#サバイバルで全力使い果たし
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moko1590m · 2 years ago
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競争上手の役立たず、は結構いる
無能な勤勉っすなあ
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poyojinsei · 22 days ago
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雑記20250514、やはり主にスタレ
労働生活を終了しました。やったじゃん! と思いきや私はサンデーではないので少しは労働したいんです、無収入はこの世の中つらい。。。しかし何はともあれしばらくはまったりとした日々を過ごすことになりそうです。
最近は2周年の影響でやはりスタレがアツく、ユニコーン2周目は捨て置かれています。今再開しても勘を失っていてダメそうだけど程よく忘れていてちょうどいいかもしれない。
スタレLIVEもリアタイで配信を見ましたがすごくよかった。星間旅行がやっぱり好きです。
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あとアナクサゴラスが強すぎて、これが最新のアタッカーの力か! と震え上がっています。そういえば最新のアタッカーというものを長らく使っていなかったのだった。調和キャラばかりは更新していたけれども……これがゲームのインフレかあ! ターニングポイントは周年でやってくるのか、去年もアベンチュリンを引いてその後、アベ以前に誰が耐久を担っていたのか全く思い出せなくなった。強いキャラ使ってると楽しくなってくる!
3.3のPVも出ていますがみんなどんどん預言通りに死んでいきそう。。。おそらく預言通りに一度なってからどう巻き返すかみたいな感じにはなっていくと思っている。だから3.3あたりから谷ですよね情緒の観点からいうと><
不死のモーディスもだめになってそうだったけど明らかにファイノンに教えた唯一の弱点をフレイムスティーラー氏が知ってるじゃん、明らかにファイノンがフレイムスティーラーじゃん、でもこれストレートすぎて逆に外してきそうな感じがする(疑心暗鬼)オンパロスは時間を巻き戻すのが軸になってるストーリーだから何回もループして失敗した結果闇落ちした別の世界線のファイノンかな~と思うけど全員そう思ってるだろうから逆に外してきそう。
トリスビアスの広めた預言がやっぱりどう考えても違うから、もうみんなごめんなんだけど全員殺して火種は回収しちゃう、それで絶対みんな救済できるから! 僕にやらせて! だから1回は殺すんだけど本当にごめん! みたいな状態がフレイムスティーラーかなと思っている。空の器は火種入れる用の自分のコピーなんだろうか。
だからフレイムスティーラーは実はいい奴だよ。みたいな。こうすればみんな結局復活はできるから! みたいな。1回全滅して時間巻き戻すのはピノコニーで似たようなことをもうやっているのでさすがにないと思う(圧)
ーーーーーー
とはいえずっとスタレばかりやっていてもゲーム生活には発展がないので、せっかく時間があるのを活かして今のうちにいろいろやっていきたい。
今やりたいゲームと今後期待しているゲームについては
・ユニコーンオーバーロード:2周目、手を付けたからにはちゃんとやりたいと思っています。
・ファンタジーライフi:かつて私の時間を大いに奪ったFLIFE待望の新作が登場。ずっと待ってた人間もいるんだぞ。でもあまり期待しすぎないようにしたい……。あと最近の私は何でゲームの中で労働しなければいけないんだ? という気持ちが強くなっているので前ほどはまれない可能性がある(この発言フラグっぽい)。
・サバイバルキッズ:超名作シリーズの新作が出るのヤバすぎて絶対やりたいのですが、絶対に私が期待しているようなゲームにはなっていないと思う、私にはわかる。明るくてシビアなゲームがいいじゃないですか! サバイバルは甘いものではないぞ。そのへんちゃんと踏襲されているのかPVからは不安でした。旧日本軍の遺物を発見するかと思いきや熊だらけの洞窟にうっかり迷い込んで命��落としてしまうこともある、少年の本物の命がけの冒険を描いてて昔のゲームだからあのニュアンス出せたのかなって思ってるところはある。。。ゲームオーバー時のセリフ「おとうさんおかあさんさきだつふこうをおゆるしください」があまりにもガチだった、けどそんなガチなゲーム本当に存在していたのか? 記憶改変されていないか不安になってきた。
・カービィ:エアライダーにマホロアが参戦するかどうか、参戦する方に賭ける人間が多すぎて賭けにならないと思いますが、マルクはどうですかね~大穴グリル(大好き)。でも個人的にはスターリーワールドのほうがもっと楽しみです。対人戦は辛いからさ。。。
・購入後放置されているゲームたちやクリアできてないゲームたちの救済:HADES(面白くて進めてたのにほかの大型ゲーム買っちゃって放置された)、Rain World(北米版がなぜか購入されている)、DQ3(DQ1、2を遊んで面白かった旦那が勢いに乗って購入したが、入り込めなかった模様)、サガフロリマスター(やってないルートがある)
・昔好きだったゲームたちのリマスターなど:幻想水滸伝1と2、クロノトリガーとクロス、サガフロ2など。
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thetaizuru · 2 months ago
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 ジョージ A ロメロ監督のゾンビ映画『ナイト オブ ザ リビングデッド』(1968)は、当時のタブーに挑戦しアメリカのホラー映画の新時代を築いた作品だと位置づけられている。「タブーを大胆に描写した」内容は賛否両論を巻き起こしたが、1999年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録される映画に選ばれ、今日においても、映画史に残る古典的名作として評価されている。  1968年10月1日に公開された直後に書かれた評論は非難一色だった。「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」と批判されたが、これがかえって、というか当然のように思えるが、ホラー映画に対するこれ以上ない賛辞として受け取られ、それもあってか、観客を増やした。1969年以降に書かれた評論ではまさに、「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」という表現が賛辞として使われ、評判を上げていった。公開から5年後には、「大手スタジオの外で制作されたホラー映画の中で、最も利益を上げた作品」だと評され、公開から10年で、アメリカで1500万ドル以上の興行収入をあげた。1968年にヨーロッパで興行収入トップのアメリカ映画だったとも言われる。製作費の250倍以上を稼ぎ、史上最も利益を上げた映画作品の一つとなった。 1971年のニューズウィーク誌で、この映画が「血に飢えた映画ファンの急増により、正真正銘のカルト映画になった」と評価された。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』に『ゾンビ』(1979)、『死霊のえじき』(1985)、『ランド オブ ザ デッド』(2005)、『ダイアリー オブ ザ デッド』(2007)、『サバイバル オブ ザ デッド』(2009)をあわせた6作は、ジョージ A ロメロ監督の「リビングデッド シリーズ」または「オブ ザ デッド シリーズ」と呼ばれる。
 「タブー」とは何だったのか。「ゾンビ」そのものであり、「ゾンビ」という言葉である。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』ではゾンビのことを「リビング デッド (生ける屍)」または「グール (食屍鬼)」と呼称しており、「ゾンビ」という呼称は次作『ゾンビ』から登場する。  映画『ゾンビ』は、原題は『ドーン オブ ザ デッド』で 国際題が『ゾンビ』である。1978年9月にイタリアで公開され、日本では1979年3月、アメリカでは1979年4月に公開された。これにより「ゾンビ映画」というジャンルを確立したと評価され、前作との2作によって「モダンゾンビ」を定義づけたとも言われる。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』では「ゾンビ」という言葉は使われていないというのは、トリビア的な「意外な事実」であり、観た人は「ゾンビ」と呼び、「ゾンビ(の)映画」として認識していた。『ナイト オブ ザ リビングデッド』が初めてのゾンビ映画だったわけでもなく、1930年代後半から1940年代にかけて多くのゾンビ映画が製作されていた。『ナイト オブ ザ リビングデッド』の作中で「ゾンビ」という言葉が使われなかったのは、厳密には「ゾンビ」なのかどうかわからないがどう見てもゾンビが、原因不明のまま何の説明もなく現れて襲ってくる恐怖を描くためだったとも説明されるが、実際のところ物語の設定やシチュエーションなどを提示するシーンを撮影する技術や予算がなかったための苦肉の策だったともロメロ監督は語っている。「ゾンビ」はハイチのブードゥー信仰に由来するらしいが諸説あるらしいし、「ゾンビに噛まれた者もゾンビになる」という設定は、そっちの方が怖いし、そうじゃないとゾンビが大量に出てくる理由もわからなくなるから、リチャード マシスンの小説『地球最後の男』(1954)に出てくる吸血鬼からインスパイアされる形で盛り込んだ。つまり、「モダンゾンビ」を定義づけたというより、ゾンビみたいななんか怖いやつを全く未定義のまま登場させた。観客が「ゾンビ」と呼んでいるので、次作では「ゾンビ」と呼称された。  「ゾンビ」が「タブー」で「事実上の検閲対象」だったとは誰も知らなかった。「ゾンビ」が「事実上の検閲対象」だったのは、映画においてではなく、漫画においてであった。  1990年代に漫画業界が、「事実上の検閲機関」であるとして「コミックス倫理規定委員会 (コミックス コード オーソリティ。CCA)」に批判の声を上げた。そこで、実際にあった検閲の例として挙げられたのが「ゾンビ」で、「ゾンビ」を漫画に登場させたい漫画家と、それを許可しないCCA側とのやり取りについて語られた。  1960年代後半にヒットしたゾンビ映画、つまり『ナイト オブ ザ リビングデッド』が公開されヒットした後、漫画家は、漫画にも「ゾンビ」を登場させたかった。漫画においても、かつてのホラー漫画において「ゾンビ」は人気モチーフだったが、1954年にCCAが発足して、規制された。1970年代中頃マーベルは、最終的には、ゾンビを「ザベンビース (ズベンビー)」と名付ける事によって規制を回避し、ゾンビを漫画に登場させた。この時CCAが規制の理由として漫画家に説明したのが、文学的な背景を欠いており、納得のいく科学的な説明がされていないため、というものだった。これが、90年代のCCAへの批判で、バカげた理由で行われていた検閲の例として挙げられた。  2000年代初頭には、ほとんどの出版社がコミックスコードを無視するようになった。2011年にコミックスコードを付けたコミックを出す出版社がなくなり、事実上コミックスコードの廃止となった。  コミックスコードは、映画界で1934年から実施されていた「ヘイズコード」をモデルにしたとされる。ヘイズコードは、一部の映画を不道徳だとして非難する団体などに対抗してハリウッド作品の上映を保証するため、業界側が自主的に導入したガイドラインである。戦時中を除いて、ほとんど順守されなかったとも言われる。ヘイズコードは1968年に完全に廃止され、代わりに法的拘束力の弱い新たなレイティングシステムが導入された。  この映画のレイティング システムに対しても、2000年代に批判の声が上がる。ここでは、レイティングを行うアメリカ映画協会(MPAA)の極端な秘密主義と、レーティングの基準が不明瞭である点が批判された。2006年、MPAAは、適切な情報公開と、レイティングの基準について適宜明確な説明をすることを約束した。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』が公開された1968年10月1日は、ほとんど機能していなかったヘイズコードが廃止され、MPAAのレイティングシステムが翌11月から実施される、そのちょうど何も規制がなかった期間だった。公開直後に書かれた「怖すぎる」「グロすぎる」「観ている人の気持ちを考えていない」と非難する評論は、この映画を観た人が読むと、この映画を観てない人が書いた文章のように読めた。この映画に出てこない悪霊が出てきたり、ゾンビが出てこなかったりするためである。つまり、後になって考えてみると、翌月から実施されるレイティングシステムの必要性を宣伝するために書かれたという理由以外がないように思える文章であった。
 太平洋戦争目前の1941年7月に設立されたアメリカ政府の諜報及びプロパガンダ機関「OCI (情報調整局)」が、日米開戦後の1942年6月に「OSS (戦略情報局)」と「OWI (戦時情報局)」に分割した。両局とも、敵の戦意をくじくためのプロパガンダ組織だが、前者は諜報活動のような非合法な手段によって、主に敵国の公衆に、不信、混乱、恐怖を与えることを目指す「黒いプロパガンダ」を担当した。CIA(中央情報局)の前身である。  後者は国内向けに、放送などにより、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指した「白いプロパガンダ」を担当した。ここに1941年12月に国務省に新設されていた検閲局が統合された。検閲は、あくまで「自主検閲」という原則で行われた。戦後、アメリカ合衆国国務省広報部の配下になり、USIE(情報教育局)、IIA(国際情報局)、USIS(アメリカ合衆国情報サービス)と名称を変え、1953年に国務省から独立してUSIA(アメリカ合衆国情報局)へと移行した。
 1953年、漫画業界は挫折を経験した。少年非行の問題を調査するために米国上院の少年非行小委員会が設立され、その翌年の1954年、漫画が未成年者の違法行為を誘発していると主張する精神科医による著作が出版され、漫画表現は主な読者層である子供に対し有害であると主張されると、漫画表現に対する反対運動が引き起こされた。漫画出版社は公聴会で証言するよう召喚された。時を同じくして起きた連邦政府による捜査は、コミック誌やパルプマガジンをアメリカ国内に配送していた流通企業の改革を促した。コミックの売り上げは激減し、複数の企業が倒産した。その結果、漫画出版社らは全米コミックスマガジン協会とコミックス倫理規定委員会(CCA)を結成した。こうして漫画出版社による自己検閲が実施されることになった。  コミックスコードでは、いかなるコミック誌も表紙に「ホラー」「テラー」「クライム」「ワイアード」といった言葉をタイトルとして使用する事を禁じていた。ECコミックは、これらの条項は、『クライム サスペンストーリーズ』『ザ ヴォルト オブ ホラー』『ザ クリプト オブ テラー』といった犯罪漫画やホラー漫画の人気タイトルを出版していたECコミックを意図的に標的にしたものだと信じていた。これらの規制及び吸血鬼、狼男、ゾンビの禁止は、ECコミックの収益を低減させた。CCA発足からの一年間で、現在でも人気のあるユーモア雑誌『MAD』を除くECコミックの全てのタイトルが廃刊した。  現代のコミックブックが初めて出版された1938年から1955年までの期間は「コミックブックの黄金時代」と呼ばれ、その内の1945年の第二次世界大戦の終結から1955年までは「漫画の原子力時代 (アトミックエイジ オブ コミックブックス)」とも呼ばれる。「原子力時代」は、スーパーヒーロー漫画の人気が衰え、漫画出版社は読者の関心を維持するために、戦争、西部劇、SF、ロマンス、犯罪、ホラーなど様々なジャンルに多様化した期間だった。また「原子力時代」は、テレビが登場し、マスメディアは各メディア企業と協力関係を結び、漫画出版社にも、当時の大衆文化を反映した漫画の出版を強いるようになった。漫画は宇���、ミステリー、サスペンスに焦点を当てていたが、テレビや他のメディアは科学技術の進歩に注目していた。特に原子力について子供たちに教育することに関心が向けられた。  各メディア企業間の協力関係は、各業界の倫理規定の内容や運用にも影響し、しかし複雑すぎて把握できなくなっていった。こうして、あくまで「自主規制」である、曖昧な「事実上の検閲」制度が出来ていった。  1966年にアメリカ映画協会(MPAA)とアメリカ映画輸出協会(MPEA)の会長となったジャック ヴァレンテは、1965年から1966年までリンドン ジョンソン大統領の首席補佐官を務めていた。ヴァレンテは1968年のレイティングシステムの責任者でもあった。
 1960年代に、コミックスコードでは明白に禁止された主題を取り扱ったコミックを制作する漫画家らが現れ、しかしながらもちろん、これらのコミックは従来とは異なる販路で流通した。これらは「アンダーグラウンド コミックス」と呼ばれ、1960年代後半は「アンダーグラウンドコミックスの時代」と呼ばれる。  『ナイト オブ ザ リビングデッド』はモノクロ16mmフィルムで撮影された。予算的な制約の中で最大限の効果をねらったアイデアだとも説明され、視覚的に黄金時代のホラー漫画の影響を受けているとも語られている。ロメロ監督が子供の頃に読んだECコミックの漫画は、現代アメリカを舞台にした生々しい物語で、残忍な死や、生き返った死体が復讐を企てる場面がよく登場したという。ロメロ監督は、「漫画家が作り出せるリアルな強い影や奇妙な角度、美しい照明」を映画に取り入れようとしたと語った。  アンダーグランドコミックスの中にも、読者からするとなぜか突然市場から消えた黄金時代のホラー漫画を再現しようとする漫画があった。『ナイト オブ ザ リビングデッド』を観て、ホラー漫画を読みたくなった人が、アンダーグランドコミックスを見つけ、また、アンダーグランドコミックスで描かれてるような世界観を映画で観たいという人が、アンダーグランド映画や深夜映画、あるいはテレビの地方局で深夜に放送されていた低予算映画などを見つけた。  「カルト映画」という言葉は、1970年代にアンダーグラウンド映画や深夜映画を取り巻く文化を説明するために使用されるようになった。それ以前から「カルト的人気」というような言い方で「カルト」という言葉は映画評論で一般的に使用されていた。「カルト映画」は、カルト的なファン、すなわち熱狂的なファンを獲得した映画のことであり、作品自体よりもファンが独自に作った独特のカルチャーに焦点を当てた言い方でもあるが、1970年代の用法においては、評論家や学者あるいは業界といった権威が最低の評価をしたり、ほとんど「観るな」と言っているような非難をしてるのに、関係なく、あるいは反発するかのように人気を獲得した作品を指していた。  1960年代のアンダーグランドコミックス、あるいは象徴的かつ具体的には1968年の『ナイト オブ ザ リビングデッド』から始まったとも言える「アンダーグランド カルチャー」は、「コンフォーミズム (順応主義、同調主義。社会的な基準や慣習に従うこと)」への反発だった。  順応主義への反発が「カルト」と呼ばれる���と以上に皮肉なことに、というか当然のようにも思えるが、ゾンビ映画から「ゾンビ」へ反発する文化が作られていった。未定義のままでも、明らかに。何らかの理由で、あるいはもはや理由もわからないままゾンビのように徘徊する事実上の検閲への反発が、アンダーグランドから蘇るというのも、皮肉なことにも、当然のことのようにも見える。ただし、カルト映画ブームが起こって、カルト映画を人為的に作ろうとする動きが起こったり、あるいはマーケティング戦略としてこの言葉が多用されたように、ゾンビへの反発がゾンビになることもよくあるようだ。これも、皮肉なことにも、当然なことのようにも見えてくる。
2025年4月 ミキシング メモリー アンド デザイア
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yotchan-blog · 2 months ago
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2025/3/27 13:00:26現在のニュース
見聞録:世界文化遺産候補 明日香村 遺跡と共にオンリーワン 「盡きない歴史の玉手箱」 /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:57:50) 努力と挑戦、長年の功績をお手本に 「県100年企業」顕彰式:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/3/27 12:57:04) 多目的広場や芝生のエリアも 郡山城跡公園が全面開園 お城まつりも:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/3/27 12:57:04) 歴史語る宿帳 修理終え帰還 奈良ホテル、8カ月ぶりに展示再開:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/3/27 12:57:04) 熊本市電追突事故、運輸安全委が現地調査 事故車両やレール確認([B!]産経新聞, 2025/3/27 12:54:39) コシノジュンコさんが南海電鉄の新制服デザイン グレーでやさしさ表現([B!]産経新聞, 2025/3/27 12:54:39) 取材中も80代男性が線路を横切り…人身事故を誘発、JR呉線「勝手踏切」の危険な実態([B!]産経新聞, 2025/3/27 12:54:39) 藩主の次は大使に 高橋英樹さん、大河ドラマを縁に彦根観光PR(毎日新聞, 2025/3/27 12:52:24) 「におい、外見は不快感与えそうか」車いす搭乗に「差別的」診断書 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:51:21) ¥サバイバル:異動きっかけに退職検討 強まる「転勤NG」のワケ | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:51:21) 三重県伊賀市で山林火災 延焼中、けが人1人の情報も(朝日新聞, 2025/3/27 12:50:42) 警察署から着信、実はなりすまし 被害は既に100億円超 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/27 12:48:36) れとろ探訪:大阪市電お別れパレード /大阪 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:45:12) 近鉄初の夜行列車 「朝一番でUSJ楽しんで」 名古屋-大阪難波、4月12日など4回運行 /三重 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:45:12) 「四国モデル」のゆくえ:/上 JR四国 今も綱渡り 低給与で離職→減便余儀なく 23年度 ほぼ全線赤字 /高知 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:45:12) 天空の城のまちの小学校、152年の歴史に幕 閉校式に著名漫画家も(朝日新聞, 2025/3/27 12:43:32) 宝塚歌劇団星組の新トップスターに暁千星さん 相手役は詩ちづるさん(朝日新聞, 2025/3/27 12:43:32) 改ダイヤなどで3.8億円経済効果 芸備線、年間試算 /広島 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:39:48) 米坂線復旧検討会議 三セク最大年18.8億円 JR東 地域負担 試算公表 バス転換では1.9億円 /新潟 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:39:48) 油付着レール調査 熊本市電追突 現地で安全委 /熊本 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/3/27 12:39:48) 障害の特性に応じた処遇で再犯を防げ 変わる刑務所、現場を訪ねて:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/3/27 12:39:30) 万博で「IOWN」ふんだんに NTT西社長「関西全体の底上げを」(毎日新聞, 2025/3/27 12:37:54) 同僚を蹴りつけた三田研三・足利市議に「辞職勧告」可決 「厳しいな。でもあと2年頑張るよ」と続ける意向(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2025/3/27 12:30:31)
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5oushi7ite · 6 months ago
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31歳の自由研究「予言」
みなさんこんばんは。
もしかしたら、存在するのかもしれないこのブログの読者の皆さんは、「一体このうだつの上がらないニートはこの先どうなるのかね?」と思っているかもしれません。
ここで、占星術を使って予言をしましょう。
西洋占星術の技法の中に、「プログレスの月を読む」というものがあります。詳しい説明は省きますが、その技法を使って、この31歳のニートがどうなりそうなのかを見ていきましょう。
まず、現在私のプログレスの月は、3ハウスにあります。3ハウスは、ふたご座のナチュラルハウスです。サバイバル能力のハウスです。生きるために必要な知識を獲得するハウス。まさに、いま私が西洋占星術を学んでいることを表しています。
しかし、帰属意識の薄いハウスです。ふたご座は、バリエーションを楽しむことのできるサインで、1つのことにハマりません。1つのことに落ち着かないということは、色々なところを回るので、どこかに所属意識を強く持つということはありません。
教科書を見ると、プログレスの月を見る場合、プログレスの月が1〜3ハウスを進行している間は、孤独になる傾向があるそうです。
じゃあ、いつどこに根を張ることができるのかというと、プログレスの月が4ハウスに入る頃になります。
4ハウスはかに座のナチュラルハウスで、帰属意識、共感がテーマになってきます。なので、プログレスの月が4ハウスに入る頃に、私は仲間を見つける可能性が高いと読んでいます。
来年、2025年の7月にはプログレスの月が4ハウスのカスプの5度前に来ます。ここから2025年の12月の頭にかけて、徐々に兆しが見えてきそうです。そして、12月以降には、月が4ハウスに完全に入るので、そこらへんで何かしらの着地点を見出しそうです。
「太陽の星ぶろぐ」を始めた頃は、プログレスの月が完全に3ハウスに入ってから、大体6か月経ったくらいの頃でした。なので、2025年の12月になっても動きがないかもしれませんが、とりあえず、2025年の12月〜2028年の2月終わり(プログレスの月が4ハウスを滞在する期間)ごろまでには、何かしらありそうです。長い戦いになります。それまで私は「カゴの中の鳥」ということです。
話は変わりますが、この前部屋を掃除していたら、面白いものを見つけました。私の中学校では、テスト結果の自己評価を担任に提出することが義務づけられていました。私が中学3年生の時のものです。
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絶対に学校のシステムや、親の期待に迎合しない生き方。そして、それを譲らないしつこさ(大爆笑)。
教師に歯向かうような不良ではありませんでしたが、とりあえずこんな態度をずっと貫いて生きてきました。高校も同じです。大学は、変な規則などがなく、先生も面白かったので、自由を満喫しました(大学は高等教育を表す9ハウスに該当し、いて座のナチュラルハウスです。私の月はいて座なので、大学は少しいきいきとしていました)。
私の出生図のホロスコープでは、3ハウスに天王星が入っていて生意氣な傾向がある上に、「自由大好き」のいて座の月に対して、サイン違いのスクエアをみずがめ座の土星がかけます。みずがめ座の土星は、みんなとは違う「自分流」を貫きたがります。ですが、月に対して「ルール」を表す土星がハードアスペクトなので、校則を破ったり、教師に怒られるようなことはしませんでしたが。
と、とにかく中学生の頃からコレなので、大人になってもコレです笑。
ニートがなんぼのもんじゃい!私が「自分流」貫いて、仲間を取り戻して、日本を変えてやるわ!と思っています。
ちなみに、「31歳の自由研究『予言』」ってタイトル、カッコ良すぎませんか���(←)
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icchi-yutb · 10 months ago
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“悪“たらしめるもの
皆さんは悪と聞いて何を思い浮かべるだろうか?まず悪そのものの概念を想像する人は少ない。大抵の人は「悪い人」を思い浮かべるだろう。そして悪い人を思い浮かべた時、イメージとして出てくるのは「犯罪者」、もしくは学園ドラマなどが好きな方は「不良」などでなないだろうか?
