押井:少し前までは、その時代その時代ではやりがあって、それを若者がみんな使うわけじゃん。それをさらにオヤジがまねして使ったりもする。でも今はそれが細分化されているというよりは、共有したいという願望そのものがだんだんなくなってるという気がすごくするんだよ。
ーー 他人と共有したいと言う願望がなくなると、どうなるんでしょうか。
押井:それがなくなると「文化」自体が成立しなくなる。
ーー え?
押井:当たり前だよ、文化というのは「価値観の共有」のことだから。僕がいま漠然と危機感を持ってるのは「文化はもしかしてなくなるんじゃないか」ということ。必ずしも日本だけの現象とは思えないんだけど、日本がその先端を行ってることは間違いない。
ーー ちょっと怖いですね……。
押井:確かに日本は戦後、生まれ変わって「文化国家」になった。ただその文化が、高尚な文化ではなかった。アニメだったりアイドルだったりマンガだったりゲームだったりであって、残念ながら「芸術」ではなかった。まあ、それでもいいと思うんだけどさ。
ーー しかし、その「サブカルチャー」すら危うくなってきたと。
押井:そこで、じゃあ何が残るのかっていうと、いつもの話になっちゃうんだけど「快感原則」だけなんだよ。健康で長生きしたいという願望。テレビのCMとか、それこそYouTubeのCMだって、大半はダイエットとアンチエイジング。元気な老後。いつまでも若いおばあちゃん。
ーー 確かに多いですよね。
押井:ダイエットとアンチエイジングは二大テーマだよ。というか、それしか価値観がなくなりつつあるような気がする。元気で長生きして若々しくして……それが実現したとして、じゃあ何をするの?
ーー 手段が目的そのものになってますね。
押井:いや、本当に。単に90や100まで長生きしたいわけじゃないんだよね。元気でいたい、若々しいジジイババアになりたいわけだ。これって退廃そのものだよ(笑)。悪夢のような世界。
ーー 若々しい老人の世界ですか。
押井:何だそれ? 古代ローマよりひどいよ。ローマにはまだ「死ぬ文化」があったからね。「いかにして死ぬか」という価値観があった。今はそれすらないもん。死は敗北で、終わりで、ゼロ。「死んだ奴は負けた奴だ」ってさ。
ーー ということは、そういう人たちにとって「生き残ったら勝ち」なんでしょうか。
押井:それは「何かやってる奴」はそうだよ。政治家だったり表現者だったりとか、そういう人はやっぱり死んじゃったら終わり。生きてる奴だけがやり放題やるんだからね。でもそうじゃなくて国民レベル、人民レベル、大衆レベルで「若々しく長生きする」しかテーマがない、という状態が今の日本。それを考えると空恐ろしいなという気がするわけ。
ーー みんな「若々しく長生きする」ことがいいことのように思っているけど、実態は非常に空疎であると。
押井:これで「人生百年」とか言われたらどうしたらいいの? あとは年寄り同士で殺し合いでもやるしかないのか。
ーー 筒井康隆がそういう小説(「銀齢の果て」)を書いてましたね。
押井:あながちバカな妄想でもないかもよ。若々しい老人が若者を食いつぶしていく時代。「若い奴が年寄りに反感を持つ」というのは古典古代から続いたテーマだけど、現実はそんな生易しいもんじゃないぞというさ。だって年寄りが若い奴と同じことやろうとするんだもん。
ーーかつての若大将の加山雄三も、今やゲーマーおじいちゃんになって「バイオハザード」やって若者にウケるみたいな時代ですからね。
押井:そうそう。加山雄三ってヨット乗って大飯食ってギター弾いてさ、つい最近までコンサートやってたじゃん。いつまでも若く振る舞いたいという人たちのある種の象徴だよ。
思うんだけど、役者というのは「どう枯れるか」が最終的なテーマのはずなんだよ。外国の俳優なんかはそれがあるわけだよね。そしてそれに失敗した人間もいっぱいいる。ピーター・オトゥールとか、アラン・ドロンもそうだけどさ。イギリスの俳優とかは伝統があるからだけど、みんな枯れ方がうまいんだよね。老人役だったらイギリスに行って探せというぐらいでさ、「ゲーム・オブ・スローンズ」(米TV/11)なんて、たぶん7割ぐらいイギリスの俳優だよ。こないだも家で見てて奥さんとその話になったんだけど「やたらイギリスの俳優ばっかりだよね」って。それはファンタジーだから様になるという話なんだよね。ヤンキーじゃダメ。若い役はともかく、王様だ女王様だと言ったらもれなくイギリスの俳優だよ。
