【奈良県】郡山城 . 線路越しに見える桜です . もちろん電車内からでも見えます . (2020/03/26撮影) . #郡山城 #郡山城跡 #桜 #近鉄橿原線 #郡山城址 #郡山城跡公園 #奈良県 #奈良観光 #奈良旅行 #わたしは奈良派 (郡山城) https://www.instagram.com/p/Co-_easPCzw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2023.7.27 ~ 小郡方面へ
夏の太宰府信号場 >(動画編集中)
小郡市でうどんを食べて、> 肉のうめぜん
その足で下見 ~ ラーメンラボ「ヒカリノサキ」
非豚骨系の人気店で、最寄り駅は小郡駅(西鉄大牟田線と甘木鉄道)です。駐車場あります。
お店の前を西鉄電車が走る。
近所の遺跡 ~ 小郡官衙遺跡(おごおりかんがいせき)
下見その2 ~ 花立山「城山公園」> 寸景
奥に進むと花立山穴観音古墳があります。が、ここで雷が鳴りだしたので引き返しました。
> YouTube(1分31秒)
↓ 福岡市内
↑ 西の空 ↓ 東の空
この後10分ほどで打ち付けるような激しい雨が降り始めました。3時半頃、夕方ではないのに夕立のような雨でした。
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あんど亭/高知県いの町【ランチ】〜【ウォーキング】にこにこ館〜波川木漏れ日公園〜農業大学校〜玄蕃城〜波川本願寺〜月田上神社〜仁淀川
あんど亭とは
あんど亭は、高知県吾川郡いの町(こうちけんあがわぐんいのちょう)にあるレストランだ。
あんど亭名物は、生姜煮をたっぷりの野菜と豚肉で炒めた丼。上に乗った卵の黄身をからめるとまろやかな旨味が口いっぱいにひろがる。丼でない豚の生姜焼き定食としても選べる。
あんど亭 | グルメ | 一般社団法人 仁淀ブルー観光協議会 から引用
あんど亭
高知県吾川郡いの町1469−8
088-892-0559
(more…)
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新宮城
徳川御三家紀州藩新宮領支配の中心として明治の廃藩置県まで機能した。
大手門が現在通行できないため保育園となっている二の丸南曲輪の横に設けられた門
本丸に続く駐車場からの登山道
本丸天守台跡にある櫓造のトイレ
鐘の丸(二の丸)跡
水の手口に
鐘の丸から松の丸(三の丸)に続く桝形虎口
松の丸から大手に続く道。これぞ山城
水の手口に続く道だが生い茂る草木に降ることは断念😅
松の丸から見た本丸とそれに連なる出丸の高石垣
眼下に見える水の手曲輪
本丸の石垣郡
いよいよ本丸に向かう。まず本丸に繋がる桝形虎口
本丸
かっては櫓と多門があった😅
眼下に広がる熊野川
出丸
本丸にあった天守台
江戸時代初期の築造らしく斜面が美しい切込み接ぎの石垣
本丸の搦手口
残念ながらこの辺の石垣が崩れて簡易の歩道に
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伐採音を真似る貉(一)
長野県北安曇郡神城村字堀ノ内と美麻(みあさ)村字青具(あおく)の境で、夜、貉が木を伐る音をさせる。
土地の人々は今でもそう言っている。
『郷土研究』三巻六号に掲載された平瀬麦雨氏の報告にはこうある。
貉の一番得意なのは、寒林で木を伐る音をさせることである。
ザイコンザイコンという鋸の音、ドサリという木の倒れる音を深夜によく聞かれる。
また平瀬氏本人から私は以下のような話も聞いている。
東筑摩郡中山村の山の手の人家では、雪の夜、裏の竹藪でゴイゴイゴイと竹を挽き伐る音がする。
この深夜に竹を伐る者もおらんだろうになぁ、と思っていると、やがてバサァンと竹が倒れる音がする。続いてバッサバッサバッサと枝を払う音もする。
翌朝行って見ると、竹が伐られた様子はない。不審に思ってさらによく探すと貉の足跡が見つかるそうだ。
(小池直太郎『小谷口碑集』 「貉の怪異」)
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幻想の銀河を握りしめる
ぼんやりとしているうちに、八月が終わってしまいそうだ。
今年は、ツバメのねぐら入りを見に平城京へ行くタイミングがなかったし、大台ヶ原も二回しかいけなかった。コマドリの写真はもちろん撮れていない。わたしは結構大台ヶ原の運はよくて、行けばコマドリを見ることができていたのだけれど……鳥というのは、なかなかむずかしい。
代わりに先週、十津川村の「玉置神社」というところに行った。
「呼ばれなければ行けない神社」と言われている。奈良県十津川村は、吉野郡に属するのに三重県からだと、和歌山を回った方がはやくつく。
三時半に家を出て、八時半くらいについたかな……。
山に登るタイプの家族と一緒に行ったので、まずは玉置山にのぼった。のぼりはじめてすぐ、カケスが目の前に飛び出してきた。望遠を引いても見切れるくらいの間近でしばらくたたずんでいて、うごけないままシャッターを切った。びっくりした。
こんな幸運があると、(まずこの神社にたどり着けたことが幸運で、「呼ばれていない」ときはカーナビが壊れたり車が壊れたりするらしいが)この土地の神々は、わたしを受け入れてくれたんだ、と思う。
山頂へ行き、下っているあいだに、鳥はあまりいなかったが、見たことのない花をたくさん見た。ホトトギス、という種類の花らしい。
リスがしきりに鳴いていた。
お参りを済ませてから御朱印をもらい、紙製のお守りと陀羅尼助を買った。お守りは最初はスマホケースに入れていたのだが、トイレとかにも持ち歩くことを考えたら、なんだか神様に狼藉を働いているような気がして、財布に入れ替えた。
お参りを終えたのがお昼まえで、そのまま熊野本宮大社へ行った。八咫烏のグッズや置物がたくさんあった。八咫ポストというのがあったので、いずれわたしを澁澤の伯母様と呼ぶ予定のおちいさいひとにはがきを送った。自分には、八咫烏のピンバッヂを買った。木曽駒ヶ岳で帽子をなくしてしまい、お気に入りのライチョウとルリビタキのピンバッヂも一緒になくなってしまったので、新しい帽子に付けた。かわいい。
それはそうと、いま田中芳樹の『銀河英雄伝説』を読みかえしている。先々週の台風で仕事を休んだ日に、急に読み返したくなって読み始めた。いまは6巻。ヤンイレギュラーズが結成されたあたり。
社会情勢が日々悪くなってゆき、暗澹とした未来しか見えない。そんな状況でこの物語を読むと、ラインハルト・フォン・ローエングラムの存在を切望し、いないことに落胆する自分がいてぞっとする。
物語に指摘されずともいまの日本の状況には、成人して参政権のあるわたしにも責任がある。それなのに、絶対的な善性を持った、カリスマ性のある誰かに、この状況を打破してもらおうと期待している。そしてそんな人が現れないことに、毎朝、(通勤の電車で読んでいるので)やるせなさを感じてしまう。
社会のかわらなさ、どうにもならなさ、悪化に歯止めのかからなさ、それらに追い詰められている。
わたしにできるのは自分の善性を信じ、また疑いながら、日々を過ごしてゆくことと、それを他者に働きかけること。それはわたしの現在をいますぐ変えてくれることはないかもしれないが、わたしを澁澤の伯母様と呼ぶ予定のおちいさい人が、人生選択をするころには、作用していてくれればいいと思う。
わたしは生きることをつづけて行けるだけの幸運さがあり、まだ生きるという抵抗をやめずにすんでいる。
そんなことを思いながら、今日は伊良子へ渡った。伊良子清白という詩人は、自分が伊良子という姓だから伊良湖岬のことをあえて「伊良子」と書いたらしい。わたしもそれに倣っている。
