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#安城カウンセリング
tanakaeri · 9 months
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11月12日安城ルーム開設の柴田桃子カウンセラー
心理カウンセリングルーム開設 この度、11月12日(予定)くれたけ心理相談室事務局長でもあり、安城支部のカウンセラーである柴田桃子カウンセラーがカウンセリングルームを開設されることになりました。 事務局長としてのご活動 柴田桃子カウンセラーはくれたけ心理相談室カウンセラーとしての活動を長年様々なご相談内容を承り、クライエント様へ真摯に向き合われ、この度念願のカウンセリングルーム開設となられました。 私達、くれたけ心理相談室のカウンセラーは、事務局長を務めてくださっている桃子カウンセラーにどれほどのアドバイスや安心感を与えていただいたか分かりません。 これまでのご経験された中でのお気持ちは、私達には一部でしか計り知れません。ですが、これまでくれたけ心理相談室カウンセラー一同を支えて下さっている桃子カウンセラーが日々綴られるブログの中からは深く揺るぎない強さ、暖かい感情や心が落ち着…
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takeuchiyoshihiro · 1 year
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#家族療法カウンセリング (#親子カウンセリング ) #安城市 の#心理カウンセリング  #柴田桃子 家族には、さまざまな形があります。 家族だから反発してしまったり 家族だから素直になれなかったり 家族だから… 悩みは、個人だけではなく、家族1人1人がそれぞれの思いを抱え、家族全体で悩んでいる場合もあります。 ここでは、家族療法(親子カウンセリング)についてご案内致します。 時間と料金 個人カウンセリング(90分) ご希望のカフェ等で 11,000円 (税込) 親子カウンセリング(120分) ※状況によって複数での対応も可能です 16,500円 (税込) ※上記利用価格は2名様の料金です。人数の追加の際は、おひとりにつきお時間+30分で、5,500円(税込)追加料金を頂戴いたします。 例:親子3人で150分の場合 22,000円(税込) 親子カウンセリングの流れ ①まずはお2人に、親子カウンセリングの概要についてご説明いたします。 ②その後、お1人ずつのカウンセリング(30~45分)を行います。(その間、もう1人の方は別の場所でお待ちいただきます) ③最後にお2人ご一緒でのカウンセリングをさせていただきます。 ※決して、一方の肩をもつようなことはございません。それぞれの状況やお気持ちなどを受け止めた上で、カウンセリングを進めさせていただきます。 家族療法とは 個人はもとより、その個人を取り巻く家族関係や家族全体を対象として行うカウンセリングです。 家族全体や親子で問題の事柄を話し合ったり、家族自身の力で問題解決していくことを援助する心理療法です。 例えば… 父親、母親、子どもの3人が、「子どもの問題」を相談するためにカウンセリングを受けた場合。 ※何か問題をおこしているクライエントを「IP(identified patient)」と言います。 ここでのIPは、問題を表している子どもになります。その子どもを取り巻く父親と母親も対象となり、家族全体の問題として捉え、IPを取り巻く環境にも注意を向けていきます。 家族療法の方法 家族全員を対象としてカウンセリングを行います。 カウンセリングを受ける方や人数は様々で、子どもと母親、子ども達と両親、子どもや両親のみの場合もございます。 問題行動を起こすのには、何か必ず理由があります。 なぜ、問題行動を起こすのか 家族がそれぞれ抱えているものは何なのか 家族全員で問題を解決する為にはどうしたらよいのか 様々なことを、カウンセラーも含め家族全体で話し合い、解決のための方法を一緒に見つけていきます。 ※必ずしも、家族全員がそろってカウンセリングを受けなければならないわけではありません。 IP��問題を表しているクライエント)が、カウンセリングを拒否している場合は、まずは、その家族の中のお一人でもカウンセリングを受けることによって変化をしていく場合もございます。 家族療法の効果 ■家族だけだと難しかった話し合いが、カウンセラーがサポートすることによって、進みやすくなります。 ■家族1人1人の思いをしっかりと聴かせていただきます。抱えているものを吐き出せる場となります。思いも伝えられます。 ■家族で話し合うことで、それぞれの思いや考えを知り、今まで気づかなかった部分に気づいたり、見えていなかったものが見えてきたりすることがあります。そこから、お互いに対する思いに変化が表れてきます。 ■家族全体で理解を深めていくことで、解決方法が見つけやすくなったり、行動につなげやすくなります。 (愛知【くれたけ心理相談室】) https://www.instagram.com/p/CoPi-0-utxT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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hiromiaoyagi · 5 months
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ランチ会【西三河-安城市】に参加してきました
くれたけ心理相談室では、各地でランチ会を開催しています。今回は愛知県安城市での開催でした。今回も、一般の方にご参加いただけて、貴重な出会いのあった会となりました。 ・カウンセラーと話してみたい・心理のことに興味がある・カウンセリングについて聞いてみたい・その他、気軽におしゃべりをしてみたい など どなた様でもご参加いただける会となっております。 話題はその時により、お話したいことや最近興味を持っていることなど、様々で、少しでも心が緩んだり、新たな発見などお持ち帰りいただける機会になれば幸いでございます。 ※来月2月には、知多市にてランチ会が開催されます。 くれたけの各種イベントのご案内はこちらから
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momoko-shibata · 1 year
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takeya-tobanyoku · 1 year
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⚘ 潜在意識って気にしたことありますか? 最新の医療では、 自分が受けたストレスを表現しないでいると、 体が表現をするようになる、 それが症状である、 と言われるようになってきました。 自覚できているストレスは発散しやすいのですが、 「これくらいみんな我慢しているし」 「私がここで文句言う方がむしろ理不尽だし」 「言っても何も変わらないし」 常識や、正義感、優しさ、我慢強さなどによって、 ストレスを上手に感知出来ていいない人も たくさんいるのです。 気付けていなくても、 潜在意識はそのストレスをしっかり感じて、 表現してくれているのです…症状として(¯―¯٥) あなたの症状は潜在意識からのメッセージかもしれません。 自覚しえない潜在意識のストレスとどう向き合うのか? ひとりで向き合えるのなら良いのですが、 向き不向きもあります。 専門家のカウンセリングもお勧めです。 気になる方はスタッフまでお声かけ下さいˊᗜˋ 潜在意識が気になる方は 𓇼2/17(Fri)11:00- QX-SCIO測定&カウンセリング ご自身の潜在意識を診て貰うのはお勧めです。 𓇼2/18(Sat)10:00- 「足から読み解く潜在意識”チャクラと足の話”」 自分で気付くヒントを得るのも良いですね。 体も心も楽になる、健康情報を発信中٩(ˊᗜˋ*)و♡ 竹屋陶板浴の様子はコチラ ▹▹▹ @takeya.tby - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 𓅯 ⚑⚐⚑ 𝕡𝕚𝕔𝕜 𝕠𝕦𝕥 ⚐⚑⚐ 2月17日はホメオパシーセンター牛久の 坪井郁恵さんがいらして、 午前にホメオパシー初心者講座を、 午後には秘密兵器QXでカウンセリングを、 して下さいます٩(ˊᗜˋ*)و✨ \ ホメオパシーぷち講座 / 2月17日(金)10:00- 参加費:300円 ホメオパシーとは、私達の自己治癒能力を活かすセルフケアの一つです。 同種療法のしくみと使い方や植物の恩恵たっぷりマザーチンクチャーについて、お話します。 \ QX-SCIO測定&カウンセリング / 波動測定器QX-SCIOで、あなたの持つ周波数を測定し、その内容をもとにカウンセリングを行います。 身体の弱い部分だけでなく、潜在意識の状態をチェックしながらお話します。ご希望の方は占いや前世、チャクラの状態を見ることもできます。 𝟙 11:00- 𝟚 12:00- 𝟛 14:00- 𝟜 15:00- 𝟝 16:00- 60分 11.000円 #ホメオパシー #同種療法 #マザーチンクチャー #QX #波動 #周波数 #潜在意識 #内海式 #前世 #チャクラ - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 𓅯 今日から2月! #初春の整え月間 開催中⚘ 今日は節分ですね。 大豆を用意し忘れたので、 我が家は安部農園さんの減農薬落花生で代用予定(¯―¯٥) 明日は 細胞喜ぶ呼吸法ワークショップ✨ 2/4(Sat)13:00- \3.000 まだまだ参加受け入れ可能です 𝕠𝕜⚐” 最近なんとなく不調だな、という方、 お電話,DM,コメントでご連絡下さい☺ - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 𓅯 ≪2月のスケジュール👹≫ 4日(土)細胞喜ぶ呼吸法WS𓇼 5日(日)毛細血管刺激療法𓇼 6日(月)足もみ若石𓇼 7日(火)玄米お握り販売 8日(水)足もみ若石𓇼 8日(水)ファスティングセミナー♡𓇼 9日(木)ストレッチ&フラダンス♡ 11日(土)味噌作り教室♡ 11日(土)「歯と電磁波」zoom上映♡𓇼 12日(日)頭皮もみ𓇼𓁙 13日(月)内臓整体𓇼𓁙 14日(火)メタトロン𓇼 14日(火)玄米お握り販売 15日(水)足もみ若石𓇼 15日(水)氣功𓇼 16日(木)ストレッチ&フラダンス♡ 17日(金)ホメオパシーぷち講座𓇼 17日(金)QX-SCIO測定体験会𓇼 18日(土)「足から読み解く潜在意識”チャクラと足の話”」♡𓇼 18日(土)メタトロン𓇼 19日(日)頭皮もみ𓇼𓁙 20日(月)足もみ若石𓇼 20日(月)笑いヨガ♡𓇼 21日(火)椅子ヨガ ♡𓇼 21日(火)玄米お握り販売 22日(水)足もみ若石𓇼 23日(木)ストレッチ&フラダンス♡ 23日(木)腸もみ𓇼𓁙 23日(木)「脳を育てる!発達へのアプローチ講座」𓇼 25日(土)バリニーズマッサージ𓇼 26日(日)毛細血管刺激療法𓇼 27日(月)足もみ若石𓇼 28日(火)腱引き𓇼 28日(火)玄米お握り販売 29日(水)足もみ若石𓇼 ♡:参加費無料 𓇼:整え会 𓁙 :キャンセル待ち - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 𓅯 竹屋陶板浴 @takeya.tby 𓅨 茨城県龍ケ崎市栄町4356 ℡ 0297-64-3726 営業時間 6:00-20:00 利用料金 ¥1.200- #竹屋陶板浴 #陶板浴 #温熱 #温活 #龍ケ崎市 (株式会社 竹屋陶板浴) https://www.instagram.com/p/CoMJ7chyHJH/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mark311text · 5 years
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mark=311
私は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)出身です。
今日は2011年から7年。2018年3月11日、午後2時46分から1分間の黙祷を終えたところです。
2011年3月11日
私は中学2年生で、卒業式の予行練習で午前授業だった。お昼過ぎには家に帰って、両親の部屋でテレビを見ていた。高校生だった兄も帰宅していて、家には私と兄と猫の太郎がいた。
こたつに入って横になっていると、突然、「ゴーーーー」というものすごい音がした。長かった。びっくりして固まっていると、次は激しい地震がおこった。体がゆさぶられるような揺れだった。太郎は驚いてこたつの中にとびこんだ。見ていたテレビが倒れ、画面が割れ、ここにいては危ないと思った私は、ベッドの上にあがり、上になにもない部屋のすみに避難した。クローゼットの扉は全開になり、中の荷物が全て床に落ちた。お母さんが使っていた、普段はうごかせないほど重いドレッサーも、揺れに合わせて生き物のようにズ、ズ、と前に動いていた。ガタガタと揺れる音や、ガシャーンと1階の台所からか食器の割れるような音が聞こえ、すごく怖かった。揺れはなかなか収まらず、もしかしてこのままずっと揺れているんじゃないかと怖くなり、耳をふさぎながら「あーあー!」と大きな声で叫んでやりすごした。
しばらくして揺れがおさまったので、自分の部屋に戻ろうとすると、ふた間続きになっている手前の兄の部屋は、タンスの引き出しや勉強机の上にあったものが全て落ち、足の踏み場がなくなっていた。地層みたいだった。物を���みながら奥の自分の部屋に行くと、そこも同じように物の海になっていた。
兄に「とりあえずお父さんのところに行こう( お父さんは家の近くの公民館職員)。」と言われ、部活で使っていたエナメルバッグに持ち出せそうなものを入れ、ラックの上にひっかかっていた薄手の黒いジャンパーを着た。
もしかしたら役に立つかもしれないとお母さんドレッサーの引き出しに入っていた、カード会社や保険会社からの郵便物もカバンに入れた。無意識だったけど、もう家に戻ってこられないかもしれないと思ったのかもしれない。
兄が「避難所では猫の食べるようなものはもらえないと思う」と言うので太郎のご飯が入ったタッパーも鞄に入れた。太郎が怖がってこたつの中から出てこなかったので、兄に頼んで無理やり引っ張り出してもらった。このとき、兄は膝を悪くしていて、無理をすると膝の皿がずれてしまう状態だった。太郎を無理にだしたので膝が痛んだようで、少し休憩してから家をでた。その間も何回か揺れがきていて、家の壁には亀裂が入っていた。
外にでると、道路はでこぼこになっていて、マンホールからは水が溢れていた。家や電柱は傾いて、いつもの景色がゆがんでいるようだった。私たちと同じように、みんな近くの避難所へ移動しようとしている様子で、公民館に向かった。公民館のグラウンドでは小さい子たちが楽しそうに遊んでいた。状況がよくわかっておらず、興奮しているようだった。
公民館の中で誘導をしていたお父さんに会いに行くと、「津波がくるそうだ。公民館は津波の指定避難所ではないから( 公民館は二階建てで低い建物) 小学校か中学校に誘導するよう連絡がきたから、お前たちもそっちに早く避難しろ。」と言われた。
お父さんに話しかけるまで舞台の上で座っているときに、自分の膝から血が出ていたことに初めて気づいた。どこかにこすったようだったけど、不思議と痛くなかったことを覚えている。
お父さんから、津波がくると言われたけど、いつも津波がきても何センチかで結局大したことなかったので、今回もそんなもんだろうと思っていた。いつだったかのチリ地震の際もそうだったからだ。同じようなことを話している人もたくさんいた。私たちは2キロ先の小学校に向かった。
小学校に向かう途中、生協の前でNちゃんに会った。お兄ちゃんとはぐれたらしく、家に一回戻ると言っていた。私は津波が来るらしいから戻らないほうがいいと言ったが、大丈夫だからとNちゃんは戻ってしまった。
Nちゃんは津波にのまれて死んでしまった。
もっと強く引き止めていればよかった。
消防車が走って避難を呼びかけていた。
いつも何かあると鳴る、町のサイレンはこの日、鳴らなかった。
中学校の前で兄の膝が痛み出したので、予定を変更して中学校に避難することにした。中に入ると誰かが「3階か屋上へ!」と叫んでいた。兄と私は上へと向かった。外階段から中へ入られるドアをガンガン叩く音が聞こえ、見ると女の人が必死にドアを叩いていた。ドアの前に机が置いてあり、開かないようだった。でも、みんな自分の避難に必死で誰もどかそうとはしなかった。兄と机をどかし、ドアを開けた。「津波だ!」と、窓の外を見た。黒い水がじわじわと学校の駐車場に流れてくるのが見え、おじい��ゃんが一人、まだ外にいるのを見つけた。「逃げて!」と叫んだけど、そのおじいちゃんが助かったかはわからない。
少し遠くを見ると。ず……、と、景色がそのままゆっくりゆっくりと動いた。町の中に船が見えた。船が家にぶつかり、家はぼろぼろになって崩れていった。あちこちに水の上なのに火が見えた。町全体が濃い灰色だった。兄と三階の教室から、水没したグラウンドを見た。水でいっぱいで、まるで映画を見ているようだった。夜になるにつれてどんどん暗くなり、懐中電灯を教室の真ん中あたりに置き、壁や周りにアルミホイルを貼って反射させて明かりを作った。持ってきたラジオからは、「絶対に水辺には近寄らないでください。被害の状況は­———」というような声が繰り返し聞こえていた。私は湿った教室の床に横になり、太郎を抱いていた。何も食べていないはずなのにお腹は空いていなかったし、眠気も全く来なかった。気づいたら朝になっていた。