自分はよく自分を「悪い人」になっていないだろうか?と思う時がある。もちろん犯罪は犯してないし、不良でもなかったと思う。では、なぜ自身を疑う時があるのかと言うと、自分の言ったことや思ったこと、感じたことが自然に批判や対立意見になることが多いからだ。対立してしまえば、相手からは大なり小なり「敵」になってしまい、結果的に悪になってしまう。そして、そうなるのは大半の場合「少数派」に属するからであり、要するにあらゆる場面で少数派になることが多いからである。
少数派が悪と言ってる訳ではない。悪と「見られる」と言うことである。例えば会社など学校で何か取り決めをする場面を想像してほしい。10人中9人が賛成して、1人が反対という状況だとする。そして反対意見を持つ人がどうしても賛成を認めたくないとしよう。これでは取り決めが進まない。賛成の9人は、少し嫌な顔をするかもしれないし、その人に対して嫌悪感を抱く人も現れるのは想像に難くない。そういった取り決めのような状況下では、誰しもが賛成や反対、もしくは意見なしということを主張できる権利があり、この場合の反対の人も、その権利を行使したまでである。なんなら、10人も集まれば満場一致は難しいと考えるのが妥当だろう。それを分かっていながら、自然と1人の少数派に嫌悪感を抱いたりする。
こういった、悪と「見られる」状況は今この瞬間でも日本のどこかで起きているだろう。しかしならが、このどこでも起きる状況を今一度見直してほしいというのが、次から話す話題だ。
先ほどの例で行くと、10人中の1人が意見が違う場合、みんなはどうするだろうか?残りの9人のために1人が主張を諦めてもらって多数派に意見を合わせるとスムーズに事が進む。それは誰しもが分かる。だからこそ、1人に対して9人は、諦めてもらうように頼んだりするだろう。もしくは冷たい視線を送ったり、同調圧力をかけたり、更には無理矢理反対意見をなかったことにすることもできる可能性もある。普通の人にとっては普通の出来事かもしれないが、ここでの普通の人は多数派のことであり、ここで少数派の人間は多くのものを失っていると私は考えている。
まず一つ目に、「信頼」である。微量ではあるが、信頼を失っているとも言えるのだ。人間は多くの人がいるところにいると安心感を得る。逆に言えば、そうでない場所は危険であると捉える。遥か昔、人類がまだ類人猿ですらない時代に広大な大地でサバイバルをしていたところを想像してほしい。仲間が多くいる場所の方が、「多くいるなら安定して生活出来ているところなんだな」と認識するだろう。つまり、多くの人がいるところは本能的に安心するようになっているのである。すなわち、喋り合いの世界では、多数派が自然と安心する場所になるのだ。だからこそ、少数派の人間に対して警戒心が発生して、自然と嫌悪感が産まれ、自然と信頼は落ちる。
二つ目に、「権利」である。少数派も意見を通す権利があるの当然で、何を言う権利もある。しかし、同調圧力は言いくるめられたりして、発言する権利さえも、徐々に多数派に押し殺されてしまうのである。もしかしたら、次から“話し合いの場”に��加することさえも失うかもしれない。同じ土俵に立っているように見えて、必要以上に不利を被っているのだ。
このような話を言うと、「多数決が嫌いなんですか?」「多数決はダメなんですね」と思われてしまいそうだが、多数決は悪いことではないと私は思う。むしろ、多数決よりもっといいやり方があるなら、もう既に世界中に浸透しているだろう。私が問題視しているのは、多数決で「決める」ことではなく、そこに発生する責任問題だ。
最初に悪を想像するという話をしたが、犯罪者や不良も、先ほどからずっと言っている「少数派」に属する人たちだ。もちろん少数派であるというだけではない。倫理や法律、教育問題にも関わってくるが、一旦ここでは、少数派という属性にスポットを当てる。
そして、イメージしやすいよう「盗みをした犯罪者」「同級生を恫喝する不良」とする。彼らはなぜ悪なのか?端的に言えば、法律を破っているからであり、被害を受けている人がいるからだ。ではなぜ彼は少数派なのか?一つ理由を挙げるならば、数が少ない方が都合がいいからである。不当な理由で被害を被る人はない方がいいし、治安がいい方がいい。
なら、この「〜方がいい」という気持ちはどこから出てくるのだろうか?これは『大多数の人が思っている』ことであろう。大多数は平和を望んでいるし、誰しもが法律を守ってほしいと思っている事だろう。
つまり、悪を悪たらしめるものは、多数派である。どんな状況であれ多数派に対立関係にあるものは悪になる。
しかしこれでは違和感を持つのではないだろうか?普通の人は、まるで我々が悪人を生み出してるかのような言いぐさだなと少し怒りのような感情が出てくるかもしれない。会議でたった一人で反対意見を出すのと、ものを盗むことを一緒くたにしているのか?と思うかもしれない。しかし、全くもってその通りなのだ。ものを盗む人が現れた時、最善は多くの人が望む平和を実現することで、そのためには盗みを減らし無くすことを考える。それを実現させるには、まず盗みがどのような行為であるか(この場合はものを盗むと所有するという権利を侵害するからとする)を共通認識の中から炙り出し、多数であると分かった上で、そのような行いをする人を「悪人とする」のだ。これをしないと盗みを働く人を正当な悪であるという理由で捕まえることはできない。逆に言えば、多数派は権利や正当性を共通認識さえあれば自由に作り出すことができてしまうのである。会議の例でも、自然と少数派に諦めてもらうを提案したり、同調圧力をかけるのは自然な成り行きだと感じる人が多いだろう。しかし、無意識に多数派はこの「悪人とする」プロセスを各々素早く完了しているのだ。だからこそ本質的には同じと私は考える。
しかし、本質的に同じとは言ったが、圧倒的に違う部分がある。それは”責任“だ。
それを説明するために、まずは「権利」と「正当性」を作り出せることについてを解説する。盗みを働いた人に対して、逮捕した例で行くと、人を逮捕するには権利と正当性が必要である。ここで言う権利は「身柄を確保していい権利」であり、正当性は「法律に違反している」ことだ。まず、この権利や正当性はどう���って作られるのだろうか?簡単に言えば法律ベースである。権利は法律に書いてあるし、正当性も「違反してる」という理由が真っ当だと感じない人はいないだろう。そして法律は、多数決で作られる。裁判官などの判決に関わる人は投票によって不信任で外すこともできるし、そもそも犯罪を犯す人より、そうでない人を守るのを基底に法律は作られるだろう。裁判が発生した時に、法律が作り替えられる可能性もあるが、それも裁判官による多数決システムがある。よって権利と正当性は多数派によって作られ、それは大元は多数決によって決められていると言える。
では、ここに責任問題がどう関わってくるのか。貴方は犯罪者を逮捕する理由を自信を持って正しく言えるだろうか?おそらく言えるだろう。治安を守るためでもいい。悪い行いに対して罰せられるべきでもいい。少なくとも、理由が“ある”だろう。そして、その意見に責任を持てるだろうか?と問われても、「もちろん」と返答することができるだろう。理由については詳しく説明しないが、ざっくり言うと、治安や悪い行いを罰することを深く掘り下げていくと最大の単位が『命』が元になるからである。治安が悪化したり罰することがなくなれば、極端になると家を破壊して命を脅かすような暴力が横行することになる。それを防いで命を守るためを細分化していけば、はっきりとした理由になる。
しかし、会議で反対意見をする人に諦めてもらうことの理由を自信を持って正しく言えるだろうか?「会議だから」「そういうものだから」とも言えるが、そもそも会議は取り決めをする場であり、諦めをお願いする場ではない。期限があるとしても、期限は会議そのものではなく、会議を行う学校や会社のエゴ��あり、話し合いのなかで発生した問題とは直接関係がない。では、先ほど挙がった『命』に対応する元になるものはなんなのだろうか?それは、「多数派が快いかどうか」である他ない。反対意見がなく、満場一致であれば取り決めは恐ろしくスムーズに終わるだろう。取り決めは終わらせることをベースに進行しているので、スムーズに終われば快い。それを顕にする人もいれば、オブラートに包む人もいるだろう。
「快い」は非常に曖昧なものである。会議が1時間程でで終わればいいなと思っている人もいれば、1分もで早く会議室を脱出したいと思っている人もいるだろう。でも、無意識に擦り合わせていくと「快い」に終着する。ただそれだけのものなのだ。しかし、「権利」や「正当性」は相手の権利を奪いかねない強固なものである。この「目的」と「発生する事象」の、強さの”差“が責任を曖昧にしていると私は考えている。
責任が曖昧になると、悪たらしめるハードルが極端に下がる。簡単に特定の誰かを悪にしやすいのだ。多数派になれば、責任意識が分散しやすいので尚更ハードルが下がる。悪にしやすいということは、誰かを「悪として作り出しやすくなる」ということである。悪をつくりだせば、権利や正当性を作りやすくなる。それらが作りやすくなれば、それらは多数派に有利に働くものなので、『多数派が多数派として維持されやすく』なり、余計に悪とされる人を生み出しやすくなる。いわゆる「エコーチェンバー現象」に似た『負のループ』が起きやすくなる。
少数派になる要因はランダム性がある。家庭環境や受け取り方の違いで自己というものは���差万別だ。そのランダム性がある中、責任が曖昧の多数決で悪たらしめるのは如何なものかと私は思う。多数派としての責任を全うするためには、まずは「少数派の尊重」が必要不可欠だ。少数派の力を増やせと言うことではなく、まず尊重するという考えが念頭にあるかが大切であると思う。
近頃はSNS等を見ると、少数派とするものに排他的な意見が支持を集めてしまう現状がある。意見の交換というのは、どんな相手であれ言葉の上では対等な関係ではある。だが、SNSでは「嫌なら見なければいい」がブロックなどの機能として存在する。しかし、これを安易に使えてしまうと、「快くない」と「悪たらしめる」のどちらのハードルもほとんど無い状態になる。これでは『負のループ』をとてつもない速さで回ることになってしまうのだ。
人間は対話の中で生きている。対話の回数を重ねると学生時代にはずっと多数派だった人が少数派に回ることになるかもしれない。しかしインターネットの発展により誰でも繋がれるようになり、そのため対話を介さずとも安易に多数派の利点を獲得できるようになった。しかし、それでは曖昧な責任の中で多くの悪を無意識に生み出すことになる。しかもそれを分からない人も同時に生み出してしまう。私はそれが現代における非常に難しく大きな問題だと感じているのだ。
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yfuga · 1 year ago
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20240426
Byron bayのバックパッカーズで考え事。 脳内を英語にしようとしているけれど、英語で思考すると言語レベルに応じて思考レベルも低下するのでちょうどよくウロウロできない。仕方ないから今は日本語で、物事を思い更ける時間を作ろう。
最近の出会いについて 横浜に滞在した一週間で、思わぬ出会いに恵まれた。早起きした日に知り、滑り込み申し込んだsho farm, Yaoの料理教室(の前日の畑の旅とトークセッションとランチ)は、横浜と東京の往復中に満たされなかった気持ちよさをたっぷり与えてくれた。空が広く、緑と青と茶色、自然の色に満ち、風が通るのを感じる、そういう気持ち良さの中で常に生きたい。神奈川の楽園のような場所で、生姜を植え、青空の下で、薪の火で炊いたご飯とYaoのタイランチを食べた。贅沢だった。「お腹も心も満たされた〜」と言った、隣の席のカレンが現れたとき、目が離せなかった、言い得ぬオーラをまとった彼女のそれはなんなのだろう。ファッションやメイクはカラフルだけどシンプルで、彼女そのものを映し出すようなスタイルだった。話していて思う、彼女はピュアそのものだった。言葉に、姿勢に、壁がなく、余計な思慮を感じさせないという��。子どものそれのようでもありながら、芯の強さも感じさせる、目線と言葉遣いに一瞬で魅了された。無理のない、彼女自身が彼女そのものであり続ける感じが、他者も無理させない空気を作り出すのかもしれない。とにかく、彼女を取り巻く空気がピュアで、また一瞬で友だちをつくる、歳も関係なさそうだ。彼女自身が、年齢や性別で人を見ないのだろう。私もそうなりたい。ただ低いトーン、落ち着いたペースで話すだけとも違う。素直に人を素晴らしいと思い、プラスのエネルギーに満ちた生命力のある人、それを表現して生きようとしている(実際にそう)。クリエイティブな姉妹なんだねって言った���、「みんなクリエイティブ、、☺️」と言ってくれた。本当にそのとおり。畑のあと、カレンちゃんが友だちになった聖子さんの家に行って琵琶の葉の化粧水をもらった。琵琶の葉とアルコールだけ。聖子さんは、お茶を淹れる人であり、仏教(ミロク様)などに詳しく、玄関にお茶をおいたり(お茶湯)、水を波動調整して飲む(ブルーボトルと月または太陽の光)など、私にはまだ分かったり分からなかったりする、しかしもちろんとても興味深い女性だった。琵琶は中国から来て昔は日本のどの家にも生えていたくらい主要な植物で、医者いらずと言われるくらいの効力があり、それによって抑圧されてしまったらしい。そういう、日本古来からある自然の力、目に見えないもののエネルギーを、私も探求してみたいと最近思う。海外に行くほど、アジア人であり日本人であることを意識せざるを得ず、それゆえ確かに、比較しても日本にはない何か深みのようなものがあり私たち一人一人に染み込んでいるとも気づいた。出汁とか、発酵とか、そういう技術的なものももちろんだし、家屋の作り(木の家、足裏で感じる)、お茶といった文化的なもの、東洋医学など。結局、私は日本人であり、細胞レベルで存在する居心地の良さのようなものがそこにはあると自覚したところだった(オーストラリアに居て、ゴージャスな建物や派手な食べ物はあれど、居ても食べてもどこか満たされない染み込まない何かがあった。頭の理解ではなく感覚的な何か。結局、ブラウンライスと味噌汁が一番美味しい)
カレンちゃんのような忘れられない空気を纏った人との出会いがいくつかある。奄美のジュネ、ニューカレドニアのアーティストの彼女。 彼女らは確かにあるところではとても近しいものを持っていて(スピリチュアル的な感覚と信仰など)しかしそういった意識を持つ人との出会いは他にも幾多にも渡り、必ずしも全員がそうではない。宇宙的な何かを問いたくなるのはなぜだろう、美しく、ピュアで、まるはだかなような存在。ハグするとき、それは挨拶ではなく、エネルギーの交換ともいうような、長く暖かいハグをし呼吸する。その瞬間に起こっていることを全身で感じている時間が流れる。美しかった。
本当は、誰に対しても、そう在りたい。そういう存在になりたい。 きっと目指すのではなく、なるのだろうとも知っている。
以前、「生きるってなんだろう」「生きるために本質的に必要なものは?」みたいなことを問い続けていて、その結果海に辿り着いた。
物質的な世界で求めたくなる、キャリアや技術とは違う世界線の探求である。しかし、そういうものを求めたくなる時もある。実際に、彼ら彼女らは結構何かしらの技術とも言えるようなものを持っていて、でもそれは彼らの道のりの中で得たものだ。語学力とか、知識とか。
その世界と、自分自身の生命の探求��たいなものの世界線の違いに迷うことが多い。そうか、でも、行き来したらいいのか。と、書いていて思う。
現実世界を生きるためのサバイバル道具→コーヒー淹れ、水産関係、サーフィン(意外とこっち) 生命の探求→海の世界を知りたい、素潜り、ケルプの森を潜る、鯨の海で泳ぐ、水に溶ける
瞑想は自分にとってどっちかな。料理は?英語は?
最近、「本当に求めているものではない気がする」と思ったりして、時間の使い方を考えあぐねていたけれど。うまく行き来しながら生きるの中心を作りたい。いまは、海を旅することで満ち足りる気がするから、やっぱり海なのかも。
続きはまた。
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kukaishin · 1 year ago
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Community Fixes Merged - Fo4 日本語化
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何年にもわたってコミュニティによって作成されてきたオープンパーミッションな修正を統合したMODです。 注:FO4 Fixes And Technical Enhancements (FATE Patch)の代替MODです。
■必須MOD Fallout 4 Script Extender (F4SE) Unofficial Fallout 4 Patch - UFO4P
要オリジナルMOD
パワーアーマーステーションがサバイバルで重荷のダメージを与えなくなった。
多数の説明文とアイテム名の誤りを修正。
光る血液パックがスティムパックとして機能しないようにした。
料理レシピにマッチするよう、より多くの肉の重さを調整。
ハーミット・クラブの肉と焼いたハーミット・クラブの肉の重量を入れ替え。というのも、料理レシピの結果に基づくと、それらはほぼ間違いなく間違って割り当てられているからだ。
いくつかの弾薬タイプについて、UIが扱うには長すぎた短縮名を修正し、パドルボールのヒモの短縮名を追加。
ヌカ・コーラ・クアンタム弾薬とチェリー弾薬に不足していた素材交換を追加。
酸性液に不足していたピックアップ音を追加。
いくつかの服飾アイテムのマイナーな問題を修正。
電撃抵抗と冷凍抵抗の略称を修正。
ロブコファンのプレビューの変形を修正。
ガトリングレーザーのオーバーチャージ・コンデンサからGun Nut 2の条件を削除。ガトリングレーザーのMODを含め、他のエネルギー兵器のMODでも必要ないからだ。
Vault-Tecセキュリティアーマーの「大きなポケット付き」改造に適切なクラフト条件追加。
酸性液のクラフトレシピの出力を20に増加。アシッド・ソーカーの容量は20、酸の必要量は20、ガラスの量も満タンであることを示唆しているなど全ては正しい量であることを示す。
いくつかのドアの音を修正。
フォグコンデンサーに欠けていた"Harvest"プロンプトを追加。
近接武器のアニメーションに使用されるものを含む、いくつかのFormIDリストが欠落していたのを修正。
「爆発の」レジェンダリー銃が発射する弾丸が、オイルプールやガス漏れに正しく点火するようになった。
建築可能な装飾品のリストに、欠けていた絵画を追加した。一般的に問題のある他のカットされた居住地アイテムとは異なり、このアイテムは何の問題もないため、おそらく誤って省略されたものと思われる。
Black WidowとLady Killerの説得成功率が、5/10%減少する代わりに増加。
ローディング画面でのオートマトロンの表示率を20%から3%に減少。
ローディング画面にPain Trainの誤った情報が表示されなくなった。
Super Mutant Radio Broadcastの名称を修正。
脅威のシリンジャーは受けるダメージを25%増加させるようにした。元々の効果はBethesdaによる完全に中途半端なもので、「ダメージ耐性を修正する」Perkの項目が実際にどのように機能するのかについて大きく間違った前提を用いていたため、実際に影響を受けたターゲットのダメージ耐性を75%減少させていた。
毒耐性のすべてのソースに対して機能する、目立たないPerceptionの修正を実装。
テスラ・ブレイサーとテスラ・コイルの効果がエネルギーダメージとして正しく分類されるようになった。つまりテスラアーマーの影響を受ける。
時間経過による火属性ダメージ(DoT)の効果は、ごく一部ではなく、すべて石綿裏地によってブロックされるようになった。
DoT効果が正確に表示されないため、UIに非表示になった。
The Bloody Mess 4の不可視の爆発が、プレイヤーの呻きを引き起こさないようになった。
オーバードライブが、サイコやフューリーのようにプレイヤーを絶叫させるようになった。
パワーアーマーMODに関するいくつかの問題を修正。クラフトメニューでの順番がPerk要件に従うようになり、MOD単体の重量が常に0.5になり、レイダーパワーアーマーのMOD単体の名前がめちゃくちゃにならなくなった。
ガスキャニスター、濃縮された霧、水入れが無限に爆発することはなくなった。
コンバットライフルの.38口径レシーバーとパワフルオートレシーバーを入れ替えた。一般的に.38口径とそれ以上の口径のレシーバーは、クラフトメニューでまとめられているからだ。
すべてのNPCから未使用の冷気耐性と炎耐性を削除。それらは効果がないにもかかわらずAwareness Perkによって表示されていたからだ。
消防士プロテクトロンと救命士プロテクトロンは、単にプロテクトロンと呼ばれるのではなく、正式名称を持つようになった。
オールド・ロングフェローは「リブ&ラブ」マガジンの影響を受けるようになった。
伝説のレイダーとガンナーは、すべてのバリエーションで一般的な名前を持つ代わりに、ランクを適切に表示するようになった。
パワーアーマーMODの裏地(アクセス不能)の名前を削除した。
レイダーアーマーとトラッパーアーマーの腕のMODは、アイテムの価値を大幅に増加させなくなった。脚と胴体のMODの価値がはるかに低いため、ステータスをコピーする際に間違ったテンプレートが使用された可能性が高い。
Sacrificial Bladeとヌカ・コーラ・クアンタム・ボールがレジェンダリーMODとしてフラグが立たなくなった。前者は表に表示するにはふさわしくなく、後者はヌカ・コーラとヌカ・チェリーボールのアップグレードに過ぎない。
Heavy GunnerとCommando perksのPerkは、腰だめではなく通常の命中率について正しく言及するようになった。
ImmuneToRadiationとVault 81 Molerat Diseaseは、UIグラフィックが関連付けられていないため、Perkリストに非表示になった
カルメックスからバグったMod Spell Magnitude効果を削除しました。
ボブルヘッド – Energy Weaponsがガトリングレーザー、レーザーマスケット、エイリアンブラスターに影響するようになった。
Gunslinger 5が再び手足を重傷化できるようになった。これはUFO4Pで間違ったタブで実行されたために壊れていたものだ。
フラググレネードが撃たれて爆発する時に、飛び散る破片の不具合を修正した。
ハマビシが撃たれても画面が揺れないようにした。
ユースタスとホーソンの関係を修正。
発光ブラッドバグのRadiation Cloakがブロートフライの効果に設定されていたのを修正。
Pain train 3が着地衝撃ダメージを正しく増幅するようになった。
ボードとスレッジハンマーは、未実装のマテリアルスロットの代わりにヌカワールドの未塗装modがデフォルトで付属するようになった。
プラズマ地雷の価値が100キャップから135キャップに変更された。
冷却地雷が冷却グレネードと同じ価値になり、従来の50キャップから125キャップになった。
ディサイプルズ・ナイフを武器ラックに飾ることができるようになった。
Perk雑誌のメッセージや説明文のスペルと一貫性の問題を修正した。
SCAV!- Bladed Bravadoは、ハードコードされたリストを使用する代わりに、UFO4P_WeaponTypeKnifeキーワードを持つすべてのナイフに対して機能するようになった。これは同じ効果だが、MODで追加されたナイフにも適用される可能性がある。
SCAV!- Pugilistic PropensitiesはWeaponTypeHandToHandの代わりに、より一般的なWeaponTypeUnarmedキーワードを使用するようになった。
Sneak 5はCautionまたはDangerの状態でのみ発動するようになった。
デイトリッパーの効果時間が本来の半分ではなくなった。
「隠れみの」のレジェンドリー効果が発動してもPip-Boyが使えなくなることはなくなった。
「カメレオン」のレジェンダリー効果は、PAのステルスボーイMODSの視覚効果と音響効果を使用しなくなった。
メタルアーマーとロボットアーマーの四肢が、高密度化やバイオコムメッシュのような胴体のMODをつけられなくなった。ほとんどの胴体MODの効果は正しくスタックしないし、そのMODは特に胴体に属すると言及している。
「放射能汚染の」、「Almost Unbreakable(テッサ・フィスト)」、「Low Weight」のレジェンダリーMODがアイテ���の価値を適切に増加させるようになった。
Ninja、Mister Sandman、Cloak and Daggerの入手順が最終的なスニークアタックのダメージ倍率に影響しなくなった。
Pack Alphaから、何もしない毒耐性を削除した。
エイリアン・ブラスターの弾丸に欠けていた『Penetrates Geometry』フラグを追加した。これはMerged Vanilla Perk Fixesがプラズマ兵器に行った修正と同じ。
ボードマテリアルの修正を少し調整。実用的な影響は全くないが、技術的にはより健全。
「不屈」のS.P.E.C.I.A.L.バフの順番を修正。ヘルスにGetValuePercentを実行する代わりに専用のGetHealthPercentage関数を使用するようになった。
「RAD動力」が重複したStrengthバフでUIを混乱させることがなくなった。
「血濡れの」の条件が「以上」から「より大」に置き換えられ、ヘルスがちょうどしきい値の時の予期せぬダメージ増幅を防ぐようになった。
CreatureInvisibleのロード画面において、セントリーボットが透明になれると誤って表示されていたのを修正。
M4カービンのレジェンダリー効果が適切に重量を減少させるようになった。
檻に囚われた発光モールラットと発光ミュータントハウンドがUFO4Pの修正の影響を受けるようになった。
檻に囚われた猫が集落間で移動できるようになった。
薬売りのスタッシュとの最初のランダムエンカウントに条件チェックを追加し、攻撃すると出現しなくなるようにした。
未使用のロボットMODをレベルドリストから削除した。
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ari0921 · 3 years ago
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▪️ズレた対応に国民は怒りと失笑
   【#有本香の以読制毒】
電力逼迫、政府の?錯乱?が止まらない!  
