20230425
雑記(植物、映画)
諸般の事情で年明けから忙しかった。
少し落ち着いたところでサボテンやら観葉植物の植え替えをした。気分転換というより苦役という感じで一週間ほどかかって疲れたが終わってみれば精神的に元気になった気がする。
禅に『十牛図』なるものがあって牧童が牛(自己の象徴のようなもの)を探し求める10の段階を示した図の内、画面から誰もいなくなり円だけが描かれた図を『人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)』と呼ぶ。『人牛倶忘』とは、「牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界」(wiki)だという。
植物を相手に作業していると知らぬ間に完全に「無」になっている時があり、その状態が結構続く。ふいに「これでいいのか?」と底の方から泡粒のように思考が湧いてきて過去や未来とあれこれ考え出す。まるでその瞬間に私という人格や意識が無から再び生成されるように。
『人牛倶忘』。植物に意識があるとしたらこんな感じなのではないだろうか。ただ「在る」という世界。植物に触れている内に想念が同期して植物の意識のその奥を垣間見たような気がした。
種から育ててるサボテンの名札の日付を見ると植えてからもう4〜5年くらい経っていて知らん間に時間が過ぎたんだなとしみじみ思った。サボテンの成長の遅さ、変化のない草姿、それに加えてこの感染症禍も実感をあやふやにしているのかも知れない。
こんな感じでまた平気で10年ぐらい一気に過ぎて50歳のおっちゃんになっちゃうのかあ。
まあそん時はそん時の自分が何か思うだろう。
ビフルカツム
着生植物のビカクシダ(コウモリラン)。よくわからん異様な魅力というか魔力がある。「よく見ろ、ただの葉っぱだぞ。」この警句を便所のドアにでも貼って定期的に思い出さないと非常に危険だ。
思い出したとこで新たにビーチー種の板付の苗を買うなど。
パキポディウム(デンシカウレ)
チタノタ
アレキサンデリー
猩々丸
アロエ(不夜城)
誰が名前つけとんのやろか。謎。
太平丸
花王丸と同じく四年経ってやっと新しい棘が生えてきた。
個にして全、全にして個というやつです。
しまどじょ
ミナミヌマエビ
映画
アマプラビデオに加入して仕事と作業の合間に時間見つけて映画を比較的によく見る。
初見も見直しも含めざっと書き出してみると『ネバーエンディング・ストーリー』(30年ぐらいぶり)、『パラサイト 半地下の家族』『殺人の追憶』、『ドライブ・マイ・カー』、ジョーダン・ピール監督作品の『Get Out』『Us』『NOPE』、ハンガリーの映画『心と体と』、『コーダ あいのうた』『閃光のハサウェイ』『ミッドサマー』『キル・ユア・ダーリン』『ブレードランナー2049』『オブリビオン』など。
���ョーダン・ピールの去年公開された最新作『NOPE』は映像にクリストファー・ノーラン味あるなと思ってたらノーラン作品の撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマなる人物が担当なのだという。ライラ・ミラ・ライラみたいな語感。ジョーダン・ピールという天才の出現をちっとも知らんかった。
読書録
マリー・D・ジョーンズ『11:11 時間ピッタリ現象』
プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』
その他
・お灸にはまる。せんねん灸。一ヶ月ほど続けてるが正直効果はわからん。ただ風呂に似た気持ち良さがある。体を押して痛いとこ探す癖がつく。
・タバコやめて8年と2ヶ月、お酒やめて5年と10ヶ月が経った。
・サッカー。毎週末Abemaでブライトン、DAZNでレアル・ソシエダとヴァンフォーレ甲府の試合を見る。DAZNは値上げしつつコンテンツひっそり減らすくせにインディアン・プレミアリーグなるインドのクリケットの試合の放送始めた。誰得なのか。
日本代表、森保さんで8年という日本サッカー暗黒時代の到来に慄く。学習性無力感。
・Sonyのワイヤレスヘッドホン買う。
・マクロレンズ買うか迷って3000円ぐらいの中古のコンバーターレンズ買う。
・作陶と釉薬の実験を繰り返す。
もう五月だ。
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チャーリー・ブルッカー (2017) 『ブラック・ミラー (season 4)』
