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kyary1976 · 2 years
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#今はただ夢に向かう君へ . . . 今日は安らかに眠れ。 . . #ワンセブンライブ #17ライバー奏蒼 #一般社団法人亜細亜美術協会 #一般社団法人社員画家 #亜細亜現代美術展 #美女たちの森と沼 #神童 #天使か悪魔か #奏蒼マジック #エキセントリック技術多数 #AIに喰われるデザインとイラストたちの世界 #無文化永遠の現在 #民衆が民衆の暴君 #縄文集落としての無文化 #新人類 #アートと芸術の違い #墜ちる現代アート #戦争と平和 #仮面を被った戦争 #金を使いながら貯める者 #贖い #償い #数学偏差値81の直感世界 #ただ強くあらんがために強く在る #おやすみパパ #おやすみおじいちゃん #母屋の比劫 #BASEショップ8月22日新品追加 #アートジーンもよろしく https://www.instagram.com/p/Cgo-JkwpEfA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mikeneko28 · 4 years
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downy/第七作品集
2020年3月18日発売。メンバーはGt&Vo青木ロビン、Ba仲俣和宏、Dr秋山隆彦、Sampler&Synth SUNNOVA、Gt青木裕となっている。そしてManipulatorとしてZezecoのManukanが参加しております。
Mix&rec&masはdownyではお馴染みのHAL STUDIOの三好俊彦とWAVE RIDERの岩谷啓士郎が制作されております。およそ4年ぶりとなるフルアルバムは前作よりはSNSで情報などが明かされず、その代わりにアルバム発売前にライブでstand aloneやgood news、コントラポストなどを披露して頂き、そこからどのような作品になるか考察を楽しませていただきました。
今作からSUNNOVAがメンバー加入をしており、SamplerやSynthを担当しておりますが青木裕のdownyとしての役割の意思を完全に受け継いでいるようなエキセントリックな音選び、緊張感を楽曲に纏わせるループフレーズやdowny独特の引き算の美学によるタイム感など、加入一作目とは思えない程downyと共鳴しており、しかしシンセの強みやギターでは表現できない部分などもSUNNOVAのアイデンティティとして楽曲に盛り込まれており、今までにないdownyの世界観の構築に多大に貢献されております。
前作はdowny流のブラックミュージックと称しましたが、今回はインタビューでも明言されていた通り原点回帰&プログレ色が非常に強く、より複雑にソリッドにシフトチェンジしており7thにして、このような変貌を遂げるのかと驚愕しました。downyの核ともいえるポスト・ハードコアな熱量やその対極とも言えるダウンテンポ感などが今作でかなり凝縮されておりそれを圧倒的な技術とアイデアを持ってして人力で再現するというdownyの底知れなさなアイデンティティに改めて驚愕をした作品です。
今回のアルバムジャケットも第五作品集を担当した山代 エンナが制作されており、艶やかな模様と一種の永代さを思せる集合体としての媒体に蝶を選んだとされる深層心理がとても、気になるところです。時雨前、黒のMVに蝶がフワフワと飛んでいく描写があったりとdownyと蝶との関係性も気になるところですね。蝶は一説によると魂の復活や変化などを意味するとのこともあるので、そういう部分がdownyと結びついているのかな?と考察するのも楽しいですね。
コロナ禍の中、本当にdownyには感謝してもしきれないぐらい様々な媒体でdownyを楽しませて頂きました。rhenium recordsというオリジナルレーベルを立ち上げたり新曲の17月の配信など、コンスタントに活動を続けるdownyをこれからも末長く応援し続けて行きたいと思います。
1.コントラポスト
downyでは5thの「  」を除けば3rd以来の静観な空気として口火を切る一曲目。アルバムジャケットを彷彿させるような蠢くような音がホワイトノイズという歪な媒体として周囲に覆っていきます。それと相反するようなストーリー性を感じる煌びやかなピアノの音がある種の不気味さを感じさせます。1.09秒頃にトリップホップを彷彿させる様なアブストラクトなノイズが混じりそれに呼応する様にまとわりつく様なベース音が更に曲に暗澹めいた雰囲気を醸し出しています。1.58秒頃に淡々とした無機質なドラムが導入されますがそこで、肉体的なグルーヴとループの酩酊感がより一層、楽曲に浸透していきます。
2.54秒頃に一旦、眩い静寂が訪れベースの音も躍動感と凶暴性が増しゴリッとしたリズミカルな音に変わっていきます。アルペジエータの様なシンセ音が無機質な性急感を生み出しておりメロディとしての役割を朧げに感じさせながら儚い雰囲気を生み出しております。
2.視界不良
downy節満載の抜き差しによるアンサンブルの美学がふんだんに盛り込まれた一曲です。奇数と偶数を織り交ぜた変拍子によりリズムに幾何学的なグルーヴを生んでおります。切り裂く様なギターの一閃がコード感と仕切りの様な役割をしており曲に更なる緊張感を与えています。1.03秒頃の昭和ジャズや海の静寂を彷彿させる様なミュートギターが和的な雰囲気を醸し出しており刹那の間ですが叙情感溢れる雰囲気が助長されいてとても素晴らしいです。
2.18秒頃に悲痛とも感じ取れるボーカルと淡く聴こえるギターの音、ループ感を感じさせながらも迫りくる様な恐怖を感じるドラムに耳を奪われていると塊を思わせる様なブレイクが鳴り響き、伏線とも感じ取れる様な静のグルーヴから捲し立てる様なスピード感のあるグルーヴに変貌します。最後は最初に鳴らされたシンセの音が回帰する様に儚げに曲の終焉を与えます。
3.36.2°
今までの「  」シリーズを継承したとされる楽曲と思われます。62回転同様この楽曲もどういう意味で名前をつけられているのかとても、気になるところではありますね。全編シンセで作られているであろう、この楽曲はテレビの砂嵐の様なロールシャッハテストを思わせる耳の捉え方で様々な楽曲に変貌するとても立体的な曲というふうに感じました。歪な音と煌びやかな音、構造自体をなぞる様な不穏な音に耳を傾けているとあっという間に終わってしまいます。個人的にライブでdownyのVJの砂嵐に音が付くとしたら、この様な音なのではないのか?と思いました。
4.good news
曲の前に微かに聴こえるノイズ音が意図的かは分からないのですが今までにないdownyの生々しさを生んでおり初めて聴いた時に感動した記憶があります。引き算の美学、ここに極まれりといった様なシンプルなギターフレーズを軸に楽曲が進んで行きますがdownyお得意の七拍子という事もあり、他のアンサンブル��組み込まれることによりとてつもなくかっこいいフレーズになっていくという感覚は形而上学のドラムとベースを彷彿させました。ゴリッとしていてスクエアなグルーヴを生み出しているベースもカッコよく複雑でアブストラクトなドラムに呼応して躍動感を生んでいます。2.12秒頃のエモーショナルなボーカルの熱量も相まって、水面下の激情を体現しています。2.44秒頃のハイハットとスネアの応酬が素晴らしく正にdowny流のプログレとしてその真価を発揮しています。今回の考察の一つとして英語のタイトルが多いという事が一つ気になる処があってgood newsもそうですが、そういう部分も考えて行けたら楽しいですね。
5.角砂糖
アルバムが発表された時に一番気になっていた楽曲名ではありました。角砂糖というあまりにもdownyらしいタイトルに胸が躍った記憶があります。この楽曲はサイドチェインという手法を取り入れており、EDMやテクノなどではありがちな手法だがバンドサウンドで取り入れているバンドは世界広しといえどもdownyぐらいしか僕は知りません。downyとしては、また新たな開拓としてシンセベースを取り入れており、音の圧として大きな役割を担い、その後に続くエレキベースとの相反する音のソノリティがより一層、広いレンジで感じ取れます。ドラムの跳ねる様なフレーズも素晴らしく楽曲に一定の浮遊感を与えながらもバスドラのダークな質感により、曲に不穏な印象を与えています。アウトロの方で鳴らされるギターのメランコリックな音もすごく気持ちが良く良い意味で矛盾感を生んでいます。この楽曲は青木裕さんのギターも収録されており、僕の耳ではどの音なのかはまだ判断できないのですが、そういう部分も意識しながら聴くと凄く楽しいです。
6.ゼラニウム
downyとしては無くてはならない花シリーズですね。五拍子を基調としたこの楽曲は幻想的でメランコリックな空気感と肉体的なグルーヴでドラムとベースが進んでいくとても不思議な曲だと思います。ギターの侘しげなフレーズと煌びやかなシンセがお互いを助長し合っていてとても素晴らしいです。周囲を覆う様なアブストラクトなノイズギターを彷彿させる様なシンセ音も、この楽曲に唯一の煙っぽさやダークな雰囲気を与えていて、とてもかっこいいです。
7.砂上、燃ユ。残像
2018年3月19日のdownyワンマンライブと同様の名前を持つこの、楽曲はいろんな意味で自分の人生の中でも特別な意味を持つ楽曲になりました。
アコギのとてつもなく複雑なフレーズがコード感と曲の柱としての主軸を担っており14秒頃の切り裂く様な咆哮を感じさせるギターが緊張感を楽曲に醸し出しています。小さい頃に近所の神社の夏祭りで微かに聴こえる笛の様な音にも聴こえなんとも言えないノスタルジックを個人的に感じます。ドラムの煽る様なフレーズが、アンサンブルに混ざり合うことにより楽曲に寄り添う様な印象も醸し出していて凄く不思議なフレーズだと個人的に思いました。印象的なベースのフレーズも響きを尊重しながらも主導権を握る様な決定的なフレーズでドラムとの兼ね合いが本当に素晴らしいです。2.34秒頃のコード感も寂しさと朧げな雰囲気を醸し出しており涙腺を刺激させられた瞬間でもありました。
8.pianoid
pianoidという言葉を調べた所、その様な言葉は見つからなかったので個人的にpiano +android=pianoidという風に解釈しました。そのタイトル通り全ての音が機械的に精密に構築されており、ベースは淡々と進み禍々しさを纏わせ、感覚を一定に集中させていると思いきや徐々にリズムがずれていたりと無機質ながらも肉体的な作用でしかなしえない演奏者としての強靭な技術力をこの楽曲でさらに感じました。2,21秒頃に鳴らされるマッチを擦った様な音も一瞬だけ導入されるので、この音の意味とかも凄く気になります。
9.鮮やぐ視点
バスドラに、いつものdownyと違う質感を感じたのですがデッドな音とも違うこの音はどの様に作ったのか、どうしてこの楽曲で採用しようとしたのか凄く気になるところではあります。シュール的に鳴らされるカモメの音と丸みを帯びている様なバランスの整ったベースフレーズが素晴らしいです。規則的に鳴らされるクラシックを彷彿させる様なピアノの音とブルージーなギターのフレーズが真逆な性質の空気感を構築しながらも上手く混ざり合い調和されているのが本当に素晴らしいです。3.10秒頃にボーカルの熱量が上がりグラデーションの様に音が変化していきノイズとしての圧も強まり曲がハイライトに向かって行くところで更にかき混ぜられる様にアンサンブルが重なり合い余韻を残す様な煌びやかな音ともに終わります。
10.adaptation
downyでは初と言えるかもしれない全編英詩の楽曲です。downyのダークサイドな部分とループ感が濃縮されておりスピード感のあるドラムフレーズとミニマルなギターが序の役割を担っています。所々で流れる燻かげなベース音が緊張感と不気味な雰囲気を生んでおり、ベースフレーズにここまでの恐怖感を覚えたのは、この楽曲が初めてです。徐々に音の隙間が無くなり球体の様な始まりと終わりの区別がつかない様なアンサンブルも本当に見事です。3.20秒頃に螺旋を彷彿させる様な騒然たるシンセ音も本当に素晴らしいです。
11.stand alone
