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#宮下篤志
niguramu · 2 years
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宮下篤志氏のプレート3種類、久々再入荷いたしました。 盛りつける面を平らにすることにより、盛りつける箇所や食材を彩りやすくしている器です。 #段プレート #プレート #皿 #plate #宮下篤志 #白い皿 #九谷焼 #kutani https://www.niguramu.jp/products/183dpl/ https://www.instagram.com/p/CoErthQPsH1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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nyantria · 29 days
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イードン博士の発言以来色々騒がれている(らしい)イベルメクチンですがナカムラクリニックの中村篤史先生がほぼ現時点でかの薬をどう扱うべきかのファイナルアンサーというか非常に優れたヒントとなる素晴らしいブログエントリーを書いていらしたので転載しておきますね〜
ちなみに私はコロナの存在自体ずっと疑っているのでイベルメクチンを飲む必要を感じなかったし、本当に優れた薬だとしても今まで飲んだことのない知らない薬を個人輸入して飲むなんて怖くて私にはちょっとムリだろ〜とか思っていました。
この度のイードン博士の告発によって私にとっても改めて調べるきっかけになり、とにかく焦って未知の薬には手を出したりしない方がいいんだなってことにまた確信が持てました。
感謝。
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以下、引用転載(前略)
イベルメクチン
2022年11月14日
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コロナへの有効性を検証するイベルメクチンの治験にビル&メリンダゲイツ財団が出資しているという記事。
ビルゲイツといえば、今回のコロナ騒動の仕掛け人のひとりですよ。「ワクチンで人口削減が可能」と公言している人が、イベルメクチンの普及に協力しているわけです。
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「イベルメクチンは、脳に作用しない限り、100%安全です。血液脳関門が正常であれば、イベルメクチンの安全性は確実です。しかしイベルメクチンが血液脳関門を通り抜け脳に到達すると、麻痺や死亡といった副作用が起こります」
イベルメクチンの安全性は、血液脳関門が健全であることが圧倒的な前提になっているわけです。血液脳関門に不���合のある状態でこれを飲めば、何らかの副作用がでる可能性がある。特に血系脳関門が未熟な幼児の服用は避けたほうがいい。
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FLCCC(コロナ問題に危機意識を持つアメリカの有志医師団)は、コロナ後遺症やワクチン後遺症の治療について、イベルメクチンを積極的に推している。そのFLCCCがこんなふうに言っている。
「FLCCCとしては、当団体の治療プロトコルは『ワクチンへの架け橋』であり、ワクチン接種が受けられない人への『セイフティーネット』であると常々主張しています。ワクチンは、多方面から攻める戦略のひとつであり、コロナ感染を防ぐための初期治療に不可欠なものです」
この発言から見てわかるように、FLCCCは、コロナ後遺症やコロナワクチン後遺症に取り組む団体ではありますが、決して「コロナワクチン=絶対悪」などと思っている集団ではありません。基本的に「コロナワクチンは必要なもの」というスタンスです。
イベルメクチンは、こういう団体が治療プロトコルの筆頭に挙げているものだと知れば、イベルメクチンに対する見方もちょっと変わってくるかと思います。
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イベルメクチンを飲んでいるとプリオン病(狂牛病など)のリスクが増えるという指摘がある。
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イベルメクチンを普及させたのはメルク社ですが、その際、WHO、TDR(熱帯病研究プログラム)、OCP(オンコセルカ制御プログラム)、世界銀行など、国連傘下にある様々な機関が動きました。こういうのは「一私企業が頑張った」というレベルの話ではありません。イベルメクチンは完全に”政治”なんです。
ビルゲイツはメルクの大株主だということも知っておくべきだし、メルクは子宮頸癌ワクチンなどの薬害問題で何億ドルという賠償金の支払いを命じられている企業なんだという知識があれば、「イベルメクチンはそういう企業が売り出している薬なんだ」という時点で、何か危険センサーが発動しませんか?
あと、これは個人的な話だけど、僕の知り合いA氏が去年北里の研究所で大村智博士と面会した。大村博士の部屋に案内されたA氏は、博士の”コロナ対策”ぶりを見て驚いた。マスクを着けているのはもちろん、アクリル板越しにしか会おうとしない。A氏は失望した。「イベルメクチンの発明者なんだから、コロナの嘘ぐらい気付いているかと思ったら全然そうじゃなかった。完全なコロナ脳。あの様子だとワクチンも打ってるんじゃないかな」
あくまで伝聞だから真偽の確証はないけれども、仮にこの話が本当だったとすると、発明者自身、イベルメクチンのコロナ感染予防効果を信じてないってことだよね。
いろんな意味でうさんくさい薬だなと思うのよ、イベルメクチン。だから、僕自身は飲まないし、患者にも積極的には勧めない。ただ、ワクチン後遺症やシェディングに著効することがあるのも臨床的な事実。だから、冒頭のセリフになるわけです。「お助けになるようなら使えばいいですよ」と。
イベルメクチン|中村 篤史/ナカムラクリニック
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yamada50 · 2 years
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最北端の延喜式内社 志賀理和氣神社の旧社殿 平安初期延暦23年(804)に坂上田村麻呂によって経津主神、武甕槌神を東北開拓守護神として創祀したと伝わります また当地の紫波郡の地名の由来である神社で盛岡藩藩主南部氏からは「南部一の宮」の号が献じられるなど篤い崇敬を受けました 今日色々神社様のアカウント見ていたら志賀理和氣神社は少し移転されたようで令和三年12月に新築の社殿へと遷座されました この後ろの木のすぐ後方に北上川が流れしばしば床下浸水など被害があったことから国による治水事業の築堤のための移転なのだそう 新たな歴史のスタートとともに、最後の姿を拝すことができたのは幸いでした #志賀理和氣神社 #赤石神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 志賀理和氣神社(しがりわけじんじゃ/しかりわけじんじゃ) 鎮座地:岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1 主祭神:経津主神,武甕槌神,大己貴神,少彦名神,保食神,猿田彦神,船霊神 社格:式内小社 県社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #岩手県 #紫波町 #志賀理和気神社 #神社巡拝家 (赤石神社) https://www.instagram.com/p/Ckvs6DYvY8B/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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jackgreen7777 · 1 year
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2023年 1月 耕讀關東名勝 走訪江戶遺跡
前兩個月才剛結束「步學關西古都;激安大和鑑賞」的大阪京都長輩幼童自由行,稍稍緩解了睽違三年之久,受疫情限制而無法跨境移動的苦澀情懷。
但畢竟是與家人的長輩幼兒團,一天一景點,行動都受到先天上的限制,七天的旅程,總覺得意猶未盡,我都笑著跟友人說,我是去出差當保母的,甚至還有人真誤以為我生了個小寶寶呢!(怎麼會是我生呢?要也是我未來的老婆生)
有鑑於尚有上個旅程未花完少許殘留的日幣,再加上日本觀光產業已經復甦,旅社、商家及各種景點活動都準備周全,我又再次選擇日本為這次旅程的目的地。
其實本來的首選是北海道和名古屋,由於經費有限則將就選擇飛東京先,再看要轉乘去哪裡。
把這次東京行算進去的話,剛好是我第50次出國,第7次去日本、第3次造訪東京了,撇除在澳洲打工度假和菲律賓讀書,東京將一舉耀升成我旅行逗留天數最長的城市,直接擊敗我非常喜歡的義大利佛羅倫斯,和度假耍廢聖地越南河內。
簡單交代一下我此次旅行的行程:
1/6五 搭機:朝馬轉運站 桃園機場第一航廈 樂桃航空mm860羽田機場通關 睡機場 買Tokyo Subway Ticket 48hours(1200円)無限搭乘東京地鐵/都營地鐵
1/7六 明治神宮與新宿:前往新宿放行李 明治神宮參拜 逛韓國街 鬼王神社 歌舞伎町 午餐麥當勞 新宿逛街 晚餐一蘭拉麵 睡Hotel Listel Shinjuku
1/8日 淺草晴空鐵塔:逛雷門觀音街 午餐海產料理 淺草寺參拜 逛晴空塔及周邊百貨 逛東京鐵塔 晚餐松屋 睡Hotel Listel Shinjuku
1/9一 淺草日光:淺草神谷午餐 淺草買票前往日光 逛日光周邊 泡日光當地溫泉 便利商店自製晚餐 住東武公園旅社
1/10二 日光中禪寺湖:巴士中禪寺湖賞雪 華巖瀧觀瀑 午餐華巖瀧餐食 暴風雪過境 鬼怒川溫泉散步 整頓買晚餐 住東武公園旅社
1/11三 日光世界遺產:早餐自理 世界遺產日光東照宮 日光二荒山神社 日光山輪王寺 大猷院 泡和式溫泉 住東武公園旅社
1/12四 日本友人會面:早餐自理前天晚上買好退房東武公園旅社(負評)
春日部郵局 午餐Nakau丼飯
春日部lala garden uniquelo 購衣物 蠟筆小新活動 入住淺草 阿尼中野吃烤肉 住hotel mju 旅館
1/13五 逛街日:退房 放行李 阿美橫町逛街 午餐生魚片 買大草莓 逛秋葉原 晚餐烤串燒 住成田機場
1/14六 返航:酷航酷航 TR875 午餐outlet 搭車回台中
如果有仔細看的話就會發現,別說沒有五星飯店、沒有吃到飽的大餐,還不是每天都有像樣的住宿和飲食。
其實,這就是我的風格。背包客式極簡約自由行,把硬底開銷諸如交通、住宿、飲食降到能力值的偏低,拉長旅程時間,盡情的享受當地人文、祭典、藝術以及世界遺產。
第一次的東京行我往西走,去箱根看富士山;第二次的東京行我往南走,去橫濱歷經跨年;這一次的東京行,我往北走,去日光賞雪看寺院。
這一次我在日光就待了三天,背包客棧發生了很多趣事,有機會見面分享。礙於篇幅字數限制日光的美還有德川家族的故事自己google 。
最後,我要說的是:我在明治神宮進行新年參拜、在淺草寺參加誦經法會、在日光山輪王寺領受祈福、東照宮聆聽龍鳴、華巖瀧觀瀑、中禪寺經歷暴風雪、秋葉原看正妹等,也品茗了許多地方特色美味食物和大和經典藝術創作,與友人一起共同建立交織創造浪漫美好愉悅充實豐盛的旅程回憶。
這幾天就是新年了,祝大家 : 大吉大利 事事如意 一路發財 闔家平安 富貴有餘 福壽雙全 事事如意 四季進財 五福臨門 財源廣進 恭喜發財 招財進寶 年年高升 日日見財 步步高升 成長茁壯 平安喜樂 學業進步 學業有成 身體健康 笑口常開 天天開心 持之以恆 篤志好學 學業有成 前程似錦 樂學苦思 敏銳創新 學業有成 健康快樂 快樂跟隨 健康常在 前程似錦 美夢成真 玉兔迎春 好運兔U 揚眉兔氣 奮發兔強 福兔迎祥 宏兔大展 前兔似錦 錢兔似錦 兔躍納福 福兔賀歲 兔年行大運 玉兔迎春添新象 新春旺市迎玉兔 金兔祈福 闔家幸福 新春開運 鴻兔大展 Happy New Year 兔 you. 萬事如意迎新年 玉兔迎春旺全年 去年虎哩發大財 新春兔來事業展
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」 1~3
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野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第4章「未成の第二極」1~3
欧米列強に倣って近代化を進める大久保たち新政府スタッフと、 急激な変化で「取り残される人々を出してはいけない」とする西郷。
政府を離れた西郷は、新政府のやり方に不満、疑問をもつ者たちの旗印となり、武装蜂起へ。そして鎮圧されてしまう。 世に言う「西南の役」だ。
この本のこの章を読んで、「西南の役」観ががらっと変わった。
西南の役のことは、“武力をふるうしか方法を知らない、時代遅れの人たちの自殺行為"のように語られることがある。 私も「まーそうなんじゃないのかな、いかんよな軍隊とかサムライは」と思っていたのだ。
読み込んだあまたの史料を並べることで歴史を物語る著者が、珍しく、時代への思いを記した2行にでくわす。
《専制への抵抗を西郷が武力で行ったことには賛成できないが、西郷が「国民抵抗の精神」を発揮してその気脈を保たせようとしたことのなかには、今の世の中に失われつつある大事な契機が宿っている。》p188
西郷はいろんな可能性を秘めていた存在だったのだ。
「幕末の志士」になり遅れた、新世代(1850年前後生まれ)の若者たちは、西郷に時代の難題をとく鍵を見いだし、駆け寄った。
その代表として、兆民中江篤介の思想の足跡と、 彼が倣おうとしたルソーの「社会契約論」の希望と限界を、 著者の筆は克明に追う。
そして、中江訳のルソーに感化された同世代の若者たちが、西郷軍に義勇兵として加わった、その思いをたどっている。
小倉処平、宮崎八郎など、何とも惜しい人物の横死に絶句してしまう。 また、時代の迷いを我が身で背負って迷走したかのような増田栄太郎の短い人生。 新聞で報道されたその最後の有様は(本当かどうかは不明だが)やりきれない。長く生きたらどんな答えを見つけたろう。
さらに、この増田栄太郎のずっと年上の又従兄弟、あの、何もかもわかったような顔をしてる(というのは私の感想)上から目線の福沢諭吉が、西郷の死と、増田の問いかけ、そして世論が一いっせいに西郷を賊呼ばわりしたことをうけて、変わったこと。
ここの箇所にはすごく打たれた。どうしてどんなふうに打たれたのか、説明がちょっと入り組んでしまいそうだ。
細かい備忘録はまた明日…… (やっぱり書き留めておきたくて長くなってしまうなあ)
以下、
■中江兆民とルソー ■西郷に希望を託した若者たち ■会津藩士たち ■増田栄太郎と福沢諭吉
という感じでメモしてゆきます。
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wangwill66 · 1 month
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光怪陸離
H:嘗鮮,是對食物而言。對事物的新奇體驗,以光怪陸離,五光十色,甚至五彩繽紛,五花八門。看一些奇幻異聞,鬼怪仙俠的古書。新鴛鴦蝴蝶「花花世界鴛鴦蝴蝶,在人間已是癲;何苦要上青天不如温柔同眠。」形容的很好,人間處處有桃花源,何苦想那青天上的仙境。美好的事物不必遠求,只在你我身邊周圍。
知足常樂得享天堂仙境「一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。若能一切隨他去,便是人世間自在人。」20240816W5
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光怪陸離
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成  語光怪陸離
釋  義「光怪」,離奇怪異的樣子。語出《吳書》。「陸離」,參差錯雜的樣子。#語出戰國楚.屈原〈離騷〉。「光怪陸離」形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。典故說明「光怪陸離」係由「光怪」及「陸離」二語組合而成。
「光怪」是出自《吳書》。孫堅家族的祖墳在富春城東,墳上屢次出現怪異的光景,上頭時常飄著五色雲彩,連綿數里不斷,吸引很多人前去觀看。凡是看過的鄉親父老都說,孫氏要興旺了!後來孫堅出生,果真長相不凡,生性闊達,擁有不凡的操守。
「陸離」則是出自〈離騷〉。戰國時楚人屈原,遭靳尚等人毀謗,被懷王放逐漢北時,作〈離騷〉表明忠貞愛國之心。文中,屈原因為無法解開對現實和理想之間的矛盾,於是上天下地找尋解脫之道。他幻想駕鸞凰、鳳鳥乘風飛升,翱遊天際。一路上有望舒、飛廉、鸞凰、雷師、鳳鳥、雲霓等眾多仙人及侍從伴隨,色彩繁雜而絢麗。後來這兩個典源被合用成「光怪陸離」,用來形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。用法說明
成語用法
成語釋義
光怪:光彩奇異;陸離:開卷參差。形容奇形怪狀,五顏六色。[1]
成語出處
戰國·楚·屈原《離騷》:“紛總總其離合兮,斑陸離其上下。”《三國志·吳志·孫堅傳》裴松之注引《吳書》:“冢上有光怪,雲氣五色,上屬於天,曼延數里。”[1]
解釋:
形容現象怪異、色彩繽紛。參見「光怪陸離」條。《孽海花》第八回:「見船上紮著無數五色的彩球,陸離光怪、紙醉金迷。」
五光十色
音讀與釋義典故說明用法說明辨  識列印   加入筆記
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成  語五光十色注  音ㄨˇ ㄍㄨㄤ ㄕˊ ㄙㄜˋ漢語拼音wǔ guāng shí sè釋  義形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。語本南朝梁.江淹〈麗色賦〉。後亦用「五光十色」比喻內容豐富,變化萬端。
△「五彩繽紛」典故說明「賦」是傳統文學體裁之一,形似散文,但內含詩的韻律,是一種介於詩歌與散文之間的文體。盛行於漢魏六朝,魏晉南北朝時,因應新興的駢偶文風而發展出「俳賦」,此體多採四六對仗的句式,講求嚴格的平仄音律,並喜用典故。江淹為當時著名作家,〈麗色賦〉即其作品之一,內容描繪一位絕色美女的容貌、姿儀。其中一段,文曰:「其始見也,若紅蓮鏡池;其少進也,如綵雲出崖,五光徘徊,十色陸離。」大意是:初見佳人,如見生長於無波如鏡之池中的紅蓮,佳人一動,則如絢爛的雲彩自崖間飄出,色彩鮮麗,燦爛奪目。短短數語,即生動呈顯了麗人的綽約風姿。後來「五光十色」這句成語就從這裡演變而出,用來形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。亦用來比喻事物的內容豐富,變化萬端。用法說明一、
語義說明
形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。
民俗,就是世代相傳的民間生活風俗。世界民俗,就是關於世界各地的民俗。
五花、八門各指古代兵法中的五行陣、八門陣。 後比喻形形色色、變化多端。 如:「這家超商的食品種類真是 五花八門 。」 《儒林外史》第四二回:「那小戲子一個個戴了貂裘,簪了雉羽,穿極新鮮的靠子,跑上場來,串了一個 五花八門 。」
光怪陸離偵探社
《光怪陸離偵探社》是連載於起點中文網的一部懸疑類網絡小説,作者是吾即正道。[1]
該小説講述了陸離面對一扇詭秘之門,門後邪惡低語,奇異生物蠢蠢欲動。怨念之眼、黏糊粉腦、黃衣觀察者、墨綠污泥等奇異存在競相登場,它們以各自的方式發出邀請,共赴一場瘋狂派對。陸離在誘惑與危險交織中,毅然決然地踏入未知領域。
博客來介紹:
巷說異聞錄:光怪陸離的民國軼事
作者:檀信介
語言:繁體中文
出版社:好讀
出版日期:2019/03/01
【奇幻又真實,是故事也是人生】
  本書兼具歷史、名人、志怪、懸疑、推理等多種吸引人的閱讀元素於一身,還能了解到民國初年,民間許多不為人知的神異傳說和風俗習慣。
  ●深受喜愛的志怪故事,引起廣大歡迎與討論,給熱愛志怪小說的讀者帶來一場文化盛宴。
  ●腦洞大開的異聞怪談,天馬行空的奇異想像,感受與眾不同的故事閱讀體驗。
  ●深得中國傳統志怪小說精髓,描繪一個個詭異奇幻的世界,反映人間百態。
  ●魔幻詭譎的故事反映現實中人們對財、色、長生不老的癡求,極具諷刺意味。
 
  【精彩故事】
  〈斬龍角〉:清朝末年,亂世中仍保持桃花源般安靜祥和的袁寨,收留一位能掐會算的「靈卦張」,袁家的運數因此受到巨大影響……
  〈既濟壺〉:北宋末年,汴梁城裡有位小韃子,踢得一腳好球,年過四十依然健美英俊。傳說其家中有個寶物「既濟壺」,因此得以青春不老、容顏永駐……
  〈陰陽魚〉:明朝末年,張獻忠屠蜀,一隊難民發現一處世外桃源,偌大的村莊只有一對形影不離的男女。圍繞這對男女,譜寫一曲哀婉的亂世悲歌。
 
  【導讀賞析】歷史作家、譯者/廖彥博
  檀信介帶著讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。
收回
目錄
●破地獄
●斬龍角
●買竹籌
●賣鬼記
●斬鬼嬰
●金簪記
●既濟壺
●陰陽魚
【導讀賞析】近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》/廖彥博
導讀賞析
近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》
廖彥博(歷史作家、譯者、《一本就懂中國史》作者)
  對中國大陸的讀者來說,民國是一個既陌生又熟悉的時代。
  鴛鴦蝴蝶,旗袍馬褂,上海十里洋場,南京梧桐森森,我揮一揮衣袖,他達達的馬蹄,凡此種種,共同在影視作品裡構成人們心中對於民國風華的美好想像。可是民國也是神秘而落後的,甚至是迷信而妖魔橫行的。原因很簡單:不這麼著,很難突顯出「當今」橫掃一切牛鬼蛇神之後的現代和進步。
  對台灣的讀者而言,民國則是一個既熟悉又陌生的時期(注意和前者的排序)。
  鈔票硬幣上、公家文書上、報紙刊頭上,民國還是進行式,就在我們生活呼吸之中。可是民國也是截然兩分的:屬於歷史的那一大段,曾經顏色鮮明的、氣壯山河的存在過的民國歲月,四海歸心、堅苦卓絕的激戰年代,大多數台灣人已經不復記憶。
  檀信介的《巷說異聞錄》替我們把既熟悉又陌生的歷史連接起來,而且還開啟了一扇魔幻又真實的觀景窗。中國文學的傳統裡,一直有著「志怪文學」的傳統。《山海經》以降,漢晉的《淮南子》、《搜神記》,唐傳奇、宋元話本、明清筆記小說,我們在荒山野嶺,感覺到陰風陣陣,或是捅破紙窗,看見女鬼畫皮,不管你的出身籍貫、政治立場,相信文化基因裡都有著妖怪活躍的身影。
  而檀信介則帶讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。故事光怪迷離,看官們不禁眼花撩亂,可是驚魂甫定,卻又嘖嘖稱奇:誰能說這些「魔神仔」不存在?
