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#長久手夫婦価値観問題
tanakaeri · 11 months
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あなた以外の人に左右される選択肢は不自由を感じる
知らない間に誰かに選択肢を委ねてしまっていたり大切だと感じている人の選択肢の中でしか考えられなくなってしまうこと、人はとても不自由と感じるのです。 何故って いつも誰かに振り回されていると感じて、相手を責めたくなることがあるでしょう。 自分の選択肢は揺るぎない大切な想いがこもったものです。 パートナーからの心無い言葉に傷つき、孤独を感じることもあります。 誰も自分と同じ人ではないから、全て理解することは難しいのです。 一緒にいるのに 孤独を感じる辛さと、相手からの心無い言葉に辛さを感じているならば、新しい地図へ、一歩踏み出すタイミングかもしれません。 カップルセラピーでは、お互いの理解を深める目的があります。 ジャッジではありませんし、自分にとって良い方向を見つけ出すきっかけとなります。 穏やな晴天の週末となりそうですね。素敵な時間をお過ごし下さいませ。 心理カウン…
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blue-aotan · 1 year
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ハロー(´ー∀ー`)2023.7.8
7月になってしまいましたね!
大雨続きでしたが今の所被害はなく安全に暮らせております。梅雨はまだ明けてないので今後も警戒していきたいところです。
さて、久々に私の愚痴でも聞いていって下さい。
(唐突w
(大体愚痴しか言ってない←
3月末に髪を切り、それから3ヶ月が過ぎて結べる長さまで伸びてきていい加減切りたいところなのですがとあるババーがついこの間
「全然髪伸びてないね!もう切らなくてもいいんじゃない!いいわね!」
とか言ってきたんですよ。しかも別日に同じ事2回も言われてさ←
その度に「いや、伸びましたけど?」「もう結べる長さになったし」って抵抗していた私です←
(どんだけクソババー嫌いなんw
髪伸びたとか伸びてないとか正直どうでもいいのだけどね。他人の髪とか気にしないしどうでもいいよねー。
それがさ!髪結んで行ったらそのババーが
「ついに髪結んだね!伸びたね!」
って言ってきたんですよ。
いやあんたついこの間全然伸びてないやん言っとりましたがな←
何回もしつこく言ってきたやないかい←
これがクソババーの生態なのですよ、奥さん。
何が言いたいの?という気持ちをぐっとこらえ
「ハハハ(・Д・)」
と乾いた笑いをした私です。
クソババーはね、こっちの対応とか言動とかまず気にしてないし聞いてないのよね。
ただ言いたいだけみたいな感じだし、思ってる事吐き出せたらそれでオッケーなんよ。
でも聞いてないし見てないくせに、自分の思い通りにならない態度とか取ったらすぐ怒るんですよ。
いやーー本当に不快な生物ですねぇ。
引き続きヒト科ヒト属クソババーの生態を観察していきたいと思います!!
現場からは以上です!!
話は変わりまして、最近見たドラマや映画のお話。
まず、今更ながらドラマ「JIN」を見ました。職場のババー達がめっちゃ面白いよ!!って言ってたので見たのですがそこまでハマらず…
シーズン2では早く終わらんかな…と思ってたよね←
ただね、昔の人がこのドラマのような感じだったとしたら。
昔の人はなんて意志が強くて、ひたむきなのだろう…って感動しました。
現代って私が考えるに、SNSの普及によるものかはわからないけど誰かの目にどう映るかに重点置いてて映え重視みたいな部分があると思うんですよね。
承認欲求とも言われるけど、そこに自分の意志や個性はあるのだろうか…って疑問を感じてしまうのです。
かと言って少数派の意見も取り上げられやすく、人と違う事をしている人にも称賛を送られる事が増えたようにも思います。良いことではある反面、ただ単に人と違う事を言いたい・したい人も増えたように感じたり結局中身ないなーと思ったりします。
でも昔の人って家の為に!とか他人の目とか関係なく志高い人が多かったのかなと思ったり(ドラマのキャラしか分からないけどw
誰にどう思われたいからこその言動とかではなく、はっきりとした自分の意志を持っていてそれは人から見られていなくても軸のブレない気高さがあって。
でもそこは決して自分本位ではなく、誰かの為にという思いが芯にあるのです。
綾瀬はるかの片想いが何と美しい事か…片想いなんて言葉じゃ軽すぎて、片愛なんです。
(なんだそれ
なんかもう愛なんですよ。
愛だろ、愛。
(古いわw
「誰かの為に」の精神って、ロードオブザリングで旅の仲間みんなが「フロドのために」って命をかけるその心に通じるものがあるよね
(ロードオブザリング教の信者かな
報われない想いを抱えて生きていくってつらく苦しいけど美しいとも思うし尊い気持ち��あります
(現実では報われたいけど!自分なら茨の道は歩きたくない!笑
あとは「マシニスト」って映画を観ました。
何故かこの映画の鳥のポーズだけが鮮明に脳裏に残ってて、一度も観た事なかったのよね。
主人公のクリスチャンベールがこの役の為に30キロ痩せて挑んだらしいんだけど、まぁーーガリガリ。
まじで別人。
この命の危険を感じる痩せ方、役の為とは言え鑑賞者にも「大丈夫?」って心配されるであろう骨と皮なのである。
そしてこの主人公は1年間も不眠状態にあり、度々寝ようとするんだけど何かしらの邪魔が入ったりして(後々に幻覚ってことがわかるんだけども)眠れないのよね。
最後に眠れない原因・主人公をとりまく周囲の人との関係性・謎の人物など全てが解明されるんだけど。
はっきり言って鬱映画だよねー。
私としては最後これで眠れる…ってなった時に、何とも言えないモヤモヤな気分になったよね。よかったね、とも思えなかったしずっと苦しむべきだとも思ったし故意ではなかったとしても…被害者の方がやっぱり苦しみが深いのではないかと思ってしまうよね。
それと「キャビン」見返して、デトロイトビカムヒューマンのマーカスが出てて
ええ〜!?マーカスイケメン!しかも体鍛えててかっこよ🫶ってなったよね。
そして春ドラマ「あなたがしてくれなくても」
原作が好きで買ってるんだけど、ドラマは最終回が本当に本当に面白くなさすぎて原作とは別物だったから見なくてよかったのでは、、となりました。
原作のね、陽一のクソさが薄れてたしなんか報われちゃってるし。新名さんはドラマではただのストーカーだったし、あんなこだわり強い執着心の塊みたいな男性じゃないんですよね。全然新名さんじゃない!
そして楓も全然楓じゃない…あれはただのみな実😂
主人公がただ一組の夫婦を壊して自分は元サヤエンドみたいなの、私は本当に許せなかった←
1人で生きていくとか言ってたくせに結局陽一やないかい。何それ(・Д・)せめて新名とくっついてよ。じゃないとみな実が1番可哀想←
原作の細やかな描写があってこそのストーリーだと思うのですよ。
あの原作の繊細な心の機微をドラマで描こうとするのはやっぱり無理がありますよね…
とても残念でした。
話題かわりまして。趣味についてですが…
私がもう12年ほど前から推してる2BROさんについて少し語りたい事があります。
私は今年で動画・配信活動10年になるのですが、その趣味を始める前から弟者さんのファンでした。
数年前からか、三浦大知さんとお友達になりよくコラボするのを見かけますが…
三浦大知さんはね、今から12年くらい前に友人が好きでそれに便乗してライブやら握手会やら行ったことがあってその時にとてもいい人柄だなーと思ったのですよね。
で、弟者さんと三浦さんが初コラボした時はよかったのですが、最近のコラボはあまり好きじゃなくて←
三浦さんのゲーム実況スタイルというか、話し方が私はあまり好きじゃないんだな…って思いました。
三浦さんが弟者さん大ファンでお近づきになったみたいだけど、今では当たり前なんだろうけど慣れすぎてて2人でゲームやってるのに三浦さんが舵を取ってる感があって…ちょっと苦手なんですよね😓
私は信者とかではないけれど(自分ではそう思ってるけどw)三浦さん主導になっちゃうコラボならあまり見ないかなーって何かモヤモヤしてしまいます😶‍🌫️
2人の関係性とか周りがあれこれ口出す事じゃないけど。それも感じ方は人それ��れだと思うし。
細かい事を言えば、「あーはいはいはい」とかはいを2度以上言う人があまり好きじゃない←
(これは話し方の好みの問題
失礼って思っちゃうし、上から目線に感じるのは私の価値観・捉え方なのでしょう。
現実でも「はいはい」って言う人結構いるけど、この人達からしたら相手の思いを汲み取ってますよという思いやりの精神もあるのかもしれませんが。
2BROうんぬんより、別の問題でしたね笑
自分はゲーム実況もするけど、ゲーム実況をよく見る人間でもあるので…かと言って色んな人見たいとはならないんだよね。
好き嫌いが激しいので12年も見続けるっていうのはそれだけ私にとってストレスのない配信者で、考え方に共感したりその人そのものへの興味が途切れないって事は人生でそうあるものじゃないと思います。
(私は無名ではあるけど)ゲーム実況者が他のゲーム実況者の事ってあまり言わない方がいいってどことなくそういう節度みたいな部分あるけど。
たまにはね…いいかなと。
「あまり言わないこと」繋がりでお話をもう一つ。
いつか…いつかこの話をしようと思っていたけど、なかなか口にする事ができなくて正直今も話すべきかどうかよくわかっていません。
私が仲良くしてもらっていたトミさんのお話です。
トミさんは私が動画を始める前にオンラインゲームで友達になった人でした。すごく真面目で優しくて、私が失礼な事を言っても笑って許してくれて何よりも私という人間を無条件に肯定してくれる存在でした。
動画ではよく下僕とかぞんざいな扱いで少しポンコツなトミさんにイライラしたり笑
私がやりたい放題してもとにかく穏やかで。
たくさん色んな話をしました。
人生の先輩であり、色んな相談やしょうもない話まで…気づけば約7年くらい経ち私は本当にたくさん元気づけてもらったり励まされたりしていました。
ですが今から4年ほど前のある日、トミさんは私の前から去っていきました。
トミさんを責めたい訳じゃなくて、そういう風に捉えてほしくないのですが
私はその事を酷いとも思っていないし、理由はわからなかったけど…もしかしたら私が何かしでかしたのかもしれないし笑
今となっては自分のせいとも思っても仕方がないというか…トミさんが決めた事だし、その裏には色々理由があったかもしれません。
私はただ、感謝の気持ちの一つすらも言えなかったので。
10周年記念動画にトミさんありがとうって気持ちを込めました。
当時はめちゃくちゃ自分を責めたし、何より辛くてこの話はできませんでしたね。
今はトミさんが地球のどこかで、穏やかに笑って過ごせていたらいいなと思います。
私が何かしでかしていたらそれは本当に申し訳ないけど←
私はずっとトミさんを応援します。
そんなお話でした。
何年もずっと続いてきたものが、この先もずっと続く訳ではありません。
人間関係も考え方も日々変わっていくし、自分が大事にしたくても終わりが突然きたりすることがあります。
自分にとっての大切なものについて、考えさせられながら…自分も大事にしていきたいですね
( ˊᵕˋ )
真面目か!!!
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yotchan-blog · 6 months
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2024/3/26 12:59:59現在のニュース
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toukubo · 5 years
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ロングテールな心理障害としての軽度自己愛過剰性
書き途中でドラフト保存しようとしたらポストされてしまい数十リブログされてしまって元記事消しても漂ってるやつ消えてくれないので上書き的に仕方ないから書いてく。
あ、これはタンブラーのいいところでもあるとは思う。こういうところ(適当にドラフトに近いものをタンブルログ的に書いているものが許される)がなかったら僕は文章をネットで書き続けることはなかったと思う。昔も書いてたけど、僕は一応、文章をがっつり書いていく(ブログ)とかやると、3ヶ月くらいで1000とか2000くらいの購読者、フォロワーは付いてきたので、そういう存在なんだろなという数値の記録はあるが、やっぱり影響力の形として知名度性みたいなものを避けたいと思ってきた。クリエイティブな人たちとの交流や彼らに影響を与える(与えられる)ことに加え、「領域を超えた人たちの届くくらい」の影響力が欲しい。でそれは数千から1万くらいの創造的な人たちがフォローしてくださったり、批判や意見をくれることはありがたいと思っていた。
さらに関係ないけどアップルのキーボードやっぱダメだね。もともと長くHHKBとかリアルフォースずっと使っていて、マックの薄いキーボードはここ十年くらいデスクトップでも使っていたけど打鍵のノリが全く違くて戻したら脳と文章直結感パなくてこないだ見たくバーかけて行っちゃった。
さて自己心理学のことだ。ここに書くことは基本的にはエビデンスベースのことをよく踏まえていると思い、それに考察や個人の観察を加えたことだ。
先述したが、僕は心理学との出会いは早く、早熟でもあったので、14、5歳くらいにはフロイトやユングやアドラーといった古典的な心理学は読んだ。大学では認知科学もやった。僕は数学、理系の人に主軸を置き、プログラマーとしての科学への信念を元に、つまり「神経、脳、人工知能、そのほかあらゆる知能的な振る舞いは唯物論的に機械として捉えることができる。計算不可能性と観察不可能性と、論理による推測が範囲でしか行えないことは、因果関係のネットワーク的性質に全て由来し、ファジーなもの、人間の直感なども「機械的に記述でき、振る舞いはファジー」でいいという結論である。自身もこの計算可能性の限界まで、できる限り論理というもの、因果関係というもの、すなわち宇宙というの基本原理の最終形式を記述しきり、神だかなんだか知らんがそういうものに許される限り明晰にやっちまえばいいと思ってる。そして心理というものが極めて高い自動性を持つこと、エビデンスベース心理学が人の感情、幸福、不幸、そしてその「ネットワーク差分演算をすれば、その人の認知の歪み、心理的なバグ」が見えちゃうってところ前できてるってとこに興奮しまくってる。僕のモチベーションは実のところ皆さんの幸福にはあまりなく、宇宙の解明と創造性の解明みたいなところにある。のだがその中で次第に今の人の心理があまりに辛そうすぎ、不幸に過ぎ、それが無知からくるのだということに気づいた。
こういうストーリーとしてみることもできる。心理学の発展は「スケール最小だが非常に困難であるような心理的障害の治療を目的とし、その解析から始まった」が、次第に「スケールが最大で全ての人にうっすらと影を落とすような心理的障害の解析に向かっている」ということ。スタートアップメカニズムはよく「粒度最小で、皆が見えていないほど小さな欲望や欲求、小さなパターンが、実はものすごい回数発生することに気づいた」ということだ。世界で最もセクシーな人物と性行為をするコストが10億円だとして、それよりも世界で最もセクシーに見える人物の100kのwebpファイルをスマートフォンで3秒みることで得られる小さな快感が10億回発生し、これは100億の富をなすことに気が付いた人たちがいた。15min fameはテクノロジーと出会った。心理学におけるナルシシズム研究には自撮り画像が一時的に被参照回数をスパイクさせることが自己愛過剰性をますことをエビデンスで証明しつつあったりもするぜ。
で、日本においては回避自己愛過剰性って心理的な障害は「ごく軽度なものから、軽度で、しかしスケールが巨大」だ。ロングテールな心理障害だ。精神科医でブロガーなかた(しろくまさんだったか)が、ちょっと言及してる事件は忘れちゃったんだけど、事件を起こした人物をが艦艇によって自己愛性パーソナリティ障害と診断されたことについて(みる限り明らかに回避タイプ)、「双極性とかうつとか、そのほかのより困難の高い心理学的な障害と比べて容易であるというものの場合、自己愛過剰性というしかないからこういう診断になったんだろうなあ」という「軽度の心理的障害はだいたい自己愛過剰性って感じである」という旨を書かれていた(精密でなければ申し訳ない。あくまでの僕の解釈す)。が、実際自己愛性パーソナリティ障害は、特に回避タイプの場合、日常においてはほとんど外部からは目立たないこと、また他の障害からするとご当人の苦しみも軽度である。おそらく医療現場でも自己愛性パーソナリティ障害みたいなものを心療内科に相談に来るケースは極めて稀だろうし、優先して取り組むべき人も多い。
それでもなのだが、自己愛性パーソナリティという、診断がくだり、心理障害であるということがお医者様に言われるほどではないレベルにおいて、現代日本(や世界)で最大の不幸は、回避タイプの自己愛過剰性だ。そしてそのレベルは驚異的に大きい。スケールが数億人、下手したら10億、20億なのかもしれない。僕の考えでは2000万くらいの日本人は「直したら人生が劇的に楽になる」レベルにある。その人の幸福度の体感において一番影響が大きいのが自己愛過剰性である人がそれほどいる。
自己愛過剰性の(研究者としてみるに)面白い点は「別の形をとって」現れることだ。特にその95%をしめる回避タイプは「過剰に回避的に振る舞う」という性質から、その「自己愛過剰性」を隠蔽し、日常的には「ごくごく他人に優しい普通の人」として振る舞うが、突如怒りを表したり、恋愛や仕事やSNSなどで過剰な心理性を表す。一例としては承認欲求。承認欲求という言葉は人口に諧謔してそこそこに久しいが、多く自己愛過剰性に由来すると僕は考えてる。
面白い(というと人の不幸に影響を与えていることなので不謹慎なのかもしれないのだけど)ことに、本当に色々な現象に自己愛過剰性が見て取れる。エドシーランがカリードとコラボレーションプロジェクトと言って出した「beautiful people」という曲は「回避自己愛過剰性ソング」だった。この曲はほぼ「SNS女子」とか「インスタ女子」とか「キラキラした人」とか「ファッションショーの前列にいて、それを写真に撮ってあげる人」のことをビューティフルピープル。と呼び、サビでまずこの「ビューティフルピープル」と名指しを歌い、2バース開けて「それは、僕たちがそうではないもの」と劣等感的なものと「インスタ映えとかしてる人を批判する心理」を表している。で���これだけみると皆さんには「ビューティフルピープルはナルシスト的で、自己愛強そう。承認欲求強そう」と思うかもしれない。事実ナルシストとインスタ女子の相関は統計とかで取られてるので高いでしょうね。でもですね、それを笑う人たち(あなた)の心理は、回避タイプの、自己愛過剰性なんです。承認欲求の裏返し。一種の嫉妬であるし。自己愛健全な人は「気にしない」か「客観的にいって奴らはナルシストだな。」と「まあでもナルシストタイプは別に有害でもないしな」である。「パリピと話すのが怖い」と思うならそれも回避自己愛過剰性。エドシーランの歌にはこれ(美しい人たちがこちらに話しかけてくる。怖い)がダイレクトに歌われるし、非常に多くの人がこれを持ってると思うけど、それは回避だ。大人になっても人見知りするのも軽度であるかもしれないが回避心理の指標にはなりうる。
これあれです。「こういうことに当てはまるのが一発あるだけでその人が自己愛過剰の病気です」とかにはもちろんならないし、本当に心配とかだった医者にでも相談して「大丈夫ですちょっとそういうとこあるかもしれないけど病気ではないです」ということの方が多いと思う。僕が問題にしているのは「うっすらとそういう毛があることがその当人の人生の長きにわたってうっすらと不幸を差し込み、その影響は積み上げるとめちゃくちゃ大きいぞ」ということです。
本当はこれ「結論」というか「対策」として「他者愛性やっぱ超すごいんじゃないか」学術的にいうなら「向社会的行動をとると自己愛過剰性軽減すると共に、自己愛強い場合この幸福度貢献は最高なんじゃないの」ということが言いたい。ギバーであることがその人当人にもたらす幸せがめちゃくちゃでかいとすると人類の愛についての知的議論捨てたもんじゃないなってなってくる。
実のところ人間関係の多くも自己愛過剰性の問題が由来してると僕は思ってる。統計から、人間の幸福度に影響を与えるものは、死の危険に影響するほどの貧困を除けば、「人間関係、健康、労働業務の幸福度、賃金、通勤時間、恋愛」といった感じで序列がある。
で、人間関係、労働、賃金は特に「衛生要因」的で、「上がれば上がるほど幸福度が上がるわけではない」が「失われると幸福度が激減する(不幸度が劇的に上がる)ということになっている。恋愛は青天井なのかもしれないが、基本的には平均化するとこれも衛生要因的なんだろう。そしてこの「下がる方」、つまり人間関係が損なわれたり悩んだりする、とか労働があってなく感じる、とかと、あと「賃金の方が労働より重要に決まってんじゃん」と「本心はそうではないとインタビューなどをするとあぶり出されるのに口ではそういってしまう」などの現象は、その多くが「自己愛過剰性に由来している」と僕は読んでる。自己愛が正常な人の神経症的傾向はめちゃくちゃ少ない。また自己愛過剰な人は常に批判や、自分が嫌われているのではないかということを気にして行動するわけなんだけど、統計科学的には「非常に多くの人が、実際に嫌われている度合いよりも過激なほど嫌われてるかもしれないとバイアス(錯覚)してる」とされている。回避自己愛なんじゃねーかなと思う。自己愛がまともな人は「まーいやそんなそこまで今のことくらいで嫌われることないよ」と「そんな誰もお前とか俺のこと気にしてないよ」と思ってる。自意識過剰も自己愛過剰性に由来する。
シンプルに、「他者愛」の人は、「自分が」ということをあまり脳内で思わない。「相手が」気になっているので、「相手を傷つけたかな」はきにするけど「相手を傷つけたかな」のさきに「それによって自分が嫌われた=傷つくか」など気にしない。なんだか素晴らしく気分が良さそうな奴が現れただろ。
繰り返し書くと思うけど僕の結論は他者愛と、それを共感(これもきちんとした科学、心理学の用語です。共感能力ってのは試験できるレベルに定量化できる実際にある能力)できると自己愛過剰性は軽減するのではないかと思っている。
あとね、幼年期などの友達と親との関係性が自己愛過剰性の最大の原因であるって説がコフートや自己心理学のいってることなんだけど、でこれ「子供を自己愛にしないこと」のキーは、コフートとかだと「子供に共感をしている本当の他者愛で持って接する」が示されていると僕は解釈した。言い換えれば「一対一の関係として、他者愛を受ける」ことを子供は真に感じ取れればいくら叱られたりしても親を信じる。ということかなと思い、おそらく確かに有効だと思う。イケてると思う。が、もう一つは「他者愛的な振る舞い、向社会的行動を無償で行うさま」の「追体験」でもいいと思う。15歳とかになるまでに、周りの友達とか、親とかが「当たり前のように階段でおばあちゃんの荷物を持って一緒に上がっている」のをみて「なんか自分のためにならへんのにやるもんなんね」と、これは自己愛過剰性からすると違和感が脳内に巻き起こる。
僕の考えでは「共感」とは「快楽系まで想像がつく」レベルのことを言うのだと思うのだ。そんで向社会的行動をとるときに人は快楽を得ることがわかってる。またメンタリティ(神経症的な傾向)は安定するといったことも統計で明らかになってる。のだけど、「その行為を行う人」に「子供が共感する」と「あー、、、気持ちいわけだ。。」となる。
向社会的行動や、他者愛的行動がその人そのものに快楽を与え、大きなメリットも伴うことは本当に広く行き渡ればいいなと思う。理論的にこれが明かされようとしてきてるなんてもうめちゃくちゃいい。
あとね、僕はこれ気づいたとき感動で泣くかなと思ったけど(社会システムがこういうものを要請しているとしたらめちゃくちゃ創造的だと思う)、イノベーションのようなものが社会に対してサービスし、またその価値を果たしなら富を維持しようと粘るのではなく早く自己を廃棄し(ドラッカーの言葉だ)、進化に取り残されるくらいなら消え去った方がいい(トムヨークが音楽のイノベーションの中心はテクノにある、という言葉の後にゆった言葉だ)ってゆうときに、これは向社会的行動であるし、イノベーションと向社会的行動を中心に吸え、自己増殖する利子資本系と拮抗するということならば、これは愛の世紀(ゴダールが言った言葉だ)だ。
そのほかにもある。現代において自己愛過剰性は色々なものに「魔を指して」いる。
もっともひどいのはやっぱり恋愛だと思う。現代の恋愛は恋愛の形を詐称した自己愛の充足と奪い合いだ。恋愛は健全なる程度の性愛に基づく。キュンとくるは性欲だもエビデンスでてきちゃったあとで「大事にされることの方が重要で性欲の関係としての恋はいやだ」と思うすら自己愛過剰性だったりする。もちろん過剰な性欲もまたなんか心理的な障害に由来する可能性もあるし、まともなもんですよ。恋愛関係にある人たちは性愛だけではなく友情や信頼関係を築きそれに基づいた行動だって共にするだろうし、そんなのも当たり前です。が自己愛に基づいて、性を否定する傾向とかもはっきりある。何よりもそもそも恋愛、というかあらゆる愛情的な感覚は愛される(受ける)とは無関係だ。
快楽で説明するなら、性愛は(自己愛がまともな人は)快楽が伴う。教科書的に行って性愛やその快楽は存在のための快楽(食事や睡眠)と同程度の快楽だろう。自己愛過剰性を解消する思いは、「恋愛」が「愛してもらえる」という自己愛の形で錯覚でき、「愛されるのではないかという期待」を得るでドーパミンとかが出ちゃうっぽい(ちゃんとはまだ研究が出てない。性愛などのオキシトシンなどが強い関係と自己愛の期待効果などドーパミンが強そうな関係とは明らかに追従するストレスなどが異なるだろうから定量的にも評価されるようになると思う)。自己愛を恋愛に被せて解消しようとする恋愛はつまり1. 聖愛の快楽を得ることができないまま死ぬという絶望的な機会損失を飲み込む 2. ドラッグや砂糖に似て、脳の報酬系(ドーパミン回路)などがぶっ壊れており、快楽ではなく期待報酬のみをえて、苛立ちが続き、依存症患者のように自己愛過剰の解消の希求を続ける借金とパチンコ地獄に生きる人や、あるいはドラッグの金が欲しくて娼婦を営む人(これもエドシーランの歌にあるね。レクイエムフォードリームのパクリだけど)みたいなものだと思う。ここに書いたことは極論的な比喩であり、本当にドラッグ患者のように自己愛に汚染されている人まではそれほどいない。ロングテールであり、「どうも愛されたいのよね」っていう人は素直に快楽を得ていない。
おそらく非常に多くの人(特に女性)においては自己愛過剰性がその人を不幸にする最大の局面は恋愛にあり、恋愛をせず自己愛をキメてるという心理から自由にならないと、端的に幸福にはなりにくい。
また女性の場合は、「恋愛、結婚、そして子供を授かり、育児すること」には本質的に「愛を与えること」と「自己愛ちゃんじゃない、幸せな子供を育てること」という影響があるんだけど、これは最大級の批判だろうけど「愛さねばならない人=恋愛をし、性愛をし、子供を作れることが証明される人」が「愛されたいと思っている」のはやっぱり異常心理であると思うし、愛されたい人は恋愛をする資格がないとも言える。子供が、自分の親が「愛されたいと思っている」と知ったら、衝撃を受けるだろう。「ぼくわたしも愛されたいし子供って愛してもらえる期間だと思ってたんだけど親がなんか愛されたいと思ってるっぽくてきもい」となる。そして実際にこれは自己愛過剰な子供ができ、自己愛過剰な大人が育つ最大の理由と目されている。(毒親とかそういうので心理学読むと出てくる。より学術的なところでもよく出てくる。ただ遺伝的にも神経症的傾向は遺伝の影響度は強いので間引いて考える必要もある。)
