛力を削いでいたのだ。[3, 1731]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ■7.「自らの血を流して戦わない国は、助ける意味がない」  2014年3月、ロシア軍がクリミアを占領し始めると、ウクライナは武力による抵抗をせず、国際社会にロシアの暴挙を止めるように要請した。国際社会はロシアを批判し、クリミア半島のウクライナへの帰属を確認する声明を発した。そしてロシアに対して、直ちにロシア軍をクリミア半島から撤退させるように要求した。  しかし、実際にロシアの侵略を止めるための行動をした国は一国もなかった。自らの独立のために血を流して戦わない国は、助ける意味がない、と判断したのだろう。  しかし、2014年4月以降、ロシアがウクライナ東部への侵略を開始すると、戦わずして国際社会に助けを求めても無駄だと覚ったウクライナは、弱体化した軍を立て直しつつ自力で戦いに臨んだ。  すると、国際社会の反応は少しずつ変わり始めた。ロシアに経済制裁を行い、ウクライナへの経済支援を開始した。ウクライナ軍とNATO軍の合同軍事演習が実行され、NATOからウクライナ軍に指導官が派遣された。戦争が長引くにつれて、対露経済制裁は次第に強化され、ウクライナへの支援も経済援助から、軍事物資や兵器の提供を含むようになった。  ウクライナ政府は防衛予算を2倍増とし、兵隊の数も増やし、装備の充実と新兵器の導入を始めた。しかし、如何せん戦争になってからでは遅い。 ■8.「明日は我が身」  ロシアとの戦いは、ウクライナ人を覚醒させた。旧ソ連時代の残滓の一掃を始めたのである。まず、戦争前にはウクライナ各地で2千基以上建っていたレーニンの記念碑の撤去を始めた。この動きをロシア政府は「歴史を侮辱する蛮行」と猛批判している。  並行して、ソ連時代に因む地名や通りの名称も改められた。自治体の名称変更だけでも917カ所、通りや広場を含めれば万単位となる。たとえばキエフ市の「モスクワ通り」は20世紀前半にウクライナ独立のために生命を捧げた人物に因んで「ステパーン・バンデーラ通り」となった。 __________  ・・・ソ連の後継者であるロシアから侵略を受け、多くの人が目覚め、現在では、ウクライナはソ連に占領されていたという歴史認識が広まりつつある。第二次世界大戦の評価も変わった。それまでソ連は善でナチスは悪という解釈だった。しかし今はソ連もナチスドイツも悪であり、ウクライナはその二つの化け物の犠牲者だったという史実に基づく見解が広まっている。[3, 1955]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ヨーロッパにおける第二次大戦がソ連とドイツによるポーランド分割から始まり、ソ連はフィンランド侵攻により国際連盟を除名されている。こうした史実を見れば、ウクライナの歴史認識は正しく修正されたことが判る。  しかし、こうした覚醒は、ロシアの侵略を受けて、戦争になってからようやく実現したものだった。空想的平和主義からもっと早く覚醒していれば、ロシアの侵攻を受けて国土が荒廃し、その一部を奪われるという悲劇を防ぐ道はいろいろあったはずだ。  ウクライナの悲劇を「明日は我が身」として、我が国は防げるだろうか? (文責 伊勢雅臣)
No.1121 空想的平和主義が侵略を招く~ウクライナの悲劇: 国際派日本人養成講座
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xf-2 · 5 years
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その生涯において、3度もの「奇跡」を起こした樋口季一郎。彼はどんな状況においても、「日本人として大切にすべき人道」と「合理的な思考に立脚した正しい決断力」を失うことはなかった。樋口を通して見えてくる、当時の日本の「真実」とは何であったのか。
樋口季一郎は、なぜ「3つの奇跡」を成し遂げられたのか
 日本はなぜ「あの悲惨な戦争」に突入したのか――それについて戦後の日本人の多くが暗黙の前提にしていたのが、「陸軍悪玉論」でした。日本陸軍こそが暴走と謀略を繰り返して、日本を「泥沼の戦争」へと導いたという見方です。しかし、歴史をそんな単細胞的な「悪玉論だけ」で語ること自体が、そもそも間違いです。ようやく多くの日本人がそのことに気づいてきたようで、歴史の真実を見直そうとする動きが、今あちこちで現れています。
 当時の日本陸軍、あるいは当時の日本の「真実」とは何だったのか。それに迫ろうとするときに、非常に価値ある大切な「歴史の素材」となるべき人物がいます。終戦時に第五方面軍司令官を務めていた、樋口季一郎中将です。
 樋口季一郎の名は、あまり知られていないかもしれません。しかし彼は、まさに「奇跡」ともいうべき3つの事例に関与しています。
 1つ目は、昭和13年(1938)、満洲のハルビン特務機関長在任中に、シベリア鉄道経由で欧州から逃れてきたユダヤ人難民を、満洲国に働きかけて救出したこと。2つ目は、昭和18年(1943)、北方軍(後の第五方面軍)司令官在任中に、圧倒的なアメリカ軍の包囲下、玉砕を目前にしていたキスカ島の日本軍守備隊6千名弱の将兵を隠密裏に撤退させるという「奇跡の作戦」を成功させたこと。3つ目は、昭和20年(1945)、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦し、終戦後にも侵攻を続けたソ連軍に対して「断乎反撃」を命じ、その野望を砕いたことです(北千島の最北端の島・占守島での勝利、そして樺太での奮闘によって、北海道は辛くも護られたのです)。
 いずれも、容易に成し遂げられることではありません。なぜ、樋口にはそれが可能だったのでしょうか。
 樋口は明治21年(1888)、淡路島に生まれます。家業の廻船問屋が零落したこともあって学費の安い陸軍幼年学校を経て、明治42年(1909)に陸軍士官学校(21期)を卒業し、陸軍将校としての道を歩み始めます。その後、歩兵第一連隊での勤務を経て、第一次世界大戦中に陸軍大学校に入学しています。
 樋口はドイツ語など多くの言語に通じ、終生語学を得意としましたが、陸軍大学校ではロシア語を割り振られます。これは樋口の生涯にとって、きわめて重要な意味を持ちます。なぜなら当時、陸軍の主敵はロシア(ソ連)であり、しかも陸大在学中(1915年~1918年)にロシア革命が起きているからです。さらに、彼が陸大を卒業した月(1918年11月)に、第一次世界大戦の休戦協定が結ばれます。つまり、その後の日本の歩みに重くのしかかってくる「世界革命と総力戦」の時代に、樋口はその圧力を最も鋭く受け止めざるをえなかった陸軍のロシア畑を歩むことになったのです。
 陸大卒業後、樋口は情報将校としてインテリジェンスに携わり、大正14年(1925)から3年間、ポーランド公使館付武官を務めます。その時、ダンスを学んで名手となり、社交界で人気者となったことで、大いに人脈を広げました。西洋人との社交界での付き合いを苦手とする日本人も多いなか、樋口一流の柔軟さが見て取れる逸話です。
 当時、ソ連とドイツに挟まれたポーランドは、インテリジェンス活動に大変な力を入れており、ポーランド陸軍はソ連・ドイツ両国の暗号解読に大きな成果を挙げていました。実は樋口のポーランド在任と時を同じくして、樋口と陸軍士官学校の同期である百武(ひゃくたけ)晴吉がポーランドで暗号研究に取り組んでいます。これにより日本陸軍の暗号技術はきわめて高度なものとなりました。
 大東亜戦争中、ミッドウェー海戦の大敗でも明らかなように、日本海軍の暗号は連合軍にほぼ完全に解読されており、海軍の作戦計画はすべてアメリカ側に筒抜けでした。これこそ日本の敗戦の最大要因といってよいでしょう。一方、日本陸軍の暗号は最後まで解読されず、逆に陸軍はソ連の軍事暗号をかなりの程度解読できていたのです。
 樋口が広げたポーランドでの人脈が、このような優秀な陸軍の暗号システムを築くことになる百武の活動を支え、また日本とポーランドが暗号解読を含む機密情報をやりとりできる関係――国家間で最も探い信頼関係――を結ぶ大切な素地となったのでした。
