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#西の弥助
fukagawakaidan · 1 month
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらな��が、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく��と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があった��いう。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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3 notes · View notes
da-daism · 2 months
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それと、前々回の記事でチラッと書きましたが、実はコロナになっていました笑;;
レポート漫画もちょっと描いては倒れ、ちょっと描いては倒れ…で進めていたので間に合って良かったです。。
実は初コロナでして…。先日、母を眼科の検診のために車で送迎してあげていたら、どんどん熱っぽくなって。帰って熱を測ったら39.7度!と言う高熱で;;;;どビックリでした;;
それでも実は海外からイベルメクチンを取り寄せていたので、それを飲んだら、翌日には平熱から微熱を行ったり来たりするくらいまでには回復してくれて;それでもなんだか不思議な体調が続く日々でした。
なんかまた変なこと言いますが;;作業している間、頭の中を公園?草原で遊ぶ関西圏のお母さん?と頭が繋がって、物凄いはっきり会話できるんですよね;; その後も別の地方の人と頭が繋がると言ういか;熱に浮かれた夢なのかわからないですが;;
あと、夜も動物みたいなキャラクターみたいなのとベッドの上で会話してたりとか…なんかおかしかったです……。。今は正常です。。
それと、画像はその前に行った陸奥国分寺で歴史を学ぶツアーに参加してきた時の画像です。
その後、仙台市博物館で特別展『大航海時代』を見てきたのですが、今話題の黒人侍、弥助に関するものもちらほらあって興味深かったです。信長記って、随分小さい書物だったんですねぇ。
印書深かったのは、イエズス会の船が来航してきた時の巨大な絵が展示されていたのですが、船のマストのところに多くの黒人がいることでした。彼らは使役されているように見えましたし、それを多くの日本人は驚いて見ている絵でした。
某日大の英国人教授の言うように、日本で黒人奴隷が流行していたのなら、こんな絵にはならない気がします。
後はコロナになったのを見かねて、隣のおばちゃんが玄関にスイカを置いて行ってくれたのものや、動物病院へ行くあさり。。
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myonbl · 11 months
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2023年10月20日(金)
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応援している落語家・露の新治師匠、東北ボランティア公演から戻られて今日は<動楽亭>の出番、応援には出かけたが所用のために仲入りで中座した。ここへ来たのは2020年12月11日以来、そして今日のネタ<猿後家>は2018年4月24日(火)天満天神繁昌亭朝席のトリで聴いて以来のこと。こんな日付がすぐに出てくるのもこんな<日誌>を書いているからこそ。なるほど、学生さんから言われるように<几帳面>であることを再認識したことだ。
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5時起床。
日誌書く。
今日はツレアイ(訪問看護師)は休み。
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月水金は2男のデイサービス、彼女がおにぎりを用意する。
私は夫婦の朝ご飯を用意、お蕎麦がなくなったので煮麺をいただく。
洗濯。
可燃ゴミ、30L*1。
春日郵便局で払込1件、ライフでトマトとゴミ袋を購入。
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京都府自動車税管理事務所から、自動車税還付の書類が届く。早速京都銀行西七条支店へ出向き、¥17,800を受け取る、ちょっと嬉しい。
3男には弁当を用意し、我々は早めに残り物カレーを頂き、動楽亭へと向かう。
途中、新治さんとやり取り、ネタの候補が4つあったが<猿後家>をリクエストした。
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開場時間に少し遅れて到着、前から3列目の座椅子に座る。
「桃太郎」桂弥壱、「親子酒」桂そうば、「悋気の独楽」桂歌之助、「猿後家」露の新治、仲入り。
久しぶりのネタなので思い出しながらの手探り運転、それでも<奈良名所>の言い立てはしっかり、客席も大きく頷いていた。
仲入りで中座して雨の中を帰路へ、いつもどおり桂駅で息子たちの好きな唐揚げを買って帰宅した。
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KDDIからメール、povoを長い間使っていないので停止するとのこと、iPadを処分して必要なくなったので放置しておく。
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早めに夕飯開始、息子たちにはスパークリングワイン、私たちは燗酒を少し頂いてから赤ワイン。
録画番組視聴。
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いよいよポワロの最終回、お疲れさまでした。
片付け、入浴、体重は850g増、あちゃー。
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歩数が少し足りないがまずまずいい数字、水分は1,530ml。
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retepom · 1 year
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【こんな時代だぜ】No.161【俺達は止められない】
答え合わせ推しの副流煙で無事過呼吸になったところへ激オモロ本誌展開を浴び こうしちゃいられねぇッッ!!となった次第です。ギュッと圧縮していますが本当に今週面白すぎたので。まだ本誌を読んでいない方は一刻も早く読もうな。
「お前ら帰ってきたばっかでよく食えんな」
ニコ、���ナショの食いっぷりに若さかと言うけれど結局何歳なんですかね。イチコよりちょっと歳上?答え合わせ会話の雰囲気だとクリードの方が更に歳上っぽいけれどそこまで離れてなさそう。20代後半〜30代前半…?しかしそんなクリード=デッカードの前の皿はちゃっかり空です いっぱい食べる推しが好き 食事の痕跡があるだけで満面の笑みになってしまうな……
ファン警戒態勢でも飯は食う出雲風子めちゃくちゃ行儀悪くて笑っちゃった。訝しげなクリード隊長しか得られない栄養素も補給。ありがとうございます。そして今回はしっかりネクタイ締めてる…また好きになっちゃうじゃん……もうダメ(手遅れ)
フィルママやっぱり美人だしフィル君ご飯食べられるの本当に良"か"っ"た"ね"ぇ"ッ"!!となるんだけれどショーン=ダッツの笑顔がUNSEENなのほんともうお前 いいヤツだなお前ほんと…“身を隠したい”ってのが切ないな……ようこそUNIONへは喜ばしい限りなんですけれども。
UMAみたいなもんことファン=クーロンが“20年以上も自分を待っているかもしれない”と思える出雲風子も結構ポジティブ(?)ですよね。普通は20年も姿を現さない相手を想い続けられないよ。
「誰?」
横顔とか身体のシルエットは女子だな…え?チャイナガール??シェンより先にムイちゃん来ちゃうの??
「お手並み 拝見」
ラーヌンッッッ バトルの中で使われちゃったから最後に受け止めて食うみたいなアレは見られなかったですがこういう展開大好きです。もっとやって。風子の新技良いな…となりつつ食うのをやめないジナショの肝が座りすぎ問題。宇宙を経験した10代はちげーな…
「お見逸れしました!!」
「あなたのお力でどうかお助けください!!」
「ファンに土をつけたあなたにしか頼めない!!」
「私ではもう止められないんです!!」
ファンが“出雲風子に負けた”という話を周囲にしているかもしれないという驚愕の事実
「ある武道大会に出て頂きたい…!」
「そこでファンを倒し止めて下さい!!」
「そして兄を…」
アッッッッッ
「シェンお兄ちゃんを 助けてあげて!!」
メイちゃん!!!!!!!!!!
生"き"て"る"ッッ"!!!!!!!!!!!
メイちゃんが生きて…大きくなっている……ループ後のこう…切なさと嬉しさの狭間……メイちゃんの死がシェンを修羅に変え、UNIONに導き、ムイちゃんと出会う、そういうシナリオでは少なくとも無い、ということ……ってことは何?シェンはもう純粋に“天下無双”を目指して師匠とタイマンしようとしているの?ハッ…兄弟子……ロウは!!?ロウは生きていますか!!?!?ロウメイはワンチャンありますか!!?!?!(ドサクサオブ・ザ・イヤー)
[天擂祭][予選当日]
テンポが鬼!!!!!!!
『全世界の“真”武闘ファンの皆様!!お待たせ致しました!!これより…』
『この世界で最強の武闘家を決める』
『天擂祭を開始致します!!』
ウ"オオオオオォーーーッッッッッッッッ!!!!!!!!!!殺せーッッッッ!!!!!!!!(治安の悪い客)
この頁、初見テンション上がり過ぎて見逃していたんですがちゃんとマント羽織ったUNIONメンバーがいるんだよな最高かよ
『武の頂点!!』
『東西南北…いや 天上天下不敗の男!!』
『ファン=クーロンに挑むのか!!』
「くだらん」
「いまここで」
「全員のしてもいいのだぞ」
も〜!!!!?!?何!!!!?一挙一動が今一番面白い男ォ!!!!!!!!
