【小説】JOKER 第二部ジョーカーvsラットマン
第一章 異邦人
〈1〉
慶田盛探偵事務所所長慶田盛敦は、たった一人の事務員兼秘書三島陽菜と仕出し弁当で昼食を取っていた。
応接セットはそれなりのものを使っているが、職員の机は開業した時のまま、譲り受けたスチール机と華奢な椅子だけだ。
「所長、お昼が終わったら相談一件、二時半から地裁掛け持ちですよ~」
呑気な口調で陽菜が言う。
陽菜は敦より二十歳ほど年下の娘のような女性だ。
元々長年に渡り陽菜の母親が事務と秘書をやっていたのだが、失業中の娘をどうにかしてほしいというので採用したのだ。
「相談は日本人ではないって話だったね」
「はい、日本語があまり上手では無かったですし」
「友人が殺人事件の容疑者にされたと」
つたない日本語と慣れない事務では詳細は望めない。
殺人事件の容疑者という事で早くも脳裏に三浦探偵事務所への連絡が浮かんでいる。
日本では立件されたが最後99%が有罪となる。
それを嫌がらせのように押し下げようとしているのが、慶田盛弁護士事務所と三浦探偵事務所だ。
「殺人事件って本当に多いですよね~。どうして年間百件に収まるのかな?」
「それを知った所で僕らの仕事が減る訳ではないよ」
言って慶田盛は弁当を食べ終わって、簡素なシンクで軽く洗って事務所の前に弁当箱を出す。
そこで薄暗い階段を上ってくる浅黒い肌の青年と目が合った。
「時間早かったですか?」
青年の言葉に敦は頭を振る。
「いや。僕が事務所にいる時間ならウェルカムだよ」
慶田盛はドアを開いて青年を招き入れる。
陽菜も弁当箱を洗っている所だ。
青年を応接セットのソファーに座らせると陽菜が湯飲みを差し出す。
「あの、これ、お茶ですけど、コーヒーや紅茶の方が良かったですか? 普段は何を飲んでるんですか?」
「気にしない、いいよ。お茶飲める。ケダモノセンセイ?」
青年が顔を向けてくる。名前が一字違うだけで犯罪者のようになるのはなぜだろう。
「ケダモ、リ。ね。ケダモノだと犯罪者になってしまうからね」
慶田盛は冗談めかして言う。
「日本語難しいね。やっぱり分かってきたよ」
青年がポケットからスマートフォンを取り出す。
Google翻訳にした方が手っ取り早いと判断したのだろうか。
「センセイこれ見る」
音量を絞ったスマートフォンの暗い映像の中で、人間の姿が揺らめいている。
だが、暗いと思ったのは無数の黒い物体のせいだった。
首から上はシャンプーハットを逆さにして守っているが、全裸の身体に無数のネズミが食らいついているのだ。
映像の中の女性が声の限りに叫ぶが、ネズミは本能のままに肉を貪る。
慶田盛は食べたばかりの昼食が逆流するのを感じる。
仕事柄死体の写真は見慣れているが、死んでいく姿を見る事は稀だ。
「これが被害者なのか?」
慶田盛の言葉に青年が頭を振る。
「ニャンの妹。ニャンはヤクザを殺したと言われて警察に捕まった」
「どういう事かな……この映像は被害者ではないと?」
こちらの言う事はちゃんと分かるらしい。青年が首を縦に振る。
「フホウタイザイシャだけど、フホウタイザイシャじゃない。二百万円払って日本に勉強に来たよ」
それを聞いて慶田盛はヤクザの外国人ビジネスを考える。
発展途上国で日本で日本語と職業の勉強ができると言って人を集める。
集めた人間を女性なら性風俗、男性なら肉体労働で強制的に働かせるという訳だ。
しかも、金を払っているのに違法な形で就労している為に警察に訴える事もできない。
「ヤクザが殺されて、この映像を見つけた警察が僕たちがフクシュウしたんだと決めつけた。でも、家族や仲間がどこでどんな風に働かされているか、僕たちには分からないね」
「このスナッフビデオが出て来たから、ヤクザを殺したのは外国人だという話になった訳か」
「たぶん、そう」
青年の言葉に慶田盛はため息をつく。
いつもながら警察の短絡的な発想には驚かされる。
映像の被害者の兄だから、ではなく、外国人だから、という理由が正解なのだろう。
強制送還で母国の警察に引き渡してしまえば万事解決だ。
「状況は分かった。詳しいアリバイ何かは当事者のニャンさんに聞かないと分からないだろうね」
「ニャンはもっと訳が分かっていないね。ビデオも見てないと思うね」
「それは分からないだろうね。でも、弁護する為には本人と契約しなきゃならないんだ。それと、君の名前を聞けるかな」
映像で驚いてしまったが、最初に聞くべきなのは相手の素性だった。
慶田盛は待ち受ける裁判を思い身体を奮い立たせた。
〈2〉
「さみー。何でヒーター壊れてんだよ」
屋内でダウンジャケットを着た健が、真夏の蠅のように両手をこすり合わせる。
「いきなり大金使ったら税務署に嗅ぎつけられるからでしょ」
こちらもダウンベストを着た加奈が身体を丸めて言う。
三浦探偵事務所は目下冬将軍と熾烈な戦いを繰り広げている。
コートに身を包んだ清史郎は残念な思いで石油ファンヒーターを眺める。
五年ほどしか使っておらず、特に壊れるような事もしていないのだが、十二月に入りいよいよという所でスイッチを入れた所全く反応しなかったのだ。
ファンヒーターくらい買っても税務署は動かないだろうが、先の事を考えるとジョーカーとして稼いだ金はなるべく温存しておきたい。
「そもそもさ、何で調査費用が十万円とかなんだよ。一週間以上かかってんだからもっと取らねぇと割に合わねぇだろ」
「私一人の時はそれでもやれてたんだ」
清史郎はため息をつく。健と加奈はよくやってくれているが、急に価格を上げたりしたら慶田盛探偵事務所が潰れてしまう。
「私、あんまり役に立ってないのかな」
「そりゃ、俺たち寒がってるだけだもんな」
「営業に行けとは言わないよ。仕事が増えてもこなせないんじゃ意味がない」
清史郎は苦笑する。
実際、健と加奈は充分に捜査の役に立っているし、依頼もこれまでにないほど順調にこなせている。
――問題は価格設定か――
清史郎は今更ながらにどんぶり勘定の事務所の事を考える。
商店街の好意が無かったら今頃廃業していてもおかしくないのだ。
と、事務所の電話が着信を告げる。
すかさず加奈が電話に応答する。
「はい、三浦探偵事務所でございます。はい……ああ、慶田盛さん?」
声のトーンが余所行きのものから身内のものにトーンダウンする。
「……今から、いいですけど……��時半から地裁だから? ミンさんを置いていく?」
加奈の通話を傍から聞いているだけではさっぱり意味が分からない。
「分かりました」
言って受話器を置いた加奈が顔を向けてくる。
「ヤクザが不法滞在者を使ってスナッフビデオを作ってて、ヤクザが殺されたから犯人は不法滞在者だって事になって、ミンさんの友達のニャンさんが警察に捕まったんだって」
要点をまとめた話だが、まとめられ過ぎていて話を理解しづらい。
「詳しい事は慶田盛さんとミンさんから。で、慶田盛さんは二時半から地裁で裁判があるから、長居はできない」
「相変わらずあのオッサン、無茶振り半端ねぇな」
「それだけ多くの人に信頼されてるんだよ」
清史郎は健に答えて言う。
加奈がガスコンロで茶を入れる為に湯を沸かし始める。
「なぁ、ジョーク、スナッフビデオって何だ?」
手持ち無沙汰な様子の健が訊いてくる。
「殺人の様子を写したビデオや死体を損壊するビデオだな」
「それって写したヤツは殺人犯か死体損壊じゃねぇのか?」
「殺人ほう助にも相当するな」
清史郎が言うと健がPCのキーボードを叩く。
「どの道ヤクザが人殺しをしたって事には変わりないんでしょ?」
「今の段階では何とも言えないな」
清史郎は腕組みをして言う。
ジョーカー事件で矢沢が失脚した為、矢沢組は現在若頭の緒方が臨時的に取り仕切っている。
新庄市でトップにならないという事は、緒方にはそれなりに慶田盛や清史郎のリスクが見えているという事になるだろう。
だとすれば、理性的な緒方がスナッフビデオなどというリスキーでリターンの小さいビジネスに手を染めるとは考えにくい。
「問題は殺されたヤクザが本当に不法滞在の外国人によるものなのかって事だ」
清史郎はかじかむ手を揉みながら言う。
加奈がガスコンロをつかっているせいか室温が幾らか上がった気がする。
「警察はそう考えてるんだろ」
「もっと穿った見方をすれば、日本語も満足に話せない外国人を犯人に仕立て上げて、強制送還で証言できないようにすれば検挙率を上げられるという話にもなるな」
健に答えて清史郎は言う。
目下最も高い可能性がそれなのだ。
ヤクザの死体発見がいつで、被告がいつ逮捕されたのか不明だが、殺人事件がそんなに簡単に解決する訳が無い。
ドアが開き、慶田盛と浅黒い肌の東洋人が姿を現す。
「清史郎、すまん。次の裁判まで時間が無い」
慶田盛が息を切らして言う。
「分かった。そこの……ミンさんから話を聞けばいいんだろう?」
「また後で話を聞かせてくれ」
慶田盛が慌ただしく事務所を出ていく。
「どうぞおかけ下さい」
加奈がミンを事務椅子に誘導する。
座面の破れていない唯一の椅子だ。
「私たちは依頼者の秘密は守る。盗聴の心配は無用だ」
「まぁ、絶対の防諜ってのは無ぇんだけどな」
健が余計な事を言う。
ミンがスマートフォンを取り出して経緯を語る。
「ジョーク、すまねぇ、俺、トイレ行ってくる」
スナッフビデオを見た健がトイレに行こうとする。
「ちょっとあんた我慢……」
加奈が胃袋の辺りを押さえて言葉を詰まらせる。
「二人とも、トイレは一つだからな」
清史郎が言うと二人が先を争うかのようにしてトイレに向かう。
「殺されたヤクザの事は?」
「私たち知らない。分からないよ」
ミンが皆目見当がつかないといった様子で言う。
「つまり現状では訴えの被害者すら分からないという事か……」
拘留中のニャンに会いに行かない事には、殺されたヤクザの名前も分からないという事だ。
慶田盛が弁護士として拘留中のニャンに会いに行く事は正当な権利として認められるが、清史郎は会いに行った所で面会すらさせてもらえないだろう。
「うえぇ~、今日絶対うなされるわ、これ」
げんなりした様子で健が戻ってくる。
「殺されたヤクザはヤザワグミとかいうヤクザ」
やはり、と、言うべきか。新庄市最大、関東広域指定暴力団ともつながりの強いヤクザだ。
健がヘッドフォンをつけてPCの操作を始める。
「矢沢組構成員畑中猛二十八才。住所は市内。仕事は外国人労働者のブローカー。矢沢組の方から捜査依頼をかけたらしい」
健が早速情報を拾って来る。何度か新庄市警に侵入し、健に言われた通りに機材を設置して来たのだ。
お陰で警察のデータベースは好きなように見る事ができる。
「現場の写真って……これもスナッフ何とかじゃねぇか!」
PCの画面からのけ反るようにして健が言う。
風呂の椅子程度の椅子に立たされ、首に輪をつけられた男が吊るされており、回転ノコギリが片足に押し当てられる。
それもすぐに切り落とすのではなく、職人が金箔を張るようにゆっくりと嬲るようにだ。
被害者のヤクザは何とか首つりを逃れようとする。
映像を早送りすると片足が切り落とされた時点で、まだヤクザは持ちこたえている。
覆面をした男がヤクザの頭から蜜のような粘液室のものをかける。
覆面をした男が消えると画面に丸々と太った無数のネズミが現れる。
ネズミたちが先を争うようにヤクザの身体に食らいつく。
「何、今度は拡大して見てんの?」
「違うって。こっちは殺されたヤクザの方だ」
戻って来た加奈に答えて健が言う。
「殺人の手口を見ると同一犯のようだな」
清史郎は考える。
「健、ミンさんの映像とこの殺人現場の映像の場所を比較できるか?」
清史郎の言葉を受けて健がキーボードを叩く。
ミンのデータが引き延ばされ、画面に表示される。
二台のディスプレイにそれぞれの殺人現場が表示される。
部屋はどちらもコンクリート打ちっぱなしの地下室のような光源の無い部屋だ。
もっとも、被害者は絶叫しているだろうから防音も兼ねているのだろう。
「似てるけど……違う」
画面を観察しながら加奈が言う。
一見すると同じような部屋に見えるが、加奈は早くも何か発見したのだろうか。
「被害者の目。光の映り込みがニャンさんの妹さんは左右からなのに、ヤクザは正面全体になってる」
加奈に言われて観察すると確かに被害者の瞳に反射している光の光源が違う。
「床もホラ……最初の部屋はフローリングっぽいのに、二回目の部屋は床がリノリウムみたいにフラットになってる」
加奈がグロテスクな映像を確認しながら言う。
「つまり殺害現場は別という事か」
清史郎は腕組みをして考える。
「死体遺棄現場の映像出すぜ」
健が言うとヤクザの方の画面に静止画像で全身を食い荒らされ、正体不明になった男の映像が映る。
場所は矢沢組の門の前、車から放り出されたらしく血が飛び散っている。
少なくとも遺棄された時点では瀕死とはいえ息はあったという事か。
死体の傍らにはスナッフビデオのDVDのディスクの入ったケース。
これは死体を放置した後に放られたものらしい。
「こりゃ矢沢組キレるって」
健がため息をついて言う。
「指紋や遺留物は?」
「ケーサツそこまで調べてねーよ」
健がミンが持ってきたのと同じ映像を画面に表示させる。
画面が分割され、加えて七件のスナッフビデオが映し出される。
「つまり、八人の外国人が殺されたから、同じような方法でヤクザを殺したって考えた訳?」
「そーゆー事らしいぜ? これまでの八人は死体も出てねぇんだし、模倣犯の線が濃厚だ……と」
加奈に答えて健が画面に事件のファイルを表示させる。
被害者は十二月三日、矢沢組の門の前で見つかった。
矢沢組は警備会社と契約しており、門には監視カメラがあったがタイムラプスビデオで軽トラックが近づく所と去る所しか映されていない。
タイムラプスビデオとは長時間録画をする為に数秒間に一コマの映像となっている。
従ってタイミングを知っていれば数秒間は完全に画面から消える事ができるのだ。
画面に移された軽トラックは流通量の最も多いハイエース。
ナンバープレートには段ボールで覆いがしてあり陸運局に問い合わせる事はできない。
運転席に映っている運転手と助手席の人物は目出し帽子を被っており性別の確認もできない。
DVDを見た刑事課は市内の工場で不法滞在で働いているニャンを逮捕。
強制送還の方向で事件は解決に向かっている……。
「不法滞在者による狂気の大量殺人……これが警察のプレス発表だっての?」
加奈が声を上げる。
「ええと……現在国内には多くの外国人がおり、犯罪が頻発しています。今回の事件はこうした外国人の起こした猟奇的なものであり、日本国民が傷つけられるという最悪の事態を引き起こしました。警察は今後外国人の取り締まりをより厳重なものとし、厳罰化していく所存です」
健が警察発表の草案を読み上げる。
「何かおかしくない? 仮に八件と別の犯人だとしても、殺されているのは外国から来ている人なんでしょ?」
「論点をすり替えているんだ。事件が起こった事が問題ではなく、外国人がいる事が問題なんだとな」
加奈に答えて清史郎は言う。
「誰がどこで働こうと勝手じゃない。それに外国人の人たちは保険や年金も使えないんでしょ?」
「日本人の税金を外国人に使うな、って意見の方が多いみたいだぜ?」
プレス発表より先に漏洩したネットニュースに反応した人々の書き込みを健が表示する。
「外国人が日本に来て死ぬのは当然の結果か……モラル低下もここまできたか」
清史郎は苦い気分で言う。安い労働力として何の保障もなくこき使っておきながら犯罪者扱いする。
外国人がアジアから来ている場合には特に顕著だ。
「この事件、このままじゃダメだよ。ね、ジョーカー」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
「まずは警察側の発表を覆さないとな」
清史郎は合計九件のスナッフビデオを画面に表示させる。
犯行個所は三か所と見られ、外国人が殺されている映像と畑中の殺されている場所が同じものが二つ存在している。
「ホラ見ろビンゴだ」
健が声を上げる。これで九件の事件は同一犯の可能性が高くなった訳だ。
「そもそもこれだけ大量のネズミを飼育しておける環境が必要なんだ。模倣しようとしてもネズミを急に揃えるなんて事ができる訳が無い」
清史郎の言葉に加奈が画面の一転を指さす。
「白いネズミ! どの映像にも必ず白いネズミが映ってる」
よくよく見れば薄汚れているがグレーに近い灰色のネズミがどの映像にも混じっている。
「よっしゃ! これで犯人は同一犯ってこったな」
健が声を上げてPCのキーボードを叩く。
事件現場の映像とネズミの映像��まとめてファイリングする。
「でも真犯人に近づいたって訳じゃない」
加奈が苦い表情で言う。
確かに警察のロジックは崩せるが、肝心の犯人については不明のままなのだ。
「警察の野郎、市内の外国人を抜き打ち調査するつもりみたいだぜ」
データを引き抜いた健が眉を顰める。
大規模な取り締まりをすれば市民の目が逸れると考えているのだろう。
「この事件を起こしたのが何人かなどという判断は現段階ではできない。まずは事件の真相を探る」
清史郎の言葉に健と加奈が頷く。
「よろしくオネガイシマス」
ミンが小さく頭を下げた。
〈3〉
清史郎は新庄市警本部の窓口を訪れている。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です。捜査一課の風間警部補にお話しがあります」
周囲が警察官だらけという落ち着かない環境下で、清史郎は周囲を観察する。
事件の事を知っている者も多いのだろう、清史郎が来ただけでおおよその要件は掴めているようだ。
「まずはアポイントメントをとって下さい。取材であれば後日広報が応対致します」
窓口の女性警察官が言う。
「これから警察が嘘たれ流そうとしてんだよ! 証拠持って来てやったんだぞ!」
健が声を上げると周囲の警察官の目が集中する。