次、僕個人的にはこれが一番言いたい。仕事などで、多くの人が、承認欲求などに汚染された仕事をしてる。あと「すごいことをする」という思いを持つ人が「創造性快楽」とか「やってのける喜び」ではなく「認められたい」に依拠していることが多い。心理学でもよく「承認欲求がないとチャレンジしない、あら、自己愛も必要なんだ」という説明がなされる。「認められたいという思いがチャレンジを生んだ。成功者の多くが自己愛過剰だった」みたいなこともよく言われる。僕は完全に否定したい。人に認められるなんてことは一切なくていいと思う。先述した通り、向社会的行動、そして「創造性快楽」というものの二つはもっと輝かしく強い快楽を伴うものだ。実のところ、みなさんが自己愛過剰性を持ちすぎているから、そういう成熟した自己愛(過剰でない自己愛)と、シンプルな創造性、変化へのチャレンジを喜びとする人、あるいは真の芸術のようなものが汚染されてるかもしれない。これは極論だが、音楽芸術のセールスチャートなどでも「自己愛ソング」とかとそれに共感されたい若者が大量に西野カナとか買ってるのはおぞましくて気持ち悪い。トリセツとか自己愛過剰のお手本みたいな曲で大体の語尾に「して」と「くれ」がつき、ギブアンドテイクが他者愛と自己愛のカジュアルな言い換えなら「くれくれくれくれくれくれくれしてしてしてして与えて与えて。奪います奪います奪います。私はしてほしいのです。奪いたいのです。愛されたいのです」という感じ。テイカー。アダムグラントが泣くぞ。で若いこが「そうそうそう。してほしい」って同調して買うんでしょう。いやまあ自己愛過剰が歌に乗って世の中でなってるのはいいとして、芸術の邪魔になるのが最悪だ。そして男は恋愛では自己愛過剰を出さない傾向があるからといって安心してちゃダメで「仕事で承認欲求出してるやつは実のところそれが成就してもストレスしか感じないし幸福を得ない」のでやめたほうがいい。創造性は才能に由来するところが強いので、すべての人に創造的たれとまでは言わないが、統計では作業そのものの没頭性や集中性が労働におけるストレスの最大の軽減要素であり、幸福度すら上昇することも証明が揃いつつある中で、承認欲求にかまけていてはダメだ。
まずは気付くことなのだと思う。軽微であるけど回避的自己愛過剰性があるひとは自分の中にそういう兆候を認めて、アクセプタンス(あるなーそういうとこと認めること)をするだけでもよくなる。もちろんまじで超ちっちゃい善行を行うだけでもそういう人は幸福に、創造的に、快楽的に生きることができるようになる。詐欺的な優しさではなく、相手に共感をして、その感覚を想像し、それは助けられたらさぞいいだろうなあと思った上で、それをすることだ。おばあちゃんがいる。ああ80歳になって筋肉がほとんどなくなったら、今の自分が思っているよりもはるかに階段は高く、ペットボトルの水が一つ入ったバックだって重たいんだろうなあ、と思うこと。人目を気にして人助���ができないという思いが自分にあるならそれが回避自己愛で、恥の感覚はほぼ自己愛過剰性に由来するが、それを受け入れ、だからこそ乗り越えること。そういうことだと思う。
もう一つ書いちゃおう。多分しばらく自己心理学は書かない。優しさと自己愛のことだ。最近家入さん時々話すんだけど彼の中では愛の問題、それと自己心理学体系としての仏教、特に弱さの淵ギリギリまで行って悪を覗き込む親鸞が魅了的なんだろうというのはわかる気がする。僕の考える愛(優しさ、与えること)の概念が、彼のやさしさの観点と同じかは、似ているとは思うけど、同じかはわからない。要人であるので意見が混同すると迷惑かけるので関係ないと思って読んでほしい。
あと彼からは、なんか優しさがみたいなものが特徴の人だと思って��かったのでびびったことをよく言われるなと思うのだが、これもいかに書くようなことなのだと思う。僕は平然と人を批判するし、基本的に言葉は優しいけど、それ以上に、批判した人に対して優しくすることに一切の躊躇もない。また、人に優しくすることに一切の感情が伴わない。
僕は「他者愛」つまり愛の最大の特徴は、「独立性」にあると思う。愛の独立性。
エピソードを話す。
ここに回避自己愛過剰な人がいるとする。Nと呼ぶ。この人は「優しいと認知されている」人だ。しかし回避自己愛過剰性の優しさは、自己防衛を目線の先に期待する、自己防衛のための、攻撃されないための、回避としての優しさだ。もう一人、自己愛が正常で、かつ他者愛が強い人がいる。Lと呼ぶ。
数名がいる酒の席で、LはNを「面と向かって批判」する。ある程度人もいるところで。みんなの前で。口汚く罵ることはないが、はっきりと「これこれこういうとこあかんよ。ぶっちゃけ嫌い。」という。これは批判と、好き嫌いの提示がある。さらにもう一人登場させよう。N'にしよう。この人も回避タイプの自己愛過剰ちゃんだとする。
N'は「Lが怖い人だ」と思う。N'も「Lが怖い人だ」と思う。どうですか?皆さんはN'と同じ立場にいます。Lが怖い人だ、と思いましたかね。
Nは黙って聞いているが、そのまま批判が続けばLは逆ギレする。その手前でLはそういえばNは風邪引いてるじゃないっけそこ寒くね?こっちくる?あとタバコあかんかなと思い消す。あとあったかいソフドリもらう?とゆう。その時Lは「特に表情を変えることもなく」思う。N’は「あれ優しい人だ。あれよくわからない。あれなんだこれ」と思う。Nも思う。「なんで表情が変わらないのか」と思う。
自己愛が正常な人はむしろ、批判者である。良き批判者である。自己愛過剰で回避タイプの人は「批判されるのが怖い」ので、自分を守るという思いで、「他の人を批判したり、意見することが少ない」ということになるし、そこには「怒り」がある。自己愛が正常な人は怒りの伴わない批判をする。回避が過半数の世界では批判者は「あの人は批判をバンバンする人だ」と思われるだろう。自己愛の正常な人の行う批判が「怖いこと」だと認知され、健全な批判や声のでかい人が怖がれるのは、多くの人が回避自己愛過剰であるせいで、批判者は善だろうと僕は思う。もちろん客観性と程度の問題はあるし、批判を受けるものがあまりに自己愛過剰性が強い場合には彼は批判を受け入れることもできないから、気を使ってあげなくてはならないけど。それでもそれらの気遣いは、全て批判者の与える行為だ。社会の大半が自己愛過剰だと、社会は静まり、声の大きさが強調されるわけだけど、批判者が自己愛過剰であることは稀だ。だいたい「本心で薄汚く怒りを伴って罵倒してんなー」ということならそれは愛の人の批判じゃない(その批判者の心理に課題が見受けられる)。ただ、世界のバグを指摘すること、悪を指摘することと、愛にはなんら関係がない。
その上、愛は好き嫌いとすら関係がない。これは僕のお気に入りの概念だ。よく好き嫌いがない人みたいなのがいい人みたいな感覚になるが、そんなことないんだ。他者愛の人は「好き嫌い」がないわけではなく、むしろ自由に好き嫌いを表明する。ないのは無駄な怒りだ。バグを取るぞという使命感だけだ。バグのないシステムが好きなのはあたり前だ。他者愛の人には「嫌いなものだから愛さない」理由がない。嫌いなもの、悪に愛を与えない理由がない。おそらく自己愛過剰な人こそが「好きだから愛する」みたいな感覚を持ってる。お馬鹿さんね。
さらにここには感情が伴わない。おそらく自己愛過剰な人たちは「嫌いなものにすら優しくする」見たく、ロマンチックなエピソードだと認知して感動するかもしれない。「すら」とね。これも心理学でいう認知の歪みなのだと思う。他者愛の人が嫌いな人相手ですら優しくする、とか魅力があるから愛するとかいうわけではないのは、与える行為は自己の中に快楽に基づいて行われるからだ。これも統計で出てる。彼らは「当たり前のことをしたまでです」というかもしれないが内心は「気持ちいいから自分のために」と感じている。
悪人こそ天国に近いのだ。という親鸞の考えにも近いのだと思う。僕は悪人こそ天国に近い、というのはそうかもしれないと思うが、悪人でなくても共感があれば天国に近いと思うし、悪であることと善であることは独立してると思う。愛って言葉キモかったら与えること、でもいい。「悪だから与えない」とか「好きだから与える」とかは「好きなら与えて」と並んで自己愛を僕ら他者愛の人には感じさせる。
愛のレッスンをするなら、設問としては「きもいおっさんがゲロ吐いて倒れてた場合にどう感じ、どう動くのが優しい人か」というと、「きもーい」と思い、口に出す。愛の人もごくごく自然に「きもーい」と思う。「ハゲ散らかしてるー」とも思う。「ウゲーきもーいくさーい美女のゲロだったら飲めるのにー」と思う。だが独立した感覚で、美女がゲロ吐いて寝てるのと同じ速さで水かってやってゲロ気道に入らないように横に寝かせて水枕元において去る。で「あーくさかった」と思い、ハゲうつるかと思ったわ、と思う。もちろん「なんかおっさんも色々辛い感じであーなったんだろかそうだったらかわいそうにな」とも思う。おっさんの気持ちに憑依する。優しい人は多くの人に、そのコンプレックスや辛さに瞬時に憑依する。
社会課題がロングテールに軽度の心理障害なら、軽度で小さな善行で迎え撃てばいいんじゃないかと思う。ジョンレノンならfuck you, give good a chance. とゆうだろう。
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kumikosalon · 5 years
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2ttf · 12 years
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『武士道』に代表される日本人の精神性と最も対照的なのが、中国の『論語』だと李登輝さんは言います。唯一の日本人秘書である早川友久さんが、その意味を解説します。
 私が台湾を初めて訪れ、文字通り「ハマって」しまった頃に読んだ本に、漫画家の小林よしのりが描いた『台湾論』がある。2002年ごろのことだ。この漫画のなかに、もちろん李登輝も登場するのだが、そのなかで忘れられないセリフがある。  李登輝はインタビューに訪れた小林にいう。 「あの当時の日本が、理想的な日本人を作ろうとして、作り上げたのがこの李登輝という人間なんだ」  総統として台湾の民主化を成し遂げた人物が、臆面もなく断言することに衝撃を受けたのだ。
「公」と「私」の区別
 それから十年あまり、まさか自分がその人物のそばで働くことになるとは露ほども思わなかったが、近くで見る李登輝の精神はまさに日本人以上のものだと改めて感じるようになった。そばで見ていて、李登輝が最も厳しく考えているのは「公」と「私」の区別だ。象徴的なのが、李登輝が銀行に口座を持っていないことだ。 「自分はお金のやり取りに一切タッチしない」ということで、いつしか口座はすべて閉じてしまった。原稿料や講演料は、李登輝基金会の口座へ振り込まれる。退任総統としての恩給はすべてお孫さんに渡して、家の内外のやりくりに充ててもらう。台北市内にある自宅の名義もすべてお孫さんの名義だ。  これほどまでに李登輝が神経を尖らせているのは、退任後に何度も根も葉もない噂やでっち上げ報道で名誉を汚されてきたからだ。たとえば、2000年の総統選挙では、李登輝は出馬せず、当時副総統だった連戦が国民党の総統候補となったが、この選挙で連戦は敗れ、民進党の陳水扁が当選した。台湾史上初の政権交代が実現したわけである。  ただ、それは裏返せば、歴史的な経緯はさておき、とにかく戦後50年あまり台湾で政権を担ってきた国民党が初めて下野した瞬間だったともいえる。国民党の内部からみれば、独裁的なそれまでの既得権益を手放し、さらには政権まで手放すことになった最大の「戦犯」の汚名を李登輝に着せるのはむしろ当然の流れだったのかもしれない。  国民党の主席も即座に辞任した李登輝と夫人を襲ったのはマスコミのデマ報道による攻撃だった。選挙が終わり、国民党の下野が決まって一週間もしないうちに、新聞に「李登輝夫人、8,000万米ドルを持って国外逃亡」と書かれたのである。54箱に詰めた米ドルを持って米国に逃亡した、などとまるで見てきたかのようなでっち上げ記事であった。  もちろん、李登輝夫妻は選挙後もずっと台湾にいるわけで、たとえ現在のようにインターネットがない時代であっても容易にその嘘が判明する記事なのだが、「選挙に負けたから国外脱出」という思考経路が、未だ台湾に巣食う中国式思想を思わせる。  中国では、古くから政権が交代すれば、前政権に携わっていた人間は容赦なく粛清されたり、財産を剥奪されるといった、前近代的な「易姓革命」という政治思想があった。つまり、完全なスクラップ・アンド・ビルドで、前政権は跡形もなく消去され、新しい政権を確立するという概念である。  でっち上げニュースを作った人間の頭のなかに、こうした前近代的な「易姓革命」という中華的思想があるからこそ、「李登輝夫人が米ドルを抱えて国外逃亡」という記事になったのだろう。
夫婦であり、戦友であり
 こんなお粗末な記事であっても、名誉毀損の裁判では何年にもわたって闘わなければならなかった。李登輝もその頃のことを思い出し「私のことなら、根も葉もない噂だとほっとけばいい。だけど、家族が犠牲になるのは耐えられない。だから裁判で闘ったんだ」と話すことがある。   こうした一件もあり、李登輝は必要以上に金銭や財産といったものをなるべく自分の手で扱わないようにしてきたし、総統夫人も、滅多なことがない限り、三越やそごうといったデパートに出かけて買い物をすることはない。 「ちょっとデパートに買い物に行くだけで、あぁ李登輝夫人が買い物してるわ、と言われるのが嫌なのよ」と奥様がこぼすのを聞くと、私まで切ない気持ちになる。退任して20年近く経ってもなお、それほどまでに気を遣わなければならないほど辛い経験をされたのかと感じるのだ。  でも、それに続く「だって、私が買い物することで、主人の名誉が傷ついたら困るもの」という言葉に、温かな気持ちを感じ、李登輝と奥様がともに夫婦であるとともに、戦友でもあったのではないかと思う一瞬である。  こうした、公私を峻厳に区別し、名誉を重んじ、金銭に関わる汚名を雪ぐためなら闘うこともいとわない。これはまさに名を重んじ、金銭に執着することを下に見る日本精神なのではないだろうか。  李登輝が、日本人的な精神を持ち、かつそれを重んじていることを窺わせる一端を挙げよう。李登輝には『武士道解題 ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫)という著書がある。最初に日本で出版され、のちに中国語版がいわば逆輸入のかたちで、台湾で出版された。  これは、李登輝自身が、新渡戸稲造の『武士道』を高く評価しているものの、現在の日本では「封建的な思想」として正しく理解されず、世界でも類を見ない素晴らしい日本精神を有しているというのに見向きもされない実情を憂いて書き上げたものだ。はっきり言って、日本人の私でも難解で、最後まで読み通すのさえ忍耐力を必要とするこの『武士道』 だ。ただ、それを平易な言葉に解釈し、特に若い日本人にその真意を伝えたい、という思いから、李登輝自ら執筆したものだ。
李登輝が考える「日本」と「中国」の違い
 そんな、武士道にも精通した李登輝がよく話してくれるエピソードがある。  日本統治時代、李登輝の家庭は「国語家庭」であった。すなわち、日本語を家庭内でも常用する「模範家庭」というわけだ。  とはいえ、台湾人である以上、日本語だけでなく台湾語も身に着けなければならないと両親は考えた。そこで、公学校(当時、台湾人の子弟が通った小学校のこと)中学年くらいになると、近所の廟で開かれていた寺子屋のようなところへ台湾語を習いに行かされた。その台湾語の教科書が『論語』だったというのだ。そして、日本人の精神性と最も対照的な例が中国の『論語』だと李登輝は言う。  李登輝がいつも引用するのは「先進」第11之12だ。「未知生、焉知死(未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん)」。解釈には複数の説があるが、李登輝はごくシンプルに「まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろうか」と解釈する。ここに日本人と中国人の精神の決定的な差があるという。  日本人は「死」を大前提として、限りある生のなかで如何にして自分はこの生を意義のあるものにしていくか、はたまたどれだけ公のために尽くすことが出来るか、という「死」を重んじた精神性を有している。  一方で、中国人の精神性は「まだ生について理解できていないのになぜ死を理解できるか」と正反対だ。そのため生を理解するために生を謳歌しよう、という発想が出てくる。「死」という限られたゴールがあるのであれば、それまでにめいっぱい生を堪能しようという考え方だ。  こうした論語的な発想があるからこそ、中国では「いまが良ければそれでよい」「自分あるいは家族が良ければそれでよい」という自己中心的な価値観や拝金主義がはびこる原因になったのではないかと李登輝は考えている。「死」を前提とし、「いかにして公のために」という日本人的な発想とは根本的に異なるというのだ。  李登輝に言わせれば『武士道』に描かれた精神、つまり「武士道とは死ぬことと見つけたり(葉隠)」という言葉こそ、日本人の精神性を最も表したものだという。日本人とくに武士にとっては「死」が日常生活と隣り合わせであり、常に死を意識しながらの生活であった。その「死」が念頭にある生活のなかで、いかにして人間は生の意義を最大限に発揮していくのか、それが日本人の精神性に大きく影響していると喝破する。  言い換えれば「公」と「私」という概念といっても良いだろう。私から見れば、李登輝はまもなく96歳になる今でも、いかにして台湾のために尽くすか、日台関係のために何が出来るか、という「公」のことを毎日考えている政治家だといえる。
日本人は、本当の中国人というものを知らなくちゃならない
 戦後、台湾は日本の統治を離れ、中華民国(国民党)の占領統治の時代を長く経験してきた。この間、日本語が禁止されることはもちろん、言論の自由さえ奪われた台湾の人々は、息をひそめながら生きてきた。それと同時に、台湾社会からは日本統治下の名残が徐々に失われ、中国的な価値観を持つ社会へと変貌していったともいえる。  日本のメディアから多く問われる質問として「日本はこれから中国とどのように対峙していくべきか」というものがあるが、李登輝が苦笑しながら必ずいうセリフがある。 「日本人は中国人を理解できやしないよ。いつも騙されてばかりだ(笑)。でも私は戦後、何十年も中国人の社会で生きてきた。だから彼らがどうすれば引っ込むか、どうすれば踏み込んでくるか、よく分かる。日本人は、本当の中国人というものを知らなくちゃならない」と。  戦後になり、中国人社会のなかに身を置いた李登輝は、日本人と中国人の精神性の大きな差を感じたに違いない。しかし、日本統治時代に徹底した日本教育を叩き込まれた李登輝は、自ら「日本が作り上げようとした理想が私」と断言しながらその日本的な精神を守り続けてきた。  だからこそ、前回も「李登輝が『台湾民主化は日本のおかげ』と語るワケ」で書いたように、国民党のなかでポストの階段を上がっていきながらも、権力闘争に巻き込まれることもなく、強い信念によって台湾の民主化を成し遂げた。もはや日本でもなかなか見ることの出来ない、これほどまでに日本的な精神を持った人物の言葉を、私たち日本人はもう一度学び直すべきではなかろうか。
早川友久 (李登輝 元台湾総統 秘書)
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crossbreed · 5 years
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■離婚した 平成最後の平日、私たちの結婚生活は幕を閉じた。子供には離婚することは告げていなかったが、役所に行く私を見つめていた眼差しは心なしか寂しそうな顔をしていた気がする。妻のほうから離婚してほしいと言われたが、役所に着いたら「やっぱりやめよう」と連絡があった。私は「今ここで止めてもこの先同じ話を繰り返すだろう」と伝えて離婚届を提出した。他人同士が仲良く暮らすということの難しさを感じた4年間だった。まして子供が生まれるとそれをより痛感していた。道行く家族や両親はこれを乗り越えて私たちを育ててくれていたのかと思うと、親のありがたみを感じる。思えば付き合った当初からすれ違いや喧嘩は多かった。当然、喧嘩がないカップルや夫婦が仲が良いとは思わない。意見の食い違いや価値観の違いを話し合って乗り越えて成長していくものだ。しかし、私たちはそれをしなかった。何かある度に時間に解決してもらった。どちらかのほとぼりが冷めるまで待つだけで、今後同じようなことをしないための取り決めや話し合いを怠った。私はこのやり方は間違っていると気付いていた。しかし、収まった事態をまた掘り返して相手の機嫌を損ねることを恐れた。その場限りの対応で恒久的な対策をしない。今考えても呆れる。ただそのときは彼女の暴言が自分のストレスとなり、どうしても次に生かす話し合いができなかった。せっかく収まったのに、また心無いことを言われるのではないかと。そんなことを続けながら付き合って1年くらい経った。喧嘩の頻度が増えてきていよいよ私が耐えられなくなった。お互いの家は3時間ほど離れており、すぐ会えないことも原因だと考え、同棲を提案した。今思えばここで別れるという選択肢もあったが、私も彼女もお互いに依存してしまっていたのだと思う。『同棲して一緒に居れば大丈夫だろう。』同棲を始め、しばらくはうまくいっていたが、それも長くは続かなかった。やはり根本的に解決していない問題を前にしては、同棲という付け焼き刃では役に立たない。同棲前は物理的な距離があったたため、険悪な雰囲気になっても、自宅で一人知らないふりができた。一緒に住んだらそれができない。同棲したらすべてが解決すると思っていた。「良いことばかりではない。」頭ではわかっていたはずなのに、それが起こったときには結局何もできない。こういうときの対処法をなぜ誰も教えてくれないのだろうか。そんな馬鹿なような真面目なことを考えたりもした。何かあったときは淀んだ空気の中で2人、喋ることもなく置物のように存在していた。最初は問題に向き合っていたが、何度も繰り返すうちに心が錆びていくのを感じた。まるでどうやっても動かない岩を一人で運ぼうとするような。すべてをシャットアウトする彼女を見ると、そんな虚しさを感じた。そんなときでもお互いどちらも居づらくなって、家を出るようなことはしなかった。彼女はそんな状態でも一緒に居ることを望んだ。私は気分転換に家を外したかったが、自分が1人で出掛けることは浮気とみなされたので、それは叶わなかった。一緒に住むと、いわゆる「自分の時間」というものはなかった。仕事をするか家にいるかのどちらかだ。このあたりから別れることを意識するようになった。ただ一緒に住んでしまうとそれは言い出すのが難しかった。そんなときに彼女がぽつりと「結婚」というワードを漏らした。さすがにこれには私は首を縦には振らず、「今の状態ではできない」と伝えた。彼女は泣きながら「自分の行動を改める」と必死で訴えた。『結婚すれば大丈夫だろう。』数日考えて結婚することにした。彼女だけではなく、私自身を改めなければいけないことがたくさんあった。これからは逃げずにぶつかっていかなければなからなかった。染み付いた逃げ癖は自分の中から抜けることなく居座り続けた。ここまで読んでいただければ予想ができる通り、結婚後も何も変わらなかった。彼女は私にありったけの暴言をぶつけ、私は逃げ続けた。彼女の気が済むとまた日常に戻っていく。結婚したら次は子供だった。子供が欲しいということは以前から聞いていたので、結婚後はすぐに欲しがった。子供は愚か2人の関係も続くか問題視していた私は反対した。それにお互い貯金も貯まっていなかった。彼女は激昂した。概ね彼女の意見は以下の通りだった。・産まないほうは何とでも言える。・作ろうとしてもできないこともあり、危険な高齢出産なんかしたくない。・子供を産むのが遅くなったら仕事に影響する。・子供を作るのを止められるなら結婚し��ければよかった。2人の関係が続くかどうかや、こんな状態で子育てができるかどうかは気にしていないようだった。『子供が生まれればこんな状態も終わるだろう』子育てが始まればこんな不毛な争いを夫婦間でやっている暇はないのだ。逃げ続けた私はあろうことか、まだ見ぬ自分の子供に救いを求めた。それからは子供ができればこの生活は終わるんだと言い聞かせて生きてきた。1年ほどで子供を授かり、去年無事産まれた。私の希望的観測は一瞬にして崩れ去った。育児の忙しさやストレスから彼女の攻撃性は増していった。同棲、結婚、出産。夫婦の一大イベントをすべて経験してやっと理解できた。私たちは変われないのだと。もしくは変わる気がないのだ。事あるごとに「離婚しろ」とは言われていたが、今回初めてそれに同意した。彼女は一瞬目を丸くしたが、「そう。」と一言呟いた。そして冒頭に戻る。『一緒に住むようなれば…結婚すれば…子供が生まれれば…きっと私たちの関係は良くなっていくだろう。』そんなことを毎回信じていた。今考えたら何と甘い考えだろうか。話し合うことから逃げて、意見の衝突を恐れて、相手に付き従う。私たちは離婚届など出さずとも、初めから夫婦にはなれていなかった。狂依存の愚かなカップル止まりだったのだ。自分の行動が彼女を狂わせてしまった。自分がまっすぐ正面から向き合って矯正しなければならなかった。自分が例え嫌な思いをしたとしても、それは後々の自分のためになったのに。離婚したことに対して後悔はしなかったが、子供に対しては無責任なことをしてしまったと罪悪感は残った。結婚して子供もいて、何年も何十年も一緒に居る方達には敬意を表する。悪いところは平成に置き去り、元号とともに自分自身を改めないといけないと感じたGWだった。
離婚した
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tanakaeri · 11 months
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「いい人」とやめることは自分らしく生きる事
本当の信頼関係 いい人を演じている時、脳には負担がかかっています。「優しい人だと思われたい」「嫌われたくない」「悪者扱いされるのがいや」そんな思いから笑顔で頼まれごとや我慢をしていませんか? いい人を演じている時は、自分の気持ち演じている自分が脳で葛藤をしています。脳は沢山の抑制をかけている状態になっているのです。 ですから、自分ではいい人を辞めたくても、脳がすぐには変わってくれないということです。 「あなたって、いい人だよね?」という期待を裏切らないように、頑張っていい人を演じ続けて、それが自分であると本当の自分まで変えてしまうところまで到達してしまいます。 ありのままの自分を出せない事、本当の自分を理解されないという気持ちがストレスとなり心や体に反応を起こし始めてしまうのです。 変われないことは、いけないことではありません。変わることが全てうまくいく方法とは限りません。 …
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happytime-en · 5 years
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『  引っ越し大名! ~役が人を育てる~  』
                                                       
みなさん こんにちは
結婚相談所
ハッピータイム県央&みなかみ分室
婚活アドバイザーの佐々木です。
時代小説「引っ越し大名三千里」を
映画化。
姫路藩は、幕府から国替を言い渡される
姫路藩は、度重なる国替からの借金と
これまでにない遠方への引越し
さらに減棒と
国の存亡が危うくなるピンチ!
