catdoll007 · 2 years ago
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春のお彼岸前にお墓参りへ行ってきたのだが
お彼岸はきっと混むだろうと同じ考えを持って早めに来ている人々で 意外にも混んでいた🙏
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tutai-k · 1 year ago
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たどり着かなかったおおくの未来たちへ
文フリ東京だった。 土曜日開催のイベントってなんだかんだ言いながらはじめてのような気がする……労働が土日祝休めなかったころはなんでイベントは平日にやらないんだろうと思っていたし、土日が休みだったころはイベントは土曜日にしてほしいと思っていたが、日月休みになると、イベントは日曜日がいいなと思ってしまう。日月は宿泊料金がやすい。
そんな自分本位な「この日がいいな」をわたしはいくつも持っている。
文フリ東京は、土曜日の朝に出発した。車内販売がなくなってしまって、でもまあ新幹線のホームとか購買にシンカンセンスゴイカタイアイス(シンカンセンモウカタクナイアイスだという噂だが)が売っているらしいから、それを食べようと思っていたが、朝、名古屋駅で見つけることはできなかった。 しょんぼりしながら新幹線に乗る。新幹線の中ではほとんど寝ていた。
東京駅・浜松町・流通センター。いつもの乗り換えで会場に向かう。来年の12月の文フリはビッグサイトでやるらしいから、この行程で向かうのはあと一回。
会場前に八束さんのスペースで不穏なフライヤーをもらう予定だったのでもらいに行ったら、八束さんがさいたま文学館で開催中の『澁澤龍彦の文学世界』のフライヤーも一緒にくれた。 ので、スペースが出入り口の真ん前だったこともあって、これはたくさんのひとに見てもらえるんじゃないか…!ということで、出口に向けて配置した。完璧である。
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そんな素敵な設営をして、開場。
遠方からきてくれたフォロワーさんに展示のフライヤーを見せ澁澤龍彦の話をし、「若い頃にわたしも全集読みました!」と言ってもらうなどしたり、痛覚の麻子さんにはえんえんと「この写真見てくださいやばくないですか?羽田に楯の会の制服を着て見送りに着た三島の帽子をかぶっておどけているときの写真でこれが二人が実際にあった最後になるんですよ……」と一生終わらないんじゃない勝手くらいの話をしつづけてしまったり、このフライヤーに気づいてくれた通行人のひと(「澁澤龍彦だ…!」という声が聞こえた)に「裏面も見てください!そしてよろしくお願いします!」とさっと差し出したり……。こんなに充実した文学フリマ東京は、2014年から参加していて初めてじゃないかと言うくらい充実していた。
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惜しむらくは、澁澤龍彦のフライヤーと一緒に不穏なフライヤーを挟んでいたにもかかわらず、だれも「澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制があるんですか?」と聞いてくれなかったこと…。澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制は果たして存在するのか……?
とまあ、こんな感じなのだが、そろそろ皆さんも不穏なフライヤーとは?と思っているところだろうと思うので、ご紹介致しますとこういうやつです。
「父親の死体を棄てに行く」アンソロジー。家父長制を棄てに行きたい方はどうぞ2024年5月の文学フリマ東京をお待ちください。
イベントが終わってからは、八束さんとヒマラヤ鍋を食べに行った。 お店の予約時間まで過ごしていたドトールで渋沢栄一の話になり、「ああ、向こうは傍家で、本家はうちなので」と話したら「いまうちって言いました?」と聞き返される。うちです。 ヒマラヤ鍋屋さんはめちゃくちゃすてきな楽隊(?)のお誕生日パレードがあったり、びっくりするような美味しい鍋を食べられたりと大満足だった。
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打ち上げを終えて、翌日のさいたま文学館に備えて埼玉に宿を取っていたので、移動をはじめたら電車がいきなり止まった! 電車の沿線で人身事故があったとのことで、近くのハブ駅みたいなところで電車を降ろされてしまう。こんなこと担ったのは初めてなのでびっくりしていると、とりあえず一時間くらいしたら電車は動くからね~とアナウンスが入り、事なきを得る。
都会ならではの体験だな…と思いながら、ホテルにたどり着いて泥のように寝た。
そしてさいたま文学館へ。
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張り切って出てきたら開館まえについてしまった…。図録を買って、老人クラブの展示があったので見せてもらったりして(ヤツガシラの俳句があってとてもよかった)、10時になる。
貸し切り状態……。
展示は、埼玉と澁澤の関係から始まっていて、浦和高校時代の写真(浦和高校同窓会が出しているものだった)があるのがとてもよかった。 限定本も展示がたくさんあり、原稿も、文学館が所蔵しているものが4、5点。 サド裁判のときに澁澤が三島に書き送った手紙に、争点が「わいせつか芸術かを超え、表現の自由/検閲への抵抗である」ことが書かれていることを指摘していたり、『高丘親王航海記』の原稿用紙、最初は「了」と書いてあったのを、推敲の段階で文字を自ら消したことを指摘していたり、「澁澤龍彦」という人物を表現との向き合いかたから見せているのが良いと思った。 面白かったのは三島の写真の使い方で、「血と薔薇」の「男の死」の三島の写真、あと、メインビジュアルが羽田に見送りにきた三島の帽子をかぶっておどける澁澤の写真だったからか、「楯の会の制服を着た三島由紀夫」の写真が展示してあったりした。
展示をひとしきり見た後は、図書室に今回の展示の関連本がまとめてあるとのことだったのでそれを身に。「作家のおやつ」「作家の食卓」といった本の紹介や、山﨑ナオコーラが文豪の墓参りにいく本に澁澤の項目があった。山﨑ナオコーラの澁澤へのまなざしにはわたしにもおぼえがある。よい本だった。そしてその本で、先月わたしが緑色のインコに夢中になっていた霊園に中島敦の墓があることを知った。敦、ごめんな……墓のことなんて全然知らなかったから、緑色のインコのことしか考えてなくて……。
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その後は文学館併設の「けやきカフェ」で澁澤龍彦コラボメニューをたべる。黒糖と胡桃のパンケーキ。澁澤が好きだった胡桃や黒糖のお菓子をイメージしてつくられていて、とてもよかった。 思い出したのは、今よりもっと貧乏だったころ、いろんなところでやっている澁澤の展示に行けなくて悔しい思いをしたことだった。いまこうしてたどり着くことができるようになったことを、なんだかとても、自分が、自分をなんとかしているように思えた。
パンケーキを食べ終えてから、「武蔵野うどん」に挑戦することにした。「伊勢うどんとは対極にあるうどんだ」という事前情報しかなかった。 桶川駅ちかくのお店はかなり人気店のようでたくさん人が並んでいて、お店に入れたのは並び始めてから一時間後くらいだった。 つけ麺(うどんのことをつけ麺というのか?)システムで、つけ汁とうどんは別々の皿に載っている。なるほどこういうやつなのか、となにも考えずにがっと箸でつかんで汁につけてすすりはじめたはいいが、うどん、めちゃくちゃかたいんですけど?!噛みちぎれない…やばい、全部すすって口の中に入れるしかない……���思ったが、これがまたすさまじく長くて……永遠にうどんがおわらない……。 こんなに硬くて長いうどんはじめてなんですけど?!おれたちは箸で持ち上げただけでへたしたらブツッといく伊勢うどんの民なんだということを再確認し、「これは風邪を引いたときに食べるうどんではなく、体力が有り余っているときに食べるうどんだな」と確信しました。きっと武蔵野のひとたちは、風邪をひいたときにはおかゆを食べるに違いない。(伊勢志摩の人間は風邪をひいたら伊勢うどんを食べます)
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二口目からは一本ずつ食べることで武蔵野うどんのおいしさを堪能し、また是非食べたい、顎の力を試したい、と思った。
武蔵野うどんを噛み砕くのに体力のほとんどを持って行かれて、疲れ果てたので、そのまま帰宅することに。 購買にシンカンセンスゴイカタイアイスを見つけたので購入し、席に着くと、隣のひともおなじシンカンセンスゴイカタイアイスを持っていた。しかもおなじチョコレート味。
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べつに示し合わせてはいないがふたり一緒に食べることになってしまい、こんなに好きなひとがいるのに、もうシンカンセンスゴイカタイアイスは車内販売されないんだな……と悲しくなる。 そして、乗車15分まえに買ったし、シンカンセンモウカタクナイアイスだった。
アイスを食べ終えてからは、記憶がない。気づいたら名古屋だった。
名古屋駅で、近鉄のホームに来たら、電車を待つ人は無秩序にホームにたたずんでいて、車両のドアとか何も気にしていなかったし、電車が着いても「先に並んでいたひと」という概念がないので、運良くドアの近くにいたひとから電車に乗りこんだ。東京とかから帰る途中、この近鉄のホームの無秩序さを目の当たりにすると、まだ名古屋から三重まで帰らないと行けないのに、「帰ってきたなあ」と思うのだった。
名古屋駅から最寄り駅までも、寝ていたのでほとんど記憶がない。
帰宅したら、夕食は焼きそばだった。焼きそばの麺は、どれだけ頬張っても簡単に噛みちぎれた。武蔵野うどんは硬かった。
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kennak · 6 months ago