朝になると水は引いていた。町を見たくて屋上にいった。それと、太郎がトイレをするかなと思って。屋上から見た景色に、町はもうなかった。グラウンドには車や船や瓦礫のようなものがぐちゃぐちゃになっていた。目の前にあった生協もなかった。今度は町が茶色だった。
あのときのトイレは今でも思い出すと吐きそうになる。人の用を足したものが積み重なり、ひどい臭いだった。吐きそうになりながら用をたした。学校には知ってる人がたくさんいて、Sちゃんに会った。Sちゃんは学校のジャージで、お腹から下は泥まみれだった。津波に少し飲まれたらしい。Sちゃんはお母さんとまだ合流できてない、小学校の方にいるかなあと言っていた。あとから知ったが、Sちゃんのお母さんは津波で死んでしまっていた。
お昼前ぐらいに兄が自宅の様子を見に行くと言って、少しして戻って来た。うちがあった場所には、うちの二階の屋根があっただけだったようだ。まだ実感がなく、そうなんだうちはもうないのか、と冷静に思った。
そのうちに大人の人たちが崩れてしまったお店から、食べ物や飲み物を持ち出してきた。避難した時に食料を持ち出すことのできた人たちから少しだけお裾分けをもらった。でも全員分はもちろんないので、たしか私はベビーチーズのようなものを一口分食べた。太郎にはお水を少しだけもらえたのでそれをあげた。
安全な内陸の避難所に全員移動することになったが、中学校の出入り口やバスが迎えに来てくれるおおきな道路にでるまでの道には、船や車や瓦礫などがたくさんあって、大勢の人が移動できるような状況ではなかった。なので自衛隊が道を作ってくれるまで待機するように言われた。
暗くなる前に作業は終わり、みんなでバスのところまで歩いた。海水のようなにおいと、ものが燃えたこげたにおいとガソリンのようなにおいがした。いたるところに車や船があって、きっと中には人がいたかもしれない。水は引いていたけど泥がすごくて、靴はすぐにぐしゃぐしゃになった。靴にビニールをかぶせていた人もいたけど、結局みんなどろどろになって歩いていた。
私と兄と太郎は、内陸の小学校の体育館に避難することになった。着くとすでに近隣の地域の人も避難していて、人がいっぱいいた。入り口でおにぎり一つと使い捨ておしぼりを一つずつ配られた。どこか寝る場所を確保しようとしたけど全然場所がなくて、体育館の中のゴミ回収のスペースの前が少し空いていたのでそこに落ち着いた。おにぎりを食べて、おしぼりで足を拭いた。毛布やシートも物資で配られたりしたようだったけどわたしたちがついた頃にはもうなかったので、余っている段ボールをもらって、段ボールを床に敷いて横になった。近くから避難してきた人たちは、自分の家から持ってきた毛布や服などであたたかそうで、わたしたちみたいな海から逃げてきた人たちとはギャップを感じた。目も怖かった。太郎も不安なのか、私のジャンパーの中から出てこようとしなかった。でもそのおかげで、すごく寒かったけど、お腹はあったかかった。中学の先生が状況把握のため点呼をとっていて、太郎をお腹に抱えた様子をちょっと笑われた。
夜、暗い中で何回か余震があって、そのたびに体育館の照明が大きく揺れて、ざわざわした夜だった。
朝になると支援物資が届いた。飲み物はコップがないともらえないと言われて、考えて、ひとり一個もらえるパンの中からサンドイッチ用のパンを選んで、その空き容器で飲み物をもらうことにした。兄はマヨネーズ入りのカロリーの高いロールパンを選んで、とにかく栄養を確保するように2人で食べた。トイレは、プールの水をバケツでくんで流せたので困らなかった。古着も物資で届いたので、パーカーなどの着られそうなものをもらった。わたしたちの隣にいた老夫婦が小さな犬を連れて避難していて、太郎は犬に懐かれていて面白かった。
兄と座っていると、名前を呼ばれた。お母さんとお姉ちゃんが走ってこちらに向かって来ていた。
生きててよかったと抱きしめられた。みんなで号泣した。
お母さんは仕事で内陸にいて、お姉ちゃんもバイトで海からは少し離れたコンビニにいて、津波が来る前に東部道路に避難して助かっていた。2 人は違う小学校で合流できていたようで、わたしたちの地域の人たちが避難している場所を探していてくれたようだった。お母さんが働いていた保育所の休憩室を間借りしていいといわれたらしく、そこに移動することにした。車できたからそれでいこうと外にでると、血の繋がっている方の父がいた( 私の両親は離婚していて、お母さんは再婚して、新しいお父さんがいます)。私は父のことを嫌っていたし、何年も会ってなかったけど、そのときはなぜだかとっても安心して、頭を撫でられて肩を抱かれると泣いてしまった。非常事態だったので、お母さんも連絡をとって食料や布団などをわけてもらったらしい。
車に乗り、保育所に向かう途中、太郎が安心しておしっこをもらした。避難所では粗相をしなかったので、太郎もがんばっていたのだなと思った。
保育所の休憩室は、5畳ないくらいのスペースで小上がりの畳になっていた。畳の上に段ボールを敷いて、布団を敷いて、家族で川の字になって眠った。やっぱり寒くてなかなか寝付けなかったけど、お母さんが抱きしめてくれたおかげで、よく眠れた。
次はお父さんと合流しようと、情報を求めて市役所に向かった。市役所の中に入ると、壁いっぱいに「◯◯に避難しています◯◯みたらここに連絡をください」といったような内容の紙がびっしりと貼られていた。その中には知っている名前も幾つかあって、ああ無事だったのだなと安心したこともあった。お父さんの名前を見つけたけど、けがをしている、というようなことが書いてあったので焦った。とりあえずお父さんがいるという避難所へ向かうと、お父さんは元気そうに出入り口近くの椅子に座っていた。安心したお母さんはへなへなになって笑った。あのときは情報が錯綜していたので、間違ってそう書かれてしまったらしい。すぐに同じ場所にお父さんも移動したかったけど、お父さんは公務員なので被災者の誘導等の仕事があったのですぐには保育所に一緒に戻れなかった。
保育所での生活は体育館にいるときよりずっと過ごしやすかった。狭かったけど、家族がみんないて、人の目を気にしなくていいのはすごく救われた。電気はまだ復旧していなかったけど、水道が使えて嬉しかった。ごはんも、お母さんの仕事仲間の人が炊き出してくれたりして、あたたかいものを食べられた。ずっとお風呂に入れてなかったので気持ち悪くなって一度、水で頭だけ洗ったけど、寒すぎて凍えた。被災してから一週間たたないくらいに、電気が復旧し始めて、近くの家に住んでいたお母さんの職場の人の好意でお風呂に入らせてもらった。久しぶりのお湯はあったかくてきもちよかった。
お店もすこしずつものを売られるようになって、学校もない私と兄と姉はそれぞれ生活に必要なものを行ける範囲で探し回った。持ち出せたお小遣いをもって、とにかくいろんなお店でなにか買えないか歩き回った。個数制限で、ひとり3個までしかものが買えなかったり、なにも残ってなかったり、3時間以上並んだりした。
あるとき、ひとりでお店の列に並んでいると、知らないおじいちゃんに話しかけられた。どこからきたのかなんでひとりなのか聞かれ、答えると「大変だったね」と自分が買ったバナナを分けてくれた。少し泣いてしまった。いろいろなところで食べ物などを買えてうれしかったけど、そのころは物資不足で窃盗や空き巣が多発していたので、ビクビクしながら保育所に帰る道を早歩きでいつも帰っていた。
銀行でお金をおろせるようになり、保育所も再開するので長くはいられないと、アパートを借りることになった。お父さんががんばって見つけてくれた。引越して、いろんな人の好意で家電や家具をもらって、なんとか避難所生活はひとまず終わった。
アパートで炊飯器をつかって炊いた、炊きたてごはんをたべたときはすごくすごくおいしくて、おかずは缶詰の鯖だったけど、何杯もおかわりをした。あのとき食べたごはん以上に美味しいと感じたものは今もない。
アパートで暮らし始めて少しして、携帯の電話番号を覚えていた友達に電話をかけてみた。その子は飼っていたペットたちは犠牲になってしまったけど無事だった。ただ、その子との電話で「Aちゃん残念だったね。」と言われた。Aちゃんは私のすごく仲良しの女の子で、どういうことなのか理解できなかった。
Aちゃんの妹の名前と避難先の書かれたメモを市役所でみていたので、Aちゃんもきっと無事だろうと思っていた。「新聞の犠牲者の欄に名前が載っていた」そう言われて、後の会話は覚えていない。電話の後に新聞を読み返して犠牲者の欄を探したら、Aちゃんの名前を見つけてしまった。新聞に名前が載っている,という証拠のようなものをつきつけられて、一気に怖くなり、悔しくて信じられなくてまた泣いてしまった。
兄もその欄に仲の良かった友達の名前を見つけてしまったようで、リビングのテーブルに突っ伏して、「なんでだよ」とつぶやきながらテーブルを叩いていた。