 樋口の柔軟さは、淡路島に生まれ育ったことと無縁ではないのかもしれません。関西出身の私は、淡路島の出身者と聞くと、社交的でまろやかで、常識に長けていて明るい人物をイメージします。零落した商家の一人息子という点も重要です。樋口の慎重さや理性的な側面、また組織の壁にも挫(くじ)けない独立心と自我の強さは、この境遇に由来するところも多いはずです。
 そんな樋口が、高い知性と合理的な思考を求められるインテリジェンスという仕事に就き、多くの人的交流の機会に恵まれ、豊富な海外経験を積んだことは、きわめて重要なことだと思われます。あの時代のワルシャワや、樋口がよく訪れたウィーンなどの中欧(中部ヨーロッパ)には、近代西洋文明の最後の輝きがありました。日本人としてこのような「場」に触れた感受性の高いエリートは、翻って「日本はどうか」「日本の大切なものとは何か」を考えるようになります。強固な愛国心と共に、必ずや、日本人が失ってはならない普遍的な「人間性」や「人としての心」に目を向けることになるのです。
 このような経験のなかで自らを磨いていくことで、樋口は「広い視野」と「日本人として大切にすべき人道」、そして「合理的な思考に立脚した正しい決断力」を身につけていったのでした。
「人道主義の名において、私は衷心悲しむ」
 昭和12年(1937)、樋口は「関東軍の情報部長」ともいうべきハルビン特務機関長になります。そしてこの地で、ユダヤ人難民救出事件――いわゆる「オトポール事件」に直面することになるのです。
 当時、ナチスの迫害が吹き荒れる欧州からシベリア鉄道経由で逃れてきたユダヤ人難民の満洲への入国を、ナチス・ドイツの顔色を窺(うかが)う日本の外務省への遠慮から満洲国が渋り、満ソ国境の町オトポールで多くのユダヤ人が立ち往生していました。その窮状をハルビンの極東ユダヤ人協会から訴えられた樋口は、満洲国に働きかけて入国を認めさせ、彼らの脱出ルートを切り開いたのです。これは有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の「命のビザ」の話よりも、さらに2年ほど前のことです。また樋口は、ハルビンのユダヤ人たちが開いたこの事件への謝恩大会で、「今日、世界の一隅においてポグロム(ユダヤ人虐待)が行なわれ、ユダヤに対する追及または追放を見つつあることは、人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」と演説しました。
 これらは、当時の状況では、決して容易なことではありません。当初、満洲国や外務省が入国を拒んだのは、ナチス・ドイツと防共協定を結ぶ関係にあったことを慮(おもんばか)ってのことで、現に、ナチス・ドイツは樋口を名指しして日本に公式に抗議していますし、陛軍内部でも樋口の処分論が高まります。
 また、もう1つ忘れてはならないのは、当時日本でも「ユダヤ陰謀論」が根強く唱えられており、陸軍内部にも四王天延孝(しおうてんのぶたか)将軍などをはじめとして、それに加担する一派が存在したことです。これは事実として誤っていただけでなく、日本の進路にとって大いに問題のある議論でもありました。というのも当時、日本のマスコミ界ではとくに「ユダヤ金融資本の陰謀」を書き立てる傾向が強く、それがまた、「反英米」感情の火に油を注ぐ結果となっていったからです。さらに、そもそもベルサイユ会議(1919年)以降、「人種平等」を国是のように唱えていた日本が、本来ならば最も唾棄(だき)すべき「人種差別主義者」ナチス・ドイツと手を結ぶ下地にもなってしまったのです。
 このような状況下で、「日本も満洲もドイツの属国ではないのだから、ドイツの(ユダヤ人差別という)非人道的な国策に協力すべき理由はない」と明言した樋口の勇気ある姿は、その人物の大きさと共に、日本人としての誇りを感じさせてくれます。
 ハルビン特務機関長の任を終えた樋口は、陸軍のインテリジェンスを手掛ける参謀本部第二部長や、金沢の第九師団長を務めた後、昭和17年(1942)に札幌の北部軍(後に北方軍、第五方面軍)司令官に赴任します。これは決して軍の中枢とはいえないポストですが、この軍司令官時代に、樋口はアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の戦い(昭和18年)と、占守島の戦い(昭和20年)という重要な局面に立ち向かうことになるのです。
 それぞれの戦いの詳細は別稿に譲り、ここではその意義を述べたいと思います。
 アッツ島・キスカ島は、昭和17年6月に、ミッドウェー作戦の陽動作戦として、海軍の要請で占領したものです。しかし、海軍はミッドウェー海戦で大敗。そして翌年5月には、アリューシャン列島でも米軍の本格的な反撃に直面します。樋口は、アッツ・キスカからは早急に撤退させるか、そうでなければ強力な増援部隊を送るように大本営に強く働きかけますが、この申し出を、海軍が「燃料不足」などの理由から蹴るのです。
 当時、海軍大佐として軍令部作戦課におられた高松宮宣仁親王も、昭和18年5月22日の日記で、「熟田(引用者註 : アッツ島の和名)ノ守備(隊)ヲ犬死サセル必要ハアルマイニト思フ」と嘆いておられます。このお言葉は、重く響きます。これは戦後あまり指摘されませんが、海軍は当初、陸軍に派兵を要請しながら、結果的に見殺しにしたのです。ミッドウェーですっかり自信をなくした海軍の上層部は、当時まだ十分な(空母)機動部隊を有していたにもかかわらず、むやみに損害を恐れてアッツ救援のための出撃を拒否したというのが真相です。
 大本営からアッツ島守備隊への玉砕命令が下ったとき、樋口は号泣したといわれます。もちろん、現場の指揮官として2千6百名の部下を玉砕させることへの強烈な自責の念であったでしょう。しかしそれだけでなく、海軍の不条理さによって増援部隊を送れないことへの怒りの涙、そしてそれを撥ね返せない陸軍参謀本部の不甲斐なさへの悔し涙でもあったのではないでしょうか。
 樋口はそこで、「アッツ島の将兵を見殺しにするのならば、せめてキスカ島からの撤収作戦には海軍が無条件の協力を約束せよ」と大本営に頑強に迫ります。キスカ島の将兵6千の約半数は海軍陸戦隊でしたから、海軍も「身内可愛さ」から必ず覚悟を固めるはず、という読みもあったからです。この樋口の強硬な主張があったからこそ、「世界戦史上の奇跡」ともいわれるキスカ撤退作戦が実現したのです。
 そしてもう1つ、樋口が第五方面軍司令官として最後に下した決断が、「北海道の占領」をめざし終戦後にも国際法を破って侵攻を続けるソ連軍に対する、断乎たる反撃でした。
 そもそも日本は終戦時、「整然たる降伏」にこだわりすぎました。停戦後に一番危険なことは、丸腰になった味方が殲滅され虐待されることであり、武装解除した後に行なわれる敵の不法な行為によって、決定的に国益が侵されてしまうことです。簡単に武装解除せずギリギリまで条件交渉すべし、というのが世界の常識なのです。
 にもかかわらず、大本営は8月16日に戦闘行為の即時停止を命令、そして「8月18日午後4時以降は、自衛目的の戦闘行動も全て停止」と命じます。「自衛目的の戦闘も停止」など、本来ありえないことです。自衛権は、いつ、いかなる時でも許される「人類普遍の自然権」だからです。戦後日本の「倒錯と自虐の精神」の萌芽が、すでにこの時点で現われているかのようです。
 それゆえ、広い世界的視野に基づく合理的思考に立脚してその誤りを排し、正面から反撃を加えてソ連軍撃退をやってのけた樋口は、やはり「独りよがりの世界観」から一歩抜きん出た存在だったといえます。日本を「分断国家の悲劇」から救った樋口のこの判断に、すべての日本人は感謝すべきでしょう。
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polako-kimono · 4 years
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着物選びについて
着物とポーランドに恋したポラ子です。
2020年までに206か国、各国の着物を作る「イマジンワンワールドKIMONOプロジェクト」を知っていますか?
