Tumgik
#だけどそれを皆忙しいからと言って言い訳にしたり見ないようにしてる方が多すぎる
kaoriof · 16 days
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(昔の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前にスタッフルームに入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけどね、富士山に関係している話なの。それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれるの。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題 
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の文化祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近はめがねがこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにそのつど救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。家族のことはそれなりにはすきだけど、一緒に暮らすことだけは大きらいなのでふつーにしにてーと思った。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。この人とはしんでもキスとかセックスとかできないなと思う。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにスタバでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花が欲しい、誕生日に花なんて一輪も貰えなかったし。北海道の僻地とか一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになるの。当たり前��ようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
大学に入ってからみんなかわいくなっていって、わたしだけ取り残されているような気分。東京のど真ん中にすんでるから?みんなほそくて、白くて、髪から爪先までケアが行き届いていて己の恥が浮き彫りにされる。その一瞬はたのしいとかんじても、その背後にはいくつもの積み重ねられた気苦労があって帰りの電車の中でぐったりする。恋人のこと、しばらくは気にしないでおこうと思っていたのにこういう、心がげんなりしているときにその輪郭はいっそうまぶしく点滅する。とりあえず5キロ痩せる。いつかはだれかの手のひらサイズに収まる砂となってしまうのに、変なの、と思いながら、それでも毎朝まつ毛をあげる。でも、悲しくなったり辛くなったりはしなくなった。ひとりでもだいじょうぶなのだと思えるようになった。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと思う、自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。でもそれってそんなにいけないことかな?インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。美しいから隠すというのもとても素敵だけど、なんで美しいから見せるのはだめなんだろう。美しいと分かればわかるほど人は傷つけたくないという気持ちになるのに。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、一人だけじゃなくて、みんなに、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分らは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。これのどこが罪深いんだろう?とおもってしまった。みんなほんとうは弱いんだとしってなんでも許せるような気分だった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、なにも怖がることはないと思うの。本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあげたほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主かショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。てをつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいなかなしいなとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより���速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛てあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。ただ自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
eighteen, mytears
最近歩くのがはやくなった。暑さで腐っていく弁当箱の中の唐揚げ、毛を剃り続けて痛んだ腕。砂時計みたいにどんどん浪費されていくばかりの時間、人生を、客観的になって眺めてみると、なんて滑稽なものだと思うけれど、与えられたものをそれなりに消費していくことでしか自分のことを殺せない。まいにち山手線に乗ってる、ぎらぎらした太陽の光の下で蛇みたいに動いている列車。窓枠に空の青だけが切り取られるとまるで宙を浮いているみたいに感じられて死にたくなってしまう。こんな文章を書いていいほど、自分のことをうつくしいとだきしめて愛でてあげることができない。ブログを更新しなくなったらファンがたくさん減った。文章を書く行為ってとても勝手でずるくて逃げてるかんじがする。だからすきなのに、それをすきと言う自分のことを認めてもっとすきになるのに勇気がいる。ぜんぶそう。わたしは勉強のことを口にしていいほど頭も良くないし、外見にしろ性格にしろ友達との関係や恋愛においても尚更そう。参考書の羅列された文字をいくら追っても脳味噌が大きくなっていく感じがしないし、わたしの未来があかるくなっていくかんじもしない。あなたよりもつらい人は沢山いるから、ね。あなたの不幸なんてちいさなものだから、という言葉がどれだけ傷な言葉かわかってほしい。どこをみても善を装った暴力ばかりが転がっていて、本当はたぶんみんな何かに託けてマスクの下で舌打ちしているんだと思う、絶対そうだと思う。小さな四角い箱の中でみんな泣いている。夏にいちばんちかい記憶の底でみんな寂しがっている。勉強の意味の裏付けにあの子は一体なにを置いているんだろ。変なの。もう文章も書けなくなった。夏になると賑わう燕の巣を確認することもなくなった。野良猫をていねいに撫でなくなった。恋人ともうまくいかない。どれもこれもおまえ(わたし)のせい、がむしゃらに鳴いている蝉だって求愛のためにあんなに人の生活を邪魔することをゆるされるのに、わたしが���れをすると暴力だのめんどうくさいだの、そんな価値のないものに成り下がってしまうのはどうして。ただの自傷になってしまうのはどうして。だれも捕まえてくれない。あなたのことを好きで、それが結果的にあなたのことをくるしめてしまっても、それを俺もすきだからという理由だけでぜんぶゆるしてほしい。泣きすぎてお腹空いた。自分自身の未来に対しても過去に対しても、これを読んでくれているあなたに対しても、友人にも、恋人にも、両親にも、苦しくさせてごめんなさいという想いばかりあって、それを受け止めてくれた優しさに対してのありがとうばかりある。受験死ね、と最後に書こうかなとおもったけどちゃんとした日本語じゃないし縁起がわるいのでやめた。すぐにじゃなくても良いから最後にはみんな幸せになれますように、おやすみなさい。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされて���きた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではない��に、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。��日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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flogkaeruotoko · 9 days
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令和ロマン、真空ジェシカとガクテンソクが
が、なんだよ。
今日は木曜。2〜5限までみっちみちのみっちー曜日。
いやぁ、大変ですね。朝からSwitchーon LotusにすごいCaravan……ヒラサワバラードで大号泣したところで、本日は面倒な授業が多かった。更に、試験も解かなきゃ行けなかった……
あ、三限の出席カード!!
写真撮ってたのは良いものの、、提出を完全に忘れてしまった……やってしまった。
まーた馬鹿みたいなことしてしまった。
馬鹿すぎて希死念慮。終始世に念慮。
さてさて、本題に入ろう。
今日は、文化の花道とかいうイベントが本学であった。もっとも、ゼミの時間と被ってしまったので見れなかった訳だが…
ゼミの時間は17:50マデ、文化の花道は18:00マデ。
タカシと一抹の希望に賭け、会場の裏口付近で待っている。去年はここからインディアンスとか出てきたわけだが。今回は対策されたか?
結論から言うけど、全く対策無し。出待ちは俺たちだけ。完璧。
だが出てこない。10分経過。あぁ、ここから出てくることは無いのかなと話していたら
真空ジェシカ、登場!
川北さんと会釈を交わし、ガクさんにあの、と声をかける。
あのサインお願いします!
「はいはい」
好きですー。
「女の子に言われたいねそれ」
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サイン頂きました!
そのままガクさんはスーッと帰っていきました。
その後もガクテンソクのおふたり等を会釈でお見送りしたところで、スタッフから「皆様お忙しいので、お見送りだけでお願いします」と神対応。こちらこそ申し訳ない。
と、そんな最中
令和ロマン登場!
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て、くるまさんの撮り方下手すぎ。
文化の花道はゼミで見れなかったけれど、出待ちで会釈なり会話なりできて幸せなり!!!
ガクさんのサインは早速自宅で保管致します。
いやぁ、ネタも見たかったなぁ…
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chaukachawan · 2 months
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みなさんおはようございます。
本日も私みーらが、皆さんの背中をそっと後押しいたします。
えーまず初めのお便りから。ラジオネーム「縦縞コリー」さんです。
お風呂で疲れを取るコツは、お湯を入れすぎないことだと思います。お湯は浅めに入れて、熱き温度に設定すれば、体調不良からすぐに回復するはずです。湯浅熱きってな。
ということなのですが、ハンシン浴ってのはそういうことじゃないと思いますねー。
続きましてラジオネーム「緒田舞里」さんです。
後輩に「36期が入ってきてもそうやって後輩に甘えるんですか��」と言われました。何がダメなのでしょうか。
ということなのですが、少なくとも私はニコニコ見ておりますので、問題ないと思います。撫でて撫でなられての関係にいる人たちを眺めることにも、ある種のプラシー的な効果があると思うんですよね。いや、思い込みかな。やっぱりセラピーボ効果かもしれません。
どんどんいきましょう。ラジオネーム「帝京魂」さん。
今のままでいいのかなぁと悩むことがよくあります。周りから何か言われたわけでもないですが、何かが違う感じがします。何が違うと思いますか?
ということなんですがね、多分芸名が違うんだと思います。
続いてラジオネーム「水琴冬雪」さん。
高校の頃の思い出が忘れられません。失って初めて気づく尊い日々に目を奪われて、日々が薄れて見えます。
ということですが、それな。私も生徒会室で働いていた日々が忘れられません。忘れる必要などありません。一生思い出しましょう。
もうなんかここにつける語のネタが切れたので、ちょっと簡略化します。ラジオネーム「七枚目」さん。
ここ数ヶ月、不幸に見舞われすぎています。パソコンは壊れるし、家に蜂の巣はできるし。でもそんな生活をなんだかんだ楽しく過ごす自分もいて、なんだか不思議な気持ちです。これが人生なんですか?
ということですが、それを人生だとしてしまうと、不幸を感じない生活=死になってしまう気がして、それはそれで嫌ですね。
ラジオネーム「苔丸」さん。
気持ちの良い日を過ごすコツは、健康的で優雅な朝食を摂ることだと思うのですが、忙しいとどうしても朝食作りが億劫になってしまいます。何か朝食作りに困らないオススメの方法はありますか?
ということですが、そんな時にはカフェテリアかさねの朝食営業!平日の8:00〜9:00で朝食を販売しているぞ!おかずとご飯と味噌汁も小鉢の栄養バッチリなセットで396円!
あ、すみませんコマーシャルが挟まってしまいました。申し訳ありません。
ラジオネーム「岡崎仁美」さん。
ここ数年の制作チーフが全然他劇団への宣伝訪問や挟み込みをしません。した方がいいと再三言っているので、「耳聞こえねぇのかよ」って思います。いやこれ私のセリフじゃないわ。
ということなのですが、ごめんなさい。制作チーフがアサギだったら、こうはならなかったと思います。
ラジオネーム「西峰ケイ」さん。
芸名変え合戦でみそかに負けたくありません。なんかもう、変えなかったら負けかなって思ってます。とはいえ考えれば考えるほど負けた気がするのもまた事実です。私は一体どうすれば良いのでしょうか。
ということなのですが、そういうときは芸名じゃなくて、語尾で攻めるブビよ〜!
ラジオネーム「あろハム権左衛門」さん。
お昼ご飯のカップヌードルトマトチリ味と、おやつのポッキー抹茶味を一緒に買ったら、どんな食べ合わせだよと言われました。一緒に食べるわけないですよね。カップヌードルトマトチリ味と合わせるのであれば、せめてじゃがりこチーズ味とかだと思います。
ということですが、失敗から生まれた料理ってのも数多くありますよね。
ラジオネーム「大福小餅」さん。
公演情報入力中に漢字を変換しようとすると、大福子持ちになってしまいます。ししゃもじゃないんだから、と思います。ということで、次回公演では「ししゃも子持ち」に改名したいと思います。
ということですが、これを変換してみたら「死者も子持ち」になって、たいそう意味深になってしまったので、大福のままでもちもちしていればいいと思います。
ラジオネーム「肆桜逸」さん。
後輩が僕の足を避けません。避けなかったくせに蹴られたとか言って騒いでます。うるさいです。早急に口をつぐんで欲しいです。かくなる上はポケカで黙らせたいと思います。
ということですが、きっとスチルさんに怒鳴られたりなんかした日には、多分普通に大人しくなると思います。笑顔でいてくれるのが嬉しいです。
ラジオネーム「たぴおか太郎」さん。
「たぴおか太郎」に一文字足して、もっと腹と心を満たす方法を思いつきました。「たぴお肩ロース」です。タピオが何なのかはよくわかりませんが、多分柔らかいと思います。
ということですが、他に考えることないんですかねーこの人。
ラジオネーム「ミル鍋」さん。
これからどんどん暑い季節が近づき、次第にミル鍋という芸名が暑苦しくなるような気がします。先日、別の劇団で活動している「フィーユ」の方からも連絡があり、曰くこっちもいい加減芸名を変えたいとのこと。どんな芸名がいいと思いますか?
ということですが、「冷やし中華」と「はじめました」にすればいいと思います。
ラジオネーム「園堂香莉」さん。
同じ授業を受けている同じサークルの人が、やけに他人行儀というか、よそよそしい感じがします。照明チーフとして2公演もお世話をしてやっているというのにこの態度とは、一体どういう神経をしているんでしょうか。もっと予めドリンクを買ってきて差し出すとか、それくらいのことをするべきだと思います。
ということなのですが、多分普通にまだ恐れ多いだけだと思います。嫌じゃなければ仲良くしてやってください。
ラジオネーム「海泥波波美」さん。
舞台のイメージもないまま脚本を書かないでほしいです。舞台のイメージのない脚本なんて、夏休みのない8月のようです。あるいは、耳のないミッフィーみたいなものです。脚本書いてから舞台を考えるから、僕達みたいに苦労する人が生まれるんです。だからやっぱり、日本は9月入学にするべきだと思います。
ということなのですが、確かに「保湿」って漢字は見れば見るほど難読漢字みたいですよね。
ラジオネーム「衿君」さん。
本当は私がこの形式の役者紹介をするべきなはずなのに、演出にパクられました。こんなのただのネタ潰しだと思います。散々色んな役やらせといて、最終的にやりたいネタはやらせてもらえないなんて、許せません。どうしてやりましょうか。
ということなのですが、その筋肉があればいとも簡単に勝てると思います。
ラジオネーム「大門宙羽」さん。
みなが寝静まった夜に限って、ワクワクして眠れません。どうすればよく眠れますか?
ということなのですが、朝は朝食をしっかり食べて、夜はしっかりお風呂に入りましょう。
ラジオネーム「テキストを入力」さん。
別にある特定のものに限った話ではありませんが、〆切ギリギリにならないとやる気が出ません。やる気を出すにはどうすればいいですか?
