Tumgik
#母屋の比劫
unicodesign · 8 months
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『超高齢化社会のくらしとデザイン』
先週、一般社団法人ケアリングデザインの10周年記念のシンポジウム『超高齢化社会のくらしとデザイン』にオンライン参加しました。
ケアリングデザインは、西武池袋で2015年より展開し、設立当初より登録建築家として、また当初コンシェルジュとしてもお世話になった「暮らしのデザインサロン」の運営母体、西武池袋の体制変更により昨年11月で幕を閉じましたが、ケアリングデザインは10周年ということで記念シンポジウムでした。
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超高齢化社会とは。
65歳以上の人口が総人口の21%を超えた社会を言います。日本では2010年に23%を超え、2023年には29.1%と過去最高となった。75歳以上の人口が2000万を超えたのも初めてのこと。2007年に生まれた子供たちは、107歳まで生きる確率が50%と言われている。
100歳を超えることに対してどう感じるか、というアンケートでは、若い人たちは、どんよりする、と答え、70歳以上の人はワクワクすると答えたそうです。わかります。
まずはじめに、建築家の中村好文さんのご登壇。1月の能登の地震をうけて話す内容を変更されたという、自給自足の小屋暮らしのお話。ちょうど私は、現在現場進行中の北軽井沢の山荘を設計する際に、好文先生の「小屋暮らし」の本を読んでいてタイムリー、だいぶ前に行った「小屋展」の写真がでてきました。決して小さくない小屋。
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続いて料理家の有元葉子さんと中村好文さんが登壇されてのお話。お2人とも、イタリア暮らしの経験をもつ共通点あり懐かし情景が思い出される。
「体は道具、ぽんこつになるのかヴィンテージになるのか、メンテナンスが大事、家と似ている」
印象に残ったキーワードです。
その後、東北工業大学 石井敏先生のご登壇、高齢者住宅に転居するのは本人の意思か、というお話から。
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13年前の日本では、本人の意思での転居は極めて少なかった、本人の意思決定が増えてきたとはいえ、13年前のフィンランドにもまだ届かない。
直近1週間で友人知人と会っているかどうか(2023年に比べ2015年が高いのは社会情勢に影響されていると思われますが)フィンランドとの違いがわかるデータ。
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最近見た記事ですが、オランダのスーパーでは、通常の青いカゴの他に、おしゃべりしたい人のための緑のカゴが加えられたとのこと。一人暮らしの高齢者の孤独を和らげるひとつの方法。すでに2022年には『世間話専用レジ』が導入されたスーパーもあったそうです。日本でやったらどうなるのか??
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続いて『現在の居住への満足度』
「日本人はどちらともいえないという答えをする人が多いことも前提に」とは石井先生談。満足と不満足で90%を超えているフィンランド人は自分たちの暮らしを、具体的に考えて、主体的にそれを求めていくということなのでしょう。
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システムの違いを含めた国民性の違いは、住まいそのものの形への違いにつなっているのかもしれません。
じゃあ、家とは住まいとはなんぞや、ということで。
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箱としてのHOUSEと、人と環境の相互関係でつくられる居場所としてのHOME。
例えば認知症のグループホームでも、包み込む空間によってその人の動きが変わる。
空間を含めた「環境」と「システム」のありかたひとつで人の暮らしの質は変わる。空間は、それだけの大きな可能性をもっているということ。
過去、現在、未来の、暮らしの環境を継続させること、と、選択性が必要である。とのこと。
一昨年あたりから、高齢期の住まいづくりに関わる機会も増えてきているなかで、課題が整理されるキーワードが多々ありました。
3人に一人がシニアという時代、あるアンケートでは『自宅に住み続けたい』という人が65%いたそうです。逆にいえば、快適なシニアライフをイメージできるような場所が少ないということなのかもしれません。
環境の変化がストレスにならない転居とはどんな形か、ということを自身がすぐに関われるものとして考えています。
と同時に、会の中盤で有元葉子さんがおっしゃっていた「歳をとると億劫になり動きづらくなってくる、多拠点に家があることで、否応無く環境が変わることが頭の切り替えになっている、これが大事』
というのにも合点がゆく。健康寿命の重要さ。そして、暮らしとは、家ひとつにはとどまらない広い環境のもとにあることを改めて意識した時間でした。
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memory-of-hiroshima · 2 years
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77回目の8月6日が来ました。 あの日、そしてその後の“ヒロシマ”を知ってもらうことが、核兵器廃絶への道につながることを信じたいのです。 2年前に書いた文章ですが、読んでいただければ嬉しいです。
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胎内被爆者の綴り方
<はじめに>  長い間、私は不特定多数の人に被爆体験を語ることにとまどいを覚えておりました。胎内被曝のため、実際に被爆の被害・惨状を見たわけでもなく、肉親を失ったわけでもなく、私自身もこの年齢まで生きてこれた幸運もあり、大きな嘆きの人々に比べれば語る資格がないと思っていました。  しかし、ここ数年、特に日本政府は広島・長崎の被害の事実をなかったものかのように動き始め、核兵器禁止条約に対しても、日本の代表とは思えぬ動きで、私は不安でたまりません。  今まで、生協の平和行進や集会、そして募金に参加したことがあるくらいで、平和や反核に対する運動をほとんどしていません。平和公園での座り込み運動にも、心をよせてはいても、ただの傍観者でした。私が育った戦後、ついこの間までは多くの活動をする人がいて、私も黙っていてもよかったのです。ただ被爆者の会も高齢化で消滅解散する中で、何かしなければならないのではと思い始めていました。  そんな時、オーラルヒストリーを研究しておられる元TBSアナウンサーの久保田智子さんの講演を聞く機会がありました。私が記憶を語るとしたら客観的事実ではないかもという懸念をもっていたのですが、久保田さんは「その人が感じ考え思ったことをいっしょに述べること、主観的事実でいい」と言われました。「複雑でいい、矛盾していい、個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈するのだ」と。これは私を勇気づけました。  また、ピラミッドの一番上に直接被爆者がいて、その下にいろいろな人が階層的に存在し、それぞれに思うこと感じ考えることがある、それも大切だと。「ああ私の位置はヒエラルキーの二番目だ、それでも語っていいのだ」と強く励まされました。  それから1ヵ月後、ニューヨークの2020年NPT(核兵器不拡散条約)会議に広島生協の代表として行くことになった友人が、胎内被爆者の会が証言集を出す予定であることを教えてくれました。思い迷った末に、証言集に応募するしないにかかわらず、記憶がうすれる前に一度整理してみようかなとの思いに至りました。
<8月6日>  1946年1月24日生まれの私は、1945年8月6日原爆の炸裂したあの日、母の胎内にいました。予定より早く生まれたと聞いていますから、妊娠4ヵ月位ではなかったでしょうか。悪阻が激しく空襲警報がなっても「このまま死んでもいいから」と逃げるのが億劫だと言っていた母は、朝の洗たくものを干すため両手をあげた時、原爆の光を浴びたといいます。あっと思った時は、胸と腕に火傷をしたようですが、幸いにも「天ぷら油をぬったらいい」と教えてもらい、ケロイドにならずにすみました。借家だった家の前はごぼう畑が広がり、己斐駅がすぐ目の前に見渡せました。光線をさえぎるものは何もありません。爆心地から2.5kmとS42年(1967年)2月18日取得の被爆者手帳にはしるされています。  その時父は観音町の三菱重工の工場、爆心地から4kmの所で被爆。父がどのルートでどのように己斐まで帰ってきたのか全く知りません。9月に4才になる姉は、家の中の布団で寝ており、布団ごと部屋の端から端まで飛ばされていました。壁が少し崩れたくらいで、家は倒れずにすみ、姉も無事でした。  これらの話を父や母から直接聞いたという記憶はなく、どこでどのように知ったのでしょう。母が黒い雨にうたれ、髪の毛が抜け寝こんだこともどうして知ったのでしょう。それには一つの類推があります。
<近所の人々との思い出>  私が小学校低学年の頃住んでいた家はやはり己斐ですが、被爆した時とは違う近くの家です。家の前にも横にも40cm位の側溝に水が流れ、夏には青い露草の花が咲き蛍もとんでいました。暑い暑い8月6日の前後には、近所の人々が涼を求めて集まり、石垣に座って思い思いに語ります。クーラーも無い時代、手にはうちわがあります。冷蔵庫も氷で冷やす木の冷蔵庫です。家には西瓜が待っており、私たち子供は浴衣を着て、大人のまわりをうろちょろしています。そんな時大人の話が聞こえるともなく聞こえるのです。 「ようけえ逃げてきたのお」「おう、水あげりゃあえかったのう、どうせ死ぬんじゃったらのお」「Tさんの家は壊れたらしいのぉ」「下敷きになって男ん子が死んだんよ」「Nさんの奥さんは今年も日傘さして行きよっちゃったよ」「式典なんじゃろう。姉妹や親はえっとこ亡くなったって」  話が聞こえてくるうちにだんだん恐くなります。帰ってトイレに行くのも、夜寝るのも恐くなります。こんな会話の中で私の母の話も語られ、私が覚えたのだという気がします。  Nさんとは、私を実の娘と同じようにかわいがって、お風呂に入れて身体をごしごし洗ってくれたり、焼きリンゴを作ってごちそうしてくれたおばちゃんです。あの優しいおばちゃんが大きな悲しみを抱えておられたのに深く気づくのはずっと後です。このおばちゃんは小学生の女の子2人を残して腎臓病で、身体をパンパンにむくませて亡くなられました。きっと被爆の影響だったと今なら思いますが、当時小学生だった私は、おばちゃんの変わり様に恐ろしかっただけです。  あの夏の日々は、あらためて語り部と言わなくても、みんな思い思いに自然に語って、私たちに伝承されていたのだなあと改めて思います。
<己斐小学校でのこと>  伝承というと小学校の担任を1年から6年まで受け持ってもらったY先生のことが思われます。8月6日宝町の自宅から己斐小学校へ通勤した日のできごと。爆心地近くから相生橋、本川を通ってひたすら己斐へ歩く途中に見た被災の光景。川の中に浮かぶたくさんの人々、横たわる死者たち。その話を聞いた記憶がしっかり残っています。教壇に立って語る先生の息づかい。並ぶ生徒たちの机。写真のようにまぶたに残っています。先生はその日どのように自宅へ帰られたのでしょうか。全く知りません。Y先生はその後私たちが4年か5年生の頃、だから戦後10年くらいでしょうか、肝臓を悪くされ長く入院されたことがありました。きっとこれも原爆と関係があるに違いないと今は思います。  私の小学校は己斐小学校ですが、己斐はたくさんの被災者が流れ込んできて、小学校の校庭ではたくさん人を焼いたと言います。春秋に運動会があったのですが、グランド整理で土をならすと骨が出るというのをよく聞きました。私は直接拾ったことはないのですが恐くてたまりませんでした。それに春は校庭の桜が葉桜になる頃の運動会でしたから、毛虫がぞろぞろはい回ります。私は大の虫嫌い。二重に恐くて――。今と違って素足でかけっこですものね。
<ABCCの記憶>  私が唯一当事者として語れるのはABCC(現・放射線影響研究所)のことかもしれません。小学校低学年の時だったと思います。母と、あるいは近所の友と、そして級友と何回かABCCが近所まで迎えに来て出かけました。学校まで迎えに来たこともあります。黒塗りの大きなハイヤーが来るのですが、私はすぐ酔うので苦手です。行くと、全てがすんだあとクッキーやサンドイッチ、紅茶などをご馳走してくれるのです。異文化への興味や憧れのようなものがありました。けれども何しろアンパンやジャムパン育ちで偏食も多かった私は、なれないものを何とか口にし、帰りの車でまた気分が悪くなるのでした。  さて、ABCCの記憶で長く私が語れなかったことが一つ。検査に行くとズロース(パンツ)の上に白いスモックのようなものを1枚かぶるのですが、それを着てある部屋に一人連れて行かれます。大きな机、私には3m×4mぐらいにも思われましたが、その端に足をぶらんと下ろして、入口のドアに向かって不安そうに座っている自画像が脳裏に残って消えません。そして、立つように促されたのでしょうか。服を脱いでズロース1枚でテーブルに立ったと思うまもなく、大きな180cm位の白人男性がこれまた大きなカメラを抱えて10人近くどたどたと入って、テーブルの回りから、四方八方カメラのフラッシュをたきました。驚きと恥ずかしさと何があったかわからないのとで呆然としていたのでした。一番大きかったのはたぶん恥。何かいけないことのように思ったのでしょう。この話は帰りの母にも友にも誰にも話しませんでした。話せば自分一人の体験ではなかったことがわかったかもしれません。後に語れるようになり、友人夫妻にこの体験を話した時「つらい話をさせてしまった」と言われ、ああそうだったのかと納得したものです。映画のワンシーンのようなこの記憶は今後も決して消えることはないと思います。
<病気に思うこと>  私が生まれたのは、母の母・未亡人だった祖母のいた広島県北部の旧・山縣郡千代田町壬生です。大雪で2階の窓から出入りするような日だったということです。戦後の広島を避けてお産をしたのでしょう。私は乳を飲んでもすぐ吐き、胃の入口の調子が悪くて薬を飲んで治したといいますが、詳しいことはわかりません。その後10カ月位の時には百日咳の激しいのにかかり骨と皮になりました。母は父の実家の香川県高松市鬼無町にひきあげました。そこで祖父から「こんな子を連れて帰って」と非難されたことを相当うらめしく思ったようで、時々同じ話をしてくれました。父の家の事情もあり、結局両親と私たちはまた己斐に戻りました。  そこで成長して22才の大学卒業まで暮らすのですが、父も母も被爆者でしたが、特に母の身体が弱かった気がします。家事だけの人でしたが、一日中かかって掃除・洗たく・食事の支度をし、少し動くと休みながらという具合です。おまけに度の過ぎた清潔好きで、洗たくもハンカチを洗って次は上のもの、下着はその次、そのあとパンツ…といったくらいに丁寧でした。今思えば、それもこれも細菌におびえていた事情もあったかもしれません。私は母の身体の弱いのは偏食のせいと思っていましたが、ひょっとすると被爆の影響があったかもしれません。父は61才、母は57才で亡くなりました。二人とも脳内出血ですが、母は一度肺ガンということで、広島市のM病院で放射線治療を受けたこともあります。  私はよく熱を出し、決して強いとは言えず、身体も細く背も前から一・二・三を争うくらいのチビでした。それでも高校時代は皆勤賞をもらいました(授業中寝てばかりの子でしたが)。  それが結婚して1ヵ月ちょっとだったでしょうか。盲腸になり、夫も手術をしたこともあり夫の家族の中では名医と呼ばれていたN外科で手術をしました。なぜか2、3日眼が覚めず熱も出て、私が被爆者手帳で受診したからでしょうか、先生は慎重になられ結局1ヵ月入院しました。  また、二人目の子のお産の時、妊娠5ヵ月くらいから妊娠中毒症になりとうとう7ヵ月ころ入院。そして子供が9ヵ月に入った時母体がもたないということで早く生みました。お産がすめば蛋白尿がよくなるということでしたが、数値は4本プラスが2本プラスになっただけで入院がその後も続きました。家族を心配して泣き、食事もとれなくなり、そんな私を心配した先生が退院させてくれました。1年位かけて漢方薬をせんじて飲みながら治ることができました。この2回のトラブルで、人がスムーズにできることが上手にできないのは被爆と関係があるのかなあと思ったりしました。これが被爆者共通の心理かもしれません。
<家族の中で>  私が被爆者であるということを夫に初めて言ったのがいつかは覚えていません。当時は手帳取得が結婚にさわるという風評もあり、姉などは「いらない」とすぐにはとらなかったような気がします。私はそんな思いもなく所持していたのですが、夫が戦争の責任とか社会のものの見方などで、私よりはるかに反戦の意識が強かったので何も心配ありませんでした。広島・長崎の式典中継でも私より深く正座してみるような人で、これは幸いでした。  家庭の中で被爆体験を話せたこと。それを淡々と聞いてくれる家族がいたことはうれしいことです。  初孫が5才のころでしょうか。我が家には「原爆の図」「ひろしまのピカ」「ピカドン」(いずれも丸木位里・俊作)や原爆ドームの本など夫が集めた本がたくさんあります。それらを持って帰るほど興味をもち、「原爆ドームに行きたい」と親にねだるほどの孫娘。ホロコースト記念館にも何回か行き、私たち夫婦にもアンネの部屋を丁寧に教えてくれ、「ああこの子は平和の担い手に」と期待をこめて見守っていました。なにしろ8月15日生まれですから。そしてその孫に、佐々木禎子さんについてまとめたダイジェスト版の本を夫は作りました。それを読んだ孫は「禎子さんちは散髪屋さんだったんだね」と。夫はその一言に苦笑していました。2、3年もすると興味を失った孫娘が、いつの日かまた興味と関心を持ってくれれば幸いです。  孫娘が小学校1年生くらいの夏に遊びに来て、寝物語に被爆体験の話をしたところ「おばあちゃん(生きてて)よかったね」と言われ、私ははっとしたのを覚えています。「生きてて申しわけない」という被爆者のことばがよく言われます。私に明確にあるのではありませんが、いくらか私にも長生きへの申しわけなさみたいなものがあります。でも「よかったね」というのはありがたくかみしめたいと今では思っています。
<最後に>  たまたま2020年3月15日付の中国新聞に、「被爆オリンピアン肉声現存・広島市出身36年出場故高田静雄氏」という見出しを見ました。その人は小学校時代の級友の父親です。また、米兵たちの被爆をほりおこし追悼してオバマ大統領にハグされた森重昭さんも級友のお兄さんです。佐々木禎子さんが白���病で亡くなられたころ入院した級友もいます。でも、私たちは戦後60年、還暦を迎えた同窓会でほんの少し被爆のことを話したことがあるくらいで、級友でも詳しいことはほとんど知りません。日々衰えていく記憶と、語りあう機会も減っていく中で、今回書き残してみたのはよかったように思います。記憶とは不思議なもので、自分流にゆがめているかもしれません。この主観的な記録がどのように伝えられていくのか少し楽しみです。長生きすれば「最後の被爆者」となる可能性もある人間の記録ですから。そのためにも両親からもっともっと話を聞いておきたかったです。
<さらに>  この原稿のパソコン入力を娘がひきうけてくれました。彼女は幼い頃、原爆資料館のろう人形母子を見ておびえましたが、私と平和行進に参加したことや、大会で「青い空は青いままで子どもらに伝えたい。燃える八月の朝…」と歌ったことは覚えています。8月6日の式典で峠三吉の詩を子供代表が語ったのに感動して、東京から電話をかけてきたこともあります。彼女には彼女のヒロシマとの歴史が作られているのですね。いろいろな形でヒロシマが伝承され続け、子や孫・その先まで、この愚かなことがくり返されぬように祈ります。私の胸を今でもゆさぶる歌「原爆許すまじ」を心に銘じて。
(2020年4月記/上村洋子)
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cosmo-alien · 4 years
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東京になりかけ
外に出るのが億劫で買えていなかった漫画や雑誌を買いに行った。有楽町の三省堂は広くて好きだ。というか、有楽町という街が好きだ。けれど、まるくて小さい有楽町はきっと実際はそんなに小さくない。おそらく私が通っていた幼稚園が有楽町にあって、その頃に目にしていた有楽町に比べれば今の有楽町は小さい。半径30mくらいの球体にマルイやJRの駅があるこの街がなんとなく小さく感じるのは、交通会館周りにそういう大きな建物が集まっているからだろう。そして、まるく感じるのはロータリー沿いの道が丸いカーブを描いているからだ。頭に浮かぶイメージはかなり安直で、詩的じゃない。誰が来たって、有楽町は小さくてまるい街だ。晴れて青すぎる空の下でブルーピリオドBRUTUSを買った。あと文學界も買った。安直な言葉の結び付きが少し愛おしい。そしてビックカメラで炊飯器を買った。ビックカメラはそこそこ混んでいて、店員が捕まらないまま炊飯器売り場が見つからず、必要もないのにオーブンレンジ売り場をウロウロしていた。ようやっと捕まった店員はチャキチャキのオバチャンで、「一人暮らし用の炊飯器を探してるんですけど」と言うと腕をまくって「こっちね!」と炊飯器売り場に連れて行ってくれた。腕まくりは本当にしていた。IHの炊飯器はマイコンより美味しく米が炊けること、3合も一気に炊かないからと1.5合炊きの炊飯器を使うと美味しく米が炊けないこと。そんなことをポンポン話すオバチャンに、私はふんふんと頷いていた。ポイントを使って買いたいことを伝えると、オバチャンは意気揚々と2万円超えのIH炊飯器を勧めてきたけれど、そんな高級家電を買う余裕はないのでその隣にあった1万円ちょっとのIH炊飯器を買った。「これでも全然美味しいからね、大丈夫大丈夫」とオバチャンはマスクがズレる勢いでダンボールの山から炊飯器を取った。レジで支払いを済ませると至近距離の真後ろにオバチャンがいて、ぐるぐる巻きに包装した箱を持って「気をつけてね、がんばってね」とチャキチャキしていた。オバチャンだなぁ、と思った。マスクをしていてもオバチャンのまるい眼鏡が曇らないのは、オバチャンの喋る勢いが凄すぎてマスクがズレるからだと思う。ありがとうございました助かりました、と告げるとオバチャンは親指を立ててきた。オバチャン。シュワちゃんみたいで愛おしい。
炊飯器のダンボールを抱えて有楽町から山手線に乗った。昼過ぎの山手線はそこそこ人で混み合っていて、一つ空いていた席の足元にダンボールを置いてそこに座った。隣に座っていたおっちゃんが小説を読んでいて、私も鞄の中の文學界を取り出した。ぽやぽやと明るい車内で雑誌を開くと、必要以上に紙が照らされて眩しい。サンルームみたいに明るくて暖かい車内は、もしかすると私が来ているMA-1が季節外れになりかけているから暖かいのかもしれない。少し汗ばむくらい暑かった。136頁から始まるDJ松永の連載を読んで、不覚にも泣きそうになってしまった。人生でほとんど初めて電車に乗った彼の話に、高輪ゲートウェイに到着したあたりで、あまりのリンクしなさに愛おしくなっていた。私は小学校から電車通学だったから、逆に自転車と車があればどこにでも行けると思っていた彼が初めて電車に乗ったときの感動を知ることはない。知ることはないことが、寂しくて、なんとなく嬉しかった。五反田駅に着いて、炊飯器を抱えて山手線を降りた。中途半端に大きくて持ちづらい箱を抱えたままエスカレーターを上ったり下りたりした。背中のまるいオバチャンの後ろを歩いていても、持っている荷物が煩わしいから舌打ちは聞こえてこなかった。そんなことより、外に出ても暑かったし空はバカみたいに青かった。電車を乗り継いで新居まで炊飯器を運ぶ。毎日これを使って、これで炊いた米が私の身体を作るのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。死ぬほど重いわけではないけれど、持ち運ぶには煩わしい重さ。生活の鑑のような気がしていた。私がこれから暮らす街は、有楽町のようにまるくないけれど小さい。例えて言えば、LEGOで作った街によく似ている。万人の想像上の都会で生まれて育った私は、小学生の頃この辺りに住んでいる友人の家を訪ねたとき「〇〇ちゃんちは東京じゃないの?」と聞いたことがある。失礼すぎる。でも本当にそう思ったのだ。私の目に映る東京も、テレビで見る東京も、同じようにビルばかりあったから東京にはビルしかないと思っていた。そんな私が炊飯器を抱えて三階建てのアパートの階段を上る。これはなんだか少し滑稽で、愛おしい。今の私はLEGOで出来た小さくて可愛い建物たちが身を寄せ合っている東京も好きだし、人間の欲の塊みたいな東京も好きだ。空っぽだったワンルームにちまっこい家具や家電を置いて組み合わせていく生活も、少しLEGOに似ている。8畳間のミニマム東京は、私のためだけにあって、私のためだけの東京に誰かを呼びたくなる。一番にあの子を呼ぶという約束は守れそうもないけれど、もう少しワンルームが都会になった頃に呼べたらいいなと思う。ワンルームにしちゃあ窓が大きいこの部屋から見える空も、やっぱりバカみたいに青かった。カーテンもラグも青いので、青がゲシュタルト崩壊しそうだ。そんな青だけの小さい部屋の真ん中で黒いMA-1を着た私が、ポチポチと文章を綴っている。青だけの空に墨汁をぽたっと落としたみたいで、ちょっと興奮する。帰ったら、母が鍋を作って待っている。実家に戻るとき、いつまで私は「帰る」と言うのか、今から少し楽しみなのだ。今あぐらをかくベッドの上に、身体をホカホカにしたあの子が横たわることぐらい楽しみ。米みたいに肌が白いあの子が炊飯器の蓋を開けて、ふっくら笑うその顔が青の中に包まれるときはきっと、たぶんもう少しワンルームは東京になっている。
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iseilio-blog · 2 years
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雁 寺
水上勉 - 搜尋 (bing.com)
水上勉 - YouTube
炉ばたトーク&歌 弦哲也 水上勉 筑紫哲也 石川さゆり 1992年 - YouTube
若州一滴文庫(繁體中文.Ver) - YouTube ( 遷建於 淡水 )
暗〜い、けど面白い!『飢餓海峡』 - YouTube
(109) 飢餓海峡 - YouTube
( 寫清規戒律的寺院裡男女的愛與慾。P . 20/P . 110 )
雁 寺
雁の寺 あらすじ - YouTube
以描繪鳥獸而在京都畫廊享有名聲的 岸本南嶽 死在 丸太町 東洞院
一角,為黑色板屏圍著的屋宇後面房間 是在昭和八年的秋天。
年老,加上氣喘的老毛病,如同蚱蜢一般消瘦的 南嶽 晚年可以說是
只靠著意志而存活著。就弟子們口中的說法,死的時候就如同一顆
蟲蛀的朽木,就可以知道生前精力旺盛,玩女人不輸人。在一整個
晝���的鼾聲中,最後到底咽喉來不及吸氣而死。南嶽享年六十八。 岸本南嶽 死前一日、正確的說,是十月十九日。就剛好夫人的 秀子
不在,衣笠山麓 孤峰庵 的住持 北見慈海 到訪。和尚的頸子繞著白
裐布的護襟,穿著黑袍,大概是在那裡做了法事的回程
「怎麼樣,狀況如何?」
慈海和尚一面向出到玄關,不頂熟的女傭如雷灌頂一般的說著,
不客氣的走了進去。就這個時候,後面站著一個不到十二三歲,
矮小的小沙彌。這個小沙彌也跟了上來。 岸本家,幾代都是 孤峰庵 的護持。
湖北の紅葉めぐり 小堀遠州のゆかりの寺 近江孤蓬庵 - YouTube
也曾經擔任 名譽總代,所以和尚這樣大剌剌的進到裡間,倒也不是
怎麼不可思議。一直就坐在枕頭邊,用棉花水沾著唇的弟子 井南窗
有點不高興。師父氣息疲弱,醫生也不看好。這時,也正好菩提寺的
和尚來訪。大家面無表情的望著 南窗。女傭下到走廊去拿茶菓,無視
於弟子們的臉色, 南窗 走近了枕頭邊,望著 南嶽 的臉、
「怎麼樣,狀況如何 ?」
聲音高亢衝到了不高的天花板,回到了南嶽的耳邊,閉著眼的南嶽
微張著眼 ;
「和尚阿 . . 」
辛苦而斷續的發出了聲。
這讓在一旁的弟子們吃了一驚。從一早,南窗 再怎麼叫著師父的
名字,南嶽 就是不出聲。而現在南嶽卻乾渴著嘴,用沙啞的聲音
說到。
「就想到會來」
「討厭的角色」
和尚低著肩膀望著南嶽的臉,
「我倒沒有想到只有你歡迎我」
說完,望向坐在這十疊大的南窗與三名弟子,不在意的笑著。
笑著,一說完就招來從剛剛就一直站在房緣看著石燈籠的小沙彌。
「喂,慈念」
小沙彌回首望向房間,剃光頭,頭大如鉢,顯得顯眼的孩子。前額
突出,眼睛下陷,臉看起來就窄小。
「過來一下」
慈海招著手。小沙彌靜靜的走了過來。
「叫做 慈念。昨日完成了得度式。庭院也掃得很乾淨。有空要到
寺院來玩。」
這是培育侍者的一種招呼方式。南窗 望著光頭的大頭小沙彌的
側臉。也真是怎的找來了一個陰氣的小和尚了。小沙彌一旦舉行了
得度式之後,這是檀家(施主)的例行工作。 和尚終於從枕邊回頭,走向房緣;這時南嶽仍舊用著那沙啞的聲音
「和尚,還一件事拜託。那是孤峰的女兒。」
一說完,閉上了眼。好像說了不應該說的話,南嶽 開始咳嗽。南窗
走了過來,用棉花沾溼著嘴唇。
「要多保重 !」
只有四、五分鐘的對話。慈海 摸摸小沙彌的頭,離開了岸本的家。 隔天,南嶽一句話也沒有說,一樣用乾渴的嘴沙啞的聲音說話。
喉嚨辛苦的咳嗽,卻又忽然停止呼吸張開著嘴,像是有什麼話
要說。弟子們附耳傾聽,只聽到似乎是說「里 . .」 弟子們望著夫人的 秀子,秀子掩著臉,開始啜泣著。 南嶽在死時託付的 里 . . ,指的就是 桐原里子、南嶽 在上京區
出町 的花店二樓包養的女人。南嶽在 木屋町 小料理店看上,
是晚年的伴侶。弟子們、慈海和尚 都見過,也都知道。
年三十二,是個男人會喜歡、嬌小而可愛的樣子。
(276) 【京都・木屋町】ドリンクの安さも犯罪級!参加全員が再訪を決めました!! - YouTube
為什麼 南嶽 會 將 里子託付給 慈海 ?稍想一下倒也不是沒有道理。
健康時的 岸本南嶽,到過中國、歐洲旅行,而認真的大手筆就是
租來 孤峰庵 做事。似乎喜歡 衣笠山 一帶落葉樹林的寺院。
0091「衣笠山公園」「衣笠城趾」花見散歩 - YouTube
十多年前也曾經整個夏天住在這裡。那時帶來的就是 里子。 「這個涅,是我畫的雁」
帶著 里子,從孤峰庵倉庫的門板,本堂到迴廊,到處都畫著雁,
一路介紹著。 紙門上灑著金粉。粗大的松樹,枝葉覆蓋著水池。似針一般的
葉子,一枝枝明晰的畫著,雁群或者停留在枝上,或者拍打著雙翼
要振翅起飛。也有幼雁,張著嘴等待母雁餵食。畫家帶著滿腔熱情,
似乎可以聽見筆觸的聲音一隻一隻仔細的描繪,栩栩如生。
這是南嶽在那一年的兩年前,南嶽就是不去自誇也毫不遜色的傑作。
「我要是死了,這個雁的寺啊,洛西 就多了一個名勝。」
帶著酒氣的南嶽,撫摸著里子的頸子微笑著。
「好像可以聽到啼叫聲吧。」
里子在幽暗的本堂中恍惚的嘟噥著。南嶽一面笑著,一直撫弄著
里子的頸子。
死去的南嶽之所以將里子託付給慈海,是無法忘懷這個夏天的事吧。 其實,與慈海三人常一起喝酒。慈海比南嶽年輕十歲,和南嶽一樣有著
精悍的身軀,與里子也很和得來。
「和尚,耳朵的毛也該拔一拔了吧。」
里子微張著醉眼說到,慈海眼裡閃著好色的笑看著兩人。慈海沒有
家室。里子常向南嶽說:
「和尚的眼可怕」
因為知道慈海喜歡自己。
慈海與南嶽喜歡女人、喜歡酒相當一致。南嶽似乎對慈海沒有妻室
感到不滿。孤峰庵的本山寺院,對裡面有女人早已是公開的事。倉庫
後邊,在那個寺院都藏著女人,南嶽也曾經說過,要好色的和尚守
空房也沒有道理。慈海痴痴的笑著。
「斷髮即斷根,不就是禪家剃度的旨趣嗎?」 初七那日,桐原里子 穿著喪服,白嫩的手腕戴著褐色的瑪瑙數珠,
進入了孤峰庵的山門。陰天,有風。小松茂盛的衣笠山微冒著煙,
疏落的落葉,赤色的山嶺夾雜著日漸轉紅的楓樹。
孤峰庵山門旁有個上了鎖的小門。里子穿著草履進來。鐵鎖的聲音
打破了寂靜。出來應對的是慈念。如鉢的大頭與眼眶凹陷的小沙彌,
穿著青色線條的合襟服,跪在地板,背後是倉庫為煤煙燻黑的柱子,
看起來不很順眼的大人模樣。里子有點猶豫。
「去告訴和尚我來了」
里子站在踏石上說著
「是」
慈念下到隱寮下方,不久,聽到從迴廊後方疾步而來的腳步聲,
穿著白色合襟的慈海出來了。
「上來 上來」
里子懷念的看著和尚。福泰的里子一如往常的精神,面孔不太記得,
慈海很是高興,讓里子進到書院,那裡有著里子熟悉的屋子。南嶽
已經在這裡辦完喪禮,是個可以看到山水景緻的屋子。
「和尚,好久不見。」
里子沒有去參加南嶽的喪禮,就可以知道在花店二樓聽到了他的死,
也知道日程,卻一個人單獨悼念的原因了。
「有想早點來;和尚,讓我看看他那張畫。」
里子撒驕的多加了一句。
進到本堂,里子望著新的牌位,幾乎要難以呼吸。
【 秀嶽院南燈 一見居士 】
是慈海取的戒名。岸本南嶽現在凝縮成了不到一尺的短冊木板。
里子焚了香。十疊屋子裡邊,南嶽畫在隔板的雁,在白煙裊裊的
霧中,似乎要飛了起來。美麗的雁。里子忽然想到南嶽升天成佛
了嗎。 「來吧,去那邊,給妳很多藥酒。」
里子第一次進到了隱寮的六疊。那是慈海的房間。慈海摸了一下
小沙彌的下顎,向著里子說
「這是慈念,最近才得度。」
慈念彎腰敬了禮,匆匆就走掉了。 「在玄關第一次見到的時候,嚇了一跳,這孩子有點怪 . . . . . 