行きのフェリーで、シェアオフィスの一階のちゃんぽん屋さん夫妻にである。今日から夏休みでお出かけのようだった。少し話をして、わたしは鳥を鳥にサイドデッキヘ。
鳥羽ー伊良子航路は、神島ー伊良子間にオオミズナギドリが多く飛ぶ。水面すれすれを飛び、ときに水面に片翼の切っ先をすべらせて澪を引くその姿のうつくしいこと。
風を得て、羽ばたかずにただ身を風に乗せている、その動きの簡潔さと効率に感動する。いまは「アホウドリ」と呼ばれているオキノタユウをこの航路で見ることはできず、オオミズナギドリの飛翔を見て想像するしかないが、かれらは荒天のほうが生き生きと飛ぶらしい。眠りながらでも飛び続けられるというから驚きで、その姿をこの目で見たいと切望している。
恋路ヶ浜で去年ノビタキを見たので探そうと思っていたが、暑すぎて無理だった。「日本で二番目においしいかき氷」のお店でかき氷を食べた。このお店はシロップが自家製で、田原の特産物を使っている。わたしはいま銀英伝を読んでいるので、ヤンのことを思いながら紅茶シロップにした。
それにしても、暑かった。水温が上昇しすぎた海には魚が減ったと漁師たちが嘆く。渡り鳥の種類も減ったり変わったり(渡りのルートや時期も変わってしまっているらしい)していると、何十年もバードウォッチングをつづけているひとたちは言う。
人間が滅びてしまっても、鳥や魚たちはやはり各々の営みをつづけるのだろうが、それでも、人間による傷跡のことを考える。遠い昔からわたしたち人間という種族が滅ぼしつづけてきた生物、そしていまだ滅ぼすことをやめない生物たちに対して負っている責任のことを。
帰り際、遊歩道でくちばしにルアーが引っかかっているアオサギをみる。このアオサギも、人間によって迷惑を被っている鳥なのだ。そしてその個体を直接的に救うすべを、わたしは持っていない。
復路にもミズナギドリは飛んでいた。フェリーに併走するように飛ぶ鳥は、とてもうつくしかった。
神島を過ぎ、鳥の姿も見えなくなって、SNSの友人たちに旅の報告をしていたら、TLに自分の本の写真が流れてきた。
千葉の書店「本屋lighthouse」さんが、『ゆけ、この広い広い大通りを』を取り扱ってくれることになった。セーファースペースの取組みをしている書店さんで、この本を並べてもらえることは、ほんとうにうれしい。安心してお買い物できると思うので、本をお求めの方は是非本屋lighthouseさんのショップから買ってください。
日々、いろんなことを考えている。
考えるだけでは、まえに進まないこともたくさんある。それでも、とりあえず考えなければならなくて、考えの果てに、すこしはよい未来がありますようにと思っている。
文フリ大阪が間近だ。
ヨモツヘグイニナからは再録短編集の新刊はあるけれど、どうか日々詩編集室から出る『ゆけ、この広い広い大通りを』をよろしくおねがいします。
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【お知らせ】
祈りの回廊2024年春・夏号の表紙写真に採用いただきました。
藤原宮跡の蓮です。
今日、主要各地に配布されたそうで
探しに行かなくっちゃ♪
【掲載内容】
■特集1 祈りの足跡ー壬申の乱から藤原京の時代ー
日本初の寺院、飛鳥寺(法興寺)が飛鳥に誕生し、その後、飛鳥京や藤原京にいくつかの寺院 が建立されました。その後、平城遷都とともに移転した寺院もあれば、同地で存続した寺院も あり、寺院によっては、別の寺として存続したり、史跡となった場所もあります。これらは世界遺産「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産候補です。また平城遷都後も信仰を守り続けている寺院などもご紹介します。
■特集2
次代を担う二人の仏師 仏師を目指したきっかけから現在の活動、今後の目標などを奈良在住の若手仏師にお話を うかがいました。
■特集3
道長も来た道 吉野・大峯 今年の大河ドラマの主要人物である藤原道長。栄華を極めた道長ですが、まだ政界の頂点を極 める前に奈良県吉野郡にある金峯山を詣でています。なぜ当時の天皇や貴族が金峯山を参詣し たのかを紐解きます。
■特別講話
飛鳥坐神社、金峯山寺への特別インタビュー
■特別開帳情報
2024年3月~9月の秘宝・��仏特別開帳情報をエリア別に紹介
遠方の方はPDFファイルでどうぞ
https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/015guidebook_indivudual/3hjn4yzfvj/
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであ��が、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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最新ライブ情報♡(追加!10/6)
オフィシャルサイトのトップページの写真を新しくしてみました✨
先月に撮ったばかりの新しい写真だよ。
カメラマン都筑淳さんにまたまた素敵な写真をたくさん撮っていただきました!都筑さんの写真はほぼ無修正のまま採用になるので、すごい、、♡
今度はどこで撮影しようかな!年内に行けるかな。
もしオススメの場所を知っていたら、教えてね(^_^)
最新ライブスケジュール⭐️
いよいよ今週末は3,4年ぶりの名古屋&奈良の旅です!
配信もありますので、たくさんの方に観ていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いします💖!!
10月7日(土)名古屋 Music Bar Perch
『名古屋4man Live~take heart~』
Open 18:50 / Start 19:20
前売予約¥3,500 当日¥4,000(+1ドリンク)配信¥2,800
出演:上野まな / 清野あやね / ヒサ絵 / 松岡里果
【入場について】開場15分前からスタッフの指示に従ってお並びいただいた順でのご入場となります。
▶︎ご予約はこちら
▶︎配信チケットはこちら 購入時にアーティスト名のご記入をお願い致します。
10月8日(日)奈良・大和郡山「こおりやま音楽祭"樂"2023」
会場:DMG MORI 大和郡山城ホール〈レセプションホール〉
14:20~14:50 清野あやね
15:00~15:30 松岡里果
15:40~16:10 上野まな 観覧無料・物販サイン会あり
10月13日(金)横浜mint hall
小野亜里沙企画第18弾目☆「出逢えた奇跡にありがとう!」OPEN18:30 / START 19:00
前売 ¥3500(+D別) 当日¥3800(+D別) 配信¥2500
出演:小野亜里沙 / 清野あやね / 鈴音 / 上野まな
サポート:高田慶二(Guitar)
◎出演時間は19:35〜の予定です♬
入場順について*開場15分前にその場にいる人数分での番号シャッフル配布となります。配布時間以降にお越しの方は、来場順にて番号をお渡しさせていただきます。
▶︎ご予約はこちら
10月22日(日)銀座ミーヤカフェ・昼
上野まなPresents「The Green〜Aroma × Songs〜Vol.3」
Open 11:30 / Start 12:00
チケット前売・予約¥3,500 当日¥4,000(+1Drink)配信¥2,800
出演:marina / 林ももこ / 上野まな
グリーンをテーマにした精油の香りで空間を演出🌿✨
サポート:渡辺淳(Guitar)
※入場順は11:15より会場入り口前にてシャッフル整理券を配布。
※入場及び物販整理券について、詳しくはこちらをご覧ください。
▶︎ご予約はこちら ※チケット残り少なめです!
