Tumgik
#ロマぐだ
d0rax0x · 2 months
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Romani Archaman and Merlin with female Ritsuka/Gudako
Made this comm as a bday for my friend who's the same age as me and not into Fate rn, but with her faves. Figured other people might appreciate it as well. Artist is sk_diablo.
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iyohme · 10 months
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Suddenly thought about that one time I read a doujin where Guda was called "Solomon's Beloved," with the silhouette of Romani behind Guda and my god does that make me giggle and kick my feet in the air
Also that kickstarted ideas for MahoYome AU. Just. MahoYome AU.
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mako-neexu · 1 year
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SOMEONE LIKE YOU [ロマぐだ] by wani
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reportsofawartime · 7 months
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マリア・ザハロワ: 「ナチスがホワイトハウス前を行進している。これはモスフィルムが制作した続編ではなく、私たちの時代を記録したドキュメンタリーだ。 この恐ろしく野蛮な出来事は、ナチスのシンボル、ナチスの聖歌、極右グループの敬礼を特徴とする米国大統領官邸を背景に繰り広げられている。 この行進の主催者は誰ですか?それはキエフ政権の支持者と共犯者によって画策された。右派セクターの活動家ローマン・カシュプール氏と活動家のナタリヤ・シャポリンスカヤ氏は主要人物の一人だ。後者はアメリカの「援助」機関USAIDと直接関係している。 2022年2月、USAIDの管理者であるサマンサ・パワーは、シャポリンスカヤ財団が主催した集会で講演した。 そのため、米国は最近の反ユダヤ感情の高まりに懸念を表明しているが、ブリーフィングで述べたように、あからさまな反ユダヤ主義、ユダヤ嫌悪、国家的根拠に基づくさまざまな形の人種的不寛容と憎悪で悪名高いグループの代表者らが公然とナチスを唱えている。ホワイトハウスの芝生のすぐ隣でスローガンを掲げた。 ナチスは、ユダヤ人、スラブ人、ロマ人、そして第三帝国によってウンターメンシュ[亜人]とみなされた他のコミュニティの人々を容赦しませんでした。 今日、このイデオロギーは米国政府当局の支援と暗黙の承認によって栄えています。これは言論の自由ではなく、言論の自由を完全に歪曲したものです。」
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psalm80-lilies-iii · 8 months
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重荷
1
少なくとも福音主義的な教会(『クリスチャン新聞』を読んでいる教会)では、信仰上の特別の使命のことを「重荷」と呼ぶ。だいたいは教会単位で定められ、海外宣教や人道支援などに定期的に資金提供するといった感じで実施されるが、個人単位で特別な祈りを継続的に捧げる場合なども「重荷」と呼ばれる。
オレの重荷はロシアだったんだ、とウクライナ戦争が起こって知った(ウクライナではない、ロシアである)。酩酊と暴力に溺れ切ったロシアのためになぜオレが祈るよ?とも思うが、ぼく自身酩酊と暴力に溺れ切った人生なのかもしれないし、実際問題としてロシアが霊的に荒廃し続けるのはこれからの世界にとって決していいことではないのである。
重荷は自分で決めるのではなく神の導きによって決まる。自分で勝手に決めても神の助けがなければどこかで挫折してしまう。セウォル号事故のときぼくは韓国のために1年間祈り続けたが、意外にも何の導きもなく祈りもまったく深まらなかった。あの時の韓国が祈りを必要としていなかったはずがない。だがあのとき神はぼくをその祈りに招かれなかった。つまり「セウォル号事故、あるいは韓国は、オレの重荷ではなかった」のだ。当時はとても意外に思ったけれど、いまロシアのために1年以上祈り続けてその祈りが強められるのを感じながら、そのことを改めて実感する。
2
「聞かれない祈り」という文章を書いたとき、念頭に置いていたのは横田早紀江さんのことだった。「娘を返して下さい」と祈るその祈りを神は聞かれない、それは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ5:44)とイエスさまが言われた以上、横田早紀江さんの「重荷」はめぐみさんではなくて北朝鮮の人々だからである。金正恩のために祈れと言われたらあんまりだと思うかもしれないが、北朝鮮の人々が祈りを必要としているのは明らかで���でも日本の「敵」だとしか言いようのない北朝鮮のために祈る日本人クリスチャンはきっと多くはないのである。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタ16:24)「自分の十字架」とは聞かれない祈りのことだ、とぼくは「聞かれない祈り」という文章で書いた。「娘を返して下さい」という祈りが「間違った動機」(ヤコ4:3)のはずはない。だが横田早紀江さんがめぐみさんを愛する気持ちに勝って、神は北朝鮮の人々を愛しておられ、彼らのために祈る人々を起こしたいと願われるのである(cf.ヨナ4:11)。
わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(Iコリ5:14-15)
めぐみさんの母としてではなく北朝鮮の人々の母として生きることを、神は早紀江さんに求められる。これが神の「重荷」である。
3
「聞かれない祈り」という文章を書いたのはちょうど1年前だが、ぼくはそのとき横田早紀江さんのことを書くことができなかった。
なぜか。いや、逆に問おう、いま上でぼくが書いたことを読まれて、皆さんは僕のことをとっても無責任だと思われないだろうか?「横田早紀江さんはめぐみさんのためではなく北朝鮮の人々の『祝福』(ロマ12:14)を祈りなさいとみことばは教えています」、たしかに聖書にはそう書いてあるけれど、ではあなたは早紀江さんやめぐみさんのために祈っていますか?あるいは早紀江さんと一緒に北朝鮮の人々のために祈っていますか?ときかれたら、ぼくはいまロシアのために祈るその祈りの1%も北朝鮮や拉致被害者のために祈っていないのである。「私は祈りませんがあなたは祈って下さい」という勧めに、ひとは心情の問題として素直に応じることができるだろうか。
それを、まる1年経って、いまここに書こうと思ったのは、信じる者ひとりひとりに神が「重荷」を担わせるそのやり方を信じるからである。要は「オレの重荷はロシアなのだ」と確信するということである。ぼくの「思い計り」で北朝鮮や拉致被害者のために祈っても、それは神に聞かれる祈りにはならないのだ。逆に、だからこそ、北朝鮮のために祈るよう神に召された方が、みこころに適う祈りに向かって開かれることを願うのである。
4
重荷を担う経験はすべてのクリスチャンが同様に持っているわけではない。ぼくがロシアのための祈りに導かれたのは去年で、それはぼくがクリスチャンになって22年目のことだった。それまでぼくはクリスチャンとしての重荷を担ってこなかったのである。
だから、ご自分の重荷を強く意識されたことのない方が、ぼくのいま書いたことを読んで「これは私の重荷、あれは私の重荷ではない」と切り分けることに釈然としないものを感じられるとしても不思議ではない。そういう方に、聖句をふたつ引いておく。自己弁護みたいかもしれないが、これは信仰生活の現実である。
「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」(ルカ4:25-27)
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(Iコリ12:17-20)