[つまらん]
[オレが求めるのはただ一人]
それもう恋じゃない???????????
『始めッ』風破連勁!!
太ってる&だらしない煽りでブチ切れマッハの春麗風子最高かよ〜〜〜!!?!!!?ファンの表情 初恋の相手が突然目の前に現れたんか?わかるよ 座ってる場合じゃねえわコレ
『いや…ここだけじゃありません!』
『各ブロックで無双している猛者がいる!!』
ビリー
流派:近 接 戦 闘 ( C Q C )
まままままっっっ ビリー様まっ CQC ハァッア…CQC……確かにブロージャでもしれっと対人やってたけどやっぱりできるんか スネークみたいな動きできるんか すき うっかり高所恐怖症盲目おじさん すき 頑なに上着に袖は通さない!!もうここまでくると大したもんだよ 雲雀恭弥かビリー様ぐらいのもんだよ トンファー使う???
ボイド
流派:ボ ク シ ン グ
上脱いでるけどチャイナ=ボルクスありがとうございます 本当に 笑顔でファンサを忘れないボイド=ボルクス元選手 一生好き 貴方のリングは地球だよ!!!!!!!
友才
流派:月 光 流 抜 刀 術
ヒイィーッ!!!!!余裕の飲酒!!!!!!!抱いて……………………全世界抱いてる貫禄 どんな衣装もよく似合う見目麗しき友才様 刀の錆にして ヌンチャクとか使ってるやついるから抜かなきゃ刀もオッケーということ?この人風圧で木を圧し折るけど大丈夫??
風子
流派:真 八 極
「来たか…出雲風子!!」
「やりすぎちゃった」
可愛い顔して何言ってんの!!?許す
ファン=クーロン大歓喜ってレベルじゃねーぞこれ嬉しくて気絶するんじゃない??しかも別の猛者も来てくれたじゃんこれはもう選り取り見取りでヨダレが止まらない案件だろ 武闘派4名揃い踏みの天擂祭編楽しくない訳がない 俺がスポンサーになる!!!!!!!!!!!
他UNIONメンバーも観戦でチャイナファッション宜しくお願いしまあああああぁすッ!!!!!!!!ジーナちゃんは白チャイナが絶対に絶対に合うからね 賭けても良い イチコさんはスリット深めのドレスをくださ…テラーは隊長応援法被着なきゃいけないからソレどころじゃない??クリード=デッカードは袖が破れました
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sendaihiscafe · 2 years
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せんだい歴史学カフェ 第121回放送「共に飯を食うことの歴史(西洋古代史編)」
第121回放送をお聞きくださり、ありがとうございました!
放送時のtogetterまとめはこちら⇒ https://togetter.com/li/1964619
放送の参考文献は以下の通り
ホメロスやローマの詩人たちに現れる食事会について
・井上文則訳『ローマ皇帝群像3』京都大学学術出版会、2009年  ・国原吉之助訳『ペトロニウス作 サテュリコン』岩波書店、1991年 ・藤井昇訳『マールティアーリスのエピグランマタ(上・下巻)』   慶應義塾大学言語文化研究所、1973年 ・マルセル・モース著 吉田禎吾/江川純一訳 『贈与論』ちくま学芸文庫  2009年 ・J.-L. フランドラン、M. モンタナーリ編、宮原信ほか訳   『食の歴史1』藤原書店、2006年 ・J. Scheid, Sacrifice et banquet à Rome, Mélanges de l‘école     française de Rome , 97-1, 1985, 193-206.
マルティヌスと皇帝マグヌス・マクシムスの晩餐会について
・橋本龍幸訳「スルピキウス・セウェルス『聖マルティヌス伝』」上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、883-977頁。 ・佐藤彰一「聖人とキリスト教的心性の誕生」 佐藤彰一・早川良弥編『西欧中世史(上)継承と創造』ミネルヴァ書房、1995年、 45-68頁。 ・佐藤彰一『ポスト・ローマ期フランク史の研究』岩波書店、2000年。 ・佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』中央公論新社、2014年。 ・佐藤彰一『フランク史I クローヴィス以前』名古屋大学出版会、2021年。 ・徳田直宏「トゥールのマルティヌスの修道院運動 -4世紀末期ガリア政治史への一視角」『西洋史学』69、1966年、12–31頁。 ・ROBERTS, M., “Martin meets Maximus: the meaning of a late Roman banquet”, Revue d’Etudes Augustiniennes et Patristiques, 41(1), 1995, 91–111. ・Stancliffe, C., St. Martin and his hagiographer : history and miracle in Sulpicius Severus, Oxford: Clarendon Press, 1983. ・Van Dam, R., Leadership and community in late antique Gaul, University of California Press, 1985.
よろしければご参照ください!次回放送もぜひご視聴ください!
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momokuri-sannen · 2 years
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instagram
さわらの西京焼き、ごぼうとこんにゃくのきんぴら、豚汁
似たようなものばかり食べている。
身体の何が変わったのか以前よりも食べる量が減り、春先から10キロあまりが減った。
嗜好もあっさりしたものが好くなり、中華料理店のようなメニューはほとんどやらなくなった。
夏の頃に健康診断があったのだけど、昨年から胴回りがずいぶん減ったので計ってくれた人が驚いていたくらいだ。
体調は、まぁ大丈夫だろう。
取り立てて良くもないが、思ったほど悪くもない。
規則正しく食べ、眠り、仕事をやっつけている。
縄文時代は10000年もあったのだそうだ。
その時代の遺物からは戦闘用のものがないのだそうで、おそらくはとても平和な時代だったのだろうと言われている。
狩猟が主な糧を得る手段だったはずだが、それぞれが協力しあって暮らしていたと想像されている���
発見された人骨から小児麻痺を患っていたであろう骨が見つかったが、没年はたぶん20歳程度という。
という事は障碍があっても、ちゃんと養護していたという事だ。
弥生時代を迎え稲作が盛んになると、使う者と使われる者が成立して、そこから争いが生まれた。
そんな弥生時代は長く続かなかった。
日々淡々と同じことを繰り返す中で自分ができること、やりたいことを押し並べて思うに、それほど大したことがしたいわけでもないのに気づく。
糧を得るために働き、必要な食事をして心地よく眠る。
それが望みなのだと気づく。
そんな穏やかで平和で単調な日々を望むのだ。
縄文時代の人たちが平和を意識していたかどうかは分からない。
脅威が身の回りの多くあったのは想像できる。そういう環境であるのなら尚さらに人々は寄り添い、助け合わなければ生きていかれない。
平和とはそういった気持ちの中で作られていくのだと思う。
今日も「ああ今日もいい一日だった」と思える毎日であるように。
ぼくはまた淡々と同じことを繰り返して生きる。
そこに意味などなくていい。
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yotchan-blog · 22 days
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2024/9/3 20:00:08現在のニュース
立憲代表選、小沢一郎氏が野田佳彦氏を支援へ 「和解」を強調(毎日新聞, 2024/9/3 19:59:06) ジャニーズ性加害問題当事者の会が7日解散 謝罪会見から1年、救済と補償「大部分達成」([B!]産経新聞, 2024/9/3 19:58:12) 九州西岸に中国製?たばこが続々漂着 長崎五島では2500箱回収(朝日新聞, 2024/9/3 19:57:35) 全国で最も肉類を食べないのは前橋市民? 畜産盛んだが…深まる謎(毎日新聞, 2024/9/3 19:52:05) 「加害者の人権守らないと」名芸大学長セクハラ疑惑、報告書開示拒否(毎日新聞, 2024/9/3 19:43:52) JR北海道の運賃値上げ、「家計に負担」公聴会で撤回求める声相次ぐ(朝日新聞, 2024/9/3 19:42:10) 井上尚弥は当日7.4キロ、ドヘニーは11キロもの増量 今夜スーパーバンタム級タイトルマッチ(スポニチ) | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/3 19:39:19) 「ちいさなたね」とおはなししよう 助産師が性教育の絵本出版(毎日新聞, 2024/9/3 19:36:36) 新種の恐竜化石「ササヤマグノームス」 7月にも同じ地層で別の新種(朝日新聞, 2024/9/3 19:34:56)
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kanabass · 27 days
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2024年9月10月の予定
いつもご覧いただいている方、いつも応援ありがとうございます! 初めて見てくださっている方もご訪問ありがとうございます^^
8月も終わりに差し掛かってやっとこさ暑さも和らいできましたね。 寒暖差が大きくて、1週間のうちに10度以上も変化して、台風も来て、おかしな気候ですが、体調管理気をつけて、やっていこうと思います。 10月に半年ぶりの、みわさんとのツアーがあり、いまからとっても楽しみです。他にも楽しみなプロジェクトが水面下でうごき始めたので、本当に楽しみ!早くお披露目したいです!笑
9/1(日)15:00〜(inst) w/水野修平(pf) 鈴鹿・carrera(鈴鹿市江島台2丁目2-1 080-6970-0187)  →台風の影響で中止になりました。 リベンジライブ11/3日曜15時〜になりました。
9/3(火)19:00〜(jamsession) w/森田純代(pf) 定例セッション。みんなで楽しみましょう。 津島・くれよん
9/6(金)19:00〜えぼにージャズ部(jamsession)   w/水野修平(pf)舩尾真伊年(ds)  新栄・ebony and ivory 顧問のお言葉は愛!楽しく切磋琢磨しながら活動中!
