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#明治神宮鎮座百年祭
hachikenyakaiwai · 10 months
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【かいわいの時】慶長十一年(1606)十二月十三日:秀頼、生国魂神社を再建(大阪市史編纂所)
家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた(略)当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など(柏原市「玉手山物語」)。※原文ママ
石山本願寺建立の際には、この生国魂神社を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、生国魂神社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。このときに造営された社殿は、「生国魂造」と呼ばれる、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである(いくたま夏祭りみこし会)。
(写真)『摂津名所図会 巻之三』より「生玉神社 其二」(スミソニアン蔵)。
江戸時代には、豊臣秀頼により造営された社殿が慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による兵火で焼失したが、江戸幕府により社殿は再興され、社領300石も安堵された。寛永-正保期(1624 - 1648年)の「摂津国高帳」によれば、その社領地は下難波村(現在の浪速区)にあった。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、黄金若干を当社に寄進したという。『摂津名所図会』では、当時の境内の様子や走馬神事の様子などが描かれている。幕末の『浪花百景』にも絵馬堂、弁天池が選ばれている。弘化2年(1845年)には、社殿の造替がなされた《略》1912年(明治45年)1月には「南の大火」により社殿を焼失し、1913年(大正2年)11月に再建された。しかし1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲により再び焼失した。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列され、翌1949年(昭和24年)7月に本殿が再建されるも、1950年(昭和25年)9月のジェーン台風で倒壊してしまった。その後、1956年(昭和31年)4月に鉄筋コンクリート造で再建された(ウィキペディア)。
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yamada50 · 2 years
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こちらを参詣すると全国神社を詣でることと同じ効験があるとされる斎場所大元宮 大元宮は吉田神道の根本殿堂として日野富子の支援もあり吉田兼倶が吉田邸内よりこちらに移建しました 天神地祇八百萬神を祀り、周囲に伊勢ニ宮、全国の延喜式内社3132座が奉斎されていることからここに詣でると全国の神社に参拝することと同等とされています 安土時代には宮中の八神殿が大元宮の背後に遷座し、神祇官代として江戸初期から明治4年まで八神殿の儀式を掌握し名実共に神祇の中心となります 明治に入り八神殿は皇居に戻され、伊勢の神宮を国家の宗祀とする勢いに押され大元宮は吉田神社のただの一末社となりました この本殿は桃山時代慶長6(1601)年に造営され国の重要文化財に指定されています #大元宮 #吉田神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 吉田神社(よしだじんじゃ) 鎮座地:京都府京都市左京区吉田神楽岡町30番地 主祭神:春日神(建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神の総称) 社格:官幣中社 別表神社 巡拝:二十二社 神仏霊場巡拝の道 #国指定重要文化財 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社仏閣 #パワースポット #京都市 #京都観光 #そうだ京都行こう #神社巡拝家 (斎場所大元宮) https://www.instagram.com/p/CjLKevgPKLI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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hegotthesun · 1 month
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飛鳥時代
"物部氏"は、古代の中央豪族・有力氏族の一つ。軍事・警察・裁判をつかさどり、朝廷に奉仕しました。《仏教》が伝来した際は、それを拒む排仏派(保守派)でした。
大和国山辺郡を本���地とした有力豪族で、初代天皇の神武天皇より前に、大和に鎮座した神・邇芸速日命の子孫であり天神系の神別氏族とされます。
邇芸速日命(にぎはやひ の みこと)は、『日本神話』に登場する神。祭祀を司どる物部氏の祖神とされ、神武天皇より先に大和に鎮座したことがこの神話に明記されます。神武天皇の前に、出雲系の王権が大和地方に存在したことを示す説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説もあります。
物部氏は、初代天皇の神武朝より大王家に仕えた氏族であり、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌し、有力軍事氏族へと成長していきました。
▽物部氏の職掌の箇条書き ・屯倉の設置と管理 ・軍事や朝鮮南部との外交 ・医療と呪術 ・狩猟や飼育、食物供献儀礼 ・殯儀礼
6世紀、第29代天皇・欽明朝になると、朝鮮半島南部にある百済国の"聖明王"から贈られた仏像を巡り、大臣の蘇我稲目を中心とする《崇仏派》と、物部尾興や中臣鎌子を中心とする《排仏派》による政争が起こりました。
物部氏の諸氏流は以下の通りです。
▼東国の物部氏 中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられた記録がある。
▼下総物部氏 千葉本拠を持つ物部の祖先伝承に、物部が坂東に進出し征圧したというものがある。香取神宮と物部氏の関連も指摘された。
▼尾張物部氏 東海道の愛知県西部に、かつて物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫だったと伝えられる高牟神社を残す。
▼石見物部氏 物部神社(島根県大田市)は、出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。
▼備前物部氏 岡山県に備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。
朝廷の親衛軍を率いて物部氏は栄えましたが、6世紀の中頃に《仏教》の普及に反対し、🐎"蘇我馬子"と皇族の連合軍との戦に敗れ、そのために滅亡しました。
物部氏が史実として確かになるのは、雄略朝(西暦457~479年)の物部目(もののべ の め)辺りからで、継体朝(西暦507~531年)の🦌物部麁鹿火(もののべ の あらかい)が大連となったのは事実だとされます。
🦌麁鹿火は「磐井の乱」で将軍に任命され、筑紫(九州)豪族の磐井を打ち倒し、そうして敏達朝に物部守屋が大連となりました。
磐井の乱は、西暦527年に百済の要請を受け、朝鮮半島南部へ出兵しようとした将軍🦌物部麁鹿火の率いる大和朝廷軍の進軍を、筑紫豪族の磐井が阻んだものの鎮圧された王権間の戦争。
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大和王権軍は百済の要請を受け、奈良から朝鮮半島南部へ向かうため九州に入りましたが、一方の筑紫豪族は新羅の要請を受けて、それを待ち構えて阻もうとしました。
『記紀』によると当時の大和王権は百済と強い繋がりがあり、筑紫豪族は新羅との繋がりがあったとされます。
当時は大和王権以外にも大きな勢力がいくつかありましたが、筑紫の豪族は、大和の次に栄えていた吉備国にも匹敵する勢力を持っていました。
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吉備国は、昔話『桃太郎』に登場する"きびだんご"でも有名です。
第30代天皇・敏達天皇は、"織田信長"で有名な織田家を輩出した「橘氏」の先祖にあたります。
物部氏は、大臣の蘇我氏と並び、6世紀の朝廷にとって大きな影響力のある氏族でした。
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"蘇我氏"は、古墳時代~飛鳥時代に勢力を誇った有力豪族です。『記紀』では、神功皇后の三韓征伐で活躍した武内宿禰(たけしうち の すくね)を祖としています。《仏教》が伝来した際に、それを積極的に取り入れた崇仏派(推進派)が蘇我氏であったとされます。
7世紀の東アジアは、隋の王朝を滅ぼした唐が、律令制度に基づく国家制度により大帝国に成長し、朝鮮半島や日本列島をうかがっていました。
朝鮮半島南部では、長く続いた高句麗・新羅・百済の覇権争いが、唐の影響によりバランスが変わり、日本と連合を組んでいた百済が劣勢に陥った状況でした。
日本には、敗走した百済人や、日本に共闘を求める新羅からの渡来人が渡って来て、豪族たちの力関係にも影響を与える存在となっていました。
こうした中で、長らく続く百済との友好と支援を強化するため、勢いを増す新羅や唐との関係を重視する豪族同士の対立が昂じて行きます。
新羅・唐との連携を強めようとしたのが崇仏派の蘇我氏でした。
蘇我氏は、大陸からの移民を部下として多く採用し、大和政権の財政を掌握するようになりました。
しかし、それでも当初はライバルの物部氏の方が勢力が大きかったようです。
538年に《仏教》が公伝した際に、欽明天皇は《仏教》の受容について臣下に相談しましたが、崇仏を主張する🐎蘇我馬子の父・稲目に対し、物部尾輿(おこし)が「国津神(出雲国の祖神)の怒りを招く」と反対しました。
この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく対立するようになったのです。
🐴"蘇我馬子"は仏法を信仰し、日本初の本格的な寺院、飛鳥寺の建立を発願しました。一方で、崇仏派の政敵である物部守屋と衝突し、西暦587年に蘇我馬子と聖徳太子はタッグを組み、物部氏を抹殺しました。
蘇我馬子の息子の"蘇我蝦夷"(えみし)と、さらにその息子の🦌"蘇我入鹿"🐬は、皇帝の位を蘇我一族に最も近しい"古人大兄皇子"(ふるひとのおおえのみこ)に継承させようとしました。
それに伴って入鹿は、同じく皇位継承権のある"山背大兄王子"(やましろのおおえのみこ。聖徳太子と蘇我馬子の娘の子)の一族に戦を仕掛けました。
これにより、蘇我入鹿は聖徳太子直系の一族を滅ぼしました。
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"中臣鎌足"は、日本最大の氏族"藤原氏"の始祖。聖徳太子の思想を引き継ぎ、隋や唐の学問を取り入れ、帝中心の政治制度を作りたいと考えましたが、その思想の実現のために蘇我氏は邪魔な存在でした。