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタ11:30)と言われた方は、ひとりの人の肩に世界のすべてを乗せようとはされないのである。そして祈りは、政治的あるいは社会的に重要なトピックだけでなく、ふつうの人々のささやかな営みのためにも必要なのである。信じる人々がそれぞれ神の導きのままに自分の重荷を負うこと、数え切れない人々がそれぞれありとあらゆることのために祈ること、そこにキリストの教会の広がりがある。それは「心を一つにし思いを一つにして」(Iコリ1:10)というみことばの勧めに反するようにも見えるけれど、あらゆる人のあらゆる祈りが「聖霊とともに・御子の御名によって・父なる神に」捧げられるとき、それらの祈りはすべて私たちの思い計りを超えた「キリストの心」(Iコリ2:16)なのである。そしてだからこそ、「私の祈りは果たしてキリストの心だろうか」という自問が、つねに必要なのである。
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aronespace · 11 months
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まちかどAronespace4〜6月まとめ
 まちかどaronespaceの4〜6月の振り返りを簡単にしてみようと思います。個人的なメモです。
【第1回・4月16日(日)@錦町公園】
 初回は2名の方に参加いただきました。開催してもどんなものになるのか自分でもよくわからず、緊張していたのでいきなり人が来てくれたのが嬉しかったです。Aスペクトラムや非シスジェンダーなアイデンティティと社会のこと、クィアな占いのこと、パレードのことなど色々なことを話しました。人生で初めて占いをしてもらって楽しかった。
 コミュニティづくりを目的としておらず、適度に距離感がある中でのこの場は、なかなか掴みどころがないと感じたけれど、連帯って何なのだろうとか、集まったからといって繋がらなくてはならないこともなく、それぞれの立場から思ってることを投げ合う感じは続けたいなと思いました。また、屋外でやることで通行人にわずかな時間ですがまじまじ見られるのを感じ、違和感として見られる存在である・そうでしかいられない存在であるというのを感じました。
【第2回・5月21日@錦町公園】
 この月はひとりでの開催になりました。ゆっくり積読を解消する回になり、本を読む時間が少なくなってきている中でいい時間を過ごせました。5月なのに寒くて上着着たまま座っていた記憶がある。途中まで読んでいた「トランスジェンダー問題」や「最小の結婚」を読んで難しいな〜と思ったり、本の上に置いていたぶたのぬいぐるみを見た子どもに「それかわいいですね」と声をかけられたりしました。Singlismや「ひとりでやる」ことなど、割と最初に掲げていた目的に近いことをする回になりました。
【第3回・6月18日@錦町公園】
 4月にも来てくれたあずささんと喋ったりボムったり、一度お開きにした後飲みに行ったりしました。Aロマ/Aセクの表象、地方の“LGBT運動”へのもやもや、ひとりでやる/やりたいとは、非シスなジェンダーの扱われ方(ってむかつくし滑稽でもあるよね)、社会運動をやる上での欲と目的の葛藤など、答えは特に求めていない、後ろ向きではない愚痴の投げ合いみたいで楽しかったです。オフラインでやること・話すことの(私にとっての)エネルギーを実感しました。地方でやることの難しさ、都会と比べてしまう気持ちは振り回される必要はないけど捨てなきゃいけないものでもない、ということを言葉にできてよかったです。
 Aceフラッグ、インターセックスインクルーシブプログレスプライドフラッグを持ってきてもらい、公園の一角が賑やかな感じになっていたけれど、相変わらず通行人には自然に無視されるのを感じて、こういう透明化に抗うため、街角のノイズになることをしていこうと思いました。その一環としてのボム、今回初めてやりましたがとてもすっきりしたので、毎回やる方向で進めることにしました。
 3回やってみて、自分でやっているからこそ自分のための場を開くことができ���楽しさ(「ひとりでやる」を考えたり、複数人がいたとしてもそれを実現しようとする試み)と、人が集まりにくいことの複雑さ(地方のクィアの置かれ方、「ひとりでやる」なのに人が多くは来ないことに少し焦ったさを感じること)という葛藤を感じていました。問題を解決することが目的ではないのでこういう葛藤はそのまま置いておこうと思います。
 6月にポストイットをボムる、ということをしました。これはさまざまな感情になるもので、感じていることを言語化することで自分の思いを再確認したり信じられるようになる気がする、自分自身に対する心強さ。それを自分以外の人とすることの心強さ。書いたものを町中に貼ることの怖さと、これを誰かが目にしたらどう感じるのだろうかという想像。規範を壊す試みを実践していることの充足感。やってよかったと思うし、今後も続けようと思いますが、しかし可視化のフィールドに上がることの居心地悪さ、結局「見られる」ことに意味を持たせようとすること、意味を持ってしまうこと(これはまちかどaronespaceという活動目的とも通ずるものです)が、どうももやもやする思いです。ただ、私(たち)は変わる必要はないというのは確信していて、だから屋外という人目につきやすいところでやる、思いを言葉にして町の中に貼る、そしてひとり(の集まり)として存在することは続けていこうと思います。
 7、8月は諸事情により非開催となります。次回のまちかどaronespaceは9月中旬に開催予定です。本を読んだりぼそぼそと話したり、ボムったりして、ひとりでやっていくことをします。いつでも参加可能・退出自由です。ひとりでやっていくのを一瞬でもともにできたら嬉しいです。お待ちしています🖤
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doctormaki · 1 month
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二日目は、いよいよ早朝6時半の急行でクラカウへ。そこからアウシュヴィッツ強制収容所とビルケナウ強制収容所へ行くツアーに参加する。
クラカウは昔の首都で、小さいながらも美しい街だった。一通り市内を見て、焼きスモークチーズの買い食いをした後、ここで、朝ご飯代わりにミルクショップと呼ばれるカフェでパンケーキを食す。シナモン入りの甘くない半生リンゴジャム。甘くないので、ワシでさえ砂糖で調整しながら食べる。美味しい。ポーランドは小麦が美味しい。
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クラカウは暑い位の陽気。アウシュヴィッツに近づくに連れて雲行きが怪しくなり、ツアー中にドシャ降りの雨になった。アウシュヴィッツは、単に強制収容所で、元々はポーランド政治犯を収容していた。ドイツに占領されてから、ユダヤ人、ロシア人(戦争捕虜)、ロマ人やジプシー達の収容所になるが、まだマシな場所である。食事もろくに与えられていなかっただろうが、まだ十分に、寒いだろうけれど暮らせる環境。ドイツ人将校達もここで暮らしている。中で亡くなったり、処刑した人々を処理するための焼却炉もあるけれど、四機ほど。つまり、四機程度の殺戮しかしていないという事。ちなみにここの管理将校だったドイツ人は戦後、イギリスの田舎で農民のふりをして隠れて暮らしていたが、戦後二年目に捕まり、遺体焼却炉前の広場で絞首刑にされている。絞首刑台が残っているが、自分が君臨していた場所で絞首刑になる気分は、どんなだっただろうか。最後まで、自分の正当性を思っていたのだとしたら、救いよう無い。
問題はアウシュビッツよりも、ビルケナウ収容所である。ここでは、各地から集められた人々が、貨車を降りた途端にドイツ医官に見た目だけで選別され、バンバン殺されていった場所。一気に三百名ほど殺せるガス室の名残が見られる。ドイツ人も、流石に悪いことと知っていたようで、ビルケナウは撤退と同時にドイツ人自らの手で空爆しているらしい。戦後にロシアが解放したアウシュヴィッツとは、話が違うのだ。ビルケナウは、アウシュヴィッツでは狭すぎるので突貫工事で作られた収容所。アウシュヴィッツの数倍の規模らしいが、沼地に加えて急な豪雨になり、あまり集中してガイドの話を聞けなかった。なにしろ、雨の予報では無かったので、傘も無いし、レインコート代わりのジャケットだけである。モンベル着ていて良かったが、靴はグチャグチャ、ジーンズも濡れ濡れ、そして寒い。その中での、ほぼ野外の収容所見学は酷い体験だった。
あまりにもシステマチックに人々を無感情に殺していく流れ作業。ガス室にいれる前には、シャワーを浴びるからと全裸にするが、遺体からも金歯や髪の毛まで押収していく。それらの遺体処理は元気なユダヤ人にさせる。女性の髪の毛は長いので、毛織物に混ぜて布にして売り、戦費に当てていたらしい。当然、そうした遺体処理や産品化する作業は模範ユダヤ人の仕事。ドイツ人の感覚は凄まじい。遺体処理は焼却炉では追いつかず、野焼き処理もしている。そして遺灰や遺骨は砕いて、収容所拡大のための道路やセメントに混ぜて使う。見��す限り、道路には遺灰が混ざっているらしい。吐きそう。