10月29日(日)川崎銀座街商店街
前田有加里大宮ソニックシティワンマン応援企画
川崎銀座街バスカーハロウィンジャック
出演:SENA / 野崎万葉 / 長澤明日香 / 伊藤さくら / 上野まな 15:40〜 / 松岡里果 / 前田有加里
★全アーティストが仮装してライブをお届け!🎃
11月5日(日)東京音実劇場
「今日も誰かの誕生日♪」3マンライブ
開場12:00 / 開演12:30
出演:上野まな / 藤本あかり / 松岡里果
前売3,500円 当日4,000円(+1ドリンク500円)
*配信あり(後日ご案内)
サポート:ピアノ吉野ユウヤ
▶︎ご予約はこちら
11月19日(日) waiwaihall神保町
潮崎ひろのKeep an eye onワンマン連動企画 2nd EYE contact〜律〜
開場11:15 / 開演11:30
料金:¥3,500(ドリンク別) ※配信はございません。
出演:世莉奈 / 上野まな / ひいらぎ繭 / 潮崎ひろの
※11:05シャッフル整理券順入場。
サポート:渡辺淳(Guitar)
▶︎ご予約はこちら
11月26日(日)川崎銀座街商店街
フリーライブ
12月10日(日)銀座ミーヤカフェ
上野まな × Miiya Cafe Presents
『 もうすぐサンタがやって来る⭐︎2023 』
Open 18:30 / Start 19:00
前売り・予約3,500円 当日4,000円(+drink600円)/ 配信2,800円
出演:清野あやね / kaho* / 上野まな
◎終演後にプレゼント抽選会あり!
サポート:ギター渡辺淳
▶︎ご予約はこちら
12月23日(土)奈良・大和郡山城ホール・レセプションホール
「アルケミストと上野まなコンサート」
Open 13:00 / Start 14:00
入場料 ¥5,000(別途ドリンク代500円) 全席自由
出演:上野まな / アルケミスト
サポート:高田慶二(Guitar)
【チケット販売】7月16日10:00〜(電話予約は13:00〜)0743-54-8000
ローソンチケット https://l-tike.com/(Lコード54586)
e+(イープラス) https://eplus.jp/
◎手売りチケットは10/8(日)まで!販売しています♡
12月24日(日)名古屋・栄タイトロープ
HACO-ACO christmas
開場 11:30 / 開演 12:00
前売り¥3,000 当日¥3,500(+1ドリンク¥600)/ 配信¥2,500
出演:上野まな / 九里みほ / 高木みか / しずく
サポート:ギター高田慶次二
▶︎ご予約はこちら
配信チケット↓(※アーティスト名のご記入をお願いします)
1月21日(日)中目黒 楽屋
上野まなBirthdayワンマンライブ2024 〜 Garnet 〜
OPEN 12:00 / START 13:00
前売り予約¥4,400 当日¥5,060(+ご飲食代)・学割あり(チャージ50%OFF)
出演:上野まな(vo,uke) 瀬田創太(Piano) 寺尾陽介(Bass) 太田朱美(Flute)
※全席指定席〔チケット&予約番号順の座席〕
配信¥3,300(ツイキャスプレミア) ※後日お知らせ
2部制・休憩あり
上野まなソロとCandy TreeのSpecialなダブルステージ!
▶︎ご予約はこちら
皆様のご来場、心よりお待ちしております♡
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今年度研究テーマ(2023/7/26)
今年度の研究テーマが出そろいました。
D
・「⻑崎新地中華街」の成立とその影響について
・文化財へのプロジェクションマッピング利用に関する計画論的研究
・考古学遺跡の価値の着目した整備の在り方に関する研究―価値伝達媒体ネットワークとしての遺跡―
・山西省都市における晋商と空間構造の関係及び晋商文化遺産の活用--大同、平遥、運城を例にして
・文化財施策による地域振興の独自性に関する研究
・国定公園管理の在り方に関する研究
・重複利用された制度の住民による受容(休学)
M2
・埼玉県見沼田んぼを事例とした緑地空間の保全管理に関する研究
・無形文化財とまちが互いに与える影響に関する研究 :郡上八幡における郡上踊りの役割
・小笠原諸島のエコツーリズムにおける自主ルールの役割
・広島における記憶継承装置としての被爆建物の現状
・自然風景地における牧野の捉え方の変遷 阿蘇を事例として
・寺院庭園における苔の配置と表現方法(休学中)
M1
・エコツーリズムを通したアイヌ民族による自然管理の伝達に関する研究-世界自然遺産・知床を対象にー
・茅を中心とした伝統的な物質循環の経済的メリット
・宮島における各種指定による評価とガイド内容の関係
RS
・中国景徳鎮における文化遺産の保全と活用に関する研究ー瑶里古鎮を例とし
・中国における郷土博物館の経営モデルについての研究―日中比較の視点からー
他(修了生等)
・文化財の「価値」と「活用」の研究
・ヘドニック法の理論に基づく景観評価モデルの構築:「新美街歴史地区」を対象として
(他研究室所属)
M2
・全国のジオパークにおける拠点施設の役割と課題ーネットワークシステムに着目してー
・世界文化遺産周辺の農地の役割
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山頂には守屋神社奥宮(磐座と石の祠)が鎮座し、弓矢の奉納がされているとのこと。
物部氏の武力のシンボルは『フツ、布都=鉄刀)』、祭祀のシンボルは『フル、布留=鈴)』*1ですが、物部氏の足跡を追っていて弓矢もシンボルであったと考えています。
(河内期物部氏の拠点のひとつが大阪府八尾市(旧河内國渋川郡)。八尾地名の由来に弓や矢を生産する部(べ)の地という説もあります。河内期物部氏はこの他に石上神宮(いそのかみじんぐう、奈良県天理市)、生國魂(現在の大阪城)を主要拠点としていたと考えています。)
【守屋神社(里宮)】信濃と大阪を繋ぐ物部守屋の点と線【物部さん考】 - ものづくりとことだまの国
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2024/9/19 13:00:25現在のニュース
出光興産、CO2排出量「実質ゼロ」ガソリン 日本ゼオンに販売 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/9/19 12:54:35)
日本人学校の男児襲われ死亡、沈黙する中国メディア 当局が統制か(朝日新聞, 2024/9/19 12:54:20)
次期衆院選 共産、千葉全14選挙区で擁立へ 立民との候補者調整での「取引材料」の思惑も([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:51:57)
原発・出口なき迷走:AIで電力需要増 原発整備急ぐ米政府の事情 抵抗少なく | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/19 12:51:39)
北朝鮮、新型戦術弾道ミサイルの試験「成功」 金正恩氏「満足の意」(朝日新聞, 2024/9/19 12:46:50)
原発新増設の巨額コストを国民に負担させる政府の新構想 電気料金にこっそり上乗せ…「反対署名」が始まる:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/9/19 12:46:21)
「元の黙阿弥」由来立て札([B!]読売新聞, 2024/9/19 12:46:12)
中秋の名月 管絃船ゆるり<猿沢池>([B!]読売新聞, 2024/9/19 12:46:12)
1500年前の金銅製冠や蛇行剣保存へ「文化財のお医者さん」活躍 次代へつなぐ科学の目([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:46:09)
弥生時代の気候変動に迫る企画展、奈良・田原本町で開催中 22日には講演会も 福井・水月湖の「年縞」など展示([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:46:09)
采女が身を投げたと伝わる池で管絃船 中秋の名月に「采女祭」([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:46:09)
東北新幹線東京―新青森間、運転再開へ 停止の「はやぶさ・こまち6号」の点検が完了([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:46:09)
食探訪:郡山城跡・番屋カフェ 御殿梅スカッシュ 貴重な実、さわやかに /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/19 12:45:53)
やまとの神さま:飽波神社(安堵町) 太子ゆかり「腰掛け石」も /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/19 12:45:53)
走行中に車両の連結が外れた東北新幹線「脱線していない」とJR東日本、けが人なし([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:39:29)
人気の連結部が真っ二つに 東北新幹線の異例トラブル、車内アナウンスに驚く乗客([B!]産経新聞, 2024/9/19 12:39:29)
「きみの色」電車、長崎の町を運行 長崎電気軌道 /長崎 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/19 12:39:23)
中国で日本人男児死亡 官房長官「通学の安全確保策を至急検討」(毎日新聞, 2024/9/19 12:37:05)
女性管理職、初の1割超に 4割は「ゼロ」 九州・沖縄の企業(毎日新聞, 2024/9/19 12:37:05)
「音や衝撃もなくスーッと停止」 東北新幹線の連結分離、乗客証言 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/19 12:32:30)
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ステージ浦富/鳥取県岩美町【ホテル】素泊まり2名で4,500円と激安コテージ【道の駅】きなんせ岩美で夕食の買い出し
ステージ浦富とは
ステージ浦富(うらとみ)は、鳥取県岩美郡岩美町牧谷(とっとりけんいわみぐんいわみちょうまきだに)にあるコテージだ。
27年秋オープン!5部屋だけのペンション風のお宿です。室料制なので、グループ利用がお得!