ということなのですが、これ本当に共感。結局追い込まれた方が強いんですよね、人って。
ラジオネーム「黒井白子」さん。
こっそり作ったXアカウントの使い道が決まっていません。別に投稿したいこともないので、このままROMアカウントになりそうですが、それでいいのでしょうか。
ということですが、これは大問題ですね。Xなんて呟いてなんぼですからね。Xで呟かないなんて、魚市場で財布無いみたいなもんですからね。
いやお前の名前が一番ラジオネームっぽいだろ
近未来ミイラ
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kennak · 7 months
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これは流石に拡散。1ツイートに纏めて読みやすくした。 担当者が一年間音信不通など仕事できなさ過ぎて、結果書籍化されないなんて悲しすぎるだろ! #拡散希望 #オーバーラップ文庫 はじめまして、第十回オーバーラップ文庫大賞にて金賞をいただきました虎鵺鶫と申します。 しかしながら今回、私の作品は刊行しないと決定したため、その事を説明、報告させていただきたく存じます。 長文となりますが、どうかお付き合いください。 まず、私は2022年10/20に受賞電話を元担当からいただき、10/26に実際にお会いしました。 その際、担当とは11月までに企画書の完成、4月に原稿の完成を目指すようにと指示されました。 そして、私は2022年10/28日に企画書を送り、同日受領メールが担当より届きます。 しかし、これ以降担当からの連絡は途絶えました。 こちらからメール、電話をしても無視され、次の連絡があったのは『2023年』の10/13です。 出版社はお忙しいのだろうと、それほど多くメールや電話をしたわけではありませんが、7月には私も受賞が取り消されたのだと考えていたので驚きでした。 しかし、取り消されていたわけではなかったらしく、10/13のメールでは受賞コメントを求められたのです。 この時点ではまだ佳作という事しか分かっておらず、自身が金賞だとは知らされていませんでした。 そのため、受賞コメントでは○○賞をいただいたと記し、遠回しに何賞か教えてくれと示したつもりですが、当然のように担当編集からは受領メールすら返ってきません。 そして10/16。既に新人賞が発表されていると気付き、そこで自分が金賞だと知りました。(発表は15日?) しかし、驚いたのはそこではありません。 一度は受賞を諦めていたものの、事実として受賞したからには、連絡が取れておらずとも担当編集は仕事をしてくれているのだと信じました。 編集と作家は頻繁に連絡を取るわけではないのだろうと判断しました。 ただ、以下を見て違うのだと理解します。(画像1枚目) ティザーサイトでは、私の作品だけイラストがありません。 つまり、私の担当だけが仕事をしていないというわけです。 タイトルが変更されている人もおり、それは他の方は出版に向けて作業をしているという意味です。 されどイラストはなくとも、イラスト担当の方の名前は記してあったため、私はXをはじめてこの方にDMを送ってみました。 すると、イラストレーターさんも担当編集に連絡を無視されていた事が発覚します。 以降の通話記録、謝罪時の会話の記録はボイスレコーダーに大体が残っています。 通話記録は普段からなので途中で伝えましたが、ボイスレコーダーは許可を得てから録音しました。 10/17の10:04。私は担当ではなくオーバーラップ本社へ電話をしました。 そして折り返しの電話をすると言われ、11:27に編集長から電話が来ます。 ここでは軽い謝罪の後、これから事実確認をするため翌日に再度電話をすると伝えられました。 同日12:54。担当からの電話が来ましたが、私が気付かなかったので折り返し、13:18に謝罪を受けます。 ただ、担当は『はい』『申し訳ありません』『仰る通りです』ばかりで話になりませんでした。 連絡をくれなかった理由を尋ねてもまともに答えません。 10/18正午。編集長から謝罪を受けましたが心に響きません。 そのため、私は10対0で出版社側に非がある事を確認し、20日に対面での謝罪の約束をしました。(翌日じゃないんかと感じながら) この際、私は謝罪場所をよく考えるようにと念を押します。 彼らからは二時間後に雰囲気の良い喫茶店を指定したメールが届きました。(名前消し出来てなかったのでメールの画像は削除しました) 彼らはニコニコこんにちはの挨拶しに来るのでしょうか?違います、謝罪です。 雰囲気の良い喫茶店に、怒っている人間と謝罪している人間がいては台無しです。 他のお客さんやお店に大迷惑です。だから私は別の場所を探します。 彼らは二時間で探したようですが、明後日と急な事と、騒音を考えると場所が限定されるため、二時間よりももっと時間をかけて適当な場所を見つけました。 ただ、もしかしたら間違いに気付くかもと期待し、私は少し待ちました。 イライラで夜も眠れなかったため、深夜にXで呟いたりもしました。 本当に申し訳ないと考えていれば、私と同じように眠れず、こちらのXを覗いていると期待して。 その呟きは朝に消し、代わりに12時?までに訂正を祈るという呟きだけ残しました。(一度は和解したため、それも既に削除済み) しかし、編集長からの訂正はなく、大声を出せる場所として私がレンタルスタジオを予約しました。(謝罪のために使ってよいか確認した上で) (画像3枚目) 10/20。汚い無精髭の担当と、汚い金髪の編集長(+新担当)が岐阜に来ました。 前者二人に謝罪する気があるのかと疑問を抱きながらも、東京では普通なのだろうと判断して何も言わず、本当に喫茶店に行くのかと最終確認を行います。 彼らは当然のように頷きました。 私は喫茶店が不適当な理由を述べ、彼らを自身の車に乗せます。 時間がなかったので駅周辺のスペースは予約出来ず、車で移動しなければならない場所を予約したためです。 編集長らは昼食がまだだったため、とりあえずファミレスに連れて行きます。 これは仕方のない事です。怒る事ではありません。 スタジオの予約時刻までの時間潰しも兼ねています。 当然、ここまでは私も笑顔を作っていました。 周囲に迷惑をかけたくないので。 14:30に少し遅れ、レンタルスタジオへと到着して謝罪を受けます。 しかし、担当の謝罪は相変わらずです。こちらから何をどう謝罪しているのか? どう反省したのか尋ねなければ話になりませんでした。 挙げ句に編集長は「彼はADHDなんです」などと担当を擁護し始めました。 こちらとしては関係ありません。部下がそうなら支えるのは編集長の務めです。 せめて事前に伝えてくれていれば、私も連絡を増やすなどしましたが、ここでいきなり言い訳されても困ります。 それで自分の言葉とは思えない担当の謝罪が続き、私は最終的に許していないまま諦めました。 話は今後の相談についてへと移ります。 まず私はこの時点で作品を刊行しないと考えていました。 オーバーラップの新人賞なんて売れないし、そもそも一度は受賞が消えたと考えていたため、賞金だけ貰えれば十分だと。 しかし、編集側からするとそれは困るらしく、刊行してくれと言われます。 そこで尋ねました。 新人賞4作のうち、私の作品だけ現時点でイラストがなく、ただでさえ売れないのに余計に皆から興味を持たれないマイナスがある。 その点はどうするのか?と。 すると、編集長は今までよりも強い語気でこう答えました。 『必ずTVCMを打ちます』と。 私はそんなの効果ないだろと返し、魅力も感じませんでした。 ただ、それから他にも話し、スタジオに入ってから1時間49分50秒のところで尋ねます。 「今までに新人賞でTVCMを打った事はあるのか?」と。 その意図は過去にどの程度の効果が出たのか確認するためでした。 それに対して編集長は『個別ではないです』と答えました。 過去の数字が確認出来ないのは残念ですが、それだけ編集部も力を入れてくれるという意味では好印象です。 ただ、私はやはりCMに魅力を感じませんでした。 私はなおも刊行��る気にはなれず、スタジオの使用時間が終わってしまいました。 その後、場所を変えて話を続けたのですが、この際にボイスレコーダーでの記録を中止してしまいました。後悔しています。 最終的には他の穴埋めに魅力を感じ、私が折れましたが、ここは重要ではないので今は記しません。 また、スタジオの使用料は3773円のうち3000円を受け取りました。 夕食代は和解後という事で、自分の分は自分で払っています。(奢られるのが嫌いなので) その後のスケジュールは以下の通りです。(画像3枚目) これが急ぎなのか、普通なのかは分かりませんが、私は全て予定通りにこなしました。 一方、新担当からの戻しは二度とも遅れています。 まあ、これは私が未熟で指摘する場所が多かったからだと考えておきます。 そんな中、問題は11/3。三稿作業中に発覚しました。 CMそのものには魅力を感じなかった私ですが、本屋で営業をする際に「新人賞で初めてCM打ってもらえる」と伝えれば好印象だと気付いたのですが……。 はい、新人賞作品をTVCMで打った事がないという編集長の言葉は嘘でした。 自信満々にCMを武器にしてきたのに嘘でした。 4時間以上の謝罪と今後の相談をしておいて嘘を吐いていました。 これについて私は当然確認します。 すると編集長は「最後にちょっとだけ同時発売の他の新人賞作品も紹介しているので個別ではない」と返してきました。 正直、私としては納得いかないものの、解釈違いで許そうかとも思いました。 しかし、返答メールにはこう続けられています。 『本作についても、このような形式にて制作をさせていただければと思っております』と。 つまり、こういうことです。 編集長「お詫びにTVCM打ちます」 私「今まで新人賞でCMは?」 編集長「個別ではないです」 私「これ個別じゃね?」 編集長「違います」 私 (まあええか) 編集長「ちなみに貴方の作品のCMも個別じゃない方式で作ります」 私「!?」 意味が分かりません。 CMにこだわりはありませんが、編集長の言動が理解不能で不信感を抱きました。 何せこの男。前回の謝罪の際、これから信頼回復に努めると述べ、メールでも記しているのですから。 そこで私は再び刊行しないと決め、その意思を伝えました。 すると編集長から電話が来て「申し訳ありません」と謝罪されます。 前回対面で謝罪され、一応は許した後に再び裏切り、それを電話で謝罪されても心に響くわけありません。 そもそも前回も私は実を取っただけで許したわけはなかったのですし。 それで私も今回は折れず、刊行しないという意思を変えませんでした。 ただ、月曜日にもう一度(電話で)謝罪させてくれと言うので一先ず頷きます。(この日は金曜日) そこでふと気づき、尋ねました。 本来なら月曜までに三稿を終わらせなければならないのですが、それはやらないとダメなのかと。 編集長は「お願いします」と答えてきました。 私はこの言葉に胸中で驚愕します。 スケジュールは調整するので、一先ず三稿作業はしなくて構わないという答えが返ってくると期待していたところ、まさかの「お願いします」だからです。 こいつ自分は土日しっかり休むくせに、謝罪相手には作業しろって言ったのか? 前も何故か私が謝罪場所を予約したけど、その頃から一切反省してねえじゃん! そう呆れながらも、私はとりあえず三稿をこなしました。 イライラしながらやったので出来は悪いでしょう。 11/6正午。編集長からの電話が来ました。 頑張るので、ミスはあっても許容してください。というもの 。 目の前に来て信頼関係の改善に努めるとか言ってたくせに、電話でそう言われて心に響くわけありません。 というか、私の心が狭いとでも言いたげです。 結果、私は本当に刊行しないことを決定し、今に至ります。 なんか色々とグダグダになってしまい申し訳ありませんでした……。 焦って慌てて説明不足になっていると思いますので、質問等があれば答えます。 後日、noteにまとめます。 焦りもあってメチャクチャになってしまい申し訳ありませんでした。
Xユーザーの蒼桜葵@WA2再プレイ中さん
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patsatshit · 8 months
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今年の8月末日、短編小説と音源がセットになった『JAGUAR』というZINEを制作した。200冊限定ナンバリング入りで、現時点(10/13)での在庫が30冊程度となった。ところが4月にリリースした『ほんまのきもち』と違って、本作についての感想がほとんど聞こえてこない。もちろん直接口頭、あるいはソーシャルメディアのダイレクトメッセージで読後感を伝えて下さった方々は沢山いる。しかし書評と呼べるものは実はいまのところ皆無に等しい。批評することを躊躇わせる斥力のようなものが作品に内包されていたのかもしれないと密かに勘繰ってみたりした。虚しかった。そこで、である。敢えてこの場を借りて、稀有で貴重な『JAGUAR』評を紹介しようと思い立つ。当ブログへの転載を快諾してくれた評者の方々にはとても感謝している。ほんまにありがとう。早速おふたりの素晴らしいレビューを読んで頂きたいのだが、いましばらく当方の四方山話にお付き合い下さい。
まず最初に『JAGUAR』という物語がかれこれ10年以上も前に執筆していたものであるということを前提に、すでに読んで下さった方々には当時の僕の意識混濁っぷりが窺い知れる内容になっていると思う。ビルメンテナンス会社の営業職に就いて忙殺される日々、精神と肉体が泥のように疲弊していくなかで書き上げた小説。大袈裟でなく、このままでは生きるという行為を自ら手放してしまうのではないかという危うい精神状態だったが、幸運にも当時に知ることができた偉大な哲学者、思想家、精神科医たちの言葉に背中を押され、結果的に今日まで生きのびた。以下に引用した名著の言葉たちが『JAGUAR』と僕を根底から支え、励まし、作品を世に放つ機会を与えてくれた訳だ。特に大気を裂く稲妻のように強烈な『千のプラトー』は、書かれている内容がわかるわからないというスノッブな価値観を遥かに超越した位置から自分を叱咤激励してくれた。こんなにぶっ飛んだ内容の読み物は他にないし、未読の方は絶対、ぜぇぇったいに読んでほしい。
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小説は、自分の名も、自分が探しているものも、していることも、すべて忘れ、記憶喪失、運動失調症、緊張症となった登場人物、なすすべを知らない登場人物の冒険によって定義されてきた。(中略)。宮廷愛小説の騎士のすることといえば、自分の名前、自分がしていること、人が自分に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知らずに、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。『千のプラトー』ドゥルーズ+ガタリ著
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各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりではなく、自分の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における一つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれが見つけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴである。『狂気と家族』R.D.レイン/A.エスターソン著
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私にはひとつ、ことばを≪見る≫という病気がある。ある風変わりな欲動があり、それは、願望がまちがった対象に向かうという点で倒錯的な欲動なのだが、そのせいで、本来なら単に聴くべきものが、私には一種の≪ヴィジョン≫として現れるのだ。(中略)。言語活動に関して、私は自分が幻視者で、また、のぞき見の倒錯者であるような気がしている。『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著
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そして小説版『JAGUAR』と一蓮托生の身である特級呪物、音源版『JAGUAR』については、僕が最も敬愛する女性DJにその制作を依頼した。マルコムXの演説を逆再生させたところから始まるMIXは、いくつかの世界線が交錯と混濁を繰り返し、正気と狂気の狭間を湿気をたっぷり含んだ低空飛行でかいくぐり、やがてひとつの景観ヘと辿り着くまでの過程をコラージュを交えた手法でドキュメントした、とんでもない内容に仕上がっている。揺るぎないベースライン、不意に降り注ぐ天啓となる言葉の数々、妖艶極まりない夜の気配、そして匂い。ぜひとも爆音で体験してほしい。以上のことをふまえて、OBATA LEO、moanyusky両名による書評をご覧下さい。
「JAGUAR」評① :評者OBATA LEO(ROLLER SKATE PARK作者)
土井政司の新作「JAGUAR」を読んだ。内容の理解云々以前にまず、地を這いずるような具体性の塊、描写に喰らった。自分が普段労せずざっくり物事を把握するための便利な道具として使っている言葉という同じものを使って、この作品はレンズのように細密にものを描き出す。ひとがきちんと見ずに済ませているような部分にまで光を当てる。そんな驚きもありつつ、やはり気になる。「JAGUAR」とは何なのか?