「情報提供です。警察が入手されているスナッフビデオに関して重大な証拠がありました。お会いできないと言うのであればインターネットで公開します」
清史郎の言葉に受付の警察官が動揺を浮かべる。
「インターネットは情報として証拠能力を持ちません。情報をどのように流されようと結果は変わりません」
上席らしい警官が窓口に現れて言う。
「そうでしょうか? ではスナッフビデオも画像加工された証拠能力の無いものとみられるはずです。それを根拠に犯人を捜される事の正当性を伺いたい」
「捜査情報はこちらからは漏らせん。貴様どこから情報を得た?」
「矢沢組です」
清史郎の言葉に警官が気圧されたような表情を浮かべる。
「少々お待ち下さい」
矢沢組の名前を出した途端、警官の態度が変わり内線で電話をかける。
ややあって捜査一課の風間真一が姿を現す。
髪をオールバックにした固太りの男で二人の警官を従えている。
「どうぞこちらへ」
睨みつけるようにしながら顎をしゃくる。
清史郎は二人を連れて警察署の廊下を歩く。
盗聴器は手にしていないが、仕掛けてある盗聴器は作動している。
三人は風間に続いて取調室に入った。
「ワレ、矢沢組の名前だしてどういうつもりじゃゴルァ!」
風間がスチールのデスクに拳を叩きつけて声を上げる。
「被害者の一人は組員でしょう?」
「ア、 コラ、適当抜かすと任意同行でしょっ引くぞ」
風間が息がかかる程の距離に顔を近づけてくる。
「一つ忠告する。矢沢組の組員が被害者になっている事件で、適当な真似をすれば報復を受ける事になる。立件した後に模倣犯が出て矢沢組の組員に死者が出た時どう落とし前をつけるつもりなのか伺いたい」
清史郎の言葉に風間の顔色がどす黒いものとなる。
「随分上から目線じゃのぉ、警察ナメとんのかドルァ!」
「目線の問題ではなく、事実を申し上げたまでです。今後同様の事件が起きた時、矢沢組に対してどう釈明するつもりですか?」
清史郎の淡々とした口調に風間が奥歯をぎりりと鳴らす。
「なんぞ証拠があるんかい。出せるもんなら出してみぃや!」
清史郎は健の肩を叩く。
健が落ち着かない様子でDVDディスクを取り出す。
DVDを手にした風間が顎をしゃくると警官がノートPCを抱えて慌てて戻ってくる。
DVDの映像を見ていた風間の額に汗が滲む。
「映像情報から判断する限り、全九件は同一犯の可能性が濃厚です。外国人が報復したというシナリオは使えません」
清史郎の言葉に風間が鼻白む。
「だからなんじゃ、映像が証拠になるとでも思うとるんか」
「そっくりそのままお返しします。映像証拠で外国人を摘発するんですか?」
清史郎の言葉に風間がスチールデスクを殴りつける。
「ド畜生の三流探偵が!」
「矢沢組の体面、もう少し慎重に捜査された方がよろしいかと」
清史郎の言葉に風間が舌打ちする。
「去ねや! 顔も見たくないわ!」
言うだけ言って室内から風間が出ていく。
これで風間はプレス発表を控えるだろう。
警察が体勢を立て直す前に真犯人を捕らえて起訴するのだ。
〈4〉
「もーやだ。警察行きたくねー」
警察署を出た健ががっくりと肩を落として言う。
「任意同行って、何の容疑だっつーの」
加奈が肩を怒らせる。
「これから何度でも相手をする事になるんだ。慣れておけ」
清史郎の言葉に二人がため息と共に首を縦に振る。
「で、これからどーすんだ? 警察のプレス発表遅らせただけだぜ」
「矢沢組だ。これからようやく捜査ができるんだ」
清史郎が言うと健がさも嫌そうな表情を浮かべる。
「警察の次はヤクザなんてどんな厄日だよ」
「そういう職業なんだよ」
清史郎は改造したフォルクスワーゲンビートルに乗り込む。
健が後部座席に、横に加奈が乗る。
清史郎はエンジンをかけながら矢沢組の短縮ダイヤルを押す。
『はい、矢沢組です』
「三浦探偵事務所の三浦清史郎と申します。若頭の緒方さんに取り次いで頂けますか?」
『少々お待ち下さい』
清史郎が車を走らせていると、ややあってよく通る低い声が響いた。
『緒方です。三浦探偵事務所様がどういったご用件ですか?』
「昨日未明に玄関で殺されていた畑中氏の事件を調査しております。是非一度現場を見せて頂きたく思いご連絡させて頂きました」
清史郎が言うと一瞬間を開けて。
『その事件については警察は既に解決したと言っています』
「それを覆す証拠が出たのです。警察はこのまま冤罪を推し進めるでしょうが、それが矢沢組にとって有益だとはとても思えません」
『覆す情報?』
「全九件の画像を確認した結果、犯行は同一犯によるものである可能性が濃厚になりました。畑中氏が殺されたのは外国人による報復という事は文脈から読み取れません」
『そういう事であれば……』
「これからお伺いさせて頂いて構いませんか?」
『現場は若い衆に命じて掃除してしまいましたが……』
「可能な限り可能なものを収集させていただきたいと思います」
『分かりました。調査の邪魔にならないよう手筈を整えます』
言った緒方が電話を切る。
「何かヤクザのが警察よか紳士的じゃね?」
後ろで聞いていた健が言う。
「実るほどに頭を垂れる何とやらでな、力を持ってるヤツの方が謙虚なんだよ。まぁ、怒らせれば話は別だがな」
清史郎が言う脇で加奈が頷く。
「私たちは貧乏でも謙虚じゃない?」
「お前たちは充分人間ができてるよ」
清史郎は苦笑して言う。
今回の事件はまだ何の手がかりも無いに等しいが、この二人が居れば難解な事件も解決できる筈だった。
「ご苦労様です。緒方です」
鋭角的な顔立ちの、ビジネスマンといった風体の細身の男と清史郎は握手を交わす。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
清史郎が言うと緒方は軽く息を吐いた。
「堅苦しい話は無しで行きましょう。同一犯の証拠というのは?」
清史郎は健の肩を叩く。
健がラップトップを叩いて画像を表示させる。
「犯行現場、殺害方法、殺害に用いたネズミが一致するんです」
清史郎はかいつまんで言う。
「なるほど、確かに。しかし、彼らが同胞を殺したという見方もできるのでは?」
「そうなると犯人がどのようにターゲットを絞っているのかが不明になります。畑中さんは明らかに日本人ですから」
清史郎の言葉に緒方が顎を摘まむ。
「畑中は外国人労働者を買うブローカーをしていました。シノギとしては小さなものです。外国人労働者から恨みを買う事は充分に想像できます」
「確かにその通りです。だとするなら同胞を殺した事は……」
「理屈に合わない。確かに。ではこの事件は外部何者かによる意図的なものであると?」
「意図は分かりませんがね。玄関の監視カメラの映像を見せて頂いて構いませんか?」
清史郎が言うと緒方以外の組員が身体を固くする。
「ご自由にご覧下さい」
清史郎は緒方についてモニタールームに向かう。
矢沢組の周囲と内部を写したカメラ映像が二十四枚並んでいる。
清史郎は潜入した事があったが、これだけの監視カメラを潜り抜けるのは至難の業だった。
「犯行の映像が映っているのは玄関のカメラだけでした」
緒方が言うと組員が畑中が捨てられていく一瞬を映し出した。
「残念ながら映像は捨てる前と後しかありません」
「タイムラプスビデオでは仕方がありません。ですがここに見逃せない点があります」
「ここに?」
「まず、タイムラプスビデオの六秒の間に瀕死の畑中さんを捨てなければならなかった。これは玄関のビデオのタイムラグを知らないと不可能です」
「内部犯という訳か?」
緒方の口調が苦いものとなる。
「更に六秒という事を考えると、一度車を停めてから降ろす時間的余裕は無かったはずです。だとすれば荷台に最低二人は乗っていないと実行は困難。即ち運転手と助手席に人間を合わせ最低四名は犯行に必要だったという事です。従って単独犯という事はあり得ません」
清史郎が言うと健と加奈も驚いたような表情を浮かべる。
「タイムラプスビデオに映っているという事は時速二十キロ以下に減速していたことは間違いないでしょう。大人二人で荷台から放り投げたと考えるのが現実的です」
「つまりはこの映像を入手できる者で、なおかつ四人以上のグループという訳だな?」
険しい顔で緒方が言う。
「そういう事になります」
清史郎は二十四枚のディスプレイを眺める。
普通の人間は他人の家の防犯カメラの映像など入手できない。
しかし、警備関連の企業に勤めていたり、矢沢組を出入りする人間の数を考えると途端に関連する人間の数は多くなる。
「組員では無いと信じたい。あのような拷問を無差別に行う組織だと思われれば商売が成り立たなくなる」
緒方が眉間に皺を寄せる。口調こそ穏やかだが、犯人が目の前にいれば問答無用で殺すかも知れない。
「畑中さんの当日の動向は分かりませんか?」
「畑中はフューチャー人材ネットという会社の社員をしていました。会社の方に記録が残っているはずです」
「その会社は……」
清史郎が訊こう���すると緒方が口元に薄い笑みを浮かべた。
「現代の奴隷商人ですよ」
本当に恐ろしいのは風間のようにがなり立てるのではない、こういった事を涼しい顔で言える人間なのだ。
〈5〉
「ヤクザって結構マトモっぽくね? もっと警察みたいに怒鳴られるのかと思ったぜ」
フューチャー人材ネットに向かう途中、キーボードを叩きながら健が言う。
「私は何か怖かったな。人があんな惨い殺され方をしてるのに」
加奈が恐ろしいものでも見たかのような口調で言う。
「ヤクザはナメない方がいい。殺す時は問答無用だし、殺されても死体なんぞ出てこないからな」
「マジっすか?」
健が声を上げる。
「お前、工事現場で働いてたのに何も聞いてないのか?」
「現場とヤクザっすか? 仕事を回してもらうとかあるみたいっすけど」
「コンクリートミキサーに死体を放り込んでみろ、DNAも出てこないぞ。大型の開発やビルなんかじゃ何人砂粒になってるか分からない」
清史郎が言うと加奈が首を竦める。
「怖っ!」
健が声を上げる。現場勤めが長かったから光景が想像できたのだろう。
「で、これから行くフューチャー人材ネットってのはどんな会社なんだ?」
「黒い人材派遣会社っすね。有給が使えないとか、病欠したくても電話がつながらないとか」
検索していた健が言う。
「良かったぁ~。私登録しようとしてたんだ」
「やめとけやめとけ。解雇通告無しに解雇して保証金も払わない会社だ」
加奈に答えて健が言う。
「まぁ、ヤクザが経営している人材派遣会社だからな」
清史郎は苦笑する。元から人材派遣などという業態は真っ当ではない。
労働量が同じでも正社員のように保障がある訳ではなく、退職金も出ないのだ。
気概があるなら独立した方がまだまともな人生を歩めるだろう。
「世の中にまともな部分がどれだけあるかって考えちゃう」
「考えるだけ無駄だって。この会社が不法滞在の外国人のブローカーの表の顔なんだろ」
健が加奈に答える。
「腐る大捜査線かぁ~」
加奈の言葉に清史郎は小さく噴き出す。
昔似たような名前の刑事ドラマがあったからだ。
近くのコインパーキングにビートルを停め、フューチャー人材ネットの入った雑居ビルに足を踏み入れる。
フューチャー人材ネットは広さは三浦探偵事務所とさほど変わらないものの、水色の絨毯が敷いてあり、パーテーションで区切られた現代的な雰囲気の事務所だった。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
清史郎が受付で言うと奥から同年代のハゲタカを思わせる痩せた男が出て来た。
「フューチャー人材ネット代表鴻上純也です」
名刺を交換し、パーテーションで区切られた面談室に案内される。
「緒方さんから話は聞いています。可能な限り協力しろと言われています」
清史郎は内心で頷く。緒方は既に手を回してくれているらしい。
「まず、畑中猛さんの一昨日の勤務状況を伺えますか?」
「九時五時ですね。実際には六時半まで残業、以降は一人で帰っています」
「寄り道、例えば行きつけのバーなどはありませんか?」
「最近の若い子はあまり飲まないようですね。オフの事は残念ながら分かりません」
「勤怠について最近異常はありませんでしたか?」
「ありません。何故いきなり死んだのか分かりません」
鴻上は本気で当惑しているようだ。
「念のため畑中さんの住所と電話番号を伺えますか?」
鴻上が持参していたラップトップを操作する。
「住所は新庄市高台十二―五メゾンハイツマンション五〇五。電話番号は070―××××―××××です」
「御社は海外の人の派遣も行っていたそうですが、トラブルはございませんでしたか?」
清史郎が言うと鴻上は意外にも同様した素振りも見せなかった。
「海外の人材とのトラブルは特にありませんでした。彼らは日本では地盤がありませんし、地元ではヤクザの力が強い。ご存知無いかも知れませんが世界最大のマフィアは日本の組なんですよ。経済力で言うと最大の組だけで日本の企業上位六位の八兆円の規模になります。弱小国家など相手になりません」
鴻上にとって組に所属する事は汚名では無いようだ。
「つまり逆らう事など思いもよらないと」
「そういう事になりますね。もっとも現地では現地人を使っていますが」
鴻上が言った所で四人に茶が運ばれてくる。
剣呑な話をしているはずだが、事務員に動じた風は無い。
「同業他社とのトラブルは考えられませんか?」
「日本のヤクザは互いに杯を交わして兄弟となっています。互いのビジネスに悪影響を及ぼす事は代紋に泥を塗る事になります。それは断じてありません」
最もありそうな可能性が早々に否定された。
もっとも、あったとしても表ざたにはできないという所もあるのだろう。
「単刀直入にお聞きしますが、殺された事に心当たりはありませんか?」
「ありません。あったとすれば、殺された外人が高跳びしたと考えて探し出そうとしていた事くらいです」
「では外国人労働者の死亡も知らなかったと」
「寮の連中も突然消えたと言っていたくらいです。とはいえ隠している可能性もありましたので地元とも連絡を取って探してはいました」
フューチャー人材ネットは消えた外国人労働者を捜索していた。
実際に捜索していたかどうかはミンなりニャンなりに訊けば分かるだろう。
「では捜索中に殺されたという可能性もある訳ですね?」
「何をしている最中だったかは分かりかねます」
鴻上が答える。これ以上質問しても有意義な答えは返ってこないだろう。
「外国人労働者の寮のある場所を伺えますか?」
「パレステラスガーデンの二階が寮になっています」
清史郎はパレステラスガーデンの住所を控えると健と加奈を連れてフューチャー人材ネットを後にした。
〈6〉
清史郎は家主に事情を言って鍵を開けてもらい、畑中のマンションを訪れていた。
ワンルームの壁の薄い建物で、床にはカップ麺とスナック菓子の袋が散乱している。
「健、あんたの部屋とどっちが汚い?」
「せめてどっちが綺麗って聞き方しろよ。俺の部屋の方がきれいだって!」
健が加奈に応じて言う。
「健、PCで分かる事を探ってくれ。加奈は俺と一緒に部屋の中を探ってくれ」
清史郎が言うと健が畑中のPCに取り付き、加奈が口元をハンカチで押さえながら部屋の奥へと入っていく。
健が持参したPCを畑中のPCに接続して操作し始める。
画面上でパスワードの黒い●が点滅している。
「健、何をしているんだ?」
「パスワードを割ってるんっす。文字の数字の組み合わせは天文学的な数になるから手作業なんてしてられねぇっつーか」
「〇〇三一五は?」
デスク回りを見て清史郎は言ってみる。
「あー! 何で分かったんっスか! ジョークすげぇ!」
「すごいも何もデスク周りの写真がかたっぱしから自撮りだろ? それだけ自分が好きならオレサイコーって入れてもおかしくないだろう」
「超馬鹿っぽい! でもパスワード解析する手間が省けたぜ」
健が猛然とキーボードを叩き始める。
加奈は部屋のクローゼットの前に屈みこんでいる。
「加奈、何かあったのか?」
「いや、意外に勉強家だったんだなぁ~って」
加奈が調べていたのは語学のテキストの山だった。
海外の人材を集めていたのだから英語は必須スキルだったのだろう。
「ヤクザでも仕事は一生懸命にやってたって事か」
一所懸命に悪事をするというのは依然知り合った殺し屋円山健司を思い出す。
「そっちは英語の参考書っすか?」
「ああ。そっちはどうだ?」
「英語のオンラインレッスンとゲームとエロサイトばっかりっすね」
畑中は英語だけは真面目にやっていたらしい。
清史郎は玄関に戻ってドアの周りを丹念に調べる。
ピッキングされた形跡は無く、靴の乱れも無い事から突然押し入られたという事でも無いらしい。
部屋から連れ去られたので無ければ、移動中に拉致されたという事だろうか。
――やはり顔見知りの犯行が濃厚か――
しかし、それならば緒方が何か知っていても良さそうなものだ。
――今は地道に情報を集めるだけだ――
外国人労働者の寮は一階に大日警備保障という警備会社の入ったマンションにあった。
立地から考えて大日警備保障も矢沢組系列だろう。
清史郎たちが訪ねるとミンが仕事から帰った所だった。
ワンルームの部屋に二つ二段ベッドが並べられ四人が生活しているようだ。
「ミウラさんこんにちは」
「ミンさんこんにちは」
清史郎が挨拶するとミンが同僚に向かって早口の外国語で説明する。
狭苦しい中に招き入れられ、ジャスミンティーを勧められる。
「これまで殺された人はみんなこの寮の人かい?」
清史郎は心苦しく思いながらも八人の映像を見せて訊ねる。
「ちがう人もいるよ。知らない人もいるよ」
残酷な映像に顔を顰めながらもミンが言う。
「同じ寮の人は?」
「リンとホワン」
ミンが二人を指さす。この寮の人間は合計三人殺されたという事だ。
この寮で働く人間にとっては気が気ではないだろう。
「殺された人たちに共通点は?」
映像を確認する限りある程度若いという以外は年齢も性別もバラバラだ。
「分からない」
残念そうにミンが言う。
言葉が足りないせいでこちらも質問する言葉が出てこない。
