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#石川四校記念公園
kadunobufukuya · 2 years
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明治24年築の赤レンガ建造物。 東京駅舎、法務省旧本館、横浜赤レンガ倉庫と、明治の代表的な建造物は赤レンガ造りが多い印象。 レトロな趣は心が落ち着きます。 #金沢市 #赤レンガ #第四高等学校 #金沢大学 #石川四校記念文化交流館 #石川四校記念館 #石川四校記念公園 #溝淵先生 #溝淵進馬 (いしかわ四高記念公園) https://www.instagram.com/p/CeQ9eB7LasK/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年5月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 長すぎるエスカレーター早春へ 久 立春の市の算盤振つてみる 要 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ きみよ 伊達者のくさめ名残りや南部坂 眞理子 慶應の先生眠る山笑ふ いづみ 豆源の窓より立春の煙 和子 供華白く女優へ二月礼者かな 小鳥 古雛の見てゐる骨董市の空 順子 古雛のあの子の部屋へ貰はれし 久
岡田順子選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ 同 大銀杏八百回の立春へ 俊樹 豆源の春の売子が忽と消え 同 コート脱ぐ八咫鏡に参る美女 きみよ おはん来よ暗闇坂の春を舞ひ 俊樹 雲逝くや芽ばり柳を繰りながら 光子 立春の蓬髪となる大銀杏 俊樹 立春の皺の手に売るくわりんたう 同 公孫樹寒まだ去らずとのたまへり 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
敬􄼲な信徒にあらず寒椿 美穂 梅ふふむ野面積む端に摩天楼 睦子 黄泉比良坂毬唄とほく谺して 同 下萌や大志ふくらむ黒鞄 朝子 觔斗雲睦月の空に呼ばれたる 美穂 鼻歌に二つ目を割り寒卵 かおり 三􄼹路のマネキン春を手招きて 同 黄金の国ジパングの寒卵 愛 潮流の狂ひや鯨吼ゆる夜は 睦子 お多福の上目づかひや春の空 成子 心底の鬼知りつつの追儺かな 勝利
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月6日・7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
潮騒を春呼ぶ音と聞いてをり かづを 水仙の香り背負うて海女帰る 同 海荒るるとも水仙の香の高し 同 坪庭の十尺灯篭日脚伸ぶ 清女 春光の中神島も丹の橋も 同 待春の心深雪に埋もりて 和子 扁額の文字読めずして春の宿 同 砂浜に貝を拾ふや雪のひま 千加江 村の春小舟ふはりと揺れてをり 同 白息に朝の公園横切れり 匠 風花や何を告げんと頰に触る 笑子 枝川やさざ波に陽の冴返る 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月8日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
雪を踏む音を友とし道一人 あけみ 蠟梅の咲き鈍色の雲去りぬ みえこ 除雪車を見守る警備真夜の笛 同 雪掻きの我にエールや鳥の声 紀子 握り飯ぱりりと海苔の香を立て 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
東風に振る竿は灯台より高く 美智子 月冴ゆる其処此処軋む母の家 都 幽やかな烏鷺の石音冴ゆる夜 宇太郎 老いの手に音立て笑ふ浅蜊かな 悦子 鎧着る母のコートを着る度に 佐代子 老いし身や明日なき如く雪を掻く すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝光や寺苑に生るる蕗の薹 幸風 大屋根の雪解雫のリズム良き 秋尚 春菊の箱で積まれて旬となる 恭子 今朝晴れて丹沢颪の雪解風 亜栄子 眩しさを散らし公魚宙を舞ふ 幸子 流れゆくおもひで重く雪解川 ゆう子 年尾句碑句帳に挟む雪解音 三無 クロッカス影を短く咲き揃ふ 秋尚 あちらにも野焼く漢の影法師 白陶 公魚や釣り糸細く夜蒼し ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
犬ふぐり大地に笑みをこぼしけり 三無 春浅しワンマン列車軋む音 のりこ 蝋梅の香りに溺れ車椅子 三無 寒の海夕赤々漁終る ことこ 陽が風を連れ耀ける春の宮 貴薫 青空へ枝混み合へる濃紅梅 秋尚 土塊に春日からめて庭手入 三無 夕東風や友の消息届きけり 迪子 ひと雨のひと粒ごとに余寒あり 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浅春の眠りのうつつ出湯泊り 時江 老いたれば屈託もあり毛糸編む 昭子 落としたる画鋲を探す寒灯下 ミチ子 春の雪相聞歌碑の黙続く 時江 顔剃りて少し別嬪初詣 さよ子 日脚伸ぶ下校チャイムののんびりと みす枝 雪解急竹はね返る音響く 同 寒さにも噂にも耐へこれ衆生 さよ子 蕗の薹刻めば厨野の香り みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月14日 萩花鳥会
水甕の薄氷やぶり野草の芽 祐子 わが身共老いたる鬼をなほ追儺 健雄 嗚呼自由冬晴れ青く空広く 俊文 春の園散り散り走る孫四人 ゆかり 集まりて薄氷つつき子ら遊ぶ 恒雄 山々の眠り起こせし野焼きかな 明子 鬼やらひじやんけんで勝つ福の面 美惠子
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令和5年2月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
吹雪く日の杣道隠す道標 世詩明 恋猫の闇もろともに戦かな 千加江 鷺一羽曲線残し飛び立てり 同 はたと止む今日の吹雪の潔し 昭子 アルバムに中子師の笑み冬の蝶 淳子 寒鯉の橋下にゆらり緋を流す 笑子 雪景色途切れて暗し三国線 和子 はよしねまがつこにおくれる冬の朝 隆司 耳目塗り潰せし如く冬籠 雪 卍字ケ辻に迷ひはせぬか雪女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
指先に一つ剥ぎたる蜜柑の香 雪 大寒に入りたる水を諾ひぬ 同 金色の南無観世音大冬木 同 産土に響くかしは手春寒し かづを 春の雷森羅万象𠮟咤して 同 玻璃越しに九頭竜よりの隙間風 同 気まぐれな風花降つてすぐ止みて やす香 寒紅や見目安らかに不帰の人 嘉和 波音が好きで飛沫好き崖水仙 みす枝 音待てるポストに寒の戻りかな 清女 女正月昔藪入り嫁の里 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月17日 さきたま花鳥会 坊城俊樹選 特選句
奥つ城に冬の遺書めく斑雪 月惑 顔隠す一夜限りの雪女郎 八草 民衆の叫びに似たる辛夷の芽 ふじほ 猫の恋昼は静かに睨み合ひ みのり 薄氷に餓鬼大将の指の穴 月惑 無人駅青女の俘虜とされしまま 良江 怒号上げ村に討ち入る雪解川 とし江 凍土を突く走り根の筋張りて 紀花 焼藷屋鎮守の森の定位置に 八草 爺の膝捨てて疾駆の恋の猫 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
古玻璃の奥に設ふ古雛 久 笏も扇も失せし雛の澄まし顔 眞理子 日矢さして金縷梅の縒りほどけさう 芙佐子 梅東風やあやつり人形眠る箱 千種 春風に槻は空へ細くほそく ます江 山茱萸の花透く雲の疾さかな 要 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 ぽつねんと裸電球雛調度 要
栗林圭魚選 特選句
紅梅の枝垂れ白髪乱さるる 炳子 梅園の幹玄々と下萌ゆる 要 濃紅梅妖しきばかりかの子の忌 眞理子 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 老梅忌枝ぶり確と臥龍梅 眞理子 山茱萸の空の広さにほどけゆく 月惑 八橋に水恋うてをり猫柳 芙佐子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
師を背負ひ走りし人も雪籠 雪 裏庭開く枝折戸冬桜 同 天帝の性こもごもの二月かな 同 適当に返事してゐる日向ぼこ 一涓 継体の慈愛の御ん目雪の果 同 風花のはげしく風に遊ぶ日よ 洋子 薄氷を踏めば大空割れにけり みす枝 春一番古色の帽子飛ばしけり 昭上嶋子 鉤穴の古墳の型の凍てゆるむ 世詩明 人の来て障子の内に隠しけり 同 春炬燵素足の人に触れざりし 同 女正月集ふ妻らを嫁と呼ぶ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
能舞台昏きに満ちて花を待つ 光子 バス停にシスターとゐてあたたかし 要 空に雲なくて白梅すきとほる 和子 忘れられさうな径の梅紅し 順子 靖国の残る寒さを踏む長靴 和子 孕み猫ゆつくり進む憲兵碑 幸風 石鹸玉ゆく靖国の青き空 緋路 蒼天へ春のぼりゆく大鳥居 はるか
岡田順子選 特選句
能舞台昏きに満ちて春を待つ 光子 直立の衛士へ梅が香及びけり 同 さへづりや鉄のひかりの十字架へ 同 春の日を溜め人を待つベンチかな 秋尚 春風や鳥居の中の鳥居へと 月惑 料峭や薄刃も入らぬ城の門 昌文 梅香る昼三日月のあえかなり 眞理子 春陽とは街の色して乙女らへ 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
ポケットの余寒に指を揉んでをり 勝利 黒真珠肌にふれたる余寒かな 美穂 角のなき石にかくれて猫の恋 朝子 恋仲を知らん顔して猫柳 勝利 杖の手に地球の鼓動下萌ゆる 朝子 シャラシャラとタンバリン佐保姫の衣ずれ ひとみ 蛇穴を出て今生の闇を知る 喜和 鷗外のラテン語冴ゆる自伝かな 睦古賀子 砲二門転がる砦凍返る 勝利 小突かれて鳥と屋や に採りし日寒卵 志津子 春一番歳時記の序を捲らしむ 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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memory-of-hiroshima · 2 years
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77回目の8月6日が来ました。 あの日、そしてその後の“ヒロシマ”を知ってもらうことが、核兵器廃絶への道につながることを信じたいのです。 2年前に書いた文章ですが、読んでいただければ嬉しいです。
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胎内被爆者の綴り方
<はじめに>  長い間、私は不特定多数の人に被爆体験を語ることにとまどいを覚えておりました。胎内被曝のため、実際に被爆の被害・惨状を見たわけでもなく、肉親を失ったわけでもなく、私自身もこの年齢まで生きてこれた幸運もあり、大きな嘆きの人々に比べれば語る資格がないと思っていました。  しかし、ここ数年、特に日本政府は広島・長崎の被害の事実をなかったものかのように動き始め、核兵器禁止条約に対しても、日本の代表とは思えぬ動きで、私は不安でたまりません。  今まで、生協の平和行進や集会、そして募金に参加したことがあるくらいで、平和や反核に対する運動をほとんどしていません。平和公園での座り込み運動にも、心をよせてはいても、ただの傍観者でした。私が育った戦後、ついこの間までは多くの活動をする人がいて、私も黙っていてもよかったのです。ただ被爆者の会も高齢化で消滅解散する中で、何かしなければならないのではと思い始めていました。  そんな時、オーラルヒストリーを研究しておられる元TBSアナウンサーの久保田智子さんの講演を聞く機会がありました。私が記憶を語るとしたら客観的事実ではないかもという懸念をもっていたのですが、久保田さんは「その人が感じ考え思ったことをいっしょに述べること、主観的事実でいい」と言われました。「複雑でいい、矛盾していい、個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈するのだ」と。これは私を勇気づけました��  また、ピラミッドの一番上に直接被爆者がいて、その下にいろいろな人が階層的に存在し、それぞれに思うこと感じ考えることがある、それも大切だと。「ああ私の位置はヒエラルキーの二番目だ、それでも語っていいのだ」と強く励まされました。  それから1ヵ月後、ニューヨークの2020年NPT(核兵器不拡散条約)会議に広島生協の代表として行くことになった友人が、胎内被爆者の会が証言集を出す予定であることを教えてくれました。思い迷った末に、証言集に応募するしないにかかわらず、記憶がうすれる前に一度整理してみようかなとの思いに至りました。
<8月6日>  1946年1月24日生まれの私は、1945年8月6日原爆の炸裂したあの日、母の胎内にいました。予定より早く生まれたと聞いていますから、妊娠4ヵ月位ではなかったでしょうか。悪阻が激しく空襲警報がなっても「このまま死んでもいいから」と逃げるのが億劫だと言っていた母は、朝の洗たくものを干すため両手をあげた時、原爆の光を浴びたといいます。あっと思った時は、胸と腕に火傷をしたようですが、幸いにも「天ぷら油をぬったらいい」と教えてもらい、ケロイドにならずにすみました。借家だった家の前はごぼう畑が広がり、己斐駅がすぐ目の前に見渡せました。光線をさえぎるものは何もありません。爆心地から2.5kmとS42年(1967年)2月18日取得の被爆者手帳にはしるされています。  その時父は観音町の三菱重工の工場、爆心地から4kmの所で被爆。父がどのルートでどのように己斐まで帰ってきたのか全く知りません。9月に4才になる姉は、家の中の布団で寝ており、布団ごと部屋の端から端まで飛ばされていました。壁が少し崩れたくらいで、家は倒れずにすみ、姉も無事でした。  これらの話を父や母から直接聞いたという記憶はなく、どこでどのように知ったのでしょう。母が黒い雨にうたれ、髪の毛が抜け寝こんだこともどうして知ったのでしょう。それには一つの類推があります。
<近所の人々との思い出>  私が小学校低学年の頃住んでいた家はやはり己斐ですが、被爆した時とは違う近くの家です。家の前にも横にも40cm位の側溝に水が流れ、夏には青い露草の花が咲き蛍もとんでいました。暑い暑い8月6日の前後には、近所の人々が涼を求めて集まり、石垣に座って思い思いに語ります。クーラーも無い時代、手にはうちわがあります。冷蔵庫も氷で冷やす木の冷蔵庫です。家には西瓜が待っており、私たち子供は浴衣を着て、大人のまわりをうろちょろしています。そんな時大人の話が聞こえるともなく聞こえるのです。 「ようけえ逃げてきたのお」「おう、水あげりゃあえかったのう、どうせ死ぬんじゃったらのお」「Tさんの家は壊れたらしいのぉ」「下敷きになって男ん子が死んだんよ」「Nさんの奥さんは今年も日傘さして行きよっちゃったよ」「式典なんじゃろう。姉妹や親はえっとこ亡くなったって」  話が聞こえてくるうちにだんだん恐くなります。帰ってトイレに行くのも、夜寝るのも恐くなります。こんな会話の中で私の母の話も語られ、私が覚えたのだという気がします。  Nさんとは、私を実の娘と同じようにかわいがって、お風呂に入れて身体をごしごし洗ってくれたり、焼きリンゴを作ってごちそうしてくれたおばちゃんです。あの優しいおばちゃんが大きな悲しみを抱えておられたのに深く気づくのはずっと後です。このおばちゃんは小学生の女の子2人を残して腎臓病で、身体をパンパンにむくませて亡くなられました。きっと被爆の影響だったと今なら思いますが、当時小学生だった私は、おばちゃんの変わり様に恐ろしかっただけです。  あの夏の日々は、あらためて語り部と言わなくても、みんな思い思いに自然に語って、私たちに伝承されていたのだなあと改めて思います。