こうして中臣鎌足は、皇位継承権のある"中大兄皇子"(なかのおおえのみこ)と協力して、蘇我氏を滅ぼしました。その後、中大兄皇子は、帝を辞退し、補佐役として皇太子となりました。
『日本書紀』の評によれば、帝となった中大兄皇子の叔父で第36代天皇"孝徳天皇"は《仏教》を尊び《神道》を軽んじたとのことです。
百済国の滅亡
西暦662年に、唐と新羅が手を結び、百済を陥落させました。それでも百済兵は各地で抵抗しており、古くから百済と交流のあった大和王権は、そこに援軍を送ることになりました。
幾度かの戦ののち大和王権の水軍は全滅し、百済も滅びました。大和王権は唐の進軍を警戒し、こうして福岡に大宰府が設営されました。
この時点で、朝鮮島南部は新羅の支配下になりましたが、北朝鮮より北の一帯は、凄まじい武力を持つ騎馬民族🏇高句麗の領土でした。
高句麗
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高句麗は当時最強とまで謳われた重装の騎馬隊を有していました。
高句麗の二番目の統治者ユリ王は、王国の創始者である聖チュモの長男で、彼の生涯は他の朝鮮統治者と同じく『三国志』に記されているとのことです。
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唐と新羅は協力し、この高句麗を挟み撃ちにして殲滅しました。
二箇所から同時に攻められると、兵力を二つに分割しなくてはなりません。兵士の数が10万の場合、南北同時に攻められたら5万ずつに軍を分ける必要があるので、兵力が2分の1になってしまいます。似た状況下に第一次世界大戦でイギリス・フランス・ロシアに挟み撃ちにされたドイツ帝国などが挙げられます。
4世紀頃に近畿地方を中心とする勢力の倭国も高句麗と戦を交えましたが、その時に高句麗の騎馬戦力に触れ、戦に馬術が必要だと考えられ始めたようです。
これが倭人が乗馬を始めたきっかけとも言われます。
日本に馬が初めて登場するのが5世紀頃で、弥生時代に魏で執筆された『三国志〈魏志倭人伝〉』には「倭に馬は無し」と記述されていました。
群馬県
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大和王権が🐴蒙古馬を輸入し始めた頃、馬は権力の象徴でもありました。古墳時代の群馬県域に〝馬形埴輪〟が多いのは、権力をアピールするためだと考えられます。
馬の導入により、大和王権(近畿地方)と《群馬文化圏》を繋ぐルートが確保され、群馬にも大規模な古墳や、熟練された〝はにわ〟作製の技術が伝来しました。
重要文化財・国宝に指定される〝はにわ〟の��ち、40%は群馬県から出土されました。
資料の群馬県ホームページによると、群馬県域の〝はにわ〟は、6世紀の中頃から群馬以外では見られない高度な発達をとげました。そうして有力な豪族がこぞって多くの〝はにわ〟を並べたために《群馬文化圏》の熟練〝はにわ職人〟が育成されたとのことです。
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この人間国宝級の職人技は、高句麗の騎馬隊も称賛するに違いないでしょう。
〝はにわ〟の起源は、弥生時代の特殊壷や特殊器台と呼ぶ葬儀用の土器とされます。時代を追って家形や器財形などの形象をかたどった次世代の〝はにわ〟が追加され、古墳時代の中期になって実績と信頼の〝人物埴輪〟や〝馬形埴輪〟が作出されたのです。
2012年から5年を費やして群馬県が実施した古墳総合調査により、県内に1万3249基の古墳が確認されました。
このことから群馬県は東日本最大の古墳大国であるとも言えるでしょう。
フランク王国
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飛鳥時代のヨーロッパでは、西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン王国が300年のうちに滅びましたが、その中でフランク王国だけが発展し、西欧の中心勢力となっていきました。
5世紀後半に建国されたフランク王国は、西ヨーロッパのほぼ全体を治め、現在のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられました。
宗教面では"ローマ教皇"を中心として、《キリスト教》の信仰が人々のよりどころとなりました。
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▲サン・ピエトロ大聖堂の内装
イタリアのサン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の総本山。世界最大級の教会堂建築。ルネサンス時代・バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、第一級の芸術家たちがその造営に携わりました。創建は4世紀ですが、今の聖堂は二代目(1626年)です。
《カトリック教》の典礼音楽に「グレゴリオ聖歌」があります。ラテン語の祈りの言葉にメロディをつけた聖歌で、中世まで育まれてきました。フランスでは現在もグレゴリオの教会や修道院があり、神に捧げる祈りの歌を聴けます。
日本でも使用される階名の「ドレミファソラシ」は、西暦1000年頃に修道士で音楽理論家のグィド・ダレッツォが考案したとされます。
グレゴリオ聖歌は数が多く、聖歌隊も覚えるのが困難な状態でした。そこでグィドは『洗礼者聖ヨハネ賛歌』の歌詞(ut〈do〉, re, mi, fa, sol, la)を当てはめて音楽教育に取り入れました。
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当時、典礼音楽のメロディは口伝で伝えられていましたが、音の動きを示すネウマという記号から、四線譜に音符を書き込む楽譜が考案され、さらに五線譜に発達をとげました。
ちなみにトイレの歴史は以外と古く、6,000年前の古代メソポタミア文明には、すでに下水道と水洗型のトイレが使用された痕跡が発見されました。
紀元前2,200年前のイラク北部シュメール時代の遺跡や、バビロニア王国(現トルコ)の都市ウル、古代ギリシャ文明やインダス文明にも下水道はありました。
特に古代ローマは下水道網が発達しており、紀元前7世紀に完成した下水道は現代も使用されています。
ところが5世紀頃に上記の西ローマ帝国が滅びると、古代ローマ式のトイレは失われ、ヨーロッパのトイレ事情は古代文明以下に転落してしまいます。中世ヨーロッパまでのトイレ事情は、この場では差し控えたいと思います。
1830年代のロンドンで感染症コレラが蔓延したのをきっかけに、ようやく衛生観念が芽生えてトイレ事情が改善され始めました。産業革命の時代まで、ヨーロッパでも水洗式トイレは広く普及していなかったのです。
モンゴル帝国と中世までの後継国
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▲モンゴル帝国の重騎兵
遣隋使篇
時は607年。隋は高句麗との戦に苦戦していました。
聖徳太子の読みでは、その戦を有利に運ぶために、隋は救援を要請するはずだと考えました。遠くを味方にして近くを攻める「遠交近攻策」という伝統の戦略があります。
隋を師範とし、尊敬してこれからも学びつつも、国との関係は対等になりたい。冊封体制から分離して自立し、独立した国を目指したいと聖徳太子は考え、国書でその考えを表明しました。
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」 ◆現代語訳:「おれのほうが上や―!」
せんえつながら筆者が思いますに、日本がどのような国なのか、また国として認めていただいた暁にはどのような朝貢ができるのかというPR文をしっかりと書いた方が良かったのでは……。
飛鳥時代に入るまで、日本に正式な文字体系はなく、歴史書もありませんでした。たとえば弥生時代の邪馬台国に関する情報も日本側には一切残っていません。古墳時代までの日本は歴史の始まる有史時代の前段階、つまり先史時代だったのです。
日本初の歴史書は聖徳太子と蘇我馬子らが漢文でまとめて執筆したとされます。平安時代にひらがなが考案されるまで、歴史書は漢文で書かれていました。
『記紀』は「先祖代々これまでに口伝で伝えられてきた伝承をまとめたもの」とされますが、言い伝えにしては情報量がかなり多いので驚きです。
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■神代文字|世界の文字
日本にも古代文字があったという見方もあります。
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▲鏡背古字の模写
鏡背古字(きょうはいもじ)の礎となった斎部(いんべ)文字は、斎部氏と橘氏の両家間で極秘裏に使用された文字。織田信長は平氏の子孫を自称していましたが、それは世渡りのためで実のところ斎部氏・橘氏の子孫だともいわれます。
飛鳥時代のまとめ
飛鳥時代とは、"推古天皇"が即位した6世紀末から、平城京遷都までの約120年間を指します。飛鳥時代は、中国と朝鮮半島からの《仏教》伝来にともない、古墳時代から脱皮し、新しい文化を発展させた時代でもあります。政治・経済・社会・文化ともに大変革が試みられました。そうして天皇を中心とした律令国家になった点において、日本国家成立の時代ともいえます。
推古天皇は日本初の女性天皇です。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘です。第30代天皇・敏達天皇の皇后になり即位され、その後の政治は聖徳太子と、確執のおこる以前までは叔父の蘇我馬子によって支えられていました。
飛鳥が都に選ばれた理由は、当時は渡来人の力を得て急速に勢力を増していた豪族・蘇我氏の影響が考えられています。蘇我馬子は飛鳥周辺の開発に力を入れ、587年に国内初の本格的な寺院の飛鳥寺を発願しました。
古墳時代の始まりは、邪馬台国が初期の大和王権(政権)に移行する頃で、大和王権の大王たちは、古墳を築き、権勢を誇示しました。飛鳥地域には古墳時代中頃に朝鮮半島から多くの渡来人が新しい技術を携えて日本列島に��って来ました。そうして古墳時代の後半から、多くの渡来人が歴史の表舞台に登場するようになりました。
飛鳥時代は、王権をめぐっての激しい争いが起こり、豪族の間でも対立が深刻化し始めていました。飛鳥時代直前に伝来した《仏教》に関して、崇仏派(左派)の蘇我氏と、排仏派(右派)の物部氏との争いがその一例として挙げられます。
物部氏は国津神(出雲王朝。出雲大社に祀られる神)の子孫、蘇我氏は天津神(大和王権。伊勢神宮に祀られる神)の子孫とされます。つまりこの政争は「天津国」と「国津国」という《神道》における2つの宗派の争いだったという側面もあります。
聖徳太子は、推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けましたが、その政策は《仏教》を基調とするものでした。天皇中心の統一国家を築き上げるため、冠位十二階を定め、憲法十七条を制定し、史書の編纂をはじめたのです。