「ニャンさんの妹さんの家族か同僚の人は?」
「女の子の寮は別にあるよ。ニャンは警察に捕まったよ」
ミンの言葉に清史郎はため息をつく。
「女の子の寮は?」
「会社が違うから分からないよ。フウゾクの会社だよ」
連絡が充分につくという環境でも無いらしい。
「最近誰かに見られてると思ったり、尾けられてるって思った事は?」
「ツケラレテル?」
「尾行されてる……追われている……追跡されてる……」
「ごめんなさい。分からないよ」
ミンが頭を振って言う。
どうやらこれ以上聞き出せる内容は無いようだ。
「邪魔したね。取り合えず身の回りには充分に気をつけて」
言って清史郎は健と加奈を連れてパレステラスガーデンを後にした。
第二章 錯綜
〈1〉
十二月四日午前四時。
スマートフォンの着信音で清史郎は目を覚ました。
このような機械を発明した人間を呪いたくなりながら通話ボタンを押す。
「はい、三浦です」
『緒方だ』
切羽詰まった口調で電話をかけて来たのは矢沢組の緒方だ。
「こんな時間にどうしたんですか? 事件に進展でも?」
『鴻上が殺された。例のネズミ殺しだ』
突然の言葉に一気に目が覚める。昨日フューチャー人材ネットで会ったハゲタカのような男が一夜と経たずに殺されたのだ。
「警察には?」
『警察から連絡があった。新聞配達のバイトが死体を発見したらしい』
「場所は?」
『フューチャー人材ネットの入っているビルの真ん前だ』
死体を発見したバイトはさぞかしびっくりした事だろう。
「分かりました。現場に向かいます」
言って通話を切った清史郎は愛車のビートルに乗り込んだ。
フューチャー人材ネットのビルの前には二台のパトカーと救急車が停まっていた。
三人もの警官が動員されており、死体は既に救急車に搬入されている。
周囲は黄色いテープで保護され、警官たちは近づこうとする人々を制止している。
「掃除が終わるまでしばらくの間近づかないで下さいね~」
現場を見ようとした清史郎に警官が言う。
証拠品は無いのか、何か手がかりになるようなものは。
清史郎が身を乗り出すと赤黒い染みが見えた。
鴻上が放置されていた場所だろう。
フューチャー人材ネットの入っているビルの前には監視カメラは無く、今回の加害者は時間的余裕をもってビルの前に放置した事だろう。
証拠は幾らでもありそうなものだが、警察が浚った後ではロクな収穫は望めない。
「三浦さん、朝早くからすみません」
朝早くから一分の隙も無くスーツを着こなした緒方がやって来る。
「そういう商売なんでね」
「オイ、そこの警官。先生をお通ししろ」
低い声で緒方が警官に向かって言う。
「……あの、どういったお話……」
「矢沢組の緒方だ。署長にでも確認を取れ」
言ってズカズカと現場に踏み入って行く。
「三浦さん、犯罪捜査じゃこちとら素人だ。どうすればいいですか?」
怒りを滲ませながら緒方が言う。
「被害者の身体はネズミに食い荒らされて指紋の類は無いでしょうし、犯人は手袋をしていた可能性が高いです」
清史郎は赤黒い染みに近づいていく。
「車から降ろされたならまずブレーキ痕。後、血液に付着した微細証拠品がカギになる場合があります」
「ポリ! 先生の言う通りにしやがれ」
緒方が言うと警官たちが右往左往する。
どうやら鑑識キットも準備もして来ていないらしい。
「仕方ない。私の方で調べます」
空が白々としてくる中、清史郎は道路に残された血液のサンプルを採取する。
更に周囲を歩き回り、ブレーキ痕を確認する。
「ブレーキ痕は一般的な軽自動車のものです。急停止し痕が残ったものと思われます」
「前はタイムラプスビデオを避ける為だったな」
「今回は人目を避ける為でしょう。これは仮説ですが、死体にはブルーシートか何かがかけてあったのではないでしょうか」
ビニールシートで巻いた死体を端を持って車から放り出したのだろう。
やり方は荒っぽいが、証拠は残りにくい。
「現場にDVDは残されていませんでしたか?」
清史郎が警官に尋ねると険悪な視線が返ってくる。
「DVDは無かったかと聞いているんだ」
緒方が言うと警官がDVDを差し出してくる。
差し出された所で再生できる機器も無い。
「指紋を採取してこれまで警察で採取されたものと照会して下さい」
「差し出がましい事を言いやがると……」
「言われた事をやりゃあそれでいいんだ」
緒方が言うと血を上らせかけた警官が大人しくなる。
「後は近くの防犯カメラに軽トラックが映っていないかどうかですね」
清史郎は言う。幸い三件隣にコンビニエンスストアがある。
トラックの影くらいは残っているかも知れない。
「緒方さん、私はこれで」
「朝早くから済まなかったな。明日は畑中の葬儀だ。何か分かるかも知れない」
緒方の言葉にうなずいて清史郎はコンビニエンスストアに足を向けた。
〈2〉
「新庄工科大学?」
モーニングコールでいつもより早く呼び出された健が清史郎の言葉に問い返す。
事務所の寒さは外気温と左程変わらず、早急なヒーターの購入の必要性が感じられる。
「それって鑑識的な事をするって事?」
加奈が朝七時にも関わらず張り切った口調で言う。
「ああ。血液とネズミの唾液くらいしか出ないだろうが、死体は少なくとも現場に一度は降ろされたはずだし、何かに包まれて遺棄現場まで運ばれたはずだ。つまり、殺害現場と包んだものの痕跡が残っている可能性があるんだ。血液には粘着力があるからね」
清史郎は採取した小さなビニールの密封パックを見せる。
「でも、現場に最初からあったゴミも付いてる訳よね?」
「それを大学の分析機器で分析してもらうんだ」
「ジョーク大学のセンセに顔がきくのか?」
驚いたように健が言う。
「付き合いがあるからね。じゃあ出発だ」
清史郎は二人を連れて市内の工科大学に向かう。
前もって連絡していたせいもあり、工科大学の環境科学科の柴田一太教授が生徒たちと共に準備を整えている。
「三浦さん久しぶりだね」
「柴田さんお久しぶりです」
柴田は中肉中背よりやや中年太りをした男だが、ふくふくとした顔立ちをしておりメタボリックにありがちな不健康な印象は受けない。
「血液に付着したサンプルを採取したいという事だね」
「ええ。現場でこそげ取ったので道路のカスも多いと思いますが」
「それは優先的に除外するよ。確か現場候補のサンプル映像があるとか」
柴田が興味深そうに言う。
「かなりグロテスクですが……」
清史郎は健に映像を表示させる。
柴田が口元を押さえながらも映像を食い入るように眺める。
「証拠らしい証拠は出ないかも知れませんよ?」
「と、言うと?」
「床がフローリングやリノリウムのような材質で、殺人の前後に清掃されている可能性が大きい。輸送中のビニールシートか何かに付着した物質なら検出可能だろうけど」
「おっさん、ここでは何を調べられるんだ?」
健が柴田に向かって言う。
「ガスクロマトグラフィーと液クロマトグラフィー、更に原子吸光器もある。分析化学に必要な機材は揃っているよ」
「具体的にはどういった物質が検出できるんですか?」
加奈が健が訊きたいであろうことを尋ねる。
「血液であればたんぱく質や鉄分や塩分が検出できるし、それを除外して町中を車で移動したなら排気ガスなんかを検出する事もできる。ビニールシートが新品なら保護用の粉末なりがあるだろうし、死体を縛ったなら何かの繊維が検出されるかも知れない」
「そんな細かいモンで何が分かるんだ」
健が不思議そうに言う。
「それを考えるのが探偵だ。じゃあここは柴田さんに任せて慶田盛にニャンさんの話を聞きに行こうか」
清史郎は一同を促してビートルへと戻った。
「奇妙な事になったね」
ニャンの弁護をする事になった筈の慶田盛が事務所の応接セットで言う。
「加害者が拘置所の中にいるのに十番目の被害者が出た」
清史郎は湯飲みを両手で包み込むようにして言う。
茶の淹れ方は加奈の方が上のようだ。
「警察側は不法滞在者の組織的犯罪として押してくるかも知れないね」
慶田盛が茶をすすりながら言う。
「不法滞在者は矢沢組の監視下にある。寮の下に警備会社が入っているくらいだ」
清史郎は昨日得た情報を慶田盛に告げる。
「警察にとっては犯人を逮捕する事が重要なんであって、逮捕する相手が誰かという事は自分たちに都合さえ良ければいいという事なんだ」
慶田盛の言葉を清史郎は反芻する。
「矢沢組の外国人ブローカーは社長まで殺された。外国人ビジネスから撤退するのであれば警察との間で手打ちができるか……」
「外国人ブローカーがいいとは言わないけど、それじゃ何の解決にもなっていないんじゃない?」
加奈が言う。確かにこれで十一番目の被害者が出てくるという事になれば外国人を一斉摘発しても元の木阿弥という事になる。
「つーかさ、気になってたんだけど、このエグいビデオって他人に見せるのが目的なんだろ? ンでこんな凝った殺し方してんだろ? だったら視聴者がいるんじゃねぇか?」
健が指摘する。確かに他人に見せるつもりが無いのであればこれほど凝った殺し方をする理由が見当たらない。
「スナッフビデオの愛好者は世界中にいるからな……」
慶田盛が腕組みをする。
「最初は八人連続でアジアの労働者だった。次はブローカーだ。外国人の労働者の失踪が珍しくない事なのだとしても、日本人でしかも会社の社長というのはな」
清史郎は考える。単にスナッフビデオを撮影するというだけなら、残酷な話だが外国人労働者だけで良かったはずだ。
ここに来てヤクザを殺し始めたというのは一体どういう風の吹き回しなのだろうか。
「一応、外国人保護のNPOに連絡はとってある。矢沢組との兼ね合いはあるけど、摘発という事になったら保護する段取りはできているよ」
先手を打ったらしい慶田盛が言う。
「矢沢組もこれ以上組員の死体が出ればなりふり構わないだろう。犯人だってその恐ろしさは分かっているはずだ」
「これってアレだな、ラットマンV��ジョーカーって感じだな」
健が緊張感の無い事を言い出す。
「犯人の行動指針が全く読めない。これで事件は完全に終わりなのか、続きがあるのか、その行方も分からない」
ラットマンがこの先も犯罪を続けるなら、警察の一斉摘発も空振りに終わるだろう。
そうすれば警察の面目は丸つぶれだ。
――犯人の狙いはそれなのだろうか――
だとしても根拠が薄弱すぎる。
清史郎は健と加奈を引き連れてビートルに戻った。
〈3〉
「ジョーク、頼みがあんだけどさ」
ビートルの車内で健が頼みづらそうに言う。
「何だ? 言うだけならタダだぞ」
「途中のホームセンターで石油ファンヒーター買ってくれ。外と室内とどっちが寒いか分からねぇし、指がかじかんでキーボード叩けねぇんだよ」
清史郎はため息をつく。寒いのは仕方ないにしても、キーボードの叩けない健は文字通りただ飯食らいだ。
「しょうがないな。まぁ、長く使うものだしヒーターくらい買ってもバチは当たらないか」
「やりぃ!」
健が嬉しそうに声を上げる。
「その分仕事もたくさんこなさないとね」
加奈の声も弾んでいる。
「所で健、さっきの話だが、誰かに見せる為に撮影したなら、その誰かを探し出すような事はできないのか?」
「ムリっす。動画配信だとしても、会員制になってるだろうし、そんなサイト幾らでもあるだろうし」
確かに健の言う通りだろう。発信者と受信者のどちらも分からないのでは手の打ちようがない。
「気になるんだけどさ、あのビデオライト当たってたじゃん? あれって相当強いライトなんじゃない? 芸能事務所が使うようなさ」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
確かに映像が鮮明過ぎた。普通のPCやスマートフォンのカメラで、普通の照明で撮影されたのであれば、あそこまで鮮明な映像にはならないはずだ。
「まさか……芸能事務所がそんな事をしてるとは思えないが」
「それは無いと思う。前に光源の話をしたと思うけど、芸能事務所やスタジオならレフ版とか使って光の当たり方を均一にするはず」
加奈がその可能性を既に考えていたのか意見を述べる。
「じゃあ、4KカメラをPCにつなげて強い光を当てて……って、投光器あんじゃん! 現場用の」
健が声を上げる。
「投光器ったって、ホームセンターで幾らでも買えるだろう?」
清史郎の言葉に健が肩を落とす。
ホームセンターで石油ファンヒーターを買い、ガソリンスタンドで灯油を買い込んで事務所に戻る。
前の石油ファンヒーターは五年頑張ってくれたがこれで引退だ。
「はあぁ~、生き返る。これぞ文明の機器」
健がファンヒーターの前で頬を緩ませる。
「あんたがそこにいたら室内に温風が回らないでしょ」
コーヒーを沸かしながら加奈が言う。
「少しくらいいいじゃねぇか。減るもんじゃなし」
「ったく、事件の事も考えてよ。ジョーカー、何か分かった事無いの?」
「ブレーキ痕があったくらいだよ。深夜とはいえ急いでたみたいだな」
「フューチャー人材ネットに的かけてるとか?」
健が席に戻りながら言う。
「それは昨日話したし、それなら外国人労働者を殺している理由が成り立たない」
加奈が冷静に言う。
「誰かがフューチャー人材ネットの不正を暴こうとしてる」
「その為に殺人をも厭わないというのは、正義を働こうとしている人間のする事じゃないだろうな」
清史郎は健の言葉をやんわりと否定する。
「何か良く分からない事件よね。殺人にはすごく凝ったり、痕跡にはすごく気を使ってるのに、殺す相手は行き当たりばったりみたいな」
加奈の指摘は的を得ているかも知れない。
被害者が外国人労働者だけで、これまで通り死体を残さないのであれば事件にすらなっていなかったはずだ。
それが日本人の被害者が出て、スナッフビデオまでが現場に残された。
しかも二人目の日本人はブローカーの社長で、裏のビジネスを知っていたとするならヤクザだという事も知っていたはずだ。
それならばその報復が半端なものではない事は簡単に想像がつくだろう。
「犯人の目的ってそもそも何なんだろな。スナッフビデオで儲けるっつっても、普通に売れるような代物じゃねぇんだろうし、性別だってバラバラだろ? エロビデオなら大体若い女の子じゃね?」
健が首を捻りながら言う。確かに言われてみればスナッフビデオとして売り出すとしても客層はネズミを使った殺人方法にしか興味が無い事になる。
それでは商売にならないだろう。
「大量のネズミを飼ってるんだ。コストや隠し場所も馬鹿にならないだろう」
清史郎は脳裏に新庄市の地図を描きながら言う。
機材も使っているのだし、どこかに手がかりがあるはずだ。
清史郎が考えあぐねていると電話の呼び鈴が鳴った。
「お電話ありがとうございます。三浦探偵事務所飯島でございます」
加奈が電話を取って言う。
「はい、三浦ですね。少々お待ち下さい」
加奈が受話器を置いて清史郎に顔を向ける。
「工科大学の柴田さん」
清史郎は受話器を取る。
「三浦です。何か分かりましたか?」
『参考になるかどうかわかりませんが、興味深い事が分かりましたよ』
「どんな些細な事でも結構です」
『トウモロコシ何かの穀物の微粉が検出されました』
「それはどういった意味になるのでしょうか?」
『あくまで仮説ですが、犯人はネズミを飼育するのに犬の餌を使っているんじゃないですか? 他にもそれを示唆するような牛骨粉も検出されています』
現場に関する証拠は見つからなかった。
――しかし……犬の餌か……――
これまたホームセンターで簡単に手に入る代物だ。
「ありがとうございます。また何か分かりましたら教えてください」
清史郎は通話を切る。
「ジョーカー、何だって?」
「犬の餌が検出されたんだそうだ。犯人は普段はネズミに犬の餌を与えてたんだろうな」
「餌ならホームセンターで買えんじゃね?」
「ちょっと待って、ケージはどう? あれだけたくさんのネズミを飼っておけるケージは相当大きいか幾つかに分けられているんじゃない?」
加奈が言う。確かに狭いケージに肉の味に慣れたネズミを押し込んだら共食いをする事だろう。
「あ! 昔町の外れの方にデカいペットショップが無かったか? もう潰れちまってるけど」
「行こう」
健の言葉に清史郎はビートルの鍵を手にする。
ようやく手がかりらしい手がかりが見えて来たようだ。
郊外型の大型ペットショップは廃棄されたままの姿で佇んでいた。
正面のガラスが近隣の悪ガキの悪戯で割れており侵入が困難という事は無い。
スナック菓子の袋やペットボトルが散乱しているが、どれも古く最近のものでは無いようだ。
ここでかつて何が行われていたかは考えるまでも無いだろう。
「汚ぇトコだな。ま、誰も掃除なんかしやしねぇんだろうけどさ」
健がぼやきながら先に進んでいく。
清史郎はポケットから取り出したマグライトで床を照らす。
床にはホコリが溜まっているが、何者かが侵入したような形跡がある。
――当たりを引いたか――
「見てジョーカー、バックヤードにだけ新しい鍵がついてる」
清史郎は加奈の言葉を受けてバックヤードの観音開きのドアにライトを向ける。
取っ手に鎖が巻き付けてあり南京錠でロックされている。
「それじゃあお宝を拝見するとするか」
清史郎にとって南京錠などは鍵とも言えないものだ。
ピッキングツールで難なく開いたドアを開けて中へと足を踏み入れる。
瞬間、小便を腐らせて煮詰めたような強烈な臭いが鼻を突く。
「うげっ! 何だ? この臭い」
健が顔を背ける。
「嫌な予感しかしないんだけど」
口を押えた加奈が言う。
清史郎は袖で鼻と口を押えながらマグライトでバックヤードを照らす。
が、そこにはがらんとした空間が広がっているだけだった。
……床の汚泥のような物体以外は。
「何も無ぇ……てか、これ……」
「ネズミの糞だろうな。飼い主は閉じ込めておくのに耐えかねたんだろう」
バックヤードでケージを積んでネズミを飼っていたのだろうが、飼い主の方が臭いに耐えかねる状況になったのだろう。
「この臭いじゃ毎回運ぶ気にもならない……ジョーカー、床に引きずったような痕がある」
加奈の言葉にマグライトを下に向ける。