ステージ浦富 宿泊予約【楽天トラベル】 から引用
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源平藤橘
■源平藤橘を5分でおさらい。あなたの名字は何氏の流れ?
源平藤橘(げんぺいとうきつ)とは「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」を纏めた四大姓とされます。
公家では苗字とは別に、朝廷の天皇から下賜された「氏」を持っており、それが苗字とは異なる公式な本姓とされます。
◆氏(うじ):氏は親族・血筋を表す。天皇に賜ったものの他、地名や職業に由来。
◆姓(かばね):姓は朝廷が各氏族や個人に与えた位を表すもの。序列を表すために「八色の姓」が制定されたが、奈良時代にほぼ全てが第2位の「朝臣(あそみ・あそん)」となったため無意味になった。
◆苗字(名字):苗字は、同じ氏を名乗るものが各地に増え、区別するために領地の地名などを取って名乗るようになったもの。なお、現代では「氏・姓・苗字」の区別はない。
源平藤橘の「四姓」という呼称は、もともと中国で有力な四氏族を「四姓」と呼んだことに由来され、その日本版「四姓」が源平藤橘だと考えられています。
◇源氏:中国の古書『魏書』より「源を同じくする」より引用
◇平氏:平安京の「平」に由来
◇藤原氏:大和国藤原(現:奈良県橿原市)が起源
◇橘氏:杯に浮かんだ橘にちなむ
橘氏を下賜されたのは、県犬養三千代(あがた の いぬかい の みちよ)という女官。藤原不比等に嫁ぎ、律令体制への改革を影で支えた女性。第43代の女性天皇"元明天皇"より、杯に浮かぶ橘になぞらえ、三千代に橘氏を下賜されました。橘氏は女帝から女官に賜姓され、また歌人や学者を多く輩出した点が特徴です。また、橘氏は織田信長で有名な織田家を輩出しました。
「日本人の90%以上は農民の子孫」とよく言われますが、日本人の祖先を辿ると「源平藤橘」のいずれかに辿り着くとされます。
たとえば「佐藤」「斎藤」「加藤」など藤のつく苗字は藤原氏の子孫にあたるようです。
「勝俣」は、静岡西部の東江や長野県(信濃)、または藤原南家工藤氏流がルーツ。
「渡邊」は嵯峨源氏、源融四世や渡辺綱の子孫とされ、摂津国西成郡渡辺(「大阪淀川の渡し辺り」が語源)が起源。
「錦織」は現・滋賀県の近江国錦織庄がルーツ。清和天皇の子孫。
「林(はやし=リン)」「森(もり=シン)」「王(おう=ワン)」などの漢字一文字の苗字は単姓という中国発祥の苗字。
「木下」は「朴(パク)」、「金子」は「金(キム)」の帰化した苗字。
「山田」は平城天皇の山田皇子や、藤原氏の子孫とされ、家紋は巴・藤・剣かたばみ・五七桐・茶の実・丸に八の字などがあり、語源は、「山の中の田んぼ」とされます。
ちなみに幕府が戸籍を作るにあたり、武家以外の全国民に苗字を交付したのは江戸中期からのようです。
現代日本人とは、三万年以上前にユーラシア大陸から樺太を通り北海道に渡来したか、あるいは南下して朝鮮半島か沖縄周辺を経由して九州に渡来した“縄文人”と、二千年ほど前に同じく大陸から朝鮮半島を経由して九州に渡来した“渡来系弥生人”の混血だとDNA解析で判明しました。
日本における貴族の公家は、かつて朝鮮半島南部に在った百済国の皇族出身である“武寧王”(ぶねいおう)の子孫だと『古事記』『日本書紀』に記されており、その他にもブリヤート人(ロシア連邦やモンゴル国、中華人民共和国に住むモンゴル系民族)、飛鳥時代に《仏教》伝来とともに百済や新羅から来た渡来人。さらには遺伝子解析の結果、三国志の「呉」から戦乱を免れて日本列島に辿り着いた集団も弥生人には含まれるとされます。弥生遺跡で発掘された稲のDNAを解析したところ中国南部産だと判明しています。
「呉服(和服・織物の総称)」「呉竹(くれたけ)」は読んで字の如く呉から渡来したもの。また、漢字の音読みには「漢」と「呉」の二種類があります。
「男(訓読み:おとこ)」の音読み=「だん(漢)」「なん(呉)」
▲国産米「あきたこまち」
奥州藤原氏
古代の東北地方における奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)とは、1087年から源頼朝に滅される1189年までの間、陸奥国(むつのくに。奥州)を中心として東北地方に勢力を持った藤原北家支流の豪族。
奥州とは、陸奥国(福島、宮城、岩手、青森と秋田の一部)と、出羽国(でわのくに。山形、秋田)の両国の総称に用いる場合もあり、この場合は奥羽(おうう)を用いる。最大都市は宮城県の仙台市である。
奥州藤原氏の始祖である藤原清衡は、朝廷に献上品や貢物を欠かさず、そのため朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの奥州支配を容認したとのこと。
当時の朝廷内では源氏と平氏の間で政争が起きたために、奥州にかまっている余裕がなかったという事情もあったのだとか。
奥州藤原氏は中央政権から派遣される国司を受け入れ、協力の姿勢を最後までつらぬき通した。
そうして奥州は源氏と平家の政争とは無縁な土地になり、奥州藤原氏は強大な武力と政治的な中立を背景に「源平合戦」の最中でも、穏やかに独自の政権と文化を確立することになった。
また、縄文時代の東北地方は、気候が温暖化していたと考えられる。
当時の採集・狩猟・漁猟を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、関東地方は縄文時代の遺跡が高密度で多く分布した。
縄文時代に最も人口密度が高かった関東では、当時は最も人口の少なかった関西や四国と比較すると、その30倍の人口があり、東北も5~10倍もの人口があったとされる。
縄文時代の末期に、大陸から九州北部や畿内に水田稲作が伝来し、弥生文化が発達した。東北においても比較的早くに、この弥生文化が伝播したものとされる。
古墳時代には東北でも、宮城・山形などの東北南部で古墳が造られ始めた。奈良盆地にあった前方後円墳もその頃に造られており、大和王権との交流がその頃より始まったと考察される。