飛鳥時代の東アジアは、589年に隋が中国の南北朝を統一するとともに、朝鮮半島において諸国間の戦闘が激化した動乱の時代でした。618年に隋が滅んで唐がおこると、唐は律令によって国家体制を整え、その影響力は周辺諸国に波及し、国際情勢は大きく変化しました。遣隋使・遣唐使が派遣されたのもこの時代で、朝鮮半島は7世紀まで百済・新羅・高句麗の三国に分かれていました。日本は皇室とゆかりのある朝鮮諸国の百済と交流をかさねましたが、663年の唐・新羅による連合軍との戦(白村江の戦い)で、日本と百済の連合軍は惨敗を喫し、百済国は滅亡しました。
645年の大化の改新や、672年の壬申の乱後は、天武天皇によって持統天皇の時代になりました。694年には飛鳥から【藤原京】への遷都がおこなわれました。飛鳥時代は、大陸の制度や技術、文化を積極的に導入し、文明化を推し進めた時代でもありました。《仏教》の伝来と定着はその先駆けであり、冠位十二階・十七条憲法の制定、飛鳥寺の造営などは、新しい政治思想や宗教観に基づく国づくりの始まりとみることができます。
飛鳥京に続く【藤原京】は、中国の条坊制に基づく日本最初の都城であり都市の誕生でもありました。条坊制とは、中国・朝鮮半島・日本に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と、東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた左右対称・方形の都市プランのことを指します。「飛鳥文化」という語には、飛鳥京・【藤原京】の地が、政治や文化としての飛鳥時代の文化、という意味と、美術史上の区分としての仏教を中心とした文化、という意味の二つがあります。
【藤原京】
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【藤原京】は、壬申の乱により即位した天武天皇の計画により、唐の都城を参考にして造営された日本で初めての本格的な都市です。 藤原京の大きさは、南北約4.8キロメートル、東西約5.2キロメートル。藤原宮を中心とする新都【藤原京】は、それまでの飛鳥の宮都とは大きく異なっていました。
特筆すべき点は、全体計画のもとに築かれた日本初の中国式の都城であること。先進の中国・朝鮮の都城を模し、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配す条坊制としました。その中心をメインストリートの朱雀大路が南北に貫きます。
《儒教》の教典『周礼』において、「王城は一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀り(宗廟)、西に土地の神を祀る(社稷)。前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く」とあります。
二分された京の東側を「左京」、西側を「右京」とし、街区は格子状に整然と区画されました。都全体が秩序正しい方形を成します。当時の推定人口は3万~5万人。近年の発掘により、京域については平城京をしのぐ日本最大の古代都市であったことも明らかになりました。ちなみに、【藤原京】とは近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。
しかし【藤原京】は、わずか16年で廃都となりました。なぜこれほどの大都市が短命で終わってしまったのか通説によると、湧水が起きる沼地が多かったため、ゴミや汚水処理が追いつかなくなったため、飢饉や疫病・自然災害が頻発したため、大阪湾と都を結ぶ河川の水運が不便だったためと、諸説ありますが、真相は依然として謎に包まれたままとのことです。
飛鳥時代は《仏教文化》が導入された時代で、日本文化の基礎が花開いた時代でした。飛鳥寺や法隆寺などの壮大な寺院が建立され、仏教建築や仏像製作などの荘厳な飛鳥文化が生み出されました。飛鳥文化の中核をなしたのは、朝鮮半島からの渡来文化であり《仏教》とともに寺院造営のための建築、土木、庭園、彫刻、絵画、工芸、芸能など多様な技術・文化が導入されました。
特に百済国は、中国南朝の梁から入手した教義・書物やさまざまな文明要素を倭国に伝えました。しかし《百済仏教》のみが伝来したというわけではなく《高句麗仏教》《新羅仏教》や、遣隋使・遣唐使を通じた《中国仏教》、《儒教》や《道教》も伝来しました。
インド発祥の《仏教》と梵語のお経が漢文に翻訳され、その漢文のお経が日本に伝来するまで、およそ千年ほどの歳月がかかったとされます。
《日本仏教》における《真言宗》の教祖"弘法大師・空海"が、初めて遣唐船に乗ったのは804年のこと。その前年にも難波から遣唐船が出航しましたが、嵐に遭遇して失敗しました。満を持して翌年に再び難波を出発した空海は、四隻の船団の第一船に乗っていました。
瀬戸内海を通って九州に着き、それから肥前の港を出航しましたが、翌日にまた暴風雨に遭って船団は離散し、ぶじに大陸に漂着したのは四隻のうち空海の乗った第一船と第二船の二隻だけでした。
空海が遣唐使船に乗って出港した頃は、日本に羅針盤や気象に関する知識はなく、船も箱を海に浮かべたようなものだったので波で簡単に沈みました。8世紀の遣唐船ですべての船が無事に往復できたのは一度だけ。遣唐船が4隻なのは、一隻だけでも唐にたどり着くためだったのだとか。
その後、空海は平安時代初期の806年に修行を終えて、唐より命がけの航海を終えてぶじに帰国しました。そうして816年に高野山金剛峯寺を開創されました。
日本文学の原点といわれる『万葉集』には、文学作品としてもすぐれた飛鳥時代の歌謡が多数収録されており、中には橘氏を下賜された"橘三千代"の和歌も収録されています。
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
飛鳥時代の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の調査研究を待たなければならないことも数多くあります。
飛鳥時代の年表
523年〈朝鮮〉桓武天皇の先祖・百済の武寧王没 528年〈朝鮮〉新羅に《仏教》伝来 534年〈中国〉北魏が東西に分裂 538年〈日本〉百済より《仏教》伝来 562年〈朝鮮〉新羅が隣国の大加耶を滅ぼす 584年〈日本〉蘇我馬子、自宅に百済伝来の仏像を造る 586年〈朝鮮〉高句麗、長安城へ遷都 589年〈中国〉隋が中国を統一 592年〈日本〉崇峻天皇が暗殺され、推古天皇即位 593年〈日本〉聖徳太子が摂政となる 607年〈日本〉小野妹子らを隋に派遣(遣隋使) 611年〈中国〉隋、三回にわたり高句麗遠征 624年〈朝鮮〉高句麗・百済・新羅が唐の册封を受ける 663年〈日本〉日本&百済の連合軍、唐&新羅の連合軍に大敗。百済滅亡 667年〈朝鮮〉唐と新羅が協力し、高句麗を征服 672年〈日本〉壬申の乱 676年〈朝鮮〉新羅が朝鮮半島を統一 694年〈日本〉【藤原京】に遷都
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
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《カードキャプターさくら》ヒロインの苗字"木之本"は、現・奈良県の大和国土市郡木之本村が起源とされます。近年では奈良県を始め、近畿地方に多い苗字です。
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"大道寺"姓のルーツは大道寺氏。中臣鎌足(藤原氏)の子孫とされます。現在の京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥。大道寺家は《室町時代》中期に伊豆国へ向かい、北条氏の重臣として仕えました。
洗礼者ヨハネの賛歌
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▲グレゴリオ聖歌「洗礼者ヨハネの賛歌」
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milehighdad · 1 year
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宝満宮竈門神社。別表神社。縁結びの神様。千三百五十年大祭(2013)。1360年の歴史。 太宰府天満宮の鬼門(北東)に位置する霊峰宝満山のふもとに鎮座するお宮で、神武天皇のご生母である玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りされています。 鬼滅の刃(2019年アニメ 主人公が竈門丹次郎)人気で行く人が増えた。鬼滅の刃のイラストを書いた絵馬がたくさんあった。
末社須佐神社。スサノオ。 末社夢想権之助神社。江戸時代の剣客。杖道の祖。宮本武蔵に敗れた。
神社
別表神社。(昭和23年成立。社格制度廃止後、伊勢神宮以外は、全ての神社は対等の立場であるとされた)。第二次世界大戦後、神職の人事のみに関わる区別。規模が大きい神社。現在353社。 近代社格制度。明治維新以降。第二次世界大戦後廃止。 官幣大社(65)>国幣大社(6)>官幣中社(23)>国幣中社(50)>官幣小社(10)>国幣小社(37)>別格官幣社(33)(国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神。楠木正成)。北野天満宮と太宰府天満宮は天神信仰による雷神扱いで官幣中社。 官幣=神祇官(じんぎかん 朝廷)から、国幣=国司(地方)から。 大社。大社(おおやしろ)=出雲大社。明治以降、官幣大社+国幣大社→大社。
中世社格制度。 神宮。33社。日本書記では3社(伊勢、石神、出雲)。鹿島、香取(平安時代)。 勅祭社。(ちょくさいしゃ)。16社。二十二社3、一宮6、別表14。 二十二社(1081年。上七社、中七社、下八社。勅祭4、別表神社19。伊勢神宮、奈良と京都。滋賀の日吉神社、大阪の住吉大社、兵庫の廣田神社)。 名神大社。730年。古代社格。中世以降は明神。全て式内社。 一宮神社。120社。国で一番有力な神社。国司が一番初めに参拝。平安時代後期。 総社。国司がまとめて1つの場所に神拝した神社。不明な場合もあり。
古代社格制度。 式内社。(しきないしゃ)。延喜式神名帳。927年。全国の神社一覧。
上古社格制度。
天津神(アマツカミ。ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神 アマテラス)。 国津神(クニツカミ。ヤマト王権に平定された地域の信仰。スサノオ、オオクニヌシ)。
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sadaki-ino · 2 years