確かに汚泥が削られたようになり、ケージを引きずり出したような痕がある。
犯人はネズミのケージをここからもっと風通しのいい所に移動させたのだろう。
「何だよ。また振り出しに戻るのかよ」
「いや、これで犯人がネズミを飼育していた事は判明した」
清史郎は健に向かって言う。
「犯人はどこに消えたのかしら? たくさんのネズミを飼っておける場所って……」
「郊外に出れば廃屋なんて幾らでもあるし、廃棄された養豚場や養鶏場もあるだろう」
清史郎は郊外の様子を想像しながら言う。
新庄市の北部の山林地帯にはかつては多くの畜産業者が存在していた。
その残骸の多くはハイウェイを通る時に見る事ができる。
「一軒一軒回るのか? このクソ寒いのに?」
「寒いのはともかく、当てもなく山を探し回っても拉致が明かないんじゃない?」
「警察なら人海戦術でやるんだろうな……」
清史郎はひとまずペットショップの外に出る。
寒空だが悪臭の中に比べると北風の方がマシに思える。
「ジョーク、何か案は無ぇのかよ」
「あんたこそ空撮とか何かできないの?」
「googleearthだってそこまで精密には見れねぇよ」
健の言葉を清史郎は反芻する。
犯人も忘れ去られたような施設まで把握はしていないだろう。
だとすればハイウェイから見えてなおかつ、一般道では入り込めない場所という事になる。
更に移動に軽トラックを使っている事から、車の乗り入れのできる場所という制限も付けられる。
「とりあえず、ハイウェイから入っていける横道を探した方がいいだろうな。もしこの犯人が利用している施設ならネズミの糞が乾燥していない事から、最近場所を移動したんだろう。だとすれば脇道を封鎖する私有地の看板みたいなものは新しいはずだ」
「なぁるほど、確かに。でも、誰かの家に出ちまったらどうなんだ?」
「聞き込みに来たって言えばいいじゃない」
健に答えて加奈が言う。
「じゃあドライブに行くとするか」
清史郎はビートルの後部座席に健を乗せると運転席に乗り込んだ。
〈4〉
「どーせ森林浴するなら秋とかのが良かったんじゃね?」
幾度目かの横道を試す中、健が愚痴をこぼす。
街乗りの車として作られているビートルは車高が低く、エンジンなどは新型に換装してあるが底がこすれ振動もひどい。
岩で車体の下を破壊されたら帰る事もままならない。
「森林浴ってどっちかって言うと夏じゃない?」
加奈が健に向かって言う。
「だって夏の山って蚊が出るじゃんよ」
「あんたって本当にアウトドアに向かないわよね」
「海には行きたいぜ。目の保養に」
健の言葉に加奈がため息をつく。
ハイウェイからの脇道は意外に多かったが、多くが途中から藪に包まれていた。
まともに通れた道もあるが、高齢者の農家が猫の額のような畑を耕しているだけだった。
「ジョーカー、私たちで人海戦術は無理があるんじゃない?」
加奈の言葉に清史郎は山道の中でブレーキを踏む。
ビートルの新型のエンジンの振動が静かに車体を震わせる。
「確かにそれはそうなんだが……」
「もう少し条件絞った方がいいんじゃねぇの?」
健の言葉に清史郎は考える。
私有地の新しい看板は想像以上に多かった。
恐らくは土地の相続が難しく売りに出されたものだろう。
農家もそれとほぼ同数存在している。
――だとすれば――
「健、不動産で売り出されている土地の情報と、農協に作物を収めている農家のデータを検索してくれ」
「不動産はネッ���見れば分かるけど、農協には何の仕掛けもしてないし侵入できないぜ?」
健が答える。健はITの天才のように見えるが、種と仕掛けが無いと普通のITボーイなのだ。
「近くの農協に仕掛けてくれればやるけど」
キーボードを叩きながら健が言う。
「いいわよ。こっちで直接電話で聞くから。新庄神谷の田舎なんてそんなに人が住んでないでしょ」
加奈がスマートフォンとシステム手帳を広げて言う。
「じゃあ、俺は一旦ビートルを戻してコーヒーでも買うか」
清史郎は近場のコンビニに向かって車を走らせた。
「で、不動産で売り出されている土地を除外して、農家も除外した結果がこれ」
コンビニの駐車場で健が地図を表示する。
地図が色分けされ、幾つかの空白地帯が出現している。
「土地って言っても宅地と農地と山林を省いて、酪農? 的な所は空白のままにしてる」
「昔酪農をしてた農家があったんだって。丁度この辺」
加奈が地図の一点を指さす。
二人はほぼ条件にそってターゲットを絞り込んでいたらしい。
「じゃあラットマンとご対面と行くか」
清史郎はビートルを発進させた。
黄色いプラスチックの鎖を外し、立ち入り禁止の看板を無視して山道にビートルを乗り入れる。
まだ新しい轍が山の中へと続いている。
「なんかそれっぽくね?」
「でもジョーカー、犯人がいて、武器とか持ってたらどうするの」
「そういう時の為にくぎ抜きがあるんだよ」
「頼りねぇなぁ、モデルガンでも持って来れば良かったじゃねぇか」
「ああいうのを持ち歩いていると職質された時に面倒なんだよ」
清史郎がビートルを走らせていると、林が開けて納谷と牛舎が姿を現した。
エンジンを停めて外に出てみる。
納谷を後回しにして牛舎を見るが静まり返っている。
が……
「あったぜ! ジョーク、ネズミの糞だ!」
牛舎の床の部分に大量のネズミの糞が散らばっている。
「ジョーカー! こっちに犬の餌がたくさんあるよ」
納谷を覗いていた加奈が言う。
「よっしゃあ! ラットマンのアジトを突き止めたぜ!」
健がガッツポーズを取る。
「だが、ネズミがここにいないという事は、犯人は次のターゲットを既に拘束している可能性がある」
清史郎の言葉に健と加奈が目を見開く。
「おそらく窓の無い遮音性の高い部屋を幾つか確保しているんだろう。一日二日ならネズミに餌をやらなくても死にはしないだろうしな」
清史郎はスマートフォンを取り出して緒方をコールする。
『緒方だ。捜査に進展はあったか?』
「犯人がネズミを飼っていた場所を確認した。が、今は運び出されている。恐らく次のターゲットを拘束したか、そうでなくても狙いを定めたんだろう」
『仕事が早くて助かる。こっちは組員の点呼を行う』
「外国人労働者の方は?」
『フューチャー人材ネットの社長と社員が死んだんだ。手を回せる状況ではない』
組関係者が立て続けに死んでいるというだけで緒方は手一杯だろう。
「とりあえず地図は送る。犯人が来たら捕らえられるようにしておいてくれ」
『捕らえるだけで済めばいいがな』
緒方が通話を一方的に切る。
清史郎は現場の写真と地図をメールに添付して送る。
「ヤクザが味方ってのは心強えな」
「裏を返したら失敗したらタダじゃ済まないって事でしょ」
「とりあえず事務所に戻ろうか」
清史郎はビートルに足を向けた。どの道ここに留まっていても何かができる訳ではないのだ。
〈5〉
「NPO法人ジャーニーオブアースの高田美恵と言います」
四十代のキャリアウーマン風のスーツ姿の女性を前に、緒方は戸惑いを感じていた。
ラットマンの事件がようやく片付きそうだと言うのに、どんなトラブルが舞い込んだのだろうか。
「慶田盛弁護士からこちらで違法に働かされている外国の方がいらっしゃるとか」
「ウチはただのケツモチでビジネスは企業がやっています。我々が直接関与している訳ではありません」
「それならばどうして外国の労働者に続いてそちらの企業舎弟の方々が殺されたのですか? 無縁という事は無いはずです」
頑として引き下がらない様子で高田が言う。
「だとして一体どうなさりたいのですか?」
緒方は尋ねる。NPOなどという胡散臭いものがヤクザに一体何の用があると言うのか。
「我々は国内の外国人の人権を保護しております。滞在に違法性がある場合、また、行政が適切な援助を行っていない場合、司法的手続きによって人権と合法的滞在を要求します」
面倒くさい相手だと緒方はため息を押し殺す。
外国人ビジネスはそこそこの収益率がある事と、麻薬の生産地である現地との繋がりもある事から簡単に手を引く事はできない。
――フューチャー人材ネットを切るか――
フューチャー人材ネットで管理している外国人はせいぜい二百人といった所だ。
だが、二百人も司法で戦うという事になればNPOも音を上げるだろう。
「いいでしょう。我々の知る限り、外国人労働者のデータをお渡ししましょう」
言って緒方は若い衆にフューチャー人材ネットの裏帳簿を持ってくるように命じる。
――矢沢組はここの所踏んだり蹴ったりだな――
「ニャンさんとの面会も上手く行ってね。不法滞在の外国人の滞在許可を正式に取得する為にNPO法人に依頼したよ」
事務所に戻ると早々に慶田盛がやって来た。
「不法滞在者の弁護なんてできるものなのか?」
慶田盛に椅子を勧めながら清史郎は訊ねる。
「そこが法の難しい所だ。パスポートはあるがビザは無い。本来強制送還という所だが、強制的に働かされており、今後も働かされる予定が存在し、生活の基盤も日本に存在している。と、なれば彼らの人権を守る為に裁判をすることはやぶさかじゃない」
慶田盛が加奈の淹れたコーヒーに口をつける。
「今後も、と、言うが、フューチャー人材ネットは社員に続いて社長が殺されて運営が危うくなっている。緒方は会社を捨てるかも知れないぞ?」
「日本で働いていたなら、本来労基法が適用される。それが無視された状態で働かされていたなら、当然順守が求められる。フューチャー人材ネットが倒産したとしても、就労実態があったとして国は失業保険を支払わなければならないし、フューチャー人材ネットも相応の保証金を支払わなければならないだろう」
そもそも、と、慶田盛は続ける。
「日本国憲法の基本的人権という考え方は国籍を問うていないんだよ。帝国憲法は臣民の、と、書いてあるから明らかに天皇の主権統治下にある、と、読めるけど現在の日本国憲法はそうじゃない。一九七九年、最高裁のマクリーン判決でも憲法第三章の基本的人権の保障は在留する外国人に等しく及ぶべしと言っている。判例が前例として存在するんだ」
慶田盛が全員に聞かせるようにして言う。
確かにその通りなら不法滞在などという言葉そのものが違憲という事になるだろう。
「これは一九四八年の国連の世界人権宣言でも批准されている事で……」
「言いたい事は大体分かった。要するに人類皆兄弟という事だろう」
「まぁ、それが理想ではあるんだけどね。最近は何かと閉鎖的になって来ている気がしてね」
やれやれと慶田盛が肩を竦める。
「とにかく、外国人の保護はNPOに依頼したから何とかなるだろうし、法廷闘争という事になれば僕の出番だし何とかなるよ」
言ってコーヒーを飲み干した慶田盛が席を立つ。
「ニャンさんの容疑が晴れそうだと思ったらまた地裁だよ。じゃあな」
慶田盛が嵐のように事務所を去っていく。
「慶田盛のオッサンって法律の鬼みてぇだな」
「だから法の番人なんだろ」
健に答えて清史郎は言う。
「不法滞在の人たちの弁護なんかしてお金になるの��な……」
「なるようなら俺たちだって���っといい暮らしをしてるだろうさ」
加奈の言葉に清史郎は苦笑で答える。
慶田盛弁護士事務所と三浦探偵事務所は利益度外視が持ち味なのだ。
『組員は厳戒態勢だ。ラットマンのアジトも確保した』
スマートフォン越しに緒方が言う。
『に、しても会社一つ取られるとは思ってもみなかった』
緒方の言葉は苦い。どうやらフューチャー人材ネットの外国人労働者は慶田盛が解放する形になったのだろう。
「太っ腹だと思われた方が近所受けはいいんじゃないのか」
清史郎が言うと苦笑が漏れる。
『震災の炊き出しの方が余程いい宣伝になる。まぁ、これでラットマンを仕留められれば意趣返しにもなるんだがな』
緒方が好戦的な口調で言う。不法滞在者でスキャンダルを抱え、組員を殺された事で怒りのベクトルがラットマンに向いているのだろう。
に、しても、と、清史郎は考える。
矢沢組が総力を挙げるという事は矢沢組の中にはラットマンはいないという事になるのでは無いだろうか。
だとすれば畑中の事件のタイムラプスビデオのトリックが仕掛けられない事になる。
矢沢組の外の人間で三浦探偵事務所以外にハッキングを仕掛けている所があるとは思えない。
「警察に突き出すつもりなら殺さないでくれよ」
清史郎が言うと小さな笑い声と共に通話が切れた。
第三章 ジョーカーVSラットマン
〈1〉
十二月五日。清史郎は目覚まし時計で六時半に起きると地元のニュースにTVのチャンネルを合わせ、玄関に新聞を取りに言った。
『……速報です。本日午前六時新庄市警組織対策本部長が惨殺体が発見されました。新庄市警は連続殺人事件との関係を捜査中としており、同一犯の場合フューチャー人材ネットを狙った二つの殺人に続く第三の殺人であるとして捜査本部を設置し……』
「何だとぉ!」
清史郎は思わず声を上げた。
ヤクザが厳戒態勢の中、ラットマンは市警の、それも最もヤクザと緊密な組織対策本部長を狙ったというのか。
ヤクザが警戒しているから警察を狙ったとでも言うのか。
――そんなバカな話がある訳が無い――
清史郎はワンルームの室内を動物園の熊のようにうろつき回る。
昨日ラットマンはネズミを運び出していた。
ラットマンは昨日の時点でターゲットを捕捉していたのだ。
と、言う事は最初から狙いは警察の組織対策本部長だったのだ。
――何故組対なんだ?――
ヤクザを庇っているように見えたからか。
だがこの殺人は外国人労働者による殺人という文脈から完全に外れている。
ラットマンの狙いは一体何だと言うのか。
清史郎は身支度を整えると事務所に向かう。
定時の九時を待たずに加奈と健が事務所に現れる。
「ジョーク、ラットマン何考えてんだよ?」
健が訳が分からないといった様子で言う。
「それが分かれば苦労しないし、この事件も起きていない」
「ヤクザの守りが固いからって言っても市警の組対本部長も相当よね」
加奈が言う。個人としては狙う事もできるだろうが大物と言えば大物だ。
「でもこれで外国人労働者の線は完全に消えた事になる」
清史郎は言う。外国人労働者が無差別に狙ったとして市警の組織対策本部長に当たる可能性は限りなく低いからだ。
「現場にはやっぱりお巡りがいっぱいいんのかな?」
「そりゃ、警察は警官が殺されたら本気になる組織だからな」
清史郎は健に答える。警察は民間人の被害者には冷淡な事が多いが、身内の警察官となると目を血走らせて犯人を追いかけるものなのだ。
「何か納得できない。今回の殺人も死体を見せつけた訳でしょ? ラットマンは外国人の時は見せつけるような事はしなかったけど、ヤクザから先はわざわざ死体を見せつけてるのよね? 何かメッセージがあるんじゃないのかな?」
「殺人ビデオを作ってたヤツがか?」
加奈の言葉に健が答える。
「それよりこれから市内は検問だらけの戒厳令みたいな事になる。ラットマンはアジトに戻るか高跳びしていないと逃げ場がなくなるだろうな」
清史郎は腕を組む。
「軽トラックにネズミ乗っけてれば簡単に見つかりそうなモンだけどな」
健が頬杖をついて言う。
「これが最後の犯行だとすればネズミを下水に逃がせばいいだけだ。ケージだって畳むなりプレスに紛れ込ませるなりすれば見つからないだろう」
「そっか……この殺人事件って、凶器は逃がせば消えるって事なんだよね」
「でもよ~、どういうミスリードなんだ? 全然繋がらねぇじゃんよ」
清史郎は冷えたコーヒーに口をつけて考える。
何かが引っかかる。単純だが、見落としてはならないもの。
矢沢組の玄関のタイムラプスビデオ、市警組対本部長。
――まさか――
「健、大日警備保障に警察OBがいるか分かるか?」
清史郎が言うと健が不思議そうな視線を向けてくる。
「大日警備保障は矢沢組のフロントだろう? で、警備会社とくれば警察OBの天下りだ。大日警備保障なら矢沢組のセキュリティも分かるだろうし、市警の組対本部長のスケジュールも手に入るかも知れないだろう? しかも大日警備保障はミンさんたちの寮を監視するみたいに事務所を構えていた。外国人労働者を監視するのが大日警備保障の役目だったとすればどうだ?」
清史郎が言うと健が猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。
「大日警備保障の人が外国人のスナッフビデオで小遣いを稼いでいて、それがバレそうになったからフューチャー人材ネットの社員と社長を殺した、って言うのは分かるんだけど、その後どうして警察の幹部を狙ったのか分からない」
加奈が首を傾げて言う。
清史郎にはその言葉に答える術が無い。
まだパズルのピースは穴だらけのままなのだ。
「従業員の三分の一は警察OBだぜ。ほとんどシルバーだけどな」
健がPCのディスプレイに一覧を表示させる。
「ヤクザと警察のパラダイスね」
皮肉るような口調で加奈が言う。
「大日警備保障の昨日のシフトは分かるか? なるべく現役に近いヤツで非番のヤツは?」
「新田卓ってヤツかな……警察を暴力事件でクビになって採用されてる」
健が履歴を表示させる。
新田卓三十四才。空手三段柔道五段。元警備部巡査部長。デモの警戒で出動中市民に対する暴力で謹慎。謹慎中にNPOの代表を襲撃して重傷を負わせて依願退職となっている。
「空手三段柔道五段じゃあ私らじゃあ手も足も出ないんじゃない?」
加奈が忠告するようにして言う。
三人がかりでも新田を捕らえるなどという事はできないだろう。
しかも現状ではただ怪しいというだけなのだ。
「新田の住所は分かるか?」
「もちろん。でもどうすんだ?」
「スナッフビデオを動画配信で売ったならPCに痕跡があるはずだろう?」
清史郎が言うと健が珍しく考えるような表情を浮かべる。
「新田本人がやったなら別にいいんスけど、新田が完全に肉体派で家にPCも無かったらどうすんだ? それに最初複数犯って言ってたじゃねぇか」
健の指摘に清史郎は額に手を当てる。
その可能性を忘れていた。
「新田のメールを覗く事はできるか? 組織的犯行なら組織が割れるかも知れない」