近未来のテクノロジーがもたらす社会の変容を描くSFアンソロジー第4弾。久しぶりに見ました。
このシーズンで最も卑近なエピソードは、デート・アプリを扱った「Hang the DJ」でしょう。あまりネタバレはできないドラマなので、元ネタであるザ・スミスの「Panic」の話だけします。
時は1986年、世間はチェルノブイリ原発事故で騒然となっていました。ラジオでニュースを聴いていたモリッシーとマーは、事故以上に驚くべき事象に遭遇します。臨時ニュースが終わると即座に、ラジオDJがワム!の「アイム・ユア・マン」を流し始めたのです。え、なにこれ? ワム!が今のおれたちの人生とどう関係あんの? この経験をもとに二人はサビで次のように連呼する曲を作りました。「DJを吊るせ!」
さて、この曲がストーリーとどう関係してくるのでしょうか? お楽しみに~👋
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ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレ注意)
2019年/日本/カラー/103分
「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」が「賛否両論」…どちらかと言うと否の方が多い評判を聞いてあえて地雷を踏みに(笑)映画館に見に行ってきました。
ビアンカとフローラの花嫁を選択するシステムが有名な「ドラゴンクエストV天空の花嫁」を物語のベースにして3DCGアニメーションにした作品になっています。
いやー、これはかなりつまらない作品だぁ…。地雷を踏みに行ったんだから期待通りとも言えるんですが(苦笑)、ここまでとは思わなかった…。フラストレーションが貯まる理由の一つとして物語の進め方がまんまゲームそのものなんです。イベントをクリアするとわざとらしくキャラクターが説明台詞をして次の展開に持って行く。主人公は成長しているんだけど、すべて用意された舞台ではその成長が物語の波にリンクしないので観客が置いてきぼりをくらってしまいます。また映画の文法とは違うゲームの文法で演出とか音楽を入れてくるので見ていて居心地が悪い。これだったら動画サイトのドラクエVの実況プレーを見ていた方が絶対楽しい。
【ここからラストに触れていきます】
未来の世界で仮想空間を作り出せる機械向けにリメイクされたドラクエVをプレイする主人公。そこにハッカーが送り込んだウィルスがこの世界を無効化し「大人になれ」と要求してくるが主人公はそれを打ち破ってドラクエVの世界を取り戻す…というオチ。つまりタイトルの「ユアストーリー」というのは「これを見ていて、ドラクエVをプレイしていたあなたの物語」という訳だったのです。よってゲームそのままの演出も、わざとらしいキャラクターがいるのも狙ってやっていたという事になるわけです。
現実と仮想空間を扱った作品となると「マトリックスシリーズ」「パプリカ(06年)」「インセプション(10年)」が有名ですし、スクリーンと観客の壁を乗り越える「第四の壁」作品も最近では「デッドプールシリーズ」が。「第四の壁」とほぼ同じだけどメタフィクション系の作品も数は多くないけれど舞台を含めれば珍しいわけではない。その点で今作でのラストに向けての「アイデアだけ」を見ていくと色んな評価の中で言われるほど悪い物ではなかったんじ��ないかな?と僕は思っています。ファンタジー色の強い世界観の中で実は観客に近い存在と解った主人公が最後に迎える最大の山場というのは実はかなり使えるアイデアだったはず。はずだったんですが…。
ただそこに持って行くまでの物語の低空飛行が足を引っ張ったなぁ。もし普通に物語の波を描けていたとしたら最大の山場で高いところからグンと落として(ラスボス登場&仮想現実という事が解る)グンと上げる(ラスボス撃破&世界を取り戻す)事が出来たのに、低空飛行でも落ちるには落ちるんだけど落下距離としては大したことが無い。物語の波をグラフにしてみるとほぼ平行線を描いているとしか見えないと思うんです。これでは観客の感情を動かす事は無理。