政府の?錯乱?が止まらない。異例に早く、本州でも6月に梅雨が明け、 途端に記録的な猛暑が続く中での電力逼迫(ひっぱく)。これへの政府の ズレた対応が、国民の怒りと失笑を買っている。
21日に、���田文雄首相自ら国民に節電を呼びかけ、「節電ポイントを還元 する」と発表した。これがひんしゅくを買うと、3日後の24日には、「節 電プログラムに参加した家庭に、買い物などで使える2000円相当のポイン トを支給する」と追加発表。首相の最側近の一人、木原誠二官房副長官は 「実質的に電気代負担を軽減することを目指していきたい」と強調した が、これまた国民から大ブーイング。ネット上には「2000円より、電気を 持って来い」などの声が渦巻いた。
28日には、萩生田光一経産相が「(ポイント付与を)8月をめどに開始で きるよう準備したい」と述べ、またもやネット上が騒然となった。最も電 力需給が逼迫すると予想される7月に間に合わないからだ。こんな政府、 政権で大丈夫かー。国民の不安と不満が募るのも当然である。
この経緯を取材してみると、官邸が何の裏付けもないまま「2000円ポイン ト支給」と発表し、経産省は「ええっ!」と驚愕(きょうがく)。尻拭い に追われているというのが実態のようだ。
岸田首相と側近は完全に「聞く力」の使い方を間違えている。国民の真意 を聞かず、表層の「怒り」を冷まそうと焦るがあまり水をかけるところ を、慌てて油を注いでいる。
とはいえ、岸田首相も誤った「油注ぎ」ばかりしているとはいえない。
28日に閉幕したドイツでのG7(先進7カ国)首脳会議で採択された首脳 声明には、「2050年までに脱炭素化実現」の目標が盛り込まれたものの、 温室効果ガスの排出削減対策のない石炭火力発電所の廃止期限については 明記されなかった。
これは、7カ国共通の悩みである「ロシアのウクライナ侵攻で揺らぐエネ ルギーの安定供給」への対策を優先させた結果だが、特に電力逼迫が深刻 な日本が、「廃止期限の明示」に強く反対したためだ。
岸田政権の成果とはいえるのだが、所詮は防戦の策でしかない。
一方、世界はこの危機に超柔軟な対応を見せている。
ドイツ政府は19日、ロシア産天然ガスの供給減に備え、国内のガス消費量 削減のための緊急措置として、石炭火力発電の拡大を打ち出した。CO2 を毒ガスかのように忌み嫌ってきた「緑の党」が一翼を担う新政権のこの 「掌返し」は、悪い冗談のようだが、日本政府が見習うべきサバイバル術 でもある。
英国は今月中旬、��VやPHEVに対するプラグインカー補助金 (PiCG)を廃止すると突如発表した。ちなみに、わが国では相変わら ず、EV購入者に、国と自治体が多額の補助金を出している。国民に「電 気ポットの使用も控えて」といいながら、電気自動車は推進。政治的錯乱 の最たる事例だ。
フランスはどうかといえば、そもそも全発電量の7割超を原発で賄ってい る国だから、危機感は小さい。
いま日本でも「原発の再稼働」を求める声が高まっている。同時に、家庭 用電気代にも加算されている「再エネ賦課金」への不審が高まりつつあ る。世界一高い電気代を払わされ、野放図に拡大される太陽光や風力発電 (再エネ)の対価まで負わされたうえに、電力逼迫。「一体何の罰ゲーム か」と気づく国民が増えたのだ。
電力供給源として不安定で、環境破壊の原因となる「再エネ」。しかもこ れが、中国などの敵性国による日本への「経済侵略」の手段ともなってい る。私たちは、高い代金を払って、何重ものリスクを自国へ呼び込んでいる。
岸田首相と萩生田経産相、山口壯環境相に謹んで申し上げたい。
国民を苦しめるだけの再エネ賦課金を廃止しませんか。ついでに英国を見 習って、EV補助金も見直しましょう。これで一気に支持率挽回、参院選 も、圧勝の上の超圧勝です。文句を言う「党内再エネ族」なんか放ってお きましょうよ。
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fromeverywherenowhere · 4 years ago
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連帯する、ということについて。
 昨年来、応援してきているChoose Life Project。キャッチコピーは「自由で公正な社会のために」。オンラインでお話する知人たちに共有したり、クラウドファンドに参加したり。時代が変わっていく境目に、市民が公正でdemocraticなメディアを維持することはとても大切なことだと思っていて、これまでで一番しっくりくるもの、と感じて、可能な限り特集番組的なものは逃さず見ている。
 そのCLPで、森さんのsexism remarkをうけて、「Don’t Be Silent #わきまえない女 たち」という緊急企画がありました。2月6日。
 これまでも、福島みずほさんのフェミテレビなんかを見る中で、女性が女性たちのつながりによって作られる安全な器の中でことばを交わしていくことのlivelyな感じがいいなぁ(わたしも元気がでるなぁ)と思っていたので、そう言うものに触���られるのかな、というようなことを期待しつつ、パートナーと一緒に視聴。実際見始めると、やはりどうしても、自分のこれまでの体験から自分のからだの中に残っている感覚や感情のようなものが「あ、わたしも!わたしも!言いたいことあるよ!」とやってきて、それらと一緒に小さなiPhoneの画面を見続けることになる。でもだからこそなのかなと思うけれども「視聴する」という行為だけで、あっと言う間に画面の中の人たちと連帯してしまうかんじがある。
 対話を支える仕事をしてきて、この、同じことばを話すことの発見を通じて瞬時に連帯する感じ、というのは、それがオンラインであれ、オフラインであれ、人々がその共有する課題や問題に各々主体的に関わっていくために大事な入り口の感覚だと思う。それは、自分の身体や体験からしか生まれてこないことばで、誰かに否定されたり、頼んでいないのにケアの対象になったりするようなことばではなく、言ってみると、その人自身のサバイバルの歴史の証人のようなもの。あるいは、未来をこんな風に展望するんだ、ということを語るための、靴のようなものだと思う。この靴を履いて生きてきて、この靴を履いて生きて行くんだって、自分で認識している自分の靴。不意打ちでつけられた汚れも納得いかないまま生じたすり減りもあるけど、わたしの歴史。(ただし、勲章、のイメージではない。もう二度と見たくない傷、不可抗力によるダメージもあるもの)
 その例えをもう少し引き続けば、連帯の感じ、というのは、あ、同じ靴履いてる!って分かった瞬間に、相手が具体的にどんな体験をしてきたのか全く分からなくても、生じる感じ、だと思う。だから、「みんな似たような体験をして生きてきたと思うんです」っていう、ファシリテーションの基本で言えばNGな乱暴なカテゴライズがOKになる。ここでわたしたちがしたいのは、その靴を履いたままで「せーの」で同じ方向へ一歩踏み出すことで、靴の傷や汚れひとつひとつを解説したりすることじゃないから。
 ただ一方で、まっさらな靴のままでここまでやってくることが出来なかった、悲しみとかしんどさとか、未消化感とか後悔とか怒りとか、そういうものから生まれることばたち、というものもあって、それは、同じ靴を履いている!と分かった人たちの間でだけお互いに耳を傾けあえるものだ、と言うことも思う。ばーかばーか、とか、ゆるさん!とか、むかつく、とか。分かる分かる、だよね、という合いの手が来ると知っているから始めて出せることば。一生誰にも言う予定もなく自分の中にあることば。それらは、本当に実際に自分から出ていくことがなかったとしても、連帯を感じる相手が何かを語るだけで、ぷくぷくと沸いてくる感情の源泉のようなものとしてあって、「ああ、分かるその怒り」とか「そう言ってくれてとてもすかっとするー」といった心の中のつぶやきをうむ。他者を通じて自分を感じる、と言えばよいのかな。
 2月6日の「Don’t be silent #わきまえない女たち」の総勢24名の女性が出てくるという番組が為したこと、って、わたしは、社会問題を可視化する、というようなそんな上品なものではなくて、もっともっとプリミティブで、同じ靴を履く視聴者が「ああ、ひとりではないんだなぁ」って、自分が誰とも交換することのできない自分の靴を履いていることを感じることを通じて(密やかに、時には隣に座っている人にも内緒で)連帯していく、その力を生み出したことにあるんだと思う。インターネットの力だし、もはや伝統芸となっている放置remarksのpileが崩壊寸前のところまで来たから、だとも言える。それらがありつつも、わたしには今回の企画が、力を持っていた、ということが何よりも「わぁすごい企画だなぁ」という感想につながっている。情報のショーケースじゃなくて。気持ちや感情が動いたひとりひとりが「あれ?わたしって、大きな社会問題を共有する集団のメンバーだったのかー」と自認するためのメディア(媒介)として働いた、ってことを、今回は一番大事なことだった、と言いたい。それは、出演者たちの間にも起きていたし、見ているわたしの側にも起きた。(とわたしは感じた)
 なので、その後に予定されていた企画「Don’t Be Silent #変わる男たち」はちょっと期待しちゃっていて、中止と知って素直に「えーんざんねん」って思ったのだけれども、CLPのnoteを読んで、ああ、それなら中止になって良かった、って思ってしまった。仕切り直しでもなくていいんじゃないかなってすら思っている。
 今回の企画のきっかけになる出来事を、わたしたち(女性たち)はまず、女性蔑視の発言と見なすところから始めているから。
 もし、「わきまえない女たち」ではなく、例えば「わきまえることを迫る社会を生き抜くわたしたち」とか「もうわきまえるのはやだ!Noを言うわたしたち」とか、森さんの発言とそれを容認する風土について耐えられない思いをしている人々が口々に語るという切り出し方をしていたなら、そこには性別は持ち込まれることがなく、もしかしたら続編もつくれたかも。
 でも、それでは連帯を生む強い力学は作動しないだろうな、と思う。なぜなら、今の日本は、差別のカテゴライズのはしごを上げて行くには、まだまだ準備が足りてなくて、一番上位の「あらゆる差別と戦う」ための連帯を生むほどまでには、ことばたちが育っていないから。
 わたしは自分のパートナーが、パラリンピックに参加できる資格が十分あるにもかかわらず、障害を負いたてほやほやの現役アスリートであったがために「障害者初心者だからだめ(障害を克服して努力してやってきた先輩障害者を差し置いて実力発揮などけしからん、というようなことだと思われる)」という謎の理由で排除された経験があるのを知っているので、正直今回の森さんの発言は、日本のオリ・パラ運営界隈が内包している排除の理論が発動した一角にすぎないのだろうなと思って聞いたところもあった。過去にその時の実力よりも国民的な人気が優先された例なんかも思い出す。障害者差別、派閥差別(えこひいき?)、性差別、階級差別(人々を無報酬で労働させようとするなんていうのもそのひとつだと思う)などなど、そういったこと全部をまるっとひとつの問題として見なして解決を目指すというのは、民主主義が導き出すダイナミクスのひとつ、なわけだけれども、わたしたちの国・日本は現状として共有する社会問題に取り組めるであろう人々が繋がることを阻む仕組みづくりに成功しているし、市民の側のそれに向き合うための体力も技量も他に割かないと生きていけないところまで持ってこられている。そんななかでも、まっすぐに戦える個人は、使いたくない感情も使いながらがんばって進むことになるし、そうでない個人はわきまえるか何かして、同調するか面従腹背するか方向性は別としてサバイバルするしかない。結果、いつもみんな、自分の場所で自分のしかたで、ばらばらなまま。
 連帯って、仲良しクラブではないわけだから、連帯する人々が24/7でニコニコし合っている必要はない。イヤなヤツがいてもいいし、意見も統一される必要はない。ただし、これがわたしたちの前にそびえ立っている限りは、公正で公平な社会が望めないって言える共通のものが見えている必要がある。どうやっていくかは、いろんな方法があっていい。ただ、同じ障壁を見ている人たちが他にどこにいるか、お互いに知り合っておくことはとても大切で、そうじゃないと、社会が変わる、ということには辿り着かない。障壁は、なぜだか個々人の前に個別に立ちはだかっているように見えるけれども、実のところ巨大なひとつの壁。だから、同じものを認識している、ということを共有しないといけない。
 「あらゆる差別と戦うわたしたち」という集団が、連帯の連帯の連帯の・・・と連帯の連鎖によって生まれる最終最大サイズになるのだと思うけれども、今は、自分がどの連帯に繋がるものなのかも分からない・知らされていない人々もたくさんいて、その入り口にも立ってない状態のまま、日々もにゃもにゃしているから、遠い道のり。まずは、目の前の壁が自分にだけ見えているわけではない、というところから始めないといけない。でも分断されているわたしたち。
 そんなわけで、わたしは、男女もまた連帯していくことができるのだー!というところにまで、まだ辿り着いていない、と思っている。ここまで分断されてしまったわたしたちの「今」はまだ、女性たちの連帯のサイズが大きくなっていくためにあるのではないかな。
 他の国を見てきてしまったりすると、こういう契機は、世界に今すぐ追いつくために逃せない、って思ってしまうかもしれない。国の外からの呼び声も感じる。でも、「今の日本」にそれは難しい。じっくりじっくり時間をかけて、分断を進められ、間に障壁すら置かれてしまって(誰がそれをしたの?というような議論はここではしないけど)、代替的な安心安全で口をふさがれて。全てのピースが揃っているのに、全部違う場所に押し込まれて、一見完成しているように見えるジグゾーパズルのようです。
 だから、まずは、ピースをひとつずつはずして、
無理���理押し込まれたことでダメージを受けた縁をケアして、
もう一度ひとつひとつ適切なところに配置していく、
そんな仕事の時期なんだなと思う。
 人間関係トレーニングだと、日本でのトレーニングはひとりひとりの中の「みんないっしょ」の思う込みを解体するところから始めなければならない特長がある、というのと同じだなーと思う。みんな一緒だと思っているところから離れて、自分の足で立つ感覚を得て、同じ靴を履いている人たちと集まって、せーので同じ方向に一歩足を出す。
 「わきまえない女たち」の緊急企画に集まった女性たちは、個々の歴史の上に立って、連帯するための準備が既に出来ていて、あるいは既に連帯の体験を持っていて、だから同じことばを話していることをお互いに判別できて、そのことばによって立ち現れる価値を見せることができた。
 そうやって進んで行く先に、個人の尊厳を奪い、自由を抑制してくるものと戦う力と技能、というものが個人的にも集団的にも身につくのだろうと思う。
 パンプスを履かない自由について述べる力、をわたしたちは得た。  自分の身体を他者にコントロールされたくない!と述べることも始めている。  生まれ持った名前をずっと使いたい!ということはわがままじゃないってことももう知っている。
 まだまだやることはあるのだけれども、それらの流れは、
 女性だからパンプスを履きたくないっていう話をしているのではないの、身につけたくないものは身につけない権利というものがあるの、だからあなたもイヤだったら外してもいいと思うよ、そのネクタイ。わたしは絶対に「ノーネクタイなど非常識!」なんて文句は言わないから。
・・・っていう会話を、必要と感じたらいつでもできるようになるための準備なのかもしれない、とも思う。
 男女、で分断されているわたしたちは、分断された結果、決して共有できないものを抱えてそれぞれに歴史を作ってきている。それぞれに、疎外され、奪われることも体験してきている。明け渡せと迫ってくる大きなものたちにNOを言い、それらが育つ土壌を耕さず、自らの歴史を綴る主体(学習権宣言を読んでね!)として進んで行く、と表現すると同じことになるけれども、実際にその道がどんな道なのか、は男女で違っちゃうのは当然のことなんだと思う。その道でどうstruggleするか、はそれぞれのものだから、応援はできても口は出せない。そして、逆もまた然り。
 だから、今回女性たちが怒っている、ということに、どう反応するのかというのは、男性ひとりひとりのもので、ごめんその反応はなし、とか、そう受け取る人がいると助かるな、とか、女性は女性でフィードバックしていけばいい。そして、その都度、繋がれる人とは繋がっていけばいい。
 ここまで社会が壊れてきているのを感じながら、焦らずゆっくり、というのはなかなか難しいなと思うけれども、でも、大きな力で長らく安定してきた分断を乗り越えていく時、まずできるのは、ようやく繋ぐことの出来た手は離さないことなんだと思う。そして、現���に隣にいる人と手をつなげるような現状ではない分、今回のCLPのような企画というのは、メディアだからできることをやったのだなぁ。
 マスメディア、って何だろうと考える体験なんてこれまでした��とがなかったけれども、マス、だって、その中身はひとりひとりの人間で、その間がどんな風に繋がっていくのか、ということがどんな世論を作っていくのか、ということなのだろうな、って思うと、場づくりと同じことがいろいろありそうだな、と思った。即時的で有益な情報によってだけ人々が連結されカテゴライズされていく時代はもう終わっている今、どう生きるのかを問い問われるところで生きようとする個人の連帯の場、というイメージが沸く。
 もう長らくテレビなるものから遠ざかっていて、マスコミなるものには何の期待もしない時期が続いていたわたしとしては、積極的に視聴するメディアを持つってこういうかんじなのかーとふむふむ思っているところだったりする。
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petapeta · 5 years ago
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野村長平は土佐の海に生きる男であった。土佐では船は漁だけでなく輸送にも多く使われており米などの物資を運搬するためにも多用されていた。千石船と言われ大海原に出る力はないが帆を張ることである程度快速を出せたため鎖国をしていた幕府としては都合のよい船ということでこの船の使用が奨励されていたという経緯もある。土佐ではこの千石船をうまく用いており長平はその船の船乗りの男であった(船頭だったと言われる)。この千石船は快速ではあるがもろく。帆を利用する以上風によってはすぐに転覆、漂流することがありたくさんの船が失われ船乗り達の屍を海原に沈めていた。事故が増え土佐藩としても何か対策を...と手を打ち始めたばかりの頃。時に1785年。(天明5年)おりしも日本中で火山の噴火が続いて民心揺らぐころ(浅間山天明3年大噴火をはじめ伊豆諸島やあちこちで火山が噴火しまくっていた数年)。野村長平が乗る千石船も米の輸送中(藩の米を届けた帰りだった)暴風雨に巻き込まれてしまい10日以上漂流。土佐から流れ流れて伊豆諸島の鳥島へと漂着してしまう。この時野村を含めて生存者4名。過酷なサバイバル生活が始まった。だが始まってすぐにこの生活は絶望的なものへと変わる。後に幕府の取り調べに野村が答えた記録があるようだが、この漂着後約1年で他の3人は相次いで亡くなってしまったのだという。(1年と半年程度と言われる)過度のビタミン不足。栄養失調...ストレス...様々な要因があり僅かな時間で野村は孤独な漂流者へと追い込まれた。しかし彼は不屈の男だった。島にはたくさんのアホウドリがいた。それを殺して食べて飢えを凌いだ。星を見て日没を数え。ほぼ正確な日時を把握し。指折り数えて生還の日を待ち続けた。決して諦めなかった。 数年の孤独を踏み砕いて生き延びいた男。 アホウドリを捕食したが火がないため(火打ち石がなかった)生で食し。水はアホウドリの卵の殻に雨水を溜めてすすって生き延び。服はアホウドリの皮と羽根で自ら作り上げた。(武器などもアホウドリの骨などから自作していたらしい) 栄養は��る。孤独は心を苛む。けれど不屈。折れない。そうして野村は生き延び続けた。 転機が訪れた。大阪(堺)の船が難破し漂流。何人もの人間が野村の島に漂着して来たのである。野村は彼らを助けあげ生活を共にした。漂着から3年。大阪の船のこの人々との合流により野村は孤独から解放された。 しかしそれだけだった。ともかくこの島で生き抜くしかない。幸い船からいくばくかの道具と資材が引き揚げられことで生活は改善。ともかく男達は生き延びるために身体と知恵を絞りきった。 そして2年後。またしても船が難破して漂着。今度は鹿児島(薩摩)の船であった。1人の男と二つの集団が合わさって1つの組織となったのはこの時。 2つの船の船頭と共に野村はこの組織のリーダー格となっていた。生活は安定したが(鍋釜、火打ち石など生活に必要な道具が揃ったため)やはりこのままではどうにもならぬ。 全員で相談した結果船を作って脱出することを計画。幸い鍛冶師や大工の経験がある者が数名いたため具体的な計画が持ち上がった。 鉄腕DASHでは反射炉が出てくるが野村達も似たようなもので竈を作って高熱とし船の廃材や漂着物を解かして使用した。釘などは漂着物から流用したものもあったようである。どれだけの船が難破して失われていたかがわかる話ではある(つまりそれだけの船が失われて残骸などが漂着しまくっていたということになる)。 船が嵐などで海に流されることを嫌って高いところで建造。そこから海に向かって石をけずり木を切り倒して道を作り... 野村は時期が違う難破船の漂着達だが区別することなく、それぞれの人々を救ってははげましいつか日の本に帰ることを決して諦めず声をかけたという。 不屈の男に導かれるように男達は力を尽くして船を作り上げた。 それどころか島を離れるときに再びまたこの島に流れ着く者がいたら大変だからと洞穴に資材や船の作り方生き延び方を書いた石盤などをしたためて海岸からその洞穴に行けるよう目印まで設置したという心使いまで見せている。(船の建造に必要な道具類もここに置いて行ったという。後に幕府が検地しているのでその時に確認されたのかもしれない) また漂着したものの無念にも死んだものたちを手厚く葬ったとも伝わる。(野村達の供述では荼毘に...とのことだが後の幕府の見地によればおそらくは土葬だったのだろう。石碑があってその下に埋葬されていたらしい。さすがに火葬は厳しかったのだろう)。 野村自身が歴史の中に埋もれた人だが、難破船2隻の船頭2人だけでなく3人でリーダーシップを発揮し最終的には生き延びた14名全てと江戸へと帰参を果たしている。
江戸時代のサバイバー野村長平 ��運の悪さを不屈の意志で踏み倒した男 - Amazonの悪魔
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nemosynth · 5 years ago
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<祝 国産初のシンセ展示半世紀 : KORG volca nubass review>
世界のシンセの起源をさぐった前回の記事「Make Noise 0-Coast review」。 その次となる本稿では、日本のシンセの源流をさぐりそのあけぼのの時代からひもといてゆく。
日本のシンセの夜明けは、とある呑み屋での故事から始まる。 呑み屋。なんだかそのこと自体がすでに失われつつある旧世界の話にも思える。
今まさに急速に旧世界になりつつあるのかもしれない、私たちの世界。
ご時世がら呑み屋にも行けなくなってしまった今。どう人類社会が変貌するにせよ、そのサバイバルを祈願し、それでもなお歌舞音曲が許されている今を祝し、来たる新世界シンセ界を夢見て、ここに全人類へ拙作をささげん!
