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#関東義兄弟
fuckyeahmeikokaji · 1 year
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Poster for Loyal Kanto Brothers (関東義兄弟), 1970, directed by Seiichiro Uchikawa (内川清一郎) and starring:
Hideo Murota (村田英雄) Kotaro Satomi (里見浩太朗) Saburo Kitajima (北島三郎) Meiko Kaji (梶芽衣子) and Ryutaro Tatsumi (辰巳柳太郎).
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mlyzvt-no2157 · 8 months
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YさんのAV男優スカウトとOさんのデマ事件
前の会社で起きた変なエピソードをご紹介したいと思います。
就職して間もない新人の頃、私が担当していた地域は、現在担当している中東・北アフリカなどのアラブ圏ではなく、インド・パキスタンが昔から領有権を巡って紛争の火種になっているインド北部のカシミール地方だった。 私はインドへはカシミール地方(主にスリナガルか、ラダック)しか行ったことがないのだが、カシミール地方は、俗に言うインドの有名観光地(デリー、カルカッタ、バラナシ、アグラ、ブッダガヤなど)とは全く異なる雰囲気らしく、インドがイギリス領だった頃のイギリス貴族の別邸があったり、当時、避暑地としての高級リゾート地だった名残を残している。
雪を抱いたヒマラヤの山々と湖が織りなし、三角屋根の可愛らしい家々や、湖に浮かぶボートハウスなどが、雄大な大自然に恵まれたカシミール地方の美しさを引き立てており、治安さえ安定すれば、ここは素晴らしい観光地になるだろうと、訪れる度に思っていた。
カシミール地方を担当していた頃、一緒に取材に行く映像部門のカメラマンに40代半ばのYさんという中間管理職の男性だった。
どちらかと言えば、この会社では、何故か容姿や体格にやたらと恵まれた男性が多い(特に営業部)中、Yさんに至っては、ごく普通の風貌だった。 身長も恐らく、175cmぐらい(当時の40代半ばの175cmだと世間一般では、高いのかもしれないが、大学&大学院で所属していた研究室と、前の職場の男性は異様に背が高い人が多く、仲良くしている男性社員は全員180㎝台後半だったし、私の親兄弟&親戚&夫&夫の親戚も皆異様に背が高く、明治生まれの祖父でさえ、185cmという背の高い家系なので、男性で175cmだと低いと思ってしまう💦)の瘦せ型で、特にイケメンという訳でもなく、ごくごく普通のオジサンという印象だった。
重い機材を持ち運ぶカメラマンらしく、Yさんの浅黒く日焼けした身体は引き締まっており、白髪も無いフサフサとした黒髪は豊かで、弛みの無いシャープな顎は実年齢よりもYさんを10歳ぐらい若く見せており…と誉め言葉を連ねたいのだが、中年男性特有の(?)顔のテカりを営業部の次長のOさん(ハリウッドスターのロバート・レッドフォードさん似の高身長痩身の男前で、海外ハイブランドのスーツを格好良く着こなし、営業成績も良く、見た目だけは、モデルや俳優のような完璧な容姿。だが、性格と言動はかなり問題アリな人)にからかわれ、Oさんからは『てっかりん』と呼ばれていた。
Yさんは、奥様と二人の娘さんがいる、ごく普通の妻子持ちのサラリーマンである。 ちなみに、娘さん二人は、Yさんには全く似ておらず、奥様に似た美人姉妹で日本最高峰の国立大学に公立高校から予備校にも通わずに、通信教育だけで現役で合格した超秀才の、非の打ち所がない才色兼備の美人姉妹である。
だから、心無いOさんは、『Yさんの娘さんは二人共、奥様と間男との不義の子だ』なんて酷い噂を流していた。だが、Yさんはおおらかで、寛大な方だったので、Oさんの悪意も笑って受け流してしている、非常によくできた人間だった(多分、私がYさんだったら、そんな噂を流されたものなら、OさんやOさんの上司のTさんにブチ切れたあげく、人事部の部長に報告し、名誉毀損で損害賠償を請求すると思う)。
そんな、お人好しのYさんが、ある休日に、彼の趣味であるパラグライダーの用品を買おうと渋谷を歩いていたら、スカウトされたらしい。 何にスカウトされたかというと、なんとAV男優へのスカウトだったらしい。 Yさんは、その場で断ったらしいが、1出演あたり、50万円のギャラを支払うから、どうか、撮影現場だけでも来て欲しいとスカウトしてきた人に懇願されたらしいが、YさんはAVなんかには絶対出演したくなかったし、そもそも自分はカメラマンで、撮影する側であり、撮影される側ではないと、断ったらしい。スカウトの人は残念そうに、名刺だけYさんに渡して、気が変ったら、是非連絡をくださいと言い残して、残念そうに去っていったらしい。
Yさんは、帰宅してから奥様に渋谷でAV男優にスカウトされた事を話したらしい。 すると奥様は「よかったじゃない。AV男優にスカウトされるなんて、あなたは、40代だけれど、まだまだ男性として魅力があるってことよ。でも、まあ普通、AVの出演は断るわよね」と言ったそうだ。
すっかり気を良くしたYさんは、次の出社日にスカウトされたときにもらったAV制作会社の名刺を持って、意気揚々として、『渋谷を歩いていたら、一回あたりの出演ギャラ50万円のAV男優にスカウトされた』と誇らしげに語っていた。 YさんがAV男優にスカウトされた話は、お喋りや噂好きのOさんの耳にも届き、会社中どころか、関連会社、子会社の社員までが知る事となってしまった。
YさんのAV男優スカウトの話題が社内で落ち着いた頃、私はセミナーで自分と同じくカシミール地方の紛争取材を担当している同業種の他社で働いている知人記者とバッタリ会った。 その知人記者とお昼休憩で、一緒にランチをしていると、こんな会話になってしまった。
「みずほさんの会社にYさんっていうカメラマンの方がいらっしゃいますよね?」 「ええ、いますよ。私とペアを組んでいるカシミール担当のカメラマンです」 「あのYさんって凄いですよね~。カリスマAV男優の●●さんと共同出演してゲイAV界で華々しくデビューして初版のDVD発売数は500万部って聞きましたよ~」
私は思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。 なぜ、そんな噂が流れているのか?! カリスマAV男優の●●さんは、確かにカリスマAV男優だけれども、ゲイAVに出演するなんて聞いたこと無いぞ?しかも、その相手がYさんだなんて、一体何処からそんな情報が出たの?? 私は心の中で何度も疑問を反芻していた。
「…!!!えっ?それ、完全にデマですよ?Yは確かに、AV男優にスカウトされましたけど、スカウトされたその場でAVの出演を断りましたけど?しかも、ゲイAV男優じゃなくて、普通のAV男優として、スカウトされただけですけど?」 「えっ?だって、御社の営業部のOさんが、ウチの△△部長にそう言ってましたよ」 「いえいえ、その話は、真実に尾鰭が付いたデマです。YはAV男優にスカウトされただけですし、その場で断ってますし。真実と異なるいい加減な情報をOが流してしまい、本当に申し訳ございません。どうか、△△部長殿にも、デマだとお伝えいただけますか?」 「Yさんと一緒に仕事をされているみずほさんが、そう仰るなの���ら、それが事実なんですね、分かりました、伝えておきます。」
このとき、私は口から心臓が飛び出るかと思うほどビックリしたし、顔から火が出るほど恥ずかしかった。 なぜ、Oさんは、いつもいつも真実ではなく、余計な尾鰭、背鰭、胸鰭、尻鰭まで付けてデマを流すのか。 しかし、よくこんなぶっ飛んだデマを思い付くモノだなってOさんの発想力に感服すると共に、冷静になればなる程、Oさんに対する不信感が募ってきた。 百歩千歩譲って社内や関連会社の人間だけならまだよしとしても(本当は全然よくないが)、全く違う会社の人に、こんなデマを伝えるなんて、この業態に身を置く人間として許されないのではないか?という怒りがこみ上げ、午後からのセミナーは殆ど身に入らならかった。
その日は直帰していい事になっていたが、私はセミナーが終わるなり、会社へと急いだ。 自分の部署の扉を開けるなり、私は大声で
「Mさん!!Oさんのせいで、大変な事になりかけてましたよ!!」
と叫んだ。 てっきり、私が直帰するとばかり思っていた上司で部門長のMさんは私が物凄い剣幕でまくし立てたので、ビックリして飛び上がりそうになっていた。
Mさんは、取り合えず、私に落ち着く様にと言い、何��起こったのか順を追って説明してくれと言った。 私は知人記者から聞いた「YさんAV男優スカウト事件」について、Oさんがトンデモナイ尾鰭、背鰭、胸鰭、尻鰭まで付けて、社外の人に真実と異なる事を喋っていた事を伝えた。 そして、これは職務上、聞き洩らしや言い間違いなどの齟齬を防ぐための、私のいつもの習慣なのだが、ボイスレコーダーを再生し、知人記者との会話をMさんに聞かせてみせた。
Mさんは、Oさんが盛った話があまりにコミカルでぶっ飛んでいたので、最初はお腹を押さえて大笑いしていたが、一通り笑った後、「イカン、イカン、笑い事じゃなかったな。営業部と人事部に報告に行こう」と言い、私を同行させた。
この業界は色々な人間や組織を相手に取材を行い、取材から得た情報を提供する事が仕事である。 だから、提供する情報は真実と異なる物であっては絶対にならない。 勿論、知っている情報から憶測でモノを言うこともご法度である。 これは、新入社員の時に厳しく言い聞かされた事であり、私のように執筆に携わる者だけでなく、間接部門や管理部門でも周知徹底している当然の鉄則である。 ましてや、社外の人との交流が多い、営業部の、部門長のTさんの次に偉い人間であるOさんがデマを話すなんて言語道断である。
幸い、Oさんが話した内容は、相手方企業の方があまり興味を持たなかったので、事無きで済んだ。 しかし、Oさんが盛った話の中で、Yさんの相手役になっていた●●さんというAV男優は、AV界では、カリスマAV男優として名を馳せている(特定の分野に限ってではあるが、ある意味)著名人である。 もしも、Oさんがデマを話した相手方企業が、Oさんの話に興味を抱き、カリスマAV男優の●●さんへ取材を申し込んでいたりしたら、当社は信頼を失墜する恐れすらあったのだ。