  プロジェクトのKIMONOに魅せられ、2年ほど前からポーランドを担当しています。皆様のおかげでOBIも10月中に完成しました。
今日のテーマの前にその帯を紹介させてください。
  気が済みました〜(笑)。
  11月はポーランド関連のイベントが目白押しです。
  まずは独立記念日のレセプションにて、ポーランドモチーフのKIMONOを展示させていただきました。
当然着物で行きます。その時に何を着るか迷います。
ポーランドモチーフのKIMONOを引き立てたいので、同じ色は避けます。
けれどポーランドが独立を回復して100年の記念すべきレセプションですから、おめでたい雰囲気も出したい。
  そこに自分のワードローブという縛りがあります。
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sandicemails · 5 years
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砂漠歌人と砂丘歌人
 2019年7月14日ジュンク堂池袋本店内カフェにて、千種創一『砂丘律』第4刷&𠮷田恭大『光と私語』第2刷を記念してトークイベント「砂漠歌人と砂丘歌人」が開催され、55名近くが出席しました。以下その内容です。(敬称略)
1 はじめに
2 自己紹介
3 中東との出会い
4 短歌との出会い
5 旅行詠と滞在詠
6 暮らしにまつわるあれこれ
7 影響を受けた映画作品
8 音楽と短歌
9 増版とSNS
10 それぞれの作歌法
11 『砂丘律』制作秘話
12 『光と私語』制作秘話
13 翻訳について
14 『光と私語』の魅力
15 千種からの発表
16 さいごに
1 はじめに(ジュンク堂書店池袋本店・市川真意文芸書担当)
 二〇一五年末の刊行後、異例の売行で第二刷がされた『砂丘律』。この春、砂漠を詠んだ歌がSNSで大きな話題になり、第三刷、次いで第四刷が決定。一時帰国する著者千種創一を、鳥取砂丘育ちの新鋭歌人𠮷田恭大が迎えます。
 万葉時代から命脈を保ち続け、砂漠も都市も飲み込む器、短歌。その叙情はどこに行くのでしょうか。二人が語ります。みなさま、拍手でお迎えください。(千種・𠮷田が登場)
2 自己紹介
千種:みなさま、本日は雨の中お越し頂きありがとうございます。千種でございます。一九八八年、愛知県生まれです。二〇一五年、青磁社より『砂丘律』を刊行し��した。
𠮷田:𠮷田です。一九八九年生まれ、鳥取県出身です。塔短歌会所属、学生時代は早稲田短歌会にもいました。今年の3月に、いぬのせなか座より『光と私語』を刊行しました。
 二〇〇九年に千種さんが外大短歌会を設立して、その初期に私が歌会にお邪魔してからのつきあいなので、かれこれ十年以上になりますね。その間には中東短歌なんていう同人誌もありましたね。
千種:そうですね。「アラブの春」の起きた二〇一二年、僕は中東に縁のある歌人たちと同人誌「中東短歌」を創刊しました。二〇一三年に第二号、二〇一四年に第三号で終刊、そして二〇一五年に砂丘律を刊行という流れです。
𠮷田:今回のトークイベントに先立って、ネットで質問を募集しました。そのうちいくつかへの回答を交えつつ、進めて行ければと思います。
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(撮影:青磁社)
3 中東との出会い
𠮷田:ではまず、千種さんの中東への関心というのは、どのようなきっかけだったのでしょうか。
千種:幼稚園がキリスト教系だった関係で地元の教会に行っていてパレスチナとかに興味があって。で中学一年生のときにNYで九・一一事件、パレスチナで第二次インティファーダ(一斉蜂起)事件が起きて、そこから更に興味が出たんです。
 だって飛行機がビルに突っ込んだり、子供が石を投げてイスラエルの戦車に立ち向かうとか、尋常ではないでしょう。何なんだこの世界は、と思って。
𠮷田:ということは、初めて知った”外国”というのはそのあたりですか。これは質問も寄せられております。
千種:はい、聖書を読んでいたので、イエス・キリストの活動していたパレスチナ、エジプト、ヨルダン、そのあたりです。小さい頃はハリーポッターみたいに架空の国だと思ってはいましたが。
4 短歌との出会い
𠮷田:これも質問が寄せられているんですが、千種さんはどうして短歌をはじめたんですか。
千種:高校まで自転車で通ってたんですけど、道中で自然に歌ができていたんです。最初は忘れるに任せていたんですけど、あるとき勿体ないと思って、高二の春からノートに書きとめ出したんです。
5 旅行詠と滞在詠
𠮷田:砂丘律の冒頭から中東の歌がありますが、詠まれた時は実際に現地に行かれていたんでしたっけ。
千種:いわゆる「アラブの春」が起こる前に、シリアとトルコを旅行しました。でもそれくらいです。大学卒業後にヨルダンに住み始めました。
𠮷田:中東に旅行してみて詠んだ作品と、中東に住み始めてからの作品というのは何か違いがありますか。
千種:砂丘律は時系列に編まれていないので、中東に住み始める前の歌もかなり入っています。そのあたりの歌はかなり想像、というか妄想です。
 妄想と現実が一致しないのはよくある話なので、実際に住み始めてから修正したり、歌集には収録しなかった歌などもあります。中東に住み始めてからは、非日常が日常になっていく感覚はありました。
 ちなみに、砂丘律を編むにあたって、もともとは一四〇〇首とか一五〇〇首とかあったものを四一〇首まで絞って収録しています。
𠮷田:削除した歌はどこかに書き留めていますか?
千種:作った歌は全部大事にしたいので、発表できるレベルに達しなかった歌たちもWordファイルに書き溜めていますね。
 身辺整理の際にはファイルをデリートしようかなと思っています。これ死後に発掘されたら、地獄やな、思ってますので。(一同笑い)
𠮷田:千種さん、整理整頓できるほうですよね。わたし手元に全然歌を纏めていなくて。『光と私語』を出そうと思って色々掘り返したんですけど、1年くらい遅れてしまいました。
千種:あ、みなさんのために補足しますと、歌人って歌をいろんな雑誌や同人誌に書くので実は作品が散逸しやすいんです。
6 暮らしにまつわるあれこれ
千種:普段𠮷田さんとはこういう話はしないので結構緊張しています。先日も台湾に一緒に行ったのですが、どーでもいい話しかせんかったもんね。
𠮷田:そうね。暮らしの話はしないもんね。じゃあ、聞きましょう。「普段何を召し上がっていますか」(一同笑い)
千種:パン食べて生きています。安い。パンにホンムス(豆のペースト)を塗って食べています。だから日本にいるときはラーメンと寿司にどっぷりですね。
𠮷田:確かに台湾でもひたすら麺食べてたもんね。(一同笑い)
𠮷田:「日本に帰国したときに驚くのは何ですか」という質問もありますが。
千種:日本人がみんな子供に見えることですね。あとすれ違う人がみんな知り合いに見えます。
7 影響を受けた映画作品
𠮷田:千種さん、好きな映画は何かありますか。
千種:邦画で言えば、例えば『ジョゼと虎と魚たち』、『海街diary』、最近で言えば『寝ても覚めても』とか、人間のどうしようもなさを描いた映画が好きです。