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●メーカー名
KORG
1963 年、カトちゃんこと加藤孟(かとう・つとむ)と長内端(おさない・ただし)の2人が興した電子楽器メーカー。従業員数 300 人程度。ちなみにローランドは 800 人、ヤマハは1万人もいる。
1.コルグ創世神話
カトちゃんが講演会にてコルグ創世神話を語っていたことがある。 渋い声、惹き込まれる話術、えもいわれんカリスマ性、魅力的でスタイリッシュな爺。
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隣に置いてあるのは、コルグ2番めに最古の機種「ドンカマチック」二代目。
もともとカトちゃんは新宿歌舞伎町でバーのマスターをしていた。渋くて話術がうまいはずである。そのお抱えバンドでアコーディオンを弾いていたのが、長内。 東京帝国大学工学部出身のエンジニアであった長内は、偏屈ポーカーフェイス野郎。しかも、おもしろくないくらいに正確無比に演奏する。彼の演奏は完全無欠とすら言われ、唯一欠点を挙げるとするならば完璧すぎることだとすら評されたという。
あまりにも正確無比に演奏するため、バンドのドラマーが叩くリズムが不満で不満で仕方がない。ついに思いあまって自分で工具をふるってお手製の真空管式の電子リズムボックスをでっちあげてしまった。 これが初代ドンカマチック(Donca Matic)。機種名はベードラの「ドン」、クラベスの「カッ」、そしてオートマチックだから。
このドンカマチック・シリーズはお手軽かつ正確にリズムを刻んでくれる装置として生まれ、のちのレコスタで仮リズムトラックのことを「ドンカマ」と呼ぶようになるくらい普及したのだが、長内にしてみれば 「おめぇーがもっとマシなドラム叩いてりゃー、こんなもん作んなかったんだよ」 と思っていたらしい。
そうして出来上がった初代ドンカマは、おもっきし機械じかけ。
だがその一方、初代ドンカマの出来栄えに満足した長内。緻密なエンジニアである彼にはひとつだけ正反対な欠点があり、それはギャンブルが大好きなことであった。彼はカトちゃんに 「これで大儲けしてヴェガスで遊ぼう!」 と持ちかける。その言葉にころっといったカトちゃん、4人の従業員を雇い入れて会社をたちあげてしまった。加藤・長内でK・O、そして京王沿線にあったので京王、京王技研、のちのコルグの誕生である。創業 1963 年。 ちなみにカトちゃんは、ついぞヴェガスへ行ったことがなかったという。
会社を設立したはいいが、みんなカトちゃんの身内でド素人ばかり。器具はテスター1つしかなく、工作器具を借りに知人の知人のところまで行ったら、それがのちに Roland VP-330 ボコーダーの生みの親となる則安治男(のりやす・はるお)、そしてその紹介で当時すでにエーストーン(Ace Tone)を立ち上げていた梯郁太郎(かけはし・いくたろう)と出会った。
エーストーンとは、エース電子工業株式会社のブランド。 エース電子工業とは日本の電子楽器メーカー。ハモンドとも提携する一方、オルガンやギーアンなどを自社で開発製造しエーストーンのブランドをつけて販売していた。京王技研に先立つこと3年前 1960 年設立。それはボーデが史上初の電圧制御式シンセをつくったのと同じころ。そして創業者である梯は、ユーモラスな大阪人だが酒がいっさい飲めないエンジニア。のちに梯は優良企業エース電子工業を銀行に乗っ取られそうになり、理想を求めてスピンナウト、ローランドを立ち上げることになる。 だがまだそんなことになるとはつゆ知らず、呑み屋のマスターと酒が呑めないエンジニア、水と油、二人の会話が合うはずもなくカトちゃんイクぴーとで果てしなく議論しあっていたという。
電子楽器の黎明期では、誰がどことか関係なくみんなして知り合いで、狭いにもほどがある超ニッチなコミュニティで喧々諤々に議論しあう間柄であったのだ。
そのコルグのドンカマ。 音楽を愛する緻密なエンジニアだけに、不確定なギャンブルを愛する長内にだまされて(カトちゃん談)つくった初代ドンカマは不良の山。いきなり経営危機。
二代目は家具屋に外装をたのんで、ようやく売り物になった。浜松市楽器博物館に展示されているのは、この二代目。
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上面の操作パネルを見ると、演歌とかドドンパ(Do と書いてあるプッシュスイッチ)とかある。 10 鍵だけある鍵盤には、ボンゴ、コンガ、マラカス、ウッドブロック、クラベス、シンバル、スネアがアサインされていて、いわば史上初のドラムマップなのか!? パーカッションが多いのもモンドでラテンなラウンジ系か?
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スピーカー・グリルを外して基板をのぞいてみると:
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同心円状に並んだ接点パターンの上を、オルゴールよろしくアームが時計の針のようにぐるんぐるん回ってスキャンしてトリガーする。
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かなりひんぱんに接点が錆びてクレームになったのだが、 「しばらく回してりゃ、直ります」 と返事していたという。
それでもドンカマが売れず、設立して3年で京王技研はKO技研、ノックアウト技研寸前。 するとある人物があらわれたのだが、そのときのことをカトちゃん述懐して曰く
「その人がねぇ『百万円で買い取ってやる』って言うんですよ。  わたし今日ここでその人の名前言いたいんですけど、その会社の人がここに聞きにきてるもんだから言えないんですよーぉ。」
げらげら。
「でも、あそこで五百万とか壱千万とかって言われてたら、いやぁ、きっと売ってたでしょうねーぇ。」
つくづくえもいわれんカリスマ性たっぷり魅惑のスタイリッシュ爺だが、その下で働くとなると愛憎半ばかもしれない 笑
その後もコルグの経営は傾きつづけ、やがて MINI POPS 5 というヤマハ・エレクトーンの上に搭載できるようにしてつくった機種が、当のヤマハ(当時は日本楽器)の輸出担当に認められて大量受注されるまでは、マジつぶれか��っていたらしい。
だがここでヤマハの「輸出担当に認められた」というところが、じつはひとつの隠れたポイント。 やはり狭い日本市場だけを見ていたのでは限界があり、広大な海外市場、特に当時流行の最先端だった欧米市場で売れないことには日本でも売れないのだ。その後にたどった道すじからして、カトちゃんもイクぴーもおのずと目が海外へ向いたであろうことは容易に想像できる。
ともあれ、ここまでは 1965 年までの話なんだと!
2.コルグ・シンセ創世紀
このころは、まだアメリカでシンセが販売されるかどうかというころであり、あったとしてもどでかいモジュラーシンセしかなく、巨大すぎて高価すぎてアヴァンギャルドすぎて技術的機械装置すぎて前衛的な実験や研究目的で使われるようなものであり、およそ普通の音楽業界に入っていけるものではなかった。 なので当時の電子楽器の最先端といえばオルガン。ハモンドやファルフィッサなどの類が百花繚乱。エース電子工業も自前のエーストーン・ブランドでオルガンなどをどんどんつくっていた。
もともと梯は電子工作を得意とし、電気機器の修理をなりわいとしていたのだが、大阪の小さな教会に設置されていたチャーチオルガンを修理したときその音に魅せられ、さらに電波を検波して音声へ変換するラジオと違い音源そのものが電子回路のなかに内蔵されていることに興味を持った。かくして梯はエース電子工業を起業したのである。
なんとも時代なエーストーンのカタログ。
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コルグがドンカマをえっちらおっちら世に出した前年 '62 年には、すでにエース電子工業が、海外の Clavioline を元に「Canary(キャナリー)」という電子楽器を発表。
これは3オクターヴ鍵盤のモノフォニック・キーボードで、鍵盤下にならんだタブレットスイッチ群による5つの音色切替やソプラノ / アルト / テナー / バスといった音域切替、ヴィブラートの on / off 機能、音量の抑揚レバーを装備した、言わばシンセ的なシンセの一歩手前とも言うべきキーボードであった。
その仕組みは真空管によってアナログのノンリニアなウェーヴシェイパー回路をつくり、オシレーターからの音をそれに通すことで倍音を生成する方式。
キャナリーとは英語でカナリア鳥のことなので、かわいいシンセリードっぽい音がしたのかなぁと想像するばかり。
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アンプに見える「α」みたいなのがエーストーンのロゴ。 スタンドが三脚というのも斬新ですね。
このキャナリーはおそらくアクセントとして使うソロ鍵盤として創造されたものと思われ、’62 年発売の Canary S-2(44,400 円)と ’64 年発売の Canary S-3(39,800 円)の2機種がある。S-2 は真空管なのだが、S-3 はひょっとしたらトランジスタ方式かもしれない。 さらに S-3 には、鍵盤の左横、のちのシンセであればピッチベンダーがついているところに手で叩く2個の白い丸いアナログ電子パーカッション・ボタンが追加されている。むちゃくちゃなことを言えば Fantom ワークステーションシンセの右側についている4×4パッドの、大大大ご先祖さま。
このキャナリーの音量抑揚レバーには操作性の向上のため先っぽに1円玉くらいの大きさの丸い黒い玉がついているのだが、この玉は家具メーカーから仕入れた、つまり家具の部品を流用したもの。 電子楽器あけぼのの時代には、こうした混沌とした珍エピソードがごろごろころがっているものらしい。
そんな中、コルグでは他社の真似をしてもおもしろくないのでちょっと個性的��オルガンを開発。つくったのは、Uni-Vibe なる変態エフェクトを開発した知恵者エンジニア、三枝文夫(みえだ・ふみお)。1967 年、彼は自分が構想している新コンセプトのオルガンをカトちゃんに売り込み、18 ヶ月後にプロトタイプを持って再びやってきた。それは母音を発音できたりもする、けったいな鍵盤機種。カトちゃんはこの試作機を数名のオルガニストなどに見せ、そこで得てきたアドバイスをもとに三枝がさらなる改良を行なっていった。
あるとき、この試作品を見たジャズピアニストの佐藤允彦(さとう・まさひこ)は、これはシンセサイザーというものだと指摘。海外通の佐藤氏にシンセだと指摘されてはじめてコルグは、これはシンセだったのかと認識。国産シンセ第1号。やがて 1970 年、その三枝がつくった試作シンセは国内のオーディオショーにて展示された。 この年、海外では minimoog が発売された。それまでモジュラーシンセしかなかった時代から、よりコンパクトで使いやすくなによりも楽器然としたコンボタイプの時代が来ようとしていた。だがネット時代なんて三十年くらい早い、まだまだ海外情勢なんて伝聞のまた伝聞でしかなかった当時。そもそもシンセとはなにかどんなものか、何の情報もないまま知らずし知らずのうちにコルグはシンセをつくってしまっていたのである。
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この国産初のシンセ、コルグ「試作機1号」にはひとつの技術的なイノベーションがあった。フィルターである。 しかもモーグがトランジスターを梯子状にならべたトランジスター・ラダーフィルターを発明したのに対し、コルグはまったく独自にダイオードをならべたダイオード・ブリッジ型フィルターを発明していた。このころすでにオシレーターやアンプは存在したが、フィルターを発明したのはロバート・モーグ博士その人とコルグだけだったのである。 フィルターこそは減算方式シンセをシンセたらしめている中核部分であり、群を抜いてモーグ最大の発明であった。他の誰もフィルターを思いつかず、モーグ本人にしてもパテントを���った唯一の回路が VCF だったのであり、のちの後発メーカーはフィルター回路だけは見破れず苦心したという。 そんな VCF を、コルグはまったくの独力で独自の別解をみちびきだして発明していたのであった。しかもシンセのことを知らなかったコルグは VCF もフィルターも知るよしもなく、勝手にトラベラー(Traveler)と名付けていた。カットオフが動くところを周波数軸での旅人になぞらえたらしい。
この試作機には全鍵ポリのオルガンも内蔵されており、そこを出発点にさらに開発しているうちにフィート合成したあとにトラベラー型フィルターをかますという、みょうなコンボオルガンができあがった。機種名「コルグ(Korgue)」通称デカコルグ、またはコルグ・デカオルガン。これは実際に 1972 年に発売され、50 台くらいが生産され難波弘之などが購入した。氏のデビューアルバム「センス・オブ・ワンダー」に収録されている曲「虎よ! 虎よ!」にて、その音が聴ける。
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このとき KO にオルガン(organ)をくっつけて「KORGAN」としたものの、日本語で発音するとやばいので、おふらんせーふうに洒落て「Korgue」としてみたら、今度は「読めん」というのでエンドをトランケートして「KORG」となったのが、のちのコルグ・ブランドの始まり。
かくして、コルグはまったくの独学で試行錯誤を重ねながら独自にシンセを実現し、それを量産型にして販売せんとしていた。
首都圏でコルグがよく分かっていないままにシンセをつくろうと四苦八苦していたのと同じころ、日本第2の都市、大阪市は南のはしっこ、堺市との境界にある住之江区にて。
梯が創業し運営するエース電子工業は、好調にエーストーン・ブランドのオルガンやリズムボックス、ギーアンなどと製造販売し続けていた。だがその大株主だった阪田商会が経営危機におちいり、某・都銀が介入。銀行屋は優良メーカーであったエース電子工業に目をつけ、その経営に口出してきた。自社を銀行に乗っ取られそうになった梯は悩み抜いたあげく、自身を含む七人の侍でもってスピンナウト。数百メートルしか離れてない近所に六畳二間のプレハブを建て、新会社ローランドを創立。時に 1972 年のこと。梯、42 歳。
まったくの無名の楽器メーカーゆえ新しいことに挑戦しないことには話にならないというので、ローランドは国産初の量産型シンセを開発しはじめた。すでに梯はモーグともコンタクトしたことがあり一緒にシンセをつくるはずが、モーグも経営がおかしくなって会社が傾いてしまい話が立ち消えになりローランド単独で開発することになった。それでもやはりフィルター回路だけは分からず苦労したというが、それでもこの経緯があったためか、ローランドは最初からかなりまっとうなシンセを構想していた。
コルグが何年もかかってちんたら試行錯誤しているうちに、ローランドは急ピッチでシンセを開発。だが資金が無い。海のものとも山のものともつかぬぽっと出のベンチャー企業にすぎなかったローランドに融資する銀行など、あるはずがない。 するとそこにある若い銀行マンが、大阪に生まれたスーパーリージョナルバンクの若手が、エーストーン時代のころからすでに梯の熱意にほだされ、テクノロジーも音楽も楽器のこともよく分からないままに、則安がエーストーンのオルガンを華麗に弾いてもわからないままに、それなら則安くん、彼にも分かる曲を弾いてあげなさい、と梯がいうので則安は猫ふんじゃったを弾き、やがて梯がスピンナウトしてローランドを立ち上げると、その若き銀行マンは「この新会社ローランドこそが投資すべき企業なのです」と滔々と上司を説得したおし、あまりのしつこさに音を上げた上司が 「○○くん! ボカぁ、もうこの歳であぶない橋を渡りたくないのだよ!」 と怒りながらぽんとはんこを押した。
かくして1973 年、コルグから miniKORG 700、ローランドから SH-1000、二つのモノシンセが世に躍り出る。 厳密にどちらが先だったかは、分かっていない。 発表はコルグが先? 発売はローランドが先? などと諸説ある。分かっているのは、ともに1973年にでてきた国産初のシンセだったということ。
SH-1000 の取扱説明書:
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「1.限りない音の創造への第一歩」
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「お話に入る前に、先ずこれだけの用語はおぼえてください。 そうです。未知なるもの、新しいものへの開眼には常に多少の努力は必要なのです。」
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SH-1000 の「SH」は「シ」ンセサイザーの「シ」に由来するという、日本語ならではの都市伝説がある。
ミニコルグの名称は、デカコルグの逆を行くのだろうと思われる。 ミニコルグの次に出てきたコルグ 800DV は、海外では MaxiKORG(マキシコルグ)と呼ばれることもあった。ミニコルグそのものは、1年後にサブオシとリングモジュレーターとを追加し miniKORG 700Sとしてマイナーチェンジされる。700Sはヴァンゲリスや喜多郎、難波弘之など、多くのアーティストに愛され、東洋のわびさびのように枯れた良い音がする名機。カトちゃんにとっても感慨深い機種だったらしく、のちのちになって大きな伏線としてコルグを変革させることになるのだが、このときはまだそんな未来を誰も知るよしもない。
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↑なんと高校時代の彼女から、タダで上げると言われて譲ってもらった私のミニコルグ 700S、ええ音したんやこれが
国産初のシンセが発売された 1973 年。 それは、アメリカで minimoog が発売されて三年のちのことであった。インターネットが登場し普及するのは、さらにじつに四半世紀くらいあとのこと。ましてや海外のちんけなシンセのことなど、分かるはずもない。 しかもこの年、それまで 18 年間もつづいた高度成長期が中東戦争にはじまる石油ショックでまさかの終わりを告げ、従来の田中角栄内閣による日本改造計画はスローダウンを余儀なくされ、高度成長の影で公害問題が大きくクローズアップされ、バラ色から一転終末論が世間を覆いつくし、年末には「ノストラダムスの大予言」なる人類滅亡論の本がベストセラーになる。巨大テクノロジーに対する憧れと畏怖と恐怖とが、表裏一体で一気に混濁。そんな人類への希望と絶望とその中での自分自身のポジショニングとをわかりやすく若い世代に魅せたのが、当時はテレビまんがと言われたジャパニメであり、ロボットものやヤマトなどであった。
開発中はイケイケの好景気がえんえん続く順風満帆な時代だったのに、いざ発売したとたん石油ショックでトイペ買い占め騒ぎになるくらい未曾有の不景気。 だがそれでも最先端テクノロジーを理屈ではわりきれない感性と抱き合わせるシンセは、そんな先の見通しがたたない幻滅した世界に受け入れられやすかったのかもしれない。
しかもコルグもローランドも海外市場を先に考えて販売を進めていた。 まずは広大かつ進んだ海外で売れること、そこで売れれば逆に流行は海外から日本へ流れ込むので、おのずとシンセの波も還流して帰ってくる。今はまだ誰もシンセを知らなくとも、海外で人気のあれだよとなってくれれば話は早い。 そしてそのまま両社とも売上の7割以上は海外で稼ぐくらいにまで成長していったのである。
このあとしばらくコルグからはトラベラー型フィルターを搭載した機種が続き、やがて 1977 年に分周型全鍵ポリシンセ PS-3100 / PS-3200 / PS-3300、さらに翌 1978 年に MS-10 / MS-20 という、まさに社運を賭けた看板機種シリーズが出るに至って、ようやく世間一般と同じような仕様、同じようなパラメーター名称に落ち着いてきた。
以降は、すでによく知られている歴史である。
だが、カトちゃんは遥かのちにデジタル時代になってからも、M1 が出ても、WaveDrum を世に送り出しても、TRITON が大ヒットしても、どうしても miniKORG 700Sから離れない。 「喜多郎は相変わらずミニコルグ使ってるじゃないか。うちのエンジニアに聞いたら、あの音はサンプリングで出るって言うんだけれど、出ないんだよ。」 それがひとつの宿題となり、伏線となり、伏流水となり、やがてどこかでふたたび表に姿を現すことになるのは、最初にミニコルグが登場してから実に四十年近くもたってからのこと。その回収された伏線はコルグを動かすおおきな奔流のひとつとなり、いくつもの驚くべき機種を生み出したあと、流行に対する解、それもこれまた別解の鬼たるコルグらしい別解となって結実する。 それを本稿では紹介する。
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●機種名
volca nubass Vacuum Tube Synthesizer
2019 年1月発表 2019 年3月発売 国内価格2万7千8百円以下
2013 年以来続く volca シリーズ最新機種。 なお、volca の名はドイツ語の volks から転じたものであり、とかく高価なプレミアム価格がついてまわるスノッブなヴィンテアナログに対し、誰もが買える庶民のためのアナログシンセやギアをめざしたからだという。
真空管を利用したオシレーターを使ったフルアナログ・グルーヴボックス。Roland TB-303 的な機種だが、さまざまに現代解釈がほどこしてあり、もはや 303 クローンとは呼べない別物へと進化し、独自の境地に至った真空管モノシンセ。
本体にへぼいスピーカーがあって、とりあえず音の確認はできる。 単三電池6本で稼働し、別売の AC アダプターでも駆動できる。
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●音源方式
フルアナログ減算方式
真空管を使っているから目を惹くのであって、やっていること自体は普通にアナログモノシンセ;
1基の VTO こと、Vacuum Tube Oscillator すなわち真空管オシレーター 1基の真空管サチュレーター 1基の 矩形波サブオシ 1基の VCF −24dB / Oct のトランジスター・ラダー型ローパスフィルター 1基の VCA 1基の AD / ADSR 切替式 EG 1基の LFO
とはいえ真空管ならではのポイントといえば、オシレーターの他にノンリニアなサチュレーションを用意したことも挙げられる。
21 世紀に入ったコルグは真空管を使ったギターマルチをリリースしたり、グルーヴボックス elctribe シリーズや 2004 年発売のワークステーションシンセ TRITON Extreme などに、Valve Force と銘打って真空管 12AX7 を内蔵させマスタリング・エフェクトとしたりしていた。 シンセの最終段にマスタリング・エフェクトを入れるのは、その前のローランド MC-909 グルボや Fantom-Sシリーズ・ワークステーションシンセにて、マスタリング・エフェクトとしてデジタルの3バンドコンプを搭載していたことに始まる。20 世紀末のコルグはデジタルの盟主となることを M1 以来謳っていたが、ここへ来て急速にアナログ復刻へ舵を切っていた。
だが真空管を生産してきた東欧やアジアにおいて、工場設備の老朽化レガシー化が進み、その供給に不安が出てきた。それがためにコルグはノリタケ伊勢電子と共同で、新しいコンセプトの真空管 NuTube を開発。それは LSI とおんなじ形状おんなじサイズの極小真空管。ノリタケ伊勢電子は、もともと蛍光管表示管こと VFD(Visual Flourecent Display)の開発製造に長けており、ここにコルグのレジェンダリー・エンジニア、かの「試作機1号」をつくって以来ずーっとコルグの技術的屋台骨を支えてきた三枝が目をつけた。
90秒で分かる! 蛍光表示管 VFDとは? - by ノリタケ伊勢電子;
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  真空管とは、大飯食らいで電気を浪費し、そのために人を感電させ、すぐ熱くなるので放熱させねばならず、放熱しなければたちまち切れて使い物にならず、切れたから買おうにも値段も高く、買ってきても大きいために基板上の場所が広くないと使えず、邪魔で、すぐ割れる、どんだけお膳立てしてもすぐ切れて寿命短い、なにひとつ宜しいことが無いわがままな素子なのに、めったらやたらと人気者。
しかし VFD であればすべて解決できる。三枝はかつて真空管ラジオに使われた同調指示管 magic eye tube にヒントを得て、ノリタケ伊勢電子とともに音響増幅用 VFD を開発。
結果、VFD 技術を使ってできた新型真空管 NuTube は、サイズも消費電力も劇的におさえこむことに成功。たとえば一般的なギーアンが 300V にまで電圧を昇圧するのに対し、NuTube を使ったプリアンプはわずか 12V で済ませられる。感電しないし放熱もほとんど無視できるくらいでしかない。熱くならないから安定稼働し、寿命も圧倒的に長寿になる。小さく LSI チップ用パッケージに入っているので取り扱いも簡単、衝撃耐久性も大幅にアップ。単価は 5,500 円
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NuTube 公式サイト; https://korgnutube.com/jp/
この NuTube にはよくある真空管のように素子が2つ入っているので、volca nubass では、そのうちひとつをオシレーターに、もうひとつをサブオシ用サチュレーターに利用している。
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なお、もとが蛍光管だっただけのことあり通電すると青く発光する。
●同時発音数
1音 ローランド TB-303 にインスパイアされた機種なので、これで充分。
●内蔵エフェクトの性能と傾向
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最終段にアナログの overdrive を内蔵し、ドライヴ感あふれる加工が可能。こえはサブオシ用のサチュレーターとは別物であり、ギター向けストンプボックスを真似た回路であるという。BOSS OD-1 とかか? はたまた 303 DevilFish 魔改造の歪みなのか?  たしかにデヴィルフィッシュっぽぅなる。