ビルケナウ収容所の空爆を逃れた建物の一つに入って雨を凌ぐ。中は暗いし、寒いし、すえた臭いが残っている。みんな下痢をしていて、三段ベッドの一番下の人が大変だったという話には、そうだったろうと思う。数百人の収容者に対し、トイレ代わりのバケツ一個だけである。衛生とか、どうでもいいのだ。でも、イスラエルユダヤ人とルームシェアしていたワシは、オーソドックスユダヤ人女性の不潔さも知っているので、生き延びた人もいただろうとは納得する。普段からあれだけ不潔なら、少々の不潔さも耐えられる人は中にはいるだろう。問題は、完全にヨーロッパ化され、教養も身に着け、なんならユダヤ人というだけで宗教教義的な生活を拒否していた上流階級ユダヤ人である。バーセン先生のような、中上流階級ユダヤ人は、生き地獄である。彼らは、バタバタ死んでいったらしいし、ガス室なんかに行くどころか運送途中で貨車の中で息絶えた者も多いらしい。ワシも完全に、貨車内で死ぬか、貨車に乗る前に青酸カリ服毒自殺した類だったろう。バカで野蛮なドイツ人と比較にならないほどの教養を身に着けた思慮深いユダヤ人達。ポーランド人と共に戦って、ポーランド人としての誇りを持っていたユダヤ人達は、他の国と比べると、アメリカに逃げ遅れている人数が比較にならない。ドイツ侵攻を共に戦ったから芽生えた忠誠心というか、愛国心なんて、持ったって無意味で、国なんて所詮、税金の取り立てするだけで、頼りにならないんだと、痛感した。
それにしても、ユダヤ人同士で、ドイツ人に気に入られて収容所内でのさばるユダヤ人と、最後まで抵抗するユダヤ人の差に、今の状況が重ね合わされて垣間見える。迎合する奴は、日和見主義で悲しいほどに無教養なのだ。今のポピュリズムに扇動される人々も、大卒のくせに悲しいほどに無学で無教養なのだ。近代学校教育の問題は、大卒なのに無教養と無学を奨励する事だと常々思っていたが、次にアウシュヴィッツ的な事が起こるとき、間違いなく、大卒の無学で無恥で無智な奴が、つまらないルサンチマンの捌け口として、こういう事をやるのだろう。当時と比してマシなのは、もはや教養をどう測れば良いのか、治世者側にも隠蔽されており、当時のようにメガネしてるだけでインテリとか、見た目判断は許容されない点にあるのかな。救われるのは、ドイツ人は徹底して不信なので、協力したユダヤ人をも、適当に殺していった事か。ドイツ人とは、信頼関係を築くのは難しいと感じているワシ。ワシの感は冴えとる。究極の状況にあって、最後に信じられるのは、自分でしかない。
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purplekittennight · 1 month
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神の大能の力の中で
神は傷つけても、また包み、 打っても、その手で 癒(いや)してくださる。ヨブ記5:18
すべてのものは、 神から出ているのです。 栄光が神に永遠にありますように、 アーメン。ロマ書11:36
 エフェソ書1:15~23
 Ⅰコリント7:17~24
  (ローズンゲン『日々の聖句』5;11(土)
   ―――― α&ω  ――――
 天の神、【主】、 「わたしはある(I am)という者」と 名乗られる方(出エジプト記3:14)は、 私たちが「的外れ」な方向に行ってしまって、 取り返しがつかなくなるようなとき、 私たちを困難に合わせたり、行き詰らせたり、 傷つけ、打たれることがあるのですね。 方向転換して、ご自分のもとに帰ってくるようにと。
そして、必ず、その傷を包み、 癒してくださるのですね。 すべてのものは、この神の御思いから出ていて、 この方によって成り、この方に至るのですから。
 使徒パウロは、エペソの教会にあてた手紙の 1章15節~23節に書いています。 「こういうわけで私も、 主イエスに対するあなた方の信仰と、 すべての聖徒に対する愛を聞いているので、 祈るときには、あなた方のことを思い、 絶えず感謝しています。
どうか、 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、 神を知るための知恵を啓示の御霊(みたま)を、 あなたがたに与えてくださいますように。  
また、あなた方の心の目が はっきり見えるようになって、 神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、 聖徒たちが受け継ぐものが どれほど栄光に富んだものか、
また、神の大能の力の働きによって 私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、 どれほど偉大なものであるかを、 知ることができますように。
この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、 キリストを死者の中からよみがえらせ、 天上でご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、 また、今の世だけでなく、次に来る世においても, となえられるすべての名の上に置かれました。
また、神は すべてのものをキリストの足の下に従わせ、 キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして 教会に与えられました。 教会はキリストのからだであり、 すべてのものをすべてのもので満たす方が 満ちておられるところです。」
  また、コリントの教会に宛てた 第一の手紙7章17節~24節に書いています。 「ただ、それぞれが 主(イエス)からいただいた分に応じて、 また、それぞれ神から召された時のままの状態で 歩むべきです。 私(パウロ)はすべての教会に、 そのように命じています。
召されたとき割礼を受けていたのなら、 その跡をなくそうとしてはいけません。 また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、 割礼を受けてはいけません。 割礼は取るに足りないこと、 無割礼も取るに足りないことです。 重要なのは神の命令を守ることです。
それぞれ自分が召されたときの状態に とどまっていなさい。  
あなたが奴隷の状態で召されたのなら、 そのことを気にしてはいけません。 しかし、もし自由の身になれるなら、 その機会を用いたらよいでしょう。
主(イエス)にあって召された奴隷は、 主(イエス)に属する自由人であり、 同じように自由人も、 召された者はキリストに属する奴隷だからです。
あなた方は、 (イエス・キリストのいのちという)代価を払って 買い取られたのです。 人間の奴隷となってはいけません。  
兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、 神の前にいなさい。」
 私たちも、それぞれ、異なった状態の中で 召されて来ています。 神は、傷つけても、またまた包み、 打っても、その手で癒(いや)してくださる方。 今、起こっているすべてのことも この方の 許しとご支配の中で起こっているのですから、 その出来事の中で、 この方の大能の御力の働きをいただいていくのですね。
イエスを通してくる御霊、 【聖である霊】と呼ばれる方によって 心の目を開いていただいて、 はっきり見る者になって。
今日も。
      ~~~~~~~~~~~~~~
(聖書のことばへの疑問やご意見、 近くの教会を知りたい等の方、 また、婚活で広く出会いを求めたい 教会に行っていないけれど 葬儀をキリスト教でしたい、等の方、 お問い合わせは、 [email protected]へどうぞ。)
〈復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉
 
(株)ブレス・ ユア・ ホーム https://christ-sougi.com/所属〉)
 
〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定
 
〈クリスチャンの結婚相談所
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dakinyasworld · 3 months
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体の病気になってから、
以前からうっすらあった第六感がはっきりしちゃった💧
博物学の勉強してて、学者方面を目指してるから、事実確認できない事は苦手で、霊感って言い方にも慣れないから、うちでは第六感って書きます。
前からちゃんと心療内科の医者にも相談済みです(爆)。
因みに凄い人が居るそうです、私よりも凄い人が(爆)。
不眠症で長い付き合いの主治医なので、私にはいろいろオフレコしちゃう主治医💧
私「解離性障害じゃないんですか?」
主治医「…ちゃうねん…。居るねん、恐山のイタコさんみたいな人…。」
と、当時は、主治医が見た中では、「レベル5ぐらい」と言われたので(爆)
レベル1の人、怖い…💧
うわっ、レベル上がっちゃった。
でも、まあ、慣れるしかないかなと思っている。
因みにその主治医とは「五感の延長線上かもしれない」と言う解釈で行ってます。
私も今でも基本的にはそう思う。
脳のどこかまだ解明されてない部分の感覚とかね。
現代医学なんかまだ解明出来てないですよ、人体の全て、脳は特に。
クローン動物作れる時代なのにね、まあ、劣化するみたいだけど、クローン遺伝子は。
人間でやっても環境要因で人格は変わるわ、SF映画みたいに上手く行かんよ。
キューブリック原作の「A.I」はよく出来た話だったけどね。普通に面白い。
私は「攻殻機動隊」の素子みたいになりたいなー、SFなら。
いや、素子状態もめんどくさそうだわ、魂が消えずにずっと情報の中を彷徨ってるなんて。
お亡くなりになったら、普通に綺麗に消えたいわ。
押井守版が好きだから、押井守版の素子がかっこいいだけだわ(爆)。
球体関節人形好きだから「イノセンス」の方が好きだし。
ハダリのモデルが吉田良さんの人形で、キムのモデルが四谷シモンさんの人形。
「イノセンス展」行きました、あれ良かったー。
香川は割と近いから四谷シモン館(淡翁荘)、また行きたい!