「もしかしたら組織だから組対本部長を消したのかも」
加奈が言うと健がさも人使いが荒いといった様子でPCを叩き始める。
「だが、普通組対というのは暴力団対策部の事だぞ?」
「それくらい知ってるってば。でも、暴力団の中の暴力団って事もあるじゃん?」
「それなら一昨日の時点で刑事部の風間が何か知っていても良さそうなものだろう?」
「風間から組対に話が行ったって可能性は?」
「可能性はあるが、それならどうして風間を殺さなかったんだ? ラットマンを追う可能性があったのはあの時点では風間だったんだぞ?」
清史郎が言うと突然健が触っていたPCから『君が代』が流れ出した。
「何だ? どうした?」
清史郎が言うと健がPCの音声をミュートにした。
「新田は愛国防衛戦線って団体の構成員だったみたいだ。これサイトな」
画面上では日章旗がはためき、スナッフビデオへのリンクも張られている。
「こいつらが外国人を殺してたっての?」
加奈が声を上げる。
「でも、それがどうしてヤクザを殺す事になった?」
清史郎は画面をのぞき込む。
『日本を愛し、日本を守る。汚らわしいドブネズミ、土人どもを取り除き、美しい日本を取り戻す。子供たちに残そう愛すべき祖国』
清々しい程のヘイトだがそれがこの団体のスローガンであるらしい。
「これを素直に読むと、外国人を呼んでくるヤクザもターゲットになるって事じゃない?」
加奈の言葉に清史郎は虚を突かれる。
そこまで短絡的だったとするなら、フューチャー人材ネットを襲った惨劇には納得が行く。
しかし、警察の組織対策本部長を殺した事には依然として結びつかない。
「健、この組織の構成員何かは分からないのか?」
「これ、ロシアのサーバーに作られてんだ。結構腕のあるヤツが組んでるっぽいし、相手のIPアドレスを掴んだくらいで組織が割れるなんて事は無いと思うぜ?」
健の言葉に清史郎はスマートフォンを取り出して緒方をコールする。
『予想外の展開だな』
挨拶も無く緒方が応じる。
「一つ聞きたいんだが、愛国防衛戦線という組織に心当たりは?」
『右翼団体で最近はネットを中心に活動しているらしい。親は同じだが組が違うから詳細は分からん』
「お宅の大日警備保障の新田がメンバーだった。で、そのサイトでスナッフビデオが垂れ流しになっている」
『大日警備保障は確かに親は同じだが組が違う。だが、大日警備保障か……』
「心当たりがあるのか?」
『外国人に警備が必要だと言って頭超えてから割り込んできたのが大日だ。てっきり小遣い稼ぎをしに来ているものだとばかり思っていたが……』
緒方も知ってはいるものの詳細は分からないらしい。
『愛国防衛戦線は無動正義という男が代表を務めている……現在は新庄市に移り住んでいるらしい』
「その無動正義というのは何者なんだ?」
『ヤクザとしては三流だが、ネット右翼の最先鋒で荒しなんかで稼いでる男だ。与党を宣伝する書籍や中国や韓国を罵倒する書籍も発行している。最近は新しい道徳と歴史の教科書も作ってるそうだ』
緒方も何か調べているらしい様子で言う。
健が無動正義を検索してウェブサイトを表示する。
『愛国心』と大きく書かれた下に禿頭の男の写真が載っている。
よくよく見れば小さく愛国防衛戦線へのリンクも存在している。
「こっちでも確認した。一応文化人というカテゴリーには入れられているようだな」
与党側のご意見番といった形でTVやラジオにも出演しているようだ。
『矢沢組としては親に判断を仰ぐしかないな』
苦々しい口調で言って緒方が通話を切る。
「ジョーカーどうするの? 一応文化人らしいけど」
「やっている事は石器人並みだがな」
実行犯ではないにしろ、無動正義の指示で愛国防衛戦線と大日警備保障が動いた事は間違いないだろう。
「無動って野郎をふん捕まえて吐かせりゃいいんじゃねぇか?」
「大日警備保障を忘れないでくれよ。俺たちは探偵で警察じゃない。暴力じゃなくて知力で物事を解決するのが仕事なんだ」
「それには証拠を探さないとね」
加奈が応じて言う。
「見つけるべき証拠は殺害現場、軽トラック、ネズミが入っていたケージ、投光器、撮影用のカメラ。こんな所か」
「軽トラックなんて警備会社は幾らでも持ってんじゃねぇのか?」
健が言う。
「新田の事務所の軽トラックからルミノール反応が出ればビンゴだ」
「大日警備保障の事務所は市内だけで八か所だ。それにコーンを乗せて動いてるかも知れなねぇし……」
「殺害現場が一番動かぬ証拠なんじゃない?」
健に続いて加奈が言う。
「窓の無い部屋。地下室か、人の出入りの無い地下駐車場か……」
「それこそ検索できねぇよ」
キーボードに触れずに指だけ動かして健が言う。
「忘れてる。現場は水で流して掃除できないと血が残るって事」
加奈が言う。
確かに最初の頃の映像は床がフローリングのようだったが、途中からリノリウムのようになり、照明も明るくなっていた。
犯人グループは最初の頃の反省を踏まえ、条件のいい場所を探し当てたのだろう。
「ネズミをケージなりに戻す為にも密室が必要か……」
清史郎は頭を巡らせる。間口がかなり狭くないとネズミの大脱走が起きる事だろう。
そうすれば近所に知られる事になる。
そしてこれまでの被害者の住所から考えて市内にある事は間違いない。
「コンテナだ」
清史郎は言う。
「健、大日警備保障が警備している港のコンテナは分かるか?」
「なるほど、貨物のコンテナなら密室でライトを持ち込んだりすればそれらしくできるし、洗うのも簡単……」
加奈が言うと健がPCのキーボードを叩き始める。
「パシフィックアジアって貿易会社と契約してやがる」
健がgoogleearthで埠頭のコンテナを拡大する。
黄色の貨物コンテナが八基並んでおり、そのうち一つか幾つかが犯行に使われた可能性が高い。
「ジョーク、乗り込むのか?」
健の言葉に清史郎は考える。
鍵を開けて中を確認するにはピッキングをしなければならないが、昼間にそれをすることは困難であり、そもそも大日警備保障が警備をしているのだ。
新田に遭遇したら三人まとめてコンクリート詰めにされて、ドラム缶で海に沈められかねない。
やるなら夜だ。
現場を特定し、証拠を手に入れ、実行犯と無動正義を殺人容疑で起訴するのだ。
〈2〉
��深夜零時。清史郎は久々にジョーカーの衣装に身を包んでいる。
「僕は殺しが仕事で警護は仕事ではありません」
ボートの上でスーツ姿の円山が両手に手袋をはめたまま言う。
「致命傷を負わせて欲しいんじゃない、殺されたら困る」
「あなたは殺し屋を何だと思ってるんですか」
清史郎は今回の作戦に当たって円山健司に警護を依頼していた。
緒方に兵隊を借りるという方法も無くは無かったが、矢沢組は格上であるとはいえ、愛国防衛戦線と同じ指揮系統に属しており、いざという時にどう動くか分からなかったからだ。
健司と一緒にボートを漕いで岸壁に近づく。
夜でも尚荷物の積み下ろしのある港は多くのライトで照らされている。
大日警備保障のハイゼットが横付けされた黄色いコンテナがゆっくりと拡大されて来る。
「警備員……新田がいやがんな。こっちには気づいてねぇみてぇだけど」
「消して来ましょうか? 友達価格で一人五万円で手を打ちますよ」
健に答えて円山が言う。
「もっと高額でいいから目を逸らせてくれないか?」
「中途半端が一番難しいんです」
言いながら円山がアタッシュケースから花粉防止用のマスクのようなものを取り出す。
「円山くん、それ、何なの?」
加奈が訊ねる。
「入手に苦労しましたがクロロホルムですよ。マスクに染み込ませてあります。これをかけてしまえば当分起きる事は無いでしょう。柔道家や空手家と戦って勝てるなんて思っていませんから」
円山なりに気を使ってくれているらしい。
ボートが岸壁に近づき、積まれたパレット越しに新田の頭が見える。
「それでは先に僕が行きます」
円山が岸壁に腕をかけて身軽にパレットの裏に回る。
ポケットから昔のカメラのフィルム程の大きさのものを少し離れた場所に放り投げる。
瞬間、カメラのフラッシュのような光が瞬いた。
新田が確認するかのように動き始める。
円山が足音を殺して警備員の背後に回り込んでクロロホルムのマスクをかける。
新田が身体を捩り、円山がコンクリートの床の上を転がる。
新田が警棒を抜くと円山の手に拳銃が出現する。
新田が一瞬動きを停めたかと思うと膝から崩れ落ちる。
倒れた新田を円山がパレットの裏まで引きずってくる。
「その銃本物なのか?」
健が健司に向かって訊ねる。
「まさか。クロロホルムが効くまでの時間稼ぎですよ。僕はもう少し周囲を探って来ます」
健司がコンテナの影から影に移動するようにして姿を消す。
これほどの人間に一度でも命を狙われていたのかと思うと恐ろしいものがある。
「ジョーカー行きましょ」
作業員の服装の加奈が先に上がり、清史郎もそれに続く。
健は清史郎と加奈の頭と肩と胸についたカメラの操作が仕事だ。
清史郎は大日警備保障のハイゼットにルミノール反応液を振りかける。
死体はブルーシートか何かに包まれていたのだろうが、靴跡がくっきりと浮かび上がる。
足の大きさは二十七センチはゆうにあるだろう。
実行犯に新田が加わっている事は確定的だ。
続いて近場のコンテナの鍵を開ける。
最も近いコンテナの中は空だった。ルミノール反応も見られない。
続いて隣のコンテナの鍵を開ける。
真っ暗な洞のような室内を照らすが血痕らしいものも機材を持ち込んだ形跡も無い。
パトカーのサイレンが聞こえてくる。
――警察が来たならジョーカーの出番も無しか――
清史郎はパレットの影に戻って加奈と合流する。
やって来たのは覆面パトカーで、コンテナの前まで来るとサイレンを止めた。
運転席から風間刑事が出てくる。
周囲の様子を覗いながら一つのコンテナに向かって歩いていく。
スーツ姿の手にはラバーの手袋がはめられている。
――おかしい――
警察が来たなら何故一台、それも覆面パトカーなのか。
他に警官も居なければ何故両手にラバーの手袋をしているのか。
一番妙なのは……
風間がポケットから取り出したキーでコンテナの鍵を開けようとする。
「ホワイトクリスマース!」
清史郎はモデルガンのグレネードを抜いて飛び出す。
鍵を手にしたままの風間が振り向く。
「チックタックチックタック宝箱の中身は何でしょう!」
「ジョーカー! この道化が!」
鍵を放って風間が銃を引き抜く。
刑事は事件性が無い限り銃の携帯は許されない筈だ。
しかも手に握られているのは警察の正式拳銃のS&Wではなくトカレフだ。
轟音が響いて清史郎の耳が一瞬聞こえなくなる。
耳のすぐ傍を弾丸が通過したらしい。
清史郎はグレネードを構える。
「ラップトップデスクトップトーテムポール!」
清史郎が引き金を引くと花火が打ち出される。
花火がコンテナに当たり色とりどりの光を放つ。
「見かけ倒しか! 愛国無罪! 死ぬがいい!」
風間がトカレフの引き金を引く。
清史郎は死ぬ思いでコンクリートの上を転がる。
トカレフの装弾数は八。
二発使ったから後六発残っているはずだ。
轟音が立て続けに二回響く。
「トカレフモロゾフカラシニコフ!」
清史郎は目くらましに花火を放つ。
深夜の埠頭に水平に放たれた花火の光と轟音が響く。
続けざまに轟音が三回。
強運なのかどうやらトカレフの餌食にはならずに済んでいるようだ。
「我らの大義、邪魔はさせん!」
轟音が響き、続いてカチリという金属音が響く。
風間はトカレフの弾丸を打ち尽くしたらしい。
「外国人の悲運も今日は我が身、ラットマン! 貴様の命運もここまでだ!」
清史郎が歩み寄ると風間がS&Wを抜く。
「尽忠報国の志、英霊たちが共にあるのだ!」
リボルバーが火を噴く。
清史郎は反則だと思いながら再びコンクリートの上を転がる。
警察官として発砲したなら、一発一発まで報告の義務があるはずだ。
――それすら無視すると言うのか――
もう避け切れないと思った清史郎の周囲で銃弾が爆ぜる。
銃を手にした風間の足が二日酔いのように揺らいでいる。
瞬間、清史郎の目がコンテナの上に立つ円山の姿を捉える。
円山が花火と銃撃の間にクロロホルムを振りかけていたのだ。
揮発性の高いクロロホルムを吸い込んだ風間は意識を失いつつある。
「何故組織対策本部長を殺した?」
清史郎は歩み寄りながら訊ねる。
銃を構えようとした風間の手から銃が落ちる。
「薄汚いドブネズミ……土人どもの一掃作戦を無視したからだ。そもそも、最初のチンピラの死で新庄市の土人どもは一掃されるはずだったのだ。それを弁護士やら探偵やらが邪魔をしたのだ。土人を引き入れた悪逆非道のブローカーを殺し、土人の組織がやったのだと上奏したのに組織対策は受け入れん。だから殺したのだ。だが組織対策本部長が殺されたとあれば、土人どもが結託して美しい日本を汚そうとしている事を疑う者もいるまい。これから美しい日本を取り戻す戦いが始まるのだ」
意識朦朧としているせいだろう、聞いてもいない事までペラペラと風間が喋る。
「それは無動正義の指示か?」
「無動閣下は総理を代弁し天皇陛下の目を覚まさせる為に戦いを始められたのだ! 私のような一兵卒は臣従するのが……務め……というもの……だ……」
清史郎の前で風間が崩れ落ちる。
清史郎は風間の放った鍵を拾ってコンテナの扉を開く。
無数の歯ぎしりをするネズミの鳴き声が響き、ネズミのケージ、TVスタジオのような照明装置、そして殺された被害者が吊るされていた現場が姿を現す。
清史郎は健に映像と音声を切るように合図する。
「私は愛国という言葉が嫌いだから郷土愛と言わせてもらうがな、郷土愛っていうのは自分の国を移り住んだ人が住んで良かったと思える国にする事だ。他人に冷たい人間は自分にも優しくできない。誰かを迫害する人間に国を愛する事はできないんだ。覚えておけ」
清史郎は倒れた風間に向かって言う。
「ジョーカー、今の一言バッチリもらったから」
加奈が楽しそうに言う。
「動画配信する時は削除しろ。俺はジョーカーなんだぞ」
『言って無かったっけ。これリアルタイムで動画配信してんだ。しかもようつべとヌコヌコで』
イヤホンから健の声が聞こえてくる。
清史郎は顔から火が噴き出るような気分になる。
「だったらショータイムだ! これが愛国防衛戦線と大日警備保障の悪の城だ!」
清史郎はコンテナの照明のスイッチを入れる。
暗かった殺戮の舞台がステージのように映し出される。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
今度こそ警察の大群が押し寄せてくるのかも知れない。
『ジョーク、動画停めたぜ』
健が言うと円山が音も無くコンテナの上から飛び降りてくる。
「それではお暇しましょうか? 警察は厄介ですし」
「違いない」
円山が素早くボートに飛び乗り、清史郎は加奈が乗ったのを確認して乗り込む。
健がエンジンをかけて波を切る。
入れ違いになるように港に赤いパトライトを点滅させたパトカーの群れがやって来る。
パトライトの明かりが港の明かりに溶ける頃、清史郎はようやく詰めていた息を吐いてジョーカーのマスクを脱いだ。
「みんなお疲れ様だな。これで事件は一件落着だ」
清史郎の言葉に三人の笑顔が答えた。
エピローグ
「……被告はビザを有しておらず、六十日を超えて無許可で労働していたのであり、これは入国管理法違反に相当します。従って強制送還が適当であると検察は判断します」
検察が法廷で声を張り上げる。
「被告は六十日を超えて就労できるとしたフューチャー人材ネットの詐欺によって滞在したのであり、そもそもが入管で適切な説明を受けておりません。入管では入国目的を確認しているはずであり、六十日を過ぎて当人に確認を行わなかった入管に不備があるのでは無いでしょうか? 加えて被告は一日十八時間を超える労働に従事させられており、これは国籍を問わずに労働基本法違反に当たります」
慶田盛が答弁する姿を清史郎は健と加奈に挟まれながら眺めている。
「異議あり! 被告の労働条件は入管法とは関係ありません」
検察が慶田盛の陳述を遮る。
「異議を却下します」
「そもそも日本国憲法三条十一項の基本的人権は日本国籍保有者のみに与えられたものではありません。一九七九年、最高裁のマクリーン判決の判例を資料として提出します」
「異議あり! 弁護人の資料は時世にそぐわぬ古いものであり判例として相応しくありません。二〇一八年十月二日改正出入国管理法案を資料とし��提出します」
「異議を認めます」
「出入国管理法は出入国に関する法律であり、被告は既に国内で就労済みであり法の適用外であります。また弁護人は改正出入国管理法に対し、一九七九判決に基づき違憲審査を請求します」
慶田盛の言葉に法廷が騒然となる。
「一時休廷します」
裁判官が言って慶田盛と検察を呼んで法廷を出ていく。
「慶田盛のオッサンって弁護士なんだな」
「昔から弁護士だよ」
健に答えて清史郎は言う。
「何かドラマ見てるみたい」
加奈が呟く。
「私たちが風間や無動やらの事件を暴けなかったら、不法滞在どころか殺人容疑だったんだ」
「そう考えると俺たちすごくね。もっと注目されても良さそうだけどな」
「現場押さえて風間とやりあったのはあくまでジョーカーなんだから」
「へいへい、元優等生は言う事が一々真面目ですね~」
「うっさい!」
清史郎が二人のやり取りを聞いていると裁判官と慶田盛、検察が戻って来た。
「本法廷は被告に情状酌量の余地があるとし、在留カード取得の意志の有無を確認し、在留の意志のある者には発行するものとする」
裁判官が重々しい口調で言ってハンマーを打つ。
「これって慶田盛のオッサンが勝ったって事か?」
「概ね勝利って所だろうな」
「ミンさんたち幸せになれるといいね」
加奈が嬉しそうに言う。
「どうだかな。国籍があってもヒーター一つでひいひい言わなきゃいけない国だからな」
清史郎が言うと健と加奈が笑い声を上げた。
「と、いう訳でウチに入国管理官やら何やらが来て大わらわだ。こっちはシノギを一つ潰されたのに割に合わない話だ」