downyは個人的に最後の曲は本当に最後らしい雰囲気の曲を持ってくるイメージなのですが、この楽曲は一曲目でもおかしくない熱量と破壊力のある楽曲なので、最後に持ってきた時は、とても驚いた記憶があります。インタビューでも明言している通り、初期を彷彿させる様な楽曲で、エッジの効いたザクザクとしたギターフレーズがおどろおどろしい雰囲気を構築しており、ドラムのハイハットとのキメも鋭利感が強まっており本当に素晴らしいです。その裏で儚くとも印象深いピアノが鳴っており隙間を縫うようなベースフレーズがアンサンブルに更なる堅牢感を構築しています。1.29秒頃の地を這う様なベースと万華鏡の様なギターフレーズが素晴らしく、次々と曲の表情が変わり、初期の世界観が再構築され更に圧倒的な技術力によってdowny流のプログレへと昇華して行きました。。2.33秒頃のカオスとも言えるリズムの応酬と迫りくる様なベースフレーズが本当に素晴らしくさらに伏線回収とも言えるギターのフレーズが垣間見え怒涛的に楽曲は終わります。ライブ以外で持っていかれるという体験は少ないのですがこの曲は聴いていながら圧倒的な音世界にやられて聴き終わった後にしばらく呆然としていました。そういう意味ではこの曲が最後になるのも凄く納得できます。
downy/第七作品集trailer movie
https://www.youtube.com/watch?v=IKHJpFgh4P4
砂上、燃ユ。残像
https://www.youtube.com/watch?v=xNHUhILnoZ4
視界不良
https://www.youtube.com/watch?v=-18WPslZPEY
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takahashistudio · 4 years
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10.03.13私の家/カニンガム邸 見学会 橋本ゼミ 「1950年代の小住宅をめぐって」  <プロローグ>事前に時間をかけて勉強してきた上で清家清さんの「私の家」の見学会に行きました。その後、学生に50年代の巨匠になりきってもらい、座談会を開いたときの記録です。 橋本(司会) …橋本純 高橋     …高橋晶子 増沢洵    …西澤正子  (M1) 広瀬鎌二   …卯月裕貴  (M1) 池辺陽    …星野千絵  (M1�� 清家清    …雨川美津季(M1) <始まり> 司会:今日は、清家清・増沢洵・広瀬鎌二・池辺陽の四氏に集まっていただき、50年代の小住宅を総括する座談会を開きたいと思います。おのおのの作品を振り返りながら、50年代の小住宅とは何だったのかを導き出せたら成功ではないかと考えています。それでは、若い順にいきましょうか。増沢さん、お願いします。 <増沢洵> 増沢:今日は2作品紹介したいと思います。まずはレーモンド事務所にいる時に建てた自邸(最小限住居の試作)です。3間×3間の9坪の1階、3坪の吹き抜けをもった6坪の2階、総床面積15坪のミニマム・ハウスです。私は、面倒なことはしたくありませんでした。なので、柱間を統一することで部材の統一化を図りました。 司会:それは構法の問題としてですか? 増沢:そうです。作りやすくするために難しい仕事や面倒で手間のかかることは好きではありません。 司会:設計はその分大変になりそうですがね (笑)。大工のためとも言えますね。広瀬さんや池辺さんはその当時、伝統構法とは違うことを考えていたようですから。 増沢:また、敷地にとらわれずにローコストに抑えるというのも前提としてありました。 司会:なるほど。もう一件のお話も聞かせて頂けますか。 増沢:もう一件は『コアのあるH氏の住まい』です。自邸の方は丸柱で設計しましたが、柱が一本もない家をやってみようと思い、コアを使いました。8尺のベニアからスタートしましたが、7尺8寸は既に清家さんがやっているので(笑)7尺7寸から始めました。屋根を低くすれば必ず良くなると思ったんです。 司会:天井ではなく屋根なんですね。 低くしたのは棟ですか, それとも軒ですか? 増沢:両方です。7尺7寸は天井高です。 司会:コアを設けた理由は何だったのでしょうか. 増沢:コアに機能を寄せることで、建物と庭が一体となって敷地に広がることを考えました。それから、自邸の時は3本の独立柱を基準にしたんですが、柱が邪魔だったんですよ(笑)。 司会:(笑)それ、作っているときは気付かなかったんですか? 増沢:気付きませんでした。生活してみてから分かったんです。 司会:広く空間をとるということならば、寝室と居間をつなげて使う方法もあったのではないかと思うのですが、そういったことは考えなかったのですか? 増沢:自分の経験をもとにしました。住宅の構成要素には複数の機能をもつものが意外と多く、その機能を単一化することによって一層合理的な設計が出来るのではないかと考えていました。なので、ひとつの空間を居間、食事、台所、家事コーナーなどに分割し、個室には独立性、団らんの場には一体性を図りました。コアのある住まいで良いと思っているところは、キッチンの在り方ですね。主婦だけでなく、誰が使ってもいいようになっています。また、建具を開け放つと居間と台所がつながりパーティーなどにも使えるなど、自由な使い方ができると考えています。 司会:敷地の使い方など、清家邸に通じるところがあるかもしれないですね。こちらの方が広いですが。 高橋:清家邸にはドアがありませんけどね。 増沢:コアの住まいには個室があります。 司会:サイズが違いますからね。コアの素材はなぜ変えたのですか? 増沢:コアがストラクチャーではないのを強調するため、素材を変えました。 司会:どうしてブロックにしたのですか?合板にでも良かったのでは。 増沢:それはコアを目立たせるためですね。 高橋:コアの周りにキッチンやワークスペースがありますよね。一般に、コアの周りはすっきりしている傾向にあると思うのですが。 増沢:むしろまとめたかったんです。個室、コアには機能、団らんのスペースとはっきり分けることを考えました。 司会:南面の障子の扱いについて質問です。障子は大きさに区別があるようには見えません。個室には違うサイズのものを使ったりしなかったのですか? 増沢:規格サイズが好きなんですよ。合理的なので。 高橋:正面から見ると個室の位置が分かりづらいですよね。個室はどこでもよかったんですか?プランニングにおけるきまりとかがあったでしょうか。 増沢:生活のことを考えて配置してます。どこでもいいわけではありません。 高橋:決めるところと、決めずにおおらかなところ、それぞれ4人に違いがありますよね。 <広瀬鎌二> 広瀬:最初の鉄骨造住宅SH?1について話をしたいと思います。敷地面積は60坪で、近代工業の発達により生産された新しい材料を用い、その力学的・材料的特性を生かして設計した新しい住宅です。50年代の乏しい経済の中での住宅のニーズもあり、その人達へ対する提案にもなっています。鉄骨という材料はまず計算が厳密にできるという利点があります。木材には力学的曖昧さがあったので。また、可能な限りそぎ落とし単純化を目標に作りました。設計に関しては、夫婦2人だけの生活を対象とした、最も単純な平面とはどんな形式にしたら良いかを考えて計画しました。単純化を求めた結果、空間を重複使用することにしました。ここでの重複使用とは、居間が生活、接客、客の為の寝室、食堂、仕事室として機能し、さらに細かく言うと玄関と居間の床をフラットにすることで視覚的な繋がりをつくり、また壁のような間仕切りもなくし、狭い敷地の中で空間の広さを感じられるようになっています。家事などの裏方のスペースを北側に取って、居間、寝室が面する南側の開口部を出来るだけ大きく取りました。水回りなどのプログラムの配置については、給排水の道路からの距離を出来るだけ短くして、配管の無駄を少なくしています。最初風呂場の位置は南側だったのですが、北側にすると配管工費が1/3も減る事が分かり北側に変更しました。空間をできるだけ広く感じられる様に、扉はトイレにしかつけていません。また開くことでとられるもったいないスペースを避けたいとも考えました。高橋:縦横どのくらいの大きさか図面を見てみると、日本の伝統スケールが入ってますね。尺寸。 広瀬:余りが出ない尺寸で作りました。 司会:余りですか? 広瀬:はい。鉄があの時代高かったので、あえて鉄を?という考えもあったのですが、構造計算の段階で驚く程軽量で出来ることを知りました。この建物の場合は、定尺物において材の断面に対し最も経済的なスパンを逆に計算する方法を取りました。その結果、4尺、8尺という寸法を得ました。この寸法は硝子の規格寸法にも合い、鋼材の定尺5m10mにも殆ど半端を出しません。鉄骨が木造と引き合う価格で出来るかもしれないという試しでした。 高橋:清家さんの「私の家」とあまり変わらない平面形、およそ5m*10mですよね。これについては同じプロポーションということで後ほどバトルできるかもしれませんね(笑)。 司会:鉄はこの当時なかなか住宅には使われない素材だったと思うのですが、ディテールや収まりなどはどこで学んだのですか? 広瀬:…。 司会:…秘密だそうで(笑)。 一同:(笑)。 増沢:鉄骨住宅は量産を考えていたんじゃないですか?だからディテールなどは 広瀬:ちゃんとした質をもって作れると考えていました。 司会:でも、10棟くらいつくって反省をしていましたね。 広瀬:当時の工業産業経済の中では他の工業生産品の価格が庶民全体に使われるには高価過ぎました。日本の大工の仕事や規格に合わなくて2、3の住宅を除いてはすべて、仕上げを大工の手仕事に頼らざるを得なかったんです。 司会:自分は工業化できると考えたが、周りが付いてこなかったと。 高橋:その後またシリーズを出されますね。SH-13を作られたときはどんなことを? 広瀬:平面計画を制約しない構造計画に関心がありました。構造、外壁あるいは内壁を分離し平面計画の自由度を高めることが必用だと考えました。そのため平行な天井と床の間を、納まりや寸法を���えずに、壁を移行することができます。 司会:この作品は奥行きが同じですが、生活スタイルの変化に対して部屋を並列に、つまりワンスパンで並べて行くことで解決できると考えたのですか? 高橋:どちらかというと、生産の論理をつくろうという感覚ですね。 広瀬:そうです。ここでは工業生産住宅になる可能性を持っているという前提のもとで考えていました。構造と内壁および外壁の分離、部材の寸法と納まりの統一によって、自由な空間が得られる事が工業生産住宅に必用な要素であると考えていました。司会:SH-30になるとブレースがなくなり、剛接合になりましたが。ブレースが嫌だったのでしょうか。謎の住宅ですよね。今までの軽快さが失われてしまってます。 高橋:例えばミースとかに対してはどう思われてるんでしょうか?広瀬:ミースが鉄骨住宅を工業生産に近づけようとしているのは、レークショア・ドライブ・アパートなどで感じています。 司会:SH-1も30も、柱はアングルの溶接ですね。既製品を使っていませんし。削って溶接してます。鉄骨屋さんではできなかったんでしょうね。この住宅では障子やカーテンの扱いはどうなっていましたか。 広瀬:うーん。 高橋:増沢さん、清家さんの住宅は障子やカーテンがついてますね。ついてないのは、池辺さんとか広瀬さんのSH-1などですか。 広瀬:基本的に、必要な物は水回りがあれば成立しますので。最小限があれば生活はできます。 <池辺陽> 池辺:No3から紹介します。1950年に建てました。ここで、畳式から椅子式へ移行しました。家事労働を少なくすること、小さな家であっても水洗便所や台所設備など、衛生的な設備がきちんと入っていることが前提条件です。そして、居間、寝室、台所などの機能を合理的に収めることを試みました。次に1958年に建てたNo38です。こちらはファッションブランド「VAN」の創始者・石津謙介さんがクライアントの石津邸です。雑誌「モダンリビング」と共同して行ったケーススタディーハウスの第1号です。ここでは、都市より、敷地に対して関心がありました。これからの時代は敷地が小さくなり、間口が狭く奥に深くなっていくだろうと考えています。この石津邸では、40坪という非常に狭く奥行きの深い敷地の中にテラスをつくりながら、室内を、居間、寝室、台所などの機能で分け、それぞれにアクセスがよくなるようレベル差でコントロールしています。 司会:No3は木造、No38はRCですが、どうしてRCの流れになっていったのですか。また、GMモデュールの研究をしていた時に、その流れに乗らないNo38を設計した理由は何だったのでしょう。それから、No3には立体最小住居とネーミングされていますが、なぜ「立体」という言葉を使ったのでしょうか。 池辺:RC造を使ったのは、これからの社会の中でとても可能性のある構造だと考えていたからです。現代の生活にあった住宅を、現代の材料や生産技術にもとづいて設計するということを目指していますから。「立体」という言葉を使ったことについては、容積の問題です。無駄なく中の空間が使えるように、またどんどん家が小さくなっていくのでこの立体の構成が有効かと。空間をつながりで感じています。居間の吹き抜けや、小さい部屋の集合などです。 司会:どちらも大きいボリュームに吹き抜けを設ける構成ですね。 