Tumgik
#情報の断捨離
warehouse-staff-blog · 3 months
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Lot 1105(Late 1970's)
こんにちは 名古屋店 コジャです。
個人的に好きなJeansが久しぶりの登場です。
WAREHOUSE & CO. Lot 1105(Late 1970's) \25.300-(with tax) ONE WASHは\1.100-UP
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学生時代、 値段がお手頃だったこともあって買っていた【505】。
シルエットも好きでよく穿いてたなぁ~と当時の懐かしい想い出が蘇ります。 ですが、主にジャストサイズを選んでたことが災い?して年を重ねるにつれてウエスト・ワタリなどパンパンパン。 いつか穿くかなぁと思っていましたが断捨離してもう手元には無く(^_^;)
ただ今でも、 当時の好きな気持ちは褪せること無くやはり「いいなぁ」と感じます。
そういった気持ちがあるので数年前にもWAREHOUSEでリリースした際に穿いていたのがこちら。(バナーデニム)
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せっかくここまで穿き込んだからまだまだ穿きたい! という思いとは裏腹に体型の変化には抗えず。。。 穿けないことはないのですが、 加圧トレーニングかっ!というくらい締め付けられるので「今は」はお休み中。笑
「今は」色落ちサンプルとして活躍してくれています(^0^;)
そこで、 いつかWAREHOUSEからリリースされればと、 2代目《505 TYPE》を検討していたのでこちらを早速。
179cm,69kg SIZE:34(After Wash 私物)
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スッキリしたシルエットなのでジャスト目でとお考えの方も多いと思いますが、 今回私はサイズアップの“腰履き”気味で。
この特徴的な縦長のバックポケットをアピールする点でも腰位置を落として穿くのもオススメですよ。
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まぁ、 過去の穿けなくった悲しい経験からの安心感あるサイズ選びも含まれていますがσ(^◇^;)
福岡店 隠塚着用画像もご参考下さい。
169cm,70kg SIZE:33(ONE WASH)
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以前はフラッグシップモデル同様《バナーデニム》でリリースされていたのですが今回は"防縮加工"を施した新生地。
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防縮加工特有のツルッとした生地表面が“らしさ”全開。 そして嬉しい“耳付き”。
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これはガンガン(洗って)いこうぜ!な気分。
皆様も是非お試し下さい。では失礼足します。
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ari0921 · 4 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
   通巻第8118号
 孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
  吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
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 自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
 孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
 高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
 
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
 
 吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
 ▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
 孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
 孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
 戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
 「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
 吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
 つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
 江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
 「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
 つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
 ▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
 孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
 上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
 議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
 中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
 下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
 中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
 ▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
  『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
 「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
 いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
 アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
 (十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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extracts-sheep · 4 months
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倉本圭造@新刊発売中です!
@keizokuramoto
川口市のクルド人問題に興味があってもSNSには「ガチ右翼さん向けに煽りまくった情報」しか見つけづらくてよくわからない、という人向けに客観的な現状のまとめと落とし所の提案を書きます。この問題は背景情報をよく知らずに脊髄反射すると、川口市の担当者や埼玉県警が過剰に排外主義的に”見えちゃう”ところに問題があり、例えば先日放映されたアベマプライムの番組などは、よく調べずにテキトーな印象論をぶつけあう���けに終わった結果、本来わかりあえるべき部分でも過剰に対立が演出されてしまい出演された川口市議の荻野さんの印象が物凄く悪くなってしまっていたのが可哀想でした。
・ 1●クルド人特有の背景を知った上で議論しないと無意味 まず、川口市のクルド人問題は、他の在留外国人の問題とはかなり違う背景があることをまず理解する事が重要なんですね。 というのは、あえて批判的な言い方をすると、査証免除措置(トルコ国籍者は観光ビザも不要)で来日したあと、そのまま勝手に居着いてしまって既成事実化し、「難民申請」をすることで「申請中」の宙ぶらりんの状態で長期間滞在して子供も産んで…という形になっているクルド人が多いってことなんですね。 クルド人問題について議論する時に、「この部分の話」を無視したままだと、例えば川口市長だったり川口市の議員さんだったりが言っていることが物凄く排外主義的に見えちゃうのが注意が必要で。 「正規の在留資格」じゃないから、就労許可がない人もかなりいるし、健康保険への加入も不可になってしまっている人も多く、実態として「制度の谷間」にいる人が沢山いる状態なんですね。 そこには他の外国人とは全然違う難しさがあって、そもそも正規の在留許可がなければ「住民票登録」もしてないからいったい何百人、何千人いるかも正確にはわからないし住民税も払っていない状態が続いている。 それでも市内で子供が生まれたら面倒を見なくちゃいけないし、公教育でも受け入れなくちゃいけないし、”無保険者”がかなりの数でいると考えられる中で病院でのトラブルも解決しないといけない川口市の担当者から見たら切実な問題なんですよ。 こういう”制度の谷間問題”に対して、川口市自体は完璧とは言えないまでも自分たちのできる範囲でかなり頑張って小中学校で差別なく受け入れようと取り組んできた事実があると思います。 スマホ片手に「クルド人の人たち可哀想ぉ〜日本のレイシストどもなんか●ねばいいのに!」とかSNSで発言して、10分後にすっぱり忘れちゃえる人たちの目線で解決できる問題ではない。 ・ 2●素人論でなく「専門家の知見」ベースでの解決の模索が必要 一方で、2月初頭にNHKでこの問題が取り上げられた時には、世界の移民問題の専門家である一橋大学の橋本直子先生がかなり事前に番組スタッフさんにレクチャーを繰り返し、単に「クルドの人たちが可哀想だ、なんで助けてあげないんだ!」というメッセージだけでは終わらない深堀りがなされていました。
もちろん、制度の狭間に落ち込んでしまって困窮しているクルド人に対して何らかの対処が必要な事はリベラル側から見ると言うまでもありません。 ただしその「対処」の実現は、単に ・実際に共生している川口市民の懸念を「このレイシストめ!」と叩き切るだけ ・欧米の国家でも当然に行われている出入国管理実務上に必要な制度的問題を全部無視して「人権の大事さを理解しない日本政府が悪い」と断罪するだけ …では実現できないということです。 NHKの番組放映後橋本先生はSNSの右翼さん(のうち一番ヤバい層)から 「このハシモトって奴はお花畑の多文化共生論者だぞ!こいつは日本をぶっ壊すスパイだな!実は中国人に違いない!」 …とか言われまくってましたが(なぜ中国人ってことになるんだw)、むしろリベラル側から「あの位置に旗を立てに行く」ってことがどれだけ明確な問題意識と勇気が必要な振る舞いなのか、理解が必要だと思います。 SNSの右翼さんに言いたいのは、「日本は日本人のための国です!出てってください!」みたいな、アメリカ的文脈に直接翻訳したらガチ問題視されるような発言をそのまま主張しまくったって先進国日本で実現するわけないってことです。 一方で、橋本先生が旗を立てていこうとしている「受けて立つリベラル」みたいな路線をキチンと国際社会的に説明可能なロジックを通して実現していけば、 公正で人道的で、かつ「厳格な」出入国管理政策 …を実現し、制度の谷間に落ち込んでヒドイ目にあう人を減らしつつ、かつ右翼さん側の懸念もある程度満足させられる着地点が見えてくるでしょう。 また、この問題について興味があるリベラル側の意見を持った人は、単に「レイシストどもめ!」というふうに斬って捨てに行くと、「実際色々困ってる川口市民」が丸ごと排外主義に飲み込まれていく事に注意するべきだと思います。 むしろリベラル側の人は、実際に川口市の担当者や埼玉県警が現場レベルの共生策を実行しようとかなり頑張っているプロセスを否定せず迎えに行って、そこにどういう支援が足りないのかを政策的・世論的にサポートするような役割を果たすべきです。 アベマの番組に出ていた荻野市議なども含め、川口市や埼玉県警は、SNSの「ガチ排外主義」の人に比べたら遥かにマイルドでリベラル寄りの感性を持った上で現実的な落とし所を模索しており、その「現実を見た対策」を丸ごと「リベラルの敵」として断罪していたらこの問題は解決できません。 ・ 3●リベラル側が目指すべきざっくりした「落とし所」はこのあたりでは?という提案 ざっくりした結論として、橋本先生の言う「公正で人道的でかつ厳格な」政策という意味でこのクルド人問題の落とし所を考えるとするなら、以下画像のようなところになるのだと思います。
アベマの番組にクルド人当事者として出演されていたユージャル・マヒルジャンさんが、2022年のトルコ地震後1500人ぐらい一気に川口にやってきて、彼らは日本の風習にも馴染めていないから問題を起こす人もいる…みたいな話をシレッとしてたんですが、いやいやちょっと待ってくれと(笑) いまいる人口を、どうやって「馴染んでもらうか」という話をしている時に、そんなダダ崩れに次々と入ってこられても困りますという話がありますよね。 主権国家として「どこかで線を引かなくてはいけない」としたら、そこに引くのはリベラル側としても大枠は理解可能なことなのではないでしょうか。 そういう方向で「際限なく開いている国境をキチンと管理するようにする」ことと引き換えに「正規の滞在許可」を出していくことは、多くの場合すでに滞在しているクルド人側にとっても望むところでしょうし、結果として川口市に住民税も入るようになりますし、健康保険に若い労働者が沢山入る���は日本の財政的にも望ましいことでしょう。 ・ 4●「実態と建前」が乖離しまくっていた状況の解消が始まっている 私の経営コンサル業のクライアントの建築会社の社長いわく、既に日本の「現業」的な職場は外国人なしには成り立っていないとよく言います。 「SNSの愛国者さま」がいかにSNSで排外主義を叫ぼうとも、実際そういう人が汗水流して現場作業についてくれるわけじゃないんだからしょうがないじゃん、という側面は明らかにある。 今の日本はその「理想と現実」の間で物凄くナアナアな抜け穴だらけの制度を運用してきて、制度の狭間で様々な不幸を生んできてしまっています。 今後それを「責任を持って正常化」していく流れは既に起きつつある。 SNSの右翼さんは単に「ガイジンどもを叩き出せ!」的な事を吠えるだけでなく、出入国管理実務をできるだけ「シンガポール型」の厳格なものに近づける事を目指すべきなのだと思います。 一方でリベラル側は、単に実際に起きている不幸を全部「レイシストの日本人ども」「人権を理解しない悪辣な日本政府」のせいにして終わりにするのではなく、「受けて立つリベラル」として徹底した文化統合策を細部まで後押しし、 「実際に困ってる川口市民の懸念にちゃんと応えられるのは右翼さんより自分たちなのだ」という事を具体的に示していくことが求められている …といえるでしょう。 ・ 5●「米国のリベラルの公式見解」は「非英語圏」の実情と合っていない強者の論理にすぎず、無責任な放置を助長してしまう 「素人の印象論」的に終わってしまったアベマの番組と、「移民問題のプロ」が監修したNHKの番組との違いを眺めると、要するに 本当にリベラル的な良識を現場に即して実現しようと思えば、その対策には「アメリカのリベラルの極端な原則論」からすれば問題があるように「見える」ものが含まれる が、 むしろそこにちゃんと踏み込んで行く事が「今の時代の責任感あるリベラルの姿勢」なのだ …という本質論が眠っているように思います。 例えば「日本で暮らしたいなら日本社会に馴染んでください」という右翼さんの求めに対して、「アメリカやカナダのリベラルの公式見解」をぶつけて終わりにしてしまうリベラル側の「よくある態度」というのは、移民問題のプロの中では問題があるという認識が浸透しつつあるそうです。 なぜならアメリカでそういう「公式見解」が成立するのは「英語とアメリカ文化のデファクトパワー」が圧倒的だからこそ成立する強者の論理に過ぎないからです。 逆にスウェーデンなどは、「スウェーデン語や風習を強制してはいけないのでは?」というような原則論的な理想主義を最初は掲げていたけど、それは逆にその層が社会から分離してゲットー化し、余計に排外主義的問題が高まる元凶になってしまったらしい。 だからこそ、非英語圏においてはアメリカにおいてのリベラルの原則よりも「明確に一歩踏み込んだおせっかい」をしていくことが、むしろリベラル的な良識を実現するために絶対的に必要だという事は、移民問題の専門家の間で徐々にコンセンサスになってきているらしい。 「今そこにある問題」に対して「現実的対処を求める層」を、「アメリカのリベラルの公式見解」から断罪して切り捨てるだけの簡単なお仕事しかリベラル側がしないなら、SNSで吹き荒れる排外主義を止めることなど決してできないでしょう。 トランプムーブメントが止められないアメリカ、ガチ極右政党が躍進していない国などほとんどない欧州の実情を考えれば、そういう「リベラルの公式見解で断罪しまくるだけ」でこの問題が解決できない事は明らかです。 ・ 6●「欧米の失敗」が明らかになってきたからこそ、一周遅れの日本はちゃんと対策ができる道が開けつつある NHKの番組後、橋本先生に直接感想を伺ったところ、 「ああいう発言をすればリベラルから袋叩きにされるかと思っていたが、案外クルド人の人たち御本人や、リベラル層からは好評価が多くて意外だった。おそらく、欧州の極右政権が問題になったり、米国のバイデン政権ですら何らか国境線をフルオープンにはできない事情が明らかになってくる中で、現実的な対処をすること自体を否定していてはいけないのだ、という風潮がリベラル側にも出てきているのだと思う」 …という話をされていたのが印象的でした。 このように、一周前の欧米の移民政策が明らかに問題を抱えている事が明白になってきたからこそ、「今までなら合意できなかったことが合意できる」流れを作り出せるはずです。 その先で「日本ならではの徹底した文化統合策」をいかに後押ししていけるかが問われています。 右翼さんは右翼さんなりにできる限りシンガポール型の着地を目指す一方で、リベラル側はどういう「包摂」を目指せばいいのか?については、リプ欄に貼ってある記事で詳説したのでぜひお読みいただければと思います。 リプ欄の記事では他にも、 ・実際に川口市でどの程度の問題が起きているのかを犯罪統計などから定量的に分析する ・実際に川口市で行われている共生を目指す政策の実例や、その路線をさらにサポートしていくのに何が必要なのか? …といった多様な論点を詳しくまとめてありますので、この問題に興味がある方はぜひ記事本文をお読みいただければと思います!
午前6:25 · 2024年3月2日
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kyouyounoaruhito · 2 months
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今年から図書館を利用しはじめた話
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本好きではありますが、これまで図書館というものをあまり利用してこなかった私。
全く行ったことがない!というわけでもなく、小学生の頃はよく学校の図書館を利用していましたし、学生の時には学校の図書館を利用することはよくありました。
ただ、「公共の図書館」というものを利用したことがなかったのです。 不特定多数の人間が触ったものを読むのか・・・と少し嫌悪感があったため、近寄ろうともしていなかった気がします。
そんな私が今年から公共の図書館を利用し始めるようになりました。
きっかけは去年末からはじめた断捨離。 家中のものを見直して使っていないものや要らないなと思うものをひたすら処分していきました。 本はどれも捨てられない!と思っていたのですが、意外と本棚を見返してみると、一度読んでから読み返していないものや時代遅れの解説書などが出てくるものですね。
要らなくなった本はブックオフの買取に出してみましたが、購入時の値段に比べると売り上げは雀の涙・・・。
なんだか悔しくなったので、時事的な情報を知りたい時に読む本や、購入するか迷う本は、図書館で読んでみてから判断するのも良いかもしれない!と思い、図書館通いに挑戦することにしました。
���人的には図書館のメリットもデメリットも同じくらいの割合であるかなと感じています。
メリットは ・無料で本を思う存分読むことができる ・期限があるから読書を後回しにしなくなる デメリットは ・他人も触るのでたまに汚れがある ・期限があるから用事が立て込んでいる時には辛い
潔癖症の人には難しいかもしれませんが、ある程度我慢できる人なら利用する価値はあるかなぁ・・・。 出版年が新しい書籍だと、比較的綺麗な状態のものが多いです。 古い本だと謎の汚れがあったりするので、借りる時には出版年の確認もしてみて下さい。
最近の図書館は、インターネットで蔵書確認や貸し出し予約などもできます。 私はいつも家で蔵書検索・予約をして、図書館には受け取りと返却のためだけにいくことが多いです。 電子書籍での貸し出しもあるみたいで、まだそちらは挑戦できていないのですが、近いうちに借りてみたいなと思います。
まだ通いはじめて2ヶ月ほどしか経っていないのですが、すでに50冊以上は借りて読んでいます。
基本的には書籍は本屋さんで買って自分の本棚に並べていたいタイプなので、購入頻度を落とすことはなさそうなのですが。笑 図書館もうまく併用して、教養を身につけていきたいと思います!