<己斐小学校でのこと>  伝承というと小学校の担任を1年から6年まで受け持ってもらったY先生のことが思われます。8月6日宝町の自宅から己斐小学校へ通勤した日のできごと。爆心地近くから相生橋、本川を通ってひたすら己斐へ歩く途中に見た被災の光景。川の中に浮かぶたくさんの人々、横たわる死者たち。その話を聞いた記憶がしっかり残っています。教壇に立って語る先生の息づかい。並ぶ生徒たちの机。写真のようにまぶたに残っています。先生はその日どのように自宅へ帰られたのでしょうか。全く知りません。Y先生はその後私たちが4年か5年生の頃、だから戦後10年くらいでしょうか、肝臓を悪くされ長く入院されたことがありました。きっとこれも原爆と関係があるに違いないと今は思います。  私の小学校は己斐小学校ですが、己斐はたくさんの被災者が流れ込んできて、小学校の校庭ではたくさん人を焼いたと言います。春秋に運動会があったのですが、グランド整理で土をならすと骨が出るというのをよく聞きました。私は直接拾ったことはないのですが恐くてたまりませんでした。それに春は校庭の桜が葉桜になる頃の運動会でしたから、毛虫がぞろぞろはい回ります。私は大の虫嫌い。二重に恐くて――。今と違って素足でかけっこですものね。
<ABCCの記憶>  私が唯一当事者として語れるのはABCC(現・放射線影響研究所)のことかもしれません。小学校低学年の時だったと思います。母と、あるいは近所の友と、そして級友と何回かABCCが近所まで迎えに来て出かけました。学校まで迎えに来たこともあります。黒塗りの大きなハイヤーが来るのですが、私はすぐ酔うので苦手です。行くと、全てがすんだあとクッキーやサンドイッチ、紅茶などをご馳走してくれるのです。異文化への興味や憧れのようなものがありました。けれども何しろアンパンやジャムパン育ちで偏食も多かった私は、なれないものを何とか口にし、帰りの車でまた気分が悪くなるのでした。  さて、ABCCの記憶で長く私が語れなかったことが一つ。検査に行くとズロース(パンツ)の上に白いスモックのようなものを1枚かぶるのですが、それを着てある部屋に一人連れて行かれます。大きな机、私には3m×4mぐらいにも思われましたが、その端に足をぶらんと下ろして、入口のドアに向かって不安そうに座っている自画像が脳裏に残って消えません。そして、立つように促されたのでしょうか。服を脱いでズロース1枚でテーブルに立ったと思うまもなく、大きな180cm位の白人男性がこれまた大きなカメラを抱えて10人近くどたどたと入って、テーブルの回りから、四方八方カメラのフラッシュをたきました。驚きと恥ずかしさと何があったかわからないのとで呆然としていたのでした。一番大きかったのはたぶん恥。何かいけないことのように思ったのでしょう。この話は帰りの母にも友にも誰にも話しませんでした。話せば自分一人の体験ではなかったことがわかったかもしれません。後に語れるようになり、友人夫妻にこの体験を話した時「つらい話をさせてしまった」と言われ、ああそうだったのかと納得したものです。映画のワンシーンのようなこの記憶は今後も決して消えることはないと思います。
<病気に思うこと>  私が生まれたのは、母の母・未亡人だった祖母のいた広島県北部の旧・山縣郡千代田町壬生です。大雪で2階の窓から出入りするような日だったということです。戦後の広島を避けてお産をしたのでしょう。私は乳を飲んでもすぐ吐き、胃の入口の調子が悪くて薬を飲んで治したといいますが、詳しいことはわかりません。その後10カ月位の時には百日咳の激しいのにかかり骨と皮になりました。母は父の実家の香川県高松市鬼無町にひきあげました。そこで祖父から「こんな子を連れて帰って」と非難されたことを相当うらめしく思ったようで、時々同じ話をしてくれました。父の家の事情もあり、結局両親と私たちはまた己斐に戻りました。  そこで成長して22才の大学卒業まで暮らすのですが、父も母も被爆者でしたが、特に母の身体が弱かった気がします。家事だけの人でしたが、一日中かかって掃除・洗たく・食事の支度をし、少し動くと休みながらという具合です。おまけに度の過ぎた清潔好きで、洗たくもハンカチを洗って次は上のもの、下着はその次、そのあとパンツ…といったくらいに丁寧でした。今思えば、それもこれも細菌におびえていた事情もあったかもしれません。私は母の身体の弱いのは偏食のせいと思っていましたが、ひょっとすると被爆の影響があったかもしれません。父は61才、母は57才で亡くなりました。二人とも脳内出血ですが、母は一度肺ガンということで、広島市のM病院で放射線治療を受けたこともあります。  私はよく熱を出し、決して強いとは言えず、身体も細く背も前から一・二・三を争うくらいのチビでした。それでも高校時代は皆勤賞をもらいました(授業中寝てばかりの子でしたが)。  それが結婚して1ヵ月ちょっとだったでしょうか。盲腸になり、夫も手術をしたこともあり夫の家族の中では名医と呼ばれていたN外科で手術をしました。なぜか2、3日眼が覚めず熱も出て、私が被爆者手帳で受診したからでしょうか、先生は慎重になられ結局1ヵ月入院しました。  また、二人目の子のお産の時、妊娠5ヵ月くらいから妊娠中毒症になりとうとう7ヵ月ころ入院。そして子供が9ヵ月に入った時母体がもたないということで早く生みました。お産がすめば蛋白尿がよくなるということでしたが、数値は4本プラスが2本プラスになっただけで入院がその後も続きました。家族を心配して泣き、食事もとれなくなり、そんな私を心配した先生が退院させてくれました。1年位かけて漢方薬をせんじて飲みながら治ることができました。この2回のトラブルで、人がスムーズにできることが上手にできないのは被爆と関係があるのかなあと思ったりしました。これが被爆者共通の心理かもしれません。
<家族の中で>  私が被爆者であるということを夫に初めて言ったのがいつかは覚えていません。当時は手帳取得が結婚にさわるという風評もあり、姉などは「いらない」とすぐにはとらなかったような気がします。私はそんな思いもなく所持していたのですが、夫が戦争の責任とか社会のものの見方などで、私よりはるかに反戦の意識が強かったので何も心配ありませんでした。広島・長崎の式典中継でも私より深く正座してみるような人で、これは幸いでした。  家庭の中で被爆体験を話せたこと。それを淡々と聞いてくれる家族がいたことはうれしいことです。  初孫が5才のころでしょうか。我が家には「原爆の図」「ひろしまのピカ」「ピカドン」(いずれも丸木位里・俊作)や原爆ドームの本など夫が集めた本がたくさんあります。それらを持って帰るほど興味をもち、「原爆ドームに行きたい」と親にねだるほどの孫娘。ホロコースト記念館にも何回か行き、私たち夫婦にもアンネの部屋を丁寧に教えてくれ、「ああこの子は平和の担い手に」と期待をこめて見守っていました。なにしろ8月15日生まれですから。そしてその孫に、佐々木禎子さんについてまとめたダイジェスト版の本を夫は作りました。それを読んだ孫は「禎子さんちは散髪屋さんだったんだね」と。夫はその一言に苦笑していました。2、3年もすると興味を失った孫娘が、いつの日かまた興味と関心を持ってくれれば幸いです。  孫娘が小学校1年生くらいの夏に遊びに来て、寝物語に被爆体験の話をしたところ「おばあちゃん(生きてて)よかったね」と言われ、私ははっとしたのを覚えています。「生きてて申しわけない」という被爆者のことばがよく言われます。私に明確にあるのではありませんが、いくらか私にも長生きへの申しわけなさみたいなものがあります。でも「よかったね」というのはありがたくかみしめたいと今では思っています。
<最後に>  たまたま2020年3月15日付の中国新聞に、「被爆オリンピアン肉声現存・広島市出身36年出場故高田静雄氏」という見出しを見ました。その人は小学校時代の級友の父親です。また、米兵たちの被爆をほりおこし追悼してオバマ大統領にハグされた森重昭さんも級友のお兄さんです。佐々木禎子さんが白血病で亡くなられたころ入院した級友もいます。でも、私たちは戦後60年、還暦を迎えた同窓会でほんの少し被爆のことを話したことがあるくらいで、級友でも詳しいことはほとんど知りません。日々衰えていく記憶と、語りあう機会も減っていく中で、今回書き残してみたのはよかったように思います。記憶とは不思議なもので、自分流にゆがめているかもしれません。この主観的な記録がどのように伝えられていくのか少し楽しみです。長生きすれば「最後の被爆者」となる可能性もある人間の記録ですから。そのためにも両親からもっともっと話を聞いておきたかったです。
<さらに>  この原稿のパソコン入力を娘がひきうけてくれました。彼女は幼い頃、原爆資料館のろう人形母子を見ておびえましたが、私と平和行進に参加したことや、大会で「青い空は青いままで子どもらに伝えたい。燃える八月の朝…」と歌ったことは覚えています。8月6日の式典で峠三吉の詩を子供代表が語ったのに感動して、東京から電話をかけてきたこともあります。彼女には彼女のヒロシマとの歴史が作られているのですね。いろいろな形でヒロシマが伝承され続け、子や孫・その先まで、この愚かなことがくり返されぬように祈ります。私の胸を今でもゆさぶる歌「原爆許すまじ」を心に銘じて。
(2020年4月記/上村洋子)
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hangorin · 5 months
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2023反五輪重大ニュース!
毎年、年末に段ボールで制作しているその年の反五輪重大ニュース。今年は年明けから1か月以上も過ぎてしまいましたが、ブログで発表したいと思います。
1 札幌30年34年不招致決定!
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札幌の人たちの大勝利!札幌市長のしつこい招致活動に対して、とことん冷水を浴びせつづけました。
札幌市とJOCは10月11日、2030年招致を断念し2034年招致に照準を合わせると会見。しかし、その2日後の13日、IOCは2030年と2034年の開催都市を同時決定する方針を発表。11月29日のIOC理事会で、2030年大会の候補地を仏・アルプス地方に、2034年大会の候補地を米・ソルトレークシティに一本化することを決定した。また、2038年大会についてはスイスと「優先的対話」を進めるという。
札幌不招致が確定したことは喜ばしいが、他の立候補都市でも五輪による破壊が起こることは目に見えている。既にフレンチ・アルプスでは「Non aux J.O dans les Alpes(アルプスでのオリンピックに反対)」というグループが立ち上がり、反対活動を活発化させている。彼らのスローガンは「Ni ici, ni ailleurs !(ここでもNO!どこでもNO!)」で、私たちが掲げてきたNOlympicsAnywhere(オリンピックはどこにも要らない)と共通する。
2 東京オリンピック、嘘とワイロの記録更新中!
2022年に発覚した東京五輪汚職事件では、元組織委員会理事・高橋治之はじめAOKI、KADOKAWA、ADK、サンアロー、大広の社長や重役ら15人が受託収賄や贈賄の罪で逮捕・起訴。2023年には15人中11人が執行猶予付きの有罪判決を受けた。しかし、高橋治之は2024年1月31日の公判で「賄賂ではなくビジネス」と主張。まだまだ記録は伸びそうな気配である。
一方、2023年2月には組織委員会が発注した各競技のテスト大会や本大会における総額437億円の事業を対象に談合が行われていたことが発覚。電通グループ、博報堂、東急エージェンシー、セレスポ、フジクリエイティブコーポレーション、セイムトゥーの6社と、組織委員会大会運営局元次長森泰夫ら7人が起訴された。12月12日には森泰夫に懲役2年、執行猶予4年の有罪判決が出されている。
3 2013年招致時、官房機密費でIOCに高額贈答品疑惑。石川県知事・馳浩。
2013年当時、自民党の「招致推進本部」本部長であり、現・石川県知事の馳浩が、東京大会招致活動の中で「官房機密費使って、IOC委員全員105名に、選手時代の写真をまとめたアルバム、一冊20万円を送った」と11月17日の講演会で語った。のちに説明なく撤回(事実だから、黙らされた)。
本人のブログ(2013年4月1日) https://ameblo.jp/hase-hiroshi/entry-11503851369.html
4 明治公園国賠一審不当判決、控訴審へ
2016年、新国立競技場建設のために明治公園の野宿者を強制執行により暴力的に排除した不当性を問う明治公園オリンピック追い出しを許さない国家賠償請求訴訟。2月28日、ついに第一審判決が下された。しかし「原告野宿当事者2名の訴えを棄却・4団体の訴えは却下」の不当判決!許せない!闘いは東京高裁・控訴審へ!高裁では、不当な強制執行の様子を終始記録していた白いヘルメットの集団が誰なのか、その動画を誰が所持しているのか、明らかにするよう指示が出た。闘いはこれからだ。
5 10月31日、新・明治公園開園
2016年1月27日、新国立競技場建設のために廃園になった明治公園が、2023年10月31日、かつて都営霞ヶ丘アパートのあった場所にリニューアルオープンした。公園内にはカフェやレストラン、アウトドアショップなどの商業施設が立ち並び、およそ公共の公園とは呼び難い様相。公園や木々を破壊し、野宿者を排除し、都営住宅住民を立ち退かせた歴史を覆い隠すように、公園の各所に「希望の広場」「インクルーシブ広場」「誇りの杜」などと名付けられていた。
さらに、日本テレビ「鉄腕DASH」という番組で、元社長による性暴力問題が取りざたされてきたジャニーズ事務所のタレントたちによって明治公園の「100年続く森づくりのお手伝い」なる企画が進行。都営霞ヶ丘アパートがあった場所を「50年間コンクリートだった」と蔑む発言などに非難が湧きおこった。
6 東京の公教育、オリパラ教育が「学校2020レガシー」として継続中。
ある都立学校では、2020大会前と比べて、外部講師招聘など外部のオリパラ関係者等との交流は少なくなり、校内の教員向け研修も大会前はオリパラ教育が主要テーマだったが、大会終了後は学習指導や進路指導など通常の内容に戻った。しかし、「総合的な探求の時間」では「パラスポーツ」のボッチャなど「障害者」スポーツが依然として主要な取組内容であり、校内ボッチャ大会や区主催など外部との試合参加など、かなりの比重を占めている。
また、冬季オリパラ招致を進めてきた札幌市は、2016年に2020大会を主な目標としてオリパラ教育を推進、冬季大会招致と歩を一にするように実施校は増え続け、昨年度の実施校は100校近くにのぼっている。札幌市は一旦はオリパラ招致撤退を表明したが、今後、学校でのオリパラ教育がどのようになっていくのか、注目していく必要がある。
招致レース参加が現実味を帯びる可能性のある2042年には、現在小学校高学年の子どもはアラサーとなる。
都教委サイト(都立/市町村区別で各校の2020レガシーの内容の一覧ファイルも) https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/school/content/2020legacy.html
札幌市のオリパラ教育
7 パリでも汚職、立ち退き、過剰警備、自然破壊
パリでも2024年夏季五輪開催が迫っており、東京大会と同様の問題が次々と起こっている。
パリでも組織委本部やスポーツ代理店が汚職の疑いで捜索。このスポーツ代理店が、2016~21年の間、電通子会社だったこともわかった。電通汚職はパリにまで!
3月にはパリ五輪に向け人工知能(AI)を搭載した監視カメラの街頭での設置を認める法案が議会を通過。AIによる大規模監視カメラの導入が法的に認められることに。また、フランス軍15,000人、数万人の警察官と民間警備員を投入した大規模警備体制が敷かれることが明らかになった。
ホームレスの人々に対する立ち退き、セーヌ川沿いの古書店に対する立ち退き、学生たちに対する立ち退きも起こっている。
また、パリ五輪のサーフィン会場はなんとパリから1万5000キロも離れたタヒチ。地元住民の反対にも関わらず競技判定用タワーが建設され、サンゴが破壊されているという。
汚職、立ち退き、過剰警備、自然破壊、オリンピックは世界中で同じ災厄をもたらし続けている!廃止だ廃止!
8 パリ、フレンチアルプスで活発化する抗議行動
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2024年夏季五輪が迫るパリ、2030年冬季五輪の最優先候補都市とされてしまったフレンチ・アルプスでは、2023年、活発な抗議行動が取り組まれてきた。
12月2日にはフランス全土で2024年夏季五輪と2030年冬季五輪の両方に反対する抗議が行われた。
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9 2026年冬季五輪開催都市ミラノ、コルティナ・ダンペッツォでも反対運動。ボブスレートラック建設阻止?
