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#リハビリの補助
natun-ika · 3 months
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やることは尽きないけれど
終わった…何もかも…
長きに渡る介護生活が終わりました。母親が5年前に膝を骨折(2か月ぐらい歩けなかったけど復活したのでちょっとした補佐)、4年前に腕の骨折(右腕だったので身体介護本格化)、2年前には腰椎圧迫骨折で介護生活本番突入しCOVID-19の影響もあって夜の外出など高嶺の花になってしまってました。それでも3か月に一回ぐらいは出かけたけどほぼ飲まずに一次会で帰る、泊りがけの温泉旅行などもってのほか、日中と言えども出かける前は「行っちゃうの…早く帰ってきてね…」と縋るオンナ(母親)に縛られてたワタシ。
たまにやむを得ない用事で家を空ける時は友達に頼んで見に行ってもらう手はずを整えました。こういうときは友達よね。そりゃネットの友達も好きだけどこの場合リアルで近くに住んでる友達しか頼れないよねと再認識しましたね。
そんな今年4月末のある日、母が黄色い。
かわいいヒヨコ色じゃなくて黄疸で黄色い。病院へ連れてったら膵臓に腫瘍がありますと。腫瘍が胆管をふさいでて全身が黄色くなりましたと。膵臓の腫瘍は置いといて今回は胆管を通しましょう、と素早く手術してくれたドクターありがとうございました。内視鏡での胆管ドレナージ、これ昔ならこのまま終わりだったなあと思いました。現代医学って素晴らしい。
とはいえ膵臓ですから。すい臓がんっつったらあっちゅうまで有名ですから「こりゃ2,3か月か!」と介護生活の終わりが見えた瞬間でした。母親ですからずっと生きててほしいけど今の介護生活がいつまで続くのかと自分も多少疲れてきた時期ですからがんの発覚は厳しいながらもゴールが見えた、そんな宣告でした。この後はこれは神様がくれたオマケだ。今まで介護しながら一緒に生活してきたから思い残すことはないと言いたいがさすがに今今これでお別れだったら急すぎて悔いが残った。これからの2,3か月は心の準備をしながら、お別れの準備をする神様がくれた時間だ。そう思いました。
さあこれからどうする。お母さんどうしたい?
母は元ナースということもあって病気には冷静に対処できる人間。「膵臓に腫瘍が」と口にしただけで「あー、はい」という感じで受け止め、そのくせ「家で死にたあい」と甘えたように言うのでありました。
一言で「家で死ぬ」ったってねアナタ。
周りが大変なのよアナタ。私ひとりじゃ無理よ。妹に確認する。「うん、それが望みならかなえてあげたい」との返事を受けてんじゃやるかと。私も介護福祉士でありケアマネージャーであるからにはプロとして娘としてプロの娘としてできる限りやりましょう。もしかしたら今まで数々の方を看取ってきたのはこの日のためだったのかも。集大成として挑みましょう。って言うほど決意はそう重くなかった。何とかなるだろ、くらいでしたね。だてに20年から介護福祉の仕事してませんよ、いけるでしょ、ぐらいでした。実際そうなりました。
胆管ドレナージの後は1週間であっさり退院して帰宅、家に戻ったからには準備が必要です。たまたま母が長年かかってた病院が在宅診療をやっていました。手術してくれた医師の診療情報提供書を持って伺います。私が元勤務してた病院でもありますからいつものように訪れます。
ワタシ:ちわー、母が家で死にたい言ってます。膵臓癌です。これお手紙です。
病院の返答:在宅診療は可能です。今の状態は?
ワタシ:今は元気です。痛みも無いし自分で身の回りのことはできます、食事も摂れています。
病院:ではタイミングは娘さんに任せます。様子を教えてください。
というわけで5月中は今までと同じような生活、むしろ食欲もわいて元気なイメージでしたが下旬になると息切れや倦怠感の強さが目立つ。入浴は何年も私が介助していたけど動きが悪くなってきたので6月1日を最後に訪問入浴に切り替えました。
そのタイミングで医師に相談。訪問看護は以前からリハビリ目的で利用していたのでそのまま移行し6月半ばには在がん開始となりました。
※在がんとは、 居宅で療養している末期の悪性腫瘍患者に,在宅療養支援診療所(在支診),在宅療養支援病院(在支病)が計画的な医学管理の下に総合的な医療を提供するもの。介護保険から外れて医療保険の範疇になり、訪問診療・訪問看護が包括的に行われます。費用も上限が決められますが人によりますのでケアマネさんに相談してください。
※家で死んだ場合、突発的な場合はパトカー・救急車から消防車から総動員で家の前に停まって近所の話題になったり取り調べで遺族なのに嫌な思いをしたりすることもありますがこうして事前に準備を整えておくと警察沙汰にはなりません。←ここ一番大事
どんな場合も介護の在り方について希望を叶えるためには、ケアマネに正直に遠慮なく、「こうしたい」という希望を伝えるのが大切です。そしたら希望を叶えるべく動きます。今回は母のケアマネジメントも私がしているので手順が省けました。ダイレクトに関係機関に伝えることができて良かった。
早め早めの対応で、本人が不安なく過ごせて終えるように整えることができて私も本望です。
妹も身体介護がとても上手になりました。ヘルパーさんできるよ!とけしかけていますが「他人には無理」と言います。
私は他人で経験を積んでの母親だったから恵まれてたかも。冷静に対応できたと思います。不安にならないように冷静に。穏やかに。「大丈夫だよ」っていつも安心させて手を握って。
でも時々、油断すると5歳の私が頭をもたげる。顔がゆがむ。
おかあさん。しなないでおかあさん。そんな泣き顔を見せるわけにはいかないけどでもおかあさん、しんじゃいやだとさけぶ私もいる。
何とか押し込めて穏やかに笑顔を見せて。その繰り返しでした。
で、看取りが終わって骨になって、訪ねてくれる人のお相手をして手続きもこれからでまだ忙しいですがまずは終わりました。やりきったので悔いも悲しみもないんですよ。清々しいほど無いんです。ただ、あの人がいらしてくださいましたよ、お電話頂きましたよ、と報告したい母がそこにいないので行き場がないですね。
母が嫌いだった人の悪口も一緒に言えませんしね。「いやいやお母さん!〇〇さん来ちゃったよ!」って教えてあげたいw
これからは解放感と自由を満喫して、そのうち襲ってくる寂しさも受け止めてまだまだ働いて生きていきますよ。
俺、すべて終わったら八戸に行くんだ・・・・フェリー座礁してたな・・・
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yotchan-blog · 3 days
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2024/9/21 19:00:17現在のニュース
都、公園に「雨庭」整備 年度内に30カ所 地中に浸透、災害リスク抑制 「グリーンインフラ」推進 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/9/21 18:55:09) 林官房長官、石川の災害対応に専念へ 自民党総裁選に立候補(毎日新聞, 2024/9/21 18:48:43) エアコンあるのに暑すぎる教室「18度に設定しても室温は32度」…断熱改修の有効性検証へ([B!]読売新聞, 2024/9/21 18:42:29) 石川・輪島市長「行方不明者10人ほどいる」 大雨で救助要請14件(毎日新聞, 2024/9/21 18:34:06) 大雨特別警報の石川県、24時間降水量は輪島市354ミリ・珠洲市258ミリ…観測史上1位([B!]読売新聞, 2024/9/21 18:30:40) 美空ひばりさんも眠る公園墓地、粗大ゴミや産廃の不法投棄10年超…敷地内に公道「夜も閉鎖できず」([B!]読売新聞, 2024/9/21 18:30:40) 介護・リハビリもオシャレに 障害があっても心弾む装い 編集委員 小林明 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/9/21 18:30:30) 大雨の外出から4時間後 息子から送られてきた道路陥没の写真 石川 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/21 18:30:29) 「1時間で膝上10cmくらいまで一気に浸水」 石川北部で大雨 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/9/21 18:30:29)
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disolucion · 1 year
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19 アディオス・モンテビデオ
大使の執務室で帰国の予定について話し合っている。 これからチャーター便の手配をするとし���最短で三日後になるそうだ。 一週間と言っても三日後と言うのだろうと厭味を言われた。
サクラちゃんの休暇についてもお願いした。 彼女は功労者だからそのくらいは認めてあげよう、と笑って許可してくれた。 明日、明後日で詳細を詰めるということで執務室を出た。
事務室のサクラちゃんに、休暇が取れたことを伝えに行った。
「当然ですけどね!でも、ありがとうございます」
と、ツンデレの見本のような返事だった。
―――――
会議翌日、検査最終日にフジワラ教授がおこずかいをくれた。 三万ペ��、約十万円。 協力費(暫定)から、帰国時に必要になるだろうと渡された。 一千万円はお芝居なので実際の金額はまだ不確定だ。
渡されたお金で最初にプリペイド携帯を買った。携帯というかスマホだ。 サクラちゃんからパウラさんの連絡先を聞いた。 私のはいらないんだ?といやらしいことを言われた。 教えてくださいとお願いして、サクラちゃんの番号も登録した。
―――――
土曜日。検査もなにもなく暇だったので、 文房具を置いている店に行って、スケッチブックとペンを買った。 大使館に戻って、入れる部屋を見て回りながらメモやスケッチをした。
宿泊室でスケッチブックを広げて、リフォーム案をいくつか描き起こした。
建物本体は戦前に建てられたものだと、マツモトさんから聞いている。 そんな文化財みたいなものを、おいそれと手は出せないが 棚や什器は、ちょっと直せば使いやすくなりそうなものもある。 給湯室のシンクは、もう5cm程度上げたほうがいいと思った。 160cmぐらいのサクラちゃんが洗い物をしていて窮屈そうだった。 あとは事務室の棚もB版が入る奥行が大きいものだったから 奥行を30cmそこそこの棚に入れ替えれば、部屋が広く使える。
そうやって何枚か図面やスケッチを描いて過ごした。 余計なお世話かもしれないが、これは仕事のリハビリでもある。 夕方、掃除道具を借りて宿泊室の掃除をした。 とはいえ最初から綺麗だったので、成果はよくわからない。
なんだか充実した一日だった。
―――――
帰国前日の土曜日はパウラさんと、お礼と称してデートをした。
ランチに待ち合わせて二人でチビートを食べた。 肉と野菜が挟まったでかいハンバーガーみたいなものだ。 お互いの日本語とスペイン語で補完し合いながらのお喋りで、街を散策した。 日本酒が買いたいとパウラさんに売ってる場所を教えてもらい スーパーマーケットで日本酒を何本か買った。
夕方が近づく頃、タクシーでプレシディオ港に行く。 漁師が出航の準備をしている。 パウラさんにイカ漁の船はどこか尋ねてもらう。 会える自信はなかったが、おれを引き上げてくれた漁師に会えた。
「助かったのか!よかったな!」 そんな感じで背中をばんばん叩かれた。痛い。 皆で飲んでくれと日本酒を渡す。 「ありがとよ!おまえ気が利くな!」 そんな感じにまたばんばん叩かれる。痛いって。
港を後にして、市場やレストランのある通りに出ると、 海軍本部のビルがどどーんと聳え立っていた。 彼らにも第一発見者としてお礼がしたいが、 日本酒片手にフラフラ入ったら、それこそ拘束されてしまうだろう。 日本に着いたら、感謝の手紙かなにかを送るようにしよう。
まだまだ明るいが夕食の時間に近づく。 娘さんがアパートで帰りを待っているだろう。 時間を気にしていると「マダ、ジカン、アル」と言われた。 軽くお茶しようかってことで、カフェに入った。
別れ際に聞きにくいことを思い切って尋ねた。
「パウラさんは、どうして、おれに、優しくして、くれたの?」 「ハナダサン、トクベツナ、ニホンジン、ダカラ」
真っすぐな眼差しで彼女はそう言った。 また目の前にパチパチと火花が散る感覚がした。 彼女が、うふふと笑うと、それは消えた。 なにこれ?恋のおまじない的なナニカ?