てか、住める、あの美術館(爆)、洋館だし。
寝るとことお風呂あったら、お手洗いはあるし。
あそこから仕事行って帰宅したらシモンドール眺めながら、普通に生活出来ちゃうなー。
インテリアはモロに好みだし。
(他の人が来場出来んわ(爆)
展示スペースは開けとかんと、ミュージアムは💧
第六感は慣れるしかないですね💧
前はもっと分かる人に見て貰った方が良いかな?
とか、
修行とかした方が良いのかな?
とか思ったりもしたけど。
因みに基本的に、神様とか良え存在にしか繋がりません。
ラジオのチャンネルみたい。
その辺のコントロールは、ついてくれてる神様のお稲荷さん曰く、私は自然と出来てるらしいので、
強まっちゃったけど、余計な���行とかしなくて良くて後は慣れたら良いだけって💧
私もそれで占い師とかしたくはないから、自分が分かる分に慣れて普通に生活するので良いわ(爆)。
あんな商売絶対嫌やわ、もし自分に分からん事あっても分かってるフリしてる人居ると思うもん(爆)。
「それは私には分かりません」って正直に言っちゃったら、一応客商売やしお客さん来なくなるもん(仕事にした以上は仕事には貴賤なし)。
恐山のイタコさんとか、8割演技やろうなって子供の頃から思ってたし(爆)。
ケーブルテレビで見た韓国のムーダンって言う巫女さんは、トランス状態になって、やたらとお金請求する!(爆)
うーん、あれは殆どが普通にトランス状態なだけだわと思った、と言うかお金請求がマジで凄い(爆)。
後、今、生前に会って話した��がある方が、側にいらっしゃるー。
その方の訃報を知って、普通にご冥福を祈ってたんだけど、
生前から、やたらリアルなその方と会う夢見てて(ユング論の世界だなあ)。
んー、簡単に言うと天国みたいなところにはちゃんと行ったけど、そこで普通は消えるらしいのだけど、
その人は起きちゃって、誰にも会わないし何にも無いから、ちょっと念じれば、生きてる人の世界に行けて夢とかに出たりしちゃえるらしい。
もうそう言うところを管理してる神様とかもしょうがないと好きにさせてるらしい💧
悪い事は何もしないで、今は所謂守護霊さんみたいな感じで居てくれている。
もっと交流深かった人の所に行っても、見えないから夢に出るのが精一杯らしくて、…出まくってるらしい。
で、何となく覚えてたらしい私が、見えるので今のところ側に居てくれている。
ご本人も亡くなった自覚とかもあるから驚いてらっしゃる。
私についてくれているお稲荷さん曰く、
「この人魂が特殊。」
「神様みたいな存在になっちゃってる。」
「こうなったら神様になるしかないんじゃないの。なっちゃっても良えわ。」
などなど特殊事例らしい。
ご本人も驚いてらっしゃるけど、お互い慣れるしかないです。
まあ、楽しそうにしてくれているので良かった。
もっと交流深かった方々のところにも出て分かって貰えると良いですね。
「分霊?ってどうやるの?」
とかお稲荷さんに聞いてらっしゃるけど。
お稲荷さんもそれは感覚的なものだから修行してくださいと。
まあ、所謂「汎神論」を身に付ける事らしい。
「草を分けても私はそこに居る、石を退けても私はそこに居る。」
と言う「トマスの福音書」の感覚を身につけると、普通に分霊とか分御霊とかが出来る様になるらしい。
お稲荷さんが、
「よう知らんけど外国の神様はそれが下手じゃ!
あ、神様が下手なんやなくて信じとる人の組織が否定しとるんか。
頭硬い言うか勿体無いのう。
せっかく教会とかにも居る時あるのにな。
てか個人にちゃんと現れとるのにな。」
と言っている💧
はいー、私、いろいろあって棄教しましたが、以前まで未洗礼のクリスチャンで教会の御ミサや勉強会とか行ってました。
で、聖堂に居らっしゃる時と、居ない時と何となく分かりました💧
流石に御ミサの時は居らっしゃいます。
でもその後は聖堂開いてても居はる時と居らっしゃらない時と何となく。
まあ、聖堂は静かで美しいので、お祈り出来れば良いんです。
祈りはちゃんと届いてるので凄い。
キリスト教を信仰してたのも幼少期にヴィジョンを見ちゃって。
それ言うと関係者の方「呼ばれてる!」とびっくりしはるんやけど。
私、ちゃんと呼ばれたシスターに会った事あるので大丈夫ですよー。
本当に聖霊に満たされてる方はマジで居ますし、お祈りもちゃんと神様に通じてますー。
私が棄教したのは、
「原罪」って言う考え方が合わなくて、
ロザリオでお祈りの途中に余計な罪悪感とかがフラッシュバックしちゃって。
棄教する!って本気で決めたら、背中からガターン!と大きな十字架が外れた感覚があって。
うわー、未洗礼でも背負ってたのか…💧と、
…背中軽くなった(爆)。
でもまあ、良い経験したなあ。
芸大の美術学科卒で西洋美術専攻(銅版画ゼミだったからそっちに力入れて学んだ)だったから…
宗教画見るのしんどくなったのが嫌だけど(爆)。
好きな画家の絵が見れんわ!(爆)
山田五郎さんのYouTubeが見にくいわ!