池辺:平屋から2層になっていく可能性の模索をしていました。 司会:都市部において2層になっていくのを予測していたということですか? しかし、なぜ今No38のようなものが建たないのでしょうか。 池辺:もっと敷地を有効活用する必要があるからだと思います。 司会:30坪だからだいたい現在の一般的な住宅と一緒だと思いますが。 池辺:確かに敷地に対して半分しか建たないのは変わりません。しかし、当時の人は持ち物も少なく、最小限の生活ができました。ですが、今は違います。例えば今の人達は大抵車を持ちます。すると車が入るためのスペースが必要になるので、No38のような吹き抜けをとることができないんです。 司会:あと、庭を東側に寄せていますね。南側に作るのは諦めたんですか?都市住宅においては、庭の取り方の方がプランより大事になります。空間の連続性の方が優先していたということでしょうか。モデュール論まで話がいけませんでした。すいません。では、次の清家さん。 <清家清> 清家:今日実際に「私の家」を見てみて、どうでしたか?私の家は1954年に建ちました。まず、この土地の話をしますと、ここに移住して来たばかりは私の家族と女中をあわせて6人でした。その当初、敷地は150坪でしたが、その後40年の間に生活と社会の変化があり、この家が建つ頃には家族は9人に増え1000m2に増加しました。戦時中、私は海軍に入隊しました。我が家の周辺に焼夷弾が落ちたことは知りませんが、我が家の敷地内にも数発落下したようです。しかし家屋が少し焦げた程度で済んだのは、ちょうど年齢的に消化活動のできる世代が家を守っていたということや、空地が充分あったことが幸いしていたといえるでしょう。そして戦後間もなく結婚し核家族生活をしているうちに、社会状況も安定してきたという諸事情から、私たちの小さな住宅を両親の裏庭に建てさせてもらうことにしました。家の向かいは消防署(病院じゃないでしょうか)だからRC造にする必要もありませんでしたが、金融公庫から借金できる金額は、償還年数の長いRC造のほうがたくさん借りることができるということで、RC造にしたの���す。私の家は次のステップへの実験かもしくはその試行錯誤であると思っています。また、空間の話をすると、この家はしつらえの家といえるでしょう。日本の伝統などよりも、狭さと家族のことを考えて変化に対応できる家を考えていました。四季に応じてしつらえを選ぶことができます。それから、狭い家なので庭との連続性を考えました。生活への工夫として、食卓・製図机・仕事机・タタミの台・ガラス戸のモデュールを統一して、効率を図りました。しつらえを楽にするための試みです。他のお三方のように社会的な目線というよりも、私は人の生活の方に目を向けていたかもしれません。椅子式にしたのは椅子・テーブルを使用することで、エネルギーの消費を少なくするためです。そして、海軍の経験から靴をはいたままの生活を試してみることにしました。 司会:エネルギーのためですか。本当ですか? 清家:資料の表を見てもらってわかるように、立ったり座ったりするのは案外くたびれるものなのです。 高橋:床に座る方が椅子に座るより消費エネルギーが多いということですが、移動式畳を作られてますよね。畳に対して未練みたいなものがどこかにあったとか。 清家:畳には未練はないんです、未練というより必要性です。衣服をたたんだりするのにいいのです。可動式にしたのは、しつらえからきています。他の家具の軽さもそうですね。 司会:子供部屋については? 清家:…あまり考えてはいませんね。家族では、主婦について多く考えています。戸主といわれるくらいですしね。建築家は形は作れるが、家は母性がつくりますので。 司会:「私の家」というタイトルから、家族に対する意識は? 清家:浴室がないなど、両親の家に頼るところがあったので…。 司会:核家族への意識みたいのはあったはずでは? その意識があれば子供をご両親の家に住まわせたりはしないでしょうし、団らんの場は作ったはずですが。それから、あえて地下を作った理由は何ですか? 清家:防空壕が残っていたんです。だから利用しました。 司会:あるものは使え、と(笑)。壁の仕上げについては? 清家:石ですか?素材については、多様の素材を調和させてモダンさを求めました。 司会:モダニズムで考えれば、統一性では? 清家:美意識です。パルテノンを見た時に影響を受けました。 司会:見たんですか! 高橋:大学の講義ではギリシャの話ばかりしていたそうですね。それ以降の時代は否定していたとか(笑)。 清家:ギリシャの建築家は先ず建築家個人の感覚で造形をするんです。それから、幾何学的に計画する。そうして寸法をギリシャ尺で測れるような数値に調整し、またその次にこれを建築家の視覚に訴えて修整するという、くりかえしを何回となく続けて設計するんです。それに比較するとルネサンスの否定をしてしまう… 司会:ギリシャは良くて、ローマはダメ。ルネサンスはもっとダメで、バロックはたまに良い物があると(笑)。いつ行きましたか? 清家:えっとですね…高橋:あのスクーターで行ったんですか!(「私の家」の軒先に有名なスクーターが置いてあった。) 司会:ギリシャ建築の寸法体系をご自身の建築に適用するときに、一番苦労されたこととは何でしょう? どういう幾何学寸法を用い。どういう日本の寸法体系と合わせていったかなどについて、お教え下さい。 清家:建築は空間を規定する甲羅だと思うんですが、甲羅だけでは亀ではなくて、本当に亀なのは甲羅のところではないもっとやわらかな部分なのかもしれないと思います。建築とは、そういう堅い甲羅の部分と、その甲羅でおおわれたやわらかな部分、さらにそのやわらかな雰囲気に包まれた容器、空虚な空間のすべてを含んでいると言えるでしょう。すまいのもつ文学的な意味まで無視して考えるのはよくないと思いますね。 <四人の対談> 司会:次に4人でお話をしていただきたいと思います。ではまず増沢さん、お願いします。 増沢:自分や池辺さん、広瀬さんには社会に目を向けていたようだけど、清家さんはどうだったのでしょうか。 清家:私の場合、意識は家族に向いていた。他の三方のようにプロトタイプをつくろうとしていたわけではない。むしろ一点ものの住宅をつくる姿勢だった。 司会:一方で清家さんは「デザインシステム」という名前の設計組織をつくられている。それはそのことと矛盾しませんか。 高橋:清家さんは海軍での設計では社会性、合理性を求めていましたよね。 司会:戦時中には量産をしていくのが設計の仕事だった。戦後のそのことへの距離感が四人それぞれ違うと思います。池辺さんは左翼なられたですよね(笑)。それも戦争中の影響が大きいのでは。広瀬さんの量産への意識はどうでしたか。 広瀬:規格サイズの鉄の量産に可能性を感じていました。木造ではなく鉄を使ってアメリカなど大国と同じようにしたかった。 司会:量産志向ではなかった清家さんはどうでしたか。 清家:その時々の状況に対しての設計をしていたつもりです。 司会:当時は社会全体から住宅の大量量産を求められていましたが、清家さんはなぜそれに乗らなかったのでしょう。社会には目を向けていなかったのですか。 清家:んー? 高橋:東大の増沢さんにはその姿勢があったと思います。清家さんは芸大だったからその意識が薄かったのかも。 司会:名前のつけかたをみても、広瀬、池辺両氏はNo.~でつくっています。清家さんは「~さんの家」。増沢さんはそのあたりは無頓着ですね(笑)。池辺さんはどうでしたか。 池辺:私は、社会に説明のできる明確なものを目指すことを研究室の姿勢にしています。だから、形の美しさというような、主観的で社会にとって役立つかどうかわからないことは、一切言わないようにしています。 司会:清家さんと池辺さんは、交流はあったんですか。 池辺:はい。お互いに評価しあう関係でした。清家さんの感覚と形態の決め方が気になっていました。こちらは感覚によらないようにがんばっているけど、清家さんはそれだけでやっているようで。それでも実際に訪れてみれば、いい空間だなあと感じて納得させられてしまうので、ズルいというか、うらやましいなと(笑)。 司会:清家さんは池辺さんをどう評価していましたか。 清家:社会に対する姿勢からくるモノとしての凄みがあるなと。 高橋:清家研の建築には機能がない、池辺研の建築にはかたちがないとやりあったそうですね。それが非常に楽しかったと。篠原一男さんとの対談(新建築2000/10)を読むと、お二人の違いもよく分かって面白いです。 司会:いろいろお話を聞いてみて、増沢さんと清家さんはどこか似ていますね。同じように広瀬さんと池辺さんも似ている気がします。そのあたりそれぞれお話を。 増沢:私はレーモンドに師事していたのでその影響を受けているかと思います。正直さなど。清家さんはしつらえということをよく言いますがどういうことですか。 清家:そこにあるものではなく、そこに起こることが大切であるということです。しつらえとは事ですね。 司会:じゃあ畳でよかったんですか。 高橋:あの畳は動く床ということなんですか。 清家:当時畳を使うと批判されました。周りは日本を否定していましたから。 高橋:清家さんはそのあたりは気にしていなかったんですか。 清家:私は社会がかわっていくところにフィットさせていくという姿勢でした。 司会:森博士の家では二間続きの和室をつくっていますね。当時畳は普通の生活空間だったんですよね。池辺さん、広瀬さんはどうですか。 池辺:鉄骨でつくる場合、プランへの影響はありましたか。 広瀬:鉄を使ってSHシリーズをつくっていく場合、より経済的であることが大きかったです。 池辺:私の場合は機能で分けていく合理主義。増沢さんは合理的でありながらどこかあいまいに残している部分があって、だから全体がおおらかにつながっているような。 広瀬:鉄骨でつくるということが一番にあって、それに伴う条件のもとでプランを考えていました。 増沢:ミースの影響などはありますか。 広瀬:ミースの鉄骨造のつくり方も理解し肯定しますがミースを意識していません。日本の住宅事情とは違うと思いますし。 司会:ミースは鉄骨のジョイントを溶接しています。広瀬さんはボルトでジョイントしていますよね。そのあたりの意識はどうでしたか。 広瀬:当時の経済的、技術的な理由からボルトを使用していました。 高橋:例えばイームズ邸はボルトでつくっていますよね。戦中、戦後の経済状況からボルトでつくるということがDNAとしてあったのかも。どちらかを選ぶ余裕もなかっただろうし。 司会:池辺さんは構造形式にはあまりこだわらなかったようですね。広瀬さんは構造形式に意識的だったようで、ある構造でやっているときはほかの構造はやらなかったみたいですね。広瀬さんは空間論でなく生産論を前面に出されていたと思います。美意識よりも工法の意識を先行させていて、工法を探求していましたね。広瀬さんは武蔵工大から教員の話があってから事務所をたたんでいます。そこで木造の可能性に気づきしばらく木造をやっていますね「木造のディティール」という本も出ています。その後また鉄に戻っています。広瀬さんは以前に「基礎つくるようになって建築がだめになった。鉄を地面から生えているようにしたかった。礎石の上にのった柱はズレてしまえばおしまいです」とおっしゃっていますね。広瀬さんは原理主義的に構造のありかたをを思考していたのではないかと思います。 高橋:四人うちでいちばんプランの話ができるのは池辺さんでしょうか。 池辺:私はレベルによって機能を分けたり、客観的な合理性のあるプランを目指しました。私自身のオリジナリティとしては、農家のように無駄のないものに美を感じています。それが合理的であると。 司会:プランニングよりも組み合わせで考えていたのでしょうか。二の倍数で図面を描いていたり。ロジックが美に置き換わっている。 高橋:増沢さんは非常に真面目にプランニングをしている。 司会:増沢さんはエキセントリックなデザイン性ではなく、日本の近代住宅のあり方を多角的に考えられていた方なのでしょうね。清家さんは近代というものを様式ではなく生活として受け止めておられたのではないかと思います。 <終わりに> 司会:50年代の住宅史を学んで得たことは鵜呑みにせず自分で解釈していいと思います。でもそこで考えなくてはいけないことは、その作家が何を考えていたか、その歴史や背景、社会に目を向けていかないといけないということです。では、みなさん今日はお疲れ様でした。
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eggenburgprinzessin · 6 years
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[モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』、そしてクレンツィス+ムジカエテルナ ベートーヴェン・チクルスもいよいよスタート!]