この国難を乗り切れるかは
国替えを仕切る引っ越し奉行の腕しだい
前任者は激務が原因ですでに亡くなり
国替のノウハウも失われていた
そんな中、書物好きなら博識だろうと
いう理由から人と接するのが苦手で、
いつも書庫にこもっていた書庫番の
片桐春之介が引っ越し奉行に任命
されてしまう。
春之介の幼なじみで武芸の達人である
鷹村源右衛門
前任の引っ越し奉行の娘・於蘭と共に
この国難を乗り切れるのか
月曜日のレイトショー
夏休みも終わり9月の第一週
カップル3組と私一人の計7名による
視聴それぞれの状況に応じて
じっくりと楽しめたのでは
現代社会のさまざまな苦労や問題に
通じるエピソードを手際よく盛り込んで
いるなっと思いました。
藩士全員とその家族も皆新たな領地に
移動する国替えは、例えるなら
会社が他県に移転して全社員と家族が
一緒に引っ越すようなもの
想像を絶する超難関プロジェクト!
その責任者に、本の虫の引き籠り侍が
抜擢される展開面白い
大役を押し付けられて真っ青な弱々
しい状態から周囲に助けられながら
持ち前の長所を活かして
徐々に落ち着き顔つき振る舞いが
大名らしくなっていく。
役が人を育てるのも見もの
リストラの悲哀
(解雇する側とされる側の両方)
もあればBL(ボーイズラブ)要素も
士農工商の身分制度と男尊女卑が
当たり前の時代
そんな価値観に縛られない人たちが
いてもいいよね
というエピソードの数々
カップル鑑賞であれば
現在は、夫婦であっても
それぞれの立場や社会的地位を
主張でき、また それを認め尊重
される世の中、夫婦共働き、転勤と
言えば、単身赴任が当たり前に....
共に生きるからこそ、
それぞれが活かされる
一緒にいることの大切さを
感じられると思う
シングル鑑賞であれば
運命に身を任せ与えられた環境に
真摯に向き合い取り組んでいれば
 結果、世の為、人の為に役に立ち
自らの喜びを得ることが出来ると
感じられると思う。
**********************************************
婚活応援団ハッピータイムグループ
★県央支部 〒371-0812 群馬県前橋市広瀬町2-1-9
★みなかみ分室 〒379-1305 群馬県利根郡みなかみ町後閑311-4
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TEL・FAX 0278-62-2792
携帯 080-1160-5479 支部長 佐 々 木 真 勇
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gkeisuke · 6 years
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190305 山梨2日目
帰りのスーパーあずさでパソコンを使って書くつもりだったけど、車内Wi-Fiが無かったので、スマ��から。誤字脱字が多くなるかもしれない。
9時ごろ起床。本当はバイキング形式の朝食が着いていたけど、昨日、午前3時ごろまでノリノリでtumblrを書いてしまった影響で、朝飯よりも睡眠を優先してしまった……。
カーテンを開けると晴れていて、雲の切れ間から、上部の粉砂糖が多目な富士山が見えた。昨日一昨日の雨は、富士山の標高だと雪になっていたんだなと納得する。
身支度を済ませて10時にチェックアウトすると、ほったらかし温泉へ向かう。開幕から温泉。初手温泉。完全に湯治の旅となった。
ほったらかし温泉に向かうまでは「フルーツライン」という、うねった峠をぶいぶい登って行くことになるのだけど、この道めっちゃ覚えがある~~と妙に感動していた。父の運転でよく来ていたのだ。当時は車内でゲームをやりまくってたので、めちゃくちゃ酔った。
仮に父から貰った軽自動車で来てたら、エンジンパワーが足りずにやばかっただろうな……と想いを馳せながら、スイスイと登って行く。
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ほったらかし温泉は、平日にも関わらず、結構な人入りがあった。最後に来たのは15年近く前だと思うので、記憶よりかなり整備されていて、賑わっており、施設が充実していた。もっとほったらかしてなかったっけ……。
客層は私より若い大学生くらいの人たちも多かった。春休みですね。ゆるキャン△の話題もチラホラと聞かれて、やはり効果はあるのだなと感じる。
温泉は最高だった。ゆるキャン△でも言及されている通り、特に冬期は高地の冷えた外気と、湯加減とのバランスが絶妙で、無限に浸かっていられる心地よさであった。
昨日「温泉はアトラクションではない」というようなことを言ったけど、浴槽が3つあって、それぞれが絶妙な温度設定をなされており、何より温泉に浸かりながら富士山や山梨の市街地を見渡せる景観が非常に素晴らしい。温泉が気持ち良いだけでなく、そういうエンタメ的な欲求も満たしてくれる施設だった。
背中や腕におえかきをしてる方々もチラホラ見られ、ほったらかしの精神を強く感じた。洗い場で元気だった大学生の集団が、モンモンおじさんが隣に座った瞬間に大人しくなったのにはちょっと笑ってしまった。
無限に近い悠久の時を過ごしていたので、色んな人たちの会話が聞こえてきたりもしたのだけど、温泉での会話というのは、非常に人間性が現れる。公衆の場で、裸の状態で語るトピックスというのは、ある種、その人の本質でもあるのだろうなと思う。
以前、秩父の温泉に行った時、自分が優秀で意識が高いサラリーマンであり、周りはクソだという言説を大声で語っていた人が、その場に居合わせたおじいちゃんに、岡田麿里作品のような劇掛かった言葉回しで説教されてるのに居合わせたことがある。
優秀マンは、その注意に異を唱えて一触即発のムードが流れたが、話に相槌を打っていた友人が良識的な人だったので、まあまあ、すみませんでした。と優秀マンの背中を押して内湯に向かって行った。そのやり取りまで含めてアニメみたいで面白かったのだけど、本当に"優秀"なのは、友人の彼なのだろうなと思った。
本日も、自分の家がいかに裕福なのか、自分の親がいかにお金持ちなのかを滔々と語る、肥えたスネ夫のような男がいた。
彼らが「何故そんなことを温泉で話すのか」というのを考えた時、男が裸一貫で集まる場で「自分がいかに強いのか」を、どうにかして周囲にアピールしたいんだろうなという答えに行き着いた。
別にバカにしているわけではなく、実はこれは極めて動物的な本能なんじゃないかと感じる。究極的に言えば、どっちのチンコが大きいのかと次元は変わらないのだと思う。
ただ、自分自身のことを語らず(語れず)親の資産の話ばかりをしている太った男と、その横で気持ちよさそうにお湯に浸かっている、背中に般若が描かれている男、どちらの人生に厚みがあるのかというのは、一目瞭然であったように感じた。その点に関しては、ちょっと虚しさみたいなものは感じた。
その後に入ってきた大学生グループは、昨日打ったスロットの勝ち負けの話と、夜飲んだ酒の話ばかりをしていて最高だった。温泉では、上下関係とか恥とか外聞とか気にせずに、話す内容はハッピーであればあるほどよいというのが持論だ。お前の好みの話では?
ちなみに、背中におえかき系男性とは、その後フルーツパーク内のカフェで再会した。愛人(偏見)らしき女性を連れていた。もしかしたや、ゆるキャン△ファンだったのかもしれない。
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温泉から上がると、待望の温玉揚げをいただく。食べる前からどう考えても美味しい確信があったので、2個注文してしまった。
どう考えても美味しかった。湯上りの汗をかいた身体に染み渡る……。瓶の牛乳も飲んで、ほったらかし温泉最高という気持ちに満たされてしまった。
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その後は、ほったらかし温泉から少し下ったところにある『笛吹川フルーツ公園』に赴く。父がこういうところにはあまり興味がなかったので、この公園の記憶は、呼び起こしてみても頭の中に存在していなかった。(後から姉に確認したら、行ったことはあると言っていた)
遠足と思われる園児たちがわちゃわちゃと走り回っている。散歩中の小型犬が威嚇しあっている。上空では気持ちよさそうに鳥が飛んでいる。THE平和だ。
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謎の果物博物館に迷い込んだりもしつつ、施設内のオーチャードカフェに聖地巡礼。
新聞の切り抜きやサイン、交流ノートなんかが置いてあり、アニメでなでしこ、アキ、あおいが実際に食べたメニューもちゃんと載せてくれていて、とても親切で熱心な場所だと感じた。
残念ながら、3月で山梨市駅に移転してしまうとのこと。惜別の意と、移転前に来れて良かったという気持ちを込めて、本日の糖要素として、なでしこちゃんが食べたりんごソフトをいただいた。大変美味しかったです。
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血糖値の上昇に有効なのは食後の運動である。公園内を走り回りながら『フルーツアドベンチャー』という、クイズと迷路が合わさった施設を走りながら回る。
子供向けに作られたであろう設備にも関わらず、全10問中2問の正解という醜態を晒すこととなった。ゴール後の看板で、フルーツ物知り博士とかいうやつ(フルーツ物知り博士とかいうやつではない)にめっちゃ煽られた。
運動と頭の体操(?)をほどよく済ませたところで、富士急ハイランドへ向かう。
車を運転していると、富士吉田市に近づくごとに、眼前の富士山はその存在感を増していった。
富士山と同じ方向にあるセブンイレブンやエネオスなんかは、景観に配慮して看板が黒くなってる。そんな大げさなとも思ったけど、目の前で見せられると、それも仕方ないかなと思わせるだけの説得力がある。
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1時間ほどして、富士急ハイランドに到着。駐車料金1500円というのをゲートの前で知ってめっちゃ引き返してえと思ったけど、後ろに車もつかえており、後戻りは出来なかった。
遊園地という場所が苦手だった。もはや、自分が本当に遊園地が苦手なのか判別できないくらい、遊園地に行った記憶が悠久の彼方に消えていた。
高校3年のどこかで、卒業遠足としてディズニーシーに行ったと思うのだけど、誇張ではなくマジで記憶がない。スフィアの舞浜公演に一緒に行った友人は高校時代からの仲なのだけど、彼とその話をしても、お互い虚無を確かめ合うばかりだった。
私の高校時代が閉ざされた闇の記憶という認識だということは、何度か折に触れて話している気がする。
中学時代がめちゃくちゃ楽しくて、特に受験勉強などせず、模試の判定も全部99%だった地元の高校に進んだ。中学時代の友人たちが、一番多く行く学校だったからだ。
結果的に、私だけが高校に上がってからも中学時代の交友関係を引きずり、周りは新しく友達を作って、新しいコミュニティを築いているような状態になった。今にして思えば、それでも3年間遊んでくれた友人たちには頭が上がらない。
高校を卒業した後に、スフィアライブを通じて、今まで続く交友関係がいくつも出来るのだけど、当時の私にとって、それはまた別の話。
急に周りの目を気にしだして、クラス内の立ち位置とか、誰々と話してたらダサいとか、何々と同じだからカッコいいだとか、そういう価値観が支配し始めたこの年齢を、私はハッキリと退屈に思っていた。
3年のクラスは、そうした中学時代からの仲��友人たちもいなくなってしまい、本当に誰かと話していた記憶がない。いじめられていたわけでもなく、とにかく「無」だった。私が皆さんのことを覚えていないように、皆さんも私のことを覚えていないと思う。
唯一、今スフィアライブに一緒に行ってくれる友人と、F1のレースがあった次の日にリザルトの話をするくらいだった。ただ、女の子なので、当時は自分から話しかけるのすら勇気がいり、それも2戦にいっぺんくらいだった気がする。
で、そんなクラス内で班を作って、ディズニーシーに行くことになったのだ。
一応テニス部に入っており、テニス部の友人たちと班を組んだけど、まあ彼らとは卒業した後に消息を知ってる感じの仲にはならないだろうなという予感があった。実際何してるかは知らない。
そのうちの片方が、特に志望大学とか、誰とつるんでるかで、自分を大きく見せようとするやつで、ディズニーシーでも、とにかくイケてるグループに混ぜてもらおう混ぜてもらおうとしていた。
結果的に、そのイケてるグループからも彼はぞんざいな感じで扱われ、私はハッキリうんざりしていた。
その後、記憶がないと言ったけど、舞浜に一緒に行った現親友のグループと合流して、私はようやく居場所を見つけて「救われた」と思ったのだ。
彼とは当時それほど深い仲では無かったし、彼も彼で高校時代のことを振り返ると「なかったことに」しようとするので、覚えていないというのだけど、無意識下で結構救ってもらっているので、頭が上がらない。恩返しができるから、今まで続く親友になれて良かったと思っている。
前置きが長くなったが、こうした記憶から、漠然と遊園地という空間に苦手意識があり、近づかないようにしていた。
でも、いろんな食べ物を美味しいと思えるようになって、いろんなことを楽しいと思えるようになった今なら、もしかしたら、自分なりに楽しめるようになってるのではないかという期待を込めて、一人で富士急ハイランドに行ってみたのだ。
結果的に、入って2秒で「何故私が遊園地が苦手なのか」という理由を完全に理解した。入園のチケットを貰う時も、怪訝そうな顔をされる。そうか。この空間では、一人でいることが"許されない"んだ。
高校時代のあの時も、彼の虚栄心にウンザリしながら「俺はいいからみんなで楽しんできて」とは言えなかった。遊園地の中に、一切の居場所が無くなってしまうからだ。そして学校の授業の一貫である以上、時間まで勝手に出ることも許されない。ハッキリと分かる地獄である。
周りを見渡しても、カップルや夫婦、大学生のグループ、外国人観光客に親子連れと、私以外、絶対的に誰かと連れ添って来ていた。1人カラオケとか、1人焼肉とか、1人映画とか、何がおかしいのか分からないと言ってきたし、前日も2人前の鍋を食べたけど、ハッキリわかった。次元が違うのだ。
この空間は、全て最初から"1人でいること"を排除してデザインされている。それを拒むことはないけれど、どうしても異質さとして浮き彫りにはなってしまって、この場合は、そういう空間であることを理解していなかった私が悪いのだ。久々に触れてみて、ようやくそれがハッキリ分かった気がする。いや、それは私が悪かった。
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100対0で私が悪いのだけど、100対0で私が悪いという事実に無性に腹が立ったので、取材と称して1時間くらいかけて各アトラクションを練り歩いた。
テンションがぶっ壊れた人間しか笑わないであろうギャグが散りばめられた看板やモニュメントをみて、一つも面白くねえんだよバカ野郎と、心の中で悪態をついたりしていた。
若者たちが笑顔で集合写真を撮ったり、パネルから顔を出してはしゃいだりしている。私は自分が被写体になるのが苦手で、中学くらいから今まで、振り返っても全然写真が残っていない。集合写真からはみ出してしまったものに、遊園地は居場所を与えてはくれない。
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これとか「死んでください」と言われているようにしか思えなかった。2人並びの席だから、奇数グループで来てる人たちの余った枠に私が収まることになって、前の席と楽しそうに話してる中で知らないおじさんが1人混ざるという辛すぎる状況になる訳じゃないですか。
前述の通り、100対0で私が悪いので、僻みでしかないのだけれど、それはそれとして、どんなに成長しても、どんなに歳を重ねても、やはり私とは本質的に相容れない空間でもあるのだなと分かった。
いや、本当は私も絶叫マシンに乗りたかった。遊園地のことを冷やかしながら、隣で笑ってくれて、何だかんだアトラクション自体はめちゃくちゃ楽しいから、はしゃいでしまったり、年甲斐もなきメリーゴーランドとか乗ってはしゃいだりしたいんだ。
本当はそうだと思った時「お前は本当にどうしようもない人間だな」と、自分自身に言いたくなった。
でも、どうしようもない人間であるなら、どうしようもない人間であることをきちんと受け止めた上で、そのままにするのか、苦しんでも正すのかを見極めなくてはな��ないというのが昨年の学びだった。
だから、私は遊園地には迎合しないけど、私のどうしようもない世界を壊してくれる嵐山歩鳥みたいな、平沢唯みたいな、荻野目桃果みたいな人が「一緒に遊園地に行こう!」と手を差し伸べてくれる日を待っている。どうしようもなく待ち続けている。
あと、信頼できる友人に誘われたら、泣きながら着いて行って、いかにあなたが私にとっての救いなのかというのを5時間くらい説きつづけるぞというスタンスでいる。めんどくさすぎて絶対誰からも誘われない。
かつて、何故そう感じたのか分からなかったことの理由を、しばらく時間を置いて、改めて考えてみるというのは、良くも悪くも、己の立ち位置を知るために、非常に意義のあることだと分かった。
オタクおじさんの呪いとルサンチマンに満ち溢れてはいたけれど、私が「なぜ遊園地が苦手なのか」をちゃんと言語化できたのは、今回の旅行で一番の収穫だったかもしれない。
その後は富士山を近くで見ようと、道の駅や麓北公園に行ってみたけど、私の富士急でのモヤモヤが反映されたかのように雲がかかっていて、あまり見れなかった。
まだまだ山梨で達成できてないこともたくさんあるので、車を買ったらまた来よう。
その後は返却時間が思ったよりタイトになりそうだったので、届いたばかりのETCカードを使い、高速道路を走った。
軽自動車で速度を出すのはマジで恐ろしいけど、ノートくんはやはり加速が違い、速度を出しても挙動が不安定になることもほぼ無かった。今回の旅を通じて、感動した点はあれど、不満に思った点はほぼ無かった(返却時にガソリン入れたらそこそこ値段が掛かったので、燃費がどうなんだろうというのだけはややあった)(徳島より走行距離が長かっただけかもしれない)ので、普通に購入の有力候補に躍り出た。
緑色も思ったより昆虫感はなく、可愛らしくてよい。操縦感だけでなく、結構デザインも好みだった。
まあ、昨日も言ったように日産の味に慣れすぎてる感じもあるので、次はちゃんと他社の車種で借りて確かめてみたい。
17時半に返却。18時5分のスーパーあずさで甲府を発つ。
たった1時間半で新宿に着いてしまう近場だったけど、いろいろ思い出したり、分かったことが多くて、よき一人旅でした。温泉がサイコーということです。
競馬サークルの先輩とかが、ふとこのtumblrを読んで山梨のことを教えてくれたり、こうして残しておくことにも意味があるのだと思う。
運転が楽しくなってきたし、毎回気づきがあって面白いので、1ヶ月半に1回くらいどこかに行きたい。次は北関東か北陸がいいなと思っている。
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theatrum-wl · 4 years
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【劇評】いつか思い出すための記憶のパッケージ
『草の家』燐光群 小泉 うめ
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[撮影:姫田蘭]
一見どうでもよさそうなエピソードだが、最初と最後に配置薬の販売員(川中健次郎)がやってくる。それを眺めながらこんな事を考えていた。
救急箱は家のような箱だ。そこには家族がいるように、色々な役割の薬が入っている。胃薬には胃薬の効能があり、風邪薬には風邪薬の効能がある。何かがない時にはある程度の代用が利くものもあるが、やはりそれぞれの役割はそれぞれにしか果たせない。それは同じ兄弟と言っても大人になった頃にはその位置づけからできた役割を変えるのが難しいことに似ている。
配置薬は便利なシステムだ。胃薬を使ったなら胃薬が補充され、風邪薬を使ったら風邪薬を補充してもらえる。無くなった時に簡単に補充できるものは良いが、代わりのいない家族が亡くなった時はそういうわけにはいかない。その救急箱は途端にアンバランスなものになってしまう。必要な時に必要な薬の入っていない救急箱はとても空しい存在になる。
ただただ調子のいいことばかり言う販売員は決してそんな面倒臭い話はしないが、人知れずこっそりそんなメッセージを置いて行った。
岡山にあるという「はかりや」と呼ばれて古くから知られている計器商店の藤井家には4人の男兄弟がいた。父の死後長男の悟志が後を継いでいたが、その悟志が2年前に早逝しその嫁の陽が義母の芳(鴨川てんし)を支えて家を守ってきた。しかし陽も重い病気で入院してしまい、いよいよ芳が一人残されそうになるところからこの物語は始まる。
はかりは現代では安価になっているものが多いが、そもそもそれらはモノの価値を明確にするための道具であって、またあるモノが別のモノと同等であることを示すための道具である。元来これを扱う商売というのは信頼を求められ、またそれによる権威を伴うものであっただろう。加藤ちか+じょん万次郎による舞台美術はそのような商いをする店舗兼居間のような空間に最近はあまり使わなくなった様々なはかりが並べられていてそれだけでも一見の価値を感じる。それは必然的にモノの客観的価値やモノとモノとの相対的比較を潜在意識に訴えかける仕掛けとなっている。
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( 左より、間宮���行・さとうこうじ・猪熊恒和・鴨川てんし ) [撮影:姫田蘭]  
先に東京で暮らしている次男の浩次(間宮啓行)とその妻の昌枝(円城寺あや)がこの家に戻って来ている。二人は時々母の様子を見に来ているようだが、昌枝はここに来れば芳から女中のように使われることにうんざりしており、浩次がその板挟みになりながらもやり過ごしている様子は典型的な嫁姑問題の構図だ。それはこの次男夫婦と芳の関係性を伝えるとともに作品中では不在の陽がこれまでどれほど苦労をしてきたのかを想像させる手段として上手い。書き方によっては陽をどこかで登場さ��る方法もあるだろうが、他の登場人物たちの言葉からその姿を思い浮かばせて、思い切って観客の想像力を信頼する方法が戯曲全体を通してよく効いている。
三男の幸雄(猪熊恒和)は浩次の計らいもあって大阪で大学の教官をしていたようだが家族も知らぬ間にその職を辞めており、今は自転車で旅をするなど気ままに生活をしている。どちらが悪いということでもなさそうだが、兄に世話された環境の人間関係を息苦しくも感じていたようだ。かつてならもっと手厳しいことも言われるかもしれないが、このような生き方の多様性は少しずつではあるが社会的にも理解されるようになってきている。
四男の靖(さとうこうじ)は近隣に残って暮らしているが、だからと言ってこの家によく来ているわけでもないようだ。それはもちろん今は自分自身の暮らしもあるからだろうが、兄夫婦への遠慮もあっただろうしそれゆえに生じた距離感でもあるのだろう。兄たちからすれば頼りにもされているのだが、その期待は重荷でもあるし家に対する責任は必ずしもそこからの距離に比例するものでもない。
観ているだけでそれぞれのキャラクターが細部までよく検討されて実に念入りに描かれていることが分かる。またキャスティングも上手くいっており役者たちの演技もそれぞれによく馴染んで見える。それは燐光群の役者の層の厚さと演出の坂手洋二の手腕によるものと言えるだろう。
ここには決して悪人はいない。それぞれ自分の生まれた順番にふさわしく成長して、それにふさわしい暮らしを手に入れただけなのである。男4人と言ってもどうしても長男は長男として育つし末っ子は末っ子として育つ。跡継ぎを争うような形になった時の方が状況は困ったことになるわけで、この兄弟たちはむしろ健やかに自分の人生を考えて大人になったのだ。
ただ予定外だったのは、母よりも先に長男の悟志が死んでしまったことである。いつも人間が年齢の順番に死んで行けるなら世界中の家族の暮らしは随分穏やかになるだろうと思われるが、しばしばこのような番狂わせは発生して家族を混乱させる。それぞれが自分の役割を考えて大人になって自分の暮らしを持ってしまった後ではそれを修正することはとても難しい。当然のように、残される母をどうするか、家は処分するのか、といった近い将来の心配事に対する話が始まり、問題が浮き上がっていく。
