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#葉偉強
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【百年真相】晚年街頭乞討 一代大師葉企孫往事
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shinjihi · 2 years
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何故、中共は「中国4000年の歴史」とか「中華民族」とか見えすいた嘘を吐くのか?侵略の準備なんだよ! 
本当は夏朝、殷、隋、唐、金、遼、元、清など全て騎馬民族など異民族支配で元々の漢民族は殆ど後漢で滅んでる
その王朝でも支配してたのは北京周辺であり今のチベット、内モンゴル、ウイグルなどの地域も異民族に支配されており、北京周辺王朝は貢いでたり、王族などから女を贈って、勘弁して貰ってた
女を贈って置いて「あの地方王朝の王は俺たちの婿様だから、あそこも中華王朝の一部」とか無理な事を言ってる
しかし中共はその論理でチベットを盗り、内モンゴルを裏切り、東トルキスタン(ウイグル)を強奪して、中共から人を沢山送り現地人をレイプ強姦して妊娠させ混血児を増やし、現地人には強制堕胎、強制不妊手術を行い純粋な現地人人口を減らし、言葉を奪い、文化や宗教を禁止して文字通り民族浄化して、根絶やしにしようとしている
「元々は中華の一部」「太古より中華民族(なんだソレ?)が住んでた」と言い張り、侵略している
同じ論理をプーチンがウクライナに言って「元々はロシアの一部」「昔からウクライナにもロシア人が住んでた」と言い張り、ロシア系住民保護と主張して、ウクライナに侵攻した
おんなじパターン
中共は「尖閣は中共の土地」「沖縄は中国(どの支那だよ?)に朝貢してた中国の一部」と主張している
北海道には沢山、移民させてる
次はどうなるかって?
そりゃ中共による尖閣、沖縄、北海道の侵略が始まるんだよ!
だから「中国4000年の歴史」とか「ずっと中国はあった」とか「偉大な中華民族(何ソレ?)」という嘘に加担しては駄目だ!
それは彼らの宣伝
それは彼らのプロパガンダ
なんだよ?
欧米なんか知ってか知らずか
鵜呑みにしてる
日本国民は洗脳されて
鵜呑みにしてる
まずそこを否定して
防衛強化して
教育を強化して行こう!
【関連】
828 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:12:24 ID:fsTA3r1B0(4)
支那人にも孔子、老子、孟子を生んだ立派な文明があると誤解している日本人が多いのだと思います。
漢文を通じて中国人を理解することぐらい、絶望的な行為はありません。何故なら漢文はこの二千年間というもの中国語とは全く関係がない。日本人のほとんどは漢文を中国語の古語と思ってきたのです。
つまり日本人が尊敬し 知っている漢民族は紀元二世紀でこの地球上から姿を消し、中国住民はそっくり北方の騎馬民族の子孫に何回も何回も入れ替わってしまったのです。
そして秦や漢時代の中国人は,そのほとんどが大陸から居なくなったということです。
ところが日本は遣隋使や遣唐使たちの使節が派遣され膨大な漢籍を大陸から持ち帰り,それを今日まで途切れることなく勉強してきたのです。
つまり日本人は騎馬民族の子孫である中国でなく2000年以上前のいなく なった漢民族の文化を勉強してきたのです。
日本人なら誰でも知っている儒教の開祖である孔子は,紀元前6~5世紀 中国各地の有力諸侯が覇権を争っていた春秋時代のことです
830 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:13:38 ID:fsTA3r1B0(4)
使節団が中国から持ち帰った無数の漢籍を日本人は今日まで約1300年間も読み込んできたのです。
早い話が遣隋使や遣唐使が持ち帰った「論語」や「漢詩」などによって 皮肉なことに中国人でなく日本人の人格が磨かれてきたのです。
中国語と漢文は全く関係がない、つまり漢文の読めない中国人にとって孔子や孟子の教えなど身につくはずもありません。
いわゆるこの二千年間というもの,漢文は中国語とは全く関係がないと いうことを多くの日本人は知らなかったのです。
私はこれらのことを中国史研究の第一人者である岡田英弘先生から教えてもらいました。
私も20年前 漢文を通じて身につけた中国イメージのまま中国に進出してそのギャップの大きさに仰天した記憶があります。
中国進出する前は、信義に厚く,礼を尊ぶ文化人の国であると信じていました。しかし現実にいるのは,油断も隙もならない、詐欺師の野蛮人ばかりでした。
中国人に取って漢文とは外国語同然なのです.中国で話されている言葉とは全く無縁の言語体系なのです。
831 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:14:22 ID:fsTA3r1B0(4)
現在の中国人は,彼らが使っている中国語が,実は文体もボキャブラリーも日本語からの借用であるということを隠そうとしています.現代日本文の真似をして前置詞や助動詞を明確に記すことによって、やっと文章が書けるようになったのです。