2026年冬季五輪開催予定都市、ミラノ、コルティナ・ダンペッツォでも五輪反対運動が活発化している。8月には、ボブスレートラック建設のために自然破壊が行われることに対して抗議行動が取り組まれた。樹齢数十年のカラマツ、モミ、マツの木300本以上が伐採されるという。
しかし、コルティナでのボブスレートラック建設にはIOCが建設費の問題などで難色を示しており、国外での競技実施の可能性があるとのこと。
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10 続くガザ虐殺。「平和の祭典」の欺瞞。
イスラエルのガザ攻撃を止められない中、国連総会で、パリ大会中の「休戦の呼びかけ」が決議された。「平和に貢献するオリパラ」を演出するだけの茶番は、真の解決への努力をバカにしているかのようだ。
<番外編>
・オリンピックは終っても、まだまだ続くメガイベント
2030年・34年札幌五輪招致は阻止されたが、日本国内だけでも今後数多くのメガイベントが予定されている。メガイベントの際は、五輪のとき同様、公費の無駄遣い、汚職や談合、立ち退き、監視強化、自然破壊、ナショナリズムの称揚など様々な問題が起こる。
・2025年4~10日 大阪・関西万博(大阪)
→署名活動など反対の声が湧きおこっている。https://www.tokyo-np.co.jp/article/289081
・2025年8~9月 世界陸上(東京)
・2025年11月 デフリンピック(東京)
・2026年9~10月 アジア競技大会(名古屋)
・2027年3月~9日 横浜国際園芸博覧会(神奈川)
→計画の見直しを求める署名が呼びかけられている。https://chng.it/gBgrBwzLGX
※このほかにIOCが2026年オリンピックeスポーツ競技大会の開発を発表し、日本に開催を打診しているとの報あり。https://t.co/zRMtA6INWw
・世界中で続くオリンピック災害 2036年夏季五輪
現在、夏季五輪は2024年パリ(仏)、2028年LA(米)、2032年ブリズベン(豪)が開催予定都市として決定しており、反対運動も取り組まれている(ブリズベンは未確認)。そして、東京の惨状を目の当たりにした私たちにはとても信じがたいことだが、2036年夏季五輪招致を目指す国々も既に多々ある。一日も早い五輪廃絶を実現するためにも、各都市の人々と連帯しともに反対の声を挙げていきたい。
招致活動を表明した国
・エジプト 
・ポーランド 
・トルコ 
・インドネシア 
・インド 
関心を寄せている国
・ドイツ 
・カタール 
・中国 
・韓国
・イギリス(ロンドン) 
※メキシコは招致を目指していたが断念。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/303267
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harvardwang · 9 months
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張秀亞
H:高中曾見張秀亞作家的散文集,讀來清爽,但是有種淡淡的哀愁,後來軍中文康書箱有張秀亞自選集,中午有空也會選看,另代表作牧羊女常被提起。資訊不足的時代,對作者像謎樣人物。後看介紹:「1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于���瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新聞記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。」有名而隱其名。2001年6月29日在美國去世。也算是對作家好奇的結束。20230915W5
張秀亞
翻譯員
張秀亞,臺灣知名女作家,河北滄縣人,聖名則濟利亞,筆名陳藍、張亞藍、心井等,北平輔仁大學西洋語文系學士、歷史研究所碩士。曾任靜宜大學、輔仁大學研究所教授。天主教南京教區主教于斌樞機之弟妹。創作風格新穎清麗,意境深遠,著作有詩、散文、小說、翻譯、藝術史等八十餘種,詩人瘂弦譽其為「美文大家」。 維基百科
出生資訊: 1919 年 9 月 16 日
逝世: 2001 年 6 月 29 日,美國
著作: 杏黃月/台灣當代著名作家代表作大系, 荷塘之憶, 張秀亞人生情感散文, 種花記
學歷: 天主教輔仁大學, Seton Hall University, 河北師範大學
生平
1919年出生於河北省滄縣,父張里鵬 (字雲鵬),母陳芹,排名么女。7歲隨全家遷居天津,入天津天主教貞淑小學,是張秀亞接近文學的開始。[4]9歲開始於報紙之兒童週刊發表作品。12歲考入河北省立第一女子師範學院(今天津藝術學院),同窗有日後的女作家羅蘭、王怡之。15歲在《益世報》的文學周刊分別發表詩作〈夏天的晚上〉、〈秋之夜〉。發表文章時,以「陳藍」的名字寫散文,以「張亞藍」的名字寫小說同書評,用本名「張秀亞」寫些小詩,經常發表園地有《益世報》、《國聞周報》、《大公報》。[5]17歲第一本短篇小說集《大龍河畔》於天津海風社出版,不數年便贏得「北方最年輕女作家」的美譽。[1]19歲考入北平輔仁大學中國文學系,次年轉入西洋語文學系,畢業後考入輔大研究所史學組,後任英文系講師。1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于若瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新聞記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。來台後不再以陳藍、張亞藍兩個筆名,但以「心井」在中央日報發表文章。[6]1949年,她的長詩〈她呵,我們的好母親〉獲婦聯會新詩首獎。1952年,以本名張秀亞出版在臺灣第一本散文集《三色堇》。[1]1958年任台中靜宜英專(今靜宜大學)教授,講授翻譯課程。1965年,輔仁大學在台復校後,回輔大任研究所教授講授英美文學與寫作。1973年受邀在美國新澤西州西東大學擔任講座。2001年6月29日在美國去世。[3]
創作經歷與著作
張秀亞早期詩、散文、小說三種文類並進,文風夢幻。四〇年代末來台後,人生歷練導致創作題材轉變,散文以婚姻與憶舊為創作主題,如《三色堇》、《牧羊女》、《凡妮的手冊》等。1957出版《湖上》時,張秀亞自言創作風格已有所轉變,五〇年代末期開始寫田園生活,以及種種質樸的人物素描,以平凡生活、瑣碎題材入文。七〇年代,由於經常應邀報章雜誌書寫專欄,抒情味稍轉淡,其散文加重了哲理性沉思、文學藝術評論及讀書心得,《人生小景》等內容夾敘夾議,展現其晚年人生哲學。八〇年代後因病痛及生活不便所苦,創作銳減。[7]張瑞芬將1973年出版的《水仙辭》、1979年出版的《湖水・秋橙》與六〇年代的《北窗下》並列為張氏散文技藝的三個高峰。[8]
而詩歌主題則大多歌詠自然,描寫花草風露、季節遞擅。對於大學時代寫的散文詩,張秀亞亦自評其創作初期風格是「多幻想,缺少著樂觀的情調以及現實主義的色彩」。[9]在小說創作上,短篇小說集〈在大龍河眸〉,在藝術上承襲京派的文學風格,以詩化的寫實技巧,描寫平民百姓的生活與北方風情。來臺後受吳爾芙等女性作家影響,《女兒行》等作品開始具實驗性的嘗試。[6]瘂弦在張秀亞全集總論中提到張秀亞的小說「小説是『靜劇式』的,重視氛圍的『詩的小說』」。[1]
張秀亞自1934年起近七十年的創作生涯中,著作涵蓋論述、詩集、小說、散文、合集、全集、翻譯等,共計八十餘本。《張秀亞全集》於2005年,由國家臺灣文學館出版,共十五冊。
論述
《西洋藝術史綱》(11冊)雷文炳、張秀亞撰,臺中光啟出版社,(11冊)郵購出版社出版,1964年[註 1]
《給年青人》,香港山邊社,1981年11月
詩集
《青苔詩集》,天津出版,1937年
《水上琴聲》,彰化樂天出版社 1956年12月
《我的水墨小品》,臺北道聲出版社 1978年6月
《愛的又一日》,臺北光復書局 1987年4月
小說
《在大龍河畔》,天津天津北方文化流通社(海風叢書),1936年12月
《皈依》,山東保祿印書館,1941年1月
《幸福的泉源》,山東保祿印書館,1941年10月
《珂蘿佐女神》,重慶紅藍出版社,1944年10月
《尋夢草》,臺灣商務印書館,1953年9月
《七弦琴》,高雄大業書店,1954年1月
《感情的花朵》,臺北文壇社,1956年1月
《女兒行》,臺中光啟出版社,1958年8月
《那飄去的雲》,臺北三民書局,1969年7月
散文
《三色堇》,臺北重光文藝出版社,1952年6月
《牧羊女》,臺北虹橋書店,1953年8月
《凡妮的手冊》,高雄大業書店,1955年3月
《懷念》,高雄大業書店,1955年10月
《湖上》,臺中光啟出版社,1957年3月
《愛琳的日記》,臺北三民書局,1958年5月
《少女的書》,臺北婦女月刊社,1961年8月
《兩個聖誕節》,臺中光啟出版社,1961年10月
《北窗下》,臺中光啟出版社,1962年5月
《張秀亞散文集》,高雄大業書店,1964年
《張秀亞選集》,高雄大業書店,1964年8月
《曼陀羅》,臺中光啟出版社,1965年5月
《我與文學》,臺北三民書局,1966年12月
《心寄何處》,臺中光啟出版社,1969年9月
《書房一角》,臺中光啟出版社,1970年6月
《水仙辭》,臺北三民書局,1973年2月
《天香庭院》,臺北先知出版社,1973年7月
《人生小景》,臺北水芙蓉出版社,1978年6月
《寫作是藝術》,臺北東大圖書公司,1978年8月
《詩人的小木屋》,臺中光啟出版社,1978年9月
《湖水.秋燈》,臺北九歌出版社,1979年7月
《石竹花的沈思》,臺北道聲出版社,1979年8月
《白鴿.紫丁花》,臺北九歌出版社,1981年7月
《海棠樹下小窗前》,香港星島出版社,1984年6月
《月依依》,北京人民日報出版社,1996年10月
《張秀亞人生情感散文》,長沙湖南文藝出版社,1998年9月
《與紫丁香有約》���臺北九歌出版社,2002年3月
合集
《張秀亞自選集》,臺北皇冠出版社,1971年11月
《秀亞自選集》,臺北黎明文化公司,1975年1月
《張秀亞選集》,香港文學研究社,1978年
《張秀亞作品選》,西安陝西人民出版社,1987年6月
《杏黃月》,武漢長江文藝出版社,1993年10月
《荷塘之憶》,西安陝西人民出版社,1998年5月
翻譯
《聖女之歌》(德)韋非爾撰,張秀亞譯,香港新生出版,1952年[註 2]
《心曲笛韻》郝思蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1959年[註 3]
《恨與愛》莫瑞亞珂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1960年[註 4]
《回憶錄》德蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 5]
《改造世界》凱樂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 6]
《在華五十年》(陶明修女的傳記)巴任撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1971年[註 7]
《論藝術》凱瑟等撰,張秀亞譯,臺北大地出版社,1972年
《自己的屋子》吳爾芙撰,張秀亞譯,臺北純文學出版社,1973年[註 8]
全集
《張秀亞全集1詩卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集2散文卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集3散文卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集4散文卷三》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集5散文卷四》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集6散文卷五》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集7散文卷六》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集8散文卷七》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集9散文卷八》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集10小說卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集11小說卷二》,張秀亞 國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集12翻譯卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集13翻譯卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集14藝術卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集15資料卷》,國家臺灣文學館,2005年3月 全集
評價及影響
文學評論者對張秀雅的評價,除了她作為女性文學的重要推手外,常以美文與富含鄉土色彩談論其作品,例如詩人瘂弦稱其為「美文大師」,在《張秀雅全集》的總論中提到:「張秀亞在無意識下所反映出的女性心靈世界,在今天看來特別具有前瞻意義,這樣的探索,不但使在一個女性較多的環境中成長的她,找到屬於自己藝術的驅動力,而寫女性、表現女性、創造女性文學,也成為她一生的抱負與職志。」並提及「在臺灣婦女寫作運動中,張秀亞無疑是一位重要的燃燈者。她的寫作活動,一直與婦女文運的脈搏緊密相扣,起著導引與示範的作用。」[1]同時瘂弦認為張秀亞是一位充滿鄉土色彩的藝術家:「為農業時期與工業時期交替的台灣,畫了一幅幅美麗的畫像。那是台灣的黃金時代,如果有人問我們台灣的社會還沒變複雜、混亂之前,台灣人想些什麼,它們的夢是什麼顏色,讀一讀張秀亞的散文就知道了。⋯⋯張秀亞作品體現了那個時代,她的散文,是台灣永遠的田園詩歌。」[3]
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keenywong · 1 year
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作家曹長青先生三年多以前發表文章,題為《中國成立以來殺人記錄——不能忘記,不能饒恕》。曹長青先生通過各方資料的匯集和自己的研究,認為中共建政以來非正常死亡人數可能多達八千萬。曹長青先生這裡所說的非正常死亡,沒有包括至少多達三億六千萬在強制計劃生育中被虐殺的胎兒和嬰兒。
以下請聽幾位研究者分別就他們的研究範圍,談談這69年裡的一些非正常死亡。
*阮銘:“三年大饑荒”和“文革”是毛澤東生前對老百姓損害最大的時期*
曾經參與起草《中共十一屆三中全會公報》的原中共中央黨校理論研究室副主任、後在台灣淡江大學任教的美國普林斯頓中國學社研究員阮銘先生接受我採訪時談到,毛澤東時代“大躍進”、“三年大饑荒”和“文化大革命”對老百姓的損害和其間的非正常死亡。
阮銘:“毛澤東生平對老百姓損害最大的,一個就是'三年大饑荒',一個就是'文化大革命',在歷史上是不可以原諒的。
這樣的'文化大革命'不但犧牲了許多共產黨的干部,實際上犧牲更多的是老百姓,特別是1968年的武鬥,犧牲了多少老百姓! '大饑荒'主要是餓死人,三分天災七分人禍。人禍中最根本的就是毛澤東的'大躍進',到現在, 統計數字中共也沒有公佈,現在估計有兩、三千萬人,當然也有估計到四千多萬的。” *丁抒:“大躍進”的“大饑荒”究竟餓死多少人,難以準確計算*
在美國一所大學任教授的中國當代史研究專家、著有《陽謀》和《人禍》兩部書的丁抒博士公佈了有關“大躍進”、“大饑荒”期間中國大陸餓死人數的研究報告。 丁抒:“'大躍進'期間中國究竟餓死了多少人,真實的死亡人數很難準確計算,因為當時在死亡數字上弄虛作假是普遍現象。那時候,河北省張家口地委第一書記胡開明,每天早晨第一件事就是詢問本地區死人的情況。下屬向他請示'餓死人的數字是不是可以少報一點?'原因是有的地方死了人不報告,結果不但受到了上邊的表揚,而且死人的那份口糧還可以繼續領,這叫吃空額。而張家口報一個死亡,減一份口糧,報一次死亡,受一次批評,因而各省上報國家統計局的死亡數字,已經是縮了水的。 當時擔任國家統計局局長的賈啟允說:'全國各級統計部門都在各級黨政機關領導下工作,統計數字直接受到各級黨政領導人主觀隨意性影響,計劃部門可以修改統計數字,統計數字很難搞得準確。由此可見,全國各地真實的死亡人數很難準確計算。'” *丁抒:幾個餓死人較多的省份、地區* 安徽省—— 丁抒教授談到當時幾個餓死人較多的省份。
丁抒:“安徽作家張萬舒曾經這樣記述'一九六零年,雖然風調雨順,由於生產力受到嚴重摧殘,田園荒蕪,大批人口外逃死亡。據定遠、鳳陽、嘉山三個縣1961年的統計,共減少了四十多萬人。' 1990年中國農業部政策法規司司長郭書田說:'根據我們八十年代初考察過的安徽鳳陽等縣的情況,當時餓死的人大約佔全縣總人數四分之一左右,即有近十萬人餓死在那場人為的饑饉中。其中有一個人民公社,每三個人死了兩個。' 1958年9月,毛澤東視察安徽的時候,曾經對無為縣最早實行'供給制'大加誇獎,可是就在一年以後,無為縣竟成了人間地獄,該縣餓死約二十萬人。 《儒林外史》的作者吳敬梓的老家全椒縣,1960年人口非正常死亡四萬餘人,每六個人中就死了一個。