核家族・小家族化がすっかり進んでしまった現代社会において、このような感覚は近い将来には理解されなくなるかもしれない。日本の古い家制度によって女性ばかりが苦労したり、兄弟が生まれた順番で将来を決められたり、それに逆らって争ったりということは改められていくべきではあるし、少しずつではあるが社会はそういう方向に向かっている。若い人の中には既にこの人たちが何故こんなにも苦しんで揉めているのか理解できないという人もいるだろう。しかしこれはちょっと前までは日本中のどこにでもあったような家族のステレオタイプであって、この戯曲の中にはそれが見事にパッケージされている。そして達者な役者を揃えて上演すればこれからもこのようにそんな時代を鮮やかに甦らせることが可能なはずである。
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( 左より、鴨川てんし・大西孝洋 ) [撮影:姫田蘭] 
終盤には芳が一人でいるところに既に亡くなっている悟志(大西孝洋)が現れて二人が思い出話やこれからのことを話すのがファンタジックで印象的だ。それは亡霊かもしれないし芳が見ている幻覚なのかもしれないが、それまでのリアリティーのある家族の会話の連続に突き刺さって演劇的な醍醐味を感じさせる。また作家の本当に伝えたいことをナチュラルに物語の中に溶け込ませる手法としても成功している。
この戯曲の書き方はある意味基本にとても忠実である。そしてどことなくチェーホフのそれを想わせたりもする。兄弟の描き方も「三人姉妹」の男性版として見てみると、個々の登場人物の描き方やその関係の描き方にそれを感じ取ることができる。また「草の家」というタイトルは上演を見た後には「桜の園」を想わせるところもある。ただ桜の園は最後には売られるのだが、この家は草に覆われていずれ誰からも忘れられていくだけのものである。そこにはかつての日本のどこにでもあったような家族の姿に目を向けて注がれた慈愛が満ちている。いずれもよくある手口と言ってしまえばそうなのだが、それらがいずれもとても丁寧に行われているのがこの戯曲の優れた点と言えるだろう。この戯曲は、守安久二子が初の長編戯曲として書いたもので、アートヴィレッジTOON戯曲賞において大賞と観客賞を受賞している。聞くところによると、下鴨車窓の田辺剛の劇作講座で指導を受けていたそうで、そう言われると頷けるところも多い。
また配役もよく気が利いていて、母親の芳にキャリアのあるベテラン女優をドンと据えればしっとりしたメロドラマに仕上がるのだろうが、そこに敢えて男性の鴨川てんしを置くことにより随所にそれによる笑いも起こしながら、かつその笑いに溺れることもなく全編をまとめ上げている存在感が光っている。また最後に出てくる孫の孝を女性の山村茉梨乃が無邪気に演じることで、語られる家族の重い現実から少し救われる気持ちにもなれて後味がよく、終演後椅子から立ちあがるのも随分楽になる。
ラストシーンは悟志の三回忌の法会から息子の翔一郎(町田敬介)とその妻の光子(樋尾麻衣子)、その子どもの孝(山村茉梨乃)帰ってくるところが描かれる。そこまで出てこなかった新しい世代の人々を大胆に登場させるエピローグは平田オリザの戯曲を想わせるような所もあり、未来との繋がりを感じさせ光明を見る思いがする。ただ唯一気になったのが、この時幸雄と靖が家の裏の川で魚釣りをしていることだ。私は田舎生まれの釣り師でもあるのだが、通常であれば親族の法事の日には水難を怖れて川に出ることはしないし、もちろん魚を釣って腹を割くという殺生もしない。田舎暮らしをしていればそれこそこれは子どもの頃から親や更にその親から言い継がれて教わることだ。兄が亡くなった悲しみが少しずつ癒えている様子として描かれているのであろうが、やはり少し早過ぎると感じる違和感は残る。そしてもし何らかの意図があるとすれば、それは情報が不足していてここまでの技巧的な戯曲の書き方とは不釣り合いに感じる。
守安は元々東京の出身で結婚を機に岡山に移り住み、その暮らしを経てこの戯曲を書いたとのことである。その家庭に介入するつもりはないが、少なくとも生活環境の変化に対応することはそれなりに大変なことであっただろう。これもまたどうでも良いような小さなエピソードだが、彼女がそのような習慣のギャップのせいで経験したであろう苦労を想わせるこのラストシーンにこの題材を選んだ動機づけが垣間見えるような気はする。
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( 左より、円城寺あや・間宮啓行  ) [撮影: 古元道広 ]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・小泉うめ 観劇人。観客発信メディアWLスタッフ。舞台感染対策。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   
燐光群 『草の家』 2月5 日(金)〜18日(木) 下北沢ザ・スズナリ 作:守安久二子  演出:坂手洋二 出演:間宮啓行 円城寺あや さとうこうじ 鴨川てんし 川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 樋尾麻衣子 山村茉梨乃 町田敬介 【STAFF】 照明:竹林功(龍前正夫舞台照明研究所) 音響:島猛(ステージオフィス) 舞台監督:青木規雄 森下紀彦 美術:加藤ちか+じょん万次郎 衣裳:小林巨和 ウィッグ:高橋幸子  擬闘:山村秀勝 演出助手:村野玲子 文芸助手:清水弥生 久保志乃ぶ 音響操作:中山美里 舞台収録・写真撮影:姫田蘭 宣伝意匠:高崎勝也 協力:浅井企画 劇団印象-indian elephant- 制作:古元道広 近藤順子 制作インターン:加藤七穂 主催:有限会社グッドフェローズ 助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業) 独立行政法人日本芸術文化振興会 【全席指定】 一般前売 3,800 円 ペア前売 7,000 円 当日 4,200 円 U-25/大学・専門学校生 1,500 円  高校生以下 500 円 
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karasugai · 4 years
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陰陽の聖婚 番外編読了からの1周目を踏まえた2周目感想文(なぜか途中から)
・2-24
ただのお蕎麦好きで有能でちょっと上昇志向のお役人さんだと思ってたエンロンさんの過去が獄吏だと発覚。からの
“(俺、この女嫌いだ――)”
は?!好き。
木っ端役人の意地のシーンの理詰めも本当好き。かっこいいよぉぉぉエンロンさーん!!
・2-27
ドジっ子属性と言っても「tell me ガツン」はまだ対人コミュニケーション不足による語彙力ゼロだとこの頃は思ってた。まさかフラグだとは。
・2-28
まさかエイダが来ると思わなかった。ビックリビックリ。
・2-29
エイダ戦の《美女に化けてはいけない》やりとり戦闘シーンの重さと反比例して話を軽くしてて面白い。余裕ない時ほど軽口叩くキャラいいよね。
・2-30
もやもやゾーイさんが小箱の中身を知ってしまった。ニヤニヤが止まらないね。《小箱の人=アデライード》に早く気づいてあげて!!ドジっ子設定はここで回収されてるからもう無いと思ってた。ドジっ子とは一度ならず二度以上やらかすからドジっ子なんだと…
・2-31
転移魔法ってオビワン助けてレベルの画像解像度だと思ってたけど、後ろに陛下がチラ見えするってことは割とかなりドーンとテレビ会議レベルなのかな。それにしても暇を出されたとはいえ側室のところに敵の隠密いるのヤバいと普通に思ってたけど、2週目的にはエリン兄さんあんたの孫のとこにもおるで?って気持ち。
・2-32
背に腹はかえられないって言い訳ができるからか、北方での身売りはだから何?レベルであっさり簡単に言っちゃうけど、デュクトとの関係は一番深い傷なんだと改めて。「彼女と生きられるのが今しかない」の重さが2周目半端ない。
・2-33
とにかくエンロンさんがかっこいいやつ。
「牢獄でお茶を飲むのも久しぶりだな。俺が尋問するような、そんな大物も最近いなくてね。」……スケベすぎてお茶が羨ましくなってくるやつ
「あれは獄吏の方も面倒くさいから、実はやりたくはないんだよ。」
「俺はもともと獄吏だから、あんたの供述からだいたいの罪名と量刑を決め、それを報告書に添えて、帝都に上げることになるな。……つまり、この先のあんたの人生は、俺の胸先三寸」
「でも、見てる地平が違うっていうのは感じるね。俺たち獄吏は常に、この犯罪はどの律に当てはめるか、どのくらいの量刑か、そんなことばっかり考えてる。減刑の可能性のあるのはどちらか、付加刑をつけるならどれかってね。」←これが半分ほんとで半分嘘とか…ちゅき
・2-34
スーパーエンロンタイムの間にやってくるトルフィンの変態具合。ここの主従変態しかいないのかな。
何をどう言い訳しても理詰めで「はい、死刑だね」ってしちゃうエンロンさんかわいい。
ゾラから見た殿下とアデライードの評価にはグッとくるものがある。
・2-35
過去と現在がしんどすぎて起きたくない殿下しどいし、殿下のセコム2人が真実知っちゃて激おこなの分かる。
・2-36
マニ先生、殿下好きすぎ問題。♪テーンテンテン
師弟愛とはいえ初めて知った愛情という意味ではこの人も初恋拗らせてる。(この作者、ほんと初恋拗らせてる人多すぎて最高)マニ先生が激おこすぎてジュルチ先生は冷静になっちゃうやつ。
1周目だとマニ先生と同じく何で殿下シウリンだと言わないのだろうか?って感じてた疑問に一定の答えが出るけど、2周目的にはあまりの壮絶さを思い出してそらぁ言えないよなと泣けてきちゃう。天と陰陽いつも殿下に冷たい。
・2-37
セコム会議はけっきょく殿下次第。仕方ないとはいえ、みんな殿下に押し付けすぎるwwww
そして白痴のフリしてる姫さまの深層はあまり描かれてないから貴重。割と早くから《愛してくれる人を愛しちゃう苦悩》から脱してはいたけど、その次の《愛してる人は自分が別の人を好きだと思い込んでいる苦悩》にニヤニヤする。
カイトがドン引きしてる一晩300回の愛してるが姫様にとっては一番の薬なの破れ鍋。
生理中というか殿下のいない1人寝の布団も蛇っ子が片付けてて意外。
・2-38
とっても芥川の蜘蛛の糸。
認識の違いでちょいちょい内容がすれ違ってる。そんな人と遊んでないでが可愛い。
つまりやっぱり姫さまが最強。
《あなを穿たれた血塗れの醜い怪物》の話はあっちを読んでないと何のこっちゃ?だったけど、分かってて読むとじわじわくるものがある。
「それでアデライードが怯んだりすると思っているとしたら、それは考え違いだ」ほんそれ。
・2-39,40
普通の悪役貴族親子、兄妹の会話だと思っていたけど、この時点のシメオンくんの気持ちやクソ親父の仕込んでた《毒》を思うと…うわぁぁぁしんどいよぉぉぉぉ東側の上の世代が出る度にこの人もあの人も…ってなっちゃう原因はお前だよこのクソ親父!!!
女王が女児しか産めないと思われてるのは仕方がないけど、普通の貴種男性(王気が無いもとい魔力が弱い)<女王の魔力 ゆえに女児なのであって、エリン兄さんとアルベラなら男児産まれちゃうんじゃね???
ユウラとアデライードの恨みに気づかないのもだけど《なぜ女王に王気が必要なのか》をきちんと考えたことないのも致命的だねぇ。まぁクソ親父がわざと承認式を見せなかったり盲目的に信じさせようと誘導した結果だけど。ほんとテセウスとシリルまじ良心。
・2-41
姫さまとフエルの内緒話。メイローズは殿下が盛ってる時へし折るタイミングは完璧なのに、それ以外はだいたい間が悪いwwww
・2-41
無自覚にも殿下の中でシウリンが戻ってきてるのが分かる姫にしか勃たない殿下のくだりはとっても良いが、短気で狭量だからお前そこ反省しろよwwww(そうでないと話が進まないんだけど)
・2-42
反省の写経がマニ先生からの厳罰ってのがたまらない。粛々とやってる殿下もかわいい。悪いのは殿下なんだが。
喧嘩した時は周りがアレコレやっちゃうと本人の意思とは反対に悪化する典型。でもそのおかげで姫さまが自分から何かしようと動いたのは成長だねぇ。
二人揃って自分が化け物だと思ってて、相手がいないとダメって思い込んでる共依存…最高かな。
・2-43
仲直りおセッセするのは良いけど、姫さま念話の方が雄弁疑惑。出会った当初の王気で会話?もそうだけど、いっそいつも心に直接語りかけた方が早いよ!!!それにしてもだいしゅきホールドってのは本当にいいものだ…
・2-44
《僕は、消えたりはしない。――ずっと、君の、側にいるよ》が、あ゛ーーってなる。
殿下の姿から母の声がするって、冷静になってはいけないよね。
・2-45
結婚してしばらく経つのにやっと夫婦らしい会話を見たwwwwおせーよwwwwww
・2-小結
価値観のすり合わせ大事だから、ここのやりとり好き。南の討伐の苦悩はつらつらのツラだっただけに、混沌に連れてきたくない殿下と殿下のいる場所が自分の居場所だと主張する姫さま。シウリンと訣別してスッキリ?してる姫さまとそれはそれで寂しいけど嬉しい殿下。姫さまやっぱり強い。
番おセッセの姫さまからの愛情のかけ方がなんか違っていい。
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judachigeiju · 7 years
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二〇〇八年の断片集
これは二〇〇八年の断片を集めたもの。二十三歳から二十四歳の記録。二〇〇九年の断片集もある。
七月
何も読まない人は幸いだ。
眼鏡をかけないとほとんどの女性は美人に見える。
金持ちも貧乏人も、感じられる幸せの容量は同じだ。
長く話す人は思慮が無く、短く話す人は愚鈍である。
法律が増えれば増えるほど犯罪は増える。
男は学問をしないと莫迦になる。女は学問をすると莫迦になる。
真面目に生きようとすればするほど不真面目に生きざるをえなくなる。不真面目に生きようとすれば人は自然と真面目になる。
八月
同期の女の子たちが下宿に来たとき、大きな蜘蛛を見つけ、「早くやっつけなきゃ」と言った。でも私は殺さなかった。全ての命は尊い。だからこそ、それを奪うには快楽を求める心が必要だ。恨みや嫌悪感や投げやりな心で命を奪ってはならない。それが命への礼である。
駅前に昼飯を食べに行って戻る途中で中学生くらいの見知らぬ少女に「こんにちは」と挨拶をされて、私は「おっーす」と返事をした。よく日焼けしてぽっちゃりとした女の子だった。記憶にない。
女性の先輩職員。良く言えば女性的、悪く言えば女性的。
大いなる誤算。知的障害児に興味はあったし、今でも興味はある。しかしそれは文学的な興味であって療育への興味ではない。
もし私が心から愛する女性がいるとすれば千人の男に抱かれた十四歳。
人生は無為だ。日本全土を巡る放浪の旅をするか、インドネシアに移住するか。
日々の生活に倦怠を感じたら何かを創作して形に残す。物語でも、絵画でも、音楽でも。それが子供である必要はない。
もっと野菜を食べよう
電車内での痴漢がなぜ罰せられるのかというと、痴漢は数百円から数千円で買うべき「服の上からの臀部の愛撫」や「下半身への性器の擦りつけ」などといった行為を無銭で楽しもうとしたからだ。すなわち痴漢は窃盗と同じ種の犯罪である。同じ理由で強姦も強盗と同じ種の犯罪であろう。
もし誰かが他の人に「あなたの好きなタイプは何?」と質問した場合、質問者は、回答者が異性のあるタイプ(イデア)を追求するために異性とつき合うもののだと予め規定してしまっている。実際には様々な異性の違いを楽しむために異性とつき合う人がいるというのに。そういう人間にとって「好きなタイプ」を定めてしまうことは無意味で味気のない行為だ。例えば私が「好きなタイプは?」と聞かれて「双子」と答えるのも双子の微妙な違いが好きだからに他ならない。
聞いた話によれば博多は結婚適齢期の独身女性が同年代の男性より多く、若い女性にとっての激戦区だという。或いは独身志向が強いのか。
男は、彼自身に興味のある女を賢いと思い、彼自身ではなく他の男に興味のある女を愚かだと見なす。だから全ての女を愚かだと断定する男は、どの女にも好かれていない、と思い込んでいるのだ。
私は他人の肉体を物質としか見なせない。例えば美女の肉体は何か貴重な物質であり、臭い男の肉体は何か臭い物質である。舌、唇、鼻、耳朶、乳首、陰唇、いずれの他人の肉片も博物館に保管されてしまう。
もし婚約者が元娼婦であっても結婚を完遂できる原動力が真実の愛だとしたら、私は純潔の処女ですら愛さない。
私は思う。仕事が嫌であればあるほど休暇の浮遊感は大きくなる。これは余暇を楽しむ為だけに労働している私にとって、都合の良いことではないか。まとまった休みが定期的にとれて、しかもその余暇が楽しいとしたらこれほど私に合っている仕事は無いんじゃなかろうか、と。
久しぶりに共感できる主人公トマーシュを見出すことができた。彼のように軽く生きたい、その軽さに耐えられないくらいまでに。
どんな社会体制であろうと、それが大勢の人間が集う社会という形式をとる限り、それに馴染めない人間が必ず存在する。そんな人間がとりうる手段は二つ。浮遊するか、絶望するか。あらゆる革命と変革は彼らとは無関係に為されている。
多くの若手経営者は織田信長を崇拝するが、そのうちほとんどの経営者は信長的人物を社員として採用しない。
職場の上司であるA係長は「結婚相手は妥協で選ぶな」と言うが、彼は自分が妥協で選ばれたかもしれない可能性を全く考慮していない凄い奴だ。
文学は少年期の私をどうしようもなく破滅せしめ、青年期においてどん底より救いたもうた。
女性と一緒の職場で、かなり動く仕事なので、よく乳房を触る。私は謝らない、気付かないふりをする。女性が「すいません」と謝ると惚けた顔をして軽く会釈を返す。
娼婦を尊敬できない男はあらゆる女を尊敬できない。
理想の老後。自営業か自由業で京都近郊に住む。東京近郊に、離婚した最初の妻との間に作った娘が夫と住んでいる。一年に一回だけ、娘を訪れる。私は彼女の子供たちから「京都のおじちゃん」と呼ばれ不思議がられている。というのも彼らにとっては三人目の祖父だから。週に一度、五條楽園に赴く。月に一度、長旅に出る。読書は欠かさない。
子供が欲しい、と私が思うときに浮かぶ光景は、一ヶ月に一度、裁判所が許可した時間だけ、まだ幼い娘か息子とレストランで会食し、帰り際にすぐ飽きられることが分かっている玩具を贈る場面。娘であればベッドに並んで忘れ去られる熊のぬいぐるみ。「何であのおじちゃんは熊さんのぬいぐるみばっかりくれるの?」小学生に上がったら絵本にしようかな。
もし私に、成人して未だに童貞の息子がいれば、かつてボルヘスの父がしたように、売春宿へ息子を送ろう。そんな理想の家庭を思い浮かべる。
恥骨が痛い。
美女や美少女をよく見かける街は美人が多いのではない。女性が街を歩いても安全な街なのだ。
人間が知覚できる事象はこの世界の極僅かなことに過ぎない。感覚が鋭敏であればあるほど、その人の知覚世界はより色彩に溢れ音楽に満ちて起伏に富み揺らぎ歪み傾いでいる。現代人が霊的存在について余り語らないのは、現代生活が感覚を鈍くさせているからだ。しかし火はいつまでも物質の揺らぎ、すなわちこの知覚世界の裏側に干渉し続けている。人よ、火を燃やせ、世界を超越せよ。
既に自分が正気と呼ばれるものを喪い、狂気の領域にあることを、数年前から薄々と気付いている。
職場での私は人生の裏を生き、休暇中での私は人生の表を生きる。
私は女性と議論をしない。いくら言葉を交換しても、お互いの思想と志向の違いを再認識するだけだからだ。そしてその段階に至った場合、私はその違いを知ることに興味が持てない。だから私は言う「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
今一番やりたいこと、中学生のときからの夢。どこからか女児を捕獲してきて、押し入れの中で飼育、調教し、優れた女性に育て上げること。
人間存在の悲劇を噛み締めた。
九月
福祉業は風俗業と同じで、水のような商売である。仕事の結果は形にならずに流れていき、客の記憶の中にだけ残るのだ。
新入社員の陥り易い思想的誤りは、自分に上司を殺害する権利があると思い込むこと。
法律で私の体を罰することができても、私の魂までは罰することができない。
今の仕事を続けるくらいなら、一九四五年四月初頭に大ベルリン防衛地域司令官に任命された方がましだ。
給料とは、働いたがために心を蝕むようになった苦しみと失った幾らかの正気の代償として労働者が得る金銭のこと、サラリー。
子宮のない女性は男性にとって「性の試験管」である。
中絶禁止も同性愛禁止も獣姦禁止も自慰禁止も旧約聖書創世記第三十八章第九節でのオナンの行為に対する第十節での主の怒りに由来する。しかし、人類はもう子種の浪費を許されるほどに殖えたのではないだろうか?
放浪の旅に出たい。
白地で絵は描かない。すべて黒地の上に描く。
若いときの苦労と快楽は買ってでもせよ。
もし私と結婚して離婚を言い出さない女がいたら、私は彼女の理性を疑う。
「今���は強姦したかい?」が朝の挨拶代わりになるような都市。その都市でそう挨拶されたのなら私は快活に答えよう「ああ、今朝は女児を二人だけだ」
男根のない男性は女性にとって「お払い箱」だ。
中学生のころはサド侯爵の書く小説の倒錯的な場面を読んでよく興奮したものだが、今読み返してみて、その哲学的記述には感心するが、倒錯性は何も感じなくなってしまった。すなわち、勃たないのだ。
三日に一度は射精しないと健康に悪いそうだ。
女性に懸案事項の説明を請われて私が説明すると、大抵の女性は「私さんは私のせいにした」と非難する。単に私は事実を述べただけなのに女性に内在する被害妄想癖が私を卑怯者に仕立て上げるのだ。ゆえに私は説く「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
生理痛による発言ならしょうがない。
早稲田大学に通っていたころの記憶が、今は全くない。
私の働くK学園では誕生会と称してその月の誕生者を祝い、誕生カードを送る。先輩職員方はカードに百文字くらいの感動的な文章を綴る。けれど私は、文字は「おたんじょうびおめでとう」と名前くらいで、あとは動物の絵を大きく描く。先輩職員はそれを見て「文字が少なすぎる」と注意する。おかしい。園生は文字が読めないか読めても読み辛い人が殆どなのに、文字を多く書くのは保護者向けに書いているからだ。なんだかんだ偉そうなことを言ったって職員連中は知的障害者のことを考えていないのだ。
産まれるまで気づかなかった。生きることがこんなに大変だったなんて。
少しまともな知能を持っていれば理解できると思うが、この福祉社会は健常者と障害者にとっては生きやすいけれど、その中間に生きる半端者にとってはまことに生きにくい。
放浪に備えて知能指数七十前後の話し方を習得しなければならない。そうすれば同情や施しを得やすくなるだろう。
人の性格はその人の祖先の生業から遺伝を受けると考える。私の祖先は今昔物語にも載せられた鈴鹿峠の山賊であった。すなはち略奪・狩猟・採集・漂泊を生業とする山の民だ。福祉職なんて性分ではない、放浪者こそ最もふさわしい。
職場で大事なことは飲み会や余暇活動などで自分の味方を増やすことであり、それは私が最も苦手とすることだ。むしろ得意とするのは敵を増やすこと。
職場の人間がみな緑色の眼で私を見ている。奴等はまともな人間じゃない。
もしこの学園の職員のまま死んだら、悔やんでも悔やみきれない。
A係長に「やめちまえ!」と罵られたのだから今すぐ辞めても構わないだろう。むしろ辞めた方が有難く思われるはずだ。邪魔な奴がいなくなったと。
「すごい着想力ですね」と言うところを「すごい着床力ですね」と言ってしまった。
失踪を決意した次の日の職場の奴等はなんだか心優しい。
看護婦さんの注射が上手くて、少しも痛くなかった。
心を鬼とせよ。奴等は飢えた猛獣だ。おまえの臀肉を狙っている。
失踪して、日本中の山々を彷徨する。歩兵第三十一聯隊の福島泰蔵大尉が私の師匠だ。
人類は幼形成熟であり全て人類は成形(天使形態)に変態する寸前で死ぬ、という幻想。天使の蝶
地球を覆う現代文明という代物は、依存症ないしは文学的な意味での依存から成立している。
全ての人類が物質的依存から解放され流浪の旅に出た瞬間、現代文明は衰退し、文化とほとんど差の無い放浪文明が萌芽する。
私にとって「衰退」は悪い意味を持たない。なぜなら「進化」と「退化」は「変化」の類義語という認識しか持ちえないからだ。
だって進歩と退歩のどっちがいいかなんて誰にも分からないだろ?