 影響を受けた映画としては、ふらっと入った渋谷ユーロスペースで観たポーランド映画『エッセンシャル・キリング』(イエジー・スコリモフスキ監督、二〇一〇年)。
 中東風のテロリストが、砂漠と、そして拘束後に輸送された先の雪原をひたすら逃亡する。詳しい設定説明や台詞もなく、多くが謎のまま、ただ映像が綺麗。中身を語らずとも、枠を語ることから滲み出る美しさもあるんだな、と。
 ビジュアルというよりも、コンセプトの面で影響を受けました。
 他には森博嗣原作の『スカイクロラ』(押井守監督、二〇〇八年)。キルドレというずっと子供のまま成長しない戦闘機乗りたちの終わらない、終わらせることのできない、運命や気持ちの揺れ、諦めみたいな世界観は、砂丘律にも影響しています。
千種:𠮷田さんの好きな映画は。
𠮷田:アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『光りの墓』(二〇一五年)とか。物語も好きなんですが、それより映像と音楽で引きつけていく、みたいな映画が好きです。
8 音楽と短歌
𠮷田:じゃあ、好きな音楽は何でしょう。
千種:中学生まではバロックを中心にクラシックばかり聴いてました。でもHYという沖縄のバンドのAM11:00という曲を偶然ラジオで聴いたことがきっかけでJポップにも興味が湧きました。
𠮷田:くるりの岸田繁さんが砂丘律の推薦文を書かれてますが、くるりとの出会いは。
千種:くるりは、高校生のとき「赤い電車」のMVを観たのが最初の出会いですね。
 高校生の頃はBump of ChickenとかRadwimpsとかの切実な曲を聴きまくってました。
 でも赤い電車を聴いて、こんなゆるい曲があるんだと思って何となく気になっていたところに、進学した先の大学で友達から、聴け、といってくるりのCDを大量に貸しつけられて、聴きこむようになりました。
𠮷田:くるりをまとめて貸してくれる友人っているよね。(一同笑い) 歌人に好きな人多いです、くるり。私は早稲田短歌の先輩から布教されました。
千種:𠮷田さんの好きな音楽は。
𠮷田:あまり聴かないんですよね。舞台に使われた音楽を聴いたり、もっぱら他人から勧められたのを聴いています。最近だと空間現代とか。
9 増版とSNS
千種:今回の重版は、この春にある方のツイートに載せられたこんな歌がバズったのがきっかけでした。
 アラビアに雪降らぬゆえたた一語ثلجと呼ばれる雪も氷も /千種創一
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元URL: https://twitter.com/Ots_mh/status/1106256914915028992
𠮷田:このサルジュの歌がバズったとき、どんな気持ちでしたか。
千種:あら、それバズるんだ、という気持ちでした。
𠮷田:そうだよね、キャッチーな歌とか他にもいっぱいあるのにね。
 実は今日、会場にそのツイート主にお越し頂いております。「なんでこの歌を引いたんですか」とか、ちょっと聞いておきましょう。
(マイクを受け取りつつ)
橋本牧人:はじめまして。この歌を引いた理由ですか。僕自身が大学一年生のときにアラビア語を勉強したことがあって。学問で得た知識を詠み込んだ歌を志向していきたいなと思って、この歌を選びました。
 他にはカロリーメイトの歌とかも好きです。
 煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか /千種創一
千種:ありがとうございます。
 サルジュの歌、実は過去砂漠に降った雪の写真に添えて投稿したこともあるんですが、ぼちぼち伸びたくらいです。
 今回の橋本さんのツイートがあれだけ伸びたのは何でなんでしょうね。
𠮷田:Twitter本文に表示される横書きではなくて、歌集の写真として縦書きだったことが良かったのでは。そして橋本さんがその写真を撮ったという行為がワンクッションあること、あたりも理由として挙げられると思います。
千種:橋本さんの”物語”が差し込まれているというね。
𠮷田:そうそう。しかしこれだけ伸びたのは、作者冥利に尽きるのではないでしょうか。
千種:本当に。改めて橋本さんに感謝申し上げます。
10 それぞれの作歌法
𠮷田:Twitterで拡散されやすい歌、ってあると思うんです。
 千種さんの場合は、「先輩」というような呼びかけとか、会話体を使ったキャッチーな歌が多くて、初読で印象に残りやすい。例えばこんな歌。
 あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の /千種創一
 千種さん、会話体使うの得意だよね。
千種:得意というか、そうなっちゃうんだよね。和歌風に文語旧仮名で朗々と詠いあげる、みたいなのは書けと言われても書けない。
𠮷田:破調はどうですか。会話を優先するのか、定型を優先するのか、みたいな。
千種:会話優先ですね。でも歌を作るときには、寝る前とかに百回なり千回なり、ぶつぶつ口に出して繰り返して、その一行のための定型みたいなものを探します。
 𠮷田さんはどんな風に作るんですか。
𠮷田:私はスマホで作りますね。声に出すのは割と最後の段階。視覚的な収まりどころを最初に探します。そこから韻律をいじります。
 この前、地元でNHKの取材を受けたんですが、作歌風景を撮りたいというのでスマホで作っていたら「絵的に弱いから、ノート持ってきたんでこれに書いてください」と言われました。でも結局、字が汚くてボツになったというオチ付きです。(一同笑い)
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(NHK鳥取のページより)
千種:僕は気分転換で紙を使うことはあります。
 僕も記録は基本スマホなのですが、歌のいろんなバリエーションを作って、俯瞰するために紙に書き出したりします。スマホだとせいぜい三行とかしか表示できないので。
千種:𠮷田さんは音楽聴きながら歌書いたりしますか。僕はくるりの「ばらの花」とか「ワンダーフォーゲル」とかえんえんリピートで聴きながらよく書きます。
𠮷田:THE YELLOW MONKEYを聴きながら連作を組んだりした時期もありました。ありましたが、精神が不調になりますね。(一同笑い)
 最近だと落語を聴きながらが多いですね。深夜とか、人の話声が聞こえてると安心するんです。でも歌詞のある曲だと自分の書いているものに干渉してくるんで……ラジオとかポッドキャストとか、聞き流していられるようなものが丁度いいです。
11 『砂丘律』制作秘話
𠮷田:歌集にまとめる際に、改作はどの程度していますか。確か砂丘律が出た直後の批評会(二〇一六年)で、歌人の田口綾子さんが指摘されていましたが。
(批評会記録:http://dunestune.blog.fc2.com/blog-entry-4.html )
千種:はい。当初、文語の歌も少しはあったんです。でも口語の多い砂丘律の中では浮いてしまうので、改作したり、もしくは泣く泣く落とした歌もありました。
𠮷田:ではその辺の歌は、没後出てくる感じで?