緒方は『殺し屋』のカウンターに座って焼酎を飲んでいる。
「それでも組員を殺した相手には意趣返しができたんでしょう?」
言って殺し屋円山がグラスを磨く。
「動画配信でジョーカーに全部持っていかれたよ」
組員に呼ばれて途中から映像を見ていたのだが、ジョーカーの一人舞台と言っても良かっただろう。
内密に知っていれば大日警備保障と愛国防衛戦線を締め上げて金を巻き上げられたのだが、これでは踏んだり蹴ったりのままだ。
「その割には嫌そうな顔をしていないんですね」
円山がいつもの笑顔のまま言う。
「欲の皮の突っ張った野郎はまだ見逃せるが、能書き垂れて悪さする野郎には反吐が出るんだよ」
緒方が言うと円山の笑顔の質が変わったように見える。
「ええ。確かに。だから僕も殺し屋であって殺人鬼ではないんです」
円山の言葉に緒方は久しぶりに笑い声を立てた。
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病床本丸のまんばくんと監査官さん
※刀剣破壊?描写あり(創作病気ネタ)※原作ゲームより遅いスピード感(まんばの極実装から数年経って聚楽第任務)※ちょぎくに※いつも通り人を選ぶ 「…また来たのか」「監査が仕事だからね」そう言って誰に断るでもなく国広の隣に深くフードを被った青年が座る。「…こんなところで監査か?」
「こんなところでも、本丸に登録されているんだよ」季節は秋、けれど縁側から見える紅葉は葉もつけていない。それもそのはずだ。本丸の土地はその主、審神者の霊力に拠るところが大きいのだから。黙り込んだままの国広に、耐えきれないと溜息をつき、青年、もとい長義はフードをとり仮面を外した。
しっかりと上げていた髪もくしゃりと手で梳いて崩してしまう。あまり堅苦しいのは趣味じゃない。もう一度溜息をつく。全くやってられない。縁側は相変わらず殺風景極まりないというのに、己が写しはいつもそこにいる。なんてことはない。この馬鹿は、来ない主の帰りを待っているのだ。
長義が初めてこの本丸に赴いた時、すでに主はおらず、極めた写しのみがそこにいた。「特別任務があるんだけど」「…すまない、ここにはもう、俺しかいない。主も不在で、本丸解体の許可も降りていない…任務の達成は困難だ」帰ってくれ、と言う国広の言葉に、長義は訝しげに眉を寄せた。
ほかの刀は、と尋ねれば、そこに、と国広は庭の一角を指す。土が盛られ、木の枝なんかを使った、いかにもな手作りの墓だった。主は、と次に尋ねれば、国広は静かに首を横に振る。考えうることを考えて、ひとつ仮説を思いついた。「…本丸襲撃にでも?」もしそうだとしたら、さすがに気の毒だ。
そう思えば、国広はそれにも首を横に振った。たしかに、あちこちぼろぼろの本丸ではあるが、襲撃を受け一振のみ残ったと考えるなら綺麗すぎる。そうして考えあぐねる長義に対し、国広は「…最初は千代金丸だった。熱を出して、しばらくしたら、本体から鉄の破片のようなものが…」と話を始めた。
聞けば話はこうだった。国広が修行を終えて、さらに少し月日が流れた頃、突然千代金丸が倒れた。はじめは疲れが溜まったのだろうと言っていた。事実、千代金丸はしばらく寝て、目を覚ました時には特に異常はなかった。けれど、その数日後、またも彼は倒れてしまった。
今度は戦場での出来事で、慌てて帰還し看病にあたった。審神者を勿論手を尽くしたけれど、今度は熱は下がらなかった。そこで、審神者は現世での治療を探すため、政府の元へ行くことを決め、本丸を離れることにしたのだという。しかし、その後主が戻ることはなく、千代金丸の熱も下がることがなかった。
次第に、まるで刃が溶けだすように、ぽたりぽたりと鉄が零れるようになった。そして、そのまま、本丸にいながらにして、彼は”破壊”されたのだという。鉄の破片を見た時あたりから、いよいよマズいと誰もが直感していた。そんな最中、次に同じ症状を示したのは南泉一文字だったという。
「…じゃあ、猫殺しくんの、も?」「猫…ああ…南泉か。…あれだ」国広は迷わず土が盛られ十字に木を束ねたところのひとつを指を指す。自分のよく知る政府で働く南泉はからかえば響く、あの姿の彼だ。だから、物言わぬ刀だったものが地中にあることには違和感があった。
一振り、また一振り、と、何も解決策が見当たらないまま、主不在の本丸に生存している刀はどんどん減っていった。薬研が診るには、主の霊力枯渇で免疫力の落ちた刀剣からかかりやすい、なんらかの伝染病なのではないかという見立てだった。半ば閉鎖された空間だからか、伝染病の類は特に感染しやすい。
短い期間で大勢倒れたわけではない、だが、少しずつ減っていく仲間たちの数に、危機感は覚えたが、止める術も持たない。八方塞がりだった。 「それで、最後に残ったのが初期刀であるお前というわけだ」「…そうだ」「…仕事だからね。お前に思うところはあれど、恨みはないことははじめに断っておく」
「報告なりなんなり、すればいい」どうせ、今の自分に出来ることもない。そう言おうと国広は口を開いて、まるで何も知らない長義に当たるような態度だと思い直し言葉を詰まらせた。「…もし、主に会ったのなら」「うん?」「主を、見つけられたのなら、どうかこのことは言わないでほしい」
「…このこと、って」「俺以外の皆がもうこの本丸にいないこと。俺がここにいること。その全てを…もう、主不在になったのは何年も前だが…一応、な」「…約束は、しないでおくよ」そう言って、初めて長義が本丸に来たその日に、長義は特別任務について何か話すということもなく、早々に本丸を出た。
もちろん、本丸の件については政府に報告をした。政府役員の新人と思われる若い男性は戸惑っていたが、彼の上司にあたる人物は驚く様子もなく、少し考え込んで、それから長義に何かのワクチンを打つようにと命じ、定期報告を任務とするようにと伝えた。
「…ワクチン?」「ああ、いや…放置本丸は衛生状態があまりよくないことが多いから、一応ね」「へえ…そう、”一応”、納得したことにしておいてあげるよ」と、そんな会話を経て、長義は二度、三度と、件の、自分の写し以外いない本丸へと、否応なしにおとずれることになった。
そうして、今日は4回目の訪問だった。相変わらず、閑古鳥すら鳴かない、しんと静まり返った本丸だ。門を叩いてみても反応はなく、まあいいかと無断でくぐる。長義が国広を探して本丸を彷徨いていると、ふと、何かが香った。「…そこにいるのか?」言いながら香りを辿った部屋を開ける。
開け放った部屋は無人だった。一人用の部屋の思われる部屋には、甘い香りのする香が炊かれていて、それ以外には簡素な文机と、敷きっぱなしの布団があった。丁寧に畳まれた単衣が枕元にあり、それから、かけてある刀は山姥切国広��った。
「…偽物くんの、部屋?」生活感のある部屋なんて、この本丸に��きっとひとつしかない。「でも、こんな甘い香り好むか?」ひとりそう呟いて、部屋を見回す。普通の部屋だ。長義くんは、そうして発見した半開きになっていた文机の引き出しを、良くないとは思いつつも、好奇心には勝てず開けてしまった。
中には、文を書くための一式が揃っている。便箋はいくつか使われていた。隣にある小さなゴミ箱をみれば、そこにあったのは丸められた手紙…だったものがいくつも捨てられている。書き損じでもしたのだろうか。長義がクシャクシャに丸まったそれのひとつをを開いてみると、
そこには『主へ』という文字から始まる手紙があった。手紙の中身は、どれも自分たちはまだ大丈夫だから、であるとか、今日は誰と何をした、であるとか、そんなささやかな内容と、自分たちの無事を伝える内容、主を気遣うような文面だけで、決してこの本丸で起きたことだと語ってみせた内容ではない。
「…これ、結局出したのかな」その問いに答える者はおらず、長義は文机の引き出しを閉め、元あったように痕跡を消して部屋を出た。 国広はその後すぐに見つかった。うっかり池に落ちてしまって、服を乾かしていたのだという。
夏だからマシだった、と言う国広に、長義は手紙のことについて聞くことなど叶わず、ただ、ぼうっとしているからだ、と軽く頭を小突いた。もう頭からは被っていない布に隠れていない右腕をあげ、額をおさえ、少し拗ねるような声で「痛い」と小さく零す国広に、長義は思わず笑ってしまった。
その時の次の訪問が、今日だったというわけだ。この本丸の監査、もっといえば、国広の様子を確認することが長義に課せられていた使命だった。だから、ぐるりと本丸をまわって、前回との違いを記録する(違いなどないが)。それから、国広を探して、変わりはないか聞く。
まるで診察のようだと思う。思って、訪問命令を出されたとき、同時に何かのワクチンだと打たれた注射のことを思い出し、思いすごしだと頭を振った。 「そういえば、お前、寒いのか?」「…なぜ?」「袖、おろしているから」通常、国広は袖を肘の辺りまで捲っている。そう、ちょうど自分と同じように。
国広は嘘が下手だ。口ではああだこうだと言えるが、真っ直ぐに向けられた瞳が揺れるから、すぐにわかってしまう。そんな雄弁な瞳が気まずそうに逸らされた。先日池に落ちたと言っていたし、風邪でも引いているんだろうか、そう考えるも、国広は先程から咳をする様子もないし、
ほかにも、典型的な風邪の諸症状のようなものはみられないような気がする。ずっと縁側にいるから判断しにくいが、恐らくふらついたりもしていないように見える。「…何か、隠しているね?」「違…、」そう言う国広が、分かりやすく、普段布に隠されている方の腕を後ろに隠そうとする。
長義はそれを見逃さず、すかさず掴みあげた。「や、め…っ!」「何も無いなら、見せられるはずだろう」振りほどかれないよう強く掴んだため、国広は痛みに僅かに表情を歪ませる。長義は、それには構わず、無理矢理掴んだその腕の袖を、思い切り捲りあげた。「…これは、」
驚き目を見開く長義に、国広は、まるで悪いことがバレた子供のように気まずそうに、罪悪感でたくさんになったように、目を伏せる。国広の手首よりも少し上の辺りまで、焦げたように黒ずんでいるのが、はっきりと長義の目に映っていた。
どうして隠していた、とは言えない。長義自身、はじめに”自分には報告義務がある”と言ってしまっていた。国広はそれを了承していた。長義としても、コソコソと嗅ぎ回るようなのは趣味じゃないし、それはそれで納得した、後悔などない行動だった。けれど、失敗だったかもしれない、とは思う。
国広のことだ、もしもこれがバレたら?報告次第で自分が政府命令での刀解処分になったら?どこからか探し出された主が処罰を受けたら?こいつが考えそうなことなんてそんなところだろう、というところまで思いついて、長義はここへ訪れるようになって何度目かの溜息をつく。面倒なことになった。
「…熱も、あるな」「…」「いつから」「…」国広は初期刀だ。けれど、だからといって、付喪神としてはなにも特別なんかじゃない。ほかの刀剣となにも変わらない。それならば、ほかの刀剣が失われたように、国広だって失われてしまうことは、なにも不思議なことじゃない。黙ったままの国広に、
仕方なしに質問を変える。「…これは職務質問だ、協力を要請する。最後のお前の仲間が破壊されて、何日だ」「……、お前が来る、5日前」僅か5日前。なぜ、彼が何年もひとり、ずっとここで待っているなんて思っていたのだろうか。強く掴んだため、脆くなった表皮が、ぱらぱらと黒い欠片を落としていた。
「…刀身崩壊症?」「俺達はそう呼んでる。直接その患者を診たわけじゃないから保証は出来ないが、旦那の言い分から察するに、恐らくこれだ」そう言いながら、国立の総合病院、そこに隠された時の政府用、もっといえば、時の政府が刀剣用に設立した病院に勤めている薬研は、
タブレット端末を操作し、長義に見せる。”刀身崩壊症”と見出しのついた政府運営のサイトだった。小見出しで、さらにいくつかの種類に分類されている。薬研はとん、とタブレットの一点を指し、話を続ける。「ついこの前まで難病指定になっててな。感染率も高けりゃ致死率も高い、
刀剣男士のみが罹患する病気だ。今は…っと、なんだ、旦那これの予防接種を受けてるじゃあないか。これ、最近急に研究が進んでな、旦那が受けた予防接種も、丁度今年、認可を受けた」「…じゃあ、治るのかな」「それは…俺には、答えられねえな。
医者として、そういう部分で不確実なことをいうわけにはいかない」「それもそうか…いや、いいよ。語りえぬものは沈黙せよ、というしね。相談に乗ってくれてありがとう」「もしできるなら、そっちの山姥切の旦那も連れてきてみてくれや。専門のやつを紹介できるようにはしておこう」
長義が礼を言って部屋を出てみると、目の前に南泉が待ち伏せていた。眠そうに欠伸をしていたのに、長義の姿を認めるなり、じとっとした目で長義のことを見つめてくる。長義に用があるのは間違いなさそうだった。目の前にいられては、声をかけざるを得ない。長義は軽く右手を上げて、南泉に近づいた。
「やあ猫殺しくん、何か…」「…さっき見かけたとき、様子が少しおかしかった、にゃ」「は?」今更なにを遠慮しているのか、と疑問に思う長義を見て、南泉は難しい顔をしてうー、と唸った。さっき見かけた時、たしかにすれ違いはしたけれど、それだけだった。急いでいたから。
そんなに顔に焦燥でも出ていただろうか。頭を軽くかいて、南泉はもう一度長義を見つめ、それから続けた。「ついでに…今も変な顔してる」「…変な顔だなんて失礼な」「お前の普段のオレへの態度に比べたら可愛いもんにゃ!…ったく…で、なんかあったんだろ?」「…なにか、ね」
言うべきだろうか、言わないべきだろうか。しばらく考えて、長義は無言で南泉の手を掴み、そのまま引っぱって病気の出口へと歩き出した。「え、おま、ちょ…っ」「少し、人のいないところに行こう。話がある…どうせ暇だろう?」「…だからお前、そういう態度、にゃ!」戸惑う南泉をよそに、
長義は迷いなく歩を進める。しばらく抵抗しようとして、結局諦めた南泉は、分かりやすく聞こえるように大きく息をついた。「はあ…ハーゲンダッツで手を打ってやる」「はは、時間に比べれば安い買い物だね」向かう先は資料室の方だ。 結局、ハーゲンダッツだけでなく飲み物も長義持ちとなった。
売店で売られているものを適当に買い、資料室近くの会議室に入る。長義は考える間もなく扉に手を翳し、政府の認証システムで鍵をかけ、「さあ座って」と南泉を椅子に座るよう促した。南泉はというと、「公私混同…」などと長義を疎んだ目で睨みつけたが、
なに食わぬ顔をした長義が「はい、約束の品。溶けないうちにどうぞ」とアイスを取り出すので、諦めて渋々促された椅子に座り、売店で付けてもらった木製のスプーンの袋を破った。 「椿5763本丸…?それって…」「そう、今俺が監査対象にしている本丸だよ」
「つまり、お前の監査対象になった本丸の主を調べろ、ってぇ?」長義の話は宣言通りの長話で、守秘義務もへったくれもないものだった。あけすけに自らの監査内容、命令を語る長義に、初めこそ呆れたものの、話を聞くうちに、何やら事態は思ったよりも深刻らしいことが伝わる。
それはそうだ、長義は確かに我が道というか、天上天下唯我独尊のようなところが見られるが、仕事は決して疎かにしない。…というのが時の政府公安部第二課に所属している南泉の、同じく時の政府の監査科に所属するこの長義に対する評価だった。
だから本来必要も無いのにぺらぺらと仕事のことを話したりはしないはずだ。話終えると、次に長義は「登録番号椿5763の本丸の主について、少し調べて見てはくれないか」と依頼までしてきた。「主の謀反ってところか、にゃ」「いいや、違う。どちらかと言えば、”ここ”の話」
南泉の予測に長義は首を振って、自らの左腕を指さす。南泉は何が何だかといった様子で眉を顰めた。「…にゃ、お前の腕?いけ好かない奴だけど、その点は信用してるぜ?」「それはどうも。でも今回はそうじゃなくてね、あの本丸に通うよう命じられた時に、俺は刀身崩壊症の予防接種を受けているんだよ。
感染症などの特定はなかった本丸で、難病指定にあったとはいえ、目立った流行もないこの病を、なぜあの職員は特定出来たんだろうね?」「ははーん、なるほど、にゃ。…わかった、引き受けてやる、にゃ。
ただし、今度焼肉奢れよ!」「ええ…もうアイス奢っただろう?」「お前のいうところの安い買い物に見合わない仕事なんだよ」「仕方ないなあ、食べ放題ならいいか。成果、期待して待ってるよ」 翌日。長義は監査対象本丸、国広だけがいる本丸へと赴いた。
今日は日取りでは訪問しなければならない日ではなかったが、薬研の言葉を伝える必要があると判断したためだった。「…政府所属の監査官だが」相変わらず、静まり返った本丸は、生きた気配がほとんどない。これだけ広い場所に、国広しかいないのだから当然だろう。
そして、国広が訪問者に対して少し反応が鈍いところはよく知っている。思えばこれも、熱があったから、そのせいなのかもしれない。…池に落ちたと言っていたのも、もしかしたら。そんなことを考えながら、縁側の方を目指す。国広の定位置だ。見つけた、と思った国広からは、やたらと甘い香りと共に、
煤けた戦場のにおいがした。「…偽、物くん?」「…ああ、長義か。前回来てからあまり間が空いてないようだが…何かあったのか?」「いや…」見れば、いつもは開けているジャージの上のほうまで、彼の脇差の方の兄弟のようにきちんと閉めている。思ったよりも、猶予はあまりないのかもしれない。
間に合うかどうかは分からないと言っていた薬研を思い出す。言わなければ。「…国広。聞いてほしいことがある…お前に関わる、重要な話だ」
※創作病名の名の通り、刀本体もキャラもあまりいい思いをしません。ここから先ちょっと描写注意。(最初言った通り話としては死ネタです) 「…長義、お前が何を思ってかは知らないが、俺を助けようと、この病を治そうとしてくれていることはわかった…だが…」「…手遅れ、だとでも?