K学園では、遅番勤務上がりの二十二時からミーティングが開かれる。クラスミーティングは三人の担任で開かれ、係長ミーティングは三担任に係長を加えて開かれる。留守録によれば、昨夜ミーティングがあったらしい。でも私はそのことを知らされておらず、その時には疲れ果てて自宅で寝ていた。これが昨今の事態の本質である。同じクラスの先輩職員は新人の私に満足な情報を与えず、それでいて私が「ちゃんとやっていない」と罵るのだ。先輩職員は「分からないことは聞かないとこちらも教えることができません」という態度だが、超能力者でもない私にはいつミーティングが開かれるかなんて知るよしもない。
どいつもこいつも腐りきっている。
九月十五日、新宿駅で下野国住人エーリク氏(「沈黙のソネット」)と出会い、神保町で昼飯を食べて東京駅で別れた。思考する脳と発話する舌の相違の甚だしさが一つの人格を形造る。
たったそのことを理解するだけでこんなにも親しみが湧くというのに。
必ず連絡しよう。
判断を中止してください。理解しようとして下さい。
ひとつの職場やサークルや組織に長くいるということは、陰口を叩かれる人から陰口を叩く人になるということだ。
管理職とは判断しなければならない職務だ。部下の人格さえも、誤解とともに。
仕事をすると人生が色褪せて見える。
曉の空は美しい。夜が怒りと悲しみに溢れていたからこそ
おまえは妊娠したての子宮に夫以外の陰茎を突き立てられて、なんとも思わないのか?
青年は旅の人。道連れは記憶だけ。
映画「Into The Wild」を観た。すなわち「Into The Mind」だった。
新宿を歩く人々は本来の美しさを失っている。
十月
現代文明世界はアリストテレス的人間観の上に立脚している。故に、私のようにポリス的動物であることを捨てて放浪し無宿、社会常識に則った思考は不可能であるために言語的思考のみを行うことで価値の変造をもくろむ「獣」はやがて排除される。
ただし、ディオゲネス的世界市民主義が台頭するのであれば話は変わってくる。
資本主義の豚どもよ、犬となれ!
犬どもよ、広場で自慰をせよ。
本当にエコを実現したいのであれば、冷蔵庫も車もクーラーもあらゆる文明機器を捨ててディオゲネスのように生きればよい。それ以外のエコは全て偽者のエコだ。
真実のエコは全人類の穏やかなる自殺である。
たぶん、文明機器を捨てた現代人は、亡命先で奴隷マネスに逃げられたディオゲネスのようになるだろう。
「おかしな話だよ、マネスのほうはディオゲネスなしにも生きていけるが、ディオゲネスのほうはマネスなしでは生きていけないだろうとすれば」
文明社会とは人間をひたすらに脆弱な動物にさせる機構だ。もう二度と野生には戻れないほどに。ここでは人間はひたすらにちっぽけになるだけだ。
青年よ、常に己の中の獣を調教しておけ。そしていざという時には牙を剥き、爪を立てて、おまえを侮辱した奴らに目にモノを見せてやれ。
かつて大学時代に海驢という女に言い寄られた季節のことだ。ふと私の中に「あの女に会いたい」という感情が起こった。その感情を確かめるために、私は自慰をした。すると面倒くさくなって余りその女に会いたくなくなった。私は重ねてもう一度自慰をした。すると全く会いたくなくなった。二、三日して袋に種が満ちると再び私の中に「会いたい」という感情が芽生えた。ゆえに私は結論付けた。恋愛とは性欲の文学的表現に過ぎないと。
私と彼女とは違う地平に立つ人間であった。前者は「人間の地平」に立ち、恋愛は蔑ろにしても人間は尊んだ。一方、後者は「恋愛の地平」に立ち、人間は蔑ろにしても恋愛は尊んだ。そのため後者は私にメールで別離を告げた上に自意識過剰な主張を何度も送りつけて来た。彼女流の恋愛観ではそれが至極正しく、真っ当なことのように思えたのだろう。それに対し前者はあくまでも人間としての防衛線を保つことしかできなかった。
彼女は自分の精神的あるいは肉体的欲求を充たすためだけに私を利用したにすぎなかった。そのために「恋愛」という文法を用いた。それに対し、私は人間であるという前提の上に立っていた。ゆえに二つの歯車が歯をあわせることはなかった。
『百年の孤独』のブエンディーア一族は愛なくして繁殖した。一族の最後の者は叔母と甥の近親相姦によって産まれたためにその呪いとして豚のしっぽを持って産まれ、蟻のむさぼるところとなった。しかし百年に及ぶ一族の歴史の中で「豚のしっぽ」は初めて愛によって産まれた子供であった。
『百年の孤独』は単行本を三冊買い、合わせて六回読んだ。私が長編小説をここまで繰り返して読んだのは他に例のないことだ。
琉球美人は琥珀色の肌、引き締まった細い肢体と小顔を特徴とするけれど、秋田美人は朱を散らした色白の肌、ふくよかな肉体と顎先を集約点として突き出た面長を特徴とする。
選びがたく、悩ましい。
一夫一妻婚という制度の発明は多くの人間を罪人とした。つまり、一夫一妻婚という制度を継続する限り、社会は姦淫罪を量産せざるをえないのである。
法律の数だけ、罪がある。
あらゆる家庭の災厄は、一夫一妻婚が生んだ。
一夫一妻婚が形作る「家庭」は、ある種の子供たちにとっての牢獄である。
私にとっても、「家庭」は牢獄だった。
ディオゲネスは人間をよく理解していた。ゆえに彼は結婚を否定した。そして、彼は女性の共有と当然の結論としての子どもの共有を主張した。
女が産んだ赤ん坊の父親が誰か、なんてことはどうでもいいじゃないか。
私は沖縄から奄美に至る航路で、仰向けに寝ながら「死の恐怖」を超越した。超越したとき、肩から背中にかけて熱いモノが走った。目からは涙が溢れ、こめかみを濡らした。
そのとき、私は一度、死んだのである。
「死の恐怖」は小学二年生の私を捕え、十五年に及び、私の心を鷲掴みにして離さなかった。それは常に無感覚への恐怖、偉大なる世界が消滅することへの恐怖であった。
死によって他人が私を忘却するとか、そういったことは恐れなかった。「死への恐怖」はきわめて個人的な問題であった。
死後に感覚があるのならば、人間はその新しい感覚で永遠を生きるだろう。もし、死後に感覚がないのならば、死は何ら思い悩むことではない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの思想の私なりの解釈である。
「死への恐怖」は克服した。しかし、私はまだ完全に「死」んだわけではない。
今までは常に捕われてきた人生だった。これからはこちらが捕える人生である。
蟹田駅で特急に乗り、青函トンネルを通って木古内駅で降りた。すると、もう電車がなかった。しょうがないので駅近くの公民館の前で野宿をした。二十三時に寝て五時に起きた。小雨が降っていて、寒かった。吐く息が白い。
北海道では寝袋の下にアルミシートを敷いて大地に体温を奪われるのを防がないと危険だ。今の寝袋は零下十度まで快眠、零下二十度まで生存できるそうだが、零下二十度でも快眠できるようにしたい。
『闇の左手』の、アイとエストラーベンの氷原越えを復習しよう。
北海道の面積はオーストリーより広く、北海道の人口五六〇万人はデンマークより多く、道内総生産額GDP約二十兆円はマレーシアやチェコよりも大きい。また、道内の陸上兵力は三万七千人でベルギー・ポルトガル・南アフリカ。キューバの陸軍と同規模である。そして道内だけの食料自給率は二百パーセントに届こうとしている。
北海道は数値上では充分に一国として独立できる。独立後の国名はもちろん「アイヌモシリ」、人間の大地。
私は、その大地を歩く。
さすがに放浪する資金に先が見えたので札幌市南区澄川にアパートを借りた。
まだ鍵をもらえない夜に、不動産会社の女性社員が自宅に泊めてくれた。北海道の人はやたらと親切だ。
ちなみに私は女性社員宅で、晩飯を食べてから朝までいびき一つかかずに熟睡していたようだ。
どうやら寝言の癖は治ったらしい。
PHSを買った。
もし宇宙の果てまで行けるという宇宙船があるのならば、地球上で想定しうるあらゆる幸福を諦めてでも、私は宇宙飛行士になる。
そして、私の死体は永遠に宇宙をさまようだろう。
ある人が言っていた「全ての女性は男でふさがっており、あぶれた男は彼女たちの体が空くのを待っている」という感覚を今日、はじめて味わった。
那覇の人と札幌の人は語尾に「さー」をつける。なぜ?
ちなみに私は一日の大半を欲情して過ごし、半日は半勃し、四分の一は勃起している。というのも私の神経はズタズタになっていて、脳が異常なまでに興奮物質を分泌するからだ。
物理的に、私は「狂人」である。ゆえに小学4年生の私を「気が違っている」と評したあの女性教諭は正しかったのだ。
まず買わなくてはいけないのは掃除機、それと便座カバー。
尊大な解釈だが、中学生の私は自分のことを「桁外れの出力で凍結してしまった電算機」に喩えていた。今ならさしずめ「お祓い箱���と喩える。
大した運動もしないのに疲れやすい人というのは、たいてい脳内で体力はおろか生命力さえも過剰消費しているものだ。
ハローワークで調べたところ、私の適職は技能職か芸術家だという。
北海道のスーパーでは玉ねぎとじゃがいもがそれぞれ一個十円で買える。食うのには困らなそうだ。
中古パソコンを買った。ネットを繋げば、さぁさ始まる楽しくも愉快なNEET生活。
野菜を凍らせないために冷蔵庫を買った。
近所の澄川若草公園のベンチに男子高生が腰掛け、女子高生が前から枝垂れかかり、野合していた。北海道はおおらかだ。
夕方になると近所でやたらと陸自将校を見る。昨日は将校さんがスピードくじを買っていた。
今、私の中で福満しげゆきが熱い。
『コレラの時代の愛』を手に取った途端に涙が溢れてきた。さすがガルシア・マルケスである。本を持つ者にも訴えかける。ましてや読む者へは。
宇宙の最果てを超え、宇宙化以前空間の有り様を地球に報告する使命を帯びた超光速航宙船「エスペラント」
推進機関は決まっている。原子力だ。
はてさて、膨張しているという宇宙の辺涯はどのようになっているのだろう?
乗組員は地球に未練のなくなった七人の若者、日本国から二十八歳、タンザニア人男性二十五歳、イスラエル人男性二十三歳、フランス人女性二十七歳、インドネシア人女性二十五歳、ペルー人女性二十二歳、国籍不明少女十九歳。それと修理用ロボット三台。
航宙船の大きさ、全長二四〇メートル、幅三〇メートル。乗組員は訓練により、航宙船を自力で組み立てることが可能である。
船内には恒星熱で駆動する五つの栽培室、三つの畜産室、三つの水槽室があり、その他にも食料加工機が装備されている。船内で半永久的な食料生産が可能である。
凍眠室では肉体を凍結することで老化を遅らせることが出来る。しかし完全に止めることはできない。
この銀河は今、宇宙のどのあたりを漂っているのだろう?
船内の娯楽は様々で、読書・運動・遊戯・音楽・絵画など地球上でできることはほぼ船内でできる。
これは娯楽というより使命に近いが、性交が七日おきに違う相手と行われる。ただし自分の遺伝子を継承した異性とは性交しない。
宇宙化以前空間についての報告書をまとめるのは私の何世代か後の子孫になるだろう。
図書室には地球人類の叡智の集約である五十万冊が書籍と電子文書とで保管されている。
本の記述言語も船内共通語も人工言語である。
乗組員は医療知識を身に付けており、簡単な外科手術なら執刀可能である。また薬剤、輸血用血液も完備されている。
酸素は栽培室や庭園内の植物で生成される。水は使用後に循��、濾過、消毒される。糞尿は堆肥となり栽培室に回��れる。
トイレ、洗濯、洗浄では水を一切使わない。
航宙船は地球に帰還することはない。可能であれば宇宙化以前世界で居住惑星を見つける。
もし、宇宙膨張説が誤りで、宇宙に果てなどなかったとしたら、彼らの人生の意味とは?
いずれにせよ彼らも他の死者と同じように忘れさられるだけだ。
甜菜の糖度は水に浮かべて量る。
もし私が四十年後、人生について語るとすれば、「人生は語りえないこと」と「人生を語るのは恥さらし以外の何物でもないこと」を語るだろう。
大朋めがね、最高。
よく映画などで「この街に知り合いは誰もいない」なんて主人公が出てくるけれど、今の私がそれだ。
「マシニスト」はけっこう凄い映画。
昼下がりの真駒内公園は心地好いが、日が翳ると寒い。
カレーはインド人にとっての味噌汁である。
私の安アパートの一階には若い女が二人の幼女と住んでいる。1Rに女三人、そして幼女のうちの一人は養護学校に通っている。見たところ知的障害ではない、身体的な障害だと思う。
私は酒を飲まないし、酒が嫌いだけれど、時々飲みたくなる酒がある。一つは黄酒、もう一つはサングリア。そして大抵すぐ飽きる。
ローマ帝国時代は葡萄酒を水割りしないで飲むことは下品なことだった。
葡萄酒一に対し蜜柑果汁を三か四の比率で混ぜ、小さく切ったバナナを入れて冷蔵庫で冷やして飲む。これが我流サングリア。底に残ったバナナが一番おいしい。
日本の宗教、寺院や神社が信仰を失った理由は落ち着いて座れる場を市民に提供しなかったからだ。私もそうだが、現代の若者で休日に仏前や神前の座敷へ行き、無料で何時間も座っていられる者は何人いるだろうか?
ポテトチップスを食べながら歩いていたら四羽の烏が数キロメートルも私の跡をつけてきて、途中で烏同士の縄張り争いが始まった。ブランコに乗った女児が、烏の襲撃から走って逃げる私を見て笑っていた。
まだ仕事が決まらない。やはり職業適性診断システムの通り、「工」のつく職業を目指した方がいいのだろうか?
そうだ。私は稼業に生き甲斐は求めないのだから、工場の歯車になることに悔いはない 。
そういえば、小学生のころの放課後は主に炬燵で横になってテレビを見ていた。学校生活で甚だしく疲労していたのだ。
人と向き合う仕事ではどうしても甚だしく疲労せざるをえない。
近所から藻岩山が見えるけれど、どうやらそこで初雪が観測されたらしい。もう札幌は冬だ。
こんな自堕落な生活がいつまで続くのだろう?
「命の続く限りだ」
日能研札幌が私に試練を与えた。小学五年生のテキストを使って模擬授業をして、出来が良ければ私を雇うというのだ。
真冬日の存在にびびり、紅衛兵が被るような帽子と電気ストーブを買った。
夜間の水抜きは十二月から始めよう。
札幌市中央図書館へ行く。蔵書は充分ではないものの悪くはない。
岩明均は古代ギリシャ世界に主題を置いている。塩野七生は中世イタリアが主題だった。赤羊は十九世紀のヨーロッパに主眼を置いているという。私も時代と地域を特定した主題があるといいなぁと思っているけれど特に思い浮かばない。
まぁ私には「帝国」という物語世界があるし。
敢えて言うなら、二十世紀エスペラント運動に携わった奇特人を取り上げると面白そうだ。
母の私への愛情が、一般の母子愛のようなものではなく、所謂「共依存」の一方通行であるならば、これまでの二十四年弱を説明しやすくなる。
十一月
戦争がなくて女性を共有できて食べる物に困らず各成人に満足な住居が割り当てられ、言論と思想と信教の自由がそこそこあり、働けば働いた分だけ暮らすのに困らない給料を貰えて老後は年金が保証され、学費と医療費が無料の国。それが私の政治的目的だ。
つまり空想的社会主義。
それと人類人主義だか世界市民主義だかよく分けられない個人のあり方が私の基幹思想だ。
よって、ここに「空想的社会主義人類人党」を掲げる!