日清戦争後,日本に大量の清国留学生がやってきて,日本語を学び中国語を誰でもが読める中国語の表記法を改良していったのです.その中にかの有名な魯迅もいたのです。
日本語をマスターした魯迅の頭の中は日本語の文章があり,それを漢字に置き換えて表現することによって原文一致体の「白話文」が生まれました。
そして試行錯誤の結果 現在における中国語は北京語を元にした「普通話」がやっと確立されたのです。
つねに色んな異民族に取って変わられた中国の歴史を眺めたとき,中国政府が宣伝している四千年の歴史は中国人の歴史ではなく中国大陸の歴史だということがわかります。
中国には単一民族としての中国人は一度も存在しなかった.中国語には
北京語,上海語,福建語などの言葉があることを知られていますが、実際はもっと言語は細分化されています。これらは単なる方言というのでなく,ほとんど共通点がありません。
そこで中国政府は各国が持っている「国民国家」というシステムを作るために国民を北京語に統一して教育してきたのです。それもまだ100年足らずのことです。
833 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:16:10 ID:fsTA3r1B0(4)
そして言語だけでなく異文化、異言語の人々の寄せ集め集団である中国を統一するために歴史も歪曲せざるをえなかった。
毛沢東は少数民族を含めて全ての中国人を漢族にしてしまうために少数民族の文化を奪い、抵抗するものは容赦なく抹殺してきたのです。
もし少数民族の自治や、言論の自由といったものを実現させれば、中国政府が意図する最強の「国民国家」システムの改造計画が頓挫してしまいます。
この中国共産党の意図が理解できたとき、日本人やアメリカ人が思っている「中国は資本主義開放経済への道を進めば自然に民主国家になっていく」という考えが いかに愚かな事であるかということがわかっていただけたとおもいます。
http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-2836.html
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kinako08 · 3 months
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久々の更新のくせに自分語りします。
すみません。
昨日の夕暮れ時、丁度この写真を撮ってた時間。
義父が入院して危篤と連絡があった様子で。
ひとまず今日から3日がヤマらしいが
面会は17時までだから今日は義母も帰ったらしく
とりあえず連絡したらしかった。
私はあまり夫の両親と仲良くなく、
というか義父と義母は2人だけで
ずっと生きて来たような人生で誰とも仲良くせず
親子関係もかなりドライに見えてました。
初めは何やっても思ってた反応と違いすぎて
会う度に泣いてましたが、いつの日からか
会わなきゃいいんじゃんと決めてからは
美味しいものを贈る以外は会わない生活で。
お互い気配だけ感じながら生きてました。
今まで脳梗塞や癌になって入院した時も
ほぼ完治するまで連絡もされなかったので
当時は言葉が出ないほどびっくりもしたけど
こんな愛もあるんだなと思わせてくれた。
それだけに今回連絡があったわけですから
そりゃ只事ではないのだろうと。
私は実父とは二十歳で両親が離婚して以来
会わないままいつの間にか死んでしまっていて
夫には後悔して欲しくないと思い
翌日(今日)の予定を全部キャンセルして
会いに行く予定にしてもらいました。
しかしながら(良いことだけど)父の容体が
安定して来たのでとりあえず今日はいいと
義母からの連絡。
そうしていると宅配が来て、見ると義父からの
お中元のお肉でした。
霧の箱を開けてなんだか
無性に泣けてきたわけで。
昔は嫌いだった実父も義父も義母も。
母でさえ会いにくいと思ったりするくらいには
拗れた家族なのかもしれませんが
今ならわかります。親だろうが先生だろうが
子供の頃そりゃあちゃんとしてるであろう大人も
自分と同じただの1人の人間なんだって。
たまたま親なんだけどちゃんとしてる人もいれば
出来ない人もいる。
クラスメイトも気の合う人もいるけど、
なんだか居心地悪い人も多いわけで。
それと同じなんだなぁと当時の親の歳になって
分かります。
ただこっちが理想を求めたんですよね。
親友の彼氏が、親世代と言うと言い過ぎだけど
かなり年上で、彼女が言うには
父親に甘えられなかった分今しっかり甘えてる
んだそう。いいよ!と思いました。
リズブルボーの本で読んだんですが、
(あくまで一論であって、
気に入らない方は取り入れないでください)
認知症は自分の意思でなっていて本人は
治すつもりはない、今まで必死に人のためだけに
生きてきて今度は自分の番だと言う感じで
発症するみたいなことが書かれていて。
私が1番好きだった祖母はめちゃくちゃしっかり物
できる女って感じのスーパーウーマンだったから
認知症になってどう思ってるか知りたくて
読んだんですけど、亡くなった時に読んだ
祖母の日記にはスーパーウーマンの心の葛藤が
びっしり書き綴られていて腑に落ちました。