幾歲 ?」
「十三了」
「嗯, 學校呢 ?」
「大德寺的中學。」
「接你的棒 ?」
慈海只看了一下里子的臉,沒吭聲。站在佛壇下,打開櫃子站著。
有幾瓶酒,拿出了澤鶴。
澤之鶴資料館 | 酒廠 | Sake of Nadagogo (hanshin.co.jp)
「今天開這個。」
說完,慈念出現了。
「去溫熱一下。」
慈念拿著酒就跑開了。不像外表,很勤快的孩子;里子想到。飯
準備好了,拿來了酒瓶、酒杯。里子第一次見到慈念覺得不太習慣,
不過看慣了,覺得頭大了些的這個孩子怪可憐的。
「很勤勞,有這個小沙彌很不錯。」
醉了起來,里子向慈海說到。
有一陣子沒喝了,醉意來得快。夜晚了。常常加入南嶽三人喝到
天亮。
「南嶽有拜託我喔。」
慈海這麼說著的時候,里子看到慈海那明亮的眼
「你來照護就不錯 ;那個人知道我喜歡你。」
慈海坐靠近了些,好像在等待著下一句話。里子沒再說什麼。
靜默似乎反而給了慈海出手的時間。踢開了坐墊,慈海的唇付了
上來,里子瞬間似乎也預期了這一天的到來,沒有抵抗。和尚精悍
的身軀終於插開了衣裾。里子咪著眼,忽然看到門窗外有什麼影子
動了一下,里子嚇了一跳。
好像是慈念,不過又好像什麼也不是。里子意識模糊了起來,身體
被和尚吸了進去。
「可以嗎 ?」
慈海一面喘息問了好幾次。臉貼住塌塌米,散亂的頭髮,里子幾度
瘋狂,終於昇抵了億劫。 就這日的隔天,桐原里子 住進了 孤峰庵 的倉庫。 桐原里子 之所以成為孤峰庵的女人有幾個原因。首先是經濟。
南嶽死後,里子必需再找自活的生路。里子從岸本家,一文錢也
沒拿到。夫人也看不出來有那樣的同情心,當然也沒有分手費。
死後才知道,南嶽留下不少欠債。夫人費盡了力,也才留下來
丸太町的房子。里子想要出去工作,年紀過了三十,也只有料理店
的服務生。超過三十,要回到從前一般的辛勞,真的是億劫,也感到
厭倦。回到老巢,也會被老同事笑。
所以孤峰庵對里子來說,絕對不是不好的地方,不但是本山燈派的
特別處所,壇家也很多。成了慈海的妻子的話,就不怕餓肚子,
尤其寺院裡有種柿子、枇杷等果樹。 還有,本堂裡面有南嶽畫的雁。 十年 - 與南嶽一起過日子的里子,似乎對孤峰庵有著與對南嶽
相同的愛戀。現在想起來,畫了雁,卻有對慈海分文未取的南嶽,
是否有在死後交託給慈海呢。如果是這樣,里子也會把這個寺院
當成了最後的家。
慈海不像禪宗和尚一般的面容,稚氣的笑容也是里子喜歡的地方。 「受了南嶽委託 . . . . .」
慈海說著,靠了過來,里子心中混雜著既歡喜與悲傷,
「慈海桑 . . 」
心中湧起了一股愛意,不經意中,里子抱住了慈海。里子輕輕的
說著話,慈海的頭埋在里子白皙的乳房一動不動,眼睛濕潤了。
里子的膝蓋鬆軟了起來,夾著慈念,慈念的臉撫愛著乳房。激情
煽起了里子,按住了乳房中的慈海,
「通通給你,我的一切通通給你 . . . . 」雙腳高高舉著、踢著 . . ,
就在身子鬆軟下來的時候,大頭的小沙彌從門窗的那邊消失,里子
一下子醒了。
https://iseilio-blog.tumblr.com/post/734968628716421120
Artur Schnabel: Symphony No. 2 (1941/43) (youtube.com)
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kyary1976 · 2 years
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#今はただ夢に向かう君へ . . . 今日は安らかに眠れ。 . . #ワンセブンライブ #17ライバー奏蒼 #一般社団法人亜細亜美術協会 #一般社団法人社員画家 #亜細亜現代美術展 #美女たちの森と沼 #神童 #天使か悪魔か #奏蒼マジック #エキセントリック技術多数 #AIに喰われるデザインとイラストたちの世界 #無文化永遠の現在 #民衆が民衆の暴君 #縄文集落としての無文化 #新人類 #アートと芸術の違い #墜ちる現代アート #戦争と平和 #仮面を被った戦争 #金を使いながら貯める者 #贖い #償い #数学偏差値81の直感世界 #ただ強くあらんがために強く在る #おやすみパパ #おやすみおじいちゃん #母屋の比劫 #BASEショップ8月22日新品追加 #アートジーンもよろしく https://www.instagram.com/p/Cgo-JkwpEfA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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znj106 · 2 years
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溜息は夜更けに目を覚ます
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「丸井さん、幸せが逃げるよ」と笑われたとき、ああ、私は溜息を吐くことすら許されないのだな、と悟った。
 いっそ痛いくらいの鼓動を飲み込むために、「はあ」と、呼吸と返答の中間のような音を出した。
 それ以上に発するべき言葉が見つからず、無意味に靴の先端を観察し、無意味に口を開閉するしかない。模範解答を知らない私はもう二度と、彼の前で、肺に淀んだ悲鳴をこっそりと逃がしてやることさえできない。
 彼は不出来な生徒を見逃すように、「最近、寒くなったよね」と、骨ばった指の先で、自身が抱えた鞄をリズミカルに叩く。
 間延びした語尾で天井を仰いだ彼につられて、視線を持ち上げる。やけに煌々とした照明に向かって、「そうですね」などと、私も会話らしきものを試みる。
 返事はなかった。二人を乗せたこの狭い箱が、私の声だけを地面に置き忘れたまま、ぐんぐん昇っていく。そんな想像をする。
 エレベーター内のかすかな揺れが音もなく止まり、ドアはいやに億劫そうな速度で開いた。彼は無言で足を踏み出して、間もなく廊下の角を曲がっていく。
「そうだ、確か彼は開発部の人だ」と思い出したのと、彼が落とした溜息を私の耳が拾い上げたのは、ほとんど同時の出来事だった。
 そうか、あの人は、溜息を吐くことを許された側の人間だから。
 ふと、そういえば私は、彼に朝のあいさつをしただろうか、と疑問に思う。しかし、彼が私に「おはよう」と声をかけたかどうかすら記憶になかったので、再び顔を合わせないよう願うだけに留めた。
 どうせ、次に会ったときには、「丸井奈々子は暗くて絡みにくい」という印象を除いて、今日のことは彼の記憶から綺麗に消えているに違いない。
 ようやく、といった気持ちで、全身を使って息を吐く。
 楽に呼吸���したい、というだけの望みを叶えることが、ひどく、難しい。
「おはようございます」
 開け放してあるドアを手のひらで押さえて、室内に声を投げ込んだ。誰かの反応があったかどうかを確認する余裕もなく、入り口から一番近い席に腰を下ろす。
 ここが私の席、と胸の内で繰り返した。くたびれたキャンバス地のトートバッグを胸元に抱えて、小さく深呼吸をする。
 たかだか事務のアルバイトである私に席が用意されている、というのは、ありがたくもあり、恐ろしくもある。
 視界の端に誰かの手が侵入してきたので、私は慌てて顔を上げた。
「そんなにビビらなくても」と苦笑していたのは、二つ年上の安曇さんだった。数枚の書類でひらひらと首元を仰ぐ指の爪は、柔らかい彩度のスカイブルーに染まっている。
 自身の鎖骨あたりでくるりと丸まった毛先を熱心に気にかけながら、彼女は「丸井さんさあ」と高らかに、楽器でも奏でるような優雅さで私を見下ろす。
「伊東商事さんの伝票ってやったことある?」
「あ、伊東商事さんですか」
 いとうしょうじ、イトウショウジ。聞き覚えのある名前が耳に触れ、私は先週の金曜日の記憶を必死に掘り起こす。
「あの、えっと、この前、教えてもらって、少し」
「この前っていつ?」
「あ、先週の」
「少しってどのくらいかなあ」
 私の言葉を遮り、書類に素早く目を落とした安曇さんの語尾は、ほとんど独り言のようでもあった。
 どのくらい習ったのかなあ。どこまで理解できたのかなあ。ああもう、どうしていつもこうなのかなあ、丸井さんは。と、彼女の語尾からは、いつも私にだけ幻聴が聞こえる。
「あの、何か、間違ってましたか」
「いやあ?」
 べつに、と難しい顔をしながらふむふむと頷き、安曇さんは自分の席に戻っていく。私とほぼ反対側、部屋の奥に位置する場所だ。
 今にも左側の胸だけが裂けて、暴れ狂う心臓が転がり落ちてくるのではないか、と思う。薄汚れた床の上をのたうち回り、綿埃が絡まることも厭わない姿を見つめながら、私はゆっくりと目を閉じて、そのまま息を止める。
 その様子を見ていた周囲の人間がどんな反応をするのか想像してみるが、目に浮かぶのはいつだって、ミュージカルの幕引きのようなわざとらしい嘆きなのであった。
 足りない想像力と、私が他人に惜しまれる人間でない、というところが大きい。
 私の人生において、特筆すべきほど大きな事件はなかった。運動も勉強も人並みで、奥歯を噛み締めるような苦労をしたこともなければ、仲間と涙を流して祝うような成功を収めたこともない。
しかし、それはあくまで世界中の人間を比較対象にした場合の話であって、当事者の私にとっては、道端で転んで擦りむいたあの日の羞恥も痛みも、勘が当たって順位が上がった期末テストの喜びも、自分史に刻むべき出来事である。
 その中であえて大事件として扱うのであれば、就職活動の他にない。
 何があったわけではない。何もなかった。ただ、郵送した履歴書が、一枚たりとも採用通知として返ってこなかっただけの話だ。
 不幸と言えば不幸なのだろうし、よくある話だとすればそうなのだろう。アルバイトとはいえ、母の知人経由でこの会社に雇ってもらっているだけ、むしろ運が良い。
 だから、と息を吐く。だから、大したことじゃない。
 はす向かいに座る彼女、峰岸さんは、実母の介護で私よりはるかに大変だろうし、さっそくキーボードを叩いている安曇さんだって、私より多くの仕事を任されている。
 もう一度だけ息を吐いて、ああ、私は今日も多大な労力を消費して、無意味に二酸化炭素を排出することしかできないんだろうな、と思う。
 自虐要素の多い冗談のつもりであったが、存外冗談ではないのかも、と気付いてしまった時点で、ひどい後悔に襲われた。
 なるほど、価値のない人間には、ブラックジョークを楽しむ権利もないのだ。
 ならば願うことは一つしかない。誰にも咎められないよう、周囲の顔色を窺いながら。ただ、一日が無風のまま過ぎていきますようにと。強い向かい風が吹いたら、余計に呼吸ができなくなってしまうから。
 私の目と鼻の先でスマートフォンを握りしめる男子高校生を見て、真っ先に抱いた感想は「根性があるなあ」の一言だった。
 満員電車の中でつり革を握りしめ、画面から目を離さない様は、単なる痴漢冤罪対策なのかもしれないが、自分の領土を守ろう、という気迫すら感じられた。長方形にくり抜かれたページがニュースサイトらしき部分も含めて、本当に頭が下がる思いだ。有名な女性歌手が大病を、というような字面がはっきりと見えたところで、罪悪感を覚えて視線を外す。
 行き、帰りに限ることなく、私が通勤に使う地下鉄はいつでもおおむね満員であった。各ラッシュの時間を回避しない限り、その混雑は平日休日を問わない。
「――をご利用のお客様は、次の駅でお降りください」
 柔らかな女性の声が、周辺施設の紹介を伴って、次の駅を教えてくれる。滑らかな口調とともに挙げられた場所は、どれもこれも自宅から近く、よく利用するものばかりだ。
 徐々に速度を落とした電車がひどく勿体ぶって停止し、車内にこもった空気が慌てて逃げだしたように、ぷしゅ、という音が鳴る。目にせずとも私には、それが扉の開く音だとわかる。
 人の塊が動く気配はない。厳密には、出入り口付近で気を遣った数人の頭が消えたが、後に続く者がないとわかると、また人の隙間にひょっこりと帰ってくる。
 わかりきっていたはずなのに、未練がましく目を向けてしまったことが恥ずかしくなって、私は自分の爪先を睨みつけた。
 視界に映るのは他人の胸元や肩ばかりであったが、見えるはずもない足元を脳裏に描き、凝視し続けることだけを考える。
 熱を持った二酸化炭素がゆるゆると浮んでいくから、汚れた水面から救いを求めて口を出す魚のように、息をしようと上を見ることは叶わない。カーブのたびに車体は揺れ、力を込めた足元を簡単に崩してしまう。
 そうして二、三分も待っていれば、あっという間に次の駅だ。前に隙間ができれば、後ろから押されるまま、それを埋めるように足を進める。
 進行方向は目視しない。流されるまま改札を出て、義務のように最寄りのコンビニへ入り、ぼんやりと飲み物のコーナーを眺め、欲しくもない水を買って、再び改札を通ればいい。あとは一駅分、反対方向の電車に乗るだけ。いつものことだ。
 友達と雑談する女子高生や、猫背気味なサラリーマン、高いヒールを鳴らすオシャレな女性が、次々と私を追い越していく。
 ふと、「ほら、諦めなさい」と煩わしそうな声で幼児の手を引く女性が視界に映りこんだ。「落としちゃった、ないの、ママ」とぐずる女の子をぼんやりと眺め、漠然と「偉いなあ」と思う。
 ついには泣き出した我が子を抱き上げ、仕方ないといったふうに柔らかく微笑む母親の姿は、この世界上において何よりも尊く、惜しまれるべき存在であるはずだ。
 そうであってほしかった。そうでなければ、私は生まれた瞬間から死ぬそのときまで、本当に無価値なままではないか。
 例えるならば、汚れた酸素を吸って一日を過ごしたせいで、胸の奥が重たく淀んだような感覚。やむなく喫煙者に囲まれて生活する人間とは、いつもこんな気持ちなのだろうか。
 仮にそんな知人がいたとして、私には本当のところを問う愛嬌も話術もないのだけれど。
 は、と小さく吐いた息は、階段を上るのに疲れたからか、あるいは単純に、先に続く景色に期待しているのかもしれない。
 私が自身の住むマンションに着いて真っ先にすることといえば、いつまでも履き慣れないヒールを脱ぎ捨てることでも、化粧を落とす手間すら惜しんでベッドに倒れることでもない。
 そもそも向かう先は自室ではなく、本来は立ち入り禁止になっている屋上だ。進路を阻む荷物が置かれているだけで鍵もかかっていないそこは、まるでむず痒い学園恋愛コメディの漫画のようだ。
 意外にも、以前は住人が集まってバーベキューなどを楽しんでいたらしいが、高齢化による顔ぶれの変化と、時代に合わせた窮屈な規則のせいで、今では「ただ、建物の上にあるスペース」というだけのものだ。
 中身も不明なダンボールたちの隙間を縫うように進み、錆びきった蝶番が軋む音を聞いているだけで、口から流れ出す空気が透明になっていくようだった。眼前に広がる夜景に瞬きすればもう、世界中に私一人しかいない気分になれる。
 用途のわからない機械や、取り繕うように設置されたフェンスのおかげで、存外広いわけではない。周辺にはこのマンションより高い建物も多く、お世辞にも褒められた見晴らしでもない。
 駆け寄った先のフェンスに体当たりするようにして、遥か遠い地面を見下ろす。道行く人の性別や服の色が判別できてしまう程度の距離だったが、十分だ。
 何に? 簡単なことだ。私が死ぬために。
 指を絡めた金属製のそれに、ぐっと力をこめる。想像していたほどの振動はなかった。人の力で押して壊れるようなら、とっくに修理されているだろう。その事実が、冷風が胸の奥を叩いたような、恐ろしいほどの虚しさをもたらす。
 しかし、思わず零れた吐息は柔らかく、いっそ愛おしささえ含んでいた。二酸化炭素ですらないのでは、と錯覚するほどだった。
 想像する。
 古びたフェンスが折れ、私の体を乗せたまま落下していく。
 鈍い音を伴って潰れる体。
 辺りは静まり返り、一拍の間をかき消すように悲鳴がひしめき合う。
 実家の母は、父は、泣くだろうか。
 いつも視線を合わせない安曇さんは、私以外の人とは饒舌に話す峰岸さんは、顔をしかめながら仕事を教えてくれる田代さんは、溜息を吐く権利のある岩本さんは、中学生時代に仲違いした同級生は、私ばかり居残りさせたピアノ教室の先生は、いったいどんな顔をするのだろう。
 そのときを、私はどうあっても目にすることができないのだ。
 考え至った瞬間に、わずかながら腰が引けた。
 鼻の奥が絞られるように痛み、心臓が耳元まで跳ね上がってきたように鼓動が大きく聞こえて、���しろ煩わしい。
 ほんの数秒前、自らの死を夢見ていたときは、あんなに幸福な心地であったのに。
ぬるい湯に浸かったまま眠りにつけるような穏やかさが、あるいはこの夜空に大声で感謝したくなるような清々しさすらあったというのに。
 虚しくて、恐ろしかった。自らの死を想像することでしか、自分の心を慰められない。私という生き物の存在価値を信じることができない。いったい誰がどれだけ、どんな顔で悲しんでくれるのかしら、と空想することでしか。
 不意に、心音の隙間から悲鳴が聞こえる。自分のものではなかった。耳慣れた、寿命寸前の金属の泣き声だ。
 背後の足音に、全身が急速に温度を下げ、反して四肢は俊敏に動き、気配の主を視認せんと目を見開いた。
「あれ、先客じゃん。マジか」
 扉の影から半身を出したまま、暗い色のブレザーを着た女の子がこちらを凝視していた。中学生、には、見えない。
「お姉さん、寒くないの?」
 肝が冷えた感覚を指摘されたのかと、思わず肩が跳ねる。へら、と力なく笑う彼女は無遠慮に、いや、遠慮する必要もないのだが、そう形容するしかない足取りでこちらに近づいてきた。
「まあ、死んじゃったら一緒だよねえ。あ、お先にどーぞ」
 彼女は私の足元にしゃがむなり、にんまりと笑みを深めて気だるげに言い放つ。
 風にはためくスカートを気にかける様子がないので、私は居心地悪く視線を逸らし、間抜けにも「あなたも、その、寒そうだけど」などと口にした。
 不思議なのだけれど、その瞬間に初めて、「ああ、今日って寒かったんだなあ」と自覚したし、何なら「今って冬だったのか」なんて思ったりもしたのだった。
「いいよ。厚着して、ダッサイ格好のまま死にたくないし」
 変わらず愉快そうな口調に気圧されて、私は思わずフェンスから身を引く。さっぱりとしたショートカットの彼女が、あまりにも自分と違う生き物のように感じられて、つい怖気づいた、というのも、ある。
「なに、やめちゃうの」
 ぱちぱちと上下するまつ毛を眺めながら、こんなにぱっちりした瞳では、どれほどまつ毛が長くても足りないだろうなあ、などと呑気なことを考える。
「やめる、っていうか……そんな、死ぬなんて、してない」
「えーじゃあ、私先に死んでもいい?」
「えっ、あ、はい」
 どうぞ、なんて、軽く会釈して、手のひらでフェンスの向こうを示した。
 彼女は不満そうに眉根を寄せ、「お姉さん、それでいいわけ」と唸った。苛立ちを隠すことなく全身で表現できる様は、精神的な面も含めて、彼女が史上最強の生き物なのではないかと錯覚させた。
 ほとんど大人に完成しかけた顔立ちの中にほんの少しだけ残る幼さは、むしろ九対一の割合をもって、人間としての完成なのかもしれない。
「よくは、ないと思う」と返したのは、私の人生上に、一度たりとも「完成した」瞬間がなかったのでは、と気付いてしまったからだった。
 絶対に通ってきた道であるはずなのに、そこだけ違う記憶を縫い付けられたかのような。目隠しをしたまま、ここまで無理やり手を引かれて来てしまったような。視界が開けたと思えば、花咲く春が終わってしまっていたような。
「でしょう? よくないよ、絶対。言いたいことがあるなら、きちんと言わなくちゃ」
 胸を張って微笑んだ彼女は、下品で雑多な街灯のきらめきを背負って、ゆるりと立ち上がった。
 美しさに見惚れる、といったことはなかったのだけれど、凛とした立ち姿があまりに拙くて、私は今にも叫びだしそうな口を戒めるのに精一杯だった。それが歓喜だったのか、羨望だったのか、あるいは後悔だったのかはわからない。
 ただ、「じゃあ、どうしたいの」と問う彼女に、「地下鉄を……家の最寄り駅で、降りられなくて、だから」と答えた私は、傍から見ればひどく滑稽であると同時に、同じくらい、自身では呼吸がしやすいとも感じている。
 そのとき、温度のなかった空が澄んだ冷気をまとい、肌を撫でる風が、私の体の形を、声の硬さを、存在の有無を教えてくれた。
「ナナさんは、いい人だね」
 彼女は美澄と名乗った。このマンションで母親と二人暮らし、というだけで、フロアも苗字も知りえないブレザーの女子高生は、私を「ナナさん」と呼ぶ。
 初めて会った日、名を問われて返した「丸井」という苗字がお気に召さなかったのか。はたまた、この年頃特有の、年上に対する無遠慮さを勲章のように愛する性だったのかもしれない。
「奈々子」という本名から、よもや安直に「ナナさん」などというあだ名を付けられようとは。一人暮らしを始めてから久しく下の名前など呼ばれておらず、妙に気恥しい。
 そのくせ、仕事が終わるなり、毎日屋上へ足を運ぶ私も大概だ。することといったら他愛のない世間話や、脈絡も実りもなく、唐突に意味のないことをぼやくことくらいだというのに。
 こんなことを続けてもう、一か月にもなる。幻のようであった冬の気配も、自覚したとたん、骨同士の隙間に潜り込んで、全身の熱を奪っていく日々だ。
「私は、いい人っていうか、要領が悪いだけだよ」
 彼女の隣で、倣うように膝を抱えて座り、靴の先端に付いた泥汚れを観察する。誤魔化すための苦笑が我ながらあまりにも弱々しくて、今さら落ち込む気分にもなれない。
 そっけない風のせいで体が震えて、かちかち、と奥歯がぶつかり合う音がした。胸を潰すように背中を丸めて、口元を膝に埋める。
「降りたい駅を乗り過ごしちゃうのは、人込みをかき分けていくのが申し訳ないからでしょ」
「いや、邪魔だと思われたくないだけで……ずっと出入り口付近に立ってればいいだけなんだけど、あの、アナウンスが」
「アナウンス?」
「奥に詰めてくださいって言うから」
 首を傾げてこちらを窺う彼女にどきりとしたのは、私の声が小さすぎて聞こえなかったか、と申し訳なくなったからだ。
 だが、そんな心配は杞憂だったようで、彼女は「やっぱりいい人じゃん」と、空へ向かって大声を放り投げた。むしろ、血液が流れる音すら知られてしまうかも、という近さで乱暴に寝転がった。
 投げ出した足がざらついたコンクリートにこすれることも厭わず、彼女は組んだ腕で目元を覆い、あー、と意味のない唸りを断続的に吐き続けている。
 寒そうだな、と思わず顔をしかめるが、彼女は変わらず年相応に、利便性よりも外見の好みを重視しているようだ。
「美澄ちゃんも、いい人だよ。だって、私の話、つまんないでしょ」
 毎日聞いてくれてるよね、と付け加えるが、彼女は起き上がる気配もない。ぞわ、と背筋に不快な感覚が這うが、それもまた、「そんなことないよ」と笑顔を見せた彼女のおかげで思い過ごしに終わる。
「ナナさんって、いじめられっ子タイプでしょ」
「え」
「しかも、何もしてないのにターゲットにされるパターン」
 タイプだとかパターンだとか、どこか機械的な語感は、「いじめ」という生々しくも軽快な言葉には、とてもちぐはぐなように思える。
 不思議と嫌悪感はなく、かえって自分が第三者であるような、奇妙な距離を持って頷くことができた。
「わかりやすいかな、やっぱり」
「どうだろ、そうかも。でも、私の兄に似てるって思って」
 砕けた口調に、兄、という簡素な呼称は不釣り合いだった。四肢を大の字に転がしたまま、彼女は私と、その背景にある曇り空に向かってぼそぼそと続ける。
「いじめられっ子だったんだよね、兄。ナナさんとパターンは違ったけど」
 タイプは一致だよ、いじめられっ子タイプ、と、語尾に笑みこそ垣間見られるが、瞳はぼんやりと虚空を見つめたままだ。
「万引きした同級生を注意したのが原因で、『生意気だ』って、いじめられたの」
 主張が正しくあればあるほど、正しくない者たちの声が大きくなる。おかしな話ではあるが、珍しい話ではない。
 立派なことだ。パターンという概念以前に、私と、彼女の兄とでは何もかもが違う。「いじめられた」という人生におけるマイナス点も、「万引きを咎めた」という正しさの下では、プラマイゼロどころか追加点を貰っても手に余る。
 唇を噛んでしまったことを隠すために、私はわざと「それは、美澄ちゃんも大変だったね」と、不安定に浮遊した思考のまま口を開く。
「やっぱ、ナナさんっていい人だあ」と、まるで大切なものを体の内側へ隠すように、顔をくしゃくしゃにして笑う彼女に救われる。
 私には、他人の万引きを指摘する勇気もなければ、実にならない、くだらない話を延々と聞き続けられるほどの大らかさもない。
 そうか、私は許されたいのだ、とそこで初めて気が付いた。人間としてマイナスの最低値にいる自分が善行を積んで、誰かに「いいよ、普通に生きていても」と言ってもらえるのを待っているのだ、と。
 私は、何をしたら、いつになったら、許されるのだろう。
 いったい誰に許されたら、背筋を伸ばして歩けるようになるのだろう。
 試しに、「丸井さん」と呼びかけられた背中がしゃんとしているところを想像するが、上手くいかない。
 朝がくれば、私は「どんくさいアルバイトの丸井さん」という名前の生き物になる。
 与えられた仕事をどうやって処理するか、どうすればみんなと同じように、マニュアルからはみ出さず、普通の人間ができるのかを考える。
 でも、夜にさえなれば。
 夜だけは、私はあの屋上で「ナナさん」になって、好きに生きることができる。
「ナナさん」であることにルールもマニュアルもない。現実から切り離されたような、不安定な存在だ。性別にも年齢にも職業にも決まりはない。ありのままで過ごすことを許される、呼吸ができる。ただそこに存在しているだけで、善人になれる。
「丸井奈々子」として生きていくためには、許されるためには、圧倒的にいろんなものが足りない。たぶん私は、人間として生きるための「空気の読み方」だとか「要領のいいやり方」だとか、そういったマニュアルを配られずに産まれ、ここまで生きてきてしまったのだ。
 だから今も、普段は不愛想な峰岸さんが饒舌に、「ああいうのって、ちょっとアレだよね」と口角を上げる理由がわからない。
「ああいうの」がどういったもののことで、「アレ」が何を指しているのか、まったく見当もつかない。
 控えめな黒目がさらに細められる様子をちらちらと窺いながら、私はどうにか「アレですか」と呟く。
 独り言なのか、私に話しかけているのかも不明だが、安曇さんがついさっき席を外した室内にはほかに人もなく、無反応でいるわけにもいかなかった。
「それに、いつも、なんでわざわざ閉めるんだか」
 ああ、安曇さんのことを言っているのか、と気付いたのは、呆れた笑みの峰岸さんが立ち上がり、閉められたばかりの部屋のドアを乱暴に開けたときだった。
 同時に、そうか、暗に「丸井さんが開けてよ」と言われていたのか、と思い至った瞬間、全身の体温が一気に下降する。
 普段からドアを開け放していた自分に安堵したいような、気の回らなさを叱咤したくなるような。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、胸の肉を突き破りそうなほど叩く心臓が痛い。
 どちらが正しいのだろう? 単純に言えば安曇さんのほうが先輩で、でも峰岸さんのほうが年齢は上で、人当たりが良くて、上司にも気に入られている。「出入りが激しいんだからさ、効率を考えてさあ」と続ける彼女の理屈も、理解できる。
――ああ、ダメだ、バカバカしい。呼吸がしづらい。
 この部屋はどうしてこんなに暑いのか。そうか、暖房が効いているんだ。
 早くあの屋上へ行きたい。美澄ちゃんに会いたい。身震いするほど凍りついた夜空の下で、現実をすべて置き去りにしたあの場所で、私を殺して、丸井奈々子ではないものになりたい。
 ばくばく、と反響すら感じられる鼓動の合間、峰岸さんが「そういえばさあ」と高い声で天井を仰いだ。
「この前の帰り、丸井さん見かけたよ、駅で」
 どこの駅ですか、という問いは、はたして声になっていただろうか。訊かずとも、きっと彼女は駅名を口にしたに違いない。
「駅近くのお店に用があってさ。あれ、丸井さんこっちのほうだっけ、って思いながら降りたの。で、お店が臨時休業で閉まってたからすぐ反対の線に乗ったんだけど、また丸井さん見つけて。一駅で降りちゃったから、あーそうそう、確かこの駅が最寄りだったよなあって」
 呼吸が止まる。
 悪寒が思考と行動を支配する。頭が熱い。喉が痛い。声が出ない。ああどうか、指先が震えているのがバレませんように。
 気付けば私はトートバッグだけをどうにか抱えて、事務所を飛び出し、改札を通って、地下鉄へと転がるように乗り込んでいた。
「駆け込み乗車はご遠慮ください」と強調したアナウンスや、向けられる奇異の目にひどい罪悪感を覚える。
 しかし、孤独なまま騒ぎ立てる心臓は、これ以上激しさを増すことはない。まだ明るい時間だからか、こんなときばかりガラガラな車内が吐き気を強要してくる。
 乗りなおすことなく家の最寄り駅で降りられたのは、ずいぶんと久しぶりだった。年に一度くるか、という繁忙期の、ごくわずかな期間に残業したとききりだ。
 使えない私���ら遅くまで仕事をしなければいけないほど、相当切羽詰まっているときの、というところまで考えて、いよいよ視界がぐらりと歪みはじめる。
 風が堂々と闊歩するようなガラ空きのホームから、うつむいたまま改札を目指す。どこに向かっているのか、どこへ行きたいのかさえわからない。ただ、何者の視線にも捉えられることのない場所は自分の部屋しかない、という思考だけが体を動かしている。
 反対側の電車から雪崩れた人の波に流されているうちにふと、何かを踏みつけた足元がぐらついた。
 思わず顔を上げて振り返る。少し先に、クマのマスコットが転がっていくのが見えた。
 当然ながら声を上げることもなく、クマは蹴られ、小さく弾みながら、通路の端から端へと忙しなく追いやられていく。
「落としちゃった」と泣くいつかの女の子の記憶が、私の肺を突き刺した。ありえないとわかっていても、もしかして、と湧く思いに体は伴わず、立ち止まることも、踵を返すこともできない。
 電光掲示板には、短い闘病を終えて亡くなった女性歌手のニュースが淡々と流れている。それを見上げる三人組の青年が、年配の男女が、残念そうな声で彼女の思い出を語っている。
 ごめんなさい、と吐き出したはずの謝罪は、舌先に触れることなく、焼け爛れた喉に染み込んでいった。
 最悪な気分だ。
 美澄ちゃんに会いたいと思っていないわけではなかったが、それ以上に、私の頭の中は「死にたい」という気持ちでいっぱいだ。
 今すぐあの屋上から跳んで、硬いコンクリートの地面に向かって落ちていきたい。何の跡形もなく、産まれたことすら嘘みたいに、消えてしまいたい。
 雨が降りはじめたのは、曇り空の隙間から自分のマンションが確認できるようになったころだった。
 駅から駆けるように進んでいた脚は、普段の運動不足が祟って、すでにすっかり感覚がなくなってしまっている。
 体から切り離されたかのように冷えていく爪先と、満身創痍で濡れ鼠、という状況が、私の足取りをより重くさせた。傘の下からこちらを覗く目の群れが、動かすので精いっぱいな足を、より厳しく急かす。