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kennak · 2 months
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タイトルの通り。末端のケースワーカーやってるけど最悪。そろそろ異動かなってくらいにはやってる。年度末を控えてるけど、正直今年で終わりじゃなかったら辞めてると思う。何が嫌かって言うと、命を預からされるところとやりがいがないところ。あと制度が古過ぎるのが目につくところ。そこに付随する様々なイライラ。人を見下しちゃいけないって道徳で学ぶけど、一人一人寄り添って真面目に対応してると持たない。最初は真面目に話聞いてたけど、酷い目に遭うことも多かったし気持ちの面で負担感があった。今はナマポほとんどをクズだと思ってるし、人生の価値は年数とかじゃないなって思った。あいつらが80年生きてこっちがその半分にも満たなかろうが、間違いなくこっちの人生の方が総合的な価値も世間への貢献も上だと思う。配属されたらいきなり担当させられて、あれこれ相談に乗ったり時には厳しく赤の他人の生活のお世話をさせられる。100は行かないけどそのくらい。みんながみんな手取り足取り教えないとってレベルじゃないけど、一人で生きていけないような奴は全然いる。そんなことする意味ないくない? 言うこと聞かないで好きに酒飲んだり勝手に退院したりして、それで死んだら公務員が悪いんだって。叱る以外になにしろってんだよ、20超えて自分で出来ない、理解しようとしない方が悪いだろ。親族も文句言う前に引きとって手前でやれよ。誤嚥で施設が訴えられてのあったけど、あんな感じのことなんかよくある。養えない支えられない、そのくせ一丁前に訴えはする親族。生きてるうちは親族の役に立たないし地域住民のお荷物だけど、せめて死後に親族のゴネる理由になれたのは生まれて来た意味があったのかもね。なんで知らねえやつの人生背負うんだよ、金と介護とかの手間を消費するだけの人生なのに。あとやりがいもない。大体のこっちがやるのは家に行って話聞いて、金出せる出さないの話するだけ。何でもかんでもとにかく金が出るか聞かれて、例えばテレビの修理代は出せないって言ったらすぐゴネゴネ。大人しく諦める人ももちろんいるけど、面倒臭いやつはとことんワガママ。議員連れてくる時もある。そう言う時はもっと面倒臭い。楽だから金出すって言ったって税金なんだし、それに一回金出すとズルズル文句を言うから基本は渋る。でもまたゴネ始める。普通の人って欲しいものあったら働くなり節約なりすると思う。それをまず職員にゴネ続けて目標達成しようっておかしくね? 働けよ。仕事よりゴネるの楽なのは理屈はわかるけど、他の住民の皆さんは働いてそれを実現してんだよ。なんで当然のようにあれもこれも要求できるのか教えて欲しい。引越し代、マッサージ代、タクシー代とかは自治体が待つことが多い。引越しはこの中だと要求されることは多くても金出すことはすくないか。意味わかんねえ。引越しなんか普通の家はそうそうしねえし、マッサージなんて受けねえ。タクシー使わねえと病院行けないなら、入院かお看取りのある施設でもどうぞ。あと制度の作りが甘い。と言うか性善説すぎるから悪いこと考えてる人に対して後手に回るし、古いから最近のお金の流れの実情に沿ってない。て言うかみんな言えば働くって前提だから、病気ですって言われるとまた手間かかる。ちょっと腰が痛い、体がだるい、気持ちが乗らないですぐ病院の先生は診断書書くから、そうなるとこっちはお手上げ。病気ですって言われたらもう何も言えなくなる。そんくらい通院して我慢しながら仕事してる人もいますやって言ってやりたい。でも言ったら揉めて面倒になるから任期ギリギリまで見逃すのが一個人から見たら一番楽、でそれが横行する。不服審査とかも簡単にやれてスラップ訴訟みたいに出来るし、それでこっちの体力使わされるのもしんどい。制度の悪用に弱いのはどこもそうかもだけど、こっちは不正受給やらなんやらある上に、税関係みたいに本人の意思をガン無視して差押とかまだはできないのが歯痒い。色々言ったけどセーフティネットに頼る人間がみんな嫌いなんじゃない。障害があっても出来るだけ働いてる人もいるし、高齢でフルタイムは無理だけど調整しながら頑張ってる人もいるし、シングルマザーで逃げて来た中仕事と子育てに奮闘してる人もいる。自分にできることをやった上で、冷静にこっちに相談を投げかけて欲しいし、実際にあったこと、貰った金をちゃんと言って欲しい。これって無茶言ってないと思うんだけど。これが出来ないから社会の爪弾きなんだろうけど。確かにこの制度がなくなると治安悪化ってのが見えてくるので、何かしらの形で必要なのはわかるけどもっと縮小していいんじゃないかな。それか事務系の公務員じゃなくて、警察とかそう言フィジカルに長けた人がやるのがいいと思う。言ってわからない平均未満の人間なんだから、暴力で躾をやってもおかしくないと思う。先月まで子供関係の伝票処理してました! みたいな人がいきなり来て金返せとかヤクザ上がりと揉めるのってめっちゃ辛いと思うし辞める人がいても不思議じゃない。でもそれで辞めちゃうって生活保護の連中が生きてることによる外部不経済だろ。なんでこんな連中のせいで人生を狂わされるのかわかんねえ。総じて気に食わないことばっかり。他の仕事も気に食わないなってことはそりゃあるけど、この仕事の不快感はまた別だなと思う。俺の税金がこんな無駄遣いされてるなってのを見るのはやるせない。その分社会保障費が減れば家計に余裕も生まれるし、子どもだってもっと持てたかも。貧困の問題で切り捨てるのか! みたいなこと言う人いるけど、こんな連中のためにみんなが共倒れする方が馬鹿らしい。こんな連中に税金泥棒って言われると鏡をくれてやってその分収入認定してやりたくなる。もっと金締め上げて生きていけなくするべきだ。全体の割合でいくと年寄りばっかなんだけど、若い時備えてなくて死ぬ間際は生活保護って本当にムカつく。俺たちが老いた頃には亡くなってるだろう制度に乗っかってオムツ代貰って偉そうに。しかもたまーに仕事の仕方とかで説教してくるやついるんだよな。いやそろそろ人生の総まとめの時期だろうけど、人に説教できる人生じゃないじゃん。障害に関しては一括りにすべきじゃないと思う。身体、知的と大体はそのお母さんの世帯とかは生活保護と別制度で手厚くして欲しい。知的の人ってすごい素直なんだよ。仕事をする意味が収入以外に日中活動の確保とか社会とのつながりとか、他の側面でやるべきって事情もあるけど、結構ちゃんと仕事してこっちに報告してくれる。普通に話して普通に言ったことを聞いてくれるから、話をしてて全く困らない。噛み砕いたりする時や、メモにまとめて渡す時もあるけど、別にそう言う個別対応は苦じゃない。あの時やってくれたとかでその後ゴネることはないし。精神障害者はもっと働けって思う連中や、処方された薬を自己判断で飲まずに困ってるようなのが多くて最悪。ここの連中も割と職員からは嫌われてると思う。うつとかでも作業所に行くなりしてくれてればまだわかる。仕事をまだやろうって意思を感じるし。後結構いるのは発達もあるのかもだけど、精神的に辛いですってゴネまくって仕事をしない若い奴ら。20代で家にいて、いざ訪問すると普通にゲーム機とかあんのね。こいつらゴミだなって思う。このまま一生制度に世話になるんだなって、何も生み出さねえ国民ガチャのハズレ。あと人格障害の連中は本当無理。比喩じゃなく死んで欲しい。一番手間がかかるし、精神的にも負荷がかかる。無理と言って理由を述べても、自分の納得する答えが得られるまで延々電話したら窓口に来たりする。仕事もしないし友達も家族もいなくて暇だから。大体家族は手を引いてることが多い。病院やらも出禁になり、関わりがあるのが生活保護と障害の窓口だけになるけど、こっちは出禁までは出来ない。聞く価値のない話を丁寧に繰り返して時間を取られて残業する羽目になるのはもらえる金より精神的な負担が重くて辛い。後ヤクザとかすぐ怒鳴るタイプの連中。こう言うのに性別関係なく担当をつけるのは社会の進歩だなぁと思ったのも束の間、お尻を触ったりするような奴がいるらしくそれじゃ意味ないなって思った。てかそんなのあったらすぐ通報したらいいのに。職員の尊厳の問題なのに何を躊躇ってるのかわからない。実際こいつらも言い合いになると本当体力使う。たまに病院でもらった薬転売してるやつとかいるし。普通の国民の生活とかなり切り離されてるし、他に色々日本に問題があるからこれも取り上げられないけどこれも早く直した方がいい問題だと思う。社会の汚物を生かす意義のあるマイナスの仕事です。月曜もまた皆さんの税金を無駄使いしますね!
生活保護のケースワーカーやってるけどもう無理
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manganjiiji · 6 months
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日記書いてる場合である
この日記……途端に無意味に思えてきた!日記本にするほどの内容でもないし、日記本にする必要がないのなら、その日記、なんか意味あるのかな……みたいな、日記本至上主義みたいな思想になってしまっており我ながら笑った。日記祭での衝撃が大きく、まだ尾を引いているようだ。日記本は面白いし素晴らしいこころみだと思うが、別にみんな日記を本にするために書いているわけじゃない(勿論するために書いている人もいる)。この日記はなにをもって始まったのかというと、Twitter上で私生活のあれこれ全てを呟くことをやめるかわりに、生活のことはこちらにまとめて書き、見たい人はそれでワンクッションになるように、みたいな考えであった。当時の私はTwitter上で行動全てを報告しないと頭がおかしくなるというつい廃だったので、まずそれをやめてもう少しクールなアカウントになろう、という気持ちがあったと思う。この日記に一日の私生活をまとめて書けば、Twitter上ではジャンルやカップリングのことを言うだけですむのではないか?または、緊急性の高い拡散や共有のみに絞れるのではないか?という目論見だ。実際にそれはある程度はそう機能したが、最近はもうどこまで日記でどこからをTwitterで言うかがだんだんゆるゆるになってきた気がします。というかまたTwitterで全ての行動を報告しているのでは…という日がよくある。フォロワー数が少ないので気が緩んでいるのもあると思うが、せっかく日記に私生活を分けているのだから、改めて少し自制したほうがいいなと感じる。tumblrだけ見てくださっている方には「はてな」という感じになる書き方をしていることがあるのは、この日記は基本的にTwitterを見てくださる方が、補助情報として使うためのものだからです。Twitterを見てくださっている方への付録みたいな感じで書いているので、基本情報や重大情報はそもそもTwitterで発信しており、そちらは日記に書いていないことがある。予想外だったのはtumblrにも日記文化があり、ここでのみ繋がっている関係(相互フォローの方など)が幾つかある事だ。これはこれでおもしろいなと感じている。Twitter上の私というのは、つまり「BL二次創作小説を書く私」であって、それは当たり前すぎるので日記ではわざわざ書かないが、その空白をなんとなく察してこの日記が読まれていることもあるのかと思うと、かなり不思議な感じがする。この日記はTwitterの補助装置なので、メインコンピュータの姿を知らないまま、このバックアップというか補完的なサブコンピュータのメモリを見られているのかなと思うと楽しい。もちろんTwitterも見て下さって全く構わないのですが(IDは@manganji_ です)。ここに殆どリンクを貼らないのは、リンク系は全てTwitterでの告知などで完結しているから。共有も拡散も、いや、言うなら貼れや、URLを、と思われることもあるかもしれないのだが、だいたいTwitterのほうですでに言及しているので、ここに例えば書籍情報のURLを貼るとか、別のサービス(プラットフォーム)のリンクを貼るとかは、ないなあ、と思った。tumblrびとたちは、この閉じた感じも含めて愛している感じもある。この日記に対しての自己言及にここまで文字数を使えるのもすごいと思う。つくづく私は話が長い人間だ。同じことを言葉を変えて何回も言うし。(これに関しては悪いと思っていない。二つの言い回しで表現して初めて伝わる、内容の「位置」があると思うから)
朝4時に起きて、何度かあんスタを叩き、5時を過ぎたところで、簡易的なPC用デスクとプリンターを買った。この部屋とは長い付き合いになると思うので、家の中をもう少し整備して、やりやすいように変えていっていいのではないかと思った。大学の編入学試験を受けた際、面接で先行研究にとにかくもっと当たれと言われたので(その通りである)、別にまた編入学試験を受けるわけではないのだが、先行研究の論文を印刷しまくりたい、という欲が湧いた。ついでに、PCもいちいち書き物机に引っ張り出してくることをしていると全然使わなくなってしまうので、専用の机に定置し、いつでも印刷できる状態にしようと思う。書き物机というか、私の机は食卓でもありドレッサーでもあるので、ご飯を食べたり化粧をしたり、ノートや参考書を開いて勉強したりあんスタを叩いたり、とにかく役割が多いので、それに関連した物も多く、どんどん利用できる面積が狭くなってきている。そのうちまた机の上を断捨離して面積を増やさなくては、と思うが、今のところ化粧品とあんスタのグッズ、文房具がどんどん机の上に進出している。それでもまだ勉強する面積は確保できているので、この机にして本当に良かったと思っている。
まず印刷してファイリングしておきたい先行研究、論文、記事については、今日すでに検索して目星をつけてある。でも正直あまり、まさにこれ!という研究や記事は数本あったが、あとは「まさにこれじゃない、まさに、こういうことを書いている無駄な論文が多すぎる」みたいな感想をいだき、つまんね〜気持ちになった。とくに厚労省関連。クソがよ。そういうことじゃねえんだよ、というか………お前らがやれよ、仕事を……なんで、NPOに頼ってんだよ……おい……というむかつきを最大限感じた。もちろん行政のなかにも動きを作ろうとしている方がたくさんいるのはわかっているが、それはまだまだ表面化していない。論文や記事を読んでいく中で、だんだん「私は何がしたいのだろう」ということがよくわからなくなってきた。そもそも福祉社会学でいいのか?ということもわからなくなってきた。でもまあ、社会学の先生に「それは福祉社会学の領域であってうちよりもっと研究が進んでる大学なり研究機関がある」と呆れ気味に言われたので(ありがとう先生、無知ですみませんでした)、今のところ福祉社会学という方向を体が向いている。うーん。たぶん私のしたいことは、支援の方向性としては、虐待を生き延びた人々おもに若年層が、精神疾患を治癒しつつ、就労できるまでの活動をサポートしたいということだと思う。そしてもうひとつは、たぶんこちらが主目的なのだが、虐待を生き延びた人達の苦しみはそこで終わらず、かなりの年数を重い精神疾患とともに、貧困や、自分ではハンドリングできない苦しい生活の中で暮らす困難に陥ってしまう、ということ、その人たちのための支援が必要なことを世間に広く知ってほしい。もちろん知られていることは多いが(虐待サバイバー当事者の本やルポなども出ている)、ニュースで虐待死事件が報じられた時に、どうしても「虐待されても死ななかったやつはマシ。死ななかったんだから生きていけるでしょ」的な圧を感じてしまう。しかし、虐待を生き延びても、精神疾患やトラウマのために就労がうまくできず貧困に苦しむなど、第2第3の苦難が待っている。何よりもつらいのは、「虐待を受けずに育った人と同じ土俵で戦わなくてはならない」というシンプルで残酷な現実だ。虐待を受けていくら教育が自分から抜け落ちているとしても、体力や栄養が落ちているとしても、病気だとしても、そんなこと誰にも言えない。なぜなら、誰も「そんな話は聞きたくない」からである。誰だって親(家族)との確執くらいあるでしょ、虐待とか言って大袈裟に傷ついて、こっちだって「何も無い」わけじゃないっつーの、と思われて終わるだけなのが手に取るように想像できる(これはもう恐怖という名の偏見が濃いが)。ちなみに、虐待を受けても、それをあまり苦とせず精神疾患にも陥らず、普通に生きていける人ももちろん多数いる。そういう人は別に支援を必要としていないのでいいのだが、支援を必要としている人にはまだまだそれが行き渡っていない。うつ病を始めとする精神疾患、発達障害、その他いろいろ、社会生活上または、就労の場所においてハンデを抱えている人というのは、健康な人、健常者にとっては「めんどくさい、なんなら給料泥棒」な存在である。明らかに健常で優秀な人のほうが仕事量が多いだろうし、うまくできない人の尻拭いもそういう人達が結局はやらされている。いわゆる「仕事の出来ない人、すぐ休む人」の全員に疾患や障害があるかと言われればそうではないと思うし、虐待を受けていたのかと言われればそうではないと思う。でも頑張って工夫して自分なりに最大限努力してみても、どうしても、健常者の働きぶりに追いつけない、そんな自分を責め続けてしまう、そういう虐待サバイバーが、苦しんだまま、トラウマ治療も精神疾患の治療も受けずに孤立しているのではないかと思うと、もう気が気でない。世間の人というか体も心も強く生まれついた人は、かなり冷酷である。これははっきり言うが、まじで冷酷であるし、邪悪とも言えるケースさえある。自分の体や感覚がベースだから、他の人も当然自分と同じくらいのことはできる、努力の問題だと思っている。んなわけねえだろ。てめーーーーーーみてえに恵まれた体も生育環境も持ち得てねえんだよこっちは💢💢💢💢💢💢💢💢という呪詛が全国の虐待サバイバーから発せられていると思う。それでももちろんそんなことは口に出さない。誰もそんな話は「聞きたくない」からである!あー!むかついてきた!今までの上司も社員もあいつもあいつもあいつもあいつも!ああーーー!!良かったですね健康に生まれ育って他人を踏みにじることで勝ち上がっていけて!!!!!!私怨で荒ぶってしまった。まあこういう問題はACEサバイバーだけではなく、障害者問題やジェンダー平等問題にも通じてくると思う。全ての人が健康な成人男性として仮定された日本の就業システムの根幹的な問題だ。そもそも8時間労働は長いし、週に5日は多い。でもそこまで人員を稼働させて、敗戦という傷を工業国として立ち直ることでどうにかこの国は国際社会での立ち位置を固めることができた。つまり、日本から「仕事」を取ったら何も残らない、という恐怖があるのだと思う。他の国より多く長くよりプレッシャーをかけられて働いて、それは高品質で安いものがたくさん作れるに決まっている。しかしもうそれをやっても勝てないし追いつけないのだから、人間を守る方向で、一人一人が歯車ではなく人間として生きる方向で、産業の衰退を「推し進めて」いかなければならないと思う。マイナス成長でどうやって生きていくねん、と思うが、もう何をどうやっても生きていけない人達がいることを認めるしかない。正直今の60代以上が全員鬼籍に入れば、こんなに苦しい社会は終わると思う。こんなに少ない人数でこんなに大勢の高齢者を生かすことは、現役世代にかなりの貧困を強いる。あと30年すれば、そして成長を前提とした年金モデルをやめれば、どうにかこうにかもう少し人間らしい社会になると思う。そのためには今から徹底的に、いわゆる「弱者」と呼ばれる側の人々への支援を充実し、そもそもの競争社会的な思想を破壊しておかなければならない。生まれ育ちや障害やジェンダーに関係なく、お互いを尊敬・信頼しあって仕事ができるような仕組み作りをしていかなければいけない。福祉を充実させ、仕事ができる人、健康で優秀な人は高い給料をもらい、そこまでできない人はできないなりの給料をもらい、それで生活していけるようなインフラや、なにより思想を私たちが持たなければならない。虐待を生き抜いてなお苦しむ人々のケアや支援を充実させるのがまず最初だが、虐待が起きない社会がいちばんいいに決まっている(ただ、どこまで社会がよくなったとしても、子供を虐める親や養育者は絶対にいなくならない)。虐待が起きないためには、子供を産み育てる大人がきちんと成熟し、満足感をもって子育てできることが大切だと思う。児童虐待の発生の防止、というのは結局「弱いものいじめをする人を少なくする」ために社会をどう変えて、人間の考え方をどう鍛えていけばいいか、という大きな、結局は哲学や倫理の話になってくるのだと思う。