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守山区にある白山神社(白山社)三社の中でその履歴に不思議が多い神社とか。 【白山神社(小幡白山神社)】 ご近所の神社参拝 2022年11月8日(火) 白山神社は全国的には登録神社として約2千7百社、境内社を含めると5千社はあるとか。 名古屋市の守山区内にも3社あり、名鉄の小幡駅近くの小幡の白山神社を参拝させていただきました。 https://youtu.be/4dJa7Djg0dg 読み方:はくさん-じんじゃ(おばた) 所在地:名古屋市守山区小幡中1丁目13-8 創建年:伝・600年頃(飛鳥時代前期) 旧社格・等級等 :指定村社・五等級 祭神:伊邪那美命(いざなみのみこと) 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 大己尊命(おおなむちのみこと) 火具土命(かぐつちのみこと) 大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ) 豊受姫命(とようけひめのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと) 【白山神社御由緒】 『由緒 社伝については 明らかではないが「新撰姓氏録」(815)によると 今から約1400年程前に欽明天皇の皇子「小墾田王」という方が 此の地に居住せられ 王が創建されたと云われている 明治5年7月村社に列格し 同40年10月26日 神饌幣帛料供進指定社となる 同43年7月15日同所に御鎮座の愛宕社 東城にあった白山神社(村社) 常燈にあった神明社 北屋敷にあった諏訪社が合祀され 現在の白山神社となる 戦後 社格制が改まって現在は五等級社(戦前の県社級)になる 御祭神 菊理比売命 伊邪那美命 火具土命 天照皇大神 建御名方命 御神徳 生きとし生けるものの「いのち」の祖神「むすび」の祖神と仰ぐ 石川県鶴来に御鎮座の白山比咩神社より御分霊を戴きお祀りしてあります 菊理比売命(白山比咩大神)は「いのち」の根源である水のことを司られ生む 生み出す 成功 くくる(縁むすび) 諸産業開拓豊穣等の御祭徳が著しくあります 境内社の弁天宮は 子授け 安産に御霊徳が著しいです 御祭日 10月17日 境内社 秋葉社 八幡社 山神社 弁天宮 裏面 三四会同年一同 平成10年6月吉日』 #白山神社 #小幡 #秋葉社 #八幡社 #山神社 #弁天宮 https://www.instagram.com/p/CksUQkgvN6g/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mariobabyface · 4 years
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明治神宮、神々しい森と奉納酒。
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yumiiverse · 4 years
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It was beautiful moment of special night visit. Enjoyed so much Meiji Shrine 100th Anniversary with bright light exhibitions! ✨⛩🧝‍♀️🙏 明治神宮鎮座100年祭。たくさんの灯りが灯る夜間参拝、とても美しく楽しいひと時でした💕✨ #yumiilovedyou #meijijingu #meijishrine #明治神宮 #明治神宮鎮座百年祭 #夜間参拝 #specialnightvisit #artiflight #光の芸術 #mirrorbowler ##mirrorbowlermahougumi #ミラーボーラー #ミラーボーラー魔法グミ #shibuya #渋谷 #tokyo #東京 #japan #日本 (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/CG_HA_3D3Lm/?igshid=1nrm1ci2rxq2s
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yanarchy072 · 4 years
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・ ・ #staysafe #socialdistancing ・ #散歩 #神頼み #お久しぶりです #明治神宮鎮座百年祭 ・ 空気がいい! ・ #神社 #shrine #明治神宮 #meijishrine ・ #代々木 #yoyogi #東京 #tokyo #日本 #nippon ・ #instagood #instajapan #japanstagram #instapic (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/CBh3NpRgBct/?igshid=1mug6p1gkzm5m
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vertexauto · 5 years
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明治神宮鎮座100年祭 今年の11/1で100年を迎えるそうです そのお祝いとして奉祝献灯「夢鈴」(ゆめりん)を奉納させて頂きました🙇‍♂️ 自分の書いた願い事が今年の10/30〜11/1の三日間、参道に掲出されるそうです 素敵な企画ですね😅 左半分に願い事と氏名を記入して奉納します 右半分は記念に持ち帰ります #明治神宮鎮座百年祭 #奉祝献灯夢鈴 #夢鈴 #ヴェルテックスオート フェイスブック (是非いいねをお願いします)https://m.facebook.com/kurumano1 ブログ(読者登録お願いします) http://s.ameblo.jp/vertex-auto/ ツイッター(フォローしてね~) https://twitter.com/vertex5621 ホームページ (車屋さんのページです) http://www.vertex-auto.com/ (Meiji-jingū) https://www.instagram.com/p/B640TRbAYkG/?igshid=knbkozgi8us1
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sleepy-sleepy · 4 years
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#明治神宮 #鎮座百年祭 (明治神宮鎮座百年祭) https://www.instagram.com/p/CHDEnabD0Mk/?igshid=h7eeo54x97cb
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yamada50 · 2 years
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秦始皇帝を祀る大酒神社 太秦(うずまさ)の鎮守社で明治以前は広隆寺の桂宮院内に鎮座する伽藍神でしたが、創建は古く京において最古の一社です 仲哀天皇の御代に渡来した始皇帝の後裔で弓月君の父の功満王が「秦始皇之祖神」を勧請しし創建したと伝わります 太秦(うずまさ)の起源は日本書紀にも記されていて、弓月君は日本書紀の応神天皇条に記��れ秦始皇帝子孫の伝承を持ち、百済の120県の民を率いて渡来し帰化したと伝えられ、養蚕や呉服、漢織などの渡来技術を以て弓月君の孫の酒公が第21代雄略天皇の御代に当地の禹都萬佐(太秦)を賜ったと記されています 酒公の六代目の孫が603年に広隆寺を建立、その子孫が大宝元年(701)に松尾大社、和銅四年(713)に伏見稲荷を建立し秦氏が古代葛野一帯を拠点としたことが伺えますが、その祖神を祀る中心が太秦であったといえますね #大酒神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 大酒神社(おおさけじんじゃ) 鎮座地:京都府京都市右京区太秦蜂岡町 主祭神:秦始皇帝、弓月王、秦酒公 社格:式内小社 村社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #鳥居#神社仏閣 #パワースポット #京都市 #太秦 #神社巡拝家 (大酒神社) https://www.instagram.com/p/CiZ-tLUPwiG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shihlun · 3 years
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作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,拍攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作為一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚起的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人原住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象:
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東京,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家們創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污染的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向發展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概會出現奇形怪狀的景象吧。           在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)山形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—��阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里得空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種元素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿傑(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽仁五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的流動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(弗朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出水面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性想像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
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感謝玄天上帝
玄天上帝俗稱上帝公或帝爺公,為玉皇大帝之左相,掌武班;腳踏龜蛇,右手執劍,左手執印訣,威靈顯赫。