 ようやく屋上への階段を上るころには息も絶え絶えで、およそまともな思考などできるはずもない。
 それがいけなかったのかもしれない。
 眼前の景色に、疲弊しきった体と精神は静かに姿を消した。
 くすんでぼやけた夜空も、瞳の奥まで染み込んでくるような街灯たちも、「ナナさん」と気だるげに私を呼ぶブレザー姿も、そこにはなかった。
 帰り道にいつも目にする、背の高いビルがはっきりと見える。解体中の建物を覆うグレーのシートが、雨風に煽られて揺れているのがわかる。
 古びた蝶番を何度軋ませたところで、夢見るような異世界への道が開けるわけでも、特別な存在になれるわけでも、唯一無二の、奇跡のような巡り合いがあるわけでもない。
 ドアに背を預けると、硝子が落ちて砕けたような派手さをもって、いよいよ何者かの悲鳴のような音がする。
 錆が服についたかもしれない、とぼんやり心配する自分が、水たまりに浸からないようにとスカートをたくし上げてしゃがむ自分が、滑稽で、憐れで、悲しくてたまらなかった。
 初めて心の底から「死んでやる」と思えたのに、フェンスに近づくことすらなく、職場や、明日からの生活のことを考えている。
 今ごろみんなどうしているかな。峰岸さんは、安曇さんは、ほかの先輩や上司は、どんな顔をしているのだろう。今、私がここから飛び降りたとして、彼女たちが少しでも心動かされることはあるのだろうか。
 どんなに自分が死ぬところを想像してみても、もう上手くはいかなかった。
 わずかながらに抱いていた、「後味悪くは思ってもらえるだろう」という希望から、ついさっき逃げ出してしまったのだから。
「ああ、丸井さん? あの、仕事中にどっか行っちゃった人ね。死んだんだ」と、頭の中で、無機質な何かが溜息を吐く。
 ぞわ、と背筋を這う寒気に、思わず両腕をさすった。
 置き忘れてきた書類で軽くなったはずのトートバッグが、私の全身を地中へと沈めていくようだ。いつかエレベーターから放り出された声と同じように。ここは屋上なんかじゃない、お前がいるべき場所ではない、と。
 誰もいないはずなのに、世界中の人の目に晒されているような心地だった。地球上にあるすべての素晴らしいものに囲まれて、たった一人、自分だけが何の価値もない物体であるかのような。
 生ぬるい涙が、枯れた喉が、震える唇が、私という人間の価値を引き下げていく。
 どうか誰も、私の肩を叩かないで。君、もういいよ、なんて。もうやめていいよ、人間としてここにいなくてもいいよ。マニュアルが配られていないっていうのは、そういうことなんだよ、と。早く誰か、誰でもいいから、私に人間としての正しい生き方を教えてほしい。これさえ守っていればクビにならないよ、人間でいても許されるんだよって言ってほしい。立派な人になれなくてもいいから、誰かに言いたいことなんて、やりたいことなんて何一つとしてないから、ただの人間として、平均的な人生を、何の心配もなく過ごしたいだけ��。
「ナナさん?」
 自分が顔を持ち上げたことにすら気付かなかった。それほど、私は「ナナさん」と呼ばれることを待ち望んでいた。
「今日はナナさんが一番乗りだね、珍しい」
 膝を抱えて、同じ目線まで下りてきた彼女が微笑む。「いつも私が先だもんね。待たされる気持ち、わかった?」という軽快な語尾に、胸が痛むことはない。
「美澄ちゃん、私、」
「どうしたの、ナナさん。え、泣いてるの?」
 日はとっくに暮れて、雨も止んでいた。時間すらあいまいにしてしまった曇天は風に流れて、墨染めの紙がかすれたような、そっけない夜が広がっている。
 出会ったあの日と同じように、彼女はきらめく多色の光を背にして「ね、見てよ」とフェンスに向かって歩いていく。
 爪先が、巨大な水たまりに波紋を作る。逆さまの景色が歪み、やがて鏡のような煌めきを取り戻したとき、彼女が人工的な屋上から、満点の星空へ連れ去られてしまったようだった。
「いいでしょ、星空の上を歩いてる、みたいな」
 一度やってみたくて、あ、写真撮ってよ、と照れくさそうに続ける彼女に、私は無意識のうち「ごめん」と口にした。
 長いまつ毛を数回上下させたのち、むしろ彼女のほうが申し訳なさそうな表情で首を傾げる。
「いつも待ってることなら、気にしなくていいよ。冗談だって」
「そうじゃなくて、ちがくて」
 溢れる感情がかえって喉に蓋をして、せり上がる言葉を押し戻す。
 彼女はしばらく眉を八の字にして視線を泳がせていたが、やがて「ナナさん、海へ行こうよ」と明朗な声色で言い放った。
「うみ?」
「そう、海! ここからだと、どうやって行ったらいいのかなあ。私、高校近辺しか詳しくなくて。反対方向なんだよね」
 わざとらしく間延びした口調で私の手を引き、彼女は足早に階段を下りていく。
 点々と続く小さな水たまりを追い越しながら、彼女に合わせて切符を買い、地下鉄に乗って、未知の駅を目指す。
 タイミングを外していたのか、もともと乗客が少ない方面なのか、車内に人影はほとんどなかった。
 窓を背にして、無人の長椅子に悠々と腰掛ける。三人分のスペースを使ってど真ん中に座れることが、とんでもない贅沢のように思えた。
 不意に隣の彼女が立ち上がり、私を見下ろしながら両手で二つのつり革を掴む。いいでしょ、とばかりに膨らんだ頬の中には、ほんの少しだけ、気恥ずかしさがしまわれている。
「どうして、海なの」
 大した意図はなかった。絶対に答えが欲しいわけでもない。ただ、年中無休で働き続けた家電が事切れるような突然さで、いきなり現実世界へ連れ出されたことがやや不服ではあった。
 彼女と屋上以外の場所に来るのは初めてだ。何度も会っているはずなのに、見慣れた景色の中に立っているだけで、絵本の中から飛び出してきたような、奇妙なリアリティが絡みつく。
 実在する人物だったのか、とこっそり驚く自分がなんだか愉快に感じられて、彼女の瞳を見据えたまま、私は静かに目を細めた。
 張り合うように澄んだ視線が返ってくるが、やがて根負けしたのか、苦い笑みを浮かべて、彼女は元の場所に腰を下ろした。
 再び座れる場所がある、というのもまた、贅沢なことだな、とゆっくり目を閉じて、同じ速度でまぶたを持ち上げる。
「なんだろ。なんか、こういうときは海が定番かな、って思っただけ」
「ドラマとか、漫画とか?」
「ううん。私の個人的なアレ」
 アレ、とはまた頼りない。何を指しているのかもわからない。
 けれど、峰岸さんのときより不安を忘れているのは、なぜなのだろう。ほんの数時間前の出来事なのに、すでに何十年も経ってしまったかのような懐かしさと、胸のすくような心地があるのはどうしてなのか。
 目的の駅名がアナウンスされて、私たちは恐る恐る電車を降りる。構内図を見ても何が何やらわからず、とりあえず最寄りの出口から地上へと昇った。
 探るように辺りを見回すが、当然、見つかるものなどない。初めて訪れる場所でも、いや、だからこそ、あるはずもない、慣れ親しんだ何かを探さずにはいられない。
 地図を表示したスマートフォンを二人で覗き込み、見知らぬ街並みの中を歩いた。
 自分たち以外に人の気配はない。大げさに道路を照らす街灯や、わずかな客を待つコンビニの照明が、穏やかに研いだ空間をかえって際立たせる。
 歩道に濃く染みつく影が、私たちが歩く速さ合わせてゆっくりと成長し、また緩やかに縮んでいった。
 老いてはまた幼くなる黒を眺めているうちに、ふわ、と頬を撫でる風が、潮の匂いを増していく。
 あ、と明るい声と共に駆け出した彼女に続いて、私も歩幅を広げた。
 こちらとあちらを区切るチェーンをあっさりと跨ぎ、波の音だけを頼りに、ようやっと地面が途切れる場所に出た。このあたりは倉庫群のようで、人の気配はなく、錆びた水が垂れた跡の筋が、異様な不気味さを煽る。
「ここ、入ってよかったのかなあ」なんて、彼女は沈んだ声でこちらを振り返った。
「たぶん、ダメだと思うけど。そもそも、想像してた海と、ちょっと違うっていうか……」
「ね。普通こういうときって、砂浜じゃん。ワンチャン、防波堤のあるとこ」
 そうだよね、と二人で笑って、水平線があるだろうあたりを見つめる。漁港はないよねえ、と同時に苦笑してしまったのが、より可笑しかった。
「まあいいや。そういうのもアリでしょ。べつに、ルールとかあるわけじゃないし」
 自分でも驚くほど自然に、私は「うん」と頷いていた。喉を震わせた音が、残酷なほど冷え切った酸素の中で、頼りなくもしっかりと、唯一の熱を持って運ばれていくような。
「ナナさん、悲しいのもう平気?」
 何でもないふうを装って転がり落ちた疑問は、本人が気遣っているほどさりげなくはないだろう。彼女もわかっているはずだ。
 今度は意図して力強く、「うん」と再び顎を引く。百パーセント本当のことではないが、焦って取り繕うほど嘘でもない。少なくとも、「今すぐ死んでしまいたい」という気持ちはもう、息をひそめて眠っている。
「私ねえ」
 彼女はどうやら、自分の話をするのが苦手らしい。裏返る勢いで語尾を高く持ち上げて、不自然に海面を凝視する。
「ナナさんと初めて会った日、本当に死のうと思ってたんだよ」
「べつに、疑ってはなかったよ」
「でも、信じてもなかったでしょ」
 信じる信じない、の次元ではなく、私はど���らでもよかった。それは、私自身がどういうつもりで屋上へ通っていたのかがわからなかったから。
 自分が死んで悲しむ人の想像がしたいだけなのか、勢いのまま、本当に死んでしまっても構わなかったからなのか。
「兄がね、一人暮らしをしてるんだよね。今年の春から」
「お兄さん、今大学生だったよね」
「うん。ペットショップでバイトしててさあ。頑張ってるみたい」
「そうなんだ。行ったことあるの?」
「あはは、あるわけないじゃん」
 彼女は、何言ってるの、とでも言わんばかりに笑う。
 それでも私の胸中が静かで穏やかだったのは、その笑みがあまりにも弱々しく、ひどく傷ついているように思えたからだった。
「昔さ、兄がいじめられてるってわかったときにさ、言ったことがあるの。『カッコ悪い』とか、『いじめられてるほうにも原因があるよ』とか」
 弁解させてもらうと、なんて、さらに声のトーンを上げて、彼女は唐突に空を仰ぐ。
「そのとき、家の空気最悪で、お母さんもイライラしてて、居心地悪くて。『ああ、これが原因だったんだ』って、思っちゃったんだよね」
 うん、と相づちを打つことしかできない自分が歯がゆい。
 だが同時に、こうして話を聞いてあげることができる、と思えた。こんなふうに胸が高鳴るのは、いったいいつ以来だろう。
「だって、自分より辛い人が隣にいるから黙ってなきゃいけないって、そんなの。私は、私よりちょっとマシな人のところでしか、しんどいって言っちゃいけないってこと? 私もしんどかったんだけどって、言いたかった。私にだって、それなりに辛いことがあったよって。でも、それが最低なことだって、わかってる。謝って、兄は『俺のほうこそ悪かった』って、許してくれたけど、兄は悪くないし。私が酷いってことに変わりはないじゃん。だから、」
 だから、に続いたのは、ひどく震えた、長い溜息だった。
 いつか、彼女をいい人だと断言する私に、「そんなことないよ」と笑った彼女の「そんなこと」とは、一体何に対する言葉だったのだろう。
 つまらない話だ、と卑怯にも否定を待った私への優しさか、あるいは、善人をやり直す自身の浅ましさを嘆いたからなのか。
 それでね、と、渦巻く潮風に巻き込まれながら、彼女の弾んだ声が私の耳まで届く。
「『美澄ちゃんも大変だったね』って言ってくれたの、すごく嬉しくて、安心した。近くに私よりしんどい人がいたって、私が辛いことを隠さなくていいんだって、思ったって、いうか」
 そっか、と、声と吐息の間の空気が揺れる。
 手作りの無表情で、見えるはずのない水平線を眺める彼女の横顔に、私はようやく気が付いた。
 そうか、私は、私に許されたかったんだ。
 事実と違う記憶を縫い付けたのは、目隠しをしたのは、過ぎ去る春を素通りしたのは、私だ。
 溜息を、呼吸を、人間として胸を張って生きることを許してくれないのは、ほかの誰でもない、私だった。
 安曇さんの言葉に続く声は、本当にただの幻聴だ。どうしていつも、どうしてこうなるの、と「丸井奈々子」を咎めていたのは、私。
 助けられるかもしれない誰かの役に立てないこと、惜しまれるべき誰かが死んでいるのに、自分が生きていること。
 どれだけ罪悪感を覚えても、誰も咎めはしないし、だからこそ許してもくれない。それは冷たくて、寂しいことだけれど。
 どれだけ美澄ちゃんに受け入れられても、受け入れられなくても、私が「いいよ」と言わない限り、私は簡単に自分を責める。
 私が自分で、「丸井奈々子」を許してあげるしかない。
 ああ、もう十分だ。こんな、ありふれた物語のような一瞬が、自分の人生上に現れるなんて。
「丸井奈々子」が生きていく上で、過去もこれからも許していけるだけの、たった一つを手に入れた。
 そして、それと同じだけのものを、彼女に与えることができた。
 誰かの救いになった、ほんのささいなことだけれど。その、溜息一つで吹き飛んでしまうような頼りない誇りだけで、自分が産まれたときから死ぬ瞬間までを、永遠に尊いものだと思える気がした。
 誰かに肩を叩かれても、その自信だけを持って、図々しくも人間を続けられるんじゃないか、なんて。
 港で明日を出迎えた後、私たちは二人で終発電車に乗って帰った。
 駅までの道中、危うく警察に声をかけられるところだったが、制服の上から私の上着を被せてどうにか逃れることができた。
 ガラガラの席に寄り添って座り、思うんだけど、と前置きして、彼女は不満そうに唇を尖らせる。
「未成年の夜歩きを取り締まる前に、怪しい大人を片っ端から捕まえればいいのに。やめさせるべきは子供じゃなくて、大人のほうじゃない? 犯罪を、悪いことをさ、やる人を止めるほうが正しいよ」
 念入りに頭を撫でてあげたい衝動に駆られる。辛うじて、「やっぱり、美澄ちゃんはいい人だよ」と言うのは堪えたつもりだったが、思い過ごしだったかもしれない。
 何の取り繕いもない素直な口調は、緩やかに私の心を勇気づけた。
 翌日私は普通に職場へ行き、いや、本当は大いに暴れる心臓をなだめながら、一時間も早く出勤した。
 寝坊しないように、と徹夜したかいなく、地下鉄は普段通りの混雑具合であった。
 ただ、時間帯が変われば乗客が変わる。
 職場の最寄りから二つ手前の駅に近づいてきたとき、頭一つ分飛びぬけた金髪に気が付いた。
 微笑ましくたどたどしい発音で、「すみません、降ります」と片手を挙げた外国人。いかにも観光客、といった風貌の青年を咎めるように見つめる人間は、意外にも少なかった。
 なんでこんな、平日のラッシュ時に、という瞳がゼロではなかったことがまた不安で、同時に、慰められたような心強さもあった。
 まさか、さすがに誰もいないと思っていた部屋に安曇さんの姿を見つけたときには、ようやっと押さえつけたものが口からすべて零れ落ちてしまうかと身を強張らせた。
 彼女はぼんやりとした表情で花瓶の水を替えていたが、私の姿に気が付くなり、目をまん丸く見開いて駆け寄ってきた。
 ああ、安曇さんってこんな顔してたんだなあ、と、間の抜けたことをしみじみ思う。爪の色には詳しいのに、鼻筋がすっと通っていることだとか、右の目尻にほくろがあることだとか、今の今まで知らなかった。
 きっと単純に、私が知ろうとしていなかっただけだ。
「丸井さん、昨日、大丈夫だった?」
「あ、はい。あの」
「体調はもう平気?」
 どうやら、急な体調不良で早退したことにしてくれたらしかった。誰が、と問われれば、峰岸さんしか思い当らない。
 クビを覚悟して出勤したにも関わらず、予想外の労わりを貰って困惑するばかりだ。
「あの、えっとその、すみません、急に」
「うん。まあ、できれば私に直接言ってほしかったけど」
 ですよね、すみません、と安曇さんの視線から逃れるために、私は意味もなく部屋中の机を一つずつ観察していく。
「正直、峰岸さんと何かあったのかと思って、心配してたんだよ」
「え、あ、峰岸さん」
「あの人気分屋だから。いろいろ言うけど、アレとかソレとか、なんだかよくわからないんだよね。悪気はないんだろうけど」
「え、っと」
 始業前だからなのか、心なしか重たいまぶたの彼女は、いつもより表情が柔らかいように思えた。
 しかし、次の瞬間、「あ、ドアはちゃんと閉めてね。この間情報漏えいがどうのって通達来てたから」といつも通りの硬い声で目を逸らすものだから、またもよくわからなくなってくる。
 もしかしたら、マニュアルなんて、最初から誰にも配られていないのかもしれない。多数派の人間が胸を張っているだけで、初めから、こうしなければいけない、なんてルールはなかったのではないか。
 なんて、思ってはみるけれど。
 はあ、と大きく息を吐き出すことを、一度だけ自分に許す。咎める声はない。
 これは溜息ではなく、深呼吸だから、と言い聞かせた。
2018.02/白川ノベルズ Vol.5 掲載
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yoruno-gaiki · 4 years
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 結婚するにしろしないにしろ、男の子にしろ女の子にしろ、食べることは一生つきまとうので、いざ自分で作るとなると億劫でたまらなくなる。鼻唄まじりで出来ることと、辛気くさくてやりきれないこととは、歳月のなかで大きな差となって出るだろう。俎も包丁も買わず新婚家庭をはじめるカップルが多いというのは本当だろうか。  偉そうに書いたが、私自身省みて、母や祖母の時代をふりかえると、ずいぶんの手抜きだし、ひどく退化しているのを感じる。この頃よく祖母のことを思い出してしまう。  東北地方の片田舎のひとで、「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」があてはまるような、ひなびた里で、大家族を切りまわし、たべものすべてが自家製だった。胡麻豆腐はゴマを煎るところから始めて手間ひまかけて練りあげ、まったりと腰の強いもので、餡かけにして食べたが、あのおいしさは、どうがんばっても再現はできない。あれに比べると市販の胡麻豆腐は胡麻豆腐にあらず、由緒ある禅寺で食べたものも祖母の作品よりはるかに劣っていた。  なんの娯しみもない生涯にみえたが、大家族にいかに乏しい材料でおいしく食べさせるかに腐心し、四季おりおり星々の運行のごとく整然とめぐってい��食膳――あのなかにおのずからなる娯しみもあったのかもしれないと思う。  料理は化学実験のようでもあり、一種の錬金術のようでもあり、家事のなかで一番創造性を発揮できる場でもある。
茨木のり子「しっかりした味」、新川和江・吉原幸子編「現代詩 ラ・メール」第27号所収、書肆水族館、1990年、14―15ページ
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abcboiler · 4 years
Text
【黒バス】no day but today/只今日已ガ或
2017/01/29 発行コピー本web再録
明日も明日も明日も来ずとも
今日と今日と今日が在ります
   明日も明日も明日も死すとも
今日と今日と今日を逝きます
         「先生、センセ、どこにいるんですか」
「もう見つけている癖にわざとらしい。さっさと来い」
 四月の頭は春の狂乱。薄青い空は、桜花の気配を反射して柔らかく香る。春の季節は花よりも短い命だ。先生はこの季節が一等お好きなので、常日頃閉じこもる部屋から、この時ばかりは、あちらこちらへと、凧より不確かに、童より落ち着き無く彷徨っている。
 春。あらゆる芽生え。美しき目覚め。
「たまには、先生の方からお越し頂いても良いと思うんですけどね」
 サテ、どのようにあんな所へ登られたのかしらん、と丁寧に手入れされた庭をぐうるり見渡せば、咲き終えた桃の木の陰に梯子が立てかけられている。どれだけお誘いしても動こうとしない偏屈な男は、こんな時ばかり行動をするのでこちらとしても苦笑いを浮かべるより他に無い。初めて雪に出会った犬が、気でも違ったかのように走り回るように、初めての衝撃は人を狂わせるものだ。先生は、何年を過ぎても、春に初めて出会う獣だ。所々の釘に緑青が浮き出た屋根の上、黙ったまま遠吠えをする。
「先生、今月の原稿」
「そこにある」
 高台にある先生の屋敷の屋根からは、東京の平屋が見渡せる。えいやらこいやと屋根を登った功労者を労わることもなく、先生は眼下の街を指差した。否、指したのは、己の書斎の、黒檀の書斎机なのだろう。目を閉じるまでも無く、あの沈黙に包まれた部屋で沈黙を守る原稿が見えた。
「なんというか、これは、アレだ」
「なんだ」
「優秀過ぎてつまらないなあ」
 緑間先生が、〆切を過ぎたことは一度も無い。俺が先生附きになってから、本日まで。三度目の春を迎えても尚。
 何を馬鹿なことを、という目で先生は俺を見た。この国には珍しい、否否、恐らく唯一であろう、明るい若葉の瞳が俺を写して瞬きをする。それ以上言葉を接ぐのは億劫になったのか、先生は花に霞む橙色の街を見ながら呟いた。
 春は五月蝿いな。春ばかりは、こうも五月蝿い。
   *
「なんと言いますか、編集になったら、というか、他の輩はね、先生の原稿を追っかけ東奔西走、京都の旅館で芸妓さんと戯れてる所をとっ捕まえ、陸奥の炉利端で魚焼いてる所をとっ捕まえ、浅草で芸妓と戯れ等してるのをとっ捕まえね、必死に連れ戻しちゃあ見張って、追い立て、原稿を取り立てているんですよ」
「芸妓ばかりか」
「そうですね、真ちゃん以外はね」
 半時ほど屋根の上で黙りこくっていた先生は、突如立ち上がると俺に一言も告げずに、その大きな身体に見合わぬ機敏な動作でひょういひょいと梯子を降りて屋敷の中へ戻っていってしまった。慌てて追いかければ、台所でじいっと鉄瓶を沸かしている。思考の一つもその原動力も解らないけれど、何故だか先生の原稿だけは西洋の錬金術かと紛うばかりの不可解さでもって、〆切までに現れている。そうしてまた、尚の事不可思議を極めることに、この原稿がまた読みやすく、人の情緒に潜り込むのである。
「その呼び方はやめろと何度も言っているだろう、高尾」
「はいはい」
 実際の生活に於いて、人の心など微塵も解するつもりの無い先生は、二人分沸いた湯でもって、己の分の茶だけを点てた。矢張りその侭、俺を無視して部屋へ戻るので、こちらも此の呼び方を変えるつもりはない。というのも、元はと云えば、冬だから酔わねば為らぬ、付き合えと突如言い出した先生が、存分にしこたま酒を喰らい、湯水のように酒を煽り、泥酔の挙句、飲んだ酒の分だけ語り、笑い、己でこの愛嬌ある呼び名を漏らしたのが悪いのである。
 高尾、お前は己がまだ罪悪に目覚めていなかった頃を覚えているか。幼い頃? それは幾つだ? 五つか六つ? 馬鹿を言うものじゃない。子供など罪悪の根源なのだよ。悪辣の化身よ。それより以前だ。尤も最たる無罪は生まれた瞬間だ。その時だけが赦されている。はは、ははは、俺もその頃は、先生等という、何者でも無い呼び名など無かったが、ふん、今や名前に意味など無いな。お前もそうだろう? お前の名前は『文芸青い森』氏だろう。人など、どうせ記号と象徴に消えて逝くだけだ。足掻いてもがいて縋らなくては、己の名前など、母しか知らん物になる。何だ其の顔は。俺にも母くらい居るに決まっているだろう。お前は珠に俺を神か悪魔かと勘違いしている。母だけが俺の名前を知っている。ははは、真ちゃんとしか呼ばれなかったがな。ははははは。笑い声は母の連なりだ。はははは。
 翌日、記憶を無くさなかった真ちゃんが、悪鬼も裸足で逃げ出す形相で、昨晩は忘れろと迫ってきたのも懐かしい。
「真ちゃんは面白いなあ」
「そうか。お前は大概失礼な奴なのだよ」
 曲がりなりにも、文士と編集という関係で、そこまで砕ける奴がいるか、と、そう言いながら真ちゃんは原稿を投げて寄越す。俺の無作法を許容しているのだから、なかなかどうして、そちらも同じ穴の狢と思う。原稿の枚数だけを確認して鞄にしまいこんだ。まだ日にちは有るので、ゆっくり線を引けば良い。つくづく、人間性は置いておいて、優秀すぎる男だった。
「そもそも、文を書くため文を書き、文に殉じて文士になったのに、何故書かない? その時点で理解に苦しむな」
「学生になったからって、勉学に励む奴ばかりとは限らないでしょ?」
「ああ。確かに居るな。ふむ、懐かしい。赤司なんかは、貴方達に教わることなど無いと、教授を片端から論破して、後は圖書館に引き篭るか、どこかへ流れてばかりいたし」
「そうじゃあない。そんな飛び出した奴のことじゃない」
 赤司といえば、恐ろしく有名な華族の一派だと思うが、まさかそこの嫡子のことではないだろう。先の戦争でいち早く物流に目を付けて、いざ火薬が飛び交う頃には全ての武器から薬剤、食料、布、それらの元締めを押さえていたという恐ろしい先見の一族。緑間という苗字も相当名の知れた家であることは間違いないのだが、赤司と繋がりがあるというのなら、それは兵器と身内ということだ。その経歴から只者ではないことは知っていたが、この男は想定を簡単に超える。
「そもそも、何故、作家になぞなろうと思ったかね」
「何度も話しただろう。生きる意味だ」
「何度も聞いたけど、全く解りませんね」
「わからなくていい。お前とは考え方が違う。お前もそう思っているのなら、お前は作家になっている」
 高尾、俺はな、人として生まれたからには、何かを残さねばならないと信じているのだよ、と真ちゃんは説く。何かを生まねば、生まれてきた甲斐が無い、と。
「俺は、今しか信じない」
 此処に存在するものが全てで、此処で己が感じたものが全てで、それ以外は存在していないのだと。故にその存在を残すのが、己が役目だと彼は信じている。
「未来などなくていい。永遠に訪れないものになど興味は無い。俺は今生きていればそれでいい。今、生きているのだから、人として生きた証を残せればそれでいい。それが、俺が死んだ未来も残るというのなら面白い。それだけだ」
「そんな生き方、苦しくねえの」
「明日は死ぬかもしれないが、昨日は既に夜かもしれないが、何、どうせ生きるのは今日だけなのだよ。何を気負うことがある」
 縁側で茶をすする姿は、一見して平穏の象徴のようだ。陽射しが反射して黄金に降り注ぐ庭は赤詰草が地面を覆い尽くし、小さな丸い花を細かくつけている。桃の木の下には薄紫の碇草、垣通。黄色い鬼田平子は縁側から飛び出すように伸びているし、廂の下には烏柄杓が弦を巻いている。
 春は目覚めで、春は狂乱だ。緑に埋もれて、緑の人は、静かに目を細めている。その中身が烈火よりも尚熱いことを、どれほどが知るだろう。迂闊に触れれば火傷どころか、その覚悟の前に骨から燃やし尽くされることを。
「…………それじゃあ今回も完璧な完成原稿をありがとうございました」
「はい、お粗末さまでした」
「今、何を考えてるの?」
「春は五月蝿いなということを」
 この五月蝿さは、どうすれば伝わるのだろうな、という真ちゃんの目には、静寂ばかりが見える。
   *
「仕事を寄越せ」
「先生が仕事人すぎて俺は本当に怖い」
 一週間ぶりに真ちゃんの書斎を訪れれば、原稿用紙およそ三百枚の束を押し付けられながら、淡々とそんなことを言われるので思わず頬が引き攣るのを感じる。物量はそのまま圧力である。質量保存は精神に及ぶ。たった二枚半の書評を書くのに三ヶ月先延ばしにしている作家もいる中で、この男は一週間でこれを書き上げ、次を求める。先生の全集の編集作業だけはやりたくない。
「っていうか、そもそも俺、こんな原稿依頼してたっけ」
「自主的に書いただけだ」
「嘘だろ」
「別に載せろというつもりはない。が、一応渡しておく」
「『春について』か。まんまだね」
「己でまとめられそうに無いから三百で書いた。捨ててもいいし、どこぞの穴埋めにしても良い。使う時の許可もいらん。ただ、使うなら半分は削れ。この話に三百は無駄だ。削る場所はお前が決めていい」
「珍しいね、真ちゃんが最後を人に任せるなんて」
「まだ俺には早かったんだろうな」
 欠伸をしている所を見ると、どうやら完成したばかりらしい。人間として規則正しい生活が最も原稿を進めるのに適していると信じているこの人は、朝は必ず六時に目覚め、夜は十一時に床につく。お役所の方だって、ここまで時計に忠実には動くまいという正確さだ。ただし、どうも先生の中では、最終の区切れ目があるらしく、その一線を超えると、後は書き終えるまで一睡もしない。それが例え残り三枚であろうが、五十枚であろうが、関係なく。それはただ彼の心の中にのみ存在する線であるので、俺から調節することは不可能だ。今回は、どうやらその線を随分と早く踏み越えたようだった。
 興味本位でぱらぱらと原稿をめくるが、几帳面な文字が整然と並び、所々自身で入れている赤ですら、列を成して整っている。いつも通りの、緑間先生の完成稿である。性分とはいっても、これはあまりに厳格が過ぎる。
「真ちゃんの原稿、誤字脱字なぞは勿論あるけどさ、全部自分で赤入れてあるから、それ以外の、つまり、真ちゃんも気づいていない誤字、一度として、見つけられたことが無いんだよなあ」
「当たり前だ。読み直した時に気がつくだろう」
「普通は見落とすんだよ。普通はね」
 この、自主的に書いたという、いうなれば仕事でも何でもない手遊びの原稿だって、どうせ一文字も狂いが無いに決まっているのだった。
 とはいえど、俺の担当している文芸でこれ以上真ちゃんの頁を増やした日には、雑誌の名前を『月間緑間』に変える必要が出てしまう。一度も原稿を落とさないから、重宝されているのだ。重宝しすぎた。一人だけ、連載のように一定の頁を持っているから、完全にうちの紙面は緑間で成り立っている。成り立ちすぎて、緑間専用誌にならぬように編集長まで確認しているくらいなのだ。どこか別の所で、今月穴を開けそうな所はあったかと皮算用している俺に、真ちゃんは淡々と繰り返した。それで、仕事はないか。
「真ちゃん、うちで長期の連載もあるし、随筆も持ってるし、他誌でも連載してるし、珠に寄稿なんかもして、若手の同人の書評もしてるでしょう」
「別にそれくらいだろう」
「それのどこがそれくらいなのか教えてくれ」
 間違いなく、今、真ちゃん以上に書いている輩などいない。あまりに節操なしに手当たり次第に書くものだから、批判的な所からは「飢えたハイエナ」「そこにあるものは全て食らおうとする卑しさが見える」とか好き勝手言われているほどである。実際は超上流階級特権階級育ちの、血統でいうならこの日本でも十には入る一族の嫡男なのだが。
「書かせろ。何でもいい」
 確かにこの欲求は、そう評されても仕方が無い程過激である。というより、そんな事を適当に並べ立てる彼らの中の誰も、緑間真太郎がここまでの基地外じみた文字狂いとは思っていないだろう。文字を食らって、文字を吐いて呼吸しているような人だ。その姿勢を知っているひと握りは、こと緑間真太郎に対しては口をつぐむ。触れたくないのだ。その真摯さは、その一途すぎる情熱は、少しでもその道に足を踏み入れたことがある者からすれば恐怖の対象である。
「真ちゃんは、もう少しばかり、遊びっていうものを覚えてもいいんじゃないの?」
「遊び?」
「うーん、座敷遊びとか」
「お前、経費で行きたいだけだろう」
「そんなことありませんよ」