北京大學現在一位教授當時在全椒中學讀書,1995年他對友人回憶道'我1960年上初中時,是在縣城上學,每月有三十斤口糧,而我的養父母在我上初中時都餓死了。我家所在的村是個大村,村里至少餓死了三分之一。我的同齡夥伴,沒(在縣城)上學的,差不多都不在了。' 這裡要說明一下,當時,凡是在縣城裡上中學的,都有定量口糧,所以餓不死,而沒有上學在村里的,差不多都餓死了。
這位教授還說'我上中學的時候,路邊全是死人,有的還有氣,沒人管,有的村人都死光了。'” 甘肅省—— 丁抒:“1986年時的中共甘肅省委第一書記李子奇說'三年困難時期,甘肅有很多人死於飢餓,主要集中在隴中地區。' 作家麥天樞在作了大量調查以後,得出結論說'隴中大饑饉餓死近百萬居民。'實際上,甘肅非正常死亡的下限是一百三十萬,接近二百萬。” 河南省、山東省——
丁抒:“當時,河南有幾個事件,其中最嚴重的是信陽事件。全國第一個人民公社出在信陽,餓死人信陽也是第一。信陽地區的非正常死亡數,如今官方公佈的是五十萬,但這與各縣分別披露的數字不符合。值得一提的是,中國第一個人民公社——河南遂平縣查岈山人民公社餓死了四千人。六個縣的非正常死亡人數接近五十萬人。而在信陽地區,這樣的縣、市還有九個。 1960年11月12日,副總理李先念和中南局第一書記陶鑄率領工作組到達信陽。調查五個月以後,陶鑄在一次講話中說'我看死亡數字就不要再統計下去了,已經一百多萬了。' 山東的情形與河南差不多,餓死人在二百五十萬到三百萬之間。” 貴州省——
丁抒博士的報告中說“被稱為革命聖地的遵義成了人間地獄。” 丁抒:“遵義是所謂革命聖地,以1935年1月中共在此地開會,毛澤東奪得領導權而聞名。但是,毛澤東革命成功十年以後,遵義地區卻成了人間地獄。農民成批成批的餓死,有的地方全家全家的死絕,成堆成堆地埋人。遵義縣僅僅在1960年內就死了七萬一千八百多人。 1960年春,貴州省檢察院將遵義分院報告的餓死人、人吃人的情況寫進簡報,向最高人民檢察院反映。省委一聽說,立即下令收回,可是晚了一步。所以北京還是知道了'遵義事件'。
四月間,中共中央監察委員會副書記帥孟奇曾經打電話,要貴州省委監委匯報遵義死人的情況。七月三日,省委書記李景膺向國務院副總理譚震林匯報遵義事件說,遵義地委存在著嚴重的官僚主義。可是,當李景膺親自去遵義處理'遵義事件'時,只是將幾個縣委書記撤職了事,而將遵義黨委書記李蘇波上調到省裡,當了省計委副主任。” 四川省——
丁抒:“'天府之國'四川死人最多。四川是'大躍進'人禍危害最烈、災難最嚴重的省份之一。 1958年3月21日,毛澤東在成都主持會議、發動'大躍進'的時候,曾經興致勃勃地驅車到蓮花村和都江堰參觀,感嘆道'灌縣是個好地方嘛,山清水秀呦'。拜都江堰所賜,灌縣兩千年來一直旱澇保收,就在這個從來不曾被饑饉光顧的好地方,四萬人餓死,成了'大躍進'的犧牲品。 1958年3月16日,毛澤東曾經視察過郫縣紅光合作社。'紅光社,開紅花,毛主席到了我們的家...'這是當時郫縣乃至全四川的學童都得會背誦的歌謠。可是兩年以後,就是這個紅光社,人口竟減少了一千二百四十五人!佔該社人口的百分之三十一。多少唱過《毛主席到了我們家》的學童,成了毛澤東人禍的犧牲品,活活被餓死! 1959年曾經宣布糧食要平均畝產萬斤的富順縣,餓死十萬餘人,每七個人中就死了一個。長江三峽以巫山神女聞名的巫山縣,每六個半人裡就餓死一個人。大邑縣死亡率更高,每五個人裡就死了一個。四川榮縣六十萬人口,有四分之一餓死在那場空前的大饑荒中... 全國的人口,四川第一,非正常死亡人口遠遠超過任何一個省份。整個'大躍進'期間,四川餓死的人數高達八百一十萬,每九個人裡就死了一個。” 廣西壯族自治區—— 
丁抒先生說,'魚米之鄉'一樣餓死人。他以1958年曾經放出'水稻畝產十三萬斤'的全國頭號'高產衛星'的環江縣為例。
丁抒:“環江縣1960年餓死了三萬人,不少人家絕戶,不少村莊絕村。最後居然出現活人吃死人,活人吃活人的事件,甚至在街上有人公開擺賣人肉!” 江蘇省—— 丁抒:“從南京往南不到一百公里,在石臼湖與固城湖之間,有個很富庶的高淳縣。從1959年上半年起,高淳就已發生了嚴重的餓死人事件,省公安廳廳長洪沛霖親自赴高澄調查後,回到南京談起高淳的情況說'農民一家家死亡,有的村莊人都死得差不多了,還剩幾個人,何等慘哪!' 長江北邊的江都縣,這個富庶的水鄉,三年間餓死了三萬八千四百人。江蘇北面的高郵縣,餓死了三萬七千多人,其中一萬七千多是兒童。全國到處餓死人,哪個省都不例外。” 黑龍江省——
丁抒:“地廣人稀的糧倉黑龍江省,當時的所謂'右傾機會主義分子'、原水電部副部長李銳,在虎林縣興華村勞動。據他回憶,1960年秋收前後,村中就開始死人。他說'有一個同我一起駕牛車拉草回來的老漢,第二天沒有起來,躺在炕上走了。有一個同我很談得來的老頭,去世前只說'我想喝一碗稠稀飯'。1961年年初,我離開興華村時,村中已經餓死了二、三十人。' 北京通縣—— 丁抒:”偉大領袖所在的北京也不例外,郊區農民是被犧牲的一群。從天安門前的長安街向東,出了城就是通縣,縣委第一書記劉柘事後這樣承認說'當時,通縣的大鎮永樂店有'三多',墳頭多,墳上白紙錢多,穿白鞋的多。'” *丁抒:引用歷年學者公佈的數字*
丁抒:“首次提及大饑荒的'非正常死亡數字'的是叢進的《曲折發展的歲月》一書。他說當時'非正常死亡和減少出生的人口數在四千萬人左右'。 1993年,上海大學社會學系辦的學術刊物《社會》刊登了一篇金輝的《三年自然災害備忘錄》,公佈了他以中國國家統計局發布的數字為依據分析的結果——'僅僅中國農村的非正常死亡數就可能達四千零四十萬人'。 1996年英國記者貝克出版的《餓鬼》這本書裡說,中國當時'至少有三千萬人飢餓致死'。 我又根據中國政府新公佈的人口統計數字,重新作了計算,我得出的結論是,中國在'三年大饑荒'中至少餓死了三千萬人。” *丁抒:文革“紅色恐怖”,死亡人數最集中的第一個時期*
丁抒博士說到“文革”中的非正常死亡者。
丁抒:“'文革'中死人有幾個高潮。第一個高潮是1966年的'紅色恐怖',從六月到八月那一段,伴隨著抄家的是拷打,進而殺戮以'黑五類'分子為主的牛鬼蛇神。在中國大地上,從來不曾有那麼多人在那麼短暫的時期內,死於最古老的刑具——棍棒和皮帶。全國在這場'紅色恐怖'中被殺的,應該不下十萬人。” *丁抒:中國史、世界史上空前的自殺高峰*
丁抒:“更多的人自殺了。在中國,甚至世界歷史上,還從不曾有過如此多的人在那麼大的範圍內,用那麼多的法子結束自己的生命。 8月24日,作家老舍在(北京)太平湖投水自殺。接著,許多人選擇在太平湖了結了自己。短短的一個星期之內,有成十上百的人在這裡投湖。估計'文革'初期自殺的人數在十萬到二十萬之間。” *丁抒博士:“文革武鬥”是“文革”非正常死亡第二波高峰*
丁抒:“1967至1968年的'武鬥',是'文革'期間非正常死亡的第二波高峰。有的地方群眾組織之間的武鬥引起當地軍隊鎮壓,造成大批傷亡。武鬥需要武器,許多情況是在軍隊支持下明搶暗送,半送半奪,或者乾脆就開放兵器庫任意拿。 毛澤東、周恩來知道軍隊發槍支持武鬥—— 丁抒:“所以,毛澤東1872年6月28日,毛澤東會見斯里蘭卡總理班達拉奈克夫人的時候對客人解釋說'武鬥,兩邊都發槍,一共發了一百萬支槍吧。這一派軍隊支持這一派,那一派軍隊支持那一派,打。'。周恩來在旁邊解釋'名義是搶槍,實際上是發槍。' “文革”武鬥虐殺俘虜——
丁抒:“虐待俘虜是'文革'中武鬥的一大特色,武鬥中死亡者相當大一部分是被虐殺的戰俘。比如,河北雄縣三十八軍支持的那一派,動用大砲攻打對立面。攻克對方據點後,將婦孺用鐵絲串起來,男的穿肩胛骨,女的從肛門穿進,從陰戶穿出。遊街之後,全部槍殺。 陝西安康縣武鬥中,亂打亂殺俘虜二百八十六人,包括用長矛殺戮,用刀砍,用石頭砸,用槍打,以及絞死;還有讓被殺者背炸藥包、手榴彈自己炸死。安康縣甚至在一次審訊中活埋了十三個人。 武鬥使人變野,視人命如草芥——
武鬥使人變野,視人命如草芥。四川內江市竟然有人因為與人交換毛主席像章而發生爭執,拉響了一顆手榴彈,炸死二人,炸傷四十九人。
兩年多的武鬥期間,全國非正常死亡的人數應該在三十萬以上。” *丁抒博士:清理階級隊伍——文革中死人最多的時期*
全國兩千餘縣,平均每縣有一百人死於“清理階級隊伍”—— 丁抒:“1968年至1969年的'清理階級隊伍'是毛澤東和周恩來聯手'橫掃一切牛鬼蛇神'的高潮,是文革中死人最多的時期。全國兩千餘縣,一個縣平均有一百多人死於'清理階級隊伍'。在'清理階級隊伍'中有幾個大案子,每個案子都死了相當多的人。” 內蒙抓“內人黨”—— 丁抒:“1968年2月4日,康生指示在內蒙古抓'內人黨'(內蒙古人民黨),在整個內蒙古地區和內蒙古軍區有三十四萬六千餘人被審查,揪鬥和關押,其中四分之三是蒙古族人。因刑訊逼供而終身殘廢的多達八萬七千一百八十多人,被整死的有一萬六千二百二十二人。 江西省萬年縣“群眾專政指揮部”酷刑—— 丁抒:“按照毛澤東'專政是群眾專政'的指示,各地都層層建立了所謂'群眾專政指揮部'。以江西萬年縣為例,'群眾專政指揮部'所採用的刑罰種類有:捆綁、吊打、壓槓子、站凳頭、跪瓦片、坐老虎凳、坐噴氣式、銅鐵烙、灌吃大糞、開水澆頭、大熱天反穿羊皮大襖、太陽曝曬等數十種。 大黃公社一位女醫生被誣衊為現行反革命,被揪出來,用電觸奶頭、用開水澆陰道,當場昏死。 據縣公安局統計,全縣被打死和迫害致死的有二百一十四人。
在'清理階級隊伍'中被整死的人數多於武鬥和文革初期的'紅色恐怖'。粗略估計,死於'清理階級隊伍'中的人數應當在五十萬以上。” *丁抒博士“一打三反”——“文革”期間另一個死人高潮*
丁抒:“1970年代'一打三反'運動是另一個'文革'期間死人的高潮,是當局所謂'依法'槍決反革命分子的高潮,也是文革十年間官方殺人的集中期。所以,'文革'結束後,最高人民法院向中共中央報告說,1970年代'一打三反'運動中錯判死刑最為突出。寧夏錯殺的七十人中,一九七零年判處的就有六十八人。天津市錯殺的二十八人中,一九七零年判處的就有二十二人。” 槍決“反革命分子”之前使其發不出聲音—— 丁抒:“槍決'反革命分子'之前,使其發不出聲音的作法在全國大行其道。上海交響樂團指揮陸鴻恩因為塗寫《毛主席語錄》,在'一打三反'中被槍斃,在押往刑場前,他的喉管被割斷。 海南島白沙縣槍決女醫士官明華之前,用一節竹筒塞進她的嘴裡,穿上鐵絲,扎在腦後,使她發不出聲音來。當局在槍斃遼寧省女幹部張志新前,也割斷了她的喉管。 獄中晨四點拉鈴,放“樣板戲”,用手點人拉去殺—— 丁抒:“據被誣為'里通外國'的畫家韓美林回憶他當時在安徽淮南市,監獄中一殺人,就清晨四點鐘拉鈴,然後幾個高音喇叭同時播放樣板戲,凶神惡煞般的劊子手就進來拉人,(用手一個個點):'你!','你!','你!',而後是驚天動地人的哭叫,隨著是一陣懾人魂魄的槍聲。” 文革期間三場運動非正常死亡數在十萬至二十萬之間—— 丁抒:“'清理階級隊伍'、'一打三反'和'清查五一六'這三場運動,一個連著一個,幾十萬無辜的干部、群眾被打成'叛徒'、'特務'、'現行反革命'和'五.一六份子',成千上萬人被致傷、致殘、致死。這場運動的'非正常死亡數'也應當在十萬至二十萬之間。 以上談的僅僅是'文革'中幾個大事件的非正常死亡,概而論之,'文革'中非正常死亡人數至少在二百萬,或許高達三百萬。”
*陳光誠:數以億計在強制計劃生育中被虐殺的胎兒、嬰兒*
聽眾朋友!在以往談及中共建政以來非正常死亡的時候,很少談到那些因強制計劃生育而被虐殺的胎兒、嬰兒和連帶被波及失去生命的母親,或其他親人。
現在在美國天主教大學等機構從事研究工作的中國盲人人權活動人士陳光誠先生多年反對強制計劃生育,並且作過大量調查研究。
陳光誠先生說:“這個邪惡的反人類政策是從1979年開始,算起來有39年了。中共曾經通過衛計委有一個公開的說法,說他們這三十幾年的計劃生育在中國一共虐殺了三點六億多胎兒。這個數字當然是非常非常驚人的,在現實當中我相信數字遠遠比這個要大。因為有很多數字……因為這個政策死亡的都沒有被統計進去,這個(數字)只是被他們通過強制墮胎殺掉的這些孩子。”
*陳光誠:不被准許出生的生命和他們被株連戕害的親人們*
陳光誠:“事實上中共在執行這個邪惡政策的時候由於推行株連的政策,所以就導致了很多懷孕夫婦的親人也遭到株連,有些也就搭上命的,經常聽到。除此以外,中共在強制執行這個政策的過程中,有時也對懷孕的婦女……甚至她家裡的人……比如說,他要你去墮胎你不去,有的就開著拖車或者大型拖拉機,就把你的房子拴上鋼絲繩拉倒,在這個過程中,有的人為了保護自己的家,以為中共你總不能把我砸死在裡邊吧。但現實中還真就有這樣的事情,你不出來,中共他就把房子拉倒,家人就被砸死在房子裡……
像這樣的一些人的死亡,完全就不在共產黨公佈的這個數字裡。
還有的直接就去抓別人,抓她的親戚,'因為你的親人違反計劃生育,那我就把你也抓起來'。別人就覺得'你憑什麼抓我呀?這又不是我的事情!'然後就反抗,反抗過程中被中共整死的也時常會聽說。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺在母腹中生存三個月以內的胎兒*
陳光誠:“中共對自己統計的這超過三點六億孩子的虐殺方法,描述起來當然是非常殘忍的。
一般懷孕三個月以下的婦女被強制拖到'計生委'以後,就逼著她們簽署一份《知情同意決定書》。然後就通過一個專門墮胎的機器插到婦女的子宮裡把孩子攪碎,然後吸出來。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺已在母腹中生存三至六個月的胎兒*
陳光誠:“一般來說,超過三個月以上的孩子他們就採取一種叫'引產',就是打針。當然這個方法也有不一樣,有的是打催生針把孩子催下來,有的直接把毒藥打到孩子頭上,讓孩子在胎裡就死了,然後再生下來。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺在母腹中生存六個月以後離開母腹還活著的嬰兒*
陳光誠:“對於(懷孕月份)更大的,有一點不一樣。因為超過六個月的孩子一般都能活,有時就直接採取催生。催下來孩子還活著,醫院再採取手段把孩子殺掉。比如有的孩子生下來,醫生或護士不給把他嘴裡的東西清出來,然後裝到塑料袋裡把口系上悶死他。有的孩子生命力非常強,生下來你不給他清理,他自己也喘氣了,肺(的功能)也打開了。這個時候'計生'們就會採取一些……比如說,抓著孩子的頭,抓住孩子的身體一擰,把脖子擰斷了,孩子就死了。有的就頭朝下扔到一個水缸裡淹死。還有一個非常殘忍。事先弄一個小小的、淺淺的有點像盆子那樣的東西,裡邊放一些酒精,孩子如果比較大被催生下來還活著,就把孩子的臉、鼻子嘴往酒精裡一按,一下子就嗆死了,那是非常非常殘忍……”
*陳光誠:母親懷胎數月後,看一出生即被虐殺的孩子被擺在自己身邊的心痛*
陳光誠:“共產黨做這樣的事情,在這個過程當中已經……讓那些醫生護士殺人就覺得是很正常了。用他們的話說就是,'絕對不能讓孩子活著從醫院出去',這就是他們的'責任',如果有的人違反了這個,或者說沒有做好,那這個醫生或者護士受處分,這'資格'就保不住了。所以這個計劃生育辦公室對他們要求是非常非常嚴的。而且沒有《準生證》的人到那裡都不准接,大人小孩哪怕有危險你都不准接,那就讓他們等死吧。
這就是共產黨這樣一個殺人的政策,其實很多孩子的(母親)……我調查的時候她們描述,當時把孩子弄下來放在她的床邊,那種內心的痛苦,那種糾結是無法忍受的,而且看著那個孩子都長全了,身體……頭髮都有了,唉呀!……後來共產黨在我們調查以後,我把她的資料拿過來準備曝光的時候,共產黨又去找她'我給你多少錢,給你多少錢……你別再說了'你說'這個事是假的'。或者'我再給你多少錢,你就說這些事都是假的,是陳光誠自己編出來的,他教給我這樣說的'。但是人家老百姓並沒有按照共產黨的做法去做。人家覺得那樣做與天理不符吧。”
*陳光誠:那用水桶挑的和用卡車拉的…… *
陳光誠:“這樣悲慘的事情在當時是非常多的,而且有人給我描述。我聽到這麼兩個描述——
第一個是在醫院後面……是我們村書記告訴我的,說他去看一個……當時1980年代最瘋狂的時候,把婦女抓去醫院完全住不下,整個走廊裡靠一邊全都搭上長長的鋪,(這個我去過、見過)。人都住在那裡,住不下了。他說他看��被流產的人就轉到醫院後面,看到後面……用他的話說就是,小死孩呀,大的小的;長鼻子的,沒長鼻子的;長耳朵的,沒長耳朵的,各種各樣的,就堆在那裡。從附近村子裡僱一個老頭,挑著兩個桶,拿這個鐵鍬把這些孩子都鋤起來,扔到桶裡,然後用鐵鍬往下拍拍,拍滿了就挑到某個地方去處理掉。
他說,看到這這些以後,他就覺得'什麼人命關天',什么生命不生命……
後來我在調查的時候,郯城有一個人就告訴我說,實際上在臨沂因為這個階段那麼厲害……墮胎的這些孩子就用卡車往外拉,不再用人挑了。”
*陳光誠:”人命關天”理念被顛覆,社會老齡化、獨子、失獨……幾十年難恢復正常*
陳光誠:“ 總之這些都是非常慘無人道的,給中國造成了嚴重的後果。最嚴重的後果就是中國現在由於這個政策的執行,讓人幾千年來根深蒂固的'人命關天'的理念被全部顛覆了。原來覺得,殺人還了得?出人命還了得?現在就無所謂了。對人的生命的尊重基本上在社會上就喪失了。
當然社會上其它的問題也相應的就都出來了。比如,社會老齡化啊,獨子的問題啊,失獨家庭的問題啊……都紛紛湧現出來。我覺得代價可能以後要花幾十年甚至更長的時間……在中共被掃進歷史垃圾堆以後,能夠恢復就不錯了。”
*天下興亡多少事,炎黃子孫志未酬*
聽眾朋友!在中華人民共和國成立69週年的時候,回顧中國人民走過的道路,看國人今天的處境,觀世界民主潮流浩浩蕩盪,長江黃河之水千迴百轉終歸匯入浩瀚的海洋。此時此刻,很想和聽眾朋友一起聽一段由蘇叔陽作詞,王立平作曲,廖昌永先生演唱的歌曲《江河萬古流》。
(演唱錄音選段)
“長江流,黃河流, 滔滔歲月無盡頭。 天下興亡多少事, 茫茫我神州。 情悠悠,思悠悠, 炎黃子孫志未酬。 中華自有雄魂在, 江河萬古流……”
*主持人張敏致每一位聽眾的深摯感謝和衷心祝愿*
聽眾朋友!您現在收聽的是自由亞洲電台“心靈之旅”節目的最後一集,我是主持人張敏。
非常感謝聽眾朋友在漫長的二十年零兩個月時間裡,在有乾擾和“防火牆”時代,克服各種困難通過短波和網絡收聽節目,給予我鼓勵和支持。
更感謝每一位受訪者,尤其是牆內的受訪者,冒著風險、承受壓力,講述自己的人生故事,說出當下事件的真相……在此請接受我深摯的感謝!