千種:出ません。出させません。(一同笑い)
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𠮷田:砂丘律は装幀・デザインもかなり話題になってました。
千種:当初、出版社の青磁社には、洋書のようなシンプルなペーパーバックで、写真はこれ使って、というような何となくのイメージを伝えていました。
 割と装幀は自分で介入��るつもりでした。
 でも砂丘律の原稿を読んだ、濱崎実幸という装幀家さんに”ハイジャック”されて。「やりたいこともあるから任してほしい」と言われたので、僕も「任せます!」として任せたんです。
𠮷田:背表紙がむき出しの特殊な装幀でして、なかなか費用も手間もかかっているとか。
 実は本日は砂丘律の出版元、青磁社の永田淳代表にお越し頂いております。砂丘律に関し、どのような苦労がありますでしょうか。
永田淳青磁社代表:版元の青磁社の永田です。
 砂丘律はすべて手製本です。職人さんが一冊一冊、背表紙の寒冷紗を貼って、題簽を貼っています。今は圧倒的に機械製本が多いので普通の書店には手製本はほぼないと思います。
 砂丘律は製本代だけで300円くらいかかっています。ここにさらに印刷代などがかかります。業界の人ならわかると思いますが、定価1400円の中で製本代300円という数字は、すごいコストがかかっています。
12 『光と私語』制作秘話
千種:光と私語もまた、背中がむき出しの装幀が話題となっています。第二刷もされました。
𠮷田:砂丘律と光の私語は双子のようだ、という話も言われてましたね。本日は、光と私語のデザインを担当したユニット「いぬのせなか座」主宰の山本浩貴さんにもお越し頂いておりますので、その辺の話も伺ってみましょう。
山本「いぬのせなか座」主宰:デザインを担当した山本です。光と私語と砂丘律とを二冊並べて写真をSNSに投稿した人たちもいました。
 付き合いの長い𠮷田さんと千種さんのお二人の関係性でそういう投稿が見られたのかもしれませんが。
 実は、千種さんのこと知る前のことですが、かつて本屋の歌集コーナーで一番かっこいいと感じた砂丘律をジャケ買いしていました。
 そうしたこともあって、光と私語をデザインする際には影響を受けないようにしていたのですが、結局似てしまったのが面白かったです。
 ちなみに光と私語はコデックス装という装幀です。
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𠮷田:先般増刷された堂園昌彦さんの『やがて秋茄子へと到る』なんかもそうですが、なるべく長く売っていくためには、なるべく人に手に取ってもらうようなデザインが大事だと思っています。製品としての存在感があったほうがいいのではと。
千種:一時期、電子書籍で歌集を出そうという潮流がありました。紙の本が電子書籍に勝てるところといったら装幀とかと思って、砂丘律を出す際にはこだわりたいと思っていました。
𠮷田:電子書籍のメリットは版切れのないことと、アクセスの良さですよね。
 『光と私語』については近日中にデータ版を無料公開する予定なのですが、そこをきっかけに書籍版を購入してくれる人が少しでもいればいいなと思っています。何せ紙の本にはマテリアルとしての良さがありますので。
千種:軽く言っちゃうと、本のインスタ映えとかね。
𠮷田:そうそう。重要。
13 翻訳について
𠮷田:千種さんは割と、主題制作、つまり連作の中で物語を立ち上げるという試みをされていますが。
千種:はい。砂丘律の中だと、「或る秘書官の忠誠」という連作があって、独裁者の秘書官になりかわって詠んでいます。が、すごく評判が悪い。
 あと、確か歌人の紀野恵さんが、一時期、紀貫之か何かに成り代わった連作を雑誌「短歌研究」に連載していたんですけど、まあ、なかなか難しいですよね。
 それは歌人の力の限界なのか、それとも短歌という詩型の限界というか、向き不向きのような話だと思っています。
𠮷田:単純に物語を立ち上げるだけだったら、散文に分がありますからね。
 物語といえば、千種さんはアラブ文学の翻訳もされていますよね。中東短歌にも、歌と並行していくつか翻訳を発表されてました。
千種:はい。今日のチラシには「歌人・翻訳家」と書いてあるんですが、実はまだ翻訳で本を出せていません。
 とある出版社に翻訳の持ち込みをしたのですが、アラブ文学では商業出版はなかなか難しいと却下されてしまって。
 もちろん図書館に行けば翻訳されたアラブ文学もぼちぼちあるのですが、湾岸戦争、九・一一、アラブの春、など大きな事件が起きて、読者の関心が大きくなったときに翻訳・出版されたものが多いと聞きます。
𠮷田:中東情勢が荒れると、翻訳が出るということですね。となるとあまり出ない方が世界の平和のためには良さそうですが。(一同笑い)
 私は舞台関係のマネジメントを仕事にしているのですが、演劇界隈でも、中東への関心というか、アーティストを日本に招聘したり、作品が日本で試演されたり、ということが増えている印象があります。今後、政治情勢だけではなく文化の面でもフックは増えていくのではないかと思います。
千種:そう願います。みなさまの中にアラブ文学の翻訳出版に興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ千種にお声かけを。宣伝しちゃった。
14 『光と私語』の魅力
千種:僕が自分について喋りすぎているので、光と私語の魅力について話します。話していいですか。話しますね。
 光と私語は、「枠」の歌集だと思っています。
 まず、装幀については、プラスチックのカバーだったり、本文中に四角や長方形のボックスが差し込まれていたり、視覚的にカクカクしているのが、とても都市っぽい、枠っぽいです。
 歌について言えば、例えば一月とか「時間枠」を読んだものが多くあります。
・一月は暦のなかにあればいい 手紙を出したローソンで待つ
 他にも、枠としての建築への関心も示されています。
・恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所
 短歌では、部屋でタバコを吸う「私」の恋人とか、一月に「私」が友達と行く初詣とか、枠の中身について話すのが普通です。
 一方で、光と私語では枠ばかりについて話すことで、「私」が希釈されます。
 でもそれこそが都市のリアル、我々が見る都市の人間像でないでしょうか。とてもリアルな。
𠮷田:なるほど。なんだろう、たぶん個人的には、私自身以外のところから私性を取り出したいのですよね。あまり自分の話をしたくないというか、枠の中身はどうでもいいというか。単に自分に自信がないだけかもしれませんが。
15 千種からの発表:活動再開宣言
𠮷田:そろそろ時間だけど、告知とかしましょうか。
千種:何だっけ。
𠮷田:ほら、これからの、歌の。
千種:え、ああ、これまとめに入ってますね。(一同笑い)
(考え込んだあと)ちょっと、実は、その、第二歌集を用意しています。冬か春くらいに出せればな、と。タイトルは「千夜曳獏」。
𠮷田:ここ数年は歌からは離れてましたが。
千種:はい、そうですね。
(しばらく考えて)砂丘律を出したあとに、言葉との距離がわからなくなってしまって。
 他人に不誠実な言葉、例えば嘘、を吐いてしまうこんな自分が、歌で綺麗な言葉を使っていてよいんだろうか、って。
 言葉を単なる道具みたいに扱っているんじゃないか、って怖くて。
 もちろんその葛藤や罪悪感はまだあるんですが、書くのをやめたこの数年、病気みたいになっちゃって。僕にとって書く行為は生体リズムの一部だったというのがこの数年でわかったことです。
 書いて褒められたいとかではなくて、書かざるを得ないんです。書いちゃうんです。ほら、マグロって泳ぎ続けないと死ぬじゃないですか。あれです。
 今後、また書いていきます。良いものが創れればと思ってますので、みなさま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
𠮷田:今日は、その言質を取れたら勝ちだと思って来たので。もう引き返せないですよ。
千種:やられたわー。みなさんこれ、打ち合わせと違う展開です。(一同笑い)
16 さいごに
𠮷田:では最後に一言、どうぞ。
千種:はい。いろんな奇跡が重なって、僕もここにいるし、みなさんもここにいると思っています。
 𠮷田さんがいなければ僕はこんなに短歌にのめり込まなかっただろうし、砂丘律は青磁社や装幀家の濱崎さんがいなければ生まれなかった本だし、橋本さんのツイートやジュンク堂さんからのお声掛けがなければこのイベントもなかったと思います。
 書き手として本当にありがたいと思っています。みなさま、今日はお越し頂き、ありがとうございました。
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aikider · 2 years
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プーチンの意図する「非ナチ化」とは
ウクライナ侵攻にあたり、プーチンはウクライナの「非ナチ化」を訴えている。このあたり、ナチスとロシアの関係について詳しくない日本人としては、かなりわかりにくい。
事情をよく知らない日本人は「ゼレンスキーはユダヤ系なのにナチだというのは矛盾している、ありえない」「プーチンのでっち上げか、妄想だ」という意見が、ネットの掲示板だけではなくテレビの解説でもあったりする。しかし、プーチンは恐ろしく頭の切れる人間で、妄想の中で生きているとは思えないし、ベラルーシのルカシェンコ大統領のような見え見えのでっち上げをするようなタイプの人間でもない。われわれ西側の人間にはわかりにくい価値観や論理を持っているだけで、ロシア人的には一応の説得力があるらしい。
バンデラ通り
これについて、佐藤優は以下のように説明している。