そんなの、検査してみないと…」「…俺の部屋に入っただろう?少し開けていた引き出しがしまっていたからな。…ならば、その時に”刀(俺)”を見たんじゃないか」「…お前?」たしかに、山姥切国広がかけてあったのを見た。けれど、しっかりと確認まではしていなかったように思う。
あのときは、たしか、別のことに気を取られていて…弾けるように立ち上がり、長義の足は国広の部屋へと駆けた。なにも遠慮はなく、勢い任せに戸を開く。国広はついてくる様子はない。「…刀、に何が…」掴んだ刀は鞘におさめられている。そっと少し抜き出して、すぐに気がついた。
ぼろ、と何かが落ちた気がする。このまま刀を抜くのが怖くなって、長義は思わず鞘にしまい込む。この刀はもう、刀工の最高傑作としての形を成すことが困難になっていた。「…そん、な」ここまでの状態で、国広はなぜ人の身を保っていられるのだろうか。お守り?そんなはずはない。
これは戦ではなく、彼らは正確には”破壊”ではなく、刀剣に有るまじき死、”病死”だ。 縁側に戻った長義が国広に物言いたげな視線を寄越すと、国広はなんでもないように「見てきたのか」と告げる。「見てきたけど…お前、あれは…」「ああ、刀としては、俺はとうに助からない。
…ところで、お前は実戦部隊で隊長をつとめたことは?」「ある、あるよ…でもそれに、何の関係が」「簡単な話だ、近侍の命を解かれたならば、その瞬間、俺は破壊される。主の霊力の枯渇による自動解任でも、同様だが…早いか遅いかの違いだ」主不在の本丸は登録解除とならないが、刀剣数0の本丸は自動
で本丸登録を解除されてしまう。主戦力は刀剣達だからだ。戦力外の本丸はいらない、ということになる。だからこそ、部隊長だけは帰還できるように時間跳躍のシステムは作られている。「…お前は、主に帰ってこなくていいと言ってくれと言いつつ、なぜ主を待つんだよ」「…俺が、主のための刀だからだ」
国広を連れ出せなかった。長義の頭の中は、本丸から戻ってもその事でいっぱいだった。2日後、定期報告書を作成しながら次の手はないかと考える。あいつは、もう主が帰ってくるだなんて思っちゃいない。来るなと言ったのは仲間の死を、もう間に合わない自分を、主に見せたくはないからだ。
…あいつは、最初から主を待ってなどいない。主の霊力が完全に途絶えるのを、仲間達と共に、いや、仲間達の墓守として終わるのを待っているのだ…”主のための刀”として。近侍を命じられた状態で主がいなくなったから、最後まで���侍のして命を果たそうというのだ。
健気、といえば聞こえがいいが、長義にしてみればただひたすらに頑固、としか評しようがなかった。「くそっ…どうすればいいんだ、どうすれば…」「おい、山姥切!」「…え、あ…何、かな」「ずっと呼んでたのに気付かねえから…」長義が呼ばれたのに気づいてふと顔を上げると、
しかめっ面の南泉が立っていた。どうやらずっと呼んでいたらしく、長義は考え事をしていたと弁明する。南泉は「まあいいけどよ…」と長義を一瞥し、小声で耳打ちした。「…ここじゃだめだ、向こう行く、にゃ」
南泉が長義に先だって向かった場所は、資料室近くの会議室だった。南泉は政府職員用の認証システムを使用し、セキュリティレベルを最大にまであげる。長義が「公私混同だね」と呟くと「お前もやってたろ」と短く返された。互いにむかいの席に座るなり、南泉は早速本題、とばかりに話を始める。
「…まず、例の本丸と主について、いくつかわかったことがある、にゃ。これに調査資料はつっこんでる。…わかってると思うけど、私用の端末使えよ」そういって、端末用のチップを南泉は投げる。受け取った長義が明かりにそれを透かしてみせた。「…早かったね」「お前が急いでそうだったから、にゃ。
端的に調査内容を報告する。…まず、例の本丸の主は、1年前に亡くなってる…もともと身体があまり強くなかったらしい。最終的な死因は肺炎、にゃ。そんで、あの本丸についてだけど、お前の思った通りのことになってたぜ」「…サンプリング、かな」
「多分。順番としてはこう…まず、本丸内に刀身崩壊症に罹患した刀剣があらわれる」「…あいつは、千代金丸だったと言っていたな…それから次に…」「…、別に、オレは気にしねえよ。ここにいるオレ自身じゃねえし」「…そう」次が、南泉だったと言っていた。目の前の南泉にそれを伝えるのは憚られる。
南泉の方は察したらしく、長義に気遣うように声をかけ、本題に戻すぞ、とすぐに話題を変える。「それから、主は政府に報告したんだ。原因不明の状態で、本丸の刀剣が重傷…いや、重症の状態だ、と…それで、あの本丸は観察対象になった」この病気は、
ついこの前まで難病指定になっていたものだと薬研は語っていた。最近になって急に研究が進み、治るものになった、とも。「発症率もさほど高くない病気なのは?」「感染はしても、主の霊力が免疫のはたらきをするから、主が本丸に居続ければ発症しにくいんだよ…最初がオレや千代だったのは、その当時、
1番顕現が短い、つまり主からの霊力供給量が少ないからだろう、にゃ。まあとにかく、主はそれで本丸の任をとかれた。記録は断片的にしか残ってないから、細かい所まではわからなかったが…何十年経ったもんでもないから…誰かが消したな」
「ならば、おかしいだろう。あいつは、本丸自体は存続していると…」「お前から聞いてる。だから、ここからは調査報告じゃなく、オレの仮説になる…にゃ…あんま、こういうのには自信はねえけど…」「…いいよ、お前の見解を聞きたい」長義が促すと、迷ったように視線を動かしていた南泉は口を開いた。
南泉の仮説は納得のいくものだった。南泉の所属する第二課は、もともと監査の調査報告やその他機密文書の管理等を取り扱う課だから、こういうのは得意中の得意だろう。だからこそ、長義は南泉に依頼したのだ。渡された調査報告を確認しながら、長義は悪い事をさせたな、とひとり考える。
南泉はおそらく、持ち出し厳禁のものであるとか、そもそもアクセスを禁じられているようなところからこれらの情報を持ち出したに違いない。長義はそれも分かっていて南泉に依頼したし、南泉もあの様子ならば分かっていて引き受けた。それでも、一方的に巻き込んでしまったのは長義だった。
「…まあ、猫殺しくんなら上手くやるか」そうは言っても、過ぎたことは仕方がないし、やってしまったことは仕方がない。南泉なら何とかするだろうと結論付けて、長義は渡された調査報告に集中した。
南泉の見解の通り、恐らく、こういうことだろう。主は政府の元へ病状報告をした、政府はこの危険な病で戦力を削ぐわけには行かないから、主には自身の刀剣達を優先的に診ることを約束し、審神者としての職務を解任させる、
その際、何らかの方法で審神者がそのまま微弱な霊力を本丸に流し続けられるような仕組みにした。だから、緩やかにあの本丸の刀剣達は朽ちていった。そして、間に合わなかったのだ。予防接種の認可は今年といっていた。主が亡くなったのは去年だし、
国広もすぐに仲間の数が減っていったのではないと言っていた、そのうえで、最後の仲間は5日前だとも。恐らく、最後の仲間は初鍛刀あたり、彼らの発症は主の死後、霊力の供給が止まってからだ。その直後に、ワクチンがでたのなら?あの弱った本丸は、戦力外として、文字通り見捨てられたのだ。
助かるとはあまり思えない。けれど、何もせずに終わらせたくはなかった。あいつが行かないならせめてこちらで誰かを連れていけばいいのではないか、と次に長義が起こした行動は、知り合いの、信用のおける刀剣への依頼だった。南泉の時とは異なり、さすがに全てを話すわけにはいかないが、
ぼかして国広の状況を伝えると、石切丸は驚いた、と表情を変えて、しばし考え込む。そして、言いにくそうに口を開いた。「加持祈祷でも何でも、出来ることなら引き受けよう…けれど、私の専門は…病魔を切るために一番必要なものは、当事者の治したいという意志だよ」「あいつに、その意志はないと?」
「…それは、君が一番よく知っているんじゃないかな」石切丸は、長義の言葉に、言葉を選ぶようにそう告げた。「あいつの、意志…」そう呟いて俯いてしまう長義に、石切丸はなるべく優しい声色を作り、困ったように微笑んだ。「それでも良ければいつでも声をかけてくれ」
次に長義が行った場所は、最近南泉と同じ課に配属された白山だった。事情を話すと、「…南泉一文字が最近色々と調べていたのはそのことだったのですね」と納得したように答える。「あいつ…バレてるじゃないか」「いえ…これは偶然で…恐らく知っているのはわたくしだけかと」「…それでそのことは?」
「誰にも報告してません。…第一課の鯰尾藤四郎が以前、男には秘密がひとつふたつある方が輝くんだよ!と言っていたので、報告しない方が南泉一文字は輝くのだろう、とそう判断し、視界から外しました」「…よくわからないけど、黙っててくれたんだね、ありがとう」
「…?感謝をされることはしていませんが」疑問符を浮かべた白山に対して、長義は構わず、それで、と話を始めた。 「構いませんが…わたくしの持つ治癒は、あくまで”重傷”への効果…病に…それも、そのような特殊なものに、効果があるかは…」「…だよね、そう聞いてる。」掻い摘んだ話でも
実状をある程度理解してくれた白山は、石切丸とは違い、眉ひとつ動かしはしないものの、極めて真剣に、石切丸と同じように考え込んで、似たような答えを導き出した。「それに…病の治癒ならば、病院施設が最も確実性が高いはず」難しいのか、と尋ねる白山に、
治す意志がないと効果は期待出来ないかもしれないと告げる石切丸の言葉が重なった。そうだ、あいつは治そうとも思っていないんだ。もう間に合わないから、自分は本丸を不在にしたくないから。長義が項垂れると、白山は南泉を呼ぶかと尋ねる。長義はそれに首を横に振って、礼を伝えるとその場を離れた。
「…というわけだ、薬研」「って言われてもなあ、俺だって何でも治せるというわけじゃあない。言ったろ?治せるかどうかは病気の進行にもよるって」「ああ、わかってる。そのうえで、頼んでいるんだよ」「…あまり長い時間はいられない。向こうで大きな治療はできない、それでもいいなら時間を作る
…旦那が頭下げるなんて、滅多にないからな」結局、長義が最後に向かったのは、最初に国広について話をした病院だった。その一室にいる薬研を捕まえて、その後について話す。薬研も言葉を選んでいるが、長義には伝わった。もう、国広は助からない所まできているのだ。そんなのは
、刀本体や身体をみればわかっていた。そして、国広自身もそのつもりだ。そのうえで、診てほしいと長義は薬研に頼んだ。これは、長義のわがままで、利己的な願いだった。「時間は明日…手続きとか面倒だから、少し刀に戻っていてくれ。俺が隠していく」「ははっ、短刀はこういう時にいいな」
そうからっとした雰囲気で笑う薬研に、長義は待ち合わせ場所として人目があまりない裏門近くの茂みを指定した。
思ったよりも大荷物を持ってきた薬研を懐に隠して荷物を手に持つ。「…重い」「短刀の俺が持てる荷物だ、旦那、書類仕事ばっかりで体なまってるんじゃないか?」「トレーニングは欠かしてないよ、そんなことになったら山姥切の名折れだからね」懐にある刀と会話をしながらゲートへ向かうのは
何だか不思議な気分だった。一応小声で会話しているが、傍目から見たら独り言のように聞こえるかもしれない。それは嫌だな、と長義はぼんやり考える。ゲートまではすぐそこだった。手をかざして門を開く。「…それじゃあ、行こうか」長義はそう合図すると一歩踏み出す。ぐにゃりと世界が歪み、
思わず目を閉じる。慣れた感覚だ。そうして気付くと、何度も通っている本丸の前までやってきていた。 「…ついたよ」そう言って長義が短刀を取り出すと、それを媒介にして薬研が顕れる。薬研は大きく伸びをして、本丸の門を見た。「…あれが、例の?」「ああ」本丸の門の方を指して尋ねる薬研に、
長義は短く肯定する。なにかを言うまでもなく、薬研は長義に持たせていた荷物を手に持ち、「…確かにこれは重すぎたな」と呟いてから、迷いなく門をくぐる。長義はといえば、急に軽くなった体に気を取られ、薬研の後ろを着いていくように門をくぐることになってしまった。
「とはいえ、勇んで入ったはいいが、俺はこの本丸の構造知らないんだよな。奴さんの部屋は?」「部屋よりも…多分、縁側の方。いつもそこにいたから」「…本当か?刀身崩壊症はかなりの高熱と痛みを伴うから、そんな風当たりのいい所、避けそうなもんだがな」「物好きなんだろう」
縁側は本丸の門からは最も遠いところに位置している。他の本丸は必ずしもそうではないけど、この本丸はそういう造りをしていた。廊下を歩きながら、薬研となんとはなしにこの本丸について話す。いつもより少し早く定位置に着けるような気がした。「次はどっち曲がるんだ?」「そこの角を右に…、ッ!」
曲がったらすぐのところ、と言おうとして、目に入った光景に固まってしまった。続いて薬研もその光景を目にし、「何…ッ」と零すと、荷物を放り出して駆け足になった。国広が倒れていた。意識は混濁していて、薬研が何度も声をかけても意味のない言葉が僅かに漏れるだけで、
すぐに糸が切れるように意識が途切れた。「おい、水と、それから…まあいいその荷物の中にあるAってある箱全部投げてくれ!」「…っ、ああ」その様子を、ぼうっと見ているしか出来なかった長義に、薬研は声を上げる。すぐに我に返って、薬研の荷物からAと書かれている箱を取り出し、廊下を滑らせた。
「この場で何かするわけにもいかねえな、とりあえず冷やすだけ冷やして…っと、部屋は?!」「さっき通ったところ、入ってすぐの左側だ!そいつは俺が運ぶ、薬研は何か準備があるなら先に行っててくれ!」そう言うと、薬研は「頼んだ!」と言うやいなや、素早く荷物を持って来た道を走っていく。
長義も早く行こうと、国広を抱きかかえた。わかってはいたが、健全な成体の男性が持つ重さではない。それどころか、ちらりと見えた服の中、肩の辺りまですっかりと黒ずんでいる。少し触れた肌は異様に熱く、いつから、と考えそうになって、長義はその考えを振り払うように頭を振る。
今はそんなことを考えている場合ではない。薬研のところまでいかなければ。なるべく揺らさないように慎重に、けれどなるべく急いで、長義も来た道を戻り始めた。
「…あまり非医学的なことは言いたくはねえが、こりゃあこの山姥切の旦那、気合いだけで持ってると言っても過言じゃないな。本来ならここまで進行してたら、人の身は保てなくなる」部屋に連れ帰って、敷きっぱなしの布団に寝かせる。応急処置を施した後、薬研が国広を一通り診た。
長いような短いような時間が経ち、薬研は息をついて、長義にそう答える。「それじゃあ、やっぱり…」「ああ、はっきり言う…助からない」薬研の言葉はどこまでも真っ直ぐに長義を突き刺した。わかってはいた、自分もそのつもりだった。けれど、はっきり言われることでのショックはある。
「…そう」「さっきも言ったが、酷い高熱と酷い痛みを伴う病気なんだ。なにせ、刀本体ごと、自分が崩壊する病だから。だから、今は鎮静剤を打ってある…が、痛みを軽減することと病を治すことは当然別物だ」「…わかってる。ねえ、薬研…ここまで進行するのに、平均的にどのくらいの時間がかかる?