一方その頃、毛野国(けのくに。群馬)が形成され、これを上下に分かち、上毛野国(かみつけぬのくに)とし、のちに上野国(こうずけのくに。かみつけぬのくに。かみつけののくに。かみつけのくに)となりました。
現在の群馬県域は、この上野国と一致し、今でも異称として上州(じょうしゅう)、上毛(じょうもう。かみつけ)を用いられます。
郷土の風物や人物を詠んだ「上毛かるた」は広く群馬県民に親しまれ、この上毛かるたでは毛野国を「しのぶ毛の国 二子塚(ふたごづか)」と詠んでおり、数多くの古墳が築かれた古代毛野地域は、東国における有力な《群馬文化圏》を形成したと考えられています。
また、全国の〝こんにゃく芋〟の90%以上は群馬県で生産され、その生産量は年間約5〜6万tにも及びます。
日本で最も〝こんにゃく芋〟の消費が多いのは山形県で、この山形における〝こんにゃく〟の歴史は古く、平安時代からすでに〝こんにゃく〟を食べる《食文化》があったとされます。この〝こんにゃく〟のカロリーは100gあたり5kcalと、非常に低カロリーでダイエットに効果抜群とされます。
今もなお山形県の〝こんにゃく〟消費量は、じつに東京の約2.4倍と言い伝えられています。
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不耐煩
H:無聊,有時衍生不耐煩。不是每件事都很有趣,經歷不耐煩之後,學習才正式開始。管理情緒管理四步驟——面對、接受、處理、放下。一般人的不耐煩是急躁而無耐心的樣子。讀書無趣也會不耐煩,讀出趣味需有一段時間的耐心。20240619W3
網路字典
不耐煩
釋 義
急躁而無耐心的樣子。《宋書.卷五三.庾登之傳》:「炳之為人,強急而不耐煩,賓客干訴非理者,忿詈形於辭色。」《紅樓夢》第一七、一八回:「那時賈薔帶領十二個女戲,在樓下正等的不耐煩,只見一太監飛來說:『作完了詩,快拿戲目來。』」也作「不奈煩」。
不舒服。《紅樓夢》第三五回:「迎春身上不耐煩,不吃飯。」
沒完沒了。《二刻拍案驚奇》卷二五:「鄭蕊珠負極叫喊:『救人!』怎當得上邊人拿住徐達,你長我短,嚷得一個不耐煩。」
十分、不得了。《二刻拍案驚奇》卷二二:「大家多說道:『好一個所在!只該聚飲一回。』公子見說,興高得不耐煩。」
有一段很長的時間。《西遊記》第一五回:「行者道:『菩薩此時已到南海,不耐煩矣。』」也作「不耐心煩」。
情緒心理學:你容易感到不耐煩,其實是對自己的失望
引發不耐煩的五點:
當你發現你有不耐煩的時候,你其實不願意這樣表達。
你有其他更強大負面的情緒,但是你在壓抑。你
你對於對方的反應和要求是失望的,但無法改變。
對方給你的刺激,讓你聽起來像是否定、質疑你。
你做不到/幫不上/吃不下,但無法好好說不。
以上五點,都會引發潛在對自己的失望。
「缺乏耐心」不僅讓自己變得尖銳、不可愛,也會在不自覺中破壞了你與最愛之間的關係。
洪仲清
越是不耐煩,越要試著把話講清楚。具體、清晰,或許寫成文字記錄,能讓我們少講幾次,不必那樣心煩意亂。
情緒管理很重要,平常有健康的作息、飲食、運動,遇到不耐煩,還會提醒自己放慢速度,多深呼吸。把事做好,試著寬容自己與對方,不耐煩自然離開。
消除煩躁感的方法。
深呼吸
大家在緊張、生氣的時候,應該都有通過深呼吸讓自己冷靜下來的經驗吧。深呼吸可以平息波濤洶湧的煩躁怨怒,在止不住激動情緒的時候可以試試看。
傾訴煩心事
有時候你只是需要有個人聽你說,讓情緒有個出口。實質的建議和解決問題都是其次,說不定抒發一下心情就豁然開朗了
教育百科
情緒心理學
「情緒」的英文Emotion源自於拉丁文的Emovere,其中「E」有「出去」的意思,而「movere」則有「移動」、「激動」或「刺激」之意。一般人在使用「情緒」一詞時,雖然可能有不同定義,但應該都同意「情緒」指快樂、哀傷、憤怒、恐懼、愛與恨等個人的意識經驗或感受。
從心理學對情緒的研究開始,到近來發現情緒與心理健康、生理健康、人際關係、工作或學習成效等各方面都密切相關,故情緒研究已與心理衛生及教育接合,致力於指導人們控制及調節情緒,以培養健全的人格,而達到「情緒成熟」的境地。所以情緒研究從實驗室走向實際情境中,由研究情緒狀態,進而探討情緒的變化。相信情緒除了先天不可改變之基本特質外,還存在有許多後天可改變的部分。透過教育及心理衛生的工作,人可以學習調整自己的情緒作用。使情緒之消極、混亂、破壞性減少,成為積極、有組織、且有建設性的表現。
有時候,同理、肯定、良好的連結,就足以強化對方的快樂、自我價值與能量,使他能開始靠自己解決問題。但有時候,我們得想辦法促進非意識層面的改變。
維基百科
情緒
情緒(英語:Emotion)是由神經生理方面變化引起的精神狀態,與思想、感覺、行為反應以及一定程度的快樂或不快樂有不同的關聯。[1][2][3][4] 目前還沒有關於定義的科學共識。[5][6] 情緒通常與心境、氣質、個性、性情(英語:disposition)或創造力交織在一起。
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如何釋放負向思考
很多人會說,把負向的情緒講出來,那心情就會好一點,負向芻思就會比較少一點。但根據研究發現,常常跟別人講出負向的想法或情緒其實是沒有效的,甚至有可能會有反效果。
心情不是由行為決定,而是想法決定,這是認知行為治療很基本的一個概念。
維基文庫
宋書卷五三
庾登之
庾登之字元龍,潁川𨻳陵人也。曾祖冰,晉司空。祖蘊,廣州刺史。父廓,[10]東陽太守。
登之少以強濟自立。初為晉會稽王道子太傅參軍。義旗初,又為高祖鎮軍參軍。以預討桓玄功,封曲江縣五等男。參大司馬琅邪王軍事,豫州別駕從事史,大司馬主簿,司徒左西曹屬。登之雖不涉學,善於世事,王弘、謝晦、江夷之徒,皆相知友。轉太尉主簿。義熙十二年,高祖北伐,登之擊節驅馳,退告劉穆之,以母老求郡。於時士庶咸憚遠役,而登之二三其心,高祖大怒,除吏名。大軍發後,乃以補鎮蠻護軍、西陽太守。入為太子庶子,尚書左丞。出為新安太守。