この事は人事部長の逆鱗に触れ、Oさんは1週間の出勤停止処分となり、Oさんの上司のTさんも部下の監督不行き届きで厳重注意処分となった。
人事部長と営業部の部門長のTさんには、よく炎や火事になる前に煙の状態で火消ししてくれたと感謝されたが、当然ながら、Oさんには恨まれた。私はこのAV男優スカウト事件以来、Oさんにしょっちゅう落とし穴を掘られたり、地雷や罠を仕掛けられるようになり、Oさんとの長い戦いの始まりであった。
だが、滅茶苦茶酷い噂を流されても、「まぁまぁ、Oさんは面白い話をしたかっただけだと思うし、よくそこまでぶっ飛んだ噂に飛躍できるなって、ある意味Oさんも盛った話は笑いのネタとしてはもってこいだから、僕は気にしてないよ」と、笑いながらOさんを許したYさんは、本当に寛大な人間だと思う。 私もYさんの寛大さとおおらかさを見習わなければならないと思った瞬間だった。
残念ながら、私は2年後にカシミール地方の担当を外れ、アラブ圏(主に中東・北アフリカ)担当になったので、Yさんと一緒に仕事をしたのは2年間だけだった。
中東・北アフリカ担当になり、カシミール担当時代よりも、遥かに過酷な現実や心が折れそうになる悲惨な世界や事柄を沢山目の当たりにした。だが、挫けそうになる度に、私はYさんの事を思い出した。 まだ、右も左も分からない新人の頃に、Yさんからは、この業界に身を置く者としてのイロハを沢山教えて頂いた。
Yさんから教えて頂いた沢山の事は、今でも私の心の支えである。
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tomoya-jinguuji · 3 months
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天壌無窮の皇運を扶翼すべし
3月 14, 2017
FBに短文を投稿しようかと思ったけど、ここは一発話題の教育勅語を考察してみようか。 12の徳目が素晴らしいから教育勅語は正しいんだという論調は全く問題ないんだが、教育勅語が気に入らないと言っている人達が一番気に入らないのは 「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 ここでしょう? ここを論じることなくしては、議論にならないわけだ。 正面突破しようか。 この一文の前にある 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と繋げて 「国が危機的状況に陥ったら自らを犠牲にして天皇陛下のために死ね」 と訳して、軍国主義だ〜〜〜とやるわけだ。 「一旦緩急あれば」はまさしく「国の」とは明記していないものの、確かに「危機的状況」には違いない。 「義勇公に奉じ」はもちろん「勇気を持って公の為に尽くしなさい」となる。 「以て」それにより 「天壌無窮の」天地に永遠に続く 「皇運を」後に回す 「扶翼すべし」助けなさい。 ここで皇運をどう捉えるかが問題だ。 皇=天皇陛下と捉えれば 皇運、即ち陛下の運、運命ないしは皇室の運という事になる。 ************ よく考えてみてくれ この教育勅語は 「朕おもうに我が皇祖皇宗「国」をはじむること広遠に 徳をたつること深厚なり」 皇祖:天照大神 皇宗:神武天皇以降歴代の天皇 は、遠い昔に日本国を建設され、代々その徳は深く厚いものだった。 つまり「国」を語るところから始まっている。 そして以下のように続く 我が臣民(略)億兆心を一にして代々(よよ)その美をなせるは これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここにそんす 日本国民は全国民心を一つにして代々その美しさを体現してきたのは、これはこの国の在り方そのものが発露したものであって、正に教育の根がそこにあるのです。 となる。 その後12の徳目が列挙されるわけだが、 なぜ国家を語るところから始まって 一旦緩急あれば、の段に突然天皇陛下お一人のことに話が変わるのか。 全体を読めば「天皇のために死ね」と解する事のおかしさが分かる。 この場合皇運とは皇国の運命と訳すべきで有り、即ち日本国の運命という事になる。 よって「緩急」とは単なる危機的状況ではなく 国家を揺るがす一大事に於いては、と訳すべきで有り、 義勇公に奉じ:その際には自らを顧みず皆のために全力を尽くし、 これをもって 天壌無窮の:天地に永遠につづく(べき) 皇運を扶翼すべし:日本国の運命を助けよ。 となる。 陛下だけ守って国民が居なくなれば、これは国ではなくなる。 公に奉じておいて、陛下だけの運命を守れ、では辻褄が合わない。 6年前の東日本大震災のおりに自衛隊の方々は、自分たちも余震に脅かされいつまた周辺の瓦礫が崩れ自らも二次被害に遭うかも知れないという状況にありながら、必至に行方不明者の捜索を行い、一人でも多くの被災者の命を救おうとしてくれた。 もちろん先の大戦の折にも、硫黄島に向かった兵士達は自らが生きて帰って来れないことは重々承知していた。しかしながら硫黄島が獲られればそこから本土に空襲に向かう爆撃機が飛び立つことが出来る事も知っていた。だからこそ、彼らが一日でも長く抵抗することが本国の愛する家族を守ることになる。だから5日で占領出来ると考えていたアメリカに対して1ヶ月以上も粘り続ける事が出来た。 昨今日本の道徳心が低下した等と言われるが、私は、日本人の心は根底では変わっていないと思っている。 話がずれた。 ************************* 皇運=日本国の運命 を理解するためには、そもそも天皇陛下と我々臣民(国民)との関係を理解している必要がある。 仁徳天皇の民の竈の話は有名だ。 日本独自の伝統~仁徳天皇 詳しい内容は上記リンクに譲る。 臣民(国民)の竈から煙が出ていない、すなわちご飯が食べられていない事を知り、年貢の徴収をとりやめた。おかげで皇居に雨漏りがするほど貧しくなってしまった。この事を苦にした皇后陛下に対し 臣民(国民)が貧しいことは自らが貧しい 臣民(国民)が富めるときは自らも富んでいる と答えられた仁徳天皇。 そして、竈に煙が戻り充分食べられるようになった人々は、 陛下の心に答えて自ら集って皇居を治した。 という話。 この話が事実かどうかは些末な問題だ。 それ以上に1300年近く前に編纂された日本書紀に書かれたこの話が、以降1000年以上の長きにわたって日本で語り継がれ、模範とされてきた事実が重要だ。 日本に於いて天皇陛下と我々国民の関係は、互いにその幸せを願い、助け合う存在だという事。時に人はこれを親と子になぞらえて語る。 陛下は国民を「たから」とよび我々は陛下を敬う。 この陛下と国民との関係を理想として、我々はこの国を代々継承してきた。 この関係は住民を自らの富のために搾取してきたヨーロッパの王の姿とは大きく異なる。結果フランスでは革命が起こり王が処刑される。 時にそのような理想的な天皇陛下に恵まれなかったことも歴史の中にはあったかも知れない。 それは正に夫婦と同様、仲むつまじい夫婦という理想を追いかけながら、現実は夫婦喧嘩もし、日々の様々な問題を乗り越えていく。 同様に、陛下と我々国民の間も長い歴史の間に於いて理想通りに行っていない時期もあったかも知れないが、それでも理想的関係を模索しながら切磋琢磨してきた歴史なのではないだろうか。 そう考えると、現代の我々国民のありかたは、はたして理想的姿を体現出来ているのか、幾ばくかの疑問が残ることを否めない。 また話がそれた。 天皇陛下の国民への思いは今も変わらない。 国民に知ってほしい陛下の祈り 詳しくは上リンクに譲るが、陛下は元旦早朝より日本の国の平穏を願い祈りを捧げる。 また、毎日祈りを捧げてから一日を始められるそうだ。 国民の平和と繁栄を第一に思う陛下だからこそ、日米開戦に最後まで反��されたのは他でもない天皇陛下だった。 大東亜戦争開戦前の御前会議 上リンクより引用
昭和16年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開きます。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられた。 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。そう詠まれたこの歌は、明治天皇の御製です。昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかった。しばらくの間、誰もがうつむき、言葉を発する者さえなかった。
そして終戦を決断出来なかった政府に、終戦の聖断を下したのも陛下だった。
「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
上リンクより引用
そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
陛下は常に国と国民の平和と繁栄を望み、その為に祈っている。 だからこそ我々は陛下のため、即ちこの国のため、この国に住む家族全ての同胞の為に資力を尽くす。 これを君民一体という。 これが理解出来れば、 皇運がすなわち我々全て日本に住む国民の運命だという事が容易に理解出来るはずである。 ******************* 最後に教育勅語のそもそもの在り方を好く現していると思う末尾を語って締めくくろう。 この道は(略):即ち12の徳目 古今につうじて謬(あやま)らず:昔から今に至るまで変わらないことで 中外にほどこして悖(もと)らず:外国の人達に伝えても正しいことです。 「朕汝臣民と共に拳々服膺して みなその徳を一にせんことをこいねがう」 私は、あなた方国民と共にこの正しい道理(12の徳目)を両手で大事に抱くように大切にしします。だから我々みながこの徳を一緒に体現していくことを願ってやまないのです。 教育勅語を支配者である天皇が従属者である国民に対して、あたかも命令のように下したものであると主張する旨が如何に根拠のないものか、この最後の一文を理解すれば良く分かると思う。
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elle-p · 5 months
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Persona 3 Club Book Pawlonia Mall people pages scan and transcription.