ーー「シェイクスピアやれる奴を連れてこい」みたいな。
押井:そう。堂々たる押し出しがあってさ、セリフも顔も三拍子そろってるわけだ。渋いし。そういう風に、役者というのは枯れることがテーマだったのに、最近は枯れないことがテーマになった。「あの人いつまでも若いわね」って。女優だったらまだわかるよ。端的に言うと、いま日本の実写の世界でじいさんやる役者がいないんだよ。もう払底しちゃった。
ーーうーん。
押井:今「じいさん役者」で誰がいるかって言われたら、いないんだよ。ばあさんはそこそこいる。元タカラジェンヌとかはものすごくかわいい、品のいいばあさんとかやれるからね。かっこいいジジイがいないの。昔はいっぱいいたんだよ。声優の世界だって同じ。ジジイ役を振るのは大変なんだから。いつもワカ(若林和弘)が嘆いてるからね。ジジイはいない、若い奴であふれ返ってる。
ーー映画監督は「死生観」の映画を撮るいかにして死ぬかの価値観がない、死生観がない、というお話ですが、それは言い換えると「じゃあどうしていま生きるのか?」「これからどう生きたいのか?」というテーマがなくて、ただただ「とにかく若く健康で生きたい」という手段の部分が目的になっているという話ですね。
押井:快感原則しかない。それは「文化の爛熟」と呼ぶんじゃなくて、単なる退廃だと言ってるわけ。文化の爛熟というのは、最終的には死生観にたどり着くはずなんだよ。いかにして死ぬかという。それが文明の最高レベルですよ。この話はわりと本質的な話なんだよね。映画監督は長くやってると必ず死生観をめぐる映画を撮るものなんですよ。例えば宮さん(宮崎駿)の「千と千尋の神隠し」(01)は死生観の映画。
ーーどの辺が「死生観」なんでしょうか。
押井:賽の河原みたいなエピソードがあったでしょ。小さな少女(千尋)が賽の河原を電車で渡って向こうに行くという話はゾクゾクしたよ。あそこだけ。あとはつまんない。あと高畑(勲)さんの「火垂るの墓」(88)。川のあるあの自然って、三途の川を渡るわけだよね。あの映画自体が死生観だよ。妹を見殺しにする話だからね。映画監督はみんなやるんだよ。鈴木清順も「ツィゴイネルワイゼン」(80)でやった。
ーー押井監督もやられたんですか。
押井:私もやった。「イノセンス」(04)だよ。あれは冥土の話だもん。あの世に行く一歩手前の話。だから幽霊と人形と動物しか出てこない。「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」(08)も死生観と言えばそうなんだけどさ。 サー(リドリー・スコット)ももちろんやってる。特に物語に関わってる人間は最終的にそっちにしか行けないの。やってないのはマイケル・ベイぐらいのもんだよ(笑)。
さすが押井守、説得力ある。文化を共有することがなくなって残ったのは快感原則だけ。健康長寿はあくまで手段に過ぎず、老後に何をするかが重要なのに、手段が目的になってしまっている。それは文化の爛熟ではなく退廃であると。
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1:Roughly always like this(後半)
うす暗い部屋を不安定に照らし出す二種類の光がふっと消えた。
目を開けると和装の少女は機嫌よさげににっこり笑ってみせた。
「受け渡し、発現速度、練度、競合限界。いつも通りじゃな。問題なし」
「意味あるのか、この確認作業? 俺に何かあったらお前には分かるだろ」
「即効性であればな? お主の中に潜在する罠、たとえば身体に仕掛けて徐々に発現を阻害するような術式であれば先に芽を摘める。十(とお)が十ではないにせよ少しでも役立つのなら損はないじゃろ」
少女は流れるように喋りながら、床に敷いていた柔らかい布で、その上に載せられたガラスの球を取り上げる。両手に収まる程度の大きさのガラス玉には茫洋と漂う怪しい光が二筋ぶん込められている。それぞれ仄かな金色や紫くらいの色に朧に見えていて、しかし時間が経つごとに混ざって透明に溶けていく。
協会式ペタルの可視化に関連するかもしれない。じっと観察する望夢の目の前で少女はガラス玉を布に包んでしまった。
「それにこうして貯蔵しておけばお主が突如失踪した際の保険にもなるしな」
