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「こぐま座アルファ星」について、くらげさんからとても美しい感想をいただきました。 「人の心をとらえることがなければ、いくら秀でていても、誰もそれを才能とは言わない。」 その通りだと思います。ひととひととのあいだにしか生まれえないものを書きたいのだ、と最近強く思います。
【感想】こぐま座アルファ星
『こぐま座アルファ星』 著者:東堂冴さん(@todo_sae)
文フリ大阪で買わせていただいた御本でした。
以下、文章を常体に、一人称は僕で、感じたままを書いています。
一瞬でそれと分かるほどの美しさや正しさに出会う幸運が、どれくらいのひとに訪れるのだろう。 あるいは、自分の全部を賭けてもいいと思えるものに出会えるひとが、どれだけ。 そして、自分の全部を賭けたところで決して届かないものと対峙するひとが、どれだけ。 そういう意味で彼らは皆、途方もなく幸運で、幸福なひとびとだと思う。
優都というひとの美しさは、読者としての僕の目から見ても伝わってくる。というか、それはたぶん、僕が美しいと思うひとのあり方と近いものを感じたからであり、もっというなら、こういう美しさを、ほかの美しさより好ましく思う感覚があるからだと思うので、要するにただの個人的な好みでしかないと言われればそれまでなのだけれども。
ひとがひとを信仰するというのはどういうことか、実感としてはよく分からない。少なくとも、僕はそういう対象に出会ったことがない。 けれども、最後に優都が潮に言った台詞の中にあった「居場所」という言葉が、一番しっくりくるような気がしている。 居場所があるということがそのひとを幸福にするわけではなく、必ずしも良いことであるわけでもなく、そして何より、居場所があるということは、いつかはそこから出ていかなければならないということをも含んでいる。それでもなお、そこを自分自身の置き場と決めるならば、それは信仰と呼ぶものに近いのではないか、と。
最後にとりとめのない話をするけれど、人と人が出会うこともまた、才能だと思う。優都のその美しさと正しさが、潮を惹き付けた。潮以外の皆もそうだし、恐らくは、この弓道部はそうやって形作られていった。 突き詰めれば、才能というのはそういうものではないかと、思うことがある。少なくとも、ある一つの側面ではあると思う。美しさであれ、正しさであれ、人がいずまいを正して向き合い、焦がれ、あるいは時に目を背けたくなるほどのものが彼らを出会わせたのなら、それは才能だろう。人の心をとらえることがなければ、いくら秀でていても、誰もそれを才能とは言わない。優都を見ていて、そんなことを考えた。
タイトルが意味するのはポラリスであり、今のところ北極星ということになっている星だ。事実としてはそれだけだけれど、僕らはそこに何かしらの物語を見出すことが出来る。美しいタイトルだと思う。
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8月~10月にかけて、3つほど毛色の違う創作イベントに足を運んだのでそれぞれレポを書きます。なんとイベントのレポを書くのは2014年の第2回文学フリマ大阪以来です。3つぶんあるので長いです。
<参加イベント> 8月19日 コミティア125(一般参加) 9月9日 第六回文学フリマ大阪(サークル参加) 10月7日 尼崎文学だらけ(サークル参加)
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2018/08/19 コミティア125@東京ビッグサイト(一般参加)
■出発 8月の半ばに実家に用事があって東京に帰ったので、そのついでのコミティア一般参加でした。関東の創作イベント、すごく昔(まだ東京住んでた頃だと思う)にJ庭に一度行ったことがあるくらいだったのでわくわ���しながらビッグサイトに向かいました。ちなみに、ビッグサイトも初体験でした。実家江東区なんですけど。なのでビッグサイトまでの交通手段は都バスです。
■所感 わたしが経験したことのある創作イベントって、サークル参加が文学フリマ大阪・京都で、一般参加だけなのがJ庭、関西コミティアという感じなんですが、東京のコミティア、規模が違いますよね。文フリが、OMMビルになった今年で400とかじゃないですか。その10倍以上のサークルがあるわけで。見本誌置き場なんてもうごっちゃごちゃに本が入り乱れているわけで。本がどさどさと積まれている光景、なんかちょっと悲しかった。「モノ」感があって。いやモノなんだけどね。 突発的に参加を決めたので、TLで宣伝してらしたフォロワーさんのブース以外はろくにサークルチェックしてなかったのですが、見本誌を見る→気になったブースに行く→また見本誌に戻る、みたいな文フリ気分の回り方をしていたら一瞬で疲れました。
■作品の印象 東京でやってるコミティアは小説は小説でまとまって配置されている(らしいとあ とから聞いた)ので、決め打ちしていたフォロワーさんのブースにお買い物にいったあと、その付近をうろうろしていたらわりと小説のサークルさんは眺められた気がします。簡単な印象ですけど、文フリよりも装丁の凝った本が多いな、と思いました。表紙のデザインがしっかりしてるとか。どうしてもイラストとか漫画とかの方が強いイベントですし、ぱっと目をひく華やかな本を作りたい、見た目にもこだわりたい、という方が多いのかなあ、と。きれいな本が多くて見ていて楽しかったです。今度はちゃんと勉強してから行きます。 ■戦利品

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2018/09/09 第六回文学フリマ大阪@OMMビル ■出発 文フリ大阪は、第二回、第五回がサークル参加で、第三回は一般で行っているので通算四回目です。初めてサークル参加したイベントなので、そこはかとないホーム感がありますが、今年から会場が変わって、最寄り駅がなかもずから天満橋になりました。京阪で一本で行けるので、京都の民としては感謝しかありません。 行く前にtwitterで散々わめいていた(すみません……)のですが、翌日の9月10日から大学院の用事で九州に滞在しなければならず、新刊の校正をしつつスピンオフ冊子やお品書きやらを作りつつ、院の研究の修羅場に生死の境をさまよっていたので、一度挫折しかけて中身が出来ているのにあわや新刊を落とすみたいな事態になりかけたのですが、なんとかなってよかったです。励ましてくださった方々ありがとうございます。
■会場 というわけで、四泊五日分の荷物とスーツと新大阪→博多間の新幹線のチケットを携えて天満橋に向かいました。アクセス良すぎて感動しました。 会場は断然いままでよりも広かったわけですが、A-15という壁際のブースだったので気分としてはわりと落ち着いていました。ただ、チラシコーナーが会場の反対の壁際だったりしたので、端から端まで歩くとやっぱり距離があるな……という感じ。これ全部文芸系のサークルなんだなあと思うとすごい話ですよね。東京とかはもっと多いんでしょうけども。
■ブース運営の感想

初めてポスタースタンドなるものを導入しました。 (背景の荷物があまりに汚いな……)
人が多い! 一般来場客の方も去年と比べてかなり多かったような気がしました。ブースに立ち寄ってくださる方の総数もたぶん多かったと思います。決め打ちで来てくださる方も一定数いらっしゃいましたが、ブースの前で立ち読みしてくださる方もうちの場合はそれなりにいました。いままでの三回の中ではいちばん忙しかったです。ありがたいことです。ほんとうに。途中おにぎり食べながら接客しててすみませんでした。 なんというか、イベントが大きくなるって売り上げに対しては一長一短な気もしていて、来場される方の数が増えれば当然買っていただける数も増えるはずなんですけど、同時にブース数も増えると、ふらふらと立ち寄っていただけることが減るわけなんですよね。みんな最初から決めてたやつしか買わない、みたいな。うちのブースに関して言えば、今回くらいの規模がいい塩梅だった気がします。思った以上に既刊も動いたので、新規の方もいらっしゃっただろうと思いますし。純文はサークル数もそんなに多くないからかな。 数十分前に本を買って行かれた方が、戻って来られて、「ちょっと読んだけど、良いですね」みたいなことおっしゃっていただいたりとかあると、書いててよかったしイベント出てよかったな……って心底思います。そういう善意に生かされています。いつもお世話になってる方の「新刊買いに来ました!」もめちゃめちゃうれしいです。ありがとうございました。 お隣さんともいろいろお話させていただきました。両隣とも男性のサークルでした。そういえばコミティアの小説のあたりってかなり女性が多かったような気がする(気のせいかな)んですが、わたしは文フリ参加するとき結構男性の方とブースがお隣になることが多いです。純文だからなんですかね。文フリは、性別も年代も多様で、いろんな方とお話しできて楽しいです。