「ウクライナの非ナチ化」という言葉が、日本人にはわかりにくいと思うので、説明しておきましょう。ウクライナ民族解放運動の指導者で、ステパン・バンデラ(1909~1959年)という人がいました。バンデラは第2次大戦中に、ポーランドとウクライナに侵攻したナチス・ドイツと提携し、ナチス・ドイツ軍の指揮下に入ってソ連軍と戦い、ソ連からウクライナの独立を図った時期があります。しかし、ウクライナ独立の約束をナチスは守らず、バンデラはナチス占領下でウクライナ独立を宣言したために逮捕されるのですが、反ユダヤ主義者でもあり、ユダヤ人虐殺に関与しています。
ソ連時代には、「ナチスの協力者」「過激な民族主義者」「テロリスト」という意味で憎悪の対象として教えられていましたが、近年のウクライナでは「独立のために戦った英雄」として再評価され、2016年にはキエフの中心にあった「モスクワ通り」の名前は「バンデラ通り」に変わりました。
プーチン大統領はこうした動きを指して「ネオナチ」と言い、ウクライナのナショナリズムを解体していこうと考えているのです。
出典
2014年の親露派政権から親欧米派政権への交代劇以降、ウクライナ民族主義が高揚していた。その影響でウクライナ民族主義の先鞭をつけたステパン・バンデラを称揚する機運が高まり、通りの名前になった。ただ、ロシアは21世紀に入っても「対独戦勝記念式典」を毎年やっている。ロシアにとってナチスドイツは、我々日本人の想像が及ばないほどに憎むべき相手であり、いうなれば不倶戴天の敵である。だからプーチンとしては、兄弟国であったウクライナが親ナチス主義者を称揚することは絶対に許せない、ということらしい。
ただ、モスクワ通りをバンデラ通りに改名するのは、あくまで観念的・思想的・理念的レベルの問題ではある。プーチンが根絶やしにしようとしている「ナチス」というのは、それだけではない。
国軍へ成長したサポーター集団
おそらくプーチンが最も敵愾心を抱いているのは、アゾフ大隊であろう。雑にまとめると、アゾフの淵源はハリコフのサッカーチームの熱狂的サポーター集団であり、当初はモスクワのチームとも友好的であった。しかし2014年のドンバス戦争を契機としてウクライナ民族主義が強くなり、サポーターの一部が自警団を結成、それがオルガリヒの資金提供を受けて軍事組織に成長した。当初はあくまで義勇兵部隊であったが、まもなくウクライナ政府により国家直属の軍事組織と認められることになった、という代物である。
アゾフはユダヤ系団体からネオナチではないかという批判を受けてきたようであるが、アゾフの側は、ユダヤ系隊員もいると返答してかわしている。ただ、隊員の中にはネオナチ思想のある隊員がいるのも事実のようである。他にも極右という言われ方をしたりもするのだが、設立の経緯から考えればやはり極右的な人物がいるのは否定できない。
世界的に見てサッカーの熱狂的サポーターはフーリガンになったりネオナチと結びついたり極右と結びついたり、過激な集団が生まれやすいようだが、アゾフはそこから国軍の一組織にまで出世したというわけだ。アゾフそのものはナチズムのような明確なイデオロギーを持つわけではなく、「内部に極右やネオナチの隊員も内包する軍事組織」と表現するのが正確なところであろう。一方でアゾフのほうも、危険な集団ではないというアピールのためか、募金活動や社会福祉活動、子供向けのボーイスカウト的なイベントをやっているというのが興味深い。
余談ながら、公安調査庁はアゾフについて以下のような「お知らせ」を出している。
 近時、一部において、公安調査庁が「アゾフ連隊」をネオナチ組織と認めている旨の事実と異なる情報が拡散されている状況が見受けられますが、このような誤った情報が拡散されていることは誠に遺憾です。  これは「国際テロリズム要覧2021」の「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」等の記載を根拠にするようですが、そもそも、「国際テロリズム要覧」は、内外の各種報道、研究機関等が公表する報告書等から収集した公開情報を取りまとめたものであって、公安調査庁の独自の評価を加えたものではなく、当該記載についても、公安調査庁が「アゾフ大隊」をネオナチ組織と認めたものではありません。  ついては、上記のような事実と異なる情報が拡散されることを防ぐため、当庁HP上の「国際テロリズム要覧2021」から上記の記載を削除することとしたのでお知らせします。
出典
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念のためスクショしておく。過去に出した文書を「独自の調査を加えたものではなく」などと言い訳して修正し、あまつさえなかったことにしようというのは、公安組織として情けない。内外の報告をとりまとめただけと言うならばそう言えばいいだけで、該当箇所を削除する必要はない。逆にそもそも独自の評価を加えていないというのもそれはそれで問題である。「誤解を招いた」で逃げる政治家の答弁を真似しないでほしいというのが一人の有権者としての要望である。
民兵と犯罪
閑話休題���
西欧ではネオナチ的なことを言ったら社会的に抹殺されるのだが、ロシアが支援するロシア系住民とガチンコバトルしているウクライナ政府にしてみれば、自らをネオナチと言って憚らない命知らずの隊員は、戦力として貴重であったと推察される。一方でそういう血の気の多いアゾフ隊員が犯罪行為を働いたことを国連人権高等弁務官事務所に非難されている。なおこの際、ロシア側勢力(ウクライナのロシア系住民)も同様に非難されている。
考えてみればドンバス戦争のロシア系住民は正規軍ではなく、ロシア政府の支援を受けた民兵組織であるから、出自はアゾフ大隊とさほど変わらない。双方いずれも民兵上がりの過激な連中が集まっている軍事組織だから、軍規が破られるハードルは低い(ロシア軍はそもそも遵法意識が低いが、民兵となればさらに低いであろう)。結果的に拉致監禁拷問レイプその他の犯罪行為が発生し、同胞がやられたら同じことをやり返す、の理屈で犯罪行為の応酬があったわけだ。そしてロシア側としては、アゾフ等ウクライナ側の犯罪行為を問題視し、「非ナチ化のために」と称して戦争を始めたわけである。
とはいえ、もちろんアゾフがどれほどやらかしていたとしても、ロシアのウクライナ侵攻を正当化できるものではない。内戦における戦争犯罪と国家間の戦争はそもそも次元が違う話である。仮に内戦における犯罪を問題化するのであれば、それこそ国連で問題化した上で平和維持軍を出すのが正しい手続きである。
従ってプーチンが言う「アゾフの犯罪行為を止めるために軍を出す」のは当然ながら法的に誤りである。
同時に、「アゾフ大隊が犯罪を犯したというのはロシアを擁護する許されない行為であり、ロシアのプロパガンダに騙されている」という議論も誤りである。そもそも独立事象なのを関連付けるのが誤っている。
そしてさらに、「お互い問題あるんだから双方謝るべき」という議論もまた誤りである。これはアゾフとロシア系住民の間なら理屈上成り立つ議論だが、ロシアが正規軍を出すとなると国家間紛争になり、問題の次元が変わってくるからだ。
結局のところ、アゾフ等の軍事組織による犯罪行為はきちんと裁かれるべきであるし、ロシア系民兵組織(現在はドネツク人民共和国軍、ルガンスク人民共和国軍を名乗っている)による犯罪行為も裁かれるべきである。一方でロシア正規軍がウクライナに侵攻したことは、国家間の外交や安全保障の観点で許されない行為ということになる。なんでもかんでも一緒くたに議論するのは誤りだ。当たり前のことを忘れてはいけない。
と同時に、国際正義の問題と国益がまた別のところにあるという問題もまた覚えておく必要はある。これについては過去のエントリを参照。
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5484tabulae · 6 years
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散策研究会 Cadavre K 「徘徊する観察者 Vacant Lot」
散策研究会 Cadavre Kによる展覧会
「徘徊する観察者 Vacant Lot」
をTABULAEで開催いたします。
※散策研究会 Cadavre Kとは、2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクトの名称です
|会場|
TABULAE (墨田区向島 5-48-4)
|会期|
2018/11/24 (土) - 12/16 (日)の金土日
- 金 15:00 - 20:00
- 土、日 14:00 - 20:00
※曜日によって開場時間が異なりますのでご注意ください
オープニングレセプション
11/24(土)18:00 - 20:00
|イベント|
第5回 漂流教室 「まわり道してTABULAEに向かう」
12/8(土)14:00 - 17:00(終了時刻は前後する場合があります)
集合場所 東武スカイツリーライン/東武亀戸線 曳舟駅改札口付近
定員 5名
参加費 無料(要予約 参加申込み締切12月6日)
東武曳舟駅に集合し、3時間ほどかけて墨田区京島、向島エリアを散策しながらTABULAEに向かいます(台風・雷雨・地震・大雪など災害級の天候以外は、雨天でも決行します)。
>漂流教室について
※こちらのイベントは定員に達したためご予約の受付を終了いたしました
アーティストトーク
12/15(土)18:00 - 19:00
ゲスト 沢山遼(美術批評)
定員 15名
参加費 1000円(要予約 参加申込み締切12月14日)
美術批評家の沢山遼氏をゲストに迎え、アーティストトークを行います。ゴードン・マッタ=クラーク展図録に掲載された沢山氏の論考「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」を参照しながら、都市、写真、散策と介入といったトピックについて議論します。