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独立も統一も選択したくない台湾人 台湾人の立場に立つと、独立か統一かを決めることは簡単ではない。台湾人は独立と統一の間で引き裂かれてしまっている。 中国との統一に賛同ができない理由は、中国の国家優先の統治体制に組み入れられることは誰もが嫌うからだ。1947年に台湾政府が成立をした時、実態は軍事政権であり、言論の自由などなかった。そこから、多くの民主化運動を経て、多くの人の血を流しながら、現在の自由な社会を手に入れてきた。中国と統一をするということは、時代を逆戻しすることになり、自由のために命を落としてきた先人たちに合わせる顔がなくなると考えている。 中国と統一をする場合でも、高度な自治区など、現在の台湾の社会体制が維持されることが絶対条件だと考えている人が多い。しかし、香港の現状を見ていると、それが叶えられないことがはっきりとしている。これにより、2018年から「どちらかというと独立」が急上昇をしている。 独立できない2つの理由 では、中国と袂を分かつことができるかというと、それも難しい。ひとつは経済問題だ。中国市場に進出をしている台湾企業は少なくない。有名なのはカップ麺の康師傅、豆漿の永和大王、スナック菓子の旺旺、メガネの宝島メガネ、電子機器製造の富士康(フォクスコン)など、大陸の中国人たちが中国企業だとすら思い込んでいる台湾ブランドがたくさんある。独立を強行すれば、このような中国でのビジネスを失うことになる。 もうひとつ大きいのが、儒教的な考え方に基づく、自分たちのルーツの問題だ。台湾には、福建省などの中国から移住をした人たちが多く、儒教の考え方では、先祖の霊を祀ることが何よりも重要だとされる。そのため���台湾人でも、中国にある先祖の墓参りをしたいと考える人は多く、歳を取ったら中国に移住して墓を守りたいと考える人もいる。中国と袂を分かってしまうと、それができなくなる。 これは心の問題であり、日本人でも故郷に実家があることが心の拠り所となっている人は多い。都会に生活基盤を築いても、どこか漂泊しているような虚しさを感じることがある。それと同じで、中国の社会体制がどんなものであれ、中国とのつながりを完全に断ち切ることはできないという感情がある。 それでも備えは進める台湾 現状維持を望む人が多い台湾だが、台湾有事をまったく考えていないわけではない。台北市政府は2023年7月に市民に対し、「台北市全民国防応変パンフレット」を配布した。そこでは、人民解放軍という言葉は使われていないものの、敵軍が空襲をした場合にどう避難をすべきかが分かりやすくまとめられている。 しかし、ある市民からの指摘で、敵軍の軍服を紹介した図版が誤っていることが発覚をし、訂正版を配布する事態となった。人民解放軍の古いタイプの制服に基づいた図版を載せてしまったのだ。切迫感に欠ける話だが、ここに「現実的だとは思えなくても備えはしておく」という台湾人の考え方が見える。 台湾人の考え方は「現状維持」。ただし、台湾有事のリスクが0でない限り、可能な対応はしておくというのが台湾の考え方だ。周囲が「台湾有事」と騒ぎ立てるのは、当の台湾人にとっては「現状維持」が難しくなる困った状況なのかもしれない。
台湾人の6割が「現状維持」を望む。独立と統一の間で引き裂かれてしまっている台湾人 - 中華IT最新事情
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ichinichi-okure · 1 year ago
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2023.9.17sun_tokyo
 山の日が父の命日であることは知っていたが、"初めての山の日"※1であったとまでは今回調べるまで知らなかった。僕の特技に「これまでに何回山の日があったか言える」が追加された訳だ。  今年はちょうど山の日に帰省したにも関わらず墓に手を合わせにすら行かなかった。こういう言い方をするとまるで毎年通っていたかのようだが、一度も命日に墓を訪れたことはない。習慣が無かったのなら作れば良かっただけの話だし、予定が入ったのなら断れば良かっただけの話だ。要は、父が居ないことを示すモノに対面することが苦手なのだ。その代わりに、といってはなんだが、父が居たことを示すものは好きだ。特に父の服は今でも頻繁に着ており、自分のトレードマークになりつつある。  そんな墓参りに今日行った。無縁墓さながらに生える草を目の当たりにすることで、漸く墓参りをする目的に出会えた気がする。  これまで自分は父の動の部分とだけ向き合ってきたことに気づいた。父の服や本、言葉といったものは今でも生活に影響を与えるだけの動力を保持しており、父の動きによって生み出された動の一部である。それに対して、墓にあるかつて父で在ったモノと馴染みのない名が刻まれた石は、父の動から生み出されたものではない、あえて名付けるとしたら静の部分である。  "「無縁化」した墓ある" 自治体の半分以上。敬老の日の贈り物を渡すために訪れた祖父の家で流れていたNHKニュースに映る、ピラミッドさながらに積み上げられた墓石は烏龍茶の入ったジョッキに伸ばしかけた手を止めた。巨大な静の塊は今朝の墓を数ミリ引き寄せる力を持っていた。その新たなピースの選出基準である青々とした動に対し、父の静は抵抗する術を持たない。  来年は新たな特技を披露しに行こうと思う。鎌とポリ袋を携えて。
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墓の草。無縁墓は少し盛り過ぎた気がします。
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Panasonicの充電式9V電池。おすすめです。(録音もしました。)
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山梨県石和町にある北斗辛軒の汁なし坦々麺。何度か移転をして今はユニードンキの中にあります。
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祖父の家の美味しい焼肉の秘訣。欲しいです。
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祖母の家で取れた太秋柿。サクサク美味しいです。
※1 平成28年から、8月11日が「山の日」として国民の祝日になった。
-プロフィール- でらうえ家とかげ 25歳 練馬区 ITエンジニア / レコーディングエンジニア 「いい音はいい心といい機材から」をモットーに散財を繰り返す。現在は音楽(機材)に還元出来るだけの額を稼げるよう、都内で会社員生活を送っている。 Instagram https://instagram.com/dare_dakke?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA==
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rangudosha · 1 year ago
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2023.8.18
もう何周しただろうか。
時刻は午後2時過ぎ。盆を過ぎたとはいえ、1日のうちで最も暑い時間帯のひとつ(英語の授業で出てくる違和感のある和訳)であることには変わりなく、私はじっとりと汗をかいていた。あたりには他に人影もなく、ただ鳴り響く蝉時雨。灼熱の墓地。
10年ほど前に、一度だけ行ったことがある知人の墓を思いつきで訪ねた。しかし見つからない。墓が見つからないのだ。それほど広くない墓地を何度も行ったり来たりの中年汗ダルマは、側から見たら完全にお供物狙いの不審者だ。
仕方なく、場所を尋ねようとお寺の本堂に行ってみたけれど日曜だからだろうか、剥が��かかったSECOMのシールが貼られた引き戸は施錠されていた。パーフェクトセキュリティー。これも働き方改革だろうか。いや、そもそもお寺の「営業時間」は決まっているのだろうか…まあいいや日曜は神も仏も休みなんだろう、ということにして、墓地の入り口から物言わぬ墓達に一礼して墓参った事にした。
その後炎天下でさすがにクラクラしてきたので、一服しようとカフェへ。アイスコーヒーをずびずび啜っていると、後ろの席から強烈なデミグラスソース臭が。アイスコーヒーを飲んでる時はコーヒーの味なのだけれど、余韻がデミグラス!まさかと思いもう一度試してみると、やはりコーヒーを飲み終わった直後に鼻の奥から脳内に洋食がコンニチワ。結局何が言いたいかと言うと、墓参りは不完全だったけど、アイスコーヒー飲んだら、ハンバーグもビーフシチューも食べてないのにデミグラス気分に浸れてお得でしたよという事です。
#デミグラス気分とは
#最後の4行だけ読めばいいやつ
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poddyshobbies · 2 years ago
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妙音の瀧(みょうおんのたき) ~ 那珂川市上梶原(8)
(写真が多いです。)
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初めは真言宗の祈祷所、明治になって日蓮信者の方が庵を建てて信仰の場所としたそうです。さらに、安徳村の金丸家に嫁いだ娘さん(金丸トワさん・妙正尼)が病気になり、ここ妙音の滝に参籠したことで病が癒えたそうです。その後、トワさんは東京に移り住み「法華経」の普及に身魂をささげ多くの人々がすがったそうです。その中に大横綱になった双葉山がおり、幕下時代に難病にかかったところを妙正尼の祈祷により病を克服、その後69連勝を成した大横綱になったとのことです。 双葉山は 昭和15年(1940年)に妙音の滝に参籠したそうです。那珂川市五郎丸には双葉山が建てた妙正尼のお墓があります。
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県道601号(平等寺那珂川線)を登ると左手に採石場(ぽい)があります。その先です。横にある駐車週者スペースは採石場、もしくは近隣の会社の駐車場です。
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清流、梶原川をわたる。
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坂を登り右手の階段を登る。
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多くの人達が瀧に打たれたであろう修行の場。
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瀧の上から(キケンです)
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↑↓ 落ち葉がたまった茶色の道  ~瀧に向かって右手に道があるが採石場方面なので今は行き止まり。(未確認ですが採石場に出るはずです。)
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瀧の上の石に刻まれた文字
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瀧の手前
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登ってきた参道の坂道���下る。
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県道601号(平等寺那珂川線)~ 下り・那珂川市内方向 
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かつては採石場の方向にも道があった(?)