それでも足腰が強く健康だったので、
そこまで叔母たちをわずらわせることもなく
最後はおやつの時間に眠るように亡くなって。
そんな私の大好きな祖母は血が繋がってはなく
母の母は(ややこい)私も会ったことないです。
みんなこじらせてる。
でも、今なら分かります。みんな死ぬその時まで
必死に最善を尽くそうとしてこじらせとる。
器用な人は理想の家族みたいな物語に
なるんでしょうが結局ワシらはこじらせとる。
その瞬間瞬間だけ切り取ったら
酷いこと言われた だの、失礼だの、最低だの
人でなしだの落ちるけど、
ひとりひとりの人生だけにフォーカスして見たら
あの日の父の言動も、
そりゃ言ってしまいたかったんだわなぁとか
思うわけで。みんな愛すべき人なわけで。
何が言いたいか分からないけど、
私が全員まるっと感謝することができれば
全部浮かばれるんじゃないかなぁと思いました。
親戚家族だけじゃない人間関係に悩む時
それが年上年下、家族上司、偉い人普通の人
なんも関係なくたまたま同じクラスの人として
見て見たらコイツにも親がいるんだよなぁ的な
どこか救いが生まれたり、
はたまたたまたま同じクラスにされただけだから
別々の人生歩むんだよとドライにもなれるかな。
そう簡単に行かないようで、意外にシンプルに
自分を大切に生きることだよなと思いました。
義父よ甦れ。
読んでくれてありがとう。
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ryotarox · 2 months
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題名(西: El espíritu de la colmena、直訳すると「蜂の巣の精霊」)について、ビクトル・エリセは「タイトルは私が考えたものではなく、偉大な詩人であり劇作家のモーリス・メーテルリンクにより書かれた、蜂の生活について書かれた最も美しい本と思われる作品から引用した。 その作品中、蜂たちが従っているかのように見える、強力で不可思議かつ奇妙な力、そして人間には決して理解できない力を、メーテルリンクは「蜂の巣の精霊」という言葉で表現している。」と述べている [4]。
ミツバチのささやき - Wikipedia
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takahashicleaning · 3 months
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TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの山頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そして、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、フランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロサムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要です。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、だから、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタニパータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を分析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ自分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関しては、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができるようになった瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くすことができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
(個人的なアイデア)
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
<おすすめサイト>
エピソード9 Episode9 - 各宗教と政治のチェックと指標について「パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon」
ポール・ピフ:お金の独占が人と大企業を嫌なヤツにする?
ショーン・エイカー :幸福と成功の意外な関係
バリー・シュワルツ:選択の自由パラドックスについて語る
ダン•ギルバート:私たちが幸せを感じる理由
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
マチウ・リカール:慈しみと愛他性(アルトルーイズム)に導かれる生き方
カイラシュ・サティーアーティ:怒りの昇華で世界に平和をもたらす方法?