沢山遼 1982年生まれ。美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。2010年「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」で『美術手帖』第14回芸術評論募集、第一席。主な論文に「ニューマンのパラドクス」田中正之編『ニューヨーク 錯乱する都市の夢と現実(西洋近代の都市と芸術7)』竹林舎、2017年。「ウォーホルと時間」『NACT Review 国立新美術館研究紀要』第4号、2018年。「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」『ゴードン・マッタ=クラーク展』(東京国立近代美術館、2018年)など。
※両イベントは予約制となっております。参加をご希望される方は、件名を「漂流教室予約」または「トーク予約」とし、①お名前②ご連絡先③希望日時④人数 をご記入の上、[email protected]までメールをお送りください。
『徘徊する観察者 Vacant Lot』開催にあたって|散策研究会 Cadavre K
散策研究会 Cadavre Kとは、2011年3月11日の東日本大震災に強烈な衝撃を受けたアーティスト北川裕二によって、同じ2011年から開始されたプロジェクトの名称です。今回のTABULAEでの新作展が、散策研究会 Cadavre Kとしては初の個展になります。あれから8年が経ったとはいえ、むろん福島第一原子力発電所は「収束」などまったくしておらず、同じように大地も揺れ続けています。したがって今回展示される作品は、そのどれもが3.11以後に制作されたものであるとしても、 むしろ“3.11下”のそれであるといってよいでしょう。
散策研究会 Cadavre Kは、以来、痙攣するこの世界を継続的に観察・記録しつづけてきました。しかし、その観察対象は福島県や岩手・宮城県などではなく、意外にもいま私たちが立っているこの場所でありました。観察対象への姿勢は当初、何よりもまず、直立二足歩行する私たちの、この足元の地面への関心から始ったのです。そのうえに築かれたあらゆるものは幻想なのではないか。であるとするならば、幻想はいかにして自然との関係を取り結んでいるのか。対立関係にあるものどもの、相反する構造(システム)と構造(システム)が、否が応でも接せざるをえない境界線、エッジが、あるいは「構造(システム)」の回収し得ない外部的なものが、観察対象として注目されました。
ほとんどの散策は、日中のほぼ一日をかけて台地や低地をひたすら歩いて横断していくというものでした。“下町”と呼ばれる沖積低地、“山の手”と呼ばれる洪積台地、あるいは武蔵野平野、奥多摩山間地など。地形学の地形区分に従っていえば、 多摩面(T面)、下末吉面(S面)、武蔵野面(M面)、立川面(Tc面)の特徴と、それらが接する際に発生する崖線等の境界線や河川についての知識が事前に取り入れられもしました。定点観測ならぬ、歩行による動線観察が何度もくりかえされ、各地域・エリアにそれぞれ漂う特有のアトモスフィア、ムードは、散策者の心理状態の変化に影響を及ぼすことが確認されました。そうして、しだいに「東京の自然史」(貝塚爽平)が把握されていったのです。散策研究会としての散策は、これまでに123回を数えます。
また、同時に、踏み固められた地面の上に存在するあらゆるもの、すなわち植生・気象・家屋との関連全般が観察対象となり、写真に記録されていきました。散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。
地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです。生態学的に言えば、個体のみならず、個体群、群集といった階層を異にするもの全般を、そしてまた、位階秩序の異なるそれらの影響関係をも観察・記録対象にするということでもあります。身の回りの環境や社会、つまりは生活を成り立たせているアレコレは、そのようにアレやコレやソレとして一括りにされ��、記憶・記録から排除されてもきました。散策研究会が関心をもったのは、まさにそのような無数のアレやコレでありました。衝撃とは、近代化の名の下に隠蔽・排除されたものどもが、「原発震災」(石橋克彦)によって再び私たちの世界に回帰してきた、そのことにあったというわけです。
写真というメディアは、このような研究にはうってつけの道具でした。なぜなら、カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができたからです。眼で見ていたときには見えなかったものが写真には写りこんでいたというのは、カメラのこの等価性、すなわちあらゆるものを平等なものとして、なんでも選ばず記録してしまう、このアナーキーな機能によるところのものではないでしょうか。
本展は、こうしたカメラ・写真の可能性を再び抽出しようとする試みでもあります。そこには、“すべてのものが等価なもの”として記録されている。しかし、そうであるがゆえに、その可能性は、他方で、ブレもピンボケもなく構図もしっかり撮れているにもかかわらず、“誰が、いかなる目的をもって、誰のために��影したのか、皆目見当のつかない、まったく不明なる写真”という、実に奇妙に倒錯した(不)可能性の窓をも同時に開いてしまうのではないでしょうか。この点に、写真の機能が孕む矛盾が見てとれます。そこに提示されているのは、いわば世界の「無名性」のことにほかなりません。実現しているかどうかはさておき、このような写真の(不)可能性を本展では模索しています。
セレクトされた写真と映像は、昨年から今年にかけて撮影されたものに限られています。撮影箇所は主に武蔵野面(M面)の東端であり、区としては、中野区にあたります。中野区の同じエリア、環境をくりかえし何度も徘徊する。そのようなことはこれまでに一度も試みたことがありませんでした。
そしてこのことは、先程「武蔵野面(M面)の東端」と書きましたが、本展においては、地形的特徴への関心が次第に後方へと退き(薄らいだわけではありません)、かわって植生(主にヒト)と家屋、そして何よりも気象への関心が全体に配されてくるものへと推移してきたことと関連しています。くりかえし同じエリアをおとずれる散策スタイルは、写真の機能をより自覚的に操作しようということに、何らかの影響を与えていると感じています。
本展のコアとなる作品群は四部構成となる予定です。 ①独立した1点ものの「写真作品」 数点 ②数点の写真が組み合わされた「写真作品」 数点 ③液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「スライド作品」 ④液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「映像作品」 ①~④の作品にはシリーズとしてのメインタイトルと、各作品としてのサブタイトルが付されています。各メインタイトルは、①Survey Point (測量点) ②Photogrammetry(写真測量法) ③Voronoi Diagram(ボロノイ図) ④Skid Movie(横滑りの映画)となっています。また、参考資料として、本展の作品に関係する散策ルートを図解したパネルも展示する予定です。
また、本展覧会としてのメインタイトルとなった“Vacant Lot”ですが、これは日本語では空閑地のことです。一時的に未使用になった空き地。英語名にしたのは、“Vacant Lot”という言葉に興味をもったからです。この“Lot”には、くじ、運、運命という意味があるようで、それが一時的に空き地となった区画を指す言葉にも使用されているというのがおもしろかった。“偶々割り当てられたもの”としての空閑地。文字通りに訳せば、“空っぽの運命”です。
これは、今年国立近代美術館で回顧展が開かれたゴードン・マッタ=クラークの仕事を想起させます。カタログに掲載された美術批評家沢山遼氏の論文にマッタ=クラークの発言が引用されていて、瞠目しました。以下、孫引きですが引用させていただきます。
「グリーン通り112番地でやったアナーキテクチャーの展覧会は[…中略…]なんらかの強い形式性によって固定されることのない、固定化した建築的ヴォキャブラリーの外部にあるものについてのものだった。[…中略…]ぼくたちが考えていたのは、隠喩的なヴォイド、空隙、残余的空間、未発展的な場についてだった。[…中略…]たとえばそれは、立ち止まって靴紐を結び直すような、日常的な動作がふと遮られるような場だ。そのような場は、知覚的な重要性を帯びていると思う。なぜならそこで人は動的な空間に触れているんだ。」 (「ゴードン・マッタ=クラーク展」カタログ p.265)
つまり、“Vacant Lot”とは、この解けた靴紐のことなのかもしれません。紐が解けて固定された意味が一時的に宙吊りとなる時。場所。その瞬間はおそらく、九鬼周造のいう偶然性のごとく「現実性へスルリと滑ってくる推移のスピード」を持っているに違いない。“無”が偶然性によってもたらされるということ。環境、生活、世界への認識を深め、未来を洞察するにも、このような人と自然の接するエッジに現象するささやかな出来事に対する認識をさらに深めていく必要がありそうです。今回の展覧会がそのような世界への見方、感じ方、考え方に寄与できれば幸いです。
最後に、Cadavre KのCadavreはフランス語で、日本語では死骸のことです。したがって、Cadavre Kは、死骸キとなります。“キ”とはキタガワの“キ”のことです。3.11以後のプロジェクトにそう名付けたのは、このプロジェクトがそれまでの作品とはまったく異なることもありましたが、同時に、3.11以後、偶々生き残った=生き延びているという感覚を今も持ち続けているからにほかなりません。それは、どこか幽霊的に仮構された作者名といえるでしょう。