  《巷說異聞錄》由〈破地獄〉、〈斬龍角〉、〈買竹籌〉、〈賣鬼記〉等幾則故事組成,故事的舞台,正是清末到民國、抗戰勝利那段熟悉又陌生的歲月,幾個歷史上響噹噹的大人物,比方做過大總統、也登基當過八十三天皇上的袁世凱,還有我們台灣讀者算是相當熟悉的「蔣故總統經國先生」,在故事裡也出奇不意,客串亮相。看他們出場的時機,扮演的角色,起到的作用,一定會讓讀者們會心一笑。
  留學蘇聯、篤信唯物主義的「太子」蔣經國,如何運用起茅山道術,去摧破汪精衛政權的秘密金庫?又怎麼會引來一場多年無法偵破的連續命案呢?且讓我們翻開這部《巷說異聞錄》。
維基文庫
麗色賦
作者:富嘉謨 唐本作品收錄於《全唐文/卷0235》
姊妹計劃: 數據項
客有鴻盤京劇者,財力雄倬,誌圖豐茂,繡轂生塵,金羈照路。清江可涉,綠淇始度,拾蕊歲滋,摘芳奇樹。錦席夜陳,苕華嬌春,瑤台吐鏡。翠樓初映,俄而世姝即,國容進,疑自持兮動盼,目爛爛兮昭振。金為釵兮十二行,錦為履兮五文章,聲珊珊兮佩明璫,意洋洋兮若有亡,蹁躚兮延佇,招吾人兮由房。凝釭吐輝兮明燭流注,願言始勤兮四坐相顧,時峨峨而載笑,唯見光氣之交騖。夜如何其夜遲遲,美人至止兮皎素絲,秉明心兮無他期。引鄉何其夜已半,美人至止兮青玉案,之死矢兮無彫換。既而河漢欲傾,琴瑟且鳴,餘弄未盡,清歌含韻。歌曰:「涉綠水兮采紅蓮,水漫漫兮花田田。舟容與兮白日暮,桂水浮兮不可度。憐彩翠於幽渚,悵妖妍於早露。」於是覽物遷跡,徘徊不懌,起哀情於碧湍,指盛年於光隙,擊節浩歎,解珮嘉客。是時也,楊雄始壯,相如未病,複有鄒、枚,藉藉荀令。鹹娛座客,嬉妙情,灑豪翰,動和聲。使夫燕姬趙女,衛豔陳娥,東門相送,上宮經過。碧雲合兮金閨暮,紅埃起兮彩騎多,價奪十城之美,聲曼獨立之歌,況複坐弦酌而對瑤草,當盛明而謂何?
百度百科
新鴛鴦蝴蝶夢創作背景
在1992年10月的一個晚上,黃安抱着女兒到樓下去散步,突然他聽到一段旋律,黃安趕緊回家迅速記下了這段旋律。這是一段中國五聲音階的旋律,琅琅上口,於是便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的原始素材。有了曲子後還需有詞相配才可以。黃安覺得那段旋律頗有古風,於是他翻開唐詩,一翻便翻到李白與杜甫的詩。在李白的《宣州謝朓樓餞別校書叔雲》中,有這樣一段描述,“棄我去者,昨日之日不可留,亂我心者,今日之日多煩憂,抽刀斷水水更流,舉杯消愁愁更愁,人生在世不稱意,明朝散發弄扁舟”,黃安僅是稍加修改便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的第一段歌詞。[2]
歌曲歌詞
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱
人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
共2張
歌曲MV
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠。
博客來介紹:
知足常樂
作者:林高樂
語言:繁體中文
出版社:大拓文化
出版日期:2011/09/08
內容簡介
  一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。
  如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。
  若能一切隨他去,便是人世間自在人。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
收回
目錄
第一章  一花一世界,一木一浮生
昔時佛祖拈花,惟迦葉微笑,既而步往極樂。從一朵花中便能悟出整個世界,得升天堂,佛祖就是佛祖,誰人能有這樣的境界?佛曰:一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。這一切都是一種心境。參透這些,一花一木便是整個世界,而整個世界,整個人生也便空如花木。
1.眾生平等
2.慧能收徒
3.達摩是個老和尚
4.老和尚是寶
5.生命如琴弦
6.俗眼無珠
7.聖人無名
8.物極必反,盛極必衰
9.淡泊以明志
10.人生的底線
11.美在靈魂
12.一切皆同
13.玉缽
14.一個無法滿足的人
15.財富、成功、愛
第二章  緣起即滅,緣生已空
佛說:修百世方可同舟渡,修千世方能共枕眠。前生五百次的凝眸,換今生一次的擦肩。今生的一次邂逅,定然孕育前世太多甜蜜或痛苦的回憶。萬發緣生,皆系緣分!偶然的相遇,驀然回首,注定了彼此的一生,只為了眼光交會的剎那。
1.生與死
2.怨也是緣
3.境由心生
4.一切都是緣,要學會包容
5.愛是生命最好的養料
6.心中有路
7.緣起緣滅,泥濘留痕
8.人生有個檸檬就做杯檸檬汁
9.不要為明天的落葉操心
10.因緣
11.一切皆隨緣
第三章  大悲無淚,大悟無言,大笑無聲
生活不一定是轟轟烈烈的,有時平平淡淡才是真!
功名利祿樣樣俱全,固然求之不得,但現實生活中的大部分人,還是與其不擇手段,換取名利雙全,不如平平淡淡,粗茶淡飯來得更真真切切。
1.超越生死的境界
2.忘我,不被世俗所束
3.普化圓寂
4.愛的回報
5.沒有什麼不能做
6.沉默人生最可貴
7.弦緊弓斷,學會放鬆
8.自然是福,自然最美
9.從容是一種人生智慧
10.人生如過客
11.隨遇而安
12.享受平淡的生活
13.過程比結果重要
14.真正快樂的生活
15.幸福是一種感覺
16.生活的境界——順其自然
第四章  心不動,人不妄動,不動則不傷
人生在世如身處荊棘之中,心不動,人不妄動,不動則不傷;如心動則人妄動,傷其身痛其骨,於是體會到世間諸般痛苦。
充滿誘惑的塵世間,你的心是否堅不可摧,是否能抵擋得了這一重又一重的衝擊?
1.天堂地獄一念間
2.放下包袱
3.保持一顆寧靜的心
4.快樂是自己的事
5.放下是一條解脫之道
6.「偷」來快樂
7.愛的責任
8.心境不同
收回
前言
  一方古剎、一尊佛像、一襲衲衣;化緣為生、清貧孤獨、無慾無求,青燈木魚常伴左右。世人心中禪者的佛門生活就是這樣的不食人間煙火。
  如果你也這麼想,那麼,就大錯特錯了。
  佛曰:「普度眾生。」眾生為何意?很簡單,就是全人類。自從釋迦牟尼創立佛教到達摩初祖歷盡艱難曲折將佛教帶入中國的那一天起,它就與我們的生活息息相關。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
  沒有錢的時候,我們煩惱;有了錢,我們空虛。——窮得只剩下錢。
  沒有愛情的時候,我們失落;有了愛情,叫人頭疼。——愛情價雖高,自由更可貴。
  不出名沮喪,出了名鬱悶。——人怕出名,豬怕壯。
  近在我們身邊的禪,能幫你化解所有這些問題。
  菩薩心腸,有容乃大。
  再厚的寒冰,太陽出來都會溶化;再冷的飯菜,柴火點燃都會煮熟。要做太陽,溫暖別人;要做柴火,成熟別人。遇事學會換位思考,你會發現,你的人緣會越好,你也會越快樂。
  知足常樂,無慾則剛。
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今週の入手本(20240212〜0218)
『地衣類、ミニマルな抵抗』(ヴァンサン・ゾンカ著/宮林寛訳/まえがき、カバー写真:大村嘉人/序文:エマヌエーレ・コッチャ/みすず書房)。地衣類を扱った書籍というだけで心がワクワクしてきませんか?私はします。
『読書アンケート 2023 識者が選んだ、この一年の本』(みすず書房編/みすず書房)。執筆者(目次記載順)加藤茂孝、白木賢太郎、土田昇、野田正彰、花崎皋平、徳永恂、上村忠男、齊藤誠、渡辺政隆、永田洋、服部文祥、加藤尚武、小澤実、藤井省三、堀川惠子、川那部浩哉、鎌田浩毅、榎本空、栩木伸明、豊下楢彦、小沢節子、酒井忠康、山田稔、佐藤文隆、宮下志朗、原武史、細川周平、山口二郎、沼野充義、奥山淳志、白石直人、大野克嗣、𠮷田徹、根本彰、竹内洋、青山直篤、山内一也、油井大三郎、重田園江、大島幹雄、柿沼敏江、頭木弘樹、根井雅弘、佐藤文香、坂内徳明、岡崎宏樹、倉田徹、斎藤真理子、朽木祥、宇野邦一、松本潤一郎、宮地尚子、酒井哲哉、飯田隆、永江朗、新城郁夫、草光俊雄、武藤康史、岡田秀則、江口重幸、松家仁之、斎藤修、石川美子、大井玄、妙木浩之、水島治郎、新田啓子、ブレイディみかこ、山崎雅人、䕃山宏、澤田直、阿部公彦、最相葉月、阿部日奈子、西平直、福嶋聡、キャロル・グラック、犬塚元、小谷賢、斎藤成也、三原芳秋、生井英考、和田忠彦、瀬名秀明、小野寺拓也、宮﨑裕助、郷原佳以、今村真央、川端康雄、三島憲一、板橋拓己、松本俊彦、神庭重信、増田耕一、巽孝之、石原千秋、上野千鶴子、長谷正人、早川尚男、田崎晴明、李静和、野崎歓、野家啓一、姜信子、勝俣誠、成田龍一、富士川義之、市村弘正、栗原彬、松沢弘陽、伊佐眞一、梅津順一、廣瀬浩司、蔵屋美香、十川幸司、千田善、鈴木布美子、國分功一郎、堀潤之、近藤和彦、鎌田慧、佐藤良明、小松美彦、丘沢静也、斎藤環、三中信宏、亀山郁夫、増田聡、鈴木了二、小沼通二、轡田收、野谷文昭、川本隆史、伊藤憲二、ノーマ・フィールド、吉岡忍、早川由真、小谷真理、鵜飼哲
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ishiwarawoshitemoji · 9 months
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天皇氏族の特徴
天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究⑬) | 宝賀 寿男
ここでは、天照大神や神武天皇の日本列島内における祖系を遡って探究するとともに、この天皇氏族・天孫族の様々な特徴を探り、それに関係した諸氏についても見ていく。検討すべき問題が多種多様で、それぞれが大きい問題を含むから、本書が紙数の制約のもとにあることを念頭におき、これまで検討してきた結論的なものを整理して、予めある程度示さざるをえない(このことを先ずお断りする)。
わが国天孫族の主な動向
これまで公刊してきた拙著『「神武東征」の原像』や『息長氏』など古代氏族シリーズ)を通じて、天皇氏族の基本的な人物たる神武天皇と一族近親、臣下・関係者について、各々の原像を具体的に示してきた。それらなどを踏まえて、以下に要点を記す。
神武天皇などの初期天皇:神武は、当初に居た北九州の筑前海岸部(天孫降臨伝承にいわゆる「日向」。具体的には筑前の早良・怡土両郡あたり)から、兄・彦五瀬命とともに畿内に東征を試み、紀伊の紀ノ川滞上ルートで大和侵攻に成功して、奈良盆地南部地域あたりを押さえ、大和朝廷の初代の大王(天皇)となった。治世時期は概ね紀元一七五~一九四年の約十九年間とみられる(資料編に掲載の表「古代天皇の治世時期の推定」を参照)。この東征は、邪馬台国本体の東遷ではなく、筑前の支分国の庶子・一族関係者による小勢力の東征活動にすぎない(要は、「神武東征」という事件はあったが、それは「邪馬台国本国の東遷」ではない。当地での前途を悲観した庶子たちによる他地への分岐活動という意味)。
神武に関連して現れる随行・敵対の人々と崇神天皇関係者とを比べれば、それぞれがまったく異なっており、「神武=崇神」という同一人物のはずがない(神武は崇神の五世代ほど前の祖先る)。鏡を象徴とすろ太陽神信仰(この奉祀勢力)の中心が北部九州から畿内に移動したと認めても、それが直ちに邪馬台国東遷だとみるのは論理の飛躍である(筑後川流域と大和盆地の地名の類似も、物部氏東遷の影響のほうが強いか)。
北九州の在地には、神武東征当時はまだ邪馬合国もその怡土支分国もともに残り。その後の一世紀半ほどの期間は、北九州と畿内に各々の王権勢力が列島内に並存した(三世紀中葉頃は、畿内のほうの勢力はまだ小さいから、列島内で二強の王国が並立という構造。規模ではない)
神武の後のいわゆる「闕史八代」の諸天皇は、実在性を否定する根拠に乏しい、。邪馬台国の九州残滓勢力は四世紀中葉頃には滅ぼされたが、これは、最終的には畿内王権・景行天皇の九州巡狩に因る(従って、古田武彦氏の言う「九州王朝説」は成り立たない)。大和王権がほぼ確立した崇神天皇の時代には、日本列島のうち本州主要部を版図としたが、西側は吉備ないし安芸くらいが西限であって、その勢力は北九州にはまだ達していなかった。
神武の父はは、天孫・瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊(山幸彦)で、母は海神族首長の娘・玉依姫である。
『記・紀』に神武の父とされるウガヤフキアエズノ尊(彦波瀲尊)は山幸彦嫡出の長子であって、実際には神武の嫡兄である。その子孫が怡土支分国の王家を継いでいったとみられるが、後裔の系譜や存続の詳細は不明である。
天照大神:高天原を主宰する男性神であり、名を天活玉命(生国魂神)ともいう(論拠は様々に異なるが、山片蟠桃以降、男性神説もかなり多い。天照大神は、卑弥呼ではないし、推古天皇や持統天皇など実在者の反映でもない。後世に造作された架空の人物でもない。本書では詳説しないが、拙著『「神武東征」の原像』『息長氏』等を参照のこと)。天稚彦の親として神代紀に記される「天国玉」や、天照御魂神にも相当する(鈴木真年著の『古事記正義』)。
天照大神は天皇家の遠祖だが、決して抽象神ではなく、神武の四代祖先という具体的な生身の人間である。長子の天忍穂耳尊(天忍骨命)の嫡子が天火明命(この神は物部祖神ではないことに注意)で、この系統が本国・高天原(筑後川の中下流域で、久留米市の高良山麓に本拠)の邪馬台国王を継いでいった(これも後商やその存続の詳細が不明で、大和王権側の記録には残らない。景行天皇の九州巡狩や神功皇后遠征の時の討滅対象のなかにあったものか)。
天火明命の弟が、高天原から筑前の「日向」へ天降り(移遷)した者で、これが瓊瓊杵尊である。祖先の居住地から支庶の者が分かれて新天地に遷ることを、東北アジアのツングース系の上古伝承では、「天からの降臨」という形で把握する傾向があり、日本列島でもその例にもれない。東北アジアの習俗・伝承を視野に入れない議論だから、こんなことは実際にありえず、後世の造作だと安易な速断をすることになる。東アジアの太陽神は、殷の太陽神俊や高句麗の例のように、全てが男性神であった。なお、記紀のいう「高天原」及び「日向神話、出雲神話」の舞台は、全て北九州にあった。
日本列島への到来者:本書では、以下に具体的に検討を加えるが、天孫族の分派が初めて分かれるのは、天照大神の諸子から始まるという形の分支流の系譜などから見て、天照大神のあまり遠くない祖先が北九州に到来したとみるのが自然であろう。
「倭人」を江南にあった呉の太伯(周王朝ど同族で姫姓)の裔とする伝承は、『魏略』逸文などに見えるが、種族・経路や時期等から見て、その支配層については疑問が大きい。すなわち、上古の「倭人」』の人々の大宗を占める海神族が越人(タイ系種族)と同種族とは認められるとしても、二世紀前半以降に北部九州における倭国連合体の長たる地位についた天皇家の先祖は、これとは系譜・種族が異なる。国の主な住民とその上に立つ支配層とは、朝鮮半島古代の例を見ても、別途考えることが必要である。
弥生時代に日本列島に渡来した主な種族・人々では、江南から(朝鮮半島南部を経て、稲作・青銅技術などの弥生文化をもって渡来した部族と、これにかなり遅れて、東北アジア地方(とくに中国東北部及び朝鮮半島)から渡来して鉄鍛冶技術をもった部族という二系統の部族があった、これら種族と、縄文時代から列島原住の人々(一種族ではないかもしれないが、とりあえず一括して「山祇族」としておく。総じて、クメール系種族)との混合体が「弥生人」とされよう。だから、単一種族として弥生人を捉えてはならない。なお、始皇帝によって東海に派遣され斉国の琅邪郡から船出した徐福が日本列島にある国の祖となったと言う「徐福伝説」は、肥前佐賀や紀州熊野などにあるが、とるにたらない。
天孫族の始祖・スサノヲ神
わが国における天孫族(皇統)の具体的な始祖から検討に入ろう。この始祖神としては、天照大神ではなく、「五十猛神(伊達神、射楯神)」(イタケル、イタテ)があげられる。この神は、『書紀』に言う、たんなる新羅からの渡来神ではない。別名を「渡し神(和多志神)、度津神」と言い、これは外地の韓郷から渡来してきたことに因る。佐渡一宮で式内社の度津神社(新潟県佐渡市羽茂飯岡)は海上交通の守護神として五十猛命を祀るなど、日本各地で同名で祀られる(『神道大辞典』など)。
この神の記事は少ないが、『書紀』第八段(宝剣出現)の一書第四および第五の記事に見える。素戔嗚尊が子の五十猛神を率いて先ず新羅国に天降り、そこから舟を作って出雲に渡ったとあり、また、五十猛神が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたとある。そうすると、韓地からの最初の到来地はむしろ筑紫になるし、渡来航路的にはそのほうが自然である。このように、韓地(朝鮮半島南部)からの渡来が『記・紀』に明確に記されるのは、天日矛(天日槍)より前の時代の神・人では、ほかにいない。五十猛神と妹二神(大屋姫命、抓津姫命。実態は妻神か)が「伊太祁曽三神」として紀伊国名草郡の名神大社で篤く祀られており、奉斉者が紀伊国造よりも紀臣氏(系譜は皇別とされるが、実態は天孫族系)とみられる事情にも留意される。
記紀神話では、その父「スサノヲ」は、高天原にあっては天照大神を困らせる暴れん坊神で、天照大神と争って敗れており、それによる追放後の「出雲」では開拓者的に描かれる。その終焉の地が出雲という伝承もあり、出雲市佐田町須佐の須佐神社(風土記・延喜式に記載)が祀られる。その攝末社に天照社・厳島社・須賀社などがあり、境内に千数百年という老杉や蘇民将来の祭もある。スサノヲの子の大国主神の子、加夜奈留美(女神?)の子孫と称する須佐氏が永年奉斎するが、少なくとも系図の初期段階などには疑問があり、出雲国造一族が祭祀に関与したか(瀧音能之氏が須佐神社周辺の地をスサノオ神の本貫とみるのは疑問で、ここには同神は到来しておらず、子孫と称する家が祀っただけのこと。出雲国造一族が奉斎した神社も当初は熊野神社が主で、杵筑神社(現・出雲大社)でも長い間、祭神がスサノヲであった)。
スサノヲは、その子孫という大国主神を通じて地祇の三輸氏・賀茂氏や住道首などにつながるという系譜を伝える。これが『姓氏録』大神朝臣条や『旧事本紀』地祇本紀などに見える子孫の系譜であり(前者の大神朝臣条では、素佐能雄命の六世孫が大国主と記される)、『古事記』では「いわゆる出雲系」の多数の神々に通じる系譜が紀載される。しかし、五十猛神と大国主神との関係はこれら系譜では不明なままである(五十猛と大国主とは、祖先・子係の関係にない。出雲の大国主神の父は天冬衣命と伝え、その祖系のなかにも五十猛は見えない)。