9/7(土)19:30〜(inst) 【音セレブ】w/松本コウ(gt)佐藤暁彦(ds) 土岐・Bird &Diz 良き音で奏でます、ギタートリオ。
9/12(木)19:00〜21:00 ワークショップ 刈谷・cafe nation ゆっくりまったりやっています。 *9月も変則的に第2木曜です。
9/13(金)20:30〜 w/青木弦六(gt) 稲沢・Speak Low(愛知県稲沢市高御堂1-20-20-102号) 金曜のまったりduo。
9/17(火)19:00〜 w/水野修平(pf)舩尾真伊年(ds) 覚王山・stareyes 修平さんのオリジナルやピアニストならではの選曲でお送りします。
9/21(土)19:30〜 w/田中淳(tp flh)小関信也(pf) 岡崎・SATIN DOLL ジャズの名曲を田中さんチョイスで演奏します。
9/22(日)夜 【9th call】w/足立拓郎(ds)三宅史人(gt) 松阪・Serai    もうかれこれ7-8年やっている若い二人とのギタートリオ。 このバンドならではの攻めた選曲でサライ初出演です。
9/27(金)19:30〜(inst) w/館岡紅介(tp)坂井彰太郎(sax)餌取雄一郎(tb)藤井浩樹(pf)浅井翔太(ds) 新栄・swing  3管の色彩豊かなハーモニーも個人のソロの楽しめる欲張りバンドです。
9/28(土)夜 Hot O'馬橋Trio @伊勢 河崎蔵
9/29(日)15:00〜 Eclat (inst) (森田純代pf 林かなba 上野智子ds)guest:剣山啓助(gt) 松阪・Serai    津ジャズの打ち上げで盛り上がり、コラボが実現。
9/30(月)19:00〜 w/Alex Matocks(tp)水野修平(pf)三宅昌徳(ds) 覚王山・stareyes 初めましてのアレックスさんと。
*****************
10/1(火)19:00〜(jamsession) w/森田純代(pf) 定例セッション。みんなで楽しみましょう。 津島・くれよん
10/2(水)PM 四日市演奏 林宏樹(ds)近藤有輝(pf)他
10/3(木)19:00〜(inst) 【bois】w/森永理美(pf) 栄・SLOW ART CENTER NAGOYA内 SAKURA ENTERTAINMENT RESTAURANT
10/5(土)19:30〜(vocal) w/柚希(vo)風呂矢早織(pf) 池下・Tenderly(池下1-3-1パックス池下ビル8F)
10/9(水)20:00〜(vocal) w/さくら(vo)森永理美(pf)上野智子(ds) 岐阜・BAGU
10/12(土)13:00〜えぼにージャズ部(jamsession)   w/水野修平(pf)舩尾真伊年(ds)  新栄・ebony and ivory 顧問のお言葉は愛!楽しく切磋琢磨しながら活動中!
10/12(土)19:30〜(vocal) w/原れいこ(vo)青木弦六(gt)三間大輔(ds perc) 西区・JAZZ CHICKa ブラジリアンナイト。
10/14(月)15:00〜(inst vocal) 【岐阜トリオ】藤井孝紀(pf)黒田淳司(ds vo) 津島・くれよん
10/14(月)19:30〜(inst)  w/水野修平(pf)  隠れ家バーで和気藹々とお過ごしいただけます。  安城・Jazz Bar Y’s
10/17(木)19:00〜21:00 ワークショップ 刈谷・cafe nation ゆっくりまったりやっています。
★★★若林みわ(vo)+林かなTrio秋のツアー★★★ w/若林みわ(vo)後藤浩二(pf)倉田大輔(ds) 素晴らしいvocalみわさんとの3days! Backも素晴らしい先輩方とかためます。 ご予定くださると嬉しいです! 10/19(土)19:30〜静岡・LIFETIME 10/20(日)四日市JazzFestival  14:00~14:40 veejay  16:10~17:00メイン会場(諏訪公園)  20:30〜veejay(charge別途必要) 1stage+ジャムセッション 10/21(月)東桜・The wiz  19:00〜
10/26(土)15:00~ Eclat (inst) (森田純代pf 林かなba 上野智子ds) 四日市・JAZZ TAKE ZERO  
10/29(火)PM 豊田生協イベント演奏 w/林宏樹(ds)ナタリー成田(pf)他
10/30(水)19:30〜【Girls’ Night Out!!】(vocal) ***Halloween special*** w/Juju Sumire vo 竹中優子as ss 中嶋美弥pf 上野智子ds 爆発的女子会アンサンブル。 新栄・Jazz Spot Swing 
どこかでお会いできますように!
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hegotthesun · 2 months
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弥生時代
弥生時代(紀元前3~5世紀 – 3世紀)の西暦239年に、邪馬台国の女王"卑弥呼"が魏の都・洛陽に使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を与えられたことから、歴史書『三国志〈魏志倭人伝〉』に邪馬台国の情報が記載されました。
しかしながら、その情報量は少なく約2,000文字の一節だけです。
◆三國志×横浜市交通局|4gamer.net
「卑弥呼は約30の国からなる倭国の都として邪馬台国に住居する」という内容が記されており、近代に入って日本もそれを正式な史実として認知しました。
youtube
倭国では内乱が絶えませんでしたが、女王・卑弥呼が統治することによって治まりました。
▽『魏志倭人伝』
原文:「其國本亦以男子爲王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歴年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自爲王以來,少有見者,以婢千人自侍,唯有男子一人,給飲食,傳辭出入。居處宮室,樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
翻訳:「その国、以前は男子を王としていたが、70~80年ほど過ぎて倭国は乱れ、互いが何年も戦争をする事となった。そこで各国が共同で一人の女子を王とした。名を"卑弥呼"という。卑弥呼は《鬼道》に優れ、民衆の心を掌握することができた。女王となった時すでに成人だったが夫はなく、弟が居て国を治めるのを補助した」
「鬼(き)」とは、魏では死者の霊魂や霊的存在を意味したようです。《鬼道》はシャーマニズム的な呪術という解釈の他に、当時の文献では《儒教》にそぐわない体制を表現する用法があります。このことから呪術ではなく、単に儒教的価値観ではない政治体制を意味するという解釈もあります。
《鬼道》とは、《神道》の元にもなった原始宗教《シャーマニズム》と考えられます。シャーマンと呼ばれる人物がトランス状態(興奮して自我を失った状態)に入り、神と交信をしてそのお告げによって政治をおこなうというものです。シャーマンの卑弥呼は、神の言葉を聞くことが可能であったために、女王に選ばれたと考えられます。
本来の巫女は霊を自分に乗り移らせて、霊の言葉を代わりに話すことを得意としたという記録があることから、巫女とは本来はシャーマンのことであり、そもそも巫女の語源は卑弥呼という説もあります。
『魏志倭人伝』の「年已長大」を直訳すると「すでに年老いた」になりますが、この「長大」は「すでに成人になった」という意味にもなるそうです。学習サイトを読むと、一般的に「高齢」という翻訳が多いようですが、真相はいかに……?