-「彼女は常に超越的な地位にあり、私たちとは隔たれた外部に位置している。そうであるにもかかわらず内部であるここにも存在しているのだからタチが悪い。絶えず外にいて内にあるもの、それがJAGUARだ。」最も端的にJAGUARについて書かれたこの部分を読んで、体内・体外の関係を想起した。普段「体内」と何気なく口にしているが、胃袋のように体には空洞がある。皮膚や粘膜などの体表に覆われて血液が流れている内部を体と呼ぶのだとしたら、その空洞は体に囲まれた「体外」ともいえて、私たちは体内に体外を抱えているという言い方もできるというわけで。それで繋がるのは、口腔内の歯の溝に落ちたタブレットを舌で触る場面である。「体内」でありながら自分では視認することのできない、舌で探るしかないその空間は確かに「体外」であるし、JAGUARもまた、己にとって内なるものでありながら断絶した他者でもあるような何かとして捉えられるのかもしれない。そんな線で読んでいくと、-「だが実際に私の目の前で何者かの手によって鍵の施錠は実行され、おまけに用心深くレバーハンドルを何度か動かしてしっかりと鍵がかかっていることを確認した。」という作品の終盤に出てくるこの部分で、文法的なエラーに感じる違和感は、そのまま私とJAGUARとの関係の違和感そのもののように思えてくる。得体の知れない何かに鍵をかけて、何食わぬ顔で電車に乗って仕事場へ行くなかでの体の軋み、のような何か。体といっても、いわゆる「(近代的な)身体」というキーワードで片付けるにはあまりに繊細な、大いにパーソナルな部分を含む体の感覚が、この作品にはあると思う。
出かけた「私」は、電車のなかで女性が着ている服のボー��ー柄の反転を目にするが、ここまで読み進めてくると、気持ちの良い幻惑に襲われはじめる。異常にディティールが詳しいのでそうと気づいていなかったが、やはりこのフィクションの中で起こる出来事たちは、出来事の形をとった何か夢やイメージのようなものだったのではないか。そして冒頭のリフレインまで突き当たると、この作品は初めから何についての話だったのだろうかと、今までひとつひとつ理解しながら読んできたはずの物語が全く違う相貌を携えているように見えてくる。そんなぐにゃんとした気持ちになるのは、良い小説を読む醍醐味のひとつだ。
「JAGUAR」評②:評者 moanyusky(音楽レーベルprivacy主催)
当たり前の様に無造作にある事で、それを見るか見ないか、それだけのことだと思います。土井政司の最新作「JAGUAR」を読みました。ここではJAGUARとなっていますが、人によってそれの名称は変わると思っています。よくわからぬ相手との対話や闘いがあるかどうかというところが、この作品の感じ方が分かれるところだと思っていて、私はどちらかといえば、その相手に困らされた事があったので、この作品を読んで、え!土井さんもやったんやとびっくりしました笑。ここは勘違いして欲しく無いところなのですが、人それぞれという言葉があるようにそれは一緒ではないのですが、構造はかなり近いと言ったような事でした説明がつかないわけですね。私は人の「想像」は人を殺しにかかるような死神として、隙があれば、それは現れるわけです。世の中ではアートであったり、想像力は良いように言われていますが、全くもってそれは何かが隠されているわけで、私は良かった試しが無いわけです。出来れば普通のルートで現代社会を楽しみたかったです。でも多分知っていくという事はそういう事なのかもしれない。想像力に悩まされてきた身としては、この作品は、別の場所で、それと闘って、きっちり答えが出ているというところ、しかも、10数年前の作品という事で、私は土井さんに出会って、色々な対話を交わして、初めて彼の濃厚な苦悩との生活に出会う事となったわけです。各人の時間軸が理解の範疇を超えて、重なり合って手を取ったのだと思っています。その時に置いてきぼりになってしまう、その真ん中で産まれゆく、刻まれた何かがずっとどこかで成長していたら、人は正気を保てるだろうかと思ってしまいます。誰かが入ったであろう、部屋のノブをあなたは回せるかどうか。私はそれには名前をつけなかったが、もう二度と会いたくないですし、いつまた来るのだろうと、恐れを感じます。彼は人が地面を無くした時に現れるように思います。浮遊した瞬間、命をもぎ取ろうとする。
でもそれはオカルト的なアレとか、スピリチュアル的なアレなんてものではないのですね。確実に自分、自分を構成する設計図の謎のようにも思え、それが薄らぐために生活をやり、音楽をやり、愛し合い、話し合い、何かを育てるのだと思います。現実社会で経験した摩擦は地面をはっきりさせ、そいつのいる世界から距離が出て、薄めてくれるように思うわけです。だからこそ。JAGUARの言葉を借りれば「痛みと不安から自分自身を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す」。が救いの言葉となっているように思います。2部構成で出来上がる、この作品のバランス感覚は、人と創作の関係性をSFとして描いているように感じます。同じ場所にて語る事は嫌がられるかもしれませんが、私が映画を観に行った時に続々と子供たちが外へ出て行った宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を出したタイミングと、土井政司がこれはいけると思ったタイミングで出されたJAGUAR。それは何もかもを抜きにして考えると、世の中の人たちに対して彼らは同じことを思っているのだと思います。今それを出さなければならなかった。その「灯り」の意味を考えなければならないのです。
〆はもちろんこの曲で!
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ari0921 · 2 years
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桜林美佐の「美佐日記」(197)
「武器輸出」と「装備移転」って何が違うの?
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、令和4年11月の今
回は197回目となります。
 先週は、新嘗祭である「勤労感謝の日」の祝日、
海外ではサンクス・ギビングデーがあり、さらに今
はサッカーのワールドカップも行なわれていて、胸
躍る週だったかもしれません。
 そんな中、私にもちょっと興奮することがありま
した。近所を歩いていたら電話が鳴り、立ち止まっ
て話していたところ、自転車が走ってきて目の前で
止まりその人が「あーっ」と私を見て言います。
 数十秒間くらい、なぜ目の前で人が立ち止まった
のか意味が分からなかったのですが、ぽんこつのパ
ソコンの如くに脳がようやく動き出し、私が知人と
15年ぶりくらいに遭遇したという事実を理解した
のです。
 しかもすごいのは、私は外を歩く時にはマスクを
顎にずらしたりしているのですが、その瞬間、たま
たま電話で話すために完全にはずしていたため、相
手が気が付いてくれたというわけです。
 その方はバーのオーナーさん。そこは保守系言論
人が集まる「論壇バー」として巷では有名でした。
かれこれ20年くらい前はみんなでよく行っていた
のでした。
 近くに住むようになってから、顔を出したいと思
いながらも忙しさの中でなかなか実現していません
でした。
またこれも運命的で、この日はたまたま家人がおら
ず夜はひとりで仕事をしながらおにぎりでもパクつ
くかなあと思っていたところでしたので、こんなタ
イミングはないと、その夜「論壇バー」に行ってみ
ることにしました。
 そして長い年月を埋めるべく色々とお話しました
が、この間に亡くなったり介護で忙しくなったりと、
昔馴染みの皆さんたちの近況を知ると、自分は歳
を取っていないつもりでいても、実際は時間が確実
に流れているのだと改めて知らされることになりま
した。
 この当日の時間を少し巻き戻すと、その日は午前
中から私は外国人の方々を相手に防衛産業や装備に
ついて講話をするという、私にとっては緊張する仕
事をしていたのでした。
 最近、通訳の方を介して、あるいは自分自身で、
説明したいことを英語に変換する作業をすることが
何度かありました。
 そうすると、ドツボにはまってしまうことが多く
あります。例えば「武器輸出3原則」を改正して「
装備移転3原則」に変わりましたという話は、よく
考えるとものすごく難しいものです。
 「武器輸出3原則」は1967年に作られたもの
で、共産圏や紛争当事国への武器輸出を禁止したも
のでしたが、その後、全面的な禁輸ルールになった
経緯があります。
 でもそのルールの名前が「武器禁輸」の原則とか
なら分かりやすいのですが、「武器輸出」というの
はなんともややこしいではないですか。
 そもそもかつて日本は武器輸出をしていましたの
で、そのために作ったルールだったのに、いつの間
にかそれを全てダメだと解釈してしまったことが複
雑になった原因です。
 さらに、では「武器輸出」と「装備移転」って何
が違うの?という疑問も出てきます。
「アームス エクスポート」をやめて「エクイップ
メント トランスファー」に変わりましたと聞いて
、ああそうなんだと納得できる外国人は、よほどの
日本通でしょう。
 なので、下手にこのような言葉を出してしまうと
、説明が非常に面倒になり、通訳をお願いしていて
も大変なことになり、いえ、通訳を介すると2倍の
時間を要しますので、結果的に限られた時間をかな
り割いてしまうことになります。
 そう考えると、霞が関などで官僚の皆さんが徹夜
で言葉を必死で編み出す作業というのは何のためな
のか、と思わざるを得ません。
 せっかく英知を集めて作った言葉も「ソウビイテ
ン」ってどういう意味デスカ?と問われれば「アー
ムス エクスポートです」と答えることになるわけ
ですから。それ、モトドオリデスネ!ということに
なります。
 この不毛なやりとりをする時間がもったいないこ
とこの上ない。
 このようなことは、他にも数多くあると思います
。「集団的自衛権」にしても「駆けつけ警護」にし
ても、きっと同じように悩まれた方が多いのではな
いかと。
 とにかく、そんなことに改めて気付かされ、また
なんとも日本の情けなさを感じて頭がカッカしてい
たところに突然旧友との再会があったわけです。話
が通じる嬉しさを知らされた日でした。
今日も最後まで読んで下さりありがとうございます
!どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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nonno · 2 years
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2022.07.17
転職を決めた。彼氏の知り合いが経営している知的障害者施設。
20歳から始めた福祉の仕事、1番最初は知的障害者への生活支援だった。鬱々と生活していた中で、バイトしなくちゃな〜とぼんやりとした中で出会った仕事。妹が自閉症スペクトラムなこともあり、どこか縁があるような気がして始めた。採用してもらえたことが嬉しくて、母親に事業所のパンフレットを見せながらあれこれ話したことを覚えている。福祉のことなんて何も分からなかった私に一から福祉の心を教えてくれた先輩、あの先輩の言葉一つ一つが今の私の基本となっているように思う。退職する時に貰ったアルバム集に先輩が書いてくれた「相手を想いやる気持ちがあなたの強みですよ!」が常に私のやる気となって今まで仕事を続けられた。だけれど時にその言葉を思い出しては辛くなり悩むことも多く。介護の仕事は障害者支援と比べとても忙しく(事業所によるのかもしれないけれど)どうしても業務的になりがちで、どうにかこうにか1日を終わらせ過ぎていく毎日。モチベーションなんて皆無で、自分の余裕の無さとキャパの小ささのせいなんて理由を付けて、相手が嫌がるだろうなと容易に想像が付くようなことも平気で出来るようになった自分が心底嫌で、こんなことをする為に福祉の仕事を始めたわけじゃないのにと。元々この仕事は自分には相手を想いやる気持ちがあるから続けられる仕事だと思って始めたのに。相手を想いやる気持ちが私の強みだとするならば、その強みは私にとって最大の弱みになるのだと。こんなことをしてお金をもらうくらいなら辞めた方がマシだと強く思うようになった。大人数を相手にしながらでも、もっとこうしてあげたい、もっと丁寧に介助したい、もっと本人の意思を尊重したい、深く会話がしたい、やりたいことはたくさんあった。でも忙しすぎて出来ない、悔しい。ふと思った、業務に追われているからと言い訳してこんなにも冷たく雑に接しているが、道端のただの人に同じように接することが出来るのかと。絶対にできない。私にとってそれは人道的ではないからだ。ならばなぜ職場ではそのような非人道的なことが出来るのか。少しずつ少しずつ脳が麻痺していっていることを感じる。このままここに居てはいけないと思った。
転職先はとても小さな事業所で、今よりもっと一人一人に向き合える職場だと思う。私は静かに、ゆっくりと人を助ける仕事がしたい。心を落ち着かせたい。それが仕事に対して軽く甘く考えているだとか、そんな仕事はないだとか、そうかもしれない。だけれど少なくとも今よりは私のしたい仕事が出来るように思う。これは逃げなのだろうか。甘えなのだろうか。
私は自分の考えで頭がいっぱいになっていてもしかしたら物事を客観視出来ていないかもしれない。そう思うと不安でたまらなくなるけれど、今は自分の決定を信じてみたい。
人生には、無駄なことなんて一つもない、絶対に。
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saritamix · 2 years
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7/16
糖尿病内科医から血糖値測定の時間や食事についての変更を言われた。そのスケジュールがまた忙しなく、夜あまり寝れそうにないと思ったので、夫が面会に来る前に1時間ほど仮眠を取った。
16時半、夫が面会に来た。ちょうどその時に間食も来たので夫がいる前で食べていた。食べている時も起きた時も汗が引かず、寒いけど暑いなぁと思いながらパンを食べ切る。汗をバスタオルで拭きながら夫と話していたけど、何だか夫の様子がおかしかった。
「呂律が回っていないみたいだけど大丈夫?」と聞かれた。心配かけたくなかった私は「余裕のよっちゃん✌️」なんてふざけたことを言っていた。「ナースコール押すよ?」 「え、いいよいいよ」ナースコール押される。「妻の呂律が回っていません…」
記憶はここで途切れた
気付いたら点滴をしていて心電図を付けられていた。私の意識が戻って落ち着いた頃、別室に待機させられていた夫が戻って来た。呂律が回っていない&目の焦点が合っていないからナースコールしたら酷い低血糖症状(血糖値21)が起こっていたこと、助産師8名に囲まれて処置されていたこと等。そして異変を感じたらナースコールを押して欲しいと切実に言われた(助産師にもよく言われる)。
夫には妊娠するよりもずっと前から冗談で「私がいなくなったらどれだけ悲しむか見てみたいな〜」とか「君は私がいなくなってからそのありがたみを実感するんだよ」とかめんどくさいメンヘラ発言をしていたけれど。。実際に私が死にそうな場面を見て少し泣いてしまった夫を見て、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
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もしかしたら死ぬかもしれない可能性もあるよな…と思い、後悔がないように2年ぶり?に母親と話した。母親と話したら号泣するかと思ったけど、相変わらずのマシンガントーク&トンチンカンな謎理論をぶちかましてきて逆に涙は引いた。
母は帝王切開(陣痛有り)で私と兄を出産しているけど、私に対しても「10ヶ月過ぎたら帝王切開が出来ないか積極的に医師に相談しなさい」 と勧めてきた。「日本では下から産むのが正義みたいに言われているけど、アメリカだと皆お腹切っている人多いよ?」 とか 「あなたは高血圧なんだから下からよりも予定して帝王切開した方が母体にも赤ちゃんにも良いはずだよ」 等。今日の回診の産科医からは「帝王切開は癒着とか合併症とかのリスクがあるから〜」 と説明されたんだけどな。。どちらも納得出来るので、一体何が正しいのか分からない。でも帝王切開が楽なお産ではないことは母が身を持って知っているはずだから、まぁもう何でもいいや…と途中から話半分で聞いていた。