話が壮大に逸れたが、目の前の課題としては、資金の潤沢なNPOを作りまくって、国からの補助をどんどん取り付けることだと思う。行政が一律に悪いとは言わないが、行政というのは貧乏で、事務員であり、福祉を担当するのにはかなり限界のある組織だと私は思う(家系に地方公務員が多いので、肌感)。福祉には金がいるし、事務能力ではなくてもっと他の、端的に言えば「助けたいという気持ち」がいる。現状、公務員がいくら助けたいと思っても、お金や時間の制約によりそれが成らず、気持ちのある人はどんどん心を病んでやめていくのが、市役所や町役場の福祉課という場所になっている。とにかく国が金を出さないなら民間で金を作りまくるしかない、最悪だがもう、自助になる。儲かっている企業は税金を多く取られていて、その多くは高齢者福祉に行ってしまうのなら、税金で取られる前の金を、直接児童・若者や貧困者の支援団体に寄付してもらうか、企業が後ろ盾となって財団を作ってもらうしかない。どんなに選挙をしたって、あと30年はこの状況は変わらないのだから、NPOを作りまくって、国からの認可を受けつつ、金の補助は企業や投資家を宛にすればいいと思う。投資家というのは、金が余って余って仕方がない、これ以上使い道がわからない、という人が結構いるのだ。じゃあ寄付しろよ、と思うが、彼らは競争に敗けた「努力の足りない」人間たちにお金は落とさない。というのは言い過ぎで、中には絶対慈善事業に興味のある人がいると思う。別にキリスト教圏、プロテスタントの国ではないから寄付文化が育たないとか、そんなことはないと思う。変えなければいけないのはエリート達の頭の中身であって、この競争社会と思い込まされている階層社会という真実を各々が認識することだと思う。
人間は自分の利益を最大化するために生きている。らしい。どうやら多くの人は。私はちょっと違うようなのだが、これは生まれつきでたぶん決まっている。この、自分のために生きるという理論でみんなが動いていることを、私は20年以上理解できていなかった。そしてもちろん、人間は自分の利益を最大化するために生きていい。そうしなくてもいい。それは自由だが、自己利益増大のために生きる人がたぶんこの世では圧倒的多数である。そうした人達が、どうやったら「他人のため」に気持ちよくお金を出してくれるのか、その方法を考えなければならない。圧倒的少数の「生まれつき利他」はだいたい、利他的なのでそもそも自分の財産をあまりもっていないし、そういう人は身近な生活のなかでどんどん他人に施してしまっている。だからお金は貯まらないし、貯まったらだいたいNPOを立ち上げる。つまり、NPOを立ち上げないタイプの、自分の金は自分のためにしか使いたくない、でも正直金は余ってる、という人からどうやって、支援のための金を引き出せるのか?いちばん手っ取り早いのは「税金」という仕組みだが、まじで本当にもう政府はだめだ、という印象しかない。なんでこうなってしまったんだ。老人だけで政治をするのをやめろ。もしくはもう少し利他的な考え方で政治をやってくれ。自己利益増大のためではなく、国民の生活を良くするために政治をやってくれ。しかしエリート層は基本的に資産家で、それが何代も続けばエリートの世界の中で人生が完結していく。エリートは自分より下の階層の人々の生活や命なんてどうだっていいし、そもそも感知していない。それが自己利益の最大化ということだ。でも、じゃあ「公」ってなんなのか、と思う。私費を増やしたいなら民間で企業を興せばいい。政治家をやっている以上は、公のものとして、ちゃんと社会に利するように動いてほしい。それが嫌なら政治家やめろ。世襲とか周りの圧力とかそういうの本当にばかばかしい。やりたいことがあるならやればいいし、やりたいと思って政治家になった以上は、まじで民のために生きろよ、と思う。明治維新を思い出せよ。お前らは明治のあの人たちの正統的な末裔なんだぞ。あの人たちがどれだけ国民のためを思って革命起こしたか、忘れてんじゃねえぞ。明治維新と同じことができる志がないなら政治家やめろ。プライドもって国家の行く末考えられねえなら今すぐやめろ。
ただ単に政治家への悪口になってしまいました、失礼いたしました。まあとにかく今の政治家はよくないですね。というか、国防と高齢者福祉に圧殺されて、その他に全然手が回ってないですね。だからまあ、政府がその状態であるうちは民間で「自助」して、人々の思想を少しでも、前に押し進めるしかないんじゃないかなあと思います。
おなかすいてきた。7時です。
2023.12.13
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myonbl · 5 months
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2024年1月5日(金)
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金曜日は可燃ゴミの日、正月をはさんで1週間ぶり、斜め向かいの収集場所へ行くとやはり普段よりゴミ袋が大きい。数が多いので2度目に来ると、なんとネットが覆い尽くせない状態だ。他人事ではなく、わたしが30Lを5袋と45Lを2袋出したので、主要な犯人ということになる。何しろ正月休みを利用して断捨離に努めたので、生ゴミ以外のボロ類が多い。清掃関係者の皆さん、いつもありがとうございます。
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5時45分起床。
ツレアイは休みだ。
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ツレアイが4人分のヨーグルトと2男のおにぎりを用意、その間私は洗濯機を回し、朝食の蕎麦を茹でる。
1週間ぶりの可燃ゴミの日、30L*5&45L*2。
9時30分を待ちかねて<ケーヨーデイツー>へ、メガネのネジを締めるための細いドライバーセットを購入する。
ツレアイはあちこち買物に走る。
テレビを流しっぱなしにして、北陸の情報を確認する。
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ランチ、3男にはラ王しょうゆ味、我々は伊勢うどん。
相変わらず、テレビに気を取られながらも読みかけの本を整理する。
軽く午睡。
腹ごなしの町内ウォーキング、<コレモ七条店>でうどんを買って帰宅。
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早い時間に夕飯、正月食材の整理を兼ねた寄せ鍋。
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息子たちの食事が終わってから、桂枝雀「宿替え」「こぶ弁慶」。このシリーズはしばらく見ていなかったので、結構新鮮だ。
片付け、入浴、体重は150g減、血圧は風呂上がりなのにかなり高め。
ハイボール飲みながら日誌書く。
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狙い通りエクササイズが60分越え、水分は2,260ml。
それにしても、授業が再開されたら本気で体重落とさねばならない。
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alaephoenicis · 9 months
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【翻訳】〈イーヴィ・カプラー〉黄金時代へ 〈3〉:タイムラインの相関関係 - 終末の創造主のコード
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オリジナル・タイトル&動画🔗:Auf ins goldene Zeitalter - Teil 3: Korrelation der Zeitlinien - Endzeit - Ur-Schöpfercodes
公開日:2023年9月18日
【和訳】ALAE PHOENICIS
 (最新情報➡Telegram)
イーヴィ・カプラーについて
イーヴィさんは透視能力をもって生まれ、「子供の頃から自分だけの世界で生きていた」といいます。年頃になると、母親に勝手に銀行へ履歴書を送られ、「これも道か」と従順に銀行員になって働いていましたが、並行してヒーラーとしても活動し続けていました。数年前に「自分の本来の天職に絞る」決心をし、銀行を退職。これまで20年間、エネルギー・プラクティショナー、意識トレーナー、透視ミディアム、エネルギー・ヒーラーとして活動してきた実績の持ち主。
はじめに
時期が訪れたアイデアほど強力なものはない ヴィクトル・ユゴー
今日は私たちが移行してきている暗黒時代の終わり、この先どうなるのか、そしてここ数ヶ月がどういう状態であったのかをお話します。
タイムラインというものを通して、人はどのような影響を感じ、またその時点でその人物の心理面、微物質面、精神面、そして肉体的内面にどのようなプロセスが引き起こされるのでしょうか。
それは解放の時であり、私にとっては黄金時代への道を示すものでもあります。
生きる喜びを見出せないこともある地球を、私たちに押し付ける者たちの権力主張の終焉でです。これより皆さんを時空間の連続体へと旅へお連れしますので、一緒に大宇宙を駆け巡りましょう。
沢山の重要な情報があります。細胞の記憶についても触れます。
遺伝学、ある程度は後成遺伝学(エピジェネティクス)、そしてどの記憶空間が人為的に作られたのか、その背後にあるエネルギーは何なのか。私は、数千年前から繰り返されており、2023年以降に正真正銘のクライマックスを迎えることになる相関関係に踏み込んでいきます。
このすべては、いつものようにミディアム(霊媒)・コーチ兼エネルギー理論家の私の見解であり、あなたのハートに耳を傾けて、共鳴するかどうかを確かめ、共鳴するものだけを自分のために受け取ってください。
無意識空間の解放
そうです。私たちは、この時代に優れた助っ人、先見者、支援者となって、地球と宇宙を高揚させ、パラダイム・シフトを起こすためにここへやってきました。私たちはまた、思い出すため、つまり記憶を取り戻すためにここに居ます。
この文脈において、こんな素敵な言葉も:
「覚醒する」とは、自分が何であるかを捨てることではない。自分でないものを捨てるということだ。これは、まさにそういうことなのだ。
私たちは神聖な形ある存在であり、この居場所を占めるために非常に強力に密度を濃縮させました。そして、二元的世界観でいうところの邪悪とは、究極的には無意識にすぎず、邪悪とは常に分離の周波数です。そして人間は、そのプロセス、プログラミング、習慣の95パーセントをこの無意識の空間に保存しているため、そこに飛び込み、そこに含まれる感情、音、状況、すべてを覚醒した意識へと呼び覚ますことが重要であり、癒やしとなるのです。
ここ数年、私たちはこの凝縮された、そう、しばしば意識されない、そして忘れ去られた、あるいはカプセル化されたエネルギーをますます溶解させています。そうすることで、私たちは創造主のコードの中にスペースを作り出しているのです。私たちのブループ���ント(青写真)に反映されているオリジナルのクリエーターコードです。
タイムライン(時間軸)
先に話を進める前に、まずタイムラインから始めます。
というのも、ここ数ヶ月の間に、非常に印象的なことがここで起こっているからです。また、それがどのように発展していくのか様子を見ていました。というのも、地球の表面ではすでに激しい揺れやそれに関連した出来事が起こっており、直接に目には見えなかったかもしれませんが、非常に印象的だったからです。
まずは、皆さんもおそらく既にご存知の、タイムラインが何であるかを説明します。人間が宇宙的に多次元的であるように、タイムラインも多次元的です。
タイムラインは特定の周波数領域を内包しており、この領域を保ち、フレームに収め、枠組みを与える。このことを理解するためには、線形の時空連続体という思考からも私たちは離れなければなりません。
私たち人類の歴史において今後起こることはすべて、たったひとつのタイムラインに集約されます。説明としては、太陽光線が虫眼鏡の上で合流し、それが真ん中で焦点を結び始め、虫眼鏡の反対側に強力な透過光線として現れるのを想像してください。これらの小さな光線が、ひとつの大きな光線、ひとつの本質的な光線を生み出すことになります。そしてすべてのタイムラインは、この計画フィールドで合流することになります。つまり、地球という惑星の話なので、これは地球フィールドのことであり、その本質となるタイムラインが刻印されるということです。
過去と未来の統合 ― 「今、ここ」
私はよく、日常生活の中で、それほど本質的なことではない特定の決断が、タイムラインの変換を引き起こすことはあるのだろうか、という質問を受けます。本当によく聞かれるのですが、私ははっきりと「ノー」と答えます。なぜなら、それによってあなたの全体的な周波数が変わることはないからです。あなたは依然として全体的な周波数の中にいて、魂の計画と同様、別の道を選択するさまざまな可能性はあちこちにありますが、大まかなデフォルトは残っています。
しかし、私たちが過去のあるレベルにおいて非常にトラウマ的な何かを経験していることに気づいたとき ― だから私たちは「基本的傷・トラウマ」について語るわけですが ― 例えば、アトランティスの暗黒化の時代やレムリアの滅亡など、目立ったものを2つ挙げるとすれば、ですが…他にも全く別のもの、私たちの細胞の記憶から消去されてしまったために、もはや覚えていないものもあります。そうした記憶がまだ残されている場合、それは私たちの細胞構造と結びついて繰り返されることになり、嵐、洪水、火事、火山の噴火、そして私たちのこの時代に起こるあらゆる激変もそれと同様です。
自覚があろうとなかろうと、その時の記憶が存在し続けている限りは、それを精算し、過去と未来を再統合することを意味しています。あなたがそれを望むのならば、です。
過去と未来という現象は、「今、ここ」という時間の質を形成します。そして、“今ここ”というのは「現在」という瞬間に向いており、そこから私たちは微物質的な形態へと拡張していくのです。あらゆる時間、あらゆる空間へと。
そして、ますます多くの人々がそれを活用するようになっているので、とてもエキサイティングです。今まさにエキサイティングな時であり、過去の高度な文明にあった純粋な演出を信用するのであれば、すでに別の時間レベルでこれを経験しているため、私たち自身の感覚、感知、行動の中に、その最初の証を得ていることになります。
タイムラインの相関関係
以上のプロセスは、私たちの青写真から濃縮されたエネルギー的パケットを放出するので、私たちの「身体-魂-精神-システム」にとって非常に重要でもあります。つまり、非常に素晴らしいことが物理的なレベルでここでも起こっており、すべての形而上学的身体における統合が肉体を超えて広がっているのです。
ですから、ダウンロード・コードは太陽といった外側からだけではなく、むしろ自分自身の内側からも受け取っており、それはタイムラインの重複があるからで、これによって情報が形態形成フィールド(morphogenetic field)に入り、意識に統合的に固定され、私たちの青写真を通して作用する、となっていることが想像できます。
つまり、私たちはつまるところ "意識 " であり、ここで私たちはますます多くの情報を得ることになるのでワクワクするわけです。だって、微物質的な世界(スピリチュアリティ)は私たちから切り離された存在として知覚されるべきものではなく、私たちの現実の一部を形成しているのだということに、ますます多くの人たちが気づいているからです。
この情報を統合的に知覚することは、心臓のトーラス・フィールドを介して起こります。これはまた、私たちのハート、直感、ミディアム的なチャンネルや能力が相互作用し、心臓トーラスを介してさらに多くの情報を吸収できるフィールドを作り出すということでもあります。
そう、そして春から夏にかけて、私の認識ではもう一つのタイムラインが加わりました。今までは、そのタイムラインは分断された形で浮遊しており、そのタイムラインとつながりのあった存在だけが記憶空間や情報と接触していました。そしてこのタイムラインは複数の魔法的なレベル(層)とも関連しています。これは神話の世界と同じで、既におとぎ話、物語、伝説、あるいは魔術のような物語形式を通して、無意識のうちに私たちみんなの中にあったし、儀式のようなものも用いてきました。しかし今では、異教的なものからギリシャ神話やケルト神話の神々、そしてこれらの諸世界に至るまでのものが、ある周波数をこのフィールドにもたらしてきているのです。
また、そこには1297といった非常に神聖な数字の組み合わせもあり、魔法レベルに関する限り、例えば3、7、12といった数字もあります。これらはほんの一例です。しかし、これらの周波数はいまや私たちの既存のタイムラインと連動し、そのために多くの情報がここで明らかになったのです。
この件に関しても多くの方からご連絡をいただき、いろいろ出てきたことについてその都度話し合うのはとてもいい刺激になりました。
タイムラインの統合
それは、私たちにとって何を意味するのでしょうか?