「それが第一目的じゃねえの?」
顔を上げてジト眼で指摘すると少女は怪しい鼻歌だけで答えなかった。まぁ、いいんだけど、とりあえず今後失踪する予定はないし。望夢は軽く溜息を吐き、畳の端を降りた。棚に挟まれた細長い「会長室」には奥の一角にのみ畳が敷かれている。
スニーカーの紐を結んでいる間に隣を身軽な少女がすり抜けていく。
「せっかくじゃ、休んでいけ」
「気が休まらねえ……」
「それは礼儀上の遠慮と受け取るべきかの?」
圧を感じる笑顔で混ぜっ返しながら、少女が部屋の隅の扉を開いた。眩しさにあてられるほどの明暗差をもって隣の「会長室」から光がなだれ込んでくる。念のため、隣が特別明るいのではなくここが暗すぎるだけ。
表裏かかわらず「会長室」でくつろげる気がしないのと、まして望夢はここでいわば監視されている身なのだった。潜在的には一年と九か月、日参が始まってからは約二か月間。三月、超常異能者保護教育協会と異能秘匿派との衝突の引き金を引いて以来、望夢は毎日会長室に呼び出されて検診を受けている。秘匿派を誘く疑似餌としての役割は、正面衝突を済ませた時点で終わりというわけだ。
遅効発現だとか色々言うが、どう考えても第一には自分が彼女を裏切ることが警戒されている。高瀬望夢の現在の立ち位置は一にも二にも彼女の異化力(ペタル)供給源である。
「連日お疲れ様です」
会長室の机で我が物顔にコーヒーを淹れながら会釈してきたのは会長秘書である。どうも、とか適当に挨拶して視線を逃がす。綾織杏佳(あやおりきょうか)という仰々しい名前のこの会長秘書を望夢は微妙に避け続けていて、というのは自分についてどう思われているのかがよく分からないからだ。まともに話したことがないので下手すると「一度協会を逃げて次に会ったときは敵の先頭に立っていた子供」くらいの印象で止まっているかもしれない。今さら否定するのも気まずいし。
「そうだ、春(はる)姫(き)、」
逃避半分に呼びかけてまだちょっと口がむずむずした。
「俺のペアのほうは?」
奥の戸棚で上段に手を伸ばしていた少女が目をぱちくりして振り向いた。
「瑠(る)真(ま)がどうかしたか?」
神名(かんな)春姫。似合うような似合わないような、かれこれ何年「神名」とだけ彼女を認識してきた望夢にはやや落ち着かない呼び名だ。
それと、瑠真のほうも呼び捨て。気が付いたらこの状態だったので望夢のほうが呆れている。通例通り名だけでも都市伝説のように忌まれる『灯火』の生き残り、そういう知識が最初から抜けている彼女のほうが、面識一回で気軽に仲良くなってしまったというわけなのだった。
「俺はともかく、あっちには何もない?」
不慣れを振り払って事務的に尋ねると、少女は重たそうな椅子の一つを棚の前に引っ張りながら杏佳を見た。杏佳は無言で肩を竦める。
「何かあると思うか。そもそもあやつが関わっていたこと自体大々的には広まっておらんのじゃぞ」
「……そうは思う」
「ならばまずは和んでおれ、お主が責任を感じるようなことは何もない」
少女は言いながら棚の最上段の箱をようやく取り出した。浅緑色の紙に包まれた平たい箱。
杏佳が半眼で突っ込んだ。
「それは御陵会長が取引先から受け取られたものですが」
「御陵(ごりょう)がなんじゃて? 妾の身代わりが受け取った菓子なら妾が受け取ったも同じよな」
くっくっと性根の悪い笑い声を立てながら少女は椅子を飛び降りる。
「御陵氏も苦労なさいますね……」
「何を分かった顔で。妾は奴がほんの鼻たれ小僧の頃から世話を見ておるのじゃぞ」
世間ではSEEPの三代目会長とされている老人を遠慮なく軽口に使いながら、春姫は小気味いい音を立てて包装紙を剥がしてしまった。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……八」
合点した顔をすると、何やら楽しげな足取りで菓子箱を放置して戸口に向かう。
「おい?」
呼び止めると振り向いて「もののついでじゃ、もう一人おれば数が合うじゃろ」と笑う。望夢は思わず避けていると自認したばかりの綾織杏佳と目を合わせてから向き直った。
「俺、遠慮しなかったっけ」
「私も確認を取られた覚えはありません」
「堅いことを言うな。好意には甘えるものじゃぞ」
「あの、もう一人とは。人数合わせのためだけに誰を呼ぶ気ですか?」
「なんの、妾の繚乱式(りょうらんしき)を舐めるでない。局内を出歩いたと言うて騒ぎにならん程度の注目分散はお手の物じゃぞ」