原始的な EQ ともいうべき Tone ノブがあり、高域を強調すればしゃっきりドライヴやフィルターの動きが明らかに、低域を使えばドスが効く。
●内蔵波形、プリセットの傾向
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VTO こと真空管オシレーターから出る音源波形は;
・鋸歯状波 ・矩形波
の2種類を切り替える方式。どうやらトライアングルベースではなく、ソーベース(saw base)のオシレーターらしいので、原理的には鋸歯状波のみが出て、そこから矩形波を回路で編み出しているらしい。
サブオシもあり、つねにメインオシレーターたる VTO のオクターヴ下で矩形波を発振。分周しているのだろう。
音源波形の音はトライアングルベースのように基音が強くてぶっとい感じとは違う。やはりソーベースなので古くさいホコリっぽいオシレーターとでも言うのか、なんだかアナログにぐわーっと波形がゆがんだような音。ゆがむと言っても、オーバードライヴやディストーションのように天井に当たってばりばり歪むタイプとは全く違う。いかにも古い時代の真空管みたいなマイルドに歪んだ音色であり、実際にオシロで波形を見ても上下非対称であるのが歪みの特徴。 サブオシにはサチュレーションというパラメーターまである。
プログラマブルではないので音色メモリーは無く、プリセット音色も無い。
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●エディットの自由度と可能性
先述の通り、真空管オシレーターこと VTO は鋸歯状波と矩形波との切替式。 プラマイ1オクターヴまでピッチを連続可変可能。かなり上モノの音域まで出せる。
サブオシにはサチュレーション量を制御するノブがついている。このサチュレーションが VTO と同じ nutube で処理されていることに注目。おかげでまさにサチュレーターと呼ぶにふさわしい不可思議な波形変化を見せる、アナログのウェーヴシェイパーである。
VCF は TB-303 のそれにヒントを得て開発されたトランジスター・ラダー型 LPF だが、−24db/Oct であるところが違う。オリジナルの TB-303 は−18dB/Oct であった。 レゾナンスはコルグ MS-20 などにあったように Peak という名前。TB-303 同様発振ぎりぎりで止まるが、それはもとのオリジナル機がエレキベースの代用品であり、もとからあえてフィードバックを抑えこんだ設計になっているがゆえ。それがアシッドベースとして使われるときも逆にアジとなった。
VCF EG は ADR ないし ADSR 切替型。ただし、アタック、ディケイ / リリースタイム、そしてデプスのみが変えられる。 VCF にはアクセント機能もあり、16 ステップシーケンサー上にて強弱を設定し、そのデプスをノブでリアル���イムに可変可能。 VCA は表からは不可視なところに存在。ゆるやかな減衰音 EG がかけられているので、打鍵しっぱなしにしていると分かる。
LFO は三角波と矩形波との切替式。デスティネーションは、アンプ、ピッチ、カットオフ。
なめらかなガラス板で覆われた 16 鍵のマルチタッチ鍵盤が装備され、触るだけで電流が流れて音がトリガーされる。その鍵盤はなんと黒白逆、お歯黒鍵盤、リバース鍵盤。おかげで最初どう読み解くのか分からず、分かったあともトリッキー。でも美しく高級感あり、すべすべして所有感も満足。 作成したシーケンスパターンもこのマルチタッチ鍵盤から呼び出し、シーケンスの各ステップもここで指定するのは、303 を意識したお約束で明快。
16 ステップシーケンサーが内蔵され、多くの音創りパラメーターをオートメーション可能。オートメーションされたパラメーターのノブは、再生中に LED で自照するのでわかりやすい。なおコルグのハードウェア機種では、オートメーションのことを、モーションシーケンスと呼ぶ。
303 を意識してステップごとのスライド、アクセント、トランスポーズを設定可能。さらに monotribe 以来のお家芸 Active Step やステップジャンプ機能装備。しかも演奏中リアルタイムでもどんどん思いつきで設定を変えられる。 Active Step とは、moog 960 シーケンサーモジュールと同じく再生中リアルタイムにステップを飛ばすとシーケンスの長さも追随してどんどん可変する機能で、非常にインタラクティヴにフレーズが七変化して楽しい。 またスライド、アクセント、トランスポーズには強弱の2段階あり、ぽんとステップを押せば弱、長押しすれば強、トランスポーズでは弱がオクターヴ上、強が2オクターヴ上となる。ランダマイズもあって超簡単。
この、トランスポーズが演奏中でも短く押せばオクターヴ上に、長押しすれば2オクターヴ上に簡単にジャンプするというのは、もはや直感的なんてもんやないめっさ肉感的、というかほとんど考えずほいほい押さえてるだけで、ごっつむずかしいことしたようなクールなループがなんぼでもできる。他の volca 機種とも違って特徴的、さすが 303 エミュ。けっこう高いピッチも出せるので、ベースラインだけでなく上モノにも使える。 アクセントも音量だけでなく、フィルター EG デプスも持ち上がるので音がブライトになって良い。
肉感的かつインタラクティヴに、ほいほい操作できるシーケンサーが秀逸でチャンスファクターをどんどん誘発させてくれる。このシーケンサーこそが 303 の本質! おっさんなことを言えばジャン=ミシェル・ジャールの名言に、 「シーケンサーはレコーダーではない。シーケンサーはグルーヴを生み出すものである」 というのがある。せめてジェフ・ミルズの言葉を引用しなさい、と仰せの諸兄、すみません。
つくった 16 ステップシーケンス・パターンは、16 パターンまでメモリーできる。
赤い7セグ4桁 LED による英数字表示は、デザイン的にレガシー・テクノロジーへの憧憬だけでなく意外にも情報量が多くて助かる。
一方現代によみがえった真空管 NuTube は青く光り、サブオシのレベルを上げたりサチュレーションを上げたりするとそれに反応して輝度が変わる。さらにシーケンス再生中もノートに応じて輝度が刻々と変わるので、見ていて飽きない。 そしてボディ全体が半透明のダークなプラスチック、しかもクルマのテールランプみたいにプリズム的な造形が内面にほどこしてあるので、NuTube の青い光をはじめ赤色 LED などさまざまな発行体が外から屈折して見えるのも凝っている。
音は当然アシッドな音なのだが、303 のようにビキビキとアタマに直撃するような高音がつんざくわけではない。もっと鈍重な低音がぶるぶるっとすべり出る感がある。かなりキャラが違うのでこれ1台だけで個性派になれる。
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●拡張性
MIDI IN 端子、パルス信号による同期の入出力、ミニジャック型ヘッドフォン端子装備。USB が無いのが残念だが、あとはひとしきり最低限のものはある。この選択はおそらく少し前の monotribe で獲得した経験に由来するものであろう。
このうち同期端子はなかなかのすぐれもので、別にただのパルス同期なのだがシンプルすぎて明快なことこの上ない。また iOS アプリ Sync Control を使えば、超簡単にクロックマスターとして iPhone が使える。
端子がすべて上向きについているので、volca シリーズは縦横に隙間なくぴちっと並べられる。そして整然と配列されたものたちが一斉に同期演奏されるさまは壮観であろう。
●あなたにとっての長所
小さい軽い場所とらないしかもクール! デザインもいい。トラッドな真空管チューブを模した NuTube のケース。その神聖な青い光をモチーフにした左側の碧と、アナログドライヴを中心とする右側のダークネス、その光と闇との二つの領土が格子型フィルターにてマージする。なかなかいい外観コンセプト。しかもドットの濃淡でグラデを表現。 おかげで nubass の名にふさわしくかなり斬新であたらしいルックスになっており、過去に媚びていない新種であることを明示してていい。 303 よろしくピッチを高くして上モノにも使える。
真空管、その音と歪みと連続的な音色変化。ただの���い音や歪みだけならソフトシンセやプラグインエフェクトのほうが得意かつノイズレスなんだろうが、やはり真空管というのはウェーヴシェイパーの一種でもあるので、音の変化がノンリニアでおもしろい。
秀逸すぎるシーケンサーが、インタラクティヴで楽しくて仕方がない。
●あなたにとっての短所
こんだけ小さく電池駆動できるので、いっそ Bluetooth でオーディオもワイアレス送信してほしい。どこでも置ける自由なモバイルギアとなる。 USB 対応してほしい。USB-MIDI だけでもいい。 MIDI Out もほしい。 AC アダプターくらいは標準で付属させなさい。 ファンクションキーという名のシフトキーがあるのは構わないが、その操作が意外にトリッキーで、取説なくしては飲み込めない。いったん把握できたら、あとは早いがちょっと運動神経がいる。特にライヴ時には予習必須。 アナログシンセなので S/N 比が悪い。それはアナログだから当たり前なのだが、デジタルやプラグインみたいに原理的にノイズがゼロ値のものばっか当然のように使ってきた若い人らにしてみれば、しゃーしゃーノイジーな volca nubass は使えねーとかって言う人がいても不思議ではない。若者はアナログをゆるし、年寄は若者をゆるしてあげてね。
●その他特記事項
1.過去へのリスペクトと、あたらしい挑戦
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Roland TB-303 への憧れは永遠にやみそうにない。 それでも 90 年前後の当初、いわゆる 303 クローンとはただの音源部分だけであった。が、Propellerhead が ReBirth 338 を出したとき、使いづらい内蔵シーケンサーこそが実は 303 の本質であることを見抜き、すなわちあの特異な仕様のシーケンサーと難解な UI こそが、逆に怪我の巧妙でチャンスファクターを誘発しおもしろいループを量産するシカケだと看破したのであった。 音のリアルさもあいま��て、ReBirth 338 こそはソフトがハードを追い越して先を行った歴史的な瞬間である。
それら凡百の 303 エミュの中にあって、この nubass はかなり異色。303 の本質、チャンスファクターを誘発させるシーケンサーはもちろん、その音色は 303 をむやみにフォローするものとは違い、きわめて独自のものになっていて個性的。303 そのものの物真似は他機種に任せておいて、新種のアシッドベースとはこうだ!みたいに主張があるものとなっている。 その点で 303 の元祖ローランドから出たフルデジタルの TB-3 とは、好敵手をなす存在。
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ローランド TB-3 は音こそ 303 モデリングに始まるが、UI は大胆に変貌しタッチパネルが中心となっており、あげくにまったく違う音が出る DSP シンセというところにこっそり軸足を移している。 303 モデリングはもちろん、DevilFish 改造に着想したと思われるするどい歪み音、さまざまなモノシンセの音にヒントを得たと思われる、実に多彩なアシッドベースのバリエーションも豊富。さらにはウェーヴフォールドっぽい音、ビットクラッシャー系、あげくの果てにまったく異なる音、それもコードシンセ系、チルアウト系やノイズ系などなど、303 という固定概念をなんなく吹っ飛ばすおそろしく自由すぎる発想の音色が出てくる。しかもデジタルでモデリングしているので、原理的に最高の音質、最高のダイナミックレンジを実現、思い出補正がかかった 303 とか鋭利なエッジが効いたドライヴとか、いくらでも理想の条件で出せる。 この、303 エミュという羊の皮をかぶった狼、逆にとらわれない自由なシンセシスをたくさん網羅した DSP シンセというところこそが、じつは TB-3 の本性であり、ほんとうに驚かされる部分はむしろこれら新規音色なのであった。タッチパネル搭載に象徴されるその名も Touch Bassline。過去へリスペクトしつつ、本家ならではの英断的リミックスと新境地への革新とを詰め込んだような存在。
2.ローランド
そもそもローランドは、過去を振り返らないメーカーとして永らく有名であった。
なぜか? テクノロジーとは、新陳代謝するものだからである。
今でもプラグインで育った人が初めてアナログシンセを使うと、ノイズが多いことに驚くことが多くクレームにもなるという。 そしてヴィンテアナログが現役だった時代、かならずしも人々はシンセに音の太さや温かさを求めていたわけではない。むしろ求められてきたのは、安定性、信頼性、高音質、S/N 比の良さ、ダイナミックレンジの広さ、などなどであった。 だからこそシンセは、モノからポリへ、音色メモリーがついてプログラマブルへ、MIDI 対応、デジタル化、サンプリング、モデリング、オールインワン、SMF / GM、ソフト化、アプリ化、ネットワーク化、クラウド処理、分散処理へと進化していった。それは便利であるだけでなく、幅広い用途での使用に耐えるようになり、信頼性も高く再現性が担保され、表現の可能性が飛躍的に拡大したことにつながる。
テクノロジーが描くバラ色の未来を、健全な未来観を、SF 的センスオヴワンダーを追究する。
それゆえローランドは「We Design the Future」を掲げ、デジタルでもってアナログの復刻だけでなく、アナログではやりたくてもできなかったことを実現してきた。
そのローランドがアナログに回帰することは、デジタルはアナログに勝てませんでしたという、技術的敗北を期することなのだ。将来ものすごく演算精度が高まったとき、それこそ人体や脳の活動の全情報をワンチップみたいなものに収納できるようになったとき、それこそ人類が仮想空間に住まうソフトウェアだけの情報生命体みたいなものになったとき、アナログシンセの振る舞いもまた完璧に再現できるデジタルの時代となるであろう。そこへの一番乗りを果たしたく、日夜奮闘するを提唱するのが、ローランドに課せられた社是であり宿命なのだ。
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TB-3 にて衝撃的なまでに新解釈された 303 も、まさにその権化であり象徴。JD-XA、JD-Xi に至っては、まったく過去とは異なる次世代アナログシンセを搭載しており、だいたいよくもまぁアナログシンセを復活できたねぇと感心するくらい。
ひとえにローランドはテクノロジー指向であり、テクノロジーによって拡大解釈する会社であり、新技術で切り拓いてこそ未来があるのであり、革新する姿勢の前に過去の亡霊を育てる気はない。Biggest より Best というくらいだから、量的拡大する気もない。
3.コルグ
だが一方コルグは、技術的敗北を期そうがどうしようがおかまいなしに、ユーザーがほしがるものを分かっていてそれを提供しようとする。そのしたたかさゆえに、ひねり無しでストレートに復刻しアナログシンセも簡単にぽんぽんと出てくる。必ずしもテクノロジー的には目新しくないが、取捨選択の仕方、割り切り方がうまい。そしてその高いセンスに立脚した新解釈アナログシンセが、volca であり nubass であり logue シリーズ。 古いテクノロジーだが楽しく遊べるというのは、そもそも海外のアーティストたちに再発見された 303 や 808 などの遺産もそうであった。挙げ句コルグ���開拓したアナログシンセ復権のお株を、ベリンガーが製造業のパンクとして義賊を気取って奪取せんとする。
21 世紀に入ったカトちゃんは、どんだけカネかかってでもいいから miniKORG 700Sをもっぺん復刻してくれと開発陣に言い、たっての希望をかなえるべくエンジニアたちが1台試作したという。だが、復刻できたものの 15 万円以上するため、量産はありえないと判断された。カトちゃんにとって、いや、コルグにとって、理想の中の理想たるシンセの音は当時最先端の TRITON Extreme や m3 ではなく、じつに四十年近く前のヴィンテアナログから出る音だったのである。これを技術的敗北と言わずして、なんであろう。
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ところが、どうせ高くなってしまうなら逆に仕様を削って安くアナログシンセをつくってみようということになり、どんどんスペックダウンにコストダウンしてできたのがスマホサイズで売価5千円を割り込むアナログシンセ、MS-20 前期型 VCF を搭載した monotron である。 しかもそこへゆくまでには、ひとひねりあった。
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2008 年7月 30 日に学研から書籍「大人の科学 特別編集版:シンセサイザー・クロニクル」が発売。定価 3,360 円の本についてきた付録が SX-150 なる、組み立て式アナログモノシンセ。
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素朴なもの原始的なものにこそ、学びと楽しみの本質が宿る。そう考えた学研の人たちは、本屋でシンセを販売するというエデュテイメントならではの奇策に出た。いわゆるマルチメディア本の一種。 しかも改造推奨。メーカー保証も製造者責任もあったもんじゃない。回路図も大公開、どんどん禁じ手を繰り出してくる、掟破りな痛快さがあった。実際 SX-150 は、ちゃんとしたモニターで鳴らすとおどろくほどいい音がするのである。
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案の定それにインスパイアされたのか、2年後の 2010 年の春にはコルグから monotron が誕生。
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その後次々と新機種がリリースされ、シリーズ合計3機種となった。
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SX-150 と同じくツッコミようがないシンプルさ、でもつややかで見事に抜けるアナログシンセの音、しかも LFO でぎりぎり可聴域な周波数変調の音まで出せるといううれしい機能つき、ダメ押しに取りあえず弾けるリボン鍵盤をつけて出てきた monotron。試作しているときにコルグの二代目社長カトちゃん2世こと加藤世紀が、壁から通して抜けて聴こえてくるその音に驚き「それは売れる!」と太鼓判を押したという。
そして monotron シリーズもまた回路図が公開され、基板にまで「cutoff」だの「saw2」だの印字される親切設計ぶりで、サーキットベンディング野郎どもにまでウケたのである。
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すでにモジュラーシンセの世界では自分で改造したりトリムを回したりというのはもはやパラメーター設定の範疇であり、広くあたりまえに行われている。コルグはその文化に一歩あゆみよったメーカーとなった。
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しかしここで面白いのは、翌年 2011 年4月にはそれにシーケンサーとディスクリートによるアナログリズム音源、そして音を確認するためのへぼいスピーカーとを追加したフルアナログ・グルーヴボックス monotribe を出してきたこと。そのほうが開発が容易だったのだろうが、これはあまり売れず、販売完了が決まってから我先に買い求める人が殺到したという。
そのことに、コルグは重要なヒントを得たらしい。
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2013 年からの volca シリーズには、そこからのノウハウがたくさんつまっている。 機能別に機種を分けて登場させることで各キャラを明快にし、内蔵シーケンサーは 16 ステップはっきり表に出し、トリッキーなリボン鍵盤はちゃんと弾けるマルチタッチ鍵盤にとってかわり、MIDI In も装備。 逆に monotribe で良かった点は継承され、それらはパルス同期、リアルタイムに七変化するインタラクティヴなシーケンサー、音確認用のスピーカー、それでいて安価というところ。
ここでポイントはつないだだけで同期できるということ。ソングポジションポインターもへったくれもないが、超わかりやすく同期できるのだからとことん明快。そしてこのごっつう楽ちんな同期システムのおかげで、volca シリーズは 「どれを買おう」ではなく 「どれから買おう」と思わせてくれる、なんとも商売うまいシリーズ。
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おかげで volca は売れ線となり、ユーザーもシンセとシーケンサーの区別がつかないド素人が「なんやしらん最近アナログがかっこいいらしい」というので、買うケースがやたら目立つとも。
第1世代の volca beats volca bass は、もちろん TR、TB を意識して開発され、 volca keys は、幻に終わったローランド TC-404 的なものへの、はからずもオマージュとなった。
第2世代は、そこから冒険し、 volca sample volca FM volca kick へと拡充。kick 以外ではデジタルシンセシスにまで踏み込み、KRONOS にある各音源を切り出してきたような感もあった。
そして第3世代では、 volca drum volca modular volca nubass へと発展。volca drum は DSP によるモデリング音源ドラム、volca modular は珍しいウェストコーストシンセシスの音源を使った超絶マイクロモジュラーシンセ、そして次世代真空管 NuTube を使ったシンベこと本機 volca nubass。
さらには専用のミキサーやスタンドまで��実。
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一方、monotron / monotribe でウリだった MS-20 型 VCFは、volca に採用されることなく、むしろそのまんまストレートに復刻へと昇華される。 2014 年1月には、ついにコルグが初めて本格的な復刻に取り組んだ MS-20mini を発表。すでにオリジナルの MS-20 そのものにはプレミアがつき旧定価よりも高い十万円以上していたのを、サイズだけ小さくなったとはいえ3万円で買えるように復刻。バリエーション機種も続出。
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この「3万円で復刻出来る」というのは衝撃で、それまで古いテクノロジーだから復刻してもやみくもに高価なだけだ、という言い訳は通用しなくなった。あれこれ工夫すれば、現代のパーツでもレガシーを代用できてしまうのである。 むろんアナログゆえ個体差もあり歩留まりもあるので、そこはおいそれと一朝一夕にはできず積年のノウハウの積み上げを要する。つまり歳月を重ねたものだけが見事に安価で復刻できるのであり、そこはコルグに一日の長があった。現にベリンガーの復刻シンセの数々を操作すると、値段相応でしかないことも多々ある。アナログはデジタルのように簡単にはいかないリソースを食うものなのだ。 アプローチこそ違うが、ローランドや DSI あらため新生 Sequential が音声経路はフルアナログでありつつ EG や LFO にはじまる変調系を DSP でデジタル処理をしているのも、やはり経験あってこそのこと。この点で両者は、コルグとは異なる解を出したと言っていい。
4.決別
2016 年に ARP Odyssey を復刻させたコルグは、だが内蔵リングモジュレーターにデジタル式のものを使うなどさすがに苦労もにじむ。そもそも自社のものではないレガシーをなぜに復刻するのか、という声も開発現場からはあったという。 そして復刻の呪縛から解放されたコルグは、次世代のアナログポリシンセを自社の名前で出した。
ARP Odyssey 復刻と同じく、2016 年1月のこと。 アナログシンセ4音ポリ。 売価が 499 米ドルしかなかったため当時としては価格破壊であり、DSI のちの新生シーケンシャルとなるデイヴ・スミスをして 「4ボイスのアナログポリシンセが 499 ドルしかせんとかって、あきれるばかりだね」 といまいましそうにぼやきせしめた逸品、それが現代の名機、未来のヴィンテ、minilogue。制作系を念頭に4音に抑え、スリムなミニ鍵で敷居も下げ、外観も未来のヴィンテにふさわしく曲面をあしらった。
そこから logue シリーズはまたたく間にラインナップを拡充させ、シンベやリードに特化しカラフルなバリエーションも可愛い monologue、手弾きを念頭に置いたフルスケールのポリシンセ prologue シリーズ、そして小さくも相手を選ばない自由な機種 minilogue xd にまで広がった。
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5.次世代アナログ
2019 年1月、コルグが minilogue xd と volca nubass とを同時に発表してきたことには意義がある。 それはどちらもアナログでありながら、過去とは決別した新種だからである。nubass にしても、過去へのオマージュでありながら音もデザインも新規のもの。
アナログシンセへ回帰し、復刻とリバイバルの盟主となったコルグ。真空管というアナログの権化、アナログの極致のような素子にまで先祖帰りし、原理主義、大復古主義であるかのように生まれたコルグ nubass、だがそれはあたらしい真空管 NuTube であり、すでに未来を志すものである。すなわち真空管という、カテゴリーはレガシーでも NuTube という素子は革新であり、音的にもアシッド世界にて新種を誕生せしめるものである。
また minilogue と minilogue xd とでは VCF 肩特性が違うということも大きく、minilogue はヴィンテアナログの集大成っぽい音、minilogue xd は新世代のアナログシンセを提案するような音っぽくチューニングされているように思える。
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minilogue xd Pearl White edition.