願已經播出的“心靈之旅”節目和文字稿借助網絡多種平台的傳播和保存方式,成為留給歷史的一份特定時代的證詞。
願中國的新聞自由和憲政民主早日實現!
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yurina17tam · 1 year
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2021~2022
サボってた間の供養
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本西彩希帆 「1対1オンラインお話会」 2022.12.17
新選組展2022
三渓園 2022.04.09
足利学校 2022.02.22
「戦国武将 足利長尾の武と美」 2022.02.2
石川県立歴史博物館 2022.02.15
兼六園 2022.02.15
寺島蔵人邸 2022.02.16
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壬生塚
永観堂禅林寺
瑠璃光院
旧三井家下鴨別邸
元興寺
北野天満宮 2021.07.31
大覚寺 2021.07.31
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第46回今日の夏の旅両社寺の歴史と兄弟刀「伝説を纏う髭切と膝丸」
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東京国立博物館創立150周年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」 2022.11.12
特別展 独眼竜 伊達政宗
薩摩伝承館
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iseilio-blog · 2 years
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雁 寺
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雁 寺
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以描繪鳥獸而在京都畫廊享有名聲的 岸本南嶽 死在 丸太町 東洞院
一角為黑色板屏圍著的屋宇後面房間 是在昭和八年的秋天。
年老,加上氣喘的老毛病,如同蚱蜢一般消瘦的 南嶽 晚年可以說是
只靠著意志而存活著。就弟子們口中的說法,死的時候就如同一顆
蟲蛀的朽木,就可以知道生前精力旺盛,玩女人不輸人。在一整個
晝夜的鼾聲中,最後到底咽喉來不及吸氣而死。南嶽享年六十八。 岸本南嶽 死前一日、正確的說,是十月十九日。就剛好夫人的 秀子
不在,衣笠山麓 孤峰庵 的住持 北見慈海 到訪。和尚的頸子繞著白
裐布的護襟,穿著黑袍,大概是在那裡做了法事的回程
「怎麼樣,狀況如何?」
慈海和尚一面向出到玄關,不頂熟的女傭如雷灌頂一般的說著,
不客氣的走了進去。就這個時候,後面站著一個不到十二三歲,
矮小的小沙彌。這個小沙彌也跟了上來。 岸本家,幾代都是 孤峰庵 的護持。
湖北の紅葉めぐり 小堀遠州のゆかりの寺 近江孤蓬庵 - YouTube
也曾經擔任 名譽總代,所以和尚這樣大剌剌的進到裡間,倒也不是
怎麼不可思議。一直就坐在枕頭邊,用棉花水沾著唇的弟子 井南窗
有點不高興。師父氣息疲弱,醫生也不看好。這時,也正好菩提寺的
和尚來訪。大家面無表情的望著 南窗。女傭下到走廊去拿茶菓,無視
於弟子們的臉色, 南窗 走近了枕頭邊,望著 南嶽 的臉、
「怎麼樣,狀況如何 ?」
聲音高亢衝到了不高的天花板,回到了南嶽的��邊,閉著眼的南嶽
微張著眼 ;
「和尚阿 . . 」
辛苦而斷續的出了聲。
這讓在一旁的弟子們吃了一驚。從一早,南窗 再怎麼叫著師父的
名字,南嶽就是不出聲。而現在南嶽卻乾渴著嘴用沙啞的聲音
說到。
「就想到會來」
「討厭的角色」
和尚低著肩膀望著南嶽的臉,
「我倒沒有想到只有你歡迎我」
說完,望向坐在這十疊大的南窗與三名弟子,不在意的笑著。
笑著,一說完就招來從剛剛就一直站在房緣看著石燈籠的小沙彌。
「喂,慈念」
小沙彌回首望向房間,剃光頭,頭大如鉢,顯得顯眼的孩子。前額
突出,眼睛下陷,臉看起來就窄小。
「過來一下」
慈海招著手。小沙彌靜靜的走了過來。
「叫做 慈念。昨日完成了得度式。庭院也掃得很乾淨。有空要到
寺院來玩。」
這是培育侍者的一種招呼方式。南窗 望著光頭的大頭小沙彌的
側臉。也真是怎的找來了一個陰氣的小和尚了。小沙彌一旦舉行了
得度式之後,這是檀家(施主)的例行工作。 和尚終於從枕邊回頭,走向房緣;這時南嶽仍舊用著那沙啞的聲音
「和尚,還一件事拜託。那是孤峰的女兒。」
一說完,閉上了眼。好像說了不應該說的話,南嶽 開始咳嗽。南窗
走了過來,用棉花沾溼著嘴唇。
「要多保重 !」
只有四、五分鐘的對話。慈海 摸摸小沙彌的頭,離開了岸本的家。 隔天,南嶽一句話也沒有說,一樣用乾渴的嘴沙啞的聲音說話。
喉嚨辛苦的咳嗽,卻又忽然停止呼吸張開著嘴,像是有什麼話
要說。弟子們附耳傾聽,只聽到似乎是說「里 . .」 弟子們望著夫人的 秀子,秀子掩著臉,開始啜泣著。 南嶽在死時託付的 里 . . ,指的就是 桐原里子、南嶽 在上京區
出町 的花店二樓包養的女人。南嶽在 木屋町 小料理店看上,
是晚年的伴侶。弟子們、慈海和尚 都見過,也都知道。年三十二,
是個男人會喜歡、嬌小而可愛的樣子。為什麼 南嶽 會 將 里子
託付給 慈海 ?稍想一下倒也不是沒有道理。
健康時的 岸本南嶽,到過中國、歐洲旅行,而認真的大手筆就是
租來 孤峰庵 做事。似乎喜歡 衣笠山 一帶落葉樹林的寺院。
0091「衣笠山公園」「衣笠城趾」花見散歩 - YouTube
十多年前也曾經整個夏天住在這裡。那時帶來的就是 里子。 「這個涅,是我畫的雁」
帶著 里子,從孤峰庵倉庫的門板,本堂到迴廊,到處都畫著雁,
一路介紹著。 紙門上灑著金粉。粗大的松樹,枝葉覆蓋著水池。似針一般的
葉子,一枝枝明晰的畫著,雁群或者停留在枝上,或者拍打著雙翼
要振翅起飛。也有幼雁,張著嘴等待母雁餵食。畫家帶著滿腔熱情,
似乎可以聽見筆觸的聲音一隻一隻仔細的描繪,栩栩如生。
這是南嶽在那一年的兩年前,南嶽就是不去自誇也毫不遜色的傑作。
「我要是死了,這個雁的寺啊,洛西 就多了一個名勝。」
帶著酒氣的南嶽,撫摸著里子的頸子微笑著。
「好像可以聽到啼叫聲吧。」
里子在幽暗的本堂中恍惚的嘟噥著。南嶽一面笑著,一直撫弄著
里子的頸子。
死去的南嶽之所以將里子託付給慈海,是無法忘懷這個夏天的事吧。 其實,慈海三人常一起喝酒。慈海比南嶽年輕十歲,和南嶽一樣有著
精悍的身軀,與里子也很和得來。
「和尚,耳朵的毛也該拔一拔了吧。」
里子微張著醉眼說到,慈海眼裡閃著好色的笑看著兩人。慈海沒有
家室。里子常向南嶽說:
「和尚的眼可怕」
因為知道慈海喜歡自己。
慈海與南嶽喜歡女人、喜歡酒相當一致。南嶽似乎對慈海沒有妻室
感到不滿。孤峰庵的本山寺院對有女人早已是公開的事。倉庫後邊,
在那個寺院都藏著女人,南嶽也曾經說過,要好色的和尚守空房也
沒有道理。慈海痴痴的笑著。
「斷髮即斷根,不就是禪家剃度的旨趣嗎?」 初七那日,桐原里子穿著喪服,白嫩的手腕戴著褐色的瑪瑙數珠,
進入了孤峰庵的山門。陰天,有風。小松茂盛的衣笠山微冒著煙,
疏落的落葉樹葉,赤色的山嶺夾雜著日漸轉紅的楓樹。
孤峰庵山門旁有個上了鎖的小門。里子穿著草履進來。鐵鎖的聲音
打破了寂靜。出來應對的是慈念。如鉢的大頭與眼眶凹陷的小沙彌,
穿著青色線條的合襟服,跪在地板,背後是倉庫為煤煙燻黑的柱子,
看起來不很順眼的大人模樣。里子有點猶豫。
「去告訴和尚我來了」
里子站在踏石上說著
「是」
慈念下到隱寮下方,不久,聽到從迴廊後方疾步而來的腳步聲,
穿著白色合襟的慈海出來了。
「上來 上來」
里子懷念的看著和尚。福泰的里子一如往常的精神,面孔不太記得,
慈海很是高興,讓里子進到書院,那裡有著里子熟悉的屋子。南嶽
已經在這裡辦完喪禮,是個可以看到山水景緻的屋子。
「和尚,好久不見。」
里子沒有去參加南嶽的喪禮,就可以知道在花店二樓聽到了他的死,
也知道日程,卻一個人單獨悼念的原因了。
「有想早點來;和尚,讓我看看他那張畫。」
里子撒驕的多加了一句。
進到本堂,里子望著新的牌位,幾乎要難以呼吸。
【 秀嶽院南燈 一見居士 】
是慈海取的戒名。岸本南嶽現在凝縮成了不到一尺的短冊木板。
里子焚了香。十疊屋子裡邊,南嶽畫在隔板的雁,在白煙裊裊的
霧中,似乎要飛了起來。美麗的雁。里子忽然想到南嶽升天成佛
了嗎。 「來吧,去那邊,給妳很多藥酒。」
里子第一次進到了隱寮的六疊。那是慈海的房間。慈海摸了一下
小沙彌的下顎,向著里子說
「這是慈念,最近才得度。」
慈念彎腰敬了禮,匆匆就走掉了。 「在玄關第一次見到的時候,嚇了一跳,這孩子有點怪 . . . . . 