とても並外れていて、とても感動的なものになることでしょう。なぜなら、特に神々のテーマ、領域、中間世界、冥界、そしてアストラル層は、繰り返し我々のいるこの場所に登場するわけです。私はアストラル層は第4のネガティブ密度だと見なしているのですが、この層と契約関係にある人々の夢の中にも飛び込んできて、記憶空間を開いてくれます。
そして私がいつも言っているのは、意識の旅をすることですが、アストラル層を旅するのは控えめにしましょう、ということ。なぜなら、アストラル層にはあらゆる物体が行き交い、喘ぎ声がしてジメジメしており、時には必ずしも私たちに役に立つとは限らないエネルギーも付着するからです。持ち帰ってきた魔法のレベルは、しばしばエネルギ―的な攻撃のように感じられる落とし穴となることもあるのです。
ここでもまた、転生してきた中でいつか締結されたことのある非常に古い契約が関係していて、このタイムラインはそれ自体が結合したため、それが突然再び露呈したのです。そして、ルシファーのレベル、つまり暗黒のレベル、そしてアストラル契約を繰り返し消去して、これらから自由になることを私はお勧めします。誰もが自分自身のために、これを実践することができます。
この攻撃はどのように感じ取るものなのでしょうか?あるいは、突然、呪いに対処しなければならなくなった時、何が起こるのでしょうか?
呪いには非常に微妙なもの...さまざまな種類と影響のレベルがあります。何かが強迫的だと感じるときはいつもそうです。何かが依存対象になったり、繰り返し考えるようになったり、典型例としては恋に落ちたり、身体的な症状が非常にはっきりしてきて、過去の何かを思い出したりするなど。
これらはすべて、…私に言わせると「広範囲に渡るエネルギー的な攻撃」であることを示しています。
そして、これらの全ては切り離すことができるし、あっという間に消えてしまうことに気づいてください。これらの古いレベル、周波数、時空間を再統合することなのです。
私たちが創造主の意識に戻り、自己啓発に戻り、回想に戻り、そして何よりもハートに戻るのは、それが神的存在がもっている能力だからなのです。
宗教の狂信性は解消されることが望まれています。ここでも、何かが癒されたがっているのです。一人一人の中で。
私たちの知る宗教とは、非常に全体主義的なものです。特に初期の時代には、さまざまな神々が存在し、生け贄の習慣があり、人間の生活には合わない儀式があり、強制的に行われてきましたが、ここでは人の生命はあまり重視されていませんでした。そしてこのタイムラインが統一されることで、全人類に癒しと再統合、そして何よりも変革がもたらされることになります。
これは私たちにとって絶好のチャンスだし、そう思っていて良いのです。
創造主の力
私たち自身の中には創造主のレベルがあり、そこから他の特定の事例と結合することなく、すべてを変化させることが可能です。なぜかというと、セルフ・エンパワーメントを活性化し、輝きは自分の中で光り、燃え、輝いているのだと気づけば、私たちは何でも創造し、何でも変えることができ、ビジョンや夢を生きることができるからです。
私たちのささやかな行動のすべてが、大局に影響を及ぼします。常にそうであり、だからこそ私たち一人ひとりは価値があり、重要であり、またこの時代に必要なのです。
そしてもし、今はまだ魂の課題への準備が出来ていないと感じ、それでも自分にはここで果たすべき課題がある、とあなたが知っているのなら、自分が喜びに思える感覚に従うこと。身も心も軽くなるようなことをするのです。なぜって、私たち一人ひとりに才能と贈物が備わっているのだから。
これらは今、姿を現しつつあります。これらは顕在化しつつあり、そして私は、あなたが100%の創造力を発揮するよう促したいのです。これは、単に自分の創造力をフルに活用しようという意図だけで、往々にして起こることなのです。
そして、こんな美しい言葉���あるので、皆さんにお伝えしますね。
神聖なる青写真において、次に私が踏み出すべき完璧な一歩を、はっきりと明らかにしてくれたこと、そして、この青写真を顕現させるための創造と実現に参与するための手段、そして最適な人選を与えて下さったことに、感謝いたします。
遺伝学、後成遺伝学、DNA
遺伝学、後成遺伝学(エピジェネティクス)、そしてDNAの12本鎖について簡単な説明だけしておきます。
私たちのゲノムは、細胞内に存在するすべての遺伝情報を含んでいます。遺伝学は遺伝の理論を扱い、ここではDNA、そして突然変異による変化も同じく中心的要素となります。そして私たちは、DNAの12本の鎖が微物質的に私たちの中に配置されていることを知っています。
多くの人において、さまざまな鎖がすでに紐解かれています。そして、後成遺伝学は、環境の影響と遺伝子との連結部位であると考えられています。つまり、どういう状況でどの遺伝子のスイッチが入るか、あるいはいつまたスイッチが切れるかを判断するわけです。
この観察も非常に興味深いものです。というのも、私たちの医学的な知識にはかなり歪みがあり、それが遺伝情報にまで及んでいるからで、これに対する関心は非常に高いのです。
何より、ここに変化を起こすため…だって私たちはこの暗闇の終末期にあって、黄金時代へと向かっているのですが、ここに来てまたもや錯覚が用いられ、人類のDNAが変化しないよう、特定の医学的手段で妨害しようとしているのです。
一方、ジャンクDNAについての知識も話題です。そして脳のこの5%の能力もまた、現在では広く流布しています。そして、多くの人々に、さらに多くの配列がすでに発見されています。
つまり、より速く移動し、何かがより目敏く近づいてくる、もしくは遠ざかっていくことをいち早く察知する人たちがいる、ということで、それは彼らの透視能力とDNAの配列のせいでもあります。
私の心からの願いとは:このようなプロセスを何とか迅速に進めるために、自らをもっと支援するヒントとしてできることは何でしょうか?
まずは太陽が中心的かつ重要な要素であり、太陽で自分をチャージし続けること、太陽に向かって瞬きをすること、皮膚や光線を通して太陽を吸収することです。太陽はもっと大きくてパワフルなツールで、ここで私たちと相互に働き、私たちをサポートしてくれる。だから、それを第一に考えるなら、私たちの細胞を物質的・微物質的な汚染から清浄に保つことも重要だと言えます。
解毒、良質な水、良質な食べ物、そして何よりも良質なエネルギーがテーマとなります。私たちは何と向き合っているのでしょうか?この間、多くのコンピューターゲームや携帯電話の周波数、特定の映画や広告などを通して、場合によっては異質なエネルギーが伝達され、それが私たちの中に充満することもあります。つまり、これらすべてが私たちからエネルギーを吸い上げているのです。しかし、私たちが何かを吸収し、それが私たちの身体-魂-心のシステムに蓄積され、それがそこに相応しくない場合、それは一種の異物のようなもので、外に出さなければなりません。だからこそ、きれいな浄化、アルカリ性の入浴、そしてもちろん精神的な解毒、言葉の衛生なども必要で、これらすべてがこのパラダイムシフトをサポートしてくれるのです。
ライトランゲージ − 原初の響き
私たちを創造主のコード、私たちの原初的創造主へと導いてくれるのは、実はサウンドなのです。原初の音色、原初の周波数の響きです。
私たち一人ひとりが自分の音色、自分の言語を持っていて、それを通して細胞の意識の中で何かが再活性化され、そうすることで、私たちは精神的、スピリチュアルなレベルで成長することができるのです。 そしてそれこそが、今の時代の私たちにとってものごとを把握する能力を持つ上で重要なことなのです。
同じように素晴らしいことは、私たちの身体との対話です。身体というのは、物理的に凝縮された最終的な構成要素であり、動くことを必要とし、私たちの身体もまた、自分自身���鍛え、自分自身を感じ、それによって力を解放する必要があります。だから運動は、ここでの健康を維持するための中心的な要素でもあります。それから、自分がどんな適性を持っているかも見てください。一方、DNAがより多くの配列を発見しているため、まったく異なる方法で創造の領域とつながっている子供たちもいます。すると、植物の世界や他の微妙な世界との対話、言語があることも観察できます。言語とは、まず言葉による表現で成り立っています。しかし、私たちは実にさまざまな方法でしゃべることができるし、言語の混同というテーマを思い出せば、最初から言語はあったのです。
これについては以前、とても興味深い動画を作ったことがありますが、YouTubeではもう見ることができません。
私たちは今、テレパシーで物を投げたり返したりすることができるのです。私たちはテレパシーで物を動かす能力を持っている。動物やペット、あるいは私たちの周辺に居る動物と触れ合うとき、テレパシーで呼んでみると、動物がそれに感応していることに気づくはずです。つまり、この先の展望として、そしてもちろん対人関係において、このレベルではすべてのことがすでに起こっているのです。
最後に
親愛なる皆さん、関心を持っていただきありがとうございます。心から感謝します。私たちは、これから起こることに備えているのだ、という自覚を持ってください。
私たちはとても大勢で、私たちの自由意志、目的意識、それに伴うすべての行動を、この意識のシフトに向け、自分のハートの呼びかけに従って良いのです。
ここにいてくれてありがとう。
ハートからハートへ
あなたのイーヴィ
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shredderwastesnow · 9 months
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会社を辞めた理由
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2023年7月末、10年以上勤めた会社を退職した。 8月上旬から中旬は、去年の引っ越し後に手つかずになっていた段ボールの開梱と断捨離をしていた。必然的に段ボールの中の本も断捨離することになり、古書店に60冊ぐらい売った。
そして8月下旬から、短期留学でハワイに来ている。 語学学校に通いつつ、空き時間には観光もして、これまでの疲れを癒しつつ今後に向けてエネルギーをチャージしている。 (とは言っても最初の一週間は宿や学校などの不慣れな環境に馴染むことで手一杯だった……今週はもう少し穏やかに過ごさせてくれ……!)