おそらくこのラストを思いついてから逆算して「これならゲームの文法を持ち込んでも、虚構なんだから大丈夫」と踏んだんでしょうが、基礎を疎かにしたら何やってもだめですよねぇ(苦笑)。後、付け焼き刃になったでしょうが、本職の声優さんがやった方がまだマシな結果になったと思います。僕は俳優さんが声優を担当することは実力も上がっているし、マーケティングの面からも否定する人間ではないのですが、今作においては各キャラクターが「実は虚構の存在。さらに一部はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)なのでお決まりの台詞しか言えない。」という行間を含めた難しい演技をしないといけないので、それならば声優さんを使った方が良かったと思います。
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私が書く豊崎愛生さんの文章としては、意識的にめちゃくちゃ文章を削ぎ落とす作業を行ったので、語り足りない話をこちらに残しておこうと思います。
人はこれを「野暮」とも言います。
そして、特にまとまっていません……。
のぼる小寺さん
『のぼる小寺さん』という映画を観た。
(感情を失ったネタバレモンスターなので、これから観る予定がある人はスルーしてください)
端的に言うと、小寺さんというヒロインが、ひたむきに上へと登っていく姿をみて、変わっていく4人の登場人物の姿を描いた映画だ。
小寺さんは"アイドル”の言い換えで、4人は"オタク”の言い換えでもあり、監督自身がそういう言及をしてもいた。
身も蓋もないことを言ってしまえば『俺の映画』だと思った。
ただ『俺の映画』として観ていたからこそ、映画のラストシーンに若干の違和感を覚えることになる。
私が原作漫画から好きな作品だったので、それとは違う帰結を見せたらからだったのかもしれない。
原作漫画における小寺さんは、最後まで人々に『見上げられる』対象、すなわちアイドルとして描かれ続ける。
漫画の後日談では『高校時代に知り合った誰か』と結婚したことが示唆されるが、それが誰なのかは明言されないようになっていた。
しかし、映画版は終盤までホボ完璧に原作のテイストを踏襲しながら、ラストシーンは『見上げられる』対象だった小寺さんが、メインの視点を担う近藤という卓球部の男と同じ高さまで下りてきて、お互いを見つめ合うシーンが帰結として描かれる。
これも原作にあったエピソードから抽出されていたのだけど、小寺さんが纏っていた『神性』は、原作では保たれたままだった。
映画版は『見上げられる』対象だった小寺さんが、普通の人間として、同じ高さから見つめる視点を手にするまでの物語だったように思う。
これがどうしてモヤモヤしてしまったのかと言うと「私が直前に豊崎愛生さんと生電話をしていたから」なんだろうなという結論に至った。
***
この映画で私が一番好きだったのが、二人の他に誰もいない早朝の体育館で、ひたすらに壁を登り続ける小寺さんの姿を見かけた近藤が、小寺さんに声をかけるのではなく、背を向けて、自分もひたすら卓球のサーブ練習に打ち込むというシーンだった。
この時、近藤の視野に入っているのはサーブ練習用のネットであり、小寺さんのことを実際的には見ていないのだけど、他のどのシーンよりも「近藤が小寺さんを見ている」シーンであり、同時に「小寺さんが近藤を見ていた」シーンであることが後に分かる。
近藤はこれまでやる気のなかった卓球部で、県大会ベスト8の成績を残すことになり、最終的には小寺さんと同じ視点に並び立つことになるのだ。
映画の中盤、そんな近藤が、初めて自分から小寺さんに話しかけられるようになって、めちゃくちゃガッツポーズするシーンがある。
このシーンで、私と近藤のシンクロ率はピークに達することになる。
ただ、今の私にとっては"そこ”で物語が終わっているのだと思う。
そして、そこから先、映画の近藤と私が描いていたビジョンは同じではなかった。
私は近藤では無いので、当たり前なのだけど、これが映画のラストシーンに覚えた違和感の正体だったのだろうなと思った。
ちなみに、これが最後まで私として帰結した映画が、去年、その後輩から遠巻きに、お前の映画だから観た方がいいという電波を受信して観た『アンダー・ユア・ベッド』という映画でした。
正直、ストーリーの部分はそんなに関係なくて(※その部分がめちゃくちゃ痛ましくて辛い話なので、あんまりオススメはしないです)主人公が思う、 誰かを想い続けた先の『報われた』と思う形が全く同じだった。
そして、それを報われたと感じるのは、恐らく、広く一般に理解されるものではなく「イカれてる」という意見が多いのだろうなと、今プライムビデオの『アンダー・ユア・ベッド』のレビューを見て思った……。
その点、のぼる小寺さんにおける『報われる』形は、とても王道だったのだとも思う。