タクシーに乗って街へ戻る。 彼女のアパート前に到着。運転手を待たせて車を降りる。
「次に、会えるのは、日本かな?」 「カナラズ、イキマス」
そしてハグ。パウラさんが見た目以上にボイーンであることを知った。 患者に誘われるわけだ。 再びタクシーに乗り込む。窓を開け何度もグラシアスと言った。
運転手がバックミラー越しにチラチラ見てくる。
「ハポン・エンバハダ」 「エンテンディード、サムラーイ」
運転手は髪を縛る日本人を見るとサムライだと思います。 ここテストに出ます。
いよいよ明日は帰国だ。
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tumnikkeimatome · 11 months
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65歳以上の高齢者が4億人に達する中国:家族による「24時間介護」の限界、不足する専門人材
中国の介護社会とその現状 中国は、急速に高齢化が進行しており、2050年には65歳以上の高齢者が4億人に迫るとされています。これまで家族や家政婦が24時間体制での介護を行ってきましたが、その限界が見え始めています。 日本の介護モデルを学ぶ中国 日本の介護モデルは、自立支援や介護予防に重点を置いている点で、中国の新しい介護モデルとして注目されています。上海市の高齢者施設での講義では、日本人講師が日本の先進的な介護技術や知識を伝授しています。 中国の伝統的な介護とその問題点 中国の伝統的な介護は、家族や家政婦が24時間体制で高齢者の側にいるものです。しかし、この方法では高齢者が適切なリハビリを受けられず、長期的な寝たきりのリスクが高まります。本来の介護は、高齢者の不足している能力だけを補助するものであり、24時間体制の介護はその原則から外れています。 中国の介護人材の不足 中国…
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nekocya · 1 year
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okinatoshiakira · 2 years
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當家母在我眼前跌倒的時候,我被意外事故的產生的速度之快驚嚇到了,而且跌倒後還無法讓我幫忙,,,我無法扶她起身,我竟然遇到了瓶頸了嗎?之後好在家母還有足夠的力氣支撐起來,,,,!看來在家姊家整天被關在房間裡面不出門的話,就真的失去走動的能力了。
這是家母掙脫家姊的恐怖的綁架事件後的第二天,尚未結束的後遺症的出現,一連串的事件令我也被嚇到目瞪口呆:家姊強制把家母牽引到家姊家之後,她們刻不容緩的所幹的第一件事就是重新申請了家母的郵局提款卡,目的是又要強行把家母的持有的老人補貼,每個月三千元給強行借著保管的名義,事實上拿去玩股票炒股,美其名「幫」根本沒有答應過要請她們這些「姊妹們」五人的家母「保管」「理財」,事實上拿去自己花費在買衣服和零食小吃上。
而且為了要正其名「照顧」家母,卻不惜強行剝奪家母的行動自由,整天如貓狗一樣反鎖大門不令其出門,也把電話線拔起來,不讓家母與外界通話,簡直是可惡至極,衣冠禽獸,連畜生都不如。
好險九十歲的家母拼盡了所有全身的力量,掙脫了所有的束縛,拿著僅有的兩百元一個人搭計程車回到我們兄弟的住家,終於化解了這場最後的危機!!!我們也再也不會被她們的零食點心給迷惑而把最親愛的家母給綁架,離開我們的身邊了!
接下來就是要慢慢的幫助家母復建,回復體力。雖然很辛苦,但是卻是非常的值得,因為家母又回復了活力,微笑,放鬆的表情,讓我及家兄感到無比的欣慰。
但是晚餐後,讓家母換衣服就寢的時候,她又從床上跌落到地板上,,,幸好我有幫她舖好厚地毯,才不至於重度傷害,,,,而我開始在懷疑是否我一個人照顧兩個人,是越來越成為一件不可能完成的任務了呢?!
摘自Jimmy老師的真實記錄散文【我們是母親的兒子們,母親有我們倆兄弟一天24小時同時一起來照顧】的第一章,紀錄於2023年3月22日星期三
讓我們試著用英文和日語來解釋這篇中文好文章來練習英日語吧!
翁俊彬 祝福全球每一位都闔家平安健康幸福美滿!
敬請贊助支援我們的【真善美線上語言溝通交流公益愛心免費教學線上及實體教室】
樂捐匯款郵局700帳號0041081-0385461戶名為翁俊彬0938-269-966手機確認匯款,非常感謝!
母が私の目の前で転んだとき、私は意外の事故の発生速度に驚いて、しかも転んだ後もまだ私を助けることができなくて、私は彼女を起こすことができなくて、私が意外にもボトルネックにぶつかったの?その後、幸いにも母は十分に持ちこたえることができた、、、、、、、、、、、、、、お姉さんの家で一日中部屋に閉じこもって外出しないと本当に歩く能力がなくなるようです。
これは母が姉の恐ろしい拉致事件を脱出した翌日で、まだ終わっていない後遺症が現れ、一連の事件は私を驚かせました。姉が母を姉の家に強制的に連れて行った後、彼女たちが遅滞なくした最初の仕事は母の郵便局現金引き出しカードを再び申請することです。母の保有老人手当を強制的に強要して毎月3千ウォンずつ保管するという名目で、事実上株式投機をすることを承諾したことがありません。
また、その名を正して「面倒を見る」ためにも、强制的に母の行家の自由を剥奪することをいとわず、一日中、猫や犬のようにドアを閉めて外出させず、线而且線も抜いて、母が外界と,家しないようにするのは、本当に憎らしいことです。衣冠兽獣は、畜生にも及ばないです。
危うく90歳の母はすべての全身の力を尽くして、すべての束縛を脱して、ただ200元を持って一人でタクシーに乗って私たち兄弟の家に帰って、ついにこの最後の危機を解決しました!!!私たちも二度と彼女たちのおやつに惑わされないように最愛の母を拉致して私たちのそばを離れるつもりです!
その次はゆっくりとお母さんのリハビリを手伝って体力を回復することです。大変でしたが、とてもやりがいがありました。なぜなら、母は元気を取り戻して、笑顔で、リラックスした表情で、私と兄はとても嬉しかったです。
しかし、夕食后、母に服を着替えて就寝させた从、彼女はベッドから床に落ちて、幸いにも私は彼女を助けてくれた(厚いカーペットがあって、重度のダメージはない)、そして、私は私一人で二人の面倒を見ることができるかどうか疑い始めて、ますます一つの不可能な任務になったのだろうか?!
ジミー先生の実話エッセイ(私たちは母の息子たちで、母は私たち兄弟が一日24時間一緒に面倒を見ています)の第1章から抜粋して2023年3月22日水曜日に記録した。
私たちはこの中国語の良い文章を英語と日本語で解釈して英日本語の練習をしてみましょう!
オン·ジュンビン、全世界の皆様のご家庭の平安と健康と幸せを祈ります!
私たちを支援してくださる[ジンソンミオンライン言語疎通公益愛無料授業オンラインおよびオフライン教室]
楽納送金郵便局700口座番号0041081-0385461世帯名オンジュンビン0938-269-966携帯電話確認入金ありがとうございます!
When my mother fell right in front of me, I was surprised at the speed of the accident, and I couldn't help her even after she fell, so I hit a bottleneck unexpectedly? Fortunately, my mother was able to hold out enough after that...I have to stay in my room all day at my sister's house.
This was the day after my mother escaped from her sister's terrible abduction, and the series of incidents surprised me with the unfinished aftereffects.After the older sister forcibly took her to her older sister's house, the first job they did without delay was to re-apply for her post office cash withdrawal card.I have never virtually agreed to speculate in stocks in the name of forcing my mother's allowance for the elderly to keep 3,000 won a month.
and, in order to correct his name and "take care of" his mother's freedom by compulsion, to keep her from going out like a cat or a dog all day long, and to keep her from going out with the outside world.Clothes and crown beasts are no match for animals.
My 90-year-old mother finally solved this last crisis by taking a taxi alone with 200 yuan to get out of all the restraints!!! We're going to kidnap our beloved mother and leave us so that we won't be misled by their snacks again!
The next step is to slowly help your mother rehabilitate and recover her strength.It was hard, but it was very rewarding, because my brother and I were very happy with my mother's recovery, her smile, her relaxed.
But after dinner, I changed my clothes and put my mother to bed, and she fell out of bed and fortunately I helped her (thick carpet, no serious damage), and I began to doubt if I could take care of the two by myself, and became an increasingly impossible task?!
It was recorded on Wednesday, March 22, 2023, from the first chapter of Mr. Jimmy's true story essay (we are the sons of the mother, and she is our brother and we take care of each other 24 hours a day).
Let's practice English and Japanese by interpreting this good Chinese sentence in English and Japanese!
Ong Jun Bin, I wish you peace, health and happiness in your family all over the world!
[Jin Sunmi Online Language Communication Love Class Online and Offline Class]
Rakuno Remittance Post Office 700 Account Number 0041081-0385461 Family Name Onjunbin 0938-269-966 Thank you for your mobile phone confirmation deposit!
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gorizoblog · 2 years
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AIのシューズ
こんにちは。きなこです🍀
最近、靴を買っていなかったので、新しい靴はないかと探していました。
色々とネットで探していると、面白そうなものを見つけました。
なんと、アメリカでAI搭載の歩行補助装置が開発されたそうです。
自分が履いた靴に歩行補助装置を装着して歩くことにより、歩行スピードが最大250%も出るそうです。
新たな移動手段として大きな話題を呼んでいます。
商品名は
「Moonwalkers(ムーンウォーカーズ)」
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下り坂を降りるときは、きちんとスピードを落として調整してくれるようです。
しかも、凹凸のある地形でも歩くことが可能とのこと。
滑り止めがついてるような感覚なのでしょうか。発売されたら試してみたいですね。
歩行のアシストをしてくれるこの機能は、今後、医療業界にも発展しそうですね。
歩行が困難な方のアシストやリハビリなど、AIが調整してくれると思うのでかなりのスピードを出してしまったなどとかになるのは少ないのではないか思います。
今回、歩行をアシストしてくれる「Moonwalkers(ムーンウォーカーズ)」について紹介していきました。
徒歩通勤者にはとても嬉しいものです。
現代において、技術が発達してきているので、人の歩数が少なくなっていると聞きます。
歩数が少なくなると足の筋力の低下がある人もいるのだとか。
今回の歩行をアシストしてくれる装置が出回り、歩行する人が増えるといいですね。
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the-earth-2016 · 2 years
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愛・ちきゅう博vol.2
きり 2022/12/11
無事に終わりました。関わってくれた皆さん、本当にありがとうございました!
