孕むのは傷
学校にも行かず、同級生の家で、その母親と
身を起こしてベッドを降りた香乃が、カーテンを引いた窓の前に立ち、白昼の日射しに軆の線を浮かび上がらせる。
睫毛。乳房。尻から脚。
まくらに肘をついて頭を支え、俺は香乃がベッドスタンドの灰皿に残した煙草を、少し吸ってみる。まずい。思わず咳きこんでしまうと、香乃は緩やかな長い髪を揺らしてこちらを振り向き、笑った。
「浩平くんは、そんなの吸わなくていいのよ」
「香乃さんは、これうまいの?」
「旦那が吸うから、うつっただけよ」
俺は舌打ちしてうつぶせると、煙草なんかより、甘い香乃の匂いが残るシーツの匂いを吸った。その匂いだけで、脳がほてって腰が焦れったくなる。
「もうお昼ね。何か食べていく?」
「うん」
「オムライス作ってあげる」
「ケチャップで俺の名前書いて」
香乃は笑うと、床に落ちていた服を拾い、身にまとっていく。
俺は高校二年の十七歳で、二十歳のときに俺のクラスメイトを生んだ香乃は、今年三十七歳だ。軆の線は完璧とは言えないけど、白い肉づきがあってむしろ俺はそそられる。
浅葱色のチュニックとインディゴのパンツになった香乃は、こちらに来て、ベッドスタンドに投げたヘアゴムで髪をひとつに縛る。
「香乃さん」
「なあに」
「キスしたい」
薄化粧の香乃は、俺を見て、ベッドサイドに腰かけるとシーツに手をついた。俺も上体を起こし、香乃の首に腕をまわして、彼女の顔を引き寄せる。
息遣いがほてっている。唇が触れあって、互いに舌をさしこんで絡めて、水音が跳ねる。息を止め、熱く柔らかい舌で相手をむさぼり、俺はもっと香乃を抱き寄せて乳房をつかんだ。
すると香乃は唇をちぎり、「キスだけ」と俺のまだ剥き出しの肩を押して、軆を離した。
「けっこう勃ったんですけど」
香乃は俺の陰毛から頭をもたげるそれを見て、「仕方ないなあ」と指を絡みつけ、手で刺激してくる。香乃の指は白くて、それが繊細に動いて、股間にミルクがしたたっているみたいだ。
俺はシーツの上を座りなおして、取り留めのないため息をこぼす。集中する血に堅くなって血管が走りはじめる。俺は香乃にキスをして、息遣いがかかる距離でささやく。
「口でしてよ」
香乃は肩をすくめると、ベッドに乗って、俺の脚のあいだに膝をついて股間に顔を埋めた。ぬるり、と熱っぽい濡れた感触が性器を包んで、それがうごめいて吸ったり締めつけたり、俺の喉からは声が垂れる。
すする音が耳を淫靡に撫で、俺は香乃の茶色の髪をまさぐって、舌の動きに連動して腰を動かす。ただ気持ちよかったのが、一気に屋上への階段をのぼるように、快感が駆け上がりはじめる。息遣いが深くなって、声が虚空を引っかく。
「やば、出る、……っ」
言った瞬間、香乃の口の中にたっぷり吐き出していた。びくん、びくん、と名残る反応で長く射精が続く。香乃はそれを全部飲みこんで顔を上げ、少し口元に垂れた精液も、指をすくって口に含んだ。
「おいしいの?」
「浩平くんは、味がなくて飲みやすい」
「旦那は?」
「あの人のは煙草の味がするわ」
そんなもんなのか、と俺も床の下着と紺のスラックスを拾った。
学校にも行かず、同級生の家で、その母親と情事にふけって。もともと親にはあきらめられているけれど、知られたら勘当でもされるのだろうか。
あの人たちは姉貴しか見てないからなあ、と俺はスラックスに脚を通して、ベッドを立ち上がる。「ごはん作ってくる」と香乃は煙草をつぶしてからダブルベッドの寝室を出ていき、俺は制服を着ると、さっき香乃がいた窓辺に立ってみた。
カーテンはぶあつく、くしゃくしゃと適当にまとめられて、レースカーテンの模様が壁に映っている。
腕時計を見ると、時刻は十三時前だった。残暑の日射しはまばゆく、目を細めてしまう。
俺はカーテンに手をかけ、それに包まってみる。確かに、あの煙草の匂いがした。しょせん、香乃が大切に想っているのはその男なのだ。なのに、何で俺は、香乃に恋をしてしまっているのだろう。
寝室を出て、ダイニングに向かうと、たまごとバターの柔らかな匂いがただよっていた。
白い壁には、絵画のような額縁で家族写真が飾られ、オブジェにも見える時計が秒針を刻んでいる。広いテーブルクロスは真っ白で、裾に同じ白糸の目立たない花の刺繍がある。
俺は椅子を引いて座ると、テーブルの真ん中のピンクのガーベラに触れた。ここに生けられる花は、毎朝香乃が変えているらしい。
俺の家は、親父が医者の格式ばった金持ちだが、ここの旦那も、駅前の調剤薬局を経営する稼ぎのいい男なのだそうだ。俺の親父が勤める病院と、その薬局が提携しているのが分かって、佑輔──香乃の息子と俺は、何となく話すようになっていた。
香乃に出逢ったのは、梅雨がまだ開けない七月だった。期末考査の勉強のため、佑輔に誘われてこの家に来て、ひと目惚れした。
佑輔は部屋にいた。俺は廊下でつかまえた香乃に、無理やりキスをして、あの煙草の味を感じながら、服越しに勃起を押しつけた。抵抗していた香乃の乳房の突起を指でこすると、香乃は俺を洗面所に連れこんで口でした。そのときも全部飲んでいた気がする。
荒っぽい息を噛んでいると、不意に「浩平ー?」と佑輔の声がして、俺は慌てて答えながらファスナーを正した。生徒手帳のページを破って、香乃に連絡先の走り書きを握らせた。それから、俺と香乃は、この家が空っぽになると軆を結びつけている。
テーブルに頬杖をつき、スマホを取り出して画面を起こす。何の着信もない。別にこちらから連絡する相手もいない。
平日の午前九時、香乃にメールをして、香乃以外留守だと返ってくると、俺はこの家に来る。このスマホは、ほとんどそれだけに使う。そして、帰り道にメールは全部削除する。
何も残らないのにな、と思う。そんなふうに、削除してしまうメールみたいに。
どんなに軆を重ねても、俺と香乃には何も残らない。埋まらない穴が深くなっていくだけだ。
俺は「もうやめる」のひと言が言えないし、香乃も「もうやめて」のひと言を言わない。俺は香乃をつらぬいて、奥まで突いて、でもそうすることで、俺は香乃の愛情に包まれたりなんかしていない。単に、自分の心に、空洞を空けている。
こんなに香乃を愛しているのに、愛おしくてたまらないのに、何も生まれない。香乃を抱くほど、俺は腫れ上がる気持ちを押し殺している。誰にも届かない膿んだ心を持て余し、結局それは、床に踏みつけるしかない。
そして、感情が流出する。感覚を喪失していく。
香乃が作ったオムライスを食べると、リビングのカウチでもたれあって、キスをしたり服の上から触れ合ったりする。引いたカーテンの向こうからの日射しが、指先や衣擦れに陰影を作る。
触って。舐めて。入れて。
そんな言葉は交わすのに、「好き」とは言わない。それが、俺と香乃の距離なのだろうか。
俺にまたがった香乃が、腰を沈めて俺の首にしがみつく。どろどろに濡れた熱が吸いついてくる。俺は香乃の太腿をつかんでもっと奥まで突き刺して、お互いうわずった声を出して、腰の動きを縺れあわせて快感をいたぶる。
香乃の顔を見た。濃くない化粧。しっとり上気する肌、睫毛が縁取る瞳、薄く色づく唇。
長い髪をほどくと、さらさらと乱れた服の上を流れる。その軆を腕に抱くと、感触は柔らかくふっくらとしている。うなじに舌を這わせると、香乃も俺の軆に抱きついた。
つながった性器が、熟れた果実みたいな潤んだ音を立てている。腰が蕩けてふわりとあふれそうになるのに、それをぎゅっとこらえて我慢する。
いつも俺は、十五時にこの家をあとにする。それまでぎりぎりまでつながって、絶頂を焦らして、息や声を崩している。
俺たちは、軆の相性はいいのだと思う。「もういく?」と訊くと、香乃はうなずき、俺は香乃を前倒しにして後ろから攻める。攻めながら核を撫でると、それで香乃はきゅうっと俺を締めつけてきて、まもなく俺たちは、ほぼ同時に達する。
香乃は床に崩れ落ちて、それでも、俺の股間を舐めて片づけてくれる。ティッシュとか、証拠を残せないのもあるのだが。
俺は制服を正し、香乃も身なりをきちんと戻し、「じゃあまた」と玄関先で別れる。
香乃とセックスをしていると、そのあともっと虚しくなるのも忘れて、ちょっとだけ息が楽になるのだ。俺は、子供の頃から生きている実感がなかった。自分は必要のない存在だと感じていた。
俺は、跡取りとして男が欲しかったから作られただけの子供だ。でも、昔から医者になる気はなかった。そんな脳みそもなかった。だから結局、優等生の姉が両親の期待を背負って、両親には俺は作らなければよかった存在になった。
姉は今、二十歳で、医大に通って、浮いたうわさもなく、卒業後に備えた見合いまでしたりしている。そんな姉を俺は軽蔑しているが、姉もこんな俺を軽蔑している。
両親は、俺が学校をサボっているのを知っているはずなのに、何も訊いてこない。
誰も俺のことなんて見てくれない。
香乃だってそうだと、終わると気づいて一番傷つくのだけど、交わっているあいだは香乃は確かに俺を求めてくれて、自分が認められているように感じる。だから、俺は香乃に会いにいってしまう。
どんどん、奪われていく。埋まらない心を満たそうとしているのに、何だよこの関係?