 本当だ。真ちゃんと一緒にそこに行って、面白いとは思えない。いいや、綺麗な人の形をした花に囲まれて、ずっと物騒な顔をしているこの男を見るのは面白いかもしれないが、それは花遊びではないのだ。どうせなら俺は花を愛でたい。日向の庭に咲く小さな明かりではなく、夜の行灯の下で賑やかに艶やかに咲く方をね。まかり間違っても、この男ではない。
 この男を見るのは楽しいが、夜の花と一緒に愛でる、ものでは、無い。
「興味が無いな。そんなことに時間を割くなら、一文字でも多く書くし、一つでも多く学ぶだけだ」
「でも、世界が広がるかもよ?」
「何だと?」
 今まで全く反応を示さなかった真ちゃんは、ぴくり、と眉をあげた。この男は、兎角、視野だとか世界だとかの広さを気にする。見えなければ書けない、俺は見たことが無いものを書く事はできない、というのが口癖だ。そもそも、俺がこの偏屈に最初に認められたのも、俺の視野の広さによるものなのだから。徹底しているといえば徹底している。
「そういった、遊びだとかに興味が無いって云うのはさ、其れ等のものに命を賭けている人や、それに関わる物事を無視してるってことだろう? 人間の命題の一つとして、堕落だって書かないといけないんじゃあないの?」
「もう堕落を題材にした話は書いたのだよ」
「そうでした」
 半年前の原稿を思い出して肩を落とす。あらゆる堕落の果てに辿りついた人生のどん底で、男が周囲を恨み妬みながら、次第にその気力すら無くしていく話。最後は真冬の酒場の前で、真っ白な雪に埋もれて息絶える。読んでいるだけで、こんな人間の屑がいるものかと呆れ果てたし、其の男と己の共通点を、読み進めるほどに見つけ出してしまって苦しくなっていった記憶。
「何で真ちゃんは或れが書けたんだ……」
「周囲に堕落している人間が多かったからな」
 見たことがあるものは書けると言っているだろう、という真ちゃんは、何を思っているのだか、暫く難しい顔で考え込んでいた。
「しかし、お前の言うことも一理ある」
「お?」
「そういった遊びも、知識として必要なのかもしれん」
「いいねいいね」
「黄瀬にでも連絡をとって」
「却下」
 突然出てきた名前に慄きながら、俺は咄嗟に真ちゃんの肩を掴んだ。不満げな顔が俺を見下ろすが、今、俺はお前の心の大事な、こう、柔らかい部分を守ろうとしているのだ。少女が一人物騒な夜道を歩こうとするのを引き止めるのと同じ理である。そんな顔をされる筋合いは無い。
「黄瀬クンは止めよう」
「何故」
「何で先生は突然そう、段階をすっとばすかな!」
「こと遊興にかけて、あいつに適う者はいないだろう」
「いないよ。いませんけどね? いきなり上級者の最高級品にいってどうするのって話」
「どうせなら最高のものを体験したほうがいいに決まっているだろう?」
「先生は本当に頭が良いのか、俺は突然わからなくなる」
 黄瀬といえば今、帝国劇場で押しも押されぬ一の役者だが、その分、女遊びも派手なことで有名だ。というより、女の方から寄っては散り、寄っては散りしているのだろう。一度だけ、真ちゃんに連れて行かれて楽屋まで行ったが、あれは他人に興味など全くない類の人種だった。というより、懐いた人間以外、全て同じに見える、という、素直すぎる男である。この世は好きか無関心。
 あらゆる人間の細かな差異に、いちいち目くじらを立て腹を立て、文句を言うような真ちゃんとは真逆に位置しているのだろう。故に、思考は合わないが相性は良い。好かれた人間にのみ構って欲しがる男と、誰にでも平等に構うが、一見ではその意味に気がつけない男。
 だからこそ、黄瀬は、誰彼構わず、請われるがままに適当に相手をし、そして何彼問わず、適当に流してあらゆるものをやってのけるのだ。そんな男に任せたら、間違いなく戻って来られないような世界に案内される。それも善意で。黄瀬にできるあらゆる接待で歓待するのだろう。
「高尾?」
「赤司といい黄瀬といい、どうして他者巻き込み破滅型の人間が真ちゃんの周りには多いんだ……? 普通作家自身がそうであるものじゃないのか……? それともやっぱり真ちゃんが実は破滅型で、類は友を呼んで……?」
「高尾、聞いているのか」
「はい、すみませんなんでしょう」
「それならお前が連れて行ってくれるのか?」
「はい?」
「お前もなかなか遊び慣れていそうではある」
「何ソレ。真ちゃん、そんな風に俺のこと思ってたの?」
「違うのか?」
「若い頃は色々やりました」
「だろうと思っていたのだよ」
 黄瀬と比べるべくもないが、しかし周りと比べれば、どうだろう、なかなか俺も堕落した人生を過ごしていたことには違いなかった。金になるならと闇まがいのこともしたし、その辺の店で得体の知れぬ使いっぱしりをしたり、野菜をかっぱらったり、適当な女の家に厄介になったり、まあ、それなりに。嗜みとして。
「俺は若い頃に何もできなかったからな」
 そう、しみじみと漏らす真ちゃんは、まるでもう寿命を終えるような口ぶりで話す。まだ二十も半ば、男の盛だというのに。まだ世間では若いと言われるような歳で、真ちゃんが振り返る過去は学生の頃のことなのだろう。
「家のことだけだ。言われるがままに言われたことをこなしただけだった。俺自身のものなど何も無い」
「それも十分立派だと思うけどね」
「そうだな。悪くない。それは決して悪いことではない。俺は赤司の生き方を否定はしない。家を守り、家に殉じ、家を遺す生き方は誠実であるだろう。だが俺は我が儘なのだよ」
「存じ上げていますけどね」
「俺が遺したかったのは緑間の家ではなく、『緑間真太郎』という存在だったからな。フン、ついぞ理解されなかったが、仕方が無い。誰も間違っていないのならば、そこにはただ違いが残るだけだ」
「しかしまあ、よく出してもらえたよな」
「というより、作家になると言ったら絶縁されたからな、なんとも気楽な自由の身なのだよ。最高だ」
「最高とか言うなよ。周囲から見たら驚きの凋落だわ」
「そうか? 誰だって自由には憧れるものだろう? 俺ほど羨ましがられる人間は他にいるまい」
「その自信も凄いけどね」
 それで、お前はどこに連れて行ってくれるんだ、と言う真ちゃんの中で、もうどこかへ遊びに連れて行かれることは確定しているらしい。何で俺が、と思わなくもないが、何せ言いだしっぺが此方なので、何とも断りにくかった。かといって、彼と花街には行きたくない。絶対に。絶対にだ。ならば残る選択肢は少なかった。
「……すき焼きでも食べに行く?」
「すき焼き」
「食べたことある? 流行りだして店も増えているけど」
「無い。うまいのか」
「まあ、うまいね。牛肉をね、こう、甘っからく煮て、そこに生卵をかけてね、白米かなんかと一緒にかっこむの」
「行く」
「先生は、案外、食に対して貪欲だよなあ」
   *
 最近は晴れてばかりの陽気だから、地面は乾いて歩きやすい。乾きすぎて土煙が上がっているくらいだ。真ちゃんは歩く時、あまり音を立てないが、そのあまりに高い上背と、緑の出で立ちは人目を引く。俺も背は高い方だけれど、真ちゃんの隣では子供のようだ。
 人目を引くから外に出たくない訳ではなく、単純に不精なだけの真ちゃんは、先程からすれ違う女生徒達の一種の欲を秘めた瞳にも全く気がつかないらしい。やれやれ。どれだけ若くても女は女。そして朴念仁は朴念仁らしかった。
「真ちゃんは、だれかとお見合いとかしないの」
「何故見合いなんだ」
「真ちゃんが自主的に自ずから恋に落ちると思えない」
「失礼だな」
「恋に落ちるの?」
「女とそんな関係になったことはないな」
 あっさりとそんなことを言ってのける、この男の作品の中には、男女間の恋愛を描いたものもそれなりにあった筈だが、当の本人はこの言い草だ。恋は目に見えない。彼にとって、堕落を知るのが周囲の人間を介してであるように、恋愛も、周囲を介して学んでいるのだろう。
 あまりにも人間としては不適当だが、それが文壇にて脚光を浴びるのだから世も末である。
「しかしまあ、見合いも無いな。家からはもう一切の連絡が来ないし、たいした関係も無い輩から持ってこられても断るだけだ。かといって、世話になった人からそういった話が来るとも思わんしな」
「何で」
「お前は、見合いの相手とし���俺を紹介したいと思うか」
「思わない」
「そういうことだ」
それは自分で言って悲しくなりやしませんか、と思うのだが、真ちゃんからすれば、それはただの事実、の一言らしい。客観が過ぎるのも考え物だと思う。簡単に言えば、可愛げがない。指摘されて慌てふためく姿に人は愛嬌を覚えるのであって、開き直られたのでは腹が立つだけである。彼は圧倒的に後者だった。それも、特別に質が悪い。
「真ちゃんが誰かとお見合いなんてすることになったら、真っ先に教えてくれよ」
「何故」
「真ちゃんの悪口を百個くらい言って、期待の度合いを下げておいてあげるからさ」
「迷惑極まりないな」
花の香りと砂交じりの風に巻かれながら辿り着いたのは、最近このあたりにできたばかりのすき焼き屋。幟が風にはためいて、白く抜かれた文字が裏返っている。
 俺の隣にいた真ちゃんは、「ここだよ」と指し示す俺を追い抜かすように暖簾をくぐりながら、
「そもそも俺は、女に対してそういった欲求を抱いたことがない」
「え?」
 そんな意味深長なことを言って俺を困惑させるのだった。
 暖簾は紺で、緑はとっくに女中の案内を受けている。
   *
「うまい」
「良かった」
「これは良いな。良いものが来た。良いものが現れた。これは残るぞ。これは残る」
「意外だな。真ちゃんは、こういうハイカラな物は嫌いだと思ってたけどね」
「嫌いなことがあるものか。新しいというのは、それだけで意味があることだ」
 すき焼きが出てきた瞬間、眼鏡の奥の瞳がきらめいたと思えば、そこからは一言も喋らず淡々と箸を進めるだけだったので、これは気に入ったのだろうなあと眺めていたら、締めの雑炊まで食べ終わって、真ちゃんはやっと満足げな息を漏らした。そしてこの言いざまである。どうやら相当に、お気に召したことは間違いなかった。
「あんまり、新しいものが好きっていう印象は持っていなかったけど」
「新しい文化はいつだって迫害される。迫害され、追いやられ、蹴落とされても残ったものは本物だ。ただそれを待てばいい。自ら追いかけるほど暇ではない」
 本物は残る。本物はいずれ耳に届く。お前が俺をこの店に連れてきたようにな、と続ける姿は、堂々としていていっそ小憎らしい。俺が一度ここに来ていて、ここなら出汁も効いているし、真ちゃんも好きだろうなあと、思ったことまで見透かされているようで猶更である。
「それにしても、そんなに新しいものに興味はないだろ」
「ただ、俺は新しいものに自分の調子を崩されるのが嫌いなだけなのだよ」
「それって結局嫌いなんじゃん」
「そうかもな」
 新しくなくなればいいのだから、時は偉大なのだよ、と言う、真ちゃんは手元に運ばれてきた茶碗を確認している。藤色に瑪瑙のような緑色。今までこんな色の茶碗を見たことは無かったけれど、これも西洋の文化と共に流れてきたのだろう。まるで俺の考えていることがわかるかのように、真ちゃんは呟く。新しいな。これは新しいものだ。
「新しいものがどんどん流入してくる」
「そうね」
「悪いことではない。ことここにいたって、日本の遅れは目に余る。日清で勝ったからといって、この浮かれ様はなんだろうな。皆、心の奥にある不安を、黙って見過ごすこともできず、話を恐れて、綺麗に話題を避けた結果がこれだ。戦に勝った。日本は選ばれた。馬鹿馬鹿しい。一時の盛況は未来の浪費だ。自分の意見が無いというのは、迷惑をかけないという意味ではない。むしろ真逆だ。全ての罪悪は相手由来になる。新しいものを手にしなければ時代に取り残されるが、ただ流すのでは、いずれどこかでしっぺ返しを食う。それだけのことなのだよ」
「次の話の題はそれ?」
「『古き悪しきもの、新しき良きもの、愚か者』か? 語られ尽くしたという感は強いがな」
 すき焼きの話から、また真ちゃんの好きな原稿の話になってしまった。なってしまったというか、俺がそうさせてしまった。どうもつい、俺は彼の仕事癖に呆れている反面、先生にはこうであって欲しいという気持ちがある。どうしても。書いていて欲しい。何もかも。全て。
   *
「それで真ちゃん、すき焼きで何か学べた?」
「うまかったな」
「真ちゃん結局それしか感想言ってないけど」
「何だ? あそこのすき焼きの店でエッセイでも書けと? それならばそうと言え」
「違う。何で先生にそんな大衆雑誌の穴埋めみたいなもの書かせないといけないの」
「大衆誌は偉大だろう。結局、聖書を除けば一番読まれているのは新聞なのだから。大衆こそ国で、大衆こそ世界だ。大衆向けに作られているものは強い」
 何だかんだと食後のお茶までして、真ちゃんの家へと戻る道は、もう夕暮れの終わりだった。空は赤紫と濃紺の間で、複雑に折り重なっている。太陽はいくつもの細かい線になって、折り重なり絡み合い、木々の隙間を通り抜ける。家々は、夜より一足早く、軒先に行灯を下げていた。がらがらと、手水の水を捨てる音。豆腐屋の喇叭がどこかから木霊して、小石が小さく反射している。
 あたりが丸くぼんやりと光る中を、男二人でぽちりぽちりと歩いていく。
「そういえば、官能小説のようなものには、手を出していなかったな」
「何を突然」
「お前が言ったのだろう。花街に行くのも勉強だと。お前の所に、これ以上俺の話を載せるのは、紙幅の関係上無理であろうことは分かるし、他誌にも限界がある。しかし、俺はその分野には一切手を出していないからな。参入の余地はあるだろう?」
「何でそこに参入の余地を見出したんですかね」
 まるでさも名案を思いついたと言わんばかりの顔で、密やかに頷くものだから脱力してしまう。参入の余地があっても、入るべきでない場所は沢山ある。
 貴方は麻薬の密売の人手が足りないからといって薬を売りさばくだろうか? いや、別に官能小説が麻薬と言っている訳では無いけれど。けれど似たようなものだろう。
「今日は行かなかったが、次回、行ってもいいかもしれん」
「何でいきなりそんな乗り気なんですか」
「食欲性欲睡眠欲は、人類の三大欲求だろう。人類から性欲が無くなれば、それは滅びの時だ。逆に、性欲について傑作が書ければ、それは永遠になるのではないか?」
「先生は本当に馬鹿だなあ」
「何だと」
 鼻白んだ様子で真ちゃんが俺の顔を見やった時、丁度真ちゃんは屋敷の門を開けようとしていた。夜は徐々に深まっているとはいえ、まだ宵の始まりだ。行こうと思えばこれからだって、街にもう一度繰り出せるだろう。繰り出せる。俺たちは遊興に行けるだろう。
「嫌です」
「何故。遊べと言ったのはお前だろう」
「否、そうだけど、然様ですけど、真ちゃんと行っても、楽しくなさそうだし」
「別に、お前は帰るか、別の店にでも行くかすればいいだろう。というより、同じ場所にいることは無いと思うが」
「いやいや、それでも」
 真ちゃんと一緒に行って、真ちゃんを、見るのは、面白いだろうと、思う。思うが、俺は、どうせなら花を愛でたい。日向の庭に咲く小さな明かりではなく、夜の行灯の下で賑やかに艶やかに咲く方を。まかり間違っても、此の男ではない。此の、人では、無い。
「俺、先生のこと好きなんですよ」
「そうか」
 此の人では、無いと思うのに、此の人が、女を抱いている所を想像したく無かった。それが嫉妬でなくば何だろう。
この様な形で自覚をするのは、自分としても御免被りたかったのだが、しかし己の思うままに己が動いてくれるのならば、人が過ちを犯すことなど無いのだった。
「だから、先生のこと連れて行きたくないです」
「そうか」
 俺は此の人に世界を見て欲しいと望むが、その世界に俺がいないことが耐え難い。其の我が儘な感情を、俺は知っている。恋だ。これは紛うこと無き愚かな恋だ。周囲を巻き込んで、破滅していく、はた迷惑な恋なのだ。
「……それで、何だ高尾その顔は」
「なんか、思いのほかあっさりと受け入れられてびっくりしてる顔ですね」
「何を言う。お前は俺をどんな朴念仁だと思っているのか知らんが、曲がりなりにも作家だぞ。人の気持ちが繊細なものであることはわかっている」
「真ちゃん……」
 淡々と告げる瞳に、侮蔑や嫌悪は見えない。本当に、真ちゃんは気にしていないのだろう。周囲が暗くなっていく中、まだ明かりを灯さない緑間宅の前は一層と暗い。ただ緑の光だけが、爛爛と輝いている。
「此れはあれだろう? 俺がお前からの告白を勘違いした所、『友達としてに決まっている』と言われ、恥ずかしい思いをするという」
「ちげえよ馬鹿! お前に期待したのが馬鹿だった! っていうか逆だろそれ!」
「はあ?」
 真ちゃんは突然罵倒されて意味がわからないのか、一人で首を傾げているが、俺からすればその思考がわからない。何故だ。今のは話の流れでわかるだろう。返す返すも、何故ここまで人の心が読めない男が、作家などをやって��るのか理解に苦しむ。
 その作品に雷鳴を撃たれ、こうして編集にまでなって追いかけている俺だって、他所から見れば、理解に苦しむのだろうけれど。
「恋愛として! 好きだって言ってんの!」
「は?」
 これだけ直截的に伝えているにも関わらず、全く理解が追いついていない様子なので、却って此方の方が落ち着いてきてしまった。開け放たれた門を挟んで、一人と一人。
「もういっかい言います?」
「頼む」
「恋愛的に、恋愛として、性的欲求の対象として、真ちゃんが好きです。だから真ちゃんを花街に連れて行くのは嫌なのでお断りします」
 しばしの沈黙。これは間違えたかと思ったけれど、真ちゃんは体中の錆び付いた螺子をぎしぎしと動かして、掠れた声で呟いた。
「帰れ」
「え?」
「かえれ。かえれかえれかえれ」
 門が唸りをあげて、あらゆる軋みを訴えながら勢いよく閉じられる。がしゃん、という音が地球の裏まで響き渡って、俺は少しはみ出していた脚を強く打ち付ける羽目になった。脛である。人体の急所である。
「原稿は来週の水曜日には仕上げておく!」
 その叫びは、家の中へと走り込みながら発されたのであろう。俺が顔をあげた時に、後に残るは舞い上がった砂と哀れな男、則ち、俺のみであった。
「逃げ足、早すぎるだろ……」
 ああ言われてしまえば、俺は来週の水曜以降に訪れることしかできない。基本的に、困難には拳で立ち向かっていくような男だと思っていたのだけれど、流石に同性に告白されて、尚立ち向かうことは出来なかったか。
 しかしそれにしても、ハテ、「俺がお前の告白を勘違いする」というのは、どういう意味なのだろう。
 勘違いの仕様が、無いではないか。勘違いする筈が無いのである。何故って、「高尾和成が緑間真太郎のことを友情として好きである」或いは「恋愛として好きである」のどちらの解釈をしたとしても、それを「勘違い」と、真ちゃんが思う筈が無いのだ。「『高尾和成が緑間真太郎を恋愛として好きである』という『勘違い』をしてしまう」ためには、それには、つまり、真ちゃんが、俺のことを、好きでなくては、いけないじゃないか。そうでなくては成立しない。己の内に秘めた恋心に、迂闊に触れられそうになった時、「勘違いしてはいけない」と、人は己を守るのだろう。
 真ちゃんが、俺のことを好きで、好きだから、俺からの告白を「これは友情の告白なのだから勘違いしてはいけない」と解釈したの、だと、すれば。
「ええ……」
 顔が、���から段階を踏んで熱くなっていく。今すぐこの門を乗り越えて会いに行きたいのだけれど、恐らくそんなことをすればあの先生は本当に拳で殴ってくるに違いないので、此度は大人しく退散するより他に無い。
    *
「二科展に行く」
「珍しい」
「どうしても野暮用でな」
 覚悟をして出向いた水曜日、出不精である筈の男が珍しく外套などを着て、今にも発たんや、と謂わんばかりの出で立ちで門を開けてくるので、すわこれはまた逃げられるのか、と思いきや、どうやら本当に用事らしい。珍しい。
「紫原の作品が出ているらしい」
「紫原ってあの?」
「あのがどのかは知らないが、そうなんじゃないか」
 紫原といえば、これもまた古くからある名家の一つである。一つであるが、最近はそこの嫡男が、春季賞を二期連続で受賞したと新聞に載り、そちらの方が有名である。
「俺の家の茶器は全てあいつのものだぞ」
「やめてやめて知りたくありません。俺、普通に脚で押したりしていた」
「茶菓子が好きだったから、それが高じてそこまで行き着いたらしいが、詳細は知らん」
「知らないのかよ」
「黄瀬と青峰が話をしていたのを聞いただけだからな」
「今、日本国軍陸軍長官の家名が聞こえた気がするのは無視させて頂きますよ俺は」
 玄関先の立ち話で、出すような名前では無い。つくづく、目の前の男は、圧倒的な権力の知己が多過ぎる。数える程しか友人などいない癖に。
「真ちゃんの交友関係が恐ろしいのだよな、俺は」
「そうか?」
「あらゆる世界のトップと繋がっているだろう」
「腐れ縁だ」
「腐れ縁って」
「初等部の時に同じ組だった」
「恐ろしい場所だなそれは」
 別に、五歳だか六歳だかの子供に、何が出来たということも無いのだよ。肩をすくめながら、真ちゃんは奥の書斎へと消えていく。原稿は案の定仕上がっているらしい。このままここで待ちぼうけても良いのだが、何とはなしに落ち着かず、後を追いかけて書斎へ入った。途端、投げて寄越された原稿用紙の束。
「『改題、春の目覚め』?」
「以前お前に『春について』を渡しただろう。まだどこにも出していないな? あれは捨てておけ。こちらに差し替えろ。書き直した」
「あゝ、自分で削ったのか」
「そうだな、それに、少々足した」
 以前の原稿は既に下読みを終えてあるが、半分削るというのはそう簡単に出来る作業でもなく、未だどこにも出されず俺の机に眠っている。最初の数ページを読めば、出だしから既に変わっていたので、これは削ったというよりほぼ書き直しに近いのであろう。
「今回の原稿」
「何だ」
「珍しく、こう、表現が柔らかいというか、迷っているというか、これはこれで人間味があって俺は好きなんだけど、真ちゃんらしくないというか」
「五月蝿い」
「これってもしかして俺のせい?」
「五月蝿いと言っている」
 俺を無理矢理押しのけて、真ちゃんは出かけようとする。構いはしない。どうせこの家に戻ってくるのだろうし、緑間真太郎は書かずにはいられない。それを載せるのは俺の仕事だ。けれどしかしまあ、成程。知っていなければ書けないと、真ちゃんは何度も繰り返し言っていたが、他人から聞いていたものが、いざ自分のものとなると、文章はここまで変わるものだろうか。
「認めちゃいなよ。俺のこと好きでしょ、先生」
「うるさいうるさい黙れ死ね」
 春はうるさい、と真ちゃんは叫ぶ。もう既に桜は殆ど散り終えて、木には濃い紅の萼を残すばかりだ。それでも空気は柔らかく、庭の雑草は軒並み空に向かって体を伸ばしている。春。春。この世の春。
「世界も広がるんじゃないの。今までに無い恋愛体験、禁断の恋、参入の余地が」
「…………それでどういう話を書けというんだ」
「ううん、そうだなあ。お話にするなら悲恋? 考えようによってはね、相当の悲劇を演じられるとは思うけど」
「周囲に理解されず心中?」
「そうそう、そんなの」
「つまらないな。つまらない話だ。そんなもの」
「ありゃ」
 ばっさりと、切って捨てられ俺は思わず笑ってしまう。まあ、己の告白を悲恋に昇華しろというのもノンセンスな話ではあった。門を開けば、悲劇など起こりそうに無い、春の一途。
「俺はな、人間が強いという話を書きたいのだよ。どれだけ脆かろうが弱かろうが、最後には立ち上がり、己が道を掴むという話だ。俺はそれが好きだ」
「俺には好きって言ってくれない癖に」
「馬鹿だな。たった今、お前が好きだと言ったのに」
 読解力を養った方が良いんじゃないか、とおもしろそうに笑って、真ちゃんは俺を置き去りに、馬車を呼び止めて乗り込んでいってしまった。滝のような言葉に、俺はただ呆然と立ち尽くしている。春が五月蝿いと文句を言っていた男は、それこそ、その象徴のような嵐であった。
 門の内側に取り残された俺は、彼が帰ってくるまで、良い子に留守番などしていないといけないのだろう。手の中に残された原稿を、めくる。改題、春の目覚め。もともとは三百枚あった原稿は、随分と薄くなっており、俺はあっという間に半分以上読み進めてしまう。
 「……あ、誤字」
  皆が浮かれて騒ぎ立てる、春は今、目覚めたばかり。
   ―――春の陽気を長閑等と形容する者も居るが、私にはどうもそれが理解し難く感ぜられる。先ず、目を開けた瞬間の眩しさがいけない。冬などは慎ましく、夜明けは暗闇からじわじわと染み入って来るものを、春に成った途端、光は遠慮無しに襖の紙を透かして部屋の中を踊ってゐる。それではと硝子戸を開けてみれば、庭には繁縷や鬼田平子が我先にと手を延ばし、虫の羽音や近所の子供の数え歌、此方は一人だというのに、彼方からも其方からも、やれ花の香りだ絹の空気だと、全身に春を訴えて来る。之を如何に長閑と形容しよう。私は春に対し五月蝿いとしか思わない。穏やかと云う優しさは、冬にこそ已、赦される可きで或る。冷たく密やかに息づいていた心は、有無を言わさず起出され、其処ら中を跳ね回って、己が物とは思えぬ程掴み難く辟易する。口は勝手に賛美歌を歌い、足は気が付けば屋根へと登る。其れ等全て、春の成す業で或る。春の所業で或る。此れを五月蝿いと形容せず如何に成ろう。私はこの五月蝿さを、愛してゐるに違い無いのだから。
緑間真太郎著『春の目覚め』より抜粋
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thedevilsteardrop · 7 years
Text
familie komplex 前
 毎朝繰り返し君が死んで、目がさめる。
  夢見としては最悪の部類だと思う。
 何度も夢で君が死ぬところを見て。
 目がさめれば、君のいなくなった現実が残されてる。
 寝ても覚めても逃れられない喪失に、それこそ最初の数回は目覚める度絶望した。その時期の自分の行動は思い出せない。でもどうにか今まで生きてるんだから、一応日常生活を送ってたはずだ。
 その夢が幾度も繰り返されるものだと気付いてからは見るのが辛くて眠りたくなくて、けれど何日も眠らずにいることができるわけもなくて、ほんの浅い眠り数分の間に君の死ぬところを繰り返し見る。
 また今日も彼女は死んでしまった。
「……」
 呆然と瞬き、天井を見上げていた視線をぐるりと回して起き上がる。がらんとした部屋に一人。淡いベージュのカーテンは閉めっ放し。朝だというのに照明を点けて、寝そべっていたソファからベッドに移動した。先日、病院から自宅に帰って来たのだ。
 以前は彼女と二人で暮らしていた部屋。一人では少し広い……そうは言っても俺達はしょっちゅう身を寄せあっていたから、この部屋は元から広々としてたはずなのに……今あるそれは開放感とかじゃなく、どこに居ればいいんだろう、という戸惑いと身の置き場の無さ。
 彼女は生活の一部だった。俺にとっての家族。精神論でもきっとそうだし、社会的にもそうだ。俺達は一応、姉弟ということになっていて、同じ大学に通い、同じマンションで下宿していたから。
 家族だった。
 学友で、親友でもあった。
 平和な国で、傍に居るのが日常で。肌を触れ合わせるのが基準のゼロ距離から都合によって間を取るような、近しい距離感の間柄。その相手が、今、ここに居ない。
 シーツに横たわって息を吐く。重い息。心臓が引き絞られる感覚。痛い。ぎゅう、と。
 はあ、息を吐く。
 苦しい。着替えなきゃ。苦しい。身体が重い。指先すら動かすのが億劫だ、重い、沈んでるな。いや、投げ出してる、身体を。ベッドに。
 そろそろ大学にも顔を出さなきゃ、講義の出席が足りなくなりそうなのに。
 彼女が居なくなってから、この部屋で生前二人過ごした時間を思い返してばかりいた。何度も、何度も繰り返し、夢に対抗するように。遺品整理はしていない。部屋中どこを見ても彼女を思い出す。まるでこの部屋だけ時間が止まっているみたい。
  俺と彼女が出逢ったのは高校生になってからだった。だから、遡る記憶の量は、生まれて以来ずっと同じ家に住んでるようなきょうだいよりも、うんと少ないんだろう。俺にとって彼女は自分より先に生まれて家族を形成していた部品ではなくて、最初から一人の人間だった。
 綾瀬郁深という、個人として、俺はすぐに彼女を好きになった。
  くっついていても苦にならなかった。
 一緒に眠ったベッド。ダブルサイズ。二人とも小柄な方じゃないから常に身体が触れる。寒い時は俺が郁深の抱きまくらにされることもあった。絡められた脚の片方が俺の身体の下敷きになるのを、自分が勝手にやってるくせに朝になったら「しびれた」と文句を言ってくる。
 もこもこと気持ちのいい毛布に二人してくるまって、しょっちゅう二度寝しては昼を迎えて「そろそろ学校行く……?」なんて不真面目な問いかけをし合う。午前講義の日は、帰ってきてすぐ横になろうとすると「シャワーを浴びろ」と怒られた。郁深はシーツを一週間に一度だけ洗う。他の日はなるべく汚さないように。だからホコリっぽいままベッドに上がるのは禁止。互いの身体に触れ合うときも、必ずシャワーは浴びてからベッドに入った。
 ここで眠るせいで郁深の夢を見るのかも、と思ってソファに移動して眠ってもだめだった、同じことだった。眠れば同じ夢をみる。夢を見る度に違う時期違うシチュエーションで、郁深は死んで……俺は泣きながら目を覚ます。
 ソファにも、床にもデスクにもキッチンにも風呂にも 郁深の記憶がある。
 どこに居たって彼女のことを想ってた。だからきっとどこで眠っても俺は夢を見る。
 ふらつく足で立ち上がってベッドからまたソファへ。座り込んで、服を脱いだ。
 着替えよう。
 外に出られる格好ではあるけど、一応、数日間も着たままでいた服装で大学には行き辛い。
   大学の友人達は、郁深が死んでから俺を避けるようになった。……避けるというと語弊があるかな、腫れ物を扱うかのようになった。落ち込んでる俺に対しどう接すればいいかわからないのかな。
 焦って話しかけてきた友人の一人が、失言したせいもあるんだと思う。
「まあ気を落すなって!そのうち立ち直れるからさ」「俺も肉親が死んだ時は大変だったけど、時間に身を任せるしかないと思うぞ」……
 その時俺はどんな表情をしていたのか、俺の顔色をうかがった友人達は全員おどおどと視線をそらし、口を噤んだ。
 自分でも青ざめて返す言葉を無くしたのがわかったし、足元が崩される感覚にふらついて彼等から後ずさってしまった。
 以来、まともに話し掛けられていない。こっちから話す気力も無かった。
 姿を見かけても気まずく挨拶を交わすだけだ。
 「落ち込んでる時ほど支えあうのが友達ってモンだろうによ」
「……そんなに深い仲になることばかりじゃないよ。日々楽しく過ごすためだけの相手だって居ていいと思う、 ……?!」
 自然と答えて
 ばっ、と顔を上げる。
 大講義室の隅、机の上に突っ伏していた姿勢から声のした頭上へ視線を。
 郁深が笑ってる。
 いたずらっ子みたいに目をきゅうと細めて、口を開けて快活にわらう。節の目立つ手指がだらしない姿勢をした俺の頭を撫でた。スキンシップの好きな彼女らしい仕草。俺はよく、他の友人にも躊躇無く触れる彼女の両手に嫉妬するのに、その同じ手で宥められ機嫌が治ってしまうんだ。
「楽しいだけの相手だっていいさ。けど、そっから踏み込めるようになったなら心強いもんだよ」
「……そういうことなら俺には郁深が居るからいいよ」
 そういう相手は、おいそれと出逢えるようなモノでも無いし。でしょ?