記憶の新しい内に、ちょこっとレポ?を書きます📝が、とても主観的な駄文なのでお許しください…。
毛糸と桜
2人ともギターが上手で、一発目からギター2本の音の厚みがあってすごく良かったです。普段ちきゅうでボーカルをしているらっちゃんが他の人と演奏しているのを観ると、やっぱりうちのボーカルは良いなって思ったりするんです。(嘘やろ!と言われそうだけど本当ですよ。)けいとくんはアコギを持っても様になるねえ。いつも楽器を弾く横顔が凛々しくて、ギターに愛されてる人間だなって思います。帰る時ちゃんと話せなかったことだけが心残り…前回に引き続き出てくれてありがとう!このデュオはこれからも定期的に観たいからよろしく頼むよ。次は後ろの方の出順でしっとり聴かせてもらうのも良いな。
ぜっちー
歌に人柄が出る人だなっていつも思います。オリジナル曲じゃないのに、ぜっちーが歌うと毎回「これはぜっちーのための曲だなぁ」って思わされる。不思議な人です。今まで何回もバンドを組んだり、他の人とやってるのを聴いたりしてきたけど、その印象は多分昔からずっと変わりません。歌詞をまっすぐな気持ちで受け止めて歌ってるからだと思います。あとは、とりあえず…とかじゃなくて、本当に歌いたい曲を歌ってくれてるんだなっていうのが分かるから、オファーした側としてはそれがとても嬉しいのです。持ち前のフットワークの軽さで奈良から飛んできてくれてありがとう。ぜっちーの顔を見ると安心するよ。
DJ TOSCA
当日タワレコに寄って、CDを買って来たとっさん。開場前に作業しているPCを覗いたら、私が以前Tumblrで引かれるほどの愛を綴った小沢健二の「犬は吠えるがキャラバンは進む」というアルバムを取り込んでいる最中。これも今日買ったというのです。「えっ!なんで?!」って聞いたら、「きりちゃんが楽しそうに聴いてたから」って。真っ直ぐな瞳で言うんです。もちろん実際に私が聴いているところを見たわけでもなく、流してと頼んだわけでもなく、Tumblrを読んで「きりちゃんが楽しそうに聴いてる、だから聴いてみよう。」って買ってくれたのです。私はとっさんのそんなところがとてつもなく好きです。急な告白気持ち悪いですね。
あかねとかいと
「かいとくんの歌声をみんなに聴いてほしい」という私の超個人的なわがままで実現した出演でした。かいとくんに歌ってもらうなら、ギターはあーちゃんでしょ!と、これも私の超個人的な理想を押し付けてしまいました。かいとくん歌ってくれるかなぁ、2人でやるのは嫌だったりするかなぁ、って半分不安な気持ちでオファーしたら、「やりたい!」って即答してくれて嬉しかったのが3年前のお話。夜空ノムコウも大好きな曲なので、歌ってくれて最高でした。 あーちゃん、SUNのギターカッコよかった!期待を裏切らない演奏をありがとうだよ。近くにいた後輩くん達が「かいとさんあんなに声綺麗なのか…」って呟いてて、何故か私が誇らしげでした。
荒井駿佑
(くん)
1ヶ月前に辞退させてもらいたいと連絡が来た時は本気でがっかりしてかなり心配もしたけど、実は来てくれさえすれば歌ってくれるんじゃないかなって思ってました。笑 アコースティックライブだと、みんなは日常生活の延長線上で歌ってる感じになるんだけど、荒井くんがステージに立つと力強くてステージ感がちゃんと出るのがすごい。元から弾き語りが主戦場?だからなのかなあ。後からはまいちやかいとくんに「歌い方変わった?」って聞かれてて、変えた理由やらを教えてくれました。みんなちゃんとそういうの気付いてすごいよなーと思うと同時に、正直私は荒井くんが歌ってくれてればそれで良いのであんまり気にしてません。また歌ってる姿見せてね!今年流れちゃったコアゼチルドレンもリベンジしましょう。
みゆこ 
(ちゃん)
vol.1 の時は恐れ多くて呼べなかったスペシャルゲストです。vol.2をやるなら満を持してお声がけしよう!と。実際みゆこちゃんが秋田からやってきてくれたおかげで、たくさんの人達に久しぶりに会うことが出来ました。私が言うまでもなくみゆこちゃんの吸引力はすごい!倉田くんとのやり取りが懐かしいなって思いながら聴いていたら、バンブーズがライブハウスで動き回る姿も目に浮かんできました。みゆこちゃんの弾き語りも好きだけど、やっぱり本業(?)のドラムを叩く姿も見たくなってしまいます。あんまり3年ぶりっていう感じがしなかったのは、みゆこちゃんらしさがずっとブレないからでしょうか。あと、水色と白のシャツワンピとブルーのギターの組み合わせが綺麗でした。
自分のこと
ウクレレは、前回はウクレレの定番曲とか歌いやすい曲を選んだのですが、今回は「本当に自分が好きな曲たちを歌おう!」と決めて選曲しました。なので割と満足できたかな。ちきゅうの演奏は結構練習したのに間違えちゃってちょっと悔しいなあ。やっぱり学生の頃の勘?は衰えているのかも。今年アコースティックでリハビリできたので、来年はスタジオでバンド形式で練習しよう!!
全体を通して
2020年3月に無期延期を決めてから、話が動くことは無く。今年の5月にマスターが連絡を下さり、3年ぶりに開催するっていう話が出た時、正直気持ちは後ろ向きでした。私はコロナ禍で漠然と憂鬱で引きこもりがちだったし、久しぶりにみんなに会うのも少しだけ不安でした。でも、「無期延期」って決めたからには開催しなければ、という義務感があって、やらないという選択肢は無かったです。不安だけどやる。という気持ちでした。「出てくれるはずだった人たちに1人ずつ声をかけて、まず参加してもらえそうか聞こう。」ということになりました。遠くに住んでいる人もいるし、そうでなくてもそれぞれ仕事が忙しいはず。音楽から離れて、そういう気分じゃない人だっているかもしれない。だからまさか全員が二つ返事で「出たい!」と言ってくれるなんて、思ってなかったんです。全員揃う、そのことがすごくすごく嬉しくて、有り難くて、「よし、頑張ろう!」という気持ちになりました。もしあの時何事もなく開催できていたら、今この時期に会えることは無かっただろうなと思うと、延期になって良かったこともあったんだなと思います。ちきゅうの人々は自分たちの曲には誇りを持っているけど、演奏を誰かに認めてもらうことに対しては弱気です(少なくとも私は)。4人とも人を集めて盛り上がるという体質じゃないし、ライブを企画したりするなんて考えられなかった。でもおっかなびっくり開催したvol.1では、頼りになる後輩たちやマスターが呼んでくれた助っ人の方々にも助けられて、初企画を一応成功(?)させることが出来ました。そういうタイプの人間じゃないのに何でだろう?って考えてみると、cafe doudouという最強の場所と見守ってくれるマスターの力はもちろんのこと、やっぱり4人と出演してくれる・聴きに来てくれる人達が、音楽が好きっていう純粋な気持ちで繋がっているからかなと思います。らっちゃん、ななみん、とっさん、私も、同じ音楽が好きというだけで繋がってここまで来てますから…あとは、発表会だけが楽しいんじゃなくて、やっぱりそれに向けて個人練習したりスタジオで合わせたりすることに楽しさの半分はあるんだよね。「vol.3もやってね」「4年周期と言わずに」なんて言ってくれた何人かの友人達!私は真に受けてますけど良いですか?vol.3は、オファー形式じゃなくて出たいと言ってくれる人を募る形で開催出来たら良いななんて、私個人としては希望があるんですが、それだと誰も立候補してくれないか…という不安も大いにありますね。まああまり先のことは考えず、昨日の楽しかった思い出に浸ろうかな。たくさんの愛を、ありがとう!
おまけ:ウクレレで歌ったプレイリスト
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sizukayoga · 5 years
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明日は#介護職 として 仕事すりため。 #予習。 自分がもし #介護施設 にお世話になることに なったら #体操 は専門の人に習いたい #レクリエーションは 専門の人に習いとおもう。 #老人保健施設 の #勤務 がながく。 #直接介護 #リハビリの補助 #ケアプラン作成 #レクリエーションの提供 #体操 主任業務と やることが多く、忙しかった 今の仕事に通じているので よかったと思いますが。 いつか、#体操を楽しむために 頑張る 人と 施設の#パイプ役には なりたいと思ってます そんなことを言いと、何人かに 偉くなりなさいと言われますが。 #今の仕事 #与えられたノルマは達成 頑張るのみです。 #介護福祉士 #介護支援専門員 #介護福祉士実務者研修 講師 #千葉県 #勝田台 #ユーカリが丘 #志津 #ホットヨガ 暑かった #ホットピラティス頑張った #ホットピラティスヨガ #レッスン3本 (二子玉川) https://www.instagram.com/p/BxhZkrZB02l/?igshid=yd124h7lpjyf
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xf-2 · 3 years
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新型コロナウイルスの重症患者が急増している。特に40代・50代の重症化が目立つのが第5波の特徴で、東京都では重症患者の6割を占める。だが、この年代へのワクチン接種の進み具合は、自治体によってばらつきが大きく、かなり遅れている所も多い。そんな中、東京都墨田区では、今月7日時点で1回の接種を終えた40代は区民の6割を超え、50代は7割近くに達している。
今月13日付日経新聞電子版によると、同紙が緊急事態宣言下にある6都道府県の主要都市の1回目接種率を調べたところ、墨田区は50歳代で71.9%、40歳代で60.6%とダントツに高かった。40代については、さいたま市(6.7%)、那覇市(16.4%)、大阪市(17.7%)、世田谷区や品川区(17.8%)などと接種率が伸び悩む自治体が少なくない中、墨田区の進捗状況は際立っている。その効果か、陽性者数の推移を示すグラフからは、陽性者が下降の兆しも見てとれる。
 なぜそれができたのか。同区のコロナ対策の陣頭指揮をとる西塚至・同区保健所長に話を聞いた。
困難なスタートからの巻き返し
なぜ墨田区は、こんなに速いんでしょう?