政権交代は選挙によるもの、そして政体の転換は民主的な投票によるものが好ましい。
思想を根拠とした暴力と殺害は厳しく禁止する。
キリスト教的異性独占行為である結婚制を廃止し、十八歳以上の労働者あるいは学生である男女が抽選で定められた相手と三日毎に共同交配所で生殖行為をする交配制を敷く。妊娠から出産までは人類人政府が完全に支援し、交配に因って誕生した父親不明の子どもたちは人類人政府が「人類の子どもたち」(filoj de homaro)として十八歳まで養育する。ただし母親は六歳まで自分の子どもを育てる権利を有する。もちろん義務ではないので育児放棄も可能だ。
同性愛者は「特殊交配所」を利用できる。
「人類の子どもたち」への教育は「人類人主義」(homaranismo)と「性欲の賛美」に基づいて行われる。
資本主義的異性寡占行為である恋愛の宣伝行為や過剰な恋愛賛美は個人的な趣味と芸術的表現以外ではこれを制限する。
いかなる場所であっても人類人は抽選で定められた相手以外の人類人との性交を禁止される。十三歳以上十八歳未満同士の性交、及び十三歳以上十八歳未満の「人類の子どもたち」と人類人との性交は性欲の解消と自己存在の確立のための行為としてこれを許可する。
すべての人類人は共同食堂を有する共同住宅が付与され、その見返りとして都市部では共同職場、近郊部では共同工場、農村部では共同農場にて労働する義務がある。
労働には対価として報酬と七十歳以降(もしくは退労勧告後)の年金が共通通貨ステーロ(stelo)で、そして交配する権利が与えられる。労働者及び退労者は医療費が無料である。
十八歳で全ての「人類の子どもたち」は人類人となる。人類人になった次の一月から、人類人は希望とそれまでの学校成績、そして試験を考慮した上で各種大学校に入学できる。そこで四年間、学問或いは職業訓練などに励む。学費は無償。もちろん、大学校に通わずそのまま労働者となる選択もある。
共同住宅での居住が困難な各種障害者は共同食堂を有する共同施設に入所でき、施設付属の工場や農場での労働を行うことによって労働者と同じく報酬と年金を得ることができる。もちろん交配する権利も与えられ、その対象は障害の程度により共同施設内の異性と施設外の異性とに分けられる。
刑務所では付属の工場や農場で労働している者に限り報酬と年金、そして刑務所内の異性と交配する権利が与えられる。
共同交配所は感染症の恐れがない限り、病院の患者も利用できる。
全ての「人類の子どもたち」はエスペラントを国際補助語として学ぶ。また全ての「人類の子どもたち」は各人の母語によって教育される権利を有し、母語による教師のいない学科は国際補助語エスペラントで教育される。第一外国語、第二外国語以下の外国語は個人の選択によって決定される。
共同住宅は��棟につき三十~五十戸(三十人から五十人)を収容し、共同住宅が十棟前後集まって一つの島を形成する。そして島が幾つか集まって区が形成され、区が幾つか集まって行政単位として、都市部の市、近郊部の町、農村部の村が形成される。区が設けられない場合もある。共同交配所は島単位で運営される。
人類人政府が統治する領域内で、島から島への移動は自由である。すなわち「空想的社会主義人類人共和国、日本群島」東京市世田谷区第三粕谷島第五棟第二十三号から「空想的社会主義人類人共和国、パリ盆地」パリ市第三区第十八島第一棟第十二号への移住は共同住宅の空きさえあれば誰でも可能である。必要なのは法律的処理と引越し作業だけだ。
移住先での行政サービスは母語で行われる。不可能な場合はエスペラントが用いられる。そのため人類人政府が統治する領域であれば善き人類人はどの共和国のどの島へ行っても行政サービスの内容を理解することができる。またどの人類人政府でも共通通貨ステーロ(stelo)が用いられているので、身元証明書と共通通貨を携帯していれば人類人はどの人類人政府へも簡単に旅行することができる。
死ぬと遺体は共同墓地に葬られる。遺産は全て人類人政府が没収し、家財道具は再利用される。
地球があますことなく全て空想的社会主義人類人共和国によって統治されたとき、(自己主張が激しく自意識過剰な反体制者どもは未だに音楽やテロで抵抗しているのだろうが)現生人類は己の種族の性欲の激しさに驚くことだろう。
複十字健診センターで肺のレントゲン写真を撮った。
私は中一から中三までツベルクリン反応は全て陰性で、そのためにひどく膿の出る注射を六回射った。
体育祭の度に注射されたところが膿んでぐちゅぐちゅになるので、体育祭の練習は嫌いだった。
それほど嫌な思いをしたのに、結核にかかっていたら笑える。
子規も啄木も同じ鳥のことを表す漢字だ。その鳥の口の中は赤い。
まるで結核患者の吐血のように。
札幌の地下鉄には網棚がない。
私は幼稚園に年中組から入った。そして最初の登園日に幼稚園のおもちゃを家に持って帰った。もちろん私に悪気はない。誰も「持って帰っちゃダメ」とは言わなくて、家でもそのおもちゃで遊びたかったから持って帰ったのだ。
私はそういう子どもだったし、今も多分にそういう人間だ。これを我が儘と呼ぶのは勝手だが、私は自身を「暗黙の了解のわからない人種」だと解釈している。
悪いのは「暗くて黙っているのになぜか了解している人種」だ。黙っていないで話せばいいのに。
シャルル・フーリエの『四運動の理論』を読み始めた。愉快だ。
十二月
買ってあったのに神聖なるアスパラガスを食べ忘れていたため、尿が臭い。
北海道の靴底は内地と違うらしい。
鶏の心臓と肝臓が半額だったので臓物カレーを作った。まずかったし、臓物である必要性がなかった。
半月弱だけ働いた九月分の給料が六万円だけ振り込まれていた。時給制の契約社員だから当然だが、奇特なことよ。
それでドミノピザを頼んだら、配達員が茶髪で小柄で猫を連想させる女の子、アキモトさんだった。お釣りを数える指先のたどたどしさがバイト経験の薄さを物語っている。思わず「ゆっくりでいいよ」「ご苦労様」などと優しい声をかけてしまった。
これが逆の立場であれば、私はアキモトさんの食べるであろうピッツァの上に己の白濁精子をバタァの如く振りかけたであろうに。
水商売とは「やったことが形に残らず水のように流れていく商売・仕事」の意である。
「福祉業は水商売なんです」と某知的障害児施設の幹部が言っていた。
かつて医師であった渡辺淳一が小説家になると決めたとき、母に「そんな水商売はやめなさい」と言われたという。
しかしよく考えれば、小説家の仕事は文章という形で残される。もし医師が医学研究を行わなければ、接客業である医師の方こそ水商売である。
水商売と非水商売のと境界は生産物の永続性や仕事の複数性について思考せざるをえず、曖昧である。ゆえに水商売の定義は難しく、渡辺淳一の例のように単なる負の意味を持つ言葉としてしか使われていない。
第三次産業はそもそも水商売である。
映画「レッドクリフ」を観た。「赤壁」に非ず。
九月までハリウッドのアクション映画だろうと私が思っていたのは事実だ。
蜀三将が強すぎて、かつ格好良すぎる。
官渡の戦いと赤壁の戦いは三国志の二大盛り場だけれど、まだ三国鼎立はなっていないんだよね。小学生のころは赤壁の戦い時の情勢がよくわかっていなかった。
中村師童(甘寧)が頑張っていた。
八卦陣には身震いがした。
規制が入って乳房は映せない。
前半は戦闘と外交の連続で、主線の通っていない名場面の羅列映画、すなわち駄作かな?と思ったけれど、お茶の場面で一本の線がすうっと引かれた。
赤壁の戦いは三国志版トロイ戦争だったのだ。
趙薇(尚香)の演技が浮いている。喜劇向きだな。
一番良かった場面は、次回の予告。次の主題は火と風だ。
この映画を観たあとの私なら一騎当千である。
滑舌が余りよくないので「公序良俗」と言おうとすると「公女凌辱」となってしまう。
ネットに繋がっていないパソコンはただのゲーム機だ。
電話窓口「私さまは、テレビの地上デジタル移行への対策はどのようになさっておいででしょうか?」 、私「テレビを買わないようにしています」
夜の狸小路は面白い。
まだ二十代も前半なのに、新しいことを始めるのにさえ「腰が重い」とは。
負けたいと願う心は知りたいと願う心である。
小麦は米より必須アミノ酸の量が格段に少ないので、パンだけで必要な栄養を摂るのは難しく、どうしても肉が必要になるのだ。
逆に言えば米は必須アミノ酸を多く含むので、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べただけで栄養は充分なのだ。
日本人女性が段々と痩せ形になったのは食事の洋風化のお蔭なのだ。
中古冷蔵庫のホース接続部から水が漏れるので調べたら、ゴムが弱くなっていた。仕方ないのでヨドバシカメラで四七二円の替えを買って付け直した。
じゃがいもを四つに切ってサランラップでくるみ、七五〇Wで三分チン。それにマヨネーズと青海苔をかけたものを小腹がすいたら食べている。二キログラムを一九八円とかで売るのが悪い。
札幌の良いところ。東急ハンズとハローワークとブックオフとヨドバシカメラとアニメイトととらのあなとメロンブックスと紀伊國屋書店とドンキホーテとダイソーがお互い歩いて行ける距離にあること。(毎日一巡している)なのに人通りが渋谷や秋葉原よりも少ないこと。
そういえば、私が高校二年生のときはアニメイトとメロンブックスは狸小路の雑居ビルの二階にあったような気がする。
時計台はいつ見てもしょぼい。でも旧北海道庁は素晴らしい。
奄美大島もそうだったけれど母娘や母子をよく見掛ける。
朝起きて、今朝は特にしばれるさーと思ったら、粉雪が降ってたさー。
藻岩山の山頂付近に雪が積もっていた。風が吹くと皮膚に刃を当てたように冷たい。
昼になると雪の粒が大きくなって降りしきる。この分だと積もりそう。藻岩山が見えなくなった。
昼過ぎにはまた粉雪に戻った。
ローマ教会は一二八二年に全シチリア島民を破門したことがある。
ガブリエル・ガルシア・マルケスの登場人物は名を替えてあちこちにいる。
ガブリエル・ガルシア・マルケスはノーベル賞受賞講演中に、スペイン語文法の単純化と文法規則の人間化、そして正字法の撤廃を訴えた。
今日、たい焼きを食い逃げした女の子に体当たりされたような感覚を味わった。
国際補助語エスペラントを図書館で借りた入門テキストで復習している。新たな発見もあり奥深い。 ベネズエラの正式名称は「ベネズエラ・ボリバル共和国」である。
将来日本で福祉戦争が起こる。福祉をする側(貧困層)と福祉をされる側(富裕層)の間の闘争だ。
大学二年生のころ、札幌市北区出身の友人が「そのゼミの先輩の彼女は風俗嬢なんだよ」と馬鹿にしたように言っていた。確か業種はヘルスだったと思う。
私はしかし生粋の文学青年であったので、その先輩は「本物の愛とは何かを知る男」だと感心したものだった。
世に云う恋愛には三種ある。一に肉体的征服感、二に精神的連携、三に依存。いずれも正しい。
女性や青年はこれら三種に序列をつけたがるが、本能より出る感情ではない。
もし恋人が風俗嬢の場合、肉体的征服感を主とする者は悶え苦しみ、精神的連携を主とする者は仕事を応援し、依存する者は依存し続けるだろう。
江戸時代、豪商や文人は吉原の高級娼婦を正妻に身請けしたし、仏蘭西にも『椿姫』という高級娼婦との恋愛を描いた小説がある。
何も人生は女性のために生きるのではなく、自分自身のために生きるのだから先進的な近代人たちはあまり妻の過去や職業にこだわらなかったのだ。
ましてや現代人をば。
札幌で諸兄が遊ぶとしたら薄野ではなく、南六条東三丁目の交差点を豊平橋の方へ行って右手にある二つの会館はどうだろう。
少なくともその豊平川沿いの会館群は十九時くらいから薄野の風俗店が閉まる〇時以降も午前三時まで営業している。脱法営業だからだ。今日までなら行くことはないけれど、明日の幕開けとともに始まった空白の三時間でなら行く価値はある。
カネマツ会館と五条東会��とあり、黄色地の看板で飾ってあるのですぐ分かる。共に二階建平屋風となっていて中には小さな飲み屋が軒を連ねている。
坂口安吾は高校生のときに読んで挫折したが、さもありなん。小僧っ子にはわからんさ。
手に職じゃないけれど前の住居からアクリルガッシュを持ってきたのでアクリル画を再開した。
私は全て絵画は部屋の装飾のために描かれると信じ、絵画による自己表現というものを信用していない。
掛軸はそもそも飾るものであるし、ルネッサンス期のアトリエでは壁画を製作していた。
絵画は装飾品であるからこそ芸術であり、美術なのだ。
私の部屋には本棚がなく、また買わない予定であるから、寂しい白壁が広く空いているのだ。
街のあちこちに水色の函がおかれ、滑り止めの砂が満載だ。冬支度である。
これは「常に凡ゆる断片」
私の現在の研修生という立場は気楽だ。職場へ行く義務はない、しかし職場へ行って研修するとただ呆っと座っていただけでも給料が出る。七時間いれば日給は一万を超すが残念なことに交通費は出ない。
結局、履歴書を出して面接したところ、全てに受かっていた。
大学五年間で一度も病院にかからなかったし、四、五年生のときは特に無病息災だった。それは生活が閉塞的であったからだ。しかし小学生どもと触れ合う職場ではいつ伝染されるか怖くて堪らない。
結核ではないことを証明しなければならない。
ミニシアター系の映画は気取った芸術学生や頭の悪い女子大生が「こんな映画を観る自分っておしゃれ!」と観るものと相場が決まっているが、私も観る。今日はシアターキノで「敵こそ、我が友」を観た。
私はフランス人気質でフランス映画がよく合うので、フランス映画を多く上映するシアターキノは選ぶ苦労がない。
政治はえげつない。民主制であろうが、独裁制であろうが国家が人間の集合体である限り、醜い。
クラウス・バルビーは残忍な性格だったろう。しかし悪だったのだろうか? 悪とはきっと温和な性格をしていると思う。
風呂に入らないまでも足だけでもお湯に浸らせるだけで眠り心地が全然違う。
北海道では小学生でも棒を「ぼっこ」、唐揚げを「ざんぎ」と言う。
電車を「汽車」と言うのは分かる。というのは汽車と呼んでいた時代と今とで利便はほぼ同じだし、電車は山手線や京王線こそが呼ばれるに相応しい。
職場を二十一時に出発し歩いて自宅まで帰ると一時間半でつく。もちろん手袋、帽子(フード)、マフラーは必要だが。
「かたわ少女」という障害者の女の子を攻略するゲームが海外で製作中らしい。
しかし知的障害児が登場しないのが残念だ。白痴少女は萌えるのに。
男は女が弱い立場にあるときだけ、女を守ろうとするし、大切にして真剣に愛そうとする。
それは彼女たちが「この人がいないとこの先自分を愛してくれる男が現れないかもしれない」と不安に思っていることを男が知っているからだ。
男は女が自分より弱い位置に立っていないと安心できない。
というのは男は、一度男を知った女は男なしではいられないこと、そして女は常に男を乗り換える機会を伺っていることを知っているからだ。
女にとって男は靴と同じである。足裏は一度靴になれると直接地面を踏む痛さには耐えられないし、履き古した靴は履き替えたいと思うだろう。あるいはまだ新しくても見栄のために違う靴を物色したりする。それにサイズが大き過ぎてもダメだし、小さ過ぎてもダメだ。
だから、賢明な男は、いわゆるまともで競争相手のいそうな女は遊び感覚でしかつきあわないのだ。
つまり、障害を持つ少女或いは女性というのは現代社会では稀に見る「愛され女」なのだ。
死は恐れるに足らず。人間は死なない。なぜなら死ねば人間ではなくなるから。
怒るな、褒めよ。大事なことはチンパンジーが教えてくれる。
日本の大衆文化が幼稚なのは、大衆文化を形成するための大衆、つまり充分に余暇のある人々が生徒と学生に限られていて、成熟した大人は仕事に追われて忙しく文化どころじゃないからだ。
すると数の論理で中学生、高校生、専門学校生や女子大生に受けの良い番組、音楽、小説、漫画があたかも日本中の注目を浴びているかのように見える。或いは情報媒体がそう見させている。
いわゆる恋愛主義が社会を支配する主流思想に思えるのはそういった中学生や高校生の未熟さや幼稚さが大衆文化の前線を陣どっているからだ。
少しでも文化に興味のある人であれば仕事に就いて余暇を奪われることを恐れるだろう。そして無職への風当たりの強さに怯むのと同時に大衆文化の幼稚化を憎まなければならない。
まともな大衆文化を形成するには充分な数の大人が充分な量の余暇を持つ必要がある。そうやって数の論理で生徒・学生文化を日本大衆文化の一分野へと押し戻していかなければならない。
恋愛主義を一派閥へと駆逐し、男女の関係を“人間の地平”に立脚するものにしなければならない。
とりあえず私はキノカフェでフランス映画を観て、市立図書館で坂口安吾と旧共産圏とラテンアメリカの文学を読もう。
皇帝、国王、大統領は偉大で、豪華な外見をしていなければならない。たとえ黒革金銀細工の財布の中身が空であっても。
職場を出ると粉雪。
十一月二十日の札幌市内における最高気温、零度以下。
つまり真冬日。
そして、朝起きると人生でかつて経験したことのないような積雪。
水抜きしないと水道管が凍る。
起床時の室温、三度。
湯たんぽを購入。
氷雪上を歩くため、靴にスパイクをつけた。
そんな晩に狸小路で演奏している音楽愛好家がいる。
零下三度の札幌で、私は豊平川沿いを自宅まで歩き、やっと帰宅する。
帰宅時の室温、一度。
私を雇った職場が入っているビルに北海道で一番有名な政治家が所属する個人政党の本部がある。
だから今日は政治の話をしよう。
狸小路で日本共産党のDVDをもらった。
それはまさに志位書記長のファン・ディスクだったが、つらつらと全編を鑑賞してしまった。
あやうく共産党のファンになりそうだった。しんぶん赤旗日曜版を定期購読して、日本共産党に入党しそうになった。
旧共産圏を生きた人の小説を読むと、共産主義もそれほど悪くはないと思えてくる。
悪いのは共産主義じゃなくて独裁的な指導者と我が儘で自己主張の激しい反体制者だけだ。
けれど、そもそも私は人間集団が嫌いなんだ。
だからどこかの政党に入ることはまずしない。
それに大学時代に身近に見てきた「共産党」は醜悪だったし、第一に私はデモとか行進とかの集団行動が嫌いなんだ。団結しようとするのは現実から逃げているからだ。
もっとやり方がスマートなら、話を聞いてくれるかもしれないのに。やり方が顕示的で、目的へと努力する前から諦念が感じられる。まるで知的障害児や駄々っ子のようだ。
つまり私は共産主義には興味があるが、共産党はあまり好ましく思っていない。
しかし一国を動かすためには何かしらの政治学を学ばねばならない。大学の政治学部に入学するか既存政党に入るか、独学で習得するか?
よし、独学しよう。そして政党は私が自ら創ればいい!
大学四年生の夏、就職活動を諦めたときから生きている感覚に乏しくなってきたんだ。だんだんと。
早口でまくしたてる人は苦手だ。いや、人ではなくて早口が苦手で、早口で喋られると泣きたくなる。特に女性に多い。
早口な人と吃っている人のどちらを選べと言われたら間違いなく吃っている人を選ぶ。
早口な女性は別に頭の回転が速いのではない。なぜなら思考によって、ではなく記憶と憶測だけで話すからだ。
つまり早口の女性は言葉を持たない。彼女たちは壊れかけたテープレコーダーに過ぎないのだ。
職を探す度に共産主義を羨望する。
自動的に職は与えられて然るべきだと思う。
働く時間というのは私にとって死の時間である。
なぜ己の死を自分で探さねばならない?
私は常に余暇か副業が生きている時間なのだ。
これは逃げ、なのか? 或いはそういう生き方なのか?
「辞めさせた、或いは辞めた職場は労働者の次の仕事を見つける義務がある」という法律を作って欲しい。
逃げられた職場も。
「よく働こう」とするのではなく「よく生きよう」とする者にとって資本主義は残酷だ。
ニートさんとかフリーターさんを問題視する人は、まず面接で若者を見捨てる人を問題視した方がいいよ。とブックオフとパン屋チェーンのアルバイト面接に落ちた私が言う。やっぱり大学時代のバイトと同じ業種しか雇ってくれないのか? なんだ、この職業カースト制は?
私だって美味しいパンを作って主婦層や職業婦人からモてはやされたいのに。
生きているのかなぁ、本当に? 自分。
佐賀県からこの一週間、このブログへのアクセスがなかった。
その程度の教養レベルか!佐賀県の教育委員長は職務怠慢により死刑!
或いは佐賀県にパソコンは無いのか?
中学生のころ、スナッフビデオは都市伝説だと聞いて、「ならば自分たちで作ればいいんじゃないか」と思った。
抑圧された子供は、一人暮らしをすればできるかもしれないことを妄想するものだが、私の場合、その全てが犯罪がらみだった。
さて、私はこの見知らぬ百五十万都市で市民記者に登録した。
仕事における電話の秘訣は、相手に電話したことを後悔させないことだ。
空想的社会主義者の食卓。【切り餅(磯辺か餡)三個と納豆】【玄米フレーク五十グラムに牛乳かけ】【蒸し馬鈴薯と野菜スープ】【インスタント麺と蒸し馬鈴薯】【御飯と魚介缶詰と味噌汁】【ピザトースト二枚と野菜スープ】【カレーライス】【食パン二枚と目玉焼き】
空想的社会主義者の食事への心得。粗食、同一性保持、昼食は朝食と夕食のつなぎ。
空想的社会主義者の主要飲料は【牛乳】で、【野菜ジュース】や【珈琲】や【茶】は嗜好品として飲む。牛乳を多く飲む日は必ず納豆などの大豆食品を食べるべきである。
空想的社会主義者の栄養補給剤は【エビオス錠】である。
これは決まりではないが、豚肉と鰭や鱗のない魚は食べない。肉製品と乳製品を一緒に食べない。血を食べるのはダメ。
イスラエル国歌「ハティクヴァ」は物哀しい。
ラーメン! フライングスパゲッティモンスター。
実家にいたころは飽食気味で、私はやや肥満だった。
母は愛情を食事でしか表現できない人だったからだ。
学園時代はよく食べた。しかしよく戦ったので痩せた。
今は粗食で痩せた。
今日、昨日、一昨日は図書館(徒歩五分)とスーパーマーケット(徒歩三分)に行く他はずっとパソコンの前で過ごした。
おかげでウンコが硬い。
二ちゃんねる系のサイトに今更ながらはまっている。
もう仕事とかどうでもいいや。面接とかで人間性試されるの嫌いだし。
ほら、お外は怖いし。寒いし。
いつの間にか雪降ってるし。
火星に土地でも買って移り住もうかな?
やれやれ
人間は今でこそ呼吸し、食べ、排泄し、寝て、思考している。
しかし数年後か数十年後には思考は消え去り、記憶もなくなるだろう。
私はもしかしたら今までの人生の四倍の時間を生きるかもしれない。しかし決して五倍は生きないだろう。
思考と記憶の消滅、それを人は「死」と呼ぶ。
症例はいくつもあるにも関わらず「死」の問題は医学によっては解決されていない。ただ宗教だけがこれを信仰により解決させようとしている。
人はこう思うだろう。なぜ必ず「死」ぬ人間に思考が与えられたのか?と。思考さえなければ「死」を思い悩むことはなかったのに、と。
私はこう考える。誰かがこう仕組んだのだ「人間よ、その『死』とやらについて思考せよ」と。
で、私は考えた。人間は「死」ぬ、ゆえに有限だ。しかし人間の集合体である人類は半永久的に存在する。この違いに意味が存在する。
人間が「死」ぬのはなぜか?それは人類全体に更新を与えるためだ。つまり個人の人生というのは人類という種族全体の繁栄のためにある。
恐竜は失敗した。しかしあの時代にはあの形態が最適だった。今の時代は人類の形態が最適である。しかしいつ人類の絶滅が訪れるかわからない。
個人やある人間集団の私欲のために人類が犠牲になるとしたら、死んでいった人類はもとよりその個人やその人間集団の人生も無駄になる。なぜなら彼らは人生を無駄なことに使ったからだ。或いはそれも人類の試行錯誤なのか?
ゆえに私は結論付けた。人間の人生を活かすには常に自身のためではなく人類のために生きよ、と。私の宗教的信条でもある。
私が二〇〇七年二月に生み出した「人類意志こそ神」という真理は今もゆるぎない。
その結論ゆえに私は人類人主義と世界市民主義を支持する。
世界連邦を唱えるバハイ教はある意味では正しい。世界中心都市論と世界政府論を除いては。
ゆえに私は「宗教団体に所属しているか?」に関しては無宗教だが、「信仰を持つか?」については有信仰だ。
人類全体へのゆるぎない信仰。
警察犯処罰令第一条第三号「一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者は、三十日未満の拘留に処せられる」。私、危なかったなぁ。
ちなみに昨日は十五時すぎでマイナス三度だった。気温がプラスになることはなかった。
フードか帽子を被らないと顔が凍る。
キブツの子供は母親と離れて暮らす生活を強いられるので就学前は夜尿や指しゃぶりなどの情緒的未発達が見られる。
しかし子供の家での十八年間に及ぶ集団生活を経て、青年期になると非神経症ともいうべき環境適応能力と高い社会奉仕意欲を示すという。
人口の十%にも満たないキブツの人がイスラエルを率い、パレスチナ人どもから国を守ってきたと言っても過言ではない。
キブツはどこかスパルタと似ている。
母親の愛にくるまれてすくすく育ち、教育を終えて社会に出る際に新しい環境に適応できず引きこもりになったり神経症を患ったりする日本とは正反対である。
また家族という、気の違った両親の作る牢獄に囚われることなく、子供は成長することが出来る。そのことの、なんという幸福。
キブツ制度が全く善くて素晴らしいと賞賛するわけではないが、日本人はキブツなどの社会主義制度を少しは見習うべきだよ。
なぜ働けるし、働く意志のある人間が働けないのだ?労働力の余剰をどうして解決しようとしないのか?
ギリシャ的な暴動を起こしたいさね。ヘルメット、鉄パイプ、ナイフ、クロスボウ、火炎瓶を装備してさ。戦うんだ。
見えない何かと。
そのために私は筋トレを欠かさない。
正しい太り方をしよう。正しく太った人は美しい。
正しく太った人は、間違って痩せた人より美しい。
皆さんも親になれば分かると思うが、愚かな親は「子供は家庭にさえいれば良く育つ」と信じ、施設に預けられた子供を見ると「可哀想に!」なぞと言う。
これは親の傲慢であり、怠慢だ。
ある種の家庭に産まれた子供にとって、家庭とは牢獄に過ぎない。
悪しき家庭は普通の施設にさえ劣る。
もちろん、部下に怒鳴りつける上司がいるような施設は失格である。やたら怒鳴りつける父親がいるような家庭が失敗であるように。
家庭は人生の不条理の始まりである。結婚がそうであるように。
不倫の存在は結婚制度の不完全さと失敗を裏付けている。
なぜ男性は一人のやがては醜く老いる女性と共に生きねばならず、女性は一人の頑固で我が儘な男性に肉体を支配されなければならないのだ?
ならば結婚制度をなくし、複数の男性と複数の女性が乱交する交配を制度化すればいい。
そして交配を道徳とする。
これで家庭は消滅し、家庭起源の不幸も消え去る。
女性と子供を家庭という牢獄から解放しなければならない。
これはおいしいぞ
不満があるなら耐えてはならない。叫ばなければ、心弱き者はいつまでも弱いままだ。
INTER LUPOJ KRIU LUPE!
祖父の最初の記憶��航空機である。私は祖父の住む福岡まで航空機で遊びに行った。
両親の結婚式のときに某Hグループのエレベーター専門子会社の社長に就任したと聞くから、その時は既に退職していたのだろう。
それから祖父は奈良の西大寺に引っ越した。奈良での記憶はあまりにも大きい。
遊園地へ車で行く途中で私が寝てしまい、目覚めたら祖父宅の前だった。
祖父は三重県の山奥の出身で、憲兵として猿田彦神社を守っていたら終戦になったという。
カメラ好きで本好きだった。本好きは私まで遺伝したが、カメラ好きは父までの遺伝で止まってしまった。
最近、腰を痛めて歩行困難になったので東京区内に引っ越した。
父から連絡があり、今から急遽、私はAIRDO二十便で羽田空港へ向かう。
明日を迎えるかどうかは、分からないという。
こんなに揺れた飛行はチュニス・カルタゴ空港からシャルル・ド・ゴール空港への飛行以来だ。
連絡から二時間半で私はすでに機上の人だったため、荷物が近所徒歩五分の図書館へ行く際と同じ量である。
東京は雨が降っていることもあるけれど蒸し暑い。
この三ヶ月で私は巨大大陸辺縁にある弧状群島の知床から那覇までを一往復分移動したことになる。
私は行動する直前にはその行動について考えない。そのために行動に躊躇はない。
そのせいで今まで様々な困難があったけれど、今回は良かったのかもしれない。
考えてみれば祖父は昨日で八十四歳である。私があと四日で二十四歳であるように。
まだまだ十分とは言えないが神々に文句はつけられない年齢だ。
容態は少し落ち着いたようだが、まだ危ないらしい。
十二月六日に、大阪の釜ヶ崎で暴動事件が起こっていたという。引き金をひいたのは暴力的で犯罪的な西成警察署による労働者への暴行事件だった。
「連れて行かれた西成署の三階の個室で、四人の刑事に代わる代わる顔を殴られ、紐で首を締められ、足蹴りされ、挙句の果てに両足持たれて逆さ釣りにされた。気が遠くなると、スプレーをかけられたと言う。生活保護を打ち切ると脅かされて、その店に近づかないという始末書まで書かされている。」(西成署警察官の暴行に抗議する!)