幾歲 ?」
「十三了」
「嗯, 學校呢 ?」
「大德寺的中學。」
「接你的棒 ?」
慈海只看了一下里子的臉,沒吭聲。站在佛壇下,打開櫃子站著。
有幾瓶酒,拿出了澤鶴。
澤之鶴資料館 | 酒廠 | Sake of Nadagogo (hanshin.co.jp)
「今天開這個。」
說完,慈念出現了。
「去溫熱一些。」
慈念拿著酒就跑開了。不像外表,很勤快的孩子;里子想到。飯
準備好了,拿來了酒瓶、酒杯。里子第一次見到慈念覺得不太習慣,
不過看慣了,覺得頭大了些的這個孩子怪可憐的。
「很勤勞,有這個小沙彌很不錯。」
醉了起來,里子向慈海說到。
有一陣子沒喝了,醉意來得快。夜晚了。常常加入南嶽三人喝到
天亮。
「南嶽有拜託我喔。」
慈海這麼說著的時候,里子看到慈海那明亮的眼
「你來照護就不錯 ;那個人知道我喜歡你。」
慈海坐靠近了些,好像在等待著下一句話。里子沒再說什麼。
靜默似乎反而給了慈海出手的時間。踢開了坐墊,慈海的唇付了
上來,里子瞬間似乎也預期了這一天的到來,沒有抵抗。和尚精悍
的身軀終於插開了衣裾。里子咪著眼,忽然看到門窗外有什麼影子
動了一下,里子嚇了一跳。
好像是慈念,不過又好像什麼也不是。里子意識模糊了起來,身體
被和尚吸了進去。
「可以嗎 ?」
慈海一面喘息問了好幾次。臉貼住塌褟米,散亂的頭髮,里子幾度
瘋狂,終於昇抵了億劫。 就這日的隔天,桐原里子 住進 孤峰庵 的倉庫。 桐原里子 之所以成為孤峰庵的女人有幾個原因。首先是經濟。
南嶽死後,里子必需再找自活的生路。里子從岸本家,一文錢也
沒拿到。夫人也看不出來有那樣的同情心,當然也沒有分手費。
死後才知道,南嶽留下不少欠債。夫人費盡了力,也才留下來
丸太町的房子。里子想要出去工作,年紀過了三十,也只有料理店
的服務生。超過三十,要回到從前一般的辛勞,真的是億劫,也感到
厭倦。回到老巢,也會被老同事笑。
所以孤峰庵對里子來說,絕對不是不好的地方,不但是本山燈派的
特別處所,壇家也很多。成了慈海的妻子的話,就不怕餓肚子,
尤其寺院裡有種柿子、枇杷等果樹。 還有,本堂裡面有南嶽畫的雁。 十年 - 與南嶽一起過日子的里子,似乎對孤峰庵有著與對南嶽
相同的愛戀。現在想起來,畫了雁,卻有對慈海分文未取的南嶽,
是否有在死後交託給慈海呢。如果是這樣,里子也會把這個寺院
當成了最後的家。
慈海不像禪宗和尚一般的面容,稚氣的笑容也是里子喜歡的地方。 「受了南嶽委託,. . . . .」
慈海說著,靠了過來,里子心中混雜著既歡喜與悲傷,膝蓋僵硬
了起來。不過就在身子要鬆軟下來的時候,窗外的那個影子是
什麼呢 ?或許是慈念。大頭的小沙彌從門窗的那邊消失,里子的
醉意醒了。 (清規戒律的寺院裡男女的愛與慾。P . 20/P . 110)
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kachoushi · 2 years
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各地句会報
花鳥誌 令和4年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年6月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
愛猫の裏声しきり猫の恋 喜代子 吾が枕かすかに匂ふ梅雨の夜 都 忘られぬ都忘れの名も色も 同 君待ちていつもの位置に置く円座 同 夏至の日の夕日急がず海に落つ 同 雨上る藍より青き四葩かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
老頭児の浜灼けさらし雲の峰 順子 サンドレスのボタン外して眠りをり 和子 又ひとつ汽笛と薔薇の香を混ぜて 三郎 海風に揺れて売らるるあつぱつぱ 光子 夏暖炉婦人の長き留守を待つ 慶月 又違ふ汐風と薔薇の香りと 三郎 もう薔薇は厭きたと銀髪の女 千種 開港の跡ことごとく薔薇として 同 ロザリオを石のクルスに掛くる夏 炳子
岡田順子選 特選句
枇杷のなるフランス軍の駐屯地 きみよ 又ひとつ汽笛と薔薇の香を混ぜて 三郎 丸窓を過ぎるマダムの夏帽子 眞理子 乳母車より乗り出してあぢさゐへ 光子 十字架と昼を沈めて夏の蝶 和子 麦秋の港から来る貨物船 いづみ 海風を拾ひ歩きの夏帽子 はるか 開港の跡ことごとく薔薇として 千種 潮の香も薔薇の香もある司祭館 炳子 客死せりそよぐバナナの葉の下に いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
鯉幟降ろされ空は日常に 佐代子 久々に人の気配や四葩咲く 益恵 漁期終り蜑六月の浜に立つ すみ子 青嵐一往復に果つ鉄路 益恵 若きらは羽化登仙に夏の町 悦子 骨酒となりて香の立つ岩魚かな 宇太郎 沼に立つ青鷺衛士の貌をして 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
梅雨蝶の低くころがるやうに飛び 秋尚 十薬の花の展ごり年尾句碑 美枝子 天辺から影の崩るる栗の花 秋尚 紫陽花や湿りを帯びし杖の音 三無 やとの風静かに流る菖蒲園 瑞枝 梅雨曇陽子の墓所に赤き供花 亜栄子 河鹿鳴く信濃の里の蒼き夜 美枝子 錆色に形とどめて朴の花 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
太陽の金色に燃え麦の秋 中山昭子 夏潮の深き浅きに海女の息 世詩明 麦秋や金の波打つ十町歩 英美子 耳すませ月下美人のひらく音 同 夏燕影を落とさぬ速さかな みす枝 神楽笛青田の波を操りて 時江 ひとところ湧くがごとくに蛍舞ふ 信子 気が付けば妻は近くに蛍の夜 三四郎 田植済み一村深き寝息かな みす枝 句友逝き麦秋の野の遺さるる 中山昭子 刻刻と力漲る植田かな みす枝 水現れて二つに割れて女滝かな さよ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
路地裏に古書店短夜のデジャヴ 登美子 十薬の花を巡りて隣家かな 紀子 赤い服着て子らの行く夏の森 あけみ 通院の道すがらとは薔薇に眼を 令子 薔薇園のアーチを出れば此岸なり 登美子 薔薇の園老い就く母を飲み込むる 同 薔薇園へ行きしアーチを潜りきし 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月15日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
夜には夜の風の匂ひや遠蛙 雪 はつきりと蛙となりし声に啼く 同 庭下駄に僅かな湿り梅雨の宿 千代子 時鳥雄島の森を鳴き交し 同 十字架の見えつづく道薔薇咲ける 令子 ジューンブライドも年かさね老いてゆく 同 藍深き防具の少年青嵐 笑子 寺の蟻行き着く先は経机 泰俊 放課後の曲は窓より万緑へ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
涼しさを木々が集めてゐる故山 かづを 日本海梅雨てふ黙のありにけり 同 靴脱ぎに僧の下駄ある走り梅雨 たいし 能面の深さ秘めたる梅雨の宿 同 涼しさは江戸の名残りの箱階段 千代子 観音は金色にして梅雨の中 和髙畑子 剣持ちと神の使ひの伊勢神楽 やす香 白きものばかり干されて夏に入る 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月17日 さきたま花鳥句会
片削ぎの武甲の嶺や夏霞 月惑 菖蒲田や八ッ橋傘を除け合ひて 一馬 五月雨や氷川の杜を浄めける 八草 ほむら立つ大地哀しき麦の秋 裕章 白絣母の遺品の鯨尺 とし江 白蓮と言へどほのかに紅を乗せ ふじ穂 水匂ふ闇をひきずり蛍狩 康子 水に映ゆ早苗見下ろす浅間山 恵美子 赤き薔薇ノスタルジーと名のありき ミトミ
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令和4年6月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
青蔦に窓を狭めて駐在所 斉 頂上に遺跡眠らせ夏木立 慶月 あどけなく谷戸の早苗のそよぎをり 幸風 悠然と闇ゆるがせて黒揚羽 軽象 古の山気を纏ひ黒揚羽 炳子 蟻行くや弥生時代と同じ道 佑天 釣鐘を五つぶら下げ茎傾ぐ 白陶 木下闇鎮もり眠る木霊達 眞理子 くるぶしを立ち上りくる草いきれ 千種 乗り換へし草のさ揺れやかたつむり 同
栗林圭魚選 特選句
蜘蛛の囲や無防備なりし腹見せて 亜栄子 十薬や森の􄼱間を埋め尽し 同 雨後の朝でで虫のそり弛むかな 同 しやぼん玉子等の高さに風集め 同 塗り残したるが気掛り半夏生 秋尚 緑陰に尺八びやうと流れをり 佑天 朝方の雨も上りて破れ傘 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月20日 萩花鳥句会
ホトトギス啼きし裏山雨後の夜 祐子 夢うつつ公金一獲明易し 健雄 夜通しの仕事となりし辣韮漬け 恒雄 梅雨寒や足元摩るひと夜かな ゆかり 坂道を蹴上がり来るや青嵐 陽子 地下足袋で踏んばる竿に鮎跳ねる 美恵子
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令和4年6月25日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
大緑蔭佇む人も青みたり 三無 公園の何処を歩すも涼風に 怜 雛鳥の如く口開けかき氷 史空 半夏生あふれて白き風光り ます江 見送りは紫陽花揺れる線路傍 エイ子 日に向かひ一途に咲くや苔の花 貴薫 緑陰や木々のざわめき鳥語落つ エイ子 紫陽花に圧倒されてしやがみても 和魚 一歩ごと紫陽花の色変りゆく ことこ 梅雨晴れや台地の風の心地良き エイ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
神池は母なる海へ蜻蛉生る 慶月 炎天へ神の鳩にはなれずして 順子 雅楽笛浮遊してゐる風死せり いづみ ぬつと黒く太く鳥居が茂より 和子 灼くる杜かの海鳴りのはるかより はるか 籐寝椅子かつては海の見えし部屋 要 短夜の狛犬の見た海の夢 いづみ 玉砕はこんな日かとも油照 慶月
岡田順子選 特選句
濠ひとつ蓮の樹海となりしかな 俊樹 弟も妹も亡く合歓の風 梓渕 ぬつと黒く太く鳥居が茂より 和子 枇杷落ちて錆びゐるままの男子校 要 短夜の狛犬の見た海の夢 いづみ 海千山千の漢汗ぬぐふ 政江 神池は母なる海へ蜻蛉生る 慶月
栗林圭魚選 特選句
アッパッパ気怠い午後の瞼なる 政江 灼くる杜かの海鳴りのはるかより はるか 白鯨のやうな雲ゆく日の盛り 順子 黒揚羽気怠き昼の残りけり 炳子 迷ひ出し土偶めきたるサングラス 順子 神池の石灼け鳩の足赤く 要 海千山千の漢汗ぬぐふ 政江 鮮らけく小雨に浮ぶ濃紫陽花 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月31日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
文机に古き艶書や多佳子の忌 一涓 江戸見遣る梅雨入も漂と佐内像 同 還俗の一人となりてサングラス 同 笠深く垂れて編笠百合となる 雪 芍薬の花の何処かにいつも蟻 同 昔から好きに生きてる単帯 昭上嶋子 蛍の灯恋の暗号送りをり みす枝 口閉ぢしままの狛犬苔の花 たゞし
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
暁に鳴るは鉄砲百合の花 成子 花楝仏心遠くけぶらせて 久美子 紙飛行機飛んで戻らぬ夏の海 ひとみ 少女らの腿でわけ入る青山河 佐和 海酸漿鳴らす少女の私へと ひとみ 白玉や雨の過ぎたる城下町 喜和 指鳴らす彼は嫌ひで空梅雨で 由紀子 乾坤の弾みさながら雨蛙 朝子 あめんぼの踏むは魔法の水ならん 睦古賀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
団子虫ころりころりと梅雨に入る 雪 此の辺りかつて洗ひ場初蛍 同 九頭竜の瀬に囮鮎てふ哀れ 清女 草や木も梅雨の暗雲塗りこめし 希 葭切の物申すかに急かしをり 笑
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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historysandwich · 2 years
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【常威近代史】(七百零三回)
最後一場冇理由要買熱門
1935年9月17號,正當張國燾(1897-1979)要脫離中共中央另起爐灶之際,紅軍攻佔岷山天險臘子口,打開咗北上進入陝甘地區嘅通道,25000里長征終於搵到終點。老實講,紅軍今次嘅長征,其實都係摸著石頭過河,遊擊戰略嘅重點,就係強大嘅運動性,你估我唔到我去邊?其實我自己都未知我去邊?真正嘅無從捉摸,係自己都未捉摸到自己嘅動向,要贏人,要先贏自己;要呃人,首先要呃自己。明就明,唔明都冇辦法。今個月10號,中共中央率領紅1方面軍嘅第1、第3軍團從班佑地區繼續北上,9月16號擊潰甘南魯大昌師第6團,進逼川、甘邊界要道臘子口。臘子口由國軍3個團據守,紅軍正面強攻,未能奏效。當晚,派出2個連攀登峽谷東側嘅懸崖峭壁,迂回到國軍側翼,今日破曉時份,紅軍先行部隊第4團同正面發起攻擊,配合側面攻勢,一舉擊潰國軍守兵,攻佔臘子口。
9月18號,秦皇島海關巡邏船被日本憲兵強行解除武裝,真係你鍾意點就點。同日,國民政府委派王正廷(1882-1961)為中華民國紅十字會總會會長。9月19號,蔣介石通電玉馮玉祥,邀請佢參加國民黨四屆六中全會,馮玉祥就提出抗日主張。今日,財政部決定明年元旦開徵所得稅。9月20號,中國法學會喺南京成立;9月22號,英國財政經濟顧問李滋羅斯(1887-1968)作為經濟特使,到中華民國訪問,幫助國民政府進行幣制大改革,之前已經提過佢,李滋羅斯係一個重量級經濟學家,亦都曾經插手調停中日紛爭,可惜佢並無成功到。
9月24號,天津日駐屯軍司令多田召集日本記者聚餐,即席派發《日本對華之基礎觀念》小冊子,公開鼓吹「華北自治」方案。喺本小冊子之內,宣稱日本應該「在兩國之間建立一個共存共榮的樂園,以推行日本帝國的對華政策」,而「華北正是上述對華政策最易並最速實施的地區」。多田又講「為把國民黨黨部及蔣介石政權從華北排除出去而使用武力,也是迫不得已的」,「當前亟需的,是對組織華北五省聯合自治體給予指導」。自《何梅協定》及《秦土協定》簽訂之後,日本分離華北嘅活動亦以其他方式同步進行,6月28號,民國關公吳佩孚(1874-1939)舊部白堅武(1880-1937)受天津日本浪人組織嘅「北支青年同盟會」收買,組織「正義自治軍」,自稱為總司令,率領烏合之眾300幾人襲擊豐臺車站,並且乘坐鐵甲車駛近北平永定門,向城內發炮,聲言要組織「華北國」,不過之後就被北平守軍擊潰。除咗白堅武之外,日本人仲策劃華北各省嘅當權人物脫離南京中央政府。土肥原賢二(1883-1948)、板垣征四郎(1885-1948)等人及其幕僚,對北平嘅宋哲元(1885-1940)、濟南嘅韓復榘(1890-1938)、太原嘅閻錫山(1883-1960)同保定嘅商震(1888-1978)等軍閥進行種種遊說工作,幸好上述四位,到咗最後都冇出賣中國,其中宋哲元曾經被土肥原說服過,逐漸向組織新政治組織方面靠攏,不過我諗其實佢都係唔鍾意蔣介石啫,或者對某啲軍閥嚟講,日本人同蔣介石兩個選擇,都未必係一個好嘅選擇,真係橫又死掂又死,睇下點樣死得靚仔啲啫!
當其時,偽滿洲國已經站穩陣腳,日本亦開始大規模殖民東北,如果華北地區再脫離南京中央政府,以不同政治形式獨立,以今日嘅中國版圖計算,蔣Sir係會失去半壁江山(整個北方),此消彼長,日本人十年八載後南下食埋你南京國民政府都似乎係必然結果!因此蔣Sir嘅選擇最後只有一個,就係同日本進行一場幾強弱懸殊嘅全面戰爭。情況可以比喻為,一日跑十場馬,買win跑第二,買place跑第四,輸到第九場,最後一場冇理由要買熱門,一定買隻大冷門博翻本,賭過錢嘅人會明白我講乜,橫死掂死,不如搏一鋪喇。不過歷史太喜歡同人開玩笑,大家都知道,蔣Sir係搏中咗99倍大冷門,最後打贏日本仔,不過去櫃位收錢嘅係中共啫。
9月26號,日本人限定北平民國學院學生10日內遷出校舍;同日,閻石山喺山西推行「土地村有」政策。9月27號,行政院下令,河北外交事件都歸該省政府處理;今日歐亞航空公司西安至成都線正式開航;9月30號,天津教育局規定,中小學課本中,凡有礙中日邦交嘅文字一律要刪除。今個月,日本喺天津設立貿易館,關東軍副參謀長板垣征四郎亦曾經到訪内蒙,同德王、索王見面,圖謀建立蒙古國;沙面美商美孚(美孚新村個美孚)、亞細亞等煤油公司,擅自喺市內建築油倉,設立契稅機關,令到廣東土產煤油業奄奄一息。今個月,舞蹈家吳曉邦(1906-1995)喺上海舉行個人舞蹈表演,係中國第一個個人舞蹈作品晚會,吳曉邦先後三次去日本學習芭蕾舞同現代舞,期望將西方舞蹈嘅精華注入中國古老嘅舞蹈傳統之中,剛柔兼備,作品《傀儡》、《送葬》、《浦江之夜》等彌漫住一種苦難同悲憫嘅氣氛,係國寶級大師級人馬。今個月,由王君綱編譯嘅《避孕新術》開始徵訂。
#常威💀 #蔣介石平反系列  #中日戰爭 #民國歷史 #佛經抄寫員
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c3oyama · 3 years