このため、「スサンヲ」という神には複数の神格(人格)がおるようにみられている。実際には、このような名・通称で呼ばれる者が一族・同系統で複数いたり(部族長の通称的な使用もあるがか)、子孫が祖先の伝承を伴って各地へ移遷、展開したともみられる。朝鮮神話に見える檀君も、スサノヲに擬せられたり、高句麗からの渡来系氏族・八坂造氏が京都祇園(感神院祇園社)で祀る「牛頭天王」も、中国神話で牛首人身神とされる炎帝神農氏(赤帝)や蚩尤(兵主神)という頭に角をもつ武神(戦神)、兵器製造神にも通じる。わが国ではこれら神々の実体がスサノヲ神(ないし大己貴命)に通じるとされることが多い。蚩尤が鉄神とも言われる。
この「スサノヲ」の名は、同一部族(天皇氏族)の根幹系統を通じて、遠い祖先から見える「通称」ではないかと把握される。すなわち、五十猛神自身がスサノヲ(の一人)に相当するとしたほうがよい。五十猛神を祀る式内社は、出雲六社、播磨二社、紀伊二社など全国合計で十五社もあり、これら地域分布からは天孫族系の出雲国造族が主に奉斎したことが窺われる。これに関連して、わが国で兵主神を祀る式内社は、近江国野洲郡及び大和国磯城郡など名神大社三社を含め、合計で十九社もあり、うち但馬七社、因幡二社、近江二社、播磨二社、丹波一社などという地域分布に留意される(この辺に着目すると、但馬出石に落ち着いた天日矛一族が、韓地の新羅あたりから当該兵主神をもたらした可能性も考えられる)。
兵主神社の祭神は、いまは大己貴命、素戔嗚神などとされて、特に前者とされることが多い。これは、本来の祭神で鍛冶神たる八千矛神が、大穴持命に通じる大己貴命と混同され、出雲に兵主神の神社分布が多い事情に因るものか。八千矛神という神は、『書紀』には見えず、『古事記』で高志の沼川比売の求婚譚などに見えて、大国主神の別名として扱われる。同神の子には、「御井神」も見える。御井神は木伺神ともいわれ、多くの樹種をもって天降り、広く大八洲に播種したと伝える五十猛神の縁者というのがふさわしい。滋賀県蒲生郡日野町の八千鉾神社は、大屋彦神(五十猛神のこと)を祭神とする。銅矛・銅戈や銅剣は分布が北九州に多くあり、銅矛の出雲出土はあまり多くないので(最多出土の荒神谷遣跡でも、銅矛十六本に対し、銅剣が三五八本の多数で出土)その意味でも出雲の大国主神が八千矛神とされるのにはしっくりこない。
八千矛神とは、実はイタテ神(伊太弓、伊達、射楯こと五十猛神)のこととみられる(その場合、御井神とは高魂命〔高木神〕のことか)。銅矛・銅戈の出土が肥前唐津辺りに多く、銅剣も含めて銅製武器が北九州に多く出て、これが「銅剣銅矛分布圏」という把握もある。日本列島では、弥生Ⅰ期に朝鮮半島から銅矛が到来し、鉄矛は同Ⅲ期に出現して古墳時代中期以降盛行した(『日本考古学事典』)、とされるから、鉄矛も併せ持って渡来したのが天孫族か。天孫族の広い範囲に入るとみられるのが、新羅からの渡来を伝える天日矛(天日槍)である。唐津市の宇木汲田遺跡からは多数の銅剣・銅矛や多鈕細文鏡などが出土しており、天孫族の足跡を示すものか。
イタテの神は新羅系の韓鍛治の奉祀した神だと窺えると、真弓常忠氏は指摘する(『古代の鉄と神々』)。中国の原型である「兵主神」が額に角を持ち鉄を食べる蚩尤(上記)とされており、わが国で同神にも比定される五十猛神が角凝魂命(「角+鉄塊の意味の凝」)という別名をもつのも肯ける。吉野裕氏は、『風土記』の研究などから、早くに『風士記世界と鉄王神話』(一九七二年刊)や『素尊鉄神論序説』(一九七三年刊)を著し、スサノヲが鉄神だとみた。この鉄神性を同神に認める見解が多い。
端的にいえば、複雑な性格ゆえにスサノヲ神(素戔嗚神)の位置づけが難解であり、たいへん重要なのである。これが、記紀にイザナギ・イザナミニ神の子で、皇祖神たる太陽神・天照大神の「弟」とされたり、大己貴命の祖先とされたりと様々に混同が生じた(実際、記紀で天照大神と争った「戦った」という意味をもつ「スサノヲ」は、大己貴など海神族系の祖という性格では、別神としたほうがよい。現実の出雲と、実体が葦原中国〔筑前海岸部の那珂川波域〕たる記紀神話の「出雲」とを、八世紀段階の記紀の編者たちは混同したことなどに因る。
人皇ノ鼻祖という鈴木真年の指摘
一般には、記紀神話の影響で、スサノヲ神の子ないし子孫(六世孫『姓氏録』ないし七世孫)が大己貴命(大国主神)で、いわゆる「出雲族」(あるいは海神族)の祖神がスサノヲ神と受けとられている。
しかし、大己貴命は海神族の系統の祖神であるが、そうであっても、スサノラヲ神とは男系血筋でのつながりがなく(スサノヲ神後裔の女性を妻の一人としたことは考えられるが)、両神が血統一系というのは原型・実態とは異なる(両神の血縁関係を否定する先学の見解はかなりある。例えば、瀧音能之・藤岡大拙氏など。スサノヲの子に「八千矛神」がおり(五十猛神のことか)、兵主神社で該られるが、これが大己貴命と混同された結果、スサノヲの子ともされたものか)。ともあれ、「出雲神族」という概念は紛らわしく、使用には留意される。
スサノヲによる八俣大蛇(八岐大蛇)の退治の伝承も、竜蛇信仰をもつ種族のトーテム獣を退治したのだから、海神族の祖神であるはずがない。もっとも「八俣大蛇=九頭竜」という見方もあるようである(ギリシャ神話に出る竜迷体の巨大怪物ヒュドラーも九つの首をもつ)。これが、『古事記』では「高志之八俣遠呂智」と表記されるが、「高志」が越すなわち北陸地方とまでは、スサノヲの活動地域から読みとれない。ともあれ、皇威に抗う荒神(荒ぶる水神)の象徴として大蛇がでてくることになる。
この伝承も、同神が居て活動したのが北九州だとしたら、竜蛇信仰をもつ種族・国々(海神族系種族の国、主に奴国か)の退治・平定を意味したのだろう.スサノヲについて、韓地から渡来の鉄器鍛冶集団が信奉する神という説はかなりある。火山の神という見方もあるが、これは火に関わる鍛治神の祖神、竃の神からの転訛の可能性もあろう。
明治期の国学者で系図研究者の鈴木真年は、その著書『日本事物原始』や『古事記正義』で、この神について概ね次のような主旨で記している。
「素戔鳥命トハ人皇ノ鼻祖二坐シテ、二神ノ真名子タリ。故二、天神此葦原中洲ヲ賜テ、国土ツ開闢セシム」(適宜、句読点を付した)と切り出し、高天原から天降って新羅の牛頭方(楽浪郡のうちの地)に至り、伊太氐命(亦名を五十猛命、大屋毘古命、伊太祁曽命、神平多命)・速須勢理比売を生み、その後、太白山(平安北道寧辺の妙香山に比定。平壌の東北方)の下に至り檀木の下に互市(陸上での交易)するなど人事や社会運営を教え、これを国人が追末して檀君という。また神櫛玉命(亦名を櫛御気野神、気津御子神。すなわち、熊野大神)ともいう。
その子の伊太氐命を率いて東海に入り、多くの樹木種ををもって出雲国に着き、須賀の地に宮居したが、伊太氐命は妹と協力して樹木の種を各地に分布した。素戔鳥命の子の天忍穂耳命を、天照大神は子として養って天子の位につけた。」(ここで天忍穂耳命を「子」とするのは、天安川の河原における天照大神との伝承から、スサノヲの実子と考えたものか。ただ、この見方には疑問あり、実際にはスサノヲの子孫となろう。後述)
こうした真年の把握には疑問な点もいくつかあるが、スサノヲ神がわが国の「人皇ノ鼻祖」だという基本は妥当な線だとみられる。天照大神が男神だという性格(夫婿が知られずに子孫を残す女性が古代大族の祖先系図にはまったく現れない事情もある)や忌部氏の上古系図等を参考にして、これら記紀の記事を総合的に考え併せる必要がある。そうすると、韓地から日本列島に渡来してきた、わが国天孫族の始祖(天照大神の更なる違い祖先)こそがスサノヲ神であって、五十猛神とも同神(ないしその父神)だとみるのが適当となる。朝鮮の始祖とされる「檀君」(後述するが、後世の造作神となろう)とほぼ同種の性格をもつ神という程度は認めて良い。
十世紀後葉の北宋に、日本の東大寺の僧・奝然らが雍熙元年(九八四)にやって来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主を初代とする皇統譜には、第十八代に素戔鳥尊(その前代が伊奘諾尊)、第十九代に天照大神尊、第二四代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、天照大神の先代に素戔鳥尊があげられることに留意される。
スサノヲがスガの地に居たという上記伝承からか、全国の須賀神社はスサノヲを祭神とする例が多い。同社は、牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社で、全国に広く存在し、島根県・高知県に特に多い。これら須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」「天王社」と称していた。牛頭天王は、播磨の広峯神社などでも祀られるが、同社は天孫族の針間国造の領域にあって、同じく凡河内国造一族が長く奉祀した。
なお、素戔嗚命の実体について、卑弥呼と対立関係にあった「狗奴国王」を考える説もあるが、これは根拠に乏しい想像論である(狗奴国の性格・習俗についての誤解が基礎にある)。また、習俗・祭祀やトーテムが異なる大国主神(海神族系氏族の祖)の父祖でもない。
八幡神の実体
豊前の宇佐八幡でも、祭神たる八幡神の実体が五十猛神だとみられる。応神天皇家や宇佐国造など天孫族の一派の実際の遠祖として、八幡神が考えられる。字佐国造は、高魂尊の裔孫の宇佐都彦(菟狭津彦)を国造初祖とするが、高魂尊の先が五十猛神とみられる。
弘仁五年(八一四)の太政官符や『宇佐託宣集』等に拠ると、字佐郡の小倉山の麓に八つの頭が一つの身体についた奇異な風体をもつ鍛冶翁がおり、金色の鷹となって示現し、その姿を見ようと近づく者の半数が死亡したが、神官(辛島勝乙目とするのが原型か)の祈持に応じて三歳児童の姿で八幡神が出現し、「我は始め辛国に八流の幡となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身なり」と託宣したという。こうした伝承などから、八幡神はもともと鍛冶神とする見方も古くからある(柳田国男氏ほか)。
後世では八幡大神にも擬せられる応神天皇は、実際の系譜は宇佐国造一族の支流の流れをひく鍛冶部族の息長氏に出ており、遠祖は神武に始まる王統と同じで、高魂命であった。金色の鷹は、金鵄や八咫烏にも通じる天孫族のトーテムである。
素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える傾向)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神として広く奉斎された。これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟神は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと神話に伝える。
こうした両様の複雑な性格をもつ素盞嗚神は、本来は性格ごとに別々の人格神かとも考えるのがよいかもしれない。そのなかでも、最も主なものとしてはわが国天孫族の祖となる(こうした見方は、私の氏族研究の結論的な部分だけを記したので、分かり難いかもしれないが、紙数制約や論旨展開上の見地から、本書ではこのくらいに止める。以上の記述に関連して、本シリーズの『息長氏』『三輪氏」』などをご参照)。
天孫族の祖系と祭祀
現存の天孫族系統の系図では、天照大神より先へ遡る神統譜を記すものは少ないが、『姓氏録』では若干は記事が遺る。それが、角凝魂命を遠祖とする系譜をもつ諸氏(鳥取連・鳥取、委文連・宿祢〔倭文連・宿祢〕、竹原、美努連、税部〔鴨県主一族〕や額田部宿祢〔物部氏同族〕、雄儀連などで、殆どが少彦名神の流れ)である。
角凝魂命を祀る神社は全国で少ないが、鳥取連が奉斎した和泉国日根郡の式内社、波太神社(大阪府阪南市石田に鎮座。もと桑畑村、東鳥取村で、同国神名帳に従五位上波太岐社と記載。府社)の祭神として鳥取連の祖・天湯河板挙が垂仁朝に祖神を創祀したと伝える。波多の地名は肥前国松浦郡にもあり、当地に波多八幡神社(佐賀県唐津市北波多稗田で、宇木汲田遺跡の西南近隣)が鎮座する。「波多」は秦韓・辰韓に通じるものか。
忌部氏の系図(「斉部宿祢本系帳」」や「宮中八神」などを基礎にして、始祖の五十猛神以降の初期段階の歴代を整理、推定してみると、概ね次のようになる(第1図)。ただ、妻神(后神)は難解であり、推定の度合いが大きい。
各々の遠祖神が異なる複数の神名をもつことに留意されるが、天照大神は「斉部宿祢本系帳」では「天庭立命」として表記される(この名に近い「天壁立命」も天背男命の父神で左京神別の宮部造の祖とされるから同神となる)。
この神は、大阪市天王寺区の生国魂神社(東生郡の難波坐生国咲国魂神社)で奉音される神であるこれが、信濃国小県郡では名神大社の生島足島神社(長野県上田市下之郷)でも祀られて、その祭神が大八嶋を統べる「生島神・足島神」とされる。摂津国川辺都(兵庫県尼崎市栗山町)の生島神社では、生島神・足島神、天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那岐・伊邪那美神をいま祀る(祭神の名に重複がある)。
この生島神・足島神は、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀ともみられる八十島祭の主神とされる(この祭は、文献初見が文徳天皇の即位時の嘉祥三年〔八五○〕九月で、鎌倉前期まで廿二回確認されると言うが、由来は上古に溯るのだろう)。『延喜式』神名帳には、宮中八神殿で御巫祭神八座のなかで生産日神・足産日神(『古語拾遺』では生産霊・足産霊)として祀られ、神祇官に坐しては生島巫祭神二座として生島神・足島神があげられる。両名は併せて夫婦神(その場合、足島神のほうは妻神か)と���られ、男神は伊久魂命とも天活玉命ともいわれる。天照大神という名では、『延喜式』神名帳では宮中坐神三六座のなかに見えないし、『姓氏録』にも諸氏族の祖先として見えないことに留意される。なお、天活玉命を祀る神社は少ないが、越中の高瀬神社(富山県南砺市高瀬。同社は五十猛神も合祀)や讃岐の大麻神社(寒川郡の大蓑彦神社。香川県善通寺市大麻町)という式内社があげられる。
『書紀』には生申の乱の時(天武天皇元年〔六七二〕七月廿三日条)に生島神が見える。そこでは、高市社に坐す事代主神と牟狭社に坐す生霊神が神憑りして、神日本磐余彦天皇之陵(神武陵で、『書紀』にいう畝傍山東北陵か)に馬と種々の兵器を奉納すれば、両神が天武軍の前後に立って守護すると告げたが、この生霊神が生島神(生国魂神)に当たる。いま畝傍山の東北の裾、橿原市大久保町域(旧洞村)にある神武陵旧跡と伝える地の近隣には、生玉神社が鎮座する。
『古事記』には「天津国玉神」とも表記されるが、これは、天若日子(天稚彦。天照大神の子で別名が天津彦根命、天背男命、天湯河桁命であり、出雲国造や物部氏など鍛冶部族や鳥取部等の祖)が大国主神のもと(葦原中国)に派遣された事件に関連して見える。
その父神が高皇産霊尊であり、上記の宮中八神殿で祀られる高御産日神にあたる。この神のときころに筑後川流域に至って定着したとみられる。この神を天孫降臨の指揮者として皇祖神のはじめに置く見方が学究には多いようだが、上記系図に見るように更に父祖の神々を伝えることに多意される。
「宮中八神」の意義
ここまでに宮中八神にも触れてきたが、『延喜式』神名帳の冒頭に掲げる「宮中八神」には十分留意される。
すなわち、宮中神として大社三十座小社六座があり、そのうちの筆頭に「御巫等祭神八座」並大、月次新嘗とある神々で、①神産日神、②高御産日神、⑤玉積日神(玉積産日神)、④生産日神、⑤足産日神、⑥大宮売神、⑦御食津神、⑧事代主神、の八神があげられる。さらに、「座摩巫祭神五座」並大、月次新嘗として生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五神、「御門巫祭神八座」並大、月次新嘗として、櫛石窓神と豊石窓神が四面門各一座、「生嶋巫祭神二座」並大、月次新嘗として並大の生嶋神、足嶋神の二神があり(ここまでが「神祇宮西院坐御巫等祭神」とされて、合計が二三神)、更に、「宮内省坐神三座」並���神大、月次新嘗として薗神社、韓神社二座��「造酒司生神」大四座、並大、月次新嘗として大宮売神社四座が掲載される。
「宮中八神」の次ぎにあげれる神々は、御門神(八座)を除くと、おそらく八神の異名・異称で重複するものだろう(ただ、座摩巫が祭る五神は、「大宮地を守り坐す霊神」とされるが、その実体は難解・不明。五神はみな始祖神関係の異名かもしれず、「生井、福井、綱長井」で三井・御井、「波比祇、阿須波」が五十猛神に通じるか)。そして、その皇統譜のなかで大祖先神としての位置づけにあった神々ではなかろうか。具体的には、天照大神夫妻を含めそれ以前の三代の夫妻神とみられる。上記の「第1図天孫族の初期段階の系譜」は、こうした見方のうえで推定記載をした。
注意すべきは、最も重要な天照大神にあたる神の名が二つ(玉積産日神、生産日神)あり、対偶を持たない「事代主神」があって、合計で「八神」となっている点である。天孫族系統では、「八」という神聖数をもっていた。
さて、ここの「事代主神」の実体は何だったのだろうか。抽象神としての意味は、「神憑りして神託をくだす神」であり(松前健、佐伯有清などの諸氏)、特定の固有名詞とされる必要はない。ところが、この神は、一般には地祇(国津神)・三輪氏族の祖で、神武天皇の皇后の父神が指される。これは、後代の諸天皇の母系祖神として理解が出来ないわけでもないが、それならば、天照大神の邊遥か後代の神であって、宮中祭祀のバランスを欠く。