■買い物 買い物に出かけるタイミングがあまり掴めず、フォロワーさんのブースをダッシュで回って、決め打ちしてたやつとちょっと見本誌コーナーを見て気になったのをいくつか買いに行って、あとはずっと自分のブースに張り付いていました。買い忘れが相当数あったんですよね……反省。新刊を出すときのイベントにぼっち参戦は厳しい。 文フリは、コミティアと比べるとやっぱり純朴というか、中身勝負の本が多い印象がありますし、特別目を引くとかでもないすごくシンプルな装丁の本でも売れるものは売れるんだろうなという印象があります。読む側もそんなに外側を気にしないひとも多いというか。ただ、四年前とかと比べるとそれでも凝った本が増えたなっていう勝手な印象もあったりします。四年前はこんなに文庫同人誌多くなかったと思うんですよね。文フリ大阪も、こなれてきたなあっていう感じがします。だれ目線やねんって感想ですが。まああと、ティアみたいに乱雑に見本誌が積まれてたりとかは(わたしの見た限り)しないですよね。「本」という物体へのリスペクトがあるイベントだな、とは思っています。結構前から。
■売った本のはなし 思えば、第二回は『おぼえていますか』、第五回は『虹彩・太陽をうつすもの』、そして今回は『こぐま座アルファ星』と、わたしの発行した同人誌はすべてイベントの初出が文フリ大阪なんですよね。それはホーム感があるはずだ。というわけで今回の新刊は高校弓道部の青春長編小説でした。純文学スペースでよかったのか?と思わないでもないですが、純文のところ居心地いいんですよね。機会があったら大衆文学で出店してみたいような気もします。 売り上げについてですが、アルファ星>>おぼえていますか>虹彩の順でした。『おぼえていますか』がいまだに結構有意な数出るのがうれしい誤算というか、わたしの創作活動はこの本で始まって、この本に支えられているなあという感じがします。新刊の『こぐま座アルファ星』も、今回はじめて、Webで全編公開している作品を同人誌に再録したので、全然でなかったらどうしよう……と若干心配していたのですが、杞憂で終わってほっとしています。ほんとうにありがとうございます。 これは去年も思ったんですが、文フリ大阪って書評が売れるんですよね。三年とか前に出したサリンジャーの書評、大阪では決め打ちで買いに来られる方が結構いるんです。見本誌出してないのに。書評読みました、も何人かの方から言っていただきました。 なんやかんや、『虹彩~』も、いちばん少なかったとは言っても既刊のわりには動いていましたし、総数としてはいままでで断トツ売れました。会場が大きくなったパワーですかね。買ってくださった方とも少しずつお話しできたりしてとても楽しかったです。本が売れる瞬間に生きててよかったってわりと本気で思います。

■その後 段ボール二箱に本と設営道具と戦利品と、九州に持っていく必要がないものをすべて詰めて京都に送り返し、天満橋から新大阪に移動して、新幹線で博多に向かいました。(どうでもいいですけど)人生初九州でした。食べ物めっちゃ美味しかったです。文フリの戦利品(本)は京都に帰ってから受け取りましたが、会場でいただいた差し入れ(食べ物の類)は全部九州に持って行って滞在中にほぼ食べつくしたので写真はないです。ごめんなさい。ありがとうございました。 ■戦利品

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2018/10/07 尼崎文学だらけ@近松記念館 ■出発 あまぶん、出てみたい!と思ってサークル参加の申し込みをしたあとに、フィギュアスケートの町田樹さんの引退公演見に行きたいな~と思ってなにも考えずにチケットを取ったアイスショーの日程が、10月6日(@さいたまスーパーアリーナ)だったことに気付いたわけですね。ちなみにわたしの居住地は京都です。わたしの人生はこういうことが多いです。反省します。 ともあれ、別にどっちも行きたいしどっちも行けるんじゃない?と思った結果、6日の昼にぷらっとこだまで京都から東京に向かい、夕方から埼玉でアイスショーを観て、深夜に池袋から夜行バスに乗って7日朝に三宮着、三宮から尼崎に出てバスで近松記念館、というスケジュールが爆誕しました。帰りは記念館から塚口駅、大阪、京都というルートで帰洛したので見事な一筆書きです。 ちなみに完全に余談なんですけど、朝、どうしてもお風呂入りたくて探したんですが、三宮駅から10分弱くらい歩いたとこの「神戸クアハウス」というカプセルホテルの日帰り入浴、学割500円でめっちゃ広いお風呂(温泉)と、ドライヤー化粧水乳液置いてるパウダールームあってすごく快適でした。持ってきたコテも使わせてもらえた。学生じゃないと980円だったかな。でもお風呂入って着替えてメイクできるのいいですよね。
■会場 あの、実家の近所にあったそろばん教室(通ってたわけじゃないけど)みたいな、そういう和室のお部屋でした。そろばん叩く机みたいなやつに設営しました。まあなんとか置けるでしょ、と高をくくって持ってきたらかなり限界設営にはなりましたが、ぎりぎり五種類置けました。(開始ぎりぎりに会場に滑り込んだので設営の写真撮り損ねましたが……)今回は、店番なしで会計は主催のにゃんしーさまがまとめて行ってくださったので、我々は開始と同時に解き放たれて、ポエトリーリーディングを聴いたり見本誌を読んだりしながらのんびり過ごしていました。 即売会の会場はそろばん教室みたいなところで、その横に、実家の近所にあったECCジュニアの教室(こっちは通ってた)みたいな狭めの会議室風のお部屋があって、そこで本を読んだり、お喋りをしたりしていました。わたしも、買った本を二冊くらいその場で読みました。
■イベント全般の感想 なんというか、ほんとうに全体的にのんびりとした雰囲気で、参加者の方といろいろなお話をしました。フォロワーさんにおひるごはん誘っていただいて、初対面の方も含めて数人で外にごはんを食べに行ったりとかできたのもとてもいい経験でした。知り合いが増えた。うれしい。一般参加者の方がそれほどたくさんいるわけではない印象でしたが、サークルで来ていたひと同士での作品の売買は結構あったような雰囲気でした。 文フリみたいなブースにずっといるイベントですと、他のサークル参加者さんとお話しする機会って(わたしが人見知りなのもありますが)あんまりなくて、お知り合いの方や好きな作家さんのブースに行っても、あんまり長くブース前を占拠していられないので軽い挨拶と差し入れくらいで去ってしまうわけなんですが、その点あまぶんではサークル参加者さんといろいろなお話ができました。その反面で、文フリとかだと、買ってくださった方については(会話があるにせよないにせよ)全員お会いしているわけなんですけども、あまぶんでは会計を主催のかたにしていただいているので、どなたが買ってくださったのか? というのは基本わからなくて、買ってくださった方との交流は薄いわけです。そのあたり、いつものイベントとはまったく逆の構造だなあなんて思ったりしていました。そういう機会ってなかなか得られるものじゃないですし、とても新鮮で楽しかったです。 ポエトリーリーディング、わたしはあまりなじみのある文化ではなくてあんまり具体的な感想は言えないのですが、BGMのように音楽と詩が流れてくる空間は心地よかったです。歌を歌うとかともまた違う、言葉を音によって届ける方法っていうのがあるんだなあ、というぼんやりとした感想ですけども、そういうのも技術だよなあ……と思いました。未知との遭遇みたいな感じでしたが、こういう機会に触れることができてよかったです。
■売った本と買った本のはなし ラインナップは9月の文フリ大阪とまったく同じです。主要三種の売上順も同じでした。やっぱり『おぼえていますか』のほうが『虹彩~』より動きますね。うちのフロントマンです。ちなみに、『おぼえていますか』は現在第3刷なのですが、今回のイベントで残り1冊となり、あまぶん後の通販で完売御礼です。ほんとうにありがとうございます。増刷は文フリ京都合わせてしたいなあとは思っていますが確定ではないです。 文フリ大阪で買い損ねたから、と『こぐま座アルファ星』を買ってくださった方も何名かいらしましたし、まったく初対面の方に買っていただいた分もあって、イベントの規模のわりに新刊・既刊とも動いたかな、と思います。サークル参加している方々がゆっくり本を選んで買う時間があった、というのが大きいように思いました。通販で買ってくださった方も何名かいらっしゃったようで、 わたしもだいぶゆっくり本を選んで買わせていただきました。前から気になってたんだよな~みたいな本の見本誌を時間をかけて読めたり、気になった本の見本誌を片っ端から開いたり、時間がなければできない本の選び方ができたのでとても満足です。
■その後 打ち上げのおすしめっちゃ美味しかったです。あんまりお酒飲む方じゃないのもあって、打ち上げって基本その場にお金払ってるつもりだったので、こんなにコスパのいい打ち上げ久しぶりでした。 あまぶん、前からtwitterのTLでは噂を聞いていて、楽しそうだなあ関西にいるうちにぜひ参加したいなあと思っていたので、このたび念願かなってとてもうれしいです。いろいろな方とお話しできて、お知り合いになれて、とても楽しかったです。主催のにゃんしーさまはじめ、みなさまに感謝の限りです。 ■戦利品

(この三か月でわたし何冊買ってるんだ……?)
