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#朝の8時から今まで全力で動いて用事が二件しか片付かなかった
kozuemori · 4 months
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私の最近の日課は、早朝のバラを楽しむことです。フルーツ、紅茶、ミルラに似たいい香りを胸いっぱいに吸い込みながら、その美しい姿から元気をもらっています。無農薬で育てているので、虫たちが葉っぱを美味しそうに食べる様子もまた、可愛いです。穴だらけの葉もご愛嬌。例年通り、春の最初の花は色も鮮やかで形も大きく、花びらの数も多くて強い芳香がします。去年一度も花をつけなかった白いツルばらも、今年はたくさん咲きそうです。(写真は我が家のバラたち)
植物を育てていると霊性開花の過程を思わせることが多く、たくさんのヒントが隠されているように感じます。蕾もつけず、葉も落ち、枝も細くなり、すっかり元気がなくなったこの白いツルばらを少々持て余し気味だったのですが、去年の秋に思い切った剪定をし、肥料も十分に与え、より太陽の光が当たる場所に移動してみたところ、今年の春先からぐんぐん成長し始めたのです。新しいシュートを伸ばし、若草色の柔らかな葉をたくさんつけ始め、小さな蕾が現れ始めた時の感激といったら…。人もまた、時に実力を十分に発揮できなかったり、落ち込んだり、運に見放されたと感じたり、二度とチャンスは現れないと思い込んだりしますが、バラたちの成長を見ていると実にマイペースでおおらかです。今年がダメなら来年があるさ、とでも言いたげな様子で、ゆったりと呑気に風に吹かれています。
そんなバラたちに振りまわされ、一喜一憂し、あれこれと気を揉んでいるエゴだらけの私。必要な手入れをしながら努力を惜しまず、希望を捨てず、成長を信頼して委ねることの大切さを、バラを育てながら学んでいます。また、バラのおおらかさと慎ましさ、マイペースさ、そして変化を恐れない姿をこれからも見習っていきたいです。
今週見かけた、スピリチュアル関係のニュースをご紹介します。まずは、こちら。
俳優という職業は、自分以外のキャラクターを自分という媒体を使って演じる一種のミディアムなのでしょう。スピリチュアリズムを最初に紹介した俳優は、シャーリー・マクレーンかもしれません。彼女の著作『アウト・オン・ア・リム』は、私が20歳頃に読んだ最初の”スピリチュアル”本です。そこからこの本の訳者であった山川ご夫妻が手がけた本を片っ端から読み漁り、亜希子さんのお話会に参加したり(会場が当時の家から歩いて1分のところでした)と、スポンジのように私がずっと知りたかったことはこれだ!とばかりに吸収していました。当時、シャーリー・マクレーンほどの有名人が自らの神秘体験を語ることは、そのキャリアが危ぶまれるほどリスキーだったと思います。『アウト・オン・ア・リム』から40年、これからさらに有名人を含むたくさんの人がスピリチュアルな体験談をカジュアルに話し、霊感があることが当たり前になったら、スピリチュアリズムへの偏見や誤解も少なくなってゆくでしょう。
偏見といえば、こちらのニュースもありました。
この番組を見ていないので想像でしかないのですが、一般的に心霊番組では霊の存在を必要以上にセンセーショナルに描写したり、災いをもたらすもの、恐ろしいものとして扱い、視聴者もそれを期待することが多いようです。また、特定の霊を呼んで交信する場面も多く見うけられます。
私は霊を怖いと思ったことは今まで一度もありませんし、ミディアムシップの中で恐ろしい姿の霊が現れたこともありません。ミディアムを続けていられるのも、霊が愛と癒しに溢れる存在だと知っているからですし、霊界が私を道具として引き続き使ってくださっているからです。全ては霊界の采配によってミディアムシップは行われます。ですから、こちらが特定した霊と交信する事もできないとされています。生きている人間と同じように、霊もプライバシーと尊厳を持っています。そして、生きている人間以上に霊はエゴのない無条件の愛を持ち、見えないものの大切さに気付かせてくれるのです。
今週からZoomクラスが始まりました!今学期もまたクラスにたくさんの光を持ち寄ってくださる皆さまと、夏の日差しに負けないくらいの明るい光を浴びながら共に霊性開花を学びたいと思います。まだお申込みいただけるクラスもあります。ご参加をお待ちしています!
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夏学期クラスはサイトとショップからお申し込みいただけます。(アイイスのサイトでも告知されています)
春学期に蒔いた霊性開花という名の種を、眩しい太陽と清らかな水、豊かな土壌、そして爽やかな夏の風のエネルギーを享受しながら、共に大切に育んでゆきませんか?皆さまのご参加をお待ちしています!
アウェアネス・ベーシック前期 Zoomクラス 
月曜日:10:00~12:00 開催中止 日程:5/13、5/27、6/10、6/24、7/8
火曜日:10:00~12:00  日程:5/7、5/21、6/4、6/18、7/2
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アウェアネス・ベーシック後期 Zoomクラス   
土曜日:19:00~21:00  日程:5/11、5/25、6/8、6/22、7/6
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アウェアネス・ベーシック通信クラス
開催日程:全6回 お申し込み締め切り:5/15
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アウェアネス・オールレベルZoomクラス
火曜日:19:00~21:00  日程:5/14、5/28、6/11、6/25、7/9
木曜日:10:00〜12:00 日程:5/9、5/23、6/6、6/20、7/4
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アウェアネス・マスターZoom クラス
火曜日:19:00〜21:00 日程:5/7、5/21、6/4、6/18、7/2
金曜日:19:00〜21:00 日程:5/17、5/31、6/14、6/28、7/12
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サイキックアートZoomクラス
日曜日:17:00~19:00  日程:5/12、5/26、6/9、6/23、7/7 水曜日:16:00~18:00  日程:5/15、5/29、6/12、6/26、7/10
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インナージャーニー 〜瞑想と内観〜 Zoomクラス  
月曜日:16:00~17:00   日程:5/20、6/3、6/17、7/1、7/15
土曜日:10:00~11:00 日程:5/11、5/25、6/8、6/22、7/6
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マントラ入門 Zoomクラス  
土曜日:13:00~15:00 日程:5/18、6/1、6/15、6/29、7/13
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トランスZoomクラス
土曜日:19:00~21:00  日程:5/18、6/1、6/15、6/29、7/13
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サンスクリット・般若心経 Zoomクラス 
月曜日:13:00~15:00   日程:5/20、6/3、6/17、7/1、7/15
水曜日:19:00~21:00   NEW! 日程:5/15、5/29、6/12、6/26、7/10
サイトのクラス紹介ページはこちらです。
継続受講の方は直接ショップからお申し込みください。
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サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
5月19日   担当ミディアム:澤輪・森
6月30日  担当ミディアム:ゲスト・森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
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ドロップイン・ナイト 木曜日 19:00〜20:00
5月23日(木)指導霊(スピリット・ガイド)のサイキックアート
詳細とお申し込みはこちらからどうぞ。
過去の開催の様子はこちらからご覧ください。
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shintani24 · 5 months
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2024年5月4日
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Youは何しに海外へ?超円安のGWに「裏金」議員含む多くの自民議員が渡航 事前提出の「渡航計画書」は非公開(MBSニュース)2024年5月4日
円安、超円安である。一時1ドル160円台に突入した。政府・日銀による為替介入の可能性も指摘されるが、それでも150円台で推移している。ゴールデンウィークとはいえこんな時期に海外旅行するのは大変である。日本から食材を買ってしのいでいるハワイ旅行の映像などを見るとなかなか涙ぐましいものがある。
さて、そんな円安の最中、このゴールデンウィーク期間中(4月27日~5月6日)に国会議員も海外へと渡っている。
岸田総理はフランスやブラジルなどを訪問
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まず、岸田内閣からは14人が渡航している。岸田文雄総理が5月1日~6日の日程でフランス、ブラジル、パラグアイを訪問。フランス・パリでのOECD閣僚理事会や各国首脳との会談を行う。上川陽子外務大臣は同じくフランスを始め、マダガスカル、コートジボワール、ナイジェリア、スリランカ、ネパールと多彩。閣僚の場合、上記OECDの理事会があることに加え、国会日程の合間を縫って外交日程を組まざるを得ない事情もある。
自民党は4月28日の衆院補選で「3敗」したが、党内には岸田総理“お得意”の外交で支持率を少しでも上向きにできれば…との淡い期待もあるようだ。
GW中に登院できない議員はほとんどが自民党…萩生田、塩谷氏など「裏金」処分議員の名前も
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一方で、そのほかの国会議員。GW中に国会へ登院できないという届け出をした衆議院議員はのべ34人。写真は4月25日付けの公報に掲載されたもの。衆議院の公報上ではこの期間に国会へ出られないということしか確認できないため、34人すべてが必ずしも海外渡航とは限らないのだが、政権中枢に近い木原誠二議員、ベテランの船田元議員、甘利明議員のほか渡海紀三朗政調会長の名前がある。なかには派閥の政治資金パーティーをめぐる「裏金」事件で、2728万円の不記載があった安倍派「5人衆」の1人、萩生田光一元政調会長や、安倍派の座長だった塩谷立議員の名前もある。パッと見ただけで自民党の議員が圧倒的に多いことがわかる。塩谷議員は処分を受けて離党し無所属となったが、あとは立憲民主党の中川正春議員を除くとすべて自民党所属で、たまたまかもしれないが公明や維新、共産の議員はいない。実に34人中32人が自民党だ。
「エッフェル塔」写真で物議の松川るい議員はGW期間中2回渡航
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続いて参議院議員はのべ17人。参議院の場合、公報上に日程とともに渡航先、ごく簡単な目的も確認できる。こちらも安倍派に所属し「裏金」事件で問題となった議員がいる。政治資金収支報告書に2400万円の不記載があった山谷えり子議員(全国比例)はアメリカへ。876万円不記載の堀井巌議員(奈良選挙区)はグアテマラへ、306万円が未記載だった佐藤啓議員(奈良選挙区)は韓国へ、それぞれ渡航する。
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また、去年夏、自民党女性局の研修で訪れたフランス・パリにあるエッフェル塔前で撮った写真がSNS投稿され、批判を受けた松川るい議員(大阪選挙区)はこの間2回渡航する。政治経済事情を視察するため前半の4月26日から6日間はオーストラリアへ、後半の5月2日から3日間は韓国へという予定だ。観光産業復興の状況視察のためタイへ赴くれいわの山本太郎議員、シンガポールで政治経済事情を視察する社民党の福島みずほ議員などもいるが、それでものべ17人中11人と多数を占めるのは自民党であった。
国民の目から見えにくい議員の渡航…その中身と費用の実態は?
そもそも国会議員の海外渡航はどういった手続きを経て行われるものなのか。衆議院事務局に問い合わせると、いまの通常国会など国会開会中は各議員が「請暇(せいか)」を届け出るのだという。聞きなれない言葉だが、暇(いとま)を請うという意味で一定の期間、国会へ登院がかなわないことを願い出るという主旨だそう。渡航の期間が7日以内の場合は議長の許可が、7日以上の場合は本会議での了承が必要だという。実際に海外へ渡航する場合、各議員は所属会派に請暇届と渡航計画書を出し、あらかじめ議会運営委員会の理事会で了解を得るのだという。
ただ、問題は、残念ながらこの海外渡航の中身やお金が一般には見えづらいことだ。例えば先日、自民党の麻生太郎副総裁はアメリカへ渡航した。4月22日からむこう4日間渡航するとの届を出して許可されている。たしかにこの事例などはアメリカのトランプ前大統領に面会するなどしたことがニュースとなり、何を目的に渡航したかは一般の方の目にも触れることとなった。
しかし、一方で多くの議員の場合、海外渡航の実態はなかなか見えない。事前に会派や議運に提出する「渡航計画書」なるものは非公開だ。また、あくまで議員個人の活動であるため、渡航後、国会などで活動報告が義務づけられてもいない。さらに、渡航費については各委員会や公式な議員派遣団とは異なるため予算がついておらず、各議員が処理する形で公表が義務付けられているわけではないため、どのように渡航費をねん出しているのかもわからない。毎年この時期に議員団として海外渡航し議員外交をしている例もあり、個々の議員がSNSなどで発信している例もあるのだろう。ただ、当方のようなメディアがよほど細かく各議員の活動をチェックし、渡航の中身や費用について問い合わせでもしない限り広く知られるところとはならないだろう。
国会議員たるもの海外で研鑽を積み議員交流を深めることは必要で、海外渡航すべてを否定するものではない。届や渡航計画書を出して議運の了解を得ての渡航だけに「旅行」ではないと信じたいが、あまりに議員の裁量と性善説にたった運用だとも感じる。Youは何しに海外へ。今後の議員活動や国会での質疑にどう生かされていくのか。連休明け以降の仕事でまた見ていきたい。(MBS東京報道部記者兼解説委員 大八木友之)
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「行かないことが支援」善意の拡散が変質 能登にいま漂う空気は(朝日新聞 連載:増幅の先に 「みる・きく・はなす」はいま 第6回)2024年5月4日
「『みる・きく・はなす』はいま」は、1987年5月3日に朝日新聞阪神支局が襲撃され、記者が殺傷された事件をきっかけに始まりました。憎悪、差別、不寛容……。今回は、デジタル空間で増幅された感情が現実社会にもたらす影響を報告します。
元日の能登半島地震。二次災害の懸念があり、道路事情の問題もあって、報道機関もなかなか被災地に入れない。どこで何が起きているのか、情報は乏しかった。
翌2日、主に石川県のグルメ情報を発信していたX(旧ツイッター)のアカウントが呼びかけた。
「被災地にボランティアや支援物資を届けに行く人はちょっと待って! 先の熊本地震でも個人支援に起因した渋滞が問題になっていました」
何度か投稿するうち、語気は強まる。
「もういいや、はっきり言います。災害直後に一般車両が現地に乗り入れることは『本来助かるはずだった方の生命をみすみす失わせる行為』です」
瞬く間に拡散し、表示回数は1800万を超えた。
県も能登方面への外出自粛促す
県にも、渋滞の情報が次々と寄せられた。個人ボランティアの受け入れ態勢も整っていなかった。県や県警も3日以降、「能登方面への不要不急の車での外出は控えて」などと被災地入りの自粛を促すメッセージを出した。
「行かないことが支援」。そんな言葉が、SNSで広まっていった。
東京都内の自営業男性は4日、「やっぱりまだ早いかもな。状況見て考えたい」と投稿した。過去の災害でボランティアの経験があり、自身も被災地の力になりたいと考えたという。
1月6日からの3連休を控えた5日には、石川県知事の馳浩が「現在、個人のボランティアは受け付けておりません」と投稿。表示回数は3千万を超えた。都内の30代男性も5日、写真投稿サイト、インスタグラムのアカウントで「この三連休は絶対能登に行かない!」などと投稿した。被災した石川県七尾市の出身。「少しでもふるさとの役に立てればと思った」
だが、善意で拡散された呼びかけは、違った意味を持っていく。
「自粛の空気が続いたことはさみしい」
「正直邪魔だと思う」「無計画に現地入り」。災害救援のNPOに同行して3日から被災地に入ったジャーナリストの津田大介(50)は、SNS上で批判を受けた。被災地入りした政治家らも「炎上」した。
東日本大震災以来、何度も被災地を訪れ、ツイッターで発信もしてきたが、こんなことは初めてだった。昨夏から仕様が変わり、表示回数に応じて収益が入るようになったことで、扇動的な投稿で数字を稼ぐ人が増えた影響もあるとみる。
「ガソリンを現地で調達した」。事実ではないことも広まった。NPOに迷惑をかけないよう、5日になって、どんな準備をしてどうやって現地に入ったかをXで詳細に説明した。
地震発生直後に被災地入りしたNPO法人カタリバ(東京都)は、これまで8カ所の被災地で支援してきたノウハウ通り、自活できる道具を持って向かった。だが、5日夜、避難所の一角に子どもの居場所スペースをつくる活動についてネット上で報告すると、「ボランティアごっこしか出来ないゴミ」などとXに中傷の言葉が並び始めた。
4人の子がいる石川県七尾市の女性(43)は当時、SNSを見る余裕もなかった。避難所の一部屋で5日ごろから子どもを預かってもらい、炊き出しの手伝いや被災した家の片付けができた。津波から逃れた時のフラッシュバックが出た際は、専門スタッフから助言ももらった。「本当にありがたかった」
重機操作などの技術を持った職人らによるボランティアネットワーク「DRT JAPAN」の吉村誠司(58)は1月2日から被災地に入った。1995年の阪神・淡路大震災以降、数々の現場に赴いてきた。
活動に対し、ネット上では「自衛隊や警察、消防の邪魔をするな」という声もあったというが、被災地では一度も非難は受けなかったという。
行くべきか行くべきでないか。それぞれの人の状況も異なり、明確な正解があるとは思わない。ただ、能登では時間が経ってからも、経験や技術のある人たちが目立ち、これまでの被災地とは異なると感じた。
「技術や経験がなくても人の役に立ちたい。そう素直に思った人がなんとなく排除されてしまう、自粛してしまう空気が続いたことはさみしい」
悩み続けた自治体「難しかった」
石川県輪島市の自宅が地震で倒壊、火災で全焼した漆芸家の桐本滉平(31)は、3カ月近く過ぎても知人らから「手伝いに行きたいけど、迷惑になるからやめた方がいいかな?」と言われることがつらかったという。
「被災地でやれることは今もたくさんある。何より思いを寄せている人たちにいまの被災地の姿をみてほしい」。3月22日、「1月に『まだ能登に行くな!』とSNSで大拡散してくださっていたみなさま、もういつでも能登にいらして大丈夫ですよ」とXに投稿した。
県戦略広報課長の素都明子は「決して一律に支援を拒んだわけではなかったが、様々な組織や部署の要望を、短く明確なメッセージにするのは難しかった」と振り返る。得られる情報は限られ、刻々と変化した。いつ、誰に、どんな支援を求めるのか。それともまだ控えてもらうのか。悩み続けたという。=敬称略
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harinezutaka · 4 years
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一年前日記2(2020年1/8〜14)
1月8日
今日は大嵐だった。朝はやっぱり起きられなかった。お腹が空いて寝る前にお菓子を食べたのがよくなかったな。昼間もぼんやり眠くて、電車も乗り過ごしそうになった。夢をみた気もするしあまり寝られてなかったのかもしれない。今晩はキャベツと豚肉のごま塩鍋。北欧暮らしの道具店のスタッフさん考案の鍋。数年前のサイトの記事を読んでから気に入ってずっと作っている。この特集の鍋は全部作ったけど、どれも本当に美味しかった。水炊きもキムチ鍋もまた作ろう。鍋ってセンスのいる料理だ。全然簡単じゃないと思う。
1月9日
昨日ノートを書きながら1日の過ごし方について考えてみた。まずは寝る時間と食事と運動の時間を固定するのが目標。ここが生活の主役と決めたので時間も贅沢にとる。そのほかの時間は、とりあえず自由にすることにした。とは言ってもお風呂に入ったり掃除したりすることはたくさんあるので、昼間予定がある日の自由な時間は晩ご飯を食べてからお風呂に入るまでの1時間程度かなと思う。日記を書き出して数日。スマホを見る時間が激減した。この日記もスマホで入力してるというのに、2時間ぐらい減った。日記ってすごいのかもしれない。だが、朝はまだ起きられなかった。7時間睡眠で計画したけど冬はもうちょっと寝たいのかも。今年初めての鍼。関西なので松の内は15日なのかなと思いつつもこの時期の挨拶は迷ってしまう。先生の方から「今年初めてですよね」と声をかけてくれたので新年のご挨拶をした。気温が高くて少しのぼせてるような感じがしてたのがよくなった。お腹も動き出した感じ。頭に鍼を刺してるときに、顔がかゆくなって困って少しかいた。刺してから少し離れていた先生が戻ってきたとき、あれ?という感じだったような気もする。前にも後ろにもお客さんがいて忙しそうだった。服を買って帰る。注文していたブーツが届いたので、服も欲しくなって。少し春っぽい店内だったが、裏起毛の黒のパンツとオートミール色のセーターを買った。お昼ご飯は冷凍していたカレーに温泉卵をのっけて食べた。夜は、鶏つくね、小松菜おひたし、ネギとハムのスープ。つくねにはえのきとオートミールを混ぜると食べ応えがあって美味しかった。献立考えるのがしんどい時期はレタスクラブの献立カレンダーを活用していて今日もそうです。でも野菜は、あるものを使うので出来上がるものは少し違う。オートミール色と実際のオートミールも少し違う。私が思っている色はオートミール色ではないのかもしれないが。
1月10日
昨夜はなかなか寝付けなかった。晩御飯のあとにミルクティーを飲んだのがよくなかったかも。最近カフェインがすごくよく効くようになってきた。本を読んで、「寝たまんまヨガ」をしてやっと眠れた気がする。起きたら7時半でした。今日はいい天気。うっすら気持ち悪いのが続いている。朝ごはんはご飯とオートミールのお粥、豚肉と酢漬けの野菜を焼いたの。電車に遅れそうだったので走ったら、5分遅れてて何とか間に合った。電車に乗り遅れないコツは、一番走ってる人を見つけてその人を追いかけること。誰も走ってる人がいないときはヤバイ。ていうか、もう電車に遅れそうになって走っていい年齢じゃないとおもいながらもいつも走っている。今日は事務所の新年会。年末は忙しかったので忘年会もかねてのフレンチのランチ。和草が生えているような(実際に生えていた)演出がどのお皿にも施されていてお皿が春だった。近くの席のお洒落な老夫婦はご主人の誕生日のお祝いだったようで、「いい誕生日でした」と言っていた。いいないいな。歳を重ねて2人だけでお互いを幸せにできるって、すごく努力がいることだと思う。身体はしんどくなるし、頭も衰えていき、苦しめあってしまいそうなものだ。帰り道で通りがかった花屋さんにもいつの間にか春の花が並んでいた。月も綺麗。明日は土曜日だけど夜勤明けの夫が寝ているのでうるさくできない。全然気にしないものだと思って何年か過ごしていたのだけど、先月だったか急に怒られてしまった。というわけで、夜のうちに掃除機をかけたり洗濯機を回したりできることをしておく。心身ともに満たされたので家事も楽しい。
1月11日
3時すぎに目が覚めた。お灸したり蜂蜜ウコンをお湯で割ったのを飲んだりする(どうやら気もふさがっていたようなのでシナモンも入れた)。本を読んでたら再び眠くなり、その後はぐっすりと寝過ぎてしまった。ちょっと落ち込むがそんな日もあるよと言い聞かせる。目が覚めた頃、ちょうど満月だったみたい。月光浴すればよかったな。起きたらすぐにCDプレイヤーの電源を入れる。古いYAMAHAのをハードオフで夫が買ってきたのだが再生できるまでに1時間半ぐらいかかる。これを壊れてるとみなすかどうかは使う人次第。生きてるっぽくていいじゃんと最近は愛着がわいてきた。音はいいし。無事に再生できたので、自分もそろそろ動き出そう。聞いた音楽は安藤明子「ふゆにおてがみ」です。お昼ご飯は、昨日実家に寄ったときに母が持たせてくれたサバの煮物(���めなおすときに青菜を入れた)��切り干し煮、黒豆入り納豆。まだ夫は起きてこないので、ひとりでご飯を食べていると見知らぬ音楽が鳴り出して何何?となる。電話の呼び出し音をいつの間にか変えていたようです。時々こういういたずらっぽいことをする。夜ご飯は豚肉と大豆のトマト煮込みとかぼちゃサラダ。 
1月12日
朝ごはん、ツナとキャベツのパスタ。パスタとキャベツに下味をつけて冷凍しているのをあたためてからツナを加えた。昼からポートアイランドで吟行の会。その前にギャラリー島田で震災のグループ展を見た。阪神大震災から今年で25年。地下では木下晋さんの展覧会をやっていた。味加味でロールキャベツの定食をがっつり食べ、ポートライナーに乗って市民広場駅へ移動。鼻息で窓をくもらせながら。これで一句作りたいなと思った。他のところでお会いしたことがある人も何人か。遠くから来られている人も多かった。ポートアイランドは人が少なくて、でもいる人は何だかみんな幸せそうでこの時代に駅前に公衆電話が3台もあって、いろいろと嘘っぽいなと思った。1時から3時半まで歩いたり止まったりしながら作句して、その後は句会のように、好きな句を選んで句について話をする。それまでの間に初めての人とも何かしら少しは話をしていたので、その印象と選ばれる句のギャップみたいなものもあるのが楽しい。俳句はまだ好きかどうかわからないが句会はとても楽しい。自分の句にも多くはないが点が入って嬉しかった。家に帰ると夫が句会のことをハイカイと言っていた。何回も間違うのでわざとだ。
1月13日
今日も夜中まで寝付けず、明け方からストンと眠くなるパターン。この時期はいつもこんな感じのような気がする。年末年始にはしゃぎ過ぎてしまうんだろうか。宅急便のトラックが停まる音で起きる。今日はテレビが届くんだった。朝は昨日お土産に買ってきたケルンのパンとオムレツ、かぼちゃ、コーヒー。届いたテレビを夫がセットしている間、私は空の段ボール箱に入って待っていた。カルロスゴーンとか言って。テレビを買い換える理由については教えてもらったがあまり理解できず。お昼は餅キャベツ餅。土井先生のレシピ。カレーとバター味が餅でまろやか。録画をためている外付けハードディスクはそのまま使えると思っていたが一度空になっちゃうらしく、1.全部見てから消して使う 2.見ずに消して使う 3.新しいのをもうひとつ買う 4.テレビを返品する の4つの選択肢がありますと言われたが、私は1だったのだが、結局3しか夫は嫌らしく(来週のガンダムを録るけどそれまでに録画を見切ることはできない)だったら選択肢いらないじゃないかと思った。夜ご飯は焼き塩鯖の鍋仕立て。キャベツとひらひらのにんじんとゆずも入れる。生姜もたっぷり。お正月の残りのチーズと焼いたハムも食べた。寒気がしたので薬を飲んで早めに寝る。寝る前しんどくてごろごろしてたら夫の機嫌が悪くなってちょっと喧嘩する。喧嘩した勢いで明日やろうと思ったてた家事を片付けた。何だようー。いつもやってるのにさ。
1月14日
昨日今日とぐっと空気が冷たい。これぞ冬という感じ。一度ぐらいは雪も見たいけどそんな気配はあまりない。夜中に一度目が覚めたけど、その前もその後もよく眠れた。「昨日はごめんね」「そんなそんなこちらこそ」と軽く仲直りした。少し胃腸を休めたかったので、朝ごはんは軽く。バナナ半分とお弁当のスープの残りを少し食べた。お弁当のスープはコンソメ味のお雑煮。具はカリフラワーとハム。まだまだ餅を食べる。仕事の帰りに実家による。両親が町内会の新年会の買い物の件でもめていた。母が同じ物を二つ買ってしまったとかなんとか。
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kkagneta2 · 4 years
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ボツ(?)4
おっぱい。どうしよう、ボツにしてもいいけどこの子好きだからまた考え直すかも…
「また出たんだね、例の通り魔」
と、僕は何となしに言いながら、もう目で追いかけるだけになっている教科書のページを手繰った。
「そうなんだよ、もうこれで7人、いや、8人目か、一体いつ収まることやら、………」
と友人はパンを齧る。
「またいつもの状態で見つかったの?」
「あん?―――そうだよ、いつもどおりさ。俺らと同じ中等部の男子が、傷も怪我も何もなく教室に倒れていたんだと。で、これまたいつもどおり、何があったのか聞いてもうんともすんとも言わないで首を振るのみで、一向に埒が明かねぇ」
「怖いなぁ。首絞めでもされたのかなぁ」
「それが違うんだってさ。この男子の言うことじゃ、首絞めじゃなくてもっとこう、………そう、そう、枕みたいなもので押さえつけられたらしいんだ」
「ふぅん、枕かぁ、………」
と怖くなってふるりと震えて身をすくめた時、ふわりと横から人影が。
「何話してるん?」
現れたのはクラスメイトの佐々木さんだった。その気さくな人体と学年トップの成績から二年生でありながら生徒会長を勤め上げ、その一方で部活の水泳では全国大会で結果を残すなど、天に二物も三物も与えられたような女子生徒。特に一体何カップあるのか分からないぐらい大きな胸は、一時詰め物をしているのだと言う噂が絶えなかったが、運動会の練習時にブラジャーが壊れたハプニングがあって以来、男子はすっげぇ、すっげぇ、と言いながら、告白しては振られていった。
そんな彼女が真横に立ったので、僕は少しドギマギした。
「おぉ! 佐々木か。あれあれ、あの話。通り魔事件の話」
「美桜ちゃんは何か知ってる?」
僕は彼女を呼ぶ時はいつも下の名だった。
「あー、あの話かぁ、………実はうちもよく知らへんねん。昨日も教室で倒れてるん見つかったんやろ? うちその時部室に居てなぁ、秋ちゃんと一緒に見に行こ言うて行ったんやけど、先生に追い返されてしもうてなぁんにも。いや、怖い話やで、………」
「まじかー、………あの生徒会長様でも知らないとは、お手上げかなこりゃ」
「あ! でもうち一つ大切なこと知ってるで!」
と、身を乗り出してきて彼女の胸が顔にあたった。
「み、美桜ちゃん、胸が、………」
「おっと、ごめんごめん」
「おい、啓介そこ変われ」
「い、いや、これ僕のせいじゃないし、ここ僕の席だし、………」
「あははは、いや、啓介くんごめんよ。最近また大きくなってて距離感が掴めへんくてなぁ、昨日もシュークリームを潰してしもてん。困ったやつやで、ほんま」
「うおー、………すっげぇ、��……。ま、まぁいいや。佐々木の言う大切なことってなんだ?」
気を取り直した友人は、それでも美桜の胸に釘付けである。
「そやそや、その話やった。大切なことって言うんは被害に会った男の子のことなんやねん」
「ほうほう」
「実はうち会ったことがあんねんけど、みんななぁ、すっごい可愛くってなぁ! うちああいう子が弟に来てくれたら思うて、ぎゅって抱きしめとうてたまらなくなってん」
「なんだ、そういうことか」
「そういうことって、どういうことや?! これほど重要な点はあらへんやんか!」
「分かった分かった、大切なのは分かったから落ち着いてくれ」
「ふん、分かればええ」
と美桜を宥めてから友人は僕の方を向いた。
「それにしてもアレだな。可愛いと言えばうちの俺らのクラスにも居るな、一人」
と言うと、美桜も僕の方を向いた。
「せやねんなー、せやねんなー」
「ヤバいぞ、佐々木の言うことが本当だったら啓介の身が危ない。おい、啓介、夜道には気をつけるんだぞ」
美桜はこれを聞いてクックッと笑った。