そこで、「姓氏録』を見ると、天神としての「天事代主命」(天辞代主命、天辞代主命)が存在したとわかる。この神を祖神とするのが、左京神別の畝尾連、右京神別の伊与部、大和神別の飛鳥直の三氏であり、これら諸氏の系譜を考えると、みな中臣連一族の初期分岐となる(伊与部条には高媚牟須比命の三世孫と記載も、これは疑問)。畝尾連の一族は和泉神別にもあげられ、そこでは「大中臣朝臣同祖。天児屋命之後也」と記載がある。しかも、高市郡明日香村に鎮座の飛鳥坐神社(並名神大)では、事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神を祭神とする。すなわち、天事代主命とは中臣氏の大祖神(天孫降臨痔の天児屋根命の父祖神か)の位置づけということになるが、そうすると、天照大神も含め、この神から遡って三世代の夫神の誰かの舅神で、天孫族系統の母系の祖として特掲された可能性があり、この場合には「宮中八神」に所掲の神々の活動年代とも符合するものとなろう(現在の当該飛鳥神社の祭祀では、転訛された影響で、有名な三輪の事代主神と混同されている)。
なお、{宮中八神」のなかに、元は「倭大国魂神」(実体は九州所在の大己貴神)も含まれていたとみる見解(若井敏明氏『「神話」から読み直す古代天皇史』)には反対である。天照大神以前の上古歴代の舅神の位置にはいないからであって、『書紀』崇神天皇大年条の記事には疑問がある。不祭祀のイザナギ・イザナミの諾冊二神も、実体をもつ神ではなかった。
韓国イタテ神の列島渡来
『延喜式』神名帳のはじめに、宮中で祀られる神々が「宮中坐神三十六座」としてあげられる。そのなかに宮内省に坐す神の三座(並名神大)があって、薗神(園神)の社と韓神の社の二座がある。この「韓神」こそ韓(伽耶)から渡来した五十猛神を指す。ちなみに、御巫等祭神の八座にあげる神産日神も大始祖たる五十猛神にあたるとみられ、五十猛神の妻神の御食津神(御膳神)も同八座のなかに見える。この女神は豊受大神でもあり、食物主宰の倉稲魂神(稲荷神)で保食神なのだから、薗神にあたるとみるのが自然である。織物と酒造を司る女神、大宮売神にも当たりそうな可能性もあるが、それを留保しつつ、この関係では別神としておいた(関連して言うと、丹波国多紀郡式内社の大売神社【兵庫県篠山市寺内]は、大宮売神を祀るが、「オーヒルメ」神社と読まれている。大宮売がアメノウズメの別名だとする平田篤胤説や、これに通じる『古語拾遺』の記事は誤りとみられる)。
かつて、黒板勝美博士は、天照大神より前の神々が皇室の祖先として奉斎されていないとの理由で、それらの実在性は認めがたいと考えた。しかし、上記のように現実に別の神名で宮中で永く奉斎されてきた。出雲でも、神産日神も神魂神社の名で、意宇郡六社の一としてあり(松江市大庭町)、出雲国造が長く奉仕した。同社は神火相続の神事で知られる。
「園韓神」には一に大己貴神・少彦名神・大物主神をあてる説もあり、平安京遷都以前に京の地を支配したのが渡来系の秦氏だとして、園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神とみる説(水谷千秋氏)もあるが、ともに論拠薄弱である。
園韓神社は宮中では唯一の名神大社であり、応仁の乱頃までの宮殿の宮内省に鎮座した。この神格・鎮座地からみても、秦氏にふさわしいとはとても言えない。例祭は園韓神祭といわれ、『江家次第』では神部四人が榊・桙・弓・剣を持って神楽を舞ったと見え、『百錬抄』では大治二年(一一二七)の大内裏火災で園韓神の御正体を取り出そうとした折に神宝として剣・桙があったと見える。帝王鎮護の神という役割や、皇祖神の系統からみても、これは始祖神の五十猛神夫妻とするのが妥当であろう。もとからこの地にあって平安遷都に伴い遷座させようとしたら、帝王を護りたいという託宣が韓神からあったとも伝える(本来は鴨県主奉斎か)。
御食津神はオオゲツヒメ(保食神)でもあり、穀物神(稲倉魂命)でもあった。五十猛神は大屋毘古神とも呼ばれ、一緒に植樹につとめた妹・大屋毘売(大屋津姫)は、名前の対応から考えて、「妹」とは実際には「妻」の意であろう。紀州にはこの女神を祀る神社もある(和歌山市字田森に鎮座の大屋都姫神社など)。この妻神は白山信仰の菊理媛命にも通じ、水神の罔象女神であり、多様な神格と名をもつ。八幡大神の妻神たる比売大神でもあって、宇佐八幡宮で祀られる。水神が竜神に通じ、仏教での同種の弁財天にも通じる祭祀もある。
筑後国御井郡や豊前国田川郡(豊比咩命神社という名で、いま香春神社に合祀)など各地の「豊比咩神社」の祭神であって(神武天皇の祖母とされる「豊玉姫」ではないし、「神功皇后の妹」のことでもない)、伊勢神宮外宮の豊受大神にあたる。香春の豊比咩神が宇佐の比売大神に相当すると岡谷公二氏も指摘する(上掲書)。豊比咩(豊姫)については、高良神の妻神という見方もあり、この辺の可能性を留保しつつ、比売大神という見方で一応、考えたい。
比売大神については宗像三女神説(宇佐神宮・石清水八幡宮の立場か)もあるが、大分県杵築市の奈多宮では、沖合の市杵島(または厳島)と呼ぶ岩礁に比売大神が降臨したと伝えるから、主祭神八幡神(=五十猛神)の后神で、端的に市杵島姫神と考えたほうがよい(その系譜は不明だが、天照大神の娘のはずはなく、海神族的な色彩があるものの、幹地から共に渡来したか、既に北九州にあった種族の出かは判じがたい)。
この女神は、水神の性格からは淀姫(興止姫神、世田姫)にもあたる。肥前国一宮たる佐嘉郡の與止日女神社(河上社。佐賀市大和町川上)、予賀神社なども含め、肥前中心に二十数社の多くで祀られ、とくに佐賀県の嘉瀬川流域に六社もあって祭祀が集中する。夫神・五十猛神と同様、石神の性格ももつ(脊振山に鎮座の脊振神社は、弁財天社ということで本地垂迹で市杵島姫を祀るが、この神にもあたる〔瀬織津姫や蛇神の宇賀神にもあたる〕。山城国乙訓郡の式内社、与杼神社〔京都市伏見区淀〕でも写る。安芸宮島の上厳島神社〔伊都岐島神社〕や近江の竹生島神社〔浅井郡式内社の都久夫須麻神社〕、相模江ノ島でも、市杵島姫【弁財天】を祀り、竹生島では、併せ宇賀神・浅井姫・龍神も祀る。淀姫が、一に「八幡大神の叔母、神功皇后の妹」とされるのは訛伝)。
唐津市呼子の加部島(別名が姫島)の宮崎鼻に鎮座する田島神社(松浦郡の式内名神大社の田島内神社)は、肥前最古といわれ唯ーの大社とされる。本殿の裏には磐境(祭場)とみられる地があり、立った三個の巨石や二個の平石、太閤祈念石と呼ばれる巨石もある。
加部島は、韓地・大陸への交通を考えると「道主貴(ちぬしのむち)」の鎮座地にふさわしく、市杵島姫を含む宗像三女神が礼られる(神名帳には「一座」と表記)。そうすると、韓地釜山(ないし対馬)辺りから筑前大島・沖ノ島を通る海路が「海北道中」と一般に解されるが(「海北」=は朝鮮半島を指す)、当該経路は、倭韓間の海上交通における当初のメインルート「壱岐・対馬を経由の線」だとみる田中卓博士の見方のほうが正しいものか。宗像大社では、九州本土の宗像市田島の地に辺津宮(総社)として現在、市杵島姫を祀る(『古事記』では、市杵島姫は中津宮、辺津宮鎮座は田寸津比売と記す)。
道主貴は、『書紀』(巻一第六段の一書第三)に「筑紫の水沼君等が祭る神」と見えており、水沼君(水沼県主)は佐賀君(佐喜県主)と同様、火国造同族とみられるから、これら諸氏の祖神でもあろう。『旧事本紀』天皇本紀には景行天皇の皇子のなかに武国表別命をあげ、筑紫水間君の祖と記される(同人は、「円珍俗姓系図」に讃岐の和気公・因岐首の始祖とされ、九州の阿蘇君・火君らの祖とみられる。『書紀』景行段に見える水沼別の始祖・国乳別皇子かその近親にあたる。同書の記事では、「弟の豊戸別皇子。是火国別之始祖世」と続ける)。
水沼君氏一族は、筑後国三潴郡の豪族で、久留米市西南部の大善寺町にある大古墳、御塚(全長約一二〇詩という帆立貝式古墳。中期古墳か)及びその北隣の権現塚(外径が全長約一五〇計かともいう。後期古墳か)の築造者とみられている。東北方近隣の同市高良内町には、これらに先立つ石櫃山古墳(全長が百計超【最大で一一五潮というで、境輪式を出土)もあったが、消滅した。久留米市北野町赤司に鎮座の赤司八幡宮(御井郡惣廟を称)がもと豊比咩神社といわれ、與止比咩命・高良大神や道主貴(三女神)、すなわち宗像三女神が祭神で、祠官家が水沼君氏との伝え(境内碑文)もあるが、領域からやや離れる感もある。
「韓」を冠する五十猛神
延喜式の神名帳には全国各地の官祭に関わる多くの古社があげられるが、そのなかで「韓」が頭につけられる神���五十猛神のみである。多くの樹木の種を持って大八洲に植えたと伝えて、紀伊国をはじめ各地で多く祀られる。わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多くあり、全国で十五社を数える。
とくに、出雲には最多で合計六社もある。それが意宇郡・出雲郡に集中するが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する。これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか。そして、これら出雲国内の六社が全て、韓国伊太氐神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられる。当地の曽枳能夜神社境内の韓国伊太氐夫神社(島根県出雲市斐川町神水)揖夜神社境内の韓国伊太氐神社(同県松江市東出雲町揖屋)など、韓国伊太所神社が出雲国の九郡中で意宇郡と出雲郡とに三社ずつ見られる(出雲国意宇郡の条に、①玉作湯神社、②揖夜神社、③佐久多神社に「同社坐韓国伊太氐神社」があり、西側の出雲郡条にあっても、「同社(神)韓国伊太氐神社」としての阿須伎神社、⑤出雲神社、⑯曽枳能夜神社が同様)。
このほかの式内社では、薩摩国曽於郡の韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市国分上井)も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀る。ここでも、とくに「韓国」を冠した神社の名前になっていることに留意される。これらの事情も、ての神の韓国からの渡来を示唆する(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座する。
この朝神新羅神社、出雲国出雲郡の韓竈神社(産銅遺跡のなかに鎮座)や安芸国御調郡の賀羅加波神社のほうは、素戔鳴命を屯るというが、五十猛同神か。
五十猛神については、記紀に見えるのは上記の一箇所だけであるが、イタテ神としては、『播磨国風土記』餝磨郡の因達里(姫路市街地の北部)の条に伊太氐之神が見える。因達里の伝承が、神功皇后が韓地征討で渡海する際、先導神としてその御船の上に鎮座したのがこの神である、という内容なのだから、「韓国」を冠しないイタテ神の場合にも韓国との関係がみられると石塚俊氏は指摘する。これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)である。イタテ神が神功皇后の先祖・天日矛にも通じるとしたら、祖神たちの加護を受けてその祖国の韓土に進攻したことになる。関連して、九世紀後半の貞観期当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで、日本を新羅から守る目的で韓国伊太氐諸社が建立されたという説(瀧音能之氏)は疑問が大きく、この神の祭礼の由来は更に古かった。
伝承では、イタテ神は韓地の新羅から直接渡海し、日本列島に着いて出役に入り、そこから紀伊に遷ったようにうけとられる。出雲・紀伊には関係社が多くあり、出雲の西隣の石見国安濃郡にも、現・大田市五十猛町に五十猛神社と韓神新羅神社がある。五十猛命の降臨地としては、奥出雲、出雲国仁多郡の鳥上峰(船通山、鳥髪山)という伝承もある。これも、天孫族関係者が高山に天降りするという所伝の一環である。
九州の太宰府付近にも鳥髪山に相当するような山(例えば基山〔後述」」とか砥上岳(遠賀川源流地)がある。一方、対馬、壱岐を経由して九州の有明湾岸に上陸とも伝えるから、多くの関係請社や遺跡などの分布を具体的に見ると、やはり韓地→対馬→筑紫という地理的に自然な経路をとったとみられる。そこで、次ぎに北九州の分布を見てみる。
九州の五十猛神
対馬では、対馬島の北端で河内湾に臨む地に鎮座する岩立神社(岩楯神社ともいう。対馬市上対馬町大字河内)がまずあげられる。素戔嗚尊が韓土よりお帰り(到来か?)の時に、この浦に船を寄せたと伝える。元来、本社は岩楯の地に在って神籠磐境だといい、社殿がなく森の中に磐石があって、これを神位とする。
同名社では、備前国和気郡にも、磐梨別君氏(垂仁天皇後裔と称するが、実際には息長氏の一支流の和気氏)の奉斎とみられる同名の石立神社(現・備前市麻宇那)があり、社殿の下に大磐石があって、岩石崇拝に創まるとされる(『神道大辞典』)。姫大神も祀られ、近隣の北側対岸には祇園神社・磐井神社、稲荷神社や荒神社もある。石立神社の南方の備前市域、日生には高良八幡もあって、その社叢もウバメガシが占める海岸林で知られる。対馬の那祖師神社(対馬市上対馬町豊。島大国魂神社も合祀)など数社も、五十猛神を祭祀する。
大和にも同名社が添上郡式内社であり、「天乃石立神社」と記載される。現社名を天石立神社(戸磐明神)といい、奈良市柳生谷、戸岩山の北麓(奈良市柳生町の岩戸谷)にあって、本殿をもたず、鎮座する巨岩を直接拝する形態をとる。四つの巨石の総体が天石立神社と呼ばれるが、なかでも中心の丸い巨岩(きんちゃく岩と呼ぶ)が日向神社で、これが天照大神を祀り、他の三つは門神(豊磐門戸命、櫛磐門戸命)と天岩戸別命に当てられる。地域的に考えると、同社は磐梨別君同族の山辺県主一族が祭礼に関与したものか。
北九州の五十猛神祭礼では、筑前国御笠郡の筑紫神社(福岡県筑紫野市原田)や同国早良郡の五十猛神社(同県福岡市西区金武)が著名である。前者では、筑前・筑後・肥前の交通要衝に、筑紫の国魂たる筑紫大明神として祀られる。その別名の白日別神は、太陽神にも「日向」になも通じる。早良郡の西職りの怡土・志摩両郡(現・糸島市域)にも、五十猛神を写る神社が多い。王丸の白木神社前原の酒神社、草場や西浦の白木神社などがそれであり、潤神社も含め、その旧名が「白木神社」とするものも多い。これらの白木神社の群や、密集する白木の地名は新羅に因むといい、朝鮮半島由来の遣跡や伝承に彩られる。
肥前では、基山を神体山とする荒穂神社(佐賀県三養基郡基山町宮浦)がある。筑紫神社の後背地にあたる基肄郡の基山山頂には五十猛神が祀られ、玉々石という巨石の磐座や五十猛神伝承による「日本植林発祥之地」という石碑がある。同名社は、基山の別宮として、遠賀川上流域の福岡県嘉麻市牛隈(旧・嘉穂郡)にもあるが、祭神がニニギの尊で、元宮が馬見神社という。
『筑後国風土記』逸文には、荒ぶる「麁猛神」が筑前と筑後の境界に居て、往来の人々の半数を殺すので、筑紫君等の祖・甕依姫を祝にして祀ったと見え、麓の荒穂神社で祀られる。この実体が五十猛神とみられる。この地に朝鮮式山城の基肄城が築かれ、瓊瓊杵命が基山で国見をしたとの社伝もある。アラは伽耶の安羅(慶尚南道の咸安あたり)にも通じるし、「基肄」は紀伊国造の紀直氏や武内宿祢後裔と称した紀臣氏の「キ」にも通じる。杵島郡の稲佐神社・妻山神社(ともに同県杵島郡白石町域)なども、五十猛神やその眷属神の祭祀で知られる。
日本列島に杉などの樹種をもたらしたことで、各地の紀伊神社や杉山神社の祭神とされることも多い。とくに武蔵南部(旧都筑・橘樹両郡や横浜市港北区域)には、五十猛神を祭神とする杉山神社の分布が多い。これは、五十猛神を奉じた人々・部族がこの地域の開拓を進めたことに因るものであろう。
九州に戻って、五島列島、福江島の北部に位置する五島市(前・南松浦郡)岐宿町岐宿に巖立神社(岩立三所大権現)があり、社叢は椎の大木やナタオレの木などの原生林として長崎県文化財に指定される。対馬のイワタテ同名社に通じ、ここでは宗像三女神等を礼るが、本来は市杵島姫を祀るものか。長崎市香焼町の岩立神社では、境内に樹齢推定二百年という古木のエノキ(市指定天然記念物)がある。
岩立神社について言えば、このほか、出雲の東隣の伯耆西部にも同名社があり(祭神はいま大山祇命とされるが、疑問)、大山中腹の鳥取県西伯郡伯耆町岩立に鎮座する。ここでも、樹齢推定二百年、という樅・杉・銀杏の巨樹群が社を深く覆うことで有名で、裏山には「岩滝さん」と呼ばれる古くから信仰の対象とされた巨石があり、周辺に岩立古墳群もある。近隣の金持神社(同県日野郡日野町)や石見の物部神社別天神(島根県大田市川合町)などに祀られるのが、天之常立神である。この神は天地開闢の際に、別天津神五柱の最後に現れた神で、天(高天原)そのものの神格化ともされるから、具体的には五十猛神を指すのかもしれない。国常立神は、国土守護神ともされる。
これら五十猛神と眷属神を祀る神社や関連遺跡は、北九州では天山を含む背振山地の周囲に濃密に点在する。天山は、同山地の西部側、佐賀県のほぼ中央部に位置し、唐津・小城・佐賀・多久の各市に史る。その標高一〇四六㍍は、同山地東部の最高峰、脊振山(標高一〇五五㍍)に次ぐ。
この辺の事情を踏まえ、天孫族の様々な特徴を次ぎに見ていくことにしたい。
鳥トーテミズム
天皇家・天孫族には、鳥トーテミズムや、始祖の卵生伝承らしきものなど、鳥にまつわるものが多くある。古くは「天の鳥船」や「八咫烏の先導」の伝承があり、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承も代表的であって、その墓の候補のいくつかには「白鳥陵」という命名がある。
河内の古市古墳群にある津堂城山古墳は、前期末頃の巨大古墳で、倭建命の陵墓に擬される。すくなくとも、当時の大王一族関係者の陵墓とみられており、辺十七㍍の方墳状の特殊な施設には、巨大な水鳥形埴輪三体が配されている。この水鳥はおそらく白鳥ではなかろうか。烏型の埴輪は全国的に分布するが、応神天皇陵に比定される誉田山古墳や継体天皇供の可能性が大きい今城塚古墳でも見られ、これらに先行する。古墳の周濠から鳥形木製品が出土した例もあり、天上と地上を結ぶ聖なる動物という意味以上に、こうした鳥トーテミズムが大王一族にあったから祭祀に使われたものだとみられる(鳥形木製品や鳥装シャーマンは弥生時代から見られるが、穀霊信仰の現れとするのは疑問か)。中国の長江中・下流域にあった河姆渡文化期には鳥と太陽が象徴化されるとの指摘もある。
こうした鳥トーテミズムは、同族の息長氏から出た応神王統にあっても同様である。『記・紀』などに見える大雀・隼・雌鳥・鷺などを名にもつ応神・仁徳近親の王族も、鳥トーテミズムの現れであろう。この系統の遠祖、少彦名神は鳥の神様ともいえ、天日鷺翔矢命の名ももつ鳥取部造の祖神でもあった。