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今後の活動予定ですが、次回は、年明け、2019年1月20日の文学フリマ京都に参加します。新刊の予定はないです。たぶんあと1年は、アルファ星みたいな大きい新刊は出ないです。(もともと筆が遅いので……)Regulusみたいな細かいものは適宜検討します。 ただ、このたび、「PortRay」というアンソロ企画に参加させていただくことになりまして、こちらのアンソロが来年5月の第二十八回文学フリマ東京で頒布される予定ですので、そこに作品を寄せさせていただきます。わたしもいずれ一度くらい文フリ東京出てみたいです。
みなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 ---------------------------------------------
*通販 BOOTHよりお求めください。
*イベント頒布作品一覧 『こぐま座アルファ星』(2018年9月) 『Regulus / Sirius』(2018年9月) 『虹彩・太陽をうつすもの』(2017年5月) 『おぼえていますか』(2014年9月) 『They were made from Glass ――グラース姓の子どもたち』(第2版 2017年9月)
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Sirius
翠ヶ崎に入学して、初めて他校という立場から��林の試合を見たとき、二年前までは毎日のように見ていた奴らの弓が、どこか知らない人間のもののように見えたことをよく覚えている。俺の知らない間に彼らが上達した、という当たり前の事実を差し引いてもだ。それは、離れたことによって客観的に見られるようになったからだとか、俺が翠ヶ崎のやつらに影響を受けてすこし感覚が変わったからだとか、いろいろ理由はあったのだろうし、たぶん、そう見えるほうが普通なのだろう。そんな中で、ひとりだけ、俺があの場所にいたときからなにも変わらない弓を引く男がいた。あいつの弓だけは、どれだけの時間を置いてから見たとしても変わらないのだろうと、松原光暉はそういう意味での信頼だけは確実における人間だった。
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六月の都総体で風間が個人戦での出場権を勝ち取った全国総体(インターハイ)は、今年は北信越での開催で、弓道の会場は長野県だった。団体戦であれば部全体で応援に行けたのだろうが、試合に出るのが風間ひとりという状況で部を丸ごと長野に連れて行くことはできない、というのが学校の見解で、仕方ないと現役の部員たちも納得はしていた。ただ、弓道の指導ができない顧問ひとりが引率するというのも心もとないのは事実だ。顧問の方から、「コーチ代わりにひとり付いて来てくれ」とのお達しがあり、内部進学を決めていたから引退後完全に暇を持て余していた俺に白羽の矢が立った。もっともその話は、俺と森田が同時に呼び出されて聞かされ、森田も当然行きたがったのだけど、なにやら大事な模試と日程が重なっていた���しく風間に「受験勉強してください」と一蹴されていた。 「引退した身で行くのなんか申し訳ないけど……坂川とかじゃなくていいの?」 「古賀さんのが上手いですし」 「相変わらず身も蓋もねえなおまえは」 おまえがいいならいいけど、と言えば、風間は浅く頭を下げて、「よろしくお願いします」と言った。風間本人が言い出したことでもないだろうし(本人はきっと、指導ができる人間が付いて来ようと来なかろうと構わない、と言っただろう)、俺自身も純粋にインターハイは観戦したかったから役得だと引き受けた。
森田には最後まで「いいなあ」と言われ続けながら向かったインハイの会場では、顧問の手伝いで雑用をしたり、風間の試合前の練習に付き合ったりとそれなりにすることは用意されていた。風間は特に緊張するそぶりも見せずに行きの新幹線では爆睡していたし、試合の前日の練習でも、普段とさして変わらない態度で弓を引いていた。 「おまえ緊張しねえの?」 夕飯の席でも、神経質になるような雰囲気もまるで見せずに山盛り二杯目の白米に手を付け始めた風間に思わずそう聞いたところ、風間は意外にも即答で「しますよ」と答えた。 「前日とかはそうでもないですけど」 「直前までしねえのもすごいと思うわ」 「まあでも、まったくしないってことはないです。……そういうのもいるじゃねえすか。松原さんとか」 「ああ――光暉な、そうだったな」 風間が名前を挙げたのは、都総体で個人戦も団体戦も優勝を果たして、その両方で今回のインターハイに出場する俺の元同期だ。光暉は半年前の全国選抜も風間と一緒に出て全国の舞台で準優勝を勝ち取っていたし、インターハイは去年に引き続き二回目だ。中学時代も、彼は団体戦では二回、個人戦では三年生の一回、全中に出場している。 「古賀さんって、中学の時、団体で松原さんと同じチームいたことありますっけ」 「あるよ。いちばん調子良かったときだけだけど」 思い返せば、光暉は緊張や重圧とは無縁の選手だった。「できるんだからやればいいじゃん」と、なんの疑問も持たずに言ってのけて、それを実行してしまう男だ。当時、俺はひとつ上の先輩を蹴落として得たレギュラーの座に居ることにかなりプレッシャーを感じていて、射込みでは調子が良くても立の練習になると途端に的中率が落ち込む傾向があった。それを同じチームで同期だった光暉に相談したとき、返って来た言葉をいまでも覚えている。彼は、心底不思議そうな顔で、俺に「なんで?」と聞いたのだ。「射込みで中るなら立でも中るし、練習で中るなら本番でも中るだろ」と、光暉は当たり前のような顔で首を傾げていた。 「おまえもおまえで精神力すげえなと思うけど、光暉のあれはまた違った気がするわ」 「わからないでもないです。射詰とかで、松原さんの隣嫌ですし」 「おまえでもそう思うんだ」 「自分があんま調子よくねえとき、隣にあのひといんの嫌じゃないです?」 「わかる。すげえ嫌だった」 光暉の弓を見るたびに、彼の隣に立っていた時期の自分のことを思い出す。それくらい、いまでも四年前と変わらない弓を引いている。あいつの弓に、風間の弓のように強烈な美しさを感じたことはないような気がする。森田の弓のように清冽に整っているわけでもない。ただ、あの男は、特に理由も理屈もなく、葛藤や懊悩もなく、いつでも変わらず強いだけの人間だった。光暉はきっと、他人の弱さも苦しみも、理解ができないどころか、その存在にすら気付かない。いまも昔も。 「あのさ、風間。後輩に言うことじゃないのわかってんだけど、ちょっと俺の自己中な頼み聞いてくんねえ?」 「内容によりますけど」 「まあ、そりゃそうだな」 相変わらずの不遜な返事を笑いながら、矢崎が風間を気に入っている理由がわかる気がする、と勝手に合点がいった。敵を作ることを怖がらない人間は強いと思う。風間は、ひとが自分を好くことにも嫌うことにも基本的に頓着しないけれど、自分に向けられたそういう視線に決して鈍感だというわけではない。むしろ、よくわかっているほうだと思う。わかっていて引き受けるのだ。 「――光暉に勝って」 俺が、言葉にするべきことではないのはわかっていた。自力でどうすることもできなかったことを情けないとも思った。それでも、他の、縁もゆかりもないだれかにではなくて、風間に、あいつに勝ってほしいと思ったことも事実だ。風間は特に表情も変えずにしばらく俺の顔を眺めたあと、「松原さんに恨みでもあるんすか」と問うた。 「いいやつだとは思うし、普通に友人ではあるつもりだけど、正直私怨はある」 「まあ、知らんとこで恨み買いそうなひとではありますよね」 「おまえが言うかよ」 しれっとした表情でそう言ってのけた風間は、いつの間にか茶碗を空にしていて、湯飲みに少しだけ残ったお茶を飲み干した。 「言われなくてもそのつもりですよ」 「すっげえ頼もしいわ」 こういうふうに、素直に自分の実力を認められる選手でありたかった、とは思う。そういうやつらへの嫉妬もあるし、光暉のことを純粋に尊敬だけしていられなかった理由のひとつもそれだ。ただ単に、実力ひとつでこの場所に辿りつくことができて、その先を当たり前に見据えることができるやつらのことが羨ましいとも思う。俺は、本気でここに立つために全力を注いですべてを捧げる覚悟ができなかった。できていたら、光暉の隣から逃げるという選択は、きっとしなかったはずだった。