「せやせや、啓介君はかぁいいから気をつけんとあかんで」
ふるふると、笑うに従うて彼女の胸が揺れた。
  それから一週間、件の事件は鳴りを潜め、学園は平和で、静かで、ゆるやかな日常がゆっくりと流れていた。今日も冬だと言うのに朝から陽気な日差しが差し込んで、始終あくびを噛み締めながら授業を受けなければならないくらいにはおだやかな空気が漂っていた。
そうして何事もなく授業が済んで、夕日の沈んで行くのを見ながら友人と一緒に教室を出たのだったけれども、校門の手前でふと、何か忘れものをしたような気がして立ち止まった。
「ごめん、忘れものしちゃったからちょっとまってて」
「しゃあねぇな、待っててやるからさっさと取ってこい」
腕組みをする友人を残して、僕は一人校舎の中へと入って行った。
校舎の中は妙に静かだった。さっきまで沢山人が居たような気がするのに、教室にたどり着くまで誰とも会わず、どこもかしこもひっそりとしている。電灯も消えていて廊下はほの暗い。
それで教室にまでたどり着いてみると、そこだけまだ明るいのであった。
「美桜ちゃん?」
中では美桜が一人窓際に佇んで外を眺めていて、僕に気がつくとふっと笑った。
「あれ? 啓介くんやん。どしたん?」
「ちょっと忘れものしたような気がして戻ってきちゃった」
「あはは、アホやなぁ」
と、美桜は近くの机に腰かけて、
「見つからへんのに」
そう呟くのがぼんやり聞こえたけれども、なぜか何にも気にかけないで机の中を漁り始めた。
それで随分と探したのであったが、机の中にも、ロッカーの中にもプリント類が山積みとなっている他何もなくて、一向にこれと言ったものは見つからない。そもそも何を忘れているのかも分からず、プリントの束を抱えて机を覗き込んだり、何となく体が動いて掃除用具入れの中を覗いたりもした。で、今は、床の上に落ちているのかと思って自席の周囲をグルグルと這っているのだけれども、もちろん何も見つからない。
「あれ、あれ?………」
あれ? と思っても見つからないものは見つからない。と、思ったその時だった。くすくすと上から笑い声がして、
「忘れものは見つかったやろか」
とほぼ頭上から声がしてハッと顔を上げると、やたらと綺麗な足が見え、次いでグワッと、物凄く大きな胸が目と鼻の先にまで迫ってくる。
僕は呆気にとられた。本当に大きくて、制服なんて今にも破れてしまいそうで、思わず後ずさりした。
「啓介くん?」
「あ、いや、何でもない、………あはは、はは、………」
僕はこう言いつつさっと立ち上がったけれども、
「んーん? 啓介くん?」
と、美桜がグッと覗き込んできて息が詰まった。彼女の方が頭一つ分は背が高くて、見下ろされると何となく身がすくむのである。………
「啓介くん」
「は、はい」
「今めっちゃうちのおっぱい見てたでしょ」
「えっ、いや、そんなことは、………」
「うそ、うちには分かってるから正直に言いな~?」
「ご、ごめん、見てました」
「あははは、えっちな子やなぁ!」
「―――むぐぅ!」
………一瞬のことだった。眼前に彼女の胸が迫ってきたかと思うと、顔中、………いや、頭がすっぽりとやわらかいものに包まれて、途方もなくいい匂いが鼻腔中に充満した。
「どーお? うちのおっぱい気持ちいーい?」
「むむぅ、………」
「んー? 何言ってるんか分からへん。もっと押し付けたらどうやろか」
と本当にぎゅうううっと後頭部を押し付けてきた。
息が、出来ない。
「むー! むー!」
こう藻掻いているうちにも美桜はさらに力を込めて押し付けてくる。一体何十センチあるのか分からない谷間に後頭部まで埋まり初めて、とうとう我慢しきれなくって美桜の腕を掴んだけれども、貧弱な僕では水泳部の彼女の力に敵うはずもなかった。
「グリグリ~」
と頭をゆすられると、されるがまま体も揺れる。自分ではどうしようもできないその力に、僕は恐怖を感じて叫んだ。
叫んだがしかし、その声は彼女の胸に全て吸収される。
「むうううううう!!!」
「すごい声やなぁ、でもうちには何言ってるかぜーんぜん分からへん、やっぱりもっとやってほしいんやろか」
とグリグリ、グリグリ。グリグリグリ。と、頭を擦られる度に、柔らかいおっぱいに鼻を押し付けられて、あの甘いような、懐かしような、とろけるような匂いが鼻をついて、頭がショートを起こしたように膝がガクガクと、腰が抜ける。
あゝ、もうだめだ、………
もはや彼女の手には尋常でないほどの力が込められていた、頭に激痛が走るほどに。でもそれが快感に変わって、僕は頭がもうどうにかなってしまったのだと思った。
「ええなぁ、このぎゅってする時の男の子の息、やっぱりたまらへんわぁ」
とますますギュッとして彼女の匂いが。ぬくもりが。
だけど命をつなくためには息を吸わなければならない。
「ふは、ふあ、ふひ」
「たっくさん吸ってぇな。うち生まれたときからええ匂い醸し出してるらしいねんわ」
「ふー!ふー!」
「ふふ、ええ気持ちやろ。もうなんにも考えられへんやろ。苦しくっても苦しくってもどこにも行きたくならへんやろ、―――」
ああああああ、………落ちていく、落ちていく。学園一の優等生の谷間の中へ落ちていく。
自力では立ってもいられなくなって彼女にすがりついた。柔らかい体、それがものすごく心地良くて、一生離したくないと思った。
気がつけば後頭部にあった手の感触が消え、僕の頭はすっぽりと彼女の胸に包まれていた。頭頂部にも、首元にも、肩にも、柔らかい感触がひたひたと吸い付いて、外からでは髪の毛の一本すら見えなくなっていた。
制服を着ているのに僕の顔を包み込んでしまう。
それほどまでに彼女の胸は大きい。世界一だと言っても誰も不思議に思わない。
だけどまだ中学生、二年生。………
「―――もうブラジャー無くってなぁ、今日学校終わったらすぐに買いに行かんとあかんから、ごめんなぁ。また誘ってぇな」
「―――今日すごい胸が張ってん。あーあ、明日になったらまた何センチか大きなってるわ」
そんな彼女のおっぱいに、僕の頭は丸ごと食べられてしまった。
そうして始まったのは頭部へのパイズリ。
さすがに僕も知っている。胸の大きな女性が男に向かってするアレ、………彼女はそれを僕の頭でやろうとしているのだった。
「男の子はこれすると腰が抜けんねん。うちのお兄ちゃんなんてな、毎日毎日、美桜! あれをやってくれ! たのむ!! ってせがんできてな、毎日毎日とろっとろにとろけきって十何回って射精すんねん。終わったら終わったで気ぃ失ってぐったりするし、起きたら起きたですぐ抱きついてくるし、昔はかっこよくて頼りになったんやけどなぁ、もう細うなってうちのことしか考えられへんようになったんやわ。あ、これ誰にも言ったらあかんで。うちこれ言われると弱いんやから」
と言ううちにも、ぎゅうううっと頭を圧迫してくる。美桜が���ういう風に僕の頭を捕らえているのかは分からないけれども、もうここまで来ると嘘みたいな心地よさが体中を駆け巡って、手をだらりと垂れ下げた。
でもしばらくは開放してくれなかった。………
「あはは、もう腰立たん?」
ドサリと仰向けに倒れた僕に向かって美桜はこう言った。
で、唐突にのしかかってきた、―――!
「むぐぅ!!!」
僕の顔は彼女の胸の下敷きに、そしてまたしても息が。
(お、重っ、―――!!)
苦しさよりもこう思うほうが先だった。人が一人顔に乗っているような感じで、体を起こそうにも全く歯が立たない。
一方で美桜は胸の重みから開放されて、
「あー! 重かった!」
と、非常に清々しい声を出していた。
「ほんま重いわ。啓介くんもそう思う?」
「むー!!」
「あはは、めっちゃ苦しいやろなぁ。うちのおっぱい片方だけでも10キロは余裕であるねんもん。何カップやと思う?」
「むぐ、………むぐぅ!」
「正解は、………よく分からない、―――でした! ………あはは、うちZ カップ超えてんねん。胸小そうしとうて水泳部に入ったんやけど、逆効果やったみたいやわ。―――ほな、そろそろ息吸おか」
とゆっくりとずり下がって行って、美桜の顔が見えた。
「すごかったやろ? うちくらいおっぱいおっきいとあんなことも出来るねんで」
と、ここに於いてようやく区切りが出来たようだった。が、開放とは言っても美桜は未だに僕の体の上に乗っていて、あと一歩ずり動けば僕はまたしても天国のような苦しみを味わうことになりそうであった。
「それにしても啓介くん、最近うちのおっぱい見すぎやで。今日も授業中にチラチラチラチラ、………気づいてへんと思うてた?」
「ご、ごめん、………」
「あはは、むっつりさんやなぁ。でも正直な子はうち好きやから、しばらくこないしてよか。さっきみたいなのは苦しだけやったやろ?」
と、その時だった。
「おーい、啓介ー、いつまで忘れもの探してるんだ?」
と友人が教室に入ってきた。美桜を見つけて、
「おぉ、佐々木じゃないか。啓介を見なかったか?」
「啓介くんならさっき腹痛(はらいた)でトイレに行きはったよ」
「そうか、俺も忘れものをしたような気がして来たが、入れ違いになったか」
「―――?」
あれ? と思った。
―――なんで僕らの状況を不思議に思わないんだろう?
「み、美桜ちゃん」
と、言うと美桜は不敵に笑って、
「驚きはった? うち超能力使えんねん。ほら、こんな風に」
と左手の人差し指をピンと立てて僕の目にかざした。
すると途端に、クラクラと眼の前が揺れた。そして胸が苦しくなった。頬も耳も火傷しそうなほど熱くなって、口がぽかんと開く。そしてただでさえ可愛い女の子がさらに可愛く見えてきて、………あっ、あっ、………か、かわいい………!!
「あはは、目ぇとろっとろやん」
「うあ、うあ、………」
「声もしどろで、体が熱うなっ��、うちのことしか考えられなくなって、………ええねんで? おっぱい揉んでも、顔を埋めてぇも、口を吸い付けても」
「―――?!」
一体何が起こったのか分からなかった。分からなかったけれども説明すると、おもむろに立ち上がった美桜が指をパチンと鳴らすと体が空に浮き上がって、次の瞬間には小さな虫のごとく彼女に抱きついていたのである。
「しゅ、しゅごいいいいい!」
僕はそう叫んだ。
―――とろけていく。
脳がとろけていく感覚がする。動きも考えも支配されて僕が自由に動かせるのは手だけ、足はガッチリと彼女をホールドし、胴体はみっちりとそのなまめかしい体に張り付き、顔は再び胸に押し付けられている。
これでおっぱいを揉んだらどうなるのだろう。………
「あぅあ、………あわあわ、………」
それは恐怖とでも言うような感覚だった。触れたら終わる、確実におっぱいの虜になって人間性を失ってしまう。………だけれども手が伸びていく、おっぱいに、おっぱいに。
と、かすかに手先が触れた。「あ、終わった」と思った。
「なにこれ! なにこれええええええ!!!」
やっぱり一度触れたら最後だった。手が、止まらない。
「き、気持ちいいいいいい!!!」
あゝ、これが美桜ちゃんのおっぱい。僕の顔よりはるかに大きなおっぱい、いつも目の前で揺れるのを見つめるだけだったおっぱい、みんなが羨ましがるおっぱい、さっき自分の頭を丸ごと包んできたおっぱい、世界一のおっぱい、………おっぱい、おっぱい、美桜ちゃんのおっぱい、………
「あーあ、もううちのおっぱいのことしか考えられへんようなったなぁ」
と言ううちにも、ぎゅうううっと抱きしめておっぱいに顔をうずめ匂いを嗅ぎ、首元から手を突っ込んでじかにおっぱいに触れ、裾を軽くたくって彼女のおっぱいを覆う純白のブラジャーを堪能する。
「むああああああ!………」
何という快感、………
おっぱい、………
おっぱい、………
美桜ちゃんのおっぱい、………
彼女に再び人差し指を目にかざされると、恐ろしいまでの衝撃に駆られて、おっぱいの中でも特に大切な突起物に吸い付いた。あれ? と思ったら僕は今、制服を透いて、下着も透いて乳首を吸っているらしかった。そしてその乳首を口に含むのも自分の意思ではしていなかった。
それはまるで魔法だった。人差し指一本だけで僕の手足は彼女の思い通りに動いて、思考は全て奪われた。彼女がくるくると指を回すと頭が勝手に谷間へと向かった。彼女が指で空間を切ると僕の制服は真っ二つになった。彼女が5本の指を小さく折りたたむと、僕の体は赤ん坊のように小さくなった。彼女が指をクイと動かすと、僕は誘われるかの如く彼女の胸元に収まった。
そして赤ん坊のようにちゅうちゅうとおっぱいを吸った。―――
「ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、………」
「ふふふ、かわいいなぁ」
「ちゅううう………!」
「ふふ、―――あ! せや、今うちが超能力使うんやめたらどうなるんやろ」
ふと美桜が言った。
「ちょっとやってみよか」
人差し指をくるりと回す。すると、
「んん?」
と友人がこちらを見た。
「どしたん?」
「なんか音がしたんだけど、佐々木は聞こえたか?」
「うちはなんも聞こえへんかったよ」
と、美桜は言って僕の方を顧みた。
「まさか全部見せるんやと思うた? あはは、いくらうちでもそんなことはせぇへんよ」
と言うものの、僕は赤ん坊にされると同時に知能までも剥奪されて、その実この言葉の意味がよく理解出来なかった。
「ばあ!」
「あーあー、よちよちよち、けいすけくんおっぱいおいちい?」
「あぅあぅ!」
「せやねー、友達邪魔やねんなぁ。よし、せやったらけいすけくんのために消してあげよか」
と指をくるくると回す。すると今までそこで忘れものを探そうとロッカーを覗いていた友人の姿は、その座席ごと、―――荷物も、制服も、身につけていた腕時計も何もかも、光がまたたくのと同じように消えた。
「きゃっきゃっ」
「帰る?」
「ばうばう、あー」
「ふんふん、けいすけくんはほんまにおっぱいが好きやなぁ。ほんま赤ん坊みたいやで。ほんならこないしてやろ」
と今度は親指と中指をぴったり合わせてパッチンと鳴らした。僕の体は赤ん坊からさらに小さくなって、リスのようになって、ネズミのようになって、最終的に蟻のサイズへ。彼女の手のひらの上でゴロゴロと転がされて、怖くてびーびー泣くのを見つめられる。
そしてブラジャーのカップの中へと入れられた。
そして次に見たのは、どんどん迫ってくる大きな大きな乳首だった。
僕はおっぱいとブラジャーの板挟みにされてもがき苦しんだけれども、ちょうどよい段差を見つけてそこに滑り込んだ。
「あーあ、気をつけなあかんて言うたのに、まったく啓介くんはかぁいいなぁ」
 時に、日が沈んで教室の中は真っ暗と、広々とした室内に半分に切れた一着の制服、闇の中に紛れて持ち主の帰りを待つ。
女神のような少女はそれすらも消して教室を後にしたが。
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myonbl · 4 years
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2020年5月27日(水)
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SOU・SOUの頒布会(伊勢木綿の手ぬぐいと足袋下が2足)、今年のテーマは「動物」、今月はなんと「くじら」である。もちろん、動物には違いないのだが、つい四本足の生き物を連想しがちな頭の固い前期高齢者には、毎月いい刺激をいただいているのだ。
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今朝も「マルタイラーメン(1/2)」+ヨーグルト+豆乳。
私以外は全員出勤。
空き瓶・缶、45L*1。
洗濯1回。
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macOS のアップグレード、10.15.5となった。
水曜日は「情報機器の操作Ⅰ(食物栄養学科)」、第7週の最終日、いつものように課題配信。今回は、Wordの入力課題を10分間でどこ��でできるか。次回からは対面授業なので、毎時間のはじめに取り組んでいただく課題である。
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熊野のS姉から写真が届く、大漁旗でエプロンを作ったとのこと(モデルはおツレアイのT兄)。なんと、これを私にプレゼントしていただけるとか、大感謝!
来週月曜日の「女性のライフサイエンス」、全8回のオムニバス講義で最後は私の担当。受講者全員に、教室の座席表と自分の番号の書いたリストを送る。三密防止の最低限の対応である。
斜め前のコインパーキングの跡地、住宅が建つとかで施主と工務店が挨拶に来られる。
「スタディスキルズ」の今後の進め方について、共同担当者に相談メール。例年グループワーク中心の授業だが、やはり今年はそれは厳しい。個人作業中心の展開とせざるを得ない。
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ランチはバターチキン@無印良品、ご飯は「サトウのご飯」、これで備蓄用のレトルトカレーは全て片付いた。何しろテレワーク期間中の隠れミッションがリビングと台所の整理、収納を一端全てクリアしたいのだ。
録画番組視聴。
京都・祇園 紗月の四季
京都・祇園の芸妓、紗月(さつき)。屈指の人気を誇る。秘密は何か?京都の伝統行事や美しい四季、芸妓や舞妓を支える伝統工芸の職人たちの世界とともに紗月の1年を追う。
京都の5つの花街(かがい)で最大規模を誇る祇園甲部。そこで、お座敷に呼ばれる件数トップの座を7年連続で守るなど屈指の人気を誇る、芸妓の紗月。一見(いちげん)さんお断りの宴席で披露される、磨き上げられた伝統の芸や心配りが行き届いた会話。見習いや舞妓時代のエピソード。なぜ祇園の世界をめざしたのか?芸舞妓のきらびやかな衣装や三味線を手がける職人の技、そして京都の伝統行事と美しい四季とともにつづっていく。
【出演】紗月,【語り】中川緑
いやぁ、面白かった。私など無縁の世界だが、「離島留学」経験の中学生が、その体験から花街に飛び込んだというのが興味深い。
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少しだけでも体を動かそうと、町内ウォーキングに出発。直後にマスクを付け忘れたことに気づき、梅小路公園は諦めてJR沿いの歩道を使って往復。30分/3kmのつもりが、10m足りなかった。
課題の提出状況のチェック。
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次男の夕飯、さんだかんのソーセージを焼き、イワシの缶詰(こちらも備蓄用)を添える。こちらも備蓄用のインスタント味噌汁が間もなくなくなる。
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ツレアイの連絡を待って肴の用意、今夜は奥川ファームの蚕豆を鞘ごと焼く。この食べ方が、一番美味しいと思う。
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今夜も春風亭一之輔のライブ配信・第七夜を楽しむ。ゲストは音楽パフォーマンスの「のだゆき」、ピアニカやリコーダーで色々と楽しませてくれる。落語は「普段の袴」、武士の気取りを職人が真似して失敗する噺。今夜も「投げ銭」は二人で2,440円。半端な額だが、システム上(?)こんな数字になるのだ。
風呂から上がってハイボール、そこへ準夜勤の三男帰宅、お疲れさま。
このところ、YouTube の有料会員となったので、音楽も映像付きで楽しんでいる。begin 、スピッツなど。
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デスクワークが結構長かったので、ムーブの値が届かず。
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herbiemikeadamski · 2 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 8月21日(日) #赤口(丙午) 旧暦 7/24 月齢 23.4 12.6 年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日です。  . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦aq でお馴染みのRascalでございます😅. . 「大寝坊の巻き」😅💦日曜日なので 構わないですが、今日も昨日の引き 続きで工作があります🤣😆🤣お盆中 の留守の間にAmazonから大量に物品 が運ばれて来て盛り沢山過ぎる😅💦 Amazonで購入した中で一番の大人買 いで、品数よりも購入金額で一番の 記録です✋先ず、自転車(電動)に クローゼット、机、椅子、その他日用品 の数々で上げきれない🤣😆🤣それに 大判のヨガマットを✋自宅でチョックラ✊👊 . トレーニングでもやるのに良いかなって 思いまし✋それよりも自転車から机 に椅子にクローゼットまで全てが組み立 なので、昨日はやる度にあれがない これがないで、あらゆる店を往復に 右往左往🤣😆🤣一番効いたのはスパナ が無くて工具店を探す事二時間も歩 き廻り、危うくゴールドジムまで行く 所でした、それで何落としても片付 けたくて深夜3時までかかったが終わ らなく、やはりあれがないで断念⤵️ . 今日もその続きで明け暮れそうデスw . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #小松川事件(コマツガワジケン).  1958(昭和33)年に東京都で発生した女子高生殺害、死体遺棄事件である。  別名、小松川高校事件または小松川女子学生殺人事件と称する事もある。  1958(昭和33)年8月17日(日)先負.に都立小松川高等学校に通う女子学生  (当時16歳)が行方不明になる。  同月の20日に読売新聞社に女子高生を殺害したとの犯行声明の電話が... しかし、小松川警察署はイタズラ電話と処理したが、翌21日に更に詳細の  電話が来たので、捜査員が調べると同高校の屋上で被害者の腐乱死体を  発見した。1958(昭和33)年8月21日(木)先勝.の、この日である。 .  その後、被害者や警察に遺留品を送るなどして反響を楽しむかのように  電話を30分もかけて来たのに逆探知に成功し公衆電話ボックスと判明した。  急いで駆け付けるが身柄は拘束出来なかったが、目撃証言や通話録音を  ラジオで公開するなどして容疑者を割り出し同年の9月1日に逮捕した。  犯人は工員で同校定時制1年生の男子学生・李珍宇(イ・チヌ、当時18歳)。  未成年の犯行だが、殺人と強姦致死で、戦後20人目の少年死刑囚に。 . #赤口(シャッコウ・シャック).  六曜の一つ。  陰陽道の八嶽卒神が支配する日であり、公事・訴訟・契約などの凶日とされる。  「六曜」の中で「仏滅」の次に縁起が悪い日です。 . #治療アプリの日. . #パーフェクトの日. . #女子大生の日. . #おいしいバターの日. . #献血記念日. . #噴水の日. . #北本トマトカレーの日. . #ホワイトティースデー. . ●イージーパンツの日. ●福島県民の日(福島県). ●静岡県民の日(静岡県). . ●漬物の日(毎月21日). ●木挽BLUEの日(毎月21日). ●ゼクシオの日(#XXIOの日)(毎月21日). ●myDIYの日・お部屋カスタマイズの日(毎月21日). ●マリルージュの日(毎月21日). ●大師の縁日(毎月21日). ●ふれ愛交番の日(毎月21日). . ●ドッグデー期間(7/23~8/23犬の日)ドッグデイズ. ●道路ふれあい月間(8月1日~8月31日). ●電気使用安全月間(8月1日~8月31日). ●北方領土返還要求運動強調月間(8月1日~8月31日). ●地球市民月間(8月1日~8月31日). ●パイン消費拡大月間(8月1日~8月31日). . ●ニノイ・アキノの日(フィリピン). ●ムハンマド6世誕生日(モロッコ). . . ■本日の語句■. #雨垂れ石を穿つ(アマダレイシヲウガツ). 【意味】 小さな事を根気よく続ければ、やがて大きな事を成し遂げられると云う事。 【解説】 つまり、軒先からぽたぽた落ちる雨のしずくのような小さなしずくで も、長い間ずっと 同じところに落ち続けると、硬い石に穴をあけてしまうことがあると云う事。 このことから、どんなに小さな力でも、根気よく続けていればいつか大きな成果が 得られると云う事。 . . 1953年(昭和28)年8月21日(金)赤口. #関根勤 (#せきねつとむ/旧芸名はラビット関根) 【お笑いタレント、コメディアン、俳優、歌手、司会者】 〔東京都港区〕 . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/ChgFBIWPa5nxR2yQ-pe-gz5LPfJiBr9PF_8ZZc0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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manganjiiji · 3 years
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冬のペン祭り
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悲願であった新宿の東急ハンズに行くことができた。新宿のハンズ、万年筆周りの充実が半端じゃなかった。思わぬ伏兵、といったところだ。インクガチャ(1400円くらい)なるものもやっていた。インクは商品としてたくさん並べられていたが、色見本がないので何が何だかという感じだったが、ともかく点数は多かったし、珍しいインクを入れているのだなという感じは伝わってきた。まあ、色がわからなければ意味が無いが。それはそう。だいたいのPOPにごま塩頭のおっちゃんみたいな店員さんの似顔絵が書いてあったので、あの方の采配で万年筆コーナーが回っているのであろうと思われた。今回は「hocoro」(つけペン)が目的だったため万年筆のショーケースを覗きには行かなかった(時間もなかった)が、あのごま塩頭のおっちゃんみたいな店員さんがその中心にいたりするのだろうか。遠目に見た限り万年筆もかなり揃えている様子だった。たしかに、2〜8階建てのタカシマヤ併設のハンズだもんな。紀伊国屋新宿店みたいなものなのか。万年筆コーナーをあまり見て回れなかった理由として、ユニボールとサラサナノの品ぞろえが良すぎて、あれもこれも、と試し書きして「魂の選色タイム」をやっていたからである。そのまえに、世界堂にも何かあるかと思って三丁目で降りて世界堂の1階をうろついてしまったのも時間を食った敗因だった。世界堂はユニボールのフレンチなんとかという限定色が売り切れていたが、これはハンズには全色ちゃんとあった、試し書きも全色。世界堂は画材のお店なので一般筆記具についてどうこう言ってはならないと思うが、思っていたより品数が少ないのと品薄なのとが印象に残った。いつもは2階で紙などよく買わせていただいております。(コピー本制作のため)
さてhocoroとさまざまなペンを手にして、頭痛を見てもらうべく病院へ。13時までの診察で、なんとか12時半につき、待ち時間もなく(珍しい!!)かなりスムーズに受診し、注射も打ってもらえた。市場にかなり薬がなくなっているという話だが、片頭痛薬のトリプタンはリザトリプタンがぎりぎりあるとのことで、もらうことができた。それらのジェネリックが終わったら、薬価3倍の先発品しかないから、それはうちあんまり置いてないんだよね…一度に5くらいしか出せないし…とのこと。前回の診察からの頭痛の状況など話し、「そんななのにちゃんと通勤して偉いね」と事も無げに(?)会話の流れで言われて、こんな、すらっと患者を褒められる医者、ほんとになかなかいねーよ、と思い先生への敬愛が高まった。あと褒められて嬉しかった。前住所から近い駅前の病院というだけで通っていたが、引越し後の今も変わらず通うくらい、今までの人生の中で一番「優秀!」と思えるかかりつけ医の先生だ。開業医というか院長は別で、おそらく二番手的な雇われなのだろうが、院長とのフランクな話し方からしても、共同経営みたいな感じなのだろうか。ともかく、リハビリ施設もあるのでかなりの数のスタッフと患者でごった返している病院だが、なにもかもが風通しよく回っている。二人の医師の人徳だと思う。3月に田舎に戻ってからも、通勤前に通おうかなと思うくらいであるが、できれば田舎でかかりつけ医を決めた方がいいと思う。ろくな医者がいるイメージがないが、田舎とは、私の生まれた田舎とはそのような場所なので仕方がない。
一度帰宅してからまたすぐ通院している心療内科へ。まとめて行っても良かった気がするが、そうすると朝の10時半から夕方18時頃まで外に出ていることになるので、なんとなく一度帰った。文房具に魅了されて時間が押したため、帰っても10分で着替えてまた出ていくだけになったが、暖かい格好に着替えスニーカーに履き替え、原稿道具を持っていけたので良かったと思う。今月は元気でしたの報告を、かなり調子が上向きであるがそこまで浮かれてもいない塩梅で、調節して話した。まだまだ減薬はなし。7年はこの処方(限界量まで使っている強い薬がある)できたのだから、簡単には減らせないだろうなと思う。まずはこの体調(うつ状態なし、希死念慮なし)をあと3ヶ月維持したい。
こちらの病院に行く時の電車内で、突然原稿を始めることができた。スマホに書き出しを打ち出して、病院のあと家の最寄りのガストで冒頭2000字ほど書いた。誰にも良いと言われなくても、私自身がこれはかなり好きな話だと思って書いているので楽しい。まだまだ何がなにやらのところしか書いていないので、中身を書かなければならないのだが、書き方に若干迷いがある。極力フィガロ視点で行きたいと思っているのだが、今までのところ全部ファウスト視点になっている。なんでだよ。明日からはフィガロ視点のシーンを書いていきます。今日だいたい伏線というか導入を書いたので、あとはそれを回収していけばいいと思う。12000字くらいの話にはなるだろうか。書きたいところだけ書いてかすかすな話にはなってしまうかもしれないが、まあいつもの私のフィガファウなので、本当にいつもと同じ展開です。ハッピーエンド。いやエンドがハッピーになるかはわからないが、とりあえずフィガファウがフィガファウしている話なのでハッピーな内容のはずです。
ガストから帰宅してすこし万年筆やインクを弄りながら友と通話して、21時からは赤森さんと合同誌の最終打ち合わせのような感じの通話。今週の土曜日辺りにフィガファウ短歌合同誌のサンプルを上げられればというスケジュールで動いています。どういう反応をもらえるか、もらえないか、すこし楽しみです。自分たちのために作った本とは言え、印刷所さんを検討した結果オフセット印刷のほうが安いことになり、結局すごい部数になってしまったので、もうどうせならたくさんの人に手に取ってほしいよ!という気持ちになりました。度肝を抜きますよ。この装丁は。
茶を飲みながらぐだぐだと原稿準備をしたりまたインクをいじったりして、ようやく2時間程かけてまた2000字。ここはいらないかもしれないな、と思いながら、一応書く。文があまり美しく書けなかったような気がするが、どんまい。書いたからいい。気に入らなければ直したり消したりするので、まあ、決め打ちが一番楽だし今回も時間が無いからこういう書き方は自分に合っていないが、あの手この手で文は書いていかなければならない。
子供が欲しいな、と割と本気でこの人生において550回以上は思っていて、今日唐突に、婚活するか、と思い立った。これだけ人間がいるんだし、私は異性愛に忌避感がないし、何かをどうにかすれば結婚して子供を産むチャンスはまだ無くもない。悠長にしていられる歳でもないので、結婚に向けて今日から具体的に動いて行けばいいじゃないか?とふと思って、いろいろと実行に移した、ないし、移す用意をした。数十年、恋愛をして結婚をして子供を産み育てる、ということが自分に可能だと思えなかった(さまざまな事情がある)。私はわりと、というかどう考えても子供、小さき人と共に生きるのが好きなので、子供は欲しいなと思っていたが、さまざまな条件が厳しかった。恋愛・結婚という部分がかなり難しかった(さまざまな事情がある)。私は女性で異性愛者なので、男性のパートナーを見つければ良いと思うのだが、まったくもって全然それ以前の問題でそれが不可能だった。それについて蹴りを付け始めたのがここ数年で、まあもしかしたら恋愛や結婚をする未来もあるかもしれないと思い出していたが、今日、別に恋愛はいいから早く結婚して子どもを産み育てるべきだとの結論に達した。うまくいくといいのだが。
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logosholic · 6 years
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おまグンタイアップツアー 感想
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前回のクレフェスのときは興奮しているうちに記憶が薄れて、文章に起こせなかったので、その反省を生かし、今回はちょっとでも記憶があるうちに文字に起こそうと、わざわざグンマにパソコンまで持ち込んだアホなオタクです。 もうすでに土曜日に出発したときのことが3か月前の出来事ばりに記憶が薄いのですが、頑張って書き起こしてまいります。
※ 当方、笠間さんのファンなので、笠間さんの話が多いのはご容赦ください。
そんなわけで参加して参りました、「おまえはまだグンマを知らない」タイアップツアー!