今年の音楽祭もいよいよクライマックス。この時期になると一日二本立ての日が続くから、聴き手としての体力と感性のキャパシティも大いに試されることになる。 こちらのカレンダーでは宗教上の祝日の8月15日(聖母昇天の祝日)、まず午後3時から「モーツァルトの家」劇場にてモンテヴェルディのオペラ『ポッペアの戴冠』。指揮はウィリアム・クリスティ、演奏はレザール・フロリザン、演出はヨーロッパでも超左派の革新的演出家、オランダのヤン・ロワース。 モンテヴェルディの『ポッペア』はここ数年、日本にいても鑑賞の機会がとても多かった。モンテヴェルディが昨年が生誕450年の記念イヤーだったこともあるし、古楽オペラの中では比較的演奏時間が短いので、舞台に載せやすい、ということもあるだろう。とりわけ昨年秋、鈴木優人指揮のバッハコレギウム・ジャパンの公演は、長くくっきりと印象に残るような、素晴らしい演奏だった。日本には優れた古楽演奏者がいるので、いい演奏に出会う機会も多くなるが、しかし、この『ポッペア』に関しては、たとえ音楽が素晴らしくても、なかなかそのストーリーを追うのが大変だ。つまり、私たちがモラルとして持っている「善は勝つ」的な価値観が一切通用しない、悪人がハッピーエンドになるプロットなので、それをどう捉えるかに戸惑うわけだ。ネローネ(ネロ)帝は部下オットーネの妻ポッペアに恋し、ポッベアも女帝の地位が欲しいこともありネローネに執心している。哲学者セネカにそのアンモラルをつかれると、ネローネは直ちに自ら命を絶つように命じ、妃オッターヴィアは流刑にし、ポッペアを殺めようと図ったオットーネも国外追放し、邪魔者をすべて追い払ったのちに、ふたりの愛のアリアの中にポッペアが戴冠するのである。 これはヘンデルの縺れまくるあらすじのレベルをはるかに超えて、とても現代人には理解しがたい世界なので、よくある演奏会形式で淡々と歌っていくのが無難な落とし所と言えるだろう。 私自身も、『ポッペア』を観るときはあまりいろいろ考えないようにしていたのだが、たまたま昨秋、バッハコレギウムの演奏を聴く直前に、ボッカッチォの『デカメロン』をつれづれに読んでいた。ペスト流行時のフィレンツェで、疫病を避けて田舎にこもった男女10人がそれぞれ1日に1話ずつ10日間小話を語るという一種の箱物語で、その話の内容は、言ってみれば中世風与太話なのだが、この物語集には、それこそ『ポッペア』風のストーリーがザクザク埋まっている。年寄りのもとに嫁いだ若く美しい妻が、うまく夫を追い払って若い恋人とハッピーエンドなどはワンパターンか?と思うほど繰り返し出てきて、そして、この類の話を聞いている美しい淑女たちが大喜びで、「それはそれは歯が抜けるほどお笑いになりました」とあるのである。これを読んでいると、なんというか、近世以前のヨーロッパには、現代とは違った笑いのツボがあるのではないか、と思えてきた。ボッカッチォとモンテヴェルディの間には200年の時代差があるにせよ、『デカメロン』の物語のパラダイムは、何度聴いても謎だった『ポッペア』のストーリーに接近するヒントを与えてくれるような気がしたのだ。 もしかしたら、ギリシャの人々が、都市の円形劇場で、とんでもない悲惨な内容の神話劇を見てはカタルシスを得ていたように、中世やルネサンスの人々もまた、受け入れがたいほどぶっ飛んでいるオペラや音楽劇の「逆さまの世界」に「歯が抜けるほど」爆笑しながら憂さ晴らしをしていたのでは?…そう思うと、ポッペアの歌詞やレシタティーヴォの言葉のひとつひとつが改めて味わい深く思えてきた。 こういう視点もまた、もしかしたら「無理やりこじつけ」のひとつのパターンなのかもしれないが、古い物語を無理に現代風に解釈しようとせず、これはこれで昔の人のお楽しみ、という風に向き合うおうとすると、意外と毒々しくなく綺麗に収まってくるのがこの作品ではないかと思う。 さて、今日の『ポッペア』には、この類の繊細な切り口ははなから期待できそうもなかった。作品のプロモーションフィルムでは、演出のロワースが攻撃的な口調で「この作品にはセクシュアリティとエロティシズムを読み取るしかない」みたいなことを言っていて、なんだかひどい「ポッペア」になりそうだ、などとも思っていた。 ネローネは、かの有名なネロ帝で、興味本位の歴史秘話が古くから多く語られ、猟奇的なエピソードが一人歩きしがちな皇帝である。歴史の業界では、いまは、どのような人物、事件に関しても、従来語られたイメージを覆す慎重な分析が常識になってはいるが、演出家の世界ではまあそういうのは通用しないのだろう。舞台イメージをちらっと見たら、もうそこは、1960年代のハリウッドが作った古代ローマの空想世界のように、ズバリ酒池肉林であった。 もうとにかく舞台がうるさい。全曲を通して、ロワ���スが率いるダンス集団、ニードカンパニーのダンサーたちが踊りまくっている。中央にお立ち台があって、そこに、磁石で動く自動人形のように、結局終幕まで、ダンサーが交代で終わりのないピルエットの回転を続けていた。そしてそのダンスたるや、犯したり傷つけたり、ダンサーも最後は血まみれで、なんだか見ていてげんなりした。セネカが死のうという時に、歌手の足元に若い男性がひとりゴロゴロ音を立てて転がってきたのは、もうもはや謎である。 クリスティとレザールフロリザンはさすがに見事な演奏だった。写真のように、舞台の前にオーケストラピットがあって、中央にそれを渡る通路があり、客席側に張り出した前舞台へと繋がっている。通路でオケピが分断される形だが、こうして形成された二つの空間に、チェンバロを一台ずつとリュート、テオルベ、チェロによる通奏低音を置き、そして、旋律を導く楽器として、右側にはオーボエ二本、左側にはバイオリン二本という配置をしていた。いわば、ほぼ同じ編成のアンサンブルが左右に二つ、相似をなして向き合っているのだ。クリスティは左側のチェンバロで弾き振り、そして、右側のピットではベノワ・ハルトワンがもう一台をジャカジャカ鳴らして華やかだった。奏者もさすがうまくて、ひとつひとつの楽器が、輝き出るような音色で鳴っていて、本当に良かった。 オペラ全体としては、原色ケバケバの、泥沼の悪人物語として仕上げているから、ソニア・ヨンチェヴァのポッペアは、夫を捨て邪魔者を容赦なく追い払う、ごく分かりやすい烈女である。ヨンチェヴァの声と歌唱は以前から古楽向けではないと思っていたけれど、今回のような大きな劇場で、しかもダンサーの入り乱れる中でこの役を歌うには、危なげなところがなくてなかなか良かった。元々の女王様キャラなので、「烈女」というイメージにもピッタリ合っていた。 ネローネ役のケイト・リンゼイは、ちょっとイッちゃってる雰囲気の、ドラッグ中毒の両性具有的ロックスターみたいな独特のキャラクターを作っていた。ネローネとポッペアはソプラノ同士の「女の子カップル」になるから、お色気烈女のヨンチェヴァと、この危ない中性的なネローネが、危ういけれどチャーミングなカップルとしてそれなりにうまく釣り合っていたと思う。リンゼイの声が個性的。どちらかといえば声帯を開いて大きな声を出すヨンチェヴァとは対照的に、細く伸びのいい独特の声で、喉を回して歌う箇所などは思わず聴き惚れた。 セネカのレナート・ドルチーニとアモーレのレア・デザンデレがなかなか聴かせる歌唱をみせ、そして、ポッペアの乳母、アルナルタのコントラルト、ドミニク・ヴィスがコミカルな演技と歌いで客席を惹きつけた。 音楽は極上、歌手も悪くはないのだが、全体に、歌として聞かせるというよりは、物語を語って聞かせるような演奏になっていて、極力歌手に「歌わせないように」指示しているかに思える場面も多かった。『ポッペア』は何度も観ているので、演出が多少ひどくてもさらっと聴いて楽しめるかもという気持ちでいたが、休憩含めて三時間半あまり、じっくり聴いて、ただただしんどい『ポッペア』であった。                                                          ***
『ポッペアの戴冠』終演後、一時間半で頭を切り替える。 20時開演で、お隣の「岩場の馬場」劇場では、今年最大の期待のコンサートシリーズ、テオドール・クレンツィス率いるムジカエテルナによるベートーヴェン交響曲全曲演奏チクルスが、いよいよ今日から開幕した。 クレンツィスとムジカエテルナは、ザルツブルクでは昨年、おなじ会場でモーツァルトの『皇帝ティートの慈悲』のピットに入り、即座に話題を独占した。ロシアのペルミから積極的にヨーロッパ中で客演して、時とともにどんどん人気が高まっているから、今年は、まだ出演歴の浅いオケとしては異例の四回連続演奏会が決まったところ、スケジュール発表になるやチケットの引きが殺到し、たちまち完売してしまったようだ。聞くところによると、今年の最難関チケットは、ドミンゴでもネトレプコでもなく、クレンツィスだったということだ。 とはいえ、チクルスの会場は今日だけがやや規模の大きい岩場の劇場で、あとの三回は少し小さいモーツァルテウムなので、祝祭大劇場での公演に比べると出回ったチケットそのものが少ないということもあるのだと思う。
チクルス初回は、楽聖最後の交響曲、第9番「合唱つき」からスタート。コーラスも、この若きマエストロのもとで歌っているペルミオペラ付きの合唱団をつれてきている。会場に入ってみると、開演前から皆すごい熱気で待ち受けている。そして、楽屋がないこの劇場、脇の通路から登壇したムジカエテルナ、皆頬を上気させ、初々しい。少しだけ遅れて舞台に上ったクレンツィスは相変わらずのオーラ感。脚にぴったりとしたレギンスのようなパンツ、そしてジャケットではなく、ふわりとタックをとったチャイナシャツの黒づくめである。 とにかくクレンツィスのタクトに目が釘付けだった。音楽の中に深く入り込み、まるで作曲家の精神が憑依してしまったかのようなエキセントリックさだが、見ていると、何をどうしたいのかが比較的よく分かる指揮ではある。オペラの時もそうだったが、棒は持たない主義らしい。そして、ムジカエテルナは全員が立ったままの演奏(最後の写真、譜面台の高さに注目していただきたい)。そこに生み出される独特のスヒード感があると言われるが、確かにかなりハイテンポで先へ先へと前のめりに進行するベートーヴェンだった。テンポも完全にクレンツィス独自のペースだが、各所にかなり個性的な作り込みをほどこしている。特に印象深かったのは、四楽章の「歓喜」のテーマを、チェロから奏ではじめて総奏に持っていくところ。チェロの導入を、極端に弱音にさせている。これは、蠢めく音のカオスの中から希望のメロディが流れ出すところなので、静かに旋律が響き始めるアイデアはいいのだが、ただ、この超弱音を、ふっと時々ゆるめて大きくさせたりしている。歓喜のテーマを奏でる音が、フーッと弱くなっては、またウワン、と妙に大きくなる。この眩暈のような作り込みがあまり好きになれず、また随所にこういうことを仕掛けているから、出来上がったベートーヴェンがあまりにクレンツィス色に染まりきっている。これは絶賛して受け入れるか、首をかしげるか、二つに一つのところだと思う。 クライマックスの合唱部分は、オケもコーラスもすきなくまとめてさすがに迫力だったけれど、クレンツィスの"Alle Menschen werden Brüder"は、人類の歓喜の歌ではなく、まさに、帝王のファンファーレとして響きわたった。両手を広げて”Freude”を導き出すクレンツィスは、まさに自らの勝利の響きを引き出しているようにしか見えなかったのだ。あまりにもユニーク。この演奏者については、もう、それしかないだろう。 「岩場の劇場」は音響がよくないので、まだ決めつけはできないが、ムジカエテルナもまだまだ若いオケだ。その響きには青臭く未熟な部分が多い。今日の第9番では、バイオリンは力強く美しかったけれど、低弦部は若干弱く、ホルン、トランペットはだいぶんバラバラしている。そして、全体に雑味を含む音色で、でもこの点は、クレンツィスのキャラクターと理想に合っているのかもしれない。 これはこれでこのオケの特質にもなってくるだろうが、ただ、いまのようにいろいろな形で情報が拡散されてしまう時代、クレンツィスとムジカエテルナのような、物質的な無駄を排除し、自己を研ぎ澄まして音楽と向き合うような芸術家が、安易に情報ソースに乗せられてどんどん拡大し、新しい時代の立役者にまつりあげられる過程が、なんだか空恐ろしかった。何も考えず、終曲を待って即座にブラヴォーを叫ぶ人たちは、本当のベートーヴェンがどんな作曲家で、どんな演奏がオーセンティックで、クレンツィスがそこから離れて何をしようとしているのか、そんなことには微塵の興味もないだろう。音楽が商売道具に利用される切なさを、クレンツィスとムジカエテルナのスターダムへの道のりに、感じざるをえないのである。 このチクルスを四回全て聴けるのは、特権ともいえるほどの幸運だが、会場がモーツァルテウムに変わったら、少しはじっくり聴けるかもしれない。明後日が楽しみだ。
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potrebleniyes · 6 years
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2018-06-11