「邪馬台国」と「卑弥呼」という当て字について
「邪馬台国」や「卑弥呼」という字は魏側のつけた当て字ですが、『日本書紀』には「夜摩苔(ヤマト)」という表記があります。
このことから、倭人の発した「ヤマト」の発音に当て字をした結果、「邪馬台国」という邪悪な字になったのだと推測できます。
・古代中国語音の「邪馬台」:[jya-mea-də] ・唐代の漢字音「夜摩苔」:[jya-muai-də] ・邪馬台国=ヤマト ・卑弥呼=日の御子
上述の通り、実際の政治は卑弥呼の弟が担当していました。弟は卑弥呼の側近として、表に顔を出せなかった姉の卑弥呼に代わり、表に出て卑弥呼の占いの結果を言伝として民衆に伝え、政治を取り仕切っていました。
ちなみに邪馬台国の位置について意見が分かれる理由として、『魏志倭人伝』には「邪馬台国は九州から船で三日間ほど南下した場所にある」と書かれていたことが挙げられます。その記述が事実だとすると、邪馬台国は太平洋沖にあったことになります。その所為で邪馬台国=沖縄説というとんでも説も生じました。
おそらく使者の報告や記載のいずれかにミスがあったと考えられるでしょう。もしくは、帰国が遅れた理由を問われて「思いのほか遠くにあった」と虚偽の申告をしたのか。たとえば邪馬台国を訪れた魏の使者のために三日三晩ほど祝杯の宴会が繰り広げられて帰りが遅れたとか。
三国志時代は「上役からくだされた目的を果たせなければ処刑(七歩のうちに漢詩を一句書かねば処刑〈曹植の逸話〉、海の向こうのどこかにあるという亶州という国〈倭国説あり〉を発見できなければ処刑〈孫権の逸話〉、三日までに十万の矢を集められなければ処刑〈小説『三国志演義』孔明のエピソード〉が当たり前だったので、嘘も方便ということでありえなくもないと思うしだいです。
youtube
▽『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国の統治国
「対馬(つしま)」「一支(いき)」「末盧(まつろ)」 「伊都(いと)」「投馬(とうま)」「不弥(ふみ)」 「斯馬(しま)」「巳百支(しはき)」「伊邪(いや)」 「都支(とき)」「弥奴(みな)」「好古都(ここと)」 「不呼(ふこ)」「姐奴(そな)」「対蘇(つそ)」 「呼邑(こお)」「華奴蘇奴(かなそな)」「鬼(き)」 「為吾(いご)」「鬼奴(きな)」「邪馬(やま)」 「巴利(はり)」「支惟(きい)」「烏奴(うな)」 「蘇奴(そな)」「躬臣(くし)」「奴(な)」
卑弥呼のシャーマン(呪術師・巫女)としての能力は「大衆を惑わす」と評されるほど甚大でした。
倭の女王国・邪馬台国は周辺の30余国の中で最も大きく、政治的組織の官制が整っていましたが、武力ではなく共立された権力だったので、当初の政権基盤は弱いものだったとされます。
邪馬台国の男性は刺青をして髪を結い、頭に布を巻きつけており、女性は布の真ん中に穴をあけて、そこから頭を出す服を着て、髪はうしろで束ねていました。
ちなみに南宋の儒学者"金履祥"の著書『通鑑前編』に、「日本から来た使者が『我々は呉の太伯の後裔だ』と言った。呉は亡び、その子孫が海を渡り、倭国にたどり着いた」と書かれているそうな。そういえば「呉地域の遺跡で発掘された人骨のDNAが倭人のものと一致した」という記事を数年前に読みましたが、ソースが残ってないのか追々確認いたします。確かに呉の中には刺青を掘り、魚を食べる風習もあったそうです。それは弥生人や縄文人の文化とも一致しますが、真相のほどはいかがなものでしょうか。
「倭人の始祖が太伯の末裔」という説について、日本では南北朝時代の禅僧"中巌円月"が「日本は太伯の末裔」と論じました。一方の"北畠親房"は著書『神皇正統記』にて「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判し、室町時代の"一条兼良"も『日本書紀纂疏』で太伯末裔説を批判しました。江戸時代に入ってからは、儒学者"林羅山"は『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定しました。イエズス会宣教師"ジョアン・ロドリゲス"の『日本教会史』では、「神武天皇は太伯の2番目の弟の"季歴"の第6代の子孫」と記しました。
明治生まれの日本史学者"千々和実"氏は、綿密な考証を経て「3世紀の倭人が対内的に王権を強化するため、また対外的に威望を挙げるために、自分たちの民族の始祖を太伯に結びつけて名乗ったのだろう」と指摘し、この「倭人自称説」を肯定しました。
ちなみに「日本の始祖が太伯の末裔」という記述を見て憤慨した"徳川光圀"が『大日本史』を編纂させたとする伝説もありますが、これは事実ではないようです。
狗奴国の台頭
晩年の卑弥呼は、敵対勢力の「狗奴国(くなこく)」との戦の渦中に亡くなりました。
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狗奴国は、邪馬台国の南(熊本周辺)にある男子を国王とする勢力でした。
断髪と刺青の習慣のある漁業民の国で、邪馬台国の統治下に唯一ならず、九州(邪馬台国の周辺)以外の西日本と、東日本の北陸・東海・信州までを武力で制圧していました。
また、この狗奴国が後の古代出雲になったとも推測されます。
◆オタクくんさぁ - ピクシブ百科事典
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卑弥呼の亡き後の邪馬台国でも男王が専任されましたが、統治は難航し、諸国は分裂します。
各地で反乱が起こり、卑弥呼が統治する以前の混沌とした時代に逆戻りしてしまいました。
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そんな最中に当時13歳の"壹与"(とよ)が女王となり、再び倭国は平和裏に治まりました。
その壹与を女王とした邪馬台国が、その後どうなったのかは、266年の遣使以後は不明です。
いわゆる空白の4世紀にその姿をくらましたのです。
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神武東征伝説を史実と考え、九州の邪馬台国が東遷して奈良の大和王権となったとする邪馬台国東遷説をはじめ、投馬国東遷説、騎馬民族説、ネオ騎馬民族説🏇などがあるようです。もう一つは逆説的に、大和王権によって邪馬台国は滅亡した、とする見解もあります。
蛇足ですが、平和であるほど縄文時代から弥生時代(邪馬台国)までの日本や、タイ王国のように女性の社会的地位が向上し、戦乱の世になると中世ヨーロッパや中国のように男性の社会的地位が向上する傾向があるようです。
男は女が育てる。女に利用されるのが男の宿命だし、それで成長を遂げるのも男だろう。
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◆『千恋*万花』(c)YUZUSOFT/JUNOS INC.(著作権ゆずソフト二次配布禁止)
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三韓征伐
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三韓征伐は、西暦200年頃に応神天皇(八幡神社に祀られる第15代天皇)の母"神功皇后"が、新羅国に出兵して三韓(百済・新羅・伽耶)を服属下においたとする日本の伝承です。
百済の救援要請を受け、新羅まで出兵した大和王権軍の軍勢を見た"新羅国王"は恐れおののき「吾聞く、東に神国あり、日本といふ。また聖王あり、天皇といふ。必ずその国の神兵ならん」と言い、白旗を挙げて降伏したとされます。
神功皇后は帰国後、神託を受けて兵庫県南部に神社をいくつか創始されました。
廣田神社
兵庫県西宮市の廣田神社は、日本初の海外遠征となった三韓征伐から凱旋途中の神功皇后により創始されました。
日本最古の国史書『日本書紀』に記される兵庫県第一の旧官幣大社。
生田神社
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神功皇后の凱旋に伴い創始された生田神社は、神戸市内の有名な神社の一つです。神戸市中央区の一帯は社領で、神戸(かんべ)職と呼ばれる神社に貢物を奉納する人々が多くいました。それが「神戸」という地名の語源となりました。
長田神社
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三韓より神功皇后が帰路の途中、船が先に進まなくなり解決策を占ったところ「我を長田国に祀れ」と恵比寿より神託を受けて長田神社が創始されました。
神社の行事として室町時代より続く古式の県指定無形文化遺産「追儺式神事」があります。
名称が古くからの地名そのままである神社は、その土地の産土神社の可能性が高いそうです。
「三宮の生田神社」「神戸駅前の湊川神社」「長田神社」を合わせて「神戸三社」と呼びます。
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▲神戸駅前「湊川神社」
高取神社
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出雲大社に初参拝した三日後、高取山の麓にて撮影。