今回は天下のクラブツーリズムさん主催、近畿日本ツーリストさん企画の1泊2日群馬ツアー。 群馬と言えば、草津と学生のときに赤城山の裾野に合宿行ったくらいだなと思いつつ、開催月がお誕生日月だったので、よっしゃセルフ誕生日プレゼントだと息巻いて、ぼっち参戦をキメることにしました。
結果、グンマから生きて帰ってこれませんでした。 これを書いているのはグンマゾンビです。 おまグンの言うことは正しかったんじゃ。
行程としては、観光先や食事のタイミングなど、要所で笠間さんと梶原さんが登場し、一緒に過ごしてくださるとのことだったのですが、色々と当日知らされることやサプライズが多くて、いい意味で「聞いてないよ!!」という悲鳴をちょいちょい上げた二日間でした。 その極みがあれですね、1日目夕食の席での笠間さん・梶原さんとの2対2でのお話タイム。やると聞かされたときは完全にツアーで一番の悲鳴が上がったわけですが、いや上がらいでか。 ご本人とお話しできる機会なんで、お渡し会は10秒くらい、サイン会だって1分はないわけで、それが1~2分だというんですから、そりゃ悲鳴も上がります。 蓋を開けてみると、笠間さん・梶原さんが2人で客の目の前に座ってくださって、ひとりひとりにお酌と乾杯をしてくれるという、攻撃力アップと宝具威力アップとB威力アップと魔術礼装で単体攻撃力アップをかけたOC500% 単体B特攻宝具ぶっぱなされたレベルで頭がついていかない事態に。(FGO知らない人はスルーしてください。) お酌されるとは聞いてたけど、2回もしていただけるなんて聞いてないぞ!!!!!本当に本当にありがとうございました!!!!!
笠間さん、梶原さんのお二人には色々とよくして頂き、感謝の言葉しかありません。 ありがとうございました。そして本当にお疲れ様でした!!
観光としても、自分でグンマ観光してもルートに入れなそうなところに連れてって頂いてなかなか楽しかったです。(王道の観光地にあんまり行かないオタクなので…) めがね橋も白衣観音も時間の都合ですべてを見て回れたわけではないので、次に来るときにまた行ってみたいなと思いました。
先ほど、ぼっち参戦と書きましたが、実際に行ってみるとぼっち参戦の方は全体の約1/3を占めてました。 おかげさまで、なんだかんだぼっち同士楽しくつるんで行動したり遊んだりしてまして、ぼっちをエンジョイする時間というのはほどんどなかったように思います。 参加者も一クラス分しかおりませんでしたので次第にお互いの顔も覚えて何となくお話しするようになりましたし、最終的には何人かの方と名刺を交換させて頂きました(P特有の習性)。 ツイッターで繋がった方も沢山できて嬉しかったです。みなさん、次のイベントでお会いできることを楽しみにしております。
ちゃんと仲間広げましたよ、クラツーさん。 第二回もぜひよろしくお願いします。
以上感想の総括でした。 以下、記憶の喪失を恐れる長文オタクのだらだらしたメモです。 案の定とんでもなく長くなったので、興味がある方はお時間のある時にお付き合いください。 (ハイライトだけ見たい方はページ内検索で「!!!」を検索してください。大体私が狂って逆ギレしてるところが引っかかります。)
■行程の話 大体の行程はこんな感じでした。(時間は詳細覚えてないので適当です) 1日目    9:00 新宿出発    12:20 高崎駅で高崎駅発着の参加者を回収    13:30    伊香保で昼食(水沢うどん)     16:00 草津で湯もみショー見学 with 笠間さん・梶原さん     18:00 ディナーショー                      個別お話しタイム(←聞いてない)、質問コーナー(←聞いてない)、カラオケコーナー     20:00 上毛かるた大会                        記念写真撮影    21:30     1日目行程終了 2日目    9:00     宿出発    9:30     浅間酒造にてお酒の試飲と記念品手渡し by 笠間さん・梶原さん                   お買い物 with 笠間さん・梶原さん(←聞いてない)    11:30     めがね橋 観光    13:00     お昼 峠の釜めし                    何故かいる笠間さん・梶原さんと遭遇(←聞いてない)    14:30     白衣観音 観光    15:30     ガトーフェスタハラダでお買い物    16:30     高崎駅で高崎駅発着の参加者下車    19:50     新宿駅着
秋の行楽シーズン真っ只中に北関に向かったため、行きも帰りももろに渋滞に引っかかっていましたが、それ以外は支障なく動いていたような印象です。 見ていただくとお分かりかもしれませんが、観光とお2人の登場が交互に設定されていたので、なかなか普通の観光気分になれませんでした(笑)これはサウナですか?熱い部屋と冷水を行き来するサウナなんですか?心のぜい肉を落とせということなんですかね???
■新宿出発の話 集合場所は新宿のバスが入れるターミナルの一つでした。 私は行き慣れていない場所だったのでちょっと不安でしたが、着いて早々ツアコンさんに「グンマに行かれる方ですか?」と声をかけていただいて安心しました。 ツアー名を大声で読み上げないご配慮、嬉しかったです。
■1日目お昼の話 バスの隣の席の方とお腹すきましたね~なんてお話ししている頃に伊香保に到着。 水沢うどんを頂きました。コシが強くて食べでがあっておいしかったです。カシューナッツが入ったゴマダレというのもいいものでした。今度自分で試してみよう。 一部のオタクたちは一緒に出てきたてんぷらのきのこに反応(きのこの話は9月の黄昏古書堂のチャ限配信をご覧ください)するも、 ここまでは「なんか普通の観光みたいで実感ないですね~」なんて話をしていた記憶があります。 このときはまだ我が身に降りかかることなぞ知る由もなかった。
■すんごい寒かった話 お昼の時からなんとなく肌寒いかな~とは思っていましたが、草津に着いたらくっそ寒かったです。 道中立っていた外の温度計よると14℃とか。それは寒い!! みなさんバスから降りるなりストールを取り出して羽織っていました。 湯もみショーの列整理をしていたおっちゃんに聞いたら、草津はここの所毎日こんな気温だとのこと。 ちょっと調べが足りなかったなと反省いたしました。 なお、笠間さん・梶原さんはばっちり冬の恰好されていました。夜にお話を伺ったら前乗りしていたスタッフさんから事前に聞いていたそうです。あったかそうで何よりでした。
■草津 湯もみショー見学の話 
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湯もみショーでお2人と一緒って正直何やるんだ?まさか一緒に湯もみするわけでもあるまいと疑問符を頭の上に浮かべていました。 開場が始まると入口の傍にお2人の姿が。気付いた瞬間悲鳴が上がりました。そりゃ上げますわ!!! 梶原さんを生で見るのは初めてだったんですが、大きいしかっこいいですね!!予習にガクともチャンネルの上毛かるた回を見たはずなんですが、あれ、こんなにイケメンでしたっけ……?ぶっちゃけ別人かと思った。
中に通されると、奥の一段高いところにステージ、中央に湯もみ実演のためのステージ、それを取り囲むように客席が設置されていました。 適当に最前列の席に陣取ってカメラの調整をしていたら、まさかの笠間さん・梶原さんも普通に入場。他の一般のお客さんに混ざって客席に座った状態で、湯もみショーの見学スタートしました。 さっきまで観光楽しもうとカメラ弄ってたのに、もう気が気じゃない。湯もみ見たいけどお2人も気になってしまって集中できない。お二人の真正面と隣に座った方達大丈夫ですか。息してますか。 そして湯もみ体験コーナーではお二人の湯もみ姿も拝見できました。まさかの一緒に湯もみでした。ありがてえ。 湯もみショーが終わったところで、お二人のお見送りで会場を出て(湯もみに限らず今回めちゃくちゃお出迎えとお見送りされた気がする)ちょっと自由時間がありましが、お二人もそこらへんぶらっとしてたみたいですね。
個人的な話ですが、体験コーナーの前半が終わったあと、お2人は客席の後ろを通ってお見送りのために出口の方に移動されてたみたいなんですが、フォロワーさんの湯もみ体験の姿をほっこりしながら見てたら、急に後ろからめっちゃエエ声の笑い声が聞こえて本当に心臓止まるかと思いました。ええ。
■宿に着くまでの話 いやこれトピックにするほどの話かと思うのですが。 湯もみショーで読めていたトラップに見事にハマって既に若干疲れ気味のツアー参加者。一同はバスの中で近ツーのツアコンさんから宿に着いてからのレクを受けていたのですが、
J('ー`)し「皆さんこちらを楽しみに参加された方も多いと思いますが、」 (´-`).。oO(そうそう、ディナーショー歌うんだよな~!めっちゃ楽しみ~!)
J('ー`)し「お2人と1分間、お話しして頂きます!」
*゚Д゚)*゚д゚)*゚Д゚) ハァ???
き、聞いてねえぞ!!!!!いや、聞いてたら大変なことになってたけど!!!!!!!!この人数だから決まった話なのかも知れないけど!!!!!!聞いてねえ!!!!!!!!!!!ありがとうございます!!!!!!!!!!! いやもう面白いくらい、バスの中が一気に混乱に陥りました。これはしょうがない。人間だもの。みつお。 そして直前まで言わない近ツーさんにしてやられた感です。 なお、このツアー1番の悲鳴が上がった件はディナーショーのときに近ツーさんからバラされ、お二人に爆笑されました。
■ディナーショーの話 
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もう1分間お話しのネタ出しで頭がいっぱいで、宿に着いてから1時間、風呂にも行けず、お茶を飲んで落ち着こうとしたり、死期を悟って声オタの先輩にラインで助けを求めたりしていたわけですが、こういうときに限ってどういう訳だか時が経つのが早い。緊張で半分上の空で会場に向かいました。 会場は畳敷きの大広間で、スクリーンを中心にコの字型に足つきのお膳が並べられているという、絵に描いたような温泉旅館の宴会セッティング。ディナーショーという言葉でイメージするものとはちょっと違いました。 席に着くと、事前に注文がとられた乾杯用の飲み物が配膳されたわけですが、ここでふと気付く。ビールがビンで来たんですよね。いや、確かに中ビンって注文書に書いてありましたけど、ソフトドリンクもビンが多い。あ、これ会社の飲み会で見たことあるやつだ。挨拶にビン持って回るやつじゃんか。やべえ。やべえ予感がする。死期が近い。
そんなこんなでさらに緊張が高まる中、ディナーショーがスタート。 大体こんな感じの流れでした。
・おまグン 1話鑑賞 ・生アフレコからのドッキリ登場 ・乾杯 ・2対2のお話しタイム ・質問コーナー ・休憩 ・カラオケタイム ・〆の挨拶 ・退場
いやもうね!!!!!これ飯どころじゃねえよな!!!!!!! お膳にはこれまた温泉旅館感のある小鉢やらなんやらいろいろなお料理が並べられていましたが、もう完全に気もそぞろ。 笠間さんは何かとサプライズみたいな、こちらを驚かすのがお好きな印象があるのですが、登場からして開いた襖とは全く別の襖から勢いよく登場されて、開幕悲鳴が上がりましたからね!!マネさんの入れ知恵ですか!!ほんと有能ですね!!!!!
乾杯のあと、お待ちかねというか緊張の、運命のお話しタイム。 お二人がさっそく下手側のお膳の目の前に座って、ひとりひとりに飲み物を継がれて乾杯をされたわけですよ。 それを見てざわつく会場。会話の内容に耳をそばだてるのに忙しすぎて、完全に箸が止まっている周辺の席の人々。やっぱり注ぐのかよ!!!!!!と胸の内で悲鳴を上げるわい。悲喜こもごもの人間模様がそこにはありました。 近ツーのツアコンさんの「あと10秒です」「そろそろ終わりにしないと延長料金入りますよ」などのユーモア溢れるタイムキーピングに合わせて、結局一組2~3分はお話しさせて頂いたように思います。 笠間さんはとても気さくな感じでお話ししてくださいましたし、梶原さんも慣れない中で緊張されていたみたいでしたが、笠間さんにフォローされつつお話しを聞かせてくださいました。この距離感がまるで法事で大人になってから久しぶりに会った親戚の兄ちゃんと甥っ子みたいで色々と!お脳のあたりが!!大変でした!!!!! しかし、前回のクレフェスのサイン会の時は緊張のあまり黙ってしまう時間もあって悔しい思いをした。その轍を踏むまいと逸る気持ちを抑え、噛みそうになる舌と震えそうになる指をぐっと押さえて、今回は何とか普通の会話が!できた気が!す……る……???やったぜ!!!!! 貴重な機会を本当にありがとうございました。お話しできて嬉しかったです。注いで頂いたビールは最高に美味しい一杯でした。
もう胸がいっぱい頭もいっぱいいっぱいの状態で、質問コーナーに突入。 事前に参加者がバスの中で書いた質問用紙をその場でランダムに二人が引いて、そこに書かれた質問に答えていくという趣旨のものでした。 質問と答えの詳細はきっとグンマゾンビのみなさんがツイッターに報告を載せてると思うので細かく書きませんが、初めて聞く話も沢山あって楽しかったです。笠間さんは指先に気を溜めてガシャを引くらしいぞ。 笠間さんは適度にこちらのレスポンスを受けて話を深堀して頂けました。ありがてぇ。 梶原さんは自称コミュ障ということだったんですが、次第に空気感に慣れてきたのか、徐々に表情が柔らかくなっていって大変ほっこりいたしました(叔母目線。
カラオケの前に機材の準備で休憩タイムが設けられたのですが、その際カラオケで普段何を歌うかという話題になりまして、
笠「『アンバランスなkissをして』とか歌うかな~」 (反応する一部の参加者) 笠「当時、まだシングルCDがなくて、どこに行っても買えなくて。知ってる? これくらいの小さいCD(8㎝CD)」 (頷く一部の参加者) 梶「え、知らないです」
そ、そうか~~梶原さんの世代だと知らないんですね~~。目指せポケモンマスターとかだんご3兄弟とかそのサイズだったような。 (しかし参加者の世代がバレる案件だった)
この雑談が元で笠間さんは急遽披露する曲を『アンバランスなkissをして』に変更。笠間さんのサービス精神には本当に頭が下がります。 歌詞カードの準備がなかったのに、マネージャーさんが速攻で歌詞を検索してスマホを渡しておりました。さすがです。 マネさんいつもありがとうございます。お世話になっております。たそこしょで手だけ拝見しております。
カラオケはまず、歌は本邦初公開という梶原さんから。 曲はback numberの「ハッピーエンド」。(であってますよね?) 私は知らない曲だったんですが、めちゃめちゃいい曲でした。 いやというか梶原さん歌うま…!! 私はさっぱり音楽の素養がないんですけど、いやでも歌いだしから目が丸くなりました。正直光る棒が欲しかった。 次回から光る棒持ち込みおっけーにしてくれませんか近ツーさん。
そしてお次が笠間さん。 無論とっくにしかと存じ上げておりましたがやっぱり歌が上手い。 もう圧倒的です。さすがです。こんな少人数の前で披露して頂けるなんて、なんて贅沢。言葉もありません。ゾンビなんで。
最後に言語野が消失していく中、ショーは終了していきました。 あまりにも贅沢な時間でした。
ところでこれ書きながら気づいたんですが、 宿で飯食いながらお酌してもらって楽しませてもらって歌まで披露して頂いて、 これってお座敷遊びってやつでは…???
■上毛かるた大会の話 
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おまグンタイアップということで組み込まれたこのレクリエーション。 グンマローカルかるたであるところの上毛かるたを3~4人ずつのチーム戦で実際にプレイしようという企画でした。 事前に勝ったチームには景品があると聞かされていたので、バスの中でも食事の席でも部屋でも、上毛かるたの予習方法や、おすすめアプリの情報交換が積極的に行われておりました。そう、戦いはすでに始まっていたのです。 かくいう私もガクともチャンネルで予習をするほか、ちはやふるを読んでイメトレを重ねておりました。
ディナーショーの余韻も冷めやらぬまま会場に向かうと、そこにはすでに座布団と並べられたかるたが。 わ~ちはやふるで見たやつだ~とテンションも上がって、席に着くなり早速目の前の札を覚える作業にとりかかる。最初の暗記が肝心だってちはやふるでも言ってた。
そうこうするうちに時間になり、グンマ出身の近ツー社員さん司会でルール説明がスタート。 実はこの方、ツアーにはこのときだけ参加されまして、おそらくこのカルタ大会のためだけにいらしてくださったのだと思われます。本当にありがとうございました。おかげさまではじめての上毛かるたを思いっきり���しむことができました。
一通りのルール説明が終わってから、笠間さん・梶原さんが読み手として再登場。これまた贅沢なかるた大会です。 「30分休憩挟んだら空気感忘れちゃった…」とまた緊張モードに戻ってしまった梶原さんを余所にそこでようやく、今回の景品が発表。
司会「お二人が片方目を入れた、サイン入りのダルマを優勝チームにひとり一つ差し上げます。」
そんなん欲しいに決まっとるがな!!!!! 参加者全員の目の色が変わる中、梶原さんの読み上げでかるた大会がスタートしました。
ちょっとここで今回プレイした上毛かるたのルールを説明します。 上毛かるたでは読み札を2回読み上げますが、読み上げ1回目は精神を研ぎ澄ます時間。そこで札を取ってはいけません。札を取っていいのは、2回目に読み上げるときです。 つまり、初心者でも1回目の読み上げの間に札を探す時間があるわけで。
2回目を読み上げた瞬間、スタンッ!!とあらん限りの瞬発力を以て畳を打ち付ける音が複数響きました。 チームによっては同時に手をついた札を取り合って白熱のじゃんけん大会が勃発。しょっぱなから大盛り上がりとなりました。
笠「なんか俺らの時よりめちゃくちゃ盛り上がってるな~」 梶「まず札探すところからしてタイムラグありましたからね」 (ガクともチャンネル参照)
酒が入った大人のオタクを舐めちゃいけない。遊ぶのには全力ですし、景品がかかってるんですからそりゃ本気ですとも。 私が所属していたチームでも、対戦チームとお互いに速攻を決めたり札を払ったりじゃんけんしたりと、一進一退の攻防が続きました。
予想以上の盛り上がりを見せる会場に、負けじと笠間さんも梶原さんもあの手この手で読み方を変えて参加者を翻弄。 詳しいことは何分3か月前(体感)の出来事のためもう記憶が定かではないので、やっぱりグンマゾンビのみなさんのツイートを参照してほしいのですが、 ・近ツーのツアコンさんのモノマネ ・お嬢様風 ・インテリ ・ショタ ・オラオラ系 などなど、途中から参加者のリクエストも拾って頂いてさらに大盛り上がり。 エエ声で「そのきれいな瞳でちゃんと札見てろよ」とか言うのやめてください!!!!!集中できねえ!!!!!!!ありがとうございます!!!!!!!!!なお、梶原さんは「アドリブ入れるとしんじゃう」とのことでしたので、アドリブはほぼなかった気がします。 個人的に笠間さんの「いっくわよー!チャリオット・マイ・ラブ!!」を聞いてしまって爆発しておりました。メイヴちゃんサイコー!!弊デアにもいつかきてください。(なおピックアップは爆死した模様)
そんなこんなで全札の読み上げが終わり、獲得枚数30枚以上と群を抜いて多かったチームが優勝しました。 私のチームは対戦チームと獲得札同数、「鶴舞う形の群馬県」の札を獲得していたお相手のチームの勝利でした。次機会があったらもっとイメトレ積んで行かねば……
■記念撮影とお見送りの話 楽しいかるた大会のあとは、全員集合の記念撮影とお見送り。 記念撮影はお二人を真ん中に、近ツーのお姉さんの「はい、グンマー!……いや、スベるので普通に戻します」という愉快な掛け声に合わせてガクともチャンネルグンマのGポーズと自由ポーズで撮影。このときのお写真は後日メールで送って頂きました。みなさんめっちゃいい笑顔で幸せな1枚です。 最後はお二人が手でアーチを作り、そこをくぐってお見送りでした。え、なんだろうこれ卒業式…??? 最後の最後まで、楽しませて頂きました。
これにて1日目の行程は終了。 そうなんです。これまだ1日目の話なんです。まだ折り返しなんだ。恐ろしいことに。
■近ツーのツアコンのおねえさんの話 なんだかちらほら話題が出てくる今回の旅の立役者の一人、近ツーのツアコンのおねえさんの話をちょっとさせてください。 この方、大変ユーモアのある方で、ことあるごとにくすっと来るトークを披露されていたのですが、何よりすごかったのはオタクの心理をよくご理解されていること。 覚えている分だけでも書き出すと、
・湯もみショー入場開始直前  「これからお二人とご一緒します。お化粧はばっちりですか~?」 ・1分間のお話タイムについて  「緊張しすぎて「こんにちは」だけしか言えないなんてことがないように、話題用意しておいてくださいね!」 ・かるた大会について  「お二人の声に聞き惚れて札が取れないなんてことがないように注意してください!勝ちに行ってください!」
オタクの習性をよく理解されてますね!!「こんにちは」だけしか言えなかったとかめっちゃ覚えあるわ!!!!!(クレフェスの苦い記憶) あんまりにもよくご存知なのでてっきりおねえさんも何かのオタクなのかと思って、ちょっとお話したときに伺ったら、お友達がアニメ好きで、その方からいろいろ聞いたのだそう。 真偽のほどは置いといて、この方が企画を担当されたと聞いて、あまりにも信頼がおけすぎるなと思いました。 第二回の開催や他の声優さんコラボ企画の開催も目指しているとのことでしたので、アンケも本音でご協力いたしました!!第二回楽しみにしております!!応援しております!!