応神天皇自体が、宇佐八幡の伝承に、金色の鷹が金色の鳩に変じし、さらに小児となって現れて「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗ったと伝える(『八幡宇佐宮御託宣集』)きも。この金色の鷹は、菱形池のほとりにいた鍛治翁の化身とされる。応神の前身(若い頃)は、垂仁天皇の皇子・ホムチワケ(品遅別、誉津別)として記紀に登場する(「ワケ」の名からして、垂仁の皇子ではありえないが)。ホムチワケは成人してもものを言わなかったが、空をいく白鳥の声を聞いて初めて話をしたので、山辺の大鶙が命をうけ捕らえたとの伝承がある(記紀に多少差異があるが、捕獲者は少彦名神後裔の鳥取部造の祖)。「大鶙」は鷲鷹類の鳥を表す名(通称)であり、これに対応して『書紀』に見える名の「天湯河板挙」とは、実際には祖神の名であって、少彦名神の親・天若日子(天稚彦)の別名とみられる。
全国各地には白鳥神社が多くあり、日本武尊(倭建命)の伝説に因むとするものが多い。これらは、総じて天孫族諸氏の祭祀にかかるとみられる。福岡県にも白鳥の地名や同名社が多く鎮座する。順不同であげると、朝倉市白鳥・柳川市三橋町白鳥・京都郡みやこ町節丸字白鳥など白鳥の地名や、久留米市荒木町白口、田川市猪国、嘉穂郡嘉穂町馬見、八女市黒木町大淵、八女郡矢部村北矢部などに白鳥神社が鎮座する。大分県にも同名社が多い。久留米市白山町や神埼市神崎町城原にある「白角折神社」(前者の地ではシラトリ、後者ではオシトリと訓む)も関係社とみられ、後者には樹齢千年起という楠の巨木がある。
神武の大和侵入に際しては、八咫烏が道案内し、金色に輝く霊鵄(実体は八咫烏同神で、少彦名神後裔によるトーテム表示)が皇弓の筈(弓の弦をかける所)に止まって、抵抗する長髓彦軍の平定に助力したという伝承もあり、天孫の徵表が天羽羽矢であったとも記される(『書紀』)。天日鷲翔矢命(少彦名神の別名)の后裔には、長白羽神(天白羽鳥命)、天羽槌雄神や鴨族諸氏がいる。鍛冶神たる天目一箇命や少彦名神兄弟の父・天若日子(天津彦根命)は、自ら雉を射抜いた「反し矢」によって殺害されたが、その葬儀に際して、川鴈・雀など多くの鳥が役割を担ったと『書紀』に記される(割註では、本文より多くの鳥の名をあげる)。
これは、『春秋左氏伝』の昭公十七年条に見える山東省南部の夷系の国、郯子国の多くの鳥の名を付ける官名に通じるようであり、松本信広氏は、死者の魂を他界に連れていく鳥の観念と関連すると説く。朝鮮��島南部の弁辰(弁韓)でも、死者を天上に飛揚させるため、大鳥の羽根を用いて死者を送るという風習があった(『三国志』魏書弁辰伝)水上静夫氏も、中国の中原東方には郯子国など鳥トーテムをもつ諸氏族があり、殷族がこれらと一群の種族だとみる(『中国古代王朝消滅の謎』ー九九二年刊)。郯子国(郯国)は山東省郯城県(山東半島の基部の南方)の西南境に位置し、春秋時代に魯の属国であったが、東夷族の祖・帝少昊の後とされ、嬴姓の国とされるから、秦・趙や徐、黄、江、李などの国・君と同族である。山東にあった大国・斉は、もとは秦と同じく嬴姓の蒲姑(薄姑。殷代の侯爵国)の領域といい、少昊自体もその別名の「鷙」が手で鷹鷲をしつ執るという意味だとされる。
白川静氏も、金天少昊氏と山東の郯子とは同じ系列に属するとみる。殷は種族的には夷系に属するとし、殷の王朝的規模は、倭の五王期とあまり異なるものではなく、殷墟に残される十三基の地下王陵は、わが国の仁徳、応神の諸陵にほぼ匹敵し、殷が直接支配した地域も、西日本の全域程度のもので、絶対年代の異なることを除けば、両者の条件はきわめて似ている、と指摘する(『中国の神話』)
殷の始祖の舜には、もと太陽神であったらしい形跡があり、アマテラスの信仰と似ているといえよう、とも言う。
中国では、『春秋左氏伝』より更に古い『逸周書』の「王会編」に、鳥トーテムをもつ異族が見える。周王が成周(いまの洛陽)に壇を築いて万国を会集する状況を記述するなかに、森林が密集する山陵地帯の異族が多く奇鳥喘禽を献じており、鳥トーテミズムをもつ秦の出自がこの方面たあると白川静氏も指摘する(上掲書)。これら西方の庄爽は、黄河上流域山陵部の森林密集地帯(上古代の当時。内蒙古のオルドス地方か)のあたりに居たとみられる。
日本では、天若日子は、子の少彦名神を通じて、鳥取部造の遠祖でもあった。鳥の名をもつ人名(神名)も天孫族系統にかなり見られる。先にあげた天日鷲翔矢命の一族のほか、素戔嗚尊自体が須佐能烏命とも書かれる。出雲国造の遠祖・天夷鳥命(天鳥船命、武日照命)の実体が、鍛冶部族の祖・天目一箇命に通じると、別書(『越と出雲の夜明け』)で述べた。同国造の初祖の名は崇神朝の鵜濡渟命と伝える。国造家の遠祖・櫛八玉命(伊佐我命のことで、天夷鳥命の子)は、鵜となって水に潜り、水底で採取した埴土(赤土)で「天八十毘良迦」(多くの平たい土器)を作り、料理人となって大国主神に供膳したと伝えるが(『古事記』の国讓​りの段)、その伝承を思わせる名である(すなわち、「鵜が潜く沼」だから、一種の通称か)。
これと同祖の鍛冶部族・三上祝氏一族でも、鳥鳴海命(三上祝の祖)、速都鳥命(穴門国造の祖)、意富鷲意弥命(師長国造の祖)等の鳥の名の人々が見える。長門の穴門国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいだが、鍛冶神天目一箇命の後裔で天孫族たる近江の三上祝の一族であり、代々が式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社。山口県下関市一の宮)に奉仕した。その由来は、託宣を行って韓地征討に功績のあった住吉三神の荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に祀つた、と『書紀』神功皇后摂政前紀に見える。同社(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。
北九州でも、吉野ヶ里貴跡を始め弥生時代の出土品には、杆頭にとりつけられる木製の鳥製品が頻出する。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(鳥竿。杆頭に木製の鳥をつけて寺院の入口等に立てられ、「ソッテ」などとも呼ほれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祭祀った)につながる。鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分遺跡でも出ている。こうしたソッテの習俗は、ウラル・アルタイ族に普過的な信仰である北方的祭天儀礼と位置づけられ、シャーマニズム文化に帰属する(萩原秀三郎氏の「稲と鳥と太陽の道」)。
始祖の卵生神話
高句麗の祖・朱蒙(東明王)は、日の光に感精して生まれた卵から成長し、弓の名手であった鶏卵のような精気が天上から降りてきて女が妊娠し生まれたとも伝える。こうした所伝は早く、「好太王碑文」等にも見えており、始祖鄒牟(朱蒙のこと)は天帝(ないしその太子の)の子で卵を割って出生したとある。東夷の祖神・帝少昊の子(一に子孫)の揮は初めて弓矢を作り、張姓を賜ったと伝えるが、わが国の鳥取部・弓削部・矢作部を管掌した氏(鳥取連・弓削連・矢作連)は天孫族の出で、いずれも遠祖が少彦名神であった。
『魏書』やっ『隋書』等の高句麗伝では、高句麗の高官や使者は冠に「二本の鳥の羽」を挿すと記されており、これも鳥トーテミズムに関係しよう。「東明編」(高麗の李奎報の叙事詩。一一九四年成立)には夫余の祖・解慕漱(へ・モス)が頭に鳥羽冠をかぶり五竜車に乗り、百余人のお供はみな白鵲に乗って天降りしてきたと記される。この解慕漱が河伯の娘・柳花を娶るに際して、河伯との変身合戦で最後に鷹に変じて圧倒したので、ほんとうに天帝の子だと認めたという記事もある。高句麗には烏骨という城(遼寧省鳳城市に残る鳳凰山城で、高句麗最大の山城)、烏拙という大官(十二官位のうち第六)もあり、鬼神・社稷・霊星(農業神)を祀った。
古くは『逸周書』」王会篇に、周王朝第二代の成王が諸侯を招集したとき、高夷が見えており、これが高句麗族の源流だと、『隋書』を編纂した唐代の孔穎達が言い、鵠(白鳥類-のトーテムを祀るとする。「高夷」は遼寧省撫順市周辺に居たともいう。
新羅の国王初代で朴王家の祖・赫居世、金王家の祖・金閼智や昔王家の祖・脱解や、伽耶の金官王家の初祖・首露にあっても、卵生神話や誕生時に鳥にまつわる伝承(金閼智の場合は、その到来を白鶏が告知)がある。
わが国の天皇家には、鳥類にまつわる卵生伝承は端的な形では見られないが、これが天孫降臨の際の真床覆衾に関連するといわれる。この真床覆衾は、殷の王権・即位の儀礼に見られる「綴衣」という先王の用いた衾に通じると白川静氏がいう(『中国の神話』)。殷は東夷系で、玄鳥(燕)の卵を呑んで懐妊した女性の子・契(『荀子』に「契玄王」という表記あり)という者が始祖で、商の地に封じられたという卵生説話をもった。先祖の王亥は鳥形神の字形で表され、その神像は両手で鳥を操り、まさにその頭を食らう、と白川氏が『山海経』やト辞を踏まえて表現する。鳥トーテムの強い色彩があり、王は巫祝としてシャーマニズムが盛んであった。殷の子孫が周王朝の祭儀に客神として参加して降服の儀礼を再演し白鷺の舞を献じたことは同様に記される。
殷の伝承などから、この殷族を貊民族の一分派とかツングース族とみる見解(文崇一や、シロコゴロフの『北方ツングース族の社会構成』)がある。殷の起源は、祭祀・主食(オオムギ)などから考えて、西方からの侵入説(西方系の遊牧民族の一派とみるもの)を水上静夫氏が唱えており、これもおそらく妥当であろう。この場合、西戎は東夷に通じる模様である。
鳥のトーテムとシャーマニズムの関係でいうと、もとの筑前国怡土郡にあたる糸島市有田の上鑵子遺跡では、鳥の羽飾りをつけた鳥装の司祭の絵を刻んだ木板が出ている。これは弥生中期頃からの遺跡とされる(奈良時代の製鉄跡もある)。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町大曲の瀬ノ尾遺跡(旧東脊振村域で、吉野ヶ里遺跡の東側の丘陵に位置)からも、羽飾りをつけた烏人とみられる絵を刻んだ弥生期の土器が出土した。吉野ヶ里遺跡の西方近隣、神埼市神埼町竹にある川寄吉原遺跡からも、頭に羽をつけた人物を刻んだ鐸形土製品や銅鏃が出た。韓国のシャーマン(巫師・祈祷師。「シャマン」とも表現される)は、今日でも雉の羽がついた帽子をかぶる。吉備でも、弥生中期頃の新庄尾上遺跡(岡山市北区御津新庄)から出た絵画土器には、鳥に扮した人(嘴とトサカ状の装飾がついた人)が描かれる。烏スタイの9シャーマンには山口博氏も注目するが(『大麻と古代日本の神々』、}、わが国の祭祀担当の忌部氏一族(中央及び阿波・安房に分布)は天日鷲命の後裔であった。
中国・吉林省南東部の集安市は高句麗の旧都だけあって、同市人民政府の庁舎前には高句麗の象徴である「三足鳥」(太陽に住むとされ、足が三本あるカラス。林巳奈夫氏は、実は龍山文化から伝統のある大型猛禽のイヌワシだという)の銅像が立つという。その案内板には「太陽鳥(三足鳥)は中国古代の伝説に登場する。高句麗の壁画の三足鳥は高句麗民族と中原民族が同じ太陽鳥を崇拝したことを示す」と書かれていた。現実に高句麗の古墳壁画に太陽の中に描かれた三足鳥が見られる。これは、わが国鴨族の祖・八咫烏にも通じ、三足鳥で描かれる。
イヌワシ(金雕)を現在でもトーテムとすることで知られるのが、中国・新疆ウイグル自治区に西隣する中央アジア・カザフスタンのカザフ族で、古代鳥孫の末后裔という(二〇一五年一月二九日のNHK第一テレビで、イヌワシを扱う少女鷹匠の話が「世界最古のイーグルハンターモンゴル・カザフ族」として放映された)。ウイグル族・タジク族や清朝(満州人)、エヴェンキ族・ホジェン族などのツングース種族も鷹をトーテムとした。鷹が天神テングリの使者であり、女人との間に生んだ男子が最初のシャーマンだと伝える(以上はネットの「百度百科」)。イヌワシをトーテムとする信仰が上古の華北文化に存在したとの指摘もある。四川省広漢市の三星堆遺跡(約三千年前の殷代晩期のものか)から発掘された青銅神樹(扶桑樹、太陽樹)の枝には九羽のイヌワシが止まっており、この鳥が太陽を表すとみられている。
太陽神の祭
鳥トーテミズムは、世界各地で太陽神信仰や鍛冶屋伝承に結びつくことが多い。中国の射日神話では、弓の達人・羿(ゲイ。后羿ともいう)が帝堯の命を受け、人々を苦しめる十個の太陽のうち、一つだけ残し九個の太陽を射落としたが、この射落された太陽の実体が三本足のカラス(火鳥)だつたという。鳥が霊魂を運ぶ太陽の使者だとする中国の神樹思想にも通じる。殷の王族は太陽の末裔だと当時考えられていた。十個の太陽(十日)は、帝俊(帝舜)と妻・義和との子とされる(『山海経』大荒南経)。なお、帝俊の妻・常羲(嫦娥)は天照大神に通じるともみられ、また、后の妻ともいわれ、これが月神ともされる。
わが国の天孫族もこの例に漏れず、鍛冶部族で鳥トーテミズム、太陽神祭祀をもった。皇祖神の天照大神が天岩戸に神隠れしたことで、高天原を含め世界が真っ暗になったという天岩戸神話が有名である。もっとも、こうした「日隠れ神話」は世界中にあり、上記の射日神話にも通じるから、わが国天孫族に限った話ではないが、天皇家が祭祀などで太陽神信仰セをもったことは疑いない。太陽神を祀る朝鮮半島・日本の巫覡に女性の数が多かったこともあり、これが推古・皇極・持統などの女帝出現とあいまって(推古女帝の出現が直接の契機か)、日本では太陽神が後に女性神に転化したが、原型は男性神であった。三浦茂久氏も、天照大神は本来、月神であったとみており、高天原神話に見える天照大神の機織りは月神の特徴だとされる(『古代日本の月信仰と再生思想』二〇〇八年刊)。
天照御魂神こと天照大神に代表される太陽神を、天皇家は伊勢皇太宮などで奉斎し、これに奉仕する日置部も天孫族の流れから多く出た。日置・日置部を名乗る氏には諸流あるが、応神天皇皇子の大山守王の後(『姓氏録』右京皇別)、忌部首の一族(同・未定雑姓和泉の日置部)や土師連の一族(出雲国造袋)などが知られる。
渡来系にも日置があって、高句麗に出自の日置造(左京・右京・大和・摂津の諸蕃)、日置倉人(大和諸蕃)の諸氏が「『姓氏録』に見える。こちら諸氏は高句麗の権臣・淵蓋��文(泉蓋蘇文、蓋金、伊梨柯須弥)の族裔であ���、高句麗王家と同族の蓋(盖)氏の流れであった(遙かな遠祖は、天孫族と同じか)。この一族は、京都に居住して八坂造氏となり、祇園で牛頭天王ことスサノラヲ神を祭礼した。日本での先祖で、『書紀』斉明二年条に見える高麗の副使の伊利之とは、権臣の泉蓋蘇文の従弟の蓋須のことであった。その子孫には、日置造と八坂造との二大系統があって、後世に永くつながった。八坂造は後に紀朝臣氏と通婚し、紀姓を称した。泉蓋蘇文は高句麗五部のうちの順奴部の出で、父は東部大人、大対慮の宮職にあり、父の職務を承け高句麗軍事の大権を握り、主君栄留王と多数の支持者を殺害し、宝蔵王を擁立して大莫離支(宰相)にもなって、唐と対抗した。
天孫族の一派、鴨族の祖・鴨健角身命(天日鷲命ともいい、実体は少彦名神)は異名が「八咫烏」ともいわれる。その子孫が、神武の大和侵攻を先導した伝承のある八咫烏(先祖と同じ通称)であり、光り輝いて敵の戦意を消失させた金鵄にも化身した「(「金鵄=八咫烏」の平田篤胤等に同意。この「烏」の実態がイヌワシなら、後頭部の羽衣は光沢のある黄色で、英名〔Golden Eagle〕の由来でもある。林巳奈夫氏の著『中国古代の神がみ』では、青銅神樹に止まる「太陽の鳥」は、体つきから見ても、龍山文化から伝統のあるイヌワシだとする)。この八咫烏が、忌部首や日置部の遠祖でもあった。律令時代において、主殿寮に仕える名負五氏のなかに日置・鴨県主があり、日置氏と鴨県主が火を受け持つ類縁の間柄にあった。葛野郡の名神大社、木嶋坐天照御魂神社も鴨氏族の奉斎にかかる。
各地に多く針座する天照御魂神社は、祭神が物部氏祖神(饒速日命)とか天火明命だと受けとられることが多いが、基本的には皆、男神の天照大神のことである(穗積氏の伝えた系図には、天忍穗耳命の父として「天照御魂太神」と記される)。対馬の天道(天童)信仰も特徴的で(日ノ神、殻霊、祖霊の信仰という)、当地には扶余と同様な太陽感精神話も伝えられる。天孫族は渡来の経路として一族や祭祀・習俗を対馬に遺した。「国造本紀」には、津嶋縣直をあげ、始祖の建弥己己命は高魂尊の五世孫で、橿原朝(神武天皇)の頃に置かれたと記される。この官の設置の時期はに早すぎるが、系譜は出雲国造の同族の出であった。
太陽神信仰と鳥トーテミズム・卵生神話が合わされば、霊山信仰・霊鳥伝承や「天帝」の子孫の降臨・天降りやゃ国見の伝承にもつながる。広く伽耶まで含む東北アジア地方諸国の王家や天皇家について、祖先が高山(ないし、その山頂の高い樹)に降臨したという伝承が多い。それ故に、これら各々の国の聖山(新羅の吐含山、百済の北漢山〔高木山〕、金官伽耶の亀旨峰〔金海の亀山洞〕、大伽耶の伽耶山や、日本のクシフル岳(糸島市の高祖山のことで、原田大六などが言う。南九州の日向国ではない〕)として祭礼対象とされる例が多い。匈奴や鮮卑(遼西の朝陽付近の弾汗山)・烏丸、扶余などでも各々が聖山をもち、山上祭天の儀式をした。『三国遺事』には、天帝桓因の子、桓雄は父から三つの天符印(「鏡・剣・鈴」という)を授かり、大勢を率いて太伯山(今の妙香山〔平壌の東北方〕とされる)の頂上の神檀樹の下に天降っており、その教示に基づき人間になることに成功した「熊女」(熊トーテム族の女性と解する李丙燾氏に同意)との間に檀君を生んだ、という神話が見える。新羅の脱解王は、高麗時代にも「東岳神」と言う山神として祀られた。東嶽(東岳)とは、慶州市街地の東方の吐含山のことであり、新羅五嶽のうちに数える同市の最高峰で、日本海を展望できる護国の鎮山として神聖視され、天に祭祀を上げた聖山として知られる。脱解については、日本列島の出身で海路到来と伝えられ、天孫族や天日矛と同族の出とみられる(後述)。
ここまで、天孫族の祖系や祭祀・習俗などを見てきたが、天皇氏族の特徴的なもののうち、主に考古遺物・遺構などに絡まる関係は次の章で見ることにしたい。
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mouniassn · 1 year
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唸經的人常被外靈干擾?