4月のある日の夜、また大きな地震が起こった。また津波が来るのではないかと家族全員で車に乗り、指定避難所に急いだ。幸い、なにもなかったが、その日の夜は怖くて車から降りられず、朝まで起きていた。
通っていた中学校から一度学生も職員も集まるよう連絡が来た。当日は市の文化会館に集合し、そこからバスで市内の小学校に移動した。久しぶりに同級生と再会して、今どこに住んでいるのか家族は無事だったのかたくさん喋った。そしてみんなが集まった前で先生が、犠牲になった同級生の名前を読み上げた。Aちゃんの名前も呼ばれた。先生の声は震えていて、最後は泣きながら私たちに向かって話していた。7人の友達が死んでしまった。学校全体では、14人の生徒が犠牲になった。
私はすごく後悔していることがある。遺体安置所に行かなかったことだ。市内のボーリング場が安置所になっていて、そこにAちゃんがいることもわかっていたが、怖気づいていけなかった。私とAちゃんともう一人とで三人で仲良くしていて、そのもうひとりの子は会いに行っていた。顔中があざだらけでむくんでいた、と言っていた。お化粧をしてあげたよと聞いた。私も会いに行けば良かった。
学校は市内の小学校の旧校舎を間借りして再開した。歩いて行ける距離ではなく、駅から毎日臨時のスクールバスが出ていたので、私はそこから毎日学校に通った。文房具や教材は支援物資が届いて、しばらくは制服もなかったので私服登校だった。何週間も字を書いてなかったので、文字が下手くそになっていた。遠くに避難して、転校してしまった子もいたけど毎日家族以外の人とも会えるのは嬉しかった。でも、間借りしていることは肩身が狭かった。間借り先の小学校の子とは話した記憶がない。支援物資や有名人がきた時は「ずるい」、「 そっちばっかり」と言われるようなこともあった。自分は生徒会役員だったため、お礼状や物資管理を手伝っていたけど、千羽鶴や「頑張って!」、「絆」などのメッセージを見るたびに複雑な気持ちになった。無理やり前向きになれと言われているようだった。
学校も落ち着いた頃、同級生の一人のお葬式に参加した。小学校の頃から係活動で仲良くなった子だった。その子はお母さんも亡くなって、その子のお父さんから良かったらきてほしいと連絡があった。とても天気のいい暑い日で、田舎の方の緑がたくさんあるところでお葬式が行われた。久しぶりに会ったKちゃんは小さな箱になっていた。焼かれて骨になって骨壷に入ったKちゃんは、軽くて白かった。お墓にお箸で骨を一つ入れさせてもらった。「ああ、Kちゃんは���ういないんだ」と、「こんなに小さくなってるなんて」と、脱力した。
私は夢を見るようになっていた。夢の中で津波から逃げたり、友達と会ったりしていた。その中でも強烈だったのが二つ
ある。一つは、どこかのホテルに友達と泊まりに来ていて、ホテルのベッドで飛び跳ねて遊んでいた。途中までは私も遊んでいたけど、何か変だと感じて、だんだん飛び跳ねている音がうるさくなってきて、「ねえもうやめようよ」と声をかけた。するとその音は「ゴーーーー」という地鳴りの音に変わって、私は耳を塞いでしゃがみこみ、叫んだところで目が覚めた。自分の叫び声で起きた。
もう一つは、なぜか私は小学生で、小学校の帰り道をAちゃんと何人かの友達と歩いていた。夢の中では納得していたけど、不思議なことにみんなでAちゃんのお葬式に行こうとしていた。道の途中で、2本に分かれているけど少し行くとまた繋がる道があり、そこで私はAちゃんをびっくりさせようと「また後でね!」と違う方の道を走って待ち伏せしていた。でも、だんだん不安になって、泣きながらAちゃんを探した。立ち止まっているAちゃんを見つけて、「 行かないで!」と抱きついた、Aちゃんは静かに「なんで私のお葬式があるの?」と、聞いてきた。
そこで目が覚めた。しばらく体は動かず、寝ながら泣いていたようで、頬が涙でカピカピになっていた。
冬になって、12月11日の早朝、お母さんとお姉ちゃんの声で起きた。どうしたのかとリビングに行くと、2人が「お父さん!」と声をかけて、体を揺すっていた。後から聞いた話によると、朝、お姉ちゃんがバイトの支度をしているときに、お父さんから寝息が聞こえず、お母さんに「変じゃない?」と言って、2 人で起こそうとし��ようだった。私も声をかけたが起きず、お母さんは「かなこ!( お姉ちゃんの名前) 救急車!」と叫んで、心臓マッサージを始めた。バキバキと骨の折れる音が聞こえた。お父さんの胸はベコベコにされていたが、起きない。私も交代でマッサージをして、救急車を待った。救急車が到着して運ばれる直前、そっとお父さんの足を触った、氷のように冷たくて硬かった。救急車を後ろからお母さんの車で追いかけ、病院についた。ドラマで見たような部屋に運ばれ、看護師に心臓マッサージをされていた。心電図はまっすぐで、「ピー」という音がなっていた。何分間かどれくらい経ったか、マッサージが止まり、瞳孔を見られていた。「すいません」と看護師の方が言い、「ご臨終です」と、初めて聞く言葉を耳にした。病室には「ピー」という音とが響いていた。
みんな無言で家に戻り、お母さんがリビングに座ったところで、「どうして!」と泣き叫んだ。お母さんがそんなに泣いているところを初めて見た。お父さんのことはまだショックでよくわかっていなかったけど、その姿がどうしようもなく悲しくて、お姉ちゃんと抱き合って泣いた。
中学校には、お母さんが色々な手続きで忙しそうだったので、自分で電話をした。担任の先生に繋がり、ほぼ文章になっていなかったけど泣きながら事情を説明した。先生はゆっくり聞いてくれて、学校のことは心配しなくていいよと言ってくれた。
お葬式までの間、斎場でお父さんと過ごした、ドライアイスで冷やされて、冷たかったけど、箱の中にはずっといて、怖くもなかったし、もしかしたら起きるんじゃないかなんて思ったりもした。まあ、当たり前にそんなことはなく、火葬の日がきた。
お父さんが焼かれる場所へ、親族一同で向かった。炉の中へ入れられるとき、もう体さえもなくなってしまうんだと、お父さんに会えなくなるんだと理解した私は一気に悲しくなり、「お父さん」とつぶやいた。涙が止まらなくなり、「行かないでよ」とつぶやいた。お母さんが私の背中をさすった。兄が私の頭に手を添えた。
お父さんは焼かれた。ちゃんとお骨を拾い、壺の中にお父さんは収まった。
お父さんは公民館職員で、そして糖尿病を患っていた。震災の日、公民館は建物が低いので、違う避難場所に誘導している途中で津波が来た。目の前で他の職員が流されるのを見たそうだ。公民館にいた人はギリギリ二階に登り助かったものの、船が建物にぶつかって半壊し、もう少しでみんな死んでしまうところだった。でも、避難途中で犠牲になった人の遺族からすれば、いたら助かったじゃないか! とひどく責められていたらしい。
避難場所でも、公務員はずるい優遇されていると同じ被災者なのに責められ、ストレスで体がおかしくなっていた。持病の糖尿病が悪化し、20キロ体重が増えていた。お母さんから後から聞いた話によると、毎晩のように公民館のグラウンドいっぱいに遺体が並び、こっちに来いと呼ばれる夢を見ていたそうだ。死因は無呼吸からの心肺停止だった。
お父さんは震災に殺された。
お父さんの死と、自分の受験のシーズンが重なり、私は少しおかしくなっていた。受験している場合なのかと悩んで、身が入らなくなっていた。トイレで隠れて手首を切るようなこともあった。今思えば、なにも考えたくなかったからそういうことをしてしまったのかもしれない。様子がおかしいと思われたのか、スクールカウンセラーの先生に、週1回、カウンセリングを受けることになった。行きたくなくてサボった日もあるけど、先生は怒らなかった。優しくいろんな話をしてくれた。友達にも支えられて、なんとかいつも通りに過ごせるようになった。
高校受験もおわり、合格発表の日、私は1人で受験した高校に結果を見に来ていた。無事番号を見つけてお母さんに連絡すると、すぐにメールで返事が帰ってきた。メールが2通届いて、確認してみると、もう1通はお父さんの携帯からだった。「合格おめでとう!」と、本当にお父さんからきたかと思って嬉しかった。すぐにお母さんがお父さんの携帯で送ってくれたのだろうと気づいたけどとっても嬉しかった。
高校では美術科に在籍していたため、常にコンペに向けて制作をしていた。一度だけ、Aちゃんを描いたことがあったけど、周りには誰ということはなにも言わずにただ描いた。それっきり震災関連で制作をすることはなかった。
高校生活の中で辛かった授業がある。保健体育の授業だ。心肺蘇生の心臓マッサージを学ぶ授業の時は、お父さんの感触を思い出して辛かった。避難について学ぶ授業では、ふざけた男子生徒が、避難のシミュレーションを発表するときに「津波だー!」とヘラヘラしながら津波のモノマネをしていて腹がたった。そういう授業があった日は、その日1日は震災のことなどで頭がいっぱいになり、帰ってからいつもお母さんやお姉ちゃんに慰めてもらった。