鷹がカラスを押さえつけ人質にし、数十羽のカラスの群れと対峙。周囲のカラスはガアガア鳴くだけで仲間を助けられず膠着状態。鷹の方が速く高く飛べる上に、鋭い爪とくちばしを持つので手出しできなかったのでしょう。しばらくすると鷹はカラスを開放して飛び去りました。開放されたカラスも茫然自失としながら山に帰りましたとさ。
昔々の高取山は、猛禽類の鷹がよく巣をかけたので「鷹を捕獲する場所」という意味で「鷹取山」という山名が付けられましたが、江戸時代中期に山麓地域での「鷹」の字の使用は増税対象になり、やむを得なく「高」に字を変えたようです。この増税はあくまで山麓地域だけなので、今も周辺の住宅街では「鷹」の字が使われます。
古くは神が舞い降りる「神撫山(かんなでやま)」とも呼ばれました。
高砂神社
神功皇后が三韓遠征の際に、現・出雲大社の祭神オオクニヌシの神助を得て戦を治めました。帰国の途中に高砂の地に船を寄せ、国家鎮護のためオオクニヌシを祀られたのが高砂神社のはじまりです。
豊臣秀吉は朝鮮出兵の前、三韓征伐の功績をあげた神功皇后にあやかり、この高砂神社で戦勝を祈願したと伝えられます。
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▲豊臣秀吉『戦国無双4』
とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに
大和朝廷とは、出雲族と天孫族の連合政権とされます。
「豊葦原千五百秋瑞穂国」 (とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに)
上記は『記紀』における日本の美称の一つで、「豊かに葦の生い茂る原」という意味になります。他にも美称として「葦原中国(あしはらのなかつくに)」もあります。
◆豊国(九州北東部) + ◆葦原(出雲〈島根〉) + ◆千五百(長門・周防〈山口〉) + ◆秋(安芸〈広島〉) + ◆瑞穂(吉備〈岡山〉)
日向族(ひむかぞく)とは、日向国(宮崎)の高千穂に降臨した天孫族の血を引く部族。
日向族の数代目の族長"神武天皇"は、日向国から翁(おきな。老人)や、日本サッカー協会シンボルマークとして馴染み深い"ヤタガラス"に導かれ、東に向かい奈良盆地に到達したとされます。
それまで奈良盆地を支配していた出雲族は日向族に屈服し、以後は天皇を頂点とする大和王権が樹立されました。
当時の史料は数少なく憶測の域を出ませんが、出雲王朝の末期には王の座をめぐり二人の太子が覇権をめぐり争っていました。そこで一方が大和王権にくだり配下に収まりました。大和王権軍を味方につけられては適わないと判断したもう一方の勢力も大和王権にくだりました。こうして出雲王朝は大和王権と統合されたとのこと。
一説によると『日本神話』の"アマテラス"は邪馬台国の卑弥呼がモデル。下の弟の"スサノオ"は男王が統治した狗奴国の初代国王がモデルになったといわれます。
ここまで書けばお気付きになるかと思いますが、邪馬台国の政治を司った卑弥呼の弟が、アマテラスの上の弟"ツクヨミ"のモデルとなったとの見方があります。
広く一般的に「邪馬台国の情報は、日本側の歴史書には残っていない」とされますが、もし邪馬台国=高天原説が事実なら『日本神話』は邪馬台国をモデルに書かれたことになります。
もし、それが本当だとしたら、偏にロマンがあると言えるでしょう。
▼三種の神器
◇鏡(太陽)=邪馬台国=アマテラス≒卑弥呼
◇剣(武力)=狗奴国=スサノオ≒狗奴国王 or 難升米
◇勾玉(月影)=ツクヨミ≒卑弥呼の弟 or 天武天皇
「八咫鏡(やたのかがみ)」は、アマテラス(天照大神)の岩戸隠れの際に作られた鏡。アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出すことに成功して、再び陽光がさして世は明るくなりました。今もこの八咫鏡は伊勢神宮に祀られています。
「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチの尾から出てきたとされる剣です。ヤマタノオロチ=八つの頭の蛇。「蛇」は「男」の比喩表現。つまり「八人の賊を一人で薙ぎ倒した」とは流石と言えます。
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は岩戸隠れの際に作られ、八咫鏡とともに榊の木に掛けられました。
古来の《神道》は《イスラム教》と同じく、《仏教》の「仏像」や、《キリスト教》の「キリスト像」のように、偶像崇拝(信仰の対象を像=イメージ化して崇拝)はされませんでした。
神社の本殿に置かれる鏡は、「向き合う自分の心をありのまま包み隠さずに写し出す」ことを意味します。
◆山手線の路線図は太極図|都市伝説
農耕民族と狩猟民族
未来に備えて貯金や貯蔵するのは《ネガティブ(悲観的)》な行動原理で、貯えずにその場ですべて発散するのが《ポジティブ(楽観的)》な行動原理とされます。
貯蔵に通じる概念は「農耕民族」より発生しました。「狩猟民族」の主食である肉は保存が利かず、腐らない内に食さないとすべて無駄になりましたが、穀物は長期保存が可能なので当初の「米」は「金」と同等の価値がありました。その弥生時代において最も米を多く保有した氏族が天皇家であり、それ故に日本の皇帝陛下となられました。
天皇は《神道》における最高責任者で、一族の氏神でもある太陽神の女神・天照大神直系の子孫とされます。現在も元号を採用し続ける国は日本のみとなりました。世界最古の王朝として、同じく今も王朝を残すヨーロッパとの外交でご活躍になられております。
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▲国産米『秋田県産あきたこまち』
日本列島における縄文人と弥生人
モンゴロイドを大別すると、「古モンゴロイド」と「新モンゴロイド」に区別できます。「古モンゴロイド」は東南アジアや中国の一部、南米~北米大陸、北海道のアイヌ人、約二千年前までの日本列島に分布した縄文人が含まれ、「新モンゴロイド」はモンゴル・中国・朝鮮半島・日本列島・北米にまで渡って広く分布しております。
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画像左は三万年前から日本列島に住まった顕在遺伝子の多い"縄文人"と、右は二千年前から日本列島に渡来した潜在遺伝子の多い"弥生人"のイメージ画像のようです。 ▼縄文人の特徴 全体的に大振りで、背が低く体毛が濃いのが特徴。顔の輪郭は四角形で眉が太く、目はぱっちり二重まぶた。耳たぶや鼻は大きく唇は厚い。耳垢は湿っている。血液型はO型とB型が多い。 ▼弥生人の特徴 全体的に細くて背が高く体毛は薄いのが特徴。顔の輪郭は面長で、眉は細く、目は一重まぶた。耳たぶや鼻は細く唇は薄い。耳垢は渇いている。血液型はA型が多い。
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現代日本人は縄文人と弥生人双方の遺伝子を引き継いでおり、遺伝子の比率は地方や個人により微差がありますが、弥生人の遺伝子80%に対して、縄文人の遺伝子は20%ほど残っているとの見方もあります。
遺伝子の解析により、本州では太平洋側の都市部(東京・大阪など)、九州では北部(福岡・長崎)は弥生人の遺伝子が多く残っており、反対に本州の日本海側や東北、九州南部や沖縄は縄文人の遺伝子が多く残っている傾向がわかりました。ちなみに調査団体によっては、最も弥生人の遺伝子の濃い都道府県は奈良県という先入観の強そうな統計もあるようです。
縄文人は外見的には古モンゴロイドに近いのですが、遺伝子を解析した結果は新モンゴロイドとほぼ同じ反応を示しました。また、縄文人と同じ遺伝子(Y染色体)を持つのは、日本以外ではチベット人とアンダマン諸島の人々だけとのことです。
■日本人 - Wikipedia
日本列島に住む"日本民族"は、三種類に分けられます。
・大和民族(狭義の日本民族)
日本列島には倭(近畿地方)を中心に、蝦夷(えみし。東日本人)や、隼人(はやと。鹿児島周辺)などの集団も居住していましたが、大和王権の成立後は同化が進み、これらを合わせて大和民族と呼ぶようになりました。
・琉球民族(大和民族の支族と分類する考え方が主)
・アイヌ民族(大和民族と異なる日本列島北部の集団)
■記者会見:日本列島3人類集団の遺伝的近縁性|東京大学
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国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門と、東京大学大学院医学系研究科人類遺伝学専攻分野、東京大学大学院理学系研究科理学部を中心とする研究グループは、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は縄文人の系統と、弥生系渡来人の混血であることを支持する結果を得ました。
日本列島人のDNA分析を行った結果、離れた地域に住む北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は琉球人の次にアイヌ人に近く、一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かりました。
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▲原点(起源:origin)