以下為一位有緣人分享,來文照登:
這個暑假的第一周,帶孩子去了一趟高雄,在同一家飯店住兩天,一進飯店我就知道「今晚可能不好睡了!」進飯店後先唸一次〈楞嚴咒〉,睡覺前又唸了2次〈楞嚴咒〉與一部《六祖法壇經》。靜坐時我觀想「銀河大手印」的心輪,但我的心輪變成一團很亮的白光,那團白光後來越來越大。回來後我請益示,開示「是干擾」。那晚的確睡得不安穩、頻頻醒來。
第二天才發覺,這間飯店在大廳的一處樓梯轉角下方,供奉了幾尊神像,心中了然,難怪我唸〈楞嚴咒〉還是被干擾。不過第二天晚上就累得睡得香甜,往後2、3天,身體就是疲憊到一直睡一直睡。後來請示,開示為「被外靈抽氣」。因為女兒也是敏感體質,同時請示:「女兒有被干擾嗎?」開示:「沒有」。一行三人,只有在唸經的我被抽氣,他們兩人還納悶:「一樣出去玩,為何只有我這麼累?」果然如精舍所說:「末法時期,很多宮廟都沒有氣了,所以有唸經的人,他們最喜歡。」我好像漸漸明白原來外道這麼可怕!我記得以前一位修外道的朋友跟我說過:「你身上有好的氣,祂們會跟著你,因為你像一隻肥羊!」以前不懂,現在漸漸能懂他的話意,不過他誇大了,平時我在家唸經並不會這樣,這次到了這個地方因為有外靈,就好像碰到打劫一樣,才受此干擾。
當氣被抽完後,身體就是很累,怎麼都睡不飽的感覺。回來後開始唸與家姐的因果,前世我因利益衝突,拿刀殺害她,要唸誦經文各108次償還。剛開始唸之後,家姐平日篤信的外道馬上就來干擾了(後來請示,證實是來自他們宮廟的干擾),祂們的手段一直很狠的,就是讓我頭痛到無法唸經,那種痛法就是好像拿尖銳物不斷挖鑿我的頭頂,我的天靈蓋處就是不斷的抽痛,痛到向精舍求助。幸蒙指示,一針見血的點出我總是逃避修行、不精進練習「銀河大手印」的逃避性格,當時覺得是愧疚,當晚我告誡自己:「既然干擾是修行者的宿命,不可能中斷的,那就勇敢面對干擾,首要就是努力把自己鍛鍊強壯起來,別再老是麻煩拖累別人!」
當天晚上第一次練習「銀河大手印」的「宇��法流」,感覺太陽的正氣源源不斷進入我的體內,我真的成功地趕走了頭痛,當時很開心。當然,干擾是不會停止的,走了不久又會再來,不過我現在的心境就是「只要不影響我唸經,我就不理會他」,如果真的頭痛很厲害,我就把我那還在蹩腳程度的「銀河大手印」中的方法拿出來試,這個方法趕不走,就換別的法,如果還是不行,就起身一邊嘴巴大聲唸〈藥師灌頂真言〉,一邊做葉子老師教的「手抱娃娃」等拉筋的動作,及「猿猴式超慢跑」,通常做30分鐘後,氣血通了,頭就不痛了!我的目標只是單純的「趕跑干擾,還我清淨自在的唸經精神狀態」。
這一、兩個禮拜下來,我發現每天練習「銀河大手印」的「宇宙法流」、「心輪」,還有唸1000次的〈藥師灌頂真言〉,我被抽的氣,與被挖鑿干擾的身體疼痛,已經能慢慢恢復過往的8成,「面對不斷的干擾,我一定要強起來」,成了我最近最強的意念!因為阿伯(蔡師兄)說過:「當災難來時,誰也保護不了誰,只有自己修,自有天助」。
感恩這個暑假因為連續被抽氣、被干擾到咪咪冒冒,才發現自己原來這麼的脆弱與不堪一擊。活在末法時代的宿命,不管有無修行,就是容易被抽氣、容易被干擾、容易被抽福德,這都是末法時期的象徵。以前天真的以為,只要消完業、補完福德資糧,所有干擾就從此不會再來。但事實並非如此,干擾是從來不會間斷的,因為這世界上想要不勞而獲的人永遠比辛勤認真的人多好幾千萬倍。有精勤修行的人跟沒有修行的人差別原來在於,有精勤修行之人能以健康、自在、包容、平和的心來看待這些干擾,並自己排除這些干擾。
經過這個暑假的經歷,更能體會阿伯說:「所有的干擾都是來成就你的」的深意,最後我們的心真的會感恩這些干擾,是他們成就了比昨日更強的我們!修行之路無止盡,只有不斷鼓勵與鞭策自己,如果沒有看透干擾的本質與意義,是很難在修行這條路上堅持下去!佩服每天要面對比我們多幾千倍以上干擾的師兄姐們,他的堅韌與堅持求道之心,相形之下的我是如此渺小到如沙塵,只有勉勵自己向巨人學習的我,能越來越看淡這些干擾,就當作是一種布施吧!笑一笑,心還是如如不動,繼續持續唸經修行,只要能繼續唸經、修行,生命沒有過不去的坎、化解不了的恩怨!
感恩精舍的諄諄教導,讓我漸漸有一顆不跟靈界計較的心!體會到每天都是笑著唸每一部經,這才是人生的真正幸福!今生能遇見精舍跟佛法真好!善哉善哉!阿彌陀佛!
(分享完畢)
修行人因為持續做功德、誦經,所以身上有福報與靈氣,上面的例子可以看得清楚。唸經的人常被外靈干擾?或許有人問說既然會被外道抽靈氣,那為什麼還要繼續唸經與行善?其實這道理很簡單,「您賺了很多錢在路上可能會被搶,但您要因此不賺錢嗎?」不可能的,為了生活您還是會繼續賺錢。相對的,為了讓生活順利,為了償還業障,為了成就佛道,我們當然得要繼續誦經與行善!
上述師姐分享他們一行三人只有努力誦經的她被抽氣與干擾,這證明了誦經與行善會產生福報與靈氣。小編一位看得到靈界朋友有次在家裡誦經,他唸的是〈心經〉,他說唸誦過程房間開始慢慢發金光,並且朝窗戶外頭發散出去……等,這也是一個印證,這真的說明誦經有佛光加持,誦經能產生福報。
學佛要先懂得因果,要先認識靈界。在人的世界透過錢來進行各種交易或買賣,在靈界則是透過福報來轉換各種所需,在人的世界要賺錢,不過沒福報卻賺不到錢,追根究底還是得需要「福報」來轉換,所以務必每天行善積德與誦經,千萬別被人家說什麼「不要隨便亂唸經,會招來干擾」嚇到,社會上有許多搶劫案件,因為當事人有錢被宵小覬覦,所以遭搶。道理在此,誦經產生功德與靈氣,若您亂跑到了不該去的地方,自然有機會被搶!兩件事情要看清楚:1.誦經真的有功德,要多多為之;2.不要亂跑有外靈的地方,這跟跑到有搶匪的地方一樣,有錢自然容易被搶!以上這兩點才是您要認知的事情!不正確的話語真的是傷人慧命,別讓這些迷惘的人或是外道的話語害了您!上述的師姐也展現應對外靈方式,透過自己的觀想或是強化身體來應對干擾,這些都有效,請不要受外道無明的話語影響!
師姐在分享文中也說了許多關於「銀河大手印」的修練方法並且驗證。「銀河大手印」的初級觀想是佛菩薩傳授能排除外靈的基本觀想,我們活在實虛共存的世界,實體世界有警察或是法治的保護,但靈界廣大,現在又是外道猖獗的時代,菩薩或是靈界系統無法嚴密的做各種把關,把這套「銀河大手印」練起來真的是好的,有基礎的保護效果就能克服許多干擾。「銀河大手印」修練法:https://mouniassn.pixnet.net/blog/category/list/2319725
精舍從民國99年開放問事至今,辦事未收過分文,也不會推薦購買什麼結緣品等,更沒有所謂的香油錢桶給大家投錢;精舍電費、水費是由蔡師兄出的,師兄姐參與協助也是不支薪,這些年下來我們處理過許許多多眾生的事件,也處理許多干擾眾生的外靈系統……等。近幾年開始漸漸的因為無償的服務影響了許多需要昂貴收費的外道宮廟,網路上也開始有許多負面的評價或假消息等。在此要告知您,精舍先前網路問事一週500件以上,每周還有上百件電話或來信請示以及現場請示,每週一大堆的誦經迴向案件,這些網路上查得到,這些數字不是假的,如果沒有效,不會有每周都這麼多人請示!請相信正法,照佛菩薩開示好好誦經消業障,這些事情幾年內就會感受到成效,千萬不要被外道的假訊息給騙了,也千萬別信「不要隨便亂唸經」的話語,這些都會大大的傷害您!相關問事與迴向資料:https://mouniassn.pixnet.net/blog/post/185677389
(甘霖基金與道務基金由社團法人牟尼佛教協會─甘霖慈善積德會處理,相關金額使用於布施與其他道務,所有相關志工也不支薪,純屬義務。這與辦事無關,協助社會上需要的人)
精舍一段宣傳提到「我們不接受供養、不收錢、不推銷、也不強迫修行,單純義務只求能結善緣解決您的問題;我們專解因果事件、因果問題、治因果病,無論婚姻、家庭、事業、家族、痼疾、學業......等問題均能請示!歡迎有醫生看到沒醫生、有神問到沒神者,不妨一試。」這始終是我們在做的事情,若有無法解的問題,請您試一試,保證不吃虧。
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南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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straycatboogie · 1 year
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2023/08/19
BGM: Pavement - Summer Babe (Winter Version)
今日は早番だった。仕事が終わり、夜に松下育男『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』を読みかけていたのをようやく読み終える。以前は恥ずかしながら、なんでもかんでも本を買い込みそして泣きを見たものだったがそんなムチャな物欲も失せてきたようだ。ボーナスが入ったということで澤田直によるフェルナンド・ペソアの評伝や阿久津隆の日記の新刊を買いたいとも思ったのだけれど、優先順位というかいちばん古く「欲しい」「自分に必要だ」「繰り返し・末永く読むだろう」と思ったのはこの松下育男の講演集だったので、あらためてグループホームにボーナスを半額渡した後交渉してみることにする。奥歯に違和感があるので歯医者にも行きたいし、いろいろお金の管理の悩みは尽きない。そう言えば昼だったか(昨日のことだったかもしれないが定かではない)、元ペイヴメントのドラマーのゲイリー・ヤングが亡くなったとのニュースを聴く。ぼくはペイヴメントは『クルーキッド・レイン』くらいしか知らないのだけれどこのアルバムは好きで、折に触れてよく聞く。脳のコリをほぐして、リラックスさせてくれる(「人生は思ったより『甘い』かもしれない」とも思わせてくれる)効果があると思うのだ。ゲイリー・ヤングが在籍していた頃のアルバムも虚心に聴き込みたいと思った。合掌。
松下育男の本から、ぼくはあらためて「詩を書くとはどういうことか」を学んだような気がする。とはいえこの本、悪く言えば実にあっさりしているというか松下育男の主張がいい意味でも悪い意味でも暑苦しさがない。押し付けがましくないので、一度読んだだけではあっさり「流して」「スルーして」しまう怖さがある。したがって、リルケや保坂和志の詩や文学論を読むように何度も読み返したいと思ったのだった。脱線するが、ぼくが思う「最近の本」はそうした「繰り返し染み込ませるように読ませる」面白さとは真逆の「一度読んだだけでパッと掴ませるインパクト」を重視したものが多い印象を受ける。見開きでキャッチーなフレーズが1行だけドンと載っていたり、ゴチックで強烈なフレーズがさらに強調されていたり。もちろんそうしたアフォリズム的な面白さも本の面白さではあるのだけれど、ぼくは歳をとったせいかそんな「強烈さ」よりもあっさりした中に(語義として矛盾してるかな?)「コク」「旨味」がある本をこそ好んでしまうのだった。その意味で、どうやって出会ったのかは忘れたのだけれどこの松下育男の本やあるいは谷川俊太郎などとの出会いは幸せだったと思った。
そんなわけで、繰り返し読み込みたいと思い始める……今の段階でぼんやり思うのは、松下が「生きていくために/ただ書いている詩が/あっていいと思う」と書き記しているそのセンシティブさ、真面目さについてだ。この詩人にとっては「生きること」と「書くこと」が直結している。「よく生きる」ことと「よく書く」ことがつながっている。ぼくはひねくれ者・あまのじゃくなので、極端なことを言えば言葉の断片をシルクハットか何かの中に入れてかき混ぜて作るようなものも詩だと思うし、あるいはマニュアルにごくクソ真面目に沿って作るようなオートメーション化されたものも詩だと思う。だけど、ぼくはそんな「心のない」詩の書き方ができない。これはでも、「仏作って魂入れず」が嫌いとかいう美学の問題ではなくぼく自身の不器用な書き方として「どうしたって書いていると自分の思いを(悪い意味でも)込めてしまう」ということなのだと思う。音楽に例えると、ぼくは小室サウンドや小西康陽だって聴く。だけど、ぼくが書いたり聴いたりするのはそんな洗練とはほど遠い詩や文章なのである。トム・ウェイツのようなエレジーめいた叙情……と記してしまうとカッコつけすぎかな。
よく書くことはよく生きること、よく生きることがよく書くこと……と書くとなんだか武者小路実篤的な朴訥な美学ということになり、「そんな『小市民的美徳』『道徳教育』みたいな話がつまらないから小説を書きたいんだ」と思っていたかつてのぼくのような人間をさらに敬遠させることにつながるかもしれない。そう、かつてのぼくも(はっきり思い出せないけど)宮台真司言うところの「終わりなき日常」が退屈で、そこから刺激を求めてファンタジーやぼくなりのサイエンス・フィクション的な世界(もっと言えば筒井康隆的なぶっ飛んだ虚構の世界)に憧れを抱いていたのだった。でも、今は太陽が東から昇り1日が始まり、ご飯を食べると旨く仕事をすると上司に無視されて……といった日々の凡庸な繰り返しの中にある「光」について書きたいと思うようになったのだった。そして、松下の本はそうした単純な中に深みを備えた日常や人生を祝福さえしているように感じられた。それはしかし、世界をあられもなく愛するからではないとも思う。詩を書くこと、世界をとらえること、生きることの無力を噛み締め、「それでも」書こうとしているその意志の毅然とした強さゆえのことではないかと思った。
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narichan777 · 1 year
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続いて「渇水」を観ま~すヽ(^。^)ノ
#生田斗真 #門脇麦 #磯村勇斗 #山崎七海 #柚穂 #宮藤官九郎 #宮世琉弥 #吉澤健 #池田成志 #篠原篤 #柴田理恵 #森下能幸 #田中要次 #大鶴義丹 #尾野真千子 #高橋正弥 #渇水
https://movies.kadokawa.co.jp/kassui/
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karatte · 1 year
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有志による『天地を喰らうII』のクローンゲーム版初見プレイ。 FC版の諸葛孔明伝は実機でプレイ&クリア済み。 配信時の冒頭無音箇所削除済。 洛陽の北の関所へ   ↓ 3つ目の関所 - 沂水関 - ・関所に入ると卞喜がこの先の鎮国寺で一献さしあげたいというので招かれるまま鎮国寺に ・一杯どうぞと勧められてここで選択肢  『いいえ』ならそのまま戦闘に 『はい』を3回選択すると・・・ 沂水関之戦・・・【卞喜 兵士 兵士 兵士】 ・戦闘終了後、入り口にいるお坊さんに話しかけると宿泊させてもらえる(罠じゃないですよ) 外に出たら北へ(そばにある庵は特に何も起きません)   ↓ 4つ目の関所 - 滎陽 - ・関所に入ると話しかけてくる人物が 滎陽の太守『王植』は関羽に害意を持ってないらしい ・それならと宿を貸してもらことになり屋敷の前に連れていかれます 話しかけてきた人物は屋敷の警備をしている『胡班』という者  この名前に見覚えがある人は道具欄をのぞいてみよう 預かった物がありますよね? ・屋敷で一泊できるけど、沂水関の卞喜の件もあるし・・・ 隠しアイテム ・入り口近くの建物内のツボ/銅仙丹(※関所を破った後は入手できなくなるので注意) 滎陽之関戦・・・【王植 兵士 兵士】 関所を抜けて北へ   ↓ 5つ目の関所 滑州之関戦・・・【秦琪 兵士 兵士】 関所の向こうに見える船に乗る前に、洛陽まで戻ってセーブしておくといいでしょう   ↓ 船は河北へ到着 北へ進むと『夏侯惇』が現れます 冀州夏侯惇戦・・・【夏侯惇】 ※数回攻撃を与えると終了します とにかく冀州城に急ぎましょう(手間を減らすなら先に北の山賊退治をするといいでしょう)   ↓ 冀州城に入城しようとするとある人物が道を塞いでいます いつぞやの酒場で出会った『趙雲』です 話してみると、わけあって袁紹の元で働いているらしく追い返されてしまいます このままでは入城できないので、とりあえずすぐそばの庵に入ってみましょう   ↓ - 関定の庵 - ・1階にいる右の人物『関定』によると村の者が山賊に困っているようで山賊退治を頼まれます お供に息子さんをつけてくれるそうです ・左の人物に話しかけると、関定の次男『関平』が仲間になります それでは船着き場の近くにある村へ行ってみましょう   ↓ - 山賊に困っている村 - ・山賊が北の山と東の山に住みついて困っている ・北の山には元黄巾賊の『周倉』が、東の山にはとんでもなく強い武将が住みついている ・東の赤水城という古城に住みついた武将の名前は、チョッ、チョ、チョウ…… まずは北の山賊から退治を 村から西側の北方向に進みましょう   ↓ - 臥牛山 - 臥牛山之戦・・・【周倉 山賊 山賊 山賊】 ある程度ダメージを与えると、『周倉』が関羽の配下にしてほしいと頼んできます 『はい』を選択するとその場で仲間に 『いいえ』を選択すると戦闘が終了しますが砦の中に入ると周倉がいて再び仲間にするか選択できます 北の山賊を退治したら次は東の山賊退治に   ↓ - 赤水城 - ・城に入ろうとすると見覚えのある武将が襲ってきます チョッ、チョ、張飛です 関羽が曹操軍に寝返ったと思っているようで怒っています ・誤解をとくために山影に見え隠れしている曹操軍の将の首を持ってくるよう言われます すぐそばに現れた武将に話しかけ戦闘です 冀州蔡陽戦・・・【蔡陽 兵士 兵士 兵士】 倒したら赤水城へ ・張飛に話しかけると無事誤解がとけて軍に合流します 張飛から最近袁紹軍の兵が南の森に出入りしているとの情報が 隠しアイテム ・宮殿の入り口から左に6歩、下に2歩/銅の盾 関係なさそうな情報ですがやっぱり気になるので南の森へ行ってみましょう   ↓ 南に進むと森の一部が1マス平地になっている部分があるのでそこに進むと敵と遭遇します 冀州森之砦・・・【許攸 逢紀 兵士】 倒したらもう一度平地部分に乗ってみると砦の中に - 森の砦 - ・若い娘が牢に入れられています 助けてあげましょう ・娘さんが言うには牢の扉は『銀の鍵』がないと開かないそうです 洛陽で買った鍵が役に立ちそうです ・娘さんを助けると『趙雲への手紙』を預かります 冀州城の手前にいる趙雲へ届けましょう 冀州城の前に関定の庵に寄ってみましょう   ↓ - 関定の庵 - ・山賊退治のお礼に劉備と合流するまでこの家を自由に使っていいそうです   ↓ 冀州城の手前にいる趙雲へ娘さんから預かった手紙を渡しましょう 助けた娘さんは趙雲の妹だったようです 『趙雲』が仲間に加わります また一人 優れた人物が加わった 関羽は袁紹軍に顔を知られているので、趙雲が劉備の元へ   ↓ - 冀州城 - ・劉備の元に趙雲が合流 関羽たちと合流する前に袁紹と話をしておこう ・城を出る前に武器屋で趙雲の装備を整え、役所でセーブをしておきましょう(※軍師任命も忘れずに) 城を出ると袁紹軍に襲われます 冀州城之戦・・・【郭図 田豊 蔣義渠 袁術or兵士 兵士】 ※3章で袁術を見逃した場合は再登場しますが大して強くないので問題ないでしょう 倒したら関定の庵へ   ↓ - 関定の庵 - ・2階に関羽と張飛がいます 義兄弟の再会です(※関平と周倉は編成所に送られます) ・庵を出る前に、関定に挨拶をしておきましょう 劉備の提案で関平を関羽の養子にするか聞かれます  『はい』を選択すると関平の武力と知力が10増えます 損はないのでぜひ養子に 一泊して庵を出るとイベント戦闘が始まります 官渡決戦 袁紹の貴重な戦闘姿です 袁紹のステータスも気になるところです 時は流れ 大陸の勢力地図は 大きく変わった 5章 三顧の礼 - 荊州城 - ・江夏の地で反乱が発生 病身の『劉表』に代わりに劉備が鎮圧の役を引き受けることに ・医者の話では劉表の病は日に日に悪くなっているらしい ・劉表には『劉琦』と『劉琮』の二人の息子がいるが、劉琦は病弱、劉琮はまだ幼いので世継ぎ問題で揉めている ・荊州は人材の宝庫 そろそろ劉備軍にも軍師が欲しいところ この章から『編成所』が利用できます(※編成を組んだら装備と軍師任命を忘れずに) 隠しアイテム ・宮殿から右上隅/鉄の剣 準備を整えたら東の村へ   ↓ - 荊州の村1 - 村に入ると反乱軍が襲いかかってきます 荊州黄巾戦・・・【黄邵 管亥 黄巾賊 黄巾賊】 ・陣形には有利な点だけでなく不利な点もあるので注意を ・この付近には龍が住んでいるらしい ここから東の村も盗賊に襲われているので向かいましょう   ↓ - 荊州の村2 - ここも村に入ると反乱軍が襲いかかってきます 荊州黄巾戦・・・【何儀 何曼 黄巾賊 黄巾賊 黄巾賊】 ・村の娘はみな盗賊にさらわれてしまった模様 中にはさらわれなかった人もいるようですが… 次はここから南の村に   ↓ - 荊州の村3 - ここも襲いかかってきます 荊州黄巾戦・・・【劉辟 龔都 黄巾賊 黄巾賊】 ・荊州城の西に『水鏡先生』と呼ばれる賢者の庵がある 一度、荊州城の劉表の元へ戻りましょう   ↓ - 荊州城 - ・劉表に報告すると反乱軍鎮圧のお礼に、ここから北にある小城『新野城』をくれます さっそく北にある新野城に行ってみましょう   ↓ - 新野城 - 新野城に入ると関羽が、誰か武将を新野城開発の指揮にあたらせてはと提案してきます 選択肢は、『糜竺』、『糜芳』、『陳登』の3名です 誰を選ぶかによって開発後のお店の商品の品揃えが変わります 選び方はお好みですが、防具派なら糜竺 武器派なら糜芳 原作派なら陳登 がよろしいかと 商品の品揃えの情報は、天地を喰らう2完全版/店・施設一覧の8章を参考に 尚、開発にあたる武将はこの先パーティーに復帰することはないのでご注意を ・眠れる龍を起こしてはいけません じっと待つのです ・街の開発に燃える人々 「ラクヨウのように なれば らくよう!……」 隠しアイテム ・宮殿の上の左の木の左側から左に1マスから鉄の鎧 一周りして城を出ると『劉琦』が駆け寄ってきます 劉表が危篤状態におちいったそうで 大至急、荊州城まで来てほしいとのことですが、ちょっと寄り道を(ゴメンね劉表さん) 新野城から北西の1マス分の森になっている場所に行ってみましょう   ↓ - コウメイの庵 - ・入り口にいる人によると、コウメイは留守のようです 隠しアイテム ・建物の入り口から下に5歩、左に10歩、下に1歩/知復丹 それでは大至急、荊州城に向かいましょう   ↓ - 荊州城 - ・宮殿に入ると入り口に『蔡瑁』がいて舌打ちをしています ・玉座から左の部屋に劉表が横になっています 命が長くないので蔡瑁と協力して後継者を盛り立ててくれとのこと 宮殿から出ようとすると『伊籍』が駆け寄ってきます 蔡瑁が劉備と劉琦を亡き者にしようと企んでいるので、左の部屋の非常用の出口から逃げるよう言われます 左の部屋の壁から非常用の出口へ   ↓ - 荊州城非常用出口 - お宝 B1 赤心丹/金230/赤心丹/銅の槍/銅の剣/銅の斧/金206/鉄の鎧 B2 金234/金248/銅の刀/銅の盾/招魂丹/金494/銅仙丹 非常用出口を抜けると荊州城の西側に出ます が、劉備が関羽たちとはぐれてしまいます 近くに見える庵で宿を乞うことに(※橋から先には行けません)   ↓ - 司馬徽の庵 - 庵に住んでいたのは水鏡先生こと『司馬徽』でした 劉備軍には当千の武将はいるが、この乱世に立ち向かえる軍師がいないと図星を指されます 『伏龍』『鳳雛』の二人を仲間にすることを薦められてこの日は一泊 その夜 何者かが この庵を訪れたようだ 昨晩の来客が誰かと尋ねると一番東の村へ行ってみるとよいとのこと 庵を出ると関羽たちが合流するので東の村へ(軍師の任命を忘れずに)   ↓ - 荊州の村3 - ・村人に話を聞いてみると、東の洞窟に物知りな浪人『単福』が住みついているらしい 単福に会いに東の洞窟へ by noinoinoiz