玄天上帝,本稱玄武大帝,宋真宗大中祥符五年,為避諱宋聖祖趙玄朗之名而改稱為真武。全稱北極鎮天真武玄天上帝玉虛師相金闕化身蕩魔永鎮終劫濟苦天尊,通稱北極玄天上帝。常被簡稱為玄帝、北帝、黑帝、真武大帝。其又有玄武神、真武神、元武神、玄武大帝、元天上帝、開天大帝、北極大帝、北極佑聖真君、北極蕩魔天尊等稱;俗稱上帝公、上帝爺公、上帝爺、帝爺、帝爺公等。 紫微大帝座下四聖真君之一,其象徵北極星與二十八宿中的北宮玄武,為統理北方之道教大神,北方在五行之中屬水,能統領所有水族與水上事物(故兼海神),因北方在五色中屬於黑色,又稱黑水帝。玄天上帝亦是明朝鎮邦護國之神、降妖伏魔之神、戰神,明朝公家建了許多玄天上帝廟,並由官方祭祀。北帝據說擁有消災解困,治水禦火,護持武運及延年益壽的神力,故頗受擁戴。在日本佛教真言宗,奉祀北辰之神妙見菩薩,亦作一手持劍,腳踏龜蛇(玄武)之像(有時只踏一大龜),與真武大帝有異曲同工之妙,被視為同一位神祇。道教「三十六天將」之一,太歲星君的領袖殷郊、手持竹節鐗的五路財神之首武財神趙元帥、手持瓜鎚的掌管四方土地神的康元帥、「東嶽大帝十太保」之首溫瓊、手拿金磚的戲班先師馬元帥和道教的第一護法神王天君,也是一位著名的雷神,火神,降魔之神,司掌收瘟攝毒,則為玄天上帝之著名四大護法神之一。
聖源覺真經
恭請 聖源覺真經 志心皈命禮 (三稱) 九天玉皇公  人皇氏聖人  捨身堵北缺 代存萬眾生  萬眾大恩典  功德無量深 生平心仁義  性行道德深  刻己代眾生 救世功德成  靈魂萬年顯  天日永保留 萬教拜帝心  大仁大義成  精神在九天 心仍救世存  上天為帝主  勸善天下人 帝命太白星  星君下凡塵  奉旨降筆寫 分為三段經  上中下三節  一切皆降筆 原文用白話  禮義及廉恥  玉皇大帝心 道行八種禮  聖文傳凡世  誦念神鬼欽 老少誦奉行  萬事皆清平  天下分三界 由帝手判公  目視如電閃  不得漏毫分 左右兩旁立  慈苦大法童  生平自割肉 為藥濟貧窮  身佩七寶帶  無極變化通 手執雙龍劍  擁護玉皇公  南斗北斗星 玉皇用大臣  凡間生死事  兩尊星君分 五雷大將軍  聲威震西東  鎮兵千百萬 一切協天兵  五教道教理  仁慈道德心 五教皆平等  一切皈命禮  九重天外聖 地中五嶽神  一切聽號令  萬方土地遵 聖源覺真經  日月星同存  經文動天日 正氣萬古留  萬教經中寶  無極最上經 能超凡入聖  可超度亡人  玉皇威靈顯 仁義道德心  仁義昭日月  道德天同存 解化千萬劫  超度萬眾生  一切救世心 普渡眾生存  上中下聖文  萬教經中源 神聖佛仙道  傳教第一遍  真心誦皇經 福神到家庭  早晚焚香念  出入多貴人 上段聖源覺  常念化災星  諸仙佛法大 擁護誦皇經 誦畢用三拱手禮
中段聖源覺  上天消息文  天地降帝生 就是玉皇公  玉皇大帝名  人人稱天公 生平動天日  萬教皆遵從  金闕正殿坐 總管善惡文  頭戴金皇冠  身穿金龍袍 體高丈二尺  眉目清秀幼  五子鬚端正 壯嚴是天然  大慈大悲心  變出聖源覺 略說上天理  人人皆未明  宇宙太空中 變化萬星球  億億里一只  人物無一定 每球皆不等  有時破裂分  銀河更加遠 將近九天門  上天無早晚  時時皆光明 只見太陽光  照耀萬星球  地球在中間 凡塵在地球  一切天變化  個個有帝名 天下文明世  萬教各眾神  一切法力大 可過外星球  外球說不盡  天氣物不同 無非有道德  可住萬星球  天地變化生 皆由上空中  上天一切事  玉皇手中分 太陽日光照  照耀眾生存  陰陽循環轉 變化日日新  月星眾生寶  天氣眾生根 慈雲降甘雨  由帝各星辰  寒來屬��氣 春夏秋冬時  一年四季節  方便耕種分 凡間混沌開  人獸混草木  奪食其肉血 赤身露體宿  其世無知恥  亦無親屬分 只是未開化  一切亂行為  帝慈心不忍 即命各星宿  下凡再出世  教人開化心 古時到現今  歷代創造人  一切帝王侯 及且領導人  上天各星宿  皆是帝降生 國家興亡運  代代由帝分  九天威靈顯 至今救世存  一切大慈悲  勿聽異說求 家中安玉皇  必遵聖源覺  心須行仁義 性要道德存  國家百般律  勿犯規矩方 勤勞增生產  玉皇最喜歡  信仰聖源覺 保佑自己身  在家或出外  事事定聯陞 經中法語正  降神驅鬼語  妖魔必下拜 諸邪定潛逃  皇經存家中  可避諸邪崇 鎮宅及押煞  潔淨保留存  中段聖源覺 一切降福臨  玉皇心慈善  有求皆必應 誦畢用三拱手禮
下段聖源覺  玉皇天理經  慈善並仁義 勤學記在心  每日念一轉  運限定光明 玉皇行仁義  多誦五福臨  殺身成仁性 捨身取義心  孔孟留句話  須當訪聖人 男女少年人  細心聽聖經  勤學聖賢話 榮華必護身  父母生我身  長大須成人 為子須孝順  孝順敬天日  雙親最大恩 本身為天日  倘若罵爺娘  只是逆天日 貳拾肆孝賢  存留在上天  古人行孝順 孝順感動天  共住勿異心  父慈子孝順 兄寬弟忍和  百福此推尋  靜坐思己過 勿談閒事非  說人過量話  自然有天理 言多必有失  出口勿傷人  若不養心性 定遭苦難尋  平風作波浪  無形生事非 使人傷心恨  兇星禍懸眉  高聲說明醜 謹戒惡言語  毒罵或發誓  皆是報自己 性烈多事件  禍難百般有  仇敵定重重 切須再三忍  口角與訟事  勝敗皆空虛 忍氣留財福  凡事天必知  性善人人欽 寬和萬事成  原諒是仁義  自戒性烈心 天理聖源覺  勸善世上人  仁義道德全 人生主要根  米麥豆薯栗  人生重要物 不可亂消耗  須念來不易  粥飯人生命 無食不生存  雖然土上生  須念成長難 畜生亦如是  不可多殺生  有理必要用 方可殺生命  無理亂消耗  上天有罪名 萬物天地變  多耗必有折  善惡無形影 視之亦無蹤  吸之無別味  虛空過往有 玉皇恩愛深  句句勸人心  愛民如愛己 天無兩樣心  人生在世間  謹守最為先 若不從正業  差錯在眼前  嫖賭自賤身 財帛天數定  家和為第一  勤勞值千金 癡心狂賭難  傾家又蕩產  誦念早日改 妻兒樂團圓  人人雖有過  知者須改心 一切已差錯  須當教子孫  經中行道德 人生要將心  凡事將心念  萬事福自尋 將心人為本  立身孝順心  上天循環理 不將事難成  為人不將心  不將害本身 一切禍難有  罪惡自己尋  結交須大義 共事勿私心  凡事利己念  心高誤本身 福不在財多  財多不是福  福在子孫賢 子弟賢是福  榮華富貴家  不可自誇華 驕傲多薄福  心仁福增加  奢華是枝花 不如多施捨  善有善來報  天增是豪華 窮人勿灰心  心灰事難成  勤儉守本份 富貴必輪流  爛茅一般級  福在自己修 身中無寸土  只要心德修  善事無防作 惡事早改修  貧苦有善念  天須化貴人 生平無愧惡  神欽鬼扶持  行為心德正 萬教盡皆通  修橋施路工  良藥濟貧窮 常作大法事  定為動天公  為善最安樂 為惡天不容  過去有不法  結果如何休 生平有愧惡  切須改善心  若不早日改 鬼祟必纏身  行為無良心  貪心煩惱有 奸刁終害己  早改得自由  天地變化人 善惡出在心  善事門戶福  惡者罪狀深 男女向前程  保守好光陰  在世人為本 子孫孝順心  惡者心不仁  有過改維新 前途事業遠  須防退步身  狼毒梟惡心 差錯自改修  暗中用計較  必遭天理尋 糊行罪萬般  謀為事事難  妻離及子散 子逆做人難  天地循環理  罰罪一世為 急急回心改  陰功早日修  勿為天聾啞 報應或早遲  賞善罰罪惡  時時記在心 經中照天理  頌後好保存  圖書再刻版 扶持萬古留  皇經傳天下  教人道德存 救世天必見  勸善大有功  積善之家庭 上天降吉祥  玉皇增福壽  子孫世代昌 百本傳刻印  謀為貴人扶  三五百本印 小人久病除  千本印刻者  榮華代代存 合群印皇經  積福到家門  印經或抄寫 皆是作陰功  玉皇心仁義  不虧施經人 樂助發善心  福壽定延齡  施經種福田 惡煞不侵身  一生念千遍  凡事皆吉祥 一生念皇經  百年昇天堂  玉皇心印經 變成聖源覺  人人亦可念  天增福壽長 玉皇大天尊玄穹高上帝(三稱) 誦畢用三拱手禮
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生活在老湖口
整座城鎮都是你的故事館
聽不完的口傳故事,訴說著再也看不見的人事更迭,此刻,故事躍然紙上,一頁頁在地人流傳的古老,將拼湊一張想像中的老街地圖,歷史鮮活彷彿昨日。
 湖口老街舊地名是大湖口、大窩口,因其地勢如窩狀(動物的巢穴)而得名,它的繁盛,源於1893年,台灣巡撫劉銘傳鐵路興築及開通,而後,老街成了山區平地貨物往返的集散地;老湖口大致上開墾於清乾隆嘉慶年間,整排完整的紅磚建築由羅屋家族與地方商賈合建,興築於1916年,隔年也將三元宮重建於現址,日治時期大正年間,台灣各地街庄興築長型街屋,前後十數年吸引如寅春、建寅商號進駐,從事貨運、花生油、茶葉雜貨等買賣。
 歷史裡的老街及新街
 大家口耳相傳的湖口老街包含老街、新街及橫街,外地訪客常逛的老街,其實是大正年間老湖口最新完工的街區,當時三元宮因為新落成紅磚街屋的風水而改方位,後因湖口新庄子段地勢較陡鐵路常出軌,1929年北移至北勢;老街的商賈人潮不似以往而逐漸沒落,2001年起歷經十餘年在地文史工作者的調查與社區的努力,陸續設點於老街的特色商家,讓老街昔日的風華能因此被發現。
 如今三百公尺長的湖口老街,街道兩端分別有三官大帝與聖母瑪麗亞,東西方的神明隨著老街的繁華與重生共同靜靜地守護老湖口多年,卻也是穩定老湖口重要的精神力量。
 東西宗教建築的地方守護
 屬於東方宗教的湖口三元宮在1918年完工,後經921地震整修開放信眾參拜至今,主祀神是三官大帝,以及天官、地官與水官三位神衹,每年上元、中元、下元誕辰祭祀為地方重要的宗教傳統儀式,右方房內有供奉捐地蓋廟的羅志旺、羅如嚴的祿位,而三元宮最特殊的祭祀是農曆八月一日的中元普渡,源自湖口萬善祠,至今已有超過三百年的歷史。
 正殿內有兩塊匾額,一是見證宮殿大正年間移址完工「明經進士」匾額,二是2005年第二次整修懸掛之「天地水親」匾額,除此之外,上面有象徵湖口老街的重要建築如天主堂、老街牌樓與三元宮的雕刻,融合現今老街景況與中國文人傳統遵從「天地人」的宇宙觀,最為特殊。
 以西方宗教為體的老湖口天主堂也稱之「聖母皇后堂」,位於大湖口車站舊址,1965年為耶穌會義大利籍滿思謙神父耗費畢生積蓄所建,地方上有此一說,神父早期傳教都在民宅內,為求一處可供教徒聚會場所,甚至返國央求父母變賣故鄉房舍,獲得的現金帶回台灣,傾注於教堂的興建。滿神父在五六零年代為老湖口的奉獻良多,包括望彌撒儀式過程物資如麵粉、餅乾的發放、醫療公���衛生服務等,傳遞教義與救世的投入,在當地長輩心中仍存有深刻的記憶。
 天主堂建築主要是鋼筋混凝土結構,天花板窗戶鑲嵌九種富含宗教意義圖騰的彩繪玻璃,外牆上裝設黃、紅、藍三色幾何造型的彩色玻璃,步上天主堂階梯,教堂建築高度超過十公尺,灰綠紋路的大理石祭台,後方牆上是聖母與耶穌牆面彩繪浮雕,祭台右側懸掛的中文聖祭經文,在素色布面上以毛筆工整書寫,更顯得儀式空間的神聖。教堂因教徒人數減少而鮮少對外開放,在閒置近十年後,經在地居民奔走,於2004年正式成立「老湖口天主堂文化館」,並於2006年指定為歷史建築,一樓為居民藝文學習中心,二樓為「天主教與客庄的相遇」常設展,展示天主教傳教之代表物件,如全台第一本羅馬拼音《英客字典》、神父禮服、彌撒儀式緣由及器物、教堂彩繪玻璃意涵等。
老街是間故事博物館
  湖口老街,沒有像夜市般的萬頭湧動,卻是城鎮興衰的縮影。短短的三百公尺,若是快步走過,必然錯過她的雅致;於是,放慢腳步,大膽窺見老湖口過往的全貌,當你置身在一道穿過騎樓的餘暉,昔日商業繁盛的榮景,會從一家一館的大門背後浮現,那往昔商家用心款待的專注,便自然而然映在旅人的腦海中,儘管時光久遠而歷歷在目。
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4枚とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
 〔目次〕
   1、解説(宮地)
       1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
       2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