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5/4 #みどりの日 誕生日/ #オードリーヘップバーン #AudreyHepburn #田中角榮 #菊池桃子 #たむけん #森繁久彌 #伊藤沙莉 #大内順子 #笹川良一 #大山アンザ #内田菜月 #矢島晶子 誕生日 1825年 トマス・ヘンリー・ハクスリー(生物学) 1846年 エミール・ガレ(工芸家) 1880年 ブルーノ・タウト(建築家) 1897年 芹沢光治良(作家) 1899年 笹川良一 (国粋大衆党総裁[元],日本船舶振興会会長)[1995年7月18日歿] 1913年 森繁久彌 (俳優)1991年文化勲章[2009年11月10日歿] 1916年 スタルヒン(野球) 1918年 田中角榮 (首相(64,65代),衆議院議員,蔵相(67代),通産相(33代),郵政相(12代))[1993年12月16日歿] 1928年 ホスニ・ムバラク (エジプト:大統領)Muhammad Hosni Mubarak 1929年 オードリー・ヘップバーン (米:女優『ローマの休日』)Audrey Hepburn1993年1月20日歿] 1929年 仲谷昇(俳優) 1934年 大内順子(服飾評論家) 1936年 正司花江(かしまし娘・女優) 1937年 小沢遼子(評論家) 1951年 近藤房之助 (歌手) B.B.クイーンズ『おどるポンポコリン』 https://youtu.be/-r4DIbDe0DM 1951年 佐藤忠志(塾講師・タレント) 1962年 溝口和洋(やり投げ) 1967年 榎田道子 (タレント(おニャン子クラブ[脱退])) 1967年 矢島晶子(声優/クレヨンしんちゃん)1968年 菊池桃子 (女優,歌手) 1971年 伊東貴明(俳優) 1973年 たむらけんじ (お笑い芸人) 1976年 大山アンザ(タレント) 1980年 大黒将志 (サッカー(MF)) 1994年 伊藤沙莉 (女優・タレント) 1995年 内田菜月 (女優・タレント) 誕生花は 紫のアイリス、花言葉は“恋のメッセージ” 誕生石は ダイヤモンド(diamond)、宝石言葉は“清浄無垢” みどりの日(Greenery Day) 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ国民の祝日。 元々は昭和天皇の誕生日である4月29日で、昭和天皇が生物学者であり自然を愛したことから1989年より「みどりの日」という祝日とされた。2007年より4月29日は「昭和の日」となり、みどりの日は5月4日に移動された。 スターウォーズデー 映画『スターウォーズ』を記念する日。 劇中の台詞「May the Force be with you」(フォースと共にあらんことを)を「May 4th」にかけたもの。 (旧)国民の休日(Holiday for a Nation) 1985年12月27日の祝日法の改正により、国民の祝日にはさまれた日(日曜日と振替休日の場合を除く)は休日となった。これは実質的に5月4日を休日にするための制度であった。制度自体は1985年12月27日からあったが、翌年・翌々年の5月4日は日曜・月曜であったため、第1回目は1988年となった。 2007年の祝日法改正によりこの日が「みどりの日」となったため、5月4日が国民の休日になることはなくなった。しかし、敬老の日が移動祝日となったことにより、年によって秋分の日との間でこの制度が適用される可能性がある。 国際消防士の日 消防士の守護聖人である聖フロリアヌスの聖名祝日。 植物園の日 日本植物園協会が2007年に制定。 ラムネの日 1872年のこの日、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した。 中国人のレモン水製造技師を雇い製造法を学んだ。 競艇の日 下関競艇場が、競艇場のイメージアップと、競艇ファンの拡大を狙って制定。 競艇の創始者である笹川良一の誕生日。 エメラルドの日 コロンビアエメラルド輸入協会が2000年に制定。 「みどりの日」に因み、緑色の宝石エメラルドをPRする日。 当初は4月29日であったが、2007年、「みどりの日」が5月4日になるのにあわせて5月4日に変更された。エメラルドは5月の誕生石でもある。 ノストラダムスの日 1555年のこの日、フランスの占星術師・ノストラダムスが『百篇詩集(諸世紀)』を出版した。 うすいえんどうの日 えんどう豆の一種・うすいえんどうの収獲量が日本一の和歌山県農業協同組合連合会が制定。 5月上旬が収獲のピークであることと、「みどりの日」であることから。 名刺の日 日本名刺研究会が制定。 May(メイ)四(し)で「めいし」の語呂合せ。 ファミリーの日 中華料理店チェーンの東天紅が、1985年にこの日が休日になると決定した時、それにふさわしい愛称を公募し制定。 それまで家族全体の記念日がなかったことから。 歴史・出来事 1919年 第1回全国中学校陸上競技選手権大会開催 1974年 女性初のマナスル登頂に日本女性山岳隊が成功 1979年 サッチャー、イギリス首相に就任 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CObhNUzAzdF/?igshid=1g9tu6vu7z16c
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jinsei-pika-pika · 3 years
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北村道子:「自分だけのコンフォタブルを追求する」。スタイリストが語る、毎日のワードローブ哲学
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自分だけのコンフォタブルを追求する
北村道子
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「私は裏通りの人間だから」と北村道子さんは語る。ポートレイトの撮影中も、新宿中央公園で見ず知らずの男性とごく自然に会話を交わす。この日は〈タイムウォーンクロージン��〉のメンズのTシャツとスイムパンツに〈コム デ ギャルソン〉のガウンを羽織り、足元は〈メゾン マルジェラ〉のタビシューズ。自身でブーツの踵をカットしたという靴からは、彼女のファッション哲学が見てとれる。世の中の〝当たり前〟に疑問を呈し、本を漁って納得がいくまでとことん調べる。そして、何より面白がることを忘れない。 「裏通りでカルチャーを学んで、それをファッションに取り入れてきました。男性服を女性に着せるし、“おかしい”と思われることを平気でしてきた。1枚30万円もするTシャツが世に出回るなんてそもそも普通じゃないんだから、ファッション写真では究極に〝いけないこと〟をしないとデザイナーの表現へのエクスキューズにはならないと思っています。スタイリングはおかしくてOK。写真が高貴であればね」 1988年のブランドデビュー以来、公私共に変わらない愛情を注いできた〈メゾン マルジェラ〉に対しても、北村さんならではのルールがある。ネームタグの四点留めは必ず切ること。発想が好きで着ているから、マークはいらない。服に穴が空いても、自分で繕い、着続ける。 「初期の〈メゾン マルタン マルジェラ〉からは、良いライダースを買えなかったら自分でペイントするっていうフィロソフィーが感じられる。私は自分のバッグをリキテックスで塗っていたんですが、どうしても割れて剝がれてきてしまう。そのうちに、マルタンが白のペンキでコーティングされた日常でも使いやすい商品を発表したんですよね。塗料まで工夫するのが彼のすごいところです」 革のバッグと財布はすべて〈トム フォード〉。白いワイシャツは〈コム デ ギャルソン〉、Tシャツは〈ジュンヤ ワタナベ・コム デ ギャルソン〉が北村さんの定番だ。〈リック・オウエンス〉は肌に合うというドーバー ストリート マーケット ギンザのエクスクルーシブ商品の中から手に取る。10万円以上するものは信頼するブランドで1年に1回購入。それ以外に必要なものは無印良品でそろえるそうだ。 「基本的に私が着る服はワークウェアだから、すべてにお金はかけられない。川久保玲さんは目利きだから、『ドーバー ストリート マーケット ギンザ』に1日いるだけで勉強になりますよ。本も雑誌もあるし、3時間だっていい。私は買いものをしたら、7階のローズベーカリーでごはんを食べて、日比谷駅まで歩いて帰るんです。大きなショッピングバッグを抱えてね」 「コンフォタブルでない限りは自分のものではない」というのが、北村さんの装いに対する思想だ。その考えは幼少期から現在に至るまで、彼女を支える軸となってきた。 「私は小学校も中学校も高校も、ほとんど行っていません。面白くないと思ったら、やらないっていうのが私の流儀ですから」 信念を持って意思を貫く生き方、経験が生み出す物語と言葉、そしてファッション哲学。すべてが一本の線上につながり、そこから導き出された装いが、北村さんそのものを表現しているのだろう。
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肉体が服を変化させる
「“格好良いな〟と思うのは、肉体に合った服選びをしている人。着倒したTシャツや、鍛えられたヒップに合わせたパンツは、ウィンドウディスプレイと比べ物にならないくらいよく見えます」
家族の装いの共通項は“黒” 「子どもに与えられがちな群青色ではなく、黒を着て育ちました。姉は黒のサージ生地で作ったセーラー服に黒い鞄。私はセーラー服さえも着ていませんでしたが、黒い傘を手にした時、気持ちが楽だったのを覚えています」
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刈り上げのボブは床屋で 「ヘアカットは近所の床屋で1800円で済ませます。とにかくクイックだし、オーダーの仕方も慣れたものよ。たくさん持っている〈白山眼鏡〉のメガネから今日は白のフレームを」
まとう色は影のようなもの 「似合う色はシャドーでしょうか。私自身が邪魔な存在だから、せめて着るものくらいは邪魔にならないものをと思ってます」
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ジャケット、靴、バッグは5年に一度 「良いものをとことん吟味して納得のいくものを購入します。〈トム フォード〉のバッグは横から見た時のフォルムも面白い。タビローファーは踵を踏んでスリッパのようにしてはくんです」
ヴィジュアルで生きている 「ものすごく覚えがいいんです。初対面の時にその人の格好をしつこく見ている。その記憶がない時のことは忘れていきます」
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自分流に作り変える 「今日着ているボトムはメンズのスイムウェア。内側のメッシュは切って外しています。破れたら継ぐ。いらない布は切るし、タビブーツだって昔から自分でカットしていました。そして気に入った服はとことん着倒すんです」
北村道子きたむら・みちこ
1949年、石川県生まれ。10代でアメリカ大陸一周の旅に。1年間のパリ滞在を経て、帰国後はスタイリストの道へ。『それから』(85)で映画衣裳デビュー。著書に『衣裳術 2』『衣装術《新装版》』(共にリトルモア)などがある。
Photo: Yuri Manabe Text&Edit: Sakiko Fukuhara
GINZA2020年9月号掲載
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kokoro-m · 4 years
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G 7/27
ドイツ編。
ドイツには計3日?でした。
朝、8時くらいに目が覚める。こっちにいる間は、朝起きて母にラインすると日本は寝る時間なので、私がおはよう、と言い、母はお休みと返してくれる。また何時間か後にね!と、時差が歯がゆい。
前の日に結局シャワー入りそびれたので、朝日が差し込む中、お湯が出るの遅すぎて発狂しそうになったのと、シャンプーかリンスか全くわからんドイツ語表記のボトルに発狂。無事シャワータイム終わりました。
朝ご飯は、ご両親と友達と四人でダイニングを囲む。いつも食べてる朝ごはん作ってあげる!と友達作のオートミール・アーモンドかソイミルク(なんかとにかく健康なやつ)たっぷりかけてオーブンでチン・もったりふやふやボウルが完成。一口大に切ったバナナやら梨(だったっけな)とヨーグルトがトッピングだったのですが、いつもオートミール自体食べ慣れてなかった為かなかなか完食できず...遠くにある大量のパンに手を伸ばしたかった。とっても落ち着いている親御さんで何だか背筋がピンっとする食卓。新鮮で楽しかったです。
先に親は出かけるから〜と言われて、二人で暫くの間コーヒータイム。キッチンでブラックコーヒーをケトルいっぱいに作っていたのにいつの間にか飲み干しまた作り。二人とも本当にcoffee person...
この日はベルリンの街へ繰り出す予定だったので、着るお洋服にも気合いが入る。なんせベルリンはファッショニスタのイメージ。みんな色使いや古着使いが上手くストリートにミックスしてるなあと憧れていたので、わたしも少しパンクめに。チェーンアクセサリーや肌見せが好きなので、シルバーチェーンネックレスに、ZARAの黒トップス(パリ初日着てた)、確か東京の古着屋で買った色とりどりチェックのスカート。アイラインも跳ねさせて気分上々だったのに汗でいつの間にか落ちた。
駅まで歩けるけど、自転車が当たり前!と言うことで、はたまたどでかい自転車をお願いだから座高を低いやつない?とお願いし、まさか乗れないの...?と年下の友達に笑われながらサドルを跨ぐ。アヌシーで私は長時間漕いだんだぞ!もうマスターしている!そんな自信はありました。
比べ物にならない石畳。もうやばかったです。変な話、股が割れたかと思いました表現下品ですみません。超デコボコ石畳を走り続け、サドルからお尻が浮き続け、一瞬平らな道になった瞬間爆走、また石畳で死にそうになる、一刻も早く駅に着きたかった!!!既に若干疲れた私とは裏腹に笑顔の友達に癒される。いざ電車に乗りベルリンへ。メトロに乗り換えるまでは外の風景が見れたので、自然の広がる窓を堪能。
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車窓から。先進国ーーーー!!!!
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まずは、その広さと安さで街でも有名な古着屋、HUMANAに到着。一番最初に安いのから見たかった!Frankfurter Tor駅からすぐ。
この建物全部古着。全部。日本でいうセカンドストリート感がありました。1ユーロの棚とかあった。
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年代別や色別、形別に分けられていたので見やすかったです。ちょっとしたシャツとかスウェットも本当に安い。試したいものをとりあえず何着も持って二人同時に試着室にイン、裸足のまま鏡の前で見せあいっこ、そのうちランウェイごっこが開始。可愛いのたくさんあったけれど、この値段で買う意味あるかな?どの服に合うかな?など真剣に相談しながらのショッピング。ベルトやヒールも種類豊富で珍しかった記憶。
と、ここで、この年の7/27にはとても有名なイベントが。その名も、CDS。Christopher Street Day。ベルリンプライドセレブーレション、LGBTQパレードです。
人生で一回は参加したかった自由のお祭りの日に、私は巡り合えたのです、そしてなんと言ってもベルリンのパレードは毎年大勢の人が集まる、世界でも大きいパレード!ドイツ来るの、CSDの日じゃない?と言われた時の血が煮えたぎる高揚感、忘れません。この日はもう朝電車に乗った瞬間から、顔にレインボーのペイントやメイクアップをしている人、全身スパンコール、派手めのお洋服を着てる人で溢れていて、あとで参加しようね!と言っていたら降りた駅でこのCSD参加者の大群に遭遇したのです。この人の数!!
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本当にびっくりしたーー!!見渡す限りカラフル。みんな好きな音楽を流して踊り、コーラがこの日限定のレインボーパッケージを道の人にフリーで配っていて、もちろん私も貰ってグビグビ。この中にいると自分がとんでもなく地味に思えてきます。パレードまでは時間があったので、ここで待っているのかな?と思いました。晴れた空の下で、笑顔で談笑する人たち。活気と自由に溢れている。忘れられない空気でした。誰がなんと言おうと、間違いなく、Love is gender freeです。
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突如空腹に襲われた私、道の途中で人が並んでいるケバブ屋さんを発見。ドイツのケバブは美味しいよ!と友達がお勧めを注文してくれました。ドイツ語は一切、一ミリも分かりません。ダンケシェーン、だけ言おうと試みましたが全然発音できず。
まず最初に驚いたのが、ケバブってパンで挟むの!?です。だからボリュームも凄いのですが、何よりこのパンの重量感。一度噛み付いてみると、パンの丁度いい硬さとソース濃いめのチキン。野菜もシャキシャキでたまりません。友達はベジダリアンなので黙って私が食べるのを見守ってくれました。そういえば少し脱線すると、この間小学校の幼馴染と遊んでいる時、唐突にサブウェイが食べたくなって騒いでたら道にサブウェイが出て来て、脳内がえびアボガトでいっぱいになって衝動的にお買い上げしたんです。その時も友達は私が買うのを待っていてくれたので、待たせてごめんね、と謝ると、いいよ好きなんだよ!と言われる。な、何が好きなんだと思いきや、その子は、自分が食べないって言うと友達がじゃあ買うのやめよーって言うことが多くて気を使うから、普通に私が食べなくても構わず食べちゃう想が有難い、と言われて、確かに...と気づく。私も勝手に食べて欲しい。というよりも、え、私食べないのに食べんの、なんて思う人にはなりたくない。私食べてんのに食べないの、もない。食べたい時に食べたいもん美味しく食べよう。一生友達でいて。
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ここでやっとご登場、友達ことAdrian、激盛れショットです。言ってしまえばどこから撮ってもキューティーなんですけれど、見てこれめっちゃ良くない?と写真見せると、えーー光がいい!盛れた!!と素直にチャーミング。人混みに疲れて、またもなスタバでコーヒーアゲイン。流石に私はラテにしたのですが、Adrianはホットコーヒーグランデ。カフェインに乗っ取られてる。
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スタバでのフォトタイム。自撮りは永遠に難しい。この時は髪色を、濃いめのブラウンにちょっとパープルを混ぜて見える���うにしてもらったので、抜け感あって好きでした。また明るい色にしたいな〜と思う今日この頃。
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休憩後は観光。ベルリンの名所、ホロコースト記念碑です。側から撮ってみると、段差が視覚的にアートのように見えます。ただこれは立派な記念碑のモニュメント、総数2711基。中は緩やかな坂みたいな��や、細い道もあり、歩いている人は皆静かに歴史を感じているような静寂。まるで本当に迷路の中を探検している錯覚に陥ります。
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ブランデンブルク門。丁度太陽の位置が神々しい!平和と統一の象徴。ベルリン、ポツダムもだけど、街全体が歴史を重んじている印象を受けました。過去の壮絶な歴史を大切に、心に留めて、未来に進んでるように。
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ドイツ連邦議会議事堂。とっっても広大な広場(?)に隣接してそびえ立つ、圧巻のオーラ。中には入らずでしたが、Adrianがベルリンの歴史を説明してくれながら建物を案内してくれるので有難い。
噴水を横切り、広い道、公園の中を通って、駅へ向かいました。
フランスとは全然違う景色に感嘆の声ばかり上げていました。川沿いの特設テラスなるところでみんなゆったりとハイネケンを飲んで気持ち良さそうだったり、とにかく建物と敷地が大きいな、と感じました。ビルもたくさんあるし、欧州っぽさと、また違うテイストを感じる。
そうしてベルリン中央駅に到着。夕方くらいにポツダムへと早めの帰宅です。
流石の中央駅、駅構内がショッピングセンターのよう!