散策研究会 Cadavre K
2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクト
漂流教室
第一回 霊岸島から埋立地へ (2015/milkyeast) http://ur2.link/N8ZH 第二回 河岸と下町低地(2015/milkyeast) http://urx.red/N901 第三回 山の手の<むらぎも>を巡る(2016/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/22767074/ 第四回 崖線上のカフカ──中野区を歩く(2017/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/23871177/
散策研究会 これまでの主な散策エリア
001 2011_06_11 新宿御苑 002 2011_06_18 等々力渓谷 003 2011_06_25 赤坂見附 004 2011_06_29 丸の内線・四ッ谷駅 005 2011_07_02 下末吉台 006 2011_07_06 迎賓館・明治公園 007 2011_07_09 市ヶ谷・飯田橋 008 2011_07_16 お茶の水・神田川・隅田川 009 2011_07_22 野川 010 2011_08_06 新木場 011 2011_08_11 高尾山 012 2011_08_20 隅田川・スカイツリー 013 2011_08_25 菊名・獅子ケ谷・下末吉台 014 2011_09_02 渋谷川 015 2011_09_08 皇居・日本青年館 016 2011_09_11 新宿・原発やめろデモ 017 2011_09_17 渋谷川・古川 018 2011_09_19 さようなら原発・渋谷川 019 2011_09_24 赤坂 020 2011_10_01 善福寺川 021 2011_10_07 港の見える丘公園 022 2011_10_13 山手 023 2011_10_22 宇田川跡 024 2011_11_03 御岳山・ロックガーデン 025 2011_11_09 巣鴨・田町・谷中 026 2011_11_12 神田川・小日向台 027 2011_11_17 都電荒川線・王子・荒川 028 2011_12_03 愛宕山 029 2011_12_14 上野・根津・谷中 030 2011_12_15 弘明寺 031 2011_12_21 荏原台 032 2011_12_30 立川段丘 033 2012_01_01 狭山丘陵 034 2012_01_05 三殿台遺跡 035 2012_01_12 目黒自然教育園 036 2012_01_19 明治神宮 037 2012_01_26 清瀬 038 2012_02_04 深大寺・府中 039 2012_02_08 江戸前島 040 2012_02_15 江戸前島 041 2012_02_24 浜離宮 042 2012_03_03 吉見百穴 043 2012_03_15 江東区・運河 044 2012_03_17 江東区・運河 045 2012_04_07 神楽坂 046 2012_04_14 渋谷川・明治神宮 047 2012_04_20 町田・自由民権資料館 048 2012_04_28 市ヶ谷・早稲田 049 2012_05_17 町田・自由民権資料館 050 2012_05_26 江東区・戦災センター 051 2012_06_07 全生園・滝山団地 052 2012_06_14 清瀬 053 2012_06_16 京島 054 2012_06_23 玉川上水・首相官邸前 055 2012_06_29 首相官邸前 056 2012_07_12 神田 057 2012_07_13 首相官邸前 058 2012_07_16 代々木・さよなら原発 059 2012_07_02 新富町 060 2012_08_08 六郷土手 061 2012_08_12 日野 062 2012_09_08 本郷台地 063 2012_09_15 東京湾・葛西臨海公園 064 2012_10_06 生田緑地 065 2012_11_10 青梅・横田基地 066 2012_12_01 大山 067 2013_01_12 渋谷・元麻布・六本木 068 2013_01_14 獅子ケ谷 069 2013_04_13 日本橋川 070 2013_04_27 小平・玉川上水 071 2013_05_25 赤坂・六本木 072 2013_06_06 代官山 073 2013_07_07 東京駅地下通路 074 2013_07_13 王子・吉原・スカイツリー 075 2013_07_27 多摩丘陵・百草団地他 076 2013_08_17 中央防波堤埋立地 077 2013_08_24 仙川 078 2013_08_26 谷中墓地 079 2013_10_26 渋谷・地下道 080 2013_11_09 京島 081 2013_12_28 山手 082 2014_04_24 池袋 083 2014_05_17 高田馬場・神田川・淀橋 084 2014_06_27 駒込・田端 085 2014_07_13 平林寺 086 2014_09_06 秩父 087 2015_05_16 湾岸埋立地 088 2015_07_20 白山 089 2015_11_22 深川 090 2015_12_11 武蔵五日市 091 2015_12_12 武蔵五日市・城山 092 2015_12_18 戸山公園 093 2015_12_26 板橋・赤塚 094 2016_01_06 深川・森下 095 2016_02_02 国分寺崖線 096 2016_02_26 立川段丘 097 2016_04_03 日立研究所 098 2016_05_31 水道橋・小石川・白山 099 2016_10_18 神楽坂・近美・湯島 100 2016_12_06 佐伯祐三・熊谷守一美術館 101 2016_12_13 南青山 102 2016_12_20 原宿・渋谷 103 2016_12_23 戸山公園 104 2017_04_04 野方 105 2017_04_07 江古田 106 2017_05_12 上高田 107 2017_06_09 上高田・野方 108 2017_08_15 池尻大橋 109 2017_08_17 池の上・高円寺 110 2017_08_29 桃園川 111 2017_09_15 中野区南台 112 2017_09_20 新宿住吉町 113 2017_09_22 所沢 114 2017_10_10 中野区中野台地 115 2017_10_20 野方 116 2017_10_27 新宿末吉町 117 2017_12_15 沼袋 118 2018_04_24 鷺宮 119 2018_05_29 中野区中心エリア 120 2018_06_12 野方・沼袋 121 2018_06_15 杉並・堀の内 122 2018_07_06 野方・中野区中心エリア 123 2018_09_11 野方
北川裕二
1963 東京に生まれる
主な個展
1990『形のローカリズム』 ギャラリー現(東京) 1991『A PALASITE/READY-MADE SUIT MIX』 ルナミ画廊(東京) 1992『短絡的接合体』 モリス・ギャラリー(東京) 1992『分裂機械としての身体』 ルナミ画廊(東京) 1992『暮らしの変換』 モリス・ギャラリー(東京) 1993『格子/闘争』 MARS GALLERY(東京) 1993『歴史改造パズル』 GALLERY・GEN(埼玉) 1996『What is a hole?/Make a revision of…』 SHIKI FUJIMORI GALLERY(東京) 2005『Random Open Textured』 MARU GALLERY(東京) 2006『Dust passes through the window』 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE (東京)
主なグループ展
1990『Bゼミ展』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 1992『Project for O.T』 ギャラリー・サージ(東京) 1993『In Between』 FLOATING GALLERY(東京) 1993『CONSTRUCTION IN PROCESS』 ARTIST'S MUSIUM(ウッジ、ポーランド) 1994『身体美術感』 ハラ・ミュージアム・アーク(群馬) 1995『The Age of Anxiety』 The Power Plant(トロント、カナダ) 1996『ATOPIC SITE(On Camp/Off Base)』 東京ビッグサイト(東京) 1996~98『Maniacs of Disappearance』 国立美術館(ブエノスアイレス、アルゼンチン)、Austrian Musium of Applied Arts (ウィーン、オーストリア)、その他オランダ、イタリアなど巡回 1999『第34回今日の作家展 APPROACHING REALITY』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 2010『City Beats + Live explosions』 BankART1929(神奈川) 2015『無条件修復—UNCONDITIONAL RESTORATION』 milkyeast(東京)
散策研究会──地殻を近くで知覚する
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