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古代ギリシア時代
古代ギリシャ時代は紀元前3,000年頃に興りました。これがヨーロッパ内で最も古い文明と考えられています。人種的にはインド=ヨーロッパ語族に属し、バルカン半島からギリシア本土に南下して、エーゲ海域や小アジアに進出した民族です。地中海各地に植民活動を行い、起源前8世紀からアテネなどのポリス民主政を発達させ、美術・文学・演劇・哲学・数学などの文化や学問を形成しました。
◇幾何学 - Wikipedia
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十二音律の算出
紀元前6世紀――まだ五線譜や音階のなかった時代に、古代ギリシャの数学者ピタゴラスは、音程を示す器具のモノコードで音の研究を開始しました。
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研究過程でモノコードを半分の長さにすると、同じ響きのさらに高い音程になることをピタゴラスは発見しました。これが「1オクターブの発見」です。音程は周波数(1秒間で何回���動するか)で決定されます。これをHz(ヘルツ)と呼びます。A(ラ)=440Hzなら秒間440回振動する音。この回数が440Hzから2倍の880Hzになれば、1オクターブ高い音程になります。同じ要領で440Hzの1オクターブ下は220Hzになります。
これで1オクターブの原理は解明されましたが、次に12音律を導き出した方法を解説します。ルート(根音)の2倍が1オクターブ上ということは、4倍は2オクターブ上の音程になります。さらにルートの3倍は、2倍と4倍の間の新たな音程が出現します。それを半分の周波数にして割り出されたのが、最も濁りの少ない和音となる「完全五度」です。
次に他の音程を導き出します。まずルートを1、1オクターブ上を2、2オクターブ上を4として、3(完全五度)を半分にすると1.5になります。
A:E=(1:1.5)x2=2:3 新しい音の導き出し方 ①3倍にする ②1≦f≦2になるまで2で割る
1.5(E5)を3倍にすると4.5になり、それを2で割ると2.25になります。さらに2で割ると1.125が算出されます。これが長2度になりました。さらにこの計算を繰り返すことにより今で言うアイオニアン・スケールが大まかに算出されました。
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ピタゴラスは音同士の響きと相性にも気付きました。最初の計算から割り出された三つの音程で作れる〈ルートと五度の和音〉を「完全五度」と呼び、〈長2度と五度の和音〉を「完全四度」と呼びます。これが和音においてユニゾンの次点で濁りの少ない響きです。
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12音律においてルートから五度は+7の音になります。また、五度の+7は長2度です。これを繰り返し、順序を整列したのが五度圏です。
十二平均律
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現代の一般的な西洋音階における「十二平均律」とは、1オクターブ(周波数880Hz〈A4〉の2倍が1オクターブ上のA5〈1760Hz〉)を12等分にした音律。
十二平均律では、1度(ユニゾン)と8度を除いて整数比率による純正な音程は得られない代わりに、ピタゴラス音律や中全音律で生じる誤差の大きな音程に妨げられることなく、全ての調で演奏が可能で、カラオケのように転調や移調が自由に行えます。
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弦楽器は弓で弾くことで真価を発揮できるのでしょう。
東アジアで十二平均律が算出されたのは以外と早かったようです。明代後期の"朱載堉"(1536年 - 1611年)は、伝統的な十二律の求め方である三分損益法を否定し、1584年に『律学新説』の中で新しい方法「新法密率」を提唱しました。これが2の12乗根に基づく平均律の最初の算出例です。
ヨーロッパで平均律を2の12乗根に基づいて最初に算出したのは"シモン・ステヴィン"(1548年 - 1620年)です。彼は未完成の手稿(1605年頃)でオクターブを10000:5000として平均律を記述。
彼の平均律の理論値からの誤差は±0.43セント未満で、後に"マラン・メルセンヌ"(1588年 - 1648年)が1636年にオクターヴを2000000:1000000として平均律を記述しました。
地動説
中世ヨーロッパでは、地球を中心に天体が公転する「天動説」と、地球は平坦で端は滝という地球平面説が通説でしたが、古代ギリシャでは、すでに「地動説」と地球は球状という説が証明されていました。
北極星の高さが緯度によって違うことから、地面が北極星に対して曲がっているということが発見されました。遠くからの光を平行と見なすと、確度が違うのは「地面が曲がっている」、つまり「地球は球体である」と言うことになるわけです。
エラトステネスは、この理論に基づき、夏至の日に井戸の中まで太陽の光が届く都市アレクサンドリア南部(南中高度90度)のシエネと、それ以外で鉛直に立てた棒の影が作る角度が、これら2ヶ所の緯度の差によるものとみなし、緯度の差は7.2度=地球の周囲1/50であることを突き止めました。
当時の単位が現代ではどのくらいの距離になるか正確には分かりませんが、彼が求めた地球の全周は一説には「46,250Km」となり、実際の地球より17%ほど大きな数字となりますが、当時としては異例の大体合ってる数値でした。
▼惑星の逆行 古代ギリシャ時代から科学者を悩ましたのが惑星の逆行現象。「天体の動きは等速円運動」と信じられていましたが、惑星は稀に地球から見て逆に動くことが観測されました。これを解決するために「導円と周転円」という概念が導入されました。当時は楕円の式が発見されておらず、地動説より天動説の方が惑星の動きを精度よく予測できました。
▼年周視差 年周視差とは、地球が動くなら1年のうちで恒星の見える角度が変わること。年周視差は目視では確認できず、望遠鏡の発明が必要でした。これが天動説の大きな「観測結果」になりました。年周視差が測定できるようになるのは19世紀になってからです。
▼ケプラーの法則 「天体の動きは等速円運動」と気付いた学者が16世紀のドイツの天文学者ケプラーでした。それまでの観測結果や数学の発展により、火星の観測精度が桁違いに向上しました。
▼「それでも地球は回る」 16世紀のイタリアの学者ガリレオ・ガリレイの名文句はとにかく「地球はなぜ動くのか」という議論に決定的な答えを出したのは、17世紀のイギリスの著名な学者ニュートンの「万有引力の法則」でした。
弥生時代の景観
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▲古代ギリシャ都市国家「ポリス」
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▲三国志「魏延の陣」
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▲弥生時代「高床式住居」
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▲高知県「水車」
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>縄文時代
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kowalski38 · 2 months
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moko1590m · 2 months
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美桜ちゃん【日本本位主義】 @UruwashiSakura 今見ている資料に江戸時代の日本人が白人と黒人の"ガチ率直な意見"を述べている箇所があって驚いてる。 だってボロクソの直撃弾すぎて… 我々日本人が白人を"南蛮人"と呼んでいた本当の理由、それがよくわかるのでツリーに残しておく。 読みやすい真面目な要約もありますよ 《タップでツリー展開》↓ 午後2:37 · 2024年7月21日 @UruwashiSakura · 江戸時代の日本人の白人評1: 「…といっても、あんなに理法にはずれたことばかりする者どもを、どうして野蛮人と思わずにいられようか。実際彼らは靴も脱がず、脛当(脚絆)もとらずに、お寺に上がりこんで、いや、そこでところ嫌わずやたらに唾は吐くし、痰は飛ばすし、われわれの使っている畳、 @UruwashiSakura · 席を、遠慮会釈もなしに穢すし汚すし、その他、人としての教養をまったく欠くと思われるこの種のことをなして憚らないのである」 (※要約:白人ってあたりかまわず汚すし、礼儀知らずだし、日本に来てるくせに文化リスペクトも教養もねぇーしとんだ野蛮な人種だなコイツら。