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2022.11.25 ~ 上梶渡地区の仏跡関係はここまで。
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bearbench-3bun4 · 3 months ago
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「虚無への供物」中井英夫 3381
第三章
38 タイム・マシンに乗って(亜利夫の日記Ⅱ)
牟礼田たちは、ぶらぶらと靖国神社の方へ歩きながら、 どうして蒼司君と八田皓吉が一緒にいなかったことを黙っていたか説明しますが、 かなり、言い訳めいています。 というか、それがわかれば、1つ目の事件の真相も解るのではないでしょうか? まあ、たしかに密室殺人だと大騒ぎしたのは亜利夫たちですからね。 牟礼田は、事故だと持っているフシが有りますしね。
そして、牟礼田を先頭に三宿から太子堂へ向かいます。
玉川電車を利用して移動します。 渋谷から玉川電車で上通(かみどおり)ー大橋(おおはし)ー玉電池尻(たまでんいけじり)と行き、 四つ目の昭和女子大のある三宿(みしゅく)で降ります。 ちなみに、玉川電車は三軒茶屋(さんげんぢゃや)から左へ行けば駒沢(こまざわ)から二子玉川(ふたこたまがわ)、 右が西太子堂(にしたいしどう)を経て下高井戸(しもたかいど)と説明されています。 ただ、この二子玉川は昭和29年に二子玉川園に変わっています。 というか、この駅名しょっちゅう変わったみたいですね。 まあ、二子玉川でも、二子玉川園でも、本編には関係ないですか。
三人は、三宿で降て、イギリスの名家マックレディの青いバラ“ライラック・タイム”を輸入したあのバラ園を訪ねます。 これも本編とはあまり関係ないような気がするのですが…。 その近くにあった八田皓吉の事務所にも行ってみますが、表札も変わっていてとくに得るところもありません。 また、八田皓吉が住んでいた太子堂を尋ねると、なんと、竹園山最勝寺教学院にある目青不動がみつかります。 でも、牟礼田笑っているのです。 変ですね。全く関係ないことはわかっているのけど、目青不動がみつかると、亜利夫が喜ぶだろうとです。
案の定、亜利夫は、 五色不動と五つの棺を持ちだしたことや、薔薇のお告げから結論を引っ張り出した久生のことを思いだします。
3月17日(木)の亜利夫の日記で、これまでの事件の経過を振り返りますが、 特に目新しいこと���ありません。
第一の事件は、紅司君が自宅の風呂場で心臓障害。 第二の事件は、橙二郎がガスストーブの事故。 この間に、聖母の園の事件(焼死体が一人だけ多い)。 第三の事件は、鴻巣玄次が、服毒自殺。
3月19日(土)の亜利夫の日記です。 目白の“ロバータ”で久生と牟礼田に会って、氷沼家に住みこんだ八田皓吉が書斎を“黄色の部屋”にしたと聞きます。
“黄色の部屋”といえば、フランスの小説家『ガストン・ルルー』と言われるほど有名らしい。 『黄色い部屋の秘密』Le Mystère de la chambre jaune(ラ・シャンブル・ジョオヌ)は、奇怪な密室犯罪だそうだ。 この小説に出てくる探偵の名前が、“ルレタビーユ”というのだそうだ。 しかも、それを作らせたのは牟礼田だというのだ。 近いうちに頑丈なかんぬきを取り付け完璧な“黄色の部屋”が出来上がる予定だという。
実は、牟礼田は小説を書き始めていて、その中では、21日の夜に、第四の密室殺人の幕が上がるといいます。 しかも、かなり言い訳めいていますが、 それにこれまで現実に起こった三つの死と、うまく話が合って同時に紅司君のいう“驚くべき真相”も汲み取れるように書くのは大変だと。 つまり、事実を隠してそれが表に出ないように辻褄をあわせるのは大変だとでも言うようです。 どうも牟礼田は何かを隠しているような感じですね。
ここでやっと、名探偵ルレタビーユならぬムレタビンユに見立てるということがわかりました。
ここで話題が変わって絶賛家出中の藍ちゃんの話になります。 なんでも、お見通しの牟礼田が、黒馬荘にいるのではといい、しかも、今は、旅行している筈だともいいます。
黒馬荘の話が出たからではないのでしょうが、 21日の春分の日に 墓参りに行く蒼司君と目白へ顔を出し、ついでに“黄色の部屋”も見てそれから黒馬荘に行くことにします。
いや、引っ張りますね。 これでやっと、黒馬荘の事件の顛末が解るのでしょうか?
それから最後に、亜利夫が、黒馬荘の事件を密室殺人だとすると、矛盾があるといいます。 まあ、密室がすでに矛盾なんですけどね。
つづく
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akikoomura · 3 months ago
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「祖母の洋裁」
いとこでお揃いの
白地に茶色
大胆な柄粋のデザイン
お気に入りだった
赤い柄の浴衣に
黄色い帯
ワンピース
アルバムを開いたら
幼い頃
祖母が自分たちのために
手作りで仕立ててくれた洋服の数々
肌に残る
愛情と温もり
お墓参りもでき
感謝の気持ちでいっぱいです
温かい昭和の記憶がよみがえりました
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kachoushi · 5 months ago
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各地句会報
花鳥誌 令和6年6月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年3月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
撞かるるを待つ梵鐘にある余寒 美紀 春灯や蔦の絡まる家傾ぐ 和子 料峭やいつか御籤でありし紙 緋路 自転車の主婦涅槃寺も突つ切つて 瑠璃 春塵は仁王の筋肉のかたち 緋路 冴返る仁王は金の歯で怒る 慶月 鳥帰る空はとほくて累塚 小鳥 春北風や大釣鐘に隠れたし 風頭 春陰の暖簾に純白の屋号 緋路 貴婦人の大車輪のみ春光に 慶月
岡田順子選 特選句
料峭やいつか御籤でありし紙 緋路 下萌る輪廻途中に道草を きみよ 中華屋の春塵赤き椅子逆さ 小鳥 喪の列の消ゆ式台の春障子 昌文 窓飾る家族の数の紙雛 はるか 白杖のリュックに揺るる桃の花 眞理子 学僧は霞に昼の鐘をつく きみよ 春禽のつがひ卵塔あたたむる 千種 上人の絵のその上の春の雲 俊樹 父性めく陽春の木の温もりは きみよ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
中空を塞ぐ余寒の廃高炉 かおり 曲水の刻安寧の風美し 朝子 曲水宴美しきあぎとの並びたる たかし 春の闇400Hzの着信音 修二 曲水や配流の無念流れをり 同 バッカスの壁画翳ればアネモネも かおり 中也掌に詩片ふりくる春の雪 睦子 野火走る倭建命の影走る 美穂 北窓を開く復興兆す音 朝子 曲水や女人の盃のちと遅れ 久美子 朧の夜幻想一つ二つ三つ 光子 涅槃図の中へ入りたく近道す 美穂 紅をひき三寒四温横切りて かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月7日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
春日射し昼寝の猫にやはらかに 喜代子 地の息吹すべての芽より放たれん さとみ 卒業生てかる制服光差す 同 雛見れば乙女心もら��まんに 同 啓蟄や老眼鏡に虫眼鏡 都 マネキンに呼び止められし春の窓 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
弁財天の目力強きご開帳 宇太郎 介護士の赤鬼追うて追儺かな すみ子 春動く大鍋洗ひ伏せてより 都 咲く椿落ちし椿も「太郎冠者」 美智子 無縁塚天の供へし犬ふぐり 都 閏日や何して遊ぶ春寒し 佐代子 観音の視線の先に吾と梅と 宇太郎 春氷􄼺曳く吾を映すのみ 悦子 風海へ菜花すみずみ靡かせて 都 薄氷や踏めばナイフの光持つ 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月9日 枡形句会
語り継ぐ作詞の謂れ春の野辺 百合子 陽子師の墓前満開蕗の薹 教 子 雛祭り白寿の母も祝はれて 百合子 一輪の菫映して句碑閑か 三 無 きめこみ雛偲ばる友を飾りけり 文 英 廃屋に繁るミモザの花明り 多美女 揚げ雲雀寺領に紛れ猫眠る 亜栄子 のんびりと牛横たはる春の野辺 幸風 年尾碑に晴れてまた降る淡き雪 美枝子 雲雀生む高原行けば雲の人 白陶 やはらかな春の野の音辿りゆく 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月11日 なかみち句会
消えさうな跡をつなぎて蜷の道 秋尚 磴百段尾道水道朝かすみ あき子 閉院の看板掠れ三味線草 美貴 日溜まりの数多の道も蜷のもの ます江 夜霞の一隅までも大灯台 聰 魚屋の釣銭濡れて春の雪 美貴 目をつむりぺんぺん草の音を聞く 廸子 極楽は泥の中なり蜷の道 あき子 蜷の道水面流るる光の輪 三無 崖下の流れやさしくになの道 和魚 鐘声のこころ震はす夕霞 史空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
老犬の矍鑠と追ふ寒鴉 清女 造花にも枯れは来たりぬ春愁ひ 昭子 お水送り達陀炎豪快に みす枝 春一番大手拡げて女子高生 昭子 全身を耳に涅槃の法話聞く みす枝 知らずともよき事知りぬ蜆汁 昭子 春眠の夢逝きし子の影おぼろ 時江 生死未だ仏に供へる桜餅 ただし 亀鳴くや遠くて近き爆撃音 みす枝 肩書を減らし北国の雪に住む 世詩明 鄙の里水滔滔と芋水車 時江 つまづいて梅の香りを逃しけり みす枝 ��御堂にそして巨松に春の雪 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月12日 萩花鳥会
鼓草摩文仁の丘の兄の墓 祐子 風神は火の神鳥に野火揚る 健雄 春の空ここは宇宙のど真ん中 俊文 忘れ雪抗ふ漁師海胆を取る ゆかり 忘れ物鞄の中に山笑ふ 吉之 制服の丈短きや卒業生 明子 沈丁花色付く前より香り立つ 美恵子
(順不同特選句のみ掲載) …………………………………��…………………………
令和6年3月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
合格の電話の声は春光に みえこ 彼岸会へ母一張羅出してをり あけみ 手作りの雛微笑んで雛祭 実加 啓蟄や亡き友ふえて吾は生きて 令子 うららかや押絵の猫に会釈して 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月15日 さきたま花鳥句会