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櫻林高校弓道部は都内では屈指の名門で、毎年のように全国大会への出場枠を勝ち取ってはいるものの、ひとたび全国の舞台に出れば目立って強豪というほどの実績があるわけでもなく、個人でも団体でも全国制覇の経験は創立以来一度もない。そんな中で、冬の全国選抜で準優勝を勝ち取った光暉には、このインターハイで、櫻林高校初の全国制覇の期待がかけられていたはずだ。彼は昔から、負けることを「悔しい」と口にすることはあったものの、「勝ちたい」と言葉に出すことはほとんどない選手だった。だから、光暉が勝つことに対してどういう思いを持っていたのかを俺は知らない。ただひとつ、俺にでもわかることは、彼は自分の弓を追求するだとか、そこに矜持を抱くだとか、そういうことに関してはひとつも執着がなかった。光暉が弓道に関して、過程であろうと結果であろうと、なにかにこだわるところを俺は見たことがない。 それと比べると、風間はあまり自分から言い張ることはないながらその実かなり頑固な人間で、だれになにを言われても、最終的には自分の思ったことはほとんど曲げない。それでひととぶつかったとしても、それは仕方ないと割り切ってしまうのだ。だからこそ風間の弓は鮮烈なのだと思う。それをことさらに語るわけではないけれど、彼の引く弓の後ろにはたしかに揺るがない矜持がある。ただ純粋に、眩しいまでの。 弓道の個人戦は、初日の一日だけで予選から決勝まですべてが終了する。予選、準決勝ともに三中以上を達成すれば全員が決勝の射詰に進出するインターハイのルールでは、必然的に射詰の人数が多く、順位が決まるまでが長い。最終的に、優勝者が決まったのは九巡目が終わったときだった。なお三人が残っていた九巡目の行射で、二人が連続して外したあと、本日の十七射目を、光暉はやはりいつもと同じように打ち起こして、いつもと同じ呼吸で、表情で、小的のど真ん中を射貫いた。その直後、少しだけ彼の表情が満足げに緩んだのが見えて、そういう感慨はあるのか、と思った。 「お疲れ、風間。入賞おめでとう」 「どうも。後半バテました」 「そんな感じだったな。でも、十分立派だろ」 風間は、予選、準決勝は皆中と、調子が良さそうに決勝進出を決めたものの、的が小的に変えられた五射目に危なっかしい中り方をしてしまってから安定感を欠き、結局七射目を外して五位だった。二年生の風間にとっては、そもそもインハイの個人戦に出ているだけでも快挙だし、そこで五位入賞を勝ち取るのは並外れた成績ではあるものの、風間自身が満足していないのは明白だった。 「半端ねえっすね」 ぼそりと風間が呟いたその言葉がなにを指しているのかは、言われなくてもわかった。「敵わない」に比するような言葉を風間はだれに対してもまず言わない。そういう男の口から零れ出たその一言が、あいつの怪傑さをなによりも端的に表現していた。
*
「風間じゃん、お疲れ」 個人戦の表彰式が終わったあと、団体戦のない俺たちは東京に帰る準備を始めていたところで、ふらりと光暉が姿を見せた。櫻林初の全国優勝と言うとんでもない快挙を成し遂げたあととは言え、櫻林は明日からの団体戦を控えているから、あまり羽目を外して騒ぎ続けるわけにもいかないのだろう。風間は光暉に向かって軽く頭を下げ、「おめでとうございます」とだけ言った。 「おまえと一騎打ちしたかったけどな。つーか、なんで雅哉だけ居んの? 森田とかは?」 相変わらずけろっとした表情で物を言う光暉に、俺からも「おめでとう」を言って簡単に事情を説明すると、光暉はそれ自体には大した興味も抱かなかったようで、「ふうん」とだけ言った。 「じゃあ、団体は見ていかないんだ」 「東京帰ってライストかなんかで見るわ。頑張って」 「なんつーか、翠大附が、団体出れなかったのも惜しかったよな」 光暉は風間と俺を交互に見ながら、すこし肩を竦めてそう言った。 「個人戦の戦績、五位以内に二本入ってたの翠大附(おまえら)だけだよ。三人立だったら、たぶん団体も翠大附だったんじゃねえかな」 「櫻林や泉谷みたいに、人数多くて、試合ごとにそんとき調子いいやつレギュラーにできる学校とは違いますからね」 「それにしても、個人戦二位三位って面子なのに、森田がここにいねえのなんかかわいそうってちょっと思った」 かわいそう、とあまりに簡単に口にする光暉に、そういうところも昔から変わらないな、と実感した。かつて同じチームにいたとき、団体戦が準決勝で競り負けたことがあった。光暉はあっけらかんと、「あと一射あればよかったのにな」と俺に言った。自分は皆中だったうえで、彼は皮肉でも嫌味でもなく、あっさりとそう言ってのけてしまえる人間だ。 風間は光暉の言葉に特別反応は見せなかったけれど、同意もしなかった。ただ、「五人揃えるのは楽じゃねえっすよ」とだけ言った。 「風間、おまえさ、そういうのわかってて、なんで翠大附行ったの? そりゃ、個人で見れば森田も雅哉も弱くはないけど、団体で勝つのはしんどいのわかりきってたじゃん」 ずっと思ってたんだけど、と光暉は問うた。いまここで聞くか、とは思わないでもなかったけれど、それはたしかに俺も気になっていたことではあった。風間ほどの実力の選手が、どこかから推薦の話を持ち掛けられなかったわけがない。それこそ、都内どころか、全国制覇の常連のような高校からだって声がかかっていてもおかしくないはずだ。 「弓道のレベルよりも学校の偏差値をとっただけです」 風間の答えは簡潔で、それを聞いた光暉は「なるほど」と笑った。風間は、あまり自ら誇示はしないものの、特定の分野に関しては抜群に頭がいい。文系科目は壊滅的なものの、理数系の成績はほぼ学年トップを独走状態だと聞いたこともある。森田に関してもそうだけれど、彼らにとって弓道は、自分の能力のすべてではまったくないのだ。彼らは決して、弓道のために翠ヶ崎にいるわけではない。ただ、翠ヶ崎という場所に身を置いたうえで、弓道に献身を向けるのだ。光暉や俺と、風間や森田とではそもそも前提にしている条件が違う。 「他の強いとこ行ってれば、って思わねえもんなんだな」 「そうっすね。特別翠ヶ崎でよかったとも思わないですけど、後悔はしてないですよ」 なんの感慨もなさそうなその言葉が、きっといちばん真摯な感情を含んでいるのだと思う。光暉は「ならいいけど」と肩を竦めた。 「おまえは? 辞めたの、後悔したことないの」 光暉が俺にも投げてきたその問いに、俺は風間のように単純な感情だけでは答えを出せない。櫻林を辞めたことが、正解だったと自信を持って言えるわけではない。俺は松原光暉にはなれなかった。隣で競い続けることもできなかった。そのことはいまでも悔しいと思う。あそこで、重圧にも期待にも嫉妬にも潰されずに、なににも揺らがされずに、高いところだけを目指して頑張れていたら、その方が正しい道だったのかもしれない。 「辞めるしかなかった、自分のことが嫌になったときはあるよ。ずっと、そっちで続けてられるくらい強かったらよかった、とも思うし。でも、――俺は実際そうじゃなかったし、だから、辞めなきゃよかったと思ったことはない」 「ふうん? おまえは、全国行きたいみたいのなかったの?」 「そりゃあ、あったよ。……あったけど」 この男に、自分の本心をさらけ出すことがあまりに無意味だということを俺は知っているはずだった。光暉は、外側から潰される人間の苦悩がまったく想像もつかない側の人間で、だからこそ、精神力だとかそんな不確かなものに左右されずに圧倒的に強い。 「でも、おまえたちとよりも、森田や風間と行きたかった、って思うよ」 光暉はやはり、俺の言葉にあまり興味もなさそうに、もう一度「ふうん」と言った。風間は相変わらず表情も変えずに、それでも俺たちの会話を聞いていた。会話の途切れた一瞬の沈黙を破ったのは、意外にも風間の声だった。 「松原さんは、なんで弓道やるんですか」 風間がそういう、感情に根差した問いを他人に向けるのは珍しいと思った。それくらい、風間にとっても、光暉は腹の内が読めない相手なのだろう。 「やれることがあったら、やるじゃん。他になんかある?」 光暉はその問いに、一瞬目を丸くしてからそう答えた。風間は薄く笑って、「らしいっすね」とだけ言った。強い人間は、ただそれだけで強いのだから残酷だ。理由だとか、哲学だとか、執着だとか矜持だとか、そういうものは、強くあるための条件にさえならない。そういう人間がこの世界にはたしかにいるのだ。とうに納得していたはずの事実でも、こうやって眼前に突き付けられると、やはりどうにも眩暈がした。
光暉が櫻林のメンバーの元に帰ったあと、風間と二人で顧問の先生との合流場所までお互いに会話もなく歩く。風間はもともと饒舌なほうではないから、二人でいるときには会話などないことのほうが多いくらいだけれど、いまはすこしだけ静寂が落ち着かなかった。 「なあ、風間。おまえは、なんで弓道やってるの」 名前を呼んだ声がわずかに上擦ったけれど、風間はそれには気付きもしないようなそぶりで俺の方を向いた。光暉に聞くくらいなのだから、風間自身はその問いに答えをもっていてもおかしくない。けれど、そういうものをはっきりと言葉にするような人間にも思えなかった。風間は俺から視線を外し、何歩か足を進めた後に、鷹揚に口を開く。 「これと言った理由を、考えたことはないですし、それこそ、やれるからやってる、って言われたら俺もそうなのかもしれないですけど」 風間が、自分の感情について語る姿をあまり見たことがなかった。本人もきっと得意ではないのだろう、いつにもまして一言と一言の間が長い。 「でも、代替できるものだと思ってたら、わざわざ嫌いなひとと一緒にはやらねえだろうなとは思いますね」 「――そっか。なんか安心した」 なにもかもを意に介さないほど、蹴落とすことにも蹴落とされることにも残酷なまでに無関心であれるほど強くはなれない。だとしたら、せめて、自分の弓に、自分が弓を引くことに意味を見出すことのできる人間と一緒にいることを選びたかった。翠ヶ崎の中では、風間がいちばんそれに遠いと思っていた。それでも、風間が光暉と似ていると思ったことがなかった理由は、その言葉の中にあるのかもしれなかった。 「おまえは内部進学すんの?」 「いまのところは、外を受けるつもりです」 「そっか、あんまだれも残んねえのな。……おまえとも、またいつか一緒にやりたいな」 俺の呟いた言葉に、風間はやはり感情を乗せない声で「そうですね」とだけ言った。ほんとうにそう思っているのかどうかは知らないが、形だけでも同意が返ってきたことに意味があるような気もする。角を曲がる寸前、風間が一瞬だけ、先ほどまで試合が行われていたインターハイの会場に視線をやったのが見えた。 「来年はおまえが優勝しろよ」 激励も、信頼も、なくたって風間は強いと思う。必要とされているとも思わない。それでも、そういうものが伝わらないわけではないということも、ようやくわかってきたところだった。器用でもないし愚直に真摯というわけでもないけれど、他人が自分に向けた言葉も、その意図も、風間は表に見せている以上によくわかっている。聡い男だ。 「――そうすね。今回は、古賀さんの頼み聞き損ねましたし」 「はは、ありがと」 もう、風間とそう頻繁に人生が交わることはないのだろう。たぶん光暉ともそうだと思う。どういう感情を抱いていたとして、決して小さくない存在だったことは事実だ。そういう、強烈な存在を近くで見ていられたことを、その経験の得難さを、いつか実感しなおす日が来るのだろうか。 「おまえには、弓道、辞めないでほしいよ。卒業してからもずっと」 感傷にまみれた俺の言葉に、風間は一瞬こちらに視線を向けたものの、返事はせずにまた視線を逸らした。そのまま、互いにどこともつかない場所を眺めながら歩き続ける。取り戻された静寂は、今度はどうにも破りようのない均衡を保って広がっていた。