蛇足・自己投影の鬼
話は変わるが、先日、後輩(私が後輩という言葉を使う時の8割を占める後輩)に夏川椎菜さんのBDを観てもらって、感想戦をしていた時に言われた「マジで自己投影の鬼だな」という言葉が非常に胸に残っている。
その後輩は私とは真逆で、客観性の鬼なので、だからこそ、私はとても厚く信頼している。
BDで観た夏川椎菜さんのステージについて、二人とも最終的な答えはほとんど同じなのに、使っている途中式が全く違ったのだ。
私は『自分』というフィルターを通して、その答えに辿り着いており、後輩は提示された情報だけで想像しきってその答えに辿り着いていた。
「マジで自己投影の鬼だな」と言われて、色々振り返ってみると、確かに、創作物を受け取る時も、何かを表現する時も、めちゃくちゃ『自分』に寄せた上で観てるな……ということに気づいた。
でも、私の中では、それは客観性を無視するという話ではなく、自分というフィルターを通すからこそ、周辺の情報に筋を通さなくてはいけないと思っているし、別に世界が私で溢れているわけではないので『私みたい=いい作品』というわけでは必ずしもない。
この部分、改めて読み返したら超蛇足だったけど、割と己のモノの捉え方の核心を突かれて面白かったエピソードだったので、とっておくことにする。
どんなオタクになりたい?
ずっと「敵わないな」と勝手に思っているオタクがいる。
小寺さんの話をしたのは、その人が、小寺さん役を務めた工藤遥さんのオタクだったからというのもある。
私がこの世で一番更新を待っているブログでもあるかもしれない。
何に敵わないかというと、���章であり、生き様なのだろうなと思う。
ただ、小寺さんの感想ブログを書いているのを見て、ハッとさせられた部分もあった。
僕は前々から「アイドルはファンが見つめる事によって神性を帯びる幻だ」と書いているが、小寺さんとその周辺の人達の関係性は「アイドルとオタク」に似ている。
近藤は正統派ガチ恋オタク、田崎は何か夢があるオタク、倉田はなんとなくオタクやってるオタク、四条は元ガチ恋で病んで他界しかけたが、それでもオタクやめられなかったら現場で彼女が出来たオタク、のように見える。
近藤がはじめて小寺さんに話しかけるのは物語が中盤を過ぎた頃だが、大した会話も出来ず、名前を覚えられていたことに狂喜乱舞する。その姿は握手会に来たオタクそのものである。
あまりにも似ているので僕たちアイドルオタクは、それがアイドルとオタクの話、あるいはそれを意識したものだとすぐに気が付く。いくらなんでもある程度意図的だろう、と思っていたら、監督のツイッターにまさにそれが書いてあった。
脚本の段階から意図的にそれは織り込まれていた。僕がこの映画を見ている時になんとなく常に居心地が悪い理由がはっきりした。 僕はその「アイドルとファン」の関係に居場所が無い人間だ。
この映画を見て、小寺さん自身に自分を投影できる人は多くないかもしれない。しかし小寺さんの周辺の人物、近藤や田崎や倉田や四条のどこかに自分を投影している人は沢山いるだろう。僕にはとてもそんな事は出来ない。
僕は小寺さんが照らさない人間だ。日陰に生きている。お天道様が見えない所でジメっと生きている。日向に出てみよう、というテーマに対して「うるせえな、ジメっとした所が好きなんだよ」と思ってしまう。
僕は無気力卓球部員である。同時に派手目な女二人組であり、クライミングウォールを体育館シューズで登ろうとして四条に逆ギレするバカであり、進路希望に「クライマー」と書いた小寺さんを否定も肯定もしない、と見せかけて否定する教師であり、小寺さんを「不思議ちゃん」だと切って捨てる雑音の中の一人である。
「アイドルとファン」という時の「ファン」は「良きファン」のことである。作中で「良きファン」は報われる。では「寂しい人」はどう生きていけばよいのだろうか。さすがにこの歳になると頑張っている人を冷笑する、というような事は少なくなった。しかし日向に出ることへの恐怖感は年々増しているような気がする。
日陰に、いや、もはや日光の届かない深海に生きている僕はどうやって太陽を見上げてのぼっていけば良いのだろうか。太陽の光がどのようなものだったか、僕は既に忘れてしまった。もし「小寺さんに出会わなかった近藤」が居たとしたら、彼は一体どうなるのだろうか。