「いえ、決して順調に行ったわけではありません。出足が遅れ、想定外のこともいろいろ起きました。大学病院があるわけでも、集団接種に向いた広い施設があるわけでもなく、大きい施設は五輪で抑えられて、条件は決して恵まれていません。それでもなんとか巻き返し、いろんなことを積み重ねて、結果的に今がある、というのが実情です」(西塚さん、以下囲み内は同様)
 どのようなことを積み重ねてきたのか。西塚さんへのインタビューや資料から、主要な事柄を確認していきたい。
高齢者枠を使ってでも、まずは医療従事者に接種、という判断
 同区では昨年7月頃から、地元医師会とコロナ対策について協議を行う中で、ワクチンについても話し合いを重ねてきた。12月に区役所内に予防接種調整担当課を立ち上げ、ワクチン接種の準備を進めた。
 しかし国のワクチン調達は遅れ、当初は輸入量が少なかった。高齢者への接種が開始される4月12日時点で、東京都に割り当てられたワクチンは4箱(3900回分)のみ。高齢者人口の多い地域から配分が始まり、初回は世田谷区と八王子市が2箱ずつ配分を受けた。墨田区としてはいささか出鼻をくじかれるスタートとなった。
 墨田区は接種初日の4月17日、集団接種の予行演習をかねて、区内の医療従事者に接種を行った。国の計画では、医療従事者の接種は都道府県が行い、市区町村は住民接種を担当する、ことになっていた。それをあえて、医療従事者からスタートさせたのだ。
「区は住民のことだけ考えていればよいはずでした。しかし、予約システムがダウンするなど、都の医療従事者接種は遅れ、(高齢者への接種を行う)医師がワクチンを打てずにいました。それで、うちは住民接種の枠を使ってでも、まずは医療従事者の集団接種を先に行おう、と」 
 これは、その後のワクチン接種について、医療従事者の士気を高める効果も生んだ、という。その後、全国各地で、自身は未接種のまま高齢者施設で接種を行う医師たちから不安の声があがったが、墨田区ではそうした事態はなかった。ちなみに、同区では救急車で患者を搬送する消防署員にも、5月には接種を行った、という。
”災害時の頭”で考える
接種券を早い時期に配ったわけ
 墨田区の特徴の1つは、ワクチン接種券の配布が早かったことだ。高齢者施設の接種に目処がつき、一般の高齢者の接種が始まったのは5月10日だった。だが65歳以上の区民の接種券は、2か月近く早い4月1日には発送していた。そして6月1日には、都内で最も早く、16~64歳の全ての区民に発送を行った。
「定期接種など”平常モード”では、事業開始の直前に接種券をお送りするのが普通です。しかし、今は”危機”。”災害時の頭”で考えると、大事なのは1人でも多くの人が、ワクチンを打つことです。一足早く接種が始まった世田谷区の���齢者施設に、墨田区民が暮らしているかもしれない。他区の施設で働いている区民もいるでしょう。そういう方々が、接種券がないために打ちそびれる、という事態が起きないよう、とにかく接種券だけは早くお配りしよう、と。1人でも2人でも、今居る場所で打って下さい、という思いでした」
 この”危機モード”対応は、後に想定外の恩恵を区民にもたらすことになった。
対象者の5%が自衛隊のセンターへ
 65歳以上に限定して行われていた自衛隊の大規模接種センターが突然、6月16日からの年齢制限撤廃を発表。遠方の東京・大手町の会場まで出向くよりも地元で打ちたい、という高齢者が多かったようで、希望者が想定を大きく下回ったためだ。
 若い年齢層の接種が可能となったが、予約には接種券が必要。しかし、この時点で多くの自治体は64歳以下には配布していなかった。そんな中、墨田区の人々はすでに接種券を手にしており、区民は次々に自衛隊のセンターに赴いて接種を受けた。
「これは大きかったです。1万2000人、対象者の5%が自衛隊に行って打って下さった」
災害時の助け合い
 住民の協力もあった。
 自衛隊のセンターでは、モデルナ社製のワクチンを使用。当初、厚労省はモデルナを接種可能な年齢を18歳以上としていた(その後12歳以上に変更)。また、モデルナは副反応が出やすいという話が出回り、1回目と2回目をファイザーより長く4週間空けなければならないこともあって、敬遠する人も少なくなかった。
「ところが、区内の大人たちから、『自分たちは自衛隊に行って、モデルナを打とう』という声があがったんです。ファイザーが足りなくなる、という時期でもあり、『ファイザーは子どもたちに回そう』という草の根の運動になって、自衛隊での接種が増えました。災害時は、地域の助け合いがあってこそ、です」
区直営の集団接種をメインに
危機には「割り切り」も必要
 墨田区の”危機モード”対応は、ほかにもある。
「”平常モード”であれば、日頃診てもらっている身近なかかりつけ医に打ってもらうのが一番です。ただ、今は災害時。危機にあっては、割り切るところは割り切って、最大限効率化を図り、数を多く打つのが大事。それに、このワクチンは1瓶から6人分とらなきゃいけないので、個別の診療所でやっていると余ってしまうことも。冷凍庫で保存する必要があるなどの使いにくさもあります。
 やはり、こういうものは集団接種がいい。これは2009年の新型インフルエンザの時の経験でもあります。国がいくら練馬方式(診療所での個別接種をメインに、集団接種で残りをカバーする)を推奨しても、うちはブレずに”危機モード”で対応し、集団接種メインで行くことにしました」
”小分け隊”の活用でムダなく数を稼ぐ
 当初は4つの区施設を使い、そのほか7病院でも個別接種を実施した。このうち墨田中央病院の接種では、千葉大学墨田サテライトキャンパスが会場を提供した。運営は民間に業務委託せず、区が直営し、ワクチンの在庫管理や配送は、職員による”小分け隊”が行った。
 キャンセルが出た場合は、区の危機管理Twitterやメールで区民に告知して希望者を区役所に集め、”小分け隊”が余ったワクチンを回収、西塚さんら保健所の医師が接種した。こうして、ムダを出さずに接種回数を稼いだ。地元医師会も”危機モード”を共有。集団接種の打ち手は、すべて区内の医師たちでまかなった。
「大きい施設はオリンピックに抑えられて使えないなど、条件は厳しく、地域にある資源を最適化して使うしかなかった。でも、それをやってみたら、いろんないいことがあった。特に地元医師会は自分たちが責任をもってやろうと士気が高く、おかげで事故なく、質が高く、長続きしている」
等身大の形作り
 接種券の発送や会場の設営は、選挙の際の入場整理券や会場作りと同じ、ということで、選挙管理委員会の職員が担当した。ワクチンに関する情報を掲載した区の広報紙は全戸配布することとし、これにも選挙公報配布のスキルが生きた。
「形を作って丸投げするのではなく、自分たちにできる等身大の形を作り、そこにちゃんと血が流れるように、職員が町内を回って苦情聞きなどもやって、形をさらに整えていきました」
 住民の声を聞く中で、若い世代の接種を進めるには、夜間、駅の近くで行う必要があると分かった。そこで、6月末から東京スカイツリーに隣接するビル、JR錦糸町駅と両国駅近くのホテルにも接種会場を設置。平日は午後8時まで、さらに土日祝日にも接種を行えるようにした。スカイツリー会場には託児所も設けた。
二転三転する国の方針にも柔軟に対応
当初から複数のワクチン使用を計画
 国のワクチン供給が不安定な中、墨田区は接種が始まる前の段階から、モデルナ社製ワクチンの使用を計画に組み込んでいたことが奏功した。
 接種が始まった時点で、厚労省が承認していたのはファイザー社製ワクチンのみだった。モデルナ社とアストラゼネカ社のワクチンが特例承認されたのは5月21日。しかし墨田区では、3月に公表した「実施計画」で、7月にはアストラゼネカとモデルナのワクチンを導入して、接種を加速させる計画を明らかにしていた。両社のワクチンは、ファイザー社製とは接種の間隔が違い、在庫管理も異なるので、複雑なオペレーションが必要になる。しかし、同区では接種の加速には、ファイザー以外のワクチンも必要になると考え、事前準備をしていた。それが、以下のように役立つことになる。
事前準備でモデルナ確保
 6月11日、ワクチン担当の河野太郎規制改革担当相が、市町村の集団接種でもモデルナの使用を認める方向を示した。あらかじめ計画済みの墨田区は、すぐに手を挙げた。この素早い反応で、同区はモデルナの配送を受けることができた。
 国が自治体でのモデルナ使用を認めたのは、7月からはファイザーの輸入量が減る分を補うためだった。ところが国は、同月22日には再度の方針変更をした。モデルナを使用する職域接種の申し込みが多く、「1日の可能配送量はもう上限に達している。このままいくと、供給できる総量を超えてしまう」として、自治体のモデルナを使った集団接種と職域接種の申請を中止したのだ。準備が間に合わず、配分を受けられなかった自治体もある。
在庫を出し惜しまない
 ワクチン供給不足への対策として、河野行革担当相が一時、在庫が多い自治体には配分を減らす、という新方針を示し、全国の自治体が混乱したことがあった。この時も、墨田区は影響を最小限に済ませた。扱いが面倒なワクチン接種記録システム(VRS)は、区職員が残業してこまめに入力。2回分を確保しないと1回目の予約をとれない、という自治体が予約を停止している中、墨田区では西塚保健所長が「在庫は出し惜しみせず、ペースを落とさずに予約や接種を進めて下さい」と、現場に檄を飛ばした。
「平常であれば2回確保してから予約をとる、となりますが、これも”危機モード”で対応しました。モデルナがありますし、国の輸入予定量は公表されていましたから、そういう情報を常にチェックしながら、大丈夫だろう、と。カラ元気でもありましたが、在庫ゼロのおかげで、”ボーナス(追加)”も来ました。この時期に加速するはずが、それはできなかったけれど、(ファイザー供給減の)前と同じ水準は保てた」
 このように、ワクチンを巡ってしばしば二転三転する国の対応にも、早い時期からの準備と、”危機モード”による柔軟で大胆な反応で、切り抜けてきたのが墨田区だった。
通年議会が補正予算に迅速対応
 加えて、区議会も”危機モード”を共有。ワクチン接種会場の増設など、様々な変化に伴う予算の確保に素早く対応した。
「昨年の11月から通年議会となっていたこともあり、毎月のように補正予算を通してくれるので、次々に変化する状況に迅速に対応できたんです」
 毎月の議会で、議員が住民の要望を披露したのも、情報として役立った、という。
”危機モード”共有の背景
 このように区、地元医師会、住民、議会などが”危機モード”を共有できた背景には、墨田区特有の事情もありそうだ。
 隅田川沿いにある同区は、水害の危機と常に向き合っている。最悪の事態では、ほぼ全域が水没することもありうる、と予測されているからだ。大雨の予報が出るたびに、同区は水害の発生を警戒する。常に最悪の事態を想定して考える”危機モード”の思考が鍛えられ、コロナ対応でも生きたのではないか。
 同区では昨年1月末の段階から、新型コロナウイルスを新たな「災害」、それも警戒レベル5の最大級の災害ととらえて対応してきた、という。国や東京都では、第5波で重症患者数が過去最高を日々更新する事態になって、ようやく「災害級」という言葉が出てきたのに比べると、危機への向き合い方が異なるように見える。
 この”危機モード”を区、医師会、住民、議会が共有し、連携することで、次々に生じるいろんな問題をうまく飲み込み、ペースを落とさずに接種を続けることができた、と言えるだろう。
ワクチン以外でも素早い対応
 墨田区が速いのはワクチン接種だけではない。医療提供体制についても、際だった対応が見られた。2つの例を挙げる。1つは、地域完結型の医療体制「墨田区モデル」の構築。もう1つは、抗体カクテル療法のすみやかな導入だ。
回復期の患者を中小病院が引き受ける
 コロナ禍の日本で、医療が逼迫する原因の1つに、回復した重症者の転院が困難、という問題がある。患者は人工呼吸器から離脱できても、すぐに日常生活には戻れるわけではない。その後の治療やリハビリが必要だが、そのための転院先がなかなかみつからないのだ。
 これに対応するため、墨田区は今年1月25日、地域の病院が連携して、転院を進める仕組みを作った。同区では第一種感染症指定医療機関である都立墨東病院が重症患者を、同病院と重点医療機関の病院が中等症患者を引き受けている。そして回復期に入った患者は、他の中小私立病院が次々に受け入れ、重症者や中等症患者のためのベッドを空けるようにした。
 この体制を導入して3日後には、入院待機者が0になった。今も、医療崩壊を食い止めている。
 速やかな体制作りが可能になったのも、災害時を想定した、常日頃からの地元医師会と保健所の関係があったからだ。
「危機を想定し、墨東病院には『断らない医療』をやってもらい、そこがいっぱいになったら地域の医療機関が後方支援で引き受ける、という意識が、地元の病院経営者には以前からある。今回は、墨東をパンクさせないために、自分たちが支えていかなければならないという危機感が、地元医師会の中でより一層強い」
抗体カクテル療法にもいち早く対応
 抗体カクテル療法は、2種類の抗体を点滴投与する治療法で、軽症者の重症化を防ぐ効果がある。アメリカのトランプ前大統領が感染した際、この治療を受け、早期に回復したことで知られる。日本では、7月19日に重症化リスクの高い軽症・中等症患者の治療薬として特例承認された。墨田区では、同愛記念病院に区民優先の病床を20床確保していたが、ここで同月27日から必要な患者にこの療法を行うことにした。8月13日までに20人の患者に実施し、いずれも経過は良好、という。
 東京都がこの療法のための病床20床を確保したことを発表したのは同月12日だったことを考えると、墨田区の手際の良さが光る。これも、”危機モード”による早い準備が生んだ。