2018/09/09
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Regulus
潮が舞台の上で楽器が吹けなくなって、曲の頭のソロで音を止めて、そのまま動けなくなったあの日、先生や俺たちになにを言われても俯いて無言で首を振るしかできなかったあの日、胸のうちにあった感情がいまでも半分も言葉にならない。なんでだよ、説明しろよと思った。俺らが何日も何週間も苦労してきたことを、いままであんなに簡単そうにやっていたくせに。どうして今日に限って、と。そのあとに、ちょっとだけざまあみろと思った。なにをやらせてもだれよりも上手くて、そのくせ舞台の上以外ではいつもへらへら笑っていたから、一度くらい痛い目を見ればいいのに、とすこしも思わなかったとは言えない。成功ばかりの人間に失敗を求めるような、そういうまっすぐでない感情もたしかにあった。あとは、悔しかった。結局なにを憤っても妬んでも恨んでも、俺はあのとき潮の代わりはできなかった。曲が止まったあの瞬間、ただ茫然としているしかできなかった。ほんとうは、潮を責める権利はなかった、のかも、しれない。他はよくわからない。なにもかもに戸惑っていた。なにもかもがわからなかった。いまでもずっとわからない。
* *
所属していた学校は小学校から高校まですべてが吹奏楽の強豪で、途中から本格的に音楽の道に進み、ゆくゆくは著名な音楽家になるような人物を何人も輩出するような場所だった。小学校のクラブでさえ、ただ楽器を演奏するだけに留まらず、楽典を基礎から叩き込むような指導が行われていて、学校の授業が終わったらほとんど毎日音楽室に缶詰で、おおよそクラブ活動の範囲には収まりようもないほど密度の高い練習を重ねていた。当然、遊びたい盛りの小学生が簡単についていけるような内容ではなかった。小学校四年生でクラブに入ったあと、座学の基礎が十分なレベルに達するまでは楽器を持たせてもらえなかったし、最初は何十人もいた同学年の仲間の中で、自分の楽器を割り当てられるところまで行けたのはその半分もいなかった。その中で舞台に立つことを許されるのはもっと少なかった。たとえ人数が足りなくなったとしたって、見合う実力のない人間が台に乗ることは決して許されなかった。そこに選ばれることには努力も年齢も関係なく、評価は冷徹だった。もう、あまりはっきりとした記憶もないくらいの頃から、そういう場所で楽器を吹いていた。 小学校時代の同期に、ひとりだけ、俺たちとはまるで才能の違う男がいた。俺たちが国語より算数より苦しめられていた楽典のテストを、繰り上がりのない足し算でもするかのようにするすると解き、聴音もソルフェージュも間違うところを見たことがなく、その場で一度聴いただけの曲をいつでも完璧にピアノで再現することができていた彼は、俺たちよりも先輩よりもだれよりも圧倒的で、けれどいつでもそのすべてを当たり前のような顔でこなしていた。彼は入って一週間で楽器を手渡されていた。一つ上の先輩が、ずっと、やりたいと言って頑張っていたアルト・サクソフォンだった。その先輩が次の日からクラブに来なくなったことに先生は触れなかったし、そいつも――坂川潮というその男も、やっぱり当たり前のような顔をして、ほかの先輩たちに混ざってサックスを吹いていた。 俺が目にしていた限りでは、彼は渡された楽譜に目を通した時点でどんな難しい曲もひと通り吹き通すことが出来ていたし、潮が曲に技術が追いつかず困るところを見たことはなかった。クラブに入る前から少しサックスを吹いていたことがあるのだ、という話は本人から聞いた。思えば、当時、アルト・サックスのあの最後の一席はおそらく潮のために残されていたのだ。俺たちや、先輩たちの努力や気持ちの強さというものは、あいつの実力の前ではなにひとつ価値がなかった。潮は入って半年で演奏会でのソロを勝ち取った。だれも文句が言えなかった。 俺たちがようやく楽器を手にすることができるようになったとき、吹奏楽の花形であるはずのアルト・サックスを希望する人間はほとんどいなかった。台乗りできる枠が最初からひとつ埋まっているのだから当然だ。それでも俺がサックスを選んだのは、たぶん、あいつの隣に座ってみたいという思いがどこかにあったからだ。どちらかといえば畏怖のほうが大きかったとはいえ、憧れていないわけもなかった。そこに近付いてみたいという感情があった。 潮は実際にそばに寄ってみれば、思った以上に快活で厭味のない性格をしていて、楽器のことも音楽のことも、聞けばかなり親身になって教えてくれた。その反面、譲らないところは決して譲らない男だったから、指示が気に食わなければ先生にも面と向かって反論していたし、先輩の演奏に対して彼が口を出すことも珍しくはなかった。それは決してわがままと呼ばれるものでなく、むしろあの歳の子どもとは思えないくらいに論理に根差した正論であったのだけれど、そういうときの潮は近寄りがたい苛烈さを抱えていた。それでいて、彼のそういう態度が周りの人間に与えていた影響をすべて覆い隠して、あのときあのバンドにいた全員を、潮は自分の音だけで黙らせることができる存在だった。 それでも、楽器を置けば、彼はクラスにひとりはいる口数の多いお調子者でしかなくて、吹奏楽クラブの面々が潮からすこし距離を置いていたのに対して、音楽を離れたところでは彼はいつでもひとの中心にいた。ピアノやサックスのソロコンクールで次々に賞をとって朝礼で表彰されるのも、特に鼻にかけるような性格ではなかった。それでも、やっぱり全部あたりまえのような顔をしていた。あたりまえのような顔で毎日笑っていた。潮は、クラブの外でのレッスンもこなしていたらしく、クラブの練習に加わらない日も多かったけれど、それでも姿を見せるときにはいつのまにか新しい曲を吹けるようになっていたし、彼がいない間も練習を重ねていた俺たちのだれよりも曲のことをわかっていた。そのことに、すごいねと声をかけても、きょとんとした顔をして「そう?」とだけ言っていた。 潮が小六の四月のコンクールで曲が吹けなくなって、毎年取り続けていた賞を逃して、その理由も話さないままクラブどころか学校にも来なくなったとき、だれひとり、潮を呼び戻そうとは言い出さなかった。そうしなくていいのか、という人間もいなかった。そのことに罪悪感がなかったわけではない。だれもがうっすらと同じ感情を共有していた。けれど、俺たちが潮に言えることなどなにもないと、みなが勝手に言い訳をしていた。先生が、「戻ってくる気がないならそれでいいだろ」と言ったとき、あからさまにほっとしたのを覚えている。先生はだれよりも潮の能力を認めていたし、バンドの中でも重用していたけれど、こういう点においては全員を平等に扱っていた。結果が出せない、失敗を自分で取り戻せない人間は要らない。付いてこられないのなら付いてこなくていい。その結果いくらかの才能が取りこぼされるのは仕方ない。俺たちの学校の基本原理だ。 小学校六年の一年間、潮を学校で見ることはなかった。卒業式にすらいなかった。翠ヶ崎大附属中という、うちの中学より偏差値が二十以上高い進学校に受かったという話をだれかから聞いた。あいつ勉強までできるのかよ、とそれを知ったときはさすがに悪態をついた。潮がいなくなったバンドで、サックスのソロを吹くことになったのは、三回に二回くらいは俺だった。六年のときに出た他のコンクールはどれも金賞だった。毎日息つく間もなくずっと練習を続けていた延長戦で得たその結果には、さほど大きな感慨もなかった。ただ、舞台の前に出て、ひとりで旋律を吹くあの瞬間は、想像していたより孤独だと知っただけだった。 定石通り直系の中等部に進学してしばらくしたころ、「潮、音楽辞めたらしいよ」と俺に伝えてきたのは、小学校時代から同じ部でコントラバスを弾いていた友人だった。 「俺のいとこ、翠大附の吹部なんだけど。潮、吹奏楽はやってないし、なんか、剣道だか弓道だかの部活入ったらしい」 「え、……なんで?」 絶句した俺に、彼は「知らないけど」と肩を竦め、「ほんとならもったいないよな」とあっけらかんと言った。俺は、もったいない、という言葉では片付けられなかった。最初から、潮がクラブにも学校にも来なくなってからあともずっと、俺たちの、俺のサックスはいつでもあいつと比べられてきた。俺自身の基準がそうだった。その持ち主が、音楽そのものを捨ててしまうだなんてことを、想像なんてできるわけがなかった。 けれどそいつの言うとおり、その後コンクールで何度も見かけた翠大附の吹奏楽部に潮の姿はなかった。翠大附自体も吹奏楽の強い学校ではあるものの、うちで圧倒的だった潮が台に乗れないほどではない。インターネットで潮の名前を検索してみても、初等部時代にとったコンクールの賞以外でひっかかるものはなかった。中学以降、吹奏楽の世界からも、それよりももっと広い音楽の世界からも、坂川潮という名前は忽然と姿を消していた。それをどうにか追おうとしてしまう自分が情けなかった。中学に進んでからも、練習は相変わらず容赦がなくて、あまり余計なことに頭を悩ませる余裕がないことだけが救いだった。俺の実力は他所事に気を取られて手を抜いていても台に乗り続けられるほどのものではなかったし、ここはそういう態度でいることが許されない場だった。自分がこのバンドに必要であることを証明し続けない限りは、ここには居られない。その証明に全力を捧げ続けることを、俺はどうしても辞められなかった。その理由からは目を逸らしていた。