謝晦為撫軍將軍、荊州刺史,請為長史、南郡太守,仍為衞軍長史,太守如故。登之與晦俱曹氏壻,名位本同,一旦為之佐,意甚不愜。到廳牋,唯雲「即日恭到」,初無感謝之言。每入覲見,備持箱囊幾席之屬,一物不具不坐。晦常優容之。晦拒王師,欲使登之留守,登之不許,語在晦傳。晦敗,登之以無任免罪,禁錮還家。
元嘉五年,起為衡陽王義季征虜長史。義季年少,未親政,眾事一以委之。尋加南東海太守。入為司徒右長史,尚書吏部郎,司徒左長史,南東海太守。府公彭城王義康專覽政事,不欲自下厝懷,而登之性剛,每陳己意,義康甚不悅,出為吳郡太守。州郡相臨,執意無改,因其蒞任贓貨,以事免官。弟炳之時為臨川內史,登之隨弟之郡,優游自適。俄而除豫章太守,便道之官。登之初至臨川,吏民咸相輕侮,豫章與臨川接境,郡又華大,儀迓光赫,土人並驚歎焉。十八年,遷江州刺史。疾篤,徵為中護軍,未拜。二十年,卒,時年六十二。即以為贈。
子沖遠,[11]太宗鎮姑孰,為衞軍長史,卒於豫章太守,追贈侍中。
西遊記/第015回
西遊記第15回
第十四回
心猿歸正
六賊無蹤西遊記
第十五回
蛇盤山諸神暗佑 鷹愁澗意馬收韁
作者:吳承恩第十六回
觀音院僧謀寶貝
黑風山怪竊袈裟→
卻說行者伏侍唐僧西進,行經數日,正是那臘月寒天,朔風凜凜,滑凍凌凌。走的是些懸崖峭壁崎嶇路,疊嶺層巒險峻山。三藏在馬上,遙聞唿喇喇水聲聒耳,回頭叫:「悟空,是那裡水響?」行者道:「我記得此處叫做蛇盤山鷹愁澗,想必是澗裡水響。」說不了,馬到澗邊,三藏勒韁觀看。但見:
涓涓寒脈穿雲過,湛湛清波映日紅。聲搖夜雨聞幽谷,彩發朝霞眩太空。千仞浪飛噴碎玉,一泓水響吼清風。流歸萬頃煙波去,鷗鷺相忘沒釣逢。
師徒兩個正然看處,只見那澗當中響一聲,鑽出一條龍來,推波掀浪,攛出崖山,就搶長老。慌得個行者丟了行李,把師父抱下馬來,回頭便走。那條龍就趕不上,把他的白馬連鞍轡一口吞下肚去,依然伏水潛蹤。行者把師父送在那高阜上坐了,卻來牽馬挑擔,止存得一擔行李,不見了馬匹。他將行李擔送到師父面前道:「師父,那孽龍也不見蹤影,只是驚走我的馬了。」三藏道:「徒弟啊,卻怎生尋得馬著麼?」行者道:「放心,放心,等我去看來。」
他打個唿哨,跳在空中,火眼金睛,用手搭涼篷,四下裡觀看,更不見馬的蹤跡。按落雲頭,報道:「師父,我們的馬斷乎是那龍吃了,四下裡再看不見。」三藏道:「徒弟呀,那廝能有多大口,卻將那匹大馬連鞍轡都吃了?想是驚張溜韁,走在那山凹之中。你再仔細看看。」行者道:「你也不知我的本事。我這雙眼,白日裡常看一千里路的吉凶。像那千里之內,蜻蜓兒展翅,我也看見,何期那匹大馬,我就不見?」三藏道:「既是他吃了,我如何前進?可憐啊,這千��萬水,怎生走得?」說著話,淚如雨落。行者見他哭將起來,他那裡忍得住暴燥,發聲喊道:「師父莫要這等膿包形麼,你坐著,坐著,等老孫去尋著那廝,教他還我馬匹便了。」三藏卻才扯住道:「徒弟啊,你那裡去尋他?只怕他暗地裡攛將出來,卻不又連我都害了?那時節人馬兩亡,怎生是好?」行者聞得這話,越加嗔怒,就叫喊如雷道:「你忒不濟,不濟!又要馬騎,又不放我去,似這般看著行李,坐到老罷。」
哏哏的吆喝,正難息怒,只聽得空中有人言語,叫道:「孫大聖莫惱,唐御弟休哭。我等是觀音菩薩差來的一路神祗,特來暗中保取經者。」那長老聞言,慌忙禮拜。行者道:「你等是那幾個,可報名來,我好點卯。」眾神道:「我等是六丁六甲、五方揭諦、四值功曹、一十八位護教伽藍,各各輪流值日聽候。」行者道:「今日先從誰起?」眾揭諦道:「丁甲、功曹、伽藍輪次。我五方揭諦,惟金頭揭諦晝夜不離左右。」行者道:「既如此,不當值者且退,留下六丁神將與日值功曹和眾揭諦保守著我師父。等老孫尋那澗中的孽龍,教他還我馬來。」眾神遵令。三藏才放下心,坐在石崖之上,吩咐行者仔細。行者道:「只管寬心。」好猴王,束一束綿布直裰,撩起虎皮裙子,揝著金箍鐵棒,抖擻精神,徑臨澗壑,半雲半霧的,在那水面上高叫道:「潑泥鰍,還我馬來!還我馬來!」
卻說那龍吃了三藏的白馬,伏在那澗底中間,潛靈養性,只聽得有人叫罵索馬。他按不住心中火發,急縱身躍浪翻波,跳將上來道:「是那個敢在這裡海口傷吾?」行者見了他,大咤一聲「休走,還我馬來!」掄著棍,劈頭就打。那條龍張牙舞爪來抓。他兩個在澗邊前這一場賭鬥,果是驍雄。但見那:
龍舒利爪,猴舉金箍。那個鬚垂白玉線,這個眼幌赤金燈。那個鬚下明珠噴彩霧,這個手中鐵棒舞狂風。那個是迷爺娘的業子,這個是欺天將的妖精。他兩個都因有難遭磨折,今要成功各顯能。
來來往往,戰夠多時,盤旋良久,那條龍力軟筋麻,不能抵敵,打一個轉身,又攛於水內,深潛澗底,再不出頭。被猴王罵詈不絕,他也只推耳聾。
行者沒及奈何,只得回見三藏道:「師父,這個怪被老孫罵將出來,他與我賭鬥多時,怯戰而走,只躲在水中間,再不出來了。」三藏道:「不知端的可是他吃了我馬?」行者道:「你看你說的話,不是他吃了,他還肯出來招聲,與老孫犯對?」三藏道:「你前日打虎時,曾說有降龍伏虎的手段,今日如何便不能降他?」原來那猴子吃不得人急他。見三藏搶白了他這一句,他就發起神威道:「不要說,不要說,等我與他再見個上下。」
這猴王拽開步,跳到澗邊,使出那翻江攪海的神通,把一條鷹愁陡澗徹底澄清的水,攪得似那九曲黃河泛漲的波。那孽龍在於深澗中坐臥不寧,心中思想道:「這才是福無雙降,禍不單行。我才脫了天條死難,不上一年,在此隨緣度日,又撞著這般個潑魔,他來害我。」你看他越思越惱,受不得屈氣,咬著牙,跳將出去,罵道:「你是那裡來的潑魔,這等欺我?」行者道:「你莫管我那裡不那裡,你只還了馬,我就饒你性命。」那龍道:「你的馬是我吞下肚去,如何吐得出來?不還你,便待怎的?」行者道「不還馬時看棍,只打殺你,償了我馬的性命便罷。」他兩個又在那山崖下苦鬥。鬥不數合,小龍委實難搪,將身一幌,變作一條水蛇兒,鑽入草科中去了。