クッシング症候群についての不安を伝えたところ、「逆に病院で見つけて貰ってラッキーだったと思いなさい」 「あなたはただの病気で入院したわけじゃない。赤ちゃんと一緒に治療していると思いなさい」 「ずっと望んでいた妊娠でしょ?宝物じゃん。ママになるんでしょ?しっかりしなさい」 「暗くなる必要なんかない。産まれる楽しみがあるでしょ?前向きに捉えなさい。母親が暗くなると赤ちゃんが鬱病になるよ?」 等様々なことを言われた。普通だったら泣いたり怒ったりするかもしれないけど。。どこか腑に落ちる部分もあってかすんなり聞くことが出来た。
入院生活はおそらく出産までコースの可能性が限りなく高い(というかもうほぼ確定だと思ってる)。ずっと前向きなんて無理だし、泣くことはこれからもあると思う。それでも1日、1週間でも長くお腹で育てて週数を稼ぐ気持ちを何とか持とう。体は本当に辛いし低血糖症状も怖いけど。。そこはもう病院を、医療を信じるしかない。。
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jaguarmen99 · 2 years
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93 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:22/10/15(土) 14:21:52 ID:Dq.9j.L1 [1/2]ここで報告される人達に比べたら何て事ないのかもしれないけど、自分が今まで見た事のないタイプの人で色々衝撃だった同僚50代の女性なんだけど、会話の8割が家族や仕事、生活の悪口や不平不満会った事もない人の家族の悪口なんて聞かされても正直反応に困る新しい人が入る度にいきなり恋人や配偶者の有無を聞き出し、いないと知ると「可哀想~」とニヤニヤする有給を取った人に取得の理由を聞き、言いたがらないのにずっと食い下がる(因みにご家族の命日だったそう。問題の女性が後から周りに言いふらして一悶着あった。)PCを使った簡単な作業がある部署なのに「私アナログな人間だから~」と作業を全く覚えようとせず、専用ソフトでデータ管理しているものを何日もかけて全部紙に書き写し「皆が見れる様に紙に書きました!今後皆これを見て作業しよう!追加があったらこの紙に全部書いていってね!」と謎の提案をしてきたり色々ズレていたそもそもそのデータは社内のPCから誰でも見れるし編集も出来ると何度説明しても馬耳東風印刷やメール機能すら満足に使えず、何かしたい時は誰かを呼び止めてやらせようとする技術的に不可能な事を思い付いては他人にやらせようとして断られると臍を曲げてまた誰かを捕まえてずっと愚痴ってる仕事中にやる事じゃない、最低限の仕事は覚えろと何度も注意されていたけど何故か本人は自分は仕事が出来る人だと思い込んでいて手が付けられなかったあからさまにボーナスを削られたりもしていたが愚痴りながらも辞めない94 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:22/10/15(土) 14:23:41 ID:Dq.9j.L1 [2/2]コロナでバタバタし始めた頃、会社が従業員から数名を出向に出すと言った業績が著しく悪化してる訳でもないし、出向先も全く関係無い別業種なんで不思議に思ってた後から上の人にこっそり教えてもらったけど、厄介者を辞職させるのが狙いだったらしいどんなに評価が下がっても急な欠勤が続いてた人や就業時間中無駄な動きが多い人、ミスがいつまでも改善されない人に出向命令が出され、その大半が辞めた勿論その女性にも出向が命じられたそして一年間の出向から戻って来たのはその人だけだった戻って来た初日から悪い意味で絶好調で、これから産休を取る人に向かって「もう歳だから産んどきたいのね~」と言い放っていたとにかく全方位に��神経な発言が多く、度を越しているので都度きつく注意はされていたそれでも反省する様子は無かった部署で必要な最低限のスキルすらない人が何故この仕事に?と不思議だったけど、本来他部署に居たが周りのと馴染めず苦情が相次ぎ、仕事にならないであろう部署に移されたらしい自主退職を狙ったらしいが駄目だった、と無駄な手間をかけて忙しそうにして本人は仕事した気になっている上に言っても改善されず、馬鹿馬鹿しくなって退職する人がぽつぽつ出始めたので自分も辞めたパンとスープと猫びより、っていうドラマがあるんだけど、それに出てくる喫茶店の一言多いママの喋り方や目付きが滅茶苦茶そっくりで思い出したのでカキコドラマの方は根は良い人なんだけどこの女性は根腐れを起こしていた何があったらあそこまで攻撃的で敵を作る事しか言えない人になっちゃうんだろう誰かを否定する事で自分のランクが上がるとかそういう価値観なんだろうかどうしてそうしよう、こう言おうと思ったのか少しでも理解出来たら視野が拡がるかと思ってたんだけど今も理解できないままだわ
続・妄想的日常
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nebula729-3 · 2 years
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(お前メンバーだから歌割り分かるだろ、っていうツッコミは全編においてそっとしておいて。あくまで今こうして楽曲を聴いてる人間の感想ってことでね。あと順不同なの、俺が自分の中でモヤモヤしてるから、全曲分あげたら多分投稿し直して見やすくすると思う。気が向いた時にお付き合い頂けたら。ただの音楽が好きな端くれ者の興奮垂れ流しを、これから気紛れにお送りしていきます。)
# Tic Tac Toe
フルで聞いて最初に思ったこと。
1番と2番で完全にパート分かれてて珍しいことやってんな…。曲に圧倒されがちだけど、サビのハモリが普通にえぐい。あの一瞬の広がりやばくね?(1番の 君が"first、Naked now"。2番の"Lady is first、Naked now" のところ。) あとサビ前の掛け合いがテンポよくて気持ちいいな。その時には繰り返されてたスネア(タン、タンタン、タンッタッ、ってAメロとサビでずっと鳴ってる太鼓の音)が消えて対照的に重低音が伸びやかになるから、より歌声の方にフォーカスが当たりやすいというか、メリハリが生まれてる気がする。サビにはまたスネア復活するしね。
サビ前のパートを歌ってる康二、佐久間、目黒、翔太の歌声がめっちゃ綺麗だからより一層感じるな。佐久間と翔太のロングトーンに被せるように舘さんとふっかのラップ調な低音が、さらに相対的に音楽としての幅を広げていてよくキいてる。しかもここで舘さん×ラウ、ふっか×阿部の掛け合いだろ?掛け合い祭りかよぶち上がらねぇ奴がいるかよ天才でしかねぇな本当にすげぇよありがとうございます。ひれ伏しました。(そういえばこのアルバム、掛け合いしてる曲が多いんだよな。多分アルバム聞いてる間ずっと地に伏せてるんだろうな俺。)
以下、歌割りと歌声の響きなど諸々。展開パートや要素毎にテキトーに分けた。歌、音楽、歌詞、曲全体とか。そんな感じ。
𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄 𓈄
ハモリで言うなら、1Bは康二→佐久間→(佐久間はそのままロングトーン)舘さん×ラウの掛け合い、なんだけど。佐久間の下でハモってる子が居るんだよね。佐久間の歌声をめちゃくちゃ引き立てて、すっげぇ支えてんの。誰だ?って思うじゃん。で、舘さんとラウの掛け合いがあってる時も佐久間の下で一緒に歌ってんの。ってことは消去法でこの気持ち良くて渋めにハモリを歌ってるのはあの可愛らしい康二なんだよ。どういうこと?ギャップの塊なのは知ってたよ。歌声ハスキーだしさ。今まで言ってこなかったけどすげぇ好きだよ。まぁギャップは皆に言えることだね。そして康二だと思ってハモってる所をよく聴いたら、"inside"ところめちゃくちゃ康二の声すんだよな。いい声してんじゃねぇか…。吃驚した。
サビのハモリは諦めた(頑張れよ。) メロディ歌ってるのが佐久間・舘さん・康二だから、下がラウかな。そう考えて聴くと"Full moon in the sky" がラウの声っぽい感じすんね。ラウがハモるって珍しくね?シングルだとやっぱり主旋律が多いからさ。とても新鮮だなって思った。"now let's play the game baby〜" の下もラウがいってるし。変声期が落ち着いたからか、低音が渋くなっててかっこいいんだよな。ラップも勿論かっこいい。普段が可愛いから思考が追いつかねぇわ。ガラライキュ!とかほら、やっぱ可愛いし。あ、これはまた後述する。それで、俺達はメンバーの人数が多いから、曲にコーラスの方を入れて収録するのはあまりないと勝手に思っていて。たまにあるけどね。(たしか…あったはず。多分。ちょっと今パッと思い出せねぇわごめん。) なんせユニゾンになったら9重奏が成立するから、ハモリもメンバーがいってると勝手に思いながらこうダラダラと考えてる。冒頭のサビがエグいって言ってたところは、ラウは多分主旋律に戻って、舘さんが "君がfirst、Naked now"で上いってんじゃねぇかな。コーラスじゃなかったらの話。
いや舘さん音域広すぎじゃね?知ってたけど。(話逸れるから括弧内で。PPPラスサビのフェイクが彼の最高音だと思います。俺には多分出せない。きっちい。カラオケとかで歌おうとしたら喉めっちゃ締めちゃうもん。あそこどうやって声出してんだろ。はい戻るよ。)そして上にいったかと思えば、サビ最後のフレーズは佐久間の下いってるとこマジでかっこいいね。同じ人間で合ってる?艶がある歌声なのにキレのいい歌い方をするから、次に俺が2番に入る時にめちゃくちゃ疾走感生まれてる。すげぇわ。あとマジで申し訳ないんだけど、声がエロい。いやホントごめん。艶がすごい。吐息のせい?吐息系毎回狙ってない?いやごめん。そういう耳では聞いてねぇんだよ。ごめん。めっちゃいい声なんだよ。頭ではよくよく分かってる。ごめん。なんか今の俺キッタキッテナイ状態になってるけど大丈夫?率先して演じてくなよ。ところで俺のパートに被さるようにWhooって言ってんのはラウ?康二?ラウっぽい。どうなんだろ、発声のタイミング的に佐久間と舘さんは厳しいし。どちらであっても、たったの一言だけど発音にめちゃくちゃセンス感じる。2番サイドにステージをふいっと投げるみたいな。
佐久間の歌声はひたすらにクリアなんだよな。前からずっと思ってる。透き通った薄いベールや雪のように溶けるような透明感っていうよりは、滝や氷のようなキレがあって力強い感じ。水でいうと軟水じゃなくて硬水だよな、確実に。口当たりもキリッとしてんじゃん?そういう質感の歌声だなって。普段の声もよく通るし。霞とかくぐもってる声とか、そういうのとは対極に位置してるよな。儚い曲でもそのクリア感は健在なんだけど、この曲はひたすらに尖ってて戦闘力が高いから、歌い方自体は治安悪くないのに佐久間の歌声の強さをより浴びれると思う。耳に入れた人はそのまま佐久間にアオーンって食われてしまえ。あの強さには誰も太刀打ちできねぇから。そして話を戻せ。
𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄 𓈄
2番メンツのハモリも考えてみる?既に語りすぎだけど大丈夫そ?しかも1人多いから途端にムズいんだけど?(歌割り聞き分けできるすごい人がそのうち動画でも出すだろうから今焦ってしなくてもいいだろ。仰る通りです。あとで映像で歌った時の自分達見て答え合わせでもしとけ。)
Bメロ翔太ロングトーン中の掛け合いはふっか×阿部でしょ?その時の下は俺か目黒or俺と目黒。ここ分かんなくて悔しいわ。5人のデカい壁。そしてサビの下は"Full moon in the sky"がふっかの声に聞こえる。いや、阿部っぽい。1回目の"now let's play the game baby〜 "は阿部だもんな。(ここは1番のラウと同じ音程を歌ってると踏んでる。) 2回目の下ハモは俺でメロディはふっかだし。この時(Full moon〜)に下が阿部なら、その直後のフレーズの上はふっかがいってる気がする。阿部が下いった後すぐに上にはいかねぇだろっていう完全な山勘。もしそうだったら阿部の音感がマジですごい。音程差がかなりある音を歌うのって、やっぱ発声の技術も音感のセンスもいるだろうし。いつかの取材で、歌でいうと阿部が忙しくしてるって俺言ってなかったっけ。分かんねぇけど。
ふっかって上ハモ綺麗に歌うよな。イチバンボシの上ハモに吃驚した記憶が蘇った。あ、待って。ここ俺かも。俺だわ。"You feel it〜first "のハモリの音が広がるところ。もうふっかと一緒に歌ってるってことにする?そうしよう。個人的な平和的解決。サビの翔太はその素晴らしい声をメロディで存分に発揮してんね。流石メインボーカル。やっぱ歌声かっこいいな。多分翔太の歌声には他の曲でも触れるだろうから、とりあえず今はこの辺りで。
目黒もサビは翔太とメロディを一緒に歌ってるかな。主旋律により厚みが増してる。目黒の方が少し低めだから、翔太の歌声と一緒になるとお互いに補完してる感じがして安心するんだよな。2人とも綺麗な歌声だし。そしてソロになったら途端に魅力が増すよなぁ。"もう霧は fade it out "、"now let's play the game baby〜 "を高めの音をそのまま地声でいってるのすげぇ好き。結構レアな歌声じゃね?多分目黒の歌声もまた他の曲で触れると思う。
サビの俺は多分、メロディ、平和的にふっかと一緒に上ハモ、メロディ、ふっかメロディ(○ or X 〜)の時に下ハモ。の流れかな。いやハモリの聞き分けムズすぎ。5人でこんだけ音の幅広げられるのすごくね?1番の4人も然り。あとあれだね、俺こんなに治安悪めに歌ってたのか。刺さる人には刺さるかな。自分のことになると途端に言えなくなんの分かる?他の曲だったらもっと多分言えると思う。所々に珍しい箇所あるしね。
阿部はさ、高音は柔らかくて包んでくれるような優しい歌声で、可愛らしい声も出せるのに低音の低さはエグいよな…。舘さんと同じくらい音域広いと思う。ハモリって音感ないと難しいから、本当に音感のセンスがすごいなって。この曲は勿論アルバム全体でも、そしてずっと前から思ってる。俺は阿部の歌声がもっと聞きたい。個人的な呟き。(早く他のアルバム曲聞け。歌ってるから。)
阿部とふっかって声質が似てるから聞き分けるのが一番難しい。ハモリとなると必然的に声量は小さくなる訳で。2人とも雪のように溶ける優しい声質で、佐久間と真逆に位置してる。いい歌声だよなぁ。いや皆歌声めちゃくちゃ良いしそれぞれの魅力があって大好きだよ。唯一無二のものだからさ。あー、もっと耳がよくなんねぇかな。それか音源をどうにかして抽出する技術がほしい。お客様の中に天才はいらっしゃいませんか?いらっしゃいましたら至急こちらまで。それで救われる命が数多あります。探したらいそう。どうか居てくれ頼む。
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大サビはまさに起承転結の「転」だね。ラスサビに向けて音が上昇していくあたり、やっぱり上手く作られてる。短いフレーズが曲をダレさせてないし、低音の歌声でエッジを効かせて曲の戦闘力上げてんね。途中で差し込まれるブレイク(無音)も曲のメリハリとしてこれまた上手く作用してる。いやほんと曲の作りがすごい。あー、構成でいったらミッドナイト・トレンディが優勝してんのかな?(現時点でちゃんと聞けてないから疑問形になってる。)まぁその辺は完全に個人の好みか。
𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄 𓈄
ラスサビの翔太の突き抜けたフェイクが自由な動きをしてて、しかも綺麗で艶やかなもんだから初見で聴きながらええ…!?って思わず声が出た(笑)そして秒で巻き戻した。いやぁ、こんなフェイクもするんだな…すげぇな翔太……。フェイク厨なんてもんがあったら卒倒してるんだろうな。ラスサビは9人が集まってユニゾンやハモりをしてるから歌割りはもう訳わかんねぇことになってんだけど、1回目の"now let's play〜" は翔太がフェイクしてるから俺と下が舘さんで。2回目は翔太おかえりってことで、翔太と下が目黒かな。ラスサビはメインの歌声がどんどん変わるからここホントすごいな。上と下は1番2番で歌った音程のままなのかな。とにかく歌声の重なりがすごくて圧倒される。曲も終盤で大盛り上がりだしね。
𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄𓐄 𓈄
一旦歌声から離れて曲全体を眺めてみると、全体的に妖しくておどろおどろしい感じ。リードとサビで後頭部や身体の背面をゆっくりと逆撫でされるような、ゾワゾワと違和感を抱かせる音で、でも少しだけ柔らかく可愛らしいポンポンとした電子音がさらに奇妙な感覚を掻き立ててる。Aメロで様々な歌い方が畳み掛けられて予想外の変化球だらけ。歌い方についてはあとでちょっとまた話してる。聞いた人の意表を突く曲。めちゃくちゃいい。康二のフェイクから始まるところからもう一気に惹き込まれるし、驚いたし。曲調もかっこいいもんな。一度、ん…?と得体の知れない何かに惹き付けられるようなものを感じたらこの曲の勝利です(多分。)中毒性めっちゃ高い。あ、そこは曲名通りToxic Girlに譲るべき?いや、あれは有毒性がしっくりくる気がするんだよな。今この曲でストップしてるから、この後聞いて考えるわ。先が長い。幸せな渋滞。時間をもっとくれ。俺の処理能力の問題?黙れ。ごめん、その通りです。
ダークな感じの楽曲���思えるのは、見知らぬ誰かが言ってたけどマイナー調だからかな。初見でめちゃくちゃハロウィン感あるって思った(書き忘れてた所。翔太ありがとう。) ラウが言ってたようにHIPHOPってことで、突き抜けて尖ってんね。Infigfterとはまた違うベクトルの尖り方。そこはまぁジャンルが異なるもんな。スネアの鋭くて歯切れのいい音が、シャープでかっこよさを感じる。歌でいうと翔太のがなりも堪んねぇよな。音やリズムは同じものが終始続いてるんだけど、皆の印象的な低めの歌声とか掛け合いとか、上下するそれぞれの歌声の音程がもの凄い重なりをし合ってて圧倒されるし。一瞬何が起こってるのか分からないくらいの密度で、Aメロ、Bメロ、大サビ、ラスサビの各所で様々な歌い方が曲を広げてる感じがする。あとはイントロとアウトロの静かな音+例の違和感煽りぽんぽんサウンドと、ラウの低い歌声が街頭のない暗くて深い夜をありありとイメージさせてくるね。
あと、アウトロでこの曲の冒頭にあった数秒の同じ展開を持ってきたのはすごく巧妙だと思う。ぽんぽんぽん、ってあの音だけが響くのとラウの声ね。直前のラスサビが怒涛の大盛り上がりだから、途端に静かになる曲全体に、それまで賑やかだった興奮もろとも皆どこに行ったの?って少し置き去りにされる感じがあるし、そういえばこんな夜だったな…って思い起こされる感覚が生まれたんだよ。始まりと最後の音が同じだから、色々あったのにその間に起きていた事が一瞬記憶から飛んでる気がしない?俺だけか。そして始めに戻る。無限ループって(以下略)。より中毒性を思わせる理由の一つじゃないかな、と感じる音使いでした。静寂の中、最後に響いたのはあの三音でした、と。刷り込みの手本か。とても、とても褒めてます。脳や感覚の仕組みを知ってる人が作った…?と深読みしてしまうくらいには、作曲した方はしてやったり、と思ってんじゃないかな。そうじゃないとしてもあの展開はすごい。
そしてこの曲を推薦したラウの音楽センスもすごい。予めメンバーごとにジャンル分けされていたとはいえ、彼の目の付け所が新しい音楽の境地へと連れてきてくれたんだと思う。パリコレ本当におめでとう。
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歌詞もさらっと見たけど、満月の月とか狼とか虎とか。まさに虎視眈々って感じだよな。誘うよりも狙ってる。英語で噛み付くとかも言ってんじゃん。その通りだった。歌詞の所々に本能、欲望、スリル、violin、さらには裸まであるからきっとそういうことだよな。身体的に?精神的に?どっちがいいっすかね?まぁ解釈は自由ってことで。でも○×ゲームなんだろ?駆け引きかー、そうかー。いいねぇ。この曲は自分の中で勝算が見込めてるスタンスな感じがするな。だからこそ攻撃性みたいなものを感じられるのかなって。負けがない感じ?なんせ噛み付くくらいの勢いなんで。一応ゲームという形として提案しつつ、気ぃ抜いたらやられるよ?みたいな。勝気っつーのかな。まぁそれでもゲームだから最終手にどう転ぶかは分かんねぇし、そのスリルも味わってるとしたら、この曲中でのスリルの意味合いは深いね(勝手に深くしてるだけ。) 歌詞の考察はほら、センスのある見知らぬ人がやってくれてるだろうから。どうしても音を聴きがちな人間なもんで、歌詞については全体的に浅めになっちゃうかもしんないわ。そこは許してね。そういやToxic Girlも駆け引きっぽい感じだけど、あっちは翻弄されてる側なイメージが強いな。共依存とか。毒があるとわかっていても離れられなくて、止まらなくて。寧ろそれを分かっていながら堕ちていきたいみたいなニュアンス。いやこれToxic Girlの方で話せよ。はい、終わり。
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そして遠吠えアオーンは我らがドラマ班ということで、ありがとうそしておめでとう。流石ですね。おあとが宜しいようで。
Fin.
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recipe-cookingclass · 1 month
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パパがちゃんと手作りで作る『こども学校行事弁当』。
お弁当の時間をとても楽しみにしている
子供を喜ばせたいと、前日いや、前々日からいつも
紙に書き出して準備をする主人です。
美味しいものを喜んで食べてほしい。そんなお父さんとしての子供への愛情は
やっぱり反映されているなと感じます。
別にキャラ弁じゃないですし、9割ぐらいは冷蔵庫にいつもある材料で
作っている子供の毎日ごはん。
急に子供って『パパお腹すいたぁ』『ママお腹すいたぁ』と
いうものでして、それでも外食で食べるよりも美味しいものを、栄養いっぱいで
食べさせてあげたいと思う普通の、親としての愛情。
自炊外食が多い中、例えると『うどん定食』を食べにいくと仮定します。
そうすると玉丼などのセットでコシのある美味しいうどんでも、パパッと作ろうとなるのです。
普段から、外食だからこそ、美味しいもの目掛けて選び訪れることは大切と思っているので
外食の美味しいかった味が基本ベースとなります。
それがいつの間にやら、料理をする回数も増え積み重なるもので、もっと美味しいものを作れるようになるのです。それが今のパパでしょう。
もちろん、私が料理ができないわけもないですが
パパが作るということが、昭和でいう『うちの父親は仕事仕事で、家にいる方が少なく、子育てを何もしてなかったな』とかいう知人友人も多かったですし『そういえばうちの母は仕事仕事で料理を全然できないし、食事も買ってきてばっかりか、外食になったな』とか。結構な確率で聞きますし、それは良いことでは無かったから皆、口々に出る。そんなお話によくなったものです。
塾や習い事ばかりで家族で一緒にいる時間も少ないのは今も昔も、まぁ多いです。
そこらの費用のお金を捻出するために両親共働きなんて、さらに増えましたしね。
そうなると言い訳が『仕事で疲れて、料理をする気力がない』となるわけです。
でもどうでしょう?パパは子育てしつつ、子供の面倒を見つつも料理も得意では無かったレベルの『自炊料理』でしたが、びっくりするほど腕前が上がりました。別に料理教室へ行ったわけでもなく私の料理を見たり、ぱらっと料理本を見たりぐらい。
主人は料理をしながら言います『僕の子供時代は、まずこうだったことはなかったな、。美味しくないものを無理やり食べていた。僕の意見は聞かない親だったし』とか。育った思い出のお話はよくします。
そんな主人は、子供の意見をしっかりと聞いて、いろいろ時間をかけて、労力をかけ努力しての上で料理が上達。
嬉しくなるお弁当は、親として普段から心がける親の子供への愛情ですしね。一番わかりやすいでしょう。
ある時、急な校外学習がありまして、おにぎりでも大丈夫ですのでお弁当を用意して下さいと学校から
お知らせがありました。◉急な郊外学習なのでお弁当を無理しなくて良いです、おにぎりでも◉というお知らせ。なぜか子供が『郊外学習ね、おにぎりなんだってお弁当じゃなくて』この前の記事に書きました、同級生の子が遊びにきて一応、確認で『郊外学習はお弁当だよね?』と聞くと『おにぎり』
と言います。プリントには急なのでおにぎりでも良いですよとのことでしたし、忙しかろうがお弁当ぐらい、パパッと作って持してあげたいと思うのが親心です。子供ための少々ぐらいの労力や時間をかけるのなんて、親として当たり前の愛情だと思うものですし。
案の定、お弁当をたいがいの同級生の子たちは『おにぎりではなくおうちの手作りのお弁当』を持ってきていたそうで、おにぎりにしなくてよかったなと結果そう思いました。
楽しい郊外学習の楽しみの一つのお弁当時間を親としても、少しでも喜ばせたいなと思うのは当然のことです。私だって、母が特別なそんな遠足などは、とびきり普段とは違うお弁当を、朝早くから作ってくれたので。その後、うちの子はおっとりちゃんでして、『なんでか○○が手をつねってきたんだぁ』と不思議そうに。そして聞けば、意地悪な言葉を言っているのですがおっとりちゃんのうちの子は、何故なのか不思議そうに頭を傾げるだけ。いろいろ聞いてみたら、おにぎりの件でもお弁当を持って来させたくない意図があったようで、おにぎりを持っていくのを命令?のように誘導したり。他にも何回かつねって我慢させていたり(その事実の前後を詳しく聞き取って、そのお友達の行動や言動でその後、悪意が発覚するのですが。人の物を親に相談させず、自分が持っておいてやるとか(通常なら通用しない無理やりな言葉で奪う)言って、勝手に取り上げていたりなどなど)
お弁当の時間も1人怒っていた?ようですが、先生が見ていたので明らかに、その同級生の子が悪態、悪意満載で嫌味を言ったりとそんな事実があったそうです。主人のお弁当を貶してくれましたし、正直、ショックでした。
キャラ弁でもないですし、私が作るとまぁ、豪華になりすぎるかもしれませんけど、常に作っていません。
主人が作るからいつもの、日々の家庭料理です。冷蔵庫にあるもの➕リクエストのウインナーを買うぐらい。
日々の家庭料理をお弁当に詰めたようなものです。キャラ弁ならまだしも、お弁当箱は親のセンスですし。
我が子には、おかしいなと思うことは徹底的に叱ります。
友達が嫌なことをされているのに、見捨てるような行動は許さないとか、その同級生がやったことを、自分と置き換えてみないさい。
どう思う?された相手は?などなど逃しはしません。
その同級生の子が、平気で人の傷つく言葉を嫌味な主婦みたいに言っていたので、改めて我が子に『○○』とうことは悪意ないの?言えるのあなたは?とか。
我が子に『急にお友達をつねる?人にそんなことをするのは他の子もするの?』などなど。
本当に、大変でした。我が家では、誰にでもですが、嫌がらせしたり悪意を持つなんて親として教えてあげ必要性があれば当然、じっくり腰を据えて教えます。主人も私もしつこいぐらいに。
私たち親は、子供が一番可愛いですので、同じ子を持つ親御さんも同じだと思ってのことです。
子供が屈折し、やはり悪意や悪態をついたり、塞ぎ込んだりいじめをしたりと人に危害を加える子供は間違いなく『家庭に問題がある』のは事実であり、それらは現在では、それが真実だと認識も深まりました。
だからこそ、親は親で、自分の子供がどう言った状態なのか心理なのか、現状の家庭をどう思っているのかなどなど、常日頃から分析する必要があるのです。他の家庭の子育てに介入することはまずあり得ませんし、子供自身が過ごしやすい環境をそれぞれの家庭は、責任を持って作っていかなければならない責任は個々にあります。
なので、いじめの問題などは、子供自身の言動、日々の生活を見れば考察、分析���できるものです。日々の生活に追われ、子供のことに時間や労力をかけるのは親自身が時間や労力をかけることに、積極的でなければ出来ないことでしょう。ですが、子供をもうけた以上は、親は子供に手間暇かけつつ心理を���み安定させるべきなのは間違いないことです。親より経験も少ない質量も少ない子供に与えてあげられるのは、親や大人だけです。
子供はほっといても育つと言われてた割に、何故、少子化なんでしょうか?
そこに答えは山ほど出てくるはずです。
少子化の問題や進学や子供の自殺の問題や、いじめの問題や、教育の問題や、健康面や心理的な面や発達においての問題などなど本当に多くの問題あっての子育てです。ダイレクトに家庭の問題が、子供の人格に反映されている事実は認めざる負えないのです。
今回も、子供の精神が安定してこそ、子供たちはもっと自由に安心して生きていけるのだと、間違いなく感じております。
子供との信頼関係が築けていないご家庭は、子供自身がずる賢くなりますが
着眼点が違う親からすれば、おかしいことに気づくものです。
自分の子供を守るためにも、他の子供にも愛情あって接していき、それを素直に受け止めるのか、それとも?などが大変違いが大きい事実は、私たちが生きてきた時代も同様ではありますが、違った陰湿さを感じます。
お金でしか買えない娯楽にレジャーや、お金でしか買えない教育や教養。
なんとも、大人も発想力も行動力も落ちていっているのは、仕方ないことかもしれませんね。だから、子供たちの考え心理を見ようとも出来ないのだといえます。どこに重点を置くかで、『おうちの方が好き』『おうちのごはんの方が美味しい』などを言えるのだと思います。
私の子供の頃を振り返っても、おうちより外の方が好きでしたし、主人も同じです。そんな子供も多いですし、そんな大人が大半です。1人が好きな人も増えたのも色々な要因が複雑に絡まってこそです。
おうちの料理が一番と言えるのも、外食でじゅうぶん食べさせて、経験をさせた上で、家でもしっかりと親が料理をして、子供に食べさせているからこそ。
我が家の子供は、『家の料理を作れるようになりたい!』と意欲的ですし
給食などへの関心もやはり高くなります。世界の食文化においても、その食に関係する宗教などもお話ししてあげます。それでまた新しく知識を手に入れるわけです。
本当におうちが好きと伝わってきます。
そんな大人との信頼関係があるからこその自己肯定感の高さかとは思います。
子供自身が愛されている自信。これあったこそ。
それは『家庭の料理』がわかりやすい。日々の暮らしでいちばん、感じられるのです。たまの旅行などで、子供は愛情は感じれません。
今回のことでなおさら『食べることは生きることであり、成長である』
と言えると重く納得しましたが。
子供を喜ばせたい、子供にとっておうちこそ、居心地が良いと思える
そんなご家庭が少ないようで、我が家へ訪れて喜んでくれる子供たちが大変、多い。これが物語っているなというのが正直なところです。
やっぱり食の力は大きな影響。
ぜひご家庭で、お子様に喜ばれるような食事を家族で楽しみましょう。
必ず子供のプラスになるはずです。
料理研究家 指宿さゆり
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elect-low · 2 months
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【Interview】 yutakayanagi 〈Lyrac〉
Interview·Photo:Matsumoto Tadashi  
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2024年1月 elect-lowレーベルよりLyrac(リラック)の新譜「a wound heals」がリリースされた。今までのインストゥルメンタル曲が中心の作風とは違い、特に幽玄なボーカルと架空のサウンドトラックのような音楽の組み合わせは本作の大きな魅力だろう。普段の物腰柔らかい雰囲気の一方で、時折見せる強い信念や大胆さも感じさせる行動力など、普段SNSもやらない彼だが今作を通して今なにを考えているのか。貴重な機会を頂いたので新作から音楽を始めるに至ったきっかけ、そして4/29に迫る初のバンドセットでのライブなど直接訊いた次第だ。
音楽が先に出来て、それに対して浮かんできた言葉が “傷が癒やす“という意味の”a wound heals”だった。
---今日は忙しい中ありがとう。早速だけど新作『a wound heals』について
聞いてければと思います。今作は今までアンビエントやポストクラシカルの作風も感じさせつつも初のヴォーカル作品に仕上がっていますね。何か心境の変化などあったのでしょうか?