年末における雇用問題の原因は、報道をみるかぎりでは労働者の選択肢の狭さに原因がある。
いや、労働者はそもそも選択なんてしたくはないのだ。だって仕事のために生きているわけではなく、生きるために仕事をしているのだから。
経営者はもちろん「仕事にために生きる人」を求めるだろう。已むをえないことだ。しかし従業員もそれに右に倣え、では自分で自分の首を絞めているようなものだ。面従腹背が必要である。
そういう意味で、日本の労働者は正社員も派遣社員も労働意識が低い。
企��が、「お客様のためにある」時代は終わりを告げた。これからは「従業員のためにある」企業が求められている。
労働力の均衡という面から見れば、学業を終えた健康な成人には自動的に職が与えられてしかるべきなのに。
情況の囚人という心理実験によれば、派遣社員も正社員になれば正社員ばりの働きをするし、正社員も派遣社員になればそれだけの働きをする。あらゆる面接や選別は無意味であって、人事が行うべきはしかるべき職を与え、仕事の結果を見て評価を与えるのではなく、「こういう結果であってほしい」という仮定の評価を実際に与えてしまうことだ。
十二月二十二日には札幌に帰る。
トロヤ点への新たなる月の飛来、止まない月震、超未来人類と新興恐竜との共存などについて有機的に考えようとしているが、果たせない。
六百円で大根サラダ・鴨肉三切・味噌汁・鳥肉たっぷりの丼物・アイスが食べられる地下一階のカフェ・ダイニングバーを見つけた。
十二月二十日に開店したジュンク堂へ行った。池袋級書艦だった。エスペラント関連書籍は十冊以上、なんと『百年の孤独』のスペイン語版も置いてあった。
札幌はジュンク堂、とらのあな、アニメイト、ブックオフの並びが熱い。
JRタワーのヴィレヴァンが狭いなぁ、嫌やなぁと思っていたらロフトの中にもあった。でも、ヴィレヴァン下北沢店の足元にも及ばない。
アリストテレスは貨幣を万物の尺度とする資本主義的世界を想定した。その一方でディオゲネスは貨幣を変造した罪でシノペを追放され、世界市民となった。彼は貨幣(常識、慣習)を変造したのだ。
純連のみそラーメンは美味しかった。
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yuatari · 4 years
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水の底から私を引き上げて
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こんな意識がずっとあった。
『私はどこかで生まれ変わらないといけない』
 今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
 弱く価値のない自分の殻を脱ぎ捨て、もっと素晴らしい自分を想像しながら今日も眠りにつく。次に目を開けたとき、まるで違う自分へと羽化することを願って。
 そんな希望のような自死。
 でも翌朝になってもそこにいるのは紛れもない私。
 朝日に苛まれない日はなかった。
 だから私は決意した。
私の半身から自立することを。
私の人生の半分を占めるものから離れてしまえば、 きっと生まれ変わる他ない。
そうすることが一番良いのだ。
私にとっても、私の半身にとっても。
 だけど。
  今日も誰も来ない塔の中で二人きり。
 じっとりとした感触。
 手に汗をかいていたのはいつからだろう。
 今日ここの扉に手をかけた瞬間だろうか。
 いつものように向かい合わせで座った瞬間だろうか。
 それとも、あの日の決断からずっとかもしれない。
「ヒカリ」
 声をかけ、勉強していた彼女の手を奪う。
 その手の中から零れ落ちていったもの。塗装が剥げ、白色が見え隠れした紺のシャーペンがノートの上を転がるのを見て、浮かされた熱が少しだけ冷めていった。
中学一年生の誕生日に私があげたもの。今でも使っているのかという呆れと、そんなことを覚えている自分に嫌気が差す。
 ヒカリが私を見る。
 どうしたのと、声は出さず私の瞳を覗いてくる。
 昔からの癖。
困ったことがあると何も言わずに私を見つめる。
 魚みたい。
顔がとかではなくて。
 呼吸をしていないんじゃないかと思うくらい喋らない。
 昔はそれが心地良かった。
 言葉を使わなくていいことに安心した。
 言葉を用いなくても通じ合えることが嬉しかった。
 傷つかないで済むから。
 でも今はただ息苦しい。
 そこはまるで水の底のよう。
 息が詰まって、なにかにつかまりたくなる。
「……少しだけ、手握っていてもいい?」
 幼い頃から胸に巣食う重いかたまり。
それが彼女の手に触れるとさらさらと少し軽くなる。
 ……ああ、私は弱い。
 昔と寸分変わらぬ弱さでここにいる。
 そして目の前の彼女もまた、昔と変わらず決してノーとは言わない。
  2
  ◆
   人混みのない都心の駅を歩きたい。
 広い横断歩道を一人で渡りたい。
 車のない高速道路を一人で散歩したい。
 真夏の学校のプールを一人で泳ぎたい。
 これは仮に私が将来とてつもない金持ちになり、広い家を持ったり、ヒカリ駅を建てたり、ヒカリ専用の高速道路を作ったり、自宅に広いプールを設置したとしても得られるものではない。
 見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
 その快感に酔いしれたいのだ。
 冷たい石の床が夏の陽射しで沸騰した身体によく効く。
まだ時間があるからと寝ころんで何分経つだろう。既に遅れてしまっている可能性は高い。でも少し遅れるぶんにはいい。そこまできっちりした約束ではないから。
 それよりもこの場を見られる方が問題だ。
 スイはこういったことを嫌うから。
『汚いよ』
 無数の生徒の上履きで踏みつぶされた廊下で寝ころぶなんて行為は。
 でも今は夏休み。生徒はほとんどいない。
清掃業者が定期的に入っているのだからスイの想像よりは綺麗だろう。たぶん、私の想像よりは汚いだろうけれど。
 爽快だった。
 こういう時に使う言葉だったっけとも思うけれど直感的に浮かんだ言葉はこれで。なにかを達成するでもなく、何もないことで爽快になるとは。
 本当になにもない。
誰もいない。
床に耳を当てると建物の鼓動が聞こえる。
本当は私の心臓の反響だとしても。
音が床に沈んでいく。
広い廊下で寝ても文句を言う人間がいない。
一度は想像したことがある非日常の憧憬。
人の溢れる商店街、交差点、駅、電車、学校から自分以外の人が消えること。
あまりにクリアな自己完結した世界。
 誰に左右されるでもなく、始まりも終わりも私が決めていい。
音を作り出すのは私で、それを消すのも私だけ。
静かで、本当に静かで。
  ―物静かだね
 私は口で呼吸をしない。
 私は特別に言葉を持たない。
 うまく表現ができないから。
 それに喋らないことが息苦しくない。
 三人で集まって、私以外の二人が楽しく喋っているのを見ているだけで十分楽しい。
 他人が嫌いなんじゃない。
 むしろ好き。
 だから誰かに誘われれば賑やかな場所にも行く。
 だけど喋らないから「つまんない子」だって最後にはグループから外されてしまう。
 悲しいとは思わない。
 ほんとうにね。
 そういうものだし、群れに馴染めなくて一人になるのは自然の摂理のようで納得感がある。
 やっぱり���うだよねで大体済んできた。
 でも悲しくないのは、唯一の例外を知っていたからかもしれない。
 小さい頃はずっと不思議だった。なんで他の子とはうまくいかないんだろうって。反対に、
『なんでスイちゃんとは仲良くできてるんだろう』
 ……ああ、そうだったね。
スイのところへ行かなくてはいけないんだった。
立ち上がるも足元がフラついた。立ちくらみだ。
身体を冷やし過ぎたか、急に立ち上がったせいか、どちらでもいいけど視界に白い靄がかかり―小さな手がこちらに伸びてくる幻想を見た。
幼い誰かの手。小さい頃はその手に引かれ、助けられてきた。
昨日のことを思い出して、手のひらを見つめる。
『……少しだけ、手握っていてもいい?』
 そこはいつも通りの自分の手があった。
 痕なんて付いていないのに。
 しんとしたスイの指の感触が骨の芯まで残っている。
  ◆
   ヒカリという名前はどうなのだろう。
漢字にすると『え、そこ?』みたいな当て字だし、その意味するところもマイペースでぼんやりした私からはかけ離れている。
 対照的にスイという名前があまりに似合ってしまっている子もいる。
夏でも陽に焼けず、白い腕から覗く薄青い静脈はぞくりとさせるくらい綺麗に透き通っている。
抑えたような低い声は耳に馴染む。容姿だって綺麗で温度が低い。少し近づき難いほどに。
三階の化学準備室の扉を開けると、おおよそ涼しいとは言い切れず、しかし無いよりはマシといった程度の風が流れ込んでくる。
スイが先に着いているようだ。もっとも私がスイより先に着いていた試しはない。
 時間に律儀。
準備だって万端で。
化学室の黄ばんだ長机にチェック柄のテーブルクロスがかけられ、その上にはノートに参考書、筆記用具と小さい花柄のポットが置かれている。ポットの中身はいつもの、スイが持参したアールグレイだろう。
準備室という粗雑な場所のはずがスイの趣味と美意識により随分と優雅だ。
ここまで快適な空間にしてくれたのであれば、もう少し空調を効かせてくれてもいいのだけど。
かつては二十八度。スイがいない間に温度を下げるという無言の抗議を何度か繰り返した結果、今は二十七度に落ち着いている。
スイの言い分は。
『だって冷えるじゃない』
嫌いな食べ物はアイス。
徹底ぶりは昔から変わってない。
 本当に小さい頃から。同じ日に同じ病院で生まれたらしい。母親同士が入院中に仲良くなり、家も近かったから退院後も家族ぐるみで親しくなった。
 しっかり者のスイにいつも世話を焼かれてきた。
私は昔からずっとマイペースで大きな決断など一度もしたことがない。いつだって、ぼんやりと気ままだ。
「おはよう、ヒカリ」
 準備室の入り口でボーっと立っている私にスイが声をかけてくる。
 うんと頷く。
既に席についているスイに倣って私も席につくと鞄から勉強道具を取り出す。外は良い天気で、室内にいる私たちをさんさんとした太陽が嘲笑うようだ。
 机を挟んで向き合うものの私たちの空間に言葉はない。
 ノートの上を走るペンの音だけが響く。
 かりかりと。
 さらさらと。
 それもフル回転させた脳の前では無に等しい。
 それよりも時折、意識を乱すのは視界に入ってくる彼女の姿。
 いつだって氷のように憂鬱そうで。
 それなのに触れてしまえば簡単に砕けてしまいそうな線の細さ。
 ペンを弄ぶ細長く白い指先の温度を私は知っている。
 八月の夏休み。
 プールにも旅行にも花火大会にも目もくれず、学校へと通う。
登校の義務はもちろんない。
にも関わらず電車を乗り継ぎ、ローカル線の駅を降り、バスで畑をいくつか通り過ぎたところにある学校にまで来ている。
普通であればそれなりの理由を必要とする。
『夏休みは学校で受験勉強をするわ』
 それだけ。
 スイのその一言だけで夏休みも毎日登校している。
 朝早くに起きて炎天下を歩いていく。
 進学校の中でも特に部活に力を入れていない高校だ。定期を更新してまで学校に来ているのは私たちくらいだろう。
 スイの家も遠くない。ただ勉強をするのであれば互いの家に行く方が効率は良い。
 それでも。
 そういう非効率な選択肢を私たちは選んだ。
 二人の方が集中できるとか、勉強が捗るとか、お互いに見張り合ってサボらなくなるとか、そういう理由付けは一切なかった。
ただ選んだんだ。
 他に生徒はいない。
 周囲も山と畑ばかりで音はない。
 音を作り出すのは私とスイだけ。
 水のように澄んでいる、私とスイの世界。
 延々と時間が消費され、時間が積もり重なっていく。
 幼い頃からのスイとの時間は途方もなく、当たり前になっている。これ以上の積み重ねがなにを生むのかは私にもわからない。
 だけど。
 帰りのバスを待っていると心地の良い感触につい目を向けてしまう。
スイが私の右手を握っていた。
 日が暮れても夕陽が私たちを熱くし、それだけに右手の冷たい肌触りが目立って仕方なく、彼女が昔から今の今まで確かに隣にいることを実感する。
 音なんかなくても。
 声なんかなくても。
 呼吸なんかなくても。
 言葉なんかなくても。
  私はここにいる。
           3
  ◆
   朝日が昇る頃。
 またダメでしたと呟いた。
  朝八時を迎える前。
 足元が幽霊のようにおぼつかない。
 自分がどこに立っているのかわからなくなる。
 不安と迷いから生まれる私の揺らぎ。
それは価値観や思考の揺らぎに等しく、個人の存在が不安定なことに等しい。
 だから階段を登っている瞬間だけは足取りが確かで私という存在がどこにも埋もれない。
 三本の円形の塔があった。
それが三角形の点となり建ち並ぶ姿は三年間通い続けても慣れはしなかった。
白色の石造りの塔。
煩わしい装飾がない私たちの高校。
まわりが畑と山だらけなので非常に浮いている。どこかファンタジーで学び舎としての趣味が良いとは言えず、石造りの床もデザインだけ見れば素敵でも冬には馬鹿らしいほどに冷え込むから好きになれない。
 唯一好きになれたのは螺旋階段。全ての塔は中央が吹き抜けで巨大な螺旋状の階段になっている。
 一階から五階の特殊教室に向かう際は生徒たちも不満をこぼす。景色が変わらず、延々と登っているような錯覚に陥るからだ。
 でもそれは余計な情報が少ないということで考え事にはうってつけ。
見上げれば透き通る青空が私を見ている。高さというのは平面に比べて一歩一歩の実感が大きいもの。
だから一段登るごとに私の中の揺らぎが薄れていく。
 この螺旋階段が空まで続いていればどんなに良かった��ろうか―そんな永遠を願うほどに。
 朝八時ちょうど。
 三階の化学準備室に到着すると荷物を置き、窓を開けて掃除に取りかかる。
 最初こそ埃と雑然さしかなかったこの場所も不要な段ボールの処分や備品の整理をして随分とマシになった。
 夏休み半ばにしてほぼ理想形となった。
 それも夏休みが終わってしまえば水泡となる。この準備室の使用だって許可もなにもあったものではない。
 登校にしたってそうだ。義務がないということは  「やる必要がない」ことで余計なことになる。
 良いか悪いかで言うと灰色。
 私物のお茶まで持ち込んで、勝手に火器も使用して、灰色どころか黒と言っても差し支えない。
 そんなリスクと期限のある空間でも私は理想を求めた。
 昔からの癖。
 私の理想の場所を作り上げる。
 凝り性だとかそういう可愛いものではない。
 私の思い描く理想を作り上げられる実行力は、しかし私の思い描く理想が他人の理想ではないという点で明確な悪癖となる。
 それでも私は我を通してきた。
 そうやって理想を作り続けてきた。
 昔から、ずっと。
 
 朝十時前。
一向に現れないヒカリを探しに行ったわけではないけれど、気晴らしに螺旋階段を登っていたら落し物を発見した。
 五階まで上がった時だった。
廊下で倒れる人の姿があったので近づいてみるとヒカリが仰向けで目を閉じていた。
 屈みこんでヒカリを観察する。
 外傷なし。
 衣服の乱れなし。
 呼吸よし。
 結果、事件性なし。
『ヒカリちゃん、なにしてるの?』
 駐車場のアスファルトの上。
 幼い頃、少し目を離したらヒカリが地面に横になっていることが何度かあった。
 私の問いに答えることはなく、ヒカリは注意されても止めなかった。ただ、こちらを見て微笑むだけで。
 その時に見せる笑みはいつも可愛かった。
 五階でやっていた理由はなんだろう。
今日はたまたま五階だったのか、あるいは私に見つからないためか。
 馬鹿ね。好きにすればいいのに。
  ―そうさせているのは誰?
  久しぶりに、戯れたくなった。
 乱れた前髪に触れると懐かしい匂いがした。
 温かくて甘い、ソープの香り。
 触発され、頬に指が触れる。
 一本から二本へと触れる指が増える。
 添える手はやがて片手から両手へ。
 長いまつ毛を見つめる。五秒、十秒と時を止めて、深呼吸をすると額に口づけをした。柔らかい肌の感触が唇をビリビリと伝わり、身体と脳が震える。
 今この一時だけは全てを忘れられる。
 それでもヒカリは起きない。
 いつからここにいるのだろう。
 私は時間に対して余裕を持つ。
 ヒカリは余裕を持って時間を使う。
とてもヒカリらしい。
 私はいち早く準備室に行ってしまうから。
 少しでも多くの時間を理想の場所でヒカリと一緒に過ごしたいから。
 そんな気持ちに応えないヒカリのマイペースさに沈んだりはしない。
 ……わかっている。
ヒカリにはヒカリの時間がもっと必要なことを。
 それでも側にいたくて。
 意味のない問いかけだと知りながら。
「……ヒカリ、いいよね?」
 貴女は決してノーとは言わない。
 寝ていても、覚めていても。
 今も、昔も、これからも。
 ヒカリの隣に寝そべった。
 逆さまの視界。
重力が反転し、私とヒカリが天井を歩くところを想像する。二人して地上を目指して螺旋階段を登っていくところを。
なかなかに愉快な光景で、想像していくうちに意識は遠い彼方へと運ばれていった。
 それは床の冷たさと相まって水面に浮かぶようで。
 夢に落ちる間際、溺れてしまわぬよう私はその手をつかんだ。
  ◆
   夢を見た。
 急に世界の重力が反転して私とスイは逆さまになる。二人で天井に座りこんで窓の外を見ると空へと吸い込まれていく無数の人の姿を見る。それは残酷なようで、でも流星のような瞬きで美しかった。
 それから二人で螺旋階段を登る。しかし地上に出るも逆さまなので家に帰るのが困難だった。
 私は家に帰りたかった。それは怖いからとか、家が心配だからとかではなく、見たいテレビがあったのだ。夢だし、まぁそんなものだと思う。
 やがてスイが言う。
「この塔で暮らしましょう」
 いつもの化学準備室も逆さまで中はぐちゃぐちゃで、それもすぐにスイが綺麗にしてくれる。気がつけば景色だけ逆さまにいつもの机が、筆記用具と参考書が、スイが淹れてくれた紅茶が。
「時間はいくらでもあるし勉強しましょう」
 なんだか悪くないなと思った。
 本当にここで暮らしていくことも。
 スイと一緒にいることは。
 夢のようで―しかし本当に夢で。
  目を開けると橙の光が眩しかった。
 時刻は体感、十六時くらいだろう。
 まだ夢の中だとも思った。
 隣でスイが寝ていたから。
 でも夢ではなかった。
 確かに繋がれた手の感触は現実のものだった。
 それがまた夢のようでもあった。
 身体を起こして、廊下で寝てしまったことも思い出す。ただその時はスイがいなかったはずだ。今日はまだ会話もしていない。つまりスイがこの状況にしたわけで―
 ぼりぼりと、わざとらしく頭をかく。
あたりを見回す、誰も来ないのを知っているのに。
 ……さて、どうしよう。
 めずらしく私に主導権がある。
 普段、主導権を握っているスイが寝ているのだから当然なのだけど、それだけスイが無防備になることがない証拠でもある。
 本当に無防備。
 つい寝顔を覗き込んでしまう。
 スイ、起きて。
 そう声が出かかったけれど―人差し指の第二関節でスイの頬に触れる。
  目にクマできてるね。
 意識して見ないから気づかなかったよ。
 スイと一緒に居るのが当たり前で。
 こんな間近で顔見ることもないからさ。
 顔も青白いし、手も冷たいよ。
 息してる?
 スイ、疲れてる?
 最近のスイ、少し変だよね。
 よく手繋いできたりさ。
 小さい頃みたいで嬉しくなるけど、不安にもなる。
 こんな廊下で寝っころがるのもそう。
 前なら……ううん。
 小さい頃からずっと、こんなことしなかったよ。
 スイはいつだって凛々しくて、綺麗で、私とは正反対。
 …………ええと。
 お腹すかない?