■お風呂の話 1日目行程終了して、ようやく化粧が落とせるとお風呂に行きました。 せっかく草津に来たんですから、お風呂に入らなきゃ勿体ない。 お風呂は大浴場というだけあって広くて、露天風呂もあって気持ちよかったです。 宿には他にも団体客が宿泊していたようですが、時間が遅いこともあって、ほとんどおまグンツアー参加者ばかり。 おかげでお風呂の中でも参加者のみなさんと「記憶が薄れていく…」「記憶の補間をしなきゃ…」とその日の話で盛り上がることができて楽しかったです。なんかもうお名前存じ上げない方とも普通にお話ししていました。まるで一つライブが終わったあとのようで、連帯感とほどよい疲労感が気持ち良かったです。
ちなみに笠間さん、梶原さんをはじめスタッフのみなさん同じ宿にお泊りだったのですが、私は翌日ロビーで遭遇するまで知りませんでした。(朝の起き抜けの時とかに遭遇しなくてよかった……)
2日目
■浅間酒造の話
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2日目出発して早々メインイベントの一つ、浅間酒造へ。 浅間酒造ではお酒の試飲を予定していたのですが、その試飲するお酒を笠間さん・梶原さんに注いでいただけるというものでした。 この旅2回目のお酌ですよ。いやほんとは昨日のお酌がイレギュラーというかサプライズであって、このお酌が本来の予定だったわけですよ。今回はお二人に本当に楽しませて頂いているんだなと改めて思いました。
酒造の販売スタッフのお兄さんに「お酌コーナーはこちらです」とイートインコーナーまで案内され、1列に並んで試飲を待つことに。 イートインコーナーでは販売員さんよろしく酒造の赤い法被を着た笠間さんが希望のお酒を注ぎ、青い法被を着た梶原さんが記念品のサイン入りかるたを手渡してくれるという、お渡し会にお酌がついたような状態でした。(いやお酌は普通つきませんけど。) しかしこちらとて前日のディナーショーとかるた大会の洗礼を受けた身。いい意味で何とかお二人の存在に慣れて、変に緊張しすぎて挙動不審になるのは回避出来るはず。はずです。 私は先にお手洗いを借りたので順番が最後になってしまったのですが、例の愉快な近ツーのおねえさんとお話ししているうちにあっという間に自分の番。寄っていくと、笠間さんから「お待たせしました」と言って頂けました。とんでもないです。むしろお疲れ様です。 私が頂いたかるたの札は、その後に観光予定だった白衣観音の札。実はおまグンおまけ映像のロケで最初にお二人が行ったのが白衣観音だったそうで。そんなエピソードを伺いつつ、前日他の参加者さんから教えもらった上毛かるたアプリの話をしつつ、お酒を頂きました。 私が試飲したのは大吟醸「秘幻」というお酒だったんですが、さっぱりして飲みやす かったです。他にもヨーグルト酒やら仕込み水やらが用意されてました。仕込み水ちょっと気になります。
そのあと20分ほどその酒造でお買い物タイム。 試飲したお酒を買おうと店内をうろうろしていると、気づけば笠間さんと梶原さんも普通に店内うろうろしている。それどころか、買い物してるツアー参加者にめっちゃ普通に話しかけている。 こ、この親戚の兄ちゃんと甥っ子、全然大人しくしててくれねえ!!ごめんなさい慣れたとかナマ言いました!!買い物してる最中もう気になっちゃってしょうがなかったです!!!!!
話は変わりますが、こちらの酒造には「酒ガシャ」なるものが設置されておりまして。 1等が酒造イチオシのお酒1本まるまる、その他色々な景品が当たるくじ引きが1回400円で出来る��いうもの。まあ今回のツアー参加者のみなさんは多かれ少なかれ日常的にガシャに苦しめられている、もとい楽しんでいるわけで、そんなところにガシャを置かれていたらつい回してしまうのが人情というものです。中毒じゃありません。ロマンを忘れない大人なんです。 そんなわけで局地的に酒ガシャが大人気に。中には一等を出す人もいて大盛り上がりしていると「みんな酒ガシャ引いてるね。何当たったの」とナチュラルに輪に入ってきたのが笠間さん。またも親戚の兄ちゃんみたいな距離感でひょいと入ってきてにこにこしながらツアー参加者の酒ガシャ結果聞いてるんですよこのお人!!なんなんだこの状況!!混乱する!!処理しきれん!!!!!
なんとなくですが、少なくとも笠間さんはツアー参加者全員に一回ずつ話しかけようとしてくださってたんじゃないかな〜、という気がします。もしそうだとしたら、なんというか、本当にそのお心遣いがありがたい限りです。 ちなみに私は酒ガシャでは酒造オリジナル盃を当てました。試飲でお借りした盃と同じものに、酒造のロゴが入ったものです。レジに景品交換に行くと、店員さんが「酒ガシャブームでは!?」と盛り上がってました。すみません、オタクの群れが来ただけです。 盃はもりもり家で使ってます。大切にします。
買い物が終わってバスに戻ると、乗降口の前に笠間さんと梶原さんが記念品の湯もみちゃんタオルを手に迎えてくれました。 そう何を隠そう、お二人がご一緒して下さるのはこのイベントが最後なのです。ですからこれが正真正銘最後のお見送り。名残惜しいですが心の底からのお礼を伝えて、手渡して頂いた湯もみちゃんタオルを握りしめてバスに乗りました。 バスに全員乗車すると、お二人がバスの中に乗ってきて最後のご挨拶をしてくださいました。
梶「楽しかったです。」 笠「もう終わり?」 梶「いや、コミュ障なんで」
ここにきてコミュ障を発動させる梶原さんに思わずほっこりするバスの中。
笠「ここでお別れですけど、まだグンマにはいるんで。どこかでお会いできたら嬉しいです。お会いしたら後ろから近付いて『お写真撮りましょうか?』ってナンパの常套句みたいに話しかけるかも(笑)」
いやそれ心臓に悪すぎるな!?勘弁してください!!その際はぜひよろしくお願いします!!!!! そんなこんなでバスの出発の時間に。お二人はバスの外で手を振ってお見送りしてくださいました。寂しさと名残惜しさとファンサに対する条件反射でこちらも手を振り返すと、梶原さんは走り出すバスを追っかけてまで手を振ってくれました。つらい。 しかし誰かが言った「サファリパークみたい」という言葉が忘れられません。猛獣はバスに乗ってるこちらってことですよね。
■めがね橋の話 一行は曲がりくねった山道を抜けて、めがね橋へ。 日本最大のレンガ造りの橋だそうで、昔は鉄道が通っていましたが、新幹線の開通に合わせて使われなくなり、今は観光地になっているそうです。 山道でちょっと酔いましたが、降りてみれば山の中の静かな場所で気持ちがよかったです。もう少し遅ければきれいに色づいた山も楽しめたかもしれないですね。 レンガ橋は30メートルもあるそうで、上まであがるのは常時運動不足の身ではちょっとしんどかったです。あがると橋の両脇にはこれまたレンガ造りのトンネルがあり、ホラー好きとしてむしろこっちで大変テンションが上がりました。こういうトンネルで追いかけっこをするんだよ!! このあたりになるとみなさんようやく普通の観光を楽しめる程度には落ち着いてきて、お互いに写真を撮る光景がそこかしこで見受けられました。かくいう私も持参したカメラを抱えてうろうろしながら、なかなかの撮れ高とほくそ笑んでおりました。
■お昼の話
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落ち着いて観光をしたところで、昼食に。 本日は駅弁なんかでも見たことがある峠の釜めしが頂けるとのことだったんですが、到着後、なんだか妙に待たされる。なんかトラブルかな~と思ってたら、隣の方に肩を叩かれて「今マネさんいました」と。 実はディナーショーの際、笠間さんに「うちのマネージャー、イケメンでしょ。見かけたら挨拶してあげてね。」とご紹介いただいておりましたので、マネージャーさんのお顔は存じ上げておりまし���。いや待て、マネさん単体でいるわけないだろ。え?どゆこと?
静かな動揺が広がる中、2階の食堂に通されると、すぐそこに見覚えのあるお背中が。 いや普通にいるし!!!なんじゃこりゃ!!!!!! 笠間さんと梶原さんが、何やら作業をされている横を通り席につく一同。すっかり観光モードになっていたところに予告なくお二人が登場して混乱に陥っていると、したり顔のツアコンさんから「お二人も釜飯を食べたいとのことで」とご説明がありました。 いやこれ絶対サプライズですね。梶原さんもいい笑顔だし、笠間さんなんかめっちゃ「やってやったぜ」って顔してますもん。そういうとこだぞ!!!この男追っかけてるとほんと心臓に悪い!!!!!本当にありがとうございます!!!!!
どうぞ召し上がってくださいと言われてあったかい釜飯を開け始めましたが、みんなそわそわしちゃって仕方ない。 笠間さんも完全に悪戯大成功の顔で「お写真撮りましょうか?」とか話しかけてくるし。そこで伏線回収するのかよ。さすがです。 とは言っても予定にはなかったので、本当に10分程度でお別れ。 梶原さんは参加者話しかけられて何やら嬉しそうにお話ししていたら笠間さんに置いてかれてしまって、「行っちゃったから」と慌ててばいばいと手を振って去っていきました。つらい。
これが本当に最後のお二人とご一緒した時間だったのですが、 お疲れのところ最後の最後まで楽しませていただきありがとうございました。
お二人が去ってからようやくちゃんと頂きましたが、釜飯も美味しかったです。味のしみたシイタケとタケノコが好きです。
食事が終わってからは下のお店でお買い物。 名物の力餅も残り僅かのところをゲットできました。お餅をあんこで包んだものでしたが、思ったよりあんこの比率が高くて食べ応えがあり、濃い目のお茶が欲しくなるお味でした。 店内にはおまグングッズのコーナーもあったので幾つかグッズを購入。あと、ツアー内のグンマちゃんグッズ所持率が異様に高くて、つられて私も買ってしまいました。ツアーが終わった今となってはスマホにつけたグンマちゃんが心の支えです。買ってよかった。
そろそろバスに戻るかというところで、クラツーのツアコンさんに店内にキャストサイン入りおまグンポスターがあると教えていただいて、早速写真を撮りに向かう。 ポスターの前ではしゃいでいると、「おまグンお好きですか?」とボードを持ったおねえさんに話しかけられました。 実はこのおねえさん、お店がある安中市の観光協会の方で、アンケートに回答すると安中市でしか出回っていないおまグン×安中市コラボトレーディングカード「おまえはまだあんなかを知らない」(全5種)を頂けるとか。 悲しいかな、地域限定トレカと聞いて俄然ほしくなるのがオタクの性。 時間がないので巻きでアンケに応じたのですが、
おねえさん「こちらにはどういった形でいらしたんですか?」 オタク「バスツアーです。」 おねえさん「(参加者バッジを見て)ああ、クラツーさんですか。どういうツアーですか。」 オタク「実は、おまグンのタイアップツアーでして。」 おねえさん「ええっ!?」
そうなんです、おねえさん大当たりをお引きになったんです。おねえさんが想定していたであろう聖地巡礼のお客さんとは若干趣旨が違いますが、まさしくそのトレカを欲しがる人の群れなんです。 おねえさんは今回のツアーがあること自体をご存知なかったそうで、「ツアーのみなさん全員にアンケとりたい」と悔しそうでしたが、結局ツアー参加者全員にトレカ全種くださいました。 その節は本当にありがとうございました。大事にします。
■白衣観音の話 一行は最後の観光地、高崎の白衣観音へ。 山の上に立つ高さ40メートルの観音像で、途中バスの中から見た感じではブラジルのコルコバードの巨大キリスト像を連想しました。(腕は広げてませんが。) バスで山の上まで連れてかれて、そこからお土産物屋さんが並ぶ参道を徒歩10分。途中焼きまんじゅうの屋台があって一同ざわめきましたが、残念ながらやっておらず。 参道を歩く猫さんの撮影会をしたりしながら進むと、ようやく観音様の足元に到着。観音様は中が空洞になっていて、肩のあたりまで登れるそうなのですが、今回は時間の都合で断念。写真を撮ったりお寺のお堂を覗いたりしました。御朱印帳持っていけばよかったです。
バスまで戻る途中、ご一緒した方と「焼きまんじゅう食べたかったですね~」などと話しながら参道を下っていると、や、焼きまんじゅうの屋台におばちゃんが!!そして思いっきり焼いてる!!! 前を歩いていたツアー参加者さんも気づいて迷わずおばちゃんに注文。私も無事に焼きまんじゅうにありつくことができました。 早速焼きまんじゅうを頂いたんですが、あまじょっぱくて、とっても不思議な食感……なんだろう、本当にお饅頭の皮のところだけみたいな……美味しいけど不思議…… (なんでこんなに焼きまんじゅうに過剰反応しているかわからない方はおまグンをご参照ください。)
■ガトーフェスタハラダの話 お店の名前を聞いてもピンとこなかったのですが、商品を見たらわかりました。よくお土産で頂くラスクの工場はグンマにあったんですね。 当日は工場はお休みだったので、工場の隣のなぜかギリシャ風の柱が据えられている直売所でお買い物タイム。 私はあんまりラスクは食べないので、解凍に3時間かかる冷凍のバターケーキを購入しました。お値段お手頃で持ち帰りもしやすくておいしかったです。 次はぜひ工場見学したい!帰り際に、おそらく工場見学者に配布しているであろうラスクとカタログを頂戴してしまいました。お土産セットに同封されてたラスクステッカーが何気にかわいいです。
■帰路の話 たった2日間、されど15000字感想が書けるほど濃密な2日間でしたが、終わりの時は来るもの。 高崎駅で近ツーのおねえさん含め、行きのときよりたくさんの方がお別れすることに。秋の行楽シーズン真っ只中で長時間渋滞に引っかかることが予想されたため、遠方から参加した方の中には急遽高崎駅下車に変更する方が結構いたんですね。私もお隣の方とはここでお別れになりました。 人が減ってしまって寂しい車内。ある意味サウナのように緊張と弛緩を繰り返した2日間の疲れで、高速に乗って間もなく大半の方が寝てたんじゃないかと思います。私も速攻寝ました。 休憩をはさみつつ、なんだかんだで予定から1時間弱の遅れで東京へ。 東京に入った途端、ああもうツアーも終わりなんだなという実感が湧くと急に名残惜しくなりました。せっかくお互い顔を覚えてお話しできた、グンマまで来るレベルの筋金入りの同好の士。どっかの現場でどうせ顔合わせるんだろ、というか既に12月頭の城崎がグンマ同窓会みたいになる予感しかしねえとは思っていましたが、このまま解散してしまえばきっと「あ、どこかで見た顔だな~」で終わってしまう。それはもったいない。なんとか繋がりを維持したい。具体的に言うとツイッター繋がっておきてえ。薄れゆくグンマの記憶を補間しあえる人材を確保してえ。
そんなわけで、車内の一部で急に名刺交換会がはじまりました。 みなさん、どこにでも名刺を持っていくPちゃんの鑑です。すばらしい。 おかげで絵師多くね…?という意外な事実が発覚したりしておりました。 私は持ち込んだ名刺が少なかったので一部の方にしかお渡しできませんでした。名刺切らしちゃってお渡しできなかった方すんません!次回お会いしたときにお渡しさせてください!
バスを降りた後も名刺を持っていなかった方を含め、その場で一部の方のツイッターをフォロー。 再会を誓って、オタクたちは夜の新宿に散って行くのだった。
【完】
■総括 正直に言ってしまえば、参加にはちょっと勇気がいりました。 バスツアーというもの自体に参加することがはじめてで、ぼっち参戦。2日間完全に拘束されますし、値段も決して安いわけではない。少なからず不安に思うこともありました。
でも、行ってみればこの通り、最高に楽しい2日間でした。 本当に行って良かったです。 笠間さんが「ファン同士の交流の機会を提供できたなら嬉しい」といったことを仰ってましたが、本当にそんな旅になったなと振り返ってみて思います。
何度も言うようですが、本当にお二人のサービス精神に支えられた幸せな企画でした。勿論そういう企画だったところも多分にありますが、ことあるごとにお二人が積極的に参加者を楽しませようとして下さったからこそ、こんなに充実した2日間を過ごすことができたのだとそう強く思います。 また、2日時間同行してくださったツアコンさんをはじめ、近ツーさん、クラツーさん、バス会社さん、そしてDMMピクチャーズさんのご助力があったからこそ、ツアーそのものが実現し、最後まで大きなトラブルもなく終わりました。 そして、ツアーをご一緒した参加者のみなさんにも色々とよくして頂きました。またどこかでお会いできたら嬉しいです。
次回があったらぜひ参加したいと思います。近ツーさん、よろしくお願いします!! ここまで読んで頂きありがとうございました。
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brickirengahead · 3 years
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HISオンライン体験「アウシュヴィッツ強制収容所をめぐり考える、ポーランド ピーススタディツアー」
2021年8/1。参加人数は30名強。 ポーランド人アンナ・チャスカさんがガイド。
■国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館 1947年博物館化。79年世界遺産に登録。建物や遺品(かわいらしい小さな子どもの靴含め5万5千人分の靴、食器、服など、犠牲者の残した物)のほか、元収容者からの情報など、当時の資料も豊富。 アウシュヴィッツはドイツ語で、ナチス側からの呼び方。ポーランド語では「オシフィエンチム」。 オシフィエンチムへ行くには、ポーランド南部の都市クラクフから電車などで片道1時間半。見学時間約3時間。日帰りで行ける。精神的負担が大きいため、午前中に見学し、午後はクラクフ観光で心を落ち着けるというのがお勧め。 昔は遺骨も展示していたりと、より見学者にとってショックが大きかった。他にも5トンの人の髪の毛(犠牲者の遺髪は繊維工場に送られ、軍服などに利用されていた。つまり遺体の一部でお金を稼いでいた)、人の皮膚で作られたランプetc 現在の博物館には、ショックな展示品は置かれなくなっている。
■アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所 なぜオシフィエンチムが強制収容所を建てる場所として選ばれたかと言うと、大きな川が近くにあり(収容者が逃げにくい、遺体の遺棄がし易い)、収容者の輸送のための交通の便がいいことなどから。元はナチスに対抗するポーランド人レジスタンスを取り締まる収容所が満杯になってしまったので別にもっと広いところを、と作ったという。何より、ヨーロッパの中で一番ユダヤ人人口が多かったのがポーランドだったため。ナチスは本当に、「ヨーロッパ全土」からのユダヤ人排除を使命としていた。 収容者はユダヤ人だけでなく、ナチスに反抗する者(レジスタンス)、ジプシー、ソ連軍捕虜、他国人、性的少数者(当時は性的指向をオープンにする人は少なかったが、ナチスにとって実証は不可欠ではなかった。噂や中傷に基づいてある人を同性愛者だと決めつけ迫害することも多かった)などもいた。 ルドルフ・フスという署長がアウシュヴィッツに家族と共に住み込み、収容者たちが人間として扱われない傍らで普通の暮らしをしていたのは、今の時点で考えると狂気の沙汰だが、当時のナチス親衛隊(アウシュヴィッツのスタッフ)は悪事とは思わずただ仕事をこなしているという意識だった。
■収容者の生活 アウシュヴィッツの入り口にある有名な「働けば自由になる」という言葉は、残酷な皮肉。収容者は自由になるチャンスは殆どなかった。 ナチスにとっての無料の労働力として炭鉱などの仕事を、一日10~16時間強いられた。その労働には足りない栄養の質が悪い食事(朝は肉もないスープとコーヒー、夜は朝よりマシなくらい)を一日二食とった。 第一収容所は、外観は寄宿施設のよう。3段ベットに2人ずつ並んで寝る、または床にワラをしいて寝る。石鹸は使えず顔を洗うのも贅沢。これでも、しっかりした建物でトイレがあって衛生状態が悪くないだけ、第二収容所よりマシだった。 第二収容所は、広大な敷地の刑務所のような衝撃的外観で、多い時は9万人収容した。アンネ・フランクはここにいた(アンネ母はアウシュヴィッツで死に、アンネと姉妹は別の収容所に移され、開放一週間前にアンネはチフスで死去)。第二収容所はとにかく酷かった。まともなトイレ・洗面所もなく、一つの棟に800人も共同生活。レンガと木の板でできた簡易ベッドに何人もぎゅうぎゅう詰めで寝ることになるが、一番上のベッドは雨漏りがするし、一番下はねずみやしらみに悩まされる。建物は雑なつくりで寒さ・暑さをしのげない。暖炉はあったがバケツ一杯分の石炭しか使うことを許されず、広い棟全体を暖めきれるわけもなく、凍死した人も。トイレはトイレ用の建物があり、一日に2回排泄の時間が決められ、みんなで同時利用した。等間隔で排泄用の穴が空いているだけの、人間の尊厳を全く無視したつくりはショッキング。 第二収容所の女性収容棟のひとつには、収容された子どもたちを慰めるため収容者たちの手で描かれた、遊ぶ子どもたちの可愛い壁画がある。 ナチスはわざと共通語ではない人々を同じ収容棟に収容した。文化・宗教・言葉が違えば互いにコミュニケーションが取り難い。囚人間の連帯や抵抗を起こしにくくするため。 昔の写真でダビデの星がついている人とない人がいるのは、当時の物品不足の深刻さにより、ダビデの星すらも作りにくくなっていたため。 ユダヤ人たちは貨物列車に乗せられてアウシュヴィッツへ輸送された。窓もなく座ることもできない乗り物に何十人も何時間も詰め込まれて窒息する人も。ようやく到着したら、すぐさまナチスによって「選別」された。この選別の場面が写真で残っているが、それを見ると不思議なのは、ユダヤ人たちが大人しく並び、笑っている人さえいること。どういうことかというと、ナチスはユダヤ人たちに「アウシュヴィッツに行けば安全で良い暮らしができる」と嘘をついていたから。ユダヤの人々はアウシュヴィッツに行けば落ち付いて生活できる、家族に会えると信じていた。ナチスの選別係も、ポーランド語で優しく語りかけていたという。「あなたはまずシャワーを浴びて下さい」などと…
■ガス室 「選別」によって、労働力になれないとみなされた人々(女性・子供・老人・虚弱な者etc)はすぐさまシャワーと呼ばれるガス室に送られた。体力のある若者・男性は労働力に回されたが、殆どの者は3か月ほどで働けなくなるほど消耗し、そうなれば即殺された。遺体は川に流された。 第二収容所のガス室は24時間動いていて、第一収容所のガス室よりずっと多く一度に殺すことができた。犠牲者の中には一回の「シャワー」では死にきれず、何度もガスを浴びることになった人も… なぜガスが用いられたかと言うと、ガスの効き目の実験も兼ねていたのと、より「殺す側」の精神的負担を少なくするため。被害者としっかり対面する銃殺などは殺す側にも精神的負担がある。 ナチスとってユダヤ人は寄生虫(パラサイト)だから、殺虫剤のような意味もあるという説も。知れば知る程ぞっとする。 ゾンダーコマンドの反乱で壊されたところもある。
■ポーランドのホロコースト教育 現在では学校で教え伝える時間が減り、昔に比べ熱心でなくなった。共産主義時代には学生のアウシュヴィッツ見学は必至だったが、当時から生徒の精神的負担が大きいと言う指摘があった。とは言え、映画「ショア」以降見直されている。 現在は右派の勢力が強いポーランドでは、ポーランド人によるユダヤ人殺害問題(「イェドヴァブネ事件」など)はあまり取り上げられないが、関心がある人は大勢いる。難しく扱いにくいテーマ。 ポーランドの若者4人へのインタビュー。「学校の教えは、データばかりでヒトが見えない」「善と悪の問題ではない」と責任感ある大人な意見。小さな頃アウシュヴィッツ博物館へ見学したある若者は、髪の毛の展示ケースが一番印象的だったという。死の壁(銃殺場)も。 当時のポーランドの一般国民は、ナチスのやり方に怒る人もナチスに協力的な人もいたが、一番多かったのは「無関心」。ナチスが何をやるにしても無視していた。ヒトはあまりに悲惨なことが起きると、心の防衛のために信じたくなくなるのか。どこでもいつの時代でも同じことが起きる。 最後に見せてくれた、元収容者のスピーチが印象的だった。「ホロコーストはあなたの住んでいる場所でも起こりうることだ。少数派が差別されている時、無関心にならないで下さい。民主主義の本質は多数派が支配することですが、民主主義とは同時に少数派の権利が守られていなければならないということです」
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shintani24 · 6 months
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2024年4月6日
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時速6キロ以上で歩道は走れない 時速20㎞以上は原付バイクと同じで免許が必要 利用者急増の電動キックボード あなたはルールを知っていますか?(RCCニュース)2024年4月6日
利用者が急増している電動キックボード。街で見かける機会も増えてきましたが、交通違反や事故も増えてきています。あらためて交通ルールなどを調べました。
広島市の中心部でも見かける機会も増えてきた電動キックボード。シェアリングサービス「LUUP」が広島市で事業を開始して8ヶ月。貸し出し・返却する場所はおよそ120箇所にも上ります。
利用者の男性 「バランスがちょっとだけ取りにくいけど、あと車道を走らないといけないというルールがあると思うので、そのあたりは自転車のほうがいいけど、新感覚で楽しめるかなと思っています」
利用者の女性 「最初はちょっと怖かったんですけど、そんな車くらいの速いスピードは出ない乗り物なので、慣れたら操作もしやすかったです」
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「LUUP」の利用に必要なアプリのダウンロード数は100万を超えています。記者も初めて体験してみました。
隈元大樹 記者 「加速が結構スムーズですね。地面に段差があるとなかなか怖いですが、バランスも保てる感じで進んでいきます。操作も簡単で、ちょっとした移動にはすごく便利だと思いました」
初心者でも簡単に楽しめる電動キックボード。一部の機種では運転免許が必要ですが、「LUUP」などは16歳以上であれば、免許を持たなくても乗ることができます。その手軽さから、仕事や観光など幅広く利用されています。
しかし、利用者の急増に伴い、事故や交通違反も全国的に増えてきています。去年12月、長野県では電動キックボードに乗った女性が、信号を無視して交差点に進入。バスにはねられて死亡する事故が起こりました。