十字架モチーフのゴルチエのアクセサリーはゴルチエ好きだから開き直った(爆)。
と。
みうらじゅんさんゲスト回とか、今まで知らなかった日本画家とかの回なら見れるかな。
と言うか宗教画系の西洋美術は卒業後もやり過ぎて普通に見飽きてるのあるから良いや。
でもパリはまた行きたいなー、一人で行くの治安悪くて怖いけど💧
以前は中世フランス史の学者の叔母と行ったし、叔母もまだ行ける年齢だったので。
パリ、マジで危ないですよ。
兄がロマ(ジプシー)の人達にスマホ盗られました。
裏にギャングついてます。
ヴィクトル・ユゴー「ノートルダムドパリ」の移民の方々の裏社会はまだ続いてます。
ディズニー版のクロパン好きだけど。
ちゃんと中東系で、SISTEM OF A DOWNのギタリストのダロン・マラキアンに似てるわ(爆)。
クロパンかっこいいわ。
アンソニー・クインの映画のクロパンもかっこいいわ。
あれ澁澤龍彦さんが絶賛してたけど、私も好きだなぁ、ああ言う「キレキャラ」。
と、夜遅くなってしまった点滴が終わった。
日記機能が使いにくくなったので、一区切り。
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kimamasworld · 10 months
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2023/08/12
スマホの不調続きで全然遊べない期間が1ヶ月半は続いてるから、他の趣味で時間を潰してる毎日。
DVD観たりするのは勿論、読書の秋でもないのに古本屋で小説を探したり。
江國さんは前から大好きだから読み返したり、チャレンジとして小川洋子さん、川上弘美さん、小池真理子さんを。
読んでるとやっぱり電子書籍が進んでる中、紙媒体が好きなんだなあと改めて思う。
インクの匂い、紙の匂い、活字が好きだ……。
電子書籍でしか読めないものにあってないから分からないけど、もしあたったら読むしかなくなるんだろうなあ……。
古本屋で前まではポイントカード提示してたのが、今はアプリの画面提示やらQRコードで云々だから寂しい気持ち。
ポイントカード集めは小学生時代から好きだったから……。
ゲオはゲオで567になる前までは確か店行ったら毎日ゲオのQRコードスキャンすればポイント貯まったのにいつの間にか無くなってたからケチくさくなったなと心の中で思ってる。
まあpontaカード更新にかかる料金がいつの間にか消えてたからいいの、かな?
ゲオで買い物やらレンタルした後文庫本の紙のカバー貰って帰るんだけどちゃんとしたカバー欲しい。
……流石に文庫サイズのカバーを芯つけて布買ってそれを趣味の1つにって言うのは勘弁。
何か布は布で怖い、価格がw
まあ趣味は多いに越した事はないんだけど。
スマホは不調だけどWi-Fiスポットの接続で調べたりしてるから、江國さんみたいな女性的な小説でもそうでないものでもこの小説いいよーっていうものがあれば教えてもらえたら。
ブクログで探してもいいんだけどね……。
古本屋で色々見てるから久々に小説以外も買いました。
福島鉄平さんの「アマリリス」Amazonレビューで偶然知ってWi-Fiでレビュー見てたら短編集?は??存在すんの?ってびっくりしてどこも在庫無し+値段がぼったくりだったからどうしようかなーって思ったら古本屋にありました。ありがとう愛してる。
「アマリリス」のエピローグ目当てだったんだけど短編集だから他の作品も面白かったー!
毎度の事ながら好き嫌いははっきり分かれるからご注意をw
「アマリリス」と「スイミング」有り難く購入。ありがとう古本屋……。
後は宝井理人さん(テンカウント、セブンデイズ、グランネリエetc)の「花のみぞ知る」の2巻を持ってなかったから購入。
揃ってからしっかり読もうと思ってたからそこまで考えて「花のみやこで」を読んでなくて、揃ってから改めて読んだらぐちゃぐちゃに泣いた。
いい作品でした………。
(「グランネリエ」は気長〜〜に待ってます……。)
後は数日前に発売してた黒執事新刊33巻。
多分買い忘れてた世界一初恋18巻。
(9/1?に純ロマ新刊が出ると言う話)
ツイッターの呟き見たらおお振り新刊出てるの見てマジかと思って新刊36巻購入。
おお振りは試合してない普通の?会話でも滅茶苦茶楽しめる。キャラ1人1人が試合で頑張ってるのを見るからか皆いいなあって(語彙力)
古本屋に行ったりするとどうにも商業本の新しいものを開拓したくなるから困るw
文庫本やら単行本ばっか読んで読み返してるから本の話中心です、申し訳ない。
「本の栞 折り紙」とか栞作りにはちょっと手を出してたり。
雨の日とか外出れない日のおうち時間にコツコツとって言うのが大好きだから丁度いい。
折り紙も最近は透ける素材があったりして流石ジャンクジャーナルやら素敵便が広まってる影響だなあと思ってます。
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soundstory-ss · 1 year
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#24 EMPEROR WARS
■公演日  2021年3月11日(木)~14日(日) ■劇場  シアターサンモール ■作・演出  伊藤マサミ ■Cast  歌野いろは:舞原鈴  源義経:千田京平  神谷聖:健人  ジャンヌ・ダルク:矢澤梨央  西部・メイ・義花:楠世蓮  ビリー・ザ・キッド:石渡真修  壬生野誠:早乙女じょうじ  斎藤一:伊藤マサミ  氷川桔梗:かおりかりん  明智光秀(イケメン戦国THE STAGEより):橋本全一  ロマ・クラリス:深桜ありさ  ネロ・クラウディウス・カサエル・アウグストゥス・ゲルマニクス:汐崎アイル  賤ヶ岳槍弥:本田昂也  加藤清正:伊藤孝太郎  徒花海斗:松岡侑李  シュバリエ・デオン:齋藤千尋  切馬夜人:SUMIO  アーロン・コスミンスキー:土居健蔵  帝・マリエッタ・鞠絵:窪田ゆうり  バートリ・エルジェーベト:山田せいら  三国王魏:田辺レオ  曹操:芹澤良  住良木和:浪川大輔(声の出演) ・Emperor Strikers  高田紋吉  林田寛之  望月祐治  橋本直也  打出菜摘  相ヶ瀬龍史  小野流星  花崎ほの香  雨宮光 ■Staff  脚本・演出:伊藤マサミ  演出助手:水沢まな美  舞台監督:森貴裕  音響:志水れいこ  音響操作:古川直幸、小薗詩歩、宮下奏  照明:島田雄峰  ムービングライト:紺野浩史  美術:宮坂貴司  音楽:今泉翔  映像:常光博武  殺陣振付:根本太樹、芹澤良  ダンス振付:山田せいら  衣裳デザイン・製作:小泉美都  衣裳統括:かおりかりん  小道具協力:儀間裕士  ヘアメイク:青山亜耶  ヘアメイク協力:今村千恵実  スチール撮影・デザイン:圓岡淳  フライヤー・ロゴデザイン:YOH  DVD撮影:SAIRO  制作協力:小野智美  制作補佐:山口由希/小島麻奈未/雨宮光  制作統括:舞原鈴  主催:株式会社フォーチュレスト 『イケメン戦国 THE STAGE』協力  主催:イケメン戦国THE STAGE製作委員会  原作:株式会社CYBIRD「イケメン戦国◆時をかける恋」  企画・制作・製作幹事:株式会社LEGEND STAGE  衣裳:株式会社藤衣裳  ヘアメイク:小熊清美 ■あらすじ[公式より] 「歌野いろは」はデザイン会社に勤める平凡すぎる女性。 承認欲求を持たず、とにかく目立たず平和に生きることをモットーとしている。  彼氏:アリ(2次元)  趣味:ゲーム・妄想 そんな彼女が唯一熱中できるものは「アプリゲーム」そしていろはは出会ってしまった。  なんでも願いが叶うゲーム  ―『EMPEROR WARS』― それは登録するが最後、���まるは死と隣り合わせのデスゲーム いろはに襲い掛かる異形の怪物。その時、いろはを助けたのは、蒼き衣を身にまとった青年。 名を…―源義経― 「行くぞ、紫の旅だ―――。」 進戯団 夢命クラシックスが贈る アプリ×偉人×バディ×トイ×デスゲーム 5本の柱で紡ぐ、新感覚のエンターテイメントサスペンス活劇!