会社には、退職の理由を、健康診断で視力が大幅に低下してしまい、翻訳チェックの仕事をずっとやるビジョンが描けないので……と説明した。視力は本当に下がっていたので、嘘ではない。 でも、実際にはもっと別の理由がある。上司に言って解消されるような内容ではないので、会社の人には言っていない。 ハワイ生活が軌道に乗り始め、ブログを書く余裕が出てきた今のタイミングで、会社を辞めた本当の理由をちゃんと振り返りたい。
本当の退職の理由は、以下の4つだ。
1) 「社員と非正規雇用」という歪な関係に疲れた
2) 自分に合った仕事を探す意欲が高まった
3) 経営陣が価値観をアップデートできていないことが辛くなってきた
4) 「父に認められなければ」というプレッシャーがなくなった
「社員と非正規雇用」という歪な関係に疲れた
3年前、部署異動することになった。配属先は女性だけの部署で、7人のうち社員は私を入れて2人、他5人はすべて非正規雇用(派遣か業務委託)だった。 私に割り振られた仕事は、その職場で2年以上働いているベテランの派遣さんが担当していた。私は社員として入社していたので立場としては派遣の人より上だが、その部署での経験という点では後輩という立ち位置だった。
ベテランの派遣さんは、ものすごく仕事のできる人だった。ミスをなくすという目標への執着が桁違いだった。これまでずっと英語関係の仕事をやってきたが、このレベルでミスを潰せる人に出会うのは7年に1度レベルだった。私たちが担当していた技術系の翻訳チェックをするには最適の人財だったと思う。
最初のうちは、自分だって英語を人一倍学んできたのだから、チェック作業のフローになれればそれなりのレベルでチェックできるようになるだろうと思って頑張った。実際に、チェックの精度は徐々に上がった。でも、ある程度の期間その仕事をする中で、努力ではカバーしきれない適正上の問題に直面せざるを得なくなった。
多分私は、仕事のどこかにクリエイティブな要素がないと楽しめない。正確さを追求するより、面白さとか独自の工夫を考える方が向いている(この部署に来て分かったことではあるけど)。チェックの仕事をしながら、「私よりこの作業に向いてる人がいるんだろうな」という気持ちになることが多々あった。 そして、ベテランの派遣の人は、ミスなく正確にタスクをこなすことを楽しいと思えるタイプなのではないかと思う。逆に面白さや独自性を求められると、この手の人はどうしていいか分からなくなる。
ベテランの派遣さん以外にも、こういう人が職場に数人いた。
でも、立場的には社員である私の方が権限を持っている。そのまま偉くなれば、私は非正規の人たちに指示を出すポジションに就く。私の方が経験も浅く、仕事ができなかったとしても。
そもそも、非正規雇用というシステムが非人道的すぎる。 非正規で働く人には有給が与えられず、給料を減らされたくない人は体調が悪くても無理して出社せざるを得なくなる。いつ契約が切られるか分からないので、ローンを組んで家や土地や車などの大きな買い物をすることも難しい。結婚して子供を持つことを諦める人もいる。正社員と同じくフルタイムで働いても、こういう状況にある人は多い。
仕事のできる派遣の人が隣の席にいる環境でずっと働いていると、この問題について嫌でも考えてしまい、仕事そのものとは別の疲労感に襲われる。 そして、どんな事情があったのか分からないが、そのベテランの派遣さんは月に半日程度しか休みを取らなかった。私は月に1.5~2日ぐらい休みたいと思っていたが、派遣さんより上の立場の人間が派遣さんより休むというのはかなり気が引けるため、気軽に休むこともできない。消化できない(そして今後も消化できる見込みのない)有給が、どんどん溜まってゆく。 このまま偉くなったらもっとしんどくなることが目に見えていたので、メンタルを病んだりする前に退職しようと決めた。
自分に合った仕事を探す意欲が高まった
2021年、私の書いた小説が、三田文學新人賞の佳作を受賞した。 小説は8年ぐらい書いていて、過去に色々な新人賞に3回出したものの結果が出ず、才能ないのかなー時間の無駄なのかなーと思いながらも気が向いた時に書くことを続けていた。 初めて賞を貰い、自分の作品が広く読まれたり、文学を生業にしている人からコメントをいただいたりしたことで、やっぱり私はクリエイティブな活動に向いている!と確信できた。
この経験を経て、文化・芸術方面の業界で英語を使う仕事を探そう、という気持ちが固まった。 私は文学や美術を専攻しておらず(専攻は経営・会計学)、その分野の職歴もないが、履歴書に「三田文學新人賞佳作」と書ければ、その手の求人にも応募しやすくなる。そして、親や周囲の人にも説明しやすい。
経営陣が価値観をアップデートできていないことが辛くなってきた
2017年に、反女性差別のキャンペーン「#MeToo」が世界中にインパクトを与え、フェミニズムやセクシュアリティ研究など旧来の家父長制を問い直す学問への関心が高まった。日本でも、昔は大型書店の奥の棚に数冊あるだけだったフェミニズムやセクシュアリティ関連の本が、#MeToo後には大型・小型書店の平台に並ぶようになり、少なくとも東京では空気が変わったのを感じる。
こうした変化に伴って私の意識も変わり、自分の職場にある理不尽な出来事や慣習が気になり始めた。
私の周りで、育児休暇や子育て目的の時短勤務をしている女性を沢山見た。 でも、勤め先にそういう男性は一人もいない。課長などの役職に就いている人が率先して育休や時短を活用すれば部下たちも同じことをしやすくなるのに、誰もやらない。
また、セクシュアルマイノリティへの想像力を欠いた制度にも違和感を覚えるようになった。 私がいた会社では、社員が結婚すると共済会から祝い金が出る。 でも、ゲイやレズビアンの社員が人生を共にするパートナーを見つけた場合については、何も書かれていない。社員数が1,000人を超えている会社なので、ゲイやレズビアンがいてもおかしくないのに。 最近は、同性カップルが結婚できないことで直面する困りごとについて、様々なメディアで報じられている。自治体によっては、婚姻関係に準ずるものとしてパートナーシップ制度を導入しているし、同性婚を合法化すべきという声も強まっている。 しかし、それでも、共済会のルールは変わっていない。同性パートナーシップの届けを自治体に出したと報告した社員には、結婚した社員と同額の祝い金を渡すなどのルールが加わる気配はなかった。
経営陣は、ドローンやAIなどのビジネスのトレンドについては、プロジェクトチームや勉強会を立ち上げて追いかけようとする。 一応、女性の働きやすさを促進する試みも行われてはいる(男性の育休取得増は達成できていないものの)。 それなのに、セクシュアルマイノリティをめぐる問題については、一切アクションを起こさない。何で?
私が定年まで辞めずに働くとしたら、あと20年この会社にいることになる。 経営陣を信頼できない状態で、20年も働き続けられる気がしなかった。
「父に認められなければ」というプレッシャーがなくなった
2020年下旬、父が亡くなった。 私は一人っ子なので、葬儀の準備や役所での手続き、遺品の整理などを、母と分担して進めた。父が亡くなった時点では私は一人暮らしをしていたが、母が実家の一軒家を売ってマンションに越すと言うので、私も同居することにした。
昨年の4月、一人暮らしのアパートから広いマンションに引っ越した。 荷造りを仕事と並行してやらなければならず、ずっと忙しかった。 転居から3ヶ月ほど経って、ようやく生活が落ち着いてきた。昔より広くなった部屋で、自分にとって父とは何だったのかをゆっくり振り返れるようになった。
父がいなくなって、これまでの私は、「父に否定されたくない」「父にいっぱしの人間として尊重してもらえるような生き方をしなければ」という気持ちで、人生の様々な決断を下してきたことに気付いた。
前の勤め先で、仕事が今一つ楽しめなくても10年以上働けたのは、父に対する意地があったからだ。 「私はそれなりの会社で真面目に働いて、高給とは言えなくてもそれなりの額を稼ぎ、一人暮らしできるぐらいの経済力がある。だから、私の人生に対して口出しはさせない」という意識が、私を支えていた。私の着るものや細かい行動に気が向いたタイミングで難癖をつけ、「俺はお前より優位に立っているんだ」と定期的に示したがる父に対抗するためには、安定した仕事や経済的自立という拠り所がどうしても必要だった。
しかし、父の干渉を阻止して自由に生きるためにとった行動が、新たな不自由を生むことになった。 本当はもっと自分に合った仕事があるような気がしても、やりたいこと基準で転職して今より給料が下がれば、父は必ず文句をつけてくるだろう。そうなるくらいなら現状維持でいいや。そんな思考から、私は違和感を抱えながらも転職を決断できなくなった。 仕事だけではなく、父に何か言われるのが煩わしいという理由で、実家に帰る時に文句をつけられない服装を心掛けたりもした。何故そこまでしてやらなければならなかったのか? 思い返すと悔しい。
父がこの世からいなくなったことで、ずっと私を縛っていたものが失われた。 しがらみから解き放たれて人生を振り返り、私が無意識のうちに自分に課してきたものの大きさを思い知った。 人生の選択を自分の意思で下してきたと思っていたけれど、実際は仕事という人生の大きな要素を自分の純粋な欲求で決めていなかった。こうして言葉にしてみると情けない話だが、事実なので仕方ない。
だから、会社を辞めて短期留学をすることは、自分の人生を取り戻すための儀式でもある。 これからは自分に関する重要なことは自分で決め、それによって生じた失敗も自分で引き受ける。 何かあるたびに他人や環境のせいにして嘆くような、自分の人生を「生きさせられている」みたいな状態を、この辺りで終わらせたい。
今後について
今、この文章をホノルルの家具付きマンションで書いている。 会社や仕事に対する責任から解き放たれ、しがらみのない土地で過ごすという、前例のない体験をしている。 語学学校の授業は難しいところもあるが、落第が危ぶまれるほど深刻ではないので、まあ何とかなるでしょう。
短期留学を終えて帰国したら、1年ほど学生をやる予定だ。 1年間で学芸員過程や諸々の資格を取り、その後に転職活動をする。
ここまで文章を読んで、「こいつ30代後半なのにまだ『自分探し』やってんの?」みたいな感想を抱いた人もいるだろう。 確かに日本社会では、この年代の人間は結婚して家庭を持って子育てをしているのが望ましいとされている。 でも、私としては「たまたまこのタイミングだったので仕方ないんです」としか言えない。傍から見たら不可解かもしれないが、自分の人生を取り戻すためにどうしても必要なことだから、今やらざるを得ない。
そして、パートナーや子供がいないタイミングで人生を見直せてよかったとも思う。例えばローンを組んで家を買った後だったりしたら、その家に住んでいる人全員が私の自分探しに巻き込まれることになって、さらに大変になるだろう。 (もちろん、パートナーや子供ができた後に生き方を変える必要が出てくる人もいるとは思う。そういう人が別の可能性に挑戦するのが悪だとは思わないが、相手のキャリアが変わる前提で一緒になったわけではないパートナーや子供が納得しなかった場合、家庭という一つの拠り所が失われることも覚悟しなければならないわけで、今の私以上にリスクを負うことになる気がする。) あと、私の母が老後の資金を確保できていることにも感謝しかない。私が母を養う必要があったら、1年働かずに勉強することはできなかった。ありがとうございます。
書くべきことを書ききったので、これからの1年を有意義に過ごすという決意とともに、この記事を終わりにしたい。 まずは語学学校を修了すべく、目の前の課題をしっかりこなす。 そして、ホノルルで過ごす人生の夏休みを、全力で楽しむ!
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redfvplayer · 11 months
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本格派のゴミ屋敷育ちの俺から言わせたら、本当にゴミだらけの部屋住んでると無気力&注意散漫になる。 ゴミだけでなくシンクもトイレも風呂も常に汚い家だった。不快だが住んでるとすぐ慣れてしまうので子供の頃から掃除する感覚がわからなかった けど、清潔なばあちゃん家とかで何泊かしてから家に帰る時はぐっちゃぐちゃの台所思い出してめっちゃ憂鬱になるくらい汚かった 当時は目から入る情報が多すぎて、漫画、ゴミ、自転車の鍵、布団どけてイヤホン探したりと脳が常にガチャガチャしてて疲れやすいし不安感が強かった 大学入って家出たら、自分でできる範囲で掃除や断捨離をし、だいぶましな生活ができた なぜかゲームやらなくなった  モノの存在より、思い入れが大事に感じるようになった。タダや激安でも思い入れがないモノは欲しくなくなった。モノはこりごりに近いのかも たまに実家かえった時も、母親は使用済みの菓子箱ひとつ捨てられない様子。物を大切にするというより、手放すことで「損するかもしれない自分」が怖いみたい なんとなく、母親からみて俺(息子)とゴミみたいな菓子箱は同じ大事さ・同価値なんだろうなと思う ゴミ屋敷の中では存在はすべて「大事」なんだけど、ゴミと同じくらいの大事さでしかない 母親は俺が家を出る時凄まじく反対したわりに、俺が家を出てからまったく俺や俺の暮らしに興味がなくなった 元々何にも思い入れがないから、手が離れると息子でも無関心に戻ってしまう ゴミ屋敷の住人ってこんな感覚なんだろうと思うよ ちなみに母親は新しい友達をつくっては疎遠か絶交を繰り返す人だった 昔からの友人がいない
【衝撃】Twitter民「家を綺麗にしてから体力の回復スピードがエグい」 : 凹凸ちゃんねる
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tanakadntt · 1 year
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三輪秀次の小説(二次創作)
きみは河を渡る
 切れた電線はうねり、パチパチと鳴っている。もうもうと立ちのぼる埃と煙は視界を狭める。降ってくる灰を吸い込んで、喉が痛い。ゴホと咳が出た。
 空を雲が厚く覆っていた。
 時折、低く戦闘機が飛ぶ。空気を震わせる爆音も、いつの間にか聞こえなくなる。
 無駄を知り還ったのだ。替わりにヘリコプターのバタバタという回転音が耳に障る。避難を促すサイレンがとうとう途絶えた。
 道路や瓦礫の上にうち捨てられた、おびただしい数の死体ももはや何も言わなかった。
 それらの胸には皆、着衣の上から同じ箇所にこぶし大ほどの穴が開いていた。彼らが開けていったのだ。心臓の脇を的確に単調にえぐり取っていく様子は、実りの季節を迎えて収穫にいそしむ農夫のようだった。
 鋭い鉄の匂いが鼻の奥を刺す。血だまりに足が取られる。地面のいたるところにできた血液の浅い湖は徐々に固まり、粘度を持ちはじめていた。その上に、ぽつりぽつりと何かが落ちてくる。
 ……雨。
『姉さん』
 三輪は姉を探していた。
「お断りします」
 三輪の返事に根付は下がり気味の眉をさらに下げた。
「うーん、やっぱり無理かねえ」
「去年に引き続き、申し訳ありませんが……」
 これ以上は目を合わせないように顔を伏せて押し黙る。可愛げのない態度だったが、断る選択肢しか持っていない。
 ボーダー本部メディア対策室である。
 いかにもオフィス然としたレイアウトだ。メディア対策室の名の通り、棚を並べた一角があり、派手なロゴのついたグッズたちが飾られている。
 棚の横にも小ぶりの段ボールがいくつか置かれ、中にはビニールに包装された何かが入っていた。
 さらにはミニスタジオのようなものがつくってある。
 雑然としているが、外部の人間への窓口だけあって、明るい開放的な空間であった。
 三輪がめったに訪れない部署だ。それも入り口で済ませる所用くらいで、もしかしたら、ボーダーに所属して四年近く、初めて足を踏み入れたかもしれない。
 A級隊員の嵐山をデフォルメしたぬいぐるみの飾ってあるテーブルで、茶を勧められている。早く作戦室に帰りたい。自然と眉間が寄ったが長い前髪に隠されて、根付が気づいた様子はなかった。おそらく、気にしてもいない。
「原稿はこちらで用意するし、内容はちゃんとチェックしてもらうんだけどね、ダメかね」
 根付が頼んでいるのは、来月に行われる三門市主催の追悼式典のスピーチだった。
 近界民による大規模侵攻から四年目の式典となる。