・映画
グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独 (2009)
真夏でも手袋とマフラーを手放さず、異様に低い椅子に座り歌いながら鍵盤を叩く。1964年以降、コンサートは開催せず、レコードのみを発表した。50歳という若さで逝去した美しき天才ピアニスト、グレン・グールド。
エキセントリックな言動ばかりが取りざたされたが、「楽曲を分解し、別の形に組み直したかのような前例のないアプローチ」と評されるように、並外れた演奏技術と高い芸術性を持つ彼のピアノ演奏に人々は魅せられ、死後30年経とうとしている今でも残された彼の録音物により新たなファンを獲得し続けている。
映画『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』公式サイト
グレン・グールドさん、知人がファンでよく聴いているな~とLast.fmで観測していたのだけれど、実際自分で手を出してみるということはなく今まで来ていて、Netflixでオススメされたので観てみた。ドキュメンタリーは鑑賞にあたりあまり頭を日常から切り替えなくていいところが好き。
数多くあるグールドに関する映像作品は彼の音楽家としての才能を描いたものが多いが本作は、その才能と共に彼の知られざる本質の謎に焦点をあて、グールドを愛した女性たちの証言でその謎に迫ろうと試みている。 
と公式サイトにあるように、この作品ではグレンを「伝説の人物」として語るのではなく、あくまで一人の人間であり、不器用ながらも人々と関わり、幸せを求め、孤独感を感じていたのだということが描かれていたように思う。
知的で、ユーモアがあり、人嫌いというわけでもないが、社交性に乏しいという人物像。「自分の見せたい/見せられる面しか出さない」という人間性でありながら、様々な人物が同様にそう告げているというのは、そういう人間でありたかったのか、そうでしかいられなかったのか。
年齢を重ね、精神的な不安定さが増すにつれ、同じ曲でも解釈や音色がはっきりと変化するというのが非常に興味深かった。晩年は抗うつ剤等の多量服用がみられ、複数の医者をまわっては薬をもらいっていたそう。それでも愛情を求め、人間と関係を深め、ピアノを弾き続けた。その断片が、過去録音されていたピアノの音とともにうまく描かれていたと思う。
個人的に、冷戦時代のソ連でのコンサートのエピソードが面白かった。
当時ソ連でグレンはそこまで有名というわけでもないうえ、キリスト教的とされ禁止とまではいわないがあまり演奏されていなかった��ッハが選曲されていたため、前半入りが悪かったが、途中で聴衆が外で電話をかけ知人を誘いはじめ、後半には満員になった。というもの。1957年の公演では1100人の立ち見が出たそう。
冗談の部分もあるとおもうが、いかにすごいピアニストだったのかがわかりやすい。
後にコンサート活動をバッサリやめ、電子メディアへ系統していくのだけれど、聴衆はコンサートを求めつづけた。というエピソードも興味深かった。(聴衆と演奏者という図の形に対する疑問提起として)
多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し[4]、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンやフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。
グレン・グールド - Wikipedia 
おもしろいな~~~~~~~~~~
グレン・グールドを知らない人はその魅力を知ることが出来、すでに知っている人は新たな面をみることができる(インターネットのレビュー読んだ感じでですが)、良いドキュメンタリー作品だったと思う。
・アニメ
ひそねとまそたん:6話
たいへんだな~
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX:1話
ご飯作りながらだったのでOrigaさんがめっちゃかっこいいことしかわからなかった……
昭和元禄落語心中: 5,6話
いい~~~~菊比古さんが「自分の落語」が何かに気づいていてかっこいい、女形してる菊比古さん美しいな~~~~~~
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syumidas · 7 years
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『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』世界で生きていく私のために。
ロズギルが終わった。
2017年11月は、彼らのことばかり考えていた気がする。
長い旅をしている友人の無事を祈るような、ときどき彼らの様子をうかがいに行くような。
幸い何度が会うことができた、数人のロズギルの様子を記しておこうと思う。
ついに、ロズギルが完全に死んでしまったこの世界で、次のステップに進むために。
※観劇メモを膨らませただけなので結論もなく、とりとめのない文章ですが、ご笑覧いただければ幸い。
  ★ 脚本について ★
 まず、めっちゃ脚本がわかりやすい。ほぼ現代の話し言葉で書かれている。
ストッパードの原書もこんなにコミカルなのかしらん?
元ネタである『ハムレット』の小難しくて大仰な、シェイクスピア劇イメージを忘れて楽しめる。
翻訳劇初心者にもとっつきやすく、それでいて正統派な雰囲気も漂う。
そんな親しみやすさと喜劇的なやりとりに笑いながら、目の端には不穏な影が常にちらつき、通奏低音のように緊張感が解けない。
笑いと恐怖の絶妙な配分に、始終引き込まれ続ける本だと思う。
  ★ 原典『ハムレット』との比較まとめ ★
 ◎
驚いたのは、ハムレットと言えば喪服=黒服なのに、遣都ハムが上から下まで真っ白な衣裳を身につけていたこと。
さらに、うじうじブツブツ根暗キャラのイメージと違い、自信たっぷりでエキセントリックな躁病気味の性格も。
ロズギルには、ハムの性格がそう見えていたということだろうか。
ハムの独り言シーンは舞台袖で見えなかったり、舞台で演じられても無言劇だったりで、観客もロズギルと同じ情報量しか与えられない。
誰もが知っている、お約束の「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」の名セリフですら無言劇だったのは、「マジ?」って思ったw(髑髏持って口パクしてるシーンね)
原典『ハムレット』でのロズギルは、王やハムとの短い会話シーンしかないせいもあるけど、慇懃無礼な小物の感じ。
それが裏ではこんな悪態ついて、バタバタ右往左往していたかと思うと笑える。
王と王妃も下町食堂の気のいいおっちゃん&おばちゃんという雰囲気で原典のイメージと違う。
王の威厳も魔性の魅力も欠片もないので、不倫とか不義密通とか言われても、最早ギャグとしか思えないし、まったく憎めない。
安西オフィーリア/ホレーシオの配し方が面白い。
男性(本来は少年)が女性を演じることや、1人の役者が2役以上を演じるという、古典シェイクスピア劇でよく使われた手法を踏襲している。
ラストを安西ホレによる、朗々としたザ・シェイクスピアな台詞で締めくくることで、物語が表の『ロズギル』世界から裏の原典『ハムレット』の世界に還っていく。
  ★ 美術・衣裳・照明について ★
 ◎
舞台美術はシンプルというよりもミニマム。
記号的でガランとした空虚な景色が広がっている。
未完成のようでもあるし、あらゆる空間と時間を想像させる普遍性も感じる。
ロズギルの衣裳は濃淡あれどグレー1色。
白黒つけられない不確かな存在を表している。
2人の境界も曖昧、モノトーンの舞台との境界も曖昧で、照明が落ちるとすぐに闇に溶け込んでしまう。
「スピード出したらアスファルトと同化すんねん」(by火花)www
裏の世界=原典『ハムレット』のキャラたちは白一色で、天上人のように現実感がない。
現実と虚構を行き来する芸人一座の劇中衣裳はカラフルで、逆に生身の実在感がある。
iPhoneやストップウォッチなども用いられ、現実と繋がっているイメージ。
照明は闇の使い方が素晴らしい。
2人の周囲を闇で円形に切り取ることで(その円の中をグルグル歩き回るロズ)、袋のネズミな2人の状態と閉塞感を表している。
ラストはロズギルがパッと闇に消える演出。
座長が言っていた、観客が期待するロマンと芝居っ気にあふれた死ではなく、ギルが何度も訴えかけていたような無機質で無情な死の訪れを表現する。
「今ここにいたのに次の瞬間にはいなくなって、もうそれっきり退場。スッと説明もなく消えてしまう。その重さは徐々に増していき、やがてそれが死の重みとなって、ずっしりとのしかかってくる」。
観客は生の終わりの呆気なさ、残酷さ、のしかかってくる死の重みを疑似体験しながら、運命に翻弄されたロズギルを哀れに愛おしく想い涙する。
削ぎ落とされた舞台、美しい佇まいの役者たち、ウィットに富んだ台詞のやりとりと、全体的にスタイリッシュに仕上がっている。
1回目に観た時は、ロズギルパートはもっと猥雑にして、裏の高貴な『ハムレット』世界との落差を出した方がいいんじゃないか?と思ったけど、段々とその洗練されたユーモアが心地よくなっていった。
  ★ ロズギルについて ★
 ◎
客席の明かりも落ちていない中、セッティング中の美術スタッフが大きな板を運び出したら、そこから不意に現れるサプライズな登場。
そのハリボテ感、現実との地続き感。
彼らの(人間の)存在のはかなさ、どこから来てどこへ行くのかもわからない寄る辺なさ。
手品師が1本の紐をちょちょいと結んで作った2つの結び目のような。
最期も、紐を引っ張ったらパッと結び目が消えるように闇の中に掻き消えてしまう。
濃い顔で年上の斗真くんが、純粋で子供っぽいボケのロズ。
スッキリ顔で年下の菅田くんが、理屈をこねくり回して激しくツッコむギル。
敢えて、チグハグな配役も狙いなんだろう。
元々名前すらあやふやな2人だけど、幕が進むに従ってロズが饒舌に語りだし、ギルが子供っぽく不安定に変化して、境界が曖昧になっていく。
ロズが消える直前に菅田ギルが絞り出す「…覚えてない…」が凄く好きで。
観た中で一度、特に幼い声の時があって、まるで親に見捨てられた子のようで。。。胸をギュッと掴まれた。
そんな2人なのに、最期は同時に逝けない残酷。
一人ずつ時間差で闇の中に沈んでいく様に、「死ぬときは独り」という真理を思い知らされる。
膨大なセリフ量は言うまでもなく、特筆すべきはそのスピード!
弾丸トークで漫才のような掛け合いが続き、何度も客席から笑いが巻き起こる。
特に菅田ギル!もしかして、世界最速なんじゃない?ギルデンスターン界のウサインボルトじゃない?(笑)
ラジオでカミカミの菅田くんとは思えないほど(失礼)、見事な滑舌と発声。
何より、「間」の心地よさ。
関西生まれ・お笑い好きで醸成された生来のセ���スに、火花を始めとする仕事で磨きがかかったテクニック、何よりもこの時代とぴったりマッチした彼の“今”の感覚。
なんの不安も違和感も感じずに身を委ねられた。
芸達者なベテラン勢ではきっと出せない、フレッシュな必死さ、全身全霊全力投球なエネルギーも好ましかった。
余計な芝居がない。
特にロズとギルは片方が喋っている時、もう片方はほぼノーリアクション。
実は精悍な顔立ちの斗真ロズは黙っていると人形のようで、不気味ささえ感じた。
2人だけのシーンは、さらに削ぎ落とされている。
セットも衣裳も音楽も照明も制限された世界で、コインを扱う以外のアクションはほとんどない。
物語を前に進める推進力は、お互いの会話のみ。
その分、言葉はほとばしり、高速で2人の間を行き交う。
動きで表現できない中、台詞だけで“伝えよう”とするのは、菅田くんも斗真くんも相当な恐怖とエネルギーだったと思う。
そういったリアルな寄る辺なさと居心地の悪さ、蓄積されていくストレスが、ロズギルの孤独や不安を増幅しているようだった。
前回の蜷川ロミジュリが舞台狭しと走り回り、転げ回り、殺陣をする、真逆の“動”の演出だったから、対照的で面白かった。
  ★ メビウスの物語装置 ★
 ◎
舞台上では常に2つの存在や概念が提示され、絶えず転換して定まらない。
それが観る者の不安を煽り続け、クラクラとめまいを起こさせる。
・ロズ⇔ギル
・コインの表⇔コインの裏
・現実⇔虚構(芝居)
・生⇔死
・役者⇔観客
・喜劇⇔悲劇
・スピンオフ『ロズギル』⇔原典『ハムレット』
などなど
この舞台では、コインの表がロズギルの世界で、裏が原典『ハムレット』。
だから、一度だけコインの裏が出た瞬間に『ハムレット』の世界が出現する。
(ロズ「やっぱりお前ツイてたよ、裏だ」のところ)
繰り返しや台詞の反復。
一座が演じる「ゴンザゴー殺し」と舞台上の現実の相似は言うまでもなく、イギリス王との謁見をシミュレーションするシーンは、ロズとギルがまったくそっくりに交互に演じていた(Twitterによると、ギルがむせたアクシデントを、ロズが同様にわざとむせた回があったらしい。斗真くんの対応力!)