今年2月には、愛知県で電動キックボードに乗った男性が、歩行者をはねたうえ逃走する事故も起こり、歩行者の男性は大けがをしました。広島市中心部の本通り商店街でも、スマホを操作しながら電動キックボードを運転する人の姿も見られました。
県警は対策室を発足 交通ルールを周知し取り締まり活動を強化
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広島県警 大木晋 交通部長 「”自転車小型モビリティ対策室”を発足させました。新たな小型モビリティに対する対策というのが、喫緊の課題となっているというところでございます」
広島県警では、利用者が増えてきている電動キックボードなどに対応するため、「自転車小型モビリティ対策室」を新たに発足させました。
自転車小型モビリティ対策室 宮庄律和 室長 「正しく乗っていただくために、交通ルールの周知と、街頭での指導取締り活動を強化していくと言う目的で設置したものでございます」
広島県内では、去年7月1日から先月末までで、電動キックボードの交通違反は6件。そのうち1件は、禁止されている2人乗りで走行したものです。残りの5件は、車道を走る必要があるのに歩道を走行した、通行区分違反です。
「LUUP」などの電動キックボードは、最高速度が6kmに制限されるモードと、それ以上の速度が出せる2つのモードに切り替えが出来ます。6km以上にスピードが出る状態で歩道を走ると、通行区分違反になります。
宮庄 室長 「まずは交通ルールをしっかりと、まだ理解されていない県民の方も沢山おられると思いますので、広報啓発をしていきたいと思っております。」
少し遠い場所へも楽に移動ができる電動キックボード。利用者ひとりひとりが、ルールを守って安全に使用することが求められます。
電動キックボードのルールをおさらい
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■年齢について 16歳未満の人はいかなる種類の電動キックボードも乗ることが出来ません。損保ジャパンが全国のおよそ1000人に実施した調査では、約半数の人が、16歳未満は運転できないことを知らなかったそうです。
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■免許の有無 「LUUP」などは、免許が無くても乗ることが出来ますが、実は、市販されている電動キックボードの中には運転免許が必要なものも存在しています。
最高速度が20km以下であることや、車体の長さが190cm以下かつ、幅が60cm以下など、決められた要件を満たさない電動キックボードは、原付バイクと同様に運転免許が必要となります。
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■歩道か車道か どこを走るべきかですが、原則としては車道です。ただし時速6キロ以下のスピードリミッターがついている車両では、リミッターを作動させることで歩道での走行が可能になります。このリミッターですが、緑色に光るランプ(最高速度表示灯)が点滅していれば、作動していると判断することができます。
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■飲酒運転 当然ですが、飲酒運転は絶対にいけません。自動車と同様、電動キックボードや自転車も道路交通法違反で摘発の対象となります。
「LUUP」でも電動キックボードの交通ルールの周知に向けて、利用者へ講習会を実施するなどしているということです。
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自宅が爆撃され、家族を失った少女。もうひとり生き残った親族の男性と並んで座り込み、言葉を失っていた=2024年3月26日、パレスチナ自治区ガザ南部ラファ、ムハンマド・マンスール撮影
吹き飛ばされた子どもたちはハマスなのか 絶望の街ガザからの報告(朝日新聞 テーマ特集:イスラエル・パレスチナ問題)2024年4月6日
イスラム組織ハマスの奇襲に端を発したイスラエル軍のパレスチナ自治区ガザへの報復攻撃が始まり、7日で半年となる。ガザでは3万3千人以上が犠牲になってもなお戦闘に終わりが見えない。避難民ら150万人が身を寄せる最南部ラファの状況を、ムハンマド・マンスール朝日新聞通信員(28)が報告する。
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【動画】ガザ南部の避難民キャンプ 軍事衝突から半年=ムハンマド・マンスール撮影
人々の心まで変えられてしまった
イスラエル軍の攻撃が始まってからのこの半年で、ガザは大きく変わった。あまりにも多くの罪のない人々が殺された。街は、空爆や砲撃で跡形もないほど破壊し尽くされた。そして生き残った人々の心まで、変えられてしまったと感じる。
「イスラエル軍は、早く殺しに来てくれないだろうか」「長い時間をかけて、恐怖を与えられ、死んでいくことにもう耐えられない」
1週間ほど前からだろうか。ガザ全域からの避難民が身を寄せる最南部ラファでは最近、そんな声が目立ち始めた。これまでになかったことだ。
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イスラエル軍の攻撃から避難した人たちが殺到し、約150万人が集まるパレスチナ自治区ガザ南部ラファの市街地=2024年3月27日、ムハンマド・マンスール撮影
2週間ほど前、ラファの東の方で爆撃音がして、私は現場に向かった。飛び散ったミサイルの破片、がれきにこびりついた大量の血痕……。もう、嫌と言うほど見てきた光景があった。巻き込まれた小さな女の子が病院に運ばれた。追いかけていくと、まもなくその子が亡くなったと聞かされた。
「自分の家が爆撃され、自分の子どもが爆撃されると思わなかった」。父親のムハンマド・アルアサムナさん(35)は、何度も繰り返した。
もちろん、ガザで安全な場所など、とうの昔からない。アルアサムナさんもそれは分かっているはずだ。だが、爆撃されるとは思わなかったのだ。
アルアサムナさんは、ラファで人気の飲食店を経営していた。死亡したイリーンさん(6)は、心優しく、勉強が得意で、誰からも愛される女の子だった。爆撃される理由はどこにもなかった。まさか、とはそういうことだ。
アルアサムナさんは言う。
「これまで不安と緊張、疲労の中で生きてきた。飢えに苦しみ、たくさんの死を目の当たりにし、今日、わが子を失った。これ以上、イスラエルは何を望むんだ?」
これのどこが「自衛」なのだろう
1週間ほど前の夜には、ラファ北部の民家が爆撃され、一家10人と、その家に身を寄せていた避難民らが殺された。近くの電線には、爆風で吹き飛ばされた子どもたちの遺体がぶらさがっていた。
8歳ほどに見える女の子が、爆撃を免れた父親と並んで座っていた。話を聞こうとしても、二人の口から言葉は何も出てこなかった。父親が大粒の涙を流しながら、破壊された家を力なく指さす。
言葉はなくても、気持ちは分かる。吹き飛ばされた子どもたちは「ハマス」なのか。その父親の年老いた両親は、イスラエルの人々に何かしたのか。米国はイスラエルには自衛権があると言うが、これのどこが「自衛」なのだろうか。
女の子が無言でかがみ込んでいると、その頭の上に父親が、なだめるように手を置いた。女の子は父親を見上げた。その目は涙でいっぱいだったが、「パパ、泣かないで」と語りかけているように見えた。
この半年間で希望は失われた
罪のない子どもが爆撃で殺されるのも、思い出の詰まった家が突然破壊されるのも、ガザではこの戦争前から「日常」だった。
だから、人々は明るかった。絶望していては生きていけないから、時に憤り、泣き叫び、それでも「また頑張ろう」「何とか生きていこう」と声を掛け合ってきた。
だが、今回は規模がちがう。この半年間で、人々は希望を持って生きていけなくなった。
私も、その一人だ。
侵攻が始まる2カ月前に結婚したばかりだった。経済状況は厳しかったが、何とか幸せな暮らしを築いていきたいと思っていた。
しかし、新しい家も、買いそろえた家具も、爆撃で粉々にされた。祖母は、粉じんを長期間吸い込んだことで肺を病み、避難生活の中で命を落とした。5日には、移り住んでいた家の近くが爆撃され、私たちはテントに避難した。
あまりにも早い速度で友人や親戚が命を落とし、悲しむことさえ難しくなった。
食料や水、燃料など、命をつなぐものすべてが足りず、それらを探し求めて歩き回り、長い行列に並ぶことが一日のほとんどを占めている。
時間の感覚がまひしていき、記者の仕事をしていなければ、もう6カ月経つのだということは分からなかったと思う。
この残酷な戦争が終わってほしい――。自分を捨てず、希望を捨てず、そう祈り続けることは、もう難しい。(ガザ南部ラファ=ムハンマド・マンスール、構成・高久潤)
コメントプラス
高久潤(朝日新聞エルサレム支局長=文化、消費)【視点】 エルサレムを拠点に、イスラエルとパレスチナを取材しています。
ガザについては、外部からガザの中に記者は入ることができないため、この記事を一緒に書いたマンスール通信員ら現地の記者たちが担っています。私たちは携帯電話がつながる限り、必ず毎日その日起きたこと、ガザの市民の間でどんなことが話題になっているのか、そして記者よりも先にガザの市民である彼らが今何を考えているのかについて「おしゃべり」をしています。そこから取材を広げていくのです。
戦闘が始まって、まだほどないとき。「こんなことは経験したことがない」「こんなことは見たことない」「こんなこと聞いたことないという表現について、よく話題になりました。
ガザへの空爆の規模、回数、そして死者数・・・・・・。あらゆる意味で、今回の戦闘でのガザの惨状は「未曽有」というしか言いようがありません。私もこれまで書いてきた記事でそうした地元の人の声をたくさん書いてきました。実際にみな口をそろえて言うからです。
ただ、いくらなんでも「こんなこと起きたことがない」が続きすぎじゃないか? 私はガザに比べればよっぽど安全なエルサレムにいることもあり、口がさけても私からいうことはありませんが、ふとマンスール通信員がそんなことを漏らしました。
「私の表現はおおげさだろうか」と。
もちろんそんなことはありません。確かに日々数十人から百人近くがイスラエル軍の攻撃で死んでいくので、報じていると悪い意味で「慣れてしまっている」と思うこともあります。ただ、やはり現地の様子を伝える映像や写真、そしてマンスール通信員の話を聞いていると、それが「大げさ」とは思わない。だから「そんなことないよ」と伝えます。
ですが、戦闘が始まって3カ月たったころ。彼が「やはりおおげさなんだろうか」と言ってきました。だからそんなことないけど、なぜそんなことを聞くのかと尋ねたらこう言われました。
「いや、こんなにひどいことがおきているのに、どうしてイスラエルの攻撃をとまらないのか。いや国際社会はとめようとしないのだろう。私たちの表現や声のあげかたがおかしいのだろうか」
私は絶句してしまいました。もちろんそんなことはありません。止まらない、止められない理由の責任を最も感じる必要がない人たちにそのように感じさせてしまう私も含めた国際社会、そしてイスラエルとは何なのか。
本日の朝刊2面に引用しましたが、イスラエルのユダヤ人たちは、ガザでの戦闘の継続を決めるファクターとして、ガザの市民の苦しみをまったく考える必要はない、またはそんなに考える必要がない、と答える人が8割にのぼります。どうしてイスラエルのユダヤ人たちがこのように考えるのか。これについては、本日から始まる連載「イスラエル軍の実像」で書いていく予定です。
ただ、理由がなんであれ、半年以上もこのような戦闘が続いてしまっていることをまったく恥じる必要がないのは、ガザの人たちだけだと私は思います。
程度の違いはもちろん人や国や立場で違うと思いますが、少なからずは恥じないといけない私を含めた人たちはまずはガザで何が起き、どうしてこんなことになっているかを知らなければならない。残念ながらこの戦闘の行く末は見通せません。どうして見通せないのか。どうしてそんなことになってしまっているのか。そういうことがわかるような記事をしつこく、書いていきます。
マンスール通信員は日本に来たことがありませんが、日本がとても好きです。いつも「いつか自分たちも日本のようになれるだろうか」と言います(この地域では日本は戦後復興をへて先進国になった『すごい国』と言われることが多いのです)。
でも。もはやこの言葉を私は素直に受け取ることはできません。やはりこの言葉にふさわしくない恥ずかしい存在だと日本や自分のことを感じてしまうのです。半年たって、そう強く感じています。
「FREE GAZA」ガザ侵攻から半年 市民グループが原爆ドーム前で抗議のアートイベント(RCCニュース 4月8日)2024年4月6日に追記
イスラエルによるガザ侵攻について、市民グループが7日、原爆ドーム前(広島市)で抗議するアートイベントを行いました。
「私たちは、パレスチナの人々が解放を求め続けるために、この大量虐殺を終わらせるために行動しています」
抗議活動を行ったのは、「広島パレスチナともしび連帯共同体」です。このグループは、パレスチナ自治区ガザでイスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が始まって間もない去年10月から毎日、原爆ドーム前で停戦を訴えています。
「FREE」「GAZA」と書かれた2枚の横断幕に呼びかけに応じて、集まった市民や観光客などがメッセージを書き込みました
広島市立大学 田浪 亜央江 准教授 「今、どんなことが起こっているのかを考え、自分の体で表現するアクションに参加してほしい」
今後もSNSなどを通じて世界へメッセージを発信したいとしています。
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蛇口に尻こすりつけ使用不可に=「性欲のため」男逮捕―警視庁 (時事通信)
公園の水道に尻をこすりつけ、使用できない状態にしたとして、警視庁が器物損壊容疑で自営業の男(56)=東京都杉並区=を逮捕していたことが6日、捜査関係者への取材で分かった。
「性欲を満足させるためにやった」と容疑を認めているという。
捜査関係者によると、男は1日午前2時20分ごろ、世田谷区粕谷の都立芦花公園で、水道の蛇口に肛門をこすりつけた疑いが持たれている。
公園側は、衛生上の観点から蛇口の使用を禁止した。後日交換する予定という。
同日午前3時ごろ、同区南烏山の路上で、下半身を出して自転車に乗っている男を警察官が発見。男の携帯電話から公園で全裸で自身を撮影した写真が見つかったため、公然わいせつ容疑で逮捕した。その後、蛇口に肛門をこすりつけている写真も見つかり、4日に器物損害容疑で再逮捕した。
男は持ち歩いていた双眼鏡で付近に人がいないことを確認した上で撮影していたという。
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ゆうちょ銀行 通常貯金の金利20倍に引き上げ 利率改定は17年ぶり(FNNプライムオンライン)
ゆうちょ銀行は、8日から通常貯金の金利をこれまでの年0.001%から、20倍の0.02%に引き上げると発表した。
日銀のマイナス金利政策解除決定を受けたもので、通常貯金の利率改定は17年ぶり。
1月に引き上げたばかりの定期貯金の金利もさらに引き上げ、預入期間5年の場合で、年0.07%から年0.2%にする。
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loosejointsposts · 3 years
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GUGGENHEIM Vol.03 ARTIST TALK: TOMOO GOKITA
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GUGGENHEIM Vol.03 ARTIST TALK: TOMOO GOKITA 初心勿忘、特に何かを成し遂げたわけでもないのに緩みがちでゆるゆるな気持ちを引き締めるために。 <loosejoints>が立ち上げからお世話になっている五木田智央氏に、お話を伺うことにしました(リモートで、ゆるやかに)。
五木田智央氏(以下、「TG」):何から話そうか? 俊くんとの付き合いって、もう何年になる?
佐藤 俊 (loosejoints主宰/以下、「LJ」):20年くらいなりましたね。最初は、角田(純)さんとかやっちゃん(TOGAデザイナー)、石黒(景太)くんなんかと遊んでもらっているときに知り合いました。 実は〈loosejoints〉を始めるきっかけも復活するきっかけも、五木田くんなんですよ。もともと『remix』誌の仕事で絵を描いてもらっていて、それを何かしっかりとした形に残したいと思った。身近にいるアーティストたちの作品をもっとアートとして、カルチャーとしてしっかりと発信できるような形を作りたくて、「Tシャツというフォーマットで作品を発表してもらえませんか」と、五木田くんのところにお邪魔して相談に行ったところから<loosejoints>は生まれたんです。 TG:最初に〈loosejoints〉始めたときって、(同じく五木田氏が作品を提供している)<TACOMA FUJI>より早かったよね? LJ:そうですね。五木田くんがずっと言ってくれているように、「レーベルって言ったもん勝ちじゃん」と思って始めました。でも僕がボケーっと休んでいたら、なべちゃん(渡辺友郎氏/TACOMA FUJI代表)とこもすごく人気が出てきて、他レーベルも含め、カルチャーとしての流れがより大きくなっていくと嬉しいです。 TG:確かに、そうかもね。(同じくTACOMA FUJIやloosejointsに作品を提供するジェリー・)鵜飼とかも、どんどん人気者になっていったしね。 LJ:ホントに嬉しいですよね。それにしても当時から周りにいた人たちは、みんなキャラが立っていましたよね。。
GAME OVER、コロナ、都市
---そんなに長いお付き合いだったのですね。今も続いていますけど、コロナ禍の去年8~9月にタカ・イシイギャラリーで開催されていた「MOO」の展示を拝見したのですが、コロナの直前くらいから作風やスタンスが一気に変わっていったように思います。特に「MOO」の前、去年の3月にミラノのギャラリー、マッシモ・デ・カルロで開催された個展から。 LJ: まずは、「GAME OVER」というタイトルに驚きました。時代に対しての感度というか、タイトルがいつも時代を先取りしているなと思ったんですけど。 TG: まさか俺もこんな世の中になると思ってなかったから、ちょっと怖くなったよ(笑)。でもあのタイトルはけっこう気に入っていて。いつもは絵を描き上げてからタイトルを決めるんだけど、「GAME OVER」は、珍しく描く前から決めてたんだよね。 LJ: 自分の中で一区切り的な意図があったんですか? TG: 単純に「GAME OVER」って言葉を思いついたのもあるけど、あの展示の次からカラー作品にしたんだよ。だからブラック&ホワイトはいったん終わりって意味も含んでいる。で、作品も出来上がって、「さあイタリアに行くよ!」ってタイミングで新型コロナがきて、行けなくなってしまった。もうチケットを取っていたのに。 LJ: 僕もイタリアまで行く気満々でした。 TG: でしょ!マジで行きたくてしょうがなかったから、現地のレコード屋とかも全部調べていたんだよね。俺、どこ行ってもレコード屋しか行かないから。美術館とかギャラリーとかは、ほぼ行かない(笑)。 そんなこんなで楽しみにしていていたら、イタリアがヤバいってなっちゃって、それで今だよ。マジで俺、最近、誰にも会ってないなー。 ---コロナ以降、もう誰にも会いたくないってフェーズに入っているんですか? TG:いや、友だちと呑みに行きたいよ。めちゃくちゃ呑みたい (笑)。でも、なんか変にこの生活に慣れてきている面もあって。もともと俺は一人で仕事をしているしさ。もちろん夜はどっか飲みに行きたいなって気持ちはあるけど。みんなどうしてるのかな。 LJ:東京から地方に移住するアーティストも増えていますよね。これまで東京という都市が持っていた機能や役目が終わりつつある感じもします。 TG:変わってきたよね。俺も東京に家があるんだけど、かなり前にちょっと考えたんだよね。「田舎に住もうか」って奥さんと相談して、実際に観に行ってみたり。とにかく安いからさ。 いろんな候補があったんだけど、俺やっぱド田舎は無理だなぁと思った。迷ったんだけどね。そりゃ大自然とかいいなとは思うんだけど、絶対飽きちゃうんだよなぁ。旅行で行くのはいいんだけど、住むのはちょっとなって。 LJ:工藤キキちゃんも言ってましたけど、ニューヨークでも移住するアーティストやクリエイティブがかなり増えているみたいですね。 TG:そういえば、キキのニューヨークの家は行ったことある? あそこも凄いよね。やりたい放題で(笑)。あの家で、まったりしながらセッションでもやろうぜという話になって、旦那のブライアン(・クローズ/ミュージシャンや映像作家として活躍中)とかみんなで2時間ぐらいセッションしたりしたなー。その辺にあったパーカッションを叩いたりしてたら、俺の演奏に反応しくれて「レコード作ろうよ!」って盛り上がったのに、それからなんの音沙汰も無い(笑)。 ---あはははは。いつくらいのお話ですか? TG:5年前くらいかな。 LJ:キキちゃんは、今やセオ・パリッシュと一緒にDJしたりしてますから、凄いですよね。---世界中でアーティストやクリエイティブをはじめ、比較的に感度が高いと言われるような人たちがどんどん都市を離れ始めていて、なんだか少し寂しい気がします。五木田さんは、田舎に住んだら作風が変わっていくと思いますか? TG:それは変わらないんじゃないかな。 LJ:もともと五木田くんの作品のベースって、都市やカルチャー的なものですもんね。 TG:そうだね、だから、田舎はないかなぁ。でもいまだに「五木田はサブカルだろ」って言っている人もいるらしい。まあ、いいんだけど(笑)。 LJ:しっかりとカルチャーに根ざしている人に対して、なにか憧れのようなものもあるんじゃないですか?でも今、そもそも“マスカルチャー”がないのに“サブカルチャー”ってなんだよって思うんですよね。 TG:そうそう、何が“サブ”なんだよって、思うよね。例えば、みうらじゅんさんだって“サブカル王”って言われてるけど、見方によるとかなりアートなことをやっていたりするよね。あの人のスクラップなんて、マジですごい��。
日々のこと、ラジオ、クラシック ---ところで五木田さんは普段、どんなスケジュールで動いているんですか?コロナで、何か変化はありました? TG:ずっと変わらないねー。平日は毎朝6時半くらいに起きて、奥さんと俺で早く起きた方が朝飯を用意するんだけど、まずはご飯を作って子どもと一緒に食べる。8時半には家を出て、9時半にはアトリエに着く。それでタバコ吸って、「は~、今日はどうしよっかな」って。こないだ古い真空管ラジオを手に入れたから、最近はだいたいラジオを聴くことから始めてるかな。やっぱ自分にとっては、午前中が大事。 LJ:五木田くんは、ずっと朝型ですよね。頭の回転やモチベーションも含めて、やはり午前中のほうが何かと捗るからですか? TG:そうだね、やっぱ夕方になると呑みたくなっちゃうし(笑)。 あとほら、仕事柄いつも一人だから、朝から呑もうと思えば呑めちゃうんだよね。だから自分に厳しくしないと。最低でも「17時までは我慢」ってルールを作っている。これはずっと続けていて、30代の頃とかはアポなしでよく友だちがビール持ってきて、朝10時から呑んだりしてたけど(笑)。 これから絵を描こうと思ってたのに、まあでもいいかって。そういうことが、結婚前は多かったよね。 まあ、そんなこんなで17時くらいまではアトリエで作業して、家に帰ってちょっと呑みつつまた家族でご飯を食べながら色々と話したりして寝る。家で呑んでると、なんかすぐに酔っ払っちゃうから、ここんところ、子どもよりも早く寝ちゃうことも多いんだよね(笑)。 家族のことは、より考えるようになったかな。去年は学校が休みになったりして、子どもたちと一緒にいる時間が増えたから、やっぱり色々と考えたよね。 LJ:家族と過ごす時間と、絵を描く時間の気持ちの切り替えってどうしてます? TG:基本的にはあんまり変わらないかな。でも気持ちの切り替えは昔から下手くそな方だと思う。 作品を作るモードのときはグワーっと入り込んじゃっていて、夢にまでずっと絵のことが出てくるくらいだから、なんかピリピリしちゃったりする。そんな感じを家には持ち込まないようにしてるいから、なるべく玄関入る前に深呼吸したりして、元気に「ただいまー!」って帰ったり。 ---昔のサラリーマンみたいな感じでもありますね。因みに、朝のラジオも、毎日決まった番組を聴いている感じですか? TG:そうだね、基本的に朝は文化放送。まずは『くにまるジャパン(極シアター)』、その流れで『大竹まこと(ゴールデンラジオ!)』まで聴くっていうパターンが多い。それから、ニッポン放送の『(髙田文男の)ラジオビバリー昼ズ』。基本、AMだね。 LJ:真空管ラジオ、やはり音が全然違います? TG:もちろんHiFiって意味で言えば全然いい音ではないんだけど、なぜか心地いい音質なんだよね。 LJ:アトリエにお邪魔すると、いつも音が気持ちがいい場所だなと思います。 TG:でもね、オーディオマニアにだけはならないように、気を付けてる(笑)。片足を突っ込んだことあるんだけど、このままだと泥沼にハマりそうになっちゃったから。 LJ:電柱建てたりする人もいますからね(笑)。 ---やっぱりプロレスは今でも観ているのでしょうか? TG:観てるねー、YouTubeで古いやつばっかり観てる(笑)。 LJ:昔、ニューヨークである方が五木田くんと坂本龍一さんとの会食を設定しようとしたら、「その日プロレス観に行くからダメだ」って断られたと聞きました。五木田くん、YMOファンなのに!。 TG:そうそう、テイ(・トウワ)さんに「五木田くん、坂本さんが会いたいって言っているんだけど、どうかな?」って言われて。「え?まじすか?いつですか?」って聞いたら「明日!」って言うから、「明日、プロレス行くんすよ…。でも5分だけ考えさせてください」って。ちょっと考えたけど、やっぱプロレス行きたいなぁと思って、断ったんだよね。坂本さん、かなり笑っていたらしいよ。実は坂本さんもプロレス好きらしくて。 LJ:すごい話ですね(笑)。今ってプロレスも無観客でやっているんですか? TG: だいぶ客を少なくしてやってるみたい。俺はもっぱらYouTubeだけど。70~80年代のクラシックばっかだね。
フィッシュマンズ、リカルド・ヴィラロボス、ノンフィクション
---プロレスの他に、YouTubeで何か観たりしますか?