銀翼のきらめく空や木の芽風 月惑 昴座の星を砕きていぬふぐり 八草 古雛の神輿に残る能登の技 裕章 料峭や客船の無き海広し 紀花 杉玉も軒端に馴染む春日影 孝江 亀鳴くや飛鳥の山はみな蕾 ふゆ子 今晩も味噌田楽とまぜご飯 としゑ 雛客の手みやげ酒や国訛 康子 春しぐれ天皇参賀長き列 彩香 春愁や予期せぬ病電子辞書 恵美子 草の芽の小石動かす力あり みのり 浮世絵を抜け出す遊女万愚節 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
不器用は不器用なりに針供養 雪 我が町を春一番の素通りす 同 ぬるむてふ色を湛へて水温む 同 言の葉を育み春をふくらます 眞喜栄 雛飾り声なき顔に語りかけ 同 子供らの古墳探訪山笑ふ 同 道祖神肩を寄せ合ふ春の雪 同 雛見つめゐれば脳裏に母の顔 同 潮の香と水仙の香の一漁村 同 友の葬蝋燭揺らす涅槃西風 嘉和 風に棘あれど春日の燦々と みす枝 遠浅の水美しく蜆舟 ただし 雄叫びを似て左義長の始まれり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
城山をもみくだくかに春疾風 眞理子 春野歩すダルメシアンの脚線美 亜栄子 蒲公英の丘膨よかに母の塔 斉 石鹸玉母の塔まで追ひかけて 亜栄子 涅槃会や外から一人手を合はせ れい 蓬生の城址や鬨の声遥か 炳子 洗堰磧にとよむ雉の声 幸風 機関車に用心深く初蝶来 幸風 ぽつとりと落ちて華やぐ花椿 れい 春塵を淡く置きたる母の塔 芙佐子 啓蟄の句碑のひらがな揺らめける 要
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月18日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
胸を張り農を継ぐぞと卒業す かづを 四脚門氷雨の中に凜と建つ 和子 僧逝くや枝垂れ桜を待たずして 千加江 畦の径青きまたたき犬ふぐり 啓子 雛の間をちらと横切る男の子かな 笑子 九頭竜に朱を透かせゆく桜鱒 同 鰤大根男料理の後始末 清女 古里に古里の香の土筆摘む 泰俊 上を向き涙湛へて卒業歌 同 陽炎や人の集まる船溜り 同 春塵の経蔵深く舞ふ飛天 同 水ぬるむ色ある如く無き如く 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月20日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
雛納め飲まず喰はずの官女かな 世詩明 啓蟄や始発電車の一人旅 笑子 花ミモザ抱へふくらむ恋衣 同 けたたまし派手な身振りの春の鳥 同 啓蟄の土嗅ぐ犬の背の丸さ 希子 つくしんぼどこに隠れてゐるのやら 和子 麗しき新幹線で春来る 隆司 陽炎へる無人駅舎の降車客 泰俊 陽炎の中より来たる笑顔かな 同 啓蟄の啓蟄の顔穴を出づ 雪 懐かしやぬるみ初めたる水の色 同 蟲はただ蟲とし穴を出づるのみ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年3月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
凍つるべき所に凍つる蝶一つ 雪 着膨れて弟母似吾は父似 同 ぬるみ来し水に映れる何やかや 同 都恋ふ紫式部像に東風 同 幽霊の飴買ふ話木兎の夜 同 春灯下術後の傷を見る夜中 洋子 婚約のナースの話院の春 同 春ショール黄色く巻いて退院す 同 花柊恋に桎梏あればこそ 昭子 春雪や深田久弥の百名山 ただし 春彼岸死んで句友に逢へるなら やす香 親の恩山より高し卒業す みす枝 拙を守り愚直に生きて目貼剥ぐ 一涓 児を一人傘に拾ひし春時雨 世詩明
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ishitomosposts · 11 months ago
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harinezutaka · 1 year ago
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二年前日記31(2021年7/30〜8/5)
7月30日 仕事の日。暇だったのに、急にバタバタっと忙しくなる。同僚は今日中に出さないといけない書類があったけどなかなか出かけないので早めに送り出した。やっぱりぎりぎりだったみたいで、あとでLINEがきて感謝された。間に合ってよかった。サロンに寄り爪のお手入れをしてもらい、バスで帰宅。晩ご飯は、肉じゃが、カプレーゼ。
7月31日 土曜日だけど夫は仕事。午前中、近所の人に渡すものを渡しに行く。昼から読書。夕方、散歩。晩ご飯は、夫が買ってきてくれたお造り、高山なおみさんのレシピの焼きトマトと豚肉のっけご飯。父から母がご飯食べたかわからなくなっていたとLINEがある。気づいたみたいだけど。最近、そういう知らせがきてもあまりドキドキしなくなった。巻き込まれなくなった感じ。
8月1日 頭のなかを整理する日。今日も長めの昼寝をしてしまった。いかんいかん。晩ご飯は、ミニトマトのパスタ、生ハムと夏野菜のマリネ。
8月2日  朝からパキパキと動けた。『分水嶺』読み終わり。すごい戦いをしてくださってる人がたくさんいるんだな。時間がたってから読み返してみたい。午前中に買い物。お昼は、買ってきたお寿司とビーフン。少し昼寝のつもりが、がっつり寝てしまう。癖になってるなぁ。よくない。晩ご飯は、豚ロースともやしの蒸したの、小松菜とツナの和え物、いかなご。
8月3日 午前中、銀行へ。小銭を入金する。たこ焼きを買って帰宅。お昼ご飯にビーフンと食べた。午後からzoom で妊娠中期セミナーを受ける。最後の質問コーナーで、トップバッターだったのだけど、呑気な質問をしてしまった。他の参加者はみんないろいろ考えていた。軽い運動をしたりして楽しかった。少し横になると4時半。晩ご飯の準備などする。晩ご飯は、ピーマンと鶏肉の生姜味噌炒め、茄子と卵のスープ。夜も気づいたら寝てしまっていた。
8月4日 長い間眠っていたので、とても長い夢を何度か見た。気持ちのいい眠り。こういう感じって今まであまりなかった気がする。仕事の日。今日もそんなに仕事はなかったので、気になっていたところの整理などをした。本を読んでしまいたかったので、カフェに寄る。帰り道でばったり母と姉に会う。今日は姉と両親とでお墓参りに行ってくると聞いていた。夕方に買い物に出たらしい。最近、ばったりが多い。晩ご飯は、豚肉と茄子とピーマンの炒めたもの、ゴーヤとハムのサラダ。近くのコミセンに本を返しに行ってから、お風呂に入り野球を見た。いい試合。日本は決勝進出。
8月5日 朝、コンテナカフェに。アイスチャイを飲む。昨日入ったお店でチャイを頼んだのにラテがきたのでそのリベンジ。スパイスが好みでとても美味しい。惣菜パンとお米も持ち帰りする。いろいろお話してたのしかった。唯一無二の場所。お昼前にライン通話で打ち合わせなどする。私の携帯の調子が悪くてビデオで通話はできなかった。お昼を食べ、一件電話をして、少し横になる。日記をアップして、句具句会の投句をし、簡単に晩ご飯の支度をしてから鍼へ。5時の予約。まだまだ暑い時間で汗がだくだく出た。先生から「次は病院いつ?」と聞かれて、どきっとする。ただ聞いてるだけなんだろうけど、何かあるのかなと心配になってしまう。帰り、ユニクロと無印に寄って必要なものなど買った。だんだん着れる服がなくなってきて焦る。サイズアップすると丈が合わないし、やはりそろそろマタニティ用にするしかないのかな。気持ちがついていっていない感じがしてモヤモヤ。帰ってからお風呂に入ってご飯。鮭の焼いたのと��ゃがいもと豚そぼろのスープ。『ウチ、断捨離しました』を見ながら片付けをした。今週もなかなか強烈だったな。根が深い感じだった。
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uro-9000 · 1 year ago
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接��離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、���れをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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herbiemikeadamski · 2 years ago
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 1月3日(火) #大安(辛酉) 旧暦 12/12 月齢 10.7 年始から3日目に当たり、年末まであと362日(閏年では363日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 実は喪中らしいのですが、昨日は 初詣に明治神宮に行きました😅💦 久々に原宿駅廻りが一変して駅も 改装工事が終わったんでしょう✋ 広々とした感じが良くなってた㊗ お参りを終えると出店が出ている 所で、お神酒と屋台料理で一杯🍶 やるんですけど、例のプロパガンダ の一環で強制自粛させられてるん でしょう💢💢💢屋台の数も少な く、種類を販売する店も僅かなの が、寂しいもんです。。。_| ̄|○... 平民が楽しんではいけないって のがグローバリストの行動指針ダカラw (o゚д゚)マジスカ?\(__ )マジデスw . 「喪中に」してはいけない事で 調べてみたんだけど👀故人が 亡くなって49日の法要の期間だ け、結婚式や祝賀パーティー、式典 やら、神社への参拝は避けると あるんで大丈夫ですね✋以前に 聞いた話だと一年間は喪に服す ると、よく云われて来たけど❓ 間違った知識(o゚д゚)マジスカ? 結婚式でも、喪中の概念がない 人前式なら宜しいとあります✋ \(__ )マジデスwって事は49日 を過ぎちゃってる方は新年の 挨拶の年賀状も🙆って事デスw 感謝の意を大事にすればヨシッ! . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #駆け落ちの日.  1938(昭和13)年1月3日(月)先勝.女優の岡田嘉子と杉本良吉が、樺太の国境を越えてソ連へ亡命。  駆け落ちとは、集団から逃げ出して、よその土地へ駆け込むという意味です。 この二人は、日本共産党員で新協劇団の演出家である杉本良吉が、当時日本領土であった  樺太の国境を越えてソ連へ亡命しのですが、不法入国となるため国家警察に逮捕され、僅か  3日足らずで2人は引き離されました。 . . #大安(ダイアン). 陰陽(おんよう)道で、旅行・結婚など万事によい日。 一切合切(イッサイガッサイ)が良いとされる日。 . 神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。  この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #母倉日(ボソウニチ).  暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。  四季の土用には巳・午の日がこれにあたり大吉の日とされる。 . #八専間日(ハッセンマビ). 干と支の性質が同じ組み合わせの多い期間のことですが、八専間日は八専の期間中に干と支の性質の組み合わせが同じでない日。 八専は凶日ですが、間日は凶日ではないとされています。 . . #ひとみの日. . #真田丸の戦い. . #王政復古の大号令(オウセイフッコノダイゴウレイ). . #戊辰戦争開戦の日. . . #くるみパンの日(毎月3日). #ビースリーの日(毎月3日). #みたらしだんごの日(毎月3~5日). #第1回NHK紅白歌合戦放送. #元始祭. #箱根駅伝復路(第99回箱根間往復大学駅伝競走). #ライスボウル2023(1984年 - ). . . ■本日の成句■. #笑う門には福来る(ワラウカドニハフクキタル). 【意味】 いつも楽しそうにしている家には、おのずと幸せがやってくるという意。 . . 1977(昭和52)年1月3日(月)赤口. #小沢真珠 (#おざわまじゅ) 【女優、タレント】 〔東京都新宿区神楽坂〕. . . (学芸大附属中小前) https://www.instagram.com/p/Cm7vvSvSB0M6Nds0vMBwxL2LSV63EA7aMVmvvw0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shinjihi · 3 years ago