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ポロニアンモールの人々
People of Pauloownian mogol
月光館学園に隣接する巨大ショッピングエリアのポロニアンモールは、買い物と娯楽の一大スポット。タルタロス探索の準備のためだけでなく東の間の息抜きにもふさわしい。
黒沢巡查 辰巳東交番
港区の辰��東交番を守る地域課の巡査。かつては敏腕のエリート巡査として知られていたが、正義感のあまりに10年前の桐条研究所事故の真相に深入りし、出世の道を外れた。
だがそのときの捜査によって真相に警察機構の手に負えない、人外のモノの存在を感じ、以降は独断で関係者と接触し、事件解決のサポートを行なうようになる。
なお巌戸台地区に配属されたときの最初の担当案件は、真田兄妹の入寮していた孤児院火災事故の再捜査だった。結局この事故もとくに人為的な点は見当たらずに決着しているが、そのときに現在の真田との関 係がつくられた。
基本的に非番はなく、昼は交番での勤務と武器の横流し販売、夜は担当地区一帯のパトロールと、とにかく黙々と働く男。毎週月曜日にご機嫌で値引きしてくれるのは、勤務明けに彼女とのデートが待ってい るから······かもしれない。
話しかけるのを躊躇させる強面の巡査。見かけによらず港区の平和を心から願い、特別課外活動部員への武器提供を請け負っている。
寡黙な平和
の守り手
眞宵堂店主 眞宵堂
隠棲の美人
科学者
断片的ではあるが港区で起こる事件のカラクりを知る数少ない人物。黒沢巡査とは桐条がらみで知り合い、頻繁に情報交換をする仲。
趣味で集めた骨董品を売る、凄みのきいた笑みが魅力的な女性。
学生時代から考古学を専攻していたのが縁で、桐条鴻悦が存命のころ、非公式計画の中核であった「エルゴノミクス研究所」の研究所員として、岳羽詠一朗の下で研究の一端に関わっていた。おもな研究は、過去のシャドウ関連の記述や痕跡を考古学的見地から分析・解析するもの。中心研究から一歩引いたところにいたことが、早期に研究 の問題を知ることとなり、事故の起こる数年前には研究所を去っている。しかし研究の真相を知りながら、その事実から身を引いたことに呵責を感じていて、桐条の膝元の土地を去れずにいる。そんな自分の迷いを自嘲し、店の名前を「眞宵」堂と名づけた。
上司であり師弟関係にもあった詠一朗には、妻子ある相手と知りながら道ならぬ感情を抱いていた時期があり、彼がすべての罪を負わされる形で世間的な決着がついていることも、彼女の桐条への複雑な感情をを助長しているようだ。
青ひげ店主 青ひげ薬局
欧米型ドラッグストアがこの国に根を下ろして十数年、今やすっかり市民権を獲得した中、昔ながらの対面販売式「薬局」としてがんばる、青ひげ薬局の店主。洗練された雰囲気を全面に押し出す新興のショッピングエリア・ポロニアンモールの一等地にて、このスタイルを貫く心意気はさすが。顧客は若者はもちろん、仕事帰りのサラリーマンや、いろいろ不具合に悩むお年寄りまで、幅広い年代をカバーしている。
仕事柄幅広い医薬品を扱ってはいるが、なにを置いても養生がいちばんという、東洋医学に基づいた主張をもっている。その証拠に料理の相談を持ちかけると、医食同源の秘蔵のハブの干物を熱心に勧められたという、部員からの報告あり。
店主渾身の青汁スムージーは販売1年目には罰ゲームのネタにされるという不幸な歴史を持つが、本人はその味わいと健康的な価値とに自身を持っている様子。
家庭の医学の体現煮
立派なひげをたくわえた恰幅のいい店主。豪快な人柄と取扱商品の怪しさにただの薬屋ではない気配がただよう。
ヤリ手の女性記者 ポロニアンモールほか
ペンを武器に三流ゴシップ誌で戦う女性記者。全国的に広がりつつある謎の社会現象の真相に、たったひとりで挑んでいる。その行動力と洞察力で、無気力症患者の発生のメカニズムにいち早く着目したほか、月の満ち欠けと無気力症患者の増減や、無気力症拡大と桐条グループ関係者たちの動向との関係をかぎつけるなど、本来桐条の関係者にしか知り得ない真相に徐々に迫りつつある。そのため上司や「さるところ」から圧力をかけられることも多数あり。それが彼女の自由報道への情熱に一層拍車をかけているようだ。年末に向かって無気力症が猛威を振るうようになっても、さらにそこに謎を解く鍵を見出す、恐るべきバイタリティの持ち主。
無気力症におちいったタクシー運転手の間近でも冷静に状況を分析。報道に携わる者の鑑。
記者eyes
事件の気配をいち早く見分ける千里眼!!
記者brain
巧妙に隠された真相を見抜く冴えた頭脳!!
記者heart
おばさんと呼ぶと無反応になる乙女心!!
記者suit
体を張った取材に耐える丈夫な素材!!
記者hand
記事を書きなぐる武器!ペンだこは勲章!!
記者pumps
走っても足を痛めない低めのヒール!!
●図解!デキる雑誌記者!!
●女性記者の真実への軌跡
老いてますます盛んな老人 噴水広場
日がな一日、噴水のそばに腰を下ろして遠くを見つめるお爺ちゃん。多少弱々しく見える現在からは想像もつかないが、若いころは結構な女泣かせだったらしく、会うたびに盛んに「若いころにはギャルと遊べ」と力説される。このところ、かつての友だちがひとり、 またひとりと冥土に旅立ち、寂しさを隠し切れない様子。ポロニアンモールを訪れて無事な姿を確認するたび、「元気でよかった」を胸をなで下ろさずにはいられない、噴水広場のシンボル的存在になっている。
影人間が増え出す時期以外は一年を通してこのベンチで過ぎ去った時間を思い返している。
聞かせて!おじいちゃんの武勇伝
ビー・ブルー・ヴィーの店員 ビー・ブルー・ヴィー
感度の高いアイテムで、月高生をはじめとした地域の女子高生に人気のアクセサリーショップの、カリスマ店員。彼女の提案する小物使いは、必ずといっていいほど10代女子のハートをがっちりつかむ。見た目の派手さに反して、気さくな人柄と丁寧な応対で、相手の目線で接客する態度が好感度高し。自然と恋愛相談を受けることも多くなり、客同士の人間関係や恋の成り行きにはちょっと詳しいようだ。信条は「おサイフに優しい値段でセレブ感のあるオシャレ」。
クレーンゲームの月高生 ゲームパニック前
齢17にして初めてクレーンゲームを知り、世間から10年以上遅れてやってきた、景品釣りのスリルと興奮に盛り上がり中の男子生徒。友だちの誘いもむげにして、熱心に攻略方法を研究しており、影人間が徘徊を始める時期以外は、青春の貴重な時間と多くない小遣いを、その娯楽に費やしてポロニアンモールで過ごしている。かつて一世を風靡したこのゲーム、最盛期には亀や伊勢海老まで景品になっていたのは本当の話。
買い物途中の主婦 噴水広場
夕方の買い物の途中で油を売っている主婦ふたり組。日々成長する子どものしつけと教育問題に頭を悩ませている。家事と買い物で疲れたと言ってはたびたびお茶に繰り出しているらしく、ポロニアンモールや巌戸台商店街の飲食店には、月高生以上に詳しい。
●髪を結った主婦
高校2年生の年頃の娘を抱える母親。勉強そっちのけでオシャレに凝り始めた娘にあきれ顔。
●髪の短い主婦
中学3年生の息子を持つ母親。月高を目指しているが不穏な事件続きで躊躇気味。
Syuhu's COMMU
高2の娘 ← シャガールばっかり行って!← 髪を結った主婦 買い物友だち
髪の短い主婦
ご近所さん? 購買のおばちゃん
→ 目指せ月高!→ 中3の息子
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highvoltg · 3 months
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機動武闘伝Gガンダム第45話「さらば師匠!マスター・アジア、暁に死す」がいかに素晴らしいかを事細かに説明したい(前編)
あらすじ・・・兄の犠牲の末、デビルガンダム(この話のラスボス)を撃破したドモン。かつてはドモンと師弟関係であったが今は対立している東方不敗マスター・アジアは、デビルガンダムを利用してある目的を果たそうとしていた。デビルガンダムが破壊されてしまったことにより絶望し、ドモンに激怒する。マスターがなぜデビルガンダムを必要としたのか。その理由が二人の拳による対話で語られる。
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このシーンではドモンは向かって右側、東方不敗は左側を向いている。人間の視線は左から右に動くので、左側を向いている人物はこちら側に対して何かを語る役割であることが多い。今まで行動の真意が見えなかった東方不敗が語るのだということを意識させる構図。
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いきなりバトルシーンを描くのではなく、遠景から、そしてドモンの仲間の視線を通してカメラが寄っていく。このへんも単にバトルを描くのが目的ではなく、視聴者も含めて東方不敗という人物に近づいていく(フォーカスをあてる)という意図が感じられる。非常に立体的。
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ガンダムファイトの裏側で、地球の荒廃した姿を見なかったのかとドモンに問い掛ける東方不敗。ガンダムファイトはそもそも地球を離れた人類の覇権争いのために定期的に開催される代理戦争でその舞台はかつての居住地である地球。地球はガンダムファイトの舞台にされ、大会があるたびに自然も建造物も破壊され、ダメージが蓄積していく。これは1話から描写されていたことなので、長い伏線がいま回収されようとしていることが分かる。
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荒廃した地球の姿を目にした東方不敗は、どんな手を使っても地球を元の姿に戻すという決意をする。ここでの東方不敗はロールとしては悪役なのだが、わかりやすい悪役のような表情はしていない。真面目に考えた末に今のロールを演じているということを真摯に描いている。
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デビルガンダムはもともとアルティメットガンダムという名前で、地球再生のために作られたものだったが、バグを起こした末に自律思考した結果、人類を抹殺するべきだという判断を下した(人間がいなければ地球は荒廃しないという論理)。それに呼応した東方不敗はデビルガンダムを使って人類を抹殺しようとしていたことが明らかになる。
さっきと同じ構図だが、「人類の抹殺」と口にしているマスターは影が濃くなっている。その狂気を受け止めきれないドモンの表情(半開きの口)の演技は細かい。
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ガンダムそのものにマスターの身体がオーバーラップする演出。ガンダムシリーズではパイロットがガンダムを「操作している」という演出が普通だが、Gガンダムでは「ファイターの身体の延長」という思想で描写がずっとされている。ここでのマスターは乗機であるマスターガンダムのスタイルもあって本当に大きく見える。
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デビルガンダムがいれば、人間は地球にいれなくなって地球はいずれ蘇る。だから「人類など滅びてしまえ」と高笑いする東方不敗。ここまでフォーカスすることで内面を描いてきたのに対して、横顔から背景に移動することで、表情が読めなくなり、ここにきて再度真意がわからなくなってしまう(話が通じる相手ではなく、狂っているのかもしれない、という演出)。
また、東方不敗はガンダムシリーズの「人類を滅ぼそうとする悪役」の中で本当に自分の信念で人類を滅ぼそうとしている珍しいキャラクターだと思う。シャアをはじめとした他の悪役は、大体の場合自身と他者との関係性の問題を正面から認めることができず、「自分を理解しない他人など消えてしまえ」という本音を利用できる大義名分にすり替えて人類抹殺を企てる。東方不敗の人類抹殺の動機にはそういう他人との葛藤みたいなものはなく、純粋に地球を荒らしてしまった罪悪感から行動している。 根本的に悪い人ではないので、人類を滅ぼすにあたってドモンと対立すると心が揺らいだりはしているのだが、そもそもの決心の部分に迷いがなかった(迷った末の決断ではなかった)というのがガンダムシリーズの中では新しかったように思う。そういう意味では、普段から自然を慈しんだりかつての地球を懐かしむような描写が本編中にあってもよかった気がするが・・・。
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ここは演出が細かい。ガンダムファイトが代理戦争であり、地球を捨てた人類のゲームだと批判するマスターに対してドモンは「むやみに人が死ぬよりはいい」と立ち向かうが、ドモンはガンダムのまま描かれ、マスターはガンダムと一体化した形で描かれる。ドモンは正論を言っているがあくまでそれはガンダムファイターとしてであって、マスターは一個の人間としてそれに反論している。主人公であるはずのドモンの正しさがゆらぐ。
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拳を交わす二人。そこでドモンはあることに気づく。
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(こ、これは!拳から深い哀しみが伝わってくる!東方不敗の拳が……拳が泣いてる!?) 「な、何故だ!」 「うるさい!」 (俺の心に、悲しみが響く…そうだ、己の拳は、己の魂を表現するものと教えてくれたのはこの人だ!ならばこれが東方不敗の魂の響きなのか!)