そして何度か震災復興のためのアートプロジェクトに参加した。被災者として何かしなければと義務感に駆られて、割と積極的に参加した。でも、いつも心の隅には、こんなことをしてなにになるのだと皮肉な自分もいた。震災の時のことを公演してくれ、文章にしてくれ、という依頼は全て断った。語ったりはしたくなかった。
高校の卒業制作展で、ゲストを迎えたパネルディスカッションを行った。ゲストは有名な大学の先生で、私は卒展の実行委員長としてトークをした。その中で、「地域復興」の話題を担当し、いろいろなことを話したけど、「私もゆくゆくは自分の地域をなにかしら盛り上げたい」と口にした後は「本当にそう思っているのか?」と、苦しい気持ちになった。立派なことを言わなければ、というプレッシャーがあった。
いつも3月11日は家で家族と過ごすようにしていたけど、2015年のその日は、震災以来初めて閖上にいた。
京都に引っ越す前にみんなに挨拶がしたいと思ったからだ。お花を持って友達と待ち合わせをして、久しぶりに来た日和山は、前はみんなで鬼ごっこをして遊んだ場所だったけど、今は慰霊の場所になっていて、上から街を見渡すと、何にもなかった。まっさらでたまに草が伸びている、そんな景色だった。
中学校に移動して、2時46分を待った。鳩の形の風船が配られて、メッセージを書いた。「行って来ます。」と。そして2時46分、みんなで風船を飛ばした。
でもその瞬間はひどいものだった。多くの人がスマホを構えて、風船を飛ばす瞬間を撮っていた。カメラの音がたくさん聞こえて悲しくなった。なんのためにやっていることなのか、気持ち悪かった。一緒に来ていた友達も怒っていた。イベントじゃないんだ、と叫びたかった。
京造に進学してからは、震災の話題に触れることは少なくなった。し、自分でも避けるようになった。
宮城出身です、というと大体「震災大変だったでしょ?」と言われた。「そうですね」と正直に言うと、気まずそうな申し訳なさそうな対応をされた。それが嫌で、出身は言いづらくなって、「震災大変だったでしょ?」と言われても、「大丈夫でしたよ」と言うようにした。一回生の授業である先生が、どんな内容で言ったのかは忘れてしまったけど、「津波はあっけなく人を殺すからね〜。」と、さらっと言ったことがあった。私はショックで涙がとまらなくなった。俯いて、寝てるふりをした。周りの子にはバレていたかもしれない。その日はずっと気分が上がらず、帰ってからお母さんに電話をした。当時一緒に住んでいたルームメイトに抱きしめてもらった。
二回生の時は、授業中に阪神淡路大震災の映像が流されて、震災の時の記憶がフラッシュバックしたこともあった。イヤホンをつけて目をつぶってやり過ごして、大階段を登ってすぐ横の芝生のベンチで家族に片っ端から電話をかけた。午前中でなかなか繋がらず、体育すわりをしながらずっと待っていた。お姉ちゃんとつながって、落ち着かせてもらって、その日は授業があったけど、一度家に帰った。夜は眠れなかった。
7年経った今でも、津波の映像や写真は見ることができない。彷彿とさせるようなものも苦手だ。3月はいつものように睡眠を取ることもできなくなる。11 日は家族と実家で過ごすようにしている。閖上の方向を向いて必ず黙祷をして、黙祷している時は、悲しい、悔しい、いろんな感情が混ざったように涙が出る。
私はずっと震災に潰されている。それが、とても嫌だ。
——
でも、このままでいるのはもっと嫌だ!
だから私は向き合うことにした。
制作をはじめると同時にひまわりの種を植えた。ひまわりは、お父さんの1番好きな花だったから。
だけど、ひまわりは咲かずに途中で枯れてしまった。
私にはもう少し、時間が必要なようだ。
もうすぐ、8年目の3月11日がくる。
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oomiyabigan · 3 years
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初めまして。 小学6先生頃からおでこにニキビが出来始め、高校生の時ピークで両頬全体(特に右頬)、こめかみに出来、さらに頬が赤くなってしまいました。 クレーターまでとは行きませんが、ニキビ跡(色素沈着)が残りスッピンでは恥ずかしくて中々そのままでは外に出れません。 最近は季節の変わり目に口元や顎、頬の下にポツポツとできます。 ⬆️ webカウンセリングよりお悩みをお知らせいただきました📲 口周りのニキビが繰り返しでき、お肌の乾燥も強く敏感な状態が続きました😢 マスク荒れも深刻でお肌の弱さを痛感してくださっていましたが、毎日コツコツ丁寧にケアをしてくださいました☺️ マスクに負けない👍 そしてファンデも薄づきでツヤツヤきれい✨ 今日は出産前最後のご来店ケアでしたが、安心しました😌 ベビちゃんに会えること楽しみにしています😊 なにをやってもきれいになれない😢 とあきらめないでくださいね😌 肌トラブルで悩まない方法をお知らせしています😉 ⭐️遠方にお住まいの方へ⭐️ おひとりおひとり対応させていただきますので人数は限らせていただきますが、遠方にお住まいの方のオンラインサポートをスタートいたしました😊 webカウンセリングよりお知らせください   #ニキビ #にきび #ニキビ跡 #にきび跡 #にきびあと #ケミカルピーリング #アレルギー体質 #頬ニキビ #酒さ様皮膚炎 #大人ニキビ #赤ニキビ #スッピン美人 #マスク荒れ #茨城県 #厚塗り #マスク #皮膚科 #美容皮膚科 #脱洗顔 #妊娠8ヶ月 #レーザー #口周りニキビ #ニキビケア #脂漏性皮膚炎 #ニキビ跡の赤み #かれん #敏感肌 #赤ブツ #大宮美顔 https://www.instagram.com/p/COxJ2mtgw7g/?igshid=1gvzqwbssqtmr
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crystalreira · 3 years
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ツインレイ成就オンラインサロン あなたが ツインレイを叶えるとき ひとりでは 叶えることができない 守られている レタスがいる←なぜ?謎 あなたが レタスに包まれて←だから何? 安心していく 安心 安全 安心 安全 大好き!! ツインレイ恋愛カウンセラー クリスタルレイラです^^ 彼と入籍することになりました❤️ と、ご報告をいただいております! LINE公式ご登録特典!! 🔴開運非売品レイラヴィーナス 🔴ツインレイ叶うメールレッスン 🔴ツインレイを叶える音声 プレゼント中🎁✨🥰💕 ツインレイ宇宙情報は、 ブログから!学べます(*´▽`*)ノ)) @crystal.reira ヒーリング、チャネリング、エーテルコード、セッション、セラピー、コーチング、占い(霊感霊視・チャネリング・リーディング・0学・生年月日・六星占星術・手相・風水・九星気学・血液型・タロットカード・オラクルカード・四柱推命・宿曜占星術・波動修正・波動調整・オーラリーディング・チャクラ調整)、カウンセリングなど あらゆる占術ができます。 2222組を超えるセッション 111���以上のアイテムのご好評から 特別に、 / 見ないとアホでしかない鑑定 \ を お届けしております。 アメリカ、ロサンゼルス、ヨーロッパ、フランス、韓国、ソウル、北海道、青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、富山、石川、福井、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄など、世界全国からお申込みをいただいております。 ※掲載内容は、個人が特定されない範囲でシェアの許可をいただいております。 ※こちらから、個人の鑑定はしておりません。LINE公式にご質問いただきました内容は、このインスタからこのように回答させていただきます。 #ツインレイ#ツインソウル#オラクルカード#タロットカードリーディング#パワーストーン#メモリーオイル#占い#数秘#ルノルマンカード#九星気学#ヒーリング#カードリーディング#ツインレイヒーリング#ツインレイ恋愛カウンセラー#宇宙の法則#惹き寄せ#引き寄せ#神社#龍#スターシード#ツインレイスターシード#ツインレイセラピスト#リーディング#宇宙防衛隊#ツインスター#トリプルレイ#クリスタルレイ#起業コンサル#カウンセリング#クリスタルレイラ https://www.instagram.com/p/CM4zxf4AaTx/?igshid=1qeq8tidh740x
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tanakaeri · 11 months