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戦闘中にイギリス軍将兵422名の命を救った日本帝国海軍中佐 いまも英米で称賛 https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/180813/soc1808130007-a.html 提供:NEWSポストセブン  2018.8.13  カミカゼでもバンザイ突撃でもない、旧敵が真に畏敬し、戦後も尊崇の眼差しを送るのは、自艦乗員よりも多くの敵兵を救助する、前代未聞の英断を下した帝国海軍の武士道だった。作家、ジャーナリストの惠隆之介氏が、いまなお英米で讃えられる工藤俊作海軍中佐の「武士道」についてお届けする。 * * *  平成20年(2008年)12月7日、元英国海軍大尉で戦後外交官として活躍したサムエル・フォール卿(当時89歳)は埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作海軍中佐の墓前に車椅子で参拝し、66年9か月ぶりに積年の再会を果たした。卿は大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたく、戦後、その消息を探し続けて来たが、関係者の支援の結果、ようやく墓所を探しあてたのである。  卿はこの直後、記者会見で、工藤中佐指揮する駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を、「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。  フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからである。付き添いの娘婿ハリス氏は「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化(Family Culture)を形成している」とさえ語った。  なおこの時は英国海軍を代表して同駐日海軍武官チェルトン大佐が参列、また護衛艦「いかづち」(4代目)艦長以下乗員多数が参列した。まさに敗戦で生じた歴史の断層が修復される瞬間であった。  ◆「総員敵溺者救助用意」  第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。当初、「友軍が間もなく救助に来る」と互いに励ましあっていたがその希望も絶たれていた。  彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。  翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。  一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。  「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。  工藤艦長は兵に命じ、敵将兵一人一人を両側から支え、服を脱がし、真水で身体を洗浄させた。フォール卿の回想では、「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せずむしろ暖かくケアしてくれた」という。その後、英国海軍将兵に被服や食料が提供され、士官には腰掛も用意された。しばらく休憩した後、艦長は英国海軍士官全員に対し前甲板に集合を命じた。  士官全員が恐る恐る整列を終えると、艦橋から降りて来た工藤艦長は彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。「貴官達は勇敢に戦われた。本日は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と。さらに士官室の使用を許可したのである。  一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗した。その際舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。  ◆天皇訪英反対論を黙らせた  平成10年(1998年)4月29日、フォール卿は本件を「英タイムズ紙」に投稿し、「友軍以上の丁重な処遇を受けた」と強調した。  英国には戦後、日本軍の捕虜になった英軍将兵たちが「虐待された」と喧伝し、我が国に賠償を求める動きがあった。またこの年の5月には今上天皇皇后両陛下が訪英される予定であった。そこで元捕虜たちは訪英に反対していたのだ。天皇の謝罪を求める投稿文もフォール卿の投稿文と同時に掲載された。  ところがフォール卿の投稿文によって、これらは悉(ことごと)く生彩を欠いたのである。  一方、工藤艦長の英断は戦後米海軍をも驚嘆させている。米海軍は昭和62年(1987年)、機関誌「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって特集したのである。同誌は世界海軍軍人が購読しており国際的な影響力は大きい。  これから4か月後、東芝機械ココム違反事件が発覚し、我が国は国際社会で孤立した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)が輸出禁止にしていたスクリュー製造用精密機械を、東芝の子会社がソ連へ不正輸出し、ソ連原子力潜水艦の海中における静粛性を飛躍的に向上させた事件である。このような情勢下で米国の対日貿易赤字は拡大しており、米国民は『安保ただ乗り』と批判し全米で日本製品不買運動が起きていた。  このとき日本海軍と交戦した米海軍の提督たちが帝国海軍の後継である海上自衛隊を称賛し、「同盟軍中、最も高いポテンシャルをもつ組織である」(アーレイ・バーク大将)とまで強調したのである。米国内の対日バッシングはこの結果沈静化した。工藤艦長らの遺産が寄与したものと思われる。  ●めぐみ りゅうのすけ/1954年生まれ。1978年、防衛大学校管理学専攻コース卒業。1979年、海上自衛隊幹部候補生学校卒、世界一周遠洋航海を経て艦隊勤務。1982年退官。金融機関勤務などを経て、ジャーナリズム���動を開始。『海の武士道 DVD BOOK』(育鵬社)、『敵兵を救助せよ!』(草思社文庫)など著書多数。  ※SAPIO2018年7・8月号 https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/180813/soc1808130007-a.html
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liliyaolenyeva666 · 4 years ago
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🎼 00846 「Red」。
ゴールデンウィークがはじまり、テレビの中の "仮面ライダー" もはじまりました。今回は 「怪人イモリゲス じごく牧場の決斗!(第77話)」 というお話です。牧場の柵に手を乗せて黄昏ている、少年仮面ライダー隊の格好をキメているトオルちゃんに、ヒトミちゃんは 「少年ライダー隊に入ってから ちっとも遊んでくれないのね」 と 飲み屋のお姉さんのやうな台詞を発してトオルちゃんを困らせます。トオルちゃんと 大人びたヒトミちゃんが暮らす町では 失踪者が続出しているさうで 「その原因を確かめたいんだ、きっとショッカーのしわざなんだ」 と 小学館の江戸川くんのやうにズバッと推理をするトオルちゃん。そんなこんなで夜になり、誰も彼もが すやすやと眠るころ、水道の蛇口から赤い水がどろろろっと流れ出し、ケケケケケケケッというやかまし気な声とともに化け物が現れ、長い舌をベーっと伸ばして 眠っていた女性を襲います。「おんなこどもに用はない、用のない者は殺す」 とイボだらけな白目でキモい怪人は 「どうだ、俺の威力を見たか!連れて行け!」 と 眠っていた男性を どこかへ連れて行きます。そんな有様を 張込みでもしていたのかしら 「よし、本部へ連絡だ!」 と 少年ライダー隊本部へ向けて 鳩を飛ばす、義務教育真っ只中のトオルちゃん。そんなことをしていないで早く寝なさい。とつい言いたくなりますけれど、やはり胸に光るライダーペンダントは使わないやうです。そんなこんなで それなりの時間が経ち 「おい 鳩が来たぞ!」 と 本部のおやっさん。「連絡ナンバー512」 と ライダー隊隊長だけれども 隊長の仕事よりもアクションを選ぶ 滝和也が 「512はどこだ?」 と ガールズらに尋ねます。どうやら リーバイスのジーンズでは無かった "512" は "伊香保" を指しているやうです。ライダー隊は都内だけのものなのかと思っていましたけれど、全国ネットっぽくって わたしもショッカーも驚きです。さてさて、現場へ急行せんと いつもの黄色いヘルメットを片手に 本部を飛び出さうとする和也。とそこに入ってきた ガールとライダー隊な ふたりのキッズに 滝さんどちらへ?と聞かれ 「温泉へ、ちょっとな」 と和也。隊長が何処へ行ったのか尋ねるキッズは、後に どうにかして現場へ向かうのですけれど、どうやって向かったのかは最後まで分かりません。さてさて 場面は変わり、いつものショッカーなアジトが映ります。「普段は何の変化もない牧場だが、その地下で飛行場を作っているとは 仮面ライダーも気づくまい」 と 三角頭の最高幹部こと 地獄大使は 「今度こそはショッカーの手で日本を征服してやるのだ!」 と 意気込みだけは いつも立派だったりしますけれど、今週の怪人イモリゲスに、地下に飛行場を建設する為に必要な男手を さっさと集めて来いと命じます。場面は変わり "モー モー" と鳴いている牧場の牛を 「どうしたんだろ?」 