「それ借り物であること忘れんなよ」
「分かっておる。恩に着るぞ」
微妙に違う。無駄遣いを指摘したかった。それ以上突っ込む暇もなく少女は無駄に流麗に親指を立ててウィンクをし、軽やかな足取りで表の会長室を出て行った。後には脱力した望夢と綾織杏佳が二人で残される。もっとこう、他に色々やることないんだろうか裏の会長。
脱力ついでに今さら応接用の高そうな椅子に行儀悪く逆さで腰を下ろすと、杏佳がちらとこちらを見やった。秘書の身で堂々と会長机に向かっている彼女も云々言える立場ではないような気もする。
「貴方には」
杏佳が突然口を開いたので若干身を固くした。
「なんだよ」どう応じていいか迷った末必要以上に反抗的な口調になる。眼鏡の会長秘書がそれ自体を気にした様子はなかった。
「少々、驚かされています」
「……嫌味?」
「いいえ」
我ながら図々しい顔で協会に居着いているなとは思っていたし、諦め半分で問い返していた。だが、杏佳は落ち着いた所作で首を横に振った。
「会長があんなに楽しそうな姿を、私はこの二か月に至るまで見たことがありません」
望夢は眉をひそめた。話の流れが読めない。
「単純計算で十年のお付き合いですが、彼女は私と二人では気を許しません。一線を引いているのです。戯れているように見えても」
「あぁ……」
分からないでもない。無害に微笑んでいても、彼女の表情の裏にはいつもなんらかの意図が見え隠れする。
「今も似たようなもんじゃないの?」
「言葉にしてしまえば同じかもしれませんね」
相手の顔つきはどことなく寂しそうに見えた。寂しそう、という感覚が自分の中にあったことに望夢がちょっとびっくりする。
会長秘書は微笑んで、
「やはり同年代の友人にしか引き出せない何かがあるのでしょうね」
「同年代って」
「外見と精神年齢が近いだけでも、まぁ」
最後で釈然としなかった。いい話みたいな口ぶりだがやはり遠回しに罵られているのではなかろうか。外見はともかく精神年齢はどっちがどっちに似ていると言われたところで。
���夢はしばらく憮然と黙っていたが、やがて廊下で騒ぐ遠い声が聞こえてきたところで力を抜いた。ふと口元が緩んだことを自覚する。
「二か月前、って言ったよな」
やはり外の物音に気付いた様子だった杏佳が望夢に注意を戻した。「はい」
「だったら、俺じゃないと思うよ」
言うとほぼ同時に出入り口の扉が開いた。ほとんど体当たりのように駆け込んできたせいで閉まる扉が勢い余って反対側に行き過ぎる。息を切らしている新客の手を捕まえて春姫が悠々と胸を張った。
「ちょうど見かけたでな」
迷子の猫を捕まえてきた、とでも言いたげな、自慢げな言いぐさだった。
「お菓子がある」
新客の少女がひょこっと首を起こした。机の上に開かれている箱に興味を惹かれたらしい。望夢は首を振って歩き出した。
「俺、やっぱ帰る」
「あ、いたんだ、アンタ」
菓子箱に気を取られていた少女の声音が一気に固くなる。こいつは平生観察力がないというかだいたい真正面以外には視野が狭い。
「阿呆、主の振る舞いを受けずに席を立つのは礼儀がなっとらんぞ」
「席についてないから」
引き留めてくる春姫を適当にいなして振り返ると、過保護の会長秘書がこっちに口をぱくぱくさせて怒った顔をしていた。自分も文句を言っていたくせに結局付き合わせたいらしい。
何か言いたいのかもしれないが、
「どうせ明日も来るだろ、俺は」
瑠真と話してろよ。
なんとなく、仲のいい女の子たちを邪魔したくない気持ちで後ろ手に扉を閉めた。自分が混ざる場所ではないと思った。
×××
「よう分からんのう、お主ら仲良うなったのかと思えば」
「仲……は良くないんじゃないかな……」
微妙な顔をする瑠真の右腕にくっついて納得いかなさげに揺れる扉を眺めていた春姫が、やがて気を取り直して動き始めた。
「杏佳は食べるじゃろ?」
「……まぁ、構いませんが……」
「そんな判子を押すだけの仕事など放っておけ。どうせ御陵から返事があるまで手が空くじゃろ」
言いながら棚の一角から皿を取り出し、手ずから菓子を取り分け始める。瑠真は椅子の一つに勝手に腰を下ろすと机の上に脱力した頭を乗せた。
ぱたぱたと動き回る少女の背中に呼びかける。
「春姫ぃ」
「なんじゃ」
金色の両目が振り向く。変な感じがする、というのは分からないでもない。時間が経ってちょっとずつ客観視できてきた。