東方不敗の拳から感情を読み取るドモン。ドモンの視点を通して東方不敗という人物を描写している。視聴者もまたそこに感情移入してふたたび東方不敗にフォーカスがあたっていく。
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東方不敗は病に冒され、デビルガンダムのパイロットにはなれないことが明かされる。そんなことを言いつつかつての弟子と回転しながらぶつかり合っているのは意味がわからないが、これまでの流れがあるのでギャグシーンにはなっていない。シリアスなノリが続けられる限界を攻めていると思う。
長くなってきたので、続く。
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harubaku · 20 days
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つくばから駒場東大前に線路ひけしー
XXCLUB大島、ぶちラジのピンチヒッターで話してるの見てコロッと好印象になってしまった。井口の心の許し方がすごい。自分の正義が強い同士で合うんだろうな。よくよく考えたら俺は能町みね子も大森靖子も好きだしSNSでの立ち回り関係なくファンになれてしまう方だった。
夢也全部の売れ行きが芳しくなく、同日のぬいぐるみライブはなんか完売してるという焦りもあり、動員増やしたくてライブ予定まとめnoteあげてみたけど(私の涙甘いの)結局面白の信頼をもっと積み上げていくしかないですよねー。ユクトモとか惹女さんみたいに愚直に発信したりしょせちくとか伊藤くんみたいにライブで独自色打ち出したり。ギュインギュインは爆速で両方やっていて凄い・・・。あと予定noteにしても土井集とか野尻さんとか照山のやつ見たら全然サービス精神が違った。わしゃ努力嫌いかい!随時更新なんだから文量もちょっとずつ増やそー☆
でもnoteだと大会の予選とかガクコメとかツイートするほどでもないやつも書けるのはいいですね♪東大落研の広報担当だった時から、予選は誰でも出られるから予選出ますツイートは絶対にしないという尖りを続けている。でも他サーの人ライブに呼びたい時とか情報源として便利なんだよなあれ。
兄弟の体制さんにThreadsフォローされて自動のやつだと思ってフォロワーから削除したのにさっき見たらまたフォローされてた。てかそもそも体制さんのインスタフォローしてないから自動フォローになるわけなかった。どういうこと!?どういう作曲!?どういう設計図!?どういう縫製!?おいノブ、神様にでもなったつもりかよ!!!!!!!!!!!!
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reportsofawartime · 29 days
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バシャール・アル・アサド: [ロシアの特殊軍事作戦についてお聞きしたいのですが。あなたは、ウクライナにおけるロシアの特殊軍事作戦が世界史の流れを変えるだろうという意見を述べました。なぜそのような結論に至ったのですか?] 「私は、ロシアは大国として西側諸国による他国の内政干渉に抵抗しているため、歴史を書き換えたり変えたりするのではなく、歴史の流れを修正するだろうと述べた。」 ロシアがシリアでテロと戦おうとウクライナで戦おうと違いはない。敵は同じだ。 今日、ロシアは政治的にも軍事的にも世界のバランスを支えている。なぜなら、そのバランスを失ったからである。 ソビエト連邦の崩壊は驚くべきことではなかったが、歴史的に共存してきたソビエト連邦内の少数派を刺激するために取られた措置の結果であった。 例えば、クリミア半島はフルシチョフによってウクライナ政府に移譲され、この地域のロシア国民はロシアからの独立を決して試みなかった。 しかし、ナチスはロシアのあらゆるものに対して宣戦布告した。 ベラルーシのロシア人と小ロシア(ウクライナ)の人々が自分たちの言語と文化にとても愛着を持っていることは、私たち全員が知っています。 ウクライナ東部にはロシア人が住んでいるが、彼らはウクライナのナチスの具体的な標的となっている。 アメリカは第二次世界大戦前には攻撃的なウクライナ民族主義者を支援し、戦争中は彼らの憎悪を煽った。 2004年以来、中国は諜報機関を通じてロシアとの対立を煽るためにこれらを利用してきたが、これは不自然なことだ。 私は、この紛争はロシアの勝利で終わり、兄弟である両国民が団結するだろうと確信しています。 だからこそ私はこう言ったのです。『ロシアは他国が腐敗させたものを正しているのだ』」
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774 · 9 months
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なぜ「関ヶ原の戦い」において島津軍がわずか1500しかいなかったのかというと(1000や3000の説もあり)、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去して以降、島津氏には御家騒動がつづいていたからです。1599年(慶長4年)には義弘の子である島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され、そのため忠棟の嫡男・伊集院忠真が「庄内の乱」を起こすなど薩摩の政情は不安定でした。 秀吉の「九州征伐」において先に降伏したのは兄であり当主の島津義久でしたが(義弘は徹底抗戦を主張)、その後、義久は反豊臣的な態度を取り、一方の義弘は二度にわたる朝鮮出兵に従軍するなど親豊臣あるいは中立の立場にありました。 こうした兄弟の考え方の相違から家臣団がまとまらず、「関ヶ原の戦い」の際にも薩摩本国の軍勢を動かす決定権がなかった義弘は、けっきょく大坂に同行していたわずかな兵士のみでの参陣となりました。 しかも当初、島津氏は徳川家康から援軍要請を受け、東軍に参加する予定でしたが、伏見城に籠城する鳥居元忠が「主君である家康から聞いていない」と入城を拒否したため、流れで西軍として参戦することになりました。
マンガでわかる島津義弘 - 攻城団ブログ - お城や歴史のおもしろくてためになる記事がいっぱい!
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osapon · 8 months
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それまで世界のどこにもなかった点字ブロックが初めて敷設されたのは、岡山県立岡山盲学校近くにある原尾島交差点(岡山市中区)である。 三宅氏は旧建設省岡山国道工事事務所ほか関係する各機関に交渉し、点字ブロック230枚を寄贈。1967年3月18日に敷設された。今、その場所には「点字ブロック発祥の地」の記念碑が設置されている。 実際に敷設され、点字ブロックの有用性が証明されたはずだったが、現実は厳しかったようだ。なかなか普及しなかった。 三宅兄弟は、全国の福祉事務所や関係省庁等に点字ブロックのPR資料を送付したり、ときには点字ブロックの現物を携えて役所の土木担当部署を訪問したりして、ひたすら点字ブロックの意義と有用性を説いてまわった。しかし、注文はおろか、問い合わせすらなかったそうだ。 このときの三郎氏の心境が、同センターのWEBサイトに記されている。それによると「深い谷底をのぞく思いであった。もうやめようか、そろそろ資金も底を尽いたで」と弱音が出たという。 点字ブロックの考案から6年が過ぎ、小さな望みが見え始めた。1970年、大阪府立盲学校の教職員が国鉄(現JR)に対して、阪和線「我孫子町」駅に点字ブロックの設置を要望。国鉄がそれに応えて、駅に点字ブロックを敷設したのである。これが駅のプラットホームに敷設された点字ブロック第1号となった。 さらに同じ年、東京都道路局安全施設課が点字ブロックの採用を決めた。これをきっかけに地方都市へも広がっていった。また、7個×7列=49個の突起は6個×6列=36個となり、黄色に着色された。 岡山市の交差点に日本初の点字ブロックが敷設されてから34年後の2001年9月20日、日本工業規格(JIS)として経済産業大臣により制定された。
今や150カ国以上で利用「点字ブロック」…実は日本で生まれた「世界標準」 すべては“町の発明家”のアイデアから始まった |まいどなニュース https://maidonanews.jp/article/15014576?page=1
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oka-akina · 1 year
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20220108
 8日朝、夫の父が急に亡くなり、急いで夫の実家に駆けつけた。この日は午後から読書会の予定だった。わたしは少し早めに起きて本を復習し、印象に残ったところや話したいことなどをメモにまとめていた。ショーン・フェイ「トランスジェンダー問題」。それから文フリ京都のおしながきを作った。イベント前におしながきを作るのは久しぶりで、ギリギリ入稿の新刊がないとこういう準備もできるなと思った。部屋が寒かったので熱い紅茶を啜っていた。  7時半すぎ、夫が慌てたようすで起き出してきて、「おふくろから電話で、親父がなんか倒れたみたいだから行ってくる」と言った。それわたしも行ったほうがいいかなとたずねたら夫は首を傾げ、「いいよ、だって予定あるだろ…」とぼそぼそ言った。そしてつけくわえるみたいに「なんかおふくろが、お父さん死んじゃってるかもって言って…」と言い、ばたばたと顔を洗い始めた。「なんかおふくろもパニック状態で要領を得ない」、ごほんと少し咳をする。夫は混乱すると咽せる。これはほんとにやばそうだなと思った。ともかく行こうよ、一緒に行くよとわたしは言った。何もなかったら何もなかったねでいいんだからと言ったら、夫もそうだよなと納得した。それでわたしも支度をした。このときはまだわからなくて、わたしは付箋でいっぱいの「トランスジェンダー問題」を一応リュックに入れた。  夫は弟二人に電話し、わたしに言ったのと同じことを言った。上の弟はすぐ電話に出なかった。その間に義母とふたたび電話がつながった。「ともかく今からすぐ行くから」と夫が言う。「お父さん亡くなっちゃったのよ」と義母の声が聞こえてきた。「わかんない、亡くなっちゃってたの」「ゆっくりでいいから気をつけて来て」、そういういくつかの言葉の後半が涙声になっていて、ああほんとに亡くなったのだと思った。おととしに亡くなった美少女さんのことを思い出した。  下着と靴下など、泊まれる支度をし、ちょっと迷ったがMacBookもかばんに入れた。夫の実家はWi-Fiがないので持って行ってもワープロだよなとは思った。お湯を沸かして小さい水筒に紅茶を入れた。こういうときは何を着たらいいのだろうと思った。黒いスキニーパンツにカーキのスウェットを着た���眉毛を描いた。上の弟��電話がつながり、「聞いた、死んじゃったんでしょ」と言った。死んじゃったという語が初めて出てきたと思った。ちょうど名古屋駅にいてすぐのぞみに乗れるから、9時20分に東京駅に着くと弟は言った。  夫は車を飛ばした。メーターがずっと129km、130kmを指していた。晴れていて道は空いていた。車のスピーカーに夫のスマホがBluetoothで接続され、イエモンの「アバンギャルドでいこうよ」が流れた。そのままイエモンを流したまま走り、わたしたちはほとんどしゃべらなかった。  明日は前にいた会社の同期と集まる予定になっていたけどこれはもう欠席だろうなと思った。レンタルルームを借りたポットラックパーティー。わたし以外みんな子ども連れで来るというから、子のいないわたしはやや気の進まない会で、誘われたときからずっと仮病しようかなと思っていた。いや行けない口実をいくつも考えてはいたけども、子がいないから気まずかったんだろうなと思われるのがいやで、やけに気合を入れて準備していた。近所のビストロでチョコレートのテリーヌを予約していたし、爪もマットの黒をきれいに塗った。夫のお父さんが亡くなってという言い方は、誰々が危篤でといったいかにもなずる休みの方便そのままのような言い方だ。