「4月に、近いうちに特例承認されるという情報があったので、区内の病院で実施しようと、5月頃から病院と勉強をしてきました。当初は4つの病院で実施しようと考えていたのですが、入院が必要とのことなので、区民のための病床を確保していた同愛記念病院で行うことにしました」
 準備を急いだのは、第4波の大阪の状況を見て、危機感を募らせたからだ。地元医師会と共に、神戸市民病院の医師を招いたweb上の研修会を行い、関西でどのようなことが起きたのか、詳細を学び、対策を検討した。
「酸素が足りない、中等症のベッドは一杯になり、感染者が減らない。このような大阪の第4波が東京でも起きる、という前提で準備をしたのが、今生きている」
十分な検査態勢を整える
 このほか、コロナ対応としては、検査態勢を区独自で充実させてきたことも大きい。それは、昨年4月に墨東病院でクラスターが発生し、新たな入院や救命救急センターでの患者受け入れを停止した時の教訓からだという。
「国立感染症研究所が入って、症状のない人も含めて全員の検査をやった。そのやり方から学ぶことが多かった。ウイルスは目に見えない敵なので、徹底した検査しかない」
 しかし当時、東京都としてできる検査は1日に200-300件ほど。そのため、医師が必要と判断しても、検査を受けられない発熱患者がいた。墨田区は、独自にPCRセンターを設置。6月に検査会社を区内に誘致し、通常の3割程度の金額で1日240件の検査を行えるようにした。
 さらに、保健所自身が唾液によるPCR検査を開始した。検体を唾液にしたのは、医師がいちいち咽頭を綿棒でぬぐう作業をしなくてすむので、大量の検査に適していると考えたからだ。
 最初に大規模な検査を行ったのは昨年6月下旬。地元のオーケストラ、新日本フィルハーモニー交響楽団の楽団員ら74人のPCR検査で、全員の陰性を確認した。それまで演奏活動を自粛していたオーケストラは、7月初めに演奏会を再開した。
「自前の検査なので午前中に検体を出せば、2時間後には結果が分かります。費用も1人1000円くらいで済みます。どこかの施設で1人陽性者が出れば、すぐに全員の検査をやる」
 陽性者の第一報を知ると、西塚所長自身も防護服を着込み、検査のために現場に向かった。高校受験の時期は受験生の検査を行い、小学校の移動教室など人数が多い時にはプール方式で検査した。夜の街が危ないという話が広がった時期には、向島の花街の芸者たちの検査を実施。「向島は安全だと示したいので、ぜひやってください」という芸者衆の要望に応えた。
「人は大事」
 こうした対応が可能になったのは、1人の保健所職員がいたからだ。ベテラン検査技師の大橋菜穂子さん。西塚所長が独自の検査実施の方法について頭を悩ませていたところ、大橋さんが「私はPCR検査ができます」と申し出た。
 2014年に代々���公園でデング熱が発生して以来、大橋さんは毎月のように、区内の公園で蚊を採取してはすりつぶし、PCR検査でウイルス感染の有無を調査し続けていた。結果はいつも陰性だが、それを確かめるために、大橋さんは黙々と検査を重ねた。PCR検査の技術を磨き、機械もメンテナンスを欠かさなかった。
 それが、このコロナ禍で生きた。大橋さんは、感染症研でコロナウイルスの検査の手法を学び、今では変異株の検査も担っている。
「昔は、検便も結核の検査も、水道の検査も、すべて保健所でやっていた。それが次々に民間委託となり、保健所から検査機能が失われ、保健所そのものも減らされてきた。そんな中、商売にはならない蚊の検査を続けてきた検査技師が1人いたおかげで、コロナにも対応できた。本当に、人は大事です。金にならないことをやって、危機に備える。これこそ公衆衛生です」
適切な情報の公開
 住民への適切な情報発信も心がけた。象徴的な事例が、早期にコロナ対応をする医療機関名の公表に踏み切ったことだ。
 新型コロナの感染が疑われる患者に対応する医療機関は、都道府県が「診療・検査医療機関」を指定した。ただ、多くの自治体は「風評被害」を恐れて機関名を公表しなかった。東京都も同様。そのため、患者が受診するには、かかりつけ医か都の発熱相談センターに相談し、紹介を受けなければならない。同センターに電話がつながらないことも多く、煩雑さから、症状があっても軽症の場合、医療機関にかからずに済ませる人も少なくなかった。
 そうした人が感染を広げる懸念から、墨田区は昨年11月、区内の「診療・検査医療機関」の名称公表に踏み切った。それによって受診がしやすくなる利便性と、感染拡大の抑制が狙いだった。区の広報紙では、年末年始の発熱外来を行っている医療機関名と診療日や連絡先などを詳しく伝えた。
 さらに、西塚所長がTwitterなどのSNSを使って、区の対応を丁寧に説明。西塚所長のアカウントには、「家族が熱を出した。どうしたらいい?」「熱がある。日曜日だけど、どうしたらいい?」といった相談も頻繁に飛び込む。そのたび、「○○なら、予約なしで受診できます」などといった情報を伝えている。
「自分が必要な時に必要な情報が得られずに困っている人がいる。そういう人をとりこぼさないようにしたい。災害時は、区としては大きく構えて対策をしなければならないが、こういう細かい情報を補強するにはSNSは有益です」
 このような対応をするため、自宅にいても、スマートフォンは手放さない。
 ちなみに、施設で患者が確認された時、噂や風評被害を防ぐため、同区では施設名も公表している。
保健所の役割とは
 保健所の仕事について、西塚所長はこう語る。
「いろんな資料を分析しながら、地域の弱みを常にウォッチして、必要な資源を作って供給していく。インテリジェンスとロジスティクスです。墨田区は一貫して、これが公衆衛生を担う保健所の役割と認識してやってきました。私たちは、尾身先生たち専門家が言うことを忠実にやってきただけです。その(提言を実現する)ために必要な資源は用意する。現場の医師たちが『検査をしたい』『患者を入院させたい』と言う時に、ちゃんとできるようにする。これが保健所の仕事です。
 資源が足りなければ、作る。たとえば、東京都の検査能力が限られているからと、検査数を絞るのではなく、検査がより多くできるようにしてきました。国や都の対応を言い訳にせず、資源にニーズを合わせるのではなく、ニーズに資源を合わせるんです」
 そのための工夫をし、早めに準備を整えて、あらゆる立場の人たちを結びつけていくのが、西塚流の真骨頂と言えるだろう。
 平成元(1989)年度には、全国に848あった保健所は、合理化の波に洗われて、現在は470まで減らされた。その保健所が今、新型コロナウイルスとの闘いで要の役割を担っている。
「だいぶ減らされたとはいえ、うちに検査技師がいたように、今もまだ保健所には様々なスキルが残っています。その力を、今発揮しないで、いつ発揮するのだ。そんな思いでやっています」
 各地でも今、それぞれの地域の事情を踏まえた保健所の奮闘がある。その保健所の機能を存分に生かすためにも、また、各地でワクチン接種を加速化するためにも、国や各自治体が西塚所長の話から学ぶところは多いのではないか。
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tamanine · 3 years
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空は青色、水色ではなく青色、黄色やピンクや紫の混じる時間も終わり、青色が群青色に変わるまでの時間。
美術館に行きたいけれど美術館は国や都の運営が多く速攻閉まってしまうし、そこで働くかたがたが不安なく働ける状況下というとそういうわけでもなく、(だけど所得の補償はするべきだ、ほんとうに、そうしたらみんな心配しなくて済むのに)変異株はマスクをしていても…等のテキストもインターネット上には流れてくるし、じゃあどうしろっていうのか?という状態のままなにも変わらない。仕事で渋々電車に乗るのに楽しいことのために乗るなというのは無理だ。
家で仕事をできないアルバイトをしている若い人に、仕事には来い学費はフルフルで納めろだけど遊ぶな/なんて無理だ。ありえない。でも悪いのは政治だと思う。リレーはするけどお前たちはじっとしてろなんて滅茶苦茶すぎる。破綻した権力者は怖い。
ワクチンのロジスティクスも人員も予約システムもショボショボのままなのだから、(医療従事者のかたはなにも悪くない、ご自身の心身を守っていただければと思う)根こそぎ検査して無症状の感染者のかたに一旦じっとしていてもらうしか今できることはやっぱり無いのだ。去年検査を渋ったまま、それを誤りだと認められないまま、去年GOTOとか言ってすいませんでした間違いでしたと自民党政権が認められないのが全ての間違いの始まりだろう。
やっぱり助けてくれるのはラジオから聞こえてくる声で、論理が破綻していない長い話を聞くとホッとする。
映画の「クリシャ」をこの前見た。
私は同監督のWAVESの男親への甘やかしが全然許せなかったのだけど(去年の7月11日にシネクイントWHITEで見て〝ものすごく久しぶりに渋谷で爆音で音楽を聴いて椅子がビリビリしている〟ことに感激してしまい、見たこと自体は楽しかった、でも男親が娘に甘える感じが最悪だった、シネクイントWHITEの音響と座席の広さは本当に素晴らしい、大好き)、クリシャを見たらWAVESのことも全て許せそうなぐらい嫌な気持ちになって最高だった。
クリシャの主人公である「クリシャ」は監督の実の叔母(俳優)らしく、面構えも演技も、そして撮影も脚本も素晴らしかった。あれが本当の実家なのか…(そして文化にも恵まれているんだろうな…)
家族団欒とにぎやかさが神経に触る感じ、筋肉をきちんとつけた男���ちが男たちで集まった時の騒ぎかた、苛立つ人と、人を苛立たせてしまう人のその切実さ。
感謝祭の映画だったけれども、日本の盆暮正月にもガンガンかけて欲しい。あれでスリップしてしまうあまりのリアルさと、その映画的迫力、あの雰囲気の捉え方にしびれた。
私は自分の母と折り合いが悪い。というか、母が、子どもの頃の私にかけた言葉の数々があまりにも酷く、母は今現在私のことを嫌いではないかもしれないが、全然愛する気にはならない。世話をしてもらってはいたが、私の思う愛などはそこにはなかった。受けた拒絶のほうが随分と大きい。
母は私の人生の滋養には全くなっていない。母が私の味方であるとはとても思えない。彼女の気に入ったタイミングで/彼女の気にいることをすれば機嫌は良くなるかもしれないが、今そこまで付き合いたいかというと、Netflixの方が私に優しく生きる力を与えてくれる。
だから、母親なんだから愛されるはずだとは、他者に対しても全く思えない。
私が母親だとしても、毎日の中できちんとした優しさを、行動と言葉と実務と世話の全てで重ねていかないと、愛することにはならないし、どんなに気遣いや想像力や実務で気持ちを伝えても、愛される保証なんてどこにもない。愛していたとしても、拒絶する権利が愛される側にはある。大人と子供、親と子供、保護者と未成年、大人と大人、全ての立場で。
クリシャが言う、「今している努力」(台詞のディティールの記憶は曖昧、多分アルコールを抜いてシラフで生きる毎日の全てが努力なのに、依存症ではない周囲の人から見たらそれは努力とはとても見えず、失敗した時にはすごく大きな過ちに見える)の大きさも、とても切実に見え、
私はアルコールやドラッグのリハビリのドキュメンタリーをあればあるだけ見るので(Netflixのリハビリ・ボーイズ、ヘロイン×ヒロイン、リアルガールズ・イン・プリズン等々)、お酒を飲まずに1日を過ごす、というのが努力であるというのがよくわかる。(映画で言うと、アンハサウェイの、レイチェルの結婚や、シンクロナイズドモンスターも好きだ)
アン・ハサウェイの「レイチェルの結婚」もとても良いヤダみ団欒シーン映画だったけれども、あそこにはまだ思春期に近い拗れ方があり、クリシャでは主人公が60代にもかかわらず、その母親(90歳くらい?)との愛情関係のこじれがまだ残っており、老親の認知能力にもう限界がきている場合、もう会話における大人同士の許す/許される(愛し/愛されたことを確認する)行為を行うことができず、その点の苦悩は解消の見込みが無い。
クリシャがあの状態になるまで、何回コミュニケーションのチャンスを潰し、他者が彼女を許し愛し直したいと思ったタイミングを逃していたんだろう。けれどクリシャは自分の問題で精一杯で、コミュニケーションを逃しながら、けれどどこかで心は通じ合ってるはずだと思い込みたくて仕方がない。
私は私の能力や優しさが全て嘘のハリボテに思える。はたから見たら私とクリシャはなにも変わらないかもしれない。
にぎやかさも団欒も、どうしても神経に触る日がある。でもあそこまでいきたくない。この気持ちは、クリシャという映画がフィクションだから言う言葉だ。私はあんなふうにはなりたくない、は実在の他者に向けてはいけない。フィクションの中の・あの人のように・私はなりたくない。
「クリシャ」は緊張感のある長回し、美しい長回し、とても気の利いた音楽遣い、人間の優しさと豹変が脚本に織り込まれており、その上質さにも死ぬほど癒された。
映画館で見る映画がないと生きていけないや、と強く思った。
アップリンクの公開では私は見にいけなかったから、ユーロスペースで公開してくださりありがとうございました、グッチーズ。
長くなり夜が更けてきたので、ではまた
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end-of-olympics · 4 years
Text
オリンピック終息宣言全文 / Declaration for the end of the Olympics
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under this Japanese Text , there is English Text “Declaration”. 