と不思議がる男性。ミョーに牛小屋のほうが騒がしいと 見に行った男性の足元が赤く染まります。「何だこりゃ!」 と男性。赤い液体とともに ヌワッと現たイモリゲスは 「ショッカーがオマエを連れて行くのだ!」 と、ヒトミちゃんのパパだったらしい男性を、現場を目撃してしまったヒトミちゃんごと連れて行かうとします。「助けてー 誰か来てー!」 とヒトミちやん。走って逃げたけれども ふたりの戦闘員に捕らえられ、連れて行かれさうになったところに 「待て!」 と 偶然に通りかかったっぽい本郷猛が行手を阻みます。戦闘員を蹴散らし、被っていたヘルメットを戦闘員に えいやっと投げつける猛ですけれど、誤ってヒトミちゃんと戦闘員にぶつけてしまいます。「さあ俺に捕まれ!行くぞ!」 と、怪我はないのでせうか、ヒトミちゃんを抱き抱えて逃げる猛。そのころ 安全運転で伊香保に急行中のアクション隊長は "伊香保温泉 Hotel 天坊" と書かれた車の運転手に話を聞き、ホテル内の受付にいた支配人と話をします。どうやら町一帯は 数十名の被害者が出ているさうで、町は ロックダウン中のヨーロッパの国々のやうに ひっそりと静まり返っています。とりあえず トオルちゃんの家へ向かおうと 神社の参道っぽい道をバイクで突き進む和也は、そこで 先程の (どうやってここに来たのか分からない) ふたりのキッズ、そしてトオルちゃんと出会います。「君がトオル君か」 と隊長がトオルちゃんに話しかけていると 階段から赤い血のやうな液体がどろりと流れ落ち、そして 「滝よく来たな!ここがオマエたちの墓場だ!」 と ショッカーのキモイモリが姿を現します。「ケケケケケケ、動くとこの男の子の命はないぞ!」 と 出番少なめなナオキを捕らえたイモリ。とそこへ 「待て!イモリゲス!」 と 変身を済ませた仮面ライダー第1号が颯爽と登場します。どこで "イモリゲス" という名前を知ったのか、ちょっとふしぎでいっぱいな第1号はさておき、子門真人さんの初期エンディングテーマを流しながら、それなりに危険を感じる直角な滝の上で 死闘を繰り広げる善と悪。「ライダー!俺の舌の威力を見せてやる!」 とキモイモリ。長く伸びた舌に首を絞められ苦しむ第1号。「オマエの身体は溶けて無くなるのだ!」 とキモイモリ。どうして溶けるのかは分かりませんけれど、これはヤバいと 高いところからタックルをかまして 第1号を救う滝和也。大きな岩の上から 少年ライダー隊にヒュンヒュンと石を投げぶつけられ、足を踏み外して あれぇっと滝から落ちる無様なイモリゲス。「ライダー!覚えてろ!」 と捨て台詞を吐いていなくなります。第1号はヒトミちゃんの怪我の手当てを和也にお願いしてイモリを追います。「俺たちはホテル天坊で待ってる」 と和也。すっかりホテル天坊がお気に召したやうです。とりあえず お知らせが入って明けて 「今度こそライダーの息の根を止めてやる!今に見てろ!」 と悔しさが滲み出ているキモイモリはさておき、ヒトミちゃんの怪我は大したことはなかったやうで よかったよかったなんて皆が思っていた矢先、右足と左手に包帯をぐるぐる巻きにされた、本当に怪我は大したことはなかったのかと疑問に思うヒトミちゃんが (黙ってお家を出てしまったので) 「きっと心配しているわ」 と、お姉さんのところに帰りたいとトオルちゃんを唆します。それから少しして、ヒトミちゃんがいないいないと 少年ライダー隊員が わあわあと騒ぎ出します。「少年ライダー隊の君たちがついておいて目を離したら駄目じゃないか!」 と、そんなことをいうあなたがついていれば良かったのに、なんて思う 本郷猛がキッズらを厳しく叱りつけます。けれど、しょんぼりしたり拗ねたりすることもなく、しくじっても手柄を立てちまえばいいんだ。なんてショッカーよりもワルなことを考える少年ライダー隊員。そのころ、ヒトミちゃんがトオルちゃんを連れてお姉ちゃんの元へ帰ってみると、ちょうど戦闘員に捕らえられている現場に出会します。「ヒロコお姉ちゃーん!」 とヒトミちゃん。そんな訳で みんなして仲良く捕まります。「ライダー!今度こそ息の根を止めてやる!」 とキモイモリ。今度こそ今度こそと さっきから言っています。やや遅れて牧場に到着した ふたりのアクション同好会は バイクを停め、牧場内に入ります。「様子が変だ」 と和也。「向こうを探ってみやう」 と猛。とそこへ、ヒュッと どこからともなくショッカー製の手作りナイフが飛んで来ます。「明日、朝日の登るとき、地獄谷まで一人で来い」 と、ナイフにスピーカーが内蔵されているのでせうか、地獄大使ふうのおじさんの声が聞こえます。たぶん翌朝、バイクを駆って ひとりきりで地獄谷に向かった本郷猛の前に 「フハハハハ 来たな本郷!」 と待ち合わせには早く来る主義らしい最高幹部が待ち構えています。「おれはひとりだ」 と 攫われたヒトミちゃんらの解放を求める猛。「よおし、おんなこどもは渡してやる!あれを見ろ!」 と三角幹部。と、その前に 地面を流るる赤い液体が映ります。「あの3人を返して貰おうか!」 と猛。おんなこどもを返すなんてそんな甘々なことは決してしない最高幹部は、十字架に磔にされている3人の足元に火を掛けさせます。ばうばうと火炙りにされて悲鳴を上げる子役たち。猛はキモイモリに抱きつかれて動けないでいます。久々の大ピンチです!と、その時!どこに隠れていたのでせうか、三度笠を被った 木枯し紋次郎ふうな出立ちの男が ガッと割って入って来ます。「誰だあいつは!」 とイモリ。「誰だ貴様は!何者だ!顔を見せろ!」 と最高幹部。戦闘員にアクションをキメながら、三度笠をバッと脱いだ てなもんや紋次郎は やっぱり彼でした。「滝!」 と猛。「イモリゲス、今度は容赦しないぞ!」 と、正義も悪も "今度こそ今度こそ" と言い合っていますけれど、時間の都合で 「ライダー!変身!とぅっ!」 と変身をキメた本郷猛は、マクー空間ふうな採石場のやうな場所で戦闘員をぶちのめしていきます。「ライダー 今度こそオマエには負けんぞ!」 と今度こそ頑張ってほしいキモイモリ。はげしく殴り合う両者。混戦の中でいきなりの 「ライダーキック!」 をイモリに浴びせる第1号。スタコラサッサと逃げるイモリ。「まだ ライダーごときにやられるオレではない!」 と、第1号の足元に広がる赤い液体にどろりと溶け込み、第1号の右足を長い舌で がっちり捕らえたキモイモリは 透かさず "チャンスは最大限に生かす" キャスバル兄さんのやうに攻撃を仕掛けるのかと思いきや、第1号ごときに舌を踏まれて痛がっています。弱まるイモリ。結局 「ライダー スクリューキック」 でとどめを刺されてしまいました。「ライダーめ!俺の本当のおそろしさを 今に見せてやる!」 と最高幹部は伊香保で打ち震えました。
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xf-2 · 5 years ago
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一 はじめに
(日本オリンピック)  五輪史上初の衛星生中継。世界が見守る中、聖火を手に、国立競技場に入ってきたのは、最終ランナーの坂井義則(よしのり)さんでした。  八月六日広島生まれ。十九歳となった若者の堂々たる走りは、我が国が、戦後の焼け野原から復興を成し遂げ、自信と誇りを持って、高度成長の新しい時代へと踏み出していく。そのことを、世界に力強く発信するものでありました。  「日本オリンピック」。坂井さんがこう表現した六十四年大会は、まさに、国民が一丸となって成し遂げました。未来への躍動感あふれる日本の姿に、世界の目は釘付けとなった。  半世紀ぶりに、あの感動が、再び、我が国にやってきます。  本年のオリンピック・パラリンピックもまた、日本全体が力を合わせて、世界中に感動を与える最高の大会とする。そして、そこから、国民一丸となって、新しい時代へと、皆さん、共に、踏み出していこうではありませんか。
(新しい時代へ踏み出す)  「日本はもう成長できない」。七年前、この「諦めの壁」に対して、私たちはまず、三本の矢を力強く放ちました。その果実を活かし、子育て支援、教育無償化、更には働き方改革。一億総活躍社会を目指し、まっすぐに進んでまいりました。  厳しさを増す安全保障環境を直視しながら、平和安全法制を整備し、防衛力を抜本的に強化しました。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、世界を駆け回り、ダイナミックな日本外交を展開してきました。  我が国は、もはや、かつての日本ではありません。「諦めの壁」は、完全に打ち破ることができた。その自信と誇りと共に、今、ここから、日本の令和の新しい時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
二 復興五輪
 二〇二〇年の聖火が走り出す、そのスタート地点は、福島のJヴィレッジです。かつて原発事故対応の拠点となったその場所は、今、我が国最大のサッカーの聖地に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。  常磐自動車道に続き、本年三月、JR常磐線が全線開通します。これに合わせ、双葉町、大熊町、富岡町の帰還困難区域における避難指示の一部解除に向け、準備を進めます。  浪江町では、世界最大級の、再生エネルギーによる水素製造施設が、本格稼働します。オリンピックでは、このクリーンな水素を燃料とする自動車が、大会関係者の足となります。そして、大会期間中、聖火を灯し続けます。リチウムイオン電池、AIロボット。未来を拓く産業が、今、福島から次々と生まれようとしています。  津波で大きな被害を受けた、宮城県を訪れる外国人観���客は、震災前の二倍を超えました。岩手県では三倍となっています。昨年九月に陸前高田市で開業したばかりの道の駅では、僅か一か月で十万人の観光客が訪れ、賑(にぎ)わいを見せています。  来年度で復興・創生期間は終了いたしますが、次のステージに向け、復興庁を司令塔に、政治の責任とリーダーシップの下で、福島の本格的な復興・再生、東北復興の総仕上げに、全力で取り組んでまいります。  九年前、ファーディーさんは、ラグビーチームの一員として、釜石で、東日本大震災を経験しました。  「ここで帰ったら後悔する」  オーストラリア大使館から避難勧告を受け、家族から帰国を勧められても、ファーディーさんは、釜石に残り、救援物資の運搬、お年寄りや病人の搬送。困難に直面する被災者への支援を続けました。  その感謝の気持ちと共に、本年、釜石は、オリンピック・パラリンピックに際し、オーストラリアのホストタウンとなります。岩手県野田村は台湾、福島県二本松市はクウェートなど、二十九の被災自治体が、支援を寄せてくれた人々との交流を深めます。  心温まる支援のおかげで力強く復興しつつある被災地の姿を、その目で見て、そして、実感していただきたい。まさに「復興五輪」であります。  東日本大震災では、百六十三の国と地域から支援が寄せられました。我々が困難の時にあって、温かい支援の手を差し伸べてくれた世界の方々に、改めて、今、この場から、皆さんと共に、感謝の気持ちを表したいと思います。
三 地方創生