 郁深はかけがえがないんだよ。
 頭を撫でていた手を片手で掴んで、口元に引き寄せる。振りほどかれることは無い。腕を伝って身体の揺れが伝わってきた。くすくす。
「それで?何をそんなに落ち込んでたって?」
 郁深の笑いは朗らかで楽しげで、けど、茶化す響きも軽んじられてる様子も無くて、心地良い。つられて穏やかな気持ちになる。
 人が笑顔になるのは好きだ。それが郁深なら尚更。
 ……なのにさっきまで俺は、楽しそうにしてる誰もかれも煩わしく、ぶち壊してしまいたいと思ってた気がする、俺さえ加わらなきゃ楽しい会話もできるだろうに、自分から話しかけたら彼等の日常まで壊すんじゃないか、とも、思ってたような。
 なぜ?
「………んん…ん、…?」
 なんでだったかな。
 まぁいいや。郁深の笑顔見たらモヤモヤも消し飛んじゃったみたいだ。
  「夏休みになったら、川遊びしに行こうぜ?お前の運転で!」
 帰り道、下宿までの道を二人で歩く。天気がよくて日の光は眩しいくらい。午後の講義が終わったばかりの暖かい外気。これからどんどん気温が上がっていくだろう。
「いいね。海か山行きたいって思ってた……けどいきなり山道運転させる気?」
 俺はようやく春休みに免許を取ったばかりで、まだ整備された一般道にすら慣れてない。高校卒業してからの一年は引っ越しとか忙しいことが多く、免許取ってる暇がなかったんだ。大学の近くで下宿してるせいで普段は運転する必要も無いし。
「ちょっと不安じゃない?」
「私が助手席に居るんだからへーきだよ。疲れたり無理そうなとこあったら代ってやるし。それに山道は歩行者が居ないから」
 その分安心だろ、と郁深は言う。
 最悪事故っても自分たちが死ぬだけだ、なんて、冗談めかして。
 ああでも、それだったら
 一緒の車で一緒に事故で死ぬなら、まぁ、いいかもしれない。
 一人だけ遺されたりしないなら。
 ……なぜかそんな風に思う。
「なら、それ用に服でも買いに行こうか」
「そうだな、今からでも……」
 直後のことだった、郁深の言葉が切れて俺は突然抱きかかえられた。
 声を上げる間もなく全身に衝撃が走る。歩道を普通に歩いてたはずが、弾き飛ばされて車道へ投げ出された。クラクションの音。急ブレーキ、耳を劈くそのあとで、ゴ リッと嫌な感触をアスファルトに伝えて俺の寸前で車は止まった。止まった、止まったんだ。一瞬写真にうつしたように静寂があって、この状況を理解しようとして、頭より先に目だけがぐるぐると回る。身体は重い、痛い……動かせない、
 郁深に抱えられているから……
 なに?
 何が起きた?
 一瞬のできごとだった
 まさに今まで歩道の上を歩いてたはずなのに
 彼女が歩いていた、歩道の建物側を見る。車から運転手が降りてきている。建物の裏手にある駐車場から出てきたところのようだった。ここは塀が死角を作って、 運転手からは歩行者が見え辛い。そうでなくても歩道を横切る前には一時停止だけど。だけど。だけど郁深は、ぶつかったんだろう、ぶつけられた、車に、それで身体を飛ばされて、俺がそっちに居たから、車道へ突き飛ばさずに、あえて抱きしめて、俺の頭を守った。
 腕と胸の感触がする。俺を抱えている郁深の身体は顔に押しあてられているのに、彼女の香りはしない。代りにひりひり、じくじくと粘膜を焼くような鉄臭さが鼻をつく。
 血の匂い。
 俺の腰をはさむように彼女の脚がある。胴体に巻き付けるように、ガッチリとガードされていた。片足は俺の下敷きだ。首を支え頭に回された腕の中で、それでも俺の身体は痛い。身体動かせない。痛い。俺でさえ痛い。郁深の、デニムに覆われてたはずの、細くてしなやかな、野性味のある脚。きっと ぼろぼろ だろう  な。
 起き上がれないまま、俺は呆然と、動かし辛い頭をずらして
 彼女の顔を見上げようとした。
 あるのは血だまりだけだった。
   自分の絶叫で目を覚まし、俺の脳みそは覚醒についていけなかったのか地面に投げ出された直後の悪夢を描き続けた。跳ね上がった全身は見たくないものから逃げようとするかのごとくにもがいて、両手で髪を掻きむしる。
 郁深、郁深の頭、が 
 ―――なに、俺は、何を
 俺は
 違う、見えてない、頭の中にノイズが、あって
 どうして   どうして 歩いてただけだ、それなのに…… うそ、だ、ろ
 ひ、ひ、と呼吸が上滑りして、動かせなかったはずの身体は「事故にあった直後なのに無理やり跳ね起こされた」せいで酷く震え、平衡感覚を失い倒れ込む。とても立ち上がれない、とても一人では……
 手をついて、はっと気がついた。
 ……―――自宅の、ソファの上だ。
「……」
 呆然と瞬き、目前まで迫っていた座面を押し返して座り直す。ひゅうひゅうとおかしく鳴る咽を押さえて、呼吸を落ち着けようとする。さっき見たはずの光景が過るけれど、違う、あれ���、夢だ。落ち着け。視線をぐるりと回して確認する。ほら、やっぱりここは自宅で、リビングのソファの上だ。午前八時。あれは夢。うそだ、と思った、その通り。だって、
 郁深はあんな死に方、していない。
 ……うそだ、った。あれは、夢だ。
 夢……
「っ……どうして……」
 ぐう、呻き声が漏れる。涙が溢れ出す。痙攣していた身体の震えは嗚咽に変わって止まらなかった。どうして。
 どうしても、君が居ない。
 また今日も彼女は死んでしまった。
「……」
 目が痛い。頭がぼーっとする。
 どのくらいそうしていただろう。ソファーの上。時計が滲む。
 たぶん、そろそろ、学校に行かなきゃ。
 麻痺した頭がそんな風に、理性のケースへ形を嵌め込んで蓋をする。日常から死を追い出そうとする。
 シャワーでも浴びてこよう。
 夢だ、
 また夢だったんだ。
   脱衣所で服を脱ぎながら、シャワーを浴びながら、こんなところにまでしっかり刻まれている郁深の存在に、のどの底が熱く痛む。心臓が引き絞られる感覚がして、頭上から落ちる水に打たれながらタイルに踞った。
 この体勢も懐かしい。
 高校生あたりの俺は精神的に他人をシャットアウトしていたから、郁深のことも最初から信頼できたわけじゃ無い。同居を始めても数ヶ月は、挨拶以上は会話も難しい有様だった。シャワーの水が温まるのを待たずに踞りながら浴び、郁深に会わないようにそそくさと自室に隠っていたっけ。
 だけどある日偶然ばったり、風呂場の脱衣洗面所で鉢合わせして、俺の血色の悪い、寝不足で目元に隈が沁みついた顔と、とても健全とは言えない裸を見た郁深はどういうわけか恥じらうこともなく俺を押し倒し、「なんだよこれ!」と叫んだのだった。
 思わず口を開閉しながら呆然としてしまった。
「あ、あの……郁深さん、」我に帰り慌てて身体を隠そうとしても、跨がられていて微動だにできない。のんびりと入ってきた態度からおそろしいほどの瞬発力で郁深の動きが変わって、気付いたら押さえつけられていた。
 なにこのひと、すばやいしちからつよい。
「お、おれ全裸、あの、これはちょっと」
「痕!なんだよこれ!」
「はい?」
 その時俺は本気で意味がわかってなかった。あと?なに?と思っていると、彼女はじっと検分する目つきのまま俺と視線を合わせ、
「私が悪かった」
 いきなりそう言い放った。
「……え」
「母さんとお前のこと誤解してた。はやく縁を切ろう……いっそ海外にでも行こうか、姉弟二人なんだから身軽だぜ?どこへだって行ける。お前他言語話せないだろ?この際実地で覚えに行くか?なあ?」
 ……ちなみに郁深は英語がペラペラってやつだ。技術関係の専門的な用語まで知っている。やたら難しい資格を史上最年少で取得したとかで、文科省かどっかから表彰されてた。けど、通ってる学校自体は俺のよりも幾分「レベルが低い」なんて言われるとこで、郁深のことを頭いいとか賢いなんて話を聞いたこともなかった俺は、全裸をみられたくらいでそこまで悟られるとは思っておらず、突然こっちの事情を察されて酷く狼狽えた。全く取り繕えなくなり、身体も全裸ならば心も剥き出しで。
「私はお前にそんなことした奴を許せない。許せないからな」
 ギリ、唇を噛み締めて、いつも朗らかに細まっている双眸に晒される。ギラギラと見開かれる内側、激しい怒りがこっちまで伝わって、熱に満たされていくようだった。
 この時に思ったんだ。
 ああ、この視界に選ばれた物だけが、俺にあればいいや、って。
  結局俺は高校を中退し、住居も郁深が通っていた大学の近くに下宿を借りてそこへ二人で引っ越した。通学が楽になった~と喜ぶ郁深を見て嬉しくなって、ここが新しい故郷になるかなとそわそわ探索に繰り出した。バイトと家事をしながら通信で高卒資格を取り、郁深と同じ大学を受験して……。
 一緒に大学に通えるようになって。
 本当に幸せだった。人生の中でいちばん、嬉しいことや楽しいことに満たされた時間だった。
  シャワーからあがって洗面台に映った自分と向き合う。朝の光が蒼白いのも相俟って、いつぞやのごとく血色の悪い、寝不足で目元に隈が沁みついた顔してる。
 あの時は裸で押し倒されて跨がられて、まったくとんだ衝撃もあったものだけど、今となってはそんなこと慣れきってお互い半裸程度は何度も目撃してるなんてな……そういえば、郁深は私服がダサくて、脱いだ時の方が断然いいよなんて、よく茶化してたっけ。自分の格好に無頓着な郁深はそんな皮肉も笑い飛ばしていた。気にならないんだろう。クローゼットには、着替えやすい丸首のシャツと作業用のツナギしか入ってない。まぁ俺も人のこと言えないけど。
 箪笥から引っぱり出した下着を身につけた途端、ガラッと戸が開く。
「あ、出てたのか。歯磨きしようと思って」
 あの日みたいに動じないですたすた入ってくる郁深に後ろから抱きついて、俺は考えてたことを提案してみることにした。
「今度何か対外用のお洒落な服でも買いに行こうか」
   二人ともが思い立ったら即行動、計画を練るよりもとっとと身体を動かし始める質なおかげで、俺が思いつきで口にしたショッピングの予定もすぐさま実行に移された。丁度今日は午前だけに講義が集中してる、午後から大学の最寄り駅周辺にあるショッピングモールにでも行こう、そう郁深が提案して、俺もノった。
 講義を終えたその足で郁深の居るゼミ室に寄って、二人連れ立って大学を抜け出す。その日受けた授業ででたハインリッヒの定理が頭に残ってた。ので雑談のネタにした。
 1:29:300の法則。1の重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する。
 小さなミスが重なって重なって大きな事故になる。
 例えば一時停止違反の車とスピード違反の車と、たまたま二人で会話しながら歩いていて一人の時よりも警戒の薄かった歩行者。きっと違反者はこれまでに300くらいの回数違反してたのかもしれない。歩行者はそれまでに楽しい会話を何度も交わして帰路についていた、その日も、いつも通り楽しく家まで帰れると信じて。
 ……なんのデジャビュだろう、縁起でもない。
「講義の本筋じゃなくて余談って感じだったんだけどさ。題材より印象に残っちゃって」
「確かに何の題材に出てきたかわかんねーけど頭に残るな。定理って言うだけあるけどそっちがオマケなのか。ほんとに学部選択によって全然内容違うんだなー」
 講義の内容から、他どの講義取ってるんだ、ゼミはどうするのか、という類の話、そして徐々に目的の買い物についてへ話題がうつる。
「お前は何か服買うの?」
「俺はいいかなあ、郁深のが選びたいよ。自分じゃ選ぶ気無いんでしょ?」
「まー自分で選んだらシャツとかジーパンとかシャツとかジーパンとかになるだろうなって思うわけだけど」
「まぁ俺も自分で自分の選んだらただのシャツになるかな」
「あとジーパンとかな」
 話しながら、ふと前を向く。
 自分達が歩いている歩道沿いの建物。裏手の駐車場に通じる、塀に覆われた乗用車の出入り口。塀が死角を作って、出てくる時に運転手から歩行者が見え辛い。歩行者からも、車は見え辛い。
「……郁深、」
「……?どうした」
 呼んで、腕を掴み、歩調をゆるめる。そこから車が出てくるか確認してから通ろう、そう思って、
「……!」
 出入り口直前まで進んでいた足が止まる。少しだけ息を噛む。突如目の前に飛び出してきた車は、歩道を横切って車道の直前で止まった。黒いワゴン車だ。車線を流れてくる白いトラックの方ばかりを見ていた運転手は俺達に気付かないままに、トラックが通り過ぎた後平然と進行方向へ顔を向きなおして車道へ出て行く。
「……危なかったな」
「……」
 さっき見た、デジャビュ。もしも、あのまま歩いていたら……
「……デジャビュのシーンを回避できたのって、俺初めてかも」
「え?……今の?」
「うん。マジで危なかったんじゃねーかな」
「すごいな、サンキュ。私もデジャヴはそのシーンになってから気付くな……」
 ほっとしたように笑う郁深と、妙に落ち着かない気持ちになる俺と。顔を見合わせて笑う。
   サイズとデザインが気に入ったのだけ選んで試着する。似たようなのと着比べる。互いに茶化しあって褒めあって貶しあう。やっぱり郁深は全裸がいいとかソレを言うならお前こそ全裸がいいとか、俺の裸が良いなんていうのは郁深くらいだとか、……傍から聞けばあらぬ誤解をされそうだ。いやあらぬこともないけど。実���見てるし。
 郁深は俺にニットとオーバーカーディガンとインナーを買った。俺は郁深にニットとスキニーパンツとガウチョを買った。
「俺のはいいって言ったのに結局買うんだもんな」
「これなら文句無い。似合ってたぜ」
「郁深も。スタイルがいいから」
「お前ほんとに私の身体好きだな……」
「変な言い回しやめろよ……!」
「照れるポイントがわからん」
  ショッピングモールを出て駅を背にしばし歩いたところで、郁深がふと足を止めた。
「……?」
「どした?」
「……いや……ちょっとね」
 気になって、と彼女は首を傾げる。吹下ろしの風に煽られた前髪がぶわりと浮き上がり、その両目がしっかり見開かれているのが露になった。暴き、検分する目つき。
 固定された視線を追ってみても、その先に何を見詰めてるのかわからない。俺と郁深の視力は殆ど同じはずなのに。俺にはピンとこなくて、郁深だから気付けた何かが、その視線の先にあるんだ。
「なに?気になるのって……」
「悪い、先帰っててくれるか?」
「え、ちょっと、郁深!」
 一緒に行こうか、瞬時、迷って手を伸ばす。風に煽られながら伸びた前髪越しの視界の中で、郁深は迷いなく駆け出していた。しなやかな脚。俊敏に地面を蹴って、一目散、視線を向けていた先へ……
 そして、声を張り上げる。
 気付いた何か、がある方向。
「危ないっ!」
 ぶわり、
 風が吹いた。
  「……っ」
 呆然と眺める、仮設テントの、スチールパイプ?あれが、郁深の方に突然吹き飛んできて、追い越すように俺の方へ飛んできたテント部分が視界を覆って、
 けど、その直前に確かに、郁深は……
 …
 …… 静かだ。
 目前に描かれていた情景は俺の頭が時間差で認識した虚構だったようで、現実の俺は壁にもたれて床に座り込んでいた。室内に風は無く、人の行き交う音もしない。まっすぐに水滴が髪から滴っていく。今目にしているのは鏡の中の自分だった。いつぞやのごとく血色の悪い、寝不足で目元に隈が沁みついた顔。
 ……ただし鏡に映った俺の顔は、郁深によく似た素朴な顔立ちだ。
 郁深が、居なくなった、後の 顔。
 夢だ。
 また、夢、だったんだ。
 そう思ってようやく、は、っと息を吸う。いや、吐いた?にわかに思い出された呼吸は混乱して、自分が吸ってるのか吐いてるのかわからない、
「は、はぁー……、は、あ」
 息を止めてからゆっくり吐け、まずは吐けこういうときは。耳の奥で響いた彼女の声に従う。吐かなきゃ吸えねーんだから吐け、そんで、ゆっっくり吸うんだぞ。
 呼吸を落ち着けながら���時計を確認する。時刻は夜の九時過ぎだ。今日は学校にも買い物にも行って、帰ってすぐにシャワーを浴びた。郁深とは一緒じゃなかった、だって彼女はもう、居ないのだから。
 帰った時はまだ午後七時半頃だったはずだから、いつもより長く眠って……いつもの夢をいつもより長く、見てたのか。
 てことはやっぱり夢の終わりで、郁深は、また……死んでしまったのか。
 強いビル風、仮設テント、スチールパイプ。覆われる視界。
 脱力し、凭れていた壁からずるずると背を横に倒す。なんだか頭が重い、身体も重い。鈍い痛みが動きを妨げてるみたい。……熱が出たのかも。寝てたというより、気絶かもしれない。郁深が居なくなってから、また冷水シャワーで済ませてるせいかな。
「……なんで……居ないんだよ」
 水滴が落ちる。静かだ。心臓の音が、耳障りなくらい。
   熱が出たからと言って、翌日の授業を休むわけにもいかなかった。しばらく引き蘢っていたせいで、これ以上休むと単位が取れない可能性が出てくる。
 一睡もできず熱は下がらなかったし身体もだるいけれど、なんとか身なりを整えて大学に向かった。パーカーとジーパン。不潔でさえなけりゃいいだろ何でも。
 講義室は前方に真面目な学生の集団、後方に不真面目な学生の集団がかたまって、俺はそのどっちにも紛れていく気力がわかず、ぽっかり空いた真ん中あたりの席に座る。寒いような熱いような体感に意識がぶれて仕方無い。せめて解熱剤飲んでくればよかった……なんで思い至らなかったかな、アホか俺は。
 溜息をついた俺の隣の席に、誰かがそっと座った気配がした。控えめな気配の割に、随分近くに座るのはなぜだと思って顔を上げたら、相手は「久しぶり」と俺の肩を叩いたところだった。……友人だった。
「……久しぶり」
「ここ、空いてるよね?」
「……。他にも空いてる席あるけど」
「そう言うなって」
 心配してたんだよ、あんた返信もしないし、下宿も知らないから……と言葉を重ねる友人から、そっと視線を外す。
 まだ一人で居たかったな。
 空いてる席は、最近までずっと俺の右側だけで
 今友人が座ったのは、左側の席だった。
 相手はきっと意識していない。左側は郁深が一緒の時の定位置で、右利きの俺と左利きの彼女の腕が、ノートをとる時ぶつからないために決まって座ってた位置なんだ。
 友人が心配して関わってきてくれたのは、有難いんだろうと思う。それでもつい、その裏の……このままじゃ自分達が気まずいからお前が様子見て来いよ、とか言われたんだろうな、って思惑を、感じてしまって、勝手に落胆して、煩わしくなってしまう。ただの下手な勘ぐりかもしれないけど、でも、そういう感じってあからさまにせずとも伝わるものだ。あまり意識を割きたくない。
 講義は新しい題材に入ってて、ハインリッヒの定理が出てきた。知ってる気がする、なんだっけ……
「なぁ、聞いてる?」
「……講義聞いてた。ごめん、後で話そう」
「……ああ」
 正直なとこ講義終わったらさっさと帰ってしまいたい。
 もう一度溜息を吐く。とうとう悪化してきた頭痛に耐えるためにこめかみを押さえる。
   ボールペンのうしろでぐり、ぐり、と頭痛の波にあわせて額を揉んでいたら、
「もう講義終わったぞ、大丈夫かよ」
 と聞き慣れた声がした。
 大講義室の隅、机の上に突っ伏していた姿勢から声のした頭上へ視線を上げる。郁深が笑っていた。
「あれ、あいつは?」
「あいつって?」
「……さっきそこに座ってた、」
「……どした?そこに座ってたの私だよ?」
「そうだっけ」
「そうだろ。大丈夫かよ?熱でもあんのか?」
「……」
 熱?熱なんかないよ。郁深と一緒に買い物に行く予定なのに……熱なんか出してられるか。
「ならいいけど。行こうぜ」
 ほっとした様子で俺の額に伸ばしかけた手を下し、郁深はきゅ、目を細めてわらう。子供の絵本に出てくる狐みたいな笑顔。
 なんだよ、本気で心配したのか?
 そういうとこ好きだよ。
  「せっかくだし買った服どっか着て行きたいよな~」
 大学の最寄り駅周辺にあるショッピングモールに向かう道すがら。
 雑談は講義の内容から、今どの講義取ってるんだ、ゼミはどうするのか、という類の話、そして徐々に目的の買い物についてへ話題がうつっていった。
「今度の連休、川遊びしに行こうぜ?お前の運転で!」
 そしてとうとう休日の予定にまで話が広がる。
「いいね。初夏の山行きたいって思ってた……けどいきなり山道運転させる気?」
 俺はようやく春休みに免許を取ったばかりで、まだ整備された一般道にすら慣れてない。高校卒業してからの一年は引っ越しとか忙しいことが多く、免許取ってる暇がなかったんだ。大学の近くで下宿してるせいで普段は運転する必要も無いし。
「ちょっと不安じゃない?」
「私が助手席に居るんだからへーきだよ。疲れたり無理そうなとこあったら代ってやるし。それに山道は歩行者が居ないから」
 その分安心だろ、と郁深は言う。
 最悪事故っても自分たちが死ぬだけだ、なんて、冗談めかして。
 はっとする。
 辺りを見回す
 自分達が歩いている歩道沿いの建物。裏手の駐車場に通じる、塀に覆われた乗用車の出入り口。塀が死角を作って、出てくる時に運転手から歩行者が見え辛い。歩行者からも、車は見え辛い。
「……郁深、」
「……?どうした」
 すぐさま郁深の腕をつかんで、一歩、後ずさりながら自分の方へ引き寄せた。
 出入り口直前まで進んでいた郁深が俺のところまで戻って、彼女の居た位置に車のフロント部が突き出してくる。黒いワゴン車だ。歩道を横切って車道の直前で止まった。車線を流れてくる白いトラックの方ばかりを見ていた運転手は俺達に気付かないままに、トラックが通り過ぎた後平然と進行方向へ顔を向きなおして車道へ出て行く。
 黒いワゴン車。白いトラック。
「……危なかったな」
「……」
 ああ、
 これは夢だ。
 きっとまた目が醒める時、郁深が死んでしまうあの夢。
   買い物の間、これが夢だと自分に言い聞かせていたせいで、俺は上の空だった。軽口も少なく、試着も最小限で似合う服を引き当てた俺に、郁深は「シャーマンかよ……」と少し可笑しそうにしていた。
   ショッピングモールを出て駅を背にしばし歩いたところで、郁深がふと足を止める。
 やっぱり、きた。
「……何見てる?」
「……いや……ちょっとね」
 彼女は首を傾げる。吹下ろしの風に煽られた前髪がぶわりと浮き上がり、その両目がしっかり見開かれているのが露になった。
 彼女の見詰める視線の先。今ならばわかる、そこには仮設テントがあった。郁深はアレを見てるんだ。
「気になるのって、あのテント?」
 ついテントを睨みつけながら小声で訊くと、郁深は驚きました、と書いてある表情で俺の方を振り返る。
「よく気付いたな、お前はビルの立地とか風速とかそういうの興味無いと思ってたよ」
 立地……?
「立地危ないの?」
「うーんあれ危ないよな。ビル風あるから、あの位置だと風速オーバーだと思うんだけど」
 俺に負けず劣らず険しい目で睨む郁深に背筋がひやりとして、咄嗟にその肩をつかんだ。走り出されてしまったら俺には追い付けない。捕まえておかなきゃ。
「……なら、設営担当者に伝えた方がいいな。あそこに出てるの、丁度このモールの店がやってるキャンペーンだし、デパート側に報告したらいいんじゃない?」
「それもそうだな。あそこに居る人に伝えてもその場で畳むのは難しいだろう」
 納得した様子で踵を返しデパートの方に足を向けた、そこまでしっかり見届けて息をつく。
 ぶわり、
 風が吹いた。
 「あ、やべ。買わなきゃいけない本あるんだった」
「買わなきゃいけない?」
「講義で使うんだってよ。悪いけど先帰っててくれる?夕飯作っといて」
「了解。荷物持ってこうか?」
 デパートに逆戻りしたついでに買い忘れに気付いた郁深は書店に向かった。
 買った服を受け取って、サイフとケータイだけ入った手提げ所持の身軽な状態で送り出す。
 折角だから俺もどっか寄って行こうかな。
  一足先に家に着いて持ち帰った荷物を片付け、俺は夕飯に何を作ろうか考えていた。なんでだか少し気分がいい。郁深の好物でも作ろうかな。
 郁深と「家族」になってから、俺の家事への姿勢は著しく改善された。料理のレパートリーも増えた。
 意識が、嫌だ嫌だと思う意識が。無くなったから、だ。
 面倒だし、サボることもあるけれど、その手抜き加減でも許されてるところとか、それでも洗濯しとけば「ありがとう」料理すれば「おいしいな~」って返されることとか、多少散らかっても互いの存在を強く感じることだとかが、嫌だと思う気持ちを溶かして消していった。郁深の方がけっこうズボラで、そんなところも気楽になる。同居当初は俺の方こそ、「洗濯物脱ぎ散らかさないで」とか怒ってみせてたんだ。懐かしいな。
 彼女のズボラは全く改善されてなくて、俺がほぼ全部家事をやってるわけだけど。だって気付いたら自分が先にやっといた方が早いからね。
 くすくす笑いを零しながら、たまに洗い物してくれるだけで嬉しくなっちゃう俺はすげーチョロいかもしれない、と思った。
  ご飯を炊いて、みそ汁を作る。サラダを冷蔵庫に入れといてアジの開きをフライにして、まだ帰ってこないのかな、とケータイを確認した。
 その時着信に気付いた。
 不在着信。7件も。
 何?と訝しむと同時、見詰めていた画面が着信に切り替わる。咄嗟のことで驚いてケータイを落としそうになりながら、どうにか通話にして耳に当てた。
「い、郁深?どうし…」
『ご家族の方ですか?』
 電話の相手は郁深じゃ無かった。男性の声で、その人は警察関係者であることを指す肩書きと名前を名乗った。
『綾瀬郁深さんが事件に巻き込まれました。…中央総合病院にまで、来ていただけますか。詳しいことは、直接会ってお話します』
   とてもちゃちな事件だった。ありがちで、ニュースにもならないようなこと。確かに人の悪意が招いた事態なのに、ともすれば交通事故よりも些細な扱いで済まされてしまうような、本当にチープで、巻き込まれるのが馬鹿らしくなるような事件。
 郁深はひったくりにあった、らしい。
 バイクで通りすがりに引っ掴まれ、鞄が絡んで身体ごと引き摺られ、ついでのように殴られて吹き飛んで頭を打って即死。
 巻き込まれるのが馬鹿らしくなるような。運が悪いと言ってしまいそうなほどちゃちな。
 新聞にも載らない程度の、死んだところを想像すらされないであろう小さな事件。俺だってこれが見知らぬ他人なら、気に留めることさえなかっただろう。
 郁深でさえ、なければ。
 病院に着くと、顔の確認できない死体を「確認して下さい」と見せられて、何の反応もできなかった。
 体型も服装も見えてるけれど、どうしても郁深と重ねられない。ずれてずれて、輪郭がぐらついていくつも床が波を立てる。
 手が震えてがくがくと身体の内側が狂うのに、目の前に横たわっているモノに触れるのをやめられない。
 冷たい。冷たい
 冷たくて、俺の手でさすって、不意にめくれた服の下。
「……っ」
 皮肉にも俺に合わせていれてくれた刺青が、これが確かに郁深だと証明してしまう。
 肋に沿って彫られた、骨の刺青。
「……」
 これが、郁深?
 死んだ?