過去をリスペクトしつつ、過去との決別。
すでにアナログシンセの音は、もはやギターやエレピやオルガンなどと同じく定番の音になっていた。20 世紀の楽器と言われるくらい歴史が浅い電子楽器といえど、もうそんなになるまで音楽と楽器は大きく育ち成熟したのだ。それは見ちがえる我が子をみる気分なのか。 それが 21 世紀の楽器、ということか。 そしてその世界の中でもひときわ新しい種の音が、その名も「nu」bass。
6.次世代デジタル
いっぽうコルグのキーボード型シンセは、こちらも新世代のアナログの音を編み出したあと、そこから別の道をたどり四十年近くぶりに再びのデジアナハイブリッドを経てデジタルへと舵を切った。それが prologue、minilogue xd、Nu:Tekt NTS-1、そして wavestate という鍵盤楽器の流れになるのだろう。
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デジタルへの回帰、すでにユーロラック世界ではたくさんのサンプリングやモデリング、グラニュラー処理などの、デジタルモジュールも出回っている。
そして logue SDK を使い、C言語で自作したオシレーターやエフェクトをロードできる prologue、minilogue xd、NTS-1 は、デジタルならではのぶっとんだハックをするたのしみを知らしめた。事前にソフトの動作を確認できるウェブアプリまで用意されている。
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最初のアナログ復興シンセ monotron は、基板に「cutoff」などといった案内を設けることで、ハックしやすくサービキットベンディングしやすく、アナログならはの自作する楽しみを広めた。 同じく prologue、minilogue xd  や NTS-1 では、地球の裏側の人がプログラミングしてつくった、けったいなウェーヴフォールド・オシレーターのアルゴリズムとかをネットから流し込んで鳴らすことができる。安全規格もへったくれもありゃしない、この過激な未来志向、その音にぞくぞくする。さすがデジタルである。
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デジアナ問わず、ユーザーはついに自分にとっての理想の楽器を、みずからの手で生み出せるに至った。ようやくメーカーの圧政から逃れ、自分たちの手で「ぼくがかんがえたさいきょうのしんせ」をつくれるようになった。デジアナ問わず自分がほしいものをゲットし、自分でカスタマイズする時代となったのだ。
その波がようやくコルグのような大手を動かすに至ったのが、こちらも時に 2019 年から 2020 年にかけてのこと。
7.未来
アナログシンセのリバイバルは、ついに古典から脱しあたらしい次元を迎えた。 過去に媚びない、誰が見ても未来志向のアナログが出た今、やっとアナログ志向だけではなく、デジタルも再評価されるようになった。ASM 社の HydraSynth が 「Digital is the New Analog」 とキャッチを打ち、各社からの FM 音源やベクター音源、ウェーヴシーケンスなども再び進化しはじめた。
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KORG volca nubass も Roland TB-3 も、ともに競合ではなく、ともにバリエーションとして補完しあうものであり、さらにそこから未来へ向かって進化するものでろう。
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アナログの権化のようなギターの世界でも、NuTube による真空管アンプがある一方、アンシミュの大半はデジタルでありアプリですらある。ローランドは早くから VG-8 を始めとする「モデリングギター」の開発に熱心であった。そして今、世界はようやくそこまで成熟してきたのだ。
デジタルもアナログも、どちらが古いとか新しいとかでなく、どちらもひとしく未来を志すテクノロジー。 その切っ先の座をめぐって争う波に乗り、あたらしい音を創る。 電子楽器とは、テクノロジーに直結した表現手段。科学技術への全幅の信頼を置いてこそ、はじめて実現可能となる、あたらしい表現。だからこそ陳腐化も激しい一方、レガシー・テクノロジーであっても表現に有効なものは、生き残る、生き延びる、伏流水となって潜ったあとに再発見される。すなわち単一の規格に押し込められること無く、いや、CV / Gate、MIDI、GM などといった規格ですらもが、個性をゆるすルーズなもの、ましてや規格外の表現手段は星のようにあまた存在する、それが電子楽器、その自由さが電子楽器。科学と技術への健全な信頼があってこそ、人類はとらわれることなく前を向いて未来をこころざして、永遠に未完ながらも革新を重ねる道をあゆむことができる。それこそが、テクノロジーがもらたすセンスオヴワンダー。
そんな私たちを見下ろしながら、天国でカトちゃんとイクぴーとは、ひょっとしたら、あんなふうにユーザーを育んだのは誰のせいか、あんなことでいいのかと、まぁそう思ってるか言ってるかは知らないけれど、少なくともまだまだお互い一歩も譲らずに楽器への哲学と情熱とを戦わせていることだろう。
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P.S
私は決してダンストラックを作る人間ではなく、アシッドもなにも音楽としてではなく音色として聴いている。すなわち私にとっての 808 / 303 などなどは、あくまでシンセ。 だからここでもシンセとして取り上げた。クラブ音楽的な観点からの解説は世間にいくらでもあり、それらに私は到底かなわず、かなうつもりもなく、あくまで1シンセシストとしての観点から書いた。
地球の歴史では、小惑星衝突によって生態系が一変したことも何度かあった。今回のウィルスによって人類社会も大きく変貌しようとしている中、それでもこれが単一のパラダイムにではなく、多くの科学と技術に立脚しこれからの新時代へ跳躍するためのカタパルトとなることを祈りながら、執筆作業の後半を続けていたことを付記しておく。
Stay safe, stay healthy, and stay cool. 
Take care. 
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↑ 結びとしてアシッドなダンストラックの代わりに、カトちゃんとともにコルグを創業した長内端氏による正確無比なアコーディオン演奏を掲載。あまりに正確無比すぎて、じつにおもしろくない演奏なのだと人は言う。この機械っぷりからドンカマが誕生し、コルグが生まれたのであった。
* 写真は、筆者が撮影したもの以外は引用です。
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ymifune · 2 years ago
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awai #161
眠れなさそうだと思って、ベッドに入る前に文章を書いている。 まだ月曜日である。 昨日の夜、本当は少し文章を書いてから寝るつもりだったのだけど、睡眠薬の回りが早く、すぐ寝られそうだったので、粘らずに寝た。 5月9日だった通院の予定を2日火曜日にずらした。GW中に通院してルネスタを1錠きちんと復活させようと思っている。焦ることはない。 焦ることはない・・・が、今でも時折夢見ることはあった海外移住とかそんな遠い野望は、睡眠薬が手放せるまでは叶うまいとも思う。外国で心療内科に罹ったら良いではないかと言う意見も聞かれそうなのだけどね。できればある程度の完結を見てからの方が出て行きやすいことには変わりないだろうと思うのだ。 毎日、色々とある。が、きちんと自分を大切にするためにできることをすると言う選択はし続けることができていると思う。自分こそ自分を救う救世主たらないと。 雑念が浮かんでは消える。 自分は自分なりの幸せを享受しようと努めている。理解してもらえなくてもいい。が、尊重はしてほしいと思う。 自分の周りにいる人たちも彼らなりのサバイバルを繰り広げている。自分にはその全てなんてとても見えてはいなくて、だからこそ、見えない努力やサバイバルに敬意を表し、どんな方にもきちんと誠実に接することにはしている。 Being soft but take no shit. が、そう言う人たちが今俺が感じているサバイバルモードを想像し、尊重し得なかったとしても、恨み言なんて言うまいとは思う。 どこまでも、自分はそういったネガティブな感情を受け止めて足の裏から地に流す避雷針であろうと思う。(次のシングルのタイトルは「避雷針」(Hiraishin)とかが良いだろうか。) もう誰の期待にも応えない。応えられないのだ。今の週4日勤務でも精一杯だ。週末に音楽を作る時間を捻出でき��い日の方がずっとずっと多いぐらいだから。 今日も筋トレは楽しめた。少し「苛まれ」モ���ドの中にいたのだけど、スクワットをしたら吹き飛んだ。 人って不思議だ。その人の一言があるだけで、その日1日が心温かく過ごせる日にもなれば、その人の一言があったせいで、その日1日が「苛まれ」のうちに過ごさないといけない憂鬱なものにもなる。ネガティブなインパクトの方が大きくて、割と残るもののような気がしていて、そう言う経験をするたびに、ああ、人って嫌だなとか思う。実際はそんなに一般化していなくて、一人でいる方がマシだったなと思うのだ。 自分はもし一人暮らしを始める機会があったとして、「ああ、一人は寂しいな。」とか思う日が果たして来るんだろうか。 セフレは必要なのだ。できれば、もっとセックスする機会に恵まれれば良いのになとは思う。が、セフレとてもちろん他人なので、そこに人間関係が生まれる限りは、何かしらの「tied up」は感じることになるとは思う。だからこそ、自分は日本のセフレのSくんにとって、とことんめんどくさくない男であろうと、ある種の人付き合いの淡白さでもって、この関係が長続きするものになるよう努力はしている。強くも弱くもならず、連綿と、歴史を刻んでいくかのように、関係が続くよう。 眉根の強張りを取りたい。できれば、今度の木曜日はまたちょっと脱いで自撮りをしてみよう。今の自分・・・1ヶ月に1回ぐらいしかそんなことはしないんだけども、まあ少しずつ変わる自分を残したい気持ちはあるのだ。この部分はエゴだと思ってもらっても構わない。自撮りに3~40分かけるなら、その時間だって音楽を作れば良いとも思う。が、自撮りをする時間と音楽を作る時間は脳の使う部分も違えば、脳が動く箇所というか、作用も副作用もまるで違うのだ。 寝よう。 明日はストレッチデーなので、少し遅く起きても良い日だ。 俺は寝るのが好きだ。今更ながら。熟睡している時間って、最高だと思う。 明日からも生き延びるので、どうか見守っていてほしい。
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cdsa2022 · 3 years ago
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CD2022_#1
担当|菅原
長いようで短かった夏休みも終わり…ついにCDがスタートしました!
またCDに携われることが嬉しい、SAの菅原です。
みなさんと同じように、SAの私たちも、もちろん一緒にTumblrを更新していきます!よろしくお願いいたします!🙌
いきなり公開処刑
応用演習の初っ端から始まったのは…まさかのいきなり公開処刑!
なんだこの科目は!?という感想になった人もいるのではないでしょうか。私は昨年、科目を間違えたかと思いました笑
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言われている間はすごく恥ずかしい講評ですが…実は評価をいただくことって、作品の伸び代が見つかる、とてもありがたいこと。
自分が製作している内は、どうしても自分の視野だけで物事を見ているものです。
また特に、自分が頑張ったものや課題で出されたものは「こんなに時間をかけたんだから」「どうせ課題なんだから」というバイアスがかかり、不自然な点もスルーしてしまうことが多いです。その結果、自分に都合のいい解釈だけで物事を捉えている可能性があります。
そんな思い込みをほぐしてくれるのが、講評で得られたコメント!
自分には見えなかった新しい視点は、作品の可能性を広げる種です。
いいところは、もっと輝くように。伸びるところは、もっと伸ばせるように。自分以外の視野をいただくことで、都合のいい解釈が崩され、自分1人ではできなかったような改善を重ねていけるのです。講評によってどんどん育っていく自分の作品…そう考えると、講評にもポジティブに向き合えるような気がしています。
サバイバルについて考える機会なんて、CDの課題で出されなければ、なかなか得られません。
そんな中で出した今回の作品は、どれも伸び代だらけ!先生方がおっしゃっていたように、ポートフォリオにも確実に載せられます。私もサバイバル課題、ポートフォリオにバリバリ載せています笑
ぜひ講評を存分に使って、作品の可能性を広げていってください!
風に吹かれて…
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そんな「一緒に作る面白さ」を実感できたのが、後半のインプロです。
ビュンビュンな台風下でしたが、みんなが動作や感情を体で伝え合ったことで、たくさんのワークが進み…どんどん表情がほぐれていく様子に、一緒にいる私も楽しくなりました🌼
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風に吹かれる愛…!笑
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テンポを聞いて、ボールを拾って、シーンをイメージして…途中でボールが無くなったり、逆に全員でピタッと音が合わさったり…みんなで顔を合わせる瞬間が盛りだくさん。
パスタは昨年なかったワークなので、こちらもドキドキ!描く方向が違うだけで落ちてしまうのがもどかしい!!
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アイコンタクトによってお互いが成り立っている、どんな意見にも新しい見方がある…などなど、遊んでいるように見えて、互いの意見や態度を生かし合う大切な考え方に気付かされました。そして何より、その場の雰囲気が一気にほぐれ、みんなの境界線がほぐれた時間でした。
やっているだけで、一緒に楽しめ、世界の見方がちょっぴり変わる…そんなおもちゃを作りたいものですね!
ーーー
さて、まさかの椅子でチームも決まり…次の活動は科学館と生田緑地のフィールド調査です!
事前課題で一回は行った方がほとんどだと思いますが、科学館の方の解説や他の人との歩き合いをすると、また違った感想が出てくるはず。改めて視点を広げて見てみましょう👀
CDはなかなか先が見えにくく、今やっていることに不安もある科目かもしれません。
でも、1人じゃありません。課題も、嘘っぱちじゃありません。
一緒に考える仲間がいて、先生がいて、TAさんがいて、そして私たちSAがいます。そして、作品を届け、答えてくれ、本当に展示を楽しんでくれる、本物の親子がいます。そんな中で半年間考え抜く経験は、とっても貴重!
CDを選んだことを誇りに思えるよう、私も全力で誇りに思い、悩み、楽しんでいきます!存分にSAも環境も使いまくってください!
一緒に半年間、あっという間の半年間にしていきましょう!素敵なCDにしましょうね!!
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zo-sunz · 3 years ago
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「義勇軍や市民の志願兵について思うこと、そして、戦争を止める為に、我々は新たな働きかけを行って、毎回戦争を止める為の効果を向上出来ているのだろうか?」
    
 寄せ集めの義勇軍というのは、統制がとれない軍隊である。多国籍から寄せ集めた軍隊は、統制がとれるように選び抜かなければならず、多国籍国民を寄せ集めた軍隊は、言語の違いや国民性の違いなどによって統制がとれない問題が生じやすい、長い間訓練して、統率のとれる軍隊をつくる為には一定の期間友に行動する厳しい訓練が必要になるだけではなく、軍事作戦行動を行う為にも、もとより武器を用いた攻防戦の戦場に立つ為にも、軍兵に必要になる知識と経験が備わっていなければ、不測の事態の対応を兵士同士が統率して対応する事ができず、軍隊にとってまたは軍事作戦上、絶対にやってはならない行動を行ってしまったり、とっさの自己判断により間違った行動をとってしまい、軍隊行動や軍事作戦の失敗など、軍隊全体が全滅してしまう、または他の兵士の安全を脅かしてしまうような事を簡単に起こしてしまうことになる。
 軍隊の兵士というのは、特攻野郎Aチームなどのようななんでもありの個人プレーで危機を乗り越え目的を達成するというようなものではない。
 厳しい規律と命令に従って作戦を安全かつ確実に実現するように訓練の末に鍛え上げられたルールを守る厳格で厳密で精密な行動を行える者が集まって、作戦の行動規範を訓練した体で理解し、統率のとれた行動を行える事によって作戦を成功させる事を目的とする軍事作戦を完了させる兵力であり、人間ではない。
 兵士というのは、兵士の命よりも、軍事作戦を確実に完了する事が目的の軍事システムの主要な一つの機能に過ぎない。
 場合によっては、軍事作戦の目的達成上、自国民をも犠牲にする作戦を実効する事もある、それが、軍隊であり、兵士である。兵士の命は関係ない。
 兵士は軍事作戦上の兵力を発揮する一機能であり、人間ではない。
 パソコンゲームやスマホゲームなどの戦闘ゲームの兵士のようなものとは全く異なる。場合によっては味方の兵士が犠牲になっても作戦を完了させる機械の一機能のように行動しなければならない。
 そのため、味方の兵士同士が殺し合う事も起こり得る。それが、軍隊であり、兵士であり、軍事作戦というものである。
 戦場の現場の現状は常に変化し、敵の行動によってどこでどんな攻撃を受けるかはわからない、予め想定した攻撃事態に備えた行動を常に行い、状況の変化に兵士同士が統率を保ってついていけなければ、戦場では真っ先に死ぬばかりか軍隊全員が死ぬ事に繋がる。
 死ぬのは当たり前��死を拒まず、軍事作戦を実現させるために必要になる行動を行う。それが、兵士である。
 ウクライナで市民が志願兵として志願した志願兵にインタビューを行った日本のジャーナリストは、志願兵から次のような覚悟を告げられた。
「私はウクライナの子どもたちが祖国で平和に生きていけるようにするために、戦闘に参加して、人を殺さなければならない。わたしは死にます。今はもう、死ぬのは、怖くありません」と表情を無くした悲しい顔で、死んだような顔で、彼はそう言って、今の覚悟と役目を果たそうとする決意を語った。今、志願したばかりのウクライナの市民の志願兵の言葉である。
 彼は「わたしは死にます。今は、もう、死ぬのは怖くありません」と言った。
戦闘で戦う軍隊の兵士になるということは、そういうことなのである。
「戦場で戦闘に巻き込まれて死ぬかもしれない、それでも戦わなければならないから、だから、私は死にます」と彼は語った。軍隊に参加して、戦って勝って帰って来るというのではない。軍隊の兵士になるということは、軍隊の一兵士として、軍隊の作戦の一役を担い、目的を果たす為には死んでしまうかもしれない事を知っていても、目的を果たす為の役目を果たすといこと。それは自らの死を伴う可能性があるということ、戦場では、自分の命は自分で守りきれない。どこで不意打ちをくらって狙撃されるかわからない。部隊長がどんなに注意して隊員たちの安全を確保しながら作戦を進めていても、防ぎきれない流れ球に当たって死んでしまう事や突然の爆撃に巻き込まれて死んでし���う事は往々にしてある。どうにも防げない死があるのが兵士の宿命であり、作戦や任務を果たす為に、命を落とす事は兵士の宿命なのである。
 であるからして、そのウクライナ市民の志願兵に応募したばかりの市民は、最後に「私は死にます」と自らの覚悟を自らそこで悟って、我々に伝えたのです。
 戦争はむごいものです、人間の人間性をいとも簡単に奪うのです。軍の兵士になるということは、人間性を失う事を意味します。「子どもたちの為に、子どもたちが祖国で暮らしていけるようにしなければならない。だから祖国を失うわけにはいかない、私は人を殺さなければならない。私は死にます」と彼がそこで語ったように、市民が志願兵として戦争に参加するという事は、市民の人間性が奪われる事を意味します。兵士は人間性を失って任務を遂行して死ぬ事を厭わない、人間ではない軍隊の一兵士となるのです。
 統率のとれない軍隊は味方の兵士を殺し、市民を殺し、軍隊を殺すことになる。サバイバルだけで生き残れても、軍事作戦の目的を達成できなければ、軍事作戦は失敗し、多くの人々が亡くなり国は奪われる。サバイバルだけで戦って生き残り、敵の戦力をいくらか攻撃できてダメージを負わせることができたとしても、軍事作戦の目的を達成できなければ、あまり意味がない行動をとり続けた兵士となってしまう。であるからして、兵や軍隊は人間を必要とはしていない。
 あくまでも人間は、軍事作戦を実現させる為に確実に行動する一機能として存在しているだけであり、軍事作戦においては兵士の命が最優先なのではなく、軍事作戦に従って行動し、軍事作戦の目的を実現する事のみが目的の一機能にすぎない。人間を人間としてみている兵士は兵士としての役目を果たせない兵士となる。だから、兵士は死を拒まず軍事作戦(指揮官の命令)に従って行動する機動的な兵力の一機能として働く。
 統率のとれない軍隊が兵士の安全を守りながら軍事作戦や軍事行動を確実に成功させる役目を果たす為には、できる軍事行動事態が極めて制限されるため、戦場では殆ど使えない守ることができない傭兵部隊となるだろう。
 統率率が低い部隊は、戦場での軍事作戦を行う能力が低いので、作戦を実行し完了させる確率事態が低くなる、そのような部隊は、軍事作戦上、戦場の戦力として期待されることはなく、市民の居住地帯で市民が攻撃された時に市民を守る防衛隊などの役割として敵の攻撃の盾となり攻防戦を繰り広げる防衛兵(警備隊・防衛の為の応戦兵)として市民よりも先に自らの死を持って市民を守る傭兵として国内各地の住民警備の為に配備されるのではないだろうか?