「まず2023年にリリースした『afterglow』というアルバムがあって、これは今まで自分が発表してきた映画音楽的なアプローチの楽曲やアンビエント作品に対して一度終止符を打つようなある意味今までの集大成として作ったアルバムだった。『afterglow』のリリース直後にその反動があって、すぐに長年やりたかったロックの制作に取り掛かった。生々しさが表現したく加工もほぼせず、ほとんどの楽器を自分一人で生録音する振り切ったアプローチに挑戦したくて。
その結果として『demos』というEPの形で発表する事が出来た。ボーカル作品としては『demos』が最初だね。それで今作は『a wound heals』は、その『afterglow』と『demos』の制作を経て出来たアルバムで、音楽的には今まで自分が得意としてきた分野に、『demos』で培った経験を合わせたような作品に自然と仕上がっていったんだ。」
---なるほど、まさしく『demos』はロック、ポストパンクのアプローチに仕上がっていて、yanagiくんの今までの作品、架空のサウンドトラックのような作風とは真逆と言っていいくらいの振り切り方だよね。
「本当は自分がティーンエイジャーの頃から(ロックを)やりたかったんだけど、いろいろな事情から当時はやる事が叶わなかった。音楽活動を始めてからは技術的な面では少し試せたりもしたけど、本当にやりたかったもの、バンド形態での演奏というものにずっと憧れ?のようなものがあったのかも知れない。やり残した事の一つというか」
---せっかくなのでプロフィール的な話も訊いていい?生まれは東京でしたよね?
「生まれは東京だけど、その後千葉の船橋に引っ越して。一回神奈川に住んでた事もあったけど、また船橋に戻ってきたりで。感覚的にはずっと船橋にいる感じかな」
---船橋はご自身ではどんな印象がありますか?
「東京湾がすぐ近くにあって、昔から宿街として発展してきた所だから魚介類なんかの食べ物は美味しい物が多いかな… それくらい?  汚すぎて海で遊ぶっていう訳でもないし。あとは海風の匂いとか波の音とか、ちょっとした買い物に行く時にも感じたりするから、自分で意識した事ないけど少なからず影響は受けているかも」
---どういう音楽環境に育ったんでしょう?
「幼少期にピアノを数ヶ月習っていた、くらい。両親も特に楽器を弾いてた訳でもないし、家族からの影響というのは無かったかな。」
---自分自身で音楽をやろうと思ったきっかけは?
「小学生の時からギターが何となくカッコいいと思うようになって。あと、『ファイナルファンタジーVIII (注1)』の登場人物でゼルっていうキャラがいるんだけど」
---意外な出典!
「(笑) そのキャラの部屋の中にアコギがあったりして、とにかく何となくギターがカッコいいと思ってたんだよね。『ファイナルファンタジーVIII』は世界観も相まってカッコいいというかオシャレというか。小学生でも認識しやすかった。」
---僕もFF8はやり込みました。サントラもめちゃくちゃ良いし。元からバンド思考だったんだね。
「そう、だけど上手くいかない事が多くて挫折してしまって。また当時は音楽以外にファッションに興味があったんだ。大学を通うようになった年齢の頃は、大学で法律を学びながら自腹で服飾の専門学校にも通って、洋服のデザインもしていた。服のデザインを考える時はやはり音楽からインスピレーションを受ける事が多くて。実際に好きなアーティスト、曲を聴いて世界観に浸りながら作業するのがしっくり来ていた」
---なるほど
「やっぱり洋服をデザインするっていうのは、うん。何か違うものから、置き換えて、落とし込むっていう、まあ芸術全般そうだと思うけど。逆もまた然りというか、そのときにやっぱり自分としては音楽をやりたいなと」
---つまり洋服を作る上で音楽は密接にリンクしていて、服をデザインする過程で逆に自分の中に浮かんだ音楽を表現したいという気持ちが強くなった」
「うん。そこからまた作曲を学びつつ、当時はとにかくいろんな本も読んでた。
ライブハウス、クラブバーでも演奏したりして自分のスタイルを模索していく中で、2019年に本名名義でリリースした『Okitsutsutae』という作品をようやく形にする事が出来た」
---『Okitsutsutae』の楽曲が坂本龍一さん主宰のラジオ”Radio Sakamoto”でも楽曲が流れてたんだよね。その後、映像作品やファッションショー用の音楽も担当したり、キャリアを重ねていく中で2020年にソロプロジェクト”Lyrac”が始動しました。本名名義とLyrac名義の明確な違いはある?
「実はあまり考えて無くて、Lyracも本名も結局自分自身のソロプロジェクトだから明確な差というのは今のところ特に(無い)。ただ今後は何かしら差別化していく可能性もあるかも。」
---ありがとう。話を最新作に戻すけどアルバム名を「a wound heals」にした理���は?
「基本的に音楽(アルバム)が先に出来て、それに対して浮かんできた言葉が”a wound heals”だった。意味としては“傷が癒やす“という意味でその時の自分の心情もあったのかな、ピッタリだと感じた」
---傷が癒えるじゃなくて、傷が自分を癒してくれる。
「逆説的であるけど、自分の人生観として傷というかトラウマというか。
そういう経験が月並みな言い方だけど、(今の)自分を作ってる。そもそも傷自体が癒してくれてるんじゃないかって。そういった考えを発展させていった」
---興味深いです。アルバムのオープニングナンバー「a profound sea」
自分はこれ何となく聴き覚えがあるんだけど(注2)、今にも消え入りそうな幽玄なボーカルが印象的です。
「曲名は簡単に言うと深い海っていう意味で、漂っている雰囲気を醸し出したかった。あとこれはアルバム全体にも言える事なんだけど、歌詞はもちろん存在するけどその意味性は極力持たせたくなくて」
---タイトルやボーカルの歌詞はあるけど、解釈は曲を聴いたリスナーに委ねてる?
「そう。だからボーカルの音量も意図的に目立たせてないし、歌詞カードも作っていない。」
---この曲はオープニングナンバーだけあって、後半開けたような展開がありますよね。今までの作風からすると珍しい曲調なのでは?
「でもあんまり変わらないような気がするけどね。サントラっぽいというか。うん。自分ではそんなに違いは無いように感じる」
---3曲目で表題曲でもある「a wound heals」この曲が一番最初に出来て、アルバムに発展して行ったという流れでしょうか?
「順番で言うと実はあまり差は無くて、この曲で言うと“Atoms For Peace” (注3)のような曲を目指していた。そういう願望はずっとあって、ようやくそれが形になったという感じ。」
---なるほど、どの曲も割と同時進行で進めてたんですね。5曲目の「a long sleep」も、この曲も今までのインスト曲とは違った趣のある曲だよね?
「タイトルだけで言えば、自分が長らく不眠症で。(出来た楽曲に対して)不眠症のイメージが浮かび、それに対しての願望、自分の願望がタイトルになった(笑)」
”a wound heals”は普段あまり音楽を聴かない人にも聴いてほしい。
---6曲目の「afterglow 2」は前作「afterglow」にやっぱり繋がりが掛かってる?
「もちろん。前作の『afterglow』の時にアイデアをいくつか出してて、
その『afterglow』に入り切らなかったアイデアも自分では気に入っていて。
今作のテーマにも流れとして合っているし、アルバムの繋がりに持ってくる事で皆にも聴いて欲しかった。前作の時に雛形は既に出来てた曲だね。」
---そうだったんですね、因みにこの曲のモチーフはRadioheadのあの曲でしょうか?
「Radioheadのあの曲とあの曲が(笑)、あとマイブラッティ·何とか·バレンタインのあの曲の感じとか」
---なるほど(笑)、ただそれだけにはとどまらず、個人的にはやはり映像的というか、ある種ゲーム音楽のような印象もこの曲から感じました。
アルバムラストの曲「a situation is bad」については?
「今思い出したんだけどアルバムの中ではこれが最初に出来た曲で。
うーん…どんな意味を考えていたのか… あまり深い意味は(持たせていない)まあ強いて言えば、見方によって状況って変わるよなっていうくらい」
---アルバム全曲が”a”から始まるのは?
「これも意味性は持たせていない。単なる言葉遊び」
---でも捉え方は自分次第って事ですね、今作に対する理解が深まってきました。制作環境についても伺いたいんですが、今作で使用した主な機材は?
「機材についてはあまりこだわりが無く。主にソフトシンセとCubase(注4)で音色と土台をまず作って、それからギターとボーカルを録音していった。ハード的な意味で言ったらYAMAHAのNP-15っていうキーボードはずっと使ってる。扱い易くて気軽に演奏できるんだよね。唯一制作に外せなかった機材といえばそれくらいかな。もちろんライブセットはまた違ってくるけど」
---制作では割とミニマルなセットアップなんですね、また今作はミックス·マスタリングも自身で担当していますね。
「専門的な他の人にやってもらっても良いんだけど、なるべく最後まで自分でコントロールしたいというか。確かに難しい事も多いけど、思い描いているものが明確な時は自分で作った方が(早い)。」
---今作はelect-lowからのリリースですが、自主レーベルとelect-lowから
リリースする作品の区別は?
「自主で出す場合は実験性が先行する作品が多いね。ある種の手軽さというか。対してelect-lowからのリリースは皆に聴いてほしいと思うような、作り込んだ作品になるかな」
---4月29日 POLARIS tokyoでライブが決まっていますが、どういう構成になりそうですか?
「Lyrac名義としては初ライブ、そしてバンドセットでの演奏になる。新作が中心になるけど過去のカタログからも数曲演る予定。また原曲とはちょっと違う趣でバンド形態ならではの表現になる。それがやっと出来るという事で自分としても楽しんでいる。」
---長年の夢だったバンド形態の演奏が叶うわけですね。楽しみです。
「やっと実現出来た」
---因みにyanagiくんは原宿のレコードショップのスタッフとしての顔もあるけど、アーティストの時の自分との違いはある?
「そういうのはあまり無いかな、自分で作った曲を聴いてもらう事と、自分が気に入った音楽を買ってもらう事もどちらも同じように感じている。結局オリジナルを作るにしても何処かで影響受けている訳だし、感覚を共有するって意味ではあまり差はないと」
---実際yanagiくん販売上手ですから(笑)、最初店であった時に勧めてくれたFontaines D.C. (注4)は衝撃でした。僕視聴タイム1秒で買いましたからね。
「(笑) たまに自分の事を知っていて、それで来て下さったお客さんもいたりして、そういうのは嬉しかったりしますね。
因みに今だとColouringっていうアーティストのセカンドアルバム『Love To You, Mate』がオススメ。00年代のポストブリットポップの雰囲気とJames Blake的な先鋭なサウンド、Sufjan Stevensのような繊細なボーカルが掛け合わさった良いとこ取りなサウンド。特に何が良いかってすごく優しくて、軽やかで暖かい愛を感じる。というのも彼の義理の弟さんが癌に罹ってしまい、その弟さんへ向けたアルバムらしくて」
---おお、それは良さそうですね。
「そういったパーソナルな、まさにある意味、ただの兄弟の間のやり取りなだけなんだけど、でも何も知らない人たちや、国や言語も超えて、他の人たちそれぞれの愛という部分に繋がってしまうのが音楽の面白い所だと思う。ぜひ聴いてみて。」
---やっぱりレコード店員だ(笑) 話し方が。自分の作品より売ってる作品の方が話しやすかったりする?
「自分の作品はある種無意識下で作ってるから、あんまり言葉になってないし、やっぱりあんまり言葉にしたくないっていうのがあって。聴いてくださった人が各々何か考えたりしてくれたらすごい嬉しい。」
---今作「a wound heals」はどんな人に聴いてもらいたい?
「音楽をあまり聴かない人にも聴いてほしくて。何かこう音楽の不思議さというか面白さっていうものを伝えられるようなきっかけになったら本望かな。あと僕は音楽を通して、人を癒したいっていう願望があって、
”a wound heals”って言葉、傷が癒やすじゃないけど、やっぱり何か傷を感じている人とか、ちょっと今、癒しが欲しい人みたいな、そういう人には特に聴いてほしい」
---最後に何でも良いんですが、今ハマってることはある?
「太極拳。ヒロ渡邉っていうジークンドーの達人がいるんだけど、その人と都市伝説系のyoutuberとの動画が面白くてハマっちゃって。ブルース·リーの映画も観たり。それで武道の哲学や体の動かし方、色んな格闘技の生まれた経緯や文化なんかを調べてたんだけど、何だか新しいジャンルの音楽を掘る事にも似てて。そしたら松ちゃんが最近格闘技観てるって話をしてて」
---めっちゃわかる(笑)
「これはやらないといけないなって笑それで武道の種類というか色々調べていくうちに太極拳に一番惹かれて。理由としては陰陽五行とか道教だったり、元々好きだった中国の思想と繋がっていたのを知ったから。あと器械体操を長くやっていて、それにちょっと近いところを感じたりしたからかな」 
---次回作はよりフィジカル路線になりそうですね。もしくはカンフー物?