 公会堂のステージに設置した祭壇を花で埋め尽くし厳粛に行われる。市外からお偉方や著名人がたくさんやって来て、それぞれ追悼の意を表わす。最後に遺族代表数人にお鉢が回ってくる。大人枠が何名かと青少年枠が一名。
 三輪に白羽の矢がたったのはその青少年枠だった。理由はボーダー隊員で遺族である人物のうち、比較的年下で一番長く所属しているからである。
 日頃から「ボーダーの印象向上」を仕事にしている根付からの依頼は筋の通ったものだった。
 しかも、直属ではないが上役である。
「三輪くんには業務外のことを頼んでいるのはわかっているんだけどねえ」
 人を丸め込む技量の高さがなんぼの職に就いている根付だが、実はかなり弱気に出ている。
 理由はわかる。
 三輪に式典のスピーチを依頼するのは初めてではない。
 一年目のとき、三輪は流されるままに引き受けたものの、原稿に目を通した段階で押し寄せてきた感情に引きずられて過呼吸を引き起こしてぶっ倒れ、騒ぎになったのだ。当然、本番のスピーチは見送られた。彼が中二のときの話だ。
 二年目は話がやってこなかった。当時、所属していた隊の隊長である東が反対したのだと思う。頼まれたとしてもとても務まらなかっただろう。
 三年目は根付は本部長を同伴してわざわざ頼みにきた。しかし、断った。三輪にとってこの依頼は荷が重く、片手間にできるものではなかった。高校生になったばかりで何かと忙しかったし、そのころ広報部隊としてメディア展開をはじめた嵐山隊を売り出す根付の派手な手法に若干いやな予感がしたのだ。
 そして、四回目の式典である。
 遺族でボーダー所属、さらに今年は初めて自分の部隊を結成している。
 千六百人超の死者行方不明者を出した異世界からの侵略戦争によって、最愛の家族を失いながらも生き延びた子どもが立派に成長し、隊長となって隊員を率い街を守っている。
『これからもボーダーの一員として、三門市を守っていくことを誓います』
 おそらく、そんな言葉で締めくくられるであろう、未来への宣誓。
 三輪もボーダーの印象がよくなることに否やはない。
 いまのところ命令はされていないが、任務ならば遂行しなければならないというのもわかっている。
 ただ、ことこれに関してはそつなくこなせる自信はなかった。
「ちょっとしたインタビューもあるけど、一局に絞るから」
「……」
元々、要領のいいほうではない。愛想はかけらも持ち合わせていない。人前でしゃべることも苦手だ。ましてや全国に映像が配信されるなどと聞くと気が遠くなる。
 それだけではない。
 ……雨はあっという間に激しくなった。
 血のにおいに、ドブのようなそれが加わるなか、ようやく彼は探し人に出会えた。
 折り重なるように積み上がった死体の山が崩れたのか、その脇に彼女は転がっていた。
 他のそれらと全く変わることなく、彼女の胸にはぽっかりと穴が開いていた。死に神は何もこぼさずに等しく命を刈り取っていったのだ。
「姉さん」
 誰か。
 誰か姉さんを。
 当日は各メディアも入り、騒がしくなるであろう時期を避けて、そこを訪れ��ことにしている。
 追悼の意を込めた公園は市街地に近い高台に造られていた。
 本当の追悼の場所は、いまだボーダー管理下の警戒区域だ。
 まだ真新しい石碑が���本か建っている。
 円柱の形をした石碑には名前がただ刻んである。犠牲者の名前だ。
 三輪は一つの石碑の前でたたずんでいた。腕を上げ、石碑にそっと触れる。指を滑らせる。知っている名前もある、知らない名前もある。ゆっくりと滑らせていく。
一点で指が止まる。
 彼女の名前だった。
『誰か』
『誰か姉さんを助けて』
 目の前に広がる風景はいまも鮮やかだ。音も匂いも。足にまとわりつく重さも。降ってくる雨の粒まで。
 足下の彼らはみな目を開けているが、そのまぶたは動かない。その指は動かない。
 今の彼は知っている。死体は苦しまない。
 大丈夫だ。
 向こう岸で、穏やかに微笑んでいる。そこまでの距離はいつでも一歩だ。ひとあし、踏み出すだけで届くほどに近い。
時間は流れる。仮にマイクの前に立ち、メディア対策室のしたためた美しい文章を読み上げても、もう息がくるしくなることはないだろう。それでも、引き受ける気にはならなかった。
 三輪は立ち上がると頭を下げた。
「お役にたてず、申し訳ありません」
強引に話を終わらせる態度を根付は咎めず、一緒に席を立った。
「残念だけどねえ。来年もまたお願いすることになると思うけど」
 来年は五年という節目の年のために大々的になるという。おおっぴらに全国規模でボーダーの存在をアピール出来る数少ない機会だ。遠征には金がかかる。そのスポンサー集めも兼ねているという。民間組織であるボーダーにとって、金の話はいつでも切実だ。
「まあ、気にしないでいい、他に方法はあるからね」
 頼りになるだろう、と彼はにやりと笑った。
 これからの物語を紡ぐことは彼にとっては今までの物語をひとまず終わらせることになる。彼にはそれはどうしてもできない。
 向こう岸はまだそこにある、いつでも行ける。死者たちは微笑んで待っている。一歩、踏み出せばすぐに会える。
黒い河の冷たい流れに脚を膝まで浸し、目の前の彼岸を見つめて彼は立っている。
この場所から立ち去りたくはないのだ。
 いまは、まだなお。
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ari0921 · 6 months
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桜林美佐の「美佐日記」(240)
黙ってスマホをいじるだけの無機質な生き物……
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、240回目となりま
す。
よく「価値観の違い」という言葉が言われますが、
最近ちょっと気が付いたことがあります。
プライベートな集まりの中に自衛官がいると、例え
ば誰かが困っているような場面で、自衛官はだいた
い立ち上がったり、何らかの行動によって助けよう
とするということです。探しているものを一緒に見
つけようとする、といったかんじで。
一方、最近の若い人は(年寄りの常套句ですが!)、
何かを手伝う行為として、スマホを取り出していじ
り始めるケースが多い。これは、協力する気がない
のではなく、彼や彼女なりに最大の努力をしようと
しているのです。Google(ぐぐる)という形で。
私はこの、無言で何か調べているという行動には全
く感心しなかったのですが、確かに考えてみれば、
より効率的な人助けなのかもしれません。
私はよく自衛隊の批判をしますが(特に陸!)、人
に寄り添う姿勢には心打たれることが多く、なんだ
かんだ言って自衛隊的なやり方が好きなのです。東
日本大震災の時、もう、どんなに探しても見つから
ないと分かっていても行方不明者の捜索を続け、そ
れが人々にとってどんなに励ましになったか。
ムダだと分かっていても、非効率だと言われても、
何かをしようとする気持ちを持っているということ
が本当に素敵だと思います。
ただ、気になるのは、日本人全体が黙ってスマホを
いじっている、結論はそこにしかないかのような無
機質な生き物になっているように見えることです。
鹿児島の屋久島沖で米空軍のオスプレイが墜落し、
乗員8人全員の死亡が認定されました。2人はまだ行
方不明のままです。
米空軍は「自衛隊や海上保安庁、屋久島のボランテ
ィアの人たちが捜索活動などを支援してくれている
ことに心から感謝したい」と表明しました。もし、
自衛隊の事故なら数か月単位で捜索を続けますが、
米軍は日本の感覚ではいつもかなり早い打ち切りを
決めます。これは四十九日という結節がある日本人
との文化、宗教的価値観の違いだと思います。
そうした中、非常に残念で仕方がないのは、日本側
の報道などが相変わらず米軍への批判に終始してい
ることです。
裏で政府に苦情を言っても補償を要求しても結構で
すが、せめて公には哀悼の意を示すことはできない
のでしょうか。
8人のうち、2人は沖縄の嘉手納基地、6人は東京の横
田基地所属でした。まだ長い将来が残っているはず
だった若い人たちが、故郷から遠く離れた日本の海
で息を引き取ったのです。本当に、やりきれない思
いです。
感謝祭が終わり、12月に入るとどこの基地でもクリ
スマスツリーの点灯式が行われます。軍楽隊の演奏
と子供たちの声が、飾り付けられた大きなツリーを
囲むのです。愛する人を亡くした家族はどんな気持
ちでいるでしょうか。
そういう気持ちに寄り添えない、日本人は本当に落
ちぶれてしまったのかと、こうした事故が起きる度
に悲しくて仕方がありません。
無機質と言えば、最近またYouTubeでイスラエル問題
について、前回書きましたように、国際政治学の先
生からのご批判を受け、それに応じる形での企画を
収録しました。
私は司会として、自衛隊の将官OBの皆さんの知見を
お聞きしたのですが、そんな中でも頭をよぎったの
は、法の下で動く自衛隊は別としても、では多くの
日本人は、いったい、何を拠り所として物事の判断
をしているのだろうということです。
国際法だ、などという人は少数派でしょうし、では
憲法か?といえば、そうとも思えない。信仰でもな
いし、民族固有のアイデンティティーみたいなもの
も見えない。53年前に三島由紀夫が檄文で「その
場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込
んでゆく」と表現しましたが、今はそれよりも53
年分の退化をしているということをはっきりと感じ
てしまうのです。
2683年の自国の成り立ちを捨て、万世一系の国
体までも放り出そうとする国民は、どうなっていく
のか、と思いますし、また、数千年前の教えや約束、
預言を大切にする人々に我々が意見するのは僭越と
しか私には思えません。
 10.7のハマスによる襲撃で何があったのか。
子供たちは親の目の前で指を全て折られ、目をえぐ
られ、母親はその場でレイプされ、足は全て折られ
て射殺されました。赤ちゃんをオーブンに入れて焼
死させ、その横でテロリストたちは食事をする、そ
んなことが各戸で行われていたのです。入植によ��
被害者であるとか、全く関係ない所業です。
 そして、ハマスはガザの人々を人間の盾にし、イ
スラエルが避難を呼びかけても逃げられないように
しているのです。
 何としても自国民を守る、それが独立国家の責任
であり使命です。800人はいると言われる拉致被
害者を放置している国には、ちょっと難解なのかも
しれませんが・・。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
皆様にとって良い1週間でありますように!困難の中
にいる全ての人のために祈り、あらゆる紛争の犠牲
者を悼みながら。
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shimoda-text · 1 year
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電気羊と野生の身体
われわれの平和と私たちの戦争
 コロナ禍。まるで戦中のように大騒ぎの日本において、私たちは社会のどこかに対して居心地の悪さを感じていたと思う。「平和な日本で、これほどの非常事態が起きようとは予想もしなかった」という人もいただろう。けれども、私たちが感じていた居心地の悪さは〈非常事態〉という出来事のみに起因するものではないという直感も同時にあった。そしてよくよく考えてみると、どうやら私たちの居心地の悪さはその〈平和〉という言葉で表されるようなものにあるのではないだろうか、という発想に至った。  たとえば〈戦争〉という熟語の対義語は〈平和〉ではなく〈講和〉であるという考え方があるそうだ。講和ということを思えば、コロナ禍の前から、東日本大震災の前から、アメリカ同時多発テロ事件の前から、いや、オウム真理教事件や阪神淡路大震災の前から、私たちにとって日本は常に戦争状態であった。ベトナム戦争、湾岸戦争、あるいは今も継続する経済戦争、情報戦争にしても、その最前線への意識が欠如しているというだけで、私たちは常に戦争をしていたのではないだろうか。そのように考えた時、講和のできないウイルスとの戦争やそれに対する社会の混乱を目の当たりにする中で私たちが感じていた居心地の悪さ、つまり〈平和〉という言葉で表されるような何かを、今ようやく別の言葉にすることができそうだ。  直近では東日本大震災での原発事故で、われわれは〈想定外〉の事態が起こるということを痛いほど実感し、それを教訓にしたと思っていた。けれども実態はそうではなかったのかもしれない。われわれは〈想定外〉の事態が起こることを知った、あるいは思い出すことができたけれども、それに対する覚悟はできていなかったのではないだろうか。  たとえば、想定外の事態が起こるということを教訓にしようと思って、想定外の事態について事前に何か対策を講じたとする。しかし対策ができるという時点で、その事態は想定内の事態ということになってしまう。想定外の事態を教訓にして対策をするということは論理的に矛盾を抱えてしまうのである。もし、想定外の事態について何か教訓を得たのだとしたら、それは想定外の事態に対して、何かしらの覚悟を持つということなのではないだろうか。もちろんコロナは恐ろしいウイルスで、またその影響は計り知れないし、最前線で戦う人びとの功績と労苦は察するに余りあるというということに変わりはない。けれども覚悟を持って「なるほど、こういうことになってしまったか」という姿勢で冷静に事態に臨めることは、「想定外の事態が起きてしまった!」とパニックになるよりはるかに健康的だろうと思う。
幸福な機械と快楽的な身体
 想定外の事態が起こることを知っていたにも関わらず、さも「そんなこと知らされていなかった!」というようにパニック然と振る舞ういまのわれわれの社会には、どうしようもなく倒錯があるように思えてしかたがない。  想定外の事態が起こることを知っていたにも関わらず覚悟のできていなかったわれわれは、今に至るまでの現代日本がつくり上げてきた幸福な〈機械〉である。ひたすら想定を繰り返すことで想定外の事態というものを排除し、思考や想像力を閉じることで簡便で安定した幸福を生産してきた。澁澤龍彦(1928〜87年)によって『快楽主義の哲学』(a)が書かれたのは1965年のことだが、この時にはすでに(当時は「レジャー」という言葉でもって)われわれの幸福は規格化され生産/供給されていた。以来、幸福なわれわれは個々人の身体的快楽を顧みずとも、なんの思考もなしに手に入る幸福を享受してきたのである。  一方、想定外の事態が起こることを知っていて覚悟していた人は、その〈身体〉を捨てずに生活していた人である。規格化された幸福とは距離を置いて、自身個別の快楽と真摯に向き合うその身体は、マス消費社会では規格化できない非効率な異物かもしれない。けれどもそれは原始の肉体と接続する生々しい〈生〉のかたちである。今ここで、「時代」や「私たち」を俯瞰しようというのであれば、まずはこの〈身体〉を取り戻さなければならない。さもなければ、なにか想定外のものを見過ごしてしまうだろう。
電気羊と野生の身体