       3、広場の七人が語る〔真相〕
   2、資料編
     〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
     〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
     〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
     〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
     〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
     〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
     〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
             丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 (関連ファイル)               健一MENUに戻る
    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
 1、解説(宮地)
 〔小目次〕
   1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
   2、資料編題名『広場における戦闘』
   3、広場の七人が語る〔真相〕
 1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
 この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
 『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
 『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
 いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観るのがくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
 1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入りました。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
 このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
 2、資料編題名『広場における戦闘』
 ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くんだとする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
 それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際派と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員���80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
 スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
 宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
    『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
 人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
 一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、最終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表数字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
 1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ1万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
 朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
 しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
 5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
 第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
 中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門    二重橋
        馬場先門
 第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
 中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
 第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
 中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
 中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
 政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
 これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大集団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
 彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
 さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民広場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に持っていたと推定できるからです。
 それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
 戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マッカーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
 メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識していました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
 占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
 3、広場の七人が語る〔真相〕
 以下の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
 ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
 私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
 2、資料編
 〔小目次〕
   〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
   〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
   〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
   〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
   〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
   〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
   〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
           丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
 (注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した論文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.1��4~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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 『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
 中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
 ○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむかうものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
 この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
 かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
 デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着した。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
  
 この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ」という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
 しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
 いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動のための強固な遊撃部隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
 包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