TG:ライブとか多いかな。息子が中一なんだけどエレキベースやってて、俺が19時くらいに帰るとだいたいYouTube観ながらベース弾いてんの。その流れでずっとライブやMVを、ご飯食いながら一緒に観たりしてる。 LJ:息子さんと音楽の話をしたり、楽器を教えたりとかするんですか? TG:アトリエにもレコードはあるけど、今、ほとんど自宅に置いてあるんだよ。家に帰って自分の部屋に行くと、明らかに息子が俺のレコードを聴いてた痕跡があるわけですよ(笑)。ジェームス・ブラウン聴いていたりだとか。「これ聴け」とかあまり言いたくないから、向こうから訊いてきたら答えるようにしてる。今はフィッシュマンズ、大瀧詠一、細野晴臣とか聴いてるみたい。 LJ:それ、中一だとだいぶ早いですね。 TG:フィッシュマンズは自分と同世代すぎて聴いてなかったから、初めて一緒に買いに行ったりして。「なんでフィッシュマンズ知ったの?」って聞いたら、YouTubeでロックの名盤を紹介している『みの(ミュージック)』の動画を観たらしい。今はネットがあるから、知識の量が凄いよねー。 LJ:僕たちみたいに、アーカイブを文字通り物理的に一生懸命掘っていた世代とは違いますからね。五木田くん自身は、最近どんなアーティストやジャンルを聴いているんですか? TG:最近買ったのは、1940年代のニューオリンズ・ジャズの人とか、テクノのリカルド・ヴィラロボスとか。 LJ:ヴィラロボスは、変態的でいいですよね。 TG:あの人の音はすごいよね!そういう電子音楽を聴いた後に、昔のジャズ聴いて、ラテン聴くとか。もう、ぐちゃぐちゃです。 LJ:そういえば、五木田くんと待ち合わせすると、いつも本を読んでいる印象です。 TG:本、好きだからね。今は割とノンフィクションものばかり読んでるかな。犯罪者実録とか幼女連続殺人の未解決事件のとか、面白いよー。もう犯人が分かっているのに捕まえられない、みたいな。あとはミュージシャンの伝記物とかかな。 LJ:この作家の作品なら絶対に買うって人はいますか? TG:うーん、特にいないかも。だいたい本屋に寄って、そこで面白そうなの見つけて読むって感じかな。本屋とレコード屋、大好きだから。このご時世だとなかなか行けないから、ネットの「Discogs」とかでもう買いまくり。めちゃめちゃ買ってる。 LJ:最近、映画は観てますか? TG:あまり観ていないかも。あ、でも最近だと吉祥寺のUPLINKでやっていた『メイキング・オブ・モータウン』や、スコセッシの『アイリッシュマン』あたりはちゃんと映画館で観た。『アイリッシュマン』は、サントラがよかったね。ロビー・ロバートソンが編曲していて、素晴らしくて買っちゃった。---コロナ禍で音楽を聴く時間や料理をする時間は増えたけど、映画を観る時間は少なくなったという話をよく聞きます。 LJ:それって世の中がフィクションとノンフィクションの差が無いような感じになってきているからですかね? TG:確かにそうかも。なんかおかしいよね。俺、昨日の森(喜朗)の謝罪会見観ちゃったんだけど、もはやバグだよね。あれはひどいよ。 LJ:火に油を注ぐだけの会見でしたね。五木田くんは一度目の緊急事態宣言の際に安倍(晋三前首相)のコラージュを作っていましたけど、ポリティカルなことをオフィシャルで発表するの、あれが初めてですよね? TG:うん、初めて。俺はね、作品ではポリティカルなことを極力避ける方なんだけど、なんか流石に安倍ちゃんのマスクが届いた時は、「要らねーよ、こんなの!」って思っちゃって…。毎週、『週刊大衆』が送られてくるんだけど、それに毎回安倍ちゃんの写真が載ってたから、それを切って貼り合わせただけなんだけどね。 LJ:今も政治はかなり酷いままですけど、またポリティカルな作品を作ろうとかは? TG: 今はもう、そういうのを作ることすら嫌だね。もはや怒りを通り越して呆れているというか。オリンピック、やるのかな?もうみんなあまり望んでないよね。俺もともと反対派だったけど。
新作、肉体労働、巨匠 ---オリンピックより、五木田さんの次の展示の方に興味があるのですが。 LJ:5月にブラム&ポー、そして6月にはダラス・コンテンポラリーらしいですね!カラーの作品でいくんですか? TG:なんでその情報知っているの(笑)!? うん、展示はカラーの予定。もう戻れないな、前のスタイルには。作品の中にはモノトーンに近いのは作るかもしれないけど、いわゆる白と黒だけっていうのは、もうないね。 LJ:油絵に行かないんですか? TG:油はね…、やりたいけど乾くまでの時間がちょっと長過ぎて、俺には無理かも。 LJ:五木田くん、筆が早いですもんね。「MOO」で展示したあの大きなサイズも、1日で描き上げたとか。 TG:そう、異常に描くのが早くて。正直に言わなきゃよかったんだけど、「この作品どのくらいかかりました?」って聞かれて、「1時間半で作りました」って答えたら、逆に凄くオファーがくるようになっちゃった(笑)。「展示まで1ヶ月しかないけど、できるよね?」とか言われたりする。実際にできるんだけど、大変なんだよね。今だって、まだ何にも描けてないもん。 LJ:モチベーションの問題ですか? TG:うん、実際に今はまだこんな状況(アトリエ内に置かれた真っ白で巨大なキャンバスを見せながら)。 LJ:それにしても、かなり大きいキャンバスを張りましたね!五木田くん、自分で張っているんですよね? TG:そうそう。KAWSやエリック・パーカーとか「ところで智央はアシスタント何人いるの?」とか訊くんだけど、「いねえよ!」ってか「いらない!」ってね(笑)。でも、50歳過ぎたらキャンバスを張るのが相当辛くて(笑)。 肉体労働だよね、これは。デカいキャンバスが14枚あるんだけど、昨日やっと全部張り終わったところ。もちろん、疲れるから誰かにやってもらいたいってのはあるけど、なんかそれも面倒くさいんだよね。どうしても気を遣っちゃうから、そんなことで気疲れするのも嫌だし。 LJ:個展のオープニングも、毎回大変そうですよね。 TG:オープニングは疲れるよ。実はオープニングって、そんなに得意じゃないんだよ。友だちが来てくれて「わー」ってやるのは好きだけど、最近は知らない人の方が多いし、アート業界ってやっぱ独特だから。 LJ:五木田くんの周りにはいろんな人が集まるから、このコロナ禍は少し落ち着いて一人になれる時期でもあったのかなとも思いました。 TG:そうそう、もちろん友だちには会いたいけど。本当に色々な人がいるから、「奥さんに飲み会やめろって言われているんで」って断ったりしてた(笑)。そう思うと、家族や自��の時間が増えて、実はよかったこともあるんだよね。 ---アーティストで、最近気になっている方とかいたりしますか? TG:コロナで交流も減ったし最新の情報とかほとんど見てないから、わかんないなー。最近は、巨匠の作品しか観なくなってきた。 LJ:もはや五木田くんが巨匠だと思うんですけど、五木田くんのいう巨匠って例えばどなたですかね? TG:ゴーギャンとかピカソとか、そういう本物の人たちの画集はよく観る。そういえば、なんかオークションで俺のパクリのやつが二人くらい出てきていて。外国人のアーティストで、よく見ると違うっちゃ違うんだけど、パッと見絶対俺の絵に見えるみたいな。 LJ:そういう時って、どう思うんですか? TG:「うわーパクってきたー」ってくらいで、まぁ俺の方が上手いなっていう変な自信があるから、なんとも思わない。あと俺、今もうカラーになっちゃったからね(笑)。違う世界にいっちゃったから。
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1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階級は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。
 自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。
 その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。
 その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。
 朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。
 6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。
 小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。
 現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。
 空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中で謝りました。
 降下後、普通科群長が命令を下達しました。我々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。
■「生存者発見!」
 息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。
 その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。
 同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。
 生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。
 無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。
 尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたからでしょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。
 生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見されずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。
 でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。
 結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。
 ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。
 次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。
 3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。
 ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から体がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしまったら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
 結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、���はり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。
 生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。
 普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。
 周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。
 我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。
■“モミジ”
 ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。
 14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。
 ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。
 ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。
 今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的でした。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。
 14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。
 警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。
 ある時、広げたままの寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。
 マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。
 今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは��識していましたが、我々の活動が大々���に被写体になるなんて私自身は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。
 ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。
 また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であっても救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。
■ストレス障害
 御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。
 昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。
 もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした。結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。
 この間は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。
 ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。
 それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。
 そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。
 戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。
 現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。
 あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。
岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長 昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。
「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載
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無職についてのまとめ
2017年9月半ばに退職して以来、8ヶ月ほど働いていなかった。 その間にいくつかの知見を得たので、今後のために残しておこうと思う。 既に退職した人や、これから退職しようと思っている人に役立つかもしれないが、あくまでも私個人の場合なので 参考にするときは「そういうパターンもあ���んだ」 ぐらいに留めておくのがベターかと。
退職までの経緯
2016年3月に7年間通った大学を卒業することになっていたので、4月からの働き口を探していた。 就活について何も知らず、働くのが本当に嫌であり、卒論も忙しかったため   就職エージェントを利用して就活を行った。 やりたい事もなく、ぼんやりと「文章を扱う仕事が良い」ぐらいで探してもらって、都内のベンチャーWebマーケティング企業に就職した。
入社した会社について 人数規模���小さい会社だった。   部署には2人しかおらず、職階も部長の上がもう役員。   なのに部署が2つに分かれていて、全部合わせて10人にも満たない会社。   が、売上は良かったらしく割といい場所にオフィスを構え、数年以内の上場を考えていた。   私はいわゆる「事業拡大に伴う増員」の名目で募集された初の新卒採用枠の一人であり、新卒全員とにかくポテンシャル採用、イノベーションを巻き起こすことを期待されての入社だった。
退職の理由 一流のビジネスパーソンになりたいと思わなかったから。 私にとって仕事というのは、楽しく暮らすための食い扶持以外の何者でもなく、会社が要求する「仕事に邁進する、バイタリティ溢れたビジネスパーソン」というのは苦痛でしかなかった。 「成長」が口癖で、仕組みも無いのに毎年新卒を採って、オフィスはどんどん地上から遠くに離れていった。 会社は私に「もっと熱意を見せてほしい」と思っていたし、私は「地獄の果てより嫌いな場所だ」と思いながらやる気なくダラダラと、毎日遅くまで仕事をしていた。 そうしたらある日の朝、とつぜん立ち上がれなくなったので その日は休んで次の日の朝、部長を呼びつけて「もうここにいるの無理です」と言って辞めた。 退職交渉を初めて2ヶ月ぐらいが経過していた。
退職交渉で学んだこと 今はどこもかしこも人が辞めることを恐れているので、ある日「辞めます」と言って「はいそうですか、お疲れ様でした」となることはまずありえないと思う。 特に小さな会社ほど引き止めには必死なので、月並みだけども確固たる意志をもって絶対に辞めるようにしなければならない。 退職願を出してもぐるっと回って社長面談の時に帰ってきたのはちょっと笑ってしまった。
退職交渉が伸びれば伸びるほど後々に影響が出る 最初の退職交渉から実際に辞めるまで、結局2ヶ月ぐらいかかっているのだけれど、最後は逃げるように出てきてしまった。 後々になってこれを非常に後悔していて、できれば「辞めるぞ」から「辞めました」の期間が開かない方がいい。 私が最終的になりふり構わなくなった理由として「メンタル不調」があるわけだけれども、ここまで来ちゃうと回復までかなりの時間がかかる。私の場合は半年ぐらいかかった。(後で詳しく書く) 退職交渉が長くなればそれだけメンタル面の負担は大きくなるため、退職を決めたらなるべく早く辞めた方が良いと思う。
晴れて無職になった 今すぐ辞めさせろと部長に詰め寄ってから少し日が空いて、鍵返したり私物持って帰ったり、なんとなく挨拶したりしなかったりして、2017年9月の中旬に晴れて私は無職になった。 基本的には会社が嫌だったから辞めたけれども、じいちゃんが倒れたり、クソ親父が自己破産したりと相当強めのストレスが一気に来たというのも大きい。 生きていく以上ストレスから逃れられないのは当然だけれど、それらを捌いたりいなしたりできなくなった時は、限界が近いと思うので退職するといいと思う。 退職日はとても天気がよく、忌々しい職場のビルが青々とした空に照らされて、ビビッドに映えていたことを一生忘れないと思う。
退職直後の私
仕事を辞めてから一ヶ月ぐらいはやる事が非常に多くて忙しかった。   時系列はよく覚えていないけれど記す。
じいちゃんが心配で祖父母宅へ行く 退職したその足で母方の祖父母宅へ行き、大丈夫かいという話をしてから仕事辞めた報告をした。 ばあちゃんは心配してくれたみたいで、本当に辞めて良かったのか?という話や働くというのは難しいという話、どんな人生でもいいけれど頑張らないといけない、というような話をしてくれた。 あと、若い頃のばあちゃんは山登り(というかルートを決めてゴールまでの時間を計測する、山岳RTAみたいなの)が好きだったらしい。いつか山にもう一度連れて行ってあげたい。
クソ親父が債務整理をした この世で一番終わっている人間こと、私の父親が債務整理をした。 ちょうどそのタイミングで実家の契約更新があったのだが、返済のことを考えるとなるべく月々のランニングコストを抑えられるもっと安い家の方がいいということで、家さがしと引っ越しをすることに。 父親は平日仕事に行っているため、私がメインで引っ越し準備をしており、債務整理を行ったためお金がないので、私がすべて金を出した。 それ以外にもいくつか頼まれたことがあるのだが、あまり覚えていない。 この頃は忙しさとストレスで正常な判断能力を失っており、今考えると別にいらないことに金を出したり、申し込んだりさせられていた。バグった人間から金を取るのは楽、上手くやったものだ。
今は私が生まれ育った街のあたりに住んでいる。 メンタルが復活するにつれておかしいということに気づいたので、これ以来父親とコミュニケートすることはなく、今後も一切関わることは無いだろう。 引っ越しで使った80万円も返すと言っていたが、どうせ戻ってこないので手切れ金とする。 この人の文句と悪口なら一生言えると思う。 圧倒的な勢いで駆け上がり、私の嫌いな人間ランキング堂々の一位だ。
10月頃の私
引っ越しが終わり、片付けが落ち着いたのが大体10月初旬が終わる頃。  それから何をしていたのかというと、離職票が届くのを待ち続けていた。 もう完全に心が疲弊してしまったので、仕事のことは貯金が尽きてから考えることにして ひたすらゲームをしたり、放ったらかしものを終わらせたりしていた。ドラクエ11は面白かったです。
離職後の手続き 離職票というのは、仕事を辞めたことを証明する証明書のことで、勤めていた企業が離職者に対して発行する紙のことだ。 どうしてこれを心待ちにしていたのかと言うと、ハローワークから失業者手当をもらうためにこれが必要だったからだ。
失業手当について 失業者がお金の心配をせずに就職活動を行うため、一定期間に渡って一定金額を支払ってくれる仕組みを失業手当という。 いくつか条件はあるのだけれど、1年以上働いているなら大体もらえるので、転職先が決まっていないまま退職するなら申請しておく方がいいと思う。
失業手当の期間と金額 辞め方や勤続年数によって結構変わってくるので、それぞれ自分の状況に合わせて調べてほしいのだけれど、私の場合は特に就業困難な理由なく自分の都合で辞める「自己都合退職」だったので、申請してからお金をもらうまでに3ヶ月間待った。(待機期間) その後一日あたり5000円前後を90日間支給され、大体45万円が振り込まれた。(振込自体は月1回)
離職票が来るまで何もできない 大体の会社は月末締め翌月払いなので、本来離職票は辞めた月の翌月給与が振り込まれたあとに発行される。 が、そうなると退職後1ヶ月以上が開いてしまうことになるので、会社に言えば「給与計算中」として発行してもらうことができる。 しかし、私はもうあの人達と連絡をとるのが嫌だったし、何もしたくないという気持ちしかなかったので、結局申請したのは離職票が届いた11月に入ってからだった。 精神的な余裕があるのであれば、早く届けてもらうよう請求したほうがいい。 余談だが、お役所から「保険証返ってきてないんで返してください」という書面も届いたのだが、退職時に渡しているので会社もグズグズした対応したんだろうな、と思った。 こちらも連絡を取るのが嫌だったんで、お役所に「直接聞いて」と書面を返した。
無職ができる期間が決定した 10月暮れに振り込まれたいくらかのお金と、失業手当でもらえる45万円。 期間としては3ヶ月の待機期間と、お金が振り込まれる90日間。 大体この手持ちの武器で無職を謳歌することが決まった。
10月以降の私
大体半年前後は遊べるなということがわかったので、リミットを5月の暮れ(失業手当最終支給日)に設定して無職をやることにした。 10月以降は主に方向音痴王をやり、スケボーをたしなみ、たまにバンドをやって、お金を節約しつつ、いろんな手続きを行いながら生きてきた。 遊びについては日記を読んだりtwitterを見てもらえばわかると思うので、ここからは手続き関係を記録していく。
ハローワークで失業認定をうける 最寄りのハローワークによって違うらしいので、詳しくは各々調べてもらいたいのだけれども 失業認定を受けるためには、説明会をうけたあとで離職票やら顔写真やらを持って、失業認定の申請をしなければならない。 申請が終わって待機期間を過ごしたら、そこから失業手当の支給が始まる。   この説明会というのが月に数度しかなく、これを逃すと来月までお預けになるため、その分支給日も伸びる。 そういう点でのハローワークは結構シビアなので、ちゃんとスケジュールを確認しておくこと。
失業手当は就活のための資金 失業手当は本来「金銭の心配なく就職活動に励めるように」という名目のお金なので、支給にあたって毎月「今月はこのくらいの就職活動をしましたよ」という報告をしなければならない。 大体月二回、職種の相談や求人への申し込みを行うことで就職活動実績となる。 意外とこれを忘れたり、ハンコくれなかったりするので注意。
バイトとかしないの? さっきも述べたが失業手当は「金銭の心配なく就職活動に励めるように」というお金だ。 なので、4時間を超える労働や賃金の発生する労働を行ったらそれを申請しなければならず、その申請があった日の分は後ろ倒しになっていく。 つまり、バイトやクラウドソーシングで稼げば稼ぐほど失業手当は貰えなくなるというわけだ。 それが嫌だったし、働く気もなかったので「現状でどうするか」を考え実行していた。
支払い類の猶予をお願いすること 仕事を辞めたからと言って、各種取り立てが止まないわけではない。 私が払ったもの、止めたものについて記載しておく。
保険について 日本ではあらゆる人間が保険に入っていなければならないことになっている。 これまでは会社に属していたので、社会保険が給料天引きで支払われていた。 それが国民健康保険に切り替わるため、自分で支払わなければならないというわけだ。 これは申請すれば支払猶予期間をもらうことができる。 正直キツいので猶予をもらっておいた方が良い。 失業手当が始まるまでは親や奥さんの扶養に入るという手もある。
年金について これも保険と同じく止まってくれないので、とりあえずすぐに猶予期間申請を行うべき。 ただし、保険も年金も前年度所得がいくら以下なら可みたいな感じだった気がするので、人によっては猶予期間が無いパターンもあると思われる。 また、年金に関しては故意かどうかに関わらず、未納だったとしても過去5年以内なら払うことができるので、忘れてしまっていても後で払えば問題ない。
住民税について 住んでいるだけで金を取られるというのがひじょーに納得いかないのだけれども、とられるので仕方がない。 実は住民税も猶予や免除というものがあるので、前年度所得が規定以下なら申請するのがおすすめ。 ただし、普通に働いてたらほぼ超えてる金額だった気がするのであまり期待してはいけない。 個人的にはこれが一番キツかった。 二期残っていたので総額4万の支払いが必要になってしまい、最後は分割してもらって様子を見ながら物を売ったりしてなんとか払った。
住���税の期間 仕事を辞めるまで知らなかったのだけれども、住民税にはそれぞれ期間があり全四期に分かれているらしい。 それぞれ6月末、8月末、10月末、翌年1月末が支払期限となっているため、退職後の煩わしい手続きや支払いを減らしたいと考えるならば2月に仕事を辞めるのが一番いいだろう。 辞めてすぐ給与計算中の離職票をもらって失業認定の申請を行えば、5月から失業手当を貰えるので6月末の住民税支払いでお金が足りないということもないはず。 冬のボーナスもらった後だし、年越してるから年末調整もないし、ちょうど5月頃から求人増えてくるしで完璧。
年末調整をしにいかなければならない場合がある 退職後、無職のまま年末を迎え年を越してしまうと、年末調整が終わっていないためいわゆる年末調整未済のまま所得税がとられる。 年の途中で仕事をやめているわけだから、当然何ヶ月か給与をもらっていない時期があり、その分所得も下がっているから、所得税も安くなるはず。 なので、大体1万円ちょっとが還付されなければいけないというわけだ。 これまでは会社がやっていたけれど、仕事を辞めたら自分でやらなきゃいけない。 対象になってる場合は確定申告の時期(1月のいつだったか)に源泉徴収票を持って税務署に行けば、全部教えてくれるので混んでない内に行っておくといいです。
必要な支払いは結構ある 無職になったからといって、金をとることは止めてくれないので退職後も支払いをしなければいけないことは結構ある。 ただ、猶予期間を設けてくれたり、場合によっては免除もあるので積極的に活用してほしい。 よくわからんくても大体国からDMが届くので、それに応じて払ったり申請すれば問題はない。 あとはなるべく生活水準を落としておくといざという時に役立つのでいいです。 この文章は失業手当をもらう場合、なのでバイトしちゃった方が次の仕事までのブランクなくなるしお金もらえるし人によっては良いかもしれない。 私はあんま生活水準落とさなかったから、失業手当だけだとちょっとキツかった。
メンタル面の変遷
日々の生活は支払いをしたり、新しいことを始めたりと、わかりやすい形で外に出ていたのだけれど、メンタルはあんまり人に言わなかったり書かなかったりということもあってわかりにくい。 のでここに記しておく。
2017年中は割とボロボロだった 上にも記載があるけれど、とにかく退職から引っ越し、諸々の手続きと疲弊しきっていたので直後の9月10月は本当にひどかった。 退職直前の7月や8月はひどく太り、まともに他人と会話することができず、突然動悸が止まらなくなり、汗が吹き出し、毎日吐きそうになりながら仕事に向かい、手先や足先の感覚があまりなく、物を見ているようで見ておらず、聞いているようで聞いておらず、根拠に基づいた判断や決定が全く下せない状態だった。 そんな中で人に心配をかけないよう取り繕って生きていたというのもあり、正直気が狂う一歩手前だったと思う。 そんな状態から2017年中は本当に少しずつ回復していった。
ボロボロの人間が解放されるとどうなるのか 何もしない。 寝て、起きて、youtube流して、天井をぼーっと見て、また寝る。 最初の数日は本当にこうだった。タバコ吸ったり飯食った記憶もあんまりない。 一週間経ったぐらいから「なにか面白いことを」という感覚が復活してくるので、なんとなくゲームをする。 時間もあるので積んでたゲームをやったり、せっかくだから大作ゲームをということでRPGをやったりする。大体それで1ヶ月ぐらい潰した。 ようやくタバコ吸ったり、外に出たり、買い物をしたりできるようになる。 陽の光を浴びるということが大切なことだと知った。
心がやられてなければこの過程はいらなかった 上にもちょっと書いたが、退職交渉で心がやられていなければこの過程は全く必要なかった。 なので、スパッと仕事を辞めることが大切だし、限界のアラートもちょっと引き上げておくことが大切だと思う。 見ている景色が灰色になって、ろれつが回らなくなって、他人との会話が成り立たなくなったらそれはもう「限界」じゃなくて「崩壊した後」なので、もっと前の毎日吐いちゃうとか、寝なきゃいけないのに寝たくなくて夜更かししちゃうとか、そういうタイミングで歯止めをかけないといけないと感じた。
ようやく復活してきたころに方向音痴王をやる まだ判断能力に若干の不安は残るものの、脳機能がそれなりに復活してきた頃、まゆみ宅へ入り浸っていた。 まゆみ宅はうちから歩いて30分ぐらい、バイクならものの10分ほどだったので非常に行きやすく、まゆみも平日休みがあるのでちょうど良かった。 そんな中で生まれたのが方向音痴王であり、企画立案からルール制定、実施まで非常に楽しかった。 精神的に不安定な時期ではあったものの、あれが脳をしっかり動かし、全然終わらないけど自分のこだわりを余すところなく詰め込める動画制作が自尊心や自己肯定力復活に大変大きく貢献してくれた。 デザインやって動画作ってみんなにわーって言ってもらえるのもすごく嬉しかった。 私へのセラピーじゃないけれど、友人各位のおかげで復活したと言えるので、本当に心から感謝しています。ありがとう。
年明けぐらいから正常な反応を取り戻す 第0回方向音痴王を公開したあたりから、みんなに褒められたり喜んでもらったりして健全な精神が取り戻されたように思う。 思えばこの頃はよく外に出ていたし、お金を使うようにもなっていった。 また、客観性も戻ってきていて、生活時間帯も夜ちゃんと寝て朝ちゃんと起きる感じになってきていたと思う。 ちょうど失業手当支給が始まるタイミングというのもあったと思うけれど、安心が多くあった。
安心感と心の状態が過去に比べると良い 仕事を初めるもっと前から、安心できる状態になると別の不安がよりクローズアップされてしんどくなってしまう、ということが多々あった。 そして体中すべての力が抜けて、完全に堕落した生活を送ったと思ったら、いきなりフルパワーでいろんなことを片付けるという、躁鬱的な心の状態が過去何年も常だった。 それが退職に向けてぶっ壊れていき、年が開けてゆっくりと回復することで「無理のない前向きな考え方」ができるようになったと思う。 何かを振り払うような積極性ではなく、正しく興味関心に対する積極性。 非常に見えにくいことだけれど、個人としては非常に大きなことだった。
年明けから働こうと思うまで 年明け後もいい具合にメンタルが復活しつつあり、よくライブを見に行くようになった。 小さいものから大きいものまで、それらを純粋に楽しめるようになったし、自分で見つけてきて申し込むことをするようになった。 正直、完治するまでにはもうちょっとかかると思うけれど、もうお金も無いので就職しようと思う。 ちょっと働いてもいいかな、と今は思うのだけれども、去年のあの状態からここまで回復するというのはなかなか頑張ったのではないかと思う。
再就職について
失業手当をもらう過程で、就職活動をしなければならなかったため、3月から仕方なく就職活動をしていた。 テキトーに就職活動をした挙げ句、マッチしない企業に入ってぶっ潰れてしまったので、今回は面倒くさいながらもちゃんとやろうと思い(このメンタルの回復よ!)それなりにしっかり就職活動を行った。
基本はハロワで就活をした どこでやってもよかったんだけれど、退職後初回認定のためにハローワークに赴いたところ、再就職に向けて最初のセミナーというのをやっており、それが就職活動実績になるというので参加。 100人規模で大きくやるのかと思ったら、講師の人と数人で超こじんまりとやってるやつだった。 やべぇ失敗したかな、と思ったもののよく話を聞いてみるとちょっと良かった。 基本は個人面談だというので、半ばエージェントのようにしてもらいながら就活するかということで、その講師の人と話しながら進めていくことにした。 新卒入社をエージェント使ってたので苦い思い出はあるものの、やっぱりプロの意見は聞きたいよな、という決断。結果としては大変良かった。
人を介した就活はその人による 当然のことなんだけれど、面談とかしながら進めていく就活はその人によるところが非常に大きいということが良くわかった。 私は絶対転職に失敗したくなかったので、とりあえず書面上だけでも「無視できない条件」をリスト化し、前職をこういう理由で辞めたから、これは無視できないんですというのを講師の方に伝えた。 何回か面談してこっちのパーソナリティをわかってもらいつつ、オミットできない条件を織り込んで「じゃあどう探せばいいのか?」というのを話しながら進めていけたのは本当によかったと思う。 「野心はない」「キャリアアップもどうでもいい」「自己実現は仕事以外でやる」「暮らせるだけ貰えればそれでいい」というような要望も、否定することなく「その上でどうするか」を考えてくれたので、いい人にあたったのだと思う。
実際にやったこと ネット上の転職サイト等も見たけれど、見れば見るだけ情報が増えていくだけで一生終わらんという感じだったので、ハローワークに絞って探し、補完情報を他サイトで得た。 具体的なやり方は以下の通りだ。
まずはハローワークの求人票から、良さそうなものを見繕って10社から20社印刷する
各求人の給与や労働時間などの条件を◎○△☓で評価する
その段階で一度「総合的に良い順」で並び替える
手持ちの求人をすべて「転職会議」と「リクナビ2019」でチェック 転職会議:内容掲載があれば内容について評価、掲載がなければ離職者少ない=良いと判断 リクナビ:新卒求人の内容・文章に前職と同じような文面があるかチェック
上記情報を元に再度並べ替え
ランキング上位のものから「ここなら入っても良い」というところに応募
求人検索前に個人面談で自己分析と、私が何を大切と思っていて何なら我慢できるか、を知っておけばこういうやり方が可能になる。 あとはもう推理と憶測になるけれど、例えば就業場所の人数が少ないと仕組みができていないのではないか、とか業務内容は一番上に書いてあることが一番やってほしいことだ、とか そういう情報を元に優劣付けをとにかく行って応募していった。 最終的に50から60ぐらいの求人を見て、応募したのは3件。 どれも私の基準で言えばA〜Sクラスの求人だったので、いいやり方だったと思う。 (そのかわり、人気でちゃって既に決まった求人というのもいくつかあった)
明日から仕事をする まあ、なんでこんなことを長々と書いているのか、という疑問の答えでもあるんだけれど そうやって決めた会社で明日から働きます。 まだちょっと精神的に復活しきってはいないけれど、お金ないんでそれなりに頑張って働くつもりです。 果たしてそれなりに頑張った就活が上手くいっていたかどうか? それは半年から一年後の私だけが知っているでしょう。
長いようで短かった無職も今日でおわり。 人生においてかならず必要な時期だったと思うので、この8ヶ月間は非常に調子いいです。 どうなるか正直わからないところもあるけれど、とりあえずは頑張っていきます。
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skf14 · 4 years
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12150006
軽快なメロディが音割れしていることにきっと全員気付いているはずなのに、誰も指摘しないまま、彼は毎日狂ったようにそれを吐き出し続けている。
時刻は朝の8時過ぎ。何に強制されたでもなく、大人しく2列に並ぶ現代の奴隷たち。いや、奴隷ども。資本主義に脳髄の奥まで犯されて、やりがいという名のザーメンで素晴らしき労働という子を孕まされた、意志を持たない哀れな生き物。何も食べていないのに胃が痛い。吐きそうだ、と、50円のミネラルウォーターを一口含んで、押し付けがましい潤いを乾く喉に押し込んだ。
10両目、4番目の扉の右側。
俺がいつも7:30に起きて、そこから10分、8チャンネルのニュースを見て、10分でシャワー、10分で歯磨きとドライヤー、8:04に自宅を出て、8:16に駅に到着。8:20発の無機質な箱に乗る、その最終的な立ち位置。扉の右側の一番前。黄色い線の内側でいい子でお待ちする俺は、今日もぼうっと、メトロが顔を覗かせるホームの端の暗闇を見つめていた。
昨日は名古屋で人が飛び込んだらしい。俺はそのニュースを、職場で開いたYahoo!のトップページで見かけた。群がる野次馬が身近で起きた遠い悲劇に涎を垂らして、リアルタイムで状況を伝える。