不倫。人妻。友達の母親。
むしろ正気とか倫理とかを失くしていっている。
『お前、二学期から出席日数ほとんどないだろ。
今度の中間落としたら留年らしいぞ。』
十月になって、中間考査が近づいてくると、佑輔がそんなメールをよこした。『もうこのまま退学でもいい。』と返すと、電話がかかってきて説教された。『明日、俺の家に来い』と佑輔は言った。
『付け焼き刃だけど、平均点取れるポイントを詰めこんでやる』
お前んちにはほぼ毎日邪魔してんだけどな、と思いつつ、『分かった』と返した。
俺が留年しようが退学しようが、進級しようが卒業しようが、親が関心を持たないのは同じだと思うが。
ああ、何だかもう、香乃を連れて駆け落ちでもしたい。そう思って、白昼夢のようなバカげた未来に、自分で嗤ってしまった。
青空からの風が涼しくなってきた翌日、久々に学校に顔を出して、いろんな教師にちくちく言われた。ここでも俺は、いらない存在だ。俺みたいな劣等生は、在籍しているだけで学校の不名誉なのだろう。
やる気もなくつくえに伏せっていると、女の子が話しかけてくることはある。ダイエットに命を懸ける同い年の女の子の脚は細く、腰も華奢で、腕もすらりと長い。俺はそれに魅力を感じない。
指先が食いこむ弾力、噛みちぎりたい厚み、ふくよかな腰まわり。香乃のあの官能的な曲線が好きだ。俺はまたつくえに顔を伏せ、彼女たちが何か言っても、何も聞かなかった。
放課後になると、佑輔に引っ張られて家に連れていかれた。今日は佑輔に連れていかれると香乃にメールしていたから、香乃は驚いた顔を微塵も見せず、対応した。
完全に俺を「息子の友達」として見て、笑顔で接して、関係があるなんてまったく見せない。何だかそれが悔しかったけど、香乃にちょっ��いをかける前に、佑輔が勉強会を始めたので仕方なくつきあった。でも、集中力もやる気も出ないし、そんなことより香乃に少しでも触りたかった。
「佑輔」
「ん? 解けたか」
「やっぱ俺、学校辞める」
「あのなあ──」
「どうせ、平均点取ったって意味ないし。全国トップでも取らないと、親は俺を見ないよ」
「学校辞めてどうすんだよ」
「好きな人と遠くに行きたい」
「その前に彼女いんのか」
「………、好きな人はいる」
「マジか。校外か」
「すげえ好きなんだ」
「ほう」
「もう……好きなのに、何で、本気だって分かってもらえないんだよ」
佑輔は肩をすくめて、「高卒ないと、好きな女にプレゼントもできないぜ」とノートをペンでたたいた。俺はうめいて、シャーペンを持ち直して白紙のノートを見つめた。が、一分も持たずにペンを投げて結局立ち上がり、「おい」と佑輔に言われると、「便所借りる」と返して俺は部屋を出た。
キッチンから甘い匂いがしていたから、そちらに向かった。香乃が電子レンジを覗きこんでいた。
「何作ってるの」と歩み寄ると、香乃はこちらを見て、「焼きプリンができるから、少し待っててね」と“友達の母親”の顔と口調で微笑んだ。
「男子高校生に焼きプリンって」
「佑輔は好きなんだよね」
「ふうん」
香乃の髪に触れようとした。が、それはうまくかわされて、にっこりと微笑まれる。
「もう少しで持っていくから、佑輔にも言っておいてちょうだいね」
頭の中に、鋭い静電気が走る。俺は強引に香乃の腕をつかんで、引っ張って、深くキスをした。煙草の味。が、すぐに遠慮なく舌を噛まれたから、びっくりして顔を離す。
香乃は少し怖い顔をしていて、「私との関係がどうでもいいの?」と言った。俺は、その言葉の意味をとっさに測りかねた。けど、だけど、それはずるいだろ、とは思った。
どうでもよくないよ。香乃を連れて逃げたいよ。でも叶わないんだろ? どうせ香乃は、旦那と佑輔が大事なんだろ? だったら俺は、それをぶっ壊したいのに──
ぶっ壊さなければ、あんたは俺のそばにいるっていうのか? 何だよ、それ。そんな矛盾、あんたには都合がいいだろうけど、俺にはひたすら傷がつくじゃないか。
俺は佑輔の部屋から荷物を取って、カラメルの甘い香りがただようその家を立ち去った。胸に空いた穴で、息が苦しかった。
俺は愛されていない。香乃にも愛されちゃいないのだ。香乃に愛してもらえるなら、誰に突き飛ばされても平気だと思えたのに、やっぱり香乃だって俺のことなんて見てくれない。そもそも手に入れていなかったけど、それでも、香乃への片想いすら否定されて心が吹き抜けて、その空洞が俺をつらぬいて意識を彷徨わせる。
やがて、中間考査が終わった。俺はもちろん及第点を取れず、オール赤点だった。だが、それに触れることもしない家族と夕食を取り、夜中、リビングのPCで学校のホームページにアクセスして、退学届のPDFをダウンロードして印刷した。
もうやめよう。ぜんぶやめよう。学校も家もいらない。待ってくれと止めてもくれない。これからどうしていくのかは考えていないけど、とりあえず、今をすべてやめたい。
退学届を提出する前の日、香乃を訪ねた。その日も、影を映すカーテンがかかる寝室でつながった。事が終わると、高校を退学することを話した。ついでに家のことも話した。香乃はあんまり興味もなさそうに、煙草を吸っていた。
「もう全部やめる」と言ったところで、香乃は灰皿で火種を消して、ベッドを降り、カーテンにもぐって少し窓を開けた。カーテンがふわりとふくらんで、香乃のシルエットが透ける。
あのカーテンにも、この旦那の煙草の匂いがしたっけ。それに包まれる香乃は、やっぱり俺には手が届かない人なのだ。「たぶん」と俺はこの言葉をつけくわえた。
「香乃さんとも、今日でおしまいだ」
日射しに浮かぶ香乃のシルエットは、微動もしない。
笑っているか。泣いているか。それも分からない。
��そんなふうに、俺には香乃の心は分からないままなのだろう。捕まえられないのだ。どんなに手を伸ばしても、結婚して息子もいる香乃には、あのカーテンのようなぶあつい膜があって、俺には触れられない。
香乃だけじゃない。今まで俺がかかわった人すべてが、俺を満たしてくれなかった。みんな、俺を通り過ぎていった。今までと同じじゃないか。なのに、香乃を失うと思うと、なぜこんなに痛いのだろう。
日射しを受けるカーテンが秋風に揺れて、壁の影がひらひら動く。カーテンに染みついた煙草の匂いも、舞いこんでくる。それに包まる香乃は、やっぱり何も言わずにシルエットしか見せない。
「もう来ないよ」
最後だと思って、小さくつぶやいた。沈黙が流れた。風の音だけが低くすりぬけた。
ふと窓を閉めた香乃は、こつん、とガラスに額を当てた。
「そうしたほうがいいわ」
「……うん」
「私も、堕ろすつもりだから」
俺は目を見開いた。
香乃のシルエットは動かない。俺は段々と目を落とし、心がぱっくり裂けるのを感じた。
そう、こうしてまた失う。やっぱり、失うのだ。
そして、空っぽの心は、傷口だけ孕む。
FIN
2 notes
·
View notes
月の光と海うさぎ【4】
新しい家
新居がある隣町は、田園が広がるのどかな風景の町だった。
父が運転する車の助手席に母、後部座席に私と美夜がいる。私は父の後ろで、美夜は母の後ろで、それぞれ窓に顔を貼りつけてその景色を見つめた。引っ越しトラックが私たちの車に後続している。
「あの家だぞ」と父が言って、私も美夜も急いでフロントガラスを向いた。ざあっと稲穂が続く中に、晴れた空と同じ水色の家があった。
胸がどきどきしてくる。まるでルルが喜んで跳ねているみたいに。実際、心の中にあの陰気な雨は降っていなかった。出窓を見つけたように、私の胸にはさわやかな風が抜けて、爽快なほどだった。
だって、やっとあの学校を解放されたのだ。みんなからのいじめ、先生たちの嫌味、静くんの視線からも逃げおおせた。このすがすがしい光景の町で、ようやく自由を手に入れた!
どんどん近づくほど、新居がびっくりするほど大きな家だと気づいた。一階が車庫になって、その上に二階建ての家があって、実質三階建てだ。遠くから見えた通り壁は水色で、屋根は青、窓枠は白、コントラストがまるで大空と海原と白雲みたい。周りの稲穂の音も、本物の海みたいだった。
ああ、そうか。海なら心配ない。私の中のルルが海うさぎなら、この家は帰ってきた場所になる。だからきっと、ルルにも友達ができる。私にも友達ができる。ここが私の居場所になるんだ。
新居の前に到着して、大人たちが荷物を抱えていそがしく動きまわる中、私と美夜は家の中を駆けまわって探検した。
いくつもある部屋。木目の階段。大きなベランダ。ぴかぴかのお風呂。トイレだって真っ白だ。
何より嬉しいのは、三階に自分だけの部屋があることだった。今までは美夜と同じ部屋だったから、一気に自分が立派になったような感じがした。私も美夜も「すごい」「すごい」ばかり言うので、母の反対を押し切ってこの家を建てることにした父は、すっかり上機嫌だった。
「自分の荷物は自分でほどきなさいね」
新築の匂いがする自分の部屋で、南向きの窓を開けていると、私の名前が書かれた段ボールが続々と運ばれてきた。私の荷物がすべて部屋につめこまれると、顔を出した母がそう言った。「うん」と私が段ボールに駆け寄り、さっそくガムテープを剥がそうとしたとき、「よかったね」と不意に母が言った。
「えっ?」
「これで、いじめられることもなくなったから」
私は母を見た。母は目は合わせず、そそくさと隣の美夜の部屋に行ってしまった。私は手の中のガムテープを視線を落とし、気にしてくれてたんだ、と思った。
ざざあっと潮騒のような音と共に、涼しい秋の風が舞いこんでくる。そのそよ風がするりと私の長い黒髪を揺らし、深く呼吸すると、白い天井を見上げて自分は救われたのだと思った。
本当にそう思った。段ボールを荷ほどきしたり、住所変更の手続きをしたり、数日、学校に行かなかったあいだは。
そのまま、学校なんて私の生活から消えてしまえばよかったのだ。でも、心が解放感で清らかになって、学校への警戒心さえ流れてしまっていた。というか、何の根拠もなく新しい学校ではうまくいくと思っていた。
新しい中学校には、転入前に母と挨拶に行った。小さな中学校で、学年ごとにクラスはふたつしかないらしい。私は一年二組だと告げられた。田舎なので、特に高齢化で子供が町から減っている。そのため、学校の生徒数も少ないらしく、「でもそのぶんアットホームなんでね」と校長先生はにっこりした。私はその言葉を信じて、ここなら大丈夫そうだと改めて安心した。
アットホーム。確かにそうだったかもしれない。物は言いようだ。
私は分かっていなかった。町にひとつしかない幼稚園、小学校、そして中学校に、エスカレーター式でもないのに一緒に進学してきた子たち。それはひとつの家族であるように、とても密接な関係を作っていた。そのぶん、ホーム外のよそ者に対しては──その危険性を、私はまだ知らなかった。
転校初日、私は黒板の前で丁寧に教室に向かって挨拶したし、できる限りの笑顔だって頑張れたと思う。転校生に奇妙なムードがあるのは、前の学校を去るとき、女の子たちが泣いたことで分かっている。きっとこちらの学校でも、あの空気に押されて誰か私に話しかけてくれるはずだ。
そわそわしていると一時間目が終わり、休み時間になった。ちゃんと答えられるかな。言い間違えたりしませんように。そんな心配をしていると、十分間の休み時間はあっという間に過ぎた。
あれ、と顔をあげて、ふと私は、教室でひとりだけ「違う」ことに気がついた。その違和感が、微妙な被膜を作っていることも。
二時間目が終わっても、私に近づいてくる子はいなかった。無視されているわけではないようだ。みんなのほうも違和感を感じ取っている。そして、どうしたらいいのか分からないというふうに遠巻きに私を見る。
目が合ったら慌ててそらされるので、私から話しかける勇気も持てなかった。だいたい、こちらからみんなに言えることなんて、朝の挨拶で言ってしまった。だから、今度はそれに対してみんなが好奇心を持って尋ねてくれないと、私は誰に何を言えばいいのか分からない。
「え、えーと……み、光谷さん?」
味わうゆとりもなかった給食のあと、昼休みになって、ようやくそんな女の子の声がかかってきた。自分の席で、つくえに伏せって寝たふりすらできずに固まっていた私は、はたと振り返る。
天然パーマっぽい長い髪なのに、どこかおどおどした雰囲気のせいで地味な女の子が、私のかたわらに立っていた。彼女が笑うと、乱杭歯が覗いて、私はぎこちない表情になって「はい」とだけ答えた。
「あ、あの、校内を、あ、案内……させてもらって、いい、かな?」
私はまばたきをして、確かにそれはしてもらわないと困るな、と思った。「お願いします」とうなずくと、「う、うん。じゃ、行こう」と彼女は教室のドアをしめした。
私は席を立ち、彼女についていく。くすくすという笑い声が聞こえた気がした。けれど、ちらと振り返っても、そんなふうに嗤っている人はいっけん見当たらなかった。
彼女は金子さんというらしい。並んで廊下を歩いていると、「お前、ドーモが感染るぞ」と揶揄ってきた男の子がいた。
どうも? 別にそんな挨拶はされなかったけど。そう思って私は首を傾げたものの、やたらと「ドーモじゃん」「うわ、ドーモ」と言われている金子さんが、どうやらこの学校で“生け贄”の立場にあることは察した。
それでも、一生懸命に話しかけてくれるから、私も緊張しつつ金子さんの質問に答えた。前に通っていた学校のこと。おろしたばかりのここの制服のこと。質問されることにただ答えていた。頭が素早くまわっていなくても、おかしなことも悪いことも言わなかったと思う。
なのに、広くない校内をまわって教室に戻ると、金子さんはすっと私を離れて、教室にいた女子グループに私の返答を報告しはじめた。ときどき笑い声が聞こえて、私は急に冷たい手に心臓をつかまれたように、ひやりと不安を覚えた。
あとで分かってくることだけど、金子さんは吃音があって、「どもる」から「ドーモ」と呼ばれているらしい。察知の通り、やはりみんなにいじめられていた。そして、私の情報を流して、いじめっこのグループの仲間になろうとしていたみたいだった。
ちなみに、こちらのほうが田舎町のせいか、勉強の進みが遅かった。前の学校でどこまで進んでいたか訊いてきた数学の先生は、「みんな分からないことは光谷に訊くといいぞ」とかとんでもないことを言った。
学校の勉強は進んでいても、私はそれに追いつけていなかった生徒だ。その先生は何を調子に乗っているのか、授業中に問題を答える挙手がないと、集中的に私を当てて「光谷なら分かるよな?」と黒板に呼んだ。
しかし、当然ながら私はまったく分からない。いくら当てられても、決まって答えられない。脳が張りつめて吐き気がして、「分かりません」の声さえ出なかった。
「あいつ、頭悪いんじゃねえの」
そんなささやきは一気にクラスに伝染した。あっという間に、私は頭の悪い無口な子だとうわさを立てられた。
ちなみに、金子さんは私の情報を使ってもいじめっこグループに昇格はできなかった。それでも、いちいち私に話しかけてきて、それを女の子たちに報告することはやめなかった。教室で失笑が聞こえてくると、私はびくりとすくみそうになった。
教室になじめることがないまま、長く厳しい冬に入った。二学期が終わる直前、その日も私は心の中にもやもやしたものを抱えながら帰宅した。
空は灰色で、すぐにでもあたりは暗くなりそうだ。収穫まで豊かだった田園は、今は耕耘されて土が剥き出しだった。周りに何もないぶん、吹き抜ける風音がすごい。
家に入る前にポストを覗いた。新聞の下に藍色の封筒がある。手紙かな、と手に取ってみると、私宛てだった。誰だろう、と裏返して差出人を確認し、目を開く。
『��田静司』
静……くん? え、何で。ここの住所は教えずに引っ越したのに。
とっさに、私を見つめていた静くんの目がよみがえる。じわりと気分が悪くなった。何だろう、いまさら。何も言わずに引っ越したんだから、いい加減つきまとうなって意味だって察してよ。
びゅうっと寒風が長い髪と紺のスカートを巻き上げ、刺すような冷えこみで我に返る。気味が悪いと思いつつ、一応、静くんの手紙はポケットに入れた。インクのにおいが濃い新聞も腕に抱え、暖房と石油ストーブで暖まった家に入る。
今夜の夕食が決まらないのか、母はキッチンにまだ立たず、リビングのソファでレシピ本を見ていた。「ただいま」と声をかけると、こちらに顔を向けた母は「おかえり」と返す。
私は新聞を座卓に置き、「美夜は?」とリビングだけでなく見渡せるダイニングにも目を向ける。
「友達の家に遊びに行ったわよ」
友達。……そっか。そうだよね。できるよね、友達。
母は私のそんな内心を読んだのかどうか、本を膝に置いた。
「希夜は友達できたの?」
「え……、あ、話す……人は、いるよ」
その人は、私の発言を全部、クラスを牛耳るグループに報告しているけど。
「そうなの。いつでもここに連れてきなさいね」
気まずくて黙ってうなずき、「宿題しなきゃ」とその場を離れた。冷たい爪先で階段をのぼり、自分の部屋に入ると、ほっとしたぶんだけ憂鬱が押し寄せる。
何なの。母も分かっているくせに。どうせ私に友達なんかいない。なのに、何で美夜と較べるみたいに訊いてくるの。
ため息をついて、板張りのドアにもたれる。寒いな、と思ってもストーブまでの数歩さえだるい。
そういえば、とポケットに手を突っ込んで、くしゃっと触れた手紙を取り出した。ぼんやりした目つきで、不器用な文字による自分の名前を見つめる。
捨てようかな。あるいは、ポストに返そうか。そうも思ったものの、小さく息をついて封を切った。淡い水色にグレーの罫線が引かれただけのシンプルな便箋に、あんまり綺麗じゃない字が並んでいる。
『希夜ちゃんへ
いきなり手紙なんて書いてごめんなさい。
住所は野中さんにききました。
僕にも教えてほしかったけど、急な転校だったみたいなので、仕方ないですね。
そっちでは元気に過ごしていますか?