 こんな、突然
 俺の知らないとこで
 ……
 俺は
 彼女が死んだ時、暢気に夕飯なんか作ってた。
 何も知らないで。
「……っ、は、」
 今だって、家に帰れば作っておいた夕飯がある。一緒に食べようって、いつもみたいに、特別手の込んだ料理じゃないけど、郁深はいつもおいしいって食べて
 一緒に
 買った服もちゃんとクローゼットに入れておいたよ、
 休みに出掛けるんだろ
 思い立ったらすぐにでも行動しちゃって、先の予定なんかろくに考えないのに
 こんな、前々から言い出すなんてさ
 よほど楽しみだったんだね。
 刺青をなぞる
 何度も、何度も
 何度も何度も何度も
「郁深……家、一緒に、帰ろう」
 ねえ。
 一緒にいればよかった。
  脚が萎えたように力が入れられなくてそのまま床に座り込んだ。
 呆然と
 思考も動作も全部、自分の意識から外れて
 自分の意識が、外れて
 からっぽの状態で、足元から冷えていく。
 ぼうっとする。
 酸欠かな
 息、
  「……は、っ」
 息を呑んで 周りを見渡す。
 白い壁にグリーンのカーテン。木目の長椅子とチェスト……
 病室?
 背後にはベッドもあって、自分がそこから落ちて尻餅をついたのだとわかった。
 記憶を辿る。講義室、ダルくて授業に集中できず、机に突っ伏した記憶がある。ここんとこずっと寝不足気味で、睡眠時間は足りてなかったし。ダルかったのは、冷水シャワーで体調を崩したのか、熱っぽかったから。なんで冷水シャワーなんて浴びたんだっけ……寝不足になったのは、なぜだっけ。
 とにかく、講義室。郁深が声を掛けてくれた。案の定熱を出して気絶した俺を、彼女がここに連れてきてくれたんだろうか。
 学校の医務室なのか、近くの病院なのかはわからないけど、………
 いや、待て
 違うだろ。
 声を掛けてくれた郁深。一緒に歩いた帰り道。黒いワゴン車、白いトラック……デパート、仮設テント。
 俺が講義室で眠ったのであれば過ごしていないはずの郁深との時間が記憶にあって、けれどそれは……
「夢、だ」
 そして、さっき、彼女は死んだ。
 また、夢の中で。
 デパートで分れた一人の帰り道、夕飯ができた頃に気付いた電話、病院で待っていた動かない、冷たい身体。
「……病院、か。まるであの後ショックで倒れて、今目が覚めたみたいだな」
 ひったくりに遭ったと聞いた気がする。
 俺はその時暢気に夕飯作ってたんだ、って
 俺が一緒にいなかったせいで郁深は……って
 思ったんだ。
 窓の外を見る。どこだろう、医務室なら学校っぽい景色が見えそうなものだけど、窓からの景色ではここがどこなのかわからない。
 午前中の講義で倒れたはずなのに、外はもう陽が傾いて暗かった。
 眠る時間が少しずつ長くなっている。
 郁深が居ない現実も、目覚める度慣れていくようで、
 ……立ち直って来ているんだろうか、彼女をなくしたショックから。
 胃が痛くなるような仮説だ。脳裏に過っただけでキリキリと内蔵が不随意な痛みを発して、思考を遮断させようとしてるみたいだった。
 立ち直りたくなんかないよ。
 郁深が居ないのに何でもない平気な自分なんて、受け入れられない。
   夢の中では郁深に会える。
   郁深が夢で生きている時間は、死を回避するごとに長くなっていった。
 一緒に歩いた帰り道。黒いワゴン車、白いトラック……デパート、仮設テント
 買い忘れの参考書、バイクのひったくり犯、一緒に歩いた帰り道、
 家で作る夕飯
 一緒の食事
  その後も、何度も彼女が死んだ
 階段から落ちたり、飲酒運転の交通事故だったり、盗難の鉢合わせで殺されたり、電車の混雑で線路に突き落とされたり、
 その度に俺は目を覚まして絶望して、汗だくの身体で震えながらもう一度目を閉じた。
  最近は穏やかな日常が続いて、これが夢だということを忘れそうになる。
 けど、夢だって忘れて警戒を怠って、また彼女が死んでしまったらと思うと恐ろしくて忘れられなかった。
  「おはよう」
 おはよ、学校で友人に声を掛けられるのは久しぶりで、咄嗟に口から出た挨拶は対象に向かわずにぼとりと落っこちたみたいな声だった。
 掠れた視界の向こうがなんだか遠い。ぎこちない笑顔の友人は「最近休みがちだけど、」と気遣う素振りで俺の背を撫でた。
「単位、大丈夫なのか?どうしてもしんどいなら代返しとくから、言えよな」
「……ああ、うん」
 最近休みがちだったのは、ずっと眠っていたせいだ。郁深の死を回避し続ける限り、夢を見ていられる。
 今朝になって目が覚めたのは……つまりそういうこと。
「なぁちょっと、おい」
「……ん?」
「ちょっといいか」
 なに、と訊くまでもなく友人は俺の身体をぺたぺたと触って、苦笑していた表情を苦味に偏らせた。
「痩せ過ぎだ」
「……は?」
「だから、お前痩せ過ぎだよ。メシ食ってるの?」
 険しい顔して俺の腰を掴んでくる友人をぼうっと見詰めながら、俺は全然別のことを考えていた。
 真剣な、その表情
 面倒そうな落ち込み具合の俺に対してわざわざ話しかけてくれる態度……
 あれ?
 こんな風に、俺を気遣ってくれる友人なんて、居たっけ。
 まじまじと相手を観察し、頭の霧を追い払う。
 掠れた視界をクリアに。遠い感覚から、触れているその手に意識を。
「聞いてるか?ぼーっとしてるな。頭にも栄養行ってないん」「郁深!」
「お、おう」
 しかめた眉がすとんと力を抜いて、突然叫んだ俺に驚いた様子で目を丸くする。
 目の前に立っているのは 郁深だった。
「……っ!」
 衝動が勝手に身体を動かす。息をつめて生まれてくる熱を閉じこめる。ぎゅうぎゅうときつく背に両手を回し、腕の中に抱き込んでその首筋に顔を埋め擦り付けた。
「郁深、郁深……!」
「……どうした?家に一人がそんなに嫌だったのか?」
「うん、うん……俺が我慢すれば喧嘩なんかならなかったのに、ごめん」
「喧嘩って……まぁいいや。っておい泣くなよ。泣くほどのことか」
「ひっ、ぅ」
 泣くよ。
 頭おかしくなりそうなんだ。呼吸するだけで気管支が焼けるみたいにすごく痛いんだ。苦しかった。起きてるのつらいよ、お前が心配してくれて嬉しい、俺をおいてかないで。
 いつから夢を見てるんだろう。喧嘩別れしてしまったこと、昨日の出来事なのかな。
 なんでもいいか、郁深がここに居るなら。
   講義を終えたその足で、郁深の居るゼミ室に寄って、二人連れ立って大学を抜け出す。
 ショッピングモールまで一緒に歩く。黒いワゴン車、白いトラック……仮設テントが壊れて、一緒に戻って買い忘れの参考書を買う。
 バイクのひったくり犯を躱して、家まで連れ立って歩き着いたらファッションショーごっこ。服をクローゼットに仕舞いながら連休の行き先を相談。
 夕飯を一緒に作って
 一緒に食事をする。
 ルーチンワークの日常は穏やかで、いつもの繰り返しで、……何よりも幸せだった。
 気が急くようなこと���、人ごみで揉まれるような場所は避けて、余裕を持って過ごすように心がける。それだけで小さな怪我さえ減っていって、喧嘩は今回、するきっかけさえ無いまま回避された。
   そうして、「川遊びしよう」と約束していた、連休を迎えた。
 二人似たようなニットのゆったりした服装でレンタカーに乗り込む。
 何度も繰り返した会話がようやく現実になることが嬉しくて、俺は浮かれた気分を引き締めるのに必死だった。ほわほわした散漫な注意力で、事故ったりしたら元も子もない。曲がりくねった山道を慎重に走らせ、広い平地を作ってある砂敷きの駐車場に車を停めた。
 すぐ脇に川が流れて、そこそこ上流まできたおかげで岩や草花が大きく育っている。初夏の緑が鮮やかに日の光と混じりあって眩しい。
「すごい、晴れて良かったな!」
 嬉しそうな声とせせらぎの音。水色の空を背景に笑う郁深の笑顔も眩しい。いいな、嬉しい。楽しいな。
「早速行くか」
「カメラ持ってって良い?」
「いいね。清涼飲料水のポスターごっこしようぜ」
「なんそれ」
 俺も声を上げて笑う。こんな風に笑うのいつ振りだろう、そう思った途端胸に何か、ツキンと小さい痛みが刺さって、細めた目を開ける。
 郁深はじんわりと暖かな視線で俺を見ていた。
 ああ
 好きだ。
 「コテージに泊まるんだっけ。どこ?」
「駐車場の向こうだよ」
 車に荷物を置いたまま、早速俺達は河原で裸足になって岩から岩を伝い、浅いところで遊びはじめた。
「結構長く運転してきたなぁ。もうすぐゴールデンタイムだ……カメラに収めなきゃ」
「なぁ~やっぱカメラそれ邪魔じゃね?こっち来いよ」
「郁深だって持ってきていいって言ったじゃん!」
 抗議する俺を遮って郁深がざぶざぶ水に入っていく音を立てる。引き締まった綺麗な脚で幾重にも重なった岩の上を流れる澄んだ水を掻いて、軽やかに対岸の方へ。
 川の上流から降注ぐ夕日の帯が彼女を照らす。金色の光。ふわりと風にひらめく薄手のサマーニットの表面を転がる水滴、空中を滑る宝石のような飛沫、
 カシャ
「ん!撮った?」
「撮った」
 煌めく夕日の中でぱしゃぱしゃ水と戯れる姿を、何枚も残していく。山に来た興奮と空気を満喫するバタバタとした動きから、次第に彼女の足運びがダンスのような軽やかさに変わって、足場の悪い岩の上でくるりとターンする。怪我を心配しながらも写真に撮るのをやめられなかった。
 ぐん、と手脚が伸びやかに動き、実際の振りよりもうんと大きな波紋を生み出す。目に飛び込んでくる、美しい山の景色と、異界と通ずるような黄昏時の輝き。わざわざカメラを構えてる俺を意識して、絵になる動作をしてくれてるんだ。
 彼女の目がふっ、とこっちを見て
 口元が柔らかな曲線を描いた。
 カシャ
「写真ほどほどにしてこっち来なって~」
「わかったわかった」
 夕日は大分落ちてしまって、辺りは薄暗くなっている。
 最後に撮った一枚を確認し息を吐いた。熱の隠った吐息に自分で赤面す��。……や、でもこれは、仕方無いでしょ。
 画面の中で微笑む郁深はあまりに優しい表情をして、カメラに目線を向けていた。写真として一度客体におとせば、明らかにわかる。彼女がどれほど温かな気持ちで、俺を呼んでくれてるのか。
「今行くよ」
 俺は鞄にカメラを仕舞うと岸辺のベンチに放置して、随分離れてしまった郁深の元に駆け寄った。
   すっかり日が落ちると岸辺でたき火をして、持ってきた花火を点けて打ち上げた。
 手で持つタイプの奴は持ってきてない。
「この打ち上げるコンビニ花火をさー、手で持って撃ち合って遊んだの懐かしいな」
「あれ熱いんだよ……危ないからもうやっちゃダメだよ郁深」
「はいはい」
 郁深と親しくなってからは、ふざけて危ない遊びをしてたことはままある。おかげで交友関係は悪友ばっかりだ。こんな風に穏やかに二人で過ごせるのは、ごく最近になってからだった。岩に並んで腰掛けて、ふふっと触れ合わせた肩を揺らす。
「大人になったんだなぁ、私達も」
「まるくなったってこと?確かに無茶できること減ったね。そういえば成人してから徹夜がキツくなったな」
「まだこれから先長いのに落ち着くには早いだろ!悪さはもうしないけど」
 大人、大人。
 リバーブしながら川辺で足だけ水に浸し、水面越しに彼女を眺めた。
 大人になったら、郁深に言いたかったことがある。
 好きだ、って
 弟としてじゃなくても、一緒に居たいって
 大人だからできることを、一緒にしよう、って
 言いたかった。さっきの写真を見ていたら、拒絶されることは無いだろうとも思えた。
 でもどんなに思っても、全部過去形にしかならない。後悔、未練、寂しさ……どうしてだろう。
「……?」
 どうして?
 何か大切なことを忘れてる気がする。
 どうして言えないなんて思うんだ。言えばいい、今だって……むしろ今のこのシチュエーションはすごくいいんじゃないか?
 綺麗な山の景色の中で、少し日常から抜け出した特別感があって。
 なのに、忘れてるはずの何かが気になって、俺は口を開けなかった。
 何も言わないまま、最後の花火が上がり、色とりどりの光が反射して、ぱん、と軽い破裂音。花火大会で披露される本格的なものじゃない、大したことはないけど、それでも周りが明るくなったように感じた。一瞬の花。咲いて、消える。
 そこから一気に静寂と夜の闇が戻ってくる。川辺は少し肌寒い。岩の間を流れる水は暗く深く、どこまでも沈んでいく底なしにさえ見えた。
「戻ろっか。向こう岸に」
 ひんやり冴えた空気を纏って郁深が立ち上がる。
 俺も黙って頷いて、後に続いて川に入った。
 その時、
 複数の足音がこっちに向かって来て
 背後から聞こえるそれに俺の方を振り返った郁深の表情が一変した。
「危ない!」
 目前に迫った郁深の手と一拍ずれて、頭部が揺さぶられる
 ガツン、と
  首が折れそうな衝撃を受けて水面に叩き付けられ、続けざまに身体を押さえつけられ
 右半身から荷物の触覚がなくなり、代りに服の上をまさぐられた。鳥肌が立つ。渦を巻いた頭にようやく届いたその正体は、人間の手だった。
 男が二人、俺の身体を押さえつけ、身につけている物を探っている。
 ざあっと血の気が引く音と、凍り付いたような心臓の痛みがして、感覚が一気に返ってきた。焦燥として視線を走らせる。郁深、郁深は……?!
 女だ、と 誰かが呟いたのが聞こえた。
 惑っていた視線がそちらに引きつけられる。吐きそうになりながらどうにか身を起こそうとして、二人掛かりで顔面から岩にぶち当てられた。ろくに平衡感覚が無い、ただ倒れていることさえできないくらい頭が痛い。
 だけど
「女だ」、と言った
 その言葉に含まれた裏は俺にだってわかる。もう、大人なんだ、これでも……俺にだって、郁深を
 そういう意味で意識したことは、あるんだ。
 俺を押さえつけてる以外に郁深に手を出す奴が居る、郁深に何かあったら。もしもここで何もできなかったら、俺は……
 もがきながらなんとかして視線を上げる
 滴る血液に邪魔された視界で、郁深に人影が多い被さるのが見えた。
 —————やめろ、
「なんで郁深なんだよ!」
 絶叫した俺に、嘲笑が浴びせられて
 掴まれた頭を水に突っ込まれる
 そのまま殴られ嘔吐感と、首の後ろを背からせりあがるような重苦しい圧迫感が襲ってくる。
「が、っは、……ぅぐ」
 自分の身体中から苦みが絞り出されて
 それが川の水と行き違う感覚
 苦しい
 苦しい
 だけど、郁深の傍に行かなきゃ。
   わかってる
 違反車のドライバーも設置違反したスタッフもひったくりも泥棒も愉快犯も
 駅のホームで肘をぶつけられたから押し返しただけだ、なんて逆ギレしていた会社員も
 郁深を郁深として認識してたわけじゃない
 全部偶然で
 ただの過失とか、ふざけ半分で
 たかがそんなことで、彼女は……
   何度も。
   大切なことを忘れている気がしてた。
 ここは、夢の中なんだ
   ボキッ、と 重いものが折れるような、いびつな音を立てて、俺の腕は押さえつけていた二人の下から抜け出す。同時にバシャリ、水面が大きく波立ったらしい音が聞こえ、生まれた光が乱反射し、近くから男の気配が無くなった。
 ろくに前が見えない。目が潰れたのかもしれない
 呼吸もできない、水を呑んだかな。でも集中してる時って呼吸は止まるものだ。構わない。
 郁深、
 手を伸ばす。
 なんだか水面に夕日が見える。その光に、水で濡れて着衣の乱れた姿が浮かび上がって、すごく綺麗だ。
 二人して佇むのは、丁度川幅の真ん中あたり。
 伸ばした手は届かずに、握っていたライターは川へ投げ出される。
 郁深を照らしていた火は俺に向かって掴みかかって、
 俺の腕は植物が絡むようにその人影を巻き込み 暗い水の底に堕ちた。
   「…………ひぅっ、は、っは、ひっ、ひゅっ……」
 どさ、と背中から落ちた衝撃があって、びくっと首をのけぞらせ上体が跳ねる。
 突然過剰な酸素を吸い込んでしまい痙攣する身体。投げ出された腕がベッドから垂れて、感覚が無い。
 夢だったはずなのに、俺の顔はものすごい痛みが渦巻いていて、ろくに焦点も定まらない。
 恐慌するままに身体を撥ね起こすと心臓が躍り上がるような衝撃があって、酷い目眩と耳鳴りがした。立ち上がろうとした途端一気に重力が膨れ上がって身体がぐらつき、もつれる脚で無理矢理傍らにあった洗面の鏡を覗き込む。
 傷がある、
 顔の上半分……ぐちゃぐちゃの傷が。
 夢だったはずなのに。とうとう郁深が死なないままに目を覚ました、はずなのに
「……まさか」
 郁深
 郁深?居るの?
 俺の、この傷はお前を守れた証じゃ無いの?
 郁深!
 ばっ と勢い任せに辺りをうかがう。そうでもしないとろくに身体が動かない。頭がガンガンする、目から入る光さえ刺激になって、けれど目を剥くのをやめられず、瞬きすらできないで周囲を見回した。病室のような空間、縋り付いているこれはベッドの脇に設置された洗面台だ。さらにその横に収納棚と来客用らしき長椅子。治療器具の類は置いてない、カーテンが閉められて、仕切られたその外側まではうかがえない、気配がわかる範囲には誰も居ない、郁深も、誰も。
 ―――――まだ、夢を見てる?
 ……いや
 何取り乱してんだよ
 動機息切れで、脳みそが正常な思考できない状態になっているのか。
「はっ……はっ……ふっ……」
 胸を押さえる。息を噛む。
 死なせずに目を覚ましたら、郁深がここに居るかもなんて
 ……そんなことあるわけ無いんだ、夢は夢だ。
 夢と繋がっているかのような体調不良での病室だけど、目を覚ました俺が病室に居るのだって不思議じゃ無い、経緯はわからないけれど、意識を失ってたんだろうから当然だ、心当たりなんていくらでもある、ろくに食事も摂らずに眠り続けてたら栄養失調になったっておかしくないんだ、貧血かもしれない、睡眠障害で倒れたのかもしれない
 今は繋がれてないけど、腕に点滴用のチューブが差し込まれてるし
 この傷は……大方階段から転げ落ちたりでもしたんだろう
 郁深は居ない
 死んでしまったんだ
 交通事故で……
 黒いワゴン車。
 白いトラック。
 出会い頭の衝突に、スピード違反の車の轢過……
「え……あ、れ?」
 頭の痛みが ぐわり、膨れ上がった。
 違う
 郁深の最期は、事故死じゃ無かった
   一緒に歩いた帰り道。黒いワゴン車、白いトラック……デパート、仮設テント
 買い忘れの参考書、バイクのひったくり犯、一緒に歩いた帰り道、
 家で作る夕飯
 一緒の食事
   階段から落ちて、飲酒運転の暴走車に撥ねられて、窃盗犯に殺され、線路に突き落とされ、
 その度に俺は目を覚まして絶望して、
 汗だくの身体で震えながらもう一度目を閉じた。
 ……あれは、夢だ
 彼女が繰り返し死ぬ、悪夢 
   じゃあ
 現実で、郁深は
 郁深が死んだのは
 彼女は
 郁深は……どうやって
 どうして死んでしまったんだ?
「……っ」
 何で
 思い出せない、……?そんな……
 思い出せない、郁深の最期、
「そ、んな」
  何度も
 何度も何度も繰り返してしまって
 何度も
 何度、も。
「……全部、夢だ」
 愕然とした。呟かれた声が口端からどろりと落ちて床に汚いシミを作る気がした。寝不足も不登校も睡眠障害も栄養失調も、全部夢が原因だ。
 夢、だったのに。
 ぼと、と
 身体が崩れ落ちる。座っているのさえ苦しい。支えていられない
 床に倒れ込んだ。白い天井がスクリーンのようで そこへ閉じられない目蓋の代りに、思考を映し出す。
 郁深 は
 郁深はもう居ない。
 この現実の、どこにも居ない。
 何度も繰り返し見る悪夢……にさえ慣れて。次こそ死なせないように、なんて
 次?
 次って何なんだ。
 いくら夢を繰り返したって、もう居ない。
 そんなことも
 そんなことさえ、今まで忘れて
 彼女の、最期さえ忘れて
 どうして、眠っていられたんだ
 どうして夢なんか見て、夢とはいえ、彼女の、死ぬところを見ていられたんだ……
 いくら会いたいと願ったとしても、夢だった。そしてその夢の��後にはいつも、彼女は死んでしまう。郁深が、死んでしまうんだ。ああ、なのに、どのくらいそれに縋って、どのくらいの間眠り続けたんだろう。いざ彼女が死ぬところを見ずに目を覚まして、今度はまた麻痺していた喪失に苛まれている。
   ああ、なのに
 いざ彼女が死ぬところを見ずに目を覚まして、
 郁深が居ない現実に耐えられない。
 郁深が居ないのに何でもない平気な自分なんて、受け入れられない。
   夢、だとしても
   郁深が居ない現実より
 郁深が生きている夢の方が、俺にとっては大切になってしまった。
   目蓋を閉じる。起き上がれない。床は冷たくて身体は憔悴していて、熱はどんどん失われていく。ここには居ない、温めてくれる眼差しを思い出す。夕日に照らされた郁深の笑顔が過る。真っ暗なはずのまぶたのうらに。これは夢だっけ?けれどすごくはっきりと思い描けるんだ。
 ぐちゃぐちゃにくずれて狭まった視界で彼女の顔がわからなくなって
 ただ激情を溢れさせるがごとく動いた唇が言葉を紡いだ、それだけが鼓膜を震わせて 刻み付けられる。
    「                   」
「  
        」
    「おはよう」
 意識が浮上すると同時に、頬を伝っていく熱を覚えて、滲む視界でそれが涙だとわかった。
 呆然と瞬き、天井を見上げていた視線をぐるりと回して起き上がる。すぐ横に人肌の体温。全開にされたカーテンから、朝日の差し込むベッドルーム。時計を見ると午前八時。なんて健康的なんだ。ぼやけた両目を軽く擦って「おはよう」と返すと、目の前にあった柔らかな笑顔がそっと近付いて、俺を抱きしめた。
 ああ、幸せだな。
 ずっとこの幸せが続けばいい……
 ほとほとと、シーツに沁みができていく。
 涙を零し続ける俺を見て、郁深は困ったように眉を下げた。
「どうしたんだよ……まだ具合悪いのか?」
 気遣う手つきで背を撫でられて、余計にぶわっと熱が込み上げ
 しゃくりあげながら答える声は上擦って掠れてしまう。
「ううん……平気。怖い夢をみたんだ」
 ……どんな?
 首を小さく傾けて、縋る俺を茶化すことも無く穏やかに訊ねられる。
 郁深が涙を指先で拭ってくれるのをそっと掴んで、手のひらに頬ですり寄る。鼻先が触れるまで近付いて、ほ、と息を吐いた。
「郁深が、……死んじゃう夢だった」
 つい昨日も病院で同じ夢を見て、動揺して床に倒れたんだよ。
 ぼそぼそと告白すると背に回された腕の力が増して、そのまま起こしていた上半身を重ねるようにベッドへ押し倒された。
 どくん、どくん、と
 重なった胸に、鼓動が伝わる。
「大丈夫だ」
 大丈夫。繰り返し囁いて、頬に当てた手で俺の顔をぐいと上げて視線を合わせられる。
 温かい、思わず動揺する、揺さぶられる……そんな熱をもった眼差しが俺を包む。
「私はここに居るよ。お前の傍に居る、香澄」
 大好きだよ。
 そう言って、吐息が混じるまで近付いた唇と、唇が触れ合った。
 目を閉じる。抱きしめあう腕に力を込める。
 きっともう、あの夢をみることは無い。
       掌編集『愛言掛』収録 <familie komplex>
電子書籍で後編を読む
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midori54day · 5 years
Text
引っ越し=生まれ変わり
突然ですが、
わたしは引っ越しが好きです。
何故好きか?
“引っ越しをすると生まれ変われる気がする”
と思っているからです。
箱入り娘だったので、社会人になるまで親に許してもらえず実家暮らしをしていました。
生まれてから大学卒業までの22年間、ずっと同じ家(実家)に住んでいるということはそれだけの物がたくさんありました。
わたしは物が捨てられなくて片付けられない性格です。
このわたしを育て上げた母も同様なので、当然家は物で溢れかえっていました。
いつしかこの環境がそうさせると思うようになり、早く家を出たい一心でした。
まず一人暮らしを初めてしたのが、
社会人1年目の22歳の時でした。
この時に一人で勝手に家を決めたり、家具家電を揃え、全て一人で準備しました。
(親は一人暮らし反対していたから非協力的でした)
この時は実家から“使いそうなもの”をたくさん持って行きました。
慣れない仕事と慣れない家事。
心身共に疲れ果て、段々と家事は後回しに...