嫌いだわー) ↓ @UruwashiSakura · 江戸時代の日本人の白人(+黒人)評2: 「…我々として怪訝に堪えないのは、商用で日本へ来るポルトガル人たちの生活の仕方や、処理の仕方が、どうも話とはずいぶん違うように見えることだ。事実、彼らはその食卓で清潔の規範を守っているようには思われない……中略……いきなり手掴みに取り扱って @UruwashiSakura · 何とも醜いばかりか、そのほかにもこの種のことを常に行なって一向意に介せず、われわれの性質や習慣からは、とてもやりきれないことをする。そのうえ、彼らは、食卓の用に、エヂオピア人らしい人間たちや、そのほかとても人間としての洗練にはまったく縁がなさそうな色の黒い人間を侍らせているのを @UruwashiSakura · われわれは見ているのだ」 (※要約:話で聞くより西洋人って不衛生すぎ。素手で直接掴んで飲食をする野蛮人じゃねーか。清潔を大事にする我々日本人からは理解出来ねーわ。あとあいつらが色が黒い未開っぽい人連れまわしてるのも見てるわー) 異人の素手での掴み喰いは種子島の漂着船に関する記録でも @UruwashiSakura · 記述されている内容で、日本人は古くから西洋白人を粗野で無教養な野蛮な人種と見ていた様子がわかる。 なお、この話自体は江戸時代であるものの、某ロックリー氏が言う"弥助という黒人が尊敬されていた"みたいなのはまずあり得ないと思われる。 時代こそ違えどここまで180度正反対になるというのは、 @UruwashiSakura · 日本国特有の連続性から見て考えにくい。 実際に本能寺の変の後、明智光秀が『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として弥助は南蛮寺に送られている。 「家臣は此黒奴を如何に處分すべきか明智に尋ねた處、黒奴は動物で何も知らず、又日本人でない故之を殺さず、印度の @UruwashiSakura · パードレの聖堂に置けと言つた。之に依つて我等は少しく安心した。」一五八二年十一月五日 ルイスフロイスの報告 このポストをした理由は、先人の価値観を借りたり参考にすることが今の日本人に求められてるのではないか…と思ったからです。 私は某白人が自己都合で日本史を捏造したり改竄するのを @UruwashiSakura · 許す気は全くありません。 これは私の過去ポストでも書きましたが、今回の弥助に関連する日本史捏造騒動でやたら弥助を祭り上げようと目論む海外勢力がいます。 この人たちは白人の自己都合+誇れる歴史が無いのを癒したい黒人集団が結託した勢力で、豊かな歴史を持つ国に狙いを付け、今回は日本、 @UruwashiSakura · 前にエジプトも狙われ被害に遭っています。 黒人の方々には同情しますが 私は、私たち大和民族が築いてきた"日本人の歩み"を穢すことを許すつもりは全くありません。 …これが私の率直な考えです。 ---- もしよろしければ拡散(+フォロー)していただけると嬉しいです!ありがとう! @UruwashiSakura · ※補足 弥助は奴隷ではないが、せいぜい「かわいい愛玩動物」or「ペット」であった、と考えるのが最も自然。 現代におけるイヌやネコを信長が珍しくて飼ったようなもの。 侍か、そうでないか…とか言う以前の話よ。 @UruwashiSakura · 現代に来た信長「私が飼ってたペットのことで何をそんなに騒いでいるのかね?」
(1) Xユーザーの美桜ちゃん【日本本位主義】さん: 「今見ている資料に江戸時代の日本人が白人と黒人の"ガチ率直な意見"を述べている箇所があって驚いてる。 だってボロクソの直撃弾すぎて… 我々日本人が白人を"南蛮人"と呼んでいた本当の理由、それがよくわかるのでツリーに残しておく。 読みやすい真面目な要約もありますよ 《タップでツリー展開》↓」 / X
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ayaka0715 · 2 months
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My #YouTube は☀️🥬Myバースデーで再生回数 1600回以上となり😊
ニュース
#大谷翔平 投手と田中真美子夫人のレッドカーペット
vivi国宝級24上半期イケメン🥇3部門#山田涼介 #八木勇征 〔宮世琉弥 〕
#Smileup の救援情報〔旧創業者の事務所である元タレント達〔#森本龍太郎 氏,カウアンオカモト氏 等〕・関係者数は1001人〕
#24時間テレビ 47回目
企画枠の#相葉雅紀 さん,#岩田剛典 さん等、#やす子 ちゃん🏃、#上田晋也 さん他が決定
#ヘルシア はキリンへ
#忍たま 〔新アニメ映画見どころ〕
and more....
〔〕ヒント有り
佐々木蔵之介 💙🐎
西島秀俊 🖤🍩
阿部サダヲ 🧡⚾️
堺雅人 ❤️🦌
戸次重幸 💜🤖
片岡愛之助 💖🍓
kinkikids 💙🎸❤️✝️
6/7、#tiktok は著作権が厳しく永久削除になってしまうため、28日にもって退会〔引退〕をすることになりました。
Instagramは全て凍結されたら引退させていただきます。
今月は気をつけて https://ameblo.jp/kurushige/entry-12831208362.html
あと、詐欺もね。
https://dawaan.com/instagram-bo-fraud/
https://youtube.com/playlist?list=PLeXkmsAZiHBuQgYgcX_INTkdxaS0E-0M0&feature=shared
マンスリーベストナイン2024.7の発表日は月末日曜日
🐉 2024.6.23〔24〕からパリオリンピック開幕の日の候補⇨🥇になったらマンスリーベストナインアワード2024の候補となります。
 
抜き打ちチェックはInstagram引退をするので実施できませんので予めご了承下さい。
都合があれば変更する場合にもございます
インスタの調子が悪い〔#インスタ不具合 の〕時は
アップデート〔バージョン〕か再起動しましょう
出来なかったら
AndroidからiPhoneに変えましょう
 
また見たい方には👍
2度と見たくない方には👎
を押してください。
知らない人はフォローしないように。
皆様、ご視聴をいただきありがとうございます。
今月中で
Amebablog・Instagram・tiktok・youtubeを続きますのでどうぞお付き合いください。
まだ更新していない人はお早めにね。
 
もし、よかったらYouTube チャンネルを登録してね。
現在のInstagram は監督委員会 から違反されていますが、期限切れになると送れなくなるからご勘弁を。
あと、フォローバッグはストーカーの可能性があるから拒否させていただきます。〔フォローをする時は承認必要です。※無言禁止〕
これからも見守る。 扇動行為 破壊活動防止法 tictok instagram 謝罪 
危険なので死語扱い・文句を言ったり、
Instagram以外な写真は載せてしないでね。
インスタ不具合
#誹謗中傷  拘禁刑 ←#炎上 
#アカウント削除
#セックス依存症〔2022年度から18歳以上の新成人制度→人物画〕
 
現在
旧創業者の事務所であるSmileUP 社の救援,ウクライナ、台湾東部、石川県能登地方の#支援・医療期間 を行っております。
 
馬鹿なx・Instagram
あと、SNS詐欺・迷惑行為・犯罪行為は絶対しないで。
ニュース 
18歳までの子供は#激辛 もの〔ポテチ他〕を食べないでください。【速報】激辛チップス販売会社がコメント「一日でも早い回復をお祈り申し上げます」高校生14人救急搬送を受けて(FNN PRIME online) https://u.lin.ee/o6m9quI?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none
熱中症コロナに気をつけて
皆様へのクリエイター達に感謝してあげています。
神藤彩佳🐼💙
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bearbench-tokaido · 2 months
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六篇 下 その一
伏見の京橋から船に乗った弥次郎兵衛と北八。 元の伏見の京橋に戻ってきたのだが、しょげ返るわけでもなく京見物に繰り出すことにした。 伏見稲荷近くの茶屋で弥次郎兵衛が死んだ息子に似ているなかれたりで、方広寺の大仏の前に着いた。
さてここは、大仏殿方広寺のなか。 本尊は盧舎那仏の座像で、身の丈は20メートルもあるだろうか。 堂は西向きにたっていて東西よりも、南北に広い。
弥次郎兵衛と北八は仏前で、なにやら訳のわからない経をよんであらためて、仏像を見上げながら、 「それにしても話に聞いていたよりも、はるかに大きいじゃねえか。 あの手のひらへ畳が敷けそうだ。」 「その畳の上で、何でも出来そうだ。」 と北八はにやついている。 「それにあの鼻の穴からは、人が傘をさしたまま出てこられる。」 と弥次郎兵衛は、顔をしかめたまま言う。 それを聞いて北八は、 「そりゃまだしも、人がさして出るからいいが俺の知り合いの、だらしないやつの鼻の穴からは、瘡(かさ)がひとりでにふき出したことがある。」 と笑っている。