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西三河ランチ会へ行ってきました
夏本番の先週くれたけ心理相談室イベントの西三河ランチ会へ遊びに行ってきました。 豊田市にある「シェフズキッチン アグリルモトマチ」さんで開催されました。店内は個室のような雰囲気を感じられ人目を気にしないで会話を楽しめる空間でした。 もちろん、食事もワンプレートで女性には色々楽しめる食材が盛りだくさん メイン鮭のワンプレートをチョイス ふわふわした鮭の食感はたまりませんでした。 デザートはチーズケーキ 日々、楽しみを見つけられる環境を大切にしながら 感謝もわすれない とても楽しいお話ができたランチ会でした。 今回ランチ会の情報は下記からご覧いただけます。 開催場所はこちらHome – Chefs Kitchen AGRILL motomachi シェフズキッチン アグリル モトマチ 主催者は柴田桃子カウンセラーくれたけ心理相談室(安城支部)心理カウンセリング…
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hiromiaoyagi · 1 year
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西三河ランチ会(安城市)に行ってきました
昨日、愛知県安城市で初開催となるくれたけ心理相談室のランチ会があり、浜松支部からも私と齋藤勝彦カウンセラーも参加させていただきました。 安城支部の柴田桃子カウンセラー、岡崎支部の岩月絵里カウンセラー主催で行われ、今後、岡崎市での開催を含めて4月、7月、10月にも開催される予定です。 くれたけ心理相談室のランチ会は、カウンセリングに関心のある方、カウンセラーと話してみたいという方など、どなた様でもご参加いただける会となっています。 カウンセラー・カウンセリングがさらに身近な存在となり、時には心を見つめる時間を必要とすることもあるということが自然なものになるといいなと思っています。 やっぱり、リアルに会えるっていいですね!言葉にならない部分も含めて、いろいろなことを感じられますし、吸収できて、とてもよい刺激を人からいただける、そんなランチ会です。
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momoko-shibata · 6 months
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「2023年どんな年でした?2024年どんな年になりますか?」(くれたけ#217)
2023年、サイトに訪問いただき、また読んでいただきありがとうございました。2024年もどうぞよろしくお願いいたします。 柴田桃子
2023年は動きを多く感じた1年でした。 行動したこと変動したこと移動したこと始動したこと 特に、11月に『安城ルーム』を開室したことは、私の中でとても大きな動きだったと感じています。 カウンセリングで繋がるご縁を通して、「いつもここにいてくれる存在」で在りたいと思うようになりました。 悩んだ時、苦しい時、話をしたいと思った時などに、出せる場所、受け止めてもらえる場所、一緒に考える場所に、『安城ルーム』がなるといいなと思っています。 2024年はこの動き出したことが 変わらず動き続けるまた、新たに動き出す年になることを願っています。 思いを大切にしながら動きながら 思い描く形に近づいていきたいと思っています。
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manganjiiji · 5 months
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家格は屑星の二にて候
さて。仕事が始まってございますな。ぜんぜん。ぜんぜん4時間とかです。でもいつもの通り立ち仕事(本屋)なので、まだ2回しか行っていないのでとにかく帰宅してから脚が痛い。結構、結構ね、乗換駅で歩くんだよね。毎日とくに伸縮性のないジーパンを履いているためとにかく階段がきつい。でも2回目の今日は1回目の勤務より痛みがましだったので、このままちょっとずつましになるといいですな、と思う。最近、連日5000歩ほど歩いただけで、とにかく横になった時に足にしびびび!という稲妻が走るかのような痛みが発生する。この状況になるともう動く気が起きない。よくないことだ。この痛み自体は何年も前からある、というか小さい頃からあるようなないような気もするのだが、とにかくぴりぴりとした痛みが足からふくらはぎ、太ももにかけて駆け抜けてゆく。急激に太った頃もこれが酷かった気がするので、最近また太りすぎて下半身に負荷がかかっているのであろう。だいたい62kgだと思う。60kgがたぶん、せめて私の脚が支えられるぎりぎりの体重だと思う。食べすぎているんだ。お腹いっぱいでも、空いていなくても、とくに飢餓を感じていないのに、ただ「間が持たないから」という理由で1日4食くらいになっている日がある。普段は1日2食なので、異常である。これを1日2食に戻して守ったところでとくに痩せない。特に痩せなくても、健康のためにせめて59〜60をふらふらするくらいの体重にはなりたい。危険だ。もう4年前になるのか、20kg太った。正確にはまず16kg太り、その後8kg太ったので24kg太り、4kgなんとか落として今。20kg太ったのは度を越した飲酒と暴食である。毎日が急性アル中のような状態で毎日尿失禁していた。そのおかしさを認識できずへらへらと号泣しながら生きていたため、限界を越えてどんどん太っていった。社会的にも最終的には総崩れになったが、まあいい経験だったと思う。そもそも酒が一滴も飲めないサラブレッドの家系で飲むと体調不良(頭痛ゲロ)必至だったのだが、慣らせば馴れるもので、体と脳と筋肉はぶっ壊れたが、酒が「全く飲めない」ではなくなった。人間としても様々なことを経験して全く何をやっているのか、22〜23歳のやるであろうことを32〜33歳で経験した。嵐のような日々だった。その後の反動というか、まほやくジャンルでかなり知的で成熟して落ち着いた人種と交流したことにより、わ、わたしって、かなりやばい……。ということにようやく気づき、そこからさまざまな意識改革が行われた(友人には「全く根本をわかっていない、意味が無い」と評されるであろうが)。9歳年下の同居人大学合格のための住み込み家庭教師を経て、なんとか人間としての感覚を身につけていったような気がする。そこ(同居人氏合格)からもうすぐ2年が経とうとしている。相変わらずあまり自分が「ましになった」という感覚は少ないが、病状はかなり改善したと思う。不眠に陥ることが少なくなったし、うつ状態(希死念慮を伴う)も月に1~2回、つまり2日〜4日で済んでいる。カウンセリング、主治医変更、投薬(通院)の安定、偏頭痛薬の注射、生家との距離を置けたこと、障害年金の受給が始まったこと、など、この2年で変化したことが多くある。これらの変化がなければ、今私はここまで穏やかに生きることはできていなかった。さまざまな友人がつねに物心両面で支え続けてくれたからこそであって、私の努力というのはほとんどない。本当にこんな頑固でわがままでナルシストでとくに旨味のない(コンテンツとして面白みのない)ただおちゃらけているだけの人間に、よくもまあここまで徳の高い友人達が繋がっていてくれるものだ、と思う。恩返しとしては私が元気で楽しく小説でも書いて生きていくことだと思う。小説といえばあんさんぶるスターズ!!の大人気カップリング、燐一(りんひい)のラブコメを7000文字ほど一日で書き、数年ぶり(体感)にpixivに投稿した。本当に久しぶりの事だった。Twitterで文庫ページメーカーに収まる程度の正体のない短文を書いたりはしていたが、二次創作をきちんと(対外的に姿勢をただして)投稿するのは2年ぶりくらいで、かなり緊張した。というのも、私はmusicのメインストーリーの第1部を読み終わった+αくらいの人間なので。せめてメインストーリー第2部まで読み終わりたかったのだが、結局書いてしまった。また読んだはずの第1部の記憶も怪しい。というわけで、もう石を投げて下さいという趣旨のキャプションをつけて投稿した。あんスタの二次創作をしている方々は基本的にストーリーは全履修が当たり前だと思っていると、私は勝手に思い込んでいるので、こういう半端者が���いたブツはそもそも読まれないことが多いと思う。読んでもらえてもライト層とか(キャラが好きなだけでストーリーは読まない層)。私はソシャゲのストーリーを読むのがかなりかなりかなり苦手な人間であるため、これからもすごく遅い進捗なのではないか、と思うが、あんスタのメインストーリーはかなり好きである。テーマが民主主義と主権者の政治参加の話だし、それを封建制の君主の家に生まれ、そこから逃れてきた天城燐音が大衆に訴えるという図が何よりも説得力があってよかった。