二人(笑)
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『a wound heals』/ Lyrac 2024年1月17日 リリース eltl-044 【Track List】 01. a profound sea 02. a small crack 03. a wound heals 04. a dark tip of the tongue 05. a long sleep 06. afterglow 2 07. a situation is bad
https://big-up.style/HBzLy2HlIx
(注1) 1999年発売のPlayStation用ゲームソフト。全世界累計815万本出荷した大ヒットゲーム。
(注2) 筆者とyanagiyutakaのユニットプロジェクト「green eye」活動時には既にデモが存在していた。
(注3) レディオヘッドのトム·ヨーク、レッド·ホット·チリ·ペッパーズのフリー等が集結したスーパーバンド。
(注4) スタインバーグ社が開発したDAWソフト。
(注5) アイルランドのダブリン出身のポストパンク·バンド。当時1stアルバムが出た直後だった。
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izmsao · 3 months
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【2024/03/28】
こんばんは。
今日は午前中に肺の炎症誘発処置をしました。
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3回目です。
正式名称は【胸膜癒着術】と言うちゃんと医学的根拠を持って認められている処置らしいです。
何でも肺の周りって胸膜という膜があるらしく、肺が破れた場合、薬であえて炎症を起こして炎症が治る過程でその胸膜と肺の壁?がくっつき、穴を塞ぐ…と言うものらしく。
医学難しいね、胸膜って何よって感じですけど。
まぁどっちにしろ
あえて炎症を起こして穴塞ぎにいくパワー療法という私の解釈で間違いないようで
だって炎症を起こすんですよ…??あえてね…??そんな治療法ある…???パワーじゃん…???な〇やまきん〇君もびっくりだよ……だって普通は炎症が"起こってから"病院に行くもんじゃないですか…医学って奥が深いですね…さすが国家資格(???)
ついでにいうとその胸膜?を炎症させる為の薬。先日の絵日記でチラッと書いてはいましたが【50%ブドウ糖】を投与して頂きます。50%はブドウ糖で残りの50%は恐らくただの水…なんですかね…?超医療的な砂糖水?なイメージ(多分違う)
それにしてもただ砂糖水漬けにするだけで炎症起こす体内(内臓)って凄いデリケートなんだな〜って思いました(どんな感想よ) 。超医療的とは言え、砂糖水であんな痛くて苦しくなるの…??? 人体マジ不思議すぎ……
Twitterも実況みたいにやかましくてすみませんでした(懺悔)。苦痛に苦痛が重なるのと、どう足掻いてもその苦痛がどこにも逃がせないのでとにかく何か、どうしても何か気を紛らわせたかったんです。リアルでも苦痛で呻きながら携帯ポチポチしての反復横跳び。想像するとなんかやたらシュールでウケますね。どうか笑ってくれ。
この処置も3回目ということで、看護師さんも私が予想以上にかなり痛がるのを把握して下さっていて、今回は処置前からもう痛み止め服用して点滴を通して完璧なる事前準備をして頂きました。
看護師さんの優しい気遣いと機転のおかげで3回処置の中で1番まだ楽に耐え忍ぶことが出来ました。それこそTwitterで実況出来るくらいには余裕ありましたよ今回…本当にありがたい……それでも痛くて苦しくて涙ぼろぼろの涎だらだらでしたけど…笑
普段、泣くって行為を全くしないので久々に泣けて良かったんではなかろうかって感じです。涙ぼろぼろする場面なんて早々ありませんからね…
痛みって不思議とずっと同じ波長で続くといつかはちょっと慣れて落ち着いてくるんですよね。脳が錯覚させるか何かで。それと今回は痛み止めを先に通して頂いてたので、落ち着いてくるのも比較的、本当に早かったです。よく考えれば「あえて炎症を起こさせてる」んだから痛いに決まってるよね…笑
本日もSun先生に処置して頂きました。2回目からもう子ども騙しはしてくれませんでした笑 いつもの淡々とした感じで「はーい薬入ってますよー、入りましたよー」って感じです。まぁ、変にフレンドリーより淡々として頂いてる方が個人的には楽なのでありがとうございますという感じです。
その代わり私は駄々こねますけど<(^o^)>┌┛’
今日もSun先生が処置に来られる迄にひたすら看護婦さんに駄々こねてました。マジで28歳児。
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いい大人が情けないかもしれないけど痛いの嫌だもん、大人も子どもも関係あるか。
28歳児にプライドなんて無いんでね
処置前に友人の創作子ちゃん(推し)を誠に勝手ながらロック画面にさせて頂いて呻きながら電源ボタン押して画面見ては励ましてもらってました…勝手にロック画面にしてごめんね…そして本当にありがとうございました…改めて推しの力は偉大なり……( ߹ᯅ߹)
本当に励まされて、痛いけどまだ頑張れる、いつもより全然余裕じゃん!!って鼓舞まで出来ました。
本当にありがとうさとみん。一生ちゅきちゅきらぶりー…
あとは処置中、相部屋の方に申し訳なかったなあ
と思います。2時間半?ひたすら呻き声を聞かせてしまっていたので…(かと言って我慢しろと言われても無理なレベルですが)相部屋の皆さんもそれぞれの理由で入院してらっしゃるのに…しょうがないにしても、申し訳ないが勝ちますよね。1番の被害者…
処置の後は散々嫌々していた頭洗いに行きました。
行きたくなくて毎日看護婦さんが「今日は髪洗ったりされますか…?」って聞いてくださってるのに首を横に振り続けてたんですけど、髪も長いしさすがにベタつきが気になったので渋々行ってきました。
看護婦さんに髪を全部洗ってもらうというVIP待遇付きでね!!!(ドヤ)
むしろだから行ったまである。自分でやれとか言われたら絶対行かない。お風呂本当に嫌いなので。行ったらすっきりするし後悔しないんですけどね、どうしても行くまでで諦めてしまいます。
昨日はそろぼち何か描きたいなーと思ってましたけどまさか今日も処置が来るなんて夢にも思わず(朝一番に告知されました)いくらこれまでより楽でも、ちょっと疲れてしまったので描く気力は無いです。
処置が終わったあと主治医の先生が来てくださって「肺の穴も、もう今更手術して胸開いたところで目視できないほど小さくなっているから見つけられないし、後は気合いで治して閉じてくれ」と言われて
それが出来れば今頃とっくに退院しとるわwwwwwwwい!!!!
って若干ツボりながら「はい……w」って返事しました。本当ネタすぎる。こんだけ経っても未だ穴閉じない自肺、やる気ないんか???笑
主人に似て究極の面倒くさがりかな???笑
処置自体は2時間半くらいで、それ以外はフリーダムに元気に過ごしてます。きっと皆が思ってるよりピンピンしてる。そんなに悲観もしてませんので、ご安心ください。元はと言えばこの病状自体は自業自得なので。自分がやってきたことのツケが回ってきてるだけ笑
大体の膨大な自由時間はネットサーフィンしたり今さらずっとやれてなかったあつ森やったりしてます。あつ森、本当に何やっていいか分からなくて釣りと素潜りしかしてない…(元々釣り好き)
改めてちゃんとあつ森やって感じましたけど、マジどう森シリーズの中で1番完成されたタイトルですね…私は結構クリエイティブが試されるゲーム苦手傾向があるので(自由研究とかすごい苦手な子どもだった)今回のあつ森は自由すぎて逆に何していいか分からなくなって止まっちゃうんですけど……今まで欲しかった機能とか出来ることが多くてそりゃあ大人気になるよなあ〜って感じました。
これ以上のどう森シリーズとしてのタイトルはこれから越えられないんじゃないかと思う。わりと本気で。
疲れてしまったので、とりあえず穴が塞がることを願いつつ後はまったり過ごします。
今日も忙しい中なのに沢山構って頂いて、心配して頂いてリプ等も皆さん本当にありがとうございました。その優しさに私は今日も救われている…
実況ツイートは一部消しますが、このご恩は忘れません…本当にありがとうございました…
皆、ずっと元気でいてくれよな……
最後に超超余談ですが…(もはや読まなくていい)何故に通称:Sun先生と呼んでいるかと言うと、本名が日本語訳まんまのお名前だからです。珍しいしめちゃくちゃ良いし素敵なお名前だなあ、と思って。あと第1印象と本名のギャップがえげつなかったのでわりとすぐ覚えてしまった笑 今回1番お世話になっている先生でもあるので、また改めて描きたいですね(既に絵日記で描いてますが)
Sun先生も「様子見します」と仰ってたので、明日からまた様子見です。早くまたクランプアップテストにいけますように…そろそろ行ってくれ…?そして合格してチューブ抜けてくれ…???刺さりっぱなしでもう2週間超えました。
では、おやすみなさい
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harawata44 · 3 months
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「魔法のマシン」外国人が殺到…“レトロ自販機のテーマパーク” 世界の自販機事情も - ライブドアニュース
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以下引用
 外国人観光客を魅了する、ニッポンの自動販売機。昭和に製造された100台以上のレトロな自販機がずらりと並ぶ名物スポットにも今、外国人観光客が殺到しています。さらに追跡すると、世界には日本にない驚きの自販機が次々と…。日本も海外もすごい!古くて新しい、世にも不思議な自動販売機の世界を追跡しました。
■外国人が殺到“レトロ自販機のテーマパーク”
 神奈川県の相模原市にある、昭和に製造された貴重な自販機が並ぶ“レトロ自販機のテーマパーク”。アクセスがちょっと不便な場所にもかかわらず、今や世界中から観光客が押し寄せています。 ブラジルから来た観光客 「(Q.どこから来たのですか?)ブラジルからだよ。どの自販機にしようか、どれを食べようか迷っている。選択肢が多すぎるからね」  この場所の魅力は、なんといっても圧巻の品ぞろえ。全長は、およそ100メートルです。変わり種の自販機も並び、その数なんと112台もありました。  ブラジルからやってきた男性がチョイスしたのは、懐かしの瓶入りコーラです。 ブラジルから来た観光客 「ベリーグッド。今は、ほとんどがペットボトル。ガラスの瓶の方が、味もおいしく感じる」  その感覚は、日本人も同じように感じる人が多いかもしれません。
■「読めない」けど…買える? 戸惑う人も
アメリカから来た観光客 「インターネットでこの場所を知った。こんなにたくさんの自販機、世界のどこにもない。3年前からずっと来たかったんだけど、なかなか来られなくて、念願かなってようやく来られた」  インターネットで知り、ぜひ食べてみたかったというのが、この自販機のハムチーズトースト。自販機の中で250℃に加熱され、わずか40秒でアツアツのトーストが完成します。念願のトーストのお味はいかがでしょう? アメリカから来た観光客 「おいしいわ!でも…チーズじゃないボタンを押したみたい。これはツナ」  まさかのミスタッチ。ツナトーストのボタンを押していました。 アメリカから来た観光客 「でも悪くない」  結果オーライ。でも、古い自販機のため、英語の表記がないものがほとんどで、戸惑う外国人もいます。 カナダから来た観光客 「どうやったら買える飲み物が分かる?」 「じゃあこれは売り切れ?もう覚えたよ」  さらに、つり銭切れランプの説明に苦労します。 桝田沙也香アナウンサー 「つり銭切れランプ難しい、なんて言うんだろう。つり銭がないからちょうど入れたらいける。180ジャ���ト、オーケーでも200…」 カナダから来た観光客 「多いんだね」
■熱々のハンバーガーに驚き「魔法のマシン」
 アメリカからやって来たデビッドさんとジェイミーさんカップル。 デビッドさん 「(Q.この場所はどうやって知った?)友人のチャールズが、動画を送ってくれた」 ジェイミーさん 「ありがとう、チャールズ」 デビッドさん 「ありがとうチャールズ。動画を見て『ワォ!これは見に行かないと』って。古そうなマシンがちゃんと動くのか…」  日本の古い自販機に興味津々の2人が目を付けたのは、52年前に製造されたハンバーガーの自販機です。 デビッドさん 「これを見てくれ!カウントダウンしているぞ」 ジェイミーさん 「私たちのバーガーよ!カワイイ」 デビッドさん 「温かいの?」 ジェイミーさん 「えぇ、さわってみて」 デビッドさん 「おぉ、熱いね」  熱々のハンバーガーが、信じられない様子です。 デビッドさん 「アメリカには温かいモノが買える自販機はない。ホットコーヒーも買えない」 ジェイミーさん 「こんなに古いマシンが今も動いているなんてスゴい」 デビッドさん 「まさに魔法だ。しかも、屋内じゃなくて外に置いてある」  さらに、30年以上前に製造された2分ほどで熱々ポップコーンが出来上がる自販機には…。 ジェイミーさん 「音楽までかかるのね」 デビッドさん 「ベイビーほらどうぞ、これはかなり超熱いぞ」 ジェイミーさん 「ポップコーンができたわ」 デビッドさん 「ここはスゴい場所で、歩いて見て回れる博物館みたい。本当に素晴らしい」  そんな2人が最後に興味を持ったのは、ちょっと意外な自販機でした。 デビッドさん 「(ジャパニーズおみくじ)オミクジ?」  そう、1回100円でできるおみくじもあるのです。 デビッドさん 「びっしり書いてあるぞ」  果たして、運勢は…? デビッドさん 「まったく読めないよ」  ちなみに「末吉」でした。取材班が、その意味を説明しました。 デビッドさん 「小さなラッキー、ほとんどアンラッキーみたいだな」 ジェイミーさん 「オーノー!」
■世界の自販機事情 各国ならではの事情
 外国人を魅了するのは、昭和のレトロな自販機だけではありません。 タイから来た男性 「ニッポンの自販機は、間違いなく世界の最先端」 オーストラリアから来た男性 「ホットとコールド、どちらも買える自販機を見つけて『えっ!マジかよ!』って思った。温かい飲み物が買えるなんて、珍しい」 ブラジルから来た男性 「僕らの国も日本の自販機がほしい。超便利だし、安いし、どこにでもあるから」  そういわれると気になるのは、海外にはどんな自販機があるのか。追跡すると、それぞれの国ならではの事情が見えてきました。 ドイツから来た男性 「ドイツでは自販機でソーセージを売っているよ」  ドイツの住宅街の路上にある自販機。そこには、確かにソーセージだけでなくタマゴ、さらにソースなど、ちょっとした売店のようなラインナップです。これには、ドイツならではのワケがあるそうです。 ドイツから来た男性 「ドイツにはコンビニがないです。ドイツで夜働くことは法律的に難しい。だから店員さんがいなくて自販機だけ」  午後8時から翌朝6時までの労働が原則禁止されているドイツにはコンビニがなく、それを補う品ぞろえの自販機が増えているといいます。
■アメリカではカップケーキや自動車も!?