希夜ちゃんが、今までみたいな思いをしてないといいなと思います。
僕は相変わらずですが、大丈夫です。
希夜ちゃんに言われた通り、何をされても強くなりたい。
でも、希夜ちゃんがそばにいないのは、我慢できないくらい寂しいです。
もしこっちに来ることがあったら教えてください。
会いたいです。
静司』
私は眉をゆがめると、便箋をたたんで封筒にしまった。
何だろう。何でそう思うのか分からないけど、喉の奥に水疱ができたような不愉快がせりあげてきた。
何というか、……気持ち悪い。野中さんも、ただで静くんに住所を教えたわけではないだろう。そこまでして、私の住所を調べて、手紙なんて──気持ち悪い。
手紙は、ゴミ箱にこそやらなかったものの、本棚の使っていない引き出しに投げこんだ。返事を書く気はなかった。また手紙は来るかもしれない。だが私が無視していれば、いくら静くんでも、いつかあきらめて一方的な手紙なんてやめるはずだ。普通に考えて、気が引けてくるだろう。私が好きなら、迷惑はかけないでほしい。
ようやくストーブをつけて、冷え切っている部屋を暖めた。制服のままでストーブの前に座り、熱で赤く灯る光を見つめる。冷たくこわばる頬が、その光に染まって溶けていく。
私は教室で、みんな──金子さん以外には、遠くから眺められているだけだ。何をされているというわけではない。確かに友達はいない。しかしべつだんいじめもない。なのに、こんなにも胸がもやもやして、学校に行くことが息苦し��。
同じ種類のものを感じるのだ。教室にいると、前の学校でけして溶けこめなかった自分ばかり思い出す。深い深い水中で、一滴の油になってしまったみたいだ。
石を投げつけられないか、教科書を破られていないか、そんな心配ばかりしてしまう。誰も私に近づいたりしない。こんなの自意識過剰だ。はちきれそうな不安を、そう思って抑えようとしても、カマイタチのような鉤爪が腫瘍をつぶし、恐怖が膿のようにどろりとあふれる。
まもなく、冬休みになった。雪が降り積もる中で年を越し、三学期が始まった。相変わらずだった。私は勉強ができなくて、そのことを男子はバカにして嗤い、金子さんは私にあれこれ訊いて、報告された女子グループはくすくすと嗤う。
そんな毎日に、私はまた、朝起きてふとんから出るという習慣がつらくなっていった。母が再びいらいらしはじめているのは分かったけど、朝の通学路をとぼとぼ歩いていると、心が締めつけられてルルの軆が強直するのも感じるのだ。
こんなのダメ。私の心に棲むこの子を怖がらせてはいけない。この子が「つらい」と感じたら、私の精神はまた暗く冷たく沈んでいく。
二年生になったら、クラス替えがある。そうしたら、何か変わるのかな。でも、それって状況が好転するの? あるいは悪化するの? この学校の人はみんな家族だ。そして私はよそ者だ。それは揺るぎなく、変わることはない。
この狭い中学校において、私は招かれざる客なのだ。きっと二年生になったって一緒だ。身内で和気あいあいとしていたい一家は、居座る私に白い目を向け、とっとと去って消えろと訴えてくるに違いない。
【前話へ/次話へ】
2 notes
·
View notes
パイロットの話
https://goo.gl/jbcg4v
https://goo.gl/JVEbYM
------------------------
三菱重工MHI名古屋航空宇宙システム製作所のテストパイロットの読み物です。 圧倒的な非日常の世界を仕事場にする選ばれた男たちの世界の話です。 マッハの世界なので、大戦期のレシプロ機のエースたちの手記とはまた違った凄み、つまり怖さがあります。 MHIのサイトで閲覧できなくなっていて一部のみのログが残っているのみなので、消えてしまう前に原文まま転載します。 おそらく今後読むのことが難しい作品を、このような形ではあれ広く読めるようにしていくことは、ささやかではありますが意味のあることではないかと思っています。ですから「関係各位」も大目にみてくださったら、ありがたいなあ(敬具)と思っています。
------------------------
コックピットから その1 「超音速飛行 GO GATE」 「BINGO」
【超音速飛行 GO GATE】
高度40000フィート速度0.95マッハこれが音速への入り口です。 この付近は遷音速域と言われ、機体の一部分ではすでに音速を超える部分も出てきています。このため飛行機によってはやや不安定な動きをする場合があります。当然パイロットにはそれに対応するために、特別な操舵が必要となります。
例えば、F-4では縦の静安定が逆転します。
飛行機は通常、加速をすれば機首が上がってきます。逆に減速すれば機首が下がってきます。これを縦の静安定が有ると言います。
F-4も音速以下もしくは音速以上では同じ特性があります。しかし遷音速域ではこれが逆転します。加速すれば、機首が下がろうとして、減速すれば、機首が上がろうとします。
具体的イメージが湧かないと思いますが、例えば、超音速飛行で右の5G旋回をします。旋回をすると抵抗が増えますので飛行機は徐々に減速します。減速してくると普通は、機首が下がろうとしますので、パイロットはさらに操縦桿を引きます。しかし、音速を切った瞬間、その特性が逆転します。
同じ力で操縦桿を引いているとパイロットの入力+飛行機の機首上げ特性で飛行機には、突然、パイロットが予想もしていない大きなGがかかってしまいます。G制限ぎりぎりで運動しているような場合はこれだけで飛行機が壊れてしまいます。ですから、超音速状態で敵に遭遇して空中戦に入った場合は、自分の速度に注意しながらの操縦をしなくてはいけないのです。
お話を音速飛行に戻しましょう。
左手のところにあるレバー(スロットル)を最大パワー位置にします。
戦闘機の場合、最大パワーは2種類あります。(謎笑)
1つは、エンジンの最大回転数を得られる位置です。民間機などでは離陸の時などに使われます。戦闘機乗りは、「BUSTER」と呼びます。技術屋さんは、MIL(ミリタリー)位置と呼びます。
しかし、戦闘機のエンジンにはさらにその上があります。(笑)
この位置は、エンジンの回転数はそのままで、エンジン排気口にさらに燃料を流し込みます。これによって、燃料流量は2倍になり推力が1.5倍ほどになります。これを「GATE」と呼びます。もしくは、MAX(マックス)と言います。
スロットルをこの位置にします。エンジンの排気口には、大量の燃料が再投入され、エンジンノズルが段階的に開いて、アフターバーナーが正常に着火したことを知らせます。
これに伴い、飛行機は急激に加速を始めパイロットを座席に押し付けます。燃料流量計が読み取れない速さで増加していきます。昇降計が小刻みに上下に震え始���、高度計も何を示そうか迷い始めます。
次の瞬間、突然高度計が激しく回り始めて大気の状態をモニターしている、エアーデーターコンピューターが計算が追いつきませんと警報を出します。しかし、目を速度計に移すと機体が音速を超えたことを何も無かったかのごとく平然と示しています。
これが超音速への第1歩です。
50年ほど前まではここまでが人間に許された最大速度でした。多くの勇敢なパイロットたちは壁の向こうを覗いても帰らぬ人になっています。そして、チャック・イエガー氏が最初にこの壁の向こうから帰ってきた男なのです。
しかし、現在はスロットルさえ前に出せば誰でも簡単に訪問できる世界になりました。知識も経験も勇気も必要ありません。玄関ドアを開ける程度の力があれば、音速を超えられるのです。これが、技術者の努力の結果なのでしょう。
音速を超えた飛行機は益々元気になって加速を続けます。後ろを振り返ると、濃紺の空に自分が引いてきた飛行機雲が白い1本の線としてくっきりと見えます。コックピット内もちょっと静かな気がします。何しろ、音より速く飛んでいるのですから!(笑)
機体近傍に目を向けると、自分の横に衝撃波が立っているのが観察できます。それでも、飛行機はさらに加速します。
1.2マッハ付近では飛行機はとても安定しています。あたかも硬い氷の上を滑っている感じです。振動も騒音もありません。対象物が無いので、速度感もありません。ただ青い空が広がるだけです。 多くの飛行機は1.5マッハ付近から、機体を守るために各種リミッターが作動し始めます。
これによってペダルや操縦桿が重くなったりエンジン回転数が変化したり機体全体の特性が著しく変化します。
また、この付近で機首を30度ぐらい引き上げれば、減速しながらも80000フィートぐらいまでは簡単に上昇してしまいます。そこはもう濃紺の宇宙空間です。
高高度のお話は別の機会にまわして今回は、そのまま加速します。
1.8マッハ付近になると、機体が「ギシギシ」ときしみはじめます。機体の色々な場所から短い金属音が出始めます。
この辺の燃料流量は、F-15などでは80000lbsPPH。消防車で、水を撒く程度の燃料を燃やします。
さらに加速していくと金属の焼ける臭いがしてきます。
「いやーこれはやっぱ限界だねーこれ以上行ったら分解?」
こんな思いが脳裏をかすめます。その頃には、すでに音速の2倍以上で飛んでいます。
特別な戦闘機を除き速度限界は2.2マッハです。時速2600キロメートルぐらいでしょうか。
この速度は名古屋~東京間を約8分で通過しますが、これ以上に加速するとアルミ合金が熱によって強度を失います。言い換えれば熱によって機体が融けてしまうのです。ちなみに、飛行機は車と違って最大パワーのままにしておくと、機体が分解するまで加速してしまいます。
【BINGO】
加速開始から、約3分飛行機は「BINGO」と叫びます。「燃料がありましぇーん!」と言っているのです。
そこで、スロットルをアフターバーナーレンジから通常レンジへ引き戻します。しかし、飛行機はこれを無視するかのように超音速飛行を続けます。エンジン回転数もスロットルをIDLEにしているにもかかわらず最大回転数を維持しています。燃料計はみるみる下がっていきます。
「このままでは飛行場まで帰れなくなる!なんとかしなくてはー」
------------------------
コックピットから その2 「BINGO」 「ZOOM UP」 「BLACK OUT」
【BINGO】
さて、今回は超音速からの帰還のお話です。
超音速飛行でスロットルをIDLEにしてもエンジン回転数は100パーセントです。車で言えばアクセルから足を離してもフルスロットルでエンジンが回り続けているようなものです。飛行機は「BINGO」を叫んでいます。
【ZOOM UP】
しかし、このままでは本当に燃料が尽きてしまいます。そこでなんとか機体を減速させなくてはいけません。
まず、頭に浮かぶのはスピードブレーキです。F-15の場合は機体上面に畳1畳ほどの板を立ち上げて空気ブレーキを使います。しかし時速2,000キロメートル以上の向かい風で畳を立てるのには、かなりの力と強度が必要です。
そこでF-15の場合は高速では僅かしか開きません。このため効果はそれなりです。次に別の方法を考えます。飛行機は3次元を運動しています。そこで今度は速度のエネルギーを高度に変更します。坂道を自転車で登るときに坂道の手前で加速してからかけ上がるのと同じです。飛行機の場合は操縦桿を手前に引いて自分の前に上り坂を作って減速させるのです。
ここで、高度のお話をしてみましょう。
このあたりの高度では水分はすでにありません。ですから雲もありません。生命活動もありません。ただ無限に広がる濃紺の孤独で静寂な空間です。頭上を見ると単にギラギラ輝く太陽、眼下を見ると水色の丸い地球とそれを包む薄い大気と白い雲が見えるだけです。一言で4万フィートと言いますが、約12キロメートルです。この高度はもうどんなに頑張っても人間が生活できる環境ではありません。-56℃1/7気圧、すでに飛行機はこんな中を飛んでいます。
ここで機外に放り出されると「ちょっと寒いじゃん」って思っているうちに血液が沸騰して体の中は泡だらけになっています。これはかなりきついかもしれませんね!でもご安心を!酸素も無いので有効意識時間は5秒程度ですから「あれー?なんか変」と感じる時にはすでに黄泉の国に旅立っています。ですからパイロットにとってこの場所で一番怖いのはキャビン圧の漏れなのです。急激に減圧されればだれでも気がつきますがちょろちょろ漏れると知らず知らずのうちに意識がなくなっています。世界的には、今でも減圧もしくは酸素欠乏に起因するであろう高高度事故が時々報告されています。
半宇宙旅行を楽しんでいると、飛行機は音速を切ってくれます。そこで降下に移ります。飛行機は上昇するより、降下するほうが何倍も大変なのです。スピードブレーキを開いて、パワーを最少にして降下を始めます。ここで降下角を大きく取るとまた音速を超えてしまうので速度計を見ながらの降下になります。先ほど実施したズームアップは弾道飛行で、空気のほとんど無い所を飛んでいますから操縦は思うようにはできません。操縦桿はスカスカ状態です。だましだまし降下を続け、3万フィートを切ると、飛行機は俄然元気になります。エンジンパワーも操縦感覚もグライダーから戦闘機に劇的に変わります。
ついでに衝撃波のお話もしてみましょう。空気は音速よりも速く圧力変動を伝えることが出来ません。このため音速よりも速い物体が空気中にいるとエネルギーが溜まった壁が出来あがります。これが衝撃波です。何らかの原因でこの衝撃波が減衰前に地上に伝わるとドカーンドカーンと2回音がして窓ガラスが割れるような現象を発生させかねません。ですから超音速飛行試験は小松から北へ200キロメートルも沖合に出て細心の注意を払いながら実施されています。
【BLACK OUT】
さて、ここで元気になった飛行機の操縦特性を見てみようかとGをかけてみます。90度バンクに入れてスティックを手前に引いて、2G、3G、4G「うん、すごっく調子いいじゃん」さらに5じー6じー…ん? 「あれー?目が、目が見えなーぃ!まっくらだー!」
さて、今後の運命やいかに!次回に続く!