<提供>
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kennak · 8 days
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これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。 政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。 「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。 そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。 なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。 客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。 「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。 全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。 海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。 税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。 例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。 どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。 書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。 その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。 この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。 読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。 一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。 街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。 地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。 この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。 たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。 この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。 この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。 そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。 やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。 石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。 しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。 「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。 この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。 街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。 富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。 富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。 近隣の都市はこの超超巨大書店都市のおかげで経済効果がある。 この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいな���のだ。それよりも神々しいかもしれない。 そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。 取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。 誰か作ってください。 ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し! 書店は兵器です。 追記 ジュンク堂書店など大型書店が潰れかけているのは知っている。 ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。 大型書店であっても、本が少なすぎるのが問題である。 だいたい日本語の本というのは大して範囲が広くない。 それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。 「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。 本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。 本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。 ない側に媚を売っていれば潰れて当然。 「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。 「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。 ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。 だからこそドカンとぶち上げるのだ。 記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。 自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。 コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。 自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。 世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。 地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。 イメージとしては↓な感じ。 まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。 電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。 降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。 右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。 床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。 改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。 デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」 ぼうっとしているとハトが飛んできた。ここでは何やら、ハトでさえ賢く見える。予算は5万円だったが、足りるだろうか。 Amazon倉庫でもないんだって。 なんか全然伝わっていなくてものすごく悲しい。 子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。 目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。 記号接地問題ともいうらしいが。 いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。 そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。 神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。 ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。 一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。 自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。 それから、実現の不可否はともかくとして、「え、そういう本屋あったらめっちゃいいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と感じてほしい。
ド田舎に世界各国の超超巨大書店が集積する都市がほしい
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jaguarmen99 · 10 months
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日本のマスゴミの中の人達はろくな科学的知識もなければ、「エビデンス?ねーよそんなもん!」を通り越して、「エビデンスで殴られる」とか言い出す始末ですからね。 証拠、根拠なしに勝手な話を展開して読者をミスリードするのが当たり前なのでエビデンス付きで反証されたらぐうの音も出なくなるから俺達はエビデンスがなくてもいいんだ!と言っているようなものですからね。 あ、そうそう。池田大作が亡くなったことについて中国メディアが速報として報じて中国にとって日本攻略のための重要人物扱いだったことがわかりましたが、韓国からも 【「韓国は文化大恩の国」…日本の代表的な親韓派、創価学会の池田大作名誉会長が死去】日本を代表する親韓派の宗教家とされる創価学会の池田大作名誉会長が老衰で死去した。95歳だった。「価値を創造して学ぶ」を意味する創価学会は日本で800万人以上の信徒を持つ仏教系の巨大新興宗教で、韓国を含む192の国や地域でSGI(創価学会インターナショナル)という名称で活動を続けている。韓国では「南無妙法蓮華経」という創価学会の念仏もよく知られている。 1928年に東京で生まれた池田氏は、第2次世界大戦で敗戦となった日本の民衆に「現世の幸福を追求すれば幸福になれる」という平和主義を唱えた人物だ。19歳だった1947年に創価学会に入信し、32歳で会長となった時には信者数わずか5000人ほどだった創価学会を巨大組織に育て上げた。1964年に池田氏が中心となって創設した公明党は現在自民党と共に日本を率いる連立与党になっている。1975年には海外での布教を目的にSGIを創設した。 池田氏は「戦争を経験した世代の最後の親韓派」とされている。軍国主義による戦争の悲惨さを知る日本の知識人たちは戦後の平和憲法を支持する最大の勢力となり、池田氏もその一人だった。戦争を知らない安倍晋三元首相ら戦後世代とは異なっていた。池田氏は生前「韓国は日本にとって文化大恩の国」と語り、日本の学生たちに世宗大王や李舜臣(イ・スンシン)将軍、柳寛順(ユ・グァンスン)女史、安昌浩(アン・チャンホ)先生など韓国の偉人について教えた。また「在日韓国人に参政権を与えるべきだ」と一貫して主張を続けてきた。 池田氏はSGIの機関紙「和光新聞」に「豊臣秀吉による日本出兵(壬辰〈じんしん〉倭乱)は朝鮮から受けた文化的恩恵を踏みにじる侵略だった」「日本は韓国と友情を結び、韓国を尊敬し、韓国の心を学ぶことで平和と繁栄の方向へと進むことができる」などの言葉を残している。そのため日本の右翼から強く批判されてきた。~以下省略~(2023/11/20 朝鮮日報) 韓国側に立って日本を貶め韓国が喜ぶ言動を繰り返してきた実績がなければ韓国メディアから「親韓派」の称号はまずもらえません。 そこに「日本の代表的な」とまで付けているとおり、公明党の媚韓姿勢の根っこには池田大作が居たと言っていいと思います。
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xf-2 · 11 months
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目次
子供たちが怖い、放置され無教育
日本人支援者の迷惑、教育が壊れる
教育で未来を変えようとするクルド人学生
日本人が外国人の犯罪・迷惑行為に声をあげる
子供たちが怖い、放置され無教育
【70代女性、川口市上青木在住、取材】
子供たちが怖いです。昼間からウロウロしています。私の知り合いの70代の男性が10歳前後の男の子がゴミを散らかしていたので注意をすると、ピーと指笛を吹かれて、すると男の子たちが集まってにらまれました。何も言えないでいると、唾を目の前で地面に吐かれて去っていったそうです。
近くのショッピングモールで、小さい5歳ぐらいと少し年下の男の子が、泥靴で走り回っていました。「静かにしなさい」というと、流暢な日本語で「僕たちはかわいそうなクルド人です。弟はまだ小さいので何もわからないから許してください」と言われ、じっと見つめられました。そうすると、何もこちらは言えなくなってしまいました。
(私:同じような話がXで書いてありました。誰かが教えているのかもしれません。)
私はXをやっていませんが、誰かが日本人が黙るように教えているのかもしれませんね。「僕は弱者だ」なんて言われると、日本人は何も言えなくなってしまうのでしょう
この地域は、工場の労働者向けの安いアパートが並んでいました。1970年代に建てられたものです。工場が川口から減って人がいなくなって、そうした古いアパートに中国人、最近はクルド人が入っています。
中国人は日本語が話せるのですが、クルド人は日本語を話せないし、生活で態度が悪いので困っています。日本人は高齢者ばかりで、注意するのが怖いので黙って我慢をしています。
隣のアパートにクルド人が、数ヶ月で入れ替わり住んでいます。入れ替わる理由はよくわかりません。時々騒音が聞こえます。女の人は家にこもって、買い物の時しか出てきません。
あるとき若い20歳ぐらいの母親が、子供が病気になったのか救急車を呼んだようです。しかし住所不定で、そして日本語が全く話せないので、救急車は搬送できなかったのです。すると昼間、救急車の前に座って路上で、子供を抱えて大泣きしました。そんな行為より子供を助けるための行動をしなさいとハラハラしました。救急隊員も困りました。私が話を聞こうとしても、聞かずに泣き続けました。泣けば主張が通ると思っているのでしょうか。