(観光立国)  全体で五百近い市町村が、今回、ホストタウンとなります。これは、全国津々浦々、地域の魅力を世界に発信する、絶好の機会です。  北は北海道から、南は沖縄まで。アイヌの皆さんが受け継いできた伝統音楽や食文化、琉球舞踊など、我が国が誇る全国各地の地域文化に触れていただく「日本博」を、本年、開催いたします。  国の文化財を積極的に活用できる制度を設け、地域のアイデアによる観光地づくりを後押しします。自家用車による有償の運送サービス制度について規制緩和を行い、外国人観光客の皆さんの地方での足もしっかりと確保いたします。  首里城の一日も早い復元に向け、全力を尽くします。三月には、那覇空港第二滑走路の供用を開始します。発着枠を十万回以上拡大することにより、アジアのゲートウェイとして、沖縄の振興に取り組んでまいります。  オリンピック・パラリンピックに向けて、サイバーセキュリティ対策、テロなど組織犯罪への対策に万全を期すことで、安全・安心をしっかり確保いたします。五年後の大阪・関西万博も視野に、多言語化、Wi‐Fi環境の整備など、観光立国の基盤づくりを一気に進めます。高い独立性を持った管理委員会の下、厳正かつ公平・公正な審査を行いながら、複合観光施設の整備に取り組みます。  更には、外国人観光客の多様なニーズに応える宿泊施設など世界に冠たる観光インフラを整え、二〇三〇年六千万人目標の実現を目指します。
(農産物輸出)  世界に目を向けることで、地方に新しいチャンスが広がります。  昨年、EUへの牛肉やコメの輸出は、約三割増えました。TPP諸国への乳製品の輸出も、二割を大きく上回る伸びとなりました。甘い「紅はるか」は、シンガポールやタイで大人気です。さつまいもの輸出は、昨年、四割以上増加しました。  先月、中国への牛肉輸出について、解禁令が発出されました。今月発効した日米貿易協定も活かし、おいしくて、安全な、日本の農林水産物の世界への挑戦を、力強く後押しいたします。  農地の大規模化、牛の増産や、水産業の生産性向上など、三千億円を超える予算で、生産基盤の強化を進めます。販路開拓など海外への売り込みを支援します。  神戸牛、ルビーロマン、ゆめぴりか。農家の皆さんの長年にわたる努力の結晶である、日本ブランドを、海外流出のリスクからしっかりと守ります。  CSF対策を一層強化します。野生動物の感染が発見された場合にも、家畜伝染病予防法に基づき、移動制限などのまん延防止措置を実施できるようにします。ASFについても、海外から持ち込まれる肉や肉製品の検疫を強化し、水際対策を徹底します。
(地方創生)  昨年の台風十九号では八ッ場ダムが利根川の被害防止に役立ちました。水力発電や農業用水などを目的とするダムについても、緊急時には省庁の縦割りを打破し、一元的に活用するための対策を、全ての一級河川を対象に、この夏までに取りまとめます。  相次ぐ自然災害の教訓を活かし、全国で、川底の掘削、堤防の整備、無電柱化を進めます。送電線の計画的な更新、電力会社、自衛隊、自治体の平時からの連携などにより、強靱(じん)な電力供給体制を構築します。防災・減災、国土強靱(じん)化を進め、災害に強い故郷(ふるさと)を創り上げてまいります。  東京から鉄道で七時間。島根県江津市は「東京から一番遠いまち」とも呼ばれています。二十年以上、転出超過が続き、人口の一割に当たる二千八百人が減少した町です。  しかし、若者の起業を積極的に促した結果、ついに、一昨年、転入が転出を上回り、人口の社会増が実現しました。  原田真宜(まさのり)さんは、パクチー栽培を行うため、東京から移住してきました。農地を借りる交渉を行ったのは、市役所です。地方創生交付金を活用し、起業資金の支援を受けました。農業のやり方は地元の農家、販路開拓は地元の企業が手助けしてくれたそうです。  「地域みんなで、手伝ってくれました」  地域ぐるみで若者のチャレンジを後押しする環境が、原田さんの移住の決め手となりました。  「地方にこそ、チャンスがある」。そう考え、地方に飛び込む若者を、力強く応援してまいります。東京から地方に移住して起業・就業する場合に最大三百万円支給する制度を、更に使いやすくします。「移住支援センター」を全国一千の市町村に設置し、移住へのニーズを実際の人の動きへとつなげてまいります。  都市に住む皆さんの地方での兼業・副業を促すため、人材のマッチングや移動費の支援を行う新たな制度を創設します。関係人口を拡大する��とで、将来的な移住につなげ、転出入均衡目標の実現を目指します。  企業版ふるさと納税を拡充し、地方における魅力ある仕事づくりを一層強化します。独占禁止法の特例を設け、まちづくりの基盤である地方の金融サービス、交通サービスをしっかりと維持・確保してまいります。地方の創意工夫を、一千億円の地方創生交付金で、引き続き応援します。  若者が将来に夢や希望を持って飛び込んでいくことができる。地方創生の新しい時代を、皆さん、共に、創り上げようではありませんか。
四 成長戦略
(中小・小規模事業者)  「東洋の魔女」が活躍したバレーボール。そのボールを生み出したのは、広島の小さな町工場です。その後、半世紀にわたり、その高い技術を代々受け継ぎ、今なお、五輪の公式球に選ばれ続けています。  全国各地の中小・小規模事業者の皆さんが、長年培ったオンリーワンの技術で、地域経済を支えています。しかし、経営者の多くが六十歳を超え、事業承継は待ったなしの課題であります。そして、若い世代の承継を阻む最大の壁が、個人保証の慣行です。  この春から、先代の経営者と後継者から個人保証を取る、いわゆる二重取りを原則禁止いたします。商工中金では、今月から、年間三万件、二兆円の新規融資について、個人保証なしの融資を原則とする運用を開始しました。  信用保証協会では、個人保証なしで後継者の皆さんの融資を保証する新制度を、四月からスタートします。経営の磨き上げ支援も行い、専門家の確認を得た後継者には、保証料をゼロとします。個人保証の慣行は新しい世代には引き継がないとの強い決意で、あらゆる施策を総動員してまいります。  七年前、十年ぶりの大改正を行った下請振興基準を、更に改正し、対象を拡大します。大企業に対しても、新たに金属産業、化学産業で、自主行動計画の策定を求めます。業界ごとの取引慣行に詳しい専門人材を下請Gメンに採用し、下請取引の更なる適正化に取り組んでまいります。  デジタル技術の進歩は、中小・小規模事業者にとって、販路拡大などの大きなチャンスです。デジタル取引透明化法を制定し、オンラインモールでの出店料の一方的引上げなど不透明な取引慣行を是正します。
(規制改革)  IoT、ビッグデータ、人工知能。第四次産業革命の大きな変化の中で、デジタル時代の規制改革を大胆に進めます。  本年から、無人自動運転を解禁し、中山間地域の皆さんに、安全で便利な移動手段を提供します。自動制御ブレーキを備えたサポートカーに限定した新たな免許制度を設け、その普及を拡大します。  AIが解析するデータのボリュームが、競争力を左右する時代です。個人情報を匿名化し、その詳細な分析を可能とすることで、ビッグデータの世界をリードしてまいります。  フィンテックによる多様な決済サービスが登場する中、金融分野の業法による縦割り規制を抜本的に見直します。マイナンバーカードの取得を促し、来年度中に健康保険証としての利用を開始します。あらゆる行政手続の電子化を進め、対面での確認が必要なものなどを除き、二〇二四年度までに完了いたします。  技術の進歩による急激な変化に対し、消費者の安全・安心を確保していきます。個人データの利用停止を可能とするなど、個人情報保護を強化します。あおり運転を刑罰の対象とし、道路へのカメラ設置などにより、悪質な運転者の取締りを徹底します。空港施設へのドローン飛行を禁止し、飛行経路の安全を確保してまいります。
(イノベーション)  吉野彰(あきら)先生のノーベル化学賞受賞を、心よりお慶び申し上げます。  吉野先生に続く、未来を担う若手研究者に、大胆に投資します。自由な発想で挑戦的な研究に打ち込めるよう、資金配分を若手に思い切って重点化します。安定的なポストを確保し、海外留学を含めたキャリアパスを確立することで、若者が将来に夢や希望を持って研究の世界に飛び込める環境を整えます。  変化のスピードを先取りし、これまでにない価値を生み出す鍵は、ベンチャー精神です。大企業などからベンチャー企業への投資を税制で支援し、いわゆる自前主義からの発想の転換を図ります。国の研究機関によるベンチャー企業への出資を促すことで、蓄積された研究成果や技術を新しい産業へと成長させてまいります。  第四次産業革命がもたらすインパクトは、経済のみにとどまらず、安全保障をはじめ、社会のあらゆる分野に大きな影響を及ぼします。国家戦略としての取組が必要です。  その基盤インフラは、通信です。5G、ポスト5G、更にその先を見据えながら、大胆な税制措置と予算により、イノベーションを力強く後押しします。安全で安心なインフラが、これからも安定的に供給されるよう、グローバルな連携の下、戦略的に取り組んでいきます。  次世代暗号などの基盤となる量子技術について、国内外からトップクラスの研究者・企業を集める、イノベーション拠点の整備を進めます。  月を周回する宇宙ステーションの整備、月面での有人探査などを目指す新たな国際プロジェクトに、我が国として、その持てる技術を駆使し、貢献いたします。将来的な火星探査なども視野に、人類の新たなフロンティアの拡大に挑戦します。  Society 5.0の時代にあって、教育の在り方も、変わらなければなりません。本年から小学校でプログラミング教育を開始します。四年以内に、全ての小学生、中学生に一人一台のIT端末を揃(そろ)えます。企業エンジニアなど多様な外部人材を登用することで、新しい時代の教育改革を進めます。
(アベノミクス)  今般取りまとめた新しい経済対策は、まさに、安心と成長の未来を切り拓くものであります。事業規模二十六兆円に及ぶ対策を講じることで、自然災害からの復旧・復興に加え、米中貿易摩擦、英国のEUからの離脱など海外発の下方リスクにも万全を期してまいります。  日本経済は、この七年間で十三%成長し、来年度予算の税収は過去最高となりました。公債発行は八年連続での減額であります。経済再生なくして財政健全化なし。この基本方針を堅持し、引き続き、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化を目指します。  この六年間、生産年齢人口が五百万人減少する一方で、雇用は三百八十万人増加しました。人手不足が続く中で、最低賃金も現行方式で過去最高の上げ幅となり、史上初めて全国平均九百円を超えました。足元では、九割近い中小企業で、賃上げが実現しています。  雇用環境が好転している今、就職氷河期世代の皆さんの就業を、三年間集中で一気に拡大します。この世代に対象を絞った求人を解禁するなど、あらゆる施策を講じ、意欲、経験、能力を活かせるチャンスを広げていきます。  兼業や副業をやりやすくするため、労働時間に関するルールを明確化します。労働施策総合推進法を改正し、大企業に中途採用・経験者採用比率の開示を求め、多様で柔軟な働き方が可能となるよう、改革を進めます。  経済社会が大きく変化する中、ライフスタイルの多様化は時代の必然であります。今こそ、日本の雇用慣行を大きく改め、働き方改革を、皆さん、共に、進めていこうではありませんか。