私たちはオリンピックの終息を宣言する。 これでもうわかったはずだ。 オリンピック・パラリンピックは健康を損ない、社会を蝕むウィルスなのだと。アスリートさえ例外でなく、私たちすべての生命を蹂躙するのだと。 それは最初から「平和の祭典」などではなく、資本主義とナショナリズムを崇める破壊と暴力の競技場なのだと。 2020東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウィルス感染拡大の中でも一向に中止決定されないことで、その異常さを露呈した。「震災からの復興」という噓で招致されたものの、10年たっても原発災害の傷は癒えず、43000人の避難者を置き去りにしたまま。その上、パンデミックで世界中の人が倒れていっても「人類がコロナに打ち克った証し」などと、IOCも日本政府も東京都も誤った道から引き返すことを考えない。深刻な現実を覆い隠そうとする彼らの政治的ふるまいは、ひとびとの生存を脅かす。 世界に疫病が蔓延していても、開催国が戦争・侵略行為をしていても、オリンピックはやってくる。気候変動、食糧危機、自然災害、独裁、少数民族弾圧、財政破綻、難民問題、そして原発事故。地球規模の惨劇を私たちに忘却させ、ナショナリズムの甘い夢を見せる装置として「平和の祭典」は強行され、暴虐に金メダルを与える。 その象徴がナチス・ドイツの1936年ベルリン大会だ。思想や芸術の弾圧に突き進み、障がい者を社会から抹殺する体制下の祭典に、国際社会は諸手を挙げて選手団を送り込み、日本はその次の1940年を担おうとしていた。 次いで戦禍からの復興(そう、この国ではいつも復興が旗印だ)を謳って招致した1964年東京五輪。高度経済成長の象徴としていまだ懐かしまれるこの年から1970年大阪万博にかけ、加速する消費社会は公害や環境破壊を生み、再開発で街を分断し、政治や世界情勢への関心を奪って思考停止のディストピアを完成させた。 同大会では初めてパラリンピックが同時開催された。そもそも戦争傷病兵のリハビリとして始まったパラリンピックを、平和の名のもとに五輪イベントに組み込む欺瞞の構造。さらに選手たちは、高価な身体補助機器を入手できるか、「頑張っている障がい者」あるいは「最先端の超人」として搾取・消費されるアイコンたりえるか、その有用性で選別される。 障がい者だけではない。植民地の先住民、黒人、少数民族、近年の難民選手団、そして女性。マイノリティへの差別構造は解消されず、祝祭の間だけの英雄、多様性という美談の材料、あるいは単なる娯楽として消費される。 TOKYO2020の中止を、世界を覆うオリンピックという疫病を終わらせる第一歩にしよう。 1940年、1964年の足跡の残るこの地から。 巨大なシステムに踊らされず、熱病の幻覚の中でも醒めていよう。 私たちには、そのための想像力があるはずだ。 芸術だけが、オリンピックの息の根を止められる。 何度でも、私たちはオリンピックの終息を宣言する。
Declaration We declare the end of the Olympics. As you may already be aware: The Olympics and Paralympics are viruses that damage human health and undermine society. Damage is also done to athletes, and this damage bleeds into all of our lives. Since their beginning, the Olympic Games have never been a “festival of peace,” but rather are a worship of capitalism and nationalism. The Olympic stadium is therefore a place of destruction and violence. The organizers of the 2020 Tokyo Olympics and Paralympics have further revealed their malevolent nature by refusing to cancel the event, knowing full well that holding the Games would accelerate the global spread of Covid-19. Tokyo was selected to host the Games as a means of “recovery from the 2011 Tohoku Earthquake.” But 10 years after this disaster, the damage done by the nuclear power plants has not recovered and 43,000 evacuees are still left behind. Moreover, despite the fact that people all over the world have suffered immensely due to the pandemic, the IOC, the Japanese government, and the Tokyo Metropolitan Government have arrogantly declared “We will hold the Olympics as a proof that humanity has defeated Coronavirus” and refused to change course. Their behavior, which seeks to obscure a serious reality, threatens people’s survival. Whether it’s an international public health emergency, chaos brought on by climate change, food crises, natural disasters, dictatorship, crackdowns on ethnic or indigenous minorities, financial collapse, refugee emergencies, or nuclear disaster, the Olympics will still come. The spectacle will induce us to forget about most any global tragedy, and the “Peace Festival” will be used as a device to advance the sweet dreams of nationalism, inevitably awarding a gold medal to violence. One symbol of that nationalistic violence can be seen in the 1936 Berlin Games held in Nazi Germany, which were carried out in an environment of violent suppression. Artists, freethinkers, and disabled people were eliminated from society. Despite this situation, the international community sent teams of athletes and celebrated their participation. The subsequent Games, to be held in 1940, were originally slated to be hosted by Japan. However, the outbreak of the Japanese Empire’s aggressive war in China forced a change in plans. After the destruction of World War II, Tokyo was selected to host the 1964 Olympics to celebrate Japan’s post-war reconstruction and transformation (yes, reconstruction is always a potent symbol in this country). From the 1960s up to the 1970s, Japan experienced a period of unprecedented economic growth. As such, this period still evokes nostalgia for many Japanese people for bringing about huge improvements in living standards. However, these improvements also had a dark side; the explosion of Japan’s consumer-based economy caused pollution and environmental destruction, carved up cities for redevelopment and gentrification, and deprived citizens of interest in politics and world affairs. Therefore, this period helped to usher in a new era of dystopia in Japan. The Paralympic Games were held for the first time at the 1964 Tokyo Games and were conceived as an opportunity for the rehabilitation of war-wounded soldiers. Therefore, it is deceptive to incorporate these Games into the Olympic events in the name of peace. During the Paralympic events, athletes are often selected from one of three groups: privileged individuals with access to expensive physical aids, “ambitious disabled people,” and icons that are exploited and consumed as “state-of-the-art super humans.” Thus, in this way, disabled people are sorted by their perceived usefulness. It is not just people with disabilities who are exploited this way. Colonized indigenous communities, Black people, ethnic minorities, refugee teams, and women are also cynically included. The Olympic Games do nothing to eliminate the structures of discrimination against these groups. Once the fanfare has finished, they silently return to their previously marginalized positions in society. Their identities are consumed as heroic symbols during the festivities of the Games, used as material for the beautiful and fictional narrative of diversity, or merely as entertainment. Let’s stop TOKYO 2020 as the first step to end the epidemic of the Olympic Games that afflicts the entire world. Don’t be fooled by the power of the huge system. Let us wake up from this hallucination of fever. We must have the imagination for that. We believe that only art can stop the breath of the Olympics. We declare the end of the Olympic Games any number of times. 6. Feb. 2021 Tokyo Artists against the Olympic games
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2020zaji · 3 years
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リハビリ|入力と出力の間(32)