 多国籍の民間から寄せ集めた義勇軍や市民が志願した市民兵と言いますが、実際にはどのように祖国を守る為に、使われているのかは不明です。
 市民や多国籍民間兵が全て攻撃部隊などの攻防戦に投入されるのかどうかはわからない。統制力が低ければ、かえって本格的な訓練を積んだ自国軍の妨害になりかねない、むしろ捨て駒として前哨戦や前線に送られたりする可能性もある、寄せ集めの民間兵がウクライナでどのような扱いをされるのか、私は非常に疑問がある。
 そんなことよりも、まず戦争地帯に残っている市民を、一人残らず全員安全地帯へ避難させる為に、民間兵を使うべきだと私は思います。
 現地に残った市民を残らせたまま、残らせ続けた市民を守る為に、民間兵を使うというのは、私は賛成できない。祖国は守れても、それは犠牲者を増やした上で守る祖国となるからだ。
 祖国よりも、まず国民の命を守る事を最優先に考えるならば、戦争地帯の市民を一人残らず安全地帯へ救出する事である。
 その為の市民救出作戦こそを最優先に行い続けて、市民を安全地帯へ全員避難させること、世界各国は避難できない病院入院患者などを安全地帯の病院などで引き受ける患者移送作戦を決行するなど、支援する必要がある。義勇軍兵などの戦闘支援部隊よりも、真っ先に市民を避難させる救出部隊を送り込み、軍事救出作戦(市民避難作戦)を完了させることが最優先に行っていくべきではないか?
 ウクライナ国民が兵士になって、他国からの義勇軍などの兵力も借りて、ウクライナ軍と共に、ロシア軍の攻撃から祖国の街と居住市民を守り、長期戦に持ち込んで補給路を絶ってロシア軍を撃退させようとする作戦では、兵士となる市民も、義勇軍兵士も、市民も、犠牲を増やした上に、祖国を守る事になる。
 祖国の市民の命を最優先にするならば、戦争地帯となった市民を一刻も早く安全地帯に全員避難させ、避難民を受け入れる施設をつくる事や他国で一時避難生活を送れるようにする為に、必要な支援を世界中がそれぞれ協力してするとか、避難をスムーズに速やかに行えるようにする手段を世界中が支援するとか、そういうことをいの一番に施して、戦闘地帯での市民の犠牲の心配がない戦闘地帯にして、その上で、市民兵や寄せ集めの義勇軍ではなく、もっと訓練された本格的な軍隊による確率の高い強力な攻撃によって、敵をより早く確実に撃退させるようにする事が先決であり、その上で、市民兵や義勇軍兵などの国内攻防戦による軍事作戦を行うようにする。
 自国軍が劣勢かつ数が少なく攻撃力や防衛力が弱いならば、自国軍や市民軍や義勇軍でロシア軍を撃退する事は極めて困難なだけではなく、自国の犠牲を多く出してしまうことになる、それならば、まず国内市民の犠牲がない状態を速やかに作った上で、他国軍の装備や他国軍の作戦と指揮官の命令通りに行動して軍事作戦を実行しロシア軍を撃退していく多国共同作戦を多国軍の攻撃を借りずに自国軍と市民兵などのハイブリッド戦によって実行していく方がより安全に、より犠牲を最小化して、攻防戦を行えるのではないか?
 ロシア軍の攻撃対象は、今後も状況の進展によってある程度は想像がつくはずである。
 原発やインフラ施設以外に電波塔を狙ったのは、テレビ情報放送をシャットダウンさせるためであった、それは、ウクライナ国内でロシアに対抗する情報戦が有効に繰り広げられていたことがロシア軍の作戦の妨げになった。
 そしてウクライナ国内ではロシア兵力に対する投降を呼びかけるビラが刷られて、まかれた事も報道された、ウクライナ国内でビラによる情報伝達手段が有効となったのだから、ロシア軍は、ウクライナ国民の情報戦を絶つ為に、インターネット施設や電波をシャットダウンするなどの攻撃を行ったり、印刷所や新聞社などを攻撃する可能性も今後は出てくる、すでに行われているかもしれないが、それぞれの攻撃対象となる建物や施設がある地域が今後攻撃される危険性が高くなるとすれば、予めそのような地域住民を安全の為に、避難させておく事が、ウクライナ国民の命を守る為の最善の策となるだろう。
 そういった攻撃対象となりうる施設へのロシア兵士らの進軍を防ぐ為の攻防戦に力を入れるよりも、まず先に市民を避難させておくことが、攻防戦上もウクライナにとって優位に軍事行動が行えるようになる。
 ゼレンスキーは政治の素人なのか、初めから市民を犠牲にする軍事攻防戦を行ってきているが、(国民を鼓舞したり、「祖国を守る為に、私はキエフに残って徹底抗戦戦う!」とか、ロシア軍やプーチンを避難する事を先行させ、市民を真っ先に攻撃地帯から避難させる救出作戦を実行支援するように世界に協力を求めず、むしろ市民たちに外に出ないで家の中にいなさいと言うばかりで、祖国を守る為に、戦う!と言うばかりだったのが、ゼレンスキーの初期対応であった。
 そのような対応をいろいろみてきて、私はゼレンスキーは判断が素人っぽくて、国民の犠牲を考えておらず、信用できないと判断している。
 救出部隊よりも攻防戦部隊で戦う部隊を寄せ集めて戦おうとばかりしている。
 市民たちは車の渋滞行列でポーランドなどに逃げようと立ち往生していたのに、家にいて外に出ずに、祖国を守れと、正規軍の兵役経験がない市民全体に言って市民を奮い立たせた事。市民たちを参加させて戦力を増して攻防戦で戦う戦力を増すにしても、まず戦闘地帯となる市民を真っ先に全員いち早く避難させることが先決である。
 市民を居残らせて戦うなんてアホな作戦は、市民を犠牲にして戦うという犠牲を増やすことを前提にした戦いになってしまう、そんな国民の命を最優先に考えない大統領判断は有り得ないのだよ。
 世界に戦う兵士を集める為に、呼びかける事を最優先にするのではなく、まず市民の救出部隊と避難生活を支援部隊の支援を世界に呼びかけるのが先でしょう。
 自国軍がそんなに強くて兵力が多いならば、市民の安全を守れる余裕があるのでしょうが、そうではないでしょ?
 ウクライナ軍は経験の浅い米軍などに訓練された一番部隊、兵力はロシア軍に対して全く足りない。
 自国軍や市民軍では犠牲が多くなって勝てない現状だった、ならば、まず市民を避難させることが先決にしなければならないことだ。
 状況判断が出来ていない大統領だ。祖国を守ろうとする国民意識ばかりが高くて、現実の市民の、命を守ることを最優先に考えていない行動をとっていた。
 ロシア軍ではなく、タリバンなどの過激派武装勢力などだったら、今頃はとっくに市民が全滅しているところだと思いますよ。
 ウクライナ国内では、���年間以上親ロ派との内戦状態が続いて国内東部を奪われて侵略されてきたから、国民の多くがロシア人に対する憎悪を抱いている、ロシア人を嫌っていてロシア語を話す人を嫌っている、そういう憎悪と対立感情が高まっている国民性が高まっている状況がある。
 日本人記者がウクライナ市民にロシア語で訪ねたら、ロシア語やロシア人に対する憎悪と嫌悪感を露わにして示して「ロシア語は嫌いだから英語で話してくれ!」と怒られていた場面があった。そのような状況が今のウクライナ市民の中に深く根付いていることがわかる。
 日本国内でもあるでしょう?ヘイトなどがあるでしょう?朝鮮人は朝鮮へ帰れなどと言う自国民族中心主義の差別主義者がいるでしょう?マスコミや政府やネット情報で、差別を扇動するような嫌韓報道などが流れてくることもあるでしょう?
 国民の対立を煽り、国民の分断を強める働きかけが社会的に強まり、マイノリティ市民たちが差別や暴力の被害にあってお互いに犯罪や暴力事件が起こるようになると、自国内の移民たちを排除しようとする移民排他主義者が生まれたりする。
 そういう時代が高まった社会では、益々対立の危険性が増していた、ロシアのプーチンによる侵略によって、現在のウクライナ市民の憎悪と嫌悪感と怒りは最絶頂に達している状態になってくる。
 そのような状態になっている市民同士が対立して同じ国内に共存している社会で、世界中がロシア人やウクライナ人への憎悪や嫌悪や怒りを高めあっていったらどうなるか?
 ウクライナ国内でロシア人市民によるプーチン擁護発言などを聞いたらどうなるか?ロシア攻撃の犠牲になった人の家族がそこにいたらどうなるか?家族の中で兵士として戦っているという人がそこにいたらどうなるか?場合によっては、激高して虐待事件や集団襲撃事件などが起きるかもしれない、戦争事態になると、みんなが知らないところでは一触即発の悲劇が起こり得る状態になってしまいやすい。
 米国の黒人差別の歴史がいまだに終わらないのは、みんな知っている事だ。世界中でそういうことが起こり、憎悪は憎悪を生み出して怒りと憎しみと途方もない悲しみの末に暴力が暴力を生み、次第に人々の人間性は力によって壊され狂っていってしまう。
恐怖は、目に見えません。恐怖とは、想像すればするほど大きくなるものですから。
 世界が支援すれば、もっと救える命があるはずです。なぜ戦争地帯に市民が残っているのか?家族が志願兵になったから一緒に戦えない家族は家で共に戦う覚悟なのではないか?「家族をおいて自分たちだけが逃げるなんてできない。祖国を守る為に戦う父や兄と離れ離れにはなれない、私たちの平和な祖国をこれからも守る為に、私たちも家族の為に、この地を守る。父や兄達と共に死ぬならこの地で死ぬのが本望」そんな心境にかられているのかもしれない。
 家族が離れ離れになるのは辛い、だが、命を奪われるかもしれない戦争地帯にいては、いつ命を失うかわからない。
 救える命が一人でもいるならば、出来る限り未然に安全な場所へ避難させて一人でも多くの命を出来る限り早く確実に救っていかなければならない。それが、戦争事態における最優先に人類が行うべき行動ではないか?
 つまり、戦闘支援部隊よりも前に市民救出部隊を全世界が支援して、市民の安全と生活(避難民の生活)をより多く確保していくことを最大限増強して施していく事が必要な事ではないか?
 市民の犠牲の心配を無くした上で戦闘防衛能力を世界の間接的軍事支援を受けて、国際法の許す限りの新たな対策としてロシア軍を退陣させる軍事作戦を展開していく事、それが二番目に施す対策ではないか?
 わたしがここで言っている事のすべての前提には、これまでに人類が行ってきた戦争事態の経験の末に生まれた現実の人類の対応があり、その上で先人たちが考え尽くしてきた戦争事態の人類の対応の限界に至った幾つもの答え(智恵)が時代と共に蓄積し書き残されて示されてきた現代の人々が踏まえておかなければならない戦争事態を終わらせる為に必要な知恵と経験の教えがある。
 その上で現代を生きる私たちが、先人たちによって人類の戦争の経験に基づく戦争を終わらせる経験の末に編み出された知恵を結集して現実に起こった現代の戦争事態を終わらせる為の解決策を編み出す為に必要になる、先人たちが伝えてきた教えを自分のブログに集めて記してきた。
 先人たちが戦争を終わらせる為に、人類の戦争を無くす為に、これまで何度も繰り返されてきたこの上なく悲惨な戦争経験の末に考え尽くして考え抜いて編み出された、戦争をやめる為に根本的に必要になる経験の末に編み出された究極の豊かな知恵の教えが、我々の現代の戦争事態を止める為に必要な助けになるはずであると考え、私は自分のブログに戦争を止めるために必要になる説得を試みる際に、どんな人類の先人たちの知恵を結集させて、戦争実行者たちに戦争をやめさせるように説得する事ができるのかを考えて、助けになる語りを集めてきた。
 現代の戦争事態に直面している我々現代の人類は、今こそ、人類の先人たちが経験し、人々を救うために考えに考え抜いてきた先人たちの教えに学び、先人たちの知恵を結集させて我々自身が先人たちにできなかった戦争を止める為の働きを自ら編み出して新たに試みて実践していかなければ、人類はこれまで以上に前進する事ができないと思います。
 一歩先に進展させる、戦争をとめるための、戦争を無くすための語りかけを人類が自ら編み出して、世界の人々と共に戦争実行者たちに働きかける事が、先人たち(私のブログの中には多くの現役の働きかけを行ってきた先駆者たちもいます)の知恵を結集した我々の世代が自ら編み出して施す戦争を止める為に必要となる、一歩前進させる働きかけではないかと思います。
 どんどん先に前進させて、実際に戦争を止められる働きかけを実現させなければ、先人たちや現代の先駆者たちが教えてきた先の、我々の世代が施すべき対応というのは、現実的に進展しない、これまでの時代の対応にばかり固着してしまう働きかけしか行えない結果から一寸たりとも前進できていないのではないか?ということになってしまうばかりなのです。
 戦争事態が起こる度に、人類は、必要な知恵を編み出し人々に書き記して示し、教えてくれていました、我々現代人はそれを、その時に戦争を無くす為に編み出された教訓として学んでいたかもしれませんが、実際の戦争事態でどれだけの人々がそれを活かして、その先の現実現状の戦争事態に接して戦争を止める為に、試みるべき対応を導き出してきたのでしょうか?
 確かに現代社会における情報戦の発達は旧来の事態にはなかったもので、反省デモも世界中で瞬時に広がり、インターネットを通じて世界中に大きな影響力を与える事が可能になってきています、また、経済制裁などの手段も、戦争実行者たちの戦争の継続を根本的に困難にする効果もあるでしょう、しかし、肝心なのは、戦争を止めさせる為に、最も必要な戦争実行者たちとの話し合いによる解決です。
 戦争を始めるのもやめるのも、根本的にどの戦争においても人と人の話し合いによって結論が導き出されて決定されるものです。
 この戦争では大統領の、一言で戦争が始まり大統領の一言で戦争が終わる事は、人類が起こしている戦争である以上、変わることがない最も根本的な戦争を止める直接的な原因となる働きかけとなります。
 我々の時代は、その戦争実行者たちへ直接メッセージを伝える手段を、インターネットとコンピューターなどの通信端末を持っている世界中の人々が持っている現代社会の人間なのです。
 旧時代の人類の世界とは大きく異なり、戦争主導者であるプーチン大統領たちなどの戦争主導者やそれに対戦する反戦争主導者たちへ、直接我々が説得を試みる事も可能な時代になっているのです。
 大統領のアカウントが通じなくなっていても、世界に向かって説得文章を発信して戦争主導者たちへ伝わるようにしていく手段もあります、大統領に繋がる政府関係者や戦争実行者に影響力を与えている関係者たちに働きかけて説得を試みる語りかけを伝えることによって、間接的に大統領の目に入る可能性もあります。
 人と人のインターネット上のヒューマン・ネットワークは実際の対面のコミュニケーションの上にも反映されて伝わる事もあります。我々が持っている手段は、旧時代とは大きく異なり、直接、遠隔で、対象の相手にメッセージを届けたり、世界中の人々にメッセージを伝えたりして、大統領の心を動かす影響力を与える働きかけを行う事もできるように、すでになっているのです。
 これまでの旧時代に施していた働きかけの限界を拡大していく働きかけ以外にも、根本的にストレートに直接、戦争実行者を説得していく人々の働きかけが、可能になっている時代に進展しているのが現代の我々が生きている時代なのです。
 旧時代の人々が出来ることには、限界があった。しかし、現代社会に生きている我々現代の人類においては、人と人のコミュニケーションは、世界中のどこにいても、相手のメッセージラインと接続すれば、直接瞬時にコンタクトをとれる様になった時代を生きている、そのメッセージや働きかけは、電話やメールとは異なり、世界中に公開されているインターネット上で相手に伝えるメッセージや直接説得を試みる語りかけの内容が公開の場で、直接、伝える相手と世界の人々に公開で表示され、文章記録としてずっと残り続ける事によって、時間が経っても世界中の人々が検索して読むことが出来、尚且つどんどん世界中の人々に伝え広がるシステムが、見る度に働く複合的な共有コミュニケーション手段を用いた働きかけが行える時代になっているのです。
 そのような人類が新たなコミュニケーション手段を獲得している時代に生きている我々現代人が、これまでと同じ働きかけの延長線上を拡大していく働きかけばかりを行っていく発想にとどまり続け、戦争を止める為に現在試みられる、戦争実行者を直接説得して説き伏せて解決をはかろうとする直接的な最も根本的で基本的な説得方法を試みないのだとしたら、何のために人類はコミュニケーション手段を発展させてきたのだろうか?
 なぜ、世界の人々が意思伝達を瞬時に多角多元的に可能とする時代に生きている現代人が、戦争を止める為に、自らが紛争解決人の働きを担って、実際に停戦交渉している紛争解決人たちを助ける更なる働きかけを我々世界の市民自身がみんなで手伝って、早期終戦の為に戦争主導者への説得を、なぜ、みんなで直接施そうとしないのか?と私は思うのです。
 70億人あまりの人類の世界でインターネットとSNS ツールなどのコンピューターを使っている人類はまだまだ、人類の中の半分以下もしくは20%にも満たないのかも知れませんが、たとえそれが20%の人類だったとしても、14億人14億通りの人々による説得を試みる事が可能になっている時代が現代だといえます。その中のたったの1億人でさえ、1億人1億通りの人々の説得が可能になります。その内たとえ100人だけであって���、現在停戦交渉を行っている代表団に加えて100人100通りの説得が行われることも可能になります。停戦交渉代表団とは別に100人の世界の一般市民から説得が試みられれば、その内の一つくらいは、プーチンに衝撃を与え、「この戦争は、もうやめて、直ちにこの一般市民が教えてくれた提案に従って軍を撤退させ、お互いの和平と未来永劫の人々の幸せを築こう」という解決策に突き動かされる悟りを含む語りかけによる説得を成功させる市民が生まれる可能性は無限大に常にあると、思いませんか?
 あなたは、誰か、思い詰めて考えを変えられない極地の最後を生きている人や命を絶とうとしている一言を目の前にして、真剣に親身に相談に乗って、語り明かして説得して、目覚めさせ、思いとどまらせて、生きていく道を共に編み出して、共に生きていく勇気と希望と道を示して、道を踏み外して転落していく人を救いだした事がありますか?
 そこまでの経験がなくても、多くの人々は、自らの人生経験の中で、窮地に追い込まれていく人を説得して、救い出した経験を持っている人は沢山いると思います。
 逆に離婚を仲裁してたすけようと努力を尽くしたが、離婚を防げなかったというような、どうする事もできない経験をした人も多いとおもいます。
 人間同士の間では、間違った道を正す事が出来ずに、人々を救うことが出来ない、どうにもならない事というのも多々あります。戦争事態の究極の停戦交渉などもその最も困難な問題の一つでしょう。
 しかし、そのような困難な問題に対しても、誰も思ってもみない語りかけの説得によって、事態は一気に好転して解決してしまうような奇跡のような説得を成功させる人間が、まれに生まれるのも、現実にはあるのではないでしょうか?
 我々の人生経験を積んできた人々ならば、そのような人の奇跡的な働きかけの成功例を一つくらいは経験してきた人も、1万人に一人くらいなら世界中にいるはずです。
 停戦交渉が行えるのは、停戦交渉代表団同士が交渉によって決定した日時に行われる決められた停戦交渉の日にちと交渉条件とメンバーの話し合いの努力の回数のみであり、それ以外に戦争を止める為の交渉というのは設けられず、現在停戦交渉を行えるチャンスは極めて限られた条件による限られた回数のみに限定されたものしか施せないのが現状です。
 しかし、そこには無限大の交渉の機会があることが見過ごされています。
 停戦交渉をおこなうのは決められた人にしか出来ない事なのではなく、前述してきたように、現代世界においては、今や誰もが、終戦の為の説得を試みられる機会を、誰もが自ら、無限にいつでも何度でも生み出すことが出来る時代に我々自身が生きているのです。
 プーチン大統領と戦争関係者とゼレンスキー大統領とその戦争関係者などこの戦争終結に関わるあらゆる当事者たちや当事者と関係の深い影響力のある人物たちを含めた戦争を止める権限や直接的な影響力を持っている人物たちを説得して戦争を止める解決策を示し解決を成功させる紛争解決人の一人に、あなたがなるかどうかは、皆さんの努力次第で生まれるものではないでしょうか?
 少なくとも、私は、多くの人々が紛争解決人を自ら担って、この戦争を止める為に、戦争実行者たちの説得に直接当たり、その説得が成功する可能性を増やす機会を幾つも増やしていく事になるということは間違いない事だと思います。
 停戦交渉の機会を世界の人々が停戦交渉とは別のところで自ら作って直接試みるのですから、戦争を止めるための説得を行う機会は、現在よりもはるかに多く増えます。公開で行えばそれは世界中に伝わるでしょう。その影響力は世界の人々の働きかけと共に絶大な影響力を発揮していく働きかけとなることでしょう。
 最後に私のブログの中から、戦争主導者たちを説得する為に、先人たちが語ってきたことを幾つか抜粋して載せておきます。
 私たちは、この戦争に対して、どのように考え、戦争をやめさせる為に、どのような働きかけを行うことによって戦争主導者たちの戦争をやめさせることが出来るでしょうか?これまでの人類の一歩先の成功例となる結果を創り出さなければならないと私は思います。
 これまでの人類が、どんなに必死に考え尽くして、人類の戦争を終わらせる為に、何を語り聞かせてきたのか?
 私たち日本市民は、既に現実の戦争体験をしていない世代になっていますが、つまり、一昔前に��われていた「戦争を知らない子どもたち」の世界に既になっていますが、私たちの祖先たちは、幾多の悲惨で残虐な戦争を世界各地で行い、原爆を投下されてから、現在に至るまでの間に、国民が自ら行って防げなかった戦争の現実に学び、世界の戦争が起こる度に、反戦運動を行って、戦争の現実を伝え、人類の戦争を無くす為に、どれだけの努力を行ってきたのでしょうか?
 それでも人類の戦争は起こり続け、我々はその度に、被爆の現状を伝え、世界の戦争を止める為に声を上げて、様々な働きかけを行ってきましたが、その一方で、我々は、自分たちの祖先が行ってきた自国の戦争についてどれくらい反省をしてきたといえるのでしょうか?
 戦争を止める為に、我々が取り組む働きかけは、毎回毎回、進化し、効果を上げてきたのでしょうか?
 我々日本市民は、かつて自らの祖先たちの時代にこの国が行ってきた戦争犯罪について、我々の時代に二度と繰り返さないために、どれだけ反省をして、戦争の現実に学び、戦争を無くす為の努力を、どれだけ行ってきたと言えるのでしょうか?