 こちらは、アメリカからやってきたカップル。 アメリカから来た女性 「アメリカには、カップケーキの自販機」  アメリカのカップケーキ専門店が設置しているという、タッチパネル式で電子決済に対応したハイテクな自販機。撮影者によると、ニューヨークでは、夜食にカップケーキを食べる人も多く、24時間購入できる自販機は人気なんだとか。  さらに、なんともアメリカらしいスケールの大きな自販機があるとの情報がありました。 アメリカから来た女性 「自動車の自販機がある」  なんと車の自販機!?中古車販売会社が設置した、8階建ての巨大な“自販機”。専用サイトで車を選び、代金を事前に決済するともらえるコイン。それを“自販機”に入れると、車が自動的に取り出し口へ。そのまま乗って帰ることができるといいます。 アメリカから来た男性 「実際にこの“自販機”で車を買った人は周りにはいない」
■値段が変化する自販機 カナダ
 突然ですが、「海外自販機クイズ」。 カナダから来た男性 「僕の国には、日によって値段が変わる自販機がある」  カナダに売っている値段が変化するという自販機。一体、何を売っているか分かりますか? カナダから来た男性 「平日は75セントか1ドル、週末は1ドル50セントか2ドルくらいかな」  週末は、“分厚く”なるから高くなるもの。皆さん、もうお分かりですか?  正解は、新聞の自販機です。 カナダから来た男性 「週末版はページ数が多いから高くなる」  日本にもありますが、値段は毎日同じです。
■始まりは客へのサービス精神 新商品開発も
 海外からも大勢のお客さんでにぎわう、“レトロ自販機のテーマパーク”。 レトロ自販機を運営 齋藤辰洋さん(51) 「(Q.海外からのお客さんが増えて心境は?)やっぱりうれしいですよね。年配の方から子どもまで楽しめるようにしているので、さらに海外の方がびっくりしながら買っているのをみると楽しい」  仕掛け人の齋藤さんの本業は、隣にある中古タイヤ店の社長です。 齋藤さん 「本業でタイヤ交換している間お客さんを待たせちゃう。その時に食べ物とか楽しめればと数台設置した。思いのほか、みんな喜んでくれて、調子に乗って増やしたらこんなに…」  始まりは、お客さんへのサービス精神。齋藤さんは、ネットオークションなどでレトロ自販機を購入しては、技術屋の腕を生かして自ら修理。その数をどんどん増やし、いまや世界にまでその名がとどろくほど評判になりました。  大量の自販機グルメも、自ら手作りしています。 齋藤さん 「忙しくて考えている暇もないから、とにかくやるしかない」  お客さんが増えすぎ、売り切れたら申し訳ないと、今やタイヤ店のスタッフや知り合いに声を掛け、仕込みに総動員しています。 従業員 「(Q.お兄さんタイヤ屋さん…?)なんでも屋さんです」  急増する外国人客をもっと喜ばせたいと、齋藤さんは新商品開発も進めていました。 齋藤さん 「手作りのお弁当なんですけど、買うと温かい状態で出てくる。古い機械からお弁当出てきたら『えっ!?』…」  それは、齋藤さんが初めて挑戦する、手作りのお弁当。メイン食材は、沖縄から取り寄せたブランドの豚肉にこだわります。 齋藤さん 「最初フライパンでやったけど、どうもうまくいかないので、ちゃんとした鉄板で焼いた方がいいんじゃないかと…」 「(Q.急きょ新調したもの?おいくら?)8万円ですね」 「(Q.本職って?)タイヤ屋さんですよ」  試作はおよそ100回、30万円以上を費やして完成させた、昭和をイメージしたハンバーグ弁当。 齋藤さん 「海外の方も楽しめるようにしたい」  進化が止まらないニッポンの自販機が、きょうも世界に笑顔と驚きを届けています。
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takahashicleaning · 4 months
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TEDにて
ロバート・ウォールディンガー:人生を幸せにするのは何?最も長期に渡る幸福の研究から
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
一生を通し、私達を幸福で健康にするものは何でしょう?
名声や膨大な富のみ ― そう考える人はたくさんいます。しかし、心理学者ロバート・ウォールディンガーに拠ると、それは間違っているのです。
マスメディアにそう思い込まされているだけです。
75年に渡る成人発達に関する研究のディレクターであるウォールディンガーは、真の幸福と満足感に関する無類のデータを基にしてこの研究結果が、私達に教える3つの重要な教訓と、昔からの知恵、幸せな長寿の秘訣を、このトークで語ります。
ある程度の、中央値で適度な年収600万円くらいは、必要です。
ある程度の、中央値で適度な年収600万円くらいは、必要です。
ある程度の、中央値で適度な年収600万円くらいは、必要です。
一生を通して私たち��健康で幸福にしてくれるのは何でしょう?最高の未来の自分に投資するなら、自分の時間とエネルギーを何に使いますか?
新世紀世代を最近調査し、最も大切な人生の目的は何かと訊ねました。80%以上の答えは、主な人生の目的は、富を蓄える事でその同じ若者の50%のもう1つの大きな目的は有名になる事でした。
働き、更なる努力をし、もっと成果を出すようにと常に求められている世の中です。良い人生を送る為には、そうする必要があると誰もが思わされています。自分の全人生を自分の選択が、どう人生を描いて行くかを予測するなんて殆ど不可能です。
人の人生に関しての凡そは、その人の過去を思い出してもらう事で分かりますが、ご存知のように、それはあまり頼りにはなりません。過去に起きた内の膨大な量は忘れ去られ、時には完全に創作された記憶さえあります。
では、ある人の全人生が展開されるのを観察しながら記録できないものでしょうか?人々を10代の頃から老年まで追い、幸福と健康の持続に本当に何が必要なのか?探索しようと始めたのが我々の研究です。
ハーバード成人発達研究は、史上最も長期に渡って成人を追跡した研究です。
75年間。724人の男性を追跡し、休むことなく仕事や家庭生活。健康などを記録しました。勿論、その期間中、我々は、彼らの人生がどう展開するかは知る由もありませんでした。
この様な研究は非常に稀です。
こんな計画は10年もしない内に頓挫してしまいます。あまりに多くの人が途中でプロジェクトを降りてしまう、研究の資金が不足して来る、研究者達が他の事で忙しくなったり亡くなってしまう。などが原因で進行が止まってしまうからです。
我々の場合は運が良かった事もあり、数世代の研究者達の根気強さのお陰でこの研究は生き残りました。元の724人の内の約60人が、未だ健在で今も研究に参加しています。
その殆どが90歳代です。新しく研究に2千人以上の彼らの子供達にも参加してもらっています。私は4代目の研究責任者です。
これから分かった事は、彼らの人生から得た何万ページにもなる情報から分かった事は何でしょう?
それは、富でも名声でも無我夢中で働く事でもなく、75年に渡る研究からはっきりと分かった事は、私たちを健康に幸福にするのは良い人間関係に尽きるという事です。
これから人間関係に関して3つの大きな教訓がありました。
第一に、周りとの繫がりは健康に本当に良いという事。
孤独は命取りで家族、友達、コミュニティとよく繋がっている人程、幸せで身体的に健康で繫がりの少ない人より、長生きするという事が分かりました。孤独は害となるという研究結果が出たのです。
孤立化を甘んじて受け、生活している人はあまり幸せに感じていないのです。中年になり、健康の衰えは早く、脳機能の減退も早期に始まり、孤独でない人より寿命は短くなります。
つまり、ここで重大な事は、友人の数だけがものをいうのではなく、生涯を共にする相手の有無でもないのです。重要なのは、身近な人達との関係の質なのです。争いの真っただ中で暮らすのは、健康に悪い事が分かっています。
例えば、愛情が薄い、喧嘩の多い結婚は、健康に悪影響を及ぼし、恐らく離婚より悪いでしょう。愛情のある良い関係は人を保護します。
我々は、参加者全員を追跡し、彼らが80代になった時、中年の彼らを振り返り、誰が健康で幸せな80代になったか?予測してみたかったのです。
彼らが50才の頃に得た彼らのデータを全て集めてみると中年のコレステロール値等とは、関連性はなく、どの様な老年を迎えるかは、当時の人間関係の満足度で予測される事が分かりました。
50才で最も幸せな人間関係にいた人が、80才になっても一番健康だったのです。親密な良い関係がクッションとなり、加齢過程での様々な問題を和らげてくれてるようです。
中でも、特にパートナー共に幸福だと感じていた人達は、80代になり、身体的苦痛があっても精神的に幸福だという報告が出ています。
しかし、不幸な関係にある人達は、身体的苦痛がある日には、精神的苦痛でその身体的苦痛が更に増幅されていました。
人間関係と健康に関して、分かった3つ目の大きな事は、良い関係は身体の健康だけでなく、脳をも守ってくれるという事です。
堅固な良い関係をしっかりと80代にまで持ち続ける人はその関係に守られています。そういう関係にいる人。何かあった時、本当に頼れる人がいる。と感じている人の記憶ははっきりしています。
一方、パートナーには全く頼れない。と感じている人には。記憶障害が早期に現れ始めます。良い人間関係といっても波風がない訳ではありません。
ある80代のカップルは、明けても暮れても小言を言い合っている。かも知れませんが、お互い頼り合えると感じている限り、彼らが苦難に遭遇した時、口論しても後々まで残るという事はありませんでした。
あなたはどうですか?今、あなたが25才、40才、60才ならあなたが人間関係に頼るとは、どういう事なのでしょうか?
最後にマーク・トウェインの言葉を引用して終わります。
一世紀以上むかし、彼は人生を振り返り、こう書きました。
「かくも短い人生に、諍い(いさかい)、謝罪し、傷心し、責任を追及している時間などない。愛し合う為の時間しかない。それが、例え、一瞬にすぎなくとも」
そして、本当の幸せもブッタが明らかにして解明しています。身に付けたいなら自分で探求してみてください。
良い人生は、良い人間関係とある程度の中央値で適度な年収600万円くらいで築かれます。
個人ではどうすることもできないため、行政府による強力な事前分配、再分配が必須です。
良い人生は、良い人間関係とある程度の中央値で適度な年収600万円くらいで築かれます。
個人ではどうすることもできないため、行政府による強力な事前分配、再分配が必須です。
良い人生は、良い人間関係とある程度の中央値で適度な年収600万円くらいで築かれます。
個人ではどうすることもできないため、行政府による強力な事前分配、再分配が必須です。
ノーベル経済学賞受賞ダニエルカーネマンによると収入と密接に関わることで、中央値の一人の年収約600万円以下だと惨めさを感じ、金額が下がるほど顕著に!
これ以上の年収の場合は、変化はなし。
経験的な幸福をお金で買えないが、お金がないと惨めな思いをすると言っています。
富裕層は増税方向へ!
マクロ経済学から確実で同時に低収入な人達をお金持ちにする支援も裕福層はして・・・
全国民をお金持ちに引き上げると双方プラスに
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
<おすすめサイト>
エ��ザベス・ダン:人を助けることで幸せになれる!でもそのやり方が重要
ヘレン・ピアソン:人間の成長・発達に関する最も長期に渡る研究から得た教訓
ニコラ・スタージョン:行政府が低収入者へのウェルビーイング(幸福度)を最優先するべき理由
デアンドレア・サルバドール: 低所得世帯の光熱費負担を低減するために
ショーン・エイカー :幸福と成功の意外な関係
マチウ・リカール:幸せの習慣
マイケル・ノートン: 幸せを手に入れる方法について
マイケル・サンデル:メリトクラシー(能力主義)の横暴
エピソード8 Episode8 - 知恵が試されるバランスとテーラワーダ仏教の「結び」、マクロ経済学(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
エピソード7 Episode7 - テーラワーダ仏教の「結び」と意識のマップ、マクロ経済学について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
この世のシステム一覧イメージ図2012
ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎(所得政策も)
ポール・ピフ:お金の独占が人と大企業を嫌なヤツにする?
トマ・ピケティ:21世紀の資本論についての新たな考察
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
個人賃金→年収保障、ベーシックインカムは、労働市場に対する破壊的イノベーションということ?2022(人間の限界を遥かに超えることが前提条件)
世界の通貨供給量は、幸福の最低ライン人間ひとりで年収6万ドルに到達しているのか?2017
<提供>
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kaneninarananesaki · 5 months
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1月締め括り
なんか今月長くなかった?締め括りってどうやってたっけ?ってなる程度にはさ。
忙殺の片手間色々手を出していたような、新年というのは新しいことを始めるのにはちょうどいいタイミングです。色々って?ほら、色々やったじゃん。
いつからか、毎年SNS上ではこの平沢進の年賀状で新年のごあいさつをしている。日々は地続き、だからこそ節目が大切です。
ブログ名を変えたらしいよ、「Recyclable」っつって。「1円にもならない時間の使い方」はここに書き記す全てにおいてあまりにそのまますぎる、かつ暫定のつもりでつけた名前なのでここいらでひとつ。まぁ悪くないんじゃないでしょうか、資源ごみ。
将棋指しは決着がつくと相手を否応なく圧し折ってしまうので勝負の初めに「お願いします」と挨拶をする。その実闘志に溢れているわけだけど、ゲームセンターの対戦台に100円を入れる心はそれに似ていると思う。
初詣というイベント、だいたい毎年三が日に浅草寺のライブカメラをみてウワアアアァァァアアアアァァアァってなるだけで満足していた。「神社にPS5のコントローラを持ち込んで祈念する」という真剣5おもしろ95の仕草でもなければ絶対行かない。5%でも真剣にやってる自分が恐ろしいよ。でもSF6ちゃんと上手くなりたいのは真剣だから、だからあんま怒んないでよ将門。
写真を用いないでひとつ書ききってみようという試みと、おそらく必要のない減量の試みの話。
実はひと月以上経過したこれを書いている時点でおよそ-2kgで表記上体脂肪およそ-2%ということで、実は記事中の皮算用に大体到達しているというオチ。見た目変わんない割りに随所で感じるパワー不足を思えば損しかないね。70kgくらいまでは全然増えてもらっていい。
一見必要ない試みではあるが自分主観の自分史においてはエポックメイキングを産みうる、こういう回り道がないと深みがでないんだよきっと。でも深みを出そうと思ってする回り道は本当に無駄な努力になってしまうよね、きっと。
このようにラーメンを食べていても体重は落ちるのです。
「自転車で秋葉原に行く道中でこのラーメンを食べて向かったりしたものです。」って話、本当に懐かしい、夜8時過ぎに面白そうな同人誌を見つけたら自転車こいで とらのあな 行ってたもんね。脂乗ってたなぁ当時の姉崎は、今あるかなそんなエネルギー。負けたくねぇな、勝負しようぜ。
私的イチオシラーメンということで紹介したところ、あるフォロワーも結構行っていたらしい。いやはや、おいしいラーメンは積極的に世に押し広めるべきだな、視野が広がるというか、思いがけずつながっていく楽しみがあるものな。
奇しくも170円くらいのビールと、300円くらいのビールという組み合わせになりました。単純比較でどちらが強い弱いという話ではなく、低コスト帯の強さと高コスト帯の強さの評価価値って変わってくるじゃない?「稲妻」と「約束された終焉エムラクール」どっちが強いの?と言われてもそれぞれ強いというだけの話、インスタントとクリーチャーだし。なんの話だって?MtGの話だよ。
やれることをしたまでよ、つってね。
深夜営業のファミレスがなくなってしまったことで居場所を失ってしまった人はいないのだろうか、澄んだ河川が無くなったことでめっきりホタルが見られなくなってしまうような寂寞を感じる。ホタルのように美しくはなかったかもしれないが。
でもまぁ人は人で上手くやるもんだよ、深夜のファミレスが無いなら家で過ごせばいいし、なんなら早く寝ればいいのだ。あるがままファミレスを享受せよ、「もしも」に後ろ髪を引かれることはない。だからこの部屋にへばりつく、いつまでたっても満たされない地縛霊みたいなファミレスへの未練はとっとと忘れて資源ごみの日に出してしまうのがいいんだよ。
そんな訳でそんな感じ、始めた覚えもないのに勝手に始まった今年に強がったりして、改めて本年もどうかお願いいたします。
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