明治維新で、天城燐音のような自発的に民主主義に目覚める人間がいたとしたら、日本はまあ違っただろうな、と思うが、私たちが戦後生まれだから天城燐音を創り出せるのであって、まあそれは旧日本には無理だ。民主主義ではなく、議会制度という程度の認識、江戸幕府+列藩が共和政になり、議院内閣制を採用したくらいの理解がせいぜいだったろうと思う。これは絶対王政や産業革命を経ていない日本ではごく当たり前のことと思う。よくこの、自前の頭の良さと勤勉だけで、民主主義国の歴々に立ち向かえたなあと思う。ただ、結局はトップダウン式の政治を人々が「望んでいる」のもあって、日本の民主主義というのはかなり保守的だ。今の日本の左派を見ても、「政治家は○○をしろ/するな」というだけで、自分が政治家になるとか、政治家に対して影響力のある活動をするとか、そういうことではないらしい(ように私には見える)。そもそも結局議員も世襲が強く、派閥も世襲議員を中心に回っている。このトップダウン式の1番頂点は何かと言うと、日本人が勝手に忖度している「幻想のアメリカ」だ。アメリカを初めとする欧米の意識に合わせよう、嫌われないようにしよう、というのが結局この国の大勢だ。現実的に、アメリカの核を初めとした軍事力に金を払って、防衛をアウトソーシングしているのもあり、そこにはやはり敗戦国としての力関係と悲しい自己評価の低さがあるため、「アメリカに従う」ことが与党ならびに自民党に求められることの第一義になっている。まあ私は個人的にアメリカがそんなに嫌いではないが、アングロサクソンははっきりと日本人をバカにし続けているので(というか、彼らには民主主義を生み出したという誇りがあり、日本人の猿真似など見るに耐えないと思っているだろう)、かれらの尺度でわざわざ自分たちを見なくてもいいだろうと思う。私たちは私たちの基準で世界を見ていいはずだ。そして当然アメリカより日本のほうが面白い国だし(僅差ながら)、この国に潰れてほしくないので、はやくアメリカから独立してきちんと(軍事力をバックにした)発言権のある国際社会の一員となって欲しいと思っている。17の頃から変わらない思想だ。軍事力を持つ=戦争の準備、ということで現在の日本では軍事力を持つことは忌避されているが、日本以外のほとんどの国は、どこもみな軍事力という「いざとなったら戦争してでも自国民を守る覚悟、世界すべてを敵に回しても自国民の命を優先する覚悟」を持っており、それが基本的には国家の仕事の最重要のうちの一つである。「戦争できない国」に住むということは、働いて稼いだ金の一部を税金として納めていると思いきや、捨てていると同じことだと思う。他国が攻めてきた時に、自国民を守れない政府に税金を支払っても意味がない。命の保障が国家の仕事の第一である。それは外圧はもちろん、内政においても同じ。だから人権という考え方があります。金を払ってアメリカの軍事力を頼るということは、自分たちには軍事力の決定権がないということ。イスラエルを支援しているアメリカの軍隊に多額の金を支払っている日本は、ガザ侵攻においても明確に加害者です。そのうえで、政府=国民ではないから私たちはイスラエルにNOを言い、デモをする。政府がアメリカに対して「NO」を言うことができないのでそうするわけですが、そもそも政府がアメリカに対して「NO」を言える世の中になったほうがいいと私は思います。国際社会の一員になるということは、公的にアメリカに「NO」を言える国であるということです。残念ながら、今は核兵器を持たねばそれは難しい事態となっていますが。
年始から何を長々と喋っているんでしょうね。私はbasicを読んでいないのでまだはっきりとはわかっていないのですが、結局天祥院英智がアメリカみたいなものなのかな。でも英智様よりも上に老害たちや、ゴッドファーザーなる旧世代がいるみたいだし(これは旧列強になぞらえられる)、basicでTricksterが何をやったのかがわかれば、あんスタ世界もさらに分かると思うので、basicを読むのも楽しみにしています。とにかくmusicは天城が面白い。突然の封建社会の申し子。そこからアンサンブルスクエアに飛び出してきた異分子2つ。ほかに注目株はやはり七種茨。主人公のあんずはどうなのかというと、今のところmusicでは目立った動きなし。主人公が番狂わせみたいな立ち位置だと面白いと思うんだけど、musicの第1部ではそれは天城一彩の役目だった。爽快に誰も彼をも救っていく、というか、天城燐音を救うためのスーパーヒーロー天城一彩。まさに主人公はこちらだった。ということはbasicでの番狂わせは明星スバルなのか?と思うが、そこはあんずに期待したい。あんスタは世界��構成だけではなくてキャラクターの絆や関係性も多種多様でおもしろいので、ありがたいなあと思っている。まほやくはこの点、「恋」にすべてが集約されていた(魔法使いは何にでも恋をする、恋こそが生きる理由)ので、関係性というか執着の度合いにあまりバリエーションがなかった。あんスタはユニットというものがあり、事務所というものがあり、学校があり、シャッフルユニットがあり、過去の因縁があり、過去の因縁があり、過去の因縁があるので、色々な人間が、人間との関わりに励んだり諦めたり反発したり愛したりしていて、バラエティ豊かに感じる。そもそもキャラクターが49人以上いるうえ、9年も続いているコンテンツだから、まほやくと較べることはできないのだが。ただ、まほやくのメッセージ性がかなりわかりやすいのに対して(話をしよう、よく話し合ってお互いを知った上で共に生きる道を模索しよう)、あんスタはかなりばっさりと「終わった関係」も描いており、まあ人生ってきれいごとだけじゃないよね、という冷めた、現実的に大人として生きるなら切り捨てざるを得ない人生のパーツというものを結構散りばめている気がする。まあちょっと期待しすぎかもしれないけど、三毛縞斑なんかは、見ていて痛々しいキャラクターだと思う。だからこそ桜河こはくと出逢ったことが、三毛縞斑ファンにはかなり感動的だったのではないかと思う。(この辺はよく知らないので適当ぶっこいてます。)
あんスタのスケジュール帳に日々のゲームの進捗や予定、コメントを書き込み、博文館懐中日記にその日の行動記録を書いているため、tumblrまで書きに来る気力が最近ない。上の二つをだいたい0時頃書いて寝るのが日課になっており、1月1日から続いている。
最近読んでいる本は『差別はたいてい悪意のない人がする』『客観性の落とし穴』『現代思想入門(千葉雅也)』。資本主義の〈その先〉へと、精読アレントも再開したいのだが、なぜ次から次へと新しい本に手をつけてしまうのだろう。いい加減にしてほしい。『母という呪縛 娘という牢獄』を昨晩3時間ほどで読み切ったが、何が言いたいのかわからないノンフィクションだった。というか、もし言いたいことがあるのだとして、それが私の予想通りであるならば、それは結論としては「糞」としかいいようがない本だった。児童虐待をなめている?教育虐待や精神的虐待、身体的虐待をここまで詳細にえがいておいて、なぜ「虐待」という単語が出てこないのか。虐待被害者は虐待加害者を殺すしか、もう生き延びる道がなかった、とすべての状況が言っているのに、ここにきてまだ「家族のあり方」「学歴偏重社会」だとか抜かしているのは、頭が沸いているのか?社会的養護に至れなかった被虐待児が成人してからも虐待を受け続け、トラウマケアなど遠い話で、物理的に母親という加害者から逃げられなかったという話を、ここまで「マイルド」な表現にしたのには、もはや悪意すら感じる。異常な人間が子供を虐め続けて、そのあげく子供に殺されたというそれだけの話なのに、なぜまだ子供を加害者かのように取れる余地を残すのか。異常な人間は周りがいくら何をしようが異常なまま子供を虐待するので引き離して子供を保護するしか方法がないです。こんな簡単なことをあと何千回この人生で言っていかなきゃいけないんだろう。社会との戦いは続く。私だって、「悪」なんて本当には無いよ、と言いたいよ。でもどこかで線引きしないと、誰も悪くなかったで終わるどころか、被害を訴えたやつが悪い、になっちゃうじゃん。たとえ自分がなんらかの被害を受けたとして、その憎悪の連鎖を断ち切って、自分は加害しない、と、「被害」を引き受けて生きていくのが人間ってもんだろう。好き勝手に加害して生きているやつは、逮捕されて、きちんと刑罰を受けるべき。虐待でもいじめでもなんでもそう。加害者側にも事情があった、っていうけど、事情のない人間なんかいないからね。弱いものを虐めてうさを晴らす人間の事情など斟酌する余裕はこの世にはないと思う。
2024.1.15
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masayonatsume · 3 years
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【ご案内】カフェカウンセリングについて