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sugurukumasaka · 1 year
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いや、エモい。かつて相当に通った。それこそ一緒に行ったメンツのメインはうちの会社のno2 @dona_uchida うっちー。なんなら @chantake0206 とも昔行った。 かぐら。西武プリンスポイントを使うと1000円引。何故かまだカード持ってた。オレ偉い。小学生は無料。激アツ。週末は1000円駐車料金取られるけど、次回のチケット1000円引き。初心者にドラゴンドラまで延々滑るの結構いいと思う。滑った分は頑張らないと帰れない。いやでも滑走距離は伸びる。朝より格段に速くなった。父は嬉しい。 コース内のつなぎが悪かった記憶だけど、田代からの帰り道かなり改善されてる。勇んでストック持ってったけど。なんていうか景色もいいし、天気良い春もいいし、厳冬期もいいし。少しオレも上手くなってから凱旋気分だったけど、マジでいいゲレンデだったなー。何より、トンネル抜けた瞬間のあの、湯沢のスノーリゾート感(右に岩原スキー場)やっぱりいいよ。昨日の夜札幌から飛行機飛ばして朝早起きからの新潟かぐら。意味わからん。けど最高だったな。いきは渋滞なし、帰りは地獄でしたけど。 最後苦言。 北海道移住してからほとんど見なかった、ゲレンデバックカントリーな人。おそらく5ロマから行って、和田小屋のずーっと下の迂回コースに出てたまってたんだけどさ。迂回コースの意味わかる?あんたら結構なレベルなんだと思うんだけど、子供が滑りづらそうにしながら、迂回コースで溜まってイェーイ👍じゃねえよ、バカ。歩いて山登れ。うまいのはわかる。が、6歳児とかの横でバックカントリー道具全部つけてスイッチとかクルクルすんな。邪魔や。上でやれ。謙虚にやれ。初心者を大切に考えないとダメなんだと思うぞ?オレ。迂回路は初心者にとってはとても良い練習場所なんだぞ。と思うがな、ゲンテン乗りのお前。マジで殴ろうかと思ったわ。 @gelanding #ゲレコムに憧れて #倅とスノボ #スノーボードライフ #snowboard #コスプレ野郎はやっぱり多い #北海道ではまず見ない #やっぱりかぐらはその手合いが多いね #大体ゲンテン #いい板なのに (かぐらスキー場) https://www.instagram.com/p/CpaLaHUvZ1f/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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20kitan · 1 year
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廻游エチカ/JJ
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「私はJJ。ここの劇団員で占い師。白い魔女と呼んでいただいても結構よ」 「脈絡もなく魔女ですと言ったら、私のことをルシファーやベルゼブブの愛人だと毛嫌いする人もいるでしょう。不潔で淫らで呪いにまみれた女だとね。現代の魔女のイメージは深刻だわ。白い魔女は清潔な癒し手で幸福のために力を使うし、他人を呪ったりしない。税金も払ってたのよ」 「あなた、もう少し丁寧な言葉で話してくださらない?貴婦人にするようにしろと言ってるわけじゃないのよ。ただ礼儀正しくしてほしいの」 「いつの世も魔女は不幸な女の味方になるものよ」 「あの人の話はしないでちょうだい!」 「恋や愛にはずいぶん前に懲りたの。もう地獄の炎で焼かれるのはごめんよ」 「さ、マフィンを焼きましょう。行き詰まったときには小さな創作をするのがいちばん。どんな天才だっていつも評価Aの作品を作れっこないわ」 「芸術のためにはゆとりと豊かさが必要よ」 「お金をとって占いはしない。紙切れやコインのために心をすり減らすのはやめたの。ここは私にとって楽園だわ……」 「生きることは演じること」 「あなた、幸せにおなりなさいね」 ◆JJ身上調査書
姓名:ジョアナ・ジョイス(Joanna Joyce) 愛称:JJ 年齢:32歳 性別:女 血液型:A型 誕生日:11月3日 星座:さそり座 身長:161cm 体重:58kg 髪色:ライラック色 瞳の色:明るいブルー、薄い黄色混じり 視力:左右0.8 きき腕:右 声の質:柔らかく静かな声(icv.井上喜久子) 手術経験や虫歯、病気:歯科矯正の経験あり、軽度のディスレクシアで文字の読み書きに難あり 身体の傷、アザ、刺青:太ももに小さなチューリップのタトゥー その他の身体的特徴(鼻や目の形、姿勢、乳房、足、ホクロなど):そばかす、口元にほくろ、グラマー セックス体験、恋愛、結婚観:交際経験は2人 身持ちが堅い 結婚に希望が持てずにいる 尊敬する人:ココ・シャネル 恨んでる人:いないと信じる 将来の夢:大きな庭のある家でハーブを育てる 恐怖:赤い爪 癖:目を伏せる 酒癖:酒は飲まないが、飲むと眠くなる
*交流向け 一人称:私 二人称:あなた 呼び方:ミズ、マダム、ミスター、ファーストネーム呼び
*概要
 劇団員であり「カサブランカ」という名の店で待ち受ける占い師。名刺には白い魔女と書かれているが、実態は主にカードを使う占い師でありヒーラー、助産師でもある。占いではお金を取らず、望む相手にヒーリンググッズやお守り、お茶と軽食を提供する。  演劇では年齢層の近い女性の役が得意で、声の操る演技が得意。ナレーションを担当することも。役は求められればえり好みはしないが、激しくダイナミックな動きのある演技、長すぎるセリフは苦手。  花と料理と芸術、ハーブを育てることとお菓子作りが好き。女性と子供に特に優しい。
*性格
 現実的で繊細、親しみやすく社交的。心優しいが少々おせっかい。人をもてなしたり楽しませたりするのが好き。本能的な判断力は優れているのだが、疑り深く優柔不断なところもある。包容力があり、忠実で愛情深い。やや頑固。自分の仕事にプライドを持っており、何をするにも自分らしさを大事にしている。人当たりが良く女性や子供には特に甘い顔をしてしまうが、嫌だと思えばそれをきちんと伝えるようにしている。こだわりが強く完璧主義的なところが仇になるときもしばしば。  注意深く他人を思いやり、人の気持ちがよくわかるゆえに疲れてしまうことがある。淑女然とした振る舞いをするが、内心では感情が激しく不安定になることも多く、そのようなときは少し気分家になる。不満がつのると人から離れ、自分ひとりの世界に浸ることで落ち着きを取り戻す。基本的には人が大好き。
*人間関係  人と一緒にいるのが好きで社交的。人間関係の安定のために進んで努力するタイプ。安心感のある相手を好むが、自分に刺激を与えてくれる人と話すのも好き。他人の不調にすぐ気づき、女性や子供相手にはおせっかいなほど気を向けてしまう。相手のフィールドに赴くよりは、自分の領域で他人をもてなすことが大好き。愛する人には過剰なほど献身的になる。