そもそも、この舞台自体が永久にループし続ける物語装置だといえる。
ギルは毎回「みてろよ!次こそは上手くやってやる!次こそは!」と捨て台詞を吐き、翌日にはまた板のかげからコインを投げ現れる。
これが初日から千秋楽まで36回繰り返されるのだ。
36回生まれて36回死んだ、あるいは、36人生まれて36人死んだ、ロズとギル。
慣用表現では、36は非常に多くのもの、すべての方法・方位を意味するとか。(wikiより)
何度も何度もロズギルは現状からの脱出を試み、生きる道を模索するが、叶うことはない。
その膨大な徒労と絶望の虚しく無意味な繰り返しこそ、この作品の核だと思う。
ロズギルが一座の劇中劇で、自分たちソックリの2人が死ぬのを観客として観る時、それを観ている私たちという図式に気づいてゾッとする。
私たちの背後に私たちを観ている者はいないのか?
一座の2人←ロズギル←私たち←???
ロズが「そこにいるのはわかってるんだ!こっちへ出てこい!」と虚空に叫ぶシーンを思い出す。
ほぼ全登場人物が嘘をつくか、または演技やフリをしている。
だから現実と虚構が渾然一体となり、どっちなのか判別できない瞬間が何度もある。
・現実そっくりの劇の途中で現実のハムやオフィ、王が乱入してきたり
・劇中の死体がロズギルと入れ替わったり
・死ぬ演技をしていた一座がラストの『ハムレット』の死体に変わったり
・観客にロズが「火事だ!」と叫んだり
・ギルに殺されたはずの座長が実はフェイクで生きていたり。
あっという間にコインの表裏はひっくり返って、何が現実かわからなくなるので気を抜けない。
劇を見ているのか劇中劇を見ているのか、自分は観客なのか舞台装置の一つなのか、足もとがグラグラと覚束なくなる感覚。まるで手品を見ているようだ。
大掛かりな仕掛けも華麗な歌や踊りもパフォーマンスもないのに、2時間半ずーっと飽きないのは、矢継ぎ早に認識を覆す驚きとスピードにあると思う。
  ★ 不条理劇について ★
 ◎
不条理演劇とは、人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。(wikiより)
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』も不条理劇と言われている。
帰り道やSNSで「理解できなかったけど泣いた」「意味はわからなかったけど凄かった」という感想をちらほら聞いたけど、それは正しい鑑賞なのだと思う。
そのわからなさや当惑こそ、ロズギルが感じていたものだ。それを共に体験できたのだから。
そして、不確実な状態を生きるロズギルの混乱や憂鬱は、私たち自身の“生きていることのわからなさ、生きているこの世のわからなさ、生きている自分のわからなさ”に繋がっていくのだと思う。
初見の観客はラストがどうなるのかわからないまま鑑賞する。
ロズギルと一緒に突発的な事象に翻弄され、彼らが下手を打って逃げそびれる度にハラハライライラしながら体験を共有する。
対して2回目以降は、ロズギルが絶対に助からない運命にあることを知った上で鑑賞する。
逃れられない一巻の終わりに向かって、右往左往しながら流されていく2人。
メデタシメデタシを望みながら、決して叶うことのないロズギルを見ていると、なんとも言えない哀しさとおかしさと、バカだなあという愛おしさが湧いてくる。
「どうか我らに日常の糧を与えたまえアーメン!」ロズギルは何度も神に祈るのに、神は決して救わない。
祈りは気休めに過ぎず、現実の無慈悲さを前にした時の、宗教の無力さのようなものも感じた。
  ★ 菅田くんについて ★
 ◎
初見からずっと考えていることがあって。
それは、なぜ、菅田将暉と生田斗真だったのか?ということ。
『ハムレット』世界では取るに足らない脇キャラを、当代で最もキラキラしている2人が演じる意味と価値。
涙とオーラを撒き散らしながら煩悶する姿は美しく、ミニマリズムに貫かれた舞台の中で、一層華やかに際立っていた。
彼らが体現する現代性が、口語体の脚本とあいまって、体験すること自体が面白い“今”のエンターテイメントになっている。
共感できる私たちの物語として捉えることができる。
さらに、20代・30代の彼らがみずみずしくスピーディーに演じることで、人生を模索する若者の物語にも見える。
この世の不確実性や生きる目的の不明瞭さに打ちのめされ続けるロズギルの苦境は、世代を問わず人間共通の悩みではあるけれど、そこに青春の悩みのような甘酸っぱさ、愛くるしさ、まぶしさを感じることができた。
自分は2人目から35人目まで、複数のロズギルと会うことができたのだけど、その間の菅田ギルの成長ぶりは凄まじいものがあった。
はっきり言って2番目は最初、まだまだだね…という感じで。
斗真ロズや遣都ハムの完成度がいきなり高かったせいもある。
台詞を間違うことはほとんどなかったけど、一本調子で流れてしまって胸に響いてこなかった。
(あのボリュームをやり切るだけでもスゴイことなんだけど)
だけど3幕のラスト、消える寸前の芝居で、ガラッと人が変わって。
短いながら、誰もが菅田ギルから目を離せなくなるエモーショナルタイムが訪れ、感動に包まれながら終劇。
ここまで豹変できるなら、今後ますます楽しみ!と期待が膨らんだ。
そしてまさに、その通りになった。
考えてみたら、ロミジュリの時も初日からラストまでどんどん進化して、高みへのぼっていった人だった。
それって凄まじい速さで現場から吸収しているってことだよね。
その姿をリアルタイムで!ナマで!観られるっていうのが嬉しい。舞台の醍醐味だ。
結局、観るたびに一つ一つの台詞にニュアンスが生まれ、エモーションやパッションが漂い、ぐんぐんとお芝居が厚みを増して引き込まれていった。
特に、35人目はTwitterにも書いたけど、打ちのめされるほど素晴らしかった。(以下引用)
“今夜の…35番目のギルはヤバかった。爆発してた。
幾つもの爆発が次々起きて、その烈しさと美しさに圧倒された。
帰り途、荒野と同様に、丹田に力を入れてないと嗚咽しそうで。今も。
特に最後の最期は何かが降りてきてた。
劇場が菅田くんの激情の渦に巻き込まれていく。
圧巻な、一巻の終わり。”
菅田ギルが消えた後、安西ホレが滔々と語っている中で、客席から盛大に鼻をかんでいる音がして、思わず笑っちゃった時もあった。(小さくガッツポーズしながら)
今作を経て、また一つ新たな武器を手に入れたんだろうな。
それが今後のお芝居にどう現れてくるのかが楽しみ。
そしてまた別の舞台で、あのキラキラした爆発を観られますように。。。
豪華絢爛なビジュアルも、驚天動地の仕掛けも、ド派手なアクションも一切ないのに、始めから終わりまでドキドキ目が話せず、最後はホロリと感動する最高のエンターテイメント舞台。
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』けど、私は2人を忘れない。
いつかまた「見てろよ!」の続きができますように。
夢のような1カ月を、ありがとうございました。
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underdogonthemoon · 7 years
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『借りぐらしのアリエッティ』は本当に「不毛の煉獄アニメーション」か
「借りぐらしのアリエッティ」を「煉獄」と酷評している映画批評サイトがあり、興味深く読んだ。
本作に対しての自分の評価もけっして高いものではないが、当該記事が指摘していることについて、他の見方がないか考えてみた。作品のファクトベースについて言及されている箇所について、引用しつつ考えてみる。
"野生のミニチュアを感じさせる庭、和洋折衷のノスタルジックな屋敷の描写には、否応なく『となりのトトロ』を想起させられるのだが、『となりのトトロ』では、それが主人公の子供達にとってのワンダーランドとして描かれ、子供の観客はその視点に立つことで楽しめたし、大人の観客にとっては子供の頃の郷愁を感じさせられるような演出が、多くの場面において施されていたことを思い出して欲しい。 それに対し、今回の庭や屋敷というのは、ただ庭であり屋敷だ。ここでは、「詳細に描き込んでるな」という以上の印象を持たない。"
なぜこの庭が微妙な荒涼感を醸し出しているかというと、主人公の少年が手術前の静養に訪れた「アウェイ」の場所であるから、ではないだろうか。ある程度成長しているとはいえ、少年にとっては心臓手術を控えた状態で馴染みのない場所に連れて来られたという不安の象徴が、この荒れた庭ということではないか。少なくとも、ワンダーランドとして捉えられる風景ではないはずだ。なので、「詳細だ」という印象以上の感情を持たなくて正解だと思う。大げさなデフォルメは要らないのではないか。
"その無味乾燥な雰囲気に拍車をかけるのは、ここで小人を発見したときの、少年のリアクションの薄さである。 信じ難いことに、少年はここで一瞬驚いた表情を見せるだけで、「ふーん…」という感じで立ち去ってしまうのだ…小人を見たのに!初めてこのシークエンスを見る観客に、「この少年って、わりとよく小人を見ているのかしら」という誤読を起こさせる意味不明の箇所である。"
直後、少年がアリエッティを再度見つけたときに「昔、母から小人を見たと聞いていた」との告白がある。となると、大げさに驚く演出が必ずしも必要とは言い切れない。5歳男児ではないのだから、表面上はリアクションの薄い思春期男子だって一定量居るはずだ。いや、思春期男子だからこそ、「小人を見かけても動じない俺モード」が働くかもしれない。
"その直後、流れるように、屋敷の床下に住む小人の生活に視点は移る。 ここは(宮崎駿が脚本に関わっているが)脚本の構造上の不備があって、あまりに早く小人の住まいなどの全貌が紹介されてしまうために、神秘性がまるで感じられなくなってしまっている。"
物語のスピード感を出すためには、このシーン変更は悪くないと思う。ジブリ映画は小さな子供も見るのだ。掴みで小人ワールドを見せるのは当然ではないか。 2時間ちょいの某映画で、主人公が1時間を過ぎても変身しないというフラストレーションたっぷりの映画を見たことがある。あれは辛かった。カタルシスが無い。
"おばさんが「父が昔、この屋敷で小人を見たのよ」という話を少年にするのは、なんと中盤である。アリエッティ達の生活の紹介をするのは、その話を少年が聞いた後じゃないと、絶対におかしい。"
前述したが、少年は「母から小人の話を聞いている」と更に前のシーンで言っている。この指摘は誤りである。
"これは、『となりのトトロ』で、いきなりトトロの巣から物語が始まるようなものだ。もはやここでは、まともな神経で作劇をしていないことが分かる。それでも、どうしても最初から小人の側で物語を展開したいのであれば、少年視点の冒頭はカットすべきだろう。"
「となりのトトロ」は一貫してさつき・めいの視点だ。本作は最初から小人視点メインだ。一部、少年視点も入るが、それはあくまで「小人」を際だたせるためのものだ。だいたい、敵味方などで視点が切り替わる映画なんてよくあるのだし、別に「まともな神経じゃない」というほどではないと思う。
"ここで少し面白いと思うのは、彼ら小人が欧風の人種で、欧風の文化を持っているという点だ。 もともと本作は「床下の小人たち」というイギリスの小説を原作としているので、その設定をそのまま日本に持ち込むということを選択したおかげで、日本の家庭の床下に洋風の暮らしがあるという、ある種の異化効果的面白さを生んでいる。 ただしその狙いが台無しになっていると思うのは、比較的長く描写される屋敷のリビングや少年の寝ている部屋が洋風であるために、生活の対比の面白さがほぼ無くなっているのだ。 日本を舞台にして、人間側を日本人にしたのは、おそらく観客が親近感を持つように、また、日本のクリエイターが作るという意味を持たせたかったからだろうが、この古びた洋館にお手伝いさん付きで暮らしているキャラクター達に、観客が果たして親しみを持つだろうか?"