 ここで、規格化された幸福を効率よく摂取する典型的なわれわれに〈電気羊〉という贈り名を与えてみてはどうだろうか。  「電気羊」とは、フィリップ・K・ディック(Phillip Kindred Dick、1928〜82年)によるSF小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(b)に登場する奇妙な造語である。その物語の内容も現代への示唆に富んでいてとても面白いのだけれど、今はその妙に蠱惑的な「電気羊」という造語に着目して想像してみたい。現代のわれわれに〈電気羊〉という贈り名をした時、その〈電気羊〉とは何を意味するだろうか。また〈アンドロイドが見る電気羊の夢〉とはいったいどういうものになるだろうか。  古来、〈羊〉は人に家畜として飼いならされてきた動物である。家畜化の過程でその生存におけるさまざまな可能性を閉じる代わりに、簡便で安定した幸福を享受してきた存在である。野生のヤギのように自由に牧場の外を駆け回ったり、自身の本能に従って生息域を探したりすることはできないが、牧場主にとって利用価値のある限りその生命と食住の保証がなされている。そして〈電気〉は、高度に情報化の進む現代においては、電気信号=コード化された情報を直喩する。この〈羊〉という単語に、この〈電気〉という単語が接続された時、〈電気羊〉という造語は羊がコード化された状態を表す。つまり、〈アンドロイドが見る電気羊の夢〉とは、目を閉じ可能性を閉じることによってもたらされるコード化された効率的な幸福であり、〈電気羊〉は、その目を閉じ可能性を閉じた幸福な機械としてのわれわれを象徴する名となるのである。  またここで〈電気羊〉に対して、野生のヤギのように原始の肉体と接続する身体を〈野生の身体〉と呼ぶことにしよう。われわれは自身を電気羊化することによって、つまり幸福をコード化し、思考や想像力を限定することによって効率的な経済成長を可能にしてきた。電気羊化とは、限定した状況の想定とそれによって安定供給される幸福を生産するシステムであり、経済成長の最盛期に生まれた「一億総中流社会」という言葉に象徴されるように、社会に広く深く浸透したシステムである。しかしヤギのように生きる野生の身体は、それら電気羊化のシステムに参画しようとはしないだろう。野生はその生命を保証されていないゆえに、それらの想定や安定というものを相手にしていても意味がないのである。また、電気羊はその幸福が資本によってコード化されているので資本が不可欠であるが、野生の身体にとって資本と快楽は無関係である。野生の身体は、自身が資本の上で寝たいわけでも資本を食べたいわけでもないことを知っている。コードによらず、目的と手段を生々しく峻別してしまうのが野生の身体である。  野生の身体を持った生き物、たとえば言語を持たない生き物は、目の前の水平面についてそれがテーブルなのかイスなのかというコードを区別することはできないが、そこにある現実や事象を感受して主体的に利用することができる。同じように野生の身体を持った人間は、自身が感受する世界において遠く離れた国の戦争を自身とは無関係と思い込むことはできないし、類似した特徴をもって何かを盲進的に断罪することもできないが、自身と地続きの世界としてその戦争を見ることができるし、個別のものとしてそれぞれの事物を認識することができる。そう、何かコード化されたものによらずにその身体で、あるがままの世界を見てしまうのが野生の身体である。
不可逆な身体
 さて、建築などの文化と感染症を考える上でペストを避けることはできないだろう。ヨーロッパ人口の1/3が命を落としたとも言われる中世ヨーロッパにおけるペストの流行は、当時の経済・社会制度のみならず、文化や思想にも大きな影響を与えたといわれている。後にルネサンスが花開き、思想・哲学方面でもルネ・デカルト(René Descartes、1596〜1650年)に代表される大陸合理論などの近代哲学が芽生えるきっかけとしてペストがあったのは間違いないだろう。  その中世ペストの時代では「メメント・モリ〔memento mori〕」という言葉が流行したそうだ。「死を想え」あるいは「死を忘れるなかれ」という意味のこのラテン語は、もともと古代ローマ軍人が戦勝にあたって、「明日は自分が死ぬ側かもしれない。だからこそ今を楽しもう」という意味で使われていた言葉だという。この「死を想え」という言葉に、まだ野生の身体を持っていた当時の私たちの感覚を感じずにはいられない。古代ローマ軍人が戦争という差し迫った状況で自戒を込めて使ったこの言葉・精神からわれわれは、実質的には常に戦時であるにも関わらず〈平和〉という言葉とともに目を逸らしつづけてきたのではないだろうか。平和であろうとなかろうと、将来の想定も約束もされ得ない世界・時代というのは現代日本でも古代ローマでも同じであるはずなのに。  万物流転・諸行無常のあるがままの現実世界について、かつては深い造詣を持って文化を建て築いていたはずの私たち日本人が、電気羊化を経て、いまや〈不変の社会〉という夢に目を奪われているように思えてならない。「コロナ禍からいつ元の生活に戻れるのだろうか」という時の「戻る」という表現に、この夢の特徴を見ることができる。  身体は常に変化している。一時として同一な身体などというものは存在しない。身体は常に酸化し、老いていく。昨日風邪をひいた身体が今日回復していたとしても、それは以前の身体ではなく昨日風邪を経験した身体であるし、鬱病から脱した精神は元の精神に戻ったのではなく、鬱病とのうまい付き合い方を覚えた新しい精神である。そう、身体は歴史や時代と同様に不可逆なのである。そして、そこに「戻る」という表現を用いることの無意味さを、野生の身体は当然知っているだろう。自身で��想定できない世界、前提の変更も不可能な世界、そのようなあるがままで、どうしてもそこにあってしまう現実世界に向き合った時に、野生の身体は「死を想え」と呟いたのではないだろうか。  野生の身体を捨てて、電気羊化することで思考・想像力を限定してきたわれわれ、その報酬に幸福を安定供給されてきたわれわれが、コロナのような想定外の事態に恐慌をきたすのは至極当然だったのかもしれない。電源を落とされて夢を見られなくなった電気羊が、あるいは柵が壊れ幸福の安定供給に支障をきたした牧場主が、自身が生きる延びるために野生の身体を取り戻し、改めてその地勢や風土を見ることができるだろうか。
自己批判しないではいられない
 電気羊化、つまり簡便で安定した幸福の生産システムは、あらゆる文化に適用されてきた。もちろんわれわれの建築文化も例外ではない。卵が先か鶏が先か、経済成長期にはいわゆる持ち家政策によって持ち家が増加するとともに住宅のコード化が進んだ。具体的には、「nLDK」などの間取りシステムや「南面至上主義」に象徴されるように、住環境を削足適履にコード化することで、効率的な住宅の資本化と消費を後押しした。また同時に私たちの生き方の面でも、家族という概念や会社・学校などへの帰属意識の更新とコード化を進めた結果、手頃な安心つまりは幸福を生産することに成功した。そしてそれは「庭付き一戸建て」という言葉の浸透に象徴されるように、建物のあり方にも反映されることになった。このように、住環境や生き方のコード化が行われることで、建築の多くが〈電気羊の夢〉へと変貌していったように思われる。建築の電気羊化は、想定され得る〈不変の社会〉の中で幸福を安定供給することを可能にしたけれども、同時にある問題をはらんでしまったのではないだろうか。それは、嘘も方便とばかりに建築を換骨奪胎し、コード化したことによってどうしようもなく生まれる倒錯である。  たとえば、建築雑誌において「繋がる」「開く」という言葉が流行しだしたのはいつ頃からだろうか。もともと内─外などのない世界に、内─外などの概念を築き建てるのが建築の大意だとすれば、設計者が「繋がる」「開く」という言葉に頼り出した時に、電気羊化した現代建築の倒錯があらわになったように思われてしかたない。そもそも建築という行為は、第一義に〈分断〉を図るものではなかっただろうか。日差しが強く多雨なアジア圏において屋根は天と地を隔てるものであるし、寒さの厳しい北国において壁は人間の生存可能な領域を切り取る所作である。柱についても、延々と広がる地球表面に、ある領域を限定する所作であることは、アジア各地に残る鳥居の類型がよく表している。  さて、野生の身体をもって見る時、建築の第一義を無視して建築を語ったりつくったりすることの自己欺瞞に、どうして気づかないふりをしていられるだろうか。いつの時代も未熟で浅慮なわれわれには、いつも自己批判の機会が与えられている。そして野生の身体は自己批判を無意識にも避けることはできない。自己批判しないではいられないのである。
肯定すべきそこにあってしまうもの
 では、「コロナ時代の私たちと建築」を考えた時にあり得べき建築とはどのようなものだろうか。私たちは今〈想定内〉という牧場の中で生きているにしても、その柵が綻んだ部分から〈想定外〉で自由に振る舞う野生の身体を垣間見ている。電気羊の夢の心地よさを知りつつ、野生の身体の快楽を思い出そうとしている。いまやコード化された幸福を否定する必要もない。野生の身体を取り戻した時、電気羊としてのわれわれと野生の身体としての私たち、それぞれの世界があるがまま見えてくるだろう。たとえばある建物を見たり語ったりつくったりする時に、それがコード化された幸福に基づくものなのか、野生の身体の快楽に基づくものなのかが峻別できるだろうし、私たちが何を幸福として消費するのか、何を快楽として楽しむのかを自覚することができるだろう。前者は電気羊としてコードに則った消費者としての視点であり、後者は野生の身体によって世界を感受する生産者としての視点である。そして、生産者として野生の身体をもって建築する時、その建築は〈広さ〉や〈明るさ〉や〈繋がり〉ではなく、〈狭さ〉や〈暗さ〉や〈分断〉というかたちで現れるのではないだろうか。  また野生の身体を取り戻した時、建築における〈オリジナリティ〉の現れ方も異なってくるだろう。電気羊化した社会におけるオリジナリティとは、おおよそコード内における差別化の手法を指し示す傾向があるように思う。電気羊化した社会では、他のものとは違うという差異そのものが価値となり生産すべき幸福となり得るからだ。けれどもここでふと立ち止まって、そもそもオリジナルとはどういうことだろうと考えはじめると、言語も歴史もそれに基づく文化もすべてが先人からの連歌である私たちにとって完全にオリジナルな創作というのは可能なのだろうか、と途方に暮れたりはしないだろうか。そしてその時〈身体〉のみがオリジナルであることに気づきはしないだろうか。たとえばある人が見て感じるリンゴの赤さと、ある人が見て感じるリンゴの赤さはきっと異なるだろう。またある人が経験してきた世界と、ある人が経験してきた世界はきっと異なるだろう。身体とそれに基づく感受性はとても多様なオリジナリティに溢れているのである。そして同時に、身体とはどうしようもなくそこにあってしまう現実であることにも気づくだろう。先に挙げたデカルトが、未だペスト流行の中にあった17世紀のヨーロッパで唱えた命題、「我思う故に我あり〔Cogito ergo sum〕」を短絡するなら、その身体を肯定することはその世界を肯定することである。どうしようもなくそこにあってしまう世界を肯定し、すでにそこにあってしまう世界をどうやって面白く住みこなすか。世界のありようを肯定する野生の身体で建築がなされる時、そのオリジナリティは生産すべき差異としてではなく、どうしてもそこにあってしまうものとして現れるのではないだろうか。
〈建築家〉はもういない
 最後に建築という行為について、あるコード化された概念の集積を〈電気的建築〉、身体によって要請される概念の創出を〈野生の建築〉と呼び分けてみよう。  電気羊向けの安心で快適な〈電気的建築〉は資本社会が最適化して提供してくれるだろう。いかに太陽光を取り入れるか、いかに限られた面積に効率よく部屋を配置するか、最短の動線はどのようなかたちになるのか、といった最適化のプログラムは資本の蓄積と物量によって高度になりつつある。特に、BIMやパラメトリックデザインなどの技術発展が典型的である。電気羊としてのわれわれを満足させる建築行為は、エンジニアリングとして旧来の建築家以外の技術者が、その物量・情報量・技術的蓄積・最適化のプログラムによって旧来の建築家以上にうまくやってのけることになるだろう。つまり〈電気的建築〉を設計する者の正体は、電気羊の夢を供給する〈技術者〉である。  しかし、電気羊の夢の中にいる限りそのプログラムの前提にある各々の定義や評価軸、用いる変数や定数の設定、それら自体を疑うという作業は難しい。なぜならそれらの作業は野生の身体を持ってなされるものだからである。先に述べたように、効率的に幸福を供給する牧場主としての設計者が建築家である必然性は現代にはないが、もし建築家がオリジナリティをもって〈野生の建築〉を行おうとするのであれば、野生の身体を取り戻すよりない。しかし電気羊化した社会のコードやあるいは定義や公理のようなものを、野生の身体をもって疑い、また世界のあり様を考察する行為は芸術行為そのものではないだろうか。この時〈建築家〉という言葉は自己批判・自己限定されて〈芸術家〉と同義となる。つまり、現代で〈野生の建築〉をする者はもはや〈芸術家〉でしかあり得ないのである。そう、〈建築家〉はもういない。  野生の身体を思い出しつつある〈芸術家〉としての私たちにとって、「コロナ時代の私たちと建築」という関係のみを切迫した問題として見ることはできない。事態はいつの時代も常に切迫しているし、私たちをとりまく世界はいつも、想定外で、不可逆で、どうしようもなくそこにあってしまう現実である。私たちがいつの時代も常に自覚しなければならないのは、われわれが自身に向ける電気羊化の手癖であり、私たちがいつの時代も常に探求しなければならないのは、私たちの野生の身体である。 参考文献 a. 澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(光文社、1965年) b. フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房、1969年)
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blue-aotan · 1 year
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ハロー(´ー∀ー`)2022.12.25
先週年賀状を投函したあおです。
お年玉も用意し、新年を迎える準備万端でございます。年末の大掃除をどうしようかな…といったところ。服の断捨離はかなり前からしていたし、いらない物もかなり捨ててしまったのであとは掃除をどこまで頑張るか←
(既にするつもりなし笑
メリークリスマス🎄でございましたが、8年ぶり?くらいかどうかももうわかりませんがまいまいちゃんと一緒に「ポータル2」というゲームをすることができました🥹
あの頃、��緒にしようとしててエラーで協力プレイできなくて断念したんですよね…
8年の時を経て、ようやくリベンジを果たせました笑
めちゃくちゃ難しくて、2人で力を合わせて…そしてリスナーさんとも力を合わせて、みんなの知恵を集結させ←ようやく進めることのできるゲームです🤣
とっても面白かった!
素敵なクリスマスになりました🎅
あまりにも気に入ってしまった
シュイーンバイーンをもう一度
近日公開です!!!←
1人で黙々とするゲームも楽しいけど、2人でああでもないこうでもないと相談しながらするゲームも楽しいものですね( ˊᵕˋ )
まいまいちゃんありがとうございました!
また来年も続きをのんびりとしていきたいですね〜
そして今朝、起きても枕元にプレゼント🎁はなかったので(ある訳がない)
自分へのクリスマスプレゼントとして、ゲームを大量に購入しました←
あちこちでウインターセールが来てますのでね🎮
積みゲーもなくなったことだし!
(まだ一つあるけど
一年お疲れ様でしたプレゼントとして買っちゃったんだよね
これがクリスマスプレゼントってこと
新しい時代が始まろうとしてるってことなんだよね
いい?
ニューヨークにファラオが蘇るって言葉を頭にいれとけよ
(都市伝説より
購入したゲーム達はのんびりと配信で崩せていけたらいいなと思います☃️
そして都市伝説を見て、、2025年に何かとてつもない事が起こってしまうのではないかと不安に包まれました←
宇宙人に関しては「近いうちに情報が開示されるだろう」ってずっと言われてるけど、なかなかその日が来ないですよね←
しかし海からUFOが来てるなんてことは知りませんでしたーー。
都市伝説によると、UFOでやってくる宇宙人の技術は1000年先の技術だと言っておりました。
宇宙人は未来人説。
人間の姿もどんどんグレイ👽に近づいていくとかいう話もどこかであった気がします。
宇宙人に連れ去られた人々が、UFO内のカレンダーが2024年で終わっていたという話もありました。
でも1999年のノストラダムス大予言や2012のマヤ文明の人類滅亡説も何もならなかったんだけど←
だけどコロナが流行して戦争が起こり災害が何度も起きて犠牲者が出たりするニュースを見ていると、最近地震も多いし天候も変だしそういう2025年の予言に無意識に結びつけてしまいそうな自分がいるんですよね。
だからこそ自分のしてみたいこと、行ってみたい所、挑戦したいこと、会いたい人、大事にしたいことを明確にしたり少しずつ達成していったり行動に移すこともいいなと感じています。
2025年が何も起きずに平穏に訪れることが1番いいけれど、何が起こるかわからない世界に私達はいるんだということを忘れずにいたいよねってこと。
いい?