 9時前。夫の実家に着いたら先に伯父が来ていた。義母の兄。五人きょうだいの長男。コロナ禍になってから親戚の集まりをしていなかったので久しぶりに会った。あたりは静かで、家の中も静かだったが、いま警察が来ていて二階で検死していると義母と伯父が言った。家で死ぬと変死扱いになるという何かで読んだ話を思い出した。  なにがなんだか…と義母が言い、まだ二階には上がれないそうで、茶を飲んで待った。夫がやかんを沸かそうとしたがIHの使い方がよくわからないのかうろうろしていた。壁際に伯父の手提げがぽつんと置いてあり、信三郎帆布の手提げだった。  朝起きたらお父さんが動かなくてと義母が言い、まず兄(伯父)に電話をかけたのだと言った。伯父は以前消防隊員だったからだろうと思った。わたしたちはマスクをしたまましゃべった。正月はいつも通りだったし、5日に病院行ったときは今度検査入院しましょうというだけでまさかこんなことになるとは、咳やリウマチはきつそうだったがだからってと義母は言い、おとといは自転車に乗って自分で酒を買いに行ったのだと言った。  何度か警察官の人が二階からおりてきて、本部から臨場が来ますのでとか、午前中のうちに検死の先生が来ますとか説明し、フィクションの中で幾度も見かけた語だなと思った。2時間ドラマや警察小説のようだと思った。そして物盗りの犯行ではないことを証明しますとかお父さんの指先の欠損はこれはいつのものですかとか、いろんな人が五月雨式にいろんなことを尋ねるのでよくわからなかった。警察の人たちは黒いパーカーに黒いワークパンツで、むしろ泥棒のようないでたちだった。  まず兄に電話したんですと義母が言い、それから着替えて119番通報をしたんですと言ったら、それはなぜですかと何度も聞かれた。先に着替えたのはなぜですか。疑うわけではなく形式的なことなのだろうがいろんな人からそういう質問をされ、べつに調書もメモもとらない。あとから来た三人組の人が義父の財布や通帳の場所を尋ね、写真を撮り、その人たちは何か書類を書いていた。お医者さんが到着し、この人は白衣を着ていたのですぐ医者だとわかった。  11時過ぎになって警察の人たちがみんな帰り、やっと義父と対面できた。布団の中で寝ているみたいに見えた。でもすっかり白い顔になっていて、ああ亡くなっているとどう見てもわかった。帰り際に警察の人が死因など話したが、いつも通っている病院ではない初見の先生がみてくれたからこれは持病との関連はわからないものだとのことで、ようするに心臓が止まっていますということしかわからなかった。わからないけども急に亡くなった。こたつに足を入れながら夫が「これは最後まで泣けないかもしれない」とつぶやいた。  伯父が帰ったのと入れ違いに弟たちが来た。途中で合流でき���のだと言った。上の弟はものすごくおしゃれなスーツを着ていた。二人はすぐに二階に上がり、父親と対面し、大きな声で泣いた。弟たちが泣いたので義母もやっと泣いた。
 家で亡くなったので死体検案書になるという。さっきのお医者さんのクリニックに取りに行くことになり、お金もそこで払うという。  葬儀をどうしようとなり、祖父母のお墓のある霊園で葬儀ができるようで、夫が電話した。ご遺体は霊安室で預かれますと言われ、そうしますとなったが、1時間ちょっとですぐ来てくれるとのことでかえって慌てた。ドライアイスで寝かせておくこともできますがとは言われたが、兄弟三人と義母で話しあい、お願いすることになった。  弟たちがスーパーでお茶やお弁当やおにぎりを買って来てくれて、わたしは鮭とひじきなどの弁当をもらい、ごはんはせりの混ぜご飯だった。七草の残りだろうと思った。近所の人たちが挨拶に来てくれて、みんな泣いていた。義母もまた泣いた。  そうしていたら霊園の人が来た。二階の部屋から階段を下りて車へ、遺体は布の担架で運ぶことになり、白い布で包んだ。顔が布に包まれるとき弟たちが泣いた。階段を下ろす際、弟たちが手伝った。夫はドアを開けたり物をどかしたりしていた。夫は亡くなった父親の体にまだ触れていない。わたしは少し歯痒く思ったし声もかけてしまったが、夫なりの混乱やきつさがあるのだろうとのみこんだ。車に乗せるときさっきのご近所さんも見守ってくれた。道の奥でどこかの小さい子どもたちが遊んでいるのが小さく見えた。
 みんな霊園に向かうことになり、夫とわたしはクリニックに寄り検案書をもらってから向かうことになった。何かクリアファイルみたいなものあるかと夫が言った。検案書はあちこちに提出するからコピーを取るし、今後こういう書類が増えるだろうと言った。わたしのリュックには松屋のおまけでもらったすみっコぐらしのファイルしかなくて、すみっコぐらしだとふざけてるかなと言った。おれはすみっコぐらしはべつにふざけてないと思うと夫が言った。病院でもらおうよとわたしは言った。5万も払うんだからクリアファイルくらいもらったっていいでしょと言った。死亡確認書ではなくて検案書だから5万円かかる。さっき金額をきいて驚いた。5万円、急に用意できなかったらどうなるんだろう。  クリニックはお休みの日で、わたしたちのために鍵を開けておいてくれたようでスリッパがきれいに揃えてあった。検案書を受け取るとき、これ何かクリアファイルみたいなものに入れてもらってもいいですかと、さも今思いついたみたいに言ってみた。そうしたら快く新しいクリアファイルの束をひとつ開けてくれた。
ーーーーーーー こういう日記はいくらでも書けそうに思います。隙間をみて書き留めていますがどんどん長くなっていく。でもこれでも取りこぼしたことや書きそびれたことがたくさんある。 谷川俊太郎の「父の死」という詩のようだなと思います。「世間知ラズ」収録。だったかな。いま夫の実家なので確かめられない。検索したら、詩の全文と感想を載せているブログに行き合いました。 https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/59c19002d057011a087ebed81cc3f018
「人が死んで、そのことを悲しんでいるのにおもしろいという感想をもつのは不謹慎かもしれないけれど、おもしろい。興味をそそられる。」「そのおかしさを全部読み終わると、何か、こころが落ち着いている。そうか、そうなんだ。これを全部受け入れるということが、ひとりの死を受け止めることなんだ、とわかる。」ああ本当にそうだなあと思います。
亡くなったのはわたしの親ではなく夫の親だからか、悲しいとか落ち込むといった感じではなく、なんとも冷淡なようですが今のこの状況丸ごとをじっと観察している…という感じです。参加者。亡くなった人の親族という立場に参加している人。夫の実家に来るとわたしはいつもホームステイの子という感じですが、義父の死においてもそういう感じです。 なのでわたしはかなりいつも通りのテンションなんですが、そして相続とか遺産整理の仕事をやっていたので正直イキイキしてしまっているふしもあるくらいなんですが、リプライやDMなどでお声かけてくださった方ありがとうございます。
葬儀は金曜日の予定で、しばらく夫の実家に泊まることになりました。今日の昼、ともかくWi-Fiをどうにかしようよと夫と話しあい、ポケットWi-Fiをレンタルしてきました。Wi-Fiにつながったら不思議なほどほっとしました。Wi-Fiの扇型のマークを見ると元気が出てくる。と書くとなんだかばかみたいですが、ほんとにそうなんだよな…。
日曜日の文フリ京都は参加できそうです。またあとでお知らせを書きますが、おそらく当日朝に新幹線で向かうことになりそうです。すごく無理をして参加するというわけではないですのでご心配なさらず…。葬儀などは終わっている日程で、楽しみにしていたイベントに予定通り出かけた方が気持ち的にいいかなあという感じです。 ただ当初の予定では土曜の夜から2泊するつもりだったのですが、それはさすがに難しいかなという感じ(土曜まで夫の実家にいるので)。日曜の夜は泊まるかな。体力的にラクというのもありますし、一人でバタッと寝る時間があった方がよさそうな気がする。わたしも夫も。 ふだんほぼ意識していないし、わたしの生活や認識はそうではないのですが、それとはべつのところでわたしの立ち位置は「長男の嫁」なんだなあと驚いています。とはいえまだ「驚く」レベルの他人事感ですね。
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imwatashi · 1 year
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おばあちゃんが亡くなったとき、その前後の期間がただ悲しさだけを噛み締めるものにならなかったのは、彼女のそのあたたかい人柄故なんだろうと思った。新幹線に飛び乗ったときは死に目に会えないと思っていたので、そこから約一日も生きながらえたおばあちゃんは強いなと思う。その一方、彼女が悶え苦しむ姿をずっと見ているうちに、もっと早く楽にしてあげたかったという気持ちも湧いた。でも、自宅で子供と孫に囲まれながら逝きたいと願ったのは紛れもなくおばあちゃん自身で、だからこそ、彼女の願いがかなったのだと思うことで多少は救われる。何があっても怒らず忍耐強く、朗らかで可愛く笑うおばあちゃんは、他人に対して優しいけれど自分の中で決めたことを貫き通す芯の強さがあった、そしてその芯を守ってあげたいと子供や孫に思わせるような、根底的な優しさがやっぱりあった。強い人の定義は色々あるのだろうけれど、私にとっての強い人はおばあちゃんのことだなと思う。ぱきぱきとした凶器、相手を脅かすような強さではなく、どこまでもしなやかで何事も受け止める強さ。こればかりは私自身が彼女に対して抱いた紛れもない感情であり、尊敬だった。
久々に家族や従兄弟たちとゆっくり過ごせた日々だった。私は何よりもこの人たちが大事なんだと実感した日々でもあった。友達のように何でもあけすけに話すわけではないけれど、そこに友達とは代え難い愛があるとわかっているから。お通夜が終わった後、従姉妹たちと会場で泊まった。自分たちが食べるものを仏壇にお供えしたくなるという気持ちが初めて痛いほどわかった。孫たちと過ごせて幸せだねえ、と親は言っていたけれど、おばあちゃんがこうしてあたたかい時間を用意してくれたことが私はとても嬉しくて、そして幸せだった。
苦しむ姿を看取るとき、最後の最後で息絶えるとき、たくさん泣いた。思い出の写真を見ながらもたくさん泣いた。それでも楽しい時間だった。地元の閉鎖感と平和ボケし過ぎた空気はあまり好きになれないけど、ここが私の居場所なんだと素直に思えた。実家を離れてまた関東に戻り、日々の暮らしが始まる。今の普通に戻れば戻るほど、そっかもういないのか、とふと我に返る。最後にきちんと会話を交わしたのはいつだろう、もうボケボケで、同じ話を何度も繰り返すけど、ただ笑顔が可愛いから一緒にいたい、美味しいものを食べさせてあげたいと思っていた。今年のお正月にもらったお年玉の一万円は大事にとっておいたけれど、うっかり現金を忘れた千里眼でそれをくずしてしまった。神聖な最後のお年玉だったのに、食べ物に貪欲なおばあちゃんにぴったりな使い道だったかな、と思えばそれはそれでありかなと思った。棺にはだいすきなベーコンエピとモスバーガー、フィナンシェ、それ以外にもたくさんの食べ物を詰め込んだ。スイートポテトが焼けて焼き芋のにおいがしたら面白いね、とみんなで笑った。貴方のように歳を重ねたいです、と書いたメッセージも一緒に添えた。
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fuckyeahmeikokaji · 2 years
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Kotaro Satomi (里見浩太朗), Meiko Kaji (梶芽衣子) and Hideo Murata (村田英雄)  in Loyal Kanto Brothers (Kanto Girikyodai, 関東義兄弟), 1970, directed  by Seiichiro Uchikawa (内川清一郎).