*家族関係、幼少期体験  イギリスのカンタベリー出身。イギリス人の父とルーマニア系ロマ(後述)の母を持ち、イギリス国籍を持つ。まったく文字の読み書きができないディスレクシアの母から同じ体質が遺伝したものの、困難だが少しは読めるという差異から「まともなイギリス人としての生きる」ことを期待され、踊りや占いなどロマの文化から遠ざけられて育った。本の読解に人の何倍も時間がかかるなか血の滲むような努力で看護師になったが、文字の読み書きが困難であることがどこかから患者に広まり、技術的には問題ないレベルであるにもかかわらず不安から患者に施術を拒否されるようなことが増え、それに耐えかねて看護師を断念する。  次の仕事を探す中たまたま頼った女性からロマの占い師を紹介され、初めて触れた占いというものに感銘を受ける。そして自身もまたロマのルーツを持つことを思い出し、占いやヒーリングに興味を持つ。母に大反対されながらも家を飛び出し、別の方法で人を癒す術を身につけたいと願い、占いを生業にしていった。ロンドンで占い師としてそれなりにやっていけるようになった頃、スタンダップ・コメディアンのオリバー・スミスと出会う。 *ルーマニア系ロマ、JJの母について  ロマとは一般にはヨーロッパ(欧州)で生活している移動型民族を指すジプシーの中で最大勢力の民族。ルーマニア語圏の場合ロミとすることもある。ロマの人種的分類については現在でも定説が存在せず厳密にどの人種に分類できるかはいまだに判明していない。正確な呼び方について文化的、言語的に言い切ることができないため、ここでは外名である「ジプシー」ではなく彼らの自称する「ロマ」を用いており、JJの母である「ルーマニア系ロマ」とは架空の民族。  JJの母がいたコミュニティは血縁とそうでないものも人種もさまざまに混じり合い独自のロマ語で会話をする者たちで、貧困層の神秘主義者がほとんど。文字を持たないため遺伝性のディスレクシアの者も非常に多い。占いや薬師、踊り子、楽団などを主な生業としており、国家を持たないため国籍もない。独自の文化を持ち、神を一柱選んで生涯の守り神とする。同じく魔女であったJJの母はルーマニア語と英語が少し話せたことから旅行客のイギリス人と恋に落ち、結婚する運びとなった。  大抵の者がものすごい貧困と差別を経験しながら育つ。血縁者ではないがJJとルーツを同じくする初演のソールはこのコミュニティで15歳まで育った。
*能力  劇団員としては人並み。動きで見せるよりは声を操る演技が得意で、有名なところではレ・ミゼラブルのファンティーヌ、真夏の夜の夢ティターニア、シカゴのハニャック、ハムレットのオフィーリアなど、脇役ながらやや悲劇的な女性役が多い。ナレーションや情感のこもった歌も上手。逆にコミカルで楽しい演技や激しいダンス、アクロバティック、長台詞は苦手。  占いを生業にしているとおり、スピリチュアルな分野が専門。とはいえ本人にサイキック能力のようなものがあるわけではなく、混ぜたカードから偶然出た一枚から解釈するカードリーダーとしての経験で相手を占う。他にも魔女としてのまじない、儀式、呪文なども習得してはいるが、あまりやすやすとは人に見せない。  医学的な看護技術を持ち、傷の手当などが手早く正確。
*好きなもの 食べ物:スコーン、マフィン、かぼちゃ、トマト、イチゴ、ブルーベリー、ラズベリー、マスカット、きのこ類 飲み物:紅茶、ハーブティー、シナモン入りのホットワイン、コーラ 季節:冬 色:白 花:ピンクのチューリップ、カサブランカ、白バラ、トルコキキョウ、カーネーション 香り:草花の香り 香水はラグーナの庭/エルメス(甘くて優雅な香り、マドンナリリー、シーノート、ウッディ) 異性:優しくて困っている人を助けられる人 書籍:ほとんど読まない 画集を眺める程度 動物:動物はだいたい全般が好き 花につくもの以外は虫も好き ファッション:フェミニンで上品なワンピース、いつも白が基調 場所:海、森林、自宅、大きな庭、カフェ、バスルーム 愛用:ゴールデンタロットカード 趣味:花とハーブの世話、料理、お菓子作り、ジャム作り、部屋の飾り付け、キッチンのラベリング
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mako-neexu · 1 year
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ただ一つの願いのありか [ロマぐだ] by のえる
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leeyunghae · 2 years
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my エドぐだ+ロマ animatic(?)
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psalm80-lilies-iii · 1 year
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意味の果てへの旅
昭和の終わり頃、当時大学浪人だったぼくは、宇野邦一『意味の果てへの旅』(青土社)という本に出会った(きっかけはZ会の国語の問題文だったと思う)。この本の一節(後述する)が、その後のぼくの人生に絶大な影響を及ぼした。文芸批評の本、「今日の文芸批評はいかにして可能か」ということを論じた本なのだが、この本がぼくのキリスト教信仰を、なぜかクリスチャンになる前から方向づけていたのである。
*
この正月、ふと思いついてこの本についての文章を書こうとして挫折したあと「近代日本でキリスト教が定着しなかった理由についての考察2023」を書き始めたのは、ぼくにとって「日本でクリスチャンでいること」はそれ自体が、宇野邦一のいう「国境の体験」だったからだ。そしてその文章が行きづまったのは、日本とキリスト教との間に「国境」(その国境は日本のナショナリズムが引いた)があったからだけでなく、キリスト教がそれ自体の中に西方教会世界の「国境」(その国境は教会が内包したそれぞれの国民国家が引いた)をそのまま持ち越してきていたからだ、という事実にぼくが気づかざるを得なかったからである。
すごく簡単な言い方をすれば、日本という「国境」の内側ではキリスト教は不可能で、ぼくは日本に生まれ育った日本人でありながらクリスチャンとしてその「国境」の外側にいるのだが、そのぼく自身はクリスチャンであることによって、たとえばアメリカとかイギリスとかフランスとかドイツとかいった「キリスト教が可能な国境の内側」をいくつも抱えることになって、そういうものをすべて払いのけた「純粋なキリスト教」というものはこの世には存在しないということ、キリスト教自体、それが可能だと自ら証明する機会を持とうとしてこなかったということに、「近代日本でキリスト教が定着しなかった理由についての考察2023」を書くことによってはじめて気づいたのである。
*
対象と自己との間で、各瞬間毎に崩壊する意味に従って、自己など存在しないかのように、性急に、無方向に、進んで行く時に、世界の中に、それ自体の死と非連続とをもって、少しずつ溶解し、曖昧になってくるあるもの、そしてある時期がくると、自分がそこに溶けこんだ母胎である存在を自分から斥け、ひき裂き、吐き出しはじめるもの、そういうもの、そういう現象が自分の中に生まれてきたこと、そういうことを言うのだ。それは体験と名づけてもよい。そしてこういうことは、生涯にたえまなく経過すべきだ。
(強調は原文。もとは傍点。)
これは宇野邦一が『意味の果てへの旅』という本の冒頭にある同名の文章の中で森有礼の文章を引いてそれを書き換えたもの、「マニフェスト」としての「意味の果てへの旅」という文章の目指しているものを端的に表現した箇所である。ちなみに元の森有礼の文章はこうだ。
対象と自己との間に、各瞬間毎に成立する意味に従って、自己に克とうと努力しつつ、一歩ずつ、忍耐強く、進んで行く時に、自己の中に、それ自体の生命と持続とをもって、少しずつ遊離し、明確になってくるあるもの、そしてある時期がくると、自分がそこから遊離した母胎である存在を逆に自分の方にひきつけ、巻きこみ、吸収しはじめるもの、そういうもの、そういう現象が自分の中に生まれてきたこと、そういうことを言うのだ。それは経験と名づけてもよい。そしてこういうことは、生涯に唯一回しか経過しない。