もうすぐ2022年が終わるってこと。
2023年がすぐそこまできてるんだよね。
お餅食べたいってことなんだよね。
(勝手に食えw
ということで今回のブログを2022年最後のブログにしたいと思います。
みなさま、良い年の瀬をお過ごしくださいませ
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kennak · 1 year
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父親、70代半ば。定年してから家ですることないし何もしないし酒飲んでばっかり。人との関わりもできないし社会と関わり持つようなこともなくて時々2階の自室から降りてきて、家族にあることないこと文句言う。で、本人もコミュ障なのかアスペなのかわかんないけど、酒飲んでなくても認識がおかしいところもあるし、何よりも怒る事くらいしかエンタメがないのか、過去の嫌だった事を1人で煮詰めて、それがグツグツしてペースト状のドロドロになった頃に人にぶつけたりする。友達とかはいない。一緒に遊びに行く友達の存在とかもほぼ居なかったと思う、聞いたことない。すぐに人をこき下ろしたがるのでだれも仲良くしないと思う。極端に、周りを見下すことでしか自分の優位性を保てないんだと思う。テレビ見ても雑誌みても、フン、て偉そうに多分何も知らないのに間違っとるとか批評家気取りのズレたご高説を垂れるばかり。聞いてる側も気分悪いのでいつからか家族もまともに返事しなくなった。気を使って話しかけても、自分すごいorお前は大したことない、の話しかできないから。目的があって外出するのは月に1回の通院と、タバコと酒買いにコンビニ行くくらい。地方都市なのでヨボヨボだが車を運転していく。食事も、家族が作ったものは選り好みするし決まった時間に食べる習慣もないし、置いてあるカップラーメンやチルドうどんとかを食べてたりする。スーパーの弁当なんかも置いておくと食べてたりする。で、最近特にひどくなってきて身体も思ったように動かなかったりとかの不安もあるんだろうけど家族への暴言や暴力が頻度が高くなってきて、限界も近くなってきた。夜中に家族の寝ている部屋で訳のわからない気分悪い話やどうしようも無い人のルーツを馬鹿にする発言をしたり、扉をデカい音で閉会したり、テーブルにコップをゴンゴンあてたり、階段をわざと大きな音で歩いたりとか、もう明らかな異常性がでてる。父親本人は構ってほしくて構ってほしくて仕方ないんだろうけど、本当に話すネタも自分かわいそう、か誰かしらが悪い、くらいでつまらないし、無視してると嫌がってるのに顔を無理やり覗き込んできたりとか、反応貰えるのがそんな事しか思いつかないのかロクな事をしない。第三者にSOSを出すとしたらどこなんだろう?暴れる(大声の暴言含む)時に7119とかは迷惑?それとも警察?保健所に相談したらどこかと繋げてくれるんだろうか。アル中単体とかなのか、性格だったり心の障害なのかも判断できないし、かと言って本人が自ら精神系やカウンセリングみたいなところに行けと言っても絶対行かないだろうし、何をどうしたらいいのかわからない。病院では暴れてる事なんで自己申告してないだろうし、下手すると本人も覚えてないから、酒の飲み方も週に2回飲まない日作ればいいとか言われてるらしいけど怯える日が増えるので家族としては正直余計な事を、と思わずにいられない。今月になってから、目立つ飲酒時の奇行とかはスマホのメモ帳に付け始めた。他に準備できることあるんだろうか。【追記】散歩くらいしたらって言ってるんだけど、行かないね家の周辺歩くのに人の目が気になるなら山とかの駐車場に車止めてその辺15分くらいでも過ごすと違うと思うんだけどね習い事も、きっと周りを馬鹿にして自分スゴイをやるし、そもそもそのお金を払うのが馬鹿だと思いそうきっと行った店の店員さんにも変なキレ散らかし方してご迷惑かけてそう【追記】たくさんコメントあって驚いたのと、有難いのとこの手の高齢男性って多分たくさんいるんだろな自分も含めてこれから歳をとる世代のみんなは、苦手な人こそどうか感謝と謝罪を口にできる訓練をしておいてほしいそういう意固地って自分の行動範囲を自分でジリジリと削り続けてなんでだよって逆ギレかますみたいなもんで、周りはドン引きしかしないし手を差し出す事もできればしたくなくなっちゃうから社会と関わりがなくなるとこうなるんだと思うけど本人ももう働いたりする気はないみたい犬は飼ってるけど、ペットの管理で過去にやらかして信用もないし、犬自体もやっぱりおかしいのがわかってるから懐かない、懐かなくて犬も文句をいう材料にする、の負のループ昔から犬の散歩もしないし犬の粗相も家族にオイ、って知らせて犬の世話をしてる気になるタイプだったとりあえず保健所や福祉系のところに相談実績を作るから始めようと思う高齢者でも性欲ってあるんだね、母親の体をなんとかして触ろうとしているときがある、それがまた自分本位なので本当に醜悪で…コミュニケーション能力や相手をちゃんと人として扱うって大事すぎるなって父親の尊厳を傷つけるのはと思っていたけど、向こうはこちらの尊厳をゴリゴリに削ってくるんだからストレスすごい、それでもここで吐き出せてよかったです実は2年前に父親は食事もまともに取らず酒飲んで寝てたので意識がなくなって?救急搬送から月単位での入院のコンボをかましている部屋は見事な酒の紙パックだらけだった、腰の高さで埋もれるくらい昔見かけた競売物件で「まる」だらけの部屋があったけど、あれプラス謎の溜め込んだ金属ゴミ系(空き缶を切ったりした物は破片が危なく片付けに苦労した)趣味がなかったり、人を馬鹿にしないと生きていけなかったり、せっかく死にかけたところから戻ったのに何も見つけられないのはどうしたらいいんだろう、1人でできて金もかからない、前向きな気持ちになれる気軽な趣味を見つけてほしい【追記】初めて匿名ダイアリーを使うので、返信のお作法がわからないのですがいただいたコメントは基本目を通しています。共感いただく方が複数いるという事は少なからずあるパターンなんですね。増田本人の心配をしてくださる方のお声もありがたいです。コメントの通り、どうやって本人を福祉なりに繋げられるように連れていかせるかが焦点になるでしょうか通院先は総合病院で(入院したところなのでその辺の事情のデータも残っているかもしれない)ソーシャルワーカーもいるのでそちらあての相談もできないか調べようかなそういえば思い出した、以前に地域包括支援センターの方が本人に会いにきたのだけれども怒鳴ったり暴言吐いて追い返したらしい、自分はその場にいなかったから後から聞いた。訪問されたスタッフなんて正社員でも何でもないモンが、偉そうに指図しやがって、的な事を言っていたらしいのだが正社員なら言うこと聞くわけでもなかろうに誰の言うことなら聞くんだろう【追記】ネットを検索してもなかなか見つけられなかったヒントが、吐き捨て目的の匿名ダイアリーのブコメでこんなに集まると思わなかった、集合知に感謝です。既に終わった人も大変だったろうしなかなか人には言いづらい事を教えてくれて助かります、これからに備える人も何かしらの参考になるなら書き殴りの文だけど、できそうな対策を1度考えてみてもいいのかなとたくさんいただいてる意見の中の認知症疑い、これは多少ある気もしますが、それで急におかしくなったわけではなくて元々の本人の性格におかしなところはありました。働いてる時でもいきなり癇癪起こして自室から数ヶ月出てこないとか定期イベント。一緒に住むなら心をフラットにできる薬を服用してほしい。あとは睡眠薬等で夜中に寝て朝に起きる癖をつけて欲しい。夜中や早朝に異常行動起こすのは思えばここ数年…?そう思うとだいぶおかしいのか。増田が同居してるのが悪いって意見、考えたことも無かったですがそれもあるかも知れません、しかし離れた県外で結婚して家庭をもっている兄弟(息子)への暴言や難癖もひどく、結婚相手の実家に対する根拠もない差別発言を聞いて、同じように自分が家を出たところで文句を言う材料にするんだろうなと。で、あいつも悪いから何も相続させん!とか叫んでそう。他者が悪い、すなわち自分は正しいという思い込みしか拠り所がないんですかね。あと、自分が同じ部屋にいる時は比較的おとなしい。自分の部屋に怒鳴り込みにはこない。ターゲットは基本母親。娘の前では少し理性が働くのかフルスロットルにはならない、少し前に母親殴りそうな時に平手打ちしてメガネぶっ飛ばした。その時に力でも勝てないのも理解したんじゃないかな。反撃しようとして半世紀前に習ったか何かの空手かなんかの型みたいなので威嚇してきたけどびっくりするほど痛くもない肩パン。色々書きながら思い返すとやっぱりダメですね。物理的距離を取る、を第一目的に動こうと思う。前に支援センターの人が来たのは何だったかな、近所に呼ばれたとかではなかった。入院してて退院前後は介護認定3がもらえた(という表現もおかしいが)ので話早いといいな酒で入院した時はウェルニッケの疑いの話されたけど、なんか案外元に戻ってしまった。酒飲むの止められない人、極力減らすのが1番だけど各種ビタミン忘れず取ってね。酒のカロリーで生きてもロクな事ないですよ。結婚したら一生セルフケアしてもらえると思ってた世代ってあるのかな。成功しないのに察して察してを続けて、何かこちらが提示しても後出しのイヤイヤ。70代のイヤイヤ期なんて情けなさしかないからそういう思想なくなればいい。教育テレビで尊大な自尊心を穏やかに丸くさせるような番組とかしてくれたら助かるんじゃないか【追記】思いのほか拡がってしまい戸惑ったけど、たくさんのためになる情報をありがとう「自己愛性パーソナリティ障害なんじゃないか」の声を複数見かけて、調べてみたら全てが当てはまって今までの奇行にも納得がいくし、本人幼少期にロクな扱いされてなかった話は聞いた事もある(田舎の次男)、診断こそおりてないけど多分そう。少なくとも対処法が近いのでこちらも考えやすいしお互いのつらさは少し減らせるかもしれない。今の父親本人は暴れたあとの落ち込みタイムとでも言うのか、これも定期イベントだけどしばらく大人しくなる期間ぽい。このやらかす→大人しくなる、の繰り返すスパン短くならないといいなソーシャルワーカーさんにも相談したし、あとは地域包括支援センターにも話を通したりしながらどうにか改善できるように手探りしていこうと思う。��来が不安だったり、不安定な身内がいる人たち、自分も含めて穏やかに過ごしていけるといいね。日光浴して、肉食って、歩いて、無理せず笑える日常がそこにありますよう。
父親狂い始めてどうしていいかわからない
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manganjiiji · 9 months
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パワー、米、翼の者
32歳で完全に諦めて、その後一年その事で落ち込みからうつ状態を乱発し結局死の淵に近づきすぎて回復に3年もかかった。今もまたそこまで回復したとは言えない状況だが、32歳の時とは比べ物にならないほどに人間としての生活をしている。諦めた夢とは何か。大学進学である。バイトの掛け持ちで金を貯めようとしたが、酒の力と夜勤のリズムに体力的に敗北し、そのままコロナ禍となってしまい、何もかもが終わった。大学は日本史学専攻で卒業しているのだが、かなりうつ状態が酷く、ほとんど記憶がない。卒論の中間発表も、3日前まで完全に白紙で、友達が同行してくれて教授に怒られに行き、30分間教授の前で号泣して、そこから3日間で卒論の方向性と下調べと発表資料作りをし、合宿出発(合宿先で中間発表をするのである)の集合時間が6:45だったが、レジュメの印刷を自宅で終えたのが当日の6:20だったことだけは覚えている。ぼろぼろだった。卒論そのものも酷い出来で、とにかく恩情で卒業させてもらった。ぼろぼろの体でアルバイトをしながらなんとか50万貯めた。それでも私は生家と縁を切るためにはやはり正社員としての就職しか道がないと思い込んでおり、その50万は自動車学校(これもうつ状態により挫折)と就職先の岡山への引っ越し代で消えた。本当はその50万は、大学院進学のための学費にしたいという思いがあったのだと思う、不可能なことだとは思いながら、どこかで希望を捨てられずにいた。その後の就職先で見事に精神科に連行され、休職、退職、生家に引き戻され、療養しながらのアルバイト生活が始まる。私はいつかはどこかのタイミングで正社員になり、もう一度大学に行きたいと思っていた。大学院進学というよりは、日本史学以外の学部の勉強(その頃は言語学とその周辺の思想に興味があった)がしたかった。しかし病状の回復も、仕事も、そんなに上手くいくものではなく、さらに生家との関係から来るストレスでつねにぼろぼろだった。そこからやっと抜け出せそうになったのが30歳の頃だったが、それでも結局体力が続かず挫折してしまった。というか、1日計13時間立ち仕事、2時間移動をして、2つの仕事をこなし、休日は週に半日が2回あるかどうか、という生活が、病身には無理だということがなぜわからないのだろうか。今思えば単に「馬鹿だな」と思うが、どうしても諦められなかったのだと思う。夢を。勉強したい、というのが、幼少期からずっと変わらず持ち続けた思いだった。正直それ以外はどうでもよかった。
今、仕事が再びできなくなり、全てを白紙に戻して考え、自分は「本当は」なにがしたいのか。計画が崩壊した今、どうせ死ぬなら死ぬ前にやりたいことをやった方がいいのではないか、と思った結果、社会学で編入試験を受けることにした。福祉の資格を取って、東京福祉局か児童相談所の職員を目指すつもりだったが、やはりどう考えてもまだ自分の精神状態および病状が安定していない。もちろん資格取得までは2年あるわけだが、その前に、他人のために働くことを志す前に、まず自分の呪いを解くこと、本当にやりたかったことをやることのほうが先ではないのか、というかどうせ金が手に入ったんだから、やりたかったことをやればいいではないか?何を利口ぶって優等生らしく聞き分けよくなっているんだ。それは全く全然私らしくないし、全然「面白く」ないということに気づいた。私は、こんなにうじうじと毎日息をするように死ぬことについて考えている場合ではなく、もっと「面白い人間」になることを目指すべきだと思う。やりたいことしかできず、やりたくないことは一切続かない私が、安牌を打っている場合ではない。金は使ったら戻ってこない。後悔は絶対にしたくない。すればいいじゃないか。勉強を。やりたい勉強をすればいいのではないか?
というようなことにやっと気づいた。これは、死ぬべきだ、もう死のう、今日死のう、と考えて、やっと「今日死ぬくらいならこの金を使ってあれをやりたい」と思って出てきた考えだった。本当にやりたいことをやればいい。その他のことはもはやどうでもいい。死ぬことに比べたら全然どうでもいい。これをやってから死ねばいい。ということで、金は若干足りないが、どうにかする方向性で行こう。どうにかする。とにかくなんとかするから、やりたいことをやれ。やってから死ね。そう思う。別に長生きする必要なんかないし、私が人を救わなければいけないという法律もない。それでも結局、私の関心は虐待や犯罪を生み出す社会にあるので、この進路選択はそこまでかけ離れた考えではないと思う。何を勉強したいのかというと、なかなか絞りきれないが、ともかく試験までに最低限の考えはまとめておきたいと思う。
あまり何もかもきつく考えすぎないことだ。小説も書きたい時に書けばいいし、あんスタもやりたい時にやればいい。読みたいものは読みたい時に読めばいいし、元気な時にしか私は動けない。いくら自分で自分を責めても、それで元気になるわけではない。精神の問題ではないのだ。脳の神経伝達物質のエラーなのだ。もちろん自分の中の思考のプロセスや傾向で改善しなければいけない部分は多くあるし、それでストレスを軽減できる可能性は大きい。しかしどの精神疾患者にも共通して言えることは、誰もなりたくてこんな病気になっているわけではないということだ。他人はどう思うか、何を言われるかはわからない、でも自分だけは、自分のことを責めてはいけない。過去を忘れ、目の前のことに集中し、一方で過去からの呪縛と向き合い、現在の自分に還元することでストレスを軽減し、脳内の神経物質の動きを正常化していく。投薬と並行してそれはもちろん必要な努力だが、それが思うように進まないからといって、即時に自分が悪いということにはならない。努力している。誰も彼もきちんと前を向いて足を踏み出して、変化して、周りよりは遅いとしても、絶対に成長している。それを自分に対しても他人に対しても肯定していきたいと思う。良くならない人間はいない。どんな人間でも、ものすごくわかりにくくても、生きている限り変化はする。
それはそれとしてやっぱり面白い人間にはなりたい。もう少し気楽な人間になりたい。そのためにはなんらかの技術をもう少し身につけたほうがいい。確かな足場を。と思っているが、まあ別にそれはできなくてもいい。一生口八丁手八丁と張ったりだけで生きていく人生でも別にいい。ただ、いい小説を書く、ということだけ目指していく。この世界を少しでも良くして、死にそうなほど苦しんでいる子供を一人でも多くその場から逃がす。そのためにできることをやる。でもそれは今すぐに実現できなくてもいい。そんなことがすぐに実現できる訳がない。でも絶対にする。私の道はその方向にだけ伸びているから。児童虐待をめぐる日本の状況は明らかに貧しい。ここには法律と行政の後進性が明らかに存在する。そしてその背後には日本の歴史、伝統的な家庭観、子育てに関する状況、儒教的な家父長制の後遺症、さまざまな連関がある。当然、貧困の問題、人格障害や発達障害など、精神に区分される障害とその対応についての問題にも関わってくる。教育の問題、人々の未成熟の問題、資本主義の弊害、民主主義の、国内政治の、国際政治の問題。全てが密接に関わっている。虐待されている子供が児相に通報され、親が親権を手放さず、そのまま家庭に戻され、中学生になってから親を殺害することの責任は、この社会に存在する全ての大人が負う。誰も、どの問題も無関係ではない。そういうことを考えています。本当にこういう傾向って、いわゆゆENFP(16診断)そのものだなあ、と思いますね。よくできている診断。
とにかくまずは、毎日3食食べ���運動し、8時間寝ることが先決だと思う。洗濯し、皿を洗い、掃除をし、米を炊く。この営みを「続ける」こと。こんなことは別に全然不完全でいい。完璧である必要はない。ただ続けること。できる範囲でできることをやる。できる生活をする。なれる人間になる。
2023.9.30
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