欧風と和風を敢えて対比させる必要があったのかな、と思う。既に自動車もある時代背景だ。トトロの時代とは違う。 敢えてもっと言えば、ラピュタの世界観、文化観はヨーロッパ人から見るとドイツやらイギリスやらが混じってて非常に違和感がある、と聞いたことがある。必ずしも宮崎演出が大正解というわけではない。 また、お手伝いさんがいる家のボンボンに親しみを持つか、という問いも不自然だ。親しみを持って欲しいのは少年ではなく小人の方ではないか。
"小人の居住空間は、布切れや、雑誌の切り抜きを壁紙にしていたり、視覚的には一見カラフルで楽しげだが、そこから具体的な生活の面白さを観客に感じさせるような領域までには至っていず、小人独特の文化的特色がないのも残念だ。 また、高畑勲や宮崎駿が、「赤毛のアン」や「アルプスの少女ハイジ」などの作品��描いたような感動をそこに全く見出せないのは、ディテールへのこだわりが薄く、構図や演技などの工夫がそこにほとんど見られないからだ。"
ビスケットを粉にしてパンを作ったり、表面張力たっぷりのお茶を入れたりと、「小さいけど人間と同じような生活をしている」ことが面白いのでは? そもそも原作もそうだし、ヨーロッパの小人伝説もそうだ。構図や演出の派手さは高畑・宮崎には敵わないだろうが、それなりに面白い世界観だと思うのだが。 更に言うなら、スピラーの風体や生活スタイルは小人独特だと思う。空も飛ぶし。
"それは、この作品の見所のひとつであるドールハウスも同様である。なんとか画面を豪華に見せたいという意識の方が強く、肝心なビクトリア調独特の品の良さとか、人形愛好家的なフェティッシュが、そこにはたいして見られない。 家政婦のハルさんがこれを見て「細かい…!」と感想を言うシーンがあるが、本当に、「細かい」という以外、何の印象も持たない、ただの背景だ。"
ドールハウスは本作では必ずしもポジティブな意味を持たない。少年の「お節介・大きなお世話」という、人間の脅威を示すものでもある。そういう意味では、豪華な書割で必要十分、もしくは豪華であるからこそ逆に小人にとっての恐ろしさが演出されているのではないか。
"アリエッティが帰宅すると、彼女の母親の小人が登場する。彼女は13歳の娘を持つ女性のわりにはちょっと老けていて、初老とすら感じられるのだが、おかしなことに、ワンピースの丈が少し短く、膝下の生脚を露出しているのが非常に気になる。"
そんなに変だろうか。膝下を出したオバハンはよく居るのだが。13歳の娘を持つ母って、老け加減もこんなもんじゃないか。
"ファッションセンスについては、この作品は総じて変で、例えば少年のおばさん(年齢的にはおばあさん)が、屋敷の内でも外でも、胸元にブローチのついた巨大なリボンをしていたのも、違和感を感じた部分だ。"
少年のおばさんはお金持ちという前提だから、ブローチは不自然ではない。こういう金持ちオバハンは田園調布や成城あたりに居る。ベンツも乗ってるし。 ただし、現実世界でもこういうおばはんの存在感は違和感ある。
"その後、ドアを開ける物音がして、アリエッティの「あ、お父さんだわ!」という舞台演劇風の不自然な演技とともに、父親の小人が登場するのだが"
娘って、家族が帰ってくるとそうやって迎えに行くもんだと思う。少なくともうちはそうだった。
"両親がふたりきりでお茶を飲むシーンは印象的だ。 「アリエッティももうすぐ14歳だ…私達に何かあったら、一人で生きていかなければならない」と、娘の将来を思いやるセリフをお父さんが言った直後、お母さんは砂糖の壺を開ける。 砂糖はもう小さな数欠片しか残っていない。砂糖は「借り」が難しく、貴重なのだ。 その最後の砂糖の欠片を、お母さんは迷わずかき集めて、断りもなく、全部自分のお茶に入れてしまう。 これで思い出すのは、『火垂るの墓』で、親戚のおばさんがおにぎりを握ったときに、手に付いた米をなめるシーンだ。倫理的には別に問題はないだろう描写だけど、品性の無さ、優しさの無さというのが、何気ない生活の動きだからこそ感じられてしまう箇所だと思う。 制作者が意図したものではないだろうが、娘を心配するようなムードのときにそのような行動をすることで、この家庭に、物資的貧困以上の、何か深刻な問題があるように見えてしまうのは、この後のストーリー展開を考えると、非常にまずい。 ここでは、お母さんが、最後の砂糖だということが分かったときに、壺のふたを閉じて、テーブルの中央にそれを戻すことで、娘への間接的な愛情表現を示すことを、演出としてできるはずなのに、本当にもったいない。 というか、もうお茶くらいストレートで飲めよ、というふうに思ってしまう。"
ここは逆に、「母親って口では娘の心配をしているがけっこう自分の価値観中心でワガママに生きてる」というリアリティをよく描けていると思う。 なお本作では、砂糖は小人にとってもお茶に入れる嗜好品の域を出ていないという設定だ。砂糖をお茶に入れて飲むのはおそらくお母さんだけの好みで、お父さんはストレートで飲むのが好きなだけでは。アリエッティはまだお茶を嗜むほど大人ではない、という整理であれば不自然ではない。
"ここでまた不思議に思うのは、カメラが移動し、その服の候補、「つなぎ」、「ミニのチャイナ服」、「赤いワンピース」が順々に写される部分だ。 さすがに、肌を露出しまくる「ミニのチャイナ服」はないだろう。これは多くの観客が分からなかったかもしれないが、どうもギャグ描写のようである。 つまり、よくここを観察すると、「つなぎは地味すぎてヒロインにふさわしくないよね」、「ミニのチャイナ服は不必要にセクシーすぎてありえないよね」、「赤いワンピース、やっぱりこのあたりか…さすがにヒロインだもんね」という三段落ちのようなのである。しかし、ここはカメラの動きが早すぎて、全く観客に伝わらない。"
逆に、娘って意外とこういう意味不明なファッションの選択肢をするからリアリティがあると思う。まさかこのタイミングでその服?みたいなことをよくやる。なので、大げさにユーモアプロットとしているわけでもないだろうし、その必要もないと思う。
"宮崎監督の『千と千尋の神隠し』は、漫画的楽しさに満ち溢れていて、上映中周囲の子供が歓声を上げるほど大喜びをしていて、こちらまで嬉しくなったものだが、『借りぐらしのアリエッティ』は、最後まで観客席が静まっていた上に、上映終了後、「もう終わりなのー?」という、不満そうな子供の声がしたのを覚えている。"
「千と千尋の神隠し」を引き合いに出すのはズルい。向こうはアカデミー賞受賞作品だ。 また、ごく狭い観測範囲の一例を一般的な評価のように書くのは少々卑怯ではないか。少なくともアリエッティはポニョよりは高い成績を残している。
"また、ここでやっと登場してくれる、アリ��ッティを象徴するアイテムが赤い髪留めなのだが、重要なアイテムのわりに、これは良く分からない代物である。 どうも洗濯ばさみを髪留めとして使用しているようで、これも一種のユーモア的表現なのかもしれないが、こんな小さな洗濯ばさみなどあり得ないので、バネのついた謎の工業製品として認識する他ない。これもユーモアがユーモアとして成立していない部分だ。 さらに、サイズ感があやふやで良く分からないというのは、この作品においては致命的だろう。"
これはそのとおりかもしれない。宮﨑駿なら、サイズ感についてはもっとシビアに目を光らせただろう。 ただ逆に、アリエッティの髪留めを人間サイズにした商品も出ていたりと、ちゃんとユーモアとして受け入れられているとも言える。
"先述した目立つ赤いワンピースを選んだことを見咎めて、「その色はやめた方がいいんじゃない?」とお母さんが忠告したときに、「もう決めたことなの」とアリエッティがひとこと言って、それで両親も納得してしまう描写も説明不足だ。「スタジオジブリの色指定のスタッフが決めたことなの」「そうか、それなら仕方ない」と言ってるように聞こえる。 同時に、自分や家族の生死に関わる「借り」において、わざわざ目立つ色や、動きにくそうなワンピースを選択しているヒロインにフラストレーションが溜まってしまう箇所でもある。"
理屈はそうかもしれないが、アリエッティは主人公だ。ある程度目立つ色を選ぶのは作り手からすると当然だ。 あの時代なのにめいの赤いジャンパースカート、下っ端用人であるはずの千尋の赤い着物、などの例もある。
"例えば、最初にゴキブリに襲われるシーンがあるが、一瞬で撃退されてしまうゴキブリは、一体何の動機があって後ろから近づいて来たのかが謎だし、ここで父親が、戦っている娘に気づかないのか何か分からないが、どんどん先に進んでいくのも変だ。 このあたりは、なにせ自分と同じくらいのサイズのゴキブリが出てくるので、大体誰が演出してもすごく面白い見せ場になり得るはずと思う。 例えばゴキブリをめちゃくちゃ恐く気持ち悪く描けば、観客が悲鳴を上げたり、子供が多少トラウマになったり、逆に大喜びするかもしれない。または意外にキュートに描いて意表をつくとか、どちらにしても、ゴキブリというのはかなり観客の熱量を上げられる存在なのに、それを何かどっちつかずの、無味なロボットのように描いてしまっていて、その絶妙に一番つまらない選択をしてしまうデザインや演出センスには驚かされるほか無い。"
小人にとってゴキブリは珍しくもない隣人だから、敢えて無味に徹したということで、いちいち大げさな演出にする必要はないのでは。
"アリエッティはこの後、少年に見つかってしまうのだが、その際のお父さんのリアクションも実に不可解だ。慎重すぎるほど人間への警戒を強調していたのだから、ここは娘の盾になりながら、先に逃がすべきではないだろうか。やはりここでも彼は、「あ、そうですか、そうですね…」という雰囲気で、一応は多少振り返りはするものの、娘の先を悠然と歩いていく。"
その前段で、お父さんは「子供は病気だ」と発言している。見つかっても直ちに危険はないと判断したのではないか。また、大げさな反応が逆に人間を刺激すると考えたのかもしれない。
"例えば、お父さんが娘にいいところを見せようとしてハッスルした結果死にそうになったり、戦利品をふたりでいっぱい抱えて「ウシシシ・・・」と笑い合ったり、アリエッティがドッサリと角砂糖をポケット入れて、体じゅうモコモコになってるのをお父さんに怒られたり、宮崎駿ならそういうことをいっぱいやるはずなのに、ここでも一切、楽しいと思わせるような何かが存在しない。"
お父さんのキャラ立ては、「寡黙でクール」だ。パズー的な宮崎演出は不要だ。「借り」はお父さんにとって日常なのだから、クールなお父さんが大げさに「ウシシシ」なんてやるのは変だ。また、両面テープでの壁登りなど、十分に冒険的見せ場はあると思う。 また、どっさりと借りるのは、「借り」ではない。人間に分からない程度に少量借りるのが、「借り」の掟なのだ。これもお父さんが発言しているから分かるはずだ。
"「お父さん、借りって楽しいね!」 何にも楽しくないシーンの中で、「楽しい」という語句をキャラクターに言わせることによって、少しでも楽しく見せようという実験的試みが、ここでは見られる。"
原則として外出を禁じられている少女が冒険に出たのだ。普通は、それだけで楽しいと思うが。釘の渡り梯子、滑車のエレベーター…十分楽しいのでは。
"少年とアリエッティが野原で議論するシーンは、本作品中最も不可解だといえるだろう。 まず、一番奇異なのは、突然少年がしたり顔で、にやにや笑いながら「君たちは滅びゆく種族なんだ…」と言い出すところだ。 最初このシーンを観たときにものすごく不自然で唐突だったので、ちょっと「おっ」と思った。この作品において、初めて想像を逸脱するような展開が始まったからだ。 しかし、何故かその後、ラストまでこの伏線は回収されない。 あまりにも不思議なので、調べてみると、どうも原作の設定では、もともと少年はもっと幼い年齢であり、アリエッティとの幼稚な口げんかの中で、そのようなセリフを思わず言ってしまうというのだ。 だから、今回は少年の年齢が上がったことで、セリフの意図するところを変えたということなのだろうが、ここの変更のせいで、物語が無意味に複雑化したばかりか、少年のパーソナリティの不気味さに、観客が警戒を覚えるようになってしまっているのではないだろうか。 ただでさえ何となく腹に一物持っていそうな、どこか気持ちの悪い雰囲気を持った少年なのに、いきなり脈絡もなく「お前は滅びる」と指摘するのである。"
確かに、このシーンでの少年は不気味だった。口角を片方上げて、「お前は滅びる!」だから。 指摘の通り、少年の年齢が上がったことによって、単なる幼稚な口げんかという感じではなくなっている。これを「無意味な複雑化」と呼ぶのか、「心臓手術前の思春期の少年が小人にほのかな恋心を抱いてたけれど別れを告げられ思わず感情的に突き放した」と捉えるかで違ってくる。エヴァンゲリオンでもそうだが、思春期男子の妙な気味悪さというのは演出上在ってもよく、観客がそこに警戒感を感じてもむしろ良いのではないか。本作を作るにあたり、少年役は神木隆之介と最初から決めていたそうだ。キャストありきのキャラ付けなら、こういう気味悪さも納得できる。
"それに対し、アリエッティが反射的に大粒の涙をボロボロとこぼしたのもびっくりする。 おそらく、これはくやしくて泣いているのではなく、自分の種を案じた悲しみの涙と解釈したのだが、何にしても、芸人の瞬間涙芸じゃないのだから、こんなに間髪入れず泣き出すというのは不自然すぎる。"
アリエッティは自らの不始末で引っ越ししなければいけないという強い後悔があり、既に感情的にはいっぱいいっぱいになっているはずだ。すぐに泣いてしまったのはそのためだろう。
"ここの会話でも出てくる「借りぐらし」という表現に、何となく嫌なものを感じてしまうのは、まず借りているのではなく泥棒をしているという行動、そして何もお返しをしないにも関わらず、あくまで「借り」というポジティブな表現をしている卑怯さ、このダブルパンチが原因なのだが、それがここでせっかく弁明のチャンスを与えられてるにも関わらず、やはり曖昧なやりとりだけで終わってしまっている。 ここでは「借り」の本質について、ある程度議論することが必要なのではないか。 例えば、「あなたたち人間だって、自然にあるものを借りてるだけじゃないの!土地も、木の実も、家畜やペットだってそうよ、それを自分達だけが所有して自分だけのものにしていると思ってる方が、よっぽど傲慢よ!」 こういう類のセリフを言わせれば、この嫌な感じは、ある程度解決されるのではないだろうか。"
むしろこんな強弁で言い返す方がイヤだけど。。原作無視も甚だしいし。。 「借り」が盗みと同義であることは、ハルさんもおばさんも指摘している。その後ろめたさがあるからこそ、小人たちも少量ずつ借りるのだろう。 そもそも、「なんかクッキーの数が減ってる気がするよなー」的感覚が小人伝説になり、ポメリーの「床下の小人たち」の発想に繋がっているのだ。原作からも「借り」のやましさは言及されているのだし、敢えてここに引っかかる必要はないのでは。
"主人公のアリエッティは、キャラクターの造形も、内面的にも、工夫や面白味に欠けるキャラクターだ。 真面目さを強調したかったのか分からないが、「家族を危険にさらしたことへの罪悪感」と、「家族を助けなければいけないという義務感」だけがその心を支配しているように見えるため、彼女が生き生きとしているように見えるのは冒頭のみで、その後は全編を通して暗く険しい表情しか見せない。これほど陰気ではさすがに、好きになりようがない。 そして、その内にあるべき、活発さ、ユーモア、恋心、観客がシンパシーを感じるようなエキセントリックさなど、これらがひとつとしてしっかりと描写されないため、作品全体まで陰鬱でつまらない印象を与える結果になっている。"
14歳ぐらいの少女なら、明るさだけでなく陰気さも持ち合わせはじめていて当然だ。特に、「自分のせいで家族が危機に…」というコトの深刻さを理解できる年頃であればなおさらだ。
"それにしても、アリエッティをひっくるめて、この小人家族の団欒は、何一つ楽しくなさそうに見えるのがすごい。 暗く険しい顔をした娘と、酷薄な父親と、最後の砂糖を食べてしまった幼児的で生脚を出した母親が、ハウス食品のCMの真似事をする食卓は、もはや悪夢的とすらいえるだろう。"
家族団欒にすごいハイレベルな理想を持っているようだが、実際はこんなモンだと思うが。。 そんなにゲラゲラ楽しそうに振る舞わないと家族団欒ではないのか…?