 毎年、毎回、戦争が起こる度に、もしくは戦争に関する行事が行われる度に、我々はかつて祖先たちが行ってしまった戦争に学び、忘れる事がないように、戦争を知らない世代にも、かつてこの国でどんな戦争が行われていたのか?
 戦争の現実と戦争を防ぐ為に、私たちが取り組んできた事を伝承し続けていく活動を続けてきていますが、戦後76年が経つ現在に至るまでに、どれだけ戦争を防ぎ、戦争を止め、人類の戦争を無くす為の活動が進化し、効果を上げてきたといえるのでしょうか?
 毎年の行事を同じように定期的に行い、伝承し続けて、忘れる事がないように、後世の人々にも語り継いでいく事は、戦争を繰り返さないためにも、人間社会の知恵の結果である形式的な行事を行って、永続的に人々に教え続ける効果はありますが、76年前と現在とで、その戦争を繰り返さないようにする活動だけではなく、世界中で起こる戦争を防ぎ、戦争をやめさせる為に、我々のような戦争による加害経験と被害経験を持つ国の国民が、どれだけの働きかけの進化を遂げ続け、人類の戦争事態を終わらせる為に、どんな働きかけの向上をしてきたのだろうか?
 毎年行事を行い、戦争経験に学び、世界で戦争が起これば反戦デモをを行って、同じような活動を毎回行い続ける70年以上のこの国の国民の取り組みが、今後も同じ取り組みを永続的に行事のように取り組む事が、我々に出来る戦争を止め、戦争を防いでいく為に、戦争の加害者と被害者の経験を重ねてきた国の国民が行う事なのだろうか?
 我々は先代から教わってきた事だけしか、継承してきていないのではないだろうか?我々の戦争を止め、戦争を無くしていく取り組みというのは、毎年毎年、毎回毎回、効果を上げる為に、進化させていかなくて良いのだろうか?これまでの延長線上をひたすら繰り返して続けるだけの取り組みだけで良いのだろうか?
 我々は本当に戦争に学び戦争を止め、世界を防いでいく為に、効果を上げようとする取り組みを行ってきた国民なのだろうか?
 これは、世界中で戦争事態が起こる度に、日本だけではない進化が足りない一般市民の人類共通の問題だと私は思っていますが、特に日本では、戦争が起こる度に、行事化した決まりきった取り組みに終始する傾向が強く、毎回毎回、知恵を絞って、これまで出来なかった事を出来るように改善して、更に効果がでるような取り組みが出来ないかと、新たな取り組みや働きかけを編み出して、毎回毎回向上させて、実際に戦争を止める効果を出す成功例を増やしていこうとするような、常に創造的な取り組みの進化向上を目指していくような取り組み方は、この国では、この70年余りの間に特に一般市民がそれほど多く生み出してはいないまま、毎回お決まりの活動をして終わってしまうような活動しか出来ていないのではないかと思うのが、戦争の加害者と被害者として自らこの国の戦争を反省した上で世界の戦争事態を止める為に活動を行うこの国の国民の取り組みなのだろうか?と毎回疑問に思うようになっています。
 つまり、戦争に対して、戦争を防ぐ為の活動、戦争を止めるための活動が毎回、向上してきていない70年間の定着した安定の日本市民の活動というような、そんな定型化された活動に終始する目的を果たす為の向上心を持たない取り組みになってきてしまっているのではないか?というのが、私としては、とても、戦争をしてきた国として、被爆国として、戦争の加害者であり加担者であり被害者であった国の国民が世界に施す国民として、この国の人間として申し訳ないといか、情けないというか、こんな事で良いのだろうか?
 70年以上経っても、やっていることは殆ど変わっていない、世代を超えて変わらず続けてきたことは素晴らしい事ですが、そればかりで、70年間効果を上げられていないというか、世界で戦争事態が起こっても、日本がかつて犯した罪を償い世界の戦争に対して我々現代の市民が、先代よりも効果を上げる取り組みの成果を上げられないままでいてよいのだろうか?
 反省デモの数を増やすとか、そういう取り組みは勿論益々増やさなければならないと思いますが、現状現実の結果は毎回どうだったのだろうか?
 我々日本市民の働きかけは成果を上げてきたと言えるのでしょうか?わたしは、これまでの人類の取り組みの限界線上を伸ばしていくばかりの目的を果たす効果を向上させられない決まりきった先代から続く取り組みに終始してしまう人類の取り組みに、人類の戦争を止める効果の限界があることを結果的に見てきている経験から、我々人類は、もっと効果を向上させていく取り組みを毎回編み出して効果を上げていかなければ、人類の戦争に対して真剣に本気でやめさせる為の取り組みをしていると言えるのだろうか?といつも残念で悔しく悲しい気持ちになって、我々はこんな事で良いのだろうか?
 何より、若い世代や子どもたちに、我々の世代が取り組んできた事を、何の進化も創造的な向上心もなく取り組んでいくことを継承させていく事ばかりを子孫たちに教えていくことばかりで良いのだろうか?
 子どもたちに、「私たちの世代の取り組みが、戦争を防ぎ、戦争を止めたよ!」と言う実績を作って、希望を託せる世界を、子どもたちに渡さなくて良いのだろうか?
 わたしは、反戦デモのプラカードなど、今や人類共通の定型化した運動をみる度に、戦争は続き、これ以上の犠牲者を救い出していく為の取り組みは、殆ど進展していない、我々人類の戦争を止める取り組みというのは、毎回毎回同じで良いのだろうか?もっと救い出すための取り組みを編み出して加えていく働きかけを毎回生み出して向上させて効果を上げていく努力をしていかないで、良いのだろうか?という思いにかられて、今、何をする事が必要なのか?一歩前に前進して、必要な対策を編み出して、具体的に働きかける様にしている。
 それこそが戦争事態の人類にとって必要な、戦争事態の現場に立って一歩前進した行動ではないか?
 戦争を本気で止め、一刻も早く一人でも多くの国民を救おうとするならば、我々が働きかけるべき活動というのは、具体的に市民を救い、具体的に戦争を止める説得を我々一人一人が自ら施し続けていく事ではないのか?と私は思う。
 人類は戦争事態に対して、戦争を止める為に、または戦争を防ぐ為に、もっと毎回毎回創造的にこれまで以上の効果を上げ取り組みを編み出して、試み続けて成果を上げる経験を積み上げていくという、更に積極的な取り組みを試みていく事によって、初めて戦争を無くす為の努力をしてきていると言えるのではないでしょうか?
 もとより、戦争反対を訴える事は、何よりも重要な事です。プラカードを掲げて反戦デモ行進を行うことも最もわかりやすく世界に反戦の意志を高めて伝え戦争実行者たちに圧力をかけるおおきな効果をあげてきた事は事実です。
 しかし、にも関わらず、戦争はすぐには止まらず、多くの人々が一刻一刻と犠牲者が増えてしまっているのも常に現実です。
 これまで以上に一刻も早く戦争を止める為には、これまでの活動以上に更に効果のある取り組みを世界の市民が新たに創造的に編み出して、これまでの活動に加えて実際に戦争を止められるように試みていく、一歩前進させる取り組みを生み出して行っていかなければならないということは、戦争が起こる度に、我々人類が取り組むべき必要不可欠な努力義務のようなものではないかと、私は戦争が起こる度に、思い知らされています。
 そのような、身につまされる思いにかられて、ブログに戦争を無くす為に人類が学ばなければならない経験が詰め込まれた先人たちの教えを載せて、戦争主導者たちを説得して実際に止める為のヒントとなる知恵を結集させ、人々に学んで実際に実践して先人たちの教えから学んで活かして戦争を止める働きかけの実力を発揮する人々を生み出して、その実力を高めていってもらいたいと思い、そのために役立つ働きかけを行っています。
 我々は、先人たちが伝えてきた次のような働きかけを超える取り組みを、我々の世代で施していくことを行ってきたのだろうか?現代人の働きかけよりも、遥かに身につまされるような実体験を伴う考え尽くした末に編み出された、次のような先人たちの教えを継いで、我々の世代が現代の戦争事態に対して活かしていく働きかけを行っていくことが必要だと私は思います。これらの話は、まだまだ多くの人々が知らない話だと思います。我々が戦争主導者や人類に語って聞かせなければならない事は、まさに次のような話を現代の我々が編み出して語り聞かせる事によって戦争主導者たちを戦争を行わない道へ導く事ではないでしょうか?
 長くなりましたが、以下に、その先人たちの教えを伝える私のブログから抜粋した、戦争主導者を説得するための先人たちの知恵を幾つか載せて終わります。
────暴力はさらなる暴力を生む。すべての暴力のなかには、すぐに感染しやすい菌が埋め込まれており、暴力に触れたとたんその菌に感染して思慮を失い、同様の暴力に走る。ひとりのテロリストが一台のバスを爆破する。すると、すぐに軍隊がその傷を穴埋めするために送り込まれる。この暴力の応酬、恐怖の感染は、家から家へ、国家から国家へと、幾世代にも受け継がれてゆく。怒りで盲目になった人びとや、高潔な道徳心と義憤に満ちた復讐心で心乱された人びとによって、恐怖の鎖はつくりだされてゆく。
 相対するものをことごとく疑いはじめ、破壊しようと欲する。こうしてたがいに疑ってとどまるところを知らず、こうなっては、いかに説明しようとも、対立緊張を和らげることはできない。双方がありとあらゆる詭弁、奸策を弄する。これが国際政治では、外交という名の下に行なわれる。だが、相互の信頼と、愛と、和解の精神の存せぬかぎり、いかなる外交も、みずからのか̀ら̀く̀り̀によって創り出した緊張状態を緩和することはできないであろう。
 力に酔った人々は、力が人を盲目にし、しだいにせばまる視界に人を閉じ込めるものだということに気づかない。こうして力は知性と結びつき、あらゆる方法でそれを利用する。
 人間が人間であるかぎり、我々はその周囲に起きるさまざまな出来事に、無感覚でいることはできない。人口の密集した都会の真中で原子爆弾が炸裂したのちの、あらゆる人間の苦痛、苦悶、悲惨を目にする時、かれの神経は千々に引き裂かれる。
 そしてもっともいけないことは、人はこれらの苦の前にまったく無力だということである。人が持ち得る唯一の救いは、もしそれがかなうことならば、無感覚の福音であろう。何と非人間的なことではないか。われわれの団体活動はすべて、個人の考えや行為の集積であると自分は考えたいのだが、以上の事柄は、みな絶望的にわれわれ個人の制御を越えるものである。
人間は人間であるかぎり、この事態に対処する態度を持たねばならぬ。
たとえ俗悪な暴力があなたの人生にふりかかってきても、正当性があるからと義憤にかられ、暴力をもって応酬しなくてもよいのだ。この破壊的なカルマの一部にならなければよい。この選択こそが、平和への第一歩となる。
 けれども、この恐怖のサークルから一歩足を踏み出すには、一見理不尽な行動をとることにもなる。社会、友人、家族の期待を裏切り、復讐を断念し���ければならないからだ。あなたはひとり孤立し、気落ちしたり、弱気になったりするだろう。信頼すべきは自分自身となり、復讐の習慣を打ち破るために、内なる強さこそが本当の美徳として求められることになる。暴力から抜け出すためには、内なる直感力が求められる。それは卓越した明晰な目があるかどうかにかかっている。すべての暴力──テロリズムは狂気の産物であるという、その根本を見抜かねばならない。たとえそれが、迫害された一団の行為であろうと、統率のとれた正規の軍隊の行為であろうと、暴力は苦痛に捻じ曲がった魂から生まれた狂気だと知らねばならない。この衝動的な精神の働きは人びとを巻き込み、ひとの絆や共同体にたいして分別を失わせてしまう。
今日、世界が憎しみと暴力、恐怖と不実の腐敗した空気に満たされているのは、ひとえに、われわれがこのことを充分に認識しなかったことによる。実際、われわれは、個人としてのみでなく、国際的にもまた民族的にも、おたがいの破滅のためにいよいよ力をつくそうとしているかのごとくである。
 今日、われわれの考え得る、そして、その実現をねがうさまざまの精神的価値のうち、何よりも切望せられるものは “愛” である。
生命を創造するのは愛である。愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。今日の、憎悪と恐怖の、汚れた、息のつまるような雰囲気は、慈しみと四海同胞の精神の欠如によってもたらされたものと、自分は確信する。
この息苦しさは、人間社会というものが複雑遠大この上ない相互依存の網の目である、という事実の無自覚から起きていることは、言をまたない。────
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kyokantheaternews · 3 years ago
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いつも共感シアターを応援していただきありがとうございます! 毎週火曜日21時より生放送をしている「共感シアターナビ」では、"俺たち共感族!!“という視聴者の皆さまと戯れるコーナーがあります!視聴者の皆さまに「お題」を投げかけ、ご投稿いただいたお答えの中から抽選で10名の方の投稿をご紹介します。そして、その10名の中からさらに抽選で1名の方にどんな映画でも使える「ムビチケGIFT」をプレゼントします!そんな、2月1日のお題は「最高だったホラー映画」です。以下の投稿は抽選の結果、読み切れなかった方の投稿を掲載しています。他の方の投稿も気になりますよね、ぜひ、ご覧ください!
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Xiu 秀さん:『ON AIR 脳内感染』
舞台はカナダの田舎町のラジオブース、DJのマジーはいつも通りの放送を続け、ヘリに乗っているお天気リポーターに中継をつなぐ。彼は雪の情報のリポートをしている途中、ある事件を目撃する。それは、大勢の人々が正気を失い、人を車から引きずり下ろし、惨殺した後、その肉を食べる光景だった。マジーはラジオ放送を続けながら事件の詳細を探る、わかってきたのはその現象が広がりつつあり、どうやらウィルス感染によってゾンビのようになってしまうという事。情報を集める中、ある民間人による注意喚起の無線放送をキャッチする。それはフランス語による放送で、そのウィルスによって人がどう変化していくかなどの注意点を説明しており、それを英語に翻訳し放送にて皆に注意を呼びかけるマジー。そして、最後の注意点を翻訳し、読み上げた後絶句するマジー。その注意点とは、「この文章を絶対に英語に翻訳するな」という内容だった実はこの人を狂わせるウィルス、英語という言語そのものを媒体とし、人々に感染拡大する恐ろしいものだった…舞台はラジオブース内と限られた低予算映画ですが、アイディアの面白さは最高だと思いました!
nikiさん:『ノロイ』
外国のホラーも面白いですが、怖さの点では身近に感じる日本のホラーの方が恐ろしいです。それが作り物でなく、本当にあったことならなおさらです。『ノロイ』は失踪したドキュメンタリー作家が残した一本のビデオテープの映像で構成されています。そこで語られる内容はおぞましくも、諸星大二郎の土俗ホラーを思い起こさせる謎の数々で、目が離せなくなります。登場する面々も、頭のおかしい女、会話が成立しない霊能力者、松本まりかなど癖が強すぎます。ぜひ一度ご覧いただき、霊体ミミズのことを多くの人に知ってもらいたいです。あなたとあなたの大切な人を守るために。
tama5chさん:『ヘレディタリー/継承』
最恐映画はヘレディタリー。最近の作品で非常に高く評価されているので細かい説明は不要でしょう。全く怖くなかったので金返せと仰っている方もいるようですが、自分は正直映画館で発狂するか死ぬかと思いました。宇多丸さんと三宅隆太さんがラジオで絶賛しているのを事前に聞きハードルがあがりまくった状態で見ましたが、先の読めない展開と恐怖演出の巧みさに圧倒されずっと身体が膠着した状態になりました。恐い体験の後、日常の精神状態に戻るまでしばらく時間がかかることはあると思います。私はそれが一週間くらい続きました。昼間も夜もこの映画のことが頭から離れず、夜になると暗闇が怖くてトイレにも行きづらい。子供ならともかくもういい大人です。映画を観るために隣町まで行きましたが、映画館で観られて本当によかった。真っ暗な映画館で観て、見えるかどうか絶妙に暗部がコントロールされていて、かつあの音楽です。劇中の音なのか自分の周囲から聞こえてくる音なのかわからない小さな音の処理が抜群で正気を保つのが困難になる程の恐怖でした。これより恐い映画にはもう出会えないでしょう。観れたら怖くて死ぬかもしれません。
teppeiさん:『エクソシスト』
お疲れ様です。いつも番組楽しみにしてます。『最高だったホラー映画』ですが、すごくワクワクするお題ですね。いっぱいありすぎて困りましたが、自分は1番好きなホラー映画の『エクソシスト』です。自分の棺桶に入れてもらいたい映画ですね。悪魔に取り憑かれた少女にカトリックの神父が悪魔祓いをするワクワクするお話です。少女の部屋の中だけで繰り広げられる善と悪の戦いですが、はたしてどちらが勝つのか、今観ても全然古さを感じない最高の映画です。ちなみに自分はモリコーネのテーマソングが最高の2作目もサイコサスペンスの3作目も大好きです。未見の人や瀬田さん、あいあいにもオススメですね。
NORI“アレックス”65tさん:『ゾンビ』
最高?最恐でも、大好きでもないところが悩みどころだったりと。でも、やっぱり1本選ぶならジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』ですかね。前作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でモダン・ゾンビの基本設定を作り、今作『ゾンビ』の大ヒットで新しい"ゾンビ映画"というジャンルを生み出してしまった傑作。死んだ人間が動き出して生きてる人間を襲い喰い殺す。新たに死んだ人間や、ゾンビに噛まれた人間を倒すには、頭部を破壊するしかない。それまでのホラーキャラクターが、ドラキュラや狼男など独立した主役だったのに、ある意味名前の無いエキストラ的な怪物の群れという真逆の存在。人が喰われるという描写が、トム・サビーニさんの壮絶な特殊メイクで描かれます。また、さっきまで隣りにいたはずの家族や恋人、友人が怪物となり襲ってくるという恐怖。何より、人間同士が殺し合って自滅していくという絶望感。今作では、既にゾンビは大量に発生した後。ヘリパイロットのスティーブンと恋人のフランは、友人の警官ロジャー達とヘリで街を逃げ出し、郊外にあるショッピングモールに逃げ込みます。生前の記憶の残りのせいか、ショッピングモールに集まってくる死人達。一時的に贅沢な暮らしを楽しむスティーブン達。そこへ、生き残った別のグループが、モールにある食料などを目当てに襲って来ます。ゾンビを横に殺し合っている人間の愚かさと、彼らに迫ってくる死人の群れ。いろいろな意味で、ホラー映画の奥深さを再確認させてくれた作品です。バージョン違いが複数あることでも有名ですが、ゴブリンの曲とサバイバル・アクションの趣きが強いアルジェント監修版がマイベスト。蛇足。好きなテレビ番組『かりそめ天国』で気に入った話題。もし、ゾンビが大量発生した世界を3人で縦に並んで歩くなら、先頭、真ん中、最後尾。生き残る確率が一番高いのはどこ?皆さんは、どう考えますか?
REMさん:『マウス・オブ・マッドネス』
最高「だった」ホラー映画、ということで、個人の思い出を語ってみます。私の住んでいる都市のメインターミナルは、2025年オープンに向けて絶賛改築中です。現在取り壊しが進んでいる駅舎は、25年ほど前に立て替えられたもので、その前の駅ビルには映画館が入っていました。元々はいわゆる二番館だったのですが、M口氏がスタッフになってからは、マイナー作品もかかっていたのです。そんな映画館のレイトショーで、カーペンター先生の『マウス・オブ・マッドネス』を観たのです。日常生活のふとした曲がり角に狂気が口を開けて待っている、という素晴らしい映画。開始時には3人くらいいた観客も、終わる頃には私一人。劇場から出ると駅ビルの照明も消えシャッターも降り、非常階段のような所を通る羽目となりました。まさに、あの暗闇では狂気が口を開けて待っているのではないか?そんな想像に捉えられた、最高のホラー映画体験でした。
きゃわぐちさん:『スリーデイズボディ/彼女がゾンビになるまでの3日間』『ライトオフ』『ゴーストランドの惨劇』
一口に「最高のホラー」と言っても、オバケ平気だけどゾンビ無理、みたいな好みもあって、「怖いけど面白い、観たくないけど目が離せない」その絶妙なバランスがポイント!だから今回は、皆さんの恐怖耐性や趣味趣向が丸裸になる回!?そんなことを考えつつ、ゾンビ、心霊系、あと人間怖い系で選びました。まず、ゾンビなら断トツ「REC」!……でも��れは言い尽くされてるので、あえて「スリーデイズボディ/彼女がゾンビになるまでの3日間」!副題の通り、生きたまま少しずつゾンビになっていく過程が気持ち悪くも不憫で……強烈に記憶に残ってて好きです。心霊系は基本ダメなんですが、洋画なら少し……「ライトオフ」なんかバチボコ怖いけど面白いです!電気を消すと出てくる怨霊、というストレートな恐怖!もちろん昼間に観ました!最後「倒し方を見つける」流れになるのが、洋画ホラーなら観れる理由の1つ。アジア系は理由もなく呪われて手も足も出ない印象……。そして唯一、パッと思いついたのが人間怖い系「ゴーストランドの惨劇」!ネタバレ注意、真綿で首絞められながら金槌で殴られるような、かつてない絶望感が味わえる最高に最悪な映画です!
孔明(MOVIE TOUCH)さん:『ミスト』
初めて見たのはある年の誕生日。たまたま午後のロードショーで放送されていて、以前から気になっていた作品だったので鑑賞しました。霧の先にいる正体不明の何かに襲われる恐怖、問われる選択の連続、立て籠ったスーパーで段々ストレスに襲われる人々、困難に直面した時に何かにすがりたくなる人間の弱さ、宗教が持つ恐ろしい側面、そしてあのラスト。あらゆる恐怖とストレスで見終わった後、誕生日だというのに発狂して暴れたのをよく覚えています。しかし最大の恐怖はその後に訪れました。放送終了から数分後、突然家に2人のおばあちゃんが訪ねて来ました。なんとキリスト教の勧誘でした。丁重にお断りしましたが、彼女たちはパンフレットを置いて帰りました。今となっては笑い話ですが、当時はタイムリー過ぎて自分の行動を監視されていたのかとすら思いました。誕生日って何故か見る映画がミッドサマーとか何とも言えない気持ちになる映画が多めなんですよね。死ぬまでに一度くらい楽しい誕生日を過ごしたいです。
ロコモコさん:『黒い家』
「森田芳光作品は家族ゲームぐらいしか見たことないなあ」と思い、去年の年末にアマプラで検索したら100円セールだったので視聴しました。保険会社に勤める主人公が保険の支払いを巡り、とある夫婦に因縁を付けられるが、彼らはサイコパスだった……という、サイコパスという言葉が今程浸透していない1999年に作られた今作。エンディングが終わり数秒経ったのち、「ぁんだこれ!?(なんだこれ)」と、早朝6時でしたが思わず声が出るほど最高なホラー映画でした。最高ポイントは、観た人なら誰もが同意するであろう大竹しのぶの演技。人間では無い何かが人間を演じているとしか思えない、バラエティ番組でのおっとりとしたキャラクターや、清水ミチコのモノマネでの印象が180度変わる怪演です。サイコパスという言葉がカジュアルに使われるようになった現在、この作品も、決してリアルに表現されてるわけではありませんが、ちょっと遅刻が多いくらいで人をサイコパス認定してくる友人に「この映画を見て勉強しろ!」と勧めたくなる作品でした。
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