* *
「才能なんてなかったよ」と語った、そのときの潮の顔を俺は知らなかった。 こんなに、寂しそうな顔で笑う男だっただろうか。こんなに繊細な感情を他人に向けるところを見たことがあっただろうか。楽器に触れるときの潮はいつでも感情を見せない静かな顔をしていた。それ以外のときは大体笑っていた。舞台の上で、真ん中で、うずくまってしまったあのときの顔は知らない。 潮の、この男の存在すべてに、生きかたや、選択のすべてに、自分のやってきたことを否定された気がしてならなかったのだ。彼に対して抱いていた憤りのほとんどがそこから生み出されていた。 俺は、ただ、届く気もしないものを横目に見ながら、届かないことをわかっていてそれでも諦めることができなくて、それだけでずっとサックスを吹いていて、どうしても捨てられなくて、その理由の先にいまでもずっとあるのが潮の音だった。能力だとか努力だとか環境だとか、そういったものをすべて捨て置いたとしても、この男の吹く音に、それを当たり前のように操って笑うその姿に、ずっと憧れていた。最初からずっと、いまでも、ずっと、俺はおまえになりたかった。なのに。どうして。 「なんにもなれねえからって、あんなガキの頃に、あんだけもってたもの全部諦めて、辞めるとか決めんのわかんねえよ。そんなもん、なれねえ奴のがずっと多くて、それでも、続けてるだろ」 俺がぶつけるしかなかった一方的な怒りにもわがままにも、潮はなにひとつ強くは反論しなかった。全部、わかっているとでも言いたげな態度だった。見えているものが違ったのだ。最初から。考えていたことも違う。感じていたことも違う。ただ、俺がこのとき潮にぶつけた言葉のすべてを、そういう感情が存在することを、潮はきっと知っていた。否定することもできたのだと思う。それでも潮はそうしなかった。俺と潮では、最初から喧嘩になんてならなかった。そういう相手だ。彼が、俺よりもずっとずっとそれにふさわしいはずのこの男が、俺がどうしたって手放せないこの楽器を、いとも簡単に過去に置いてきたあとの、いまだって。 「ジュンちゃん」と潮が俺を呼んだ。いつのまにか、懐かしい呼び名になっていた。 「俺は、そのなにかになりたかったんだよ。――なれると思ってたんだよ」 ごめん、と言われた。謝られたくなんかなかった。そんな言葉で、簡単に片を付けてなんかほしくなかった。俺が手放せないものが、この世界で、こいつよりはるかに取るに足らない存在でしかない俺が捨てられないものが、潮にとっても、なにかであってほしかった。ずっとそれに引きずられていてほしかった。全部俺のわがままだ。俺が、潮の生き方に、俺自身の選択を否定されることが、ただ悔しかっただけだ。そんな執着も、プライドも、全部くだらないと、言われるのが怖かっただけだ。
* *
「潮に会った。――ちょっとだけ喋った。音楽辞めたのも、ほんとだって言ってた」 友人にそのことを告げると、彼は少しだけ目を丸くて、「そうか」と答えて、「もったいないよな」と、かつても口にした言葉を繰り返した。 「才能が、ないからだって。……続けてても、なににもなれないから、だって。あのとき、それに気付いたからだって、言ってた」 「あいつんち、親父と兄貴の天才っぷりが異次元だろ。そういうのあったんだろうな、俺らにはわかんないけど」 そっとコントラバスに指を這わせたそいつも、たしかに実力のある奏者として知られてはいるものの、才能だとかそういう言葉で語られる類の人間ではない。全国大会金賞の常連だとしたって、吹奏楽部のメンバーのほとんどはその程度だ。もっと上を行く人間には、もっと別の道が用意されている。こんなところで本気になっている時点で、結局俺たちはその程度だ。 「――宝島を吹いた学校に、すごいやつが、いたって。すごいサックス吹いてた、って」 「だれ?」 「俺は、覚えてない。……潮が、そんだけ言うすげえやつに、あのとき俺は全然気付かなかった。そんだけでも、聴こえてるもん違ったんだな、って、めっちゃ思う」 最初から、俺たちとは違うところにいて、俺たちには聴こえないものを聴いていて、だからこそ潮はきっと絶望して、楽器を手放したのだ。文字通り世界が違った。俺たちは、潮の絶望の踏み台にすらなれなかった。 「潮が、……あいつが、才能ないとか言うなら、諦めるしかなかったって言うなら、――俺たちが、こんなに、必死になって音楽やる意味って、なんなんだろ」 別の人間であることはとっくにわかっている。世界が違ったこともわかっている。それでも、彼が自分の行く末に絶望して音楽を諦めたというただそれだけの事実は、俺がずっと当たり前に燻らせていた執着を揺らがせるには十分だった。 「純一は、あいつと同じパートだったから、俺ら以上に思うことあるんだろうけど」 ゆっくりとそう口にした友人は、いったんそこで言葉を止めて、俺の方は見ないでコンバスに視線を落とした。あのクラブにいて、俺と同い年で、坂川潮のことを忘れられる人間はきっといない。 「でもさ、いくらあいつがすげえやつでもさ、――辞めたら終わりじゃん。おまえは、辞めてないじゃん」 そんだけじゃだめなの、と聞かれた。答えられなかった。潮の音は、小学校時代の些細な出来事として片付けてしまうことができないほど、強烈な思い出だ。もう終わったことだと、どれだけ輝いていたとしてもいまはもう死んだ音楽の話だと、思えたらよかった。 「潮がその気になったら、俺らの六年間とか全然簡単に抜かしてくんだろうし、そういうやつは、いるけど。どうしたっているけど。――だからって、それは、おまえが辞める理由じゃないよ。純一」 それでも、俺の執着を理由もなく肯定してくれるその言葉には頷くことができた。そういう、きっと意味もないようなプライドを捨てられないまま、この世界にいるしかないのだと思う。届かない場所があっても。見えないものや聴こえないものがあっても。そういうものを、前向きに語ることが、できなくても。 「……ありがと。頑張る」 「ん。おまえは一生やれよ」 うん、とは言えなかった。けれど、たぶんそうなのだろうとも思う。聴こえない音に、見えもしない境界線に、阻まれずにすむことを素直に幸福だとはまだ言えない。すべてに納得がいったわけでも、吹っ切れたわけでもない。忘れることはたぶんずっとできない。それでも。 「――折れてたまるか、くそやろう」
2018/09/09
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Alpha Ursae Minoris / Polaris
■基本情報 書名 :『こぐま座アルファ星』 著者/発行者 : 東堂冴 価格 : 1000円 頁数 : 278P 発行日 : 2018年9月
通販はこちら BOOTH : https://sae-todo.booth.pm/items/1008579
カクヨムおよびnoteで掲載していた同名の作品の同人誌版 note : https://note.mu/todo_sae/n/na9e6d8be5370 カクヨム : https://kakuyomu.jp/works/1177354054885763212
■あらすじ 中高一貫校の弓道部に所属する坂川潮は、部の主将である一学年上の森田優都のことを心から尊敬していた。人数不足で一時は廃部の危機にもあった弓道部をほぼ独力で立て直した優都は相当な努力家で、後輩たちにとっては手本となる存在だった。かつて、幼くして努力では超えられない壁があることに挫折を喫した経験のある潮にとって、目立った才能はなくともひたむきに努力を重ねる優都の姿は眩しく映るものだった。 優都は都内有数の実力をもつ選手のひとりであり、全国大会への出場を目標に語っていたが、高校二年の春に風間拓斗という一年生が入部して以来スランプに陥ってしまう。入学以来の優都の親友である矢崎千尋は、なかなか結果にならない努力を重ねつつ、潮の盲信を受け止めようとする優都のことを案じていた。 ひとがひとを信仰すること、才能と向き合うこと、そこから逃げること、走り続けていないと呼吸ができないこと。ただ生きていくことにすら不器用なひとたちと、その不器用な真摯さが報われてほしいと祈るひとたちが過ごした日々の物語。
■書影
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(please)forgive - BUMP OF CHICKEN
(please)forgive / アルバム『RAY』より
あなたを乗せた飛行機が あなたの行きたい場所まで どうかあまり揺れないで無事に着きますように
BUMPを聴いていると、「ああ、やられたな」と思うフレーズにときおり出会うのだけど、この曲の冒頭のこのフレーズを聴いたときは文字通り息が詰まった。わたしが、言葉を尽くして書きたいと思っていたことを、藤くんにワンフレーズで歌われた、と思った。