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fafaweng · 1 year
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🐢 ◤ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 『 GAMERA - Rebirth - 』 キービジュアル & PV公開 __________◢ ガメラ、復活ーー。 昭和・平成と、世界の怪獣ファンに愛された 大怪獣ガメラの新作『GAMERA -Rebirth-』メインPVを公開! ▷【2023年、Netflixにて世界配信】決定: ► [ youtu.be/4cWw11nNmPs ] 💥『GAMERA -Rebirth-』あらすじ公開💥 全6話のアニメーションシリーズである、 本作のあらすじを初公開! キービジュアルにて、 #ガメラ と #ギャオス と #ジャイガーの姿を公開。 もう一体の怪獣の姿も…! ▼ 2023/03/25 (土) 15:20 ~ AJ 生配信: ▷ [ youtube.com/live/N4ZgDChTRyE ] 最新情報は下記URLよりご覧ください。 🔥 公式サイト:[ gamera-rebirth.com ] 🔥 公式Twitter:[ @ gamera_rebirth ] 【あらすじ】 最後の夏。友達。そして怪獣ー。少年たちは、伝説を目撃する。 1989年夏、小��6年生のボコ、ジョー、ジュンイチは、小学生最後の夏休みを迎えていた。そんな日常を切り裂くように、怪獣ギャオスが東京を襲撃する。廃墟となった町でギャオスに狙われる少年たちの前に、新たな怪獣が現れた。 その名はガメラ。ガメラは傷つきながらもギャオスと戦う。 それが少年たちの「怪獣の夏」の始まりだった。 ◤ANIMATION SERIES    6EPISODES GAMERA vs 5KAIJU◢ #AnimeJapan 解禁情報 『GAMERA -Rebirth-』 #ガメラ に敵対する #5体の怪獣 。 1 体目は 💥💥「 #ギャオス 」💥💥 のビジュアルを初公開。 2 体目は 💥💥「 #ジャイガー 」💥💥 ジャイガーシルエットビジュアルも公開。 ( 3、4、5体目 は 陸續更新 ) 【CAST】 ボコ: 金元寿子 ジョー:松岡禎丞 ジュンイチ:豊崎愛生 ブロディ:木村昴 タザキ:宮野真守 エミコ:早見沙織 【主題歌・EDテーマ】 WANIMA 【STAFF】 原作: KADOKAWA 監督: 瀬下寛之 副監督: 井手恵介 シリーズ構成: 猪原 健太 瀬古浩司 瀬下寛之 脚本: 猪原 健太 瀬古浩司 山田哲弥 瀬下寛之 キャラクターデザイン: 田村 篤 怪獣デザイン: 髙濵幹 プロダクションデザイン: 田中直哉 プロダクションデザイン: フェルディナンド・パトゥリ メカニックデザイン: 帆足タケヒコ アニメーションディレクター: こうじ 造形監督/光画監督: 片塰満則 音響監督: 岩浪美和 音楽: 片山修志 制作: ENGI #ガメラリバース #gamera_rebirth #ガメラ #ギャオス #ジャイガー ©2023 KADOKAWA/ GAMERA Rebirth Production committee https://www.instagram.com/p/CqSWGkdvyrR/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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esquerita68 · 2 years
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2022年ライブ・イベント一覧
ご来場いただいたみなさま、ご出演・企画のみなさまありがとうございました! 2023年もどうぞよろしくお願いいたします。
<2022年ライブ・イベント記録>
1/6(木)小沼ようすけ&沼澤尚 DUO 1/9(日)ファイヤーヨーコ/蜂鳥あみ太=4号+acc田村賢太郎 1/11(火)Kai Petite+吉村勇作+沼澤尚  1/15(土)井上侑 1/16(日)チッコソウマのファンキージャムセッション!  1/28(金)丸山朝光(ハチャトゥリアン楽団)/Silent Folks 1/29(土)最鋭輝with マスタードボーイズ(店主ゴトウ&スズキさん)/ミックスナッツハウス 1/30(日)夜久一(やくはじめ)/木下 新一朗(Sniff)/たけうちなおや
2/5(土)友部正人 2/11(祝金)FRETLAND 鬼怒無月 acoustic guitar 有田純弘 acoustic guitar 竹中俊二 acoustic guitar 2/12(土)塚本功 2/26(土)寺本幸司プロデュース 浅川マキ リスペクCDアルバム伊香桃子-UTA MOMO-「Good-bye -浅川マキを抱きしめて-」UTA MOMO BANDトーク:寺本幸司/伊香桃子 バンド:hiro Tp./濱中俊輔 Gt./日高真吾 Ba./天四郎 Ps./THE BOO 2/27(日)「春もゴキゲンツアー2022」アノアとペロ/ハマサピエンス(G.Vo.チャンナミ,フリューゲルホン ヒラジーニョ,ギター 磯ユースケ,ドラム ポコちゃん,べース セニョール)
3/6(日)Sniff/Barefoot Gypsy  3/13(日)「Blues Before Sunrise 」LPレコード・リリースツアー blues.the-butcher-590213永井ホトケ隆vo,g、沼澤尚dr、中條卓b、KOTEZ(vo,hca) 3/19(土)チッコソウマdr,山本賢介b.福田眞國g/あっちゃんバンド(渡辺篤弘VO&G、内山哲司Dr、西岡徹BASS) 3/20(日)チッコソウマdr+ミックスジュース*延期 3/23(水)「BORN! BORN! BORN! ~マダムDAY~」マダム生誕祭!出演:平井正也/岡沢じゅん+後藤弘dr 3/29(火)URBAN GROOVE-FITTERS ~臼井ミトン+田中義人+中條卓+沼澤尚
4/3(日)エノッキートリオ(ロッキン・エノッキーVO&G,トネーロbass,大澤公則dr)+Speedy Kanno 4/4(月)「パラレル与太話:百物語編」出演(歌と与太話) MC25POP(POPちゃん)/ピロヂ半ズボン 4/5(火)「彼女について」レコ発ライヴ 矢野絢子 4/9(土)アカリノート/KM&FBI 4/17(日)チッコソウマのファンキージャムセッション! 4/23(土)湯川トーベン/Silent Folks 4/24(日)AMI☆TAME/Silent Folks 4/25(月)東京ローカル・ホンク~ 途中下車の旅、浜松編 ~ 4/29(祝金)「双葉双一の久しぶり浜松ライブ!」双葉双一 4/30(土)ミックスナッツハウス/ラヴラヴスパーク
5/1(日)思考の樹リリースツアー2022「Our visible tour 」渡辺庸介(per)ファルコン(gt) 5/8(日)ツムフェス:ついにあのレジェンドキッチンカーのボッケーノ出店! 5/14(土)レコ発記念ライブ!Sniff/Barefoot Gypsy  5/15(日)チッコソウマdr+ミックスジュース 5/21(土)須川光/KM&FBI 5/30(月)カンザスシティバンド
6/2(木)樽木栄一郎&宮川剛 DUO 6/4(土)The Timeless Nation with TOKU 小沼ようすけ、Kai Petite、沼澤尚、TOKU 6/11(土)「伊藤大地&滑川博生のドラム・ザ・座談会 -演奏編-」 6/12(日)JabBee (vo,g) ladyeria(sax,cl,cho ) 樋渡ナヲタカ(Bass)山口ゆきのり(organ)/THE BOO 6/18(土)井上侑と劇団ペテカンの濱田龍司、四條久美子 6/19(日)江口優&Kuma(Dr)/やじ助 6/25(土)上の助空五郎/ハマサピエンス
7/2(土)現代の山火事/Mizumi*延期 7/3(日)後藤弘54th BIRTHDAY PARTY!:ヒライマサヤ/ミックスナッツハウス/ムラング 7/5(火)チチンプイプイ(酒井杏&佐藤克彦)/misato&shin 7/7(木)栗コーダーカルテットwithタバティ 7/9(土)湯川トーベン+さがみ湘/THEBOO 7/16(土)Clearance Creamsoda Redial/Backmen 7/17(日)チッコソウマのファンキージャムセッション! 7/23(土)齋藤さっこ/たえといしかわ/トリイリカ+マイク・ハマ+野尻制 7/24(日)CABBAGE & BURDOCK 7/28(木) 越智巌(g)、西川直人(org)、横山和明(ds) 7/29(金)スティーヴ エトウ
8/6(土)マーブルワールド/way to go mini 8/7(日)hosovoso/ハマサピエンス 8/12(金)YAMAMOTO yoshifumi TRIO 8/13(土)ファイヤーヨーコ/おいおい教教祖(元氣 安) 8/19(金)「ニューアルバム「ホームタウン」リリース記念ツアー!」ハチャトゥリアン楽団:丸山朝光 vocal, banjo、河原真彩 trumpet、東方洸介 tuba、三輪朋彦 drums/やじ助 8/20(土)アカリノート/宮川慶(KM&FBI)/島崎智子 8/26(金)聞間拓/OA:椋子 8/29(月)「サイバー民族団 」壷井彰久(vl)、ファルコン(gt)、渡辺庸介(per)
9/3(土)「First Flight/ブルースで踊ろう」リリースパーティ浜松編 TinyStep "Southside"Trio 山口ゆきのり(Organ)秋廣シンイチロウ(Guitar)森俊也(Drums)/OAカッパライ 9/4(日)正山陽子バンド*正山陽子(vo.)*宮本憲(gt.)*ヤマトヤスオ(wb.)*田中教順(Dr)/夜のアモーレ -amore di notte-Hide Amore(Gt),Mike Amore(Ba),Nami Amore(Dr) 9/10(土)Sniff/Barefoot Gypsy 9/11(日)夜久一(やくはじめ)/Indian boogie explosion 9/18(日)チッコソウマdr+ミックスジュース 9/20(火)聞間拓/阿部浩二 9/24(土)「ひびしおり MARCY MARCY ME」ひびしおり+福田将也/TK3(Tae takahashi、Keiko sanada,Shoji Mita) 9/25(日)タクロー&どりちい/中西こでん
10/1(土)「うすらいの旅 静岡編」ラッキーオールドサン 10/2(日)ハートランド朝霧WiRELESS CARNiVAL 出店 10/7(金)友部正人 10/8(土)現代の山火事/ムラング 10/15(土)ヤスムロコウイチ/トミー来風 10/16(日)「NRQ 5thアルバム『こもん』発売記念ライブ浜松編」/NRQ/志波太朗バンド 10/22(土)ミックスナッツハウス/岩見十夢 10/23(日)最鋭輝/双葉双一 10/28(金)カンザスシティバンド 10/29(土)「ラヴラヴスパーク&The End presents... Folkestra!#1 @浜松→松本編」The End/ラヴラヴスパーク/中西こでん
11/5(土)ヒライマサヤと片山尚志 11/6(日)樽木栄一郎&宮川剛 DUO 11/12(土)ムムムイベント(ぱんとおやつのいちば) 11/13(日) ムムムイベント(ぱんとおやつのいちば) 11/13(日)UTA MOMO/寺田町 11/18(金)Kai Petite(Bass VI,G,Vo)吉村勇作(Keys)平陸(Drums) 11/19(土)『チチンプイプイw/田中邦雄(東京ローカル・ホンク)』/misato&shin 11/20(日)チッコソウマのファンキージャムセッション! 11/21(月)ギターパンダ/OA,オノジュン 11/30(水)アノアとペロ/ピロヂ半ズボン
12/3(土)塚本功/島崎智子/宮川慶(KM&FBI) 12/10(土)聞間拓 12/11(日)石川秀明+野尻制/Materi R 12/17(土)Ocean Town Orchestra(クイクイジーラ、海洋天堂)/岡沢じゅん/kiss the gambler 12/18(日)チッコソウマのファンキージャムセッション! 12/24(土)真っ赤な三人/KM&FBI ※延期 12/25(日)東京ローカル・ホンク~ ホンク泣き笑い年末スペシャル 浜松特別興行 ~木下弦二(G.Vo.)、新井健太(B.Cho.)、田中邦雄(D.Cho)
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shintani22 · 2 years
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2022年12月31日
𝐓𝐇𝐀𝐍𝐊𝐒 𝐅𝐎𝐑 𝐀𝐋𝐋 𝟐𝟎𝟐𝟐
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【2022年シーズンを写真で振り返る】第7節横浜FM戦/これが新しい広島だ
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𝐓𝐇𝐀𝐍𝐊 𝐘𝐎𝐔 𝐅𝐎𝐑 𝐘𝐎𝐔𝐑 𝐒𝐔𝐏𝐏𝐎𝐑𝐓
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広島県 宮島の来島者 去年より45%増(NHKニュース)
コロナ禍も3年目となり、世界遺産の島にも観光客が戻ってきています。
広島県の宮島観光協会によりますと、ことしの宮島の来島者数は12月25日まででおよそ273万人、去年と比べ85万人増えました。
一方、コロナ禍前の2019年と比べると6割に留まっています。
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2022年273万人(今月25日時点)
2020年188万人(過去最少)
2019年466万人
厳島神社の大鳥居の修復工事も3年半ぶりに終了し、宮島観光協会では「正月三が日の来島者数を去年の1.5倍となる12万人」と見込んでいます。
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【新型コロナ 年末年始の家庭内対策】(広島県)
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【本日(12/31)の広島県内の感染状況】(広島県)
新型コロナ 県内で3531人感染確認 4人死亡 31日発表(NHKニュース)
広島県では31日、新たに3531人が新型コロナウイルスに感染していることが確認され、4人が亡くなったと発表されました。
感染が確認されたのは、▼広島市で1429人、▼福山市で727人、▼呉市で343人、▼東広島市で212人、▼尾道市で191人、▼廿日市市で187人、▼三原市で113人、▼府中市で42人、▼三次市と府中町でそれぞれ36人、▼大竹市で33人、▼竹原市で31人、▼海田町で28人、▼世羅町で25人、▼江田島市と庄原市でそれぞれ18人、▼北広島町で16人、▼安芸高田市で14人、▼熊野町と坂町でそれぞれ9人、▼神石高原町で7人、▼安芸太田町で4人、▼大崎上島町で3人のあわせて3531人です。
一方、福山市は29日発表した1人について取り下げました。これで県内での感染確認は、のべ66万8312人となりました。
また、県内では患者4人が亡くなったと発表されました。県内で新型コロナウイルスに感染し、その後、死亡した人は1023人となりました。
新型コロナ医療体制 病床使用率60.8% 30日時点(NHKニュース)
30日の時点で病床の使用率は60.8%(確保病床数886床、入院患者539人)。
このうち重症患者用の病床使用率は26.9%です(確保重症病床52床、重症の入院患者14人)。
軽症の人や症状がない人が入る宿泊療養施設は1240室を確保し、356人が過ごしています(利用率28.7%)。
直近1週間の人口10万人あたりの新規感染者数は1307.79人です。
現在、広島県の感染レベルは、1から4の4段階のうち発熱外来を受診する患者が増えるなど、保健医療の体制への負荷が高まり始めていることを示す「レベル2」です。
【新型コロナ厚労省まとめ】292人死亡 10万7465人感染(31日)(NHKニュース)
厚生労働省によりますと、31日、発表した国内の新たな感染者は空港の検疫などを含め10万7465人となっています。また国内で亡くなった人は292人で、累計5万7266人となっています。
東京都 コロナ 21人死亡 1万1189人感染確認 4日連続前週下回る(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 23人死亡 新たに6929人感染確認(NHKニュース)大阪府内の感染者の累計は254万5384人となりました。府内で感染して亡くなった人はあわせて7147人となっています。
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北朝鮮、ミサイル3発発射 2022年は過去最多(AFPBB)
【12月31日 AFP】韓国軍は31日、北朝鮮が同日午前8時ごろ、黄海北道(North Hwanghae Province)中和(Chunghwa)郡から日本海に向けて短距離弾道ミサイル3発を発射したと発表した。北朝鮮の2022年のミサイル発射回数は過去最多を更新した。
韓国軍によれば、ミサイルは約350キロ飛行して落下した。
韓国軍統合参謀本部は「わが軍は米国と緊密に協力して監視と警戒を強化しながら、完全な即応態勢を維持している」と述べた。
前日には、韓国軍が固体燃料ロケットの試験飛行に成功。今週には北朝鮮の無人機5機が韓国領空に侵入した。
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防衛費5年間で大幅増の43兆円、実際は60兆円近くに膨張 そのわけは…(東京新聞)
政府が2023〜27年度の5年間の次期計画で打ち出した防衛費の大幅増に関し、実際の規模は60兆円近くに膨れ上がることが分かった。政府は5年間の規模を43兆円としているが、それ以外にも、期間中に新規契約する装備品購入費で28年度以降にローンで支払う額が16兆5000億円あるためだ。保有を決めた敵基地攻撃能力(反撃能力)向けのミサイルや戦闘機などの高額兵器を一気に増やすことが影響しており、防衛費のさらなる膨張や予算の硬直化につながる恐れがある。(川田篤志)
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2022年世界のニュース 映像で振り返る
ロシアによるウクライナ侵攻、英国のエリザベス女王の死去、安倍晋三元首相の銃撃事件。2022年の世界の主要ニュースを映像で振り返る。
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けん玉
石川さゆり
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松任谷由実 荒井由実
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wangwill66 · 2 months
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奸詐與虛偽
H:三國第五十集對白
孫權對魯肅說「孔明奸詐劉備虛偽」,孫權明知討不回荊州卻非要去要。忠奸之辨全在立場。古人常言「對外精明,對內糊塗。」鄭板橋「難得糊塗」更是精髓。這一切都是聰明人的把戲。孫臏不裝瘋賣傻如何保全性命鬥垮龐娟。蘇軾「博觀而約取,厚積而薄發。」而「世人昨日看錯我曹操,今日又看錯了,也許明日還會看錯,可是我仍然是我,我從來不怕別人看錯我。」這是來自對岸歷史劇「新三國」中一代梟雄曹操臨終的遺言。不以人廢言做自己。慶餘年第二集范閑對五竹叔所說的「找到自己想做的事,為自己而活。」外面所傳不重要,自己心中所想才是主宰。20240730W2
網路字典:
奸詐
虛偽詭詐。《西遊記》第四三回:「他極奸詐,若放了他,恐生惡念。」《初刻拍案驚奇》卷一三:「一個外郎叫做丘三,是個極狡猾奸詐的。」也作「姦詐」。
奸詐
奸詐,漢語詞語,拼音:jiān zhà,注音: ㄐㄧㄢ ㄓㄚˋ 意思是奸偽狡猾。[1]
中文名
奸詐
外文名
Treacherous
拼音
jiān zhà
近義詞
狡詐 奸刁 奸猾 奸滑 陰險 陰惡 刁滑 權詐 奸險 巧詐 刁猾 陰毒 狡猾 險詐 奸巧 狡滑 刁鑽 奸狡 狡黠[2]  
反義詞
忠誠 篤實 老實 樸直 誠實 忠實 忠厚 敦厚 憨厚 正直 篤厚 赤誠 誠懇[2]  
虛偽
虛假不真實。《三國志.卷三五.蜀書.諸葛亮傳.評曰》:「循名責實,虛偽不齒。」《初刻拍案驚奇》卷一七:「說得確實,重重有賞。倘有虛偽隱瞞,我知道了,致你死地!」
《三國志·諸葛亮傳》記載,「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」對於這句話,東晉史學家孫盛認為,「備之命亮,亂孰甚焉!」又「詭偽之辭,非託孤之謂。
陳壽對劉備的評語"折而不撓,終不為下者,抑揆彼之量必不容己,非唯競利,且以避害云爾",
諸葛亮:中國最虛偽的男人
作者:梅朝榮
語言:繁體中文
出版社:大旗出版社
出版日期:2012/12/01
內容簡介
  〈隆中對〉三分天下,但他為何選擇了無權無勢的劉備?