いつも当相談室をご利用いただきまして まことにありがとうございます。   カフェカウンセリングのご案内をいたします。     ♣カフェカウンセリングはお好きなカフェでお受けいただくことができます。 ご予約時にカフェ店舗を何軒かご案内いたしますが、ご希望の店舗がありましたらお伝えいただけますと幸いです。 *近所の方と会ってしまうのでは、、、とご心配な方は隣町の店舗をご指定いただいても大丈夫です。 【交通費につきまして】 ◆知多市、半田市、東海市、大府市、常滑市、阿久比町、東浦町、武豊町: 交通費無料(カウンセリング料金のみ) ◆名古屋市、高浜市、碧南市、西尾市、安城市、刈谷市、知立市、南知多町、美浜町: 1,000円 ◇その他地域:公共交通機関にかかる費用を別途ご請求させていただきます   ♣周囲の音や景色が気になる場合もあるかもしれませんが、セッションが始まると意外と気にならなかったとい…
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nyantria · 5 years
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今年2018年初めに息子が自死しました。
根本原因は父親からの暴力。
元夫は息子が小さい頃から私の目の届かない所でDVをしてました。
息子が小学生になり、殴られて鼻血が殺人現場のように飛び散っていた事で気付き離婚。しかし離婚するのが遅すぎました。
息子にはDVによる重いC-PTSD(こじれたトラウマ)が残り、
全てに対して自信を持てず怯えた感情のまま成長し苦しみぬきました。
世に言う毒親なんてもんじゃなく、父親は完全な二重人格者。
嘘と見栄の塊で他人に良く思われたい願望が一番。
その為の借金までしていました。天才詐欺師のようだと弁護士から言われました。
元夫は子供を可愛がった事もなく、息子は騙された私を何度も責めていましたが、それは息子の最後の我儘でした。
病院にもカウンセリングにも通いましたが、三つ子の魂百までです。
幼少期からのDVによるPTSDを取る事は医師もできず、苦しみぬき選んだのが、最初で最後の「未来」である「自死」でした。それでも逝くまでには葛藤があり母である私の為に30歳まで頑張ってくれたのです。
息子は苦しまずに確実に逝ける方法を選び、更に考案しました。
亡くなった時のお顔は「阿弥陀如来」様のようでした。
騙された私も責任があります。「死にたい」で検索しこちらに辿り着きました。息子のそばに逝きたいと毎日想っています。
息子は「簡単に何となく」死を選んだのではないのです。
ここにコメントを書いている方で「壮絶なDV経験者」なら理解してもらえるかも知れません。息子はやっと安住の地を見つけたと思っています。
元夫は殺人者も同然なのに、息子が私の為に(長く)生きてくれていた事が原因でDV被害による自死の「時効」で訴訟も出来ない状態です。
すべて私の責任です。
月城さんの文章で思いとどまる方は死なないで下さい。
然し乍ら、壮絶な人生を送った息子は極限までPTSDと闘い、人様を傷付ける事も無く自らの生涯を閉じました。凄い精神力だったと思います。
私は息子を傷付けた責任を取ります。
「生きる辛さの極限」が「死」である場合は「安楽死」に近いかも知れません。
そんな息子の人生があった事を知って頂きたくコメント致しました。
長文読んで頂きありがとうございま��た。
https://www.tukishiro01.com/entry/seikan_kokoranaikotoba
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「こころの診療所.com」心理カウンセラー金城哲夫です。 家族や友人には相談できない辛い悩み、理由のわからない不安、孤独感やさみしさを、ひとりぼっちで抱えていませんか? 私はは、親友のように日々メッセージでやりとりをしながら、あなたの悩みに丁寧に寄り添う、新しいカウンセリングサービスです。また、臨床心理学専門的カウンセリング技法による再発のない形のセッションを行っております。 https://www.instagram.com/p/CMQ2GFDjLuV/?igshid=156tx4islw38k
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kazujp-blog · 4 years
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2014年6月23日 · 公開映画『降りてゆく生き方』公開5周年記念公演に、千葉と茨城の県境、果てしなく田んぼが広がる神崎町まで行ってきました。主演の武田鉄矢さん、「奇跡のリンゴ」で有名になった木村秋則さん、僕の個人的な知人であるフィトセラピストの池田明子さんなど19名の豪華ゲスト陣が登壇されて、「降りてゆく生き方」というテーマのもとに、7時間に渡って語られた濃密な公演でした。中でも個人的に一番印象に残ったのは、「べてる家」理事である向谷地生良さんのお話。「べてるの家」とは、北海道浦河町にある精神障害者の活動施設で、そこで精神障害者の方々は暮らしつつ、働き、療養しています。そして「べてるの家」は地域に根付いていて、浦河町に住む方々も、精神病の方々の突発的な行動に対する最低限の対処法をみな心得ているのだそうです。(突然道端で寝だす人がいても、車に引かれないよう端に動かして、風邪を引かないよう何かかけてあげるなど)たびたび「べてるの家」を訪れているという武田鉄矢さんが、向谷地さんを差し置いて、どんな場所なのか熱く語ってくれました。以下特に印象に残ったこといくつか羅列。●『べてるの家』で言われてること、”勝手に治すな自分の病気”→お医者さんとの関係だけで精神病が治ってしまったら、 その後性格悪くなる。 みんなの中で一緒に治せたら、 その後性格が良くなるということらしい。●「幻覚妄想大会」なる催しが開かれ、全国から毎年400人集まるらしい。→一番感動的な妄想を言った人が勝ちとのこと。●べてるの人に「武田さんも幻覚見るでしょ?」と言われ、→とりあえず合わせて、 「高3の時に坂本龍馬に会ったよ」 と言ったら、 「そりゃあ重症だー」 と笑われた。●人間、一回病気にならないと、本当の意味で健康にはなれないのではないか→病気になることは不幸なことではなくて、 それをどう活かせるかということが問題。→「病気でもいいんだ」 「何でも話していいんだ」 という伸びやかさの中に、本当の健康があるのではないか。 むしろ「人は病気になれる」ということに価値があるのではないか。●「お前らキチガイの存在で町のみんな迷惑してるんだ!」と 怒鳴りつけてきた近所のおばあさんがいた。→おばあさんが去った後、 「理解してくれない人もいるんだなあ」と武田さんが思っていると、 隣にいた患者さんの一人が言った。 「実は今、あの人が一番の重症患者なんです」ちょうど今、個人的に認知行動療法を学んでいるせいか、それらのエピソードがとても温かく心に響きました。自分の心の中で起きていることに気づき、認知する視点が持てたら、その経過を、安心して見守ることができるようになります。「自分の感じている世界」がこの世界の客観的真実だと信じているうちは、幻覚や幻聴を信じて疑わないことと同じであり、たとえ幻覚を見ていたとしても、幻覚を見ている自分を観察する視点を得ることができたなら、外の世界へと繋がる扉がパカッと、開くのだろうなと、そんなことを考えさせられました。きっと、あらゆる健康法も、環境問題も、原発問題も、国際問題も、働き方も、恋愛観も人生観もすべて、自分が信じているものは他者から見たらすべて幻覚だという視点を、常に持てるということ。その上で、自分が信じたいものを選択すること。そのことを、健康や感情が揺らいだときにも忘れないように、心に留めておきたいと思いました。 
向谷地さんのインタビューが載った冊子を ファイルから取り出して読み直す機会を得ました。ロジャースでさえも 援助すべき カウンセリングから 逃亡してしまった話が 載っていました。傾聴、傾聴の世界から 向谷地さんは 実際の体験のなかで 統合失調症という経験を その人の 生きた豊かさのひとつとして、ともに分かち合う、その人たちの世界に一緒に入り込んで そこから君はこんな世界でがんばっているのか・・・という感覚で コミュニケーションをとることを 見出し・・・ その人の 言葉を翻訳し、ひょいとマルをつけてあげる のだそうです。「あたたかな視点」 を もちつづけ、その美しさをいつでも見つめられるようにいたい    のかずさんの 言葉に 勇気をもらえたような気分。さらに さらに  あたたかくなりました。そして、 自分へのマルつけ 大切ですね。
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