冒頭のフレーズが象徴する通り、(please)forgiveは「私」から「あなた」への祈りの歌だ。祈る、という行為は、基本的には自分のすぐそばにいて、ともに人生を歩む相手に対してするものではない。自分には手の届かない相手に、または、自分の力では変えることのできない結果に対してする行為だ。BUMPの曲に現れる二者関係には根本的に「別離」が前提とされているという話を何度かしてきたが、この曲に関しては、別れる別れない以前に、「私」と「あなた」はまったく独立の存在だ。「私」は「あなた」の道に干渉できない。おそらく逆も然りだ。
あなたを乗せた飛行機が 私の行けない場所まで せめて空は泣かないで 優しく晴れますように
冒頭の歌詞は、中盤でこう焼き直される。「あなたの行きたい場所」は「私の行けない場所」である、と。
ただ怖いだけなんだ 不自由じゃなくなるのが 守られていた事を 思い知らされるのが
自分で選んできたのに 選ばされたと思いたい 一歩も動いちゃいないのに ここがどこかさえ怪しい
自由であるほうが恐ろしい、という旨の主張は、BUMPの曲に比較的よく出てくる。すべて自分で選ばなければならない、そしてその責任を負わなければならない。そういう、安全帯のない不安定な、それでも可能性に満ちた生き方が、彼らの定義する「自由」だ。 (please)forgiveの「私」は、明らかにその「自由」を選ぶことができなかった側の人間で、「あなた」はそれを選んだ側の人間だ。自由であることこそが、「あなたの行きたい場所」で、「私の行けない場所」なのだ。
どこまでごまかすの 誰に許されたいの
「私」は、その自由を選ばなかったことをどこかで後ろめたく思っている。だってお金がないと生きていけないし、やっぱ安定って大事だし、挑戦もいいけど、失敗するリスクを取れるような後ろ盾なんて俺にはないじゃん? と、別にだれに間違っていると言われたわけでもないのに、だれかに言い訳をするようにしながら日々を送っている。「自由でないこと」は、あるいはそれを選ぶことは、別に間違っているわけではないはずなのに、胸を張ってその生き方を誇ることがどうしてもできない。
まだ憧れちゃうんだ 自由と戦う日々を 性懲りもなく何度も 描いてしまうんだ
それはきっと、「諦めた」という意識があるからなのだろう。ほんとうは、恐ろしいまでの自由に立ち向かって行く「あなた」に、その生き方に憧れていて、だけど、自分はそう「できなかった」という思いがあるのだ。それを、いや、「しなかった」んだ、と、言ってしまう自分に情けなさを感じながら。 別に、「しなかった」でもいいのだと思う。他人から非難されるようなことでもない。ただ、どうしたって「あなた」に憧れてしまう自分がいることが事実で、「しなかった」はずなのに、自分で選んだはずなのに、自由を選んだ「あなた」に自分を重ねて少し惨めになってしまう。「あなた」のことを途方もなく眩しく感じてしまう。
それを続けた心で あなたは選んだんだ
自分が選べなかった道を選んだ「あなた」に対して、「私」がもつ感情は、この曲の中では意外にも妬みや嫉みではない。わりに純粋な憧憬だ。それは、「私」自身が、「あなた」の進む道の厳しさを、それを選ぶことができることがどれほど強いことかをわかっているからだろう。だからこそ、「私」は、「あなた」を自分より価値のある人間だと思っている。自分より、価値ある場所に辿り着くべきひとだと思っている。 「私」は、「あなた」に憧れていても、その生き方を眩しく思っていても、「あなたの行きたい場所」に自分もともに行こうとはきっとしない。それは「あなた」にしか目指せない場所だ。「私」と「あなた」はまったく別の人間で、別の人生があって、行き先も別だ。ただ、そういう眩しい生き方を、「私」がほんとうは成したかった、選びたかった道に、辿り着きたかったその道の果てに、「あなた」にはどうか行き着いてほしい、できれば無事に、あなたが損なわれることなく。という思いを「あなたを乗せた飛行機」に向けることしかできない。
あなたを乗せた飛行機が 私の行きたい場所まで
「あなたの行きたい場所」「私の行けない場所」と呼んだその場所を、「私の行きたい場所」であったと認めたとて、「私」はもうそこを目指して「あなた」とともに飛ぶことはない。選ばなかったから。選べなかったから。「私」は「自由であること」が選べなかったけれど、「あなた」は単に「不自由であること」が選べなかっただけで、そこに優劣の差はほんとうはないのかもしれない。それでも、自分の選べなかった道を選ぶしかなかった「あなた」の、きっと平坦ではないであろうこれからの道のりに思いを馳せるとき、やはり、「私」にとって「あなた」の存在は眩しいのだろう。 「あなた」の行き着く場所は、「私」の行ける場所よりも、もっとずっと価値ある場所で、美しい終着点で、「私」が行きたかった、けれど行けないその場所に、せめてあなたは無事にたどり着いてほしい。「選んだ」あなたは、その価値のあるひとだから。
「私」が諦めた道を選んだ「あなた」にいまでも憧れていることを、その憧れを「あなた」に仮託することを、「私の行けない場所」に、あなたには辿り着いてほしいと自分勝手に願うことを、そうして自分の選択の後ろめたさからすこし目をそらすことを、それでも、あなたのその眩しさが、強さが、損なわれてほしくないと思ってしまうことを、——なによりも、結局はあなたの旅路の無事を離れた場所からただ祈るしかできないことを、どうか、許してほしい。 (please)forgiveはそういう、道を違えた「あなた」への祈りの歌だ。
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ray - BUMP OF CHICKEN
わたしはここ最近のBUMPの曲で、これほど、BUMPらしさを内に秘めたまま完成されている曲はないのではないかと思っている。BUMPの曲を聴いていると、かなり頻繁に、「ああBUMPだなあ」と思うことがあるのだけれど、それは彼らの他の曲を過去から現在にいたるまで聴き続けている人間の感想に過ぎないわけで、その感慨は、この一曲そのものが完成されているか、という観点からみたらほとんど意味を持たない。けれど「ray」は、その感慨を思い起こさせつつも、これはいい曲だと自信を持ってBUMPをあまり聴かないひとにもお勧めできる曲だと個人的には思っている。実際、BUMPが最近出した曲の中では、(ボーカロイドとコラボしたからというのもあるかもしれないが)かなり人気が出た曲のひとつにはなっていたようにも思う。 曲の全体像としては前の記事でも軽く触れたので踏み込まないが、この曲のいちばんの聴きどころは、恐ろしいまでの曲調と歌詞の不一致だ。「ray」はタイトルも曲調も光のように明るく、ライブで演奏されれば観客は跳びはねて盛り上がる。ところが、その反面、この曲の歌詞はまったく明るくない。きらきらした曲調とはうらはらに、この曲は、「君」を失った世界で、「晴天とは程遠い終わらない暗闇」を、「忘れたって消えやしない」痛みを抱えたまま「ごまかして笑って」生きていく唄だ。「君といた時は見えた 今は見えなくなった」ものがあって、「お別れしたこと」をやり直せずに、「君」とはもう共に生きられないまま、光の先にひとりで進んでいかなければならない唄だ。それでも、そんな喪失の感情を抱えて、消えない痛みを背負ったまま、大サビで唄われるのが、「生きるのは最高だ」という歌詞なのだ。
◯×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて 確かめる間も無い程 生きるのは最高だ ——「ray」BUMP OF CHICKEN
「別れ」の色が濃いこの曲において、「生きるのは最高だ」というこのひとことが位置しているところを、ずっと考えていた。このCメロ後の大サビの歌詞は、よく見ると一番のサビの歌詞とはっきりと対応している。
いつまでどこまでなんて 正常か異常かなんて 考える暇も無い程 歩くのは大変だ ——「ray」BUMP OF CHICKEN
「〇×△どれかなんて……」が、「いつまでどこまでなんて……」の焼き直しだとすれば、「生きるのは最高だ」は「歩くのは大変だ」の焼き直しであり、換言なのだ。明らかな対応関係をもたされているこの二つの歌詞に含まれているおおもとの感情はたぶん同じであって、開き直りの意志なのだと思う。決して、100%ポジティブな「最高だ」ではないし、パワーの総和としてはほとんどネガティブ感情と言ってもいいくらいだ。それでも、「歩くのは大変」なこの世界で、開き直って、もがいて、それでも生きていくことへの誓いの言葉として、このフレーズはある。「ray」という音楽はそこに収束する。 ここでようやく、全体としてほぼ暗い歌詞である「ray」という曲が、この、明るくてきらきらとした曲調で唄われていることに意味を感じるのだ。この曲がこの音楽であるからこそ、「生きるのは最高だ」というある種ストレートな言葉が、一瞬、字義通りストレートに染み込んでくる。「生きるのは最高だ」と唄った曲であるかのように錯覚させられる。その天邪鬼さを、それでも、きっとその内側に、そうやってでも人生を肯定したい思いが隠されているんだろうと思わせられるところを、「BUMPらしい」と呼びたくなる。