------------------------
コックピットから その3 「BLACK OUT」 「VERTIGO」
【BLACK OUT】
戦闘機の命は機動性です。
いかに相手よりも素早く動くかで勝負が決まります。この機動性を決定するための大きな要素の1つがG(ジー)です。Gとは地球の重力加速度をあらわす単位です。それではG変化はどのように感じるのでしょうか。私の体験からご説明しましょう。
皆様が日常体験できるG変化ではエレベーターがありますが、多分これで0.1G程度の変化だと思います。もし興味があるならば、体重計をエレベーターに持ち込んで測定してみてください。0.1Gの変化でも体重が1割増減する筈です。
飛行機に話を戻しましょう。民間の飛行機に乗って旋回時に感じるGは最大でも1.2G程度です。しかし戦闘機ではちょっと操縦桿に触るだけで1.5Gぐらい簡単にかかってしまいます。2GになるとGスーツが膨らんできてGがかかり始めたかなという感じでなかなか心地よい雰囲気です。ジェットコースターなどでは最大2~3G程度かかるようですので普通の人でもこれぐらいまでは許容されるのだと思います。3Gは戦闘機が上空で動くときの基本Gです。
2Gから膨らむGスーツはパイロットの下半身を圧搾空気によって締め付けるためのものです。Gがかかると血液は下に下がって脳に血が行かなくなります。これを物理的に防止するために下半身をしめつけて血液の降下を防止しています。Gスーツは1.5グラム程度の耐G能力を上げると言われています。
さて次は4Gです。これ以上はやはり戦闘機でなくては体験できません。通常の飛行機はこの辺で翼が折れてしまいます。
4Gは簡単なアクロバットなどをする場合にかかります。下腹にぐっと力を入れていれば特に問題はありません。さらに5G宙返りなどのアクロバットにはこの程度のGを使います。体全身に力を込めて頑張ればそれなりに耐える事ができます。そして6Gこの辺から���はり人間の構造的限界が自覚できます。ちょっと気を抜くと視野が狭くなって景色が白黒になってきます。これは目に十分な血液が供給されなくなっていることを示しています。「グレイアウト」と呼びます。
そして7G。ここからは根性との勝負です。
Gスーツはギリギリ下半身を締め付けます。体の力を抜くとブラックアウトと言って目が全く見えなくなります。そこを根性で頑張ります。操縦桿を持つ右手の二の腕でピシピシと音がして毛細血管が切れるのが分かります。何しろ自分の体重の7倍が体中にかかっているのです。
さらに8G。この辺の1Gの変化は劇的です。まず息が出来ません。まぶたも重くてあけているのがやっとです。
そして9Gもう本当に限界です。生きているのがやっとです。あと0.5G増やしたら心臓もお休みしてしまいそうです。9Gはすでに拷問です。「なんでもするから許してー」と叫びたくなります。まあ息はしていないので唸り声しか出ませんがね!(笑)
現在ここが戦闘機の限界です。
いや戦闘機の限界ではなく人間の限界です。戦闘訓練を終えて降りてくると腰は痛いし首は動かないし肩にはくっきりとハーネス痕が残り、足の裏・ふくらはぎ・二の腕など軟らかい部分は内出血しています。いやーまともな商売ではないなーと感じる時です。
しかしここで一番危険なのは意識喪失です。急激にGが立ち上がると人間の体はついてきません。こうなると脳に血液が突然行かなくなるので意識を失う感覚も無く、瞬時に意識を失います。戦闘機乗りが一番恐れている現象です。
マイナスGはさらに愉快です。
この状況を作るにはスティックをちょっと前に押します。普通の人は+0.5G程度で降参します。0Gで目の前で鉛筆が浮かんでいます。体の中身も浮き上がるので食後には気分のいいものではありません。
スティックをもうちょっと押します-1Gです。逆立ちをしているのと同じですごみなどの固定していないものはすべて頭上のキャノピーに張り付きます。そして-2G。これはもう限界です。頭に血が集まるためにひどい頭痛がしてきます。さらに-3G。飛行機はここが限界です。人間は限界を過ぎています。数十秒間この状態が続くとレッドアウトといって景色が真っ赤になって目から血が噴出します。ですからパイロットはこの状態をあまり好みません。
多くの飛行機の戦闘ゲームがありますが、これで実機と一番違うところは押し舵を操縦者が多用することです。もしこの種のゲームを愛されておられる方がおられましたら一度押し舵を使わないで戦闘してみてください。そうすればより実戦的なゲームが楽しめると思います。
【VERTIGO】
さーって、飛行機の調子も良いし帰ろうかなーん?なんかいつもと景色が違う?なんで姿勢指示器が裏返しなの?飛行機壊れた?いーえ、あなたが壊れています。
さて、今後の運命やいかに!次回に続く!
------------------------
コックピットから その4 「VERTIGO」 「Fingertip」
【VERTIGO】
バーティゴは空間識失調と言われています。
パイロットはこの現象から逃れることはできません。どんなベテランでも必ず陥ります。上と下が分からなくなるのです。いや分からなくなるというより間違って認識してしまうのです。
今あなたにとって下はどっちですか?足元が下ですよね!なぜかと言えば地球があなたを引っ張っているからそう思っているのです。この感覚が飛行機を操縦する上では大きな障害となってきます。飛行機は3次元を自由に運動します。運動するとそれと反対側に遠心力が働きます。人間はこの力と重力との合成を重力として感じてしまいます。そこで運動の外側が下だと勘違いするのです。
大型民間機の中央の座席に座って離陸時に「すっごーい急上昇!」と思ったことはありませんか?これも一種の勘違いです。前進する加速度をお客様は背中で感じます。するとその加速度と重力の合成が腰の付近に感じるのであたかも急角度で上昇しているように思ってしまうのです。ここで窓の外をちらっと見ると自分が思っているほど急角度で上がっていないのがすぐに分かります。
私の実体験では雲がポツポツある日、空中戦訓練を終了して帰る時に何か景色が記憶と違うのです。確か雲は下だったのに今は自分の頭の上にあります。お天気が変わったのかなーと思いながら姿勢指示器を見ると背面姿勢です。「そうかぼくは上と下を間違えてたのねーぇ!」この場合、飛行機は地上に向かって背面で2G降下をしていたのです。
これだとちゃんと床方向に1Gかかっていますので感覚的に全く違和感はないのです。水平飛行と2Gの背面との区別がつかないのです。このとき私は海と空をも見間違えているのです。地上では海の方が空よりも青いのですが上空では空の方がはるかに青いのです。人間一旦信じ込むとなんでもそれが真実だと感じてしまうのです。
ちなみにこの写真を見て違和感を感じますか?背面飛行しながらOKサインを出しているように見えませんか?もしそう見えたらあなたはすでにバーティゴです。
ではこの勘違いを防止するためにはどうしたら良いのでしょう。それは常に計器を信じる事です。しかし計器も機械ですので壊れているときもあります。「そんじゃーどうするのー?」それでも計器を信じます。
飛行中、自分の姿勢を知るためには姿勢指示器が一番簡単です。外界が見えようと見えまいとこの計器は常に飛行姿勢を示しています。しかしパイロットはすぐには信じません。次に高度計を見て高度変化を確認して次に高度計を確かめるために昇降計をチェックします。そこで何か疑いがあれば次に速度計エンジン計器などもチェックします。
飛行機には沢山の計器がついています。そして各々は別々の情報を指示しますが何らかの関連をもっています。速度計と高度計は別物ですがパワーをいじらずに上昇姿勢にして高度を上げれば必ず速度は減ります。それなのに速度に変化がなければ必ず何かがおかしいのです。
このようにして飛行中は常に多くの計器から1つの真実をいつも探り出そうとしています。そしてその結果が自分の感覚と違っていても計器を信じて自分を否定しなくてはならないのです。
命がかかっている時に自分の感覚や信念を曲げて機械を信じて行動することは至難の業です。それも数秒のうちに判断しなくてはいけません。10秒も悩んでいたら飛行機はすでに取り返しのつかない領域に入っています。飛行機に許されている余裕時間は2秒です。何かが発生して2秒以内に正しい手順を実施すれば故障で飛行機が落ちないようには設計されています。
車で、ここでは感じとしては右に曲がらなくてはいけないんだけどカーナビは左に行けと言っています。この場合あなたはどちらに曲がりますか?まあ、車ならどちらを選んでも「なーんだやっぱ違うじゃん!」って思った時に止まってやり直せますが、飛行機ではそうはいきません。「なーんだ、やっぱ違うじゃん!」って思った時には全てが終わっています。
空間識失調は訓練では克服できません。どんな訓練をいくらやっても結局上下は分かりません。そこでパイロットはいかなるときにも計器を信じるように訓練します。先ずは机上で教育を受け次にシミュレーターで訓練しそして実機で外界の景色を遮断して徹底的に訓練します。だからこそ計器の誤差や故障は許されないのです。
フライトを終わって「この飛行機ここが変だったよ!」と報告しているときに「あーそれは単に計器の故障ですよ!」ってなことを言われるとパイロットが血相を変えて怒るのはこのためなのです。(笑)
【Fingertip】
Fingertipは戦闘機の基本隊形です。手の指をくっつけた時の親指以外のつめの位置が各機の位置です。この隊形で離陸をしてアクロバットもこなし雲の中も飛んで着陸までします。この間ウイングマン(2番機)はリーダー機しか見ません。特に若いパイロットは他を見る余裕などは全くありません。
「このリーダー超へったくっそーいつまで旋回するの?疲れちゃうよー!」こんな思いが頭に浮かびます。
しっかーっし!これもあなたがまたまたバーティゴです。
さて今後の運命やいかに!次回に続く!
------------------------
コックピットから その5 「IN Popeye」 「HOME BINGO」
【IN Popeye】
ポップアイ?出目金のお話ではありません。セーラーマンのお話です。
雲の中を飛行していることを「インポパイ」と言います。雲の中では何も見えません、多分牛乳のプールの中に潜ってる感じだと思います。(私はそんなプールに潜ったことないので正確に比較はできませんが…笑)
ここで雲のお話をしましょう。
雲は雲があるのではなくて空気の乱れがあるから雲に見えると言ったほうが良いかもしれません。川でいえば瀬に白波が立ちます。これは白波があるのではなくて、流れが乱されて白波に見えるのです。空気の場合も同じで、流れが乱されると雲ができます。
このため雲の中は気流が乱れているので回りとは性質が全く異なります。それでは頑張って雲の中を飛んでみましょう!
目の前に雲が迫ってきます。キムタクはドラマの中で「雲の頂点が左に流れているから風上側の右に迂回する」と言っていましたが、超正解です。
しかし状況によって避けられない場合もあります。そこで仕方なく雲に突入することになります。先ず前方に山とか障害物が無いことが第一条件です。「あったりまえでしょうー」と、思われる方も多いと思いますが、雲に入ってそのまま山に激突する事故は毎月のように発生しているのが現実です。
次に準備することはシートベルトをしっかり締め直すことです。そして計器飛行に移る準備をします。雲の中では景色が全く見えませんから計器飛行以外に無事に飛ぶ方法はありません。
そして覚悟を決めてズボッ!と雲に入ります。
案の定、回りは真っ白です。そして揺れが始まります。揺れは心地よい軽い揺れから飛行機が分解するような揺れまで様々です。この揺れを正確に前もって予想することはできません。
まぁ90パーセントはそれなりに安全ですので適当に心配しておけば問題ありません。
揺れが始まって数十秒たつと風防が白くなってきます。これはアイシングといわれる現象で、雲の中にある過冷却の水が機体にぶつかって瞬時に凍り、どんどん成長していくために発生します。外が見えない程度なら、それほど大きな問題ではないのですが、氷は機体全体に付着します。翼についた氷は翼の形状を変化させ飛行機の特性を変えてしまいます。エンジン付近についた氷は、大きくなってはがれ落ち、エンジンに吸い込まれて大きなダメージを与えます。そして何よりも機体自体が、氷でだんだん重くなります。
こうなってくるともう飛ぶことはできません。このため飛行機には、いろいろな防氷装置があります。あるものは氷をヒーターで融かし、あるものは風船を膨らませて氷を壊します。
機体へのアイシングは外気温が-3~-10度程度で発生します。また気温は高度を1000フィート上げる毎に2度下がります。ですからこの高度帯を避ければアイシングは発生しません。しかしアイシングを避けようとして、安易に高度を上下すると、もっとひどい目にあうこともありますので、注意が必要です。
雲にはいろいろな種類がありますが、パイロットにとって一番怖いのが入道雲です。入道雲に入ってしまったことはすぐに分かります。先ず、上下左右に大きく振られます。飛行機が木の葉のように舞い踊ります。その次に来るのは、激しい音です。最初は「大粒の雨かな?」なんて思っていますが、実際は氷の塊です。
地上に落ちてくるとヒョウとかアラレと呼ばれるものです。時によっては拳大の氷も浮かんでいます。「ひょえーひどい所にきちゃったなー」��んて思っていると、回りがだんだん暗くなって、雲が緑色に見えてきます。「あれーなんかいる!」「長い蛍?」「光るミミズ?」。そうこうしていると、前方の風防が青白く光り始めます。その中を細長い光が飛び交います。良く見ると機体全体が青く光り始めています。これが「セントエルモの火」と呼ばれるものです。
帆船時代の船乗りは、この光は嵐を知らせる兆候としていたようです。飛行機でも同じです。この光を楽しんでいると「ピシッパシッ」というラップ音が聞こえてきます。そして腕や足の毛が逆立ってきます。こうなってくると、もう近いです!「こりゃーくるぞー!」テレビなどではここでVTRが終わって、結局「霊」は出てこないのですが(笑)、現実は違います。来ちゃうんですねートラのパンツをはいた鬼が!