五 一億総活躍社会
(全世代型社会保障)  この春から、大企業では、同一労働同一賃金がスタートします。正規と非正規の壁がなくなる中で、パートの皆さんへの厚生年金の適用を更に広げてまいります。三千億円を上回る、ものづくり補助金、IT補助金、持続化補助金により生産性向上への支援、社会保険手続の負担軽減を行いながら、従業員五十人を超える中小企業まで段階的に拡大します。  高齢者のうち、八割の方が、六十五歳を超えても働きたいと願っておられます。人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。働く意欲のある皆さんに、七十歳までの就業機会を確保します。  こうした働き方の変化を中心に据えながら、年金、医療、介護全般にわたる改革を進めます。  年金受給開始の選択肢を、七十五歳まで広げます。在職老齢年金についても、働くインセンティブを失わせることのないよう、見直しを行います。  二〇二二年には、いわゆる団塊の世代が七十五歳以上の高齢者となる中で、現役世代の負担上昇に歯止めをかけることは、待ったなしの課題です。  年齢ではなく、能力に応じた負担へと見直しを進めます。七十五歳以上であっても一定以上の所得がある方には、窓口での二割負担を新たにお願いすることを検討します。併せて、かかりつけ医機能の強化を図るため、大病院の受診に定額負担を求めることで、現役世代の負担上昇を抑えます。  医療や介護について、予防への取組を強化することで、いつまでも健康で、活躍できる社会づくりを行います。  子どもたちから、子育て世代、現役世代、そしてお年寄りまで、全ての世代が安心できる「全世代型社会保障制度」を目指し、本年、改革を実行してまいります。
(子育て支援)  子どもたちの未来に、引き続き、大胆に投資してまいります。  昨年の幼児教育・保育の無償化のスタートに続き、この四月から、真に必要な子どもたちの高等教育の無償化が始まります。私立高校の実質無償化も実現し、子どもたちの誰もが、家庭の経済事情にかかわらず、夢に向かって頑張ることができる社会を創り上げてまいります。  保育の受け皿整備を進め、待機児童ゼロを実現します。これまでの取組により、待機児童の数は、昨年、調査開始以来、最少となりました。いまだゼロが実現できていない自治体には、保育ニーズに応じた整備計画の策定を求め、取組を強化していきます。  妊娠、出産、子育てへの切れ目ない支援を行います。来年春までに、子育て世代包括支援センターを全ての市町村に設置します。所得の低いひとり親世帯への支援を拡大し、子育てしやすい社会づくりを更に強化します。「希望出生率一・八」の実現を目指し、深刻さを増す少子化の問題に真正面から立ち向かってまいります。
(一億総活躍社会)  我が国には、意欲と能力あふれる女性たちがたくさんいます。全ての女性に活躍のチャンスを創り、その持てる可能性を十二分に開花することができれば、日本の経済社会は一変するはずです。  この六年で、女性の就業者数は、新たに二百九十万人増加しました。就業率は、二十五歳以上の全ての世代で米国を上回っています。M字カーブは確実に解消に向かっています。引き続き、女性活躍の旗を高く掲げ、女性の皆さんが働きやすい環境づくり、女性リーダーの拡大に向けた取組を一層進めます。更に、民間シェルター支援によるDV対策などに取り組んでまいります。  女性も男性も、若者もお年寄りも、障害や難病のある方も、更には一度失敗した方も、誰もが多様性を認め合いその個性を活かすことができる社会、思う存分その能力を発揮できる社会を創る。一億総活躍社会の実現こそが、まさに少子高齢化を克服する鍵であります。  バリアフリー社会の実現に向けて、公共交通機関における取組を強化します。耳の聞こえない方に対する、無償で手���通訳を利用できる電話リレーサービスを整備します。重度障害者の皆さんの就労の意欲を後押しするための仕組みを強化します。  「その能力は磨けば無限である。」  中村裕(ゆたか)医師は、長年、障害者雇用に熱心に取り組んでこられました。  「身障者の社会進出のためにもスポーツを奨励しなければならない。」  中村先生の情熱によって、一九六四年、東京パラリンピック大会が実現しました。その後、パラリンピックは四年おきに継続的に実施されるようになりました。中村先生の思いは受け継がれ、半世紀以上の時を経て、再び、日本へと帰ってきます。  本年のパラリンピックを、世界中の人々に夢や感動を与える、素晴らしい大会とする。障害のある皆さんが、世界で最もいきいきと生活できる国・日本を、皆さん、共に、創り上げようではありませんか。
六 外交・安全保障
(積極的平和主義)  日本が、初めてオリンピック精神と出会ったのは、明治の時代であります。その時の興奮を、嘉納治五郎はこう記しています。  「世界各国民の思想感情を融和し以て世界の文明と平和とを助くる」  オリンピック・パラリンピックが開催される本年、我が国は、積極的平和主義の旗の下、戦後外交を総決算し、新しい時代の日本外交を確立する。その正念場となる一年であります。  日朝平壌宣言に基づき、北朝鮮との諸問題を解決し、不幸な過去を清算して、国交正常化を目指します。何よりも重要な拉致問題の解決に向けて、条件を付けずに、私自身が金正恩委員長と向き合う決意です。  もとより、我が国の国民���生命と財産を守るため、毅(き)然として行動していく。その方針はしっかりと貫いてまいります。米国、韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。  北東アジアの安全保障環境が厳しさを増す中で、近隣諸国との外交は、極めて重要となっています。韓国は、元来、基本的価値と戦略的利益を共有する最も重要な隣国であります。であればこそ、国と国との約束を守り、未来志向の両国関係を築き上げることを、切に期待いたします。  プーチン大統領と長門で合意した、元島民の方々の航空機によるお墓参り、そして四島での共同経済活動は、着実に前進しています。一九五六年宣言を基礎として交渉を加速させ、領土問題を解決して、平和条約を締結する。この方針に、全く揺らぎはありません。私と大統領の手で、成し遂げる決意です。  日本と中国は、地域と世界の平和と繁栄に、共に大きな責任を有しています。その責任をしっかり果たすとの意志を明確に示していくことが、今現在の、アジアの状況において、国際社会から強く求められています。首脳間の往来に加え、あらゆる分野での交流を深め、広げることで、新時代の成熟した日中関係を構築してまいります。
(安全保障政策)  いかなる事態にあっても、我が国の領土、領海、領空は必ずや守り抜く。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。  この春から、航空自衛隊に「宇宙作戦隊」を創設します。更には、サイバー、電磁波といった新領域における優位性を確保するため、その能力と体制を抜本的に強化してまいります。  昨日、日米安全保障条約は、改定の署名から六十年を迎えました。日米同盟は、今、かつてなく強固なものとなっています。その深い信頼関係の下に、二〇二〇年代前半の海兵隊のグアム移転に向け、施設整備などの取組を進めます。抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担軽減に、一つひとつ結果を出してまいります。  日米同盟の強固な基盤の上に、欧州、インド、豪州、ASEANなど、基本的価値を共有する国々と共に、「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指します。
(国際社会の課題解決)  この七年間、八十の国・地域を訪問し、八百回を超える会談を重ねてまいりました。各国首脳との信頼関係の上に、国際社会が直面する共通課題の解決に向け、世界の中で、主導的な役割を果たしていく覚悟です。  中東地域における緊張の高まりを深く憂慮します。我が国は、全ての関係者に、対話による問題解決と自制的な対応を求めます。これまで培ってきた中東諸国との友好関係の上に、この地域の緊張緩和と情勢の安定化のために、これからも、日本ならではの平和外交を粘り強く展開いたします。エネルギー資源の多くをこの地域に依存する我が国として、こうした外交努力と併せて、自衛隊による情報収集態勢を整え、日本関係船舶の安全を確保します。  自由貿易の旗手として、二十一世紀の経済秩序を世界へと広げてまいります。EUから離脱する英国とも、速やかに通商交渉を開始します。TPPの更なる拡大や、インドを含めたRCEP交渉を主導します。データ流通の新たな国際ルールづくりを、大阪トラックでリードしていきます。  G20で合意したブルー・オーシャン・ビジョンには、既に五十九の国から賛同を得ています。この流れを更に世界へと広げていくことで、二〇五〇年までの海洋プラスチックごみによる新たな汚染ゼロの実現を目指します。  我が国は、五年連続で温室効果ガスの削減を実現いたしました。二〇一三年度比で十一・八%の削減は、G7の中で英国に次ぐ削減量です。長期戦略に掲げた脱炭素社会を早期に達成するため、ゼロエミッション国際共同研究拠点を立ち上げます。米国、EUなどG20の研究機関の叡智(えいち)を結集し、産業革命以来増加を続けてきたCO2を、減少へと転じさせる、「Beyondゼロ」を目指し、人工光合成をはじめ革新的イノベーションを牽(けん)引します。  世界の平和と安定、自由で公正で開かれた国際ルールの構築、気候変動をはじめとした地球環境問題への挑戦。より良き世界の実現に向かって、新しい時代の日本外交の地平を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
七 おわりに
 「人類は四年ごとに夢をみる」  一九六四年の記録映画は、この言葉で締めくくられています。新しい時代をどのような時代としていくのか。その夢の実現は、今を生きる私たちの行動にかかっています。  社会保障をはじめ、国のかたちに関わる大改革を進めていく。令和の新しい時代が始まり、オリンピック・パラリンピックを控え、未来への躍動感にあふれた今こそ、実行の時です。先送りでは、次の世代への責任を果たすことはできません。  国のかたちを語るもの。それは憲法です。未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは、私たち国会議員の責任ではないでしょうか。新たな時代を迎えた今こそ、未来を見つめ、歴史的な使命を果たすため、憲法審査会の場で、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。  世界の真ん中で輝く日本、希望にあふれ誇りある日本を創り上げる。その大きな夢に向かって、この七年間、全力を尽くしてきました。夢を夢のままで終わらせてはならない。新しい時代の日本を創るため、今日、ここから、皆さん、共に、スタートを切ろうではありませんか。  御清聴ありがとうございました。
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