なんでも知っている顔で黒幕ぶる少女にちょっと反骨心が湧いて、結局ぎゃふんと言わせたいつもりで友達みたいな名前呼びを始めたのだった。結果がこの通り、むしろ向こうがよく懐いた猫みたいな甘えぶり。ただし部屋まで呼ばれるときはご用心。たいがいろくでもない用事が最初にあるので。
「なんで呼んだの」
柔らかい菓子の取り分けに悪戦苦闘していた少女がぴたりと動きを止めた。
同じテーブルに近づいてきていた杏佳と少女が顔を見合わせる。
「もとよりお主ら両方に説明しようと思わんでもなかったのじゃが」
すでに不穏な前置きが始まっている。瑠真は胡乱な視線を上げた。
「アイツに関係があるの?」
「ある……と言えばある。じゃがお主が第一人者かもしれぬな」
眉根を寄せることになった。百個くらい爆弾設定を抱えていそうな望夢を差し置いて。
目くばせがあった。
「杏佳、あれを出せ」
「はい」
裏権力者たちが不穏なやり取りをした。杏佳が待っていたとばかりに席を立つと、ノートパソコンのケーブルを外してこちらのテーブルに運んでくる。瑠真は思わず顔を上げて姿勢を正す。
お菓子の箱を押し退けてテーブルに鎮座したノートパソコンの画面をこちらに向け、杏佳がタッチパッドに指を滑らせて表示したのは、シンプルなテキストファイルだった。数字やアルファベットの並びで一瞬どこを見ていいのか目が滑る。
「これ……メール?」
「昨日受け取ったメールです。本部の問い合わせ用アドレスに放り込まれていたものですが、賢明な判断のもと何らかの脅迫文と受け取られた経緯で我々に回ってきました」
杏佳の細い指がテキストにカーソルを合わせてスクロールする。日本語は最後にようやっと出てきた。
瑠真の隣に静かに移動し、同じ画面を眺めていた春姫が、囁くようにタイトルを読み上げる。
「『くすりやにきをつけろ』」
「薬屋……?」
音読によって奇怪な平仮名が頭の中で漢字に変換される。
春姫は続けて本文を指さし、細い指先でなぞるように読み上げる。
「『彼らの占めていた場所はどう変わる? やがて気がつくだろう、彼らがすでに変容し、その手が矜持や解釈を失ったことに。気づいてからでは八方塞がり、三月の蜂火はやがて城の壁を取り巻く妖術となる、魔女は変化をもはや怖れない。ハイエナの目で迷うことなく城を見る。恰好の餌が子供たちの姿で出入りしているのだから。彼らを警戒せよ、真に仇為す者と目をつけろ。われわれは仲間としてこれを送り、断罪は甘んじて受け取ろうと思う。正しくこれが受け取るべき手に渡り、読まれることを願って記した。―匿名の友、魔女の敵より』」
「なんじゃこれ、ポエムか……?」
中身が掴めなくて目が滑る。春姫はころころと笑いながら瑠真の悪口を半分肯定した。
「悪戯は実際絶えなくてな。自称世界の真理を悟った賢者だの、自称絶対平和のために資金を募る団体だの、我らがSEEPにはご執心でとんだ連絡がよう来るぞ」
「相手するの?」
「まさか。ワールドプレットも知らんで何が真理と平和じゃ」
あっさり一般市民を切り捨てる春姫である。瑠真は頭の痛い裏側の話に辟易しつつ、
「それが私に何の関係があるの」
「まぁ待て。妾も常のくだらぬ遊びかとは思ったのじゃが、これに関してはやや内容が踏み込んでおる感を持ってな」
春姫が数か所を指さすと、ご親切に杏佳がカーソルを合わせてマーカー色を引いた。
「『解釈』『妖術』『三月の蜂火』」
「……あ。三月って、もしかして」
「ご明察。少々解説が必要じゃの」
春姫はくるりときびすを返し、お菓子の箱を開けた時の包み紙を裏向きにして広げた。ついでに手近な杏佳のポケットからペンを引っこ抜く(杏佳は慣れているようで反応しなかった)。
「この世界が複数の『解釈』を内包しておるという話は以前にしたな?」
「それが今言ってたの、ワールドプレットでしょ?」
「左様。協会は誰にでも理解可能、準備物不要、守備範囲全域の『開かれた』解釈を志向し、さし���たり八式カリキュラムに反映させておる」
春姫は包み紙の真ん中にマルを書き、その中に「世界」と書き込んだ。続いて世界のマルに向かって矢印を引き、もう一つのマルを作って「協会式」と書き入れる。
「しかしお主も知っておるように、協会式に自らの解釈を吸収されることを拒み続ける潮流が、六〇年経った今でも絶えぬ」
「望夢のとことか」
「そうじゃな。まぁあそこは実質消えたと思って良いじゃろ」