目の前でそれまで見た事もないような閃光が走ったかと思った瞬間ドッカーンと、大きな音がして自分の体から電気が抜けていくのがわかります。飛行機は比較的雷には強く設計されています。上空で飛行機に雷が落ちても通常この程度です。ただし、着陸後機体を点検すると何か部品がなくなっています。ですから、何があっても入道雲に入るのは避けたほうが良いと思いますよーっ!
【HOME BINGO】
本当に燃料がなくなっていることを飛行機が叫び始めました。燃料の余裕はもうありません。直ちに帰るように言っています。
「でもまだやることあるんだけどなー」
さて今後の運命やいかに!次回に続く!
------------------------
コックピットから その6 「Cockpit」 「Control」
【Cockpit】
今回は我々の職場紹介です。
戦闘機の操縦席はコックピットと呼ばれています。日本語で言えば鳥小屋です。中に鶏のようなやつがいるからではなくて、多分極端に狭いのでこのように呼ばれているのだと思います。ほとんどのスイッチやレバーには、そのままの姿勢で届くようになっています。座ったままでなんでも出来る!横着者にはピッタリの職場です(笑)。
コックピット中央にはいざという時に機外に脱出するための射出座席が鎮座しています。正面下には多くの計器、操縦席左右のパネルには無数のスイッチがついています。そして右手用にスティック(操縦桿)、左手用にスロットル(加減速器)、足用にはラダ-ペダルがついています。
またスティックとスロットルにも、やたらとスイッチがついています。これら全てを迷い無く使っていかなくては、戦闘機は動かせません。可能ならパイロットに手がもう1本あって、かつ親指が2本づつあれば理想的です。
このコックピットへは、車などとは違ってキャノピーを開けて、上から乗り込みます。
まず座席に足を置いて、スイッチなどを蹴飛ばさないように注意しながらゆっくり座り込みます。座ったら座席下にあるサバイバルキットと自分を左右つなぎます。そして今度は自分をシートベルトで固定します。この際同時にGスーツを機体ともつなげます。最後にパラシュートと自分を連結させます。飛行機によっては足にも固定装置を付ける場合もあります。もう、がんじがらめ状態です。これにヘルメットをかぶって無線コード1本と2本の酸素ホースをつなげれば、やっと準備完了です。 夏場などはこれだけでダイエット効果が望めます。
座って正面を見ると、HUD(Head Up Display)があります。これは飛行中、パイロットが必要であろう情報を常に表示しています。その上焦点は無限遠点になっているので、あたかも文字や絵が空中に描かれているように見えます。これによって、発見した目標から目を離さずに、自分や相手の状況を知ることができます。
最近のゲームでは、HUD表示がほとんどですから、見慣れている方も多いと思いますが、本物とはかなり違います。
コックピットは冷暖房完備です。フルオートエアコンがついています。夏場地上では35度、そこでキャノピーを閉めれば灼熱地獄、上空にあがれば外気温はマイナス52度、この環境範囲をカバーするように設計されています。また皆様が戦闘機で一番気になるのが騒音だと思います。
エンジンはものすごい音を出しています。しかしコックピット内で聞こえる音は、エンジン音ではなくて意外にもエアコンの噴出音なのです。それも、かなりの音圧です。まあ、パイロットは完全閉鎖型のヘルメットを常時装着しているのでその騒音もほとんど聞こえません。しかし、コックピットには、超おしゃべりなお姉さんが1人住んでいます。エンジンスタートから���ゃべり始めます。やれエンジンが調子悪いだとか、はたまた、敵にロックオンされたとか、もう燃料が無いから帰れとか。分かってるって言うのに、しゃべリ続けます。昔は男性の声でしたが、最近はどの飛行機も女性になっています。この方が、パイロットが素直に従ってくれるからでしょうか(笑)。
他に、いろいろな音色の音が出ます。それも連続音であったり、断続音であったり、それらの混合であったりします。「ピッ」と音がしただけで、パイロットは飛行機が何を言いたいのか直ぐに分からなくてはいけません。ですから、我々はやたらと単音の電子音には敏感になっています。
さて話は変わって、コックピットからの景色のお話です。
一言、「それは最高でーす!」何しろ自分の腰より上は全部透明なのですから、民間機に乗って小さな窓から覗くのとは大違いです。景色360度見放題です。そのままでは、さすがに床があるので真下は見られませんが、飛行機を裏返しにすれば下も丸見えになります。昼間は大パノラマ、夕方には燃えるような夕焼け、夜間には全天溢れんばかりの星空が楽しめます。
しかし、この職場の最大の欠点は、孤独なことです。常に1人の世界です。喜びも、感動も、驚きも、恐怖も、すべて1人で受け止めなくてはいけません。何があっても、1人で判断して1人で対処します。地上には存在しないこんな職場が、そこにはあるのです。
【Control】
それでは次回は、飛行機の操縦についてのお話です。お楽しみにーぃ。
------------------------
コックピットから その7 「Control」「Instrument」「Flying Quality」
【Control】
今回は、操縦のお話です。あまり詳しくお話すると、だれでも飛行機の操縦が出来てしまって我々の仕事が奪われる可能性があるので、今回はほどほどに!(笑)
さて飛行機の操縦は、車とさほど変わりません。行きたい方向に操縦桿を傾ければ良いのです。右に行きたければ操縦桿を右に、上に行きたければ操縦桿を手前に!加速したければスロットルを前に進めます。しかし、車と決定的に違うのは、三次元的に変化してしまうことでしょうか。例えば、旋回すると高度は自然に落ちて、速度も変わってしまいます。ひとつを変えると、全部が変わってしまうのです。この現象を防ぐために具体的には、旋回に入るときには、操縦桿を適量倒すと同時に、機首を僅かに上げて、パワーを少々変更しておくことが必要です。すでにお気付きの方もおられると思いますが、今の文章でのキーポイントは、適量、僅かに、少々、ここにあります。この量が会得できればあなたはもうパイロットです。ちなみに 車の免許は18歳からですが、飛行機の免許は16歳から取得可能です。私自身も、車の免許よりも飛行機の免許の方が先でした。
ご自分が、ケッタ(名古屋弁で自転車)に乗れるようになったときを思い出してください。理由は分からないのですが、ある日突然乗れるようになりませんでしたか?飛行機も同じ感覚です。ある日突然着陸が出来るのです。とても不思議な感覚です。それまでは、悩んで勉強して練習して、試行錯誤を繰り返すのですが、いくらやっても着陸はできません。しかし、ある時突然着陸が見えるのです!
ご存知の方は少ないと思いますが、80年代の映画でスピルバーグ監督の「オールウェイズ」というのがあります。この映画で、若いパイロットが、ある日突然操縦が出来るようになります。私は「あー!ぼくもそうだったのかー」と感動したのを覚えています。しかし、友人に話すと「ん?あれってただのラブストーリーじゃん」全く観点がちがいましたー(汗)。いずれにせよ、飛行機の操縦は、ある日突然出来るようになるのです。
1つの飛行機を完全に手に入れると、後はどんな飛行機でも同じです。慣れるまでは上手な操縦はできませんが、安全に飛ぶ程度でしたら機種が変わってもさほど影響はありません。車で言えば、ミニカの運転が完璧にできれば、プラウディアの運転も出来るのと同じです。まあ飛行機は基本的には、機種毎に免許がありますから、法的にはちょっと問題はありますが…。
【Instrument】
飛行機には、無数の計器があります。「あんなに沢山の計器を見るのは大変でしょう?」と質問を受けます。しかし実際は、全部は見ないのでそれほど大変でもないのです(笑)。全ての計器を常にチェックしていたら操縦など出来ません。計器はあくまでも、飛行の参考とするものです。むしろ自分のやった操舵の結果を見るための物です。必要なときに 必要なものだけを見る。これも操縦の極意です。車でも同じですよね!いつもメーターを見ているのではなくて、パトカーを見つけたら、速度計!灰皿が一杯になったら燃料計!おなかがすいたら時計!この程度ですよね?
それでは、飛行機の計器の中で、何が一番大事だと思いますか?高度計?速度計?姿勢指示器?エンジン計器?航法計器? 私は昔から、それは速度計だと思っています。速度だけは、人間にはわからないのです。特に上空には、対象物がありませんから、速度は全くわかりません。お天気が良ければ、高度は、地上の物の大きさで分かります。例えば人間の形が見えれば1,000フィート、車の形が分かれば2,000フィート、家の形が分かれば5,000フィート…。また、速度計がなければ、着陸はできません。飛行機には失速があります。失速とは飛行機がただの金属の塊になることを意味しています。色々な理由で着陸は、出来るだけ低速でしなくてはいけません。そして何があっても 失速速度以下にしてはいけません。このために 速度計は不可欠な計器なのです。
【Flying Quality】
失速の話が出てきたので、次回はちょっと知的に飛行機の特性のお話をしてみたいと思います。簡単に言えば、飛行機の癖?特徴?性質?みたいなものです。皆様が「へー」とうなるような、トリビアを!お楽しみにぃ!
------------------------
コックピットから その8 「Air Speed」「ALTITUDE」「STALL」
【Air Speed】
「飛行機の速度計は…速度を示していない!」「へーへーへぇーっ…!」(笑)
飛行機の速度計と車の速度計には、大きな違いがあるのをご存知でしょうか?まあ機構的にも全く違いますが、それよりも大きな違いは、示している速度が違うことなのです。車の場合は、地面に対する速さを示していますよね!時速100キロメートルで走っている場合、目的地まで100キロメートルなら、到着は1時間後となります。飛行機はピトー管(写真○印)という機械で速度を感じます。自転車に乗って、ゆっくり走る時と、全速で走る時では、体で感じる空気の抵抗は違いますよね?この圧力変化を飛行機は速度に換算しています。また高原では、空気密度が低くなるのは経験上ご存知だと思います。これらの組み合わせで飛行機の速度計は、その高度の空気の密度に対する速度を示しています。
うーん、ちょっと難しいかな?それでは、超具体的にお話しましょう。車で速度計が時速100キロメートルを示しています。この場合走っている場所が、海沿いの道路であっても、山の上のスカイラインであっても、時速100キロメートルですよね!しかし飛行機の場合は違うのです。同じ速度を示していても、高度が違うと、実際の速度も違ってくるのです。飛行機が地上付近で200キロメートルを指示して飛んでいるときは、時速200キロメートルですが、高度が約10キロメートルだと、同じ200キロメートルの指示でも実際の速度は時速350キロメートルぐらいなのです。
ですから目的地までの飛行時間を計算する場合は、先ず計器を見て速度を読んで、計器の誤差補正をして、それに高度補正のために温度補正と密度補正をして、対地速度を求めてから、飛行時間を算出しなくてはいけません。風がある場合はさらにその補正もしなくてはいけません。「それなら今はコンピューターが発達してるんだから、最初から対地速度計にして表示すればいいじゃん!」っと思われる方も多いと思います。でもこれも大きな間違いなのです。
パイロットが最も必要な速度は、コックピット内にある計器の速度で、対地速度ではありません。その理由は飛行機の特性が、この計器に表示される速度で決まるからです。地上付近で、計器時速200キロメートルで失速する飛行機は、高度10キロメートルでも計器時速200キロメートルで失速します。ですから操縦する上においては、対地速度はあまり必要ではなくて、あくまでも計器が示す、空気の密度に対する速度が必要なのです。
一般の乗客の方は飛行機の速度は車と同じだと思って話を聞いているし、パイロットは、特性を示す計器速度だと思っているし、技術者は性能計算用の等価対気速度だと思って話をします。ですから、この3者で話が全く通じないのは当然です(笑)。
「速度計、ガッテンしていただけました?」「ガッテン ガッテン ガッテン!」おっといつのまにか番組が違っていますぅ。
【ALTITUDE】
今度は、高度計のお話です。飛行機は、毎日同じ高度を飛んでいるのではありません。それは、飛行機の高度計が気圧高度を使っているため、気圧の高い日は、同じ高度計指示でも高い高度を、そして低い気圧の日は、低い高度を飛んでしまいます。この結果、飛行機の飛行高度は実際の高度とは違うのです。「ん?なんか危険な香りがしますよねー」。富士山の高さが3,776メートルだからといって、高度計で3,800メートルだから絶対ぶつからない!と思うのは危険です。地球上の気圧変化を考えれば、最低でも500メートルぐらいの違いはあると思って飛んだほうが無難です。しかし飛行機同士の場合は、同じ理論の高度計を使っている筈なので、同じ場所で、違う高度指示ならば衝突することはまずないでしょう。将来、実高度や対地高度で飛行する機体が出てきたときには、高度計も考え直さなくてはいけないかも知れません。
【STALL】
次回は、飛行機で避けて通れない失速のお話です。本格的飛行機の特性のお話です。かなり専門的用語の多発が予想されます(笑)。事前に是非とも航空工学書の1冊でも読破しておいてくださいねー!それではー。
------------------------
コックピットから その9 「STALL」
【STALL】
今回は、お約束どおり失速のお話です。通常の会話で「失速しちゃったよー」というのは、それまでのペースが急に落ちた時や、なんかやる気が無くなった時などに使いますが、飛行機の失速はそんなに甘いものではありません。イメージとしては、高速道路を車で快適に走っていて、ある速度を切ると、突然道路がぬかるみになってしまうような感じです。
飛行機は、皆さんが想像されているよりも、空気にしっかりと支えられています。普通に飛んでいる限り、飛行機を支えている空気と、車が走っている道路と感覚的違いはありません。むしろ空気の方が安定していて揺れもありません。あたかも 平らな氷の上を滑っているような感じです。しかし一旦ある速度を切ると、それまでしっかりと飛行機を支えていた空気が、突然普通の空気になってしまうのです。こうなると飛行機はただの金属の塊です。地球に向けて一直線に落ちていきます。
それでは実際に、飛行機を失速させてみましょう。基本的には速度を減らしていけば良いのですが、失速後のことを考えると、飛行機の形態、エンジンの推力、補助翼などの中立位置、失速した瞬間の姿勢、残燃料量など、多くの条件を我々に有利にしておかなくてはいけません。これを間違えると取り返しがつかなくなる可能性があります。それと当然十分な高度が必要です。
予想失速速度の1.3倍ぐらいの速度からスタートします。通常はエンジンを絞っていけば徐々に減速していきます。先ず現れる現象は、バフェットと呼ばれる現象です。主翼で剥がれた空気が、胴体や水平尾翼に当たって、機体全体を振動させます。この大きさは、飛行機によって異なっていて、心地よい振動から、飛行機の構造物を壊してしまうような振動まで様々です。一般的には失速速度の1割程度前から発生して失速まで継続します。