こいつは、いつからその”人の身を保てないはず”の状態だった?」「主不在の本丸での資料は…いや、旦那が知りたいのはそうじゃあないな」薬研は長義の問に資料をパラパラと捲りながら答えようとして、はた、と手を止める。それから、うーん、と腕を組んで唸り、「確証はないが…」と続けた。
「恐らく、3度目に本丸に訪れた時、その時には、もう限界だったと思う」「もう、結構前のことじゃないか…全く、頑固なやつ」言いながら、汗ばむ国広の長めの前髪をそっと避けてやる。まだ熱いが、先程よりは呼吸は落ち着いている。鎮静剤が効いたのだろうか。
けれど、それは国広を今の状態から根本的に回復させるものではない。もっと早くに気付いていれば?そういった後悔は山ほどある。時間の前には、あまりにも無力だった。「…ちょ、うぎ?」それからさらにしばらくして、国広の瞼が重たげ持ち上げられる。すぐに視界に入った長義の名を掠れた声で呼んだ。
「…っ、ああ、やっと気がついた、お前縁側の方で倒れて、」「…なんで、あんたが泣きそうになってるんだ」「なっ…」「よう、この俺とは初めましてだな、政府の持つ病院勤務の薬研だ。気がついたようで何より」国広を覗き込むようにしながら、思わず早口になる長義に国広は僅かに腕を持ち上げる。
思うように動かないのか、その手は結局途中で下ろされてしまった。国広の言葉に、長義が言い返そうとしたもころで、薬研が間に割って入った。「薬研、も…すまな、ここの薬研は…」「病気は誰のせいでもない、気にすんな。それに、この俺っちはこの通り生きてる、な?」国広は薬研の姿を認めると、
申し訳なさそうに目を伏せる。薬研の方は、国広の言葉を受けて、長義に対して南泉が言ったような言葉を言い聞かせるように続けて、安心させるように笑顔を作った。国広から返事を貰うと、さて、と薬研は国広に向き直る。国広も起き上がることが出来るようになったらしく、ゆっくり体を起こした。
「最初に謝るが、こっちの山姥切の旦那の依頼で、勝手に体の方を診させてもらった…結論をいうが、」「…構わない。どうせもう朽ちる身だ、最初からわかっていた」「…でも、出来ることはしてやりたいんだ、医者として長らく働いてると、命を奪う刀にも命を救いあげたいという感情が芽生えるらしい」
容態の説明から、何をどう診たのか、どんな処置を施したのか、そういったことを薬研は簡潔に語っていく。国広の方も静かにそれを聞いて、たまに相槌を打っていた。「…そうか、道理で身体が軽い」最後まで聞いて、納得したように国広は薬研にそう返す。鎮静剤の効果はかなり確かなものらしい、
と穏やかな様子の国広に長義は考えた。「…それと、俺からも」一通り話し終えただろう薬研に、長義の方も進言する。国広は何を言われるのか分からないようで、長義を見て小首を傾げた。「お前の本丸と、主のことだよ」「…主、の」長義の言葉を国広は確かめるようにたどたどしく繰り返す。
「ああ、酷な話だけど、お前の主は1年前に…」「長義、その話…あと3日、待ってくれないか」何を言われるかなど、分からないはずがない。けれど、国広はそういって、長義の言葉を制止した。どうしてでも今言わなければならないことではない。長義も納得して「わかった」と話をやめた。
「…それから、長義。これは俺のわがままだから、無理にとは言わない」「…いくらなんでも聞く前から無理とは言わないよ」「…あと3日、この本丸にいてはくれないだろうか」断る理由は、長義には見当たらなかった。
(毎度ほんと長くてすみません、あともう少しなので良ければお付き合い下さい) 「それで、俺はなにをすればいい?」薬研は国広に、3日分の鎮静剤をはじめとするいくつかの薬と、それから呼べばすぐに来るから、と言って連絡先を寄越したらしかった。連れてきた時に1人だったから、
一旦長義ごとゲートをくぐり、長義は本丸までトンボ帰りする。ふたりになった本丸の自室で、長義の帰りを待っていた国広に、長義はそう訊ねた。「…特別な何かが欲しいわけじゃない…ただ、お前のいる本丸というのを感じてみたかった」縁側に行きたい、という国広を立たせる。
背負う?抱きかかえてもいいけど、と言えば、途端に真っ赤になった国広は、もう歩けるから!と断った。縁側までの道を、引き摺るように歩く国広に歩調を合わせながら辿る。そのさなか、先程の答えなのか、ぽつりと国広が呟いた。そんなこと?長義がそう言おうとしたのが顔に出ていたのか、
国広は布を被っていた時の癖なのか、顔を下に向けて逸らし、手を持ち上げようとして下げた。「…迷惑、だろうか」「別に…それに、ここはひとりには広すぎる、とは思ってた」ついた縁側は、相も変わらず枯れた木々が殺風景な雰囲気を出していた。
「…南泉とは知り合いなんだろう?…見知った相手なら、会わせてやれれば…」「はは、あいつの事だから、お前にだけは絶対会いたくなかったとか言うよ」「…そうか」縁側からすぐに見えるのは数多ある手作りの墓だ。今にして思えば、国広はどうしてでもこれを見ていたかったんじゃないかと思う。
とはいっても、体を冷やすわけには行かないので、長義は自らのストールを国広にかけてやる。ついでに、先程見つけた厨から茶器を持ち出して、政府に戻った際持ってきた茶葉(とはいえティーバッグだが)を入れてお湯を注ぐ。国広に渡せば、きょとんとした目で長義と茶を交互に見つめた。
「お前が茶を淹れるとは思わなかった」「俺をなんだと思ってるのかな」「…山姥切長義だろう」「そういう意味じゃない」「…お前のいうことは難しい」「お前よりは平易なつもりだよ」言えば、そうだろうか、と考え出す国広に、これ以上付き合っても仕方がない、と長義は何でもない話に話題を逸らした。
「隣の部屋を使ってくれ」「隣?」「…主のいた部屋、だった。掃除はできる範囲でしていたから…少し、足りないと思うが、そこまで汚くもない…と思う」そういえば、この国広は近侍だったと言っていたな、と思い出した。
隣の部屋と言っても、中で繋がっている続き間で、廊下に出なくても行き来が可能になっているものだ。開けて確認してみるが、荷物が少ないこともあり、軽く見積っても1-2週間掃除をしていない程度と言った程度で、そこまで酷くは感じない。「構わないけど…戸はあけておいていい?」「…戸?」
「ああ、夜中に何かあったらすぐに気が付けるように」「…今までひとりでもやっていけた」「ふたりいるんだから、より効率的になるべきだよ」言いながら、長義は押し入れを開けて布団を敷きだす。頼ってくれ、とは言えなかった。言ってしまえば、国広は尻込みして頑なになってしまうだろうから。
手伝おうとした国広を止めて、もう一度、効率のために戸は開けるようにと説得した。はじめこそ渋っていたが、国広は押し負けて最後には「わかった」と頷いた。 長義の懸念とは裏腹に、夜間に特に何か起きたりはしなかった。翌朝、目が覚めると国広はもう起きていた。
布団から上体を起こして、薬研から貰ったのだろう薬を見ている。「…おはよう、それ、薬研の?」声をかけると、自分で言い出した割には長義がいることに慣れていないのか、少し驚いて、なぜか慌てるような素振りで薬を隠そうとする。すぐにそんな必要が無いことを思い出したのか、
薬の入った袋を横に置き、長義に挨拶を交わす。「俺には十分すぎる…」「何、風邪をひくとゼリーが冷蔵庫にあるのと同じようなものだと思えばいい」「…ふ、なんだ、それ…」「…うーん、人間の親子の慣習、かな」長義の言葉に、いよいよおかしくなったのか、国広は控えめに声をあげて笑いだした。
薬の効き目が余程いいのか、国広は容態が急に悪化することもなく、ただ長義の話を聞きたがった。いわく、本丸の外の話を長く聞いていないから気になる、とのことだった。「…もっと何がしたいとか、本当にないのか」「…最初に言っただろう。お前のいる本丸を見てみたかった…だから、これでいい」
話す合間に、あまりにも欲のない国広に長義は初日と同じ問いをかける。国広も、初日と同じ答えを用意してみせた。「明日で、約束の3日目なんだよ」「ああ、そうだな」「…ねえ、国広。俺は、お前を助けられるかもしれない方法を知ってる…いや、知っているというべきではないな、これは賭けだ」
長義がそう続けても、国広は黙ったまま、何も反応を見せない。こうなればもう、反応を窺うなんてらしくないことなどせず、全て言ってしまおう。長義は意を決したように深く息を吐き出して、吸い込んだ。「…俺を、主にする気はないか」
長義の考えは簡単なものだった。この病は霊力によっておさえることができる。だから、主が不在であり霊力が枯渇したこの本丸では止まることがなかった。ならば、もしも主が現れたなら?薬研には話すことはしなかった、南泉の調査資料では、この本丸の主は亡くなっているということが明らかだ。
主従の契約はとうに切れている。ならば、自分が主として、国広に霊力を供給出来れば、国広の病は奇跡的よくなる可能性があるのではないか、というものだった。 「…長義、は。長義は、俺達が死んだら…折れるのではなく、人の身として死んだら、どうなると思う」長義の提案に、
しばらく考えるような素振りを見せた国広は、やっと口を開いたかと思えば、まるで話の噛み合わないような言葉を紡ぎ出した。「…は?」「死というのは、無くなるということだと、思ったんだ。命を奪うことは出来ない、失わせることだけだ、と…ならば、失ったものはどこへ消える?」
「消える、質量がなくなるという話?それとも、もっと魂の部分についての話をしてる?」国広の言葉はまるで要領を得ない。長義が呆然としているにも関わらず、国広は構うことなく話を続ける。「なくなるまえに、証がほしい、と思ったんだ…だから、お前に頼みたいことがある」
「…っ、薬研!」「あいつの願い、聞いてやれたか」「何が願いだ、あんな、あんなの…っ!」翌々日、4日目。長義は早足で病院へと向かう。まだ早朝だ、患者などは誰もいないのを、政府権限で裏口から入った。薬研は朝早く起きるほうで、逆に夜は早々に帰ってしまう。だから、
今日ももうここにいるだろうという確信があった。予想通り、薬研はそこにいた。長義の姿を見ると、苦々しそうに表情を微かに歪ませる。「なぜ、国広に安楽死用のカプセルを渡した!」「…言ったろ、あの山姥切の旦那は本来ならいつ死んでもおかしくない。だが、だかな、診察時に言われたんだ、
”検体である俺が死ぬと、監視を行う長義に何か罰が下るのか”ってな!…知ってたんだ、あの本丸が、そういう風に利用されているんだろうってことは…けど、あの本丸に来たのが山姥切長義だったから…いや、違うな、お前だったから…!」なりふりを構ってはいなかった。
長義は薬研に半ば詰め寄るように近付く。薬研の方も負けじと長義を睨み返した。「だからといって、あいつに死を与えることが救いになるとでもいうのか!」「…俺もあの日聞いたんだよ!”主のための刀として朽ちること”だった、
それから、照れくさそうに”出来ることなら、この本丸で共に”と付け足したんだ…なあ、山姥切、そうだったんだろう?お前も、そう聞いたんだろう?!」「それは…」「…医療にはまだまだ限界がある…悔しいことにな。もう助からない患者にしてやれる一番のことは、願いを聞いてやることだ。
それが出来たなら、上出来だ」「そんなの、自己満足にすぎないじゃないか…」「ああ…だが、生者に墓��ない、だからこれでいいんだ」その場で項垂れた長義に、薬研はタオルを1枚取って投げ渡す。ばさりと頭からかかったタオルを気にする様子もなく、しばらくの間長義はその場から動こうとしなかった。
「よう、戦線復帰、ついでに本丸配属になるんだって?」「ああ、猫殺しくんの顔が見られなくなると思うと残念だよ」「オレはずーっと会いたくなかったんだけど、にゃ」あの日から、長義は暫くは本丸には行きたくない、と伝えて、裏方の仕事に徹していた。
要望は思ったよりあっさり通り(以前少し話したためか、石切丸や白山が口添えをしてくれたらしい)、書類審査や資料整理といった業務に明け暮れること2年、再び特別任務があるとのことで、久方ぶりに本丸監査任務への配属を希望したのだった。監査結果は上々で、明日から長義の配属先はその本丸になる。
幼い主と初期刀の陸奥守が中心となっている本丸だった。「…そういや、お前の配属になる本丸って、審神者がまだ歳若いんだったな」「…それがどうかした?」「いーや、泣かせんじゃねーぞ」「そんなヘマはしないよ…上手く立ち回るさ」手を振っていくつかの荷物を持ち、ゲートのある方へと向かう。
久しぶりに感じたぐにゃりと歪む視界に目を閉じて、開いたその前にあったのは、いつかとは少し違う門と、「待っとったぜよ!」と豪快に笑う陸奥守、それから賑やかな声、きっと審神者もまじっているのだろう、そんな声が聞こえる本丸だった。
「あれ、主…と、偽物くんは?」長義が本丸に配属されてしばらくたった頃だった。特に用事がある訳ではなかったが、姿が見えないとなんとなく気になってしまう。部屋で寛いでいる加州と大和守に聞けば、あっさりと答えが返ってきた。「主なら出掛けたよ、まんばはその付き添い」「陸奥守ではなく?」
「なんでも、まんばじゃないとダメな用事なんだって。政府からの要請でなんとかかんとかーって」「なんとかかんとかじゃわからないよ…」それこそ陸奥守の方が詳しいんだろうか、陸奥守もどこにいるのかいまいち分かりにくい。いつもあちこちを駆け回っているような気がする。
この本丸は主が幼いこともあって、色々と多忙だというのは、配属後に知ったことだった。「んーと、たしか、土地の相続?と、お墓参りとか言ってたよ、なんで山姥切…えっと、国広の方、あいつが関係あるのかは分からないけど」「土地相続?」なんでそんなことに国広が関係してくるのだろうか、
長義も不思議に思い、顎に手を当て考え始める。その瞬間、大和守の言葉に、「あー、そうそう、お墓参り!」と加州が声を上げた。「ちょっと声大きい!」「あ、ごめんごめん。でね、なんでも、主のお母さんも元審神者で、でもお母さん、主産んですぐに亡くなったんだって…それで、
主のお母さんの初期刀があいつだったから、主ってばお母さんにくーちゃんを会わせてあげるんだ!って」「そうだったそうだった。最初は俺よりも適任がーとか渋ってたけど、結局押し負けてたよね」「まあ、主には長生きしてほしいよなあ」「特に、僕らみたいな扱いにくい刀を使いこなす主には、ね」
長義の姿が見えているのかいないのか、ふたりはそのまま思い出話に花を咲かせようとする。これ以上話に巻き込まれてしまうのも面倒に思い、長義は「とにかくありがとう」と適当に切り上げてその場を離れた。
主と国広が帰ってきたのは夕方過ぎだった。帰ってきてすぐ、廊下をすれ違ったときに、ふわりと何か甘い香りが漂う。匂いのもとは国広の方だった。「…偽物くん?」「…写しは偽物とは…って何してるんだ!」長義は国広を呼び止めると、
常時纏っている布(この本丸はまだ修行に出た刀は0だった)を掴んで自らに寄せる。慌てる国広をよそに、長義の疑惑は深まっていく。「…ねえ、この匂いどこでつけた?」「…は?匂い?…今日言った場所は、本丸跡地と政府の霊園くらいだが…焼香ではないのか」
「違う…もっと、花のような…焦げたにおいを誤魔化せそうなくらいの…ああそうだ、これ金木犀の匂いだよ」どこかでこの匂いを強く覚えていた気がする。長義は思い出を手繰るように匂いのありかを探そうとする。…ひとつ、思い当たる節があった。けれど、とんだ偶然だ。ありえない、とも思う。
「…金木犀…そういえば、本丸跡地で香ったような気がする…おかしいな、何も無いはずなのに、やけにある部屋だけ香りがあった気がして…というか、急にどうしたんだ、怖いんだが…」国広の言葉に、ありえない、がひょっとしたら、に変わる。長義は国広の肩を思い切り掴んで続けた。
「…次、その本丸跡地にはいつ行くんだ」「次の週明けに…」「連れてってくれないかな、その週明け」「そういうことは俺じゃなく主…なら二つ返事か」「主には言っておくから」長義が肩から手を離すのを国広は呆然と見る。そのまま、一体急にどうしたんだろう、と去っていく背中を見つめて続けていた。
訪れた本丸は、2年半前に刀剣数が0となった本丸だった。無人の本丸はあちこちが朽ちている。初めて来るはずの場所、少なくとも主や国広にとって、長義はそのはずなのに、とうの本人は迷うことなく歩いていく。主と国広はといえば、前回は政府役員に入口近くで説明を受け、1-2部屋回っただけだった。
庭だってまだ見ていない。「ちょぎくん、何かあったのかなあ」「さあな…とりあえず、全員迷子になるわけにもいかない、あいつについていこう」「うん!」戸惑いながらも、ずかずかと進む長義に、主と国広は着いていった。何度か角を曲がったと思えば、突然視界が開ける。縁側からは庭が見えた。
長義がその場所で立ち止まる。合わせて主と国広も止まって、長義の視線の先を見た。「これ…は…」最初に声を上げたのは国広だった。次に、主はその場所を指して、「おはか…? 」とふたりに問う。長義はそれには返事をせず、ただ、「やっぱり…」と一言呟いた。
木の枝と盛った土で作られた手作りの墓達の中、長義が凝視するものには、朱色に、よく見たら繊細な装飾が所々にある鉢巻のようなものが結んであり、風になびいている。国広は何度か演練場で見かけたことがあった。「…あれは、俺の」
「くーちゃん?」「…主、少し長義と話があるんだ。ここで、座っていい子にして待ってくれるか?」国広は、元気よく返事をする主をその場に残し、長義の方へと近づいた。 「…手向けられるような花がない」「いいよ、別に」何をどう話すべきなのか、とても思いつかなくて、
ようやくでてきた一言といえばそんなことだった。しゃがんで、そっと風に揺られている鉢巻を手に取ってみる。手を合わせてしまってもいいのかどうかもわからなかった。「…襲撃か?」「違う…俺は、ただ、墓守の墓を作っただけだよ…自己満足だ」「…そうか」
何がここで起きたのか、国広にはわからなかった。けれど、それを訊ねるのは不躾だろう、と国広はそれ以上の追及を避ける。「この俺は、探すものを見つけられたんだろうか…」「さあね…ただ、頑固なところはお前に似てる」「…俺は、俺を曲げるわけにはいかない」「ほらね、忌々しいくらいそっくりだ」
なにか咎めたわけでもないのに、そういうと国広は黙り込んでしまった。それを横目で見ていた長義は、なんとなしに国広に問いかける。「…なあ、お前は、もしも、もしも人の身として死ぬとしたら、折れるのではなく、死ぬとしたら、俺達はどうなるんだと思う?」
「…人の身としての死は、命がなくなるということ、俺が俺として生きられなくなること、だと思う…だから、死の瞬間から、俺はもう存在しなくなる、と思う…」だから、存在していたという証がほしい。そう言ってきたあの日の国広がリフレインした。「…本当に、忌々しいほどにそっくりだよ」
その後、本丸は解体せずに残しておくことにしたらしい。国広が何か言ったらしく、主は「ちょぎくんの大切なものがあるところって言ってた!」との一点張りだ。何をどうしたらそんなことになるのだろう。あの場所には、後悔ばかりがあるというのに。今では、第二拠点として、
少しずつあの殺風景な本丸にも刀剣が行き来するようになっていた。政府も、とうに立ち入り調査済みらしく、あっさりとこれらは認められた。もうすぐ季節が半周する。今年の春には、あの本丸の庭にも桜が咲くだろう。
国広はといえば、修行に出ていって、帰ってくる頃には忌々しさを倍増させていた。とはいえ、大きな問題もなく、賑やかに本丸は動いている。
「…半年前、この俺は探しているものを見つけられたかと訊ねたな」「そんなこともあったね」賑やかになっても、沢山の墓はそのままだった。飛ばしたものでダメにしてはいけない、と囲いを作って、少し立派には改造してしまったが。国広は、思うところがあるとすぐにこの場所に来るようになっていた。
「それで、お前は捜し物でも見つけたのかな」「…いや、そういうわけでは…だが、気になって」「…何が」「…お前がそれほどに気にする俺は、一体どんなやつだったのか、と」なにを気にしているかと思えば、今度はそんなことか、と長義はことさらに大きくため息をつく。
「…言っただろう?お前に似て、馬鹿みたいに頑固で、意固地で、申し分なく強い刀だったよ」「…え、」「はい、終わり終わり。こんな所でぼーっとしてても始まらない、さっさと行くよ、俺達には俺達のことがある…生者はいくら向こう側を考えたって仕方がないんだから」
勝手に思うくらいで丁度いい、それだけ言うと、直ぐに長義は囲いの向こうへと出ていこうとする。「…その、すまない…だが、俺は俺のやり方を貫くと思う、から…あんたの望みと同じではないかもしれない…それを、許してほしい」国広は自身の同位体の墓前でしゃがむと、
まるで自分に言い聞かせるようにそう呟く。長義に急かされるようにして、国広も囲いから出ていこうとしたその時、ふわりと甘い香りが掠めた気がした。もう春の盛りだと言うのに、金木犀の香りだった。 おしまい! ここまで読んで頂きありがとうございました! 一応タグ便乗のつもりだった。
分かりにくいわ!と思ったので補足。本丸跡地は長義くんがまんばを看取った本丸、本丸跡地の主と配属先本丸の主は親子。なので、霊力が似ていて、まんばに本丸跡地のまんばの香りが移った。本丸跡地まんばは、長義くんが来るので、病による焦げたにおいを誤魔化すために強めの香を身にまとっていた。
まんばの願いは、この本丸で仲間達と共に、主の刀として朽ちること、死んだらそうではなくなるからその証がほしい、というもので、それを形にしたのがお墓。それでよかったのかどうかは、死者であるまんばは語りようがないので、自己満足だ、と長義くんは言ってる…というつもりだった。分かりにくい!
あと、配属先まんばはnot初期刀but古参刀。時折自分を見ては他の自分を重ねている長義くんを気にかけていて、薄ぼんやりと恋愛感情を自覚しそうな状態。なので、最後に本丸跡地のまんばに、自分はやりたいようにやる、と宣戦布告した。けど、まんばはまんばなので、同じ状況になったら同じ選択をする。
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