ものすごく雑な言い方で片付けている気がするが春姫がそう言うならそうなんだろう。春姫は世界のマルを半分に区切ると、協会式のマルがあるのと反対側を黒く塗りつぶして、その半分に向かってたくさんの矢印を書いた。なんとなく地球の公転と昼夜の図っぽい。
「このように、大まかに連中は協会が解釈する世界の反対側におる。ゆえに影になり人目は届かぬ。もののたとえじゃがな。ところがたまに例外がおる」
協会の横にもう一つ、小さめのマルを作って、
「お主、ホムラグループと言ってわかるか?」
「えっ……なんか、聞いたことは……?」
「中学生だとあまり馴染はないかの。医療法人だと思ってよい、近年は医薬品を扱うところからの商社機能も強いが」
杏佳が律儀にタブレットの画面を見せてくれたが、ヨットを模したマークや本社を見たところでピンとは来ない。どこにでもありそうな雰囲気の会社だが。
「実はそれも一種の解釈勢力じゃ。それも比較的大きな」
春姫はぱちんとペンのキャップを閉めつつあっさりと種明かしをした。
「どういう……」
眉を顰める瑠真の前を転がしてペンを返しつつ、
「気味が悪い存在じゃの。人心操作に長けた異能集団。自分らが表立って動いて波を起こすことはほぼないものの、何かが起こると必ず背後でかかわっておる。通説ではサンプルを取っておるらしい。何をするでもないのに血なまぐさい事件の実例ばかり集めて結局沈黙する、変態的な研究者の集まりじゃろ」
「待って。それが医療法人って?」
嫌な予感を覚えて口を挟む瑠真に、杏佳が解説を加えた。
「ここで働いている方々のほとんどがそのような裏の姿など何も知らない一般の方々であることは協会によって確認済みです。会社はあくまで資金源であり隠れ蓑。妖術を用いた医療を行っているとは考えられません」
「じゃから妾らも、どこぞの秘匿派警察を名乗とった家も、一概に懲罰ができなんだ。躱すのが巧いのよな。『開放』以前から飛び回っとった羽虫の集まりが、『開放』後気づいたら名を名乗って、我らが協会体制に資金源を確保しよる。まァ妖術師という総称がよう似合うわ」
「『妖術』……」
瑠真はもう一度メール画面を睨んだ。最初はただの妄言に見えた気取った文面が、徐々に文脈を為してくる。
「つまり、三月の騒動がそのホムラグループとかいうのにやっぱりサンプリングされてて、今度は協会を狙ってる……?」
「それだけで済めば良かったんじゃがな」
春姫は乾いた口調で言った。
「何か変だと思わんか?」
「……」
「そう難しいことは聞いておらん。そうじゃな、たとえば、このメールの送り主は誰じゃ? 何を思ってこの文面で送ってきた?」
反射的にメールアドレスに目が言ったが、匿名だけあり、ランダム生成と思しきフリーアドレスからは素性はほとんど伝わってこなかった。
「協会に味方をしたい……けど、素性も明かせない……」
「たとえば、グループに反発した社員の内部告発の類かもしれぬ。が、これで何が伝わるというのじゃ?」
「情報量が少なすぎます。この程度では親交を結びましょうという提案にもならない」
杏佳が相槌を打った。そのあたりのことは知らないが、中身がよくわからないこと自体には異論がない。
「問い合わせに送って春姫たちにだけ届けたいってことは、確実に担当者が怪しむけど意味がわからない文面、ってことじゃないの?」
自分の想像できる範囲だけでコメントすると、春姫が「それ」とでも言いたげに人差し指を突き付けてきた。
「つまり一種の暗号じゃな?」
「まぁ、そうなんじゃないの……」
「実はもう一段中身があった」
杏佳がすかさずもう一つテキストを開いた。そこに並んでいた文字列を見て、瑠真の背筋が一瞬冷えた。
「『やつらが八月の女の子をつれてきた』」
杏佳が淡々とその一文を読んだ。
「八月の女の子」
嫌な予感がする。瑠真を呼びつけてわざわざこの話をするということは。
「なに、これそもそも?」
「まぁ、謎かけでもされているのかと思うてな。このメールは何という件名じゃ?」
「『くすりやにきをつけろ』……」
「タイトルどおり『く・す・り・や』の文字に『き』を付けて、もともとそれらの文字が『占めていた場所』にあたる文字数を順番に拾って読むとこれが出る」
ふざけている話だが、それで文章が成立するならただの偶然ではないのではないか。もしこれが特定の誰かにだけ伝えたい内部告発のようなものだとしたら。
「美葉乃(みわの)……?」