「おーこれがバフェットね!おもしろいじゃん!」ってなことを考えていると、失速は突然やってきます。失速そのものの現象は、単に機首が真っ直ぐ下に落ちるものから、機首が横に流れて激しい回転運動を始めるものまで、千差万別です。いずれにせよ一番の問題点は、突然来ることです。「ありゃー」などと思っている時間的余裕はありません、直ぐに定められた手順で回復操舵をしないといけません。5秒も迷っていれば東京タワーの高さぐらいは簡単に落ちてしまいます。
もし、ここで高度に余裕があって、さらに探究心があるならば、さらに操縦桿を引き続けます。おまけで操縦桿を左右どちらかに最大操舵して、反対側のラダ-を踏み込みます。すると「ゴー」という音と共に激しく揺られて、上下左右何がなんだかわからないような運動に入ります。そこで手足を緩めても、同じ激しい運動が続くようなら、スピンモードに入っています。通常スピンは、自然現象として安定しています。木の葉がゆらゆらと揺れながら落ちて行くのと同じです。違いは木の葉が数グラムなのに対して、飛行機は数十トンなだけです(笑)。スピンは、何も対応しなければそのまま継続します。このとき計器類を見ると、姿勢指示器はぐるぐる回り、高度計は読み取れない速度で減少し、速度計だけは極めて低い速度で安定しています。運動が激しい場合は飛行機の構造を破壊しまので適当な所で止めるのが得策です。
スピンモードからの回復操舵は、飛行機によって全く異なります。そのため十分な予習が必要です。スピンを抜け出すと、自動回転運動というのに入ります。これもスピンだと思って、さらに回復操舵をしてしまうと、好ましくないモードに入りますので、正確な状況判定が必要です。自動回転運動に入ると、速度が増加してきて、失速領域から自然に抜け出すことができます。
失速自体は、それほど危険なモードではありませんが、離陸直後や着陸前などは、失速速度の2~3割程度の余裕速度しかありません。ここで何らかの原因で、ちょっとでも減速してしまうと失速してしまいます。ですから、パイロットは離陸後3分、着陸前5分は最高に緊張しています。うーん 今回はちょっと難しかったかな?先月号の予告どおり予習していました?(笑)
次回は、その離着陸の緊張をお伝えしたいと思っています。ご期待ください。
------------------------
コックピットから その10 「Take Off」
【Take Off】
今回は大空への第1歩である離陸についてのお話です。
離陸は飛行機を操縦する上では、比較的やさしいい操舵になります。しかし、その代わりにパイロットには多くの即断が要求されます。それでは実際に、戦闘機を使って離陸してみましょう。
滑走路進入許可をもらって、ゆっくり滑走路に進入します。この時には着陸しようとしている飛行機がいないか、そして滑走路上に障害物などはないかを、自分の目で確認します。またここで大切なのは、出来るだけ滑走路を長く使えるように、無意味に前進しないことです。通常軽装備の戦闘機は4~500メートルで離陸してしまいます。大型民間機でも2,000メートルもあれば離陸します。しかし普通滑走路は3,000メートルもあります。それなのに何故、滑走路は長く使える様に、進入するのでしょう?それは、離陸を断念して、停止するための滑走路長を確保するためで、飛行機は離陸するのに必要な長さの倍以上の距離が停止するためには必要になるからです。
滑走路に進入して停止したら、しっかりブレーキを踏んで、針路計や磁気コンパスを確認します。次に、エンジンチェックを実施します。先ずは、手順書に示されているパワーまでスロットルを進めます。エンジンの計器を素早く読み取って、正常に動いているかどうか確認します。エンジンチェック中に、電気系統、エアコン系統なども確認します。さーって 飛行機はOKなようです。そして管制塔から離陸許可が来ました。離陸です。
再度前方に障害物などがないか確認します。指定されたパワーにして、ブレーキを離します。ゆっくり飛行機は動き始めます。動き始めたのを確認したら、100パーセントパワーにします。このときにも、エンジン計器を確認するのを忘れてはいけません。100パーセントパワーにすると、急に飛行機は加速し始めます。そして必要ならば、スロットルをアフターバーナ領域へ進めます。急激な加速感と、エンジンノズル計器の開きが、アフターバーナへの正常点火を教えてくれます。ブレーキを離してから約5秒後、すでに飛行機は、時速100キロメートルを軽く超えています。空中まであと数秒。
しかしこの付近で飛行機は一番不安定なのです。滑走中は3輪車、そして空中へ飛び出せば飛行機、その変化点なのです。ここで最も影響するのが、風です。特に横風は地上を離れようとしている飛行機にとっては、「嫌がらせ」以外の何ものでもありません。僅か数メートルの横風でも、この場所ではパイロットを真剣にさせるのに十分です。
また、戦闘機にとってはこの地点が大きな決心ポイントです。これまでに機体に異常があれば、離陸を中止して、残滑走路上で止まることを決心し、この点を過ぎてしまえば、何があっても飛び上がらなくてはいけません。(厳密には、もうちょっと複雑な計算が必要ですが…)
さて 離陸速度が近づきました。ゆっくりと機首を引き上げて、離陸姿勢にします。この操作を急激にしたり、過度にすると、思いもかけない事態が発生しますので、細心の注意が必要です。離陸姿勢を維持していると、自然に飛行機は浮きあがります。浮���を確認して、脚とフラップを格納します。その間も、飛行機はどんどん加速していきます。そのままの姿勢では、滑走路エンド上空で、音速を超えてしまいます。(笑)そこで、決められた上昇速度になるように、機首をさらに上げて速度を維持するようにします。しかしながら今の戦闘機は、膨大な推力があります。速度を維持しようとすると、機首がどんどん上がって、最終的には垂直になってしまいます。搭載物の無いF-2などは真上を向いても加速していきます。そこで適当なところで、アフターバーナをキャンセルして 音速の0.9倍ぐらいの速度で上昇するのが良いでしょう。
これが一連の離陸になりますが、ブレーキを離してから15秒程で、全ての離陸操作が終わります。この間に、パイロットは環境の変化を素早く感じ取って、状況に応じた操舵をしなくてはいけません。そして、この間一瞬も気を緩めることができないのです。ある程度高度が取れれば、やっと、ちょっとひと安心です。
次回は、さらに難しい着陸についてです。飛び上がってしまった飛行機は、何が何でも降ろさなくてはいけません。さて、どのような事態が発生するのでしょう。お楽しみに!
------------------------
コックピットから その11 「Landing」「Final」
【Landing】
着陸は飛行の最終段階です。そして、飛行中一番天候の影響を受け、また飛行機の速度が極めて低く且つ地上に近いために、瞬時の判断の遅れなどが航空事故を引き起こす可能性が最も高い部分でもあるのです。これらの理由から、着陸はパイロットに瞬時の正確な判断が要求されます。
実は、パイロットは離陸する時から、着陸のことは考えています。なぜなら、一度飛び上がってしまえば、何があっても必ず着陸はセットになっているからです。他のミッションは飛行機の状況などで中止が可能ですが、着陸だけはパスできませんからー(笑)。
滑走路の手前約2キロメートル程度からが勝負になります。ここまでは、飛行機の種類や、飛行方法によって様々ですが、この先は、どんな飛行機でもほとんど同じです。それでは実際に着陸してみましょう。接地まで30秒前の地点からです。
ここまでに、自分の飛行機が、着陸できる形態になっているかを確認します。次に飛行場の状況を確認します。特に、気象状況、他機の状況は大切な事項です。これら全てを確認し終えて、着陸操作に専念します。
着陸のための滑走路への接近でやるべきことは、滑走路延長線上を、決められた降下角度で、決められた速度で飛行することです。ですから、この3つの条件さえ満足できれば、着陸は簡単です。しかし「そうは問屋が許しません」(かなり古い表現?)。それは、これら全てが関連しているからです。1つがズレたので直そうとすると、必ず他の2つが乱れるのです。その上、地上付近の風は複雑なので、常に飛行を邪魔しようと狙っています。
1例を見てみましょう。正面に滑走路が見えます、風が右前方から吹いています。飛行機はだんだん左に流されます。そこで右に飛行機を戻すために、浅い右傾斜で飛行機を右に持っていきます。しかしそれと同時に飛行機の向きも右を向いてしまいます。この修正に今度は左ラダーを踏んで飛行機を滑走路方向に向けます。すると今度は揚力の減少と向かい風成分のために、思っていたよりも多くの高度低下を招きます。それを修正しようとして、機首を上げると今度は速度が減ってしまいます。そこでパワーを足します。このように着陸は、修正操舵の繰り返しになります。修正が遅れると、修正量が多くなって、失速ぎりぎりの速度で飛んでいる飛行機にとっては、より危険な状況に近づく可能性があります。
そうこうしていると、滑走路は目の前に迫ってきます、このままでは、かなり激しく滑走路に接地してしまうので、徐々に降下率を小さくして、できるだけソフトに接地させるように操舵します。この辺の操舵は、ほとんどパイロットの経験と勘です。自分のタイヤと滑走路の距離があとどれぐらい残っているかを肌で感じるのが大切で、その許される誤差は数センチメートル程度だと思います。10センチメートルも勘違いしていると、「ドシャン」と接地してしまいます。まあこれでも特に問題はないのですが、プロ意識が許しません(笑)。
接地したからといって安心してはいけません、飛行機はまだ時速300キロメートルぐらいありますので、不意に横風を受けたり、ちょっと操縦桿を引いたりするとまた飛び上がってしまいます。時速150キロメートル以下になるまでは飛行機です。そこで、早急に減速する必要があります。減速方法は色々ありますが、一番簡単なのが、車と同じブレーキです、しかし20トンの重さで時速300キロメートルの機体を止めるのはかなりのテクニックが必要です。残りの滑走路の長さを確認しながら、自分の飛行機の速度を徐々に減らしていきます。時速100キロメートルを切ればひと安心です。ちなみにブレーキは、左右別々です。右ペダルは右ブレーキ、左ペダルは左ブレーキです。このためパイロットは、飛行機を滑走路上で直進させるために、左右のブレーキをちょうどいい具合に加減しています。すごいでしょ?(笑)。
着陸で、着陸操舵よりも大事なことがあります。それは着陸復行です。着陸をやめて、再度着陸進入するための操作です。この決心は早ければ早いほど安全です。着陸に何らかの疑問や不安を感じたら、直ちに着陸復行して着陸をやり直すべきです。ここで迷うのが一番危険です、着陸しようかどうしようか迷ったら着陸中止!こうパイロットは決めています。これが、安全への第一歩です。
【Final】
すでにこの連載も、あと1回を残すだけとなりました。次回は最終回!さーって、何をお伝えしましょうか?ご期待下さーい。
------------------------
コックピットから その12 「EMERGENCY」「Knock It Off」
【EMERGENCY】
緊急状態は、通常状態でないときです。あたりまえの話ですが…。飛行機にとっては、日常茶飯事です。機体の故障ばかりではありません。天候の悪化や、パイロットの体調不良、地上支援施設の故障など様々な状況が考えられます。
緊急事態が、発生したときの原則は、
(1)飛行機の操縦を続けなさい
(2)状況を正確に判断して、適切な手段をとりなさい
(3)出来るだけ早く、着陸しなさい
先ずはこの3つがあります。
あなたは、今空を飛んでいます。突然、何らかの警報灯が点灯します。同時に警報音や、機体に変化が生じます。これはかなりラッキーです。なぜならば、警報灯が点灯するということは、設計段階から予想されていた故障だからです。このため妥当であろう手順が、すでに作られています。しかし一番厄介なのは、警報等などが点灯しないけど、「なんか変だなー」と、感じるときです。機体後方から「コツン」と音がしました。車ならその場に止まって、後方を確認しに行けばいいのですが、飛行機では不可能です。ここからは、パイロットの知識量と経験に基づく判断が、その後を左右します。
原則(1)は、極めてあたりまえのように感じますが、原因追求に頭がいってしまうと、つい忘れがちになります。実際に脚の警報灯の球切れで、それに全員が集中して落ちてしまった機体もあります。ですから、何が起こっても、先ずは飛行機の操縦に意識を向けていることが大切になります。
原則(2)は、簡単に書いてありますが、かなり難しい原則です。「コツン」と音がしたのを考えても、その原因は、山ほど考えられます。そしてその状況判断を間違えると、間違った対処手順を実施してしまいます。私の恥ずかしい経験では、射撃終了で目標から離脱したときに、発電機の警報灯が点灯しました。「ありゃー 電源故障だー」「発電機リセット!」「あれー?リセットできない」「完全に発電機壊れちゃった?」「もーやっぱ○○製品はだめだね!」なんて思っていると。「ん?なんでエンジン温度が低いの?」「あれぇーエンジン止まってるジャン!」「エンジン止まった警報等をつけて欲しいよねー」。
原則(3)は、状況はその後どうなるかわからないので、出来るだけ早く降りるのが得策です。このためパイロットは常に、ここで何か起こったら、どこに降りようかを考えています。言い換えれば自分がその日に飛ぶコース近くにある飛行場については事前に調べてあるのです。そして、何かあれば直ぐにそちらに機首を向けながら、状況の判断を始めます。
飛行機を操縦する上で大切なのは、あらゆる面で余裕を持つことです。知識・技量はもちろん、心も体も、そして時間にも余裕を持つことが、安全への第1歩です。ぎりぎりでやっていると、何か発生したときに直ぐに限界がきてしまいます。そして、状況を判断するときには、1つの原因に限定せずに可能性があるものは、全て念頭に置くべきです。
【Knock It Off】
さて、今回で私の連載も終了になります。1年間、中年パイロットのたわごとに、お付き合いしていただきましたことを心から感謝いたします。
自由に大空を飛びまわる、この憧れは人類の永遠のテーマです。ライト兄弟が初めて飛んでから約100年、そして今、私たちはその一部分を手に入れました。しかし、まだまだ大空は限られた人々だけの特別な世界です。飛ぶためには、特殊な機械と、それを操る特別な技術が必要です。このために、多くの人々がこれを支えています。そしてあなたもその大事な1人なのです。
それでは、またの日まで…「R.T.B.」(Return To Base)
------------------------
コックピットから その13 「ENGINE START」
以前の連載から約10年、思うところあって連載を続けることになりました。よろしくお願いいたします。今回は開始ということで、スタートから!