『リーマンが飛び込んだ』
『ブルーシートで見えないけど叫び声聞こえた』
『やばい目の前で飛び込んだ、血見えた』
『ハイ1限遅れた最悪なんだけど』
なんと楽しそうなこと。まるで世紀の事件に立ち会った勇敢なジャーナリスト気取り。実際は目の前で人が死ぬっていう非現実に興奮してる変態性欲の持ち主の癖に。全員死ね。お前らが死ね。そう思いながら俺は、肉片になった男のことを思っていた。
電車に飛び込んで仕舞えば、生存の可能性は著しく低くなる。それが通過列車や、新幹線なら運が"悪く"ない限り、確実に死ぬ。悲惨な形を伴って。肉片がおよそ2〜5キロ圏内にまで吹き飛ぶこともあるらしい。当然、運転手には多大なトラウマを植え付け、鉄道職員は線路内の肉片を掻き集め、乗客は己の目の前で、もしくは己の足の下で、人の肉がミンチになる様を体感する。誰も幸せにならない自殺、とは皮肉めいていてよく表現された言葉だとつくづく思う。当人は、幸せなのだろうか。
あの轟音に、身体を傾け頭から突っ込む時、彼らは何を思うのだろう。走馬灯とやらが頭を駆け巡るのか、やはり動物の本能として恐怖が湧き上がるのか、それとも、解放される幸せでいっぱいなのか。幸福感を呼び起こす快楽物質が脳に溢れる様を夢想して、俺は絶頂にも近い快感を奥歯を噛み締めて堪えた。率直に浮かんだ「羨ましい」はきっと、俺が人として生きていたい限り絶対漏らしてはいけない、しかし限りなく本音に近い、5歳児のような素直な気持ち。
時刻は8:19。スマホの中でバカがネットニュースにしたり顔でコメントを飛ばして、それに応戦する暇な人間たち。わーわーわーわーうるせえな、くだらねえことでテメェの自尊心育ててないで働けゴミが。
時刻は8:20。腑抜けたチャイムの音。気怠そうな駅員のアナウンス。誰に罰されるわけでもないのに、俺の足はいつも黄色い線の内側に収まったまま、暗がりから顔を覗かせる鉄の箱を待ち侘びている。
俺は俯いて、視界に入った己のつま先にグッと力を込めた。無意識にするこの行為は、死への恐怖か。馬鹿らしい。いつだって、この箱の前に飛び込むことが何よりも幸せに近いと知っているはずなのに。
気が付けば山積みの仕事から逃げるように、帰りの電車に乗っていた。時刻は0:34。車内のアナウンス。この時間でこの場所、ということは終電だろう。二つ離れた椅子に座ったサラリーマンがだらりと頭を下げ、ビニール袋に向けて嘔吐している。饐えた臭いが漂ってきて貰いそうになるが、もう動く気力もない。死ね。クソ野郎が。そう心の中でぼやきながら、俺はただ音楽の音量を上げて外界を遮断する。耳が割れそうなその電子音は、一周回って心地いい。
周りから俺へ向けられる目は冷たく、会社に俺の居場所はない。同期、後輩はどんどん活躍し、華々しい功績を挙げて出世していく。無能な俺はただただ単純で煩雑な事務作業をし続けて、それすらも上手く回せない。ああ、今日はただエクセルの表作りと、資料整理、倉庫の整理に、古いシュレッダーに詰まった紙の掃除。それで金を貰う俺は、社会の寄生虫か?ただ生きるために何かにへばりついて必要な栄養素を啜る、なんて笑える。人が減った。顔を上げると降りる駅に着いていた。慌てて降りる俺を、乗ろうとしていた騒がしい酔っ払いの集団が睨んで、邪魔そうに避けた。何だその顔は。飲み歩いて遊んでた人間が、働いてた俺より偉いって言うのか。クソ。死ね。死んでくれ。社会が良くなるために、酸素の消費をやめてくれ。
コンビニで買うメニューすら、冒険するのをやめたのはいつからだろう。チンすれば食べられる簡単な温かい食事。あぁ、俺は今日も無意識に、これを買った。無意識に、生きることをやめられない。人のサガか、動物としての本能か、しかし本能をコントロールしてこその高等生物である人間が、本能のままに生きている時点で、矛盾しているのではないか。何故人は生きる?生きるとは?NHKは延々とどこか異国の映像を流し続けている。国民へ向けて現実逃避を推奨する国営放送、と思うと笑えてきて、俺は箸を止め、腹を抱えてしこたま笑った。あー、死のう。
そういえば、昔、俺がまだクソガキだった頃、「完全自殺マニュアル」なる代物の存在を知った。当然、本を変える金なんて持ってなかった俺は親の目を盗んで、図書館でそれを取り寄せ借りた。司書の本を渡す際の訝しむ顔がどうにも愉快で、俺は本を抱えてスキップしながら帰ったことを覚えている。
首吊り、失血死、服毒死、凍死、焼死、餓死...発売当時センセーショナルを巻き起こしたその自称「問題作」は、死にたいと思う人間に、いつでも死ねるからとりあえず保険として持っとけ、と言いたいがために書かれたような、そんな本だった。淡々と書かれた致死量、死ぬまでの時間、死に様、遺体の変化。俺は狂ったようにそれを読み、そして、己が死ぬ姿を夢想した。
農薬は消化器官が爛れ、即死することも出来ない為酷く苦しんで死ぬ地獄のような死に方。硫化水素で死んだ死体は緑に染まる。首吊りは体内に残った排泄物が全て流れ出て、舌や目玉が飛び出る。失血死には根気が必要で、手首をちょっと切ったくらいでは死ねない。市販の薬では致死量が多く未遂に終わることが多いが、バルビツール酸系睡眠薬など、医師から処方されるものであれば死に至ることも可能。など。
当然、俺が手に取った時には情報がかなり古くなっていて、バルビツール酸系の薬は大抵が発売禁止になっていたし、農薬で死ぬ人間など殆どいなくなっていたが、その情報は幼かった俺に、「死」を意識させるには十分な教材だった。道徳の授業よりも宗教の思想よりも、何よりも。
親戚が死んだ姿を見た時も、祖父がボケた姿を見た時も、同じ人間とは思えなかった俺はきっとどこか欠けてるんだろう。親戚の焼けた骨に、棺桶に入れていたメロンの緑色が張り付いていて、美味しそうだ。と思ったことを不意に思い出して、吹き出しそうになった。俺はいつからイカれてたんだ。
ずっと、後悔していたことがあった。
小学生の頃、精神を病んだ母親が山のように積まれた薬を並べながら、時折楽しそうに父親と電話をしていた。
その父親は、俺が物心ついた、4、5歳の頃に外に女を作って出て行った、DVアル中野郎だった。酒を飲んでは事あるごとに家にあるものを投げ、壊し、料理の入った皿を叩き割り、俺の玩具で母親の顔を殴打した。暗い部屋の中、料理が床に散乱する匂いと、やめてと懇願する母親の細い声と、人が人を殴る骨の鈍い音が、今も脳裏によぎることがある。あぁ、懐かしいな。プレゼントをやる、なんて言われて、酔っ払って帰ってきた父親に、使用済みのコンドームを投げられたこともあったっけ。「お前の弟か妹になり損ねた奴らだよ。」って笑ってたの、今思い返してもいいセンスだと思う。顔に張り付いた青臭いソレの感触、今でも覚えてる。
電話中は決まって俺は外に出され、狭いベランダから、母親の、俺には決して見せない嬉しそうな顔を見てた。母親から女になる母親を見ながら、カーテンのない剥き出しの部屋の明かりに集まる無数の羽虫が��に入らないように手で口を覆って、手足にまとわりつくそれらを地面のコンクリートになすりつけていた。あぁ、そうだ、違う、夏場だけカーテンをわざと開けてたんだ。集まった虫が翌朝死んでベランダを埋め尽くすところが好きで、それを俺に掃除させるのが好きな母親だった。記憶の改変は恐ろしい。
ある日、俺は電話の終わった母親に呼ばれた。隣へ座った俺に正座の母親はニコニコと嬉しそうに笑って、「お父さんが、帰ってきていいって言ってるの。三人で、幸せな家庭を作りましょう!貴方がいいって言ってくれるなら、お父さんのところに帰りましょう。」と言った。そう。言った。
俺は、父親が消えてからバランスが崩れて壊れかけた母親の、少女のように無垢なその笑顔が忘れられない。
「幸せな家庭」、家族、テレビで見るような、ドラマの中にあるような、犬を飼い、春には重箱のお弁当を持って花見に行き、夏には中庭に出したビニールプールで水遊びをし、夜には公園で花火をし、秋にはリンゴ狩り、栗拾い、焼き芋をして、落ち葉のベッドにダイブし、冬には雪の中を走り回って遊ぶ、俺はそんな無邪気な子供に焦がれていた。
脳内を数多の理想像が駆け巡って、俺は、母の手を掴み、「帰ろう。帰りたい。パパと一緒に暮らしたい。」そう言って、泣く母の萎びた頬と、唇にキスをした。
とち狂っていたとしか思えない。そもそも帰る、と言う表現が間違っている。思い描く理想だって、叶えられるはずがない。でもその時の馬鹿で愚鈍でイカれた俺は、母の見る視線の先に桃源郷があると信じて疑わなかったし、母と父に愛され、憧れていた家族ごっこが出来ることばかり考えて幸せに満ちていた。愚かで、どうしようもなく、可哀想な生き物だった。そして、二人きりで生きてきた数年間を糧に、母親が、俺を一番に愛し続けると信じていた。
母は、俺が最初で最後に信じた、人間だった。
父親の家は荒れ果てていた。酒に酔った父親が出迎え、母の髪を掴んで家の中に引き摺り込んだ瞬間、俺がただ都合の良い夢を見ていただけだと言うことに漸く、気が付いた。何もかも、遅過ぎた。
仕事も何もかも捨てほぼ無一文で父親の元へ戻った母親が顔を腫らしたまま引越し荷物の荷解きをする姿を見ながら、俺は積み上げた積み木が崩れるように、砂浜の城が波に攫われるように、壊れていく己の何かを感じていた。母は嬉しそうに、腫れた顔の写真を毎度俺に撮らせた。まるでそれが、今まで親にも、俺にも、誰にも与えられなかった唯一無二の愛だと言わんばかりに、母は携帯のレンズを覗き、画面越しに俺に蕩けた目線を送った。
人間は、学習する生き物である。それは人間だけでなく、猿や犬、猫であっても、多少の事は学習できるが、その伸び代に関しては人間が群を抜いている。母親は次第に父親に媚び、家政婦以下の存在に成り下がることによって己の居場所を守った。社会の全てにヘイトを募らせた父親も、そんな便利な道具の機嫌を損ねないよう、いや、違うな、目を覚まさせないように、最低限人間扱いをするようになった。
まあ当然の末路と言えるだろうな。共同戦線を組んだ彼らの矛先は俺に向いた。俺は保てていた人間としての地位を失い、犬に、家畜に成り下がった。名前を呼ばれることは無くなり、代わりについた俺の呼び名は「ゴキブリ」になった。家畜、どころか害虫か。産み落とした以上、世話をするほかないというのが人間の可哀想なところだ。
思い出したくもないのにその記憶を時折呼び起こす俺の出来の悪い脳を何度引き摺り出してやろうかと思ったか分からない。かの夢野久作が書いた「ドグラマグラ」に登場する狂った青年アンポンタン・ポカン氏の如く、脳髄を掴み出し、地面に叩きつけてやりたいと思ったことは数知れない。
父親に奉仕する母は獣のような雄叫びをあげて悦び、俺は夜な夜なその声に起こされた。媚びた、艶やかな、酷く情欲を煽るメスの声。俺は幾度となく吐き、性の全てを嫌悪した。子供じみた理由だと、今なら思う。何度、眠る父親の頭を金属バットで叩き割ろうと思ったか分からない。俺は本を読み漁り、飛び散る脳髄の色と、母の絶望と、断末魔を想像した。そう、この場において、いや、この世界において、俺の味方は誰もいなかった。
いつの間にかテレビ放送は休止されたらしい。画面端の表示は午前2時58分。当然か。騒がしかったテレビの中では、カラーバーがぬるぬると動きながら、耳障りな「ピー」という無慈悲な機械音を垂れ流している。テレビの心停止。は、まるでセンスがねえな死ね俺。
ずっと、後悔していた。誰にも言えず、その後悔すらまともに見ようとはしなかったが、今になって、思う。何度も、あの日の選択を後悔した。
あの日、俺がもし、Yesと言わなかったら。あの日の俺はただ、母親がそう言えば喜ぶと思って、幸せそうな母親の笑顔を壊したくなくて、...いや、違う。あれは、幸せそうな母親の笑顔じゃない、幸せそうな、メスの笑顔だ。それに気付けていたら。
叩かれても蹴られても、死んだフリを何度されても自殺未遂を繰り返されても、見知らぬ土地で置き去りにされても、俺はただ、母親に一番、愛されていたかった。父親がいない空間が永遠に続けばいい、そう今なら思えたのに、あの頃の俺は。
母親は結局、一人で生きていけない女だった。それだけだ。父親が、そして父親の持つ金が欲しかった。それだけだ。なんと醜い、それでいてなんと正しい、人間の姿だろう。俺は毎日、父親を崇めるよう強制された。頭を下げ、全てに礼を言い、「俺の身分ではこんなもの食べられない。貴方のおかげで食事が出来ている」と言ってから、部屋で一人飯を食った。誕生日、クリスマス、事あるごとに媚びさせられ、欲しくもないプレゼントを分け与えられた。そうしなきゃ殴られ蹴られ、罵倒される。穏便に全てを済ませるために、俺は心を捨てた。可哀想な生き物が、自己顕示欲を満たしたくて喚いている。そう思い続けた。
勉強も運動も何も出来なかった。努力する、と言う才能が元から欠けていた、可愛げのない子供だったと自負している俺が、ヒステリーを起こした母親に、「何か一つでもアンタが頑張ったことはないの!?」と激昂されて、震える声で「逆上がり、」と答えたことがあった。何度やっても出来なくて、悔しくて、冬の冷たい鉄棒を握って、豆が出来ても必死に一人で頑張った。結局、1、2回練習で成功しただけで、体育のテストでは出来ずに、クラスメイトに笑われた。体育の成績は1だった。母親は鼻で笑って、「そんなの頑張ったうちに入らないわ。だからアンタは何やっても無理、ダメなのよ。」とビールを煽って、俺の背後で賑やかな音を立てるテレビを見てケタケタと笑った。それ以降、目線が合うことはなかった。
気分が悪い。なぜ今日はこんなにも、過去を回顧しているんだろう。回り出した脳が止められない。不愉快だ。酷く。それでも今日は頑なに、過去を振り返らせたいらしい脳は、目の前の食べかけのコンビニ飯の輪郭をぼやけさせる。
俺が就職した時も、二人は何も言わなかった。ただただ俺は、父親の手口を真似て、母親の心を取り戻そうと、ありとあらゆるブランド物を買って与えた。高いものを与え、食わせ、いい気分にさせた。そうすれば喜ぶことを俺は知っていたから。この目で幾度となく見てきたから。二人で暮らしていた頃の赤貧さを心底憎んでいた母親を見ていたから。
俺は無邪気にもなった。あの頃の、学校の帰りにカマキリを捕まえて遊んだような、近所の犬に給食のコッペパンをあげて戯れていたような、そんな純粋無垢な無邪気さで、子供に戻った。もう右も左も分からない馬鹿なガキじゃない。今の俺で、あの頃をやり直そう。やり直せる。そう思った。
「そんなわけ、ねぇよなぁ。」
時刻は午前4時を回り、止まっていたテレビの心拍が再び脈動を始めた。残飯をビニール袋に入れて、眩しい光源を鬱陶しそうに睨んだ。画面の中では眠気と気怠さを見せないキリリとした顔の女子アナが深刻そうな顔で、巷で流行する感染症についての最新情報を垂れ流している。
結論から言えば、やり直せなかった。あの女の一番は、俺より金を稼いで、俺より肉体も精神も満たせる、あの男から変わることはなかった。理解がし難かった。何度殴られても生きる価値がない死ねと罵られても、それが愛なのか。
神がいるなら問��たい。それは愛なのか。愛とはもっと美しく、汚せない、崇高なものじゃないのか。神は言う。笑わせるな、お前だって分かっていないから、ひたすら媚びて愛を買おうとしたんだろう。ああ、そうだ。俺にはそれしかわからなかった。人がどうすれば喜ぶのか、人をどうすれば愛せるのか、歩み寄り、分り合い、感情をぶつけ合い、絆を作れるのか。人が人たるメカニズムが分からない。
言葉を尽くし、時間を尽くしても、本当の愛の前でそれらは塵と化すのを分かっていた。考えて、かんがえて、突き詰めて、俺は、自分が今人間として生きて、歩いて、食事をして、息をしている実感がまるで無い不思議な生き物になった。誰のせいでもない、最初からそうだっただけだ。
あなたは私の誇りよ、と言った女がいた。そいつは俺が幼い頃、俺じゃなく、俺の従兄弟を出来がいい、可愛い、と可愛がった老婆だった。なんでこんなこと、不意に思い出した?あぁ、そうだ、誕生日に見知らぬ番号からメッセージが来てて、それがあの老婆だと気付いたからだ。気持ちが悪い。俺が人に愛される才能がないように、俺も人を愛する才能がない。
風呂の水には雑菌がうんたらかんたら。学歴を盾に人を威圧するお偉いさんが講釈を垂れているこの番組は、朝4時半から始まる4チャンネルの情報番組。くだらない。クソどうでもいい。好みのぬるめのお湯に目の下あたりまで浸かった俺は、生きている証を確かめるように息を吐いた。ぼご、ぶくぶく、飛び散る乳白色が目に入って痛い。口から出た空気。無意識に鼻から吸う空気。呼吸。あぁ、あれだけ自分の傷抉って自慰しておいて、まだ生きようとしてんのか、この身体。どうしようもねえな。
どうせあと2時間と少ししか眠れない。髪を乾かすのも早々に、俺が唯一守られる場所、布団の中へと潜り込んで、無機質な部屋の白い天井を見上げた。
そういえば、首吊りって吊られなくても死ぬことが出来るんだっけ。そう。今日の朝だって思ったはずだ。黄色い線の外側、1メートル未満のその先に死がある。手を伸ばせばいつでも届く。ハサミもカッターも、ガラスも屋上もガスも、見渡せば俺たちは死に囲まれて、誘惑に飲まれないように、生きているのかもしれない。いや、でも、いつだって全てに勝つのは何だ?恐怖か?確かに突っ込んでくるメトロは怖い。首にヒヤリとかかった縄も怖い。蛙みたく腹の膨れた女をトラックに轢かせて平らにしたいとも思うし、会話の出来ない人間は全員聾唖になって豚の餌にでもなればいいとも思う。苛立ち?分からない。何を感じ、生きるのか。
ああ、そういえば。
父親の頭をミンチの如く叩きのめしてやろうと思って金属バットを手に取った時、そんなくだらないことのためにこれから生きるのかと思うと馬鹿らしくなって、代わりに部屋のガラスを叩き割ってやめた。楽にしてやろうと母親を刺した時、こんなことのために俺は人生を捨てるのか、と我に返って、二度目に振り上げた手は静かに降ろした。
あの時の爽快感を、忘れたことはない。
あぁ、そうか、分かった。
死が隣を歩いていても、俺がそっち側に行かずに生きてる理由。そうだ。自由だ。ご飯が美味しいことを、夜が怖くないことを、寒い思いをせず眠れることを、他人に、人間に脅かされずに存在できることを、俺はこの一人の箱庭を手に入れてから、初めて知った。
誰かがいれば必ず、その誰かに沿った人間を作り上げた。喜ばせ、幸せにさせ、夢中にさせ、一番を欲した。満たされないと知りながら。それもそうだ。一番も、愛も、そんなものはこの世界には存在しない。ようやく分かった俺は、人間界の全てから解き放たれて、自由になった。爽快感。頭皮の毛穴がぞわぞわと爽やかになる感覚。今なら誰にだって何にだって、優しくなれる気がした。
そうか、俺はいつの間にか、人間として生きるのが、上手くなったんだ。異世界から来てごっこ遊びをしている気分だ。死は俺をそうさせてくれた。へらへらと、楽しく自由にゆらゆらふわふわ、人と人の合間を歩いてただ虚に生きて、蟠りは全部、言葉にして吐き出した。
遮光カーテンの隙間から薄明るい光が差す部屋の中、開いたスマホに並んだ無数の言葉の羅列。俺が紡いだ、物語たち。俺の、味方たち。みんなどこか、違うようで俺に似てる。皆合理的で、酷く不器用で、正しくて、可哀想で、幸せだ。皆正しく救われて終わる物語のみを書き続ける俺は、己をハッピーエンド作者だと声高に叫んで憚らない。
「俺、なんで生きてるんだっけ。」
そんなクソみたいな呟きを残して、目を閉じた。スマホはそばの机に放り投げて、目を閉じて、祈るのは明日の朝目が覚めずにそのまま冷たくなる、最上の夢。
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ari0921 · 7 years
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スリーパーセルホイホイに、どんどん引っかかるね。インテリジェンスの世界じゃ至極当然の事、何でアメリカにはCIAが存在するのかな?イギリスのMI6とか、モサドとかの存在する意味は? そもそも日本の公安の捜査方法は対象者を泳がせる方法が用いられる。 例えば監視対象の人間がいたら、その人間を泳がして、 その人間がどこへ行き、誰に会うかを把握すること そうして監視対象者の背後関係を探る そもそも公安は、捜査して逮捕するのは本業ではなく、 日本の国家・国体に危険を及ぼすような組織や人物を把握し監視すること 監視対象者を逮捕してしまうと、 関係する人物や背後の組織が地下に潜ったりしてしまう恐れがあるため、 微罪程度では逮捕することはないです。 ・根拠不明な「スリーパーセル」  さる2018年2月11日に放送された『ワイドナショー』における国際政治学者・三浦瑠麗氏発言が物議を醸している。番組放送中に、三浦氏が「スリーパーセル」と称される北朝鮮の暗殺部隊(工作員)が、日本の大都市部、特に大阪に潜んでいる、と断定したものである。番組中の詳細な発言は以下の通り。 (前略)・・・(三浦)実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルといわれて、もう指導者が死んだ、っていうのが分かったら、一切外部との連絡を絶って、都市で動き始める、スリーパーセルというのが活動される、活動すると言われている。 (同席者)普段眠っている、その暗殺部隊みたいのが・・・ (三浦)テロリスト分子がいるわけです。それがソウルでも、東京でも、勿論大阪でも。いま結構大阪がヤバいって言われていて。 (同席者)潜んでいるって事ですか? (三浦)潜んでます。というのは、あの、いざというときにその最後のバックアップですよ。そうしたら首都を攻撃するよりかは、正直他の大都市が狙われる可能性もあるので。東京じゃないからという風に安心はできない。というのがあるので、正直我々としては核だろうがなんだろうが戦争して欲しくないですよアメリカと。 出典:ワイドナショー(2018/2/11、強調筆者)  北朝鮮の特殊工作員が常に日本の大都市部に潜んでいて、有事の際には事前の想定通り、独自に日本で破壊活動を行う・・・というある種の観念は、小泉訪朝に揺れた、ゼロ年代中盤におけるネット右翼の典型的対北朝鮮工作員観をトレースしたモノで、これを私は「工作員妄想」と名付けている。  小泉政権下、電撃的な二度の小泉訪朝と拉致被害者の部分帰国は、その報道の過程において北朝鮮工作員が拉致被害者を主に日本海沿岸の各県の海岸等から連れ去ったことが明らかになり、世論は身近な日常の中で北朝鮮工作員が存在し、跳梁跋扈して拉致事件を起こしたことに驚愕した。そして実際、「5人生存8人死亡」等の北当局の一方的な発表に、多くの日本人が憤慨したことは記憶に新しい。  1970年代から80年代にかけて、続発した謎の失踪事件と北朝鮮工作員との関わりについて、日本の公安当局は早い段階から一部でその相関を予測していたと言うが、実際に北朝鮮工作員による拉致事件の全容が明るみになり、政治課題として俎上にあがったのはずっと後になってからのことである。  それ故、高度に訓練された北朝鮮の工作員が、現在でも日本の大都市部に潜伏している、というイメージが醸成されていることは間違いが無い。これが「工作員妄想」の遠因である。 ・進歩する公安の監視能力  しかし、日本の公安当局も手をこまねいているわけでは無く、拉致問題が大きく取り上げられるようになって以降、北の工作員や朝鮮総連とその関係者への監視の目を大幅に強化している。試しに、公安調査庁が発表した「内外情勢の回顧と展望」(平29年、最新)では、”金正恩党委員長への忠誠強化と組織の活性化に取り組む朝鮮総聯”と題して、 (前略)・・・基層組織の活性化に力を入れ,3 月には,平成 29 年(2017 年)3 月までの 1 年間にわたり,支部組織の強化や「民族教育」活動の強化などを通じて支部活動の活性化を図る集中運動「支部競争」を開始した。この間,「60 日集中戦」(5~7月),「100日集中戦」(7~11 月)に相次いで取り組み,11 月には,朝鮮大学校(東京都小平市)に活動家らを集めて「分会代表者大会」を開催し,活動が活発な分会を表彰するなど,支部・分会活動への一層の取組を督励した。 出典:内外情勢の回顧と展望(平29年)  など朝鮮総連内部の詳しい動きに逐一目を光らせている。とすると、「ソウル、東京、特に大阪がヤバイ」と三浦氏が断定したスリーパーセルなる特殊工作員の存在も、国際政治学者たる三浦氏が公の場で堂々と発言する位の水準で知っているのだから当然、公安の報告書の中にさらなる詳細記事があると思うのが妥当だが、公安当局による報告書の中には「スリーパーセル」なる特殊工作員や活動家の記述は一切存在していない。  三浦氏の番組放送後のブログ記事によると、この「スリーパーセル」なる北の特殊工作員は、主に英国のタブロイド紙の報道を根拠としているとしているが、くだんの元記事では「大阪」という地名は一切登場しない。そもそも、英国のタブロイド紙が世界に向けて発信しているほど、「スリーパーセル」なる存在が既知であるなら、目下我が公安警察がただの一行も言及しないのは不自然の極みである。この「スリーパーセル」なる北の特殊工作員が韓国や日本に潜んでいると断定する三浦氏の発言は、根拠の無い「工作員妄想」の一種と言わざるを得ないのでは無いか。  現下、我が公安当局によって厳しく監視対象にされている朝鮮総連やその活動家が、公安のあずかり知らぬところで別途、三浦氏にだけその存在が知られている「スリーパーセル」を見逃しているとしたら大問題であるし、また同時に我が公安警察の調査能力をあまりにも軽視している自虐的発想である。  公安警察は拉致事件を未然に防げなかった反省を踏まえて、日々北の動向に警戒監視の目を光らせているのであり、人口稠密な東京や大阪で、「指導者の死亡時に自動的に決起する特殊工作員」が公安警察や所轄の目を盗んで、現在大量に存在していると考えるのはいささか妄想的である。まして「特に大阪」と指摘した理由も、くだんの三浦氏の記述では「第二都市だから」と述べるにとどまり、根拠が無く意味不明である。 ・大阪蔑視の萌芽見ゆ  日本第二の都市は、正確に言うと人口では横浜市になるが、些末なことは良しとしても、なぜ「スリーパーセル」などという実在があやふやな北の特殊工作員が大阪に「潜んでいる」と三浦氏は断定したのだろうか。その背景には、大阪という土地に対する隠せざる偏見が存在しているように私には思える。  大阪は日本最大の日雇い労働者の街「あいりん地区」を有し、在日コリアンが多く住む街として知られる。実際、逃亡を要する犯罪者が、「あいりん」の雑踏の中に一時隠れていたことは事実(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件における市橋達也受刑者)であり、大阪最大のコリアンタウンである鶴橋を擁する同市生野区等に、在日コリアンのコミュニティが古くから形成されていることは事実である。  このような大阪=猥雑・雑多なイメージが、「犯罪者や工作員が隠れるに都合が良い街」というイメージを形成したのであろう。ネット世論の一部には、「大韓民国」を文字って「大阪民国」などと揶揄する向きがゼロ年代から頑強に存在し、こうした大阪のイメージが、「いま大阪がヤバイ」という観念の下地になったことは疑いようも無い。 ・過去のものとなった大阪イメージ  しかしながら、これは大阪外から勝手に大阪のイメージを逞しくした妄想の一種であり、実際に大阪は犯罪者や工作員が隠れる��に適した無法地帯、警察権力の空白地帯では当然無い。  なぜなら前述あいりん地区も、違法物品の販売などに所轄署が目を光らせているからであり、度重なる暴動に対し、大阪府警が最も注視している重点地域のひとつだからである。大阪において、まるで警察権力の空白地帯が刹那現出したのは、1980年代くらいまでであり、21世紀に入ってそのような兆候は明らかに減衰している。 「指導者の死亡時に自動的に決起する特殊工作員」が公安警察や所轄の目を盗んで、大阪に大量に存在しているというのは、可住地人口で東京よりも密度稠密であり、また高額な保証金が要求され、賃貸物件の初期入居ハードルが高い大阪に存在する合理的整合性が無い。  では僻地ではどうなのかと言えば、実際に昨年、北海道の無人島・松前小島で窃盗を働いた北朝鮮人民が存在したように、むしろ日本のような太平洋ベルトにその人口が密集している国家では、その可能性は高いと言わざるを得ない。それでも我が公安、警察の目を欺いて、「スリーパーセル」などという特殊工作員が今やおそしと、その決起を待っているというのは考えづらい。  地方であればあるほど外部からの闖入者に排外的で、不審者はすぐに通報を受けるのは自明である。欧米のように、多種多様な人種があらゆる地域に流動している国家と日本とでは、テロリストの潜伏に関する根本条件がそもそも違っている。 ・不可解な官憲不信  北朝鮮の工作員は、かつてこの国に存在し、日本人拉致という非道な犯罪を働いた。そして、その残滓は現在でも小なり、存在すると思われる。だが、それに対応する警察力、公安の調査力もかつてに比べれば格段に向上した。  何のために安倍内閣が通信傍受法やテロ等準備罪を成立させたのだろうか。政権が、テロリストに対抗する法整備を行うたびに、「国内における北への包囲網は盤石になり、朝鮮総連は瀕死の情勢である」と血気盛んに言うのに、片方では警察と公安の目をすり抜けて「スリーパーセル」が潜伏しているという。  日本の警察は世界で最も優秀、現場は頑張っている、と称揚する割に、肝心なときには我が公安や警察の実行力を信用していない。この逆転心理は、誠に不可思議である。三浦氏のテロに対する危機意識の惹起は、一般論として正しいだろうが、もっと官憲や政府の「良い意味」での努力に信頼を置いてはどうだろうか。
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monqu1y · 4 years
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表現不自由勢力 = 異論封殺派  2019年8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。  この日の名古屋は最高気温34・8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の一日だった。 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、2百人近くが並んでいた。  だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか? なぜ売り場が一人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。  しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。  しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。  芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには 〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉 とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。  私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表わしたいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。  同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。  8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。  すでに百人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口が来た。 「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」  観覧にあたっての注意事項をスタッフが一人一人に伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。
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 入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。  手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏(どくろ)が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。  反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顏がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく✕が描かれ、正装した昭和天皇の顏を損壊した銅版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。  皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。  その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。  やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃え残りが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。  画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」  そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2千メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。  私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第二部の「陸軍玉砕編」でこの作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、退却の道なき道が“白骨街道”と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。  やがて、海岸の砂浜にドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。  私が取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。当時の若者は未来の日本を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、二度とあの惨禍をくり返さない意味でも先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。  しかし、この作者は違う。そのことを肌で感じる作品だった。  少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。  少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、「やめてください」「なぜですか!」そんな怒号が響いてきた。観覧者の一人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。  「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。  少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。  怒号はすぐに収まり、何事もなかったかのような空間に戻った。日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。  少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。説明書きには〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。  英語の解説文には、「Japanese Military Sexual Slavery」(日本軍の性奴隷制)という言葉が書かれていた。「日本軍」の「性奴隷制」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されている。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には二つの点で「虚偽」があった。  まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻(ひさ)ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には 〈慰安婦募集 月収三百圓以上 勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉 などの新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。  恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで日本女性たちが中心だった。ちなみに日本女性で慰安婦として名乗り出たり、補��を求めた者は一人もいない。  もち���ん喜んで慰安婦になった女性は少ないと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たちの身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝え、現金支給も行っている。