ずいぶん久しぶりに思える名前を口にした瞬間、視界がぶれて女の子の幻影が画面に重なるような気がした。七崎瑠真の取りこぼしの記録が。
「山代美葉乃さんは昨年八月、S県野古支局における研修修了会を最後に姿を消しています。しかも同日夜、彼女の姉にあたる山代華乃(かの)さんが故人となった。我々にとっても重大な出来事であり、八月というフレーズは彼女を想定するには順当な候補です」
無機質な解説が淡々と鼓膜に入ってくる。ずきりと胸が痛んだタイミングが少し遅かった、説明を受け入れることがなんだか他人事みたいで自分を信じられなくなる。私はあの夏に残っているって決めたんじゃなかったのか。
「ましてや本文をそのまま読むなら三月の襲撃戦が触れられておる。もちろん前提として、そこにお主がおったことも、山代美葉乃がお主の友人であったことも、彼女の姉が高瀬家の間諜であったことも社会には知られておらん。表裏問わず。じゃがあの行方不明と、三月の事件、両方にホムラが関わっておるとすれば……」
ゼロではない、と小声で呟いて、春姫は瑠真を見た。
「これをお主に伝えてどうしようというわけではない。少しでも足跡が見えたのなら伝えたかった。……望夢がそうせいと言うた。それだけじゃ」
その声はどこか心配するみたいな響きを帯びていた。望夢が、というのはやや意識に引っかかった。���んの話だ。
だがそのときの瑠真はすぐには他人に水を向けられなかった。必死で考えていたのだ。
八月の夜、強い雨が降っていた。鮮明に覚えている。あのときから、雨が降るたびに思いを新たにするように努めてきたから。
帰ってこなかった少女は何と言った。……あの子がホムラグループだかなんだかに関係があるとしたら、どうして協会からいなくなったと思う?
あれが自分のせいだと思ったから瑠真は、己がどうあるべきかを決めたのだ。思い出せ。
×××
中学一年生、八月。七崎瑠真は二年にわたる研修過程の修了証を受け取った。
一人前の超常師。それは証明のように見える、ぴかぴかした紙の筒だった。約束事は三つ。仕事の外では超常術を使わないこと。特別な力を使えることで、驕りたかぶって人を馬鹿にしないこと。それからもう一つ、当たり前の項目、人を傷つけるためにその力を使わないこと。
楽勝だと思った。いや正確には一つ目はすでに破りがちだったし、二つ目は実際にどういう心理なのか今一つ体得していなかったけれど。でもこれから七崎瑠真は一人前の超常師になるのだから、誇りと使命を以て約束の二つや三つ守り通すのは簡単なことだと思ったのだ。
想像できることは実現する。どこかヨーロッパの小説家かなにかが言った言葉が、おおむね講師たちがよく口にする協会の標語だった。
暮らしていた小さな街には支局がひとつだけ。所属人数は研修生と認定超常師を合計して五人、それに指導官をはじめとする職員を足しても二十人に満たない。全員が顔見知りの窮屈な環境だったけれど、その中で特別にいつでも一緒にいるのは泣き虫の女の子だった。
「ねえ美葉乃、やっぱり春から東京行こう。本局のほうが大きいだけのことはあるよ。テレビ見た?」
田畑の真ん中を走る一本道、白線の上でバランスを取りながら話しかけると、斜め後ろをついてきた友達は「うん」とあいまいな相槌を打った。
「ねえ、瑠真、わたし協会やめるかも」
「え」
思わず振り返った拍子に足取りが崩れて白線を踏み外した。この線の上だけが海上に突き出ていて、あとは黒い海の底っていう設定だったのに。いや、そんなことはどうでもいい。
「あ……アンタ、協会で自分の不幸体質の謎を解くって」
「不幸体質なんかないって笑ったのは瑠真じゃない。このまま協会にいたって分からないよ」
「なんでいきなり諦めてるの? こないだの大人になんか吹き込まれた?」
瑠真が立ち止まって通せんぼすると、車のすれ違いもできない細い道はあっという間に友達の足を止める。この何日か前に、瑠真は自分の知らない大人と話している美葉乃とすれ違っていた。それが誰なのか、美葉乃は一言も教えてくれなかった。
「いきなりじゃないよ、相談に乗ってもらって少しずつ分かったんじゃない。瑠真には関係ない、瑠真の知らないところでいろいろ考えてたの」
最近の美葉乃はなんだか感情的になった。瑠真はぐうっと黙り込んだ。こんな攻撃的な子だっただろうか。ずうっと瑠真の手を握ってぴいぴい泣いていたくせに。いつの間に関係ないなんて言えるほど立派になったの?