そして
一人暮らしでも立派なゴミ部屋を作り上げました。
ここでようやく環境ではなく、
片付けられない自分に責任があると気付きました。 
この時のアパートは実家から車で10分もかからない場所だったので、頻繁に寄ってご飯を食べたりしていました。
そのため新しい暮らしというよりも、
自分の部屋が広くなってキッチンやお風呂がついたという感じで、生活がガラッと変わったような気はしませんでした。
その後は色々あり、2.3年実家暮らしに戻りました。
一人暮らしから実家に戻るのはキツイと思っていましたが、この時はそうでもありませんでした。
それから20代後半になり、
「一度は地元を出て憧れの都会でキラキラした生活を送ってみたい」
そんな思いがどんどん強くなり、上京を決めました。
(これも親の反対があったので勝手に部屋や仕事を決めました)
この時は前回の二の舞になるまいと、
ほとんど物を持っていかない作戦をとりました。
なので、
長距離の引っ越しでしたが業者は使わず。
また新たに最低限の家具家電を揃え、
衣類は自分でリュックに入る分のみ。
それから物が少ないので以前よりは散らかることは減りましたが、
元の位置に戻すことが苦手なのでやっぱり散らかりました。
精神面では環境がガラッと変わり、
毎日がキラキラして見えて、心も弾んでいました。
地元にいた時は、
仕事が翌日ある場合は飲みになんて行くなんてあり得ませんでした。
そんなわたしが、東京にくると
心躍る感覚やどこから寂しさもあったのか
仕事のことを考えずに飲みに行けるようになりました。(なんだそれ)
地元では職場と家の往復をしていただけで1日を消化していくそんな感覚。
それが、仕事以外の時間を楽しむことができるようになったのです。
そう、
それが東京の魔力です。
お洒落なカフェや居酒屋、
ワンコインランチ、薄汚れた美味しいお店
テレビで話題のお店
今まで手の届かなかったものが
身近にあるんです。
田舎者のわたしが憧れていた生活でした。
引っ越しをして
住む場所が変わると、気持ちも変わります。
引っ越しをきっかけに断捨離もできます。
今までの嫌な思い出も捨てられます。
知らない土地にいくということは
自分をリセットできると思います。
今まで出来上がった他人から思われるキャラやイメージを急に変えることは難しいです。
環境が変われば付き合う人も変わります。
そこで新しい自分をデビューすることができます。
そうすることで、
今まで想像もしなかった人生が待っています。
そう、わたしは東京にきて引きこもりが少しアクティブになりました。
新しく人と会うのが億劫ではなくなりました。
そうして
夫とも出会うことができました。
引っ越しは色々変われるチャンスだと思うので、嫌なことがあると物件を探してしまいます。
引っ越しのお金はかかりますが、
色々変えるチャンスが買えると思えば高くないのではないでしょうか。
ちなみに一人暮らし都内引っ越しでかかった料金は2万円以下です。
先日夫婦2人の引っ越しは4万円未満です。
大手の引っ越し業者は安心ですが、広告料なども入っているため割高に感じます。
よーーーく見積りを見比べて、
より安いところを見つけてみてくださいね。
ここだけの話、
わたしが利用したのは
“フクフク引っ越しセンター”です。
今の生活や自分が嫌になってる方、
思い切って引っ越しをしてみませんか。
世界が変わるかもしれませんよ。
なーんてね。
0 notes
kkagtate2 · 5 years
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偽善者の涙[五]
[五]
夫と義理の妹を送り届けてから、一人寂しく自宅となつてゐるマンションに帰つて来た佳奈枝は、府道を挟んで、駐車場を超えた先にある病院の一室を、紅茶の入つたコップを片手に、たゞぼんやりと眺めてゐた。実は去年の九月頃までは見えなかつたのであるが、家は揺れ、電柱は宙を舞ひ、船は流され空港の連絡橋に打つかつた、文字通り猛烈に強い台風のせいで木が折れてしまつたゝめに、ちやうど窓の先にある部屋が丸裸になつてゐるのである。と云つても、小さな窓であるし、病室ではなさゝうだし、書類か何かで半分くらゐは埋まつてゐるし、何より遠いので、見たところで人影が動いた程度しか分からない。病院であるから不吉なことを考えてしまふけれど、まさかこんな真昼間にチロチロと、しかも広い道に面した窓に姿を現す必要などないに決まつてゐる。本物の人間が忙しなく行き交つてゐるだけの、何も面白みのない、いつもの光景である。だが彼女は今日はそれすら楽しめるほどに暇であつた。別に、十三で夫らと別れた後、すぐに帰つてくる必要はなかつたのであるが、朝から何となく体がだるくてさつさと帰つてきてしまつた。それで一度ソファに腰掛けてしまふと、もう何もする気が起きなくなり、しかしかう云ふ休日の優雅なひとゝきを逃すまいと思つて、取り敢へず紅茶を入れてみたのであつた。さう云へば季節の変はり目に弱いのは昔からである。毎年春と秋になると、何となく体が云ふことを聞かない日が出来てしまつて、よく姉に、今日は大儀やから学校休む、……お母さんにはそれつぽく伝へといてと、寝起きに甘えたものであつた。今ではすつかりその役目は里也に取り換はつてしまひ、今朝は十時前まで一緒にベッドで微睡んだゞらうか、平日は兎も角、休日は怠けに怠ける彼は、起きてはゐるが頭は働かないと云つた様子で、そろ〳〵起きる? と問ひかけても、うんと唸るだけなのであつた。
「あー、……暇だわ。……」
佳奈枝はすつかりぬるくなつた紅茶をすゝつて伸びをすると、自然にそんな声を出してゐた。何をするにも億劫なので、里也から読んでみればと云はれて手渡された高野聖も開く気になれないのであるが、暇と云ふよりはつまらないと云つた方が良さゝうである。体を動かさず、夫もをらず、誰も訪れないのは、いまいち刺激が足りない。……と、ふとその時、佳奈枝の頭の中に沙霧の顔が浮かんだ。さう云へば今のこの状況は、いつもの彼女と一緒である。今日こそ里也に連れられて陽の光を浴びてゐるものゝ、いつもはあの暗い部屋の中で、しかも一人で過ごしてゐるのだから、刺激不足で毎日が退屈であらう。里也から彼女は音楽を聞いたり、本を読んだりして過ごしてゐるとは聞いてゐるけれども、ほんたうにそれだけで満足なのだらうか。そも〳〵自分の場合、すでに寂しさで死んでしまひさうである。彼女は口でこそ寂しくなんてありませんと云ふけれども、心の中では人肌が恋しい思ひをしてゐるに違ひあるまい。
佳奈枝はそれも来月にはまず〳〵解消するであらうと思ふと安心してしまつて、やつぱり何かしら〝音〟を聞きたくなつてきた。テーブルの上にある端末に手を伸ばすと、ぱゝつと操作し始める。ほんたうなら喋るだけでも良いのであるが、それにしてもすつかり便利な世の中になつてしまつた。子供の頃の自分に今の世のことを云つても、恐らく信じてはくれないであらう。 里也は未だにアナログなやり方が好きで、――と云ふよりほんたうにアナログが好きなのか、今でもレコードをいくつか中古屋で買つてくるほどなのだが、そんな彼が新しいものにすぐに飛びつくやうな性格をしてゐなければ、今ごろ時代に取り残されてゐたかもしれない。
そんなことを考へながら、自然に選んでしまつたブルックナーの交響曲を聞きながら、紅茶を飲みながら、時にはクッキーを摘みながら、佳奈枝は優雅な午後のひとゝきを過ごしてゐたのであるが、ちやうど交響曲第三番第四楽章のクルクル〳〵と目まぐるしい冒頭が始まつた頃合ひにピンポン、ピンポンと呼び鈴の鳴るのが聞こえたので、渋々立ち上がつて出てみると、
「お姉ちやんだよー」
と云ふ間の抜けた声が聞こえてきた。
「姉さん、急にどしたん」
と、佳奈枝は姉の多佳子を迎へ入れながら云つた。彼女はどこかへ遠出でもしてゐたのか、片手にキャリーバッグ、もう片手に二つ三つ袋を引つ提げてゐる。
「いやね、たま〳〵近くに寄つたから妹夫婦の顔でも見ておかうと思つて、……はい、これ差し入れの品」
と多佳子が袋のうちの一つを手渡してくる。
「なにこれ」
「羊羹らしいんだけど、形がピアノらしくて、佳奈枝ちやんかう云ふの好きでしよ?」
「え、ほんとに? うわ、姉さんありがたう」
「筍も持つて来れたらよかつたんだけど、……」
「筍はもういゝわ。どうせおじいさんのところで掘つて来たやつでしよ?」
「もう余つて〳〵仕方ないねん。……」
泣き言のやうに云ふ姉に、こつちもさうだから絶対に持つてこないでと、佳奈枝は釘を刺しながらリビングへ向かふと、未だ鳴り響いてゐた音楽を止めて、テーブルを挟んで向かひ合ふ形で座つた。佳奈枝の姉の多佳子は、里也よりも年上の今年三十四歳になる夫人で、現在は夫が単身赴任をしてしまつて家には彼女が一人と、女の子が一人と、男の子が一人をり、兎角子育てに追はれてゐると云ふ。休日は夫が家に帰つて来るので、かうして急に訪れるのは基本的に平日しかないのであるが、聞くと彼女は、今日は夫が東京に息子娘共々連れて行つてしまつて暇だから、――ほんたうはちやつと疲れちやつたから一人になりたくて甘えた形なんだけど、さつきまで木村ちやんと福井に居て、今帰つて来たばかりなのよ。で、たま〳〵とは云つたんだけど、帰るにしては微妙な時間だから、ほんとはわざ〳〵高槻で降りてこゝに来たと云ふわけ。それにしても元気にさうで良かつたわ、と云ふのであつたが、その後続けてあなたも早く子ども作りなさいと矢つ張り云ひ出したので、実のところ佳奈枝は、暇な時に来てくれたのは有り難いのだけれども、この姉の良心に忠実なところは全くと云つていゝほど歓迎してゐなかつた。
「姉さんはかうして元気さうだからいゝとして、旦那さんはどうなの。あんなゝりしてるから、骨の一本や二本くらゐ軽いんでない」
「あはゝゝゝ、でも大丈夫だから、あゝ見えてあの人、意外と体は丈夫なのよ? 風邪なんてひいたことないんぢやないのかな」
多佳子の夫は見た目からすると華奢で、恰幅の良い里也と並ぶとその細さが引き立つて見えるため、二人はよく比べ合つて笑つてゐるのであつた(この姉妹は元々がいじめっ子気質)。反対に、���女らは瓜二つと云つていゝほどに似てゐるため、二人の夫は笑はれる度に、なんや、お前らは似すぎてゝ面白くないわ、どつちがどつちか分からん、はつきりせえやと口を尖らせて云つた。
「ほんに。里也さんなんてすぐに音を上げて無理するから、止めるのが大変で、……」
昔から二人の姉妹仲は甚だ良く、今でも会へば気兼ねなく愚痴を云ひ合つたり、夫の不満、家庭の不満を漏らしたり、――と、云ふよりは、云ひ方を悪くすればだいたい人の悪口に花を咲かせるのである(もっと婉曲な表現に置き換える)。今日はちやうど互ひの夫で話が始まつたので、ひとしきり普段は云へない不満点やら、旦那の癖やら、寝言の内容やらで話がはずんだ。話題が変はつたのは佳奈枝がクッキーに手を伸ばして、一瞬会話が止まつた時であらうか、サクサクとした食感に彼女が顔を緩めてゐると、
「あなたゝち相変はらず音楽ばかりなのね」
と、多佳子はテーブルの上に置きっぱなしであつた総譜を勝手に取つてパラパラとめくる。そして、しまつた、これブルックナーぢやない。あゝ、また佳奈枝ちやんの薀蓄がたりが始まつてしまふわ。……と嫌な顔をしながら云ふので、そんな云はないでいゝぢやない。だつて、ブルックナーなのよ? と云ふと、どうせこれが第何稿目で、何処其処の小節が削除されて、フィナーレがどうのかうのと云ひ出んでせう? と云ふ。――全く、失礼な話である。稿問題はブルックナーの交響曲において本質的とも云へる問題であるのだから、何回議題に上つても上りすぎることはない。今、姉がパラパラとめくつてゐるスコアは交響曲第三番、俗にワーグナー交響曲と呼ばれる巨匠アントン・ブルックナーの記念すべき五番目の交響曲、――の世にも珍しい初稿版で、今日最も演奏される第三稿とは様々な箇所が違つてゐる。その大部分は「削除」といふ悲しい改訂なのであるが、もつと悲しいのはそれが作曲者本人からの要望で行はれなかつたことであらう。初演は実に酷く、ブルックナーが自身の手で幕を引いた時、観客席にはほとんど人が残つてをらず、そこには完全に途方に暮れた聴衆と、熱狂的に拍手喝采してゐる一握りの若き「信者」しか居なかつたと人はみな云ふ。その時点でこの交響曲は第二稿、つまり演奏時間にして初稿版から凡そ十分ほど短縮されてゐたのであるが、ブルックナーは初演の失敗を受けて、さらにそこから五分ほど短縮する。初稿が何故短縮されたのかと云ふと、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が上演を拒否したからであると云はれる。とすれば一連の改訂は、果たしてほんたうに作曲者本人の希望で行はれたことなのであらうか。交響曲第四番ほどではないにせよ、初稿と第三稿はほとんど違ふ曲である。確かに改訂によつて一つの曲として纏まりが良くなつたかもしれない、より分かりやすく馴染み深くなつたかもしれない。しかしせつかくの味はひを消してしまつてゐるやうに見える。ワーグナー交響曲の味はひとは、神の世界、――つまり自身の教会音楽と、祝祭、――つまりワーグナーの楽劇、その二つの世界を行つたり来たり、時には共存させたりして、途方もなく広い世界を作つてゐるところにある。改訂に当たつてブルックナーはこの部分をほとんど取り去つてしまつた。第二第三稿でも様々な世界との対話が多々見られるけれども、やはりワーグナーの楽劇と自身のミサ曲を同じ〝交響曲〟において引用する、その破格さに比べるとゞこか物足りなく感じてしまふ。当時の聴衆はそんな不敬とも云へる味はひを殺したのである。彼らに合はせる形で書き直された第三稿が果たして交響曲第三番の「ベスト」であるかどうか、二十世紀に入つてさう云ふ問ひが出てきたのも当然であらう。
と、交響曲第三番の稿問題について佳奈枝はひとまとめにしてもこれだけのことをつい語つてしまふので、多佳子はもとより里也すらも嫌な顔にさせてしまふのであつた。しかし、ブルックナーの交響曲を聞く際にはこれだけの前提知識を踏まえなければ失礼である。里也はどんな音楽でもすぐに自身の感性に身を任せてしまひ、標題音楽的な聞き方をするのであるが、 ブルックナーに関してもさ��云ふ聞き方をしてしまふのはあまり感心できない。彼は音楽とは感性で聞くものだと云ふけれども、アントン・ブルックナーといふ作曲家は自身の作曲法を体系化し、同じ構造を取りながらそれぞれが違ふ色彩を帯びた交響曲を作り出す、そんな実直で理論的な作曲家なのである。ブルックナーの交響曲を聞く際にはそのことを頭に入れておかなければならない。静寂から始まることも、特徴的な主要主題も、いきなり登場する歌唱楽段も、第一部を締めくゝる結尾楽想群も、切れ目のない展開部再現部も、楽章を跨ぐ巨大なアーチ構造も、全て綿密に計算され尽くした結果なのだから、そこからどのやうな世界が広がつてゐるかを知るにはまず彼の作曲家に対する深い知識を得ることから始めるべきであらう。すると先に出てきた交響曲第三番では、第一楽章冒頭のトランペットの主題が幾度となく、――最後には第四楽章のクライマックスにおいても回帰するといふ、たゞの作曲技法にも楽しみを見出すことが出来るやうになる。簡単に云へば交響曲をある偉人の伝記でも読むやうな感覚で聞くことが出来るやうになると云つたところか。そんな単純な楽しみ方も、知れば知るほど出来るやうになるのである。里也はそこが甘いのであるが、しかし元々学者肌な彼のことだから、一度さう云ふことを教へるとその後数週間はずつとブルックナーの世界に浸つてしまふ。その惚けた表情を眺めるのもまた別の楽しみだけれども、沙霧と同じくロマン派と云つても情緒的なロシア音楽ばかり好きになつて行く彼が、そこまで引き込まれてしまふのである。況してや自分が聞けば云はずもがなである。まつたく、ブルックナーの交響曲といふ、取つ付き易いのか取つ付き難いのかよく分からない十一個の曲には、恐ろしいまでの魔力が込められてゐるのであらう。(味が無い文章なので後で書き直す)
「でも、たまにやめたくならない?」
多佳子は再び総譜を開きながら聞いた。やはり本格的に読んで行くといふよりは、手持ち無沙汰にたゞ眺めてゐると云つた風である。
「もう生まれてからずつとやつて来たからね。さうは簡単にやめられないわ」
「いゝなあ、私も一つくらゐ、長いこと続く趣味と云ふやつがあればなあ。……」
「それなら姉さんもピアノかフルート再開すればいゝのに。ピアノは電子ピアノがあるし、フルートは安いのだと十万円くらゐからあるよ?」
多佳子もまた里也と同じく、大学を卒業してからはゞつたりと楽器を演奏するのをやめてしまつてゐた。彼と違ふのは情熱が失はれたと云ふよりも、家庭が忙しいと云ふ理由からではあつたが、楽器が手元にあつたところでピアノの鍵盤を開くのすら、フルートを組み立てるのすら、億劫に感じて結局続かないかもしれない。佳奈枝はそれが残念で、生まれて間もない頃から、この姉から熱心に音楽を教へてもらつてゐたゞけに、会へば必ずと云つていゝほど、楽器を再開してみればとそれとなく提案してゐるのであつた。
「あんたゝちとは違つて、こつちは薄給なんですー。それに、もう楽譜が読めないから、無理。無理無理。これ何の音?」
と、適当に開いたペーヂにあつたとある音符を指差す。
「どれ〳〵、――それはE の音よ。でもそれハ音記号だから私もパツとは分かりづらいわ」
「それでもちやんと読めてるからいゝぢやない。私はもうドから追つていかないとだめだわ。再開しやうにもそこが面倒でね、……」
「それ里也さんも似たやうなこと云つてたわ。俺はもうトロンボーンのパート譜しか読まない、何がA 管だ、何がF 管だ、全部ドはドの音で書いてくれ。やゝこしいわ。もう知らん!――つてね。いつたい、何年楽譜を読んできてるんだか」
「あはゝ、彼も苦労してるのね。――さう云えばその里也くんは? 私、彼にもお土産を買つてきたんだけど。……」
「今日はデートに行つてる」
「デート?」
「ほら、例の沙霧ちやんと。……」
「あゝ、なるほど、それで佳奈枝はお留守番といふわけか。ほんたうに里也くんの独占状態ね。――うわあ、いゝなあ! めちやくちや可愛いんでせう?」
と、身を乗り出して云ふ。一体全体、多佳子は未だに沙霧の写真すら見たことがないのであつた。佳奈枝から可愛いといふ噂話しか聞いてゐない彼女は、妹夫婦の結婚式をまた別の意味でも楽しみにしてゐたのであるが、新郎側の参列者をいくら見渡してみてもそれらしい姿は見当たらないし、挨拶ついでに聞いてみると里也からお姉さんすみません、私からも強く誘つたのですが、何分妹はかう云ふ場には慣れてゐないどころかトラウマがあるやうで、本人の意思を尊重した結果、出席しない運びとなりました。代はりと云つては何ですが、よろしくおねがいしますと云つてゐたことを申し上げます。さらに勝手な都合を重ねて申し訳ありませんが、口ではあゝ云つてをりますが本心では彼女もまた、人と人との繋がりを望んでゐる者でございます、ですので私からも、今後もしお会ひした時には仲良くして頂きたいとお願ひ申し上げます。と、今となつては笑つてしまふほど畏まりながら云はれてしまつた。以来、多佳子は一回くらゐは会つておかねばと思ひながら、しかしこれと云つた機会がないために、なあ〳〵になつてしまつてゐるのである。
「そんな姉さんに良い知らせがあるんだけど、聞きたい?」
「え、なに? 良い知らせなら聞きたい。沙霧ちやん関係?」
「うん。今度のゴールデンウィーク、……になるかは分からないけど、私と沙霧ちやんの二人きりで京都に行くことになつてるの。それで、――」
佳奈枝は今日この姉の姿を見た時から考へが浮かんでゐた。きつと里也は苦い顔をするだらうから今まで躊躇してゐたのであるが、あの男は頑固なところが見えて、解きほぐすのが面倒な問題にはあつさりと手を引いてしまふのである。今回は妻の姉を交へた約束事を破棄しようとするけれども、彼女が強く云へば何も云へまい。相談すれば必ず怒られて止められてしまふであらうから、さうなる前に今この場で決めて、彼には後から知らせよう、この件はそれだけでいゝはずだ、――と彼女は思つて、
「姉さんもどう? 一緒に来ない?」
と、多佳子を新緑の京都へと誘つた。
「行きたいのは山々だけど、それほんたうに行つてもいゝの? だつて彼女、今にも死にさうなくらゐ繊細な子なんでせう?」
「いゝの〳〵。今回ばかりは大真面目に、沙霧ちやんを引きこもりから脱出させようといふ、……ま、それでもピクニック程度なんだけど、目的が目的だから、姉さんが来た方がむしろ効果的ぢやないかしらん?」
「さうかなあ、……一応里也くんと相談した方がいゝぢやない? それで行つてもいゝよと云はれたらで、お姉ちやんはいゝです」
「えゝ、……姉さんも来なよ。会ひたいんでしょ? 姉さんがさう云はないとダメなのよ、この話は」
佳奈枝は少々強い口調でさう云つたのであるが、多佳子はほんたうにどちらでもよいらしく、その後も再び総譜に落とした目をそのまゝに生返事をするだけである。しかしかう云ふ態度を取られるのは初めてゞはない。何かに似てゐると思へば、この態度は夫のそれと同じである。彼もまた、どうでもよい話には適当に返事をして、適当に頷いて、すぐソファに寝つ転がつて本を読み始める。佳奈枝は自身の姉がそんな態度を取つてくるのがたまらなかつた。姉さんが昔から会ひたいと云ふから、せつかく誘つてあげてるのにどうしてそんな態度を取るのであらう。こちらとしてはむしろ姉さんを思つて云つてゐるのである。それを適当にあしらふなんてひどいではないか。彼女の頭の中には自分たち姉妹と上手く意思疎通が出来ず、意味不明なことを云ふ沙霧の姿が思ひ浮かんではゐたが、それもまた社会復帰への練習であると考へれば、やはり姉が来た方が目的に適つてゐるやうに感じられた。それに、自分よりも幾分柔らかい物言ひをする多佳子は、沙霧の緊張を解きほぐす上でも有効であるに違ひなかつた。
結局佳奈枝は、少々無理矢理ではあるけれども姉の首を縦に振らせることに成功してしまつた。が、総譜を引つたくつた際に不機嫌にさせてしまつたらしく、
「あんたほんまに無理無理やな。そんなこと他の人にしたらあかんで。特に沙霧ちやんみたいな繊細な子は、それだけでも怯えてしまうんやから、絶対にするな。それに、あの子はいぢめられてたんやろ? そんなら、古傷をえぐることになりかねんから、な? 分かつとる?」
と久しぶりに説教をしてくる。さつきまで里也と同じ態度を取つてゐたかと思へば、今度は里也と同じ口調で同じことを云ひ出す。佳奈枝はそれもまたゝまらなかったが、云はせるだけ云はせると、多佳子は静かになつて自分の分の紅茶をすゝりだす。机の上で育てゝゐるマザーリーフは今では葉の端つこの芽がちやんとした茎になつてきて、そろ〳〵鉢に植え替えた方がよいのだけれども、そこから可愛らしく生えてゐる小さな葉つぱが、親の葉のやうに大きくなるかと思ふと何だか嫌である。その葉を一枚一度突いてからクッキーの入つた底の深い皿に、佳奈枝は手を入れたのであるが、優雅な午後のひとゝきを過ごしてゐるあひだにほとんど食べてしまつてゐたらしく、残りはあとたつた一枚となつてゐた。
「あらゝゝゝ、……残念、姉さんの分はもう無さゝうね」
「なんと、……佳奈枝ちやんのクッキー美味しいのに、もう無いの?」
「姉さんにも食べてほしかつたけど、残念だつたわ、――」
と佳奈枝は最後のクッキーを口に放り込んだ。
「うん、美味しい。美味しいわ、姉さん。姉さんも食べたい?」
「……仕方ないなあ、私もほんたうに面倒くさい妹を持つたものね。一緒に作り、……いや、疲れたからちやつとこのまゝで。いやはや、楽しい二日間だつたわ。……」
と多佳子が腕を目一杯上にして伸びをするのを見届けつゝ、佳奈枝は立ち上がつた。疲れてゐると云つた割には姉は口を動かす元気はあるらしく、小麦粉を取り出し、卵を取り出し、バターを取り出しなどして生地を作つてゐるうちに彼是(あれこれ)と話しかけてきたが、まず云つたのは、それにしても楽しみだわ、沙霧ちやんと会へるなんて、ちやんと楽しませてあげなくつちや、――といふことであつた。
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きみの血で溺れる
ある日、忽然と父は姿を消した。 誰も悲しまなかった。その事について話しさえしなかった。 唯一母だけは昔の写真を引っ張り出して眺めていたが、 しばらくすると布を被せてまた引き出しの奥にしまった。 酒を飲むと別人のようになり、暴力をふるった父はもういない。 これで平和な日々が送れるのだと、その時は信じていた。 「兄さん、その髪…」 「ああ、染めてみたんだ。どうだ、似合ってるか?」 兄さんは無邪気にくるりと回ってみせた。 僕はこっそりとため息を吐き出す。 「明日からまた学校でしょ?浮くんじゃないの…」 まるで似合っていないとは言いづらい。 自分で染めたのだろう、染めムラが激しい。そのうえ色は目も覚めるような��。 僕が言うのもなんだが、兄さんは顔が綺麗な分、その不器用さが際立つ。 それに、どうしても頭の方に目がいくせいで、別の事が気になって仕方ない。 「みんな染めてるって」 無頓着にそう言った兄さんの肩を掴んで、僕は手近な椅子に座らせた。 怪訝そうに僕を見上げる兄さんの髪を掻き分け、そこに触れる。 「この髪色だと…傷、目立つよ」 そう言った途端、兄さんは急に荒っぽく僕の手を跳ねのけた。 「そんなの、どうでもいい」 一瞬僕を睨みつけて、それきり、何も言わずに部屋を出ていく。 僕は今しがた患部に触れた指をこすり合わせた。 頭皮ではないかのような、硬い感触。 あの傷は確か花瓶で殴られた時のものだ。 兄さんの身体には、未だにあの頃の傷が残っている。 左目の下に一筋、頭皮に複数の縫った跡。 背中にも、腕にも。綺麗なままの場所なんてほとんどない。 その複数が僕をかばってついた傷跡で、そのおかげで僕の身体には深い傷は残っていなかった。 あれからもう三年が過ぎた。 中学生だった僕はもう高校生で、高校生だった兄さんは大学生になっていた。 辛かった日々は終わった。あの人は失踪し、塞ぎこんで鬱を患った母さんは田舎で療養中だ。 けれど僕は、時々思い出してしまう。 目の前の兄さんが殴られる姿。床に血だまりが広がっていく、悪夢のような光景。 僕をかばわなければ、兄さんは自分の身くらい自分で守れたのに。 思い出したら震えが止まらなくなって、ただ俯いている自分がいる。 そういう時、兄さんはとても嫌そうな顔をする。 無表情に凍り付いたみたいな顔をして、そっぽを向いてしまう。 今みたいに。 「はぁ…」 言わなけりゃ良かった。 そう思いながらこすり合わせていた指を眺めた。 その視線の先に、見慣れないものを発見する。 「ん…?」 拾い上げてみると、鋭利な切っ先が僕の指を抉った。 たまらず床に取り落とす。人差し指からは血が出ていた。 その鋭い痛みに思い出す。これは見慣れないものなんかじゃない。 僕はこの破片をよく知っている。 もう一度拾い上げて、部屋を出た。兄さんはリビングにいた。 「兄さん、これ、落ちてた」 それを見せると兄さんの目は一瞬見開かれた。 割れた酒瓶の破片。 残りは僕が気付かないうちに処理したんだろう。 そういえば一昨日の夜、何かが割れる音で目が覚めた覚えがある。 兄さんに聞いても知らないと言われたから、昔の記憶がフラッシュバックしただけかと思っていた。 「これ、お酒の瓶でしょ。何してたの、一昨日」 責めるような口調になっていたかもしれない。 飲んでいただけなら別に構わなかった。 いや、兄さんはぎりぎり未成年だから構わなくはないのだけれど、それだけなら僕は許した。 けれどこの瓶は割れている。 割れた酒瓶、それが示すものはこの家では一つだけ。 兄さんも、あの人のような暴挙を― 「…………」 沈黙が流れた。そして兄さんは視線を逸らし、拗ねるように膝を抱えた。 ただ落として割っただけかもしれない。僕のそんな希望は打ち砕かれた。 今気づけば兄さんの手には血の滲んだ絆創膏が貼られている。 「暴れて割ったんだ、そうなんだ」 兄さんは何も言っていないけれど、その沈黙は肯定を示していた。 手にした破片が、さっき傷付けた人差し指に食い込んでいた。 言うべきじゃないと分かっていた。 けれど口先まで出かかった言葉は止まらなくて、その自暴自棄な皮肉を兄さんに向かって吐き出していた。 「父さんの真似なんてして、そんなに父さんの事が大好きだったんだ」 振り向いた兄さんの目はぬめって光を反射して、すごい迫力だった。 ああ、殴られる。他人事のようにそう思った。 「がっ」 痛みは感じなかった。ただ、熱くて苦しかった。 倒れ伏した身体の内側が、燃えている。そんな錯覚を覚えた。 折れた歯が口の中でからからと音を立てて転がった。 血の味がした。 それは僕の前でいつも守ってくれていた、兄さんがいつも味わっていたものに違いなかった。 兄さんはこの痛みを何回、何十回耐えてきたのだろう。 そう思うと胸が締め付けられて、どくどくと喘いでいた心臓が急速に冷えていった。 目を閉じると僕の前に立ちはだかる兄さんの背中が映った。 怖くないから。大丈夫。 兄さんが呪文のように繰り返していた言葉を思い出す。 あれはきっと僕にかけた言葉じゃなく、自分自身に言い聞かせるためのものだったんだろう。 僕は目を閉じたまま、黙って暴力に耐え続けた。 どれだけ経ったのか分からない。 身体はどこもかしこも重くてずきずきして、なのに身体は冷えきって自分のものじゃないみたいに床に転がっている。 兄さんは俯いたまま、ぼそりと告げた。 「許せ、許せよ蛍。あいつの血が、騒ぐんだ」 立ち上がりかけていた僕は、その言葉に動きを止めた。 冷えかけていた血が逆流するみたいに熱くなって、頭がぐらぐらと傾いだ。 あいつの血、なんて他人のせいにして。 例え僕のせいで怒り狂ったとしても、殴ったのは紛れもなく兄さん本人の意思じゃないか。 こんなにも本気で誰かを憎んだ事があっただろうか。 兄さんはいつでも僕のヒーローだった。 あの人の暴力と僕を隔て、日常を守ってくれていた。 そんなヒーローにヒーローのままでいて欲しくて、 だからこそ、こんなに楽しそうに僕を殴る別人が許せない。 兄さんなら、僕を守ってくれた兄さんなら優しいままでいてくれるんじゃないか、なんて。 いつの間にか、ほとんど力の入らない手が固く拳をつくっていた。 本当は僕の中にもその血が眠っている事を知っている。 だって、こんなにも許せなくて、今、すぐに消えて欲しいと。 僕の中にはこんなにどろどろと黒い感情が渦巻いている。 何か言おうと口を開いて、また閉じた。 矛盾した本心に気付いて自分まで嫌いになる。 そのぐちゃぐちゃな心を見抜かれたくなくて、だから結局。 兄さんが一番嫌いな、その名を呼んだ。 「椿」 「椿、おい椿、カラオケ行くぞ」 「ああ…」 その名前を呼ばれるたび、鉛みたいに重い黒いものが心臓に沈んでいく。 あいつが俺につけた名前だ。反吐が出る。 だけど今しがた俺の事を呼んだそいつは、生まれて初めてできた友人とも呼べる相手で。 そんな奴に理由も告げず名前を呼ぶなと強要できる訳もなく、俺は唇の端に血を滲ませながら立ち上がった。 「いつもの駅前のとこでいい?あ、そういえばさ、この間…」 どうでもいい与太話と肩に回された腕を振り払いながら、俺は改めて現状をかえりみる。 傷と痣だらけの俺は、いつも疎外され教室の隅っこに追いやられてきた。 友人なんて、いたことがなかった。 だから今も、どうやって付き合えばいいのかまるで分からない。 その傷、喧嘩?すげぇ、強そう。 そんな言葉で俺に近づいてきたそいつはカラオケが大好きで、毎週のように俺を引っ張っていく。 そのたびに話した事もない面子がついてきて、人気者なんだな、とやっかみ気味に思う。 今だってそいつは楽しげにさっきの与太話を繰り返しているのに、俺はちっとも楽しい気分になれない。 それは、財布の中身が気になるから、という別の理由もある。 人付き合いにこんなに金が要るなんて知らなかった。 金が、金が足りない。 奴らは湯水のように金を使って、俺にも当然それに付き合うだけの金があると思ってる。 けれど俺には俺の大学費用を捻出するだけの金しか残ってない。 というか、それすらもう危うい。 何とかして金を、使ってしまった学費を、そして奴らと対等に渡り合えるだけの金を手に入れないと。 胃の辺りがむかむかする。喉の奥がチリチリと痛む。 カラオケから解放された俺は、不必要に早足で家へと向かった。 このイライラを押さえられるかも、なんて酒を買ってみたのが間違いだった。 「許せ…許せよ蛍。あいつの血が、騒ぐんだ」 なんとかひねり出した声は、無機質な機械みたいにノイズを含んで足元に落ちた。 飲んでいた時は幸せだった。何もかも忘れる事ができた。 気付けば割れた瓶が転がっていて、唖然とした。 まるで、あの時のようだった。 虚しさと苦しさと後悔が混じって、ただ立っている事しかできない。 立ち上がろうとしていた蛍の動きが止まったのを見た。 振り向いた蛍は、今まで見たこともないほど冷たい目をしていた。 蛍は顔を歪ませて、ずっと封印していたその単語を吐き出した。 「椿」 比喩ではなく、ブチンと切れる音がした。 こめかみの辺りがどくどくと脈打って、痛い。 また振り下ろした俺の拳は、血管を浮き上がらせて醜く震えている。 「そんなに殴りたいなら、僕を殺すまで殴れよ」 蛍は口の端に血を滲ませながらも、確かに笑っていた。 その表情を見た途端、皮膚が泡立つような感覚に襲われて、嗚咽が漏れた。 俺は何をしている? 自分の手を見下ろすと、ぬるついた赤がまとわりついていた。 痛い。泣きたいほど痛い。 それが自分の手なのか心なのか弱々しく俺を嘲笑う蛍なのか、それすら分からない。 分からない。なんでこんなに、俺は。 興奮している。 醜く笑うあいつの顔が浮かんだ。 お前は所詮俺の子だ、と言われた気がした。 喉の奥に引っかかるような笑い声が聞こえた。 その下卑た声を振り払うために。 今日も。 救いを求めて殴った。 焦燥に任せて殴った。 されるがままになっている蛍の目が苦しいくらいに澄んでいて、俺はその胸倉を掴んだ。 ああ、そんな目をしないでくれ。 心が痛むんだよ。 俺を見透かしたような、そんな目で見ないでくれ。 全部、あいつのせいなんだ。 あいつが残していった、この血が騒ぐんだ。 俺はがあああと吠えた。吠えながら蛍を殴った。蹴った。 動かない物なんかじゃなく、生きた人間を殴りたいと、急き立てられるように思ってしまう事がたまらなく怖かった。 いつかあいつのようになってしまうんじゃないかと思った。 俺が誰よりも憎んだ、あいつのように。 ああ。 俺の拳は蛍のわき腹に醜い痣をつけた。 止めてくれ、この俺を止めてくれよ。 鼻の奥がつんとして、目頭から汗が滴り落ちる。 止めてくれよ。 声にならない悲鳴をあげながら、何度も疲れ果てるまで蛍を殴った。 もう限界だ。 ある日唐突にそう思った。 気付けば学校にも行けず、寝るのも起きるのも億劫で意識を手放しながらたゆたう生活に依存していた。 数日経つのに、電話も鳴らない。 両親共々消えた家などに関わりたくない、そんな大人の思考が垣間見える気がした。 不意に持っていた割り箸が落ちた。 兄さんが買ってきた弁当は味がしない。 兄さんが入り込んだ風景には色がない。 兄さんの息が混ざった空気は僕の肺を刺す。 今は兄さんがいないから、少しましだけれど。 なんとか僕は立ち上がって、玄関のドアを開けた。 逃げ出せば、楽になれるのだろうか。 靴を履くのもおっくうで、僕は裸足のままふらふらと歩き出した。 きっと今の僕は痣だらけで、汚れて醜いだろうけれど。 今だけは、この穏やかな気持ちに浸っていたい。 幸い通りには誰もいなかった。夜明けの空気が薄着を貫通して肌に突き刺さった。 「おい、蛍…どこ行ってんだよ」 静寂はすぐに破られて、その声が聞こえた。 荒い息遣い。走って来たんだろう。 僕は兄さんの方を見なかった。静寂を破った代償を求めるかのように、無言で突き飛ばした。 兄さんは見事にバランスを崩して、すぐそばにあったゴミ捨て場のゴミの中に尻もちをついた。 「おい、何すん…」 それでもすぐに立ち上がろうとした兄さんの膝の上に、衝撃で支えを失ったらしいぼろぼろの学習机が倒れてきた。 「い゛っ」 ゴギュ、と嫌な音がした。膝の皿が割れた音だった。 顔を歪める兄さんと目が合った。 心は、まだ穏やかなままだった。 僕は台所からくすねてきた包丁を取り出した。 死のうと思っていた。 兄さんなんて取り残して死のうと思っていた。 なのにここまで来て、どうしてこんなに、身体が震えるんだろう。 どうして。 包丁を逆手に握った。碌に食事も摂ってい��い身体は震えて、震えて言うことをきかない。 兄さんの方へ、一歩。また一歩。 兄さんはぴくりとも動かない。 その喉元に光る刃をあてがい、僕は息を詰めた。 これを一筋、掻き斬れば僕はもう殺人鬼だ。 あああああ、と自分のものではないかのような声がほとばしった。 カラン、とやけに綺麗な音がした。 声が途切れた。 荒い息を吐いて、吐いて吐いて、吸った。 「やっぱり僕には無理だ。兄さん、あなたの事が憎くて憎くて仕方ないのに」 僕は泣いているんだろうか。きっとそうに違いない。 唖然として僕を見上げていた兄さんの姿がみるみる曇って見えなくなった。 「僕には、耐える事しかできないのかな」 落とした包丁を拾う。かすかに兄さんの血がついて、ただそれだけだった。 「きっと、そんな事はないと、思うんだ」 抑えても抑えても声が震えた。 天を仰いだ僕に、僕よりももっと震えた兄さんの声が届いた。 「やめろ、蛍…!」 遅かった。僕が突き立てた包丁は内臓を引き裂き、大動脈を両断した。 視界がぐちゃぐちゃに滲んで赤い色が散った。 一瞬で何も分からなくなって、気付くと地面に寝転がるみたいに倒れていた。 視界が揺れている。そんな中見慣れた赤い色が揺れている。 「椿…」 掠れた声で呟いたが兄さんには聞こえていないのか、そんな余裕すらないのか。 ゴミ捨て場から這い出そうとしながら、こちらに向かって兄さんが必死に手を伸ばしていた。 その目は泣きそうに歪められていて、それは初めて見る表情かもしれない。 そっと手を伸ばした。地面を這ったその腕はすぐに力を失い動かなくなった。 ああ、そんなに情けない顔をしないで欲しい。 兄さんは結局僕しか殴らなかったんだから、僕さえいなくなれば誰も殴らずに済むよ。 そんな言い訳ももう届かなくて、だからやっぱり僕は兄さんにむごい事をしてしまったのだと思う。 僕にまで見捨てられた兄さんは、きっと独りぼっちのまま生きていくしかない。 ざまあみろ。 そう吐き捨ててみたかったけれど、もうそんな気力は残っていないみたいだった。 だから、僕は。 地面にぶち撒けられた赤とゴミ捨て場の臭気と、廃棄物に埋もれかけた兄さんの赤い髪、そして溢れてく命の匂いを感じながら。 僕はそっと目を閉じた。