森有礼の文章が言っていることは、ふつうひとが「分かる」と言っている体験をすごく微に入り細を穿って説明したものである。「分からなかったものが分かる、そして分かったものが自分のものになっていくということは『自分の方がかつて分からなかったものになる』ということだが、その大前提となるのは『私が分かろうとしているものは過去・現在・未来を通じてそこに確固として存在し続けている』ということだ」、たとえばそういう言い換えができる。そして森有礼はおそらく「日本人(である自分)がキリスト教ヨーロッパを『分かる』こと」はこういうことであるはずだ、と言いたかったのだろう。
*
ぼくはキリスト教を、森有礼の言っているようなものとしてより、むしろ宇野邦一の言っていることそのものとして体験してきた。それは「神は生きておられる」からだ。生きておられる神は「私はキリスト教をこう理解した」という、私の小箱の中に収めておける方ではない。そのことを最も端的に示しているのが、イザ48:6-8だ。
これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたとお前に言わせないためだ。お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。
すべては聖書に書かれている、だが聖書に何が書かれているか、誰がそのすべてを説き明かすことができるか。もちろん「聖書はどう読まれるべきなのか」を正しく伝えることが教会の務めなのである。教会を離れて聖書はなく(聖書の原文を確定するのもそれを各国語に翻訳するのも「聖なる公同の教会」である)、また聖書を説き明かす聖霊もない(教会を離れて聖霊はご自分を証明されない)。だがそのことと、地上の教会が神ご自身に優越するはずがないということとは別のことである。教会において主権は神ご自身にのみある。
「わたしにつながっていなさい。」(ヨハ15:4)とイエスさまは言われた。心臓や中枢神経につながっていない器官が身体の中で壊死したり麻痺したりしてしまうように、単に「教会を介して」というだけでなく、信じる者ひとりひとりが直接御子の十字架で流された血によって父なる神とつながっていることなしに、教会が「キリストの体」(Iコリ12:27)であり続けることはできない。そしてひとつの現実として、教会は「いついかなる時にも完全に神とつながっている」という状態ではなかった。それゆえに、地上の教会はつねに神ご自身に対して「土の器」(Iコリ4:7)、いわば劣化コピーに過ぎないという限界をはらんでいる。私が私であることによって、私は神のみこころの劣化コピーに過ぎない。それをキリスト教では「罪」と呼ぶのだということは、ことの本質を直視する役にはたぶん立たない(イザ48:6-8から信仰の実践の原点を選べばぼくはルカ23:34からロマ12:2そしてヤコ1:5になると思うが、ふつうに聖書を読めば「罪」ということばから選択される信仰の原点は申29:28になってしまうのではないだろうか)。
*
宇野邦一が森有礼の文章を借りて言おうとしていることは「『分かる』ということの本質的な不可能」である。ブルジョワ市民社会が自ら構築してきた知の体系を通して可能だと信じてきた「分かる」ということ、それを批判する左翼思想がブルジョワ市民社会に優越して可能だと信じてきた「分かる」ということが、実は人間の文明が始まったときからほんとうは不可能だったということが、(宇野邦一自身そうは言っていないが「左翼運動の挫折と社会のグローバル化の進展によって」)いま露呈しただけのことだ、ということである。
そういう「『分かる』ということの本質的な不可能」という視座を持って「日本にキリスト教を伝える」ということが持つ構造を見つめ直してみよう。ひとつは異なる文化の間における「『分かる』ということの本質的な不可能」。現実の西方教会がそのミッションごとにナショナリズムを内包しているなら、それは日本に伝えられたとき日本のナショナリズムとトレードオフを起こすだろう。
もうひとつは「生ける神のみこころを伝える」ということにおける「『分かる』ということの本質的な不可能」。どのような文化的障壁にもかかわらずキリスト教が全世界に宣べ伝えられるべきなのは、すべての人がキリストの血を通して「生ける神と直接の交わりを回復できる」からである。宣教された国民は、文化的にどうであれ、宣教した国の教会に劣後することなく、神と直接につながることができる(『ミッション』という映画はその理想と現実を描いている)。だがこの確信はそれ自体が「啓示」であり、神ご自身が「啓示」によって直接「『分かる』ということの本質的な不可能」を飛び越えて下さらなければ、人間の思想としてそれを伝達し理解させることに意味はない。
すると逆に、「日本人にご自分を現わされるのだという神ご自身の断固たるみこころが日本人に伝わったなら、宣教する/される側のキリスト教会がそれぞれにナショナリズムを内包していたという問題は本質的には乗り越えられたのかもしれない」という気もしてくる。そういう観点から「近代日本でキリスト教が定着しなかった理由」を考えると、それは19世紀のミッションが、日本宣教を始める前に「主よあなたは日本においてどのようにご自分を現わされますか」と生ける神ご自身にきちんとたずねなかったからだ、ということになる(ちなみに、もしそうしていれば、彼らは神によって、日本にはまことの神に仕える民がすでにいたことを知るに至っただろう)。
*
「『分かる』ということの本質的な不可能」をめぐって、たとえば日本宣教で生じた上述のような構造あるいは力学を全体的に相対化する視座というものは、19世紀後半から20世紀前半の世界には存在しなかった、あるいは少なくとも一般的ではなかった。もちろん、キリスト教なのだから、「教会がどれほど文化的に拘束された存在に過ぎなくても、そこに働かれる神ご自身は唯一の神なのだ」という「信仰」はあってしかるべきだったろうけれど、その信仰によって「教会がいかに自他の文化に拘束されているか」ということをまるごと相対化する視座は、やっぱりイエズス会士にもアメリカのリバイバリストにも昭和16年の「日本基督教団」を率いた人々にもなかったというべきだろう。それは20世紀末から21世紀になって、地上の大きな教会組織の中でどのようなリージョンの間にも優先・劣後の関係はないのだという事実が顕在化してきたときはじめて現実の問題として意識されるようになってきたのだと思う。自分に決して劣後しない相手の前に自分の文化的スタイルを持ち出したときに直面する「国境の体験」が、あらゆる文化(それは異なるリージョンのキリスト教会の間でもそうだし、たとえばクリスチャンとムスリムと左翼的無神論者との出会いでもそうだろう)の中で頻発するようになってきたのである。
そして、そのことを通して真に認められるべきは、「キリスト教において『分かる』ということの本質的な不可能を乗り越えるのは生けるまことの神ご自身にほかならない」ということだ。教会は、文化的存在である(たとえば「言語によらない聖書はない」)がゆえに、また「神ご自身ではない」がゆえに、「キリスト教を『分かる/分からせる』ことの本質的な不可能」から逃れられない。それを乗り越え、時空を超えて教会が存在し続けられるのは、すべての人間がキリストの十字架の血によって生けるまことの神と直接つながることができるからである。ぼくは、教会に対する神のこの絶対的な優越を、自分たちにとって何か不都合な真実であるかのように考える教役者たちというか「教会権力」が自分たちの神であるはずの方の前にきちんと膝をかがめることを覚えるよう願う。教会史全体を見るなら、いまはそれがいちばん可能な時代だと思うのである。自分がそういう時代に信仰者でいられることを、ぼくは神に感謝する。
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