【ENGINE START】
一世代前の戦闘機のエンジンスタートには、それなりの装置と知識と技量が必要でした。たとえば、F-4とかF-1にはスターターが搭載されていません。ですから、何らかの理由で、その飛行機を運用していない飛行場に着陸してしまうと、エンジン始動ができないので、飛び上がるには、かなりの時間と努力が必要となります。また、それ以前の戦闘機では、エンジンスタート中、常にエンジン温度をモニターして燃料量をパイロットがコントロールしなくてはいけないので、素人さんにはちょっと無理でした。
しかし、最近の機体のエンジンスタートには、特別な装置や技量・知識は全く必要ありません。だれにでも簡単に、エンジンスタートが楽しめます。それでは実際に、エンジンを始動してみましょう。でも、キーを入れて回すだけでは動きませんけどね!
その前に、確認すべきことがあります。まずは自分の機体内の状況です。戦闘機は、エンジンが動くまでは単なる高価な金属の塊です。操縦桿を動かしても、引き金を引いても、脚ハンドルを上げても、何も起こりません。動いているのはゼンマイ仕掛けの時計ぐらいです。特にF-15などは、バッテリーも搭載していないので、どこのスイッチを操作しても、電気的には何も起こりません。
しかし、エンジンが回ると、電気と油圧が供給されて、戦闘機は生き返ります。この瞬間が結構やばいんです。仮に、何かのスイッチが入ってたりすると、即座に作動して好ましくない状況が発生する可能性があります。もしかすると、皆様も時々やってしまっている、車のエンジンキーを回したらワイパーが動いてしまったとか・・・・ウインカーがカチカチ作動してしまったとか・・・この手の事象です。
まあ、設計者も操縦者を信じていないので、簡単には作動しないようには作ってあります。しかし、その安全装置がもし壊れていたりすると、とんでもないことが起こってしまいます。エンジンをかけたら、脚をたたんでしまったとか、ミサイルが出てしまったとか・・・・車のような笑い話では済まなくなってしまいます。これを防ぐには、やはり真面目なスタート前点検が必要となります。
次に確認すべきことは、飛行機の周りに固定されていない物が無いかどうかです。仮に、空気取り入れ口付近に、小石や工具などがあれば、必ず吸い込みますし、機体後方に車や人がいれば、必ず吹き飛ばします。このようにして、まずは、飛行機の内側と外側の安全を確認してからのスタートになります。それでは、待ちに待ったエンジン始動です。
どんな戦闘機でも同じですが、前方に「START」と書いてあるスイッチがあると思います。その形状は色々あって、倒す場合もあれば、押す場合もあれば、ハンドルを引く場合もあります。いずれにしても「START」と書かれていると思います。これをそれなりに操作します。
すると、「ぷしゅ~っ」と音がして、圧縮空気が流れて、軽く振動が伝わってきます。これは、エンジンを動かすための小型ジェットエンジン(JFSと呼ばれます)が作動したことを意味しています。JFSがスタートして数秒で、電気が流れ始めます。これでやっと、飛行機は目覚めて、計器や警報等が使える状態になります。
言い換えれば、ここまでは機体のどこかが壊れていても、油が漏れていても、火災になっても、何の警報も出てくれないのです。
その上この瞬間に、全ての電子機器に電気が流れるので、各機材が自己診断を始め、多種の警報や音が無意味に発生するのです。まあ慣れてしまえば、心地よいBGMに聞こえてきますがね!「ぴ~~うおーにんぐ!ヒャラヒャラこ~しょんぴろぴろふぁいや~ぽろんぽろんぴんぽ~んロック!びんご~・・・・etc」これに対しては適当に「は~い」と答えておけば良いでしょう(笑)。
JFSが安定したら、この力をエンジンに送る操作をします。すると、エンジン回転計が動き始め、ゴトゴト音がして、エンジンが動き始めたのが分かります。ジェットエンジンの回転数は、車などのレシプロエンジンと違って、最低回転数でも毎分数万回転です。安定するまで1分ほどかかります。
IDLEで、エンジンが安定してしまえば、もう心配はいりません。戦闘機のエンジンは、燃料がある限り、何があっても回り続けます。最近の機械では少しでもなにか変だと、自分自身を守るために勝手に止まってしまう機材がありますが、戦闘機のエンジンは違います。、自分がぼろぼろになるまで最高出力を出し続ける努力をします。
ですから、戦闘機でエンジンが止まってしまったら、それはもう何をしても動かないと思えば良いでしょう。それなのに、空中再始動手順ってあるんですよね~(笑)。まあ、何らかの理由でパイロットが故意に止めてしまった場合は、この手順に従って、再始動しなくてはいけません。
また、車のような、押しがけも可能です。皆で力をあわせて時速400kmぐらいまで加速して、上記の再始動手順をすれば、問題なくエンジンは始動するはずです。
これでエンジンスタートは完了です。エンジンをかけるだけならほんの数分ですが、飛ぶまでには機能チェックや各種点検など、やるべき事がたくさんあります。通常戦闘機は、乗り込んでから離陸開始までに30分~40分かかります。ですから、近所のコンビニにお菓子を買いに行くには、ちょっと不向きかもしれませんね。
こんなに時間がかかるのに、5分以内に離陸するスクランブルにはどうしているのでしょう?
この疑問には次回お答えしましょう。
------------------------
コックピットから その14 「SCRAMBLE」
【SCRAMBLE】
それは、「じゃ~~~ん」という、けたたましい非常ベルの音から始まります。
とりあえず、パイロット、整備員、武器員の全員が、飛行機に向かって全力で走り出します。
「何をやっていても、ベルが鳴ったら、向こう側の扉に向かって走る!」これだけを体に覚えこませています。
皆、走りながら、次にやることを考えています。
パイロットは、装具をつける順番、エンジンスタート手順などを思い出しています。
整備員は、発進手順や武器のアーミング方法などを思い出しています。
10秒後には全ての人間が決められた位置に到着して、息を整えながら、エンジンスタートのために動き始めます。この辺からやっと、脳みそが動きはじめます。ここまでは単なる条件反射です。ワンちゃんが、ピンポンが鳴ると、とりあえず吠えながら、玄関に走っていくのと同じです。
アラート勤務についていた頃は、大きな音がするだけで、体が反応して、いつもビクンビクンしていました。普通の日でも、飛行隊の中で金属製のお盆でも落とそうものなら、パイロット全員が瞬時にその場に立ち上がります。しかし、その後、そいつは先輩の方々からボコボコにされてしまいますがね!
さて、スクランブルに話を戻しましょう。エンジンスタートは通常手順とほとんど同じです。但し、F-4だけは両エンジンほぼ同時にスタートできるので、時間は通常の半分になります。エンジンを始動しながら、ハーネスなどの装具を着けていきます。この順番を間違えると、全部外して、最初からやり直しになります。ヘルメット、股帯、胸帯、シートベルト、脚帯、Gホースなど、これらを全てつなぎます。つなぎ終えた頃、エンジンはIDLEで安定します。ここまでで約2分、残された時間は3分です。
ほとんどの電子機器は、最初からONにしてありますが、ある種の電子機器は、色々な理由で、エンジンスタート後に電源を入れなくてはいけません。その代表がINS(慣性航法装置)です。ここで少し、INSについてご説明いたします。この装置は常に飛行機にかかる加速度を感じています。それを積分して、速度にして、さらにそれを積分して、距離にしています。まあ理論的にはわかるような気もしますが・・・・(笑)。
このINSの自立が一番時間がかかります。普通にINSを立ち上げると、7~8分かかります。それはジャイロの回転が安定して、地球の自転を感知して真北を探し出すのに、これぐらい時間が必要だからです。これでは5分以内の発進には間に合いませんので、事前に北の方向だけは、INSに覚えこませておきます。これだと2分程で、立ち上げることができます。その上、現在はジャイロも機械的なものから光学的なものに変わっているので、さらに立ち上がりは早くなっています。
このように、スクランブル用に準備された機体は、すでに全てのチェックが終了している状態でスタンバイしているので、エンジンをかけさえすれば、飛行可能状態になります。
エンジンも安定し、アビオニクス関係の自動チェックが終了すれば、発進可能です。飛行機OKのサインを整備員に送ります。すると今度は、武器員の出番になります。アラートは実任務です。本物の武器を搭載しています。ミサイル、ガンなどを発射可能な状態にします。これをパイロットが確認をして、発進準備完了となります。
発進は通常最優先で許可されます。アラートハンガーを出て滑走路に入って、スロットを最大位置にします。そしてエアボーン。1番機が地上を離れた瞬間が、5分以内でなければいけません。
飛行機が飛び上がっても、アラートハンガーに静寂は戻りません。すぐに、次に発進させるべき飛行機の準備にとりかかります。10分ほどで次の飛行機の待機が完了して、全く同じ待機が始まります。このため、アラートハンガーには常に4機の戦闘機が準備されています。
スクランブルは訓練ではありません。実任務です。世界的には、戦闘時間に計算されます。私の飛行履歴書には戦闘時間92時間と記載されています。このため、米国へ行ったときなど「どこで戦ったの?」とか聞かれて、答えに困ったことがあります。
また、実任務のゆえに、天候が極めて悪くても決行されます。通常飛行機は、着陸時の天候を判断して飛行します。しかし、スクランブルは着陸可能な飛行場がなくても、離陸命令が出ます。民間機の場合、いくら日本が小さくても、国内の全ての空港が天候などのために閉鎖になっている事は考えられません。福岡に降りようとしたけど、お天気が悪いから、羽田にしようとか、千歳にもどろうかな~とか変更可能です。しかし、戦闘機は足が短いので、名古屋に降りようと思っていたのにお天気が悪いと言っても、変更できる飛行場は、浜松か岐阜ぐらいに限られてしまいます。こうなると、降りられる飛行場が全く無いのと同じになります。それでもスクランブルは命令されます。
離陸上昇フェーズが終わって、通常の管制機関から離れて防空管制に移行すると、任務開始です。飛行機を最短会合点まで進めます。離陸から十数分で、自分のレーダーに相手が映ります。徐々に距離を縮めて接近します。そして最終的に、相手機の真横の日本領土側に位置します。2番機は相手機の後方で、かつ、やや上方に位置して、いつでもミサイルを発射できる位置に占位します。もしかすると、第3次世界大戦の始まりが、今なのかもしれません。かなりの緊張です。
ここで大事なのは本気であることです。向こうも本気です。冗談とか遊びではないことです。2番機は、1番機が落とされたら、必ず相手機を落とさなくてはいけません。
幸いなことに、わが国にはスクランブルから戦闘行為が始まった歴史はありませんが、世界的には戦争の始まりが、スクランブルからの場合も多いのです。
(今回の写真は、デュラム氏のご協力を頂きました。)
次回は、戦闘機に搭載されている機銃は当たるのか?