"14歳になるくらいの年頃は、大人の入り口に達した子供であるはずで、基本的には子供っぽい部分を多分に残したキャラクターでなければならず、そういう部分を描いてこそ成長を描いたことになるはずなのではないだろうか。 そして成長を描くには、「子供であるが故の大きな失敗」、または「大人になることで子供性が揺るがされる」ような、強い経験を経なければならない。 試練というハードルも、恋愛描写もおざなりにしてしまったせいで、クライマックスで少年が、「君は、僕の心臓の一部だ」と言う少年のセリフに共感できた観客はほとんどいないだろう。これでは、ただキザなことを言いたくなっただけのマセガキのようにしか見えない。"
何度も言うが、14歳はこんなもんだ。 大きな失敗は、「人間に見つかって引っ越しを余儀なくされたこと」だ。これを試練と認めないのは可哀想だ。相当な試練だと思う。 恋愛描写は、これ以上リアルにやるとキモいだろう。「小人対人間」故に。 「心臓の一部だ」は確かにキモい。キモいが、生死を分ける手術を控えた思春期の少年の立場を考えると、そこまで否定しなくても良いのではないか、とも思う。
"この作品は、ほぼ全ての演出が間違っているが、最も失敗していて、背筋が凍り付きそうになるのは、家政婦「ハルさん」にまつわるあれこれであろう。 この家政婦は、小人を捕まえようとたくらむ、いわゆる悪役なのだが、ここに全ての悪、醜悪さを押し付けているように、彼女はひたすらに劣悪な人間として描かれている。 ハルさんは異常に執拗に、結構な尺を取って、そのアクションが描かれている。 おそらくは、声をあてる樹木希林の、コメディエンヌ的な雰囲気を描きたかったのだろうが、これがひたすら、ただ醜悪でしかない。 例えば、アリエッティのお母さんを捕らえてビンに入れ、そこにラップをかぶせ、意気揚々と棚につまようじを取りに行き、つまようじを手に入れて戻ってきて、ラップに穴を開ける。 ただビンに入れ���だけのシーンなのに、ここまでの段取りを必要とするのである。そんなのどうでもいいよ。"
ハルさんの描写のエグさは���ね同意だ。逆に言えば、誰もが嫌悪感を持つ敵キャラという意味では、キャラ付けも演出も成功している。ハルさんが居ないと、積極的に引っ越しを選択する動機づけがなくなる。やむを得ない演出ではないか。 あと、こういう無邪気に強欲なウザババアはよく居る。雇い主の家族を部屋に閉じ込めるとか、お手伝いさんなのに自宅のように厚かましく立ち振る舞うとか、あるあるだ。
"屋敷を脱出してへとへとになったアリエッティのお母さんが、川で落ち合うことになっていた、「未来少年コナン」に出てくるジムシーの劣化版のような野生少年に、「スピラー!」って手を振るんだけど、あんな風に手を振る人を、私は見たことが無い。あれは、チンパンジーかなんかの手の振り方だと思う。"
これは笑ってしまった。確かにサルのバイバイだった。
ただ、ジムシーの劣化版、というのは悪意がある。これはオマージュと言ってあげたい。キャラはジムシーだがラストシーンの弓矢で狙うシーンはアシタカのオマージュだ。 他にも、ニーヤとアリエッティのスキンシップがトトロのネコバスのそれだったり、引っ越し出発後の家族の食事においてハイジのチーズをパズー食いするシーンがあったりと、今までの作品へのリスペクトを散りばめている。それを、「自信がないから過去作品におもねっている」と言うのは酷すぎる。
…とまあ、ジブリにもアリエッティにも恩も義理もないし、当該記事のライターに恨みも何にもないが、擁護意見は以上。
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kyary1976 · 2 years
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#現在亜細亜美術協会に復職中 . . . 昨年12月に、亜細亜美術協会の理事の方々の会議により、『今後の活躍が期待できる』として協会に復職致しました。m(_ _)m #一般社団法人亜細亜美術協会 勤め出してから既に13年目となりますが、新人賞と奨励賞をいただきました。 韓国APAA展では『My loved to one 2』が優秀賞。 その他、上海展に出品、松阪市展などに絵を出品しています。 県展はあえて出品していません。県展はあくまでもその県の文化祭なので。 今回は僕のBASEのショップを宣伝させていただきます。 絵を描きはじめたのは1歳の時からですが、本格的に美術を学びはじめたのは13歳の中学校1年生の頃からです。 既に画業は33年。 デビューとしては21歳の8月に個展『愛する人へ』でデビューしてから、最初から化け物扱いされて来ました。 33年も描いているといろんなことがありましたが、色褪せぬ芸術への絶えざる情熱でただただ毎日絵を描いて来ました。 かつての師匠からは『なにがあっても描いているその姿勢は立派です。』と褒められました。 いろんな舞台を、大なり小なり踏んで来て、 45歳の去年、『新ロココ主義の系譜』S100号が代表作に。西洋では男性芸術家がデビューするのはたいてい45歳から47歳が通例です。 描こうと思えば、様々なエキセントリックな技法をたくさん持っていますので、多様な表現を可能にしています。 絵描きとしての立ち位置は、『絵描きの岸野君』だったんですけど、最近での僕の立ち位置は『画家の岸野先生』になりました。 まだまだ画家であって芸術家ではないです。 いろいろと悩みはあるのですが、母親のパチンコ中毒に悩んでいるので、生活が苦しく、どうしても皆さんの応援を必要としています。 僕個人的にはその身の高潔さを守りながら、日夜絵と勉強と家事に勤しむ日々です。 BASEの僕のショップのほうで、ご購入も検討いただきながら、1度閲覧だけでもよろしくお願いいたします。m(_ _)m . . . 今年の亜細亜美術協会、亜細亜現代美術展は、 2022/0928〜10/05.の期間で、東京都美術館、F1の第4展示室にて行われます。 小品コーナー、亜細亜アート展もよろしく。 今年の僕の出品作品は、とある1枚の裸婦像です。 . . . #亜細亜美術協会 #一般社団法人 #亜細亜現代美術展 #一般社団法人社員 #7歳で心を盲にした神童 #画業33年 #多様性を称揚するのが芸術である #様々なシーン #トリッキーな技の数々 #宮崎県串間市産まれ https://www.instagram.com/p/CcrPKOOPeK4/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kyary1976 · 2 years
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#現在亜細亜美術協会に復職中 . . . 昨年12月に、亜細亜美術協会の理事の方々の会議により、『今後の活躍が期待できる』として協会に復職致しました。m(_ _)m #一般社団法人亜細亜美術協会 勤め出してから既に13年目となりますが、新人賞と奨励賞はいただきました。 韓国APAA展では『My loved to one 2』が優秀賞。 その他、上海展に出品、松阪市展などに絵を出品しています。 県展はあえて出品していません。県展はあくまでもその県の文化祭なので。 今回は僕のBASEのショップを宣伝させていただきます。 絵を描きはじめたのは1歳の時からですが、本格的に美術を学びはじめたのは13歳の中学校1年生の頃からです。 既に画業は33年。 デビューとしては21歳の8月に個展『愛する人へ』でデビューしてから、最初から化け物扱いされて来ました。 33年も描いているといろんなことがありましたが、色褪せぬ芸術への情熱でただただ毎日絵を描き続ける毎日。 かつての師匠からは、『なにがあっても描いているその姿勢は立派です。』と褒められました。 いろんな舞台を、大なり小なり踏んで来て、 45歳の去年、『新ロココ主義の系譜』S100号が代表作に。西洋では男性芸術家がデビューするのはたいてい45歳から47歳が通例です。 描こうと思えば、様々なエキセントリックな技法をたくさん持っていますので、多様な表現を可能にしています。 絵描きとしての立ち位置は、去年までは、『絵描きの岸野君』だったんですけど、最近での僕の立ち位置は『画家の岸野先生』になりました。 まだまだ画家であって、芸術家ではないです。 いろいろと悩みはあるのですが、母親のパチンコ中毒に悩んでいるので、生活が苦しく、どうしても皆さんの応援を必要としています。 僕個人的にはその身の高潔さを守りながら、日夜絵と勉強や家事に勤しむ日々です。 BASEの僕のショップのほうで、ご購入も検討いただきながら、1度閲覧だけでもよろしくお願いいたします。m(_ _)m . . . 今年の亜細亜美術協会、亜細亜現代美術展は、2022/09/28〜10/05.の期間で、東京都美術館、F1の第4展示室にて行われます。 小品コーナー、亜細亜アート展もよろしく。 今年の僕の出品作品は、とある1枚の裸婦像です。 . . . #亜細亜美術協会 #一般社団法人 #亜細亜現代美術展 #一般社団法人社員 #7歳で心を盲にした神童 #画業33年 #多様性を称揚するのが芸術である #様々なシーン #トリッキーな技の数々 #宮崎県串間市産まれ https://www.instagram.com/p/CcrIuqbPU3w/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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