猴王拿著棍,趕上前來,撥草尋蛇,那裡得些影響。急得他三尸神咋,七竅煙生,念了一聲「唵」字咒語,即喚出當坊土地、本處山神,一齊來跪下道:「山神、土地來見。」行者道:「伸過孤拐來,各打五棍見面,與老孫散散心。」二神叩頭哀告道:「望大聖方便,容小神訴告。」行者道:「你說甚麼?」二神道:「大聖一向久困,小神不知幾時出來,所以不曾接得,萬望恕罪。」行者道:「既如此,我且不打你。我問你:鷹愁澗裡,是那方來的怪龍?他怎麼搶了我師父的白馬吃了?」二神道:「大聖自來不曾有師父,原來是個不伏天不伏地混元上真,如何得有甚麼師父的馬來?」行者道:「你等是也不知。我只為那誑上的勾當,整受了這五百年的苦難。今蒙觀音菩薩勸善,著唐朝駕下真僧救出我來,教我跟他做徒弟,往西天去拜佛求經。因路過此處,失了我師父的白馬。」二神道:「原來是如此。這澗中自來無邪,只是深陡寬闊,水光徹底澄清,鴉鵲不敢飛過;因水清照見自己的形影,便認做同群之鳥,往往身擲於水內:故名『鷹愁陡澗』。只是向年間,觀音菩薩因為尋訪取經人去,救了一條玉龍,送他在此,教他等候那取經人,不許為非作歹。他只是饑了時,上岸來撲些鳥鵲吃,或是捉些獐鹿食用。不知他怎麼無知,今日衝撞了大聖。」行者道:「先一次,他還與老孫侮手,盤旋了幾合;後一次,是老孫叫罵,他再不出。因此使了一個翻江攪海的法兒,攪混了他澗水,他就攛將上來,還要爭持。不知老孫的棍重,他遮架不住,就變做一條水蛇,鑽在草裡。我趕來尋他,卻無蹤跡。」土地道:「大聖不知。這條澗千萬個孔竅相通,故此這波瀾深遠。想是此間也有一孔,他鑽將下去。也不須大聖發怒,在此找尋;要擒此物,只消請將觀世音來,自然伏了。」
行者見說,喚山神、土地,同來見了三藏,具言前事。三藏道:「若要去請菩薩,幾時才得回來?我貧僧饑寒怎忍?」說不了,只聽得暗空中有金頭揭諦叫道:「大聖,你不須動身,小神去請菩薩來也。」行者大喜,道聲:「有累,有累。快行,快行。」那揭諦急縱雲頭,徑上南海。行者吩咐山神、土地守護師父,日值功曹去尋齋供,他又去澗邊巡遶不題。
卻說金頭揭諦一駕雲,早到了南海。按祥光,直至落伽山紫竹林中,託那金甲諸天與木叉惠岸轉達,得見菩薩。菩薩道:「汝來何幹?」揭諦道:「唐僧在蛇盤山鷹愁陡澗失了馬,急得孫大聖進退兩難。及問本處土神,說是菩薩送在澗裡的孽龍吞了。那大聖著小神來告請菩薩降這孽龍,還他馬匹。」菩薩聞言道:「這廝本是西海敖閏之子,他為縱火燒了殿上明珠,他父告他忤逆,天庭上犯了死罪。是我親見玉帝,討他下來,教他與唐僧做個腳力。他怎麼反吃了唐僧的馬?這等說,等我去來。」那菩薩降蓮臺,徑離仙洞,與揭諦駕著祥光,過了南海而來。有詩為證。詩曰:
佛說蜜多三藏經,菩薩揚善滿長城。摩訶妙語通天地,般若真言救鬼靈。致使金蟬重脫殼,故令玄奘再修行。只因路阻鷹愁澗,龍子歸真化馬形。
那菩薩與揭諦不多時到了蛇盤山,卻在那半空裡留住祥雲,低頭觀看,只見孫行者正在澗邊叫罵。菩薩著揭諦喚他來。那揭諦按落雲頭,不經由三藏,直至澗邊,對行者道:「菩薩來也。」行者聞得,急縱雲跳到空中,對他大叫道:「你這個七佛之師,慈悲的教主,你怎麼生方法兒害我?」菩薩道:「我把你這個大膽的馬流,村愚的赤尻。我倒再三盡意,度得個取經人來,叮嚀教他救你性命,你怎麼不來謝我活命之恩,反來與我嚷鬧?」行者道:「你弄得我好哩。你既放我出來,讓我逍遙自在耍子便了。你前日在海上迎著我,傷了我幾句,教我來盡心竭力,伏侍唐僧便罷了,你怎麼送他一頂花帽,哄我戴在頭上受苦?把這個箍子長在老孫頭上,又教他念一卷甚麼『緊箍兒咒』,著那老和尚念了又念,教我這頭上疼了又疼,這不是你害我也?」菩薩笑道:「你這猴子,你不遵教令,不受正果,若不如此拘係你,你又誑上欺天,知甚好歹?再似從前撞出禍來,有誰收管?須是得這個魔頭,你才肯入我瑜伽之門路哩。」行者道:「這樁事,作做是我的魔頭罷。你怎麼又把那有罪的孽龍,送在此處成精,教他吃了我師父的馬匹?此又是縱放歹人為惡,太不善也。」菩薩道:「那條龍,是我親奏玉帝,討他在此,專為求經人做個腳力。你想那東土來的凡馬,怎歷得這萬水千山?怎到得那靈山佛地?須是得這個龍馬,方才去得。」行者道:「像他這般懼怕老孫,潛躲不出,如之奈何?」菩薩叫揭諦道:「你去澗邊叫一聲『敖閏龍王玉龍三太子,你出來,有南海菩薩在此。』他就出來了。」
那揭諦果去澗邊叫了兩遍。那小龍翻波跳浪,跳出水來,變作一個人像,踏了雲頭,到空中對菩薩禮拜道:「向蒙菩薩解脫活命之恩,在此久等,更不聞取經人的音信。」菩薩指著行者道:「這不是取經人的大徒弟?」小龍見了道:「菩薩,這是我的對頭。我昨日腹中饑餒,果然吃了他的馬匹。他倚著有些力量,將我鬥得力怯而回,又罵得我閉門不敢出來。他更不曾提著一個『取經』的字樣。」行者道:「你又不曾問我姓甚名誰,我怎麼就說?」小龍道:「我不曾問你是那裡來的潑魔?你嚷道:『管甚麼那裡不那裡,只還我馬來。』何曾說出半個『唐』字?」菩薩道:「那猴頭專倚自強,那肯稱讚別人?今番前去,還有歸順的哩。若問時,先提起『取經』的字來,卻也不用勞心,自然拱伏。」
行者歡喜領教。菩薩上前,把那小龍的項下明珠摘了,將楊柳枝蘸出甘露,往他身上拂了一拂,吹口仙氣,喝聲叫:「變!」那龍即變做他原來的馬匹毛片。又將言語吩咐道:「你須用心還了業障,功成後超越凡龍,還你個金身正果。」那小龍口啣著橫骨,心心領諾。菩薩教悟空領他去見三藏。「我回海上去也。」行者扯住菩薩不放道:「我不去了,我不去了。西方路這等崎嶇,保這個凡僧,幾時得到?似這等多磨多折,老孫的性命也難全,如何成得甚麼功果?我不去了,我不去了。」菩薩道:「你當年未成人道,且肯盡心修悟;你今日脫了天災,怎麼倒生懶惰?我門中以寂滅成真,須是要信心正果。假若到了那傷身苦磨之處,我許你叫天天應,叫地地靈;十分再到那難脫之際,我也親來救你。你過來,我再贈你一般本事。」菩薩將楊柳葉兒摘下三個,放在行者的腦後,喝聲:「變!」即變做三根救命的毫毛。教他:「若到那無濟無主的時節,可以隨機應變,救得你急苦之災。」行者聞了這許多好言,才謝了大慈大悲的菩薩。那菩薩香風繞繞,彩霧飄飄,徑轉普陀而去。
這行者才按落雲頭,揪著那龍馬的頂鬃,來見三藏道:「師父,馬有了也。」三藏一見,大喜道:「徒弟,這馬怎麼比前反肥盛了些?在何處尋著的?」行者道:「師父,你還做夢哩。卻才是金頭揭諦請了菩薩來,把那澗裡龍化作我們的白馬,其毛片相同,只是少了鞍轡。著老孫揪將來也。」三藏大驚道:「菩薩何在?待我去拜謝他。」行者道:「菩薩此時已到南海,不耐煩矣。」三藏就撮土焚香,望南禮拜。拜罷,起身即與行者收拾前進。行者喝退了山神、土地,吩咐了揭諦、功曹,卻請師父上馬。三藏道:「那無鞍轡的馬,怎生騎得?且待尋船渡過澗去,再作區處。」行者道:「這個師父好不知時務!這個曠野山中,船從何來?這匹馬,他在此久住,必知水勢,就騎著他做個船兒過去罷。」