僕にも近藤にとっての卓球のようなものがあるだろうか。お天道様が照らさない深海で、それでもなにかにひたむきに打ち込むことが出来るだろうか。僕は出来るんじゃないだろうかと思っている。僕は小寺さんと並んで歩く事はできないが、出来るだけ小寺さんのようになろうとすることは出来る。真っ暗な深海で、周りに誰もいなくとも、チョウチンアンコウのように小さな光を灯すことができるんじゃないか、とまだそう思っている。「寂しい人」である僕が感情移入すべきは無気力卓球部員ではなく、小寺さんである。
映画のぼる小寺さん感想文
相変わらず、嫉妬するほどいい文章で、私には書けない美しさと切実さをはらんでいる。
だけど、割と私は務めて「良きファン」であろうと生きてきた人間なので、近藤が途中まで自己投影の対象となり得た理由も、この文章を読んでようやくハッキリと腑に落ちた気がした。
それは、この人の文章に共感と羨望を覚えつつ、この人のような文章を、書こうと思っても、書けるわけではないのだなということを決定的に突きつけられたことでもあった。
でも、今はそれでもいいのかなとも思う。
きっと何者にもなれない私に
豊崎愛生さんとお話することができて、なおも豊崎愛生さんのことを想い続けた先にある帰結は何なのか。
それが、どこにあったら幸せなのだろうかと未来を想像して書いたのが今回のブログだった。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
大好きな幾原邦彦監督の代表作である『輪るピングドラム』で繰り返し用いられるフレーズだけど、今の私には「どこまで行っても、お前はお前という」意味に響いてくる。
私は私であり、卓球部の近藤ではないし、大好きな人の家のベッドの下に潜る激ヤバストーカー野郎でもないので、彼らの姿を糧にしながら、かつての私がそうしたように、今の私も自分なりの答えを出さなくてはならない。
その上で、自分のことは自分では分からないと痛感した近年だったので、今回は、これまで書いてきた豊崎愛生さんの文章の中で、初めて分かってもらうための努力をして、言葉を選び、見せ方を考えた文章だったようにも思う。
本当は、冒頭に「私自身のためと、私のめんどくさい話を聴き続けてくれた友人への報告のために書き残しておこうと思う」と書いていたのだけど、この表記は削った。
みっともなくても、至らなくても、想いを伝える努力をしようというのは、豊崎愛生さんに対してだけではないなと思ったからです。
結果として、今回のブログが思いも寄らなかったところにも届いているのを確認できたので、そういう努力はして良かったのだろうなと思っている。
私のめんどくさい話を聴き続けてくれた友人というのは、この文章を目にして下さっている皆さんのことでもあるので、改めてありがとうございました。
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【 12/6(金)公開】劇場版『ルパン三世 THE FIRST』/山崎貴 監督・脚本 3DCG長編アニメーション
ルパン三世 23年ぶりの劇場版『ルパン三世 THE FIRST』(12/6(金)全国東宝系ロードショー)の 60秒の予告映像とティザービジュアルが解禁となりました!
監督・脚本はVFXの第一人者である山崎貴(『ALWAYS 三丁目の夕日シリーズ』、『永遠の0』、『STAND BY ME ドラえもん』『アルキメデスの大戦』『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』監督・脚本など)に決定!
今作は「ルパン三世」史上初の3DCGアニメーションとなり、4月に他界されたモンキー・パンチ先生の悲願でもある“フル3DCGによるルパン一味”がこの冬、スクリーンで大活躍します!!
作品の詳細は、映画公式WEBサイトをご覧ください。
lupin-3rd-movie.com
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『ルパン三世 THE FIRST』
監督・脚本:山崎貴
原作:モンキー・パンチ
音楽:大野雄二
出演:栗田貫一 小林清志 浪川大輔 沢城みゆき 山寺宏一
制作:トムス・エンタテインメント/マーザ・アニメーションプラネット
製作:2019映画「ルパン三世」製作委員会
配給:東宝
公式HP: http://lupin-3rd-movie.com
©モンキー・パンチ/2019映画「ルパン三世」製作委員会
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