弥次郎兵衛もつられて笑いながら、 「馬鹿なことを。それ、後ろにもまわって見よう。」 と北八と供に、後ろにまわると、 「おや、お背中に窓があいていらあ。」 と指差す。 「あれは、大方、汐をふくところだろう。」 と北八がふざけると、 「なに、鯨じゃあるめえし。」 と穴の方をみてみる。 北八もそちらの方を見ると、 「おやおや、あれをみろ。みんなが柱の穴をくぐっているぞ。」 と穴をくぐる人を見つけた。 「ほんとに、こいつは奇妙奇妙。」 と弥次郎兵衛もその方を見ている。
この御堂の柱にはちょうど人が這ってくぐるぐらいの穴が開いており、実はこの穴、腐りにくくするためのものなのだが、いつのまにかこの穴をくぐり抜けることがご利益に叶うことだと誰かが言い出してから、このようなことが行われるようになったのだ。
さっそく北八もこの穴をくぐってしまい、 「こりゃ、面白い。 しかし俺はくぐられるが、弥次さんは太っているからぬけられめえ。」 と体を起こしながら、弥次郎兵衛にいう。 「何を!俺だって、これくらい。」 と北八を、引きのけ四つんばいになってこの穴に入りだしたのだが、体を半分ほど入れたところでぴたりと動かなくなってしまった。 仕方がないと後ろへ戻ろうとすると、脇にさしている刀のつばが横腹につかえてその痛いこと。
弥次郎兵衛は顔を真っ赤にして、 「あいたたた、こりゃ失敗した。」 その様子を北八は、笑いながら見ていて、 「おやどうした、ぬけられねえか。」 と声をかける。 「これ、手を引っぱってくれ。」 「ははは、こいつはおかしい。」 と北八は、穴の前の方から弥次郎兵衛の両手をぐっとひっぱる。 「あいたたた。」 「根性のない男だ。ちょっとくらい辛抱すればいい。」 となおも北八は、弥次郎兵衛の両手をぐっとひっぱるがびくともしない。
「いやいや後ろの方から、足を引いてくれ。」 「なるほど。そのほうがいいか。」 と今度は、北八は後ろへまわり両方の足をつかむと、 「やあえんさあ、やあ、えんさあ。」 とひっぱりだした。 「あいた、あいた。」 「うるせえな。ちょっとこらえなせえ。 ほれ少しは、出かけたようだ。えんさあ。」 とひっぱりると、体がわずかに動いたようだ。
「ああ、まってくれ、腰骨がおれるようだ。 こりゃ、やっぱり前のほうから引出してくれ。」 と弥次郎兵衛が声をあげるので、北八は又、前へ回って両手をつかんで引く。 「やあえんさ。それ、またこっちへわずかだが、出て来た。」 「こりゃ、たまらぬ。あいたたた。北八、これじゃ、だめだ。 やっぱりさっきのように又、後へ引き戻してくれ。」 「ええ、いろいろなことを言う。」 と北八、又、後ろへまわり足をつかむと、 「やあえんさあ。やあえんさあ。」 と引っ張り出した。
「待て待てやっぱり、前の方から引いてもらおう。」 「ええそんなに前へまわったり後ろへまわったり、引き出しては引き戻しじゃ、らちがあかねえ。 いっぺんに済ましてしまおう。」 と北八は、そばで見ていた人に頼むことにした。 「もし、すみませんが。 誰か穴の前の方から、この男の手を引っ張ってくださいませんか。 わしが、後ろにまわってこの男の足を引っ張りますんで。」 と言う。
それを聞いていた弥次郎兵衛が、 「ばかあいうな。両側からひっぱっては、出るわけがねえ。」 と北八に文句を言うが、 「でる訳がなくても、両方からひっぱると、前へまわったり後ろへまわったりしなくていいわな。」 と北八が笑いながら言う。 そこへ、北八に声をかけられた人が、 「いや、両方から引っ張れば、あの男の胴回りも引っ込むじゃろ。 そしたら、簡単にで出られそうなもんじゃ。」 と笑いながら言う。
北八がぽんと手を叩くと、 「こりゃいいことがある。 酢を一升買ってきて、弥次さんお前に呑ませよう。」 「なぜ?酢を飲むとどうなる。」 「そりゃ、酢を飲むと痩せるということだから。」 弥次郎兵衛はいいから、出してくれという。
それを聞いていた回りの人が、 「ははは、しかしそれじゃ、時間がかかる。 こうしなせえ。どこぞへいって木槌を借りてきて、頭の方から打ち負かしたらよいわいの。」 と適当なことを言うと、 「なるほど、それなら簡単そうだ。しかし、それでは命があるめえ。」 と北八が、真剣な顔をして聞くと、 「なにものにも、犠牲はつき物。」 とこれも、また真剣に答える。
このやり取りを聞いていた、田舎の巡礼者が、 「こりゃ、気の毒なことですな。 わしは遠国のもんだから何もわからんが、人様が困っているのを見るとほってはおけないんで役に立たないかもしれないが、自分の今考えたことを言ってみよう。」 と、北八らに話しかける。 「どうぞ、あの男が助かるのなら、言って聞かせてくんなせえ。」 と北八が促すと、 「はあそれなら言うけども、なんでもあの人の足の先を切り割って山椒の粒をはさませたら、独りでに、ぬけてしまうのし。」 これを聞いて、北八は、 「ははは、そりゃ、蛇が穴に入って出て来ないときにやる方法だろう。 どうせそんなことであろうと思った。」 と思わず笑ってしまう。
また、他の人が、 「こりゃ、わしが知恵をかそかいの。 とにもかくにも、あの男を和やかに引き出すにはこうしなせえ。 真言宗では土砂を死体にかけると、固くならないという。 いっぱい土砂をかけたらいい。」 「砂をかけるくらいなら、一番大きな桶を買ってきたらいい。 手足をちいとばっかし折り曲げたら、はいるべし。」 これまた他の人が言う。 これを聞いていた、弥次郎兵衛は、 「ええ、いまいましい事ばかりいうもんじゃねえ。俺は死体じゃねえ。 無駄口をたたいていないで、はやくどうぞしてくれぬか。」 と言うので北八は、もう一度弥次郎兵衛を見て気が付いた。
「待ちなよ。ははあお前、脇差の柄が横腹につっかえて痛いんだな。」 と手をさし入れてひねくり回し、やっとのことで脇差を抜いてやる。 「なるほど。どうやら、体がゆっくりしてきたようだ。」 弥次郎兵衛は体を動かしてみる。わずかだが動くようだ。 「どれどれ。いや、どなたか、前の方から、押し出して下さいませ。 わしが足をもってこっちへ引き出すから、やあえんさえんさ。」 と北八も、手伝って穴から出そうとする。 回りの人も、 「それ出るわいの。もうちょっとじゃ。息まんせ。」 と声をかける。 つられて、弥次郎兵衛が、 「ああ、ううう。」 と息む。 「ははは、お産と違って、出る奴が息むから、大笑いだ。」 と北八が言うと、皆々大笑いとなる。 「ああ、痛てえ、痛てえ。」 と弥次郎兵衛が声を上げたので、我に返った北八が更に力を入れると、 「しめたぞ。えんやえんや、そりゃ出たぞ。」 とやっとのことで、弥次郎兵衛を引き出した。
弥次郎兵衛は、汗をふきふき、ほっとため息をつきながら 「やれやれありがたい。こりゃどなたもご苦労でございやした。 わたしは伊勢の泊まりでお産の経験があるが、生むよりか生まれる方が、よっぽど切ない。 これ着物がすりきれて、あばら骨がびりびりする。」 と、苦笑いしている。
傘さして 出るお鼻より 柱から あな(穴)おそろしや 身をすぼめても
と詠むと、それを聞いていたみなは大笑いとなる。
つづく。
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blue-item · 4 months
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全国着物でお出かけ特集2024春◇ゲスト一覧
全国着物でお出かけ特集2024春 vol.1 桜とスイーツを巡る ~春の旅編~
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ゲスト◇滋賀県「kimono tento」泉陽香さん ゲスト◇京都府「きものと 編集長」長瀬美由紀さん ゲスト◇大阪府「着楽楽 kimono教室 あべの校」近藤智さん ゲスト◇フランス「Comptoir de Kimono」福西園さん
全国着物でお出かけ特集 2024春 vol.2 和の調べ ~町の息吹編~
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ゲスト◇東京都「銀座 いち利」みたざき要子さん ゲスト◇静岡県「つむぎや」藤田祐作さん ゲスト◇福井県「まき乃呉服店」矢坂美紀さん ゲスト◇愛知県「豊田市役所足助支所 地域振興担当」小野詩織さん
全国着物でお出かけ特集 2024春 vol.3 新緑を愛でる ~春の散歩編~
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ゲスト◇北海道「きもの処 円山彩蔵」小佐川美和さん ゲスト◇山形県「布施弥七京染店」布施将英さん ゲスト◇福島県「きもの伝承・雑貨商きずな」三澤美保さん ゲスト◇奈良県「縁心屋 えにしや」小浜恭子さん ゲスト◇アメリカ「Traditions by Takako」 エルティング孝子さん
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uro-9000 · 1 year
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人���影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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yotchan-blog · 2 months
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