Scanned by me.
meikokaji.net
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yfukuoka · 2 years
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【3523日目】2022-09-09 常陸房総アジア旅 3ヶ国目 日本🇯🇵×中国🇨🇳 「みつけて下さい!!あなただけの味!!」 一体どういうことなのか。 福来軒@茨城県土浦市 ‪____________________________________ 平日の昼間なので、近くにお勤めの方がどんどん入って来る町中華。いい雰囲気です。 *レンコンカレーラーメン *ツェッペリンカレー(メンチカツ) 茨城県土浦市の野菜といえば「蓮根」が有名ですが、正直に言いましょう。心の隅には、「蓮根のカレーラーメンなんて…」そんな思いがあったのは本当です。 でも、裏切られました。 甘辛のカレースープに、甘辛のキーマカレー。そして何より気に入ったのは蓮根の天ぷら。スパイスをめっちゃ使ったケンタッキーフライドチキンの衣のような味がするのです。間違いなく美味い、歯触りもイイ、ジャンクな味に、どこかホッとする味。自分が日本人だったことを自覚する美味しさでした。 1929年に飛行船ツェッペリン号が土浦の霞ヶ浦に来訪したことから、飛行船が町おこしのテーマの一つになっているそうです。 ライスの上に、豪快に載ったメンチカツが飛行船かと思ったら、ライスの形が飛行船なのだそう。 こっちも裏切られた〜 カレーは、ちょっと甘辛で、そんなに特筆することはないカレーライスのカレーなのですが、メンチカツが死ぬほど美味い。なんじゃこりゃ。 町中華って、中華かどうかじゃなくて、「料理が美味しい」に特化した日本の大衆食堂なんだなぁと再認識。カレーより、ツェッペリンより、メンチカツが主役、それでイイのだ。 美味しかったのだけど、結局「あなただけの味」は見つかりませんでした。土浦といえば、我が義弟、 #カレー三兄弟 三男の出身地。このお店にも家族ぐるみで常連の彼には、きっと見つかっているに違いない。あなただけの味が。 ‪____________________________________ この日は、日本最大の人型建造物「牛久大仏」。坂東三十三観音28番札所「滑河観音」。スリランカ仏教の巨大仏塔がある蘭香寺。そして、関東最東端犬吠埼へ。 ‪____________________________________ 🇯🇵🇨🇳 japanesefood #china #chinesefood #asianfood #asia #foodpic #foodstagram #instafood #food #tasty #delicious #spice ‪#‬curry #茨城 #千葉#町中華 #ラーメン #カレー #カレー部 #カレー好きな人と繋がりたい #フクドローン #ふくすたぐらむ #常陸房総アジア旅 (福来軒) https://www.instagram.com/p/CipfVTpvJmG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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elle-p · 6 months
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P3xP4 World Analyze pages 30-31 transcription.
ギリシア神話における夜の女神 “ニュクス”
母なる “夜”
日の出が夜の間から太陽が生まれたように見えることから、夜は太陽の母と考えられた。また、夜空が無数の星々を抱いているように見えることから、夜は星々の母であるとも考えられた。いわゆる “地母神” という言葉は大地が植物や生命を生み出した母とする考え方だが、その大地をも生み出す原初的な母神として “夜” が存在する。いわば “祖母” = グランドマザーと呼ぶこともできるが、より概念的な存在であると考えられる。大地から生まれるものは実際に目にできるが、夜から生まれるものは想像によるものばかり。兄弟であり配偶者でもある “暗黒” エレボスとの間に生まれたのは “昼” の女神ヘメラと “大気” アイテル。ニュクス単独でタナトスやヒュプノスを始め、運命や宿命、不和や復讐、非難や苦悩といった形にならないものを多数生んでいる。ニュクスを含む原初の神々は、主要な神話のようなエピソードがあまり残っていない。
ここでのニュクスは生命に “死” の概念を与え、すべてのシャドウを生み出すきっかけとなった存在とされる。
カオスの眷属
ギリシア神話では世界が生まれるとき、最初に存在したのはカオス “混沌” とされている。これは神として人格を持った存在ではなく、空間あるいは宇宙そのものと言ってもよく、ニュクスはそこに親からというわけでなく発生した。同じように怪物を産む母神として神話に登場する大地の女神ガイアは、カオス���人格神としてその娘という立場になっているなど、より人間的に描かれている。ガイアがティターンやキュクロプス、テュポンなど具体的な怪物を産んでいるのに比べると、ニュクスが産み落とすのは人間でなくとも感じる根源的な恐怖。“眠り”ヒュプノスはそれ自体 “死” タナトスを連想させるが、“老い” ゲラスや “争い” エリス、 “定め” モロスなどもみな死に繋がる恐怖心であり、そうしたものに名前をつけて夜にルーツを求めたのではないかと思われる。“三途の川の渡し守” と言われるカロンも、ニュクスとエレポスの子とされている。
ギリシア神話に登場する “タルタロス” はカオスの子で、二ュクスやエレポスとは兄弟ということになる。
夜の子供たち
怪物的な子供たちの母親であると同時に、ニュクスは “運命” の生みの親としての役割を持っている。死も運命のひとつと考えられる が、モロスやケルも死の運命を表し、“運命の姉妹神” モイライとして有名なラケシス、クロト、アトロポスも生んでいる。“夢”オネイロスや “苦悩” オイジュス、“復讐” ネメシス等も人の運命を左右するものとして同じ系統と捉えられる。
そんなニュクスの子供たちの中では “昼” の女神ヘメラが特殊な位置にある。夜と一対になる存在で、昼と夜の境目にだけ地の果てにある館 “タルタロス” で顔を合わせ、交代するというエピソードも用意されている。ヘメラの兄弟 “大気” アイテルも、父親である中の “暗黒” エレボスと対になっているが、天空神としてはガイアの子ウラノスが有名だったせいか、あえてアイテルの物語は創られなかったようだ。
ジンのペルソナであるモロスもニュクスの子であ、りストレガ内の人間関係を示唆するものといえる。
ニュクスの産んだ子供たち
[ネメシス]
復習の女神とされることが多いが、神話における本来の意味は “悪行への報復” であり、ネメシス自身も美しい女神として描かれている。ゼウスに言い寄られるが、さまざまな動物に変身して逃げるエピソードがある。また、森の妖精につれなくしたナルキッソスに、自分しか愛せなくなる罰を与えるのがネメシスで、この逸話はナルシズムの語源としてよく知られている。
[モイライ]
“運命を描く者” ラケシス、“紡ぐ者” クロト、“変えられぬ者” アトロポスの三姉妹を “割り当てる者たち” モイライと呼び、生まれた子供の運命を決めると言われている。もっともこの三姉妹は神話のバリエーションが多く、必ずしもニュクスの娘ではないともされる。
[ヒュプノスとタナトス]
ニュクスの子は多いが、“返り” ヒュプノスと “死” タナトスは特に結びつきが強く、神話でもともに描かれることが多い。タルクロスに居を構え、ふたり一緒に住んでいる。非情な兄タナトスに対してヒュプノスは優しく、母のをとともに人を眠りに誘うという。タナトスは死者の魂を冥界へ連れていく役割があり、トロイア戦争にもヒュプノスとともに現れている。
“怪物” を産む母神
ガイアやニュクスに代表されるように、母神が怪物を産むという神話は数多い。人が神として崇めたものは災害をもたらすような自然現象が多く、恐れるからこそ崇め災厄が起こらないことを願った。したがって、母なる大地から産まれる神々が恐ろしい怪物であるのは当たり前だった。古い時代は母権の強い社会が多く、怪物を産む母神はより強大な力を持つ存在として描かれる。オリエント神話のイナンナやイシュタル、ギリシア神話のガイアやレアなどがその代表に挙げられるが、彼女たちは人に似た神の姿だけでなく、怪物としての姿も持つことが多い。母なる大地もまた時折火を噴き、地を揺るがす恐ろしい存在だったからだ。
同一視される “夜” と “死”
タナトスのように “死” という概念が神として人格を持った存在とされることは珍しくない。世界各地の神話に “死の神” がいて、いわゆる死神に似た働きをする。よく言われるのは死者の魂を冥界へと連れていくというもので、キリスト教でも天使がその役目を担っていることから、そうした働きをする存在を “死の天使” と呼ぶこともある。冥界が川や海に隔たれたイメージが多いため、“渡し守” という役割で象徴的に描かれることも ある。“眠り” が “死” に近しい存在として描かれるのは、死の定義が難しく、死んだと判断された者が生き返ったように見えたりすることがままあったからではないかと考えられる。
キュベレ
現在のトルコにあたるフリュギアの地母神で、非常に古くから広い範囲で信仰されていた。ギリシアでは、ゼウスやハデスらの母である地母神レアと同一視したり、元々信仰形態が似ていたディオニュソスと関連付けてその信仰を取り込んでいる。
クイーンメイブ
ケルト神話に登場する、アイルランド北西部コナハト地方の女王。北東部アルスター地方の英雄クー・フーリンとは敵対関係にあり、何度も戦っている。後に妖精の女王としてティターニアと混同され、オベロンの要とされるこ ともあった。
タナトス
ギリシア神話の死の神で、眠りの神ヒュプノスとは兄弟で双子ともされる。寿命が尽きた人の前に現れ、髪の毛をひと房切ってハデスに献上してから、冥界に連れていく。ただし、英雄はヘルメスの担当で、タナトスは普通の人間を担当していた。
チェルノボグ
ロシアや東欧地域に伝わる “スラヴ神話” における神で、死神としての性質も持っていたとされるが、神話文献自体があまり残っておらず詳しくはわからない。名前は “黒い神” という意味で “白い神” ベロボーグと対立関係に ある。
パールヴァティ
インドのヒンドゥー教で信仰されている女神で、シヴァの妻としても知られる。6つの顔を持つ軍神スカンダや、象に似た姿をした学問の神ガネーシャを生んでいる。パールヴァティ自身も、カーリーやドゥルガーと同一視される怪物的側面がある。