 あと数日で今年度も終わりである。今度の木曜からは4月。新年度の始まりだ。コロナ禍で在外研究計画が泡と消えたサバティカル期間も終了し、大学での(オンラインが主だが)授業や業務も再始動する。発病から入院中の時期までを振り返ったこの備忘録も、週1ペースでのアップは今回で最後。今後は月1ペースで退院後のリハビリ生活や折々の症状の変化について記録していこうと思っている。
 週1ペースを締めくくる今回は、わたしが入院していた時の家人のことを振り返っておきたい。
 急性期に入院中、脳が腫れて緊急手術になった際、父母と弟、連れ合いが皆、駆けつけてきてくれたことは記した。映画以外では泣いたことなど見たこともない弟が、後ろを向いて涙を拭っているのをストレッチャーで運ばれながら見た時は「弟が泣いてるよ〜」とびっくりした。弟の方は弟のほうで、「俺が泣いてるのを見たら、姉ちゃん、『自分は死ぬのかも』って不安になったかもしれない」と、焦っていたという。
 大丈夫だ、弟よ。あの時は、脳がぱんぱんに腫れていたから、不安も感じなかった。「めずらしー、泣いているよ」と思っただけ。普段のビビりのわたしなら、弟が心配した通り激しく動揺したはずなのだが、腫れた脳はわたしに不安を感じさせなかった。『奇跡の脳』のジル・ボルト・テイラーが指摘したように、これも一種の脳の防衛反応だったのだろう。
 料理人である弟が、回復期リハビリテーション病院にお手製カレーを持ってきてくれたことは記したが、急性期の病院にいる時にも豪華海鮮丼やお手製ふりかけやらを差し入れしてくれた。学生時代は剣道で全国大会に出場していたゴツい強面なのだが、実はおしゃべり好きで気が優しいのである。
 いまは家の中でもヨチヨチ歩きになってしまっている父が、当時はまだなんとか電車に乗って歩けていたことも思い出す。父の足元の変化に、あれから4年近くが経つのだと時の流れを実感する。あの頃は、母と一緒に回復期リハビリテーションの下見までしてくれたのだった。
 若い頃は人一倍好奇心旺盛なエンジニアで、自分の発明した商品に入れ込むあまり、経営していた工場を倒産させ、わたしたち一家が揃って夜逃げする原因をつくった思い込みの激しい父だが、昔から家族に対する愛情は暑苦しいほどだった。退院後には一時期、わたしと父は補助器具なしの状態でどっちが歩くのが「遅いか」自慢しあった。その後、歩くスピードはわたしのほうが断然早くなったが、父にもサポートカート(歩行を補助しながら買い物に行けるショッピング・カート)という強い味方が出来て、コロナ禍のいまも週に数回は足腰のために近所のコンビニに「遠征」している。
 わたしが幼い頃は、そんな父のワガママぶりにも夫唱婦随でいた母だが、夜逃げの際に一家心中を口にする夫を叱咤激励したあたりから、時に猛然と強さを発揮し始めたような気がする(見た目は変わらずおっとりだが)。いまどき「良妻賢母」というのはフェミニズム的には問題のある規範的な言葉かもしれないが、わたしにとっての母はまさに「良妻賢母」のアイドル的存在。いまも自宅で年金の足しにと着物の着付けをしつつ、お客さんたちとも和気藹々、一緒にお茶会などに出かけるコミュ力の高さを発揮している。80歳を過ぎてもキビキビ元気に父と弟のいる実家の家事を取り仕切ってくれているのだから有り難い。チャレンジ精神旺盛で根気もあるから、スマホのLINEも出来るようになったし、アマゾンのタブレットでネット・ショッピングもしている。大したものである。
 母は、わたしの入院中も頻繁にお見舞いに来てくれた。同じくお見舞いに来てくれたチロリちゃんと病室で何度か顔を合わせたこともあった。チロリちゃんは、娘さんの七五三や自身の講演などの際に母に着付けを頼んでくれたこともある。チロリちゃんの娘さんはわたしの母のことを「着物の先生」と呼んでくれている。そのチロリちゃんが、「ザジちゃんのお母さん、優しくて綺麗で羨ましい」などと褒めてくれ、わたしも母も「いやいや、そんなあ」と形だけ謙遜しつつ、内心大いに嬉しがっていた。
 とまあ、ここまであけすけに書くほどに、わたしは自分がマザコンだと自覚しているが、それをあらためて感じたのが、お見舞いで一緒になった母とチロリちゃんが帰る時。二人が「じゃあね」「またね」と一緒にエレベーターに乗り込みつつ、チロリちゃんが「ザジちゃんのお母さんと一緒に帰れて嬉しいです」というのを聞いて、それはわたしに対するリップサービスでもあったろうに、「わたしのお母さんなのに〜」と思ってしまったのだ。3歳児でもあるまいに。「お母さんが取られちゃう〜」みたいな心の反応が起きたのである。50代のリッパな中年が、なんとも恥ずかしい。
 いや、しかし絹さんと娘さん二人のやりとりを思い出せば、リッパな中年であっても、兄弟姉妹間であっても、「母の愛情」をめぐって嫉妬が起こるのは、存外フツーのことなのかもしれない。
 そして、連れ合いについて。かれこれ15年近く一緒にいるが、今回の入院で普段は気付けない良いところをいろいろ発見することになった。急性期の入院中には、ほとんど毎日お見舞いに来てくれ、回復期の病院に転院してからも週に1−2度は顔を見せに来てくれた。実家に連れて行けば、食事の合間に食卓でスマホをいじる傍若無人さで、わたしを真っ青にさせた御仁なのだが、今回は感心した。なんというか、実に淡々と当たり前のように病院に足を運んでくれたのである。「お見舞いに来たよ!」という賑々しさがない。同業者だから、彼の仕事の大変さは理解できる。仕事の合間に、平日も休日もお見舞いに来るのは大変だったはずなのだが、「忙しい」とか「しんどい」という素振りや言葉は一切なかった。「この人、エライなあ」と尊敬したものだ。
 ちなみに、この備忘録のことは、気恥ずかしくて家人には言っていない。
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nyantria · 4 years
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2020.1.26~27にかけての深夜、急性カフェイン中毒でのワンチャンを狙ってカフェイン錠を80錠、ハイボール缶でOD(���ちのち致死量の倍だと知る。)本当は200錠の予定だったが、買いだめている最中に希死念慮が強くなってしまい、確実に死ねるかはわからなかったが120~140錠飲むことにする。しかし気分が悪くなって喉が受け付けなくなり80でしか飲めなかった(錠剤もでかかったし)。
ところでまわりに高いマンションもない一軒家住みなので突発的に飛び降りはしなかったが、以前諸事情で月の半分くらいを過ごしていた単身の20階建てマンションに今もまだすんでいたら、飛び降りていたかもしれない(14階くらいに住んでいたし)。
80錠のんでぼーっとしてムカムカしてくる。わたしここで死ねないことを悟り親を起こす。服薬から1時間~1時間半経って救急車に乗る、心拍数などはわからないが若干胸がドキドキする、ここで吐き気と嘔吐(夕飯のぶん)。
服薬2時間くらいで病院に到着、嘔吐がとまらず、内容物は薬と血のみ(食べたものは全てもうでた)。インフルエンザのひどいときみたいな吐き気と嘔吐が2時間半後くらいからずっと続く、意識が朦朧としてきて、死ねなさげなのにいたらずらに苦しくて後悔してくる。2時間~2時間半後にかけて先生や看護師さんに質問されるが返せない。2~3時間後から嘔吐をする際に自分の意思で袋にはいたりできなくなりそのへんに吐き散らかす(看護師さんごめん)。
視界がぐらぐらしてブラックアウトする。意識の覚醒と消失を繰り返す(薬が抜ける数日後までこれが続く)。
筋肉の硬直が始まり自分で動けなくなる。わたしの場合は右半身が固まり眼球も右のほうしか向かなくなる。まばたきができなくなり白目を向きながら嘔吐を繰り返す。
3~4時間後から体が完全に固まり、寝たりたったりができず座ったまま硬直する(イメージは重度の脳性まひの人のかたまり方)(指摘をいただいたので訂正します)。思考はまだ動いているので予想以上の後遺症の可能性に怯える。周囲の様子や質問はほぼわからない。
ここでトイレに行きたくなり看護師さんと母に抱えられて行く。体がまっすぐ硬直しているのでズボンと下着は脱げず、脱がしてもらう。排尿の際に筋肉が動いてないのか5~10分かけて垂れ流しのような状態。わたしは女性ですが、ここでおりものが茶色くなる。(もし男性が見ていたときのための補足ですが、おりものは膣からの分泌物で、基本的にはさらさらと白かったり黄色かったりします)
ここからあまり記憶がないがそのまま6~8時間経つ。場所や時間がわからずうわ言を繰り返す。苦痛から気をそらそうと看護師さんたちがわたしの赤い髪やネイルを誉めてくれるが、なにも返せない。
カリウム?などの値が異常になり、一般的な総合病院から死にかけの人間が運ばれるデカイ救急の総合病院(病院からの紹介状がないと入れない、一般的な外来のないところ)に搬送が決まる(おそらく服用から10時間後くらい)。
看護師さんに「もうすぐ迎えがくるからね」と励まされるが、わけがもうわからないので、「死神………………?うれ……しい……」と途切れ途切れに返して「ちがうよ!」と言われてしまう。
全身の硬直、過度の痙攣、暴れがある。暴れているため体を拘束具で拘束される。わけがわからず救急車に乗せられ瞳孔確認されるが眩しいと思えない。
服用から12時間くらいでその病院に着き、尿道にカテーテルをいれられオムツをさせられたりレントゲンとられたりするが恥ずかしいという感情も体のうごきもない。自力で体が動かせないため、レントゲンをとるのも一苦労。3人かかり。
体温計で体温をとられるが、体温計が何なのか理解できず、「なんでこんなもの脇に挟むの?」と真剣に疑問に思う。また、「みんななんでか白い服で不思議だなあ。おそろいなのかな」とも思う。ダメージを得て、知能が著しく下がり始める。
太い動脈に点滴とか採血とか数種類の管をつけられるが痛みもなく、視界が白黒になる。この場所がどこかもわからないがなぜか頭の中で好きなバンドである神聖かまってちゃんが流れ始める。なぜか暗い曲ではなく『彼女は太陽のエンジェル』だった。
嘔吐、吐血、硬直、痙攣が続く。尿は白くて、なんか栄養が全くなさそう(血尿はなぜかなかった)。
とにかく苦しい殺してくれ以外の感情が消え、場所はおろか昼夜の感覚もなく、目の前の人間の性別の区別もあまりつかないし年齢もわからない。
頭の中で音楽とフィクションの映像がとまらなくなる。
胃と食道なども傷つけて血しか吐けなくなる。よくわからないので自分が吐いているという感覚すらなくなり、全身の硬直と痙攣のせいでずっと噛み続けていた口の中と顎が非常に痛くなる。支離滅裂なうわ言しかつぶやけなくなる。
ここから水分を飲むことを禁止され点滴に頼るしかないが水分禁止すら理解できず看護師さんに対して怒りをあらわに暴れだす。体をふたたび拘束具で拘束される。
涙と唾液がとまらなくなる。支離滅裂なうわごととなんだかすごい脳内妄想で無敵感を得はじめる。そこからほぼ意識ないが眠っているのではなく意識レベル低下(おそらく嘔吐、吐血、硬直、痙攣、たまの暴れが続く)。 
服用後1日経つか経たないかくらいで氷水によるうがいを許可される。その頃には暴れがおさまり、自分の水分禁止を理解できはじめるので、飲まないように懸命にうがいをする。が、吐き出すためのトレーには手が届かず、ベッドの上に吐き散らしてしまうことを繰り返す。全身の激しい痛みにより、寝返りはおろか、手を動かすこともできない。看護師さんが忙しいためなかなか口に氷水をいれてくれず泣いたりする。このとき看護師さんに対して怒りより悲しみをなぜか覚える。
意識の消失と覚醒を繰り返し、脳内妄想、えずき(血もでなくなる)、被殺害願望の抱きを得る。
えずく元気もなくなりベッドで死んだように突っ伏す。
時折体勢を変えようと看護師さんが動かしてくれるが、仰向けになるだけで痛みのあまり手が硬直して天井を向き、勝手に「ア~~~!!」と叫んでしまう。
時間、場所、自己存在すべての感覚を失い、本能がわずかに残るのみの感覚。自覚はないがまだ激しい痙攣があり(恐らく)、母音のみの大きな声をずっとあげている。「アー!アー!アー!」を繰り返していて看護師さんに「頑張って静かにしようね」と言われるが、好きでしているわけじゃないのでできない。
とにかく水が飲みたい以外の感情がない。おそらく1日半くらい経ち毒素が抜け始めたのか苦しみを明確に得る。「こんなに苦しいなら殺してくれ」と看護師さんに懇願する。硬直はとけるが激しい痙攣と大声、妄想、えずきがとまらない。
とにかく死より後遺症が恐くてたまらなかったので、自分がまだ文字を読めるかを必死に考えて、ベッドの柵に書いてある「警告 サイドレールをベッドの内側から操作しないでください。サイドレールが急に下がり、転落し、けがをするおそれがあります」という文章を(覚えちゃいました)ずっと目で追って、まだ読める、まだ読める、と必死になっていた。 
(恐らく)医師に「最近恋人と別れたとかない?」と聞かれるが、言葉にならないが「そんなわかりやすい理由なら苦労してね~~~!!」とキレそうになる。(恋人と別れて死ぬ人もいるし辛さは人それぞれだからそれは否定しませんが、そのときは「は!?」となってしまいました)
その後強制的に眠らされる(透析の可能性も浮上)。
2日後~徐々によくなる、まずは妄想が消え、つぎに痙攣の過小化、吐き気の沈静化、自分のおかれている状況の理解。ベッドが少しずつ入り口に近づいていく。
看護師さんの名前が読めるようになる(発音はまだできない)。
時々激しい痙攣のぶり返し、涙、よだれ、また力の加減がまだできず人の手を怪我させてしまう。
筋肉痛の100倍みたいな全身の痛みに気づく。「はやく退院したい」と思う。
少しずつ話せるようになってくるが語彙選びや声量の調整はうまくできず、また吃音の発生。例えば看護師さんに「母は来ましたか?」と尋ねたくても「ウーッウーッ、マ、マ、マ、ママ、ママ、かんごしさん、ママ、」としか言えない状況。
点滴の量が減り料理がだされるが、薄い味噌汁を数口とお水を数口、牛乳1口が限界ですぐに吐きそうになる。
きつい後遺症を覚悟する。
時計の読み方がわからない。それが時間を示すものなのはわかるが、読み方はわからない。なのに自分が排卵期であることは把握できていて、オムツが濡れたときに「は、は、はいらんだから、血が、かも、」と伝える。が、血尿はないが子宮から出血。膣から生理2日目くらい出血があるが生理ではなく、女性にしか伝わらないだろうが、なんか感覚がちがう。内壁が剥がれたとかではなくダイレクトに血管から出ている気がする。