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hiro-inami · 7 years
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GWの映画語り
 振り返ればGWは、仕事疲れからか普段読んでような重厚な海外文学すらも読む気にもなれず、いつもに比べてよく映画を観ていた。
 観たのは「ジェイソン・ボーン」、「ドライブ」、「エクス・マキナ」だ。全部iTunesでレンタルした。TSUTAYAで借りればもっと安く借りられるのだが、店に行くのが億劫だった。割高だがふと思いついてすぐ観れるというのはなかなか便利だ。
 「ジェイソン・ボーン」はマット・ディモン扮する記憶喪失の元CIA工作員が主人公のシリーズ最新作だ。実は前3部作はかなり気に入っていて、劇場公開時から気になっていた。観てみるとストーリーの面白さは前作の「ボーン・アルティメイタム」ほどではなかったが、マット・ディモンは抜群の安定感だし、CIAの捜査官を演じたアリシア・ヴィキャンデルの美しさ、敵役のトミー・リー・ジョーンズやヴァンサン・カッセルのギラギラした存在感などなど見応えは充分だった。
 「ドライブ」は、行きつけのビールバー店長に強く勧められていた映画だ。自動車整備工ながら凄腕のドライブ能力を持つ謎めいた青年が主人公。彼は、窃盗犯の逃走を持ち前の���転技術で支援する「逃がし屋」を裏稼業としている。引っ越しした先の隣家に住む母子に好意を抱き、その夫を助けたため思いもよらぬ犯罪に巻き込まれてしまうというストーリー。「ジェイソン・ボーン」のような派手さはないが、メリハリの効いた緊迫感あるクライム・ストーリーになっていてかなり引き込まれた。ライアン・ゴズリングの繊細な表情の演技がとにかく素晴らしい。母役のキャリー・マリガンがかもし出す「優しく可愛く幸薄い」オーラにもこころ打たれた。また主人公に相対する悪役の凄みたるや恐ろしくて鳥肌がたった。俳優って大したものだ。
 「エクス・マキナ」は、「ジェイソン・ボーン」にも出演していたアリシア・ヴィキャンデルの出世作だ。彼女が扮するアンドロイドは、とにかく美しく哀しく魅惑的だ。ストーリもいろいろ含みがあって深読みしがいのある作品になっていた。
 この三本の中で一番観たかったのは、実は「エクス・マキナ」だ。この映画の脚本と監督のアレックス・ガーランドは、1999年の小説「ビーチ」で世界なベストセラー作家になったいる。小説家、映画監督双方で好評価かつ興行的にも成功した例はなかなかないので、どんな映画を作ったのか前から興味があった。これまで長らく脚本家として良作に関わっているし、この「エクス・マキナ」も映像的も美しく俳優の魅力もちゃんと引き出していて、僕みたいな素人がいうのもなんだが、堂々たるものだと感心してしまった。
 ふと思いついて観た映画だったけれど、どれも娯楽性が高めの映画ばかりだ。僕は文学は重厚なものを読んでるけれども、映画では文学のような作家性や芸術性を現状あまり求めていない。俳優さんのかっこよさや美しさを堪能し、ハラハラしたり笑ったりで十分といy、わりと単純なお客さんだ。
 たとえば「エクス・マキナ」には、人里離れた邸宅に引きこもって女性型アンドロイドを造る天才エンジニアが登場するのだが、彼がアリシア・ヴィキャンデル扮するアンドロイドを何の目的で作ったのかこの映画でははっきりと明かされていない。察するに彼にとって理想の「愛すべき女性」または「愛してくれる女性」を作りたかったと思うのだが、彼のその執着や葛藤が描かれたら面白い気もする。しかそ万人が楽しめる映画としては、そんな変態マッドサイエンテストのドラマのより、アリシア・ヴィキャンデルをメインに描いたほうが。その手のテーマは映画よりも文章で小説として読んだほうがハマれるはずだ。
 小説は読むのに時間がかかり効率的とは言い難いが、この数年は映画よりも描写対象が広く自由な文学の力に僕は魅了されている。でもライアン・ゴズリングやアリシア・ヴィキャンデルのなど魅力ある俳優さんはちょっとした眼の動きで、小説の数ページ分に匹敵する物語を語っている。映画も侮れない。
 そういえばGWの最終日は家族でアニメーション映画の「SING」を観たけど、予想以上に楽しい人情喜劇になっていて、これは正に映像ならではの作品だなと感心した。娘のリクエストで都内でも3館でしか公開されてない字幕版を観たのだが、スカーレット・ヨハンソンの歌唱力は驚きだっし、映画館で大笑いしたのも久しぶりだった。
 仕事や読書が厳しい分、映画には高揚感や楽しさ、笑いの方をついつい求めてしまうといったところか。
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kurihara-yumeko · 6 years
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【小説】黄昏時の訪問者 (上)
 孤独で優しい魔法使い
   Ⅰ.黄昏時の訪問者 (上)
 その日、アンナが病室を訪れた時、世界は燃えるような夕暮れに包まれていた。
 橋の上で足を止めると、遥か遠く、川の水面の中へと太陽が沈んでいくところだった。両岸の家々は赤い夕陽に照らされて、屋根瓦や壁の石材を黄金で縁取ったように輝かせている。黒炭で描いたかのような暗い影が長く伸びる。川面は金や銀のビーズを一面に敷き詰めたように輝いており、アンナはしばし呆然と、自らの頬にもその光をさんさんと浴びながら、その光景を見つめていた。こんなに見事な夕焼けを見たのは、一体いつぶりだろうか。
 教会から鐘の音が聞こえてきて、急ぐように家路を駆けて行く子供たちとすれ違う。アンナは遅れてはいけないと、その腕に抱えていた花束を抱き直して再び歩き出す。
 アンナは毎月第三水曜日に、その病室へ足を向ける。その日は決まって、職場が午後四時ちょうどに閉まるからだ。普段は六時まで職場に居残っている彼女も、この日ばかりは上司や同僚たちと同じように四時に退勤する。息子のジョンを保育園へ迎えに行くまで二時間の余裕があるので、こうして病院まで見舞いに行ける。病室に辿り着く頃には、面会時間がほとんど終わりに近付いているが。
 病室にいるのは、アンナの祖父、ジョージである。御年八十二歳になる彼は、浅黒い肌に深い皺をいくつも刻み、その姿はまるで年老いた柳のようだが、年齢を感じさせない、かくしゃくとした老人だ。ただ、長いこと肺の病を患っており、最近は歩くだけで呼吸が苦しくなって動けなくなってしまう。一日のほとんどをベッドの上で過ごしており、ほんの少しの移動でも車椅子に頼らねばならない。彼はそのことをふがいなく思っているに違いなかったが、それを口に出しているのをアンナが聞いたことはない。
 病院の玄関ホールへ入ると、診療受付が終了している外来の待合室を突っ切るように横切り、アンナは奥にあるエレベーターへと向かう。
 エレベーターが下りて来るのを待つ間、幼い少女が側を通りかかり、アンナの腕に抱かれた大きな白薔薇の花束に目を見開いた。まるで食い入るように花を見つめる少女に、アンナは「こんにちは」と話しかけたが、少女は驚いたように表情を硬直させ、そのまま何も言わずに通り過ぎて行った。ここに入院している患者なのだろうか。ジョンよりも少し年上くらいの子供だったが、親も看護師も、誰も少女に付き添ってはいなかった。
 だがアンナはすぐに、その少女のことは忘れてしまった。それは、エレベーターに乗り込み五階へ行き、病室の扉をノックした時、「どうぞ」という凛とした声を聞いたからだった。
 祖父の声ではなかった。もっと若い男の声のように聞こえたので、彼女は最初、病室を間違えたのかと思った。しかし扉を開けると、ベッドにはいつものように祖父がいて、半身を起こした姿勢のままアンナを見つめていた。部屋の窓はブラインドが細く開けられていて、清潔感のある白で統一された病室には、赤い夕陽の縞模様ができている。
 そして声が聞こえた通り、祖父のベッドのすぐ側には、ひとりの青年が椅子に腰かけていた。
 それは見知らぬ青年だった。黒いタートルネックのセーターと、濃紺のジーンズを身に着けており、それらは高価な衣服のようには見えなかった。黒い髪も少し伸ばしてあるようで、身なりからして学生、年齢からすると大学生くらいだろうか、とアンナは想像した。
 青年の肌は白く、瞳は髪同様に黒い。中肉中背の、どこにでもいそうな平々凡々とした若い男。
 それがアンナの、彼に対して抱いた第一印象だった。
 しかし、それでも彼女は、祖父の病室で彼と対峙した時、驚きのあまり言葉を発することができなかった。彼女はその日、祖父の見舞いに通うようになって、彼に来客があったところを初めて目の当たりにした。今までこの病室で出会ったのは、祖父以外はいずれも病院関係者だった。見舞いに来た血縁者にすら出くわしたことがない。祖父の病室で出会った最初の来客、それが孫娘の自分よりも若そうな、見知らぬ男だったのだ。
「どうしたアンナ、ぼけっとして」
 ベッドの祖父はしわがれた声で怪訝そうにそう言うと、もっと近くまで来るよう手招きをした。アンナは未だぽかんとした表情で青年を見つめたまま、祖父のベッドへと近付く。
「彼女が、お孫さん?」
 青年がジョージにそう尋ねた。穏やかな声音だった。まるで寝る前の子供に絵本を読んでやる時の、父親のような声。アンナの脳裏には一瞬、夫のことが過ぎった。息子のジョンは、一日の終わり、ベッドの中で夫に本を読んでもらうのを楽しみにしていた。
「そうだ。孫娘のアンナだ。知っているだろう?」
 祖父はそう言って、彼女のことを青年に紹介した。それから祖父は彼女を見上げ、
「アンナ、こちらはスミキ。俺の旧い友人だ」
 と、告げた。
 青年は椅子から立ち上がり、彼女のことを正面から見つめた。
「こんにちは、アンナ」
 そう挨拶をした彼の顔には柔和な笑みが浮かべられていたが、親愛の情を示すために握手を求めてきたりはしなかった。アンナは青年の両手が、黒くてぴったりとした手袋に包まれていることに気付き、それを不思議な気持ちで眺めた。乗馬用の手袋のように見える。どうして手袋なんてしているのだろう。手が汚れるような作業をしている訳でもないのに。
「初めまして。……知らなかったわ、おじいちゃんにこんなに若いお友達がいたなんて」
 アンナが持って来た花束を手渡しながらそう言うと、祖父は白い薔薇の花に表情を多少和らげたものの、不機嫌そうな声を出した。
「こいつが若いもんか。言っておくが、スミキは俺よりずっと年上だ」
 アンナは少し目をみはり、それから苦笑した。この祖父が冗談を言うのは珍しいことだった。
「僕って、そんなに年だったかな?」
 青年はきょとんとした表情をしている。ジョージは受け取った花束をベッド脇の戸棚の上に置きながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前はいつまでも若作りな顔をしおって。八十年前からちっとも変わっておらん」
「顔だけは綺麗なままでいたいんだ。アネッサも褒めてくれた顔だからね」
 青年は手袋を嵌めたままの両手で自らの頬を触り、それからジョージを見つめて、
「君は、少し会わないうちに、ずいぶんおじいさんになったね」
 と、言った。
 ジョージはやれやれと言うように首を横に振り、肩をすくめる動作をする。
「当たり前だ。お前と違って俺は魔法を使えないし、そもそも、もうだいぶジジイなんだ」
 それから彼は、孫娘が困惑した様子でふたりのやり取りを聞いているのを見やり、「まぁ、座りなさい」と声をかけた。
 部屋の隅に立てかけてあった折り畳み式の椅子を一脚、青年がアンナに手渡し、彼女はそれを広げて腰を降ろした。
 ベッドを挟んで反対側の椅子に座った青年を、アンナは怪訝そうに見つめた。こんなにも祖父と親しげに会話をする人物と、今まで出会ったことはなかった。
 祖父は若い時は大工をしていたが、アンナが物心つく頃には、すでに仕事を辞めていた。彼はかつての仕事仲間とも、近所の人々とも交流を持とうとしなかった。ときどき思い出したかのように立ち寄る友人や知人を、渋々家に上げていた。客人の相手をするのは、決まって祖母のマリーの方だった。祖父は眉間の皺をより一層深くしたまま、客の前ではほとんど口を開かなかった。そして一時間後には、追い払うように客を見送っていた。
 その祖父が、穏やかに会話をしている。まるで、この青年とは言葉を交わすことが億劫ではないと言うように。しかも、孫のアンナよりも若いであろう青年と。
 ときどき庭に出て植木の手入れをし、家の修繕や小さな棚を作るくらいで、ほとんどの時間を家にこもりきりで過ごしていたこの祖父は、一体どこで、この青年と知り合ったのだろう。
「お前に、スミキの話をしてやろうか」
 アンナの心中を読んだかのように祖父はそう言うと、ベッド脇に置いてある小さな戸棚を開け、そこから一冊の本を取り出した。ところどころが手垢で黒ずみ、擦れて色褪せた革表紙のその本を、彼は黙ってアンナに手渡す。彼女は祖父の意図を掴むことができないまま、その分厚い本を膝に乗せ、そっと開いた。
「あら……」
 それは本ではなかった。多くの写真が収められたアルバムだった。写真は昔の物なのか、色のない物がほとんどだ。ページが後ろへいくにつれ、カラーの写真が混ざるようになり、アンナはやっと写真の中に見知った顔を見つけることができた。
「これ、おばあちゃんだわ」
 十年前に亡くなった祖母のマリーが、庭先で大きなゴールデンレトリバーを撫でている写真だった。
「この犬は、なんだったかしら……そう、エドね、エドワード」
 アンナは写真の中の犬を指差して、そう言う。
 思い出した。彼女がまだ幼い頃、祖父の家にはこの大きな犬がいた。年老いた犬で、鳴き声を上げることも、走り回ることもほとんどなかった。居間に敷かれたマットの上に寝そべっていて、アンナの顔を見ると尻尾を振り、口を開けてだらしなく舌を見せた。それがまるで笑っている顔のように見えたので、彼女はその犬のことが好きだった。だが、幼い彼女は、その大きな犬が突然豹変して襲ってきたらどうしよう、と恐れ、近寄ることができなかったのだ。
 写真の中の犬は、アンナの記憶の中よりもずっと活き活きしているように見えた。昔の写真なのだろう。後ろ脚で立ち上がり、前脚はマリーのエプロンに当てられている。まるで子供が母親にだっこをねだっているかのようだ。愛犬に優しそうな笑みを向け、頭を撫でてやっている祖母の姿もまた、アンナが記憶しているよりもずいぶんと若々しく見えた。庭に咲いている花を見ると、初夏に撮られた写真なのだろうか。半袖のワンピースから剥き出しのマリーの二の腕には、皺もあるがまだハリがある。
 次のページに貼られた写真には、庭の白いベンチに腰を降ろしている祖父の姿があった。病床にいる今よりもずっと元気そうな姿だ。その祖父の傍らに、佇んでいる若い男の姿があった。二十代くらいだろうか。白い肌に黒い瞳、襟足が少し伸びすぎている黒い髪。黒いニットを着て、首元には赤いスカーフが巻いてある。祖父とはずいぶん親しげに見えるが、見知らぬ男だ。だがアンナには、写真の男が目の前に座っている青年に似ているように思えてならなかった。
「これって…………」
 アンナが言いかけると、祖父はそれを遮るようにベッドから手を伸ばし、慣れた手つきでアルバムのページをめくり始めた。あるページで指を止め、とんとんと軽く叩くようにして写真を示す。
 祖父が示したのは、一枚の白黒の写真だった。教会の前に多くの人々が並んでいる。記念写真のようだ。人々の中心には華やかな白いドレスを着て白い薔薇の花束を抱いた女性が、同じく白い衣装を着た男性に笑顔で寄り添っていて、そのふたりが花嫁と花婿なのだとわかる。結婚式の写真なのだ。
 写っている人々は皆笑顔なのに、花婿だけがカメラを睨みつけるかのようなしかめ面をしている。どうして結婚式というおめでたい席の記念写真なのに、こんなにも不機嫌そうな顔をしているのだろう。
「もしかして、これっておじいちゃん?」
「そうだ」
 それがどうした、とでも言いたげに祖父は頷いた。写真の中の祖父と祖母は、あまりにも若々しくて、アンナには本当に自分の知る祖父母なのか判断ができない。今の自分と同じくらいの年齢か、それよりももう少し若いくらいだろう。六十年くらい昔の写真ということになる。言われてみれば、若い夫婦の顔には確かに、ふたりの面影がある。
 写真をしげしげと見つめているうちに、アンナは見つけてしまった。参列者の中にひとり、見覚えのある顔がある。さっきの写真にも写っていた、あの若い男だ。襟の高いシャツと古めかしいタキシードを着て、髪は後ろに撫でつけられきっちりと固められていたが、その顔だけは間違いようがなかった。何しろ、さっきの写真と何も変わっていないからだ。少しも変化が見られない。
 信じられない気持ちでアンナが向かいに座る青年を見やると、彼は手袋をした両手で自らの前髪をかき上げて見せた。そうした青年の顔は、写真の中の顔と全まったく同じだった。
「これも見てみろ」
 何も言えないアンナに、祖父はさらにアルバムのページを、歴史を遡るようにめくっていく。次に祖父が示したのは、もっと古い写真だった。紙は黄ばみ、茶色い染みが浮かんでいる。
 写真には、幼い男の子が写っていた。真ん丸の顔に、ソーセージのような指、ふさふさとした髪の毛。二歳か、三歳くらいだろうか。息子のジョンも、ほんの二年くらい前はこんな感じだった。夫のたくましい腕に抱かれて、嬉しそうにはしゃいでいた頃だ。
 写真の中の男の子は、ひとりの男と一緒に写っている。男はしゃがんで男の子と目線を合わせるようにして微笑みながら、写真の中から、写真を見る者に人指し指を向けている。恐らく、カメラの方を見るように、男の子に教えているのだろう。だが幼い男の子は、そんなことにはお構いなしといったようで、男の顔を見てにこにこ笑ったまま、カメラの方には見向きもしていない。
 黒いニットに、首には汚れたタオルを巻いて、くたびれて汚れた上着を羽織り、両手に黒い手袋を嵌めている男。伸びすぎた髪は後ろで結わえられ、まるで頭から生えた短い尻尾のようだ。その男は、やはり、青年と同じ顔をしていた。
「その写真の赤ん坊は、俺だ」
「おじいちゃんが、まだ赤ちゃんだった時の写真?」
「そうだ」
「さっきから、ずっと似たような男性が写ってるわ。この人は誰なの?」
「その男なら、お前の目の前に座っているだろう。スミキだよ」
「��んな訳ないじゃない」
 そう叫ぶように口にしてからアンナは、自分の声が思っていた以上に響いたことに驚いた。はっとして口を手で覆ったがもう遅い。声はきっと廊下まで漏れてしまっただろう。大声を出してしまったことが急に恥ずかしくなる。
「おじいちゃんの言っていることが本当なら、この人は八十年近く前に若者の姿だったことになるわ。八十年経ったら、おじいちゃんよりもずっと老けていないとおかしいじゃない。なのに、おじいちゃんの結婚式の時も、おばあちゃんが元気な頃の写真でも、まるで見た目が変わっていないわ。今だって……」
 意識して声を潜めるようにしてアンナはそう言ったが、祖父は片手を挙げて、「まぁ落ち着け」と彼女をなだめた。
「アンナ、お前の言いたいことはよくわかっているつもりだ。お前の言う通り、スミキは昔から少しも変わっていない。こいつは年を取らないんだ」
「年を取らない……?」
 アンナは祖父の言っていることが理解できなかった。
 年を取らない男。理解はできないが、そう言われれば一応、説明はつく。
 どうして八十年前の写真のままの姿なのか、それは年を取らないから。
 だがそんな回答では納得することは、到底不可能だった。この青年は、写真に写っている人物のクローン人間だ、もしくは、整形手術してその写真の人物と同じ顔に変えた、という答えの方が、よっぽど真実味を帯びている。
「違うよジョージ」
 今までうっすらとした微笑みを浮かべたまま黙っていた青年が、その笑みを崩さぬまま、口を挟んだ。
「僕は年を取らない訳じゃない。ただ、顔が変わらないようにしているだけだよ」
「それを、『年を取らない』と言うんだ」
「そんなことないよ、ほら」
 そう言って青年は、左手の手袋を外した。現れたその片手を見て、アンナは思わず息を呑んだ。それは若者の顔にはとても不釣り合いな、皺だらけの痩せ細った手だった。
 爪はいくつかが黒ずみ、いくつかは黄色くなり、どれも分厚く固く、周囲の皮膚に食い込んでいる。皮膚には細かい皺が覆うように刻まれており、骨は角張り、まるでコウモリの翼のようだ。そばかすのような染みもある。その手だけを見れば、この手の持ち主は百歳を越えている老人だと言われても、疑うことはないだろう。
 青年はその手で自らの頬に触れた。そうして若者の顔と老人の手が並ぶと、その違和感が気味悪かった。
「ほら、こっちも」
 青年の手はタートルネックの襟元をめくって見せた。今まで襟に覆われていた彼の首元は、その手と同じく、まるで老人のようだった。
「ね? 顔から下は、ちゃんと年を取ってるでしょ?」
 そう言って、青年はにっこりと笑う。写真の中で赤ん坊だったジョージに向けていたのと同じ笑顔だ。
「なんだったら、服を全部脱いで見せようか? お腹とかお尻はちょっと恥ずかしいけど。すごいしわしわだから」
 青年がそう言うと、ジョージが、
「誰が男の裸なんか見たいもんか」
 と、不機嫌そうな声で言った。
「女だったら見たの?」
「ばあさんの裸なんか、なおさら勘弁だ」
 そんなふたりのやりとりは、アンナの耳にはまったく入ってこなかった。
 アルバムのページを何度も行ったり来たりしてそれぞれの写真を見比べてみるが、どの写真に写っている男も、今、目の前でにこやかにしている青年と同一人物にしか見えない。
 首と手は老人で、顔は若者のまま。そんなことが可能だろうか。八十年前から顔をまったく同じに保つなんて、そんなことできるはずがない。
 しかし、どうして手袋をしているのだろう、という先程浮かんだ疑問は、こうして解決された訳だ。顔は二十代の若者なのに、手があんなに皺だらけでは、他者から奇異の目で見られる。手袋をすることで隠していたのだ。タートルネックを着ているのも同じ理由だろう。他の部位は服を脱いでしまわない限り隠すことができるが、手と首だけはそうはいかない。
 そう言えば、写真の中の青年は、必ず首元を隠し、手袋を嵌めている。アンナはそのことに気が付き、そして、ぞっとした。
 一体、いつから?
 一体いつから、この男は年を取っていないと言うのだろうか。
「……あなたは、何者なの?」
 彼女がそう問いかけた時、外した手袋を再び装着している途中であった青年は、一瞬きょとんとしたような表情をして、それからやはり、うっすらと微笑んだ。
 アンナの背中には冷や汗が流れた。その笑っている瞳の奥に、何かぞっとするようなものの片鱗を見てしまったような気がしたからだ。だが、薄く開かれた青年の口から発せられた言葉は、驚くほどに朗らかな声音だった。
「僕は、魔法使いだよ」
「……魔法使い?」
「そう。破滅の導師とか、不可能の術士とか、黒き無秩序って呼ぶ人もいるけれど、僕は魔法使いだ。自分ではそう思っているし、できればそう思ってもらいたい」
 魔法使い。
 それはおとぎ話やファンタジー映画の中でのみ使われる単語だと知っていたが、この青年と対峙している今、その単語が彼を表すのにあながち的外れでもない、ということが彼女にはわかる。この青年が何者なのかわからないが、彼が常人ではないということは、誰にだってわかる。
「どうして、おじいちゃんは魔法使いとお友達なの?」
 アンナは、今度は祖父に向けてそう尋ねた。祖父は黙ったまま彼女の膝の上で開かれたままだったアルバムのページをめくり、先程の、自分が赤ん坊だった頃の写真を指差した。
「スミキは我が家の庭師だった」
 幼い祖父と顔を見合わせて笑っている青年の服装は、言われてみれば庭師のように見えなくもない。
「そして、子供だった俺の遊び相手でもあった。俺は生まれつき肺が弱く、近所の子供たちと同じように遊べなかった。スミキは月に一度、うちに来ては庭の手入れをしてくれた。他にも庭師は数人いたが、一番若いのがスミキだった。俺はスミキに懐いていたが、学校に上がる頃にうちへ来なくなった。他の庭師に尋ねても、理由は教えてくれなかった。その頃には、俺の肺の病気はだいぶ良くなっていて、そのうちにスミキのことは忘れた」
 ジョージはそれからまた、アルバムのページをめくる。結婚式の写真を指差した。
「次にスミキに会ったのは、俺の結婚が決まった頃だった。スミキは突然、ふらっと俺の前に現れた。子供の頃に出会った姿と、何も変わらない姿でな。顔を見てすぐに、うちにいた庭師だと思い出した。そして、今のアンナと同じように、俺も狼狽えた。いくら変わらないといっても、限度がある。十五年以上経っても、若いままの姿だなんてな」
「僕もびっくりしたよ。あの赤ん坊が、こんないい男になってるなんて」
 青年がそう口を挟んだが、ジョージは相手にしなかった。話を続ける。
「俺は訊いた。あんなに俺の相手をしてくれたのに、突然いなくなったのはどうしてだったのか、と。こいつは言った。『実は僕は、庭師なんかじゃない。ただ、子供の頃病弱だった君が心配で、側で見守ることができるように、庭師の振りをしていただけだ。君の病気が良くなったから、僕は安心して消えたんだ』ってな。俺はまた訊いた。お前は一体、何者なんだ、どうして昔と少しも姿が変わらないのか、と。そしたらこいつはこう答えたのさ。『僕は魔法使いで、昔の恋人の、魂の継承者を見守り続けている』」
「魂の継承者……?」
 アンナが訊き返すと、青年は朗らかな声で「そうだよ」と答えた。
「君のおじいさんは、僕の恋人の魂の継承者、つまり、生まれ変わりなんだ」
「生まれ変わり……。おじいちゃんの前世が、あなたの恋人だった……ってこと?」
「そうだよ」
「言っておくが、俺には前世の記憶なんてないぞ」
 ジョージが渋い顔をして、首を横に振りながらそう言うと、
「そりゃそうだよ。ジョージの前世は男性だったもの。君の魂が僕の恋人だったのは、もっとずっと、もう数十世代も昔だよ」
 と、青年は笑いながら言った。
「じゃ、じゃああなたは、おじいちゃんの前世も、そのまた前世も、そうやってずっと、見てきたっていうの? 恋人の生まれ変わりを、数十世代も、ずっと?」
「そうだよ」
 青年はにっこりとした笑顔だった。アンナは絶句した。大法螺を吹くことは誰にでもできるが、あの皺だらけの手や、アルバムの中の変わらない彼の容姿を見てしまった今、それも嘘ではないのかもしれない、と思えてしまう。
「でもどうして、恋人の生まれ変わりを見てきたの? おじいちゃんだって、前世のことは覚えていないんでしょう? ときどきは、あなたの恋人だった頃のことを覚えている人がいるの?」
「ううん。皆、アネッサだった頃の記憶はない。前世のことなんて覚えていないよ。皆、自分が母親の胎内にいた時のことさえ覚えていないのに」
「じゃあ、どうして?」
「もうアネッサは、死んでしまったから」
 青年は変わらない笑顔のまま、そう答えた。
 アンナは彼に何かを尋ねようとして、しかし、何も言えなかった。
 もうアネッサは、死んでしまったから。
 そう言われてさらに何か問うべき言葉を、アンナは持っていなかった。
「話を、続けても構わんか?」
 祖父はアンナにそう断ってから、話を続けた。
「俺の前に現れたスミキは言った。結婚のお祝いを言いに来たのだ、と。俺は不思議だった。一体どこからその話を聞いたのか。まだ両家しか結婚の話は知らないはずなのに。そしたらこいつは、『魔法で』って言いやがったのさ。魔法でなんでも、知りたいことは知ることができると。俺は信じられなかった。だから訊いた、『なら、俺とマリーの子供はいつできる?』って。そしたらこいつは平気な顔で、『彼なら、もうマリーのお腹にいるよ。こないだの土曜日に着床したばかりだ』って言ったんだ。その時にも驚いたもんだが、その後で本当にマリーが妊娠しているとわかった時には飛び上がるほど驚いた。産まれてきた子が男の子だった時には、俺にはもう、スミキの話を疑う余地はなかった」
 アンナは黙って祖父の話に耳を傾けていた。青年も穏やかな微笑を浮かべたまま、黙っている。祖父は咳払いをひとつして、続けて言う。
「それからスミキは、何か祝いごとがある度に俺のところにやって来た。子供たちが産まれた時、高校に入学した時、それから、彼らが結婚した時と、孫が産まれた時だ」
 祖父はアルバムのページをめくり、祖母のマリーと、犬のエドワードが写っている写真を指差す。
「アンナ、これはお前の兄のマルクが産まれた頃の写真だ」
 ということは、三十年ほど前の写真ということになる。マリーもエドも、アンナの記憶の中よりもずっと若々しい姿をしているのは、やはりそれだけ過去の写真だからなのだ。
 アンナは青年に向かって尋ねた。
「私が産まれた時にも、あなたは来てくれたの?」
「もちろん。君が結婚した時も、君がジョンを産んだ時も、僕はジョージにお祝いを言ったよ」
「それから、身内に不幸があった時も、スミキは俺に会いに来た」
 祖父がそう言ったことで、アンナは少しばかり目を見開いた。
「それじゃあ……」
「ロバートのことは、本当に残念だった」
 言いかけた彼女を遮るように、しかし柔らかい口調のままで、青年はそう言った。そしてそれ以上は、何も言わなかった。アンナは確信した。この青年は知っているのだ。彼女の夫が、もう亡くなっていることを。
 (下) へ続く
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