無性に腹が立ってきた。もらったばかりの修了証の筒を握りしめていた。
「あぁそう、じゃあもう私が守ってあげなくてもいいわけね」
あのときの瑠真は、たぶんものすごく悪意に満ちていたと思う。白い線を踏み外してそのとき海の底にいたから、自分でも焦っていたのかもしれないけど。
でも、その瑠真自身が理解できなくてびっくりしたくらい、美葉乃は奇妙な顔で笑った。全く同じ証書入れをお守りのように握りしめて、にっこりと笑った彼女の顔は冷たくて酷薄だったのだ。
「瑠真は何にも分かってないね」
あのとき。
他の誰かに言われたらそうしただろうに、逆上して彼女に掴みかからなかったのは、どうしてか。
一つは、それでも守ってあげなきゃいけない友達だ、と思ったから。
もらったばかりの修了証の、人を傷つける力を絶対に使わない、という重みも一つ。
それから、きっと、これがいちばん大きかった。間をおかず瑠真の横をすり抜けて、勝手に去っていった彼女がどうしても、手を取って話して理解できる生き物には思えなかったから。
彼女は、瑠真の知っている山代美葉乃だろうか?
ぱたぱたぱた、と土埃だらけのアスファルトを蹴立てていく彼女の足音がいつまでも遠くならないような気がした。ずっと等距離で繰り返していた。むしろどんどん耳の内側に入っていって脳に張り付くように感じて、まだぱたぱた聞こえるな、と思ったそれはいつの間にか振り出した八月のスコールだった。
すぐにざあっと雨脚が強くなり、慌てて支局に駆け戻った。知り合いの職員にタオルを借りた。ごわつく白い布を被りながら、真っ黒になった空を眺めた。美葉乃はどこだろう? ……あれ、私は今誰と話していたんだっけ。
美葉乃は、確か、いじめられがちで、トラブル体質で、これってわたしの呪いだから、とか言っていて。協会にいたらその理由が分かるかもしれない、なんて意気込んだように呟く子で……人に食って掛かる子ではなかった。そうだった。それで良かった? ……想像できることは、それだけだろうか。
美葉乃はそれなら、解けなかった謎の答えを探しに歩いているのだろうか……泳いでいる、のだろうか? 沈んでいる……のだろうか。この深海に沈んだみたいな世界の底を。
翌日、町内の不穏な声とニュース番組のテロップに脅かされて山代美葉乃と姉と叔父叔母の家の戸を叩いたとき、その家には誰もいなかった。一つ屋根の下で暮らしていた女の子の一人が遺体で見つかったから。それは突然のことだった。とっくに調査に呼ばれていたのだ。
半日立ったり座ったり、座り込んだまま舟をこいだりして待った。待っているうちに、山代家の叔父夫妻が帰ってきた。
一緒にいたのは叔父夫妻だけだった。
『美葉乃は?』
『あなたのほうが知っているんじゃないの』
知らなかった。何も分からないままだった。
それ以上のことを何も聞く間がなく、残されたはずの山代家の叔父夫妻は、一両日のうちに地元を引き払った。「縁起が悪い」という理由で、野古という名前の故郷から山代の影は消えたのだった。
×××
やましろ守、と春姫が呼ぶお守りがある。
これは以前の依頼で見つけて以来、おそらく春姫が回収していたもので、望夢からぼそぼそ聞いた限りだと、美葉乃の姉が偽名で高瀬家に潜り込んでいたころに持っていた。おそらくあの雨の日に彼女が落っことしたお守りは、望夢や春姫に言わせると結構な「ほんもの」だったらしく、春姫のコントロールで瑠真も何度か守られたことがある。
「ヤマシロって何なの?」
「それが分かれば妾も苦労はせん。病の代と書いてあるからには厄除けに近いじゃろ」
美葉乃は自分が不幸体質だと主張していた。もし力を持つお守りのようなものが、姉だけとはいえ代々受け継がれていたのなら、山代家には本当に何かしらの不幸、怨念、呪いのようなものがまとわりついていたのかもしれない。
そのお守りが、今は瑠真の携行品になっている。
「お主が持っておるほうが順当じゃて」
春姫は多くは言及しなかった。たぶん瑠真の安全云々の話をすると突っぱねられるのが分かっていたのだろう。ただ、あの姉妹の持ち物だから。だからこそ瑠真が持つべきだと、そういう口調で。
だが、このお守りが春姫の手に入った経緯を知って以来、瑠真は一度としてお守りに力を注がなかった。
連休明け木曜日。春姫の居室を後にして、物憂さを抱えて夕方の道を行く。この二ヶ月で知った色んなことが頭の中をぐるぐる回る。
故人である華乃の遺品なら―そして、本当にこれを持つべきが美葉乃なのなら、瑠真が我が物顔で守られる資格はない。
あのとき、何もわかっていないと笑われた表情の意味を、七崎瑠真は今も探している。
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