ODしたときの記憶がフラッシュバックし吐き気を催す。
だんだん昼夜の感覚が戻り、人の性別、名前、おおよその年齢、部屋の構造の把握などができるようになってくる。空のえずきが続き、歯磨きをしてもらうが匂いでまたえずいてしまう。楽しみにしていたぺこぱの番組見れんかったなとか考え始める(ここらへんから妄想より現実世界の把握が主になる)。
日付が気になり始める。
後悔が半端なくなり、理性的な涙を流すようになり、心の中で看護師さんの名前を呼びながら謝罪を続けるが声にはならない。あと家族に面会時間がある当たり前のことをようやく理解できるようになる。痙攣が下半身のみになり、腕はベッドの柵を掴んで歯を食い縛る。うがい用紙コップに書いてあった、Comfortableという文字が読めるか必死に考える。意味はわからないが綴りは何となく読めて、意味を理解してないことは理解できていて少し安心する。
その頃には硬直はほぼなく、柔らかい白米を一口だけ食べられるようになる。人工的な味を嫌い、母にローソンで買ってきてもらったりんごゼリーのりんごを一齧り、みかんゼリーの小さなみかんを2つ食べる。
看護師さんにリハビリの話をされるが返事はあまりできず。
1日が24時間なら時計は24表記にすべきだと真剣に考えるようになり、その場合の針の刻み方を考案し始める。「それを看護師さんに伝えなくちゃ!時計は24にすべきです!わたしが作ります!」という頭のおかしいことを真剣に訴えようとする。
だんだん痙攣が小さくなり、時折の体の硬直を除けば、一般的なくらいの痙攣になるが、痙攣のせいで点滴が抜けたり毛布に血が飛び散ったりするがまだ気にかけることができない。またずっと続いていた痙攣のせいで足の小指の爪がとれる。
えずきが時折になる。未来を考え始める。
2日かけて吐き気と嘔吐がおさまったため、全身の激しい痛みとの戦いになる。苦しいのはわかっていたが、あんなに痛いと思ってはいなかった。激しく運動したあとの筋肉痛の100倍のやつが頭皮から爪先までを支配している。メチャクチャ痛いです。人生で一番痛い。
精神科の先生に精神病棟に入院するか聞かれるが断固拒否する。 
2日半かかり痙攣が僅かになり吐き気の消失、髪と下半身洗いたいな……などを考える余裕ができる。ベッドの周囲を見渡す余裕ができ、髪が激しく抜けていることに気づく。髪ゴムはあったが髪のくくり方が思い出せなくなる。
2日半後にゼリーと汁物を半分くらいなら食べられるようになるが、腕が二倍くらいに腫れ上がっていることに気付く。看護師さんを名前で呼んだり、看護師さんによる採血の結果の数値の説明の理解などが少しずつできるようになってくる。
ストローを使って氷水が自力で飲めるようになり、風呂に入ったりトイレいったりしたいなと思うようになる。先生と看護師さんに「生きるためにがんばれ」と言われそれに素直に応じるようになる。また看護師さんの世間話に「うん」「はい」と相づちを打てるようになる。
かなり頑張ってだが、ゼリーのみかんを8割食べられるようになる。
音を消したテレビを眺め内容をおおむね理解できるようになる。林先生と伊沢さんが出ていた。おいしい唐揚げを作る裏技をしていたので、あとで母に教えてあげようと思ってメチャクチャ真剣に見ていた。
全身の痛みは消えないが痛み以外の症状はほぼなくなる。
まだ知能はおかしく、50÷25の計算をするのに何分もかかる。その一方で、暗記した覚え��ない『失恋ショコラティエ』の1巻1ページ目から頭のなかで読み返すことができた。おそらく脳の働く部位が極端におかしくなっていたのだと思う。
服薬から約3日後、昼夜を完璧に把握できるようになり、看護師さんたちに謝罪できるようになり、退院を逆に不安がるようになる。
服薬から3日後~自分で簡単なベッドの操作をしたり寝返りを打ったり声を出して看護師さんを呼んだりできるようになる。
オムツははめたままだがおしっこの管を抜き、点滴を抜き、ふやふやの野菜と豆腐と牛乳なら8割食べられるようになる。
人の手を借りて歩く練習、トイレに行き自力で排泄、時間はかかるがふくこともできるようになる。
痛みと声以外の症状はなくなり、飛び降りした向かいのベッドの別患者の心配をするようになる。
1/29、服薬から3日半くらい、きょう退院しましょうと言われる(重体重傷の人が運ばれる場所っぽいので、命の危機だけは脱したことが伺える)。退院は不安だがそれに従う。
人の手を借りて、なおかつ十メートルごとに休めば歩けるようになり、ああ血がでてるからナプキン買わないとなあとか考えられるようになる。
寝苦しさはあるので、病院では意識の混濁時以外はほぼ寝られず(カフェインだしね)。途切れ途切れだが家族に謝罪できるようになる。
自力着替えは無理だが前開きのものなら自力で着られ、疑問を先生や看護師さんに聞けるようになる。うっすいコンソメスープを濃いなと感じる。
1/29の14時頃退院、自力歩行はできないが、介助を得ればトイレでの排泄、歩行、立ったり座ったり、身の回りのことができるようになる。
生きなきゃなと思い、帰りの車でTwitterの心配をする。
15時頃、10mくらいならふらふらだが自力歩行ができ、トイレでの排泄やナプキンの交換も自力でできるようになる。処理もできるが、拭くだけで数分がかかる。
全身の激しい痛みとうめき声は相変わらずだが、15時頃~自宅ベッドで汁物を進んで摂取し、LINEやTwitterにアクセスする。思考と打つのに普段の10倍くらいかかるが、多少の誤字脱字のみとなる。
ようやく少し眠れる。
1/29(服薬から3日半すこし)、全身の痛み(少しまし)、うめき声はあるが、汁物を接種するなど食欲が少しずつ甦り、日常に戻りつつある。風呂などはまだ不可能。
以上が退院までの地獄詳細です。方法にもよるけど、これから死ぬみんなはここに引っ越すし、さらにその先に引っ越すので、わたしは「まあ……その勇気あるなら人生どうにかなるやろ」というわたし自身クソ聞きあきた陳腐なことを言いそうになりますが、とにかくやるならガッツしかない。わたしはもう二度としたくないです。
現在も子宮からの出血や全身の痛み、内臓の痛み、麻痺、うめき声、記憶の混濁などがあるので、また回復したらそちらも「地獄から生還したらそっちもまあまあ地獄だったよ編」としてアップします。
https://highb.hatenablog.com/entry/2020/02/03/155423 こちらです
これから先の人生には不安しかないけど、いまは簡単な計算をアプリでやったり文字を書く練習をしたりしています。 
ま、自殺って結局「自分を殺す」わけだからそんな簡単にはいかないですよね。当たり前。
死の否定は難しくても生命の肯定はしていきたいですね。
メンヘラがODで自殺未遂して地獄を見た(地獄編) - 現金満タン、ハイオクで。
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harawata44 · 5 years
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以下引用
 お笑い芸人のエスパー伊東(59)が28日にTBS系で放送された「爆報!THE フライデー」に出演。多発性脳梗塞と診断され、生活保護を受けていたことが明かされた。
 長年、右足股関節を痛めていたエスパー。56歳だった2017年、結婚式の2次会の余興で、いつものようにカバンに入ろうとしたところ、足に激痛が走ったという。その後も、病院には行かず、激痛をこらえながら仕事を続けたが、カバン芸は失敗の連続で、客側からクレームが届くほどに。右変形性股関節症と診断された。カバン芸で股関節を酷使したのが悪化の原因だったという。エスパーは、「早く病院に行けばよかった…」ともどかしい口調で後悔を吐露した。
 ついに人の補助なしでは立ち上がれない状態となり、18年12月に休業を発表。そのころには足や体が不自由なだけではなく、ろれつが回らないなど言語障害も悪化しており、病院で診察を受けたところ、「多発性脳梗塞」と診断されていたことが明かされた。
 19年2月に人工股関節の手術を受け、同4月に多発性脳梗塞の投薬治療を開始したが、収入はゼロ。友人のものまねタレント・ビトタケシによると「今は生活保護です」と説明。生活保護を受けながら入院し、リハビリを続けている姿が放送された。
 最後は、爆笑問題から激励のメッセージ動画を受け取り、「また一緒にライブやりたいな。治して復帰したいです」と懸命に言葉をつむぎだしていた。
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oekata · 6 years
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第11回川崎つながろ会
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12/23日に行われました、川崎市在住の難病患者の方々や、その家族、医療関係者や介護関係者さんたちに至るまで、なるべく多くの方々が集まって情報交換をする「第11回川崎つながろ会」の模様です。
【参加者】高野さん(つながろ会発起人、ALS患者)夫妻、中村さん(高野さん自薦ヘルパー)、川本さん(高野さん友人)、長口さん(高野さん川本さん友人)、綾部さん(土屋訪問介護事業所)、《初参加》小泉善久さん(川崎協同病院 OT、ALS患者遺族)、山岸さん(レインボー川崎・PT)、濱口さん(北部リハビリセンターOT)、岡本さん(中部リハビリセンターOT)、齋藤さん( 鍼灸マッサージ師・三正和治療院)、山岸さん(杉田さんヘルパー・土屋訪問、GH勤務、ホスピタルクラウン)《初参加》小泉明さん(9月にALSと確定診断を受ける)、安達さん夫妻(多系統萎縮症患者)
ーオンライン参加ー 杉田さん(つながろ会発起人・ALS患者)夫妻 小田切さん(ALS患者)
ですっ。
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多系統萎縮症の安達さんが、国立精神・神経医療センター病院にLICトレーナーの導入目的で入院してきたお話がありました。カニューレなしでもLICトレーナーを使うことができた、リハビリも多くでき、首が曲げられるようになった。薬の調整をして、不随意運動が減ったなどなど...。 コミュニケーション支援を利用し、夜勤日勤ともに利用。大部屋でもコミュニケーション支援が使えたようで、個室だったらヘルパーOKとしている病院が多い中、大部屋OKなのは珍しいんだとか。 今回もオンライン参加となった杉田さんは、以前聖マリアンナ病院でコミュニケーション支援を利用した際、H30年以前には個室のみという条件だったので、先日入院した際に特に確認せずに個室を利用したそう。次回コミュニケーション支援を使用したい時は、大部屋でもいいのか確認してみるとのこと...。
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今回、9月にALSと確定診断を受けた小泉さんがつながろ会に初参加されました。 小泉さんはALSと確定診断を受けたにも関わらず、医療費控除の申請をしたが却下されたようで、今は書類確認し審査中なんだとか...。それには高野さんも1年半かかったようです。手が少し不自由ではあるが、まだまだ動けるのでなかなか審査が通らないのでしょうか? 医療費控除受けられないと経済的負担が大きいので、問い合わせてみたほうが良いと...1月から慶応の治験をうけるので、ラジカットもやりたいが同時に受けられないという悩みも。 あとは、今できている車の運転がいつまでできるか?手が不自由な人用の車はないものか?など...運転に関しては、ALSになった人はみな悩むところらしく、しかも運転者には身体の状態の告知義務があり、事故を起こしても保険が適応にならない場合があるので、保険会社に告知したほうがいいと。 車の免許は更新時には必ず告知が必要で、運転補助装置などがあるが、免許センターでそれを使用する免許などの手続きがあるなど。
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オンライン初参加の小田切さんにも近況報告を。 接続状態のせいか、ちょっと声が小さくて聞きとり辛かったので、皆さん必死に聞き耳を立てています(笑)
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小田切さんは先週入院したが、コミュニケーション支援の申請が間に合わず利用できなかったと...。 入院前に、事前に移乗や排痰方法などの動画を作成して持って行ったそうです。GoPROをヘルパーの首から下げて普段のヘルパーさんがどのようにやっているのかを撮影。実際のその映像をみんなで見させてもらいましたが、それがとてもリアルでわかりやすかったと大好評でした。
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ここで、毎回恒例の笑顔タイムです(笑)
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最後に、高野さんが作ってきてくれた今後のつながろ会の運営についての目標を書いた紙を配って、みんなで共有を。 FB開設、サイト立ち上げ、公的支援コンタクトリスト作成、サービス事業者リストの作成や、会員制度にしてもっとつながろ会を広げていくなど。 やりたいことはまだまだ尽きないのであります!
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最後に記念撮影。 中央のパソコン画面には、杉田さん夫妻と小田切さんもちゃんといますよ〜
川崎つながろ会の今後の開催予定。 第12回:1/20(日)@麻生市民館(新百合ヶ丘) 第13回:2/10(日)@てくのかわさき(溝の口) 興味のある方はつながろ会関係者にご連絡を!
2018.12.23 PHOTO+文 : コサカシンタロウ
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