イザナミ
日本神話の女神で、兄弟で夫のイザナギとともに日本の島々と多数の神々を産んだ。神々の中にはイザナミを売に至らしめるヒノカグツチを始めとする怪物的な存在も含まれており、他の地母神と共通する要素があること がわかる。
アヌビス
エジプト神話の死者の神。死の神であるオシリスの息子で、ジャッカルの頭部を持ち死者あるいはミイラを守る存在。“死の天使” の役割を持つものとしては別にウプアウトという犬そのものの姿をした神がいるが、アヌビス と同一視されている。
リリス
聖書に登場する “夜の魔女” で、男性を狙う妖怪。原初の人間アダムの精液から生まれた最初の妻とする説があり、“男を誘惑する夢魔” サキュバスと同一視された。夜の魔物には淫夢で誘惑するものが多く、リリスはその最初にして代表的存在。
神話上の “タルタロス”
[封印された者]
ギリシア神話における冥界のひとつで、ハデスの支配する冥府のさらに下に存在するが、カオスやガイアとともに生まれた原初の神のひとりともされ、ガイアとの間にテュポンやエキドナといった怪物を儲けている。冥界としてのタルタロスは、牢獄としての役割を持たされることが多く、ガイアが生んだ怪物たちのヘカトンケイルやキュクロプスらがここに幽閉された。その後、ゼウスがティターン族をここに閉じ込め、ヘカトンケイルを番人に改めるなど、神話中に何度も登場している。
[落とされた者]
ゼウスが罰としてタルタロスに落とした者には、キュクロプスを復讐のため殺したアポロン、人間に火を与えたプロメテウス、神の秘密を人間に漏らしたタンタロス、巨人ティテュオスらがいる。親族を殺した最初の人間でヘラと通じようとしたイクシオン王や、最初に少年愛を犯したタミュリス、神を騙そうとしたシシュポスやサルモネウスといった人間たちも、死後タルタロスに落とされた。ゼウス以外にも、アポロンやアルテミスらが罪人に罰を与えるためにタルタロスを利用している。タルタロスはいわゆる “地獄” として描かれている。
ヘカトンケイルには、海の妖精テティスに見出された “百本の腕を持つ巨人” ブリアレオスがいる。
シシュポスはタナトスを騙して捕え、幽閉したため、その間は人が死ななかったと言われている。
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etanchan · 1 month
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あたしはあなたにはなれない
昼間に書くのは珍しいですね。いつも寝る前に書いています。不眠が加速していたのでブルーライト避けで最近辞めてました。純粋に書きたいと思わなかったしね。まとめておきたいことが終わったので暇だし書き残そう。ずっと書きたかったことでもある。
旅行に行きました。
旅行が嫌いです。子供の頃からあまり好きじゃない。修学旅行も小中高ずっと行きたくないなぁと思いながら義務で行ってた。ここ数年は年に1度だけ毎年同じメンバーで近所にのみ行ってた。静岡とか栃木とか。それも去年はなくて、正直ホッとしてた。旅行、本当に嫌過ぎる。嫌だけど年1は頑張ろうという気持ちだった。「卒業アルバムってマジで要らないし場所取ってるから捨てたいけど、捨てたら人間として何か大事なものを失う気がするから実家に置き去り。」と同じ気持ちで、旅行したくないけど全く旅行をしない人間になるのは逆に怖くて頑張ってた。でも基本行きたくない。長距離移動が苦手。家が好き。旅行で得られる経験と、旅行で得るストレスが釣り合ってない。どんなに仲が良くても誘われたら断っていた。結婚式と葬式と旅行とBBQは基本行かない。繰り返しになるけど、嫌いだから。
そんな私が旅行に行きました。いつものメンバーじゃない人と。その人へのお礼のつもりで、自分の殻を破ることでしか誠意を見せられないな、そういうつもりで覚悟決めて行ったのですが、思いの外うまくいったので、逆に旅行させてくれてありがとうみたいな感じになってしまい、恩を返すつもりがまた恩に着ることになってしまった。なので感じたことを書き残しておこうと思う。その人と破綻して全てが嫌になっても、起きた事実を忘れないように。
2泊3日。目的は仙台で行われるイベント��の参加。でも彼が福島県が故郷なのでついでに実家に顔を出したいとのことで、まず1日目に福島県へ行きました。初めて会う人とドライブするなどして過ごした。人と会うのが多分好きなので、そういう目的の旅はいいのかもしれない。ずっと会いたかった人だったしね。観光となると楽しまなきゃ感が出るけど、君に会いに来たよだと急にフッ軽な感じがして、気負わなくてよかった。夜は飲みに行って、いかにんじんを食べたりした。郷土料理に触れるのも案外悪くはないのかもしれない。義務感あるけどそれもまた思い出みたいな。因みにいかにんじんは別に好きじゃなかった。夜はひとりでドミトリーに泊まった。ずっとカプセルホテルに泊まってみたかったんだけど機会に恵まれず、また男性のみみたいなところも多いので、泊まれずにいた。カプセルホテル探してたら古い建物をリノベしたおしゃれなドミトリーが見つかったのでそこに泊まった。4人部屋で赤の他人と寝るの面白いなぁって。多分旅慣れてる人たちだったんだろう。嫌な気持ちにはならずに無事朝を迎えた。ドミトリーの斜向かいにお寺があって、そこにねこが何匹か住みついてた。朝散歩した時に撫でるなどした。そうやって行く場所全てでねこの友達を作っている私は。千葉のねこ、練馬のねこ、福島のねこ、仙台のねこ。ねこと酒はどこにでもあるし、ねこと酒きっかけで友達が増えることが多々あるので、ねこと酒が好きで良かったと思った。
2日目は仙台へ移動。在来線で1時間ぐらい?かけて向かいました。電車は寒冷地仕様でボタン押さないとドア開かないタイプ。田舎だからか日曜日だからか、乗った電車は全部座れたな。嬉しかった。途中川沿いの満開の桜並木に出会った。急に窓の外がありえないぐらい美しくなってびっくりした。見惚れた。嬉しくなった。あとから調べたら白石川堤一目千本桜というらしい。1200本のソメイヨシノが植ってて、8キロもあるらしい。本当の千本桜だった。眼福。朝早かったからまだ花見客もいなくて、純粋に川と桜だけがずっと流れていって、ほんとにまばらにしか乗ってない乗客も、みんな黙って流れる景色を見ていて、なんかすごかった。夢とか創作みたいな景色と空気だった。電車から桜が見えるなんて知らなかったのもよかった。そのあとは月並みだけど牛タン定食を食べた。麦飯ととろろ。ネギが入ったテールスープ。あと定規揚げ。食べながら彼のお兄さんと話した。大人になった兄弟を並べるのは面白い。イベントに参加した後、ホテルにチェックインしてお風呂に入ってから晩ご飯を食べに出かけた。2泊目はアパホテル。旅行嫌いはアパにも東横インにも入ったことがない。お風呂が思ったよりよかった。小さいけど露天があって、日曜の昼だから誰もいなくて、大変快適。なんでこんな遠くまで来て人混みにうんざりする必要があるんだよ。という気持ちにならなかったのがよかった。人混みも別に好きではあるけど。露天風呂の壁に書かれていた「虫さんや葉っぱさんもお風呂がだいすきです。見つけたらそっとすくってあげましょう」みたいな注意書きがかわいくて嬉しかった。風呂って変だよなぁって思った。夜は牛タンカレーと牛タンのたたきを食べた。そもそもルゥが美味いのに、でかい塊の牛タンが煮込まれてて天才だった。あとなんか日本で初めて牛タンのたたきを出した店らしい。知らんけど。美味しかったです。帰りにいちご飴を食べた。今年は彼とたくさんいちごを食べれて嬉しい。彼とじゃなくても嬉しいけ��。夜は手を繋いで一緒に寝た。いっぱい頑張っててえらいねぇって言われて、そうだぞ私は今めちゃめちゃ旅行を頑張っているんだぞという自意識。寝る時になって泣いた。疲れてるのと、自虐性質でいっぱいになって泣いた。心の中であり得ないぐらい自分のことを虐め抜いてることに気づいた。言われなかったことを悪く想像して勝手に傷つくっていうよくない癖。直したいなと思いながら眠った。
3日目は松島に行くと決めていた。朝7時からやっている老舗っぽいお蕎麦屋さんで朝ごはん食べた。少し待ったけど美味しかったし、女将さんが優しくて、帰る時にいってらっしゃいって言ってくれて、それだけでまた来たいなんて思ってしまった。あと七味がめっちゃ美味かった。買ってくれば良かった。そのあと30分ぐらい電車に乗って松島へ。旅行の嫌いなところ第二位、観光。何観光って。意味ある?興味ないんだが。となっている自分の機嫌を取るために、私がだいすきな漫画、ハチミツとクローバーの聖地巡礼を絡めてなんとか気持ちを乗せた。竹本くんが自転車でたどり着いた場所が松島で、瑞巌寺。ある程度の区切りをつけるきっかけとなったのが、五大堂へ続く透かし橋。同じ場所に行くんだと思えば多少楽しみだった。晴れていたら遊覧船に乗ろうと思っていたが、あり得ないぐらい晴れていたので乗った。島々を見るための遊覧船だが、海苔と牡蠣の養殖を見れたのがよかったという独特な感想。カレーパン、笹かまぼこ、おせんべいなどの食べ歩き。あとは竹本くんと同じように缶コーラを用意しといて、飲んだ。少し写真も撮ってもらって、あぁ今思い出を作っているなぁという自覚がすごかった。晩ご飯に3回目の牛タンを食べてから帰りたかったので、時間を潰すために仙台駅近くの猫カフェに行った。地方都市の平日昼間の猫カフェは最強です。完全にオススメ。東京だと外国人がいつでもいるからね。3回目の牛タンは焼肉。厚切りと普通のと味噌と。3回目なのに3種類食べた。厚切りは誇張なしで拳ぐらいあった。牛タン以外の肉も全部質がいい良い焼肉屋さんでした。ハラミ、美味かったなぁ。あとハイボールも丁寧に作ってくれてて美味しかった。〆にアイスを食べてから少し過去を回想して、新幹線に乗ったよ。帰りの新幹線はずっと泣いてた。嬉しくて。感動してた。旅行が楽しいということに。達成感もあった。でも家に帰りたい気持ちもあって、なんか色々丁度良かった。
頑張ってくれてありがとうと言われた。頑張った。私が彼のことをすきな気持ちをわかってもらえたような感覚があった。頑張れたのは彼に誠意を見せたかったから。彼のことがすきだから。彼と出会ってから私は久しぶりに、ずっと彼とあと自分自身に真面目に真っ直ぐ向き合っている。健全な人間関係。とは言い切れないけど、自分の気持ちを誤魔化したり、相手に無理を強いたりしないでいる。この気持ちを諦めたくない。負けないと信じたい。すきなものをすきだと言い続けたい。表面じゃなくて根幹を愛したい。