三藏無奈,只得依言,跨了刬馬。行者挑著行囊。到了澗邊。只見那上流頭,有一個漁翁,撐著一個枯木的栰子,順流而下。行者見了,用手招呼道:「那老漁,你來,你來。我是東土取經去的,我師父到此難過,你來渡他一渡。」漁翁聞言,即忙撐攏。行者請師父下了馬,扶持左右。三藏上了栰子,揪上馬匹,安了行李。那老漁撐開栰子,如風似箭,不覺的過了鷹愁陡澗,上了西岸。三藏教行者解開包袱,取出大唐的幾文錢鈔,送與老漁。老漁把栰子一篙撐開道:「不要錢,不要錢。」向中流渺渺茫茫而去。三藏甚不過意,只管合掌稱謝。行者道:「師父休致意了,你不認得他?他是此澗裡的水神。不曾來接得我老孫,老孫還要打他哩。只如今免打就夠了他的,怎敢要錢!」那師父也似信不信,只得又跨著刬馬,隨著行者,徑投大路,奔西而去。這正是:廣大真如登彼岸,誠心了性上靈山。
同師前進,不覺的紅日沉西,天光漸晚。但見:
淡雲撩亂,山月昏蒙。滿天霜色生寒,四面風聲透體。孤鳥去時蒼渚闊,落霞明處遠山低。疏林千樹吼,空嶺獨猿啼。長途不見行人跡,萬里歸舟入夜時。
三藏在馬上遙觀,忽見路傍一座莊院。三藏道:「悟空,前面人家,可以借宿,明早再行。」行者擡頭看見道:「師父,不是人家莊院。」三藏道:「如何不是?」行者道:「人家莊院,卻沒飛魚穩獸之脊,這斷是個廟宇庵院。」
師徒們說著話,早已到了門首。三藏下了馬,只見那門上有三個大字,乃「里社祠」,遂入門裡。那裡邊有一個老者,項掛著數珠兒,合掌來迎,叫聲:「師父請坐。」三藏慌忙答禮,上殿去參拜了聖像。那老者即呼童子獻茶。茶罷,三藏問老者道:「此廟何為『里社』?」老者道:「敝處乃西番哈咇國界。這廟後有一莊人家,共發虔心,立此廟宇。里者,乃一鄉里地;社者,乃一社土神。每遇春耕、夏耘、秋收、冬藏之日,各辦三牲花果,來此祭社,以保四時清吉、五穀豐登、六畜茂盛故也。」三藏聞言,點頭誇讚:「正是『離家三里遠,別是一鄉風』。我那裡人家,更無此善。」老者卻問:「師父仙鄉是何處?」三藏道:「貧僧是東土大唐國,奉旨意,上西天拜佛求經的。路過寶坊,天色將晚,特投聖祠,告宿一宵,天光即行。」那老者十分歡喜,道了幾聲「失迎」,又叫童子辦飯。三藏吃畢,謝了。
行者的眼乖,見他房簷下有一條搭衣的繩子,走將去,一把扯斷,將馬腳繫住。那老者笑道:「這馬是那裡偷來的?」行者怒道:「你那老頭���,說話不知高低。我們是拜佛的聖僧,又會偷馬?」老兒笑道:「不是偷的,如何沒有鞍轡韁繩,卻來扯斷我晒衣的索子?」三藏陪禮道:「這個頑皮,只是性燥。 ──你要拴馬,好生問老人家討條繩子,如何就扯斷他的衣索?──老先生,休怪,休怪。我這馬,實不瞞你說,不是偷的。昨日東來,至鷹愁陡澗,原有騎的一匹白馬,鞍轡俱全。不期那澗裡有條孽龍,在彼成精,他把我的馬連鞍轡一口吞之。幸虧我徒弟有些本事,又感得觀音菩薩來澗邊擒住那龍,教他就變做我原騎的白馬,毛片俱同,馱我上西天拜佛。今此過澗,未經一日,卻到了老先的聖祠,還不曾置得鞍轡哩。」那老者道:「師父休怪,我老漢作笑耍子,誰知你高徒認真。我小時也有幾個村錢,也好騎匹駿馬。只因累歲迍邅,遭喪失火,到此沒了下梢,故充為廟祝,侍奉香火。幸虧這後莊施主家募化度日。我那裡倒還有一副鞍轡,是我平日心愛之物,就是這等貧窮,也不曾捨得賣了。才聽老師父之言,菩薩尚且救護神龍,教他化馬馱你,我老漢卻不能少有周濟。明日將那鞍轡取來,願送老師父,扣背前去,乞為笑納。」三藏聞言,稱謝不盡。早又見童子拿出晚齋。齋罷,掌上燈,安了鋪,各各寢歇。
至次早,行者起來道:「師父,那廟祝老兒昨晚許我們鞍轡,問他要,不要饒他。」說未了,只見那老兒果擎著一副鞍轡、襯屜、韁籠之類,凡馬上一切用的,無不全備,放在廊下道:「師父,鞍轡奉上。」三藏見了,歡喜領受。教行者拿了,背上馬看,可相稱否。行者走上前,一件件的取起看了,果然是些好物。有詩為證。詩曰:
雕鞍彩晃柬銀星,寶鐙光飛金線明。襯屜幾層絨苫疊,牽韁三股紫絲繩。轡頭皮劄團花粲,雲扇描金舞獸形。環嚼叩成磨煉鐵,兩垂蘸水結毛纓。
行者心中暗喜,將鞍轡背在馬上,就似量著做的一般。三藏拜謝那老,那老慌忙攙起道:「惶恐,惶恐。何勞致謝?」那老者也不再留,請三藏上馬。那長老出得門來,攀鞍上馬。行者擔著行李。那老兒復袖中取出一條鞭兒來,卻是皮丁兒寸劄的香籐柄子,虎筋絲穿結的梢兒,在路傍拱手奉上道:「聖僧,我還有一條挽手兒,一發送了你罷。」那三藏在馬上接了道:「多承布施,多承布施。」
正打問訊,卻早不見了那老兒。及回看那里社祠,是一片光地。只聽得半空中有人言語道:「聖僧,多簡慢你。我是落伽山山神、土地,蒙菩薩差送鞍轡與汝等的。汝等可努力西行,卻莫一時怠慢。」慌得個三藏滾鞍下馬,望空禮拜道:「弟子肉眼凡胎,不識尊神尊面,望乞恕罪。煩轉達菩薩,深蒙恩佑。」你看他只管朝天磕頭,也不計其數。路傍邊活活的笑倒個孫大聖,孜孜的喜壞個美猴王,上前來扯住唐僧道:「師父,你起來罷,他已去得遠了,聽不見你禱祝,看不見你磕頭,只管拜怎的?」長老道:「徒弟呀,我這等磕頭,你也就不拜他一拜,且立在傍邊,只管哂笑,是何道理?」行者道:「你那裡知道,像他這個藏頭露尾的,本該打他一頓;只為看菩薩面上,饒他打,儘夠了,他還敢受我老孫之拜?老孫自小兒做好漢,不曉得拜人,就是見了玉皇大帝、太上老君,我也只是唱個喏便罷了。」三藏道:「不當人子,莫說這空頭話。快起來,莫誤了走路。」那師父才起來收拾,投西而去。
此去行有兩個月太平之路,相遇的都是些羅羅、回回、狼蟲虎豹。光陰迅速,又值早春時候。但見山林錦翠色,草木發青芽;梅英落盡,柳眼初開。師徒們行玩春光,又見太陽西墜。三藏勒馬遙觀,山凹裡有樓臺影影,殿閣沉沉。三藏道:「悟空,你看那裡是甚麼去處?」行者擡頭看了道:「不是殿宇,定是寺院。我們趕起些,那裡借宿去。」三藏欣然從之,放開龍馬,徑奔前來。
畢竟不知此去是甚麼去處,且聽下回分解。
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