 この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ隊を支持していた。見物の大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
 先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しかし大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
 この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
 敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、各署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
 四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電車通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
 占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
 この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
 街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
 米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
 『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
 日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
 当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
 警官死亡三(うち一名は丸の内久保次席)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
 アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
 自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
 デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
 〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
 (注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化協会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
 ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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 『皇居前メーデー騒擾事件』
 昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
 大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれて会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
 その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
 午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
  
 一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこれを突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
 排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放火炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
 メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
 『血のメーデー』 検察側の見解
 計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
 皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
 ○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同日午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四��隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
 ○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
 ○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると隊列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の���頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
 ○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
 ○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
 正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
 〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
 (注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告団長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
 第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や、それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
 第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。この裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
 第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
 第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
 被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁「軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
 私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
 私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を個人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信しています。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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 一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
 三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
 午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
 この時馬場先門には約四百五十名の警官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
 二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏んだ。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
 午後二時四十分。事態は急変した。
 全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
 混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
 午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
 祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊��、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
 そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
 楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
 その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
 三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始      ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形        とデモ隊の崩壊          デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
 午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
 だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
 デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
 午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交差点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
 午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
 警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
 この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
    
 警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
 この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
 そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
 第一審・・・・・
 東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組」と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
 第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
 判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
 第二審・・・・・
 一九七一年(昭和四十六年)九���三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
 二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
 〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれてい��す。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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 総評常任幹事会声明 1952年5月2日
 五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
 「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
 (二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共産党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
 (三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものである。
 (四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
 (五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
 (六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
 一九五二年五月二日   日本労働組合総評議会」
 労働界を二分する意見の分裂
 記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露��な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
 〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
 (注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
 第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
 第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
 第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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 日本共産党国会議員団声明 1952年5月1日
 日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
 メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
 十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
 懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
 日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
 (メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
 この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
 (『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
 この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
 〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
 (注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
 第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
 第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
 第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
 第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
 非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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 第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
 第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
 第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
 第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
 ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
 ところがその三日後の二一日に、突如、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国の正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
 一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争・弾圧反対のたたかいが燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたのであった。
 こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第一段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
 前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
 三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
 こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
 私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
 しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかいの指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
 五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時���における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
 中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
 しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
 私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
 翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
 また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
 だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。
 ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席していた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
 (中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運動―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
 〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
          丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 (注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
 石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
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   石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
   『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
   『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
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 (関連ファイル)
    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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