旅行というと、ストレス発散とか気分転換に良いとされている行動のひとつだ。リフレッシュ。正直意味がわからない。こんなにストレスの強いものはない。お前ら狂ってるよと思っていた。いやまだ思ってる。そういう大衆の意見から外れていることは自己肯定感の低下に繋がる。しかも持続的なものだから社会不適合感も煽られる。旅行が嫌いなだけで非人間感まで得ていた。なので今回旅行を遂行できたことで、少し人間になれた気がする。ちゃんと楽しかったと思えるんだ。そんな自信をつけた。リフレッシュできたかと言われるとそれは残念ながらできてない。慣れればそうなるもんなのだろうか。分からない。
死にたいと思った分だけ、生きててよかったが来るのかもしれない。ここ1年ぐらいずっと生きててよかったと思っている。心の底から思う。感動して泣くこともある。あの時死なないでよかった。生きててよかった。そういう時は大体きれいなものを見ている。世界が美しいと知ったとき。でもそれはひとりじゃ見られなかった、知れなかった。誰かと一緒だから出会えた景色であることが圧倒的に多い。そうなると、君に出会えてよかったとなる。彼に出会えてよかったと、途中からはそればかり考えていた。こんなに旅行が嫌いだと言ってる人間をこんな遠くまで連れ出してくれてすごい。勇気があるなぁと。強いと思った。僕も強くなりたいと思った。
とはいえやっぱりストレスが強かった。特に行く前。準備が終わって、あとは当日を待つだけの数日間が1番しんどかった。行きたくないとか死にたいとかずっと思って泣いてた。自分には遠すぎるとか長すぎるとか。主に不安と心配。うまくできるかどうか分からない不安と、うまくいかなかったときに自分を守るために逃げる場所がない心配。他人に迷惑をかけるんじゃないかという心配。こんなだったら家にいたほうがいい。失敗してやっぱり旅行は嫌いだなんて改めて結論が出てしまうくらいなら行かないほうがいい。旅行嫌いのコンプレックスが頂点まで達して毎晩泣いたし全く眠れなかった。ただ、仕事中に牛タンがモチベになったのも嘘ではない。楽しみではあった。食いしん坊め。あと旅行中もあまり眠れてない。元々不眠だし場所が変わると眠れないタイプだから仕方ないことだけど。休めないクセにスイッチがずっとオンだったから、旅行から帰ってきた翌日はずっと知恵熱が出てた。こうやって書いてると本当に負担が大きくて笑う。それでも俺はやり遂げたんだ!という自負。
人の故郷に触れるのは2回目だ。1度目の時も感慨深いなぁとは思っていたけど、今回はよりそう感じた。彼の後輩とお母様とお兄様に会った。こういう場所でこういう人たちに囲まれて育ってきたんだという、ひとつの答えが目の前にある感覚。彼のことはすきだけど、顔とか声とか性格とか、そういうのは好きじゃない。好きじゃないというのは語弊がある。好きではある。けどファーストインプレッションであぁこの人のことすきだなと思ったのは、多分こいつは恵まれた環境で過ごしてきたんだということで、今まで積み重ねてきた経験や出会いを好ましいと思った。それを見てきたのだから、そりゃあ感慨深い。みんな優しかったなぁ。もっとお話しして仲良くなりたかった。
頑張ってくれてありがとう、俺も楽しかった、俺の好きな場所と好きな人に会って楽しんでもらえてて嬉しかった、そう言われて、これ以上ない尊重だなと感じた。自分が楽しむことで相手を喜ばせちゃった。これはヤバい良いサイクルの中に入ってしまったかもしれない。このまま高め合って幸せになってしまうかもしれない。今後から目が離せないな。とか言って特に何もないのが人生だったりもする。
大変忙しい時期に2日間お休みを頂いたので、職場にお土産を買っていった。笹団子?ずんだ餅?みたいなやつ。すると同僚から「お土産いただきました」「ごちそうさまです」「どこ行ったんですか?」「牛タン食べましたか?」と声をかけてもらえた!多分これ当たり前のことなんだけど、旅行嫌い人間からするとヤバいことなのだ。こっちは自分の旅行も嫌なので他人の旅行に興味なんか1mmもないのだ。だって話を聞いても行きたいとか思わないから意味ないんだもの。他の同僚が休憩室にお土産を置いてても、あーなんかお菓子があるなぁ程度にしか思ったことがない。そんな非人間に対して、どこに行っただの何を食べたのだの声をかけるなんて。ヤバい。ヤバすぎる。超嬉しい。松島に行きました。牛タンは3回も食べました。楽しかったです。お休みありがとうございました。え?!?!?!私!!!!!人間じゃん!!!!!!!!今超人間なんですけどーー?!?!?!大興奮である。構ってもらえて嬉しいという大変原始的な感情。旅行すごい。お土産すごい。人々の文化的な営みの仲間に入れてすごい。旅行終わってるのにまだあるんですかーーー?!ってなった。次からはお土産をいただいたら興味を持って軽い雑談をしようと思いました。すみません今まで無味乾燥にお菓子だけ食べてて。
さて、じゃあ旅行が好きになったかと聞かれると、別にそんなことはない。ずっと嫌いだったものをそんなに急に好きにはなれない。ただこの3日間のことは好きだった。楽しかった。行くまでの気分の落ち込みもなかったことにはならない。確実に嫌だった。楽しかったからいいや!とはならない。誰とどこに行くかが大事なので、旅行ならなんでも!みたいなことはない。とっても限定的な旅ではあったが、私にも楽しむことができるんだという光明を得たのは大きい。今年はもういいけど、来年なり再来年なり、もっと未来でもいい、またどこかに行けるかもなぁという希望を抱かされた。実際に行くかどうかは分からない。ただ希望を持ってるのと持てないでいるのとでは生きやすさがだいぶ違う。他の苦手なことも挑戦してみようかななんて気持ちにもなる。
貴重な経験だった。連れて行ってくれてありがとう。また僕をどこか遠くに連れてってくれますか?
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helloharuo-diary-2023 · 3 months
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人生の師
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Wednesday 19 February 2014
昨夜日記を書き終えた9時、茶畑温泉に行こうとすると東京に住むMMから電話が来た。彼女のお祖父さんが亡くなったそうだ。真観また1人身近な人が亡くなってしまった、と嘆いた。MMがどうして真観に電話したかと言うと少なからずとも彼女とお祖父さんとの絆を深める手助けをしたからだった。昨年一昨年とMMの依頼で年子である息子たちの小学校の卒業式の写真を撮った。その写真のワンシーンに小学校の門の前で記念撮影をした。真観はその写真を大判プリント(2セット)にしてプレゼントした。彼女は、その大判プリントを生前のお祖父さんに贈ると大層喜ばれたそうだ。更にMMが昨年帰省した折に彼女が撮影した家族+親族写真があったのだがその写真も彼女に依頼されて写っている人数分プリントオーダーし額装して上げた。これが真観とMMが" 写真で出来たこと"だった。真観はMMの役に立つことが出来て嬉しかった。
朝、禅寺に行く。昨日に引き続き寝坊をした。昨日は10分遅刻していたので今日は遅刻をしない為に車で行った。ご住職曰く、『坐禅が上手く行ったとします。次に坐禅をすると上手く行かない。そして上手くいった時の様にと工夫しようとする。それがいけない』(※言葉の言い様は少し違う)。多分それが「我」なのだろうと真観は解釈した。「我」を捨てること。「我」を観察しないこと。そういう事だと。
横着して車で行った為に朝の散歩はしなかった。だから不動の滝には行っていない。
靴磨き、部屋の掃除、整理整頓、ZenZine制作、Tumblr用複写、炊事、日記、YouTube、茶畑庵坐禅1炷・・・と次から次へとこなしていくのが楽しく感じた真観。何ごとも兀兀とやりながら前に進んで行けばいつか大きな成果に繋がる。今日一番時間が掛かったのはZenZine制作用の写真の整理。過去の大量のサービスプリントを今の感性でセレクトし再構成してZenZine制作をする。実に面白い。1日1作ZenZine制作をしようと閃いた。「一日一ZenZine」(笑)
夜、母から電話があった。今日は午後にお参りがあった様で『家に帰って来るとハルオ(真観)から手紙が届いてたよ』母は、そう言って真観の手紙の文面について話をして来た。手紙の内容から母の考え方、生き方に発展し真観は大きな気付きを得ることになった。
<エピソード> 祖父母が亡くなり30年以上が経つが2年前祖父母の荷物を片付けた時に母は、義姉に抗議の声を上げた。それは義姉の不条理な態度が原因だった。以前祖父にまつわるお金を兄弟が払わなければならなく均等に払う額が決められた。だが義姉と義妹2人が払わなかった。当時ガンの末期で苦しみ傷病手当金で生活していた父が実姉に3度お願いしたが断わられた。ある義妹Sは遠くに住んでいて負担を掛けない様にと別の義妹Yがその均等の額のいくらか余分に義妹Sの分を払ったりと助け合いもした。 (これ以上ここに書くことは避ける)
母がこのエピソードを話すきっかけは真観が手紙に書いた先頃学校で起きたエピソードが発端だった。義姉の終始一貫して変わらない身勝手な態度に長年不条理を感じている母。
人生の中で様々な場面が天から与えられそれをどう受け止めるか?人様々だがその都度反省をし勉強をし改善をし向上を目指すのが真観は人の生きる道だと思っている。それが出来ない、しない人がいる。
真観と母の親子関係は真観が10代の頃は最悪だった。一番酷い局面は真観が母に手を出したことだ。あれから30年以上が経つ今、真観はそれを悔やみ何か母に罪滅ぼしが出来ないかと自分の出来ることを母にしている。母は母で反省も勉強も改善もして来た。ここ数年母は、確かに変わった。
真観は、最近坐禅をしながら気付いた。坐禅を始めてからもうすぐ1年になるが未だ真観の悩みは無くなっていないではないか。その悩みから脱出するのにはどうしたらいいのか?母は言う、『私は考え方を変えたの』真観は、母に尋ねた。『お母さん、どうやって変えたの?』
『私は自分が可愛い。自分を可愛がる人じゃなきゃいかんよ。自分を大事にする人は進歩があると思う』補足するならば今年の4月には79歳になる母は年々歳を取ってだんだん体力が衰え健康維持が一番と考える。精神的に悩みがあると病気にも繋がる。自分が可愛いから必然的に自分を大事にする(可愛がる)。
母は、周りの人が羨むほど元気な人で病院のお世話にもなっていない。 頭もしっかりしていて背筋も真っすぐに伸びている。
考え方を変えることが出来た母。考え方を変えることで自身の世界が大きく違うことは真観だっていくつかの出来事から経験済み。しかし悩みは尽きない。しかし今回の母の言葉は真観に希望の光を与えた。『あ〜また灯台下暗しだった。人生の師はここにいた」そう思った真観だった。母は、偉大である。
母との電話は2時間半に及んだ。
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