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 しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷を弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。  まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。  しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。  軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の信じられない大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。  私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 Idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのような「かまくら形」の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法9条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。  Idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちを侮蔑する作品と私には感じられた。  どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。  私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。  あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。  それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固として「同調する人物」のどちらかなのだろう。  私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ一人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。  私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃え残りを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画や戦争で死んだ先人を侮蔑する作品を展示してみる。韓国人は果たしてどんな反応を示すだろうか。  また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。  しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪を表現した作品なのである。  もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの活動家だよ」と。  それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの醜悪な展示物だったと私には思えた。  私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファクスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。  それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。  一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。  その証拠に4日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。  芸術祭の実行副委員長である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」と大村知事と激しく対立した。  これに対して大村知事はこう反撃した。「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する”  “検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が“この内容はいい、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」  だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。  もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりに終始し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、報じなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。  もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。  真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを記事化するのは、日本のマスコミの特徴だ。  8月4日の朝日新聞の天声人語では、 〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▽ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉 と主張し、8月6日付の記事では、 〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉 と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。  今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されているのである。  ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在している。  今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という実に倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。  一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを、あらためて学ばせてもらったのである。
「表現の不自由展」の真実を再び 2019年10月08日 門田隆将
 紆余曲折の末、いよいよ「言論の不自由展・その後」が再開された。しかし1日2回に制限し、抽選で1回あたり30人に絞り、しかも鑑賞者は事前にエデュケーション(教育)プログラムなるものを受けなければならず、ガイド付きでの鑑賞になるそうだ。  まるで「鑑賞の不自由展」である。SNSでの拡散も禁止するという。
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 愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の中止が決まった8月3日夜、芸術監督を務めるジャーナリスト、津田大介氏が会見を開いた。
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 「想定を超える事態が起こったことを謝罪する。僕の責任であります」と全面的に非を認めた津田氏の会見は当初の30分間の予定を大幅に超過し、1時間以上に及んだ。会見場には、地元名古屋市を拠点とする中日新聞や全国紙、通信社の駐在、テレビ各局、雑誌、フリーランスの記者など、ざっと50人はいただろうか。  津田氏の釈明もさることながら、質問を繰り返す一部の記者の発言内容には違和感を抱かざるを得なかった。
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「(不自由展の中止を求めていた)河村たかし名古屋市長や(文化庁の芸術祭への助成に慎重姿勢を示した)菅義偉官房長官の発言は検閲だと思うか」「電凸(企業や団体などに電話をかけて見解を問いただす行為)をやれば、自分たちの気に入らない展示会などの催しを潰せるという成功体験を与えてしまったのではないか」  当然だが、たとえ気に入らない表現や作品でも、暴力による圧力や脅迫行為が許されることはない。とはいえ、彼らの質問は憲法21条が保障する表現の自由への介入を憂うものばかりで、昭和天皇の肖像を燃やす映像や慰安婦をモチーフにした「少女像」(以下、慰安婦像)のいったい何が「芸術」なのか、それを追及しようとする記者はほぼ皆無だった。  要するに、集まった記者の多くが、「表現の不自由展」を中止に追い込んだ抗議電話の殺到、脅迫行為、河村たかし市長をはじめとする政治家の主張だけをことさら問題視したのである。各社が後日報じ、論じた内容が、そういったトーンになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。  放火予告のようなファクスを送り付けた脅迫行為は論外だが、一千件以上も寄せられた抗議電話もそれと同列の「テロ行為」であるかのように論じるのは明らかにおかしい。
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 一般論として、展示会の主催者が外部からの指摘で自主的に催しを中止することはあり得る。むろん、個人が展示内容を自由に論評・批判する権利もある筈だが、  8月6日付 朝日新聞社説《あいち企画展 中止招いた社会の病理》は 「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。…中略…。一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」 旨、主張した。「昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像や慰安婦像の展示」を批判する意見・抗議の自由を、朝日新聞社は認めない。  言論に対して反論するのでなく法廷闘争で批判封殺をはかる朝日新聞社 らしい主張である。  そもそも、同展で展示された昭和天皇の肖像を燃やす映像やエッチング作品の何が芸術なのか。特定の政治的主張、あるいはプロパガンダに過ぎないのではないか。公金を使って展示することは、公権力がその主張なりプロパガンダに同調することにならないか。  「表現の不自由展」の中止問題を扱ったメディアの多くは、この問いについて論じようとしなかった。特にテレビの多くは昭和天皇の肖像を燃やす映像に触れることすらなかった。国民の多くに強い不快感や屈辱感を抱かせる刺激の強い映像を紹介することが憚られたのか、天皇をめぐる問題としてタブー視したのか。あるいは不自由展を応援したい番組側が、批判が集中するだろう映像を意図的に隠したのか。  活字メディアで中止問題を最も熱心に扱った朝日新聞は、「焦点となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」(8月6日付第3社会面の特集)などと、たびたび映像について触れてはいる。しかし、芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むだけだ。  こうした議論の建て方は、同芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や津田氏とも共通する。
10日後、芸術祭アドバイザーの東浩紀氏が辞意を表明した。
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〔東氏のツイート〕  7月末からの休暇が終わり、帰国しました。休暇中に、ぼくが「企画アドバイザー」を務めるあいちトリエンナーレ(以下あいトリ)で、大きな問題が起きました。  このアカウントは、7月の参院選直後に、あいトリの問題とはべつの理由で鍵をかけていたものであり、これからもしばらくは鍵は外しません。しかし、このスレッドについては、転記し紹介していただいて結構です。そのときは、一部を切り取らず全体をご紹介ください。  まずは今回のできごとについて、スタッフの��とりとして、愛知県民の皆さま、出展者の皆さま、関係者の皆さまにご迷惑をかけたことを、心よりお詫びいたします。  ぼくの肩書きは「企画アドバイザー」となっていますが、実行委員会から委嘱された業務は、芸術監督のいわば相談役です。業務は監督個人との面談やメールのやりとりがおもで、キュレイター会議には数回しか出席しておらず、作家の選定にも関わっていません。  けれども、問題となった「表現の不自由展・その後」については、慰安婦像のモデルとなった作品が展示されること、天皇制を主題とした作品が展示されることについて、ともに事前に知らされており、問題の発生を予想できる立場にいました。相談役として役割を果たすことができず、責任を痛感しています。  僕は7月末より国外に出ており、騒動の起点になった展示を見ていません。今後も見る機会はなくなってしまいましたが、そのうえで、展示について所感を述べておきます。以下はあくまでも僕個人の、報道や間接情報に基づく意見であり、事務局や監督の考えを代弁するものではないことにご留意ください。  まずは慰安婦像について。いま日韓はたいへんな外交的困難を抱えています。けれども、そのようないまだからこそ、焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば、国際美術展として大きな意義があったと思います。
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 政治はひとを友と敵に分けるものだといわれます。たしかにそのような側面があります。けれども、人間は政治だけで生きているわけではありません。それを気付かせるのも芸術の役割のひとつです。あいトリがそのような場になる可能性はありました。  ただ、その役割が機能するためには、展示が政治的な扇動にたやすく利用されないように、情報公開や会場設計を含め、もっとていねいな準備と説明が必要だったように思います。その点について、十分な予測ができなかったことを、深く反省しています。  つぎに天皇の肖像を用いた作品について。ぼくは天皇制に反対する立場ではありません。皇室に敬愛の念を抱く多くの人々の感情は、尊重されるべきだと考えます。天皇制と日本文化の分かち難い関係を思えば、ぼく自身がその文化を継承し仕事をしている以上、それを軽々に否定することはできません。  けれども、同時に、「天皇制を批判し否定する人々」の存在を否定し、彼らから表現の場を奪うことも、してはならないと考えます。人々の考えは多様です。できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。市民に多様な声の存在に気づいてもらうことは、公共事業の重要な役割です。  しかし、これについても、報道を見るかぎり、その役割を果たすためには、今回の設営はあまりに説明不足であり、皇室を敬愛する多くの人々の感情に対して配慮を欠いていたと感じています。この点についても、役割を果たせなかったことを悔いています。  政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。すぐれた作品は、友と敵の対立などどうでもよいものに変えてしまいます。これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます。  にもかかわらず、今回の事件においては、芸術こそが友と敵を作り出してしまいました。そしてその対立は、いま、どんどん細かく、深くなっています。それはたいへん心痛む光景であり、また、私たちの社会をますます弱く貧しくするものです。それは、あいトリがもっともしてはならなかったことです。  僕は今回、アドバイザーとして十分な仕事ができませんでした。辞任を検討しましたが、いまは混乱を深めるだけだと考えなおしました。かわりに個人的なけじめとして、今年度の委嘱料辞退の申し出をさせていただきました。今後も微力ながらあいトリの成功に向けて協力させていただければと考えています。  あらためて、このたびは申し訳ありませんでした。力不足を反省しています。そして最後になりましたが、現在拡散されている4月の芸術監督との対談動画において、多くの方々の感情を害する発言を行ってしまったことを、深くお詫びいたします。
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緊急シンポ「表現の不自由展・その後」中止事件を考える  8月22日(木)18時15分開場 18時30分開会(予定) 21時終了  定員:470名 参加費:1000円  会場:文京区民センター3階A会議室
第1部:18:30~19:50 出品していた美術家などが語る「何が展示され何が起きたのか」  安世鴻(写真家)/朝倉優子(マネキンフラッシュモブ)/中垣克久(美術家)/岡村幸宣(丸木美術館学芸員)/武内暁(「九条俳句」市民応援団)/他 第2部:20:00~21:00 会場討論「中止事件をどう考えるのか」  金平茂紀(TVジャーナリスト)/鈴木邦男(元一水会)/森達也(作家・監督)香山リカ(精神科医)/滝田誠一郎(日本ペンクラブ)/他  進行:篠田博之(『創』編集長)/綿井健陽(映像ジャーナリスト)  主催:8・22実行委員会〔『創』編集部/日本ビジュアル・ジャーナリスト協会/OurPlanet-TV/アジアプレス・インターナショナル/メディアフォーラム/表現の自由を市民の手に全国ネットワーク/アジア記者クラブ/他〕
「天皇陛下の味方」を標榜しながら「天皇陛下を冒涜する自由」を啓発するパネリスト
 2019年9月5日夜10時、NHK「クローズアップ現代+」で「『表現の不自由展・その後』中止の波紋」が放映された。  筆者(門田隆将)は、展示中止から1か月以上経ってからの番組なので、ある1点に注目していた。それは、展示作品を番組が「正確に取り上げるかどうか」だった。  というのも、この問題では、展示作品を正確に伝えた「インターネット」と、都合の悪いものは報じず、一部だけを報じた「新聞とテレビ」とに明確に分かれていたからだ。  インターネットだけがこの1か月、展示された作品群の中身をきちんと伝えたが、筆者自身、展示中止になる当日の8月3日、ぎりぎりで観にいくことができた。そしてその作品群の明確なメッセージ性には驚かされたものである。  それは、ひと言でいうなら「反日ヘイト」と「皇室憎悪」だ。国民の税金を使ってこのような展示を愛知県が行うことについて、正直、筆者は首を傾げざるを得なかった。その作品をNHKは1か月を経てどう報じるのか。そのことに注目したのである。  作品がきちんと報じられなければ、いうまでもなく視聴者は正しい判断ができない。「正確に伝えない」ことは報道機関として許されることではない。  だが、結果は、筆者が危惧したとおりの番組になっていた。番組の主張に都合の悪い作品は、一切、報じられなかったのだ。つまり番組は、本来、問題のない「表現の不自由展」が、理不尽な反対や脅迫によって「中止に追い込まれた」ということを懸命に訴える番組構成となっていた。
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 番組で紹介されたのは、ごく一部の作品で、あの展示の性格を表わす肝心の作品群のことは伏せられた。なぜ伏せられたのか。理由は簡単だ。それを報じれば、自分たちの主張の方が「間違いである」ことが白日の下に晒されるからだ。  「ああ、この表現の不自由展の実行委員会には、もともと2001年に大問題となった『問われる戦時性暴力』をつくった曰くつきの元NHKプロデューサーが入っている。番組は最初からそっちの線で描くことに決まっていたんだ」  筆者はそう思った。公平な番組ができるかどうかを期待していた自分が逆に恥ずかしくなった。では、まず実際の展示にはどんな作品があったのか、それを先に説明しておこう。  8月3日昼、白いカーテンをくぐって当該の展示コーナーに足を踏み入れた筆者の目に真っ先に飛び込んできたのは、2メートルほどの狭い通路の両側に展示された昭和天皇に関する作品群だった。  右側には、正装した昭和天皇の肖像を髑髏(どくろ)が睨んでいるもの、左側には昭和天皇の顏の部分を剥落(はくらく)させ、背景には大きく赤で✕が描かれた銅版画が掲げられていた。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への激しい憎悪が剥き出しにされた作品だった。  その先の右側にあったのが、昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれていく映像作品だ。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がるような演出の中、次第に焼かれていく昭和天皇の顏。すべてが焼かれ、やがて燃えかすになると、今度はこれが足で踏みつけられる。人間の尊厳というものをズタズタにする強烈な映像作品である。  よほど作者には昭和天皇への恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで筆者は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉である。  少女像が展示されているのは、昭和天皇へのヘイトを全開にしたこの作品群を通り抜け、右側に広がった空間の一角だった。少女像の手前の広い空間の真ん中には、テントのような作品が置かれていた。  題して「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」。かまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きをした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などがベタベタと貼りつけられ、底部にはアメリカの星条旗を敷いた作品だ。  idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。  日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上に、このタイトルがつけられているので、少なくとも戦死した先人たちへの侮辱の作品であることはわかった。筆者は戦争ノンフィクションを10冊以上刊行しており、これまで最前線で戦った多くの元兵士を取材している。今ではほとんどが鬼籍に入られたが、その先人たちを貶める目的の作品であると感じた。  そして少女像。これはどうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。  説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。  慰安婦のありもしない強制連行を否定する日本側の見解とは明らかに異なる主張を持つものだ。少女像の左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。筆者には、これらが「反日」という政治的メッセージを訴えるための作品群であることがわかった。  しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、筆者たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。慰安婦であることの明確な説明書きと矛盾しているのに、番組では、それを指摘もしない。  つまり良心的な作家が「平和を祈ってつくった作品が脅迫で圧殺された」という番組にしたかったのだろう。そのためには、昭和天皇や戦争で死んでいった若者たちを損壊、侮蔑する作品群だったことは「報じられない」のである。  この番組の悪質性は、自らの主張に「都合のいい作品だけを取り上げた」という点にあり、この展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長には、当然“悪者”というイメージが植えつけられた。  日本では、公の電波を使ってこのような一方的な番組が放映されることを防ぐために放送法4条に以下の条文が定められている。 (1)公安及び善良な風俗を害しないこと (2)政治的に公平であること (3)報道は事実をまげないですること (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること  クローズアップ現代は明確に(2)(3)(4)に違反している。放送中から筆者のもとには「こんな番組が許されるのか」「作品の中身がこれだけネットで明らかにされているのにNHKはまだこんな番組をやっている」という訴えが相次いだ。  実は、日本の新聞やテレビがよくやるこのやり方は「ストローマン手法」と呼ばれる。対象となる出来事、あるいは対象者の発言の一部を切り取ったり、主旨をねじ曲げて報じて自己の主張に添うように記事や番組をつくるものだ。ストローマン(straw man)とは、もともとは藁(わら)で作られた人形(藁人形)を指す英語である。つまり案山子(かかし)だ。都合のいいように事実をねじ曲げて報じるのだから、「倒す」のは簡単なことからついたとされる。  ちなみに、これは欧米の言論界で最も軽蔑されるやり方として忌み嫌われている。
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 実は、産経新聞とフジテレビを除いて、この1か月間、これらの作品群の真実を報じたメディアはほとんど見られなかった。報じたら忽ち「そんな酷い展示だったのか!」と非難が高まり、「表現の自由が圧殺された」という趣旨の記事や番組ができなくなってしまうからである。  クローズアップ現代には日本文学研究者のロバート・キャンベル氏が登場し、こんなコメントをした。「筆者は“エビデンスのない共感”と呼んでいるんですが、自分にとって心地よい考えに出会った時や物の見方をみた時に、それに連動して、リツイートをしたり、コメントしたり、拡散していくということはあるわけですね。その傾向が今、世界中で広がっている中で、今回のケースは、日本の中で極めて特徴的なものとして現われたのかなと思います」  筆者は耳を疑った。このクローズアップ現代こそが、目の前の作品群の真実を封じて少女像だけの問題に矮小化し、“エビデンスのない共感”を大衆に求めたのではなかったのか、と。  筆者は、こういう公平性を欠いたマスコミ報道、特に新聞を取り上げて5月末に『新聞という病』(産経新聞出版)を出版した。3か月余りを経た現在、これが10万部を超すベストセラーになっている。  国民がいかに「事実をねじ曲げる」新聞に怒っているかを痛感した。だが、NHKも同じだ。筆者は「NHKという病」を追及する必要性を痛感している。なぜこんな放送局に税金が投じられ、国民が受信料を払わなければならないのか。国会での徹底追及をお願いしたい。
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リベラル勢力の二重基準  愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった。憲法違反だとか、さまざまな物議を醸したが、そもそも公費を使ってやるようなイベントなのか。その上、昭和天皇の御真影を燃やす映像などはもはや芸術とは呼べない。  作家の竹田恒泰氏は、展示の中止を「憲法違反」や「検閲」と指摘する声に対し、一つ一つ論理的に反論。反日の偏った思想に基づいた作品しか展示されておらず、公平性もないため、実体は「反日展」にすぎないと断じた。  著書が「表現の自由」を逸脱するとして朝日新聞に訴訟を起こされた文藝評論家の小川榮太郎氏は「私の表現の自由は無いのか」と、自身の言論を封殺した勢力の一方的でゆがんだ構図を糾弾する。  産経新聞大阪正論室は実際に展示会場をルポし記者会見も取材。大阪と神戸を舞台にした「御代替わり朝礼」非難報道や幼児図鑑「絶版」騒動とあわせて、平気でダブルスタンダード(二重基準)をふりかざすマスコミの病理をあぶり出す。  「表現の自由」を盾に、昭和天皇の御真影を燃やすなどという非芸術的行為を擁護する勢力は横暴だ。
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 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」について、1週間後の展示再開で、芸術祭実行委と不自由展実行委が合意し、展示中止のポーズを解除した。さらに、開会時の内容を維持し、必要に応じて教育プログラムを実施することや県が来場者に対し、中止になった経緯などを検証した中間報告の内容をあらかじめ伝えることも告げた。  これに伴う批判の殺到を怖れた知事は、ツイッター上で、自身を誹謗中傷するアカウントをブロックする旨、宣言した。
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 ブロックされれば強制的にフォローが解除され、ツイートを読んだりリツイートしたりできなくなる。早速、「見事にブロックされちゃった」と大村知事のブロックを示す画像が次々と投稿された。「誹謗中傷」の基準を質問するだけでブロックされたと主張するユーザーや、愛知県民であるにも関わらずブロックされたという声もあった。  大村知事は、批判的意見・質問をブロックするにとどまらず、韓国軍の蛮行について論ずる自由は無い旨、言い放った。  企画展「表現の不自由展・その後」は、昭和天皇の写真を焼いたような映像や「慰安婦像」として知られる少女像の展示などが批判を浴び、脅迫ファクスが届いたことを口実に企画展を中止していた。大村知事が津田氏と並んでピースする画像をツイッターに投稿し、その後削除したことも話題になった。  不自由展が提起した問題の一つは、文化庁などの助成基準との整合性だ。  「表現の不自由展・その後」では、政治的論争のある慰安婦像や昭和天皇の写真をバナーで燃やした灰を踏みつける動画など、日本国民の感情を害し心理的な傷を与える展示があった。
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 2019年10月8日、「表現の不自由展」再開に抗議する為、名古屋市の河村たかし市長は、同展会場前広場で座り込みを行った。河村氏は芸術祭の実行委員会の会長代行だが、再開についての協議はなかったといい、「(再開決定は)無効だ」と批判している。  河村氏はこの日、約30人の支持者らと抗議活動を実施。座り込みで約10分間、「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」などとシュプレヒコールを上げた。
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 マイクを握った河村氏は、とくに昭和天皇の肖像を燃やすような動画について問題視し、「愛知県や名古屋市が主催しているところで展示すれば、県や市が認めたことになる」と指摘。「表現の自由の名を借り、世論をハイジャックする暴力だ」などと再開に強く抗議した。  会場前の広場には、同展に反対するプラカードを掲げた人たちの姿も見られた。その場に居合わせた名古屋市民は「天皇を公然と侮辱するようなものを芸術と呼べるのか、不自由展ではなく不愉快展、市民として黙っていられない」と憤る。  同日の 大村秀章氏ツイート は、画像の通り
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 検証委は、中間報告で「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為」と津田氏の責任を指摘した。しかし、津田氏は、責任を感じるどころか、文化庁の補助金交付を求める署名活動を支持し、政治的な対立を煽り続けている。  検証委は、大村氏については、「検閲」を禁じた憲法の制約、リスクを軽減するガバナンスの仕組み欠如等を理由に、責任を不問にしているが、陳腐な言い訳で説得力はない。
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 朝日新聞社は、公権力が表現活動を抑圧した旨報道し、さらに「ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない」という検証委の指摘に賛同している。特定法規が定義する「ヘイト」の概念に該当しないことを論拠にしているが、これは、日本人を食い物にする発想方法である。  2015年に、朝日新聞社は、①故吉田清治氏の慰安婦に関する証言の誤報取り消しが遅きに失したこと、②吉田調書報道の取り消し、③池上彰氏の連載掲載見合わせ をおわびする旨、自ら 発表した が、そのことを忘れてしまったのだろうか?  この展示がもたらしたハラスメントは、多くの人に国民としての自尊心を過度に傷つけられただけでない。自分たちが納めた税金を利用して行われたことによって、さらに傷ついている。  しかもこの展示は、芸術監督の自発的な意図として成立した、むしろ積極的で公的なハラスメントともいえるものだ。日本国民の被害感情を軽視する人々が、メディアや文化人界隈に少なからずいることに驚かざるを得ない。  因みに、「展示スペースの大きさや実際の展示費用などを計算しカットした補助金を交付すべき」旨、補助金ルール無理解な三浦瑠麗氏が述べている。
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表現の不自由展 きょう午後再開 警備強化 金属探知機も  2019年10月8日  愛知県で開かれている国際芸術祭で、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次いだため中止された「表現の不自由」をテーマにしたコーナーについて、愛知県の大村知事は、警備を強化したうえで1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で、8日午後から再開すると発表しました。  8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。  愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。
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 芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。  具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。  さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。  芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。  8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。
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 愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。  芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。  具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。  さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。  芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。
・「 表現の不自由展 」は安全地帯での覚悟なき玩弄。表現の自由は侵されず。 ・米国でも「表現」で一大騒動。NY市長助成金カットと立ち退き要求。 ・中国、韓国はもちろん、米国でも「表現」によっては日本より遥かに厳しい。
 2019年10月14日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」 の 「表現の不自由展・その後」 が、突然の中止、「不自由な」限定再開を経て、会期終了と共に閉幕した。  主流メディアの多くは、最も問題視された、昭和天皇の写真を焼き文字通り踏みにじる映像については触れず、もっぱら慰安婦少女像が不寛容な勢力に攻撃されたかの如き「表現の不自由」を体現したような報道を続けた。
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 主催者である 大村秀章愛知県知事 と 津田大介芸術監督 の責任について、「企画アドバイザー」だった 東浩紀氏 が、当事者として的確に指摘している。   「『表現の自由』vs『検閲とテロ』という構図は、津田さんと大村知事が作り出した偽の問題だと考えています。…今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、…天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」
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  今回、表現の自由は、常識的意味において、何ら侵されていない。 せいぜい、税金の補助を受ける対象から排除されただけである。問題となった一連の「作品」群は、破壊も没収もされておらず、民間の場に移せばいくらでも再展示できる。写真や動画のネット拡散により、むしろ当事者の予想以上に多くの人が「表現」の実態に接した。  これが中国で、毛沢東の写真を焼く映像を展示したのだとしたら、関係者は既にすべて獄中、ネット拡散した者も国家安全部に拘束され拷問という展開になっていただろう。  あるいは韓国で、慰安婦の写真を焼いて踏みにじるパフォーマンスをしたなら、やはり関係者は、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」で土下座謝罪の上、何らかの罪状を付けられ服役となったろう。   「テロ脅迫」に責任転嫁を図った大村、津田両氏の行為は、日本という安全地帯における、覚悟を欠いた「表現」の玩弄に過ぎなかった。
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 政治性と宗教性という点で違いはあるが、 アメリカでも1999年、「センセーション」と題したブルックリン美術館の特別展示が一大騒動を巻き起こした。
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 問題の作品はイギリスの黒人画家 クリス・オフィリ(Chris Ofili) の 「聖処女マリア」 で、デフォルメされた黒人女性の乳房のコラージュ(貼付)部分と台座に象の糞が使われていた。また画面に多数飛ぶ蝶のような物体が、近づいて見ると、突き出した女性のヒップの写真であった。  経緯は後述するが、同作品は現在 ニューヨーク近代美術館(MoMA) に収蔵されており、「MoMA, Ofili, Mary」で検索すると同美術館の説明入りで 画像 が見られる。  「センセーション」展を開催したブルックリン美術館は、ニューヨーク市の財政補助を受け、市所有の建物に入居している。 当時のルドルフ・ジュリアーニ市長(現在トランプ大統領の私的法律顧問)は、「嫌悪すべき企画に表現の自由は適用されない」と、作品を撤去しなければ助成金を打ち切り、美術館自体の建物からの立ち退きも求めるとの姿勢を打ち出す。  事態は法廷で争われるに至ったが、特別展示終了で作品が建物外に搬出されたこともあり、結局、市側は美術館に対する立ち退き要求を取り下げた。
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 その後この作品は、460万ドル(約5億円)である富豪が落札し、昨年(2018年)ニューヨーク近代美術館に寄贈された。ところがその際は騒動とならなかった。
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最大の理由は、 同美術館はロックフェラー財団など民間資金で運営されており、税金が入っていないこと にある。  日本でも同様、個人美術館や朝日新聞あたりが「表現の不自由展」を引き取り、自らの費用と責任で展示する覚悟を示せばよいのである。  またオフィリの作品には、題名以外に聖母マリアを思わせる要素は乏しく、構図や色彩にアートとしての面白さを感じる人々が少なくない。象の糞も彼が好んで使う画材で特に冒涜の意図はなかったとされる。  もっともアメリカでも、例えばマーティン・ルーサー・キングの写真を焼いて踏みにじる映像を展示したなら、主催者は囂々たる非難と資金引き上げ、訴訟に見舞われるだろう。その点は、日本より遙かに厳しいはずだ。
島田洋一 (福井県立大学教���)
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