 私はすいちゃったよ。
 お昼食べてないからね。
 起きて欲しいけど、このまま寝てても欲しい。
 うん、寝てて欲しい。
ゆっくり、そのままで。
 ……なんか、ずっと一緒にいるね。
 でも、ずっと一緒にいるからこそ。
 気づかないこともあるんだね。
 スイは昔のままじゃない。
 私は昔のままの気しかしないよ。
 だから。
 ……だからなのかな。
 スイはさ―
 
 それらを何一つ、声に乗せて言葉にはしなかった。
 急に自分がとてつもなく酷い奴のように感じた。
 こんなにも言葉を抱えておきながら口にしない、相手に伝えようともしない。
 実際、私は「つまんない子」とかそういうレベルではなく、普通に酷い奴なんだろう。
 対話を致命的に放棄し、決定権は相手に委ねる。
 だから、スイにも言われたんじゃないか。
 小さい頃からスイのお世話になって十六年が経つ。
 並みの恋人どころか夫婦よりもずっと付き合いが長い。
 ずっと親にも言われてきた。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
 小さい頃はそれにいつも同じ返答をしたものだけど。
 もう長くは一緒にいられない。
 私は大きな決断など一度もしたことがない。
 ……全てスイに決めてもらっていたから。
 遊びに行く場所、趣味に、高校の進路。
 そして大学も。
 夏の始めにスイに言われたこと。
『大学は別々のところに行こう』
 それに対して私は、声を出して「うん、わかった」と頷くだけだった。
  ……でも。
 だけどね。
          4
  ◆
  『ヒカリのこと、よろしく頼むわね』
 みんなが褒めてくれる。
 ヒカリの面倒を見るだけで「頼りになる」「しっかりしている」と褒めたたえた。それを見てお母さんが誇らしげに笑みをこぼしたのを覚えている。
 ヒカリのことだって好きだった。
 ちょっとボンヤリしてて手はかかる。
 それでも私の後ろを健気について来る姿は愛おしく―ある日、気づいてしまった。
 私の意見を聞くこと。
 私と対立する人が現れたら私に付くこと。
いつだって貴女は私の言いなりだった。
彼女の性格や本質なんて二の次で私がヒカリを好きな理由は私に従順なところだった。
 小さい頃から面倒を見るという名目で彼女をコントロールしてきたことに自覚がないとは言えない。
 私の承認欲求のために、理想のために、ずっと騙されていること。
 そして貴女がいないともうダメになってしまう自分を見つけてしまったこと。
 私は一人で生きていくのが不安だ。
 私を必要としてくれる人がヒカリ以外にいるのか。
 いつまでも必要として欲しい。
 でも、それではいけない。いいわけがない。
 だから。
  この一ヵ月は、なんのための一ヵ月だったのだろう。
  夏休みも残り一週間を切った。
 相変わらずの受験勉強の日々の中でも変化があった。
 ヒカリの視線を感じることが増えた。
 気のせいではない頻度で目が合う。
 どうしたのと聞いても、ううんなんでもと言うように首を振るだけ。
 朝も九時前にヒカリがここに着くようになった。
 朝の支度まで一緒に手伝ってくれる。
 ヒカリが掃除をし、その間に私がお茶の準備をする。
嬉しかった。
幸せだった。
 二人で過ごす最後の夏だから。
 高校卒業を期に離れ離れになる。
 私は遠い大学へ、一人暮らしを決めていた。
 ……ヒカリ。
 人生の半分を占めていると言っても過言ではない私の愛おしい半身。
 貴女の人生をことごとく私に合わせてもらってきた。
 遊びに行く場所、趣味に、高校の進路だって。
 貴女に決断させないでここまで来てしまった。
 それももう終わり。
 離れ離れになるのは寂しい。
 でも、これは必要なことだから。
「スイちゃん」
久しぶりに聞いた声。
 ヒカリの甘くか細い声が耳を触る。
 愛らしくて、他の子には聞かせたくなかった。
 夕陽を背に帰りのバスを待っているとヒカリが私の手を握っていた。恥ずかしそうに、不安そうに、私を見る姿に予感が走る。私の手にも力が入って。
 そしてヒカリが言う。
 
「やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな」
  ずっと冷えていた胸の中が熱くなる。
 それはずっと求めていた言葉だった。
 私だって本当は離れ離れになる決断なんてしたくない。
 ヒカリのことが好きだから、ずっと一緒にいたいと 思っている。
 だからヒカリさえ心の底から望んでくれればよかった。
 あの決断できないヒカリが、ここ一番の決断で私の側にいることを選ぶというのは。
 この夏の集大成に相応しく、感動的で。
   ―吐き気がするほどに私の思い通りだった。
 こんな意識がずっとあった。
『私はどこかで生まれ変わらないといけない』
 今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
 ……ついにここまで来てしまった。
 期待していなかったと、予感していなかったとは言わせない。
 離れ離れになることを告げながらも、邪魔の入らない場所で夏休み毎日一緒に会うようにし、手を繋いで私の存在を否応なしに意識させる。
そうやって情を植え付けて、私から離れがたくする。
離れたくないと私からは言わず、ヒカリに言わせる。
そうすることでヒカリはより私へ傾倒する。
私はヒカリと一緒に居ることを正当化できる。
『ヒカリが望むのだから仕方ない』
 これをコントロールしていないと誰に言えるのか。
 卑劣で、あまりに弱い。
 私はこんなことを望んでいなかったと思う心と裏腹に、『本当に起こってしまった』と恐怖した。
 これが私の本当は望んでいた光景。
 都合の良い、理想の光景。
 それを証明する一ヵ月だった。
             5
  ◆
   大した問題ではないのだ。
 人ひとりが心の中で抱えたものなんて。
  エアコンの二十八度とか二十七度とかって意味あったんだなって。無いよりマシなんてものじゃない、失ってから気づく涼しさ。真夏の室内のこもった空気がこんなにも最悪だったとは。
 うだるような暑さに萎える前に窓を開けて換気をし、準備室の掃除もほどほどに、我慢していた空調に手を伸ばす。遠慮なく二十五度に。
 涼しくなるまでは休憩だ。
 ギィと椅子を引いて座る。
 天井を見ると蛍光灯がぱちぱちと点滅していた。
 こういうのも取り替えていたんだろうか。取り替えていたんだろう、スイなら。
 雑然とした化学準備室。
 テーブルクロスがかけられた机はなくて、紅茶の香りもなくて、なにより彼女の姿がない。
全てが嘘だったように。
 なにもない。
 静かで、本当に静かで。
 本当に寂しい場所だった。
 それでも私はここにいた。
 別段、思い出らしい思い出もない。
 スイと過ごしたという場所でしかない。
 ただ宿題が終わっていなかっただけ。
 もう夏休み最終日だというのに。
 文章を書くだけなんだし、数日どころか数時間もあれば終わるだ���うと思っていたそれは、いざ手をつけると想像以上に手強い代物だった。
 自分の気持ちを正確に文にする。
  頭の中にあるうちはあんなにも明白な形をしているのに現実に落とし込むと途端にズレが生じ、稚拙さが浮き彫りになる。
 それに嫌気が差してなにもしない時間も多くあった。
もう紙ヒコーキにして窓から飛ばしてしまおうかと思ったのも一度ではない。
 苦しくて、楽しくなくて、しんどくて、自分が嫌に  なって、それでも書く理由は―それでもなお、私にしかない伝えたいことがあるから。
  ……散々時間をかけた挙句、これかという気持ちはある。それでもこれが最善だと思うから、あとは自分を信じるだけ。
 終わった。
 これで本当に終わり。
 本当はもっと早く終わらせるはずだったけど、今と なってはどうでもいい。
 同時に夏の終わりだった。
 休みが明け、明日からは他の生徒もやって来ると思えば寂しくもなってくる。
 やれるだけのことはやろうと最後に廊下に寝っころがってみると相変わらず冷えた石の床は心地よく、両腕を広げて力を抜けば水面に浮かぶようだ。
でもかつてほどの爽快さはなかった。
見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
ただ、それだけ。
それもそうだ。誰かが見つけてくれる可能性がないそれは虚しいものでしかない。本当の孤独だ。
 だから幼い頃はどこだって良かった。
 どんな場所でも、どんな時間でも、貴女は。
『ヒカリちゃん、汚いよ、そんなところで』
 ……私はそれが嬉しかったんだ。
 そうやって私を見つけてくれて、手を差し伸べてくれる。私がどうしても起きない時は額に口づけをして優しく微笑んでくれる。
それだけで私は幸せだった。寂しくなくて、嬉しくて、他の子とうまく混ざり合えなくても平気だった。
 ほんとうに。
 ほんとうにね。
 貴女さえ、居てくれれば私はそれで―
  ◆
   帰り道。
 スイの家のポストに手紙を入れた。
 やってやった。
                                  6
  ◆
   ヒカリのことがどうしても嫌な時期がなかったわけではない。そんな時は他の子と遊ぶこともあった。
 それでもヒカリが校門で私を待っている姿を見ると。
『ごめん、先約があるから』
 ヒカリは私を見つけると子犬のように小さく駆け寄ってくる。
高校生にもなって校門で待つなんてやめてよ。
そう思わないでもない。 
足の遅いヒカリ。
走って置いていったらどうなるんだろう。
 その場で立ち尽くすのか、必死で追いかけるのか。
 ……でも私はそれを言いもしないし、やりもしない。
 きっと結果が見えてしまうから。
 内心では鬱陶しいと思いながらも本当に校門で待つことをやめたら、走って追いかけてくれなかったところを想像するだけで怖い。
 見たいけど見たくないもの。
 知りたいけど知りたくないもの。
 ヒカリはどこまで本気だろうって。
どこまで私に付いてきてくれるのだろうって。
どれほど私のことが好きなんだろうって。
貴女の本気を試してきた。
 『大学は別々のところに行こう』
 うんと頷かれたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
 『やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな』
 そう言われたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
 
―その答えは全てヒカリの手紙に書いてあった。
 
正直、手紙を発見したときは嬉しさよりも恐ろしさが勝っていた。
 ヒカリは何を書いたのだろう。
 罵倒の言葉だろうか。
 決別の言葉だろうか。
 蔑みの言葉だろうか。
 おそるおそる開いた先に書いてあったものは。
 たったの一言だった。
 『私に本気になってください』
  明日、ヒカリに言う言葉が決まった。
                           7
  ◆
   溜まった水が溢れ出る。
 それぞれが思い思いの場所へと流れていく。
 水かさは減っていき、私が最後の一人になった。
 水の底が渇いた大地へと変わり、私自身の姿が世界から浮彫りなる。
 ……ちっぽけだ、広い世界から見た私なんて。
 だからこそ私は私のままでいいんだと思う。
 校門で人を待つ気分はこういうものなのか。手持ちぶさたで、かといって携帯を弄ったり、本を読んでいたりするのも「なんでわざわざそんなところで?」と自分で思ってしまう。
 人目が気になるのでヒカリはよくやっていたなと思う。
 いつも通る場所なのに放課後の校門からぞろぞろと溢れ出て行く生徒の姿は新鮮で、学校が一つの閉鎖空間だということを改めて認識する。
 ヒカリは職員室にいるらしい。
 進路のことで先生に相談だとか。
 夏休みが明けての進路変更。
 先生からすれば怪訝なことだろう。
 でもヒカリは気にしない。本気だからそんな小さいことには気にならないのだろう。
 私の言うことを聞くとか、聞かないとか。
 人をコントロールするだの、しないだの。
 そういう小さい話には。
「ヒカリ」
 つい見逃すところだった。校門を通り過ぎようとしたヒカリが私の声に気づいて戻ってくる。
 いつものぼんやりとした態度にも見える。
 全てを悟った超然とした姿にも見える。
 そういう子だった、昔から。
 言いたいことは私からも一言だけ。
 私としてはさらりと告げたつもりだったけど。
「……この先もずっと私の側にいて」
 ヒカリはふっと笑って言った。
「年貢の納め時だね」
「……生意気いうな」
 そうして彼女の背中をはたくと笑い声が漏れた。
 いっぱい話したいことがある。
 他愛のない話から大事な話まで。
 ヒカリの名前が好きなこと。
 貴女に合っていること。
 そのことを今日は話そう。
 
 ◆
   全ての人が幸せになる解答は難しい。
 表を選べば裏を選べなくなるように、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。そういったシステムの上に成り立っている。
 そうした時に譲り合うのか、我を通すのか。
私は『気にしない』でいいんじゃないかと思う。
 どちらを選ぶにせよ、本気で選んだ以上は人の気持ちを介入させないでいい。本気が揺らいでしまうから。
私は十六年前から本気だった。
だから貴女が離れて欲しいと思えば離れるし、離れて欲しくないのを感じ取れば私は貴女から離れない。
それでも時折、振り回されるのは感じる。
だからこそ私がスイちゃんに望むことは一つ。
 結局はスイちゃんと同じ大学を目指してよくなったし、こうして仲直りもできた。
 でも一番大事なのは、あの一言。
『……この先もずっと私の側にいて』
 恥ずかしいからスイちゃんに完全な確認を取ったわけではないけれど、たぶん、いいんだよね。
 ……責任を、取ってくれるってことで。
 私の人生とスイちゃんの人生が今後も交わっていく。
 私が一番欲しかったもの。
幼い頃、そして昨日もお母さんに聞かれたこと。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
 私はいつものようにこう答えた。
『そしたらスイちゃんと結婚する』
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(長島 昭久:衆議院議員、会派「未来日本」代表)  私は、これまでの「安倍外交」が、官邸主導で戦略的に展開されてきたことを評価しています。そうであるからこそ、最近の安倍外交にはいくつか注文を付けたくなる衝動を抑えきれません。 日中第三国市場協力フォーラムであいさつする安倍首相  特にここ半年ほどの安倍外交の変調は誰の目にも明らかではないでしょうか。ひと言で言うなら、その場しのぎの昔ながらの自民党外交に戻ってしまったように感じられます。もちろん、外部の我々が知り得ない情報は膨大で、外交交渉には秘密がつきものです。表で交わされているやり取りだけを見て批判してもたいていは的外れになることを承知の上で、これが単なる杞憂に終わることを祈りつつ、以下いくつか指摘させていただきたいと思います。 ■ 「最大限の圧力」から「前提条件なしの会談」へ  第一は、対北朝鮮外交です。  周知のとおり、昨年の元旦、北朝鮮の金正恩委員長が「平昌オリンピックに選手団を派遣する用意がある」とのメッセージを発した途端、まずオリンピック主催国の韓国がこれに飛びつき、なんとアメリカが続き、中露が後押しして国際社会と北朝鮮との間に一気に雪解けムードが広がりました。そこから、北朝鮮選手団の平昌オリンピック参加(2月)、南北首脳会談(4月、5月)、そして中朝首脳会談(3月、5月)へと北朝鮮による「微笑外交」攻勢が展開され、ついに6月にはシンガポールで史上初の米朝首脳会談が開かれたのです。  そのような展開の中で、一昨年まで北朝鮮に対し「国連制裁決議に基づいて最大限の圧力を」と、徹底制裁を訴えてきた安倍政権は、アメリカが北朝鮮の対話路線に応じ始める中で、次第にトーンを変えていきました。世界中で首脳会談や外相会談が開かれるたびに、最大限の圧力を説いて回っていた安倍総理や河野外相でしたが、別人とも思えるほどの豹変ぶりを見せたのです。
 極めつけは、今月6日に飛び出した安倍総理の「前提条件なしに金委員長と会談する」という発言でしょう。これまで「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」とあくまでも北朝鮮による拉致問題解決こそが先決との立場を堅持してきたにもかかわらず、今後はそういう前提を撤回するというのですから、誰が見ても大転換。ずばり言えば、大幅譲歩です。しかも、そのような政策転換を行った理由について、国会でも、対外的にも、きちんとした説明はなされていません。  実は日本政府が「最大限の圧力」路線を盛んに称揚していた時期ですら、日本には、国連の「制裁逃れ」が疑われる北朝鮮の船がかなり頻繁に寄港していました。私は昨年11月、衆院安全保障委員会で、韓国ですら入港禁止にしている北朝鮮の貨物船が、日本に60回以上も寄港している問題について外務省や国交省に質しました。この韓国の船はロシア経由で石炭を輸出し、外貨を稼いでいる可能性が高い、と国連安保理の北朝鮮制裁に関する専門家パネルで懸念が再三指摘されているにもかかわらず、日本は漫然と放置しているのです。私が安全保障員会で指摘した後も状況は何ら変わっていません。  一方で、日本政府は、海上自衛隊が従事する洋上における「瀬取り」の監視活動を、「国連制裁の徹底履行」の証左として盛んにその成果を強調していますが、何ともちぐはぐな対応と言わざるを得ません。  もちろん、「中曽根外交4原則」にあるように、外交は時流を的確に捉えて国益を促進する術ですから、半島情勢をめぐる戦略環境を決定づけるアメリカと北朝鮮との関係が変化すれば、それに応じて外交姿勢も変化させねばなりません。一貫性だけを追求して戦争に突入したり緊張を高めたりなどというのは愚の骨頂です。米朝雪解けに対しては、アメリカ向けのICBMのみを規制したり、未だに大量に残る核や通常戦力の脅威に対する抑止力を低下させるような政策(例えば、米韓合同軍事演習を中止したり、大量破壊兵器開発につながる外貨稼ぎ阻止のための国連制裁を緩和したり)には明確にNOを突き付けつつ、戦略環境の変化を的確に捉えて懸案の拉致問題の解決に向けて水面下の工作を加速させることが肝要です。その際に、北朝鮮政策の一部を転換することに躊躇の必要はない。惜しむらくは、政府からそのような丁寧な説明が一切ないことです。 ■ 米中「新冷戦」のさなかに「日中協調」へシフトチェンジ  安倍外交の変質を示す第二点は、対中国の関係です。  まずアメリカは、2017年12月に公表した『国家安全保障戦略』で「中国やロシアなどは、技術、宣伝および強制力を用い、アメリカの国益や価値観と対極にある世界を形成しようとする修正主義勢力である」と批判し、協調路線から戦略的競争路線へとシフトしました。これは、歴史的な転換ともいうべきもので、この報告書を皮切りにトランプ政権の対中政策は加速度的に硬化していきます。翌年の8月には、ファーウェイをはじめとする中国のハイテク企業5社をアメリカの政府調達から排除し、二次、三次サプライヤー(日本企業も当然入る)まで取引を規制する「2019年国防授権法」を成立させ、10月4日、ついにペンス副大統領がワシントンで「冷戦布告」ともいうべき演説を行いました。その間に、対中追加制裁関税は2500億ドルに膨れ上がり、まさしく米中「新冷戦」とまでいわれるような事態に至っています。
それに対して安倍総理は、昨年10月に北京を訪問し、「競争から協調へ」とアメリカの対中姿勢とは真逆のメッセージを出したのです。この訪中では、日本から財界人も大勢引率して、まさしく中国側の歓心を「爆買い」するかのようでした。  そして、あれほど参加に難色を示していた一帯一路構想についても、「全面的に賛成ではないが、適正融資による対象国の財政健全性、プロジェクトの開放性、透明性、経済性の4条件があるならば、協力していく」と大幅な歩み寄りの姿勢を示したのです。  アメリカとの関係が険悪になった中国が日本にすり寄ってくるのは外交の世界では十分想定できることですから、日本としてはそういう時こそ、これまで中国側が日本の意に反してやってきたことについて、きちんと主張すべき絶好のタイミングであるはずです。例えば、尖閣諸島周辺海域への執拗な侵犯行為はやめてもらう。本稿執筆時点ですでに46日連続(史上最長)で中国海警船舶数隻が尖閣沖の接続水域に侵入しています。対応にあたる我が国海保の巡視船は日夜厳しい状況にさらされています。こういう挑発行為を止めさせるのが、日中友好の基本ではないでしょうか。また、東シナ海のガス油田をめぐる2008年の日中合意を誠実に履行することや、2016年の国際仲裁裁判所の裁定に従い、南シナ海の人工島を放棄し周辺環境の原状回復を求めたらどうでしょうか。さらに、米中間の関税報復合戦に参戦しないまでも、先端技術の強制移転や政府補助金による企業買収、ハッキングによる企業秘密や国防情報の窃取など、日米共通の課題である中国の歪んだ経済慣行を正すよう求めるべきでしょう。  しかし安倍総理はそういう態度を一切取りませんでした。この時期に、敢えて「競争から協調へ」と舵を切り、中国側にその代価を一切求めませんでした。これがアメリカや国際社会から見て「米中関係が悪くなった隙を突いて、日本は漁夫の利を狙いに行こう」的な行動に映るとすれば、国際的な威信にもかかわります。 ■ 外交青書より「北方四島は日本に帰属」の記述を削除  このように安倍外交への疑念が膨らんでいる中でダメ押し的に出てきたのが、対ロシア外交での変質です。  安倍総理は、ロシア問題にはことのほか熱心に取り組んできました。「戦後70年も経っているのに、日露間に平和条約がないのは異常だ。なんとしても自分の在任中に平和条約を締結したい」という主旨の発言を何度も繰り返してきました。  政治家として成し遂げる目標を明確に持つことは大切なことです。が、それが成果を急ぎ「前のめり」になることには注意を要します。外交は、焦った方が負け。期限を区切ってしまえば、その期間内に成果を出そうという焦りを相手に見透かされ、妥協に妥協を重ねざるを得なくなるからです。  そうした中で明るみに出たのが、『外交青書』問題です。令和元年度版の『外交青書』から、戦後一貫して堅持されてきた「北方四島は日本に帰属する」という重要な記述が削除されたのです。
『外交青書』は、日本外交の基本方針を示す極めて重要な文書です。これに『防衛白書』を合わせた2つの文書は、日本の外交安全保障政策・戦略を内外に宣言し、政策遂行の透明性を高めていく大事な外交ツールでもあります。その『外交青書』の記述が、わが国の主権を放棄するかのように変更されたのです。さらに言うなら、「北方四島は日本に帰属する」という文言を削除したということは、これまで「北方四島が日本に帰属する」と言い続けてきた歴代政権が、あたかも誤った主張をしてきたかのような印象を内外に与えてしまう可能性を排除できません。  しかも、あの文言を削除した理由について、国民への説明もないまま、いきなり『外交青書』が公表されてしまいました。手続き的にも疑問符が付きます。 ■ ロシアはヤワな国家ではない  「北方四島は日本に帰属する」の文言を削除した背景には、ロシアに対して何らかのシグナルを送るという意図があったと言われています。しかし、この文言の削除によって、いったいロシア側にどんなシグナルを送ることになるのでしょうか。  北方四島に関するこの記述は、『外交青書』の中でも重要な部分です。それだけに外務省の事務方が勝手に変更できるものでもありませんし、河野外務大臣の一存でできるものでもないでしょう。今回の削除は、間違いなく安倍官邸の意向を反映したものでしょうが、将来に禍根を残す大失策だと考えます。なぜなら、一度削ったものを元に戻すのは容易ではありません。戻そうとすれば、その理由が必要になり、日露間に無用の摩擦を生じてしまうのです。  アメリカ、中国、ロシアといった大国は、良くも悪くも「力がすべて」です。力を信奉している国に対して、自ら譲歩したり、妥協したり、遠慮したりすれば、付け込まれるだけです。「日本はそんなに譲ってくれたのか。じゃあその誠意のお返しにこちらも少し妥協を・・・」などという発想は、大国にはまったくありません。これがリアル・ポリティックスの世界です。そんなことは「リアリスト」である安倍総理は百も承知のはずなのですが、どうしたことでしょうか。  いったい安倍総理は中国やロシア、北朝鮮に対してどこまで譲歩しようとしているのでしょうか。これでは日本の国益を損ねることになりかねません。もちろん、国益は中長期的に捉えるべきものです。常に長期的な戦略的利益を念頭に置いて、短期的な利害得失に一喜一憂したり、先ほど論じたように一貫性に拘泥し過ぎたりして国際社会全体の潮流を見失ってはいけません。  したがって、これまで安倍総理が外国に対して一見弱腰に見える妥協的な態度を見せても、私は「より大きな戦略的利益のために妥協が必要な場面もあるのだろう」という思いで観察してきました。例えば、2015年の日韓慰安婦合意などはその典型です。安倍総理を取り巻く保守層は韓国との慰安婦合意にはそもそも批判的でした。多くは、たとえ妥協しても韓国からの外交的見返りなど期待できないと考えていました。しかし、当時の安倍総理の視線の先には韓国ではなく中国の動向がありました。当時はちょうど、中露が韓国を取り込み、さらにはアメリカを誘い込んで「歴史問題」で日本を孤立化させようと試みている真っ最中でした。慰安婦問題での妥協は、中韓に楔を打ち込む効果を狙ったものでした。
今の日本にとって最優先に考えなければならない課題は、「対中戦略」です。これは日本だけではありません。アメリカにしても、21世紀の戦略的な課題とは、「中国の台頭にどう向き合っていくか」に尽きます。その意味から言えば、ロシアと中国が結託して日本に圧力をかけられるような形というのは、日本にとって最も避けなければならない事態なのです。  そのロシアは、クリミアを併合したことで、アメリカやヨーロッパから制裁を受けています。窮地に追い込まれたロシアに接近し、両国間の領土問題を解決し、平和条約を締結して中露の間に楔を打ち込むというのが、おそらく安倍総理の戦略的なイメージングだったはずです。  しかし、そこで考えなくてはならないのは、そんな日本の戦略にロシアが安易に乗っかるようなヤワな国なのか、ということです。 ■ 日本には日本の、ロシアにはロシアの国益がある  ロシアにはロシアの国益があるし、譲れない戦略的な立場もある。中国とも上手くやりながら、日本から利益を獲得していく。その際に、日米同盟に隙間風を吹かせることができれば、万々歳でしょう。それがロシアの基本的な立場なのです。安倍総理の戦略的なイメージが、すんなり実現できるものかどうかは、また別の問題なのです。  昨年11月、安倍総理はシンガポールでプーチン大統領と首脳会談を行い、「1956年の日ソ共同宣言を基礎にして平和条約交渉を加速化する」ことに合意しました。この時に、「なぜ1956年の段階に戻ってしまうのか」という疑問を多くの人々は抱いたのではないでしょうか。  日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に「引き渡す」(「返還」でないことには注意を要します)とされています。旧ソ連側から見れば「歯舞・色丹の二島で終了」ですが、日本側からは「まず歯舞・色丹を返還してもらい、国後・択捉はその後さらに交渉を続ける」という解釈がなされました。  しかしその後、北方四島をめぐっては、1993年の細川-エリツィン会談による東京宣言、2001年の森-プーチン会談によるイルクーツク宣言で、「平和条約交渉は四島の帰属の問題を解決してから実施する」と、1956年の日ソ共同宣言のレベルから日本は大きく押し返したのです。敗戦からわずか10年で締結した日ソ共同宣言以来、国力の増大を背景にした歴代政権の努力で、日本の主張を(ソ連邦崩壊で国力が低下した)ロシア側に呑ませてきたのです。これが国際社会のリアル・ポリティックスの実態です。  それを昨年、安倍総理がいきなり1956年時点にまで引き戻してしまったのです。「なんとか平和条約を締結したい」という思いがあったことは間違いありません。それでも、多くの国民は「公けにはできないだけで、安倍-プーチンの間では、『二島を足掛かりにまず平和条約を結び、それから残る二島の返還交渉に』というような約束があるのだろう」と信じていたと思います。しかし、事ここに至って『外交青書』の記述削除を見せられたとき、私たちは、それが「展望なき後退」に過ぎなかったのではないかと疑わざるを得ないのです。  ロシアは、これ以降、「日ソ共同宣言では『二島を引き渡す』と書いているが、『いつまでに』とは書いていない」とか、「歯舞、色丹を引き渡した後に、米軍基地が展開しない保証を」などと、およそ友好的とは思えない主張をするようになっています。一瞬の妥協が、際限のない後退を呼び込んでしまったというのは言い過ぎでしょうか。  安倍総理は、プーチン大統領とは実に25回もの「差し」の会談(テタテ)をやってきました。まさに全力を注いでロシアとの平和条約締結と、北方領土問題に取り組んできたのですが、これまでのところ残念ながら成果はゼロ、と言わざるを得ません。ゼロならまだしも、60年前の日ソ共同宣言の時点にまで戻ってしまったことを考えれば、マイナスと捉えるべきかも知れません。  ところで、安倍総理がこれほどまでにロシアとの関係に前のめりになるのは、祖父である岸信介元総理の存在が関係していると見ます。安倍総理の愛読書の一つに『岸信介証言録』(中公文庫)という本があります。政治学の泰斗・原彬久氏による晩年の岸元総理へのロングインタビューをまとめたものですが、その中で「やり残した仕事は何か」と問われた岸は、「2つある。1つは北方領土、もう1つは憲法改正だ」とはっきり答えています。その無念は、安倍総理の頭の中に深く刻まれているはずです。  さらに言えば、安倍総理の父・安倍晋太郎外相(当時)も、ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)と交渉。亡くなる間際まで、北方領土問題の解決に心血を注ぎました。その様子を最も間近で見ていたのが、当時外相秘書官だった安倍晋三氏です。  ロシアとの平和条約締結と北方領土問題の解決は、まさに親子三代にわたる宿願でもあるのです。なんとかこの問題を前進させたいという思いを、安倍総理は他の誰よりも強く持っているはずです。その点は痛いほど理解できます。  その思いは尊いのですが、冷静になれば、違う一面も見えてきます。その宿願である平和条約締結ですが、ロシアと平和条約を結んだからといって日露間の緊張がなくなるかと言えば、全くそんなことはありません。例えば日本と中国の間には、日中平和友好条約が結ばれて40年以上も経ちます。しかし、尖閣諸島など日中間では緊張が絶えません。ロシアとの平和条約についてもそういった冷めた目で見ることも必要だと考えます。
では、北方領土問題の進展を期待する以外に、平和条約の締結を急ぐ意味はどこにあるのでしょうか。  期待できるメリットは2つでしょう。1つは旧島民の方々の心情的な問題です。故郷に帰れない、先祖の墓参りもできない。それはあまりにもかわいそうではないか、と。ただし、墓参や自由往来は、平和条約がなくても実務的な取り決めで解決することができるのではないでしょうか。そこで経済協力などを絡めてロシア側の譲歩を引き出す交渉は大いにやる必要があります。  もう1つは漁業権益の問題です。北方領土周辺の海域で、日本の漁船が拿捕されたり、漁民が抑留されたりする状況をできる限り無くしていかなければなりません。ただしこれも漁業交渉を通じて解決すべき問題で、平和条約がなければ漁業交渉ができないわけではないと考えます。  であるならば、こちら側が一方的にタイムリミットを決めて、妥協を重ねてまで平和条約締結や北方領土返還交渉を急ぐ必要があるとは思えません。 ■ 影を潜めてしまった高度な戦略的判断  冒頭でも述べましたが、私はこれまでの安倍外交を高く評価してきました。「地球儀を俯瞰する外交」を標榜する安倍外交は、世界中に戦略的な布石を打ってきました。これから展開されようとしている対イラン外交などは、米欧主導の核合意を側面から支え、対イラン制裁が厳しい時にもイランとの対話の道を閉ざすことなく粘り強く外交関係を深めて��た成果と言えましょう。また、インド太平洋構想により、インドとオーストラリアを戦略的に結び付け、地域の平和と安定のためアメリカの関与を繋ぎ止めるために果たしてきた安倍外交の役割は大きいものがあります。そのほかにも、中国の「一帯一路」に対抗して、中央アジアや南太平洋諸国へのインフラ投資を戦略的に進めてきました。  しかし、最近の安倍外交は、そのようなダイナミックさが影をひそめ、小手先で���さな得点稼ぎに腐心しているように見えてしまうのです。それが誤解であれば、平にご容赦いただきたいのですが、そこに高度な戦略的判断が見えてきません。  トランプ大統領の5月の訪日はつつがなく終わりましたが、6月には中国の習近平主席が来日し、日中とともに米中首脳会談が開かれます。さらに安倍総理が「前提条件なし」での対話に意欲を燃やす北朝鮮の金正恩委員長との首脳会談も遠からず開かれるかも知れません。もちろん、日露交渉も続いています。6月のG20に韓国がどのようなアプローチで臨むのか、それをどう迎えるのか安倍総理の外交のリアリズムが厳しく問われると思います。  目先の利害得失に目を奪われることなく、当初見据えていた日本の戦略的利益が描かれた「ビッグピクチャー」を胸に、リアリスト外交を展開していただきたい。
長島 昭久
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