  〈出師表〉鞠躬盡瘁,但心中所想卻是「宮中府中俱為一體」?
  千百年來人們對諸葛亮形象的認識與推崇,深受經典名著《三國演義》的影響:三顧茅廬、舌戰群儒、巧借東風、三氣周瑜、七擒孟獲、揮淚斬馬謖、空城計……,這些家喻戶曉的故事,讓諸葛亮「上知天文,下曉地理,神機妙算,精謀善斷,盡忠輔主,鞠躬盡瘁死而後已」的形象深植人心。諸葛亮成了史上最受讚譽,也最具傳奇色彩的政治家、軍事家。
  不過,正史上的諸葛亮真的是一位睿智過人、忠君愛國、無懈可擊的完美聖人嗎?中國知名學者梅朝榮從另一個角度思考諸葛亮的才華、智慧及為人,稱他是「中國最虛偽的男人」。此書在海內外的華人圈裡已掀起一場鋪天蓋地的攻防戰,學者與讀者之間爭相辯論諸葛亮的形象以及定位,千萬別錯過這部極具顛覆性的作品!
收回
目錄
前言
諸葛亮所到之處圖
第一章
前期作秀
背靠大樹
終南捷徑
言不由衷
毛遂自薦
言語宣傳
欲擒故縱
名人效應
第二章
多此一舉
逆天而行
貪天之功
指手畫腳
國不置史
事必躬親
裝神弄鬼
第三章
假仁假義
拉打結合
巧取豪奪
左右逢源
溜鬚拍馬
以退為進
第四章
投機取巧
欺上媚主
陽奉陰違
績效泡沫
勞民傷財
第五章
賠本買賣
唯我獨尊
爭權奪勢
自作聰明
貪圖權力
罪孽深重
第六章
笑裡藏刀
獨佔鰲頭
借刀殺人
替罪羔羊
第七章
任人唯親
虛假捏造
排除異己
過河拆橋
謊話連篇
後繼無人
附錄
前出師表
後出師表
諸葛亮生平事蹟
參考文獻
前言
  《紅樓夢》第一回寫賈寶玉夢遊太虛幻境時,看到門上有一副對聯寫道:「假作真時真亦假,無為有處有還無。」王希廉《紅樓夢總評》云:「讀者須知,真即是假,假即是真;真中有假,假中有真;真不是真,假不是假……」曹雪芹寫這《紅樓夢》就是在敘述真事時用假象給以遮掩,講述假事時又有真事作鋪墊。歷史長河中真真假假,假假真真,太多的史實,後人不能一一弄清楚;太多疑問,後人不能一一去解決。
  與《紅樓夢》同為四大名著之一的《三國演義》也為世人所推崇。人們為曹操的奸、劉備的仁、關羽的義、張飛的猛、諸葛的智所傾倒。人們往往用曹操來比喻猥瑣者之奸詐;用劉、關、張比喻兄弟手足之情深;用諸葛亮的謀略比喻聰明者之智慧。可以說一部《三國演義》裡面,有波瀾壯闊的戰爭場景,有感人至深的手足之情,有陰險狡詐的權謀之術。一本書裡留給後人太多的故事,吸引後來者不斷去鑽研,去領會。
   
  諸葛亮是整個《三國演義》中濃墨重彩的描述對象。隆中躬耕數十載,埋沒鄉間無人問,等到皇叔三顧請,一鳴驚人天下知。自從諸葛亮出山後,一直左右三國發展形勢。諸葛亮一生,得到了許多人盼望得到而始終不能得到的東西,留下了許多人應該得到而沒有成為現實的東西。
   
  諸葛亮的一生是帶有傳奇性的一生,太多的褒獎紛紛落入他的頭上。他上知天文,下曉地理;他運籌帷幄,決勝千里;他輔佐後主鞠躬盡瘁,死而後已。他是一個謀士,他是一個儒生,他是一個道士,他是一個忠臣,他是一個賢相。同一人演示了不同的角色,但是中國有句古話:「物極必反。」諸葛亮的一生也是充滿疑問的一生。
   
  諸葛亮自比管仲、樂毅。至於他有沒有兩人的才能,卻是有疑問的。《三國演義》中他確實有無人能比的才華。但是,《三國演義》畢竟是演義,它裡面有許多東西經過了作者再加工,骨子裡有作者自己個人觀點取捨,無法避免羅貫中演義了諸葛亮,美化了諸葛亮。崔浩曾在他的《典論》中這樣評價諸葛亮:「夫亮之相劉備,當九州鼎沸之會,英雄奮發之時,君臣相得,魚水為喻,而不能與曹氏爭天下,委棄荊州,退入巴蜀,誘奪劉璋,偽連孫氏,守窮崎嶇之地,僭號邊夷之間。此策之下者。可與趙他為偶,而以為管蕭之亞匹,不亦過乎?」
前出師表
作者:諸葛亮 三國後出師表→本作品收錄於《三國志/卷35》和《文選注 (四庫全書本)/卷37》以及《古文觀止/卷6》〈  澍案:《蜀志》,建興三年,曹丕殂,明年,曹叡立。五年,丞相亮帥諸軍北伐魏,乃上表。〉
姊妹計劃: 百科·數據項
  臣亮言:先帝創業未半而中道崩殂,今天下三分,益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣不懈於內,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇,欲報之於陛下也。
  誠宜開張聖聽,以光先帝遺德,恢弘志士之氣,不宜妄自菲薄,引喻失義,以塞忠諫之路也。
  宮中府中,俱爲一體,陟罰臧否,不宜異同。若有作奸犯科及爲忠善者,宜付有司論其刑賞,以昭陛下平明之治,不宜偏私,使內外異法也。
  侍中、侍郎郭攸之、費禕、董允等[1],此皆良實,志慮忠純,是以先帝簡拔以遺陛下。愚以爲宮中之事,事無大小,悉以咨之,然後施行,必能裨補闕漏,有所廣益。
  將軍向寵,性行淑均,曉暢軍事,試用之於昔日,先帝稱之曰能,是以衆議舉寵爲督。愚以爲營中之事,悉以咨之,必能使行陣和穆,優劣得所也。
  親賢臣,遠小人,此先漢所以興隆也;親小人,遠賢臣,此後漢所以傾頹也。先帝在時,每與臣論此事,未嘗不歎息痛恨於桓、靈也。侍中、尚書、長史、參軍,此悉貞亮死節之臣也,願陛下親之信之,則漢室之隆,可計日而待也。
  臣本布衣,躬耕於南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事,由是感激,遂許先帝以驅馳。後值傾覆,受任於敗軍之際,奉命於危難之間,爾來二十有一年矣。先帝知臣謹慎,故臨崩寄臣以大事也。受命以來,夙夜憂歎,恐託付不效,以傷先帝之明,故五月渡瀘,深入不毛。今南方已定,兵甲已足,當獎率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除姦凶,興復漢室,還於舊都,此臣所以報先帝,而忠陛下之職分也。至於斟酌損益,進盡忠言,則攸之、禕、允之任也。
  願陛下託臣以討賊興復之效;不效,則治臣之罪,以告先帝之靈。若無興德之言,則責攸之、禕、允等之慢,以彰其咎[2]。陛下亦宜自課,以諮諏善道,察納雅言。深追先帝遺詔,臣不勝受恩感激。
  今當遠離,臨表涕泣,不知所云。
↑ 《三國志·董允傳》作「侍中郭攸之、費禕、侍郎董允等」。
↑ 《三國志·董允傳》作「若無興德之言,則戮允等以彰其慢」。
後出師表
作者:諸葛亮本作品收錄於《古文觀止/卷6》裴松之在《三國志》注引用自《漢晉春秋》,《漢晉春秋》引用於東吳張儼《默記》,並沒收錄於陳壽原纂的《三國志》及《諸葛亮集》,諸多學者爭論是否偽作。作者可能是諸葛恪。
姊妹計劃: 百科·數據項
  先帝慮漢賊不兩立,王業不偏安,故託臣以討賊也。以先帝之明,量臣之才,故知臣伐賊才弱敵強也。然不伐賊,王業亦亡,惟坐待亡,孰與伐之?是故託臣而弗疑也。
  臣受命之日,寢不安席,食不甘味,思惟北征,宜先入南,故五月渡瀘,深入不毛,幷日而食。臣非不自惜也,顧王業不得偏安於蜀都,故冒危難以奉先帝之遺意也,而議者謂爲非計。今賊適疲於西,又務於東,兵法乘勞,此進趨之時也。
  謹陳其事如左:高帝明並日月,謀臣淵深,然涉險被創,危然後安。今陛下未及高帝,謀臣不如良、平,而欲以長計取勝,坐定天下,此臣之未解一也。劉繇、王朗各據州郡,論安言計,動引聖人,羣疑滿腹,衆難塞胸,今歲不戰,明年不征,使孫策坐大,遂幷江東,此臣之未解二也。曹操智計殊絕於人,其用兵也,髣髴孫、吳,然困於南陽,險於烏巢,危於祁連,偪於黎陽,幾敗北山,殆死潼關,然後僞定一時耳,況臣才弱,而欲以不危而定之,此臣之未解三也。曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,任用李服而李服圖之,委夏侯而夏侯敗亡,先帝每稱操爲能,猶有此失,況臣駑下,何能必勝?此臣之未解四也。自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,突將無前,賨、叟、青羌散騎、武騎一千餘人,此皆數十年之內所糾合四方之精銳,非一州之所有,若復數年,則損三分之二也,當何以圖敵?此臣之未解五也。今民窮兵疲,而事不可息,事不可息,則住與行勞費正等,而不及今圖之,欲以一州之地與賊持久,此臣之未解六也。
  夫難平者,事也。昔先帝敗軍於楚,當此時,曹操拊手,謂天下以定。然後先帝東連吳越,西取巴蜀,舉兵北征,夏侯授首,此操之失計而漢事將成也。然後吳更違盟,關羽毀敗,秭歸蹉跌,曹丕稱帝。凡事如是,難可逆見。臣鞠躬盡瘁,死而後已,至於成敗利鈍,非臣之明所能逆覩也。
太聰明會很累,簡單點,快樂點。
想得太多,容易情緒鬱結;
在乎太多,常會敏感多疑;
糾結太多,導致焦慮崩潰。
難得糊塗
←歸厚難得糊塗
作者:魯迅
子明
1933年11月6日古書中尋活字彙→本作品收錄於《准風月談》本篇最初發表於一九三三年十一月二十四日《申報·自由談》。
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  因為有人談起寫篆字,我倒記起鄭板橋有一塊圖章,刻著「難得糊塗」。那四個篆字刻得叉手叉腳的,頗能表現一點名士的牢騷氣。足見刻圖章寫篆字也還反映著一定的風格,正像「玩」木刻之類,未必「祇是個人的事情」:「謬種」和「妖孽」就是寫起篆字來,也帶著些「妖謬」的。
  然而風格和情緒,傾向之類,不但因人而異,而且因事而異,因時而異。鄭板橋說「難得糊塗」,其實他還能夠糊塗的。現在,到了「求仕不獲無足悲,求隱而不得其地以竄者,毋亦天下之至哀歟」的時代,卻實在求糊塗而不可得了。
  糊塗主義,唯無是非觀等等——本來是中國的高尚道德。你說他是解脫,達觀罷;也未必。他其實在固執着,堅持着什麼,例如道德上的正統,文學上的正宗之類。這終於說出來了:——道德要孔、孟加上「佛家報應之說」(老、莊另帳登記),而說別人「鄙薄」佛教影響就是「想為儒家爭正統」,原來同善社的三教同源論早已是正統了。文學呢?要用生澀字,用詞藻,穠纖的作品,而且是新文學的作品,雖則他「否認新文學和舊文學的分界」;而大眾文學「固然贊成」,「但那是文學中的一個旁支」。正統和正宗,是明顯的。
  對於人生的倦怠並不糊塗!活的生活已經那麼「窮乏」,要請青年在「佛家報應之說」,在「《文選》,《莊子》,《論語》,《孟子》」裡去求得修養。後來,修養又不見了,只剩得字彙。「自然景物,個人情感,宮室建築,……之類,還不妨從《文選》之類的書中去找來用。」從前嚴幾道從甚麼古書裡——大概也是《莊子》罷——找著了「幺匿」兩個字來譯Unit,又古雅,又音義雙關的。但是後來通行的卻是「單位」。嚴老先生的這類「字彙」很多,大抵無法復活轉來。現在卻有人以為「漢以後的詞,秦以前的字,西方文化所帶來的字和詞,可以拼成功我們的光芒的新文學」。這光芒要是只在字和詞,那大概像古墓裡的貴婦人似的,滿身都是珠光寶氣了。人生卻不在拼湊,而在創造,幾千百萬的活人在創造。可恨的是人生那麼騷擾忙亂,使一些人「不得其地以竄」,想要逃進字和詞裡去,以求「庶免是非」,然而又不可得。真要寫篆字刻圖章了!
  十一月六日。
韜光養晦
釋  義
韜光,收斂光采。養晦,隱藏蹤跡,以便修養。韜光養晦比喻隱藏才智,不使外露。
蘇軾名句
編輯
明月幾時有,把酒問青天,不知天上宮闕,今夕是何年?
我欲乘風歸去,又恐瓊樓玉宇,高處不勝寒。起舞弄清影,何似在人間。
轉朱閣,低綺戶,照無眠。不應有恨,何事長向別時圓?
人有悲歡離合,月有陰晴圓缺,此事古難全。
但願人長久,千里共嬋娟。——《水調歌頭》
浩浩乎,如馮虛御風,而不知其所止;飄飄乎,如遺世獨立,羽化而登仙。
其聲嗚嗚然,如怨如慕,如泣如訴,餘音嫋嫋,不絕如縷。——《前赤壁賦》
人生到處知何似,恰似飛鴻踏雪泥,
泥上偶然留指爪,鴻飛那復計東西。——《和子由澠池懷舊》
若言琴上有琴聲,放在匣中何不鳴?
若言聲在指頭上,何不於君指上聽?——《琴詩》
事不目見耳聞,而臆斷其有無,可乎?——《石鐘山記》
只恐夜深花睡去,故燒高燭照紅妝。——《海棠》
十年生死兩茫茫,不思量,自難忘。——《江城子》
天涯何處無芳草。
多情卻被無情惱。——《蝶戀花》
回首向來蕭瑟處,歸去,也無風雨也無晴——《定風波》
不識廬山真面目,只緣身在此山中。——《題西林壁》
處晦而觀明,處靜而觀動,則萬物之情畢陳於前。——《朝辭赴完州論事狀》
凡物皆有可觀。苟有可觀,皆有可樂。——《超然臺記》
蘇軾語錄
編輯
古之立大事者,不惟有超世之才,亦必有堅忍不拔之志。《晁錯論》釋意:自古以來能夠干成大事的人,不但需要超越世人的才能,更加需要堅持忍受永不放棄的精神。
生、死、窮、達,不易其操。翻譯:不論活著、死亡、貧窮或顯達,都不能改變做人應有的獨立人格和品行。
浩然之氣不依形而立,不恃力而行,不待生而存,不隨死而亡矣。故在天為星辰,在地為河嶽,幽則為鬼神,而明則復為人。此理之常,無足怪者。
與謝民師推官書
編輯
大略如行雲流水。初無定質,但常行於所當行,常止於所不可不止。文理自然,姿態橫生。孔子曰,言之不文,行之不遠。又曰,詞達而已矣,夫言止於達意,則疑若不文,是大不然。求物之妙,如係風捕影,能使是物瞭然於心者,蓋千萬人而不一遇也。而況能使瞭然於口與手乎。是之謂詞達。詞至於能達,則文不可勝用矣。揚雄好為艱深之詞。以文淺易之說,若正言之,則人人知矣。此正所謂雕蟲篆刻者。
書朱象先畫後
編輯
能文而不求舉,善畫而不求售。
留侯論
編輯
匹夫見辱,拔劍而起,挺身而鬬,此不足為勇也。天下有大勇者,卒然臨之而不驚,無故加之而不怒。此其所挾持者甚大,而其志甚遠也。
諸葛亮論
編輯
取之以仁義,守之以仁義者���周也。取之以詐力,守之以詐力者,秦也。以秦之所以取取之,以周之所以守守之者,漢也。仁義詐力雜用以取天下者,此孔明之所以失也。
書生之論,可言而不可用也。
信於久屈之中,用於至足之後;
流於既溢之餘,發於持滿之末。
博觀而約取,厚積而薄發。
 
──蘇軾〈稼說送張琥〉摘錄
 稼說(送張琥)
作者:蘇軾 北宋本作品收錄於《東坡全集‎》和《東坡文鈔》
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曷嘗觀於富人之稼乎?其田美而多,其食足而有餘。其田美而多,則可以更休,而地力得完。其食足而有餘,則種之常不後時,而斂之常及其熟。故富人之稼常美,少秕而多實,久藏而不腐。今吾十口之家,而共百畝之田,寸寸而取之,日夜以望之,鋤耰銍艾,相尋於其上者如魚鱗,而地力竭矣。種之常不及時,而斂之常不待其熟,此豈能復有美稼哉?古之人,其才非有以大過今之人也,其平居所以自養而不敢輕用以待其成者,閔閔焉如嬰兒之望長也。弱者養之以至於剛,虛者養之以至於充。三十而後仕,五十而後爵,信於久屈之中,而用於至足之後;流於既溢之餘,而發於持滿之末,此古之人所以大過人,而今之君子所以不及也。吾少也有志於學,不幸而早得與吾子同年,吾子之得亦不可謂不早也。吾今雖欲自以為不足,而眾且妄推之矣。嗚呼!吾子其去此而務學也哉。博觀而約取,厚積而薄發,吾告子止於此矣。子歸過京師而問焉,有曰轍子由者,吾弟也,其亦以是語之。
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