この永遠のテーマに挑戦です。
------------------------
コックピットから その15 「AIR to AIR GUN」
【AIR to AIR GUN】
今回は、GUNによる空中戦についてお話しましょう。
第2次世界大戦までは、飛行機同士の戦いは鉄砲だけでしたが、それ以降はミサイルが加わり、今ではミサイル戦が主流になりました。このように、搭載武器は時代とともに変化しています。さて、30年ほど前のお話ですが、私が米国でF-4に搭乗したときの出来事です。
写真:GUN
1対1の空中戦訓練でした。相手とヘッドオン(正面同士)で交戦に入りました。相手が私から見て、右に急旋回したのが見えました(相手としては左急旋回)。そこで私も、右に上昇急旋回。上昇すると速度が減り、 旋回半径が小さくなって、 相手の後ろに入りやすくなります。180度回ると、 また相手とヘッドオンですれ違います。この瞬間に旋回を切り返して、お互いに逆の旋回に入ります。これを繰り返して、S字を描きながら絡み合うのがシザースです。
この結果、僅かでも相手の後ろに入れれば、GUNを撃つことができます。運よく私は、相手の後ろ2000フィートに位置できました。「そこでGUNを選択!FOX-III!」とCALLしようとすると、後席の米軍のパイロットが大笑いするのです。「ちみは何をするの?」
私が日頃乗っていたのはF-4EJ、米国で乗ったのはF-4D、ほとんど同機体ですが、決定的に違ったのは、F-4DにはGUNが装備されていないのです…(大汗)。ですから、近接戦で使う武器を持っていないのです。
飛行後のブリーフィングで、飛行隊内は大爆笑!「さすが日本人はすごい!空中��飛行機から出てナイフで戦うのかと思った」と…。
写真:GUN
ベトナム戦争での教訓から、F-4E以降の戦闘機には、20ミリメートルの機関砲を搭載するようになりました。その多くは、油圧もしくは電動モーターで作動する回転式機関砲です。砲身は6門あり、これが回転しながら弾を発射します。
発射速度は毎分6000発程度となっています。弾自体は、マッハ3~4ぐらいで飛んでいきます。毎分6000発ですから、1秒間に100発撃ちます。射撃感覚は「バン・バン・バン」という感じではなく、「ブーン��という振動と音になります。また、1回の射撃は1秒間ほどになります。
戦闘機のGUNの照準は、先ずは相手をレーダーでロックオンして距離を測ります。 次に自分の機体にかかっている荷重から、相手の運動を推測します(相手を追い続けていると仮定して計算)。その状態で、着弾時間を計算して、その時間で移動するであろう相手の予想位置に重力落下分を加えて、HUD(ヘッドアップディスプレー)に 照準点として表示します。パイロットはその照準点を、実際の目標の飛行機の上に乗せることで、銃の方向は相手の将来位置に着弾するようになります。
戦闘用計算機は正確なデータさえ与えれば、確実に正解を出します。第2次大戦中に戦った戦闘機はレーダも積んでないので、曳光弾を見ながらの射撃でしたが、通常弾と曳光弾では、その重さも空力特性も違っているので、弾道が違ってきます。実際は参考程度にしかなりませんでした。結局、空中での射撃は100パーセントパイロットの勘で撃っていましたので、まさに神業です。
このように考えて行くと、計算機制御の機関砲って、なんか当たりそうですが、そうは問屋が許してくれないのです。
音速の3倍で飛んでいる弾は、1秒間で100発撃っても、その弾の間隔は約1000メートルに100発ですから、10メートルおきに1発存在している計算になります。これは直線飛行をしているときの計算ですが、実際は急旋回して戦闘するので、角速度がこれに入ります。戦闘加重時は50メートルに1発程度の密度になります。戦闘機の大きさはせいぜい20メートルほどですから、戦闘機から見れば、弾はかなりまばらな感じで撃たれている感覚になります。
写真:GUN
その上、計算機で行う照準は、その計算と表示に4秒ほどかかります。相手が4秒間安定した機動をしてくれた時は正確ですが、そうでない場合は、最初から照準点は 不正確となります。ですから、4秒に1回何らかの回避機動をすれば、 照準は定まりませんので、 弾の当たる確率はほとんど0パーセントとなります。強いて言えば、もし運悪く相手の弾に当たってしまった時は、日頃の行いのせいかもしれません。
これらをまとめて考えると、ほぼ同性能の戦闘機同士の戦いで、相手をGUNで落とすことは、ほとんど不可能になります。ですから、対空武器としては、GUNはお守り程度の効果があると思えば良いでしょう。
但し、相手が動かないものとなると話は違ってきて、GUNは極めて有効です。相手がトラックならば、100発撃てば50発は当たるでしょうし、全速で走っている戦車でも 30発は当たると思います。相手が駆逐艦程度の船ならば、90発は命中するでしょう。その上、20ミリメートル弾は鉛の塊ではなく、中に火薬が装填されていて、命中後、爆発するので、その威力はかなりなものです。
このように対戦闘機戦闘では、GUNはそれほど有効な装置ではありません。最も有効なのは、ご存知のようにミサイルになります。
(今回の写真はMasato氏のご協力を頂きました。)
次回は、このミサイルについてお話しましょう。
------------------------
コックピットから その16 「MISSILE」
【MISSILE】
今回はミサイルのお話をしましょう。
まずはイメージを作りましょう。
あなたは学校の校庭の真ん中に立っています。
校庭の端には野良犬が1匹います。
何故か、あなたは野良犬と目が合ってしまいます。すると、野良犬が突然うなりながら、あなたに向かって走りだしました。
あなたなら、どうします?
これがミサイル戦の始まりです。
対戦闘機戦で、最も有効であろう武器がAAM(空対空ミサイル)です。
F-15世代の戦闘機のほとんどは、8本のAAMを搭載することができます。4本のMRM(中距離ミサイル)と4本のSRM(短距離ミサイル)です。
また目標1つに対して、2本のミサイルを発射するのが基本ですから、1機の戦闘機は4回のミサイル射撃が可能となります。何故2本撃つかと言うと、1本のミサイルの撃墜確立が80パーセントだとすると、2本目は1本目で外した20パーセントの80パーセントを落とせるので16パーセントとなります。こうなると、2本で96パーセントの確立で相手を撃墜することができるので、かなり有効な手段となります。仮にもう1本撃ったとしても、残りの4パーセントの80パーセントが落とせるので、さらに3.2パーセント増となりますが、1本目と2本目に比べて大変少ない数字になるので、あまり意味を持たなくなります。そこで通常は、1目標に2発撃つのが妥当とされています。これは撃つほうの理論です。
ここで、先ほどの野良犬に話を戻しましょう。あなたは犬に追われています。さてどうします?先ずは反対側に走り出します。時間稼ぎです。走りながら考えます。どうしたらいいか…。
ポケットを探ると、お菓子が入っていました。犬に向かって投げてみます。ラッキーだと、犬はお菓子を食べ始めて、あなたを追うのをやめるでしょう。これがフレアー(火の玉)でしょう。ミサイルが赤外線追尾式だったら、これで逃れられます。
しかし運悪く、この犬が満腹だったら…。
次にあなたは上着を脱いで、それを放り投げます。犬がそれに向かって走ってくれれば、またまたラッキーです。これがチャフ(銀紙)です。これで電波誘導式ミサイルは向かってこないでしょう。
このような方法でミサイルをだますのが、撃たれるほうの理論になります。それともう一つ、ミサイルの最大の欠点は惰性で飛んでいることです。ミサイルは数秒しか燃料がありません。長くても5秒程度です。このため通常は、慣性力だけで飛んでいます。
その結果、何回も飛行方向を大きく変えての飛行はできません。もしミサイルを1度、自分からそらすことができれば大成功です。なぜなら、そのミサイルが180度方向転換して追ってくるのは、映画の世界だけの話ですから。
しかし、これで安心してはいけません。ミサイルには近接信管というものがついていて、相手に直接当たって爆発するのではなく、近くに来たなとミサイルが感じた時に、勝手に爆発するのです。この爆発で小さな金属の破片が四方八方に飛び散って、その1つでも飛行機に当たれば、あなたはまともには飛べなくなります。
今回は空対空ミサイルの話でしたが、実際は地対空、水対空ミサイル等の多種のミサイルが、戦闘機に向かって飛んできます。パイロットはこれらに対して、有効であろう多種の方法を使って回避しなくてはいけません。
また、その回避行動は技術的に立証されているわけでもなく、パイロット間で伝説のように言い伝えられているものです。たとえば、「SA-3(地対空ミサイルの一種)が撃たれたら、白煙が見えてその先にミサイルがたぶん見えるから、その大きさがタバコの大きさになったらキャノピーの右端に置くようにして、最大Gで右降下旋回しなさい。」と言うような手順です。この手順で回避できたパイロットがいるのも事実ですが、帰って来れなかったパイロットもいるでしょう…。しかし、後者は証言できませんので、この手順が正解となってしまいます。
あんなこんなで、色々な攻撃から無事回避して任務を終了し、基地に帰ってきます。しかし、ここで安心してはいけません。それは味方の基地防空用のミサイルです。1人で操作可能で、肩に担いで発射するタイプの携行対空ミサイルです。これらの発射の最終責任者は携行者自身です。特に戦時となれば、情報も混乱するでしょう。目の前に突然戦闘機が現れたら、あなたならどうします?翼に日の丸が無いのを確認してから撃ってくれますか?
古来より矛盾という単語があります。現代に言い換えると、誘導弾と戦闘機になるのでしょうか。お互いの技術者は常に自分たちの技術の方が優秀だと思っています。でも現実はやってみないとわかりません。
パイロットの私としては、常に戦闘機のほうが優秀だと信じていますがね!(笑)。
次回は「そこまでしてダイエットするの?」
戦闘機の重さについてお話しましょう。
------------------------
コックピットから その17 「DIET」
飛行機は空中に浮かばなくては意味がありません。このため、1グラムでも軽く作らなくてはいけないのです。特に戦闘機にとっては、この1グラムで勝敗が決するといっても過言ではありません。
今回は軽量化への努力の中でも、超オタッキーな話題である脚のダイエットについてお話したいと思います。
飛行機にとって、飛んでいるときに全く必要の無いものは脚なのです。飛行中の脚は単なる無駄な重量物なのです。ですから、いかに脚を軽く作るかが飛行機の大きな課題の1つとなります。
軽量化の究極の答えは、離陸と同時に脚を捨ててしまう手段です。持って飛ばないのですから、めちゃ合理的です。ライト兄弟の「ライトフライヤー号」や第2次大戦中の「秋水」などが、この方法を取り入れました。脚は離陸と同時に、機体から外れて地上に捨てられます。これで身軽になり飛行を続けます。すごいアイデアです。着陸は、胴体下に取り付けられているソリによってなされます。かなり革新的な方法ですが問題が1つ…。
次の離陸に際しては何らかの方法で、再度脚を取り付けなくてはいけません。また、その装置と脚が準備された飛行場にしか降りることができません。ですから、極めて特殊な使い方の飛行機だけに許される手段となります。
そこで次に思いついたのが、脚をできるだけキャシャにして軽量化することです。通常の運航では、脚にかかる最大の荷重は着陸の時です。この際には、自分の重さの1.5倍程度の荷重が接地と同���にかかります。ですから、基本的にはかなり頑丈に作らなくてはいけません。
ここで技術者は考えました。
「そうだ!かなり軽くなってからじゃないと、着陸はしちゃいけないことにしよう!」
これなら、そこそこの強度があればOKです。たとえば、自重が10トンの戦闘機で、残燃料量が3トンの場合、重さは13トンです。この機体が着陸するときには、約20トンぐらいの荷重が脚にかかります。この重さに耐えれれば、飛行機としては着陸できるので、設計者はこの数字を目標に設計すればいいのです。
皆様も経験したことはあると思いますが、民間機などで離陸直後に何か問題が起こって、着陸しなくてはいけない状況でも、着陸するまでにかなりの時間がかかったという記憶がおありと思います。これは、離陸した直後の重量では重過ぎるので着陸できません。そのため、燃料をある程度使ってからの着陸になりますので、時間が必要となります。これほどまでにして、脚は軽く作ってあります。
さて、戦闘機の一般論を…。通常、自重10トンの戦闘機には、8トンぐらいの燃料が積めます。これとは別に、ミサイルとか爆弾とかも8トンぐらい搭載できます。全部合計すると26トンになります。
ここで
「それって、おかしくない?」
「さっき、10トンの飛行機が耐えれる重さは、着陸時の最大20トンだって説明したジャン!」
「それなのに全備重量が26トンって、すごい矛盾!」…っと思われた方は、このコーナーを熟読していて、かなりの戦闘機通と言えます。(笑)
これまではプロローグです。ここからが本日のメインテーマとなります。
20トンまでしか耐えられない脚を持った戦闘機に、合計26トンのものを乗せる。これが技術者に与えられた命題です。このままだと、地上で燃料と武器を搭載しただけで、脚が折れてしまいますので、絶対何らかの方法が必要となります。
簡単な答えは、「脚を強くしよう!」ですが、これでは今までの努力が無駄になりますし、だれにも「すごーいい!」って、言われません。飛行機を軽く作ろうという目標からもずれてしまいます。そこで技術者が次に考えるのは、最大離陸重量を脚の強度限界の20トンにすることです。
「燃料とか武器とかの合計を10トンにしちゃおう!」
「そうだそうだ。それがいいよ!」
「それじゃ、どうやって積む?」
「燃料を乗せるのやめちゃおう!」
「そうなると、搭載物を8トンにして残りの2トンを燃料に割り当てるようにしよう。」
「これで、みんな丸く収まるねー!」
ここで初めて、パイロット君登場。
「あのね。君らは知らないと思うけど、飛行機は燃料がないと飛べないんだよ!」
「えー そうなんですか?知らなかった…。」
「そんじゃ、武器とか下ろします?」
「それだと、何のために飛んでるか、わからないじゃん。」
まあ、この会話は100パーセント嘘ですが。(笑)このような矛盾が生まれてきます。
(撮影:謎の黄色さん)
そして、答えは…。
すでに上の写真でお気づきと思いますが、本当に武装関係は全部積んで、燃料はちょっとしか搭載しないで離陸します。離陸後は、脚の強度制限は関係なくなります。その状態で、空中で燃料を満載にします。この方法だと、機体の重量の最大設計限界の26トンまで重くすることができます。空中給油は、単に戦闘機などの行動半径を伸ばすためのものではなくて、燃料満載で且つ完全武装をした戦闘機を任務へ向かわせるために、絶対的に必要な装備なのです。
蛇足ながら、わが国ではフォーメーション飛行ができない人は戦闘機乗りには不適ですが、米軍では空中給油ができない人が、先ずエリミネートされます。だって、戦闘機が飛び上がって最初の仕事が、空中給油なのですから!
【EPILOGUE】
急ではございますが、長い間、老パイロットのたわごとにお付き合いいただきありがとうございました。
今回をもちまして、このシリーズを終了いたします。いままでお付き合いいただいた方々に深く感謝するとともに、さらなる航空技術の発展と飛行の安全を祈りつつ、ペンを置きたいと思います。
それでは Knock It Off! 、 RTB 、 Pigeon to Mama? (作戦は終了!、帰ろう、ところでおうちはどっち?)
------------------------
3 notes
·
View notes