BUMPの曲において、「君」が指すものを考察することほど無粋なことはないと思ってはいるのだけれど、「ray」に関しては、個人的にはこれは夢を失うことの唄なのだろうと思っている。「お別れした事は出会った事と繋がっている」はBUMPのすべての曲の根幹にあるとわたしは思っているし、別れたこと、つまり君と出会ったという事実の終着点に生かされている、という解釈に立てば、失った夢の先で、いまはもう輪郭すらうまく思い出せないその夢を持っていたかつての自分が作った道の続きを歩かなければいけないことを唄った歌だと、この曲を考えることは可能なのではないかと考えている。単純な解釈ではあると思うが、BUMPは夢や持っていたものを失う、というテーマもよく歌っている。
諦めなければきっとって どこかで聞いた通りに続けていたら 辞めなきゃいけない時が来た ——「firefly」BUMP OF CHICKEN
憧れた景色とはいつでも会える 思い出せば 諦めたものや無くしたものが 鳥になってついて来る ——「beautiful glider」BUMP OF CHICKEN
BUMPは丸くなった、つまらなくなったと、初期の曲をよく聴いていたひとたちが言うのをたまに聴く。けれど、二十年も若かったころの彼らが持っていた思いも、感情の生々しさも、彼らがそれを受け取る方法や伝える方法が変わっただけで、きっと消えていないし、たとえどのような変質があったとしても、そういった感情の先にいま彼らが唄う歌があるのだろうと、この曲を聴くと強く思う。
大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない ——「ray」BUMP OF CHICKEN
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京都/白浜
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Still Lives
『スティル・ライフ』(池澤夏樹)
◾️あらすじ
アルバイト先の染色工場で、〈ぼく〉は自分より少し年上の佐々井という青年に出会い、仕事のミスを庇ってもらったことから二人は親しい仲になる。佐々井が静かに語る少し奇妙な、「どことなく理科っぽい」話題に、〈ぼく〉は惹かれていた。星の話、宇宙から降って来る微粒子の話、チェレンコフ光――。ある日、佐々井は〈ぼく〉に、株を扱ってまとまった資金を得る手伝いをしてほしい、という相談を唐突にもちかけ、〈ぼく〉はそれを了承する。〈ぼく〉は理由も知らぬままにその事業は進められていき、大きな問題も起こらぬまま無事に終了する。その直前、佐々井は自分が五年前に公金横領の罪を犯したことを告白し、これはその埋め合わせをするための行為であったのだということを〈ぼく〉に告げる。事業が終了したその日、佐々井の時効は切れて彼は自由の身になり、彼は〈ぼく〉の元を去って行った。
◾️作品解釈
◯作品の根底にある精神性
(1)「星を見る」視点
たとえば、星を見るとかして。(p.10)
この作品の中には、冒頭(p.9)で提示される「外に立つ世界」と「自分の中にある世界」に始まる、象徴的な対比がいくつか見られる。それは〈ぼく〉が語る佐々井の二重性(「草食動物としての佐々井」と「宇宙的な佐々井」pp.86-87)にも見てとれるし、「現実の佐々井」と、「幻想の佐々井(=抽象化された佐々井)」(p.85)ととることもできる。さらに言えば、この作品を為す「筋道だったストーリー」と「リアリティのない詩的世界」の対比もこれに含むことができるであろう。
これらはすべて、「具体」と「抽象」の対比であるが、作品全体において、この二つは決して矛盾することなく両立している。それを可能にしているのが、作品冒頭で語られる「星を見る」視点、つまり「世界の全体」(p.26)を見る態度なのである。現実世界に身を置きながら、「一番遠い」(p.12)星を眺めることで、本来相反するはずの二つの世界が架橋される。〈ぼく〉にとって佐々井は「星を見る」視点を教えてくれた存在であり、雨崎の雪のシーン(後述)に描かれるのは、〈ぼく〉がその視点によって「世界の全体」に調和することが成功した瞬間なのである。
(2)雨崎の雪のシーンに象徴されるもの
雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。(p.32)
前述したとおり、雨崎の雪のシーンは、〈ぼく〉が「星を見る」(=「世界の全体」を見る)視点、新たな世界の認識の方法を得たその瞬間であると読むことができる。「世界の全体」が、(1)で述べたような対比が両立している、という世界の構造そのものを意味しているものだと考えると、佐々井はすでにそのことを認知しており、〈ぼく〉はこのときようやくそれに感覚的な合点がいったのではないだろうか。「自分」ではなく「世界の全体」に視点を移すことで、ここに描かれるような相対的な認識が可能になったのである。
→雨崎のほかにも、〈ぼく〉がこのような視点を実感するシーンはいくつか見られる(佐々井と写真を見るシーン pp.50-57、ハトを眺めるシーン pp.61-62 など?)。 →「世界の全体」という概念のシノニムは多数出現しているのではないか。(「人の手が届かないところ」「大熊座」pp.23-24 「全体についての真理」p.26)
○登場人物とその関係性について
(3)〈ぼく〉について
語り手である〈ぼく〉は、定職に就かずアルバイト生活をしながら、「長い生涯を投入すべき対象」(p.25)を探している、将来の目標ややりたいことがはっきりしていないタイプのフリーターであり、どこか社会に迎合しきれていない印象を受ける。年齢は明示されていないが、二十代中盤~後半くらいであろう。とはいえ、異性を含む友人との付き合いも適度にあり、完全に社会から隔絶されているというわけでもない。この、社会との関わりを無批判に受け入れることも、かといって完全に諦めることもできない〈ぼく〉の姿勢は、彼の佐々井への憧れを生む大きな要因になったと考えられる。
(4)〈ぼく〉にとっての佐々井
作中で〈ぼく〉は佐々井のことを様々に語るが、〈ぼく〉が最初に佐々井に抱いた感情は「憧れ」なのではないだろうか。社会や世間というものに対する自分の立ち位置に悩む〈ぼく〉のような青年が、どこか浮世離れした雰囲気を持つ佐々井という男に惹かれるのは自然なことだろう。
佐々井は〈ぼく〉にとって、「星を見る」視点(=世界の新たな捉え方)を提示した(いわば啓示を与えた)存在であると同時に、ともに酒を飲んでたわいもない話をする友人でもある。そのような意味で、佐々井自身が(1)で言及した対比の両方を孕む存在でもある。
〈ぼく〉は物語の終盤で「佐々井」が友人の本当の名ではないことを知り、「彼というものがふっと透明になった」(p.71)と語る。これは、いままで「佐々井」という名前とともに自分の目の前に現実的な存在感を持っていた人間が、突然名前すら知らない非現実的な存在へと変貌したことへの驚きを含んだ表現だと解釈できる。〈ぼく〉は、佐々井がそのような透明な存在になったこと(=〈ぼく〉の中で抽象的な存在になったこと)を好意的に受け止めており、「彼のイメージは僕の中でどんどん抽象化して……それは僕にとって好ましいことだった。」(p.84)という表現からもそのことは直接的に窺える。
→佐々井の二重性について 「大熊座から来た」(p.87)=人の手の届かないところから来た → 佐々井を抽象化
→佐々井は自らの二重性についてどのような解釈をしているのか? 「ぼくは徹底して地球的な、地上的な人間だよ。しばらく前までは、人間はみんな僕みたいだった。」(p.88) また、〈ぼく〉に抽象化されることを佐々井はどう思っているのだろうか?
→佐々井を抽象化することは、〈ぼく〉にとってどう好ましいことなのだろうか?
(5)佐々井が待っているものとは?
彼はしかるべき時期が到来するのを、確実に到来するとわかっている何かを、おとなしく待っていたのかもしれない。(p.26)
〈ぼく〉が佐々井について語るシーンで、〈ぼく〉は佐々井が何かを「待っている」ように見えると表現する。佐々井は〈ぼく〉にとって、「世界の全体を見ている」「全体の真理」を知っている者であり、「するべきことが明瞭に見えていた」存在である。引用における「しかるべき時期」というのは、具体的には「公金横領の時効が成立するとき」と解釈するのが自然であるのかもしれないが、それだけではないようにも思える。〈ぼく〉は、定職にもつかずやりたいことも見つからずふらふらしている存在であるが、佐々井はそうではないと〈ぼく〉は考えている。佐々井が「待っているもの」、彼の「するべきこと」とは一体なにを意味しているのだろうか。
○作品の構造
(6)詩的世界と現実世界の重ね合わせ
この小説は、(1)で述べたように「具体」と「抽象」の対比が両立する、というテーマが根底にあるように思われるが、それはこの作品の構造自体にも当てはまる。この作品では、「言葉の詩的な美しさ」と「仲良くなったちょっと変わった友人が実は公金横領の犯人で……という現実的なストーリー」が見事に同居している。前者はどことなく非現実的な響きを帯びた書き方をなされており、だというのにこの物語の筋道の根底は後者の具体性が支えている。この構造的な調和そのものが、(1)で述べたような「二つの世界の調和」という作品全体に通ずる精神性と融合しているところこそが、この作品の魅力であると言うことができるのではないか。
(7)タイトルについて
原題 : スティル・ライフ 英訳 : Still Lives 仏訳 : La vie immobile 伊訳 : L'uomo che fece ritorno
■参考文献
『スティル・ライフ』池澤夏樹 1991年 中公文庫
初出 2016.04.28
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