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お家について夕飯を食べたら、って何食べたか写真もなくてすっかり忘れました。この日買った服と持ち物で簡易的ファッションショーの開催です。Adrianの持ってるニットが〜ぎゃぎゃ可愛く〜て〜!ついでに半パンを借りてボーイッシュコーデで遊んでみたり。この青のTシャツはHUMANAで購入したのですが、鮮やかな発色と不思議なデザインで即決。ベルトも黒以外が欲しかったので購入。穴が足りない、と悩んでると、ベースメントに工具室あるから!と嘘みたいなことを言われ、あっという間に穴をトンカチやらで作ってくれました。計り知れない家の広さ。
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次の日はポツダムでツーリング、気合を入れねば。
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cuttercourier · 4 years
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビ��ームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベート��ものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ��︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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chitinan2017 · 4 years
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建築競圖的社會文化背景、價值取向與評選途徑
- 從南海路上的教師招待所談起
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最近〈台北教師會館拆除重建工程競圖〉引人矚目,一方面是台北市南海路上這棟教師招待所要拆了,引起人們的懷念之情,對於一部分關注台灣現代建築保存的人而言,這棟由張昌華主持,吳明修協力設計的現代建築,有如台北的珍寶 — 指建築設計上的歷史價值,包括簡潔清晰的平面規劃設計;沿街面呼應公共空間的留設,基部退縮向內凹,上部依建築邊線保持出挑;立面上的走廊扶手牆與主結構體脫開,在屋頂層略為向外傾斜,以及交接處的凹口細部處理;垂直樓梯間量體運用清水混凝土材質的粗獷紋路等方面,體現出六十年代以降台灣建築師正在尋找的一種現代性。
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台北教師招待所平面圖及立面圖;參照張昌華建築師事務所原設計圖稿繪製 
明眼人會察覺這些做法似乎多少參考了六十年代設計美國紐約原本的惠特尼美術館 (Whitney Museum of American Art) 的建築師馬索‧布魯爾(Marcel Breuer),以及設計耶魯大學藝術與建築教學樓的建築師保羅‧魯道夫(Paul Rudolph)的手法(註一),但無礙於其代表一種價值,同時,教師會館的建築計畫在於提供教師平價的旅棧,也是社會價值的呈現。在另一方面,這個競圖召集了國內的菁英,也邀請了優秀建築師做評審委員,顯示出比較有心做事的格局。經了解相關資料訊息,也看過參與競圖的一部分方案之後,草寫此文,謹供大家參考。
在近代歷史上,我想到有幾次比較特殊的建築設計競圖,多半和戰爭後的社會癒合有關,舉兩個在設計概念上接近的例子,一個是1958年在波蘭舉辦的〈奧斯威辛集中營受害者紀念碑競圖〉,另一個是在1980年展開的美國〈越南退伍軍人紀念碑競圖〉;這兩個競圖的評審雖然都有雕塑家參與,但首獎作品都不是傳統紀念碑式的雕塑品。
挪威裔的波蘭建築師奧斯卡‧漢生(Oskar Hansen)在奧斯威辛集中營的營區,設計了一條長一公里寬七十米的「紀念步道」 (註二);華裔美國大學生林瓔 (Maya Ying Lin) 在華盛頓的綠地公園上設計了一道折過來的「紀念牆壁」。值得注意的是,這兩個設計的創作時間雖然相差二十多年,創作理念卻相當接近,都是以整體環境當作紀念空間,採用極其內斂低限的手法,導引參訪者逐步發自內心產生深刻的自省。
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波蘭〈奧斯威辛集中營受害者紀念碑競圖〉第一名作品圖稿;作者:奧斯卡.漢生(Oskar Hansen) 以及Zofia Hansen, Jerzy Jarnuszkiewicz, Edmund Kupiecki, Julian Pałka, Lechosław Rosiński
當時在蘇聯體制下的波蘭官方認為抽象主義有違社會主義路線,最終這個獲獎方案沒有被建造實施;八十年代的美國社會對華裔仍有不佳的印象,尤其設計者的這張臉,讓美國大兵聯想到越南人,加上林瓔還是個學生,這個千中選一的方案歷經了十分坎坷的爭議過程,但在激辯中蓋了出來,至今成為經典之作。
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美國〈越南退伍軍人紀念碑競圖〉第一名作品圖稿;作者林瓔與紀念碑基金會主管們展示最後的設計方案模型
不過,究竟為甚麼這兩個方案會被選上?實際上,兩個競圖勝出的關鍵都在於評審先生。波蘭競圖特別請來當時廣受矚目的英國現代雕塑家亨利‧摩爾(Henry Moore)主持,那時史達林已過世,波蘭社會正在進入一個戰後比較自由的階段,呼應著亨利‧摩爾雕塑創作中流動的時間空間與人體地景;據相關資料顯示,奧斯威辛集中營的紀念碑設計是由亨利摩爾決定,而選出奧斯卡‧漢生,之後他們還成為了好朋友。美國的競圖是由八個人組成,包括雕塑家、建築師以及景觀建築師三類人,評審團裡有一位建築師哈瑞‧衛斯(Harry Weese), 曾在華盛頓首府特區負責一百英哩長的地鐵設施空間設計,被紐約時報建築評論家評為二十世紀最偉大的公共建設,他的建築理念獨到,有別於當時流行的密斯式設計,並致力於推動歷史建築的保存;實際上在評審過程中,是他獨具慧眼發現林瓔用粉彩手繪的方案,而大力鼓吹選拔出來,並一路支持實現。(註三)
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亨利‧摩爾工作中1953
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哈瑞‧衛斯設計的華盛頓首府地鐵設施空間
在表面上看,競圖的優勝者自然是由評審選出,何須討論?如果檢討台灣常見的評選規則,可以發現評審只是個打分數的角色,尤其是勢均力敵的比圖,積分差異很有限的情況下,最後積分誰會比較多,誰可能會被選上,評審預先並沒有辦法知道。從〈「台北教師會館拆除重建工程」委託規劃設計監造案第二次評選會議紀錄〉內容來看,因前三名的序位積分很接近,為了拉開數字上的差異,而決議第三輪再投票,而評選是透過這個程序,找出了等距的比分關係,而確定入選作品;因此,評審的價值觀在此量化的過程中被掩蓋,為了顯示客觀公正的印象,必須刻意壓抑個人喜好的表達,轉變成看不到情緒的數字,不過,幾位評審所組成的集體意志,此時已非任何價值思考,還是可以在交流中達成打分的共識,然後在積分中表露出來。
明確地說,上述這個評選模式很難選出奧斯卡‧漢生,更不用說沒有經驗的林瓔了!這是在我多年前受邀做過幾次公共工程競圖評選委員之後,即已心知肚明之事;為何至今國人仍然維持這個方式,其原因並不難了解,不過我沒去深究,也認為沒必要挖掘這個黑洞。以下擬藉去年參加立陶宛〈國家音樂廳國際競圖〉的經驗,談談另一種以價值觀為核心的競圖評選方式,以及如何實質賦予評審價值判斷的權力。
立陶宛(Lithuania)是波羅地海三小國之一,自2004年加入歐盟,一般人民的物質生活水準略低於台灣;去年他們文化部徵圖的標的是為了興建一棟能夠代表立陶宛的國家音樂廳,舉國上下很認真地在舉辦這個面向世界建築圈的競圖,我也是觀察這次比賽一定比較公開公平,且沒有預設立場,而決定投入參與。之後整個參賽經歷印證了我的預測,不僅競圖設計過程中出現的各種疑問,一一獲得主辦方的回覆與十分詳盡的解釋,尤其評選過程十分透明,讓參加的各方神聖都能心服口服,可說整個活動他們幾乎辦到沒有摩擦或失誤產生;然後,最重要的是,能夠選出了一個絕佳的方案。
立陶宛〈國家音樂廳國際競圖〉的評審團組織有一個主持建築師,另外有來自奧地利、西班牙、荷蘭三位外國建築師,以及兩位本地建築師,再加上一位首都市政府發展局的建築師;這次請來的「主持人(chairman)」是挪威建築師歐雷‧固斯塔文森(Ole Gustavsen),他在過去十幾年曾任挪威新一代的建築事務所「斯諾黑塔(Snøhetta)」的主管,主導發展事務所的工作方法以及設計研究,目前是北歐五國與波羅的海三國結成的「北地建築學院 (Nordic Academy of Architecture)」的校長,也是挪威主要建築學校「奧斯陸建築與設計學院 ( The Oslo School of Architecture and Design )」的校長。
這位主持建築師如同「主審」,這個角色並非主持開會的民主協商代表,更不是搓湯圓的媒介,歐雷‧固斯塔文森顯然要動腦筋決定這個建築設計方案的重點,而不是討論如何計算分數;所謂方案的重點也就是反映建築師的哲學、知識、理念的做設計的原則,而主審自己無法避免需要先想過且試過一遍,然後才能開會建立共識,擬定評價方針與評選步驟。
如果這位主審的價值觀很重要,那麼這位評審團主持人的學經歷等方面需要到一定的程度,且必須有新的視野,才能開創新局,選拔出具有長遠價值的建築方案,這也是這類公開競圖會吸引大批優秀建築師,不分老少,願意日以繼夜投入奮戰的內在原因之一。依我個人的觀察,「斯諾黑塔」自2007年完成奧斯陸歌劇院以來,在國際間給人專注認真的印象,在建築學的開拓上有深度追求,行事謙遜不譁眾取寵,承接方案也多半偏向公共建築,而建立公信力;此次立陶宛邀請其中重要成員做主審,我認為也是很好的選擇。
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挪威奧斯陸歌劇院外觀;斯諾黑塔建築師事務所
回顧〈「台北教師會館拆除重建工程委託規劃設計監造案」第二次招標競圖評選結果〉記述:「本案評選委員會共7位委員,由5位國內建築專家學者及2位財團法人台灣省中小學校教職員福利文教基金會董事」;在〈「台北教師會館拆除重建工程」委託規劃設計監造案第二次評選會議紀錄〉附件中記載的評選會議主持人為基金會總經理,在評選工作之前,陳柏州總經理就本案需求內容及廠商評選事宜做報告,主要指出六個「向度」,即六個評分項目,並提到業主經費不足,希望評審委員協助選出符合經營目標可執行的方案等等。
與前述立陶宛國際競圖比較,除了格局原本不同,立陶宛競圖隸屬國家事務等級比較高,能夠有經費請各地專家之外,主要的分別是在於評審團的組織方式,其中包括會議的進行方式;基本上,立陶宛競圖是完全由建築師(嚴格說不含專家學者)來評選,教師會館競圖是由業主方與建築師的組合人選進行挑選,同時,業主方代表在評選前宣告評選方式與關切的課題。在後來的會議紀錄中可看到「國內建築專家學者」與「基金會董事」之間終於剝露出評價標準的不一致,為了要選出不同的方案,而導致第三輪的博弈。實際上,教師會館業主方擔心的是施工程序與造價浮動的問題,這方面原本是評選建築方案的一個重點,在正常情況下,有經驗的主審建築師會根據方案的各種條件評估,再納入評價方針的考量;以下說明立陶宛競圖實際執行的評選步驟與進行方式,以及每一輪篩選的評價方針。
根據網上公布的第五版審查報告��這次競圖有248家事務所參加,其中有一些繳交的圖面與資料不齊全,有的方案未依照高度限制與指定範圍設計,評審團經討論,認為違反高度與界限可視為有助於對於基地環境的了解,決定容許所有案件都進入審查程序。在審查前與審查過程中,評審團曾多次赴基地現場山頭上,確認視覺上的關鍵位置;尤其評審團要求所有評審必須一起工作,共同針對每一個方案進行評價,以得出一個不可分割的整體評價結論。整個評審過程歷時三天,先經過四輪篩選,每一輪篩選掉較差的方案,以確定入圍的方案,再結合技術專家,進行深入分析討論,然後在第六輪決定最終名次。
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立陶宛〈國家音樂廳國際競圖〉主辦單位提供的基地環境照片
第一輪的評價方針:
整體概念欠缺清晰度 (missing clarity of the overall concept)
基地上尺度不恰當的介入與結合(inadequate scale of intervention and integration in the site)
過於複雜的量體構成(complicated volumetric composition)
缺乏建築的品質(missing architectural quality)
第二輪的評價方針:
整體概念 (overall concept)
基地整合 (integration in the site)
建築品質 (architectural quality)
功能面向 (functional aspects)
第三輪的評價方針:
整體概念的適當性 (adequacy of the overall concept)
基地整合 (integration in the site)
建築品質 (architectural quality)
功能面向 (functional aspects)
第四輪的評價方針:
整體概念的適當性 (adequacy of the overall concept)
基地整合 (integration in the site)
建築品質 (architectural quality)
功能面向 (functional aspects)
從使用者角度看造訪者親和性 (visitor friendliness, quality from the user point of view)
音樂廳滿足聲學需求的潛力 (potential of the halls to meet the acoustic requirements)
成為首都維爾紐斯地標的潛力 (potential to become a landmark for Vilnius)
第五輪的控制階段:
所有評審建築師重新再檢視248件作品一遍,確認沒有遺珠之憾,並整理先前四輪的評價分類。
第六輪的評價方針:
歷史保存面向 (heritage aspects)
音樂廳滿足聲學需求的潛力 (potential of the halls to meet the acoustic requirements)
從使用者角度著眼的品質 (quality from the user point of view)
方案的經濟性 (economy of the project)
永續性面向 (aspects of sustainability)
成為首都維爾紐斯地標的潛力 (potential to become a landmark for Vilnius)
據審查報告記載,第一輪篩掉115件參賽作品,第二輪篩掉84件參賽作品,第三輪篩掉24件參賽作品,第四輪篩掉13件參賽作品,其中包括扎哈‧哈蒂(Zaha Hadid)、長谷川逸子、藤本壯介等知名事務所,並確定了12家事務所入圍。入圍事務所中,除了設計赫爾辛基中央圖書館的ALA建築師事務所比較出名外,沒有看到所謂「明星事務所」。前三名中,第一名是西班牙事務所,第二名是法國事務所,第三名是立陶宛事務所;這位首獎得主的設計的確超越我的想像範疇,不僅設計超過指定建築邊界,且能夠打散音樂廳常見的巨大量體,極其細緻地運用地形起伏的高低差,在山坡頂上形塑成三個獨立透明體塊,並設計成形似當地人稱為「立陶宛的金子」的一種琥珀晶石。
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立陶宛〈國家音樂廳國際競圖〉首獎設計外觀透視圖;西班牙阿奎諾建築師事務所 (Arquivio Architects)
從前面相當詳細的審查過程紀錄看來,可以發現幾個值得注意的關鍵點:其一,立陶宛競圖的評價方針屬於質性化的描述,強調追求一種「建築品質」,著重那些不可量化的因素,其中第一輪的「過於複雜的量體構成」評價方針是目前少見的清新觀點,可能讓不少複雜曲面的設計就地陣亡;其二,不斷地針對一個建築方案進行抽絲剝繭式的檢視,「反覆多次的深究」為其中隱含的方法論特徵,這一點和北歐地區的思想習性與哲學傳統可能有關,具有濃厚現象學式的傾向;其三,基本上前四輪設定的評價方針均指向同一個大目標,集中在幾個「核心價值」的堅持上,簡言之,指的是設計概念、基地環境、空間品質、使用功能;其四,強調具體的實用因素,包含歷史保存、生態永續、使用者友善、聲學需求、經濟性,並在評審過程後半段逐步進行檢討,此外「過於複雜的量體構成」檢查點也和經濟性有關;其五,評審團做為一個社群整體,重視成員之間的「合作」,以強化價值取向上的共識,如此在一開始即拆解了人與人之間的鬥爭關係,抓住了人性的制高點。
反觀在台灣通用的競圖評審模式,可說在本質上完全倒反過來;以下羅列教師會館競圖訂定的六個向度的評分項目與所佔總分比例 — 1. 本案團隊組織架構、參與人力學識經歷及配置計畫等25%  2. 履約績效、飯店實績10%  3. 法規、機能、預算、設計創意40%  4. 經費預算分析之合理性10%  5. 監造計畫10%  6. 簡報與答詢5%。 這個模式反映出買方試圖針對提供服務的廠商進行全面性的盤查,其實完全無助於選擇要找的標的物,然後日積月累已演化為不可動搖的硬性常規,顯示國內競圖制度仍停留在十分粗糙的階段,且各界未意識到有待更新;除了競圖公告到交圖時間很短、文書作業繁瑣、資格認定僵化、過程不透明、評選方式老套、沒有合理報酬等等過時的行政文化障礙之外,最主要的問題是觀念老化,已無法因應新時代的挑戰,台灣城市更新建設亟需「好的建築設計」,不是嗎?
此次教師會館競圖第一名作品局部保留了舊有建築物的立面,勝出原因可能和建築師評審委員們的偏好有關;由於常態的建築師養成教育中往往會談論保存,使令建築師多半帶有某種不由自主的保存意識,而和非建築專業人士的心態不同,以致建築師與業主混合的評審團有先天的分岐。然後只有一位參賽建築師想到兩邊都照顧一下,一方面做足容積獎勵,一方面保留一點老建築,所以最後出線的方案必須想辦法維持局部舊建築結構,再從新建結構體伸出鋼構支撐舊建物,有如大型廣告招牌的框架。這樣的結果其實是社會價值觀的產物,源自業主的飯店經營目標、競圖的建築計畫、評圖的方式、建築師的因應策略等方面綜合所致。
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台北教師招待所早期外觀 
在疫情的影響下,世界在改變,人們的世界觀也在轉變,價值取向的變遷指日可待,讓我想到即使補強保留原有建築恢復原貌,「基金會」採用非營利方式服務中小學老師,在未來的世界也未必不可能。
- 庚子年小暑於台北初稿
- 本文刊載於2020《建築師》雜誌八月號
註一:保羅魯道夫設計的耶魯大學藝術與建築教學樓建於1963年,紐約惠特尼美術館建於1966年,台北教師會館始建於1970年代。
註二:奧斯卡.漢生〈奧斯威辛集中營受害者紀念碑競圖〉相關資料;“The Road”(1958): An Antimonument by Oskar Hansen  http://socks-studio.com/2016/10/25/the-road1958-an-antimonument-by-oskar-hansen/
註三:Blair Kamin, Tribune Architecture Critic, Harry Weese, Visionary Architect Known as 'Chicago's Conscience', Chicago Tribune, Nov.1, 1998; https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-1998-11-01-9811010367-story.html
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れな��別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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