すると工事の泥で汚れた作業服の姿のまま夫がトラックでやってきて、片言の日本語で説明し、病院に行ったようです。迷惑をかけた周囲の日本人に、その後、クルド人夫婦から説明もありませんでした。変わった人たちです。日本語を少しでも学び、最低限のルールを知らないと。
日本人支援者の迷惑、教育が壊れる
【40代女性、川口市在住】
娘が高校生です。クルド人の友達もいます。公立小学校、中学校にクルド人、中国人など外国人の子供がいるのですが、日本語の授業が成り立たなくなっています。私の見たかぎり、日本人の子供たちは差別をしていません。逆に外国人の子供に気を使っている話ばかり聞きます。
クルド人を巡っては困った話がありました。あるクルド人の子供(男か女か、小学校か中学校は、私の判断で明示しない。クルド人の児童の特定、学校の特定を避けるためだ)が、クラスで孤立しました。ものを壊してもそのままにする、当番をしないなどの問題行為をしたそうです。同じクラスにいたクルド人の子供も距離を置きました。
すると東京の活動家がそれを聞きつけて、いきなりネットメディアで「クルド人の子供がいじめられている」と報道しました。毎日新聞もいじめと断定して報じました。活動家は学校に怒鳴り込み、卒業式にまで乗り込んできて、カメラマンを連れてきて、パチパチ写真を撮ったのです。公開されないか、父兄も子供も、怖がりました。卒業式はクルド人1人のためのものでも、この人のものでもありません。この活動家は、他の何百人の子供達の卒業式を台無しにしました。
(私:その活動家、イスラム教徒のクルド人の子供たちをクリスマスパーティーに誘って、クルド人に笑われていたらしいです。クルド人のことを知りません。)
変な人なんですね。当事者の生徒の話も聞かず、川口の子供がいじめているという話を日本中に報道するのはおかしいです。日本人の子どもたちは、報道に傷つきました。
クルド人を支援する人は、今は川口市にはほとんどいなくなりました。これだけ迷惑行為をしているから離れて行きました。支援者は「変わった人」扱いです。ただし川口市民の方ではクルド人を差別したり、嫌がらせをする話はありません。逆に外国人に気を使っています。
日本人の子供が今、外国人によって、学校教育で、適切に教育を受けられない状況になっています。外国人が多いと、学校の学習進度がどうしても遅れてしまいます。私の子供は塾でほとんど勉強せざるを得ない状況でした。日本人への逆差別です。ですから、小学校、中学校で私立に行かせようとしている親が多いです。市役所も先生たちも、対応に疲弊しています。国はこうした外国人の教育の現実を知っているのでしょうか。
教育で未来を変えようとするクルド人学生
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【70代男性、川口市】
以前は教師でした。定年後に、外国人に日本語を教える川口市の日本語教室の教師ををしています。
(川口市、蕨市ではボランティア、NPO、また私塾の形で日本語が教えられている。身元をぼかすため、詳細は記さない。)
他の外国人は積極的に日本語を学びにきます。クルド人は来る人が少ないです。クルド人は、ささいなこと、例えば授業の遅刻、また態度の改善を注意しただけで、すぐ怒り出します。根気もなく、すぐに教室に来なくなってしまいます。
他の国の人は合法な居住の人が多く、たいてい日本語がある程度話せます。クルド人は、難民と称して滞在しているので、言葉を学習せずに、日本にやってきます。他の民族の人は日本は好きですが、クルド人は大半が日本のことを知りません。加えて、クルド語もトルコ語も上手に読み書きできないようです。彼らは中学校を出ているかも怪しく、勉強の文化がないと、石井さんが記事に書いていました。納得できました。そのために、日本語も上手くなりません。
ただし、悪い人ばかりではありません。一生懸命学習するクルド人の中学生もいます。同胞や親が、「出稼ぎなのに難民と嘘をついて日本に来ている。それは良くない」と、状況を分かっていました。クルド人が同胞の経営者を儲けさせるために安く働かされたり、変な日本人活動家に利用されたり、弁護士や行政書士などにお金を吸い取られていることも、理解していました。石井さんの報道の通りですね。
この子は、そうした境遇を抜け出すため、また自立するために一生懸命勉強をしています。学校の成績も良いです。私は大学まで行って奨学金を取り、滞在の資格を、仮放免の立場から、留学ビザ、正規滞在に変更することを勧めています。その子も、その意欲があります。
石井さんの報道は正しいと思います。ですがクルド人に取材するほど、彼らに冷たく、厳しくなっていますね。脅迫されたためでしょうか。
(私:そうです。)
あなたの感情は理解できますが、真面目に、頑張る子供がいることは、ぜひ知ってほしいと思います。
日本人が外国人の犯罪・迷惑行為に声をあげる
ようやく川口では人々が「おかしい」と声をあげ、ほんの少しだが状況が変わりつつある。行政が動き、不法行為の摘発が少しだけ始まった。
外国人差別は許されない。合法的に、また日本人と協調して暮らそうとするクルド人、その他外国人とは共生しなければならない。しかし違法行為、違法滞在をする外国人には、法適用をし、速やかに帰国をさせなければならない。その方向に、微々たる動きだが変わりつつある。
暗い話ばかりがクルド人問題で聞こえるが、埼玉県民、川口市民が変化の希望を抱いていることも紹介して、この原稿を終えたい。私にいただいた評価も、少し恥ずかしいがそのまま残しておこう。
【川口市民、メール】
クルド人問題については「おかしい」ということに、私はためらいがありました。私の周囲の川口の住人にもあります。私たち日本人は、小さい頃から「外国人と仲良く」と刷り込まれますから。
そして国とメディアと学校が「ヘイトスピーチはダメだ」キャンペーンを続けていますよね。これはこのクルド人問題では悪い方向に働いて、日本人が物を言えない状況を生んでいるように思えます。
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【埼玉県民、メール】
石井さん、身の危険を感じることと拝察します。くれぐれもお気をつけて取材を続けてください。あなたのような記者がいらっしゃることで、日本のジャーナリズムもまだ死んでないんだ、と思えました。あなたは正義感から川口市に突っ込んで「なんで自分がこんな目に」とぼやいていますし、気の毒と思いますが、そうした勇気が社会を変えます。
記者会見で権力者を怒鳴りつけたり、偉そうなことを言う記者はたくさんいますが、何の役にも立ちません。社会問題を調査し、客観的にそれを私たち国民に伝えることがメディアの役割と思います。しかし、誰も、クルド人問題でやりませんでした。大手の新聞社やテレビはいったい何をしているのでしょうか。
どうぞご自愛ください。川口市の奥富市議とか、心ある人と連携して頑張ってください。私たちの手で、川口、埼玉、日本を守りましょう!
石井孝明 経済記者 with ENERGY運営 ツイッター:@ishiitakaaki メール:[email protected]
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lastscenecom · 6 months
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あの時一生懸命勉強していなかったら、今より良い人間にはなれなかったと思います。しかし、人生の他の部分を無視したら、それは人生とは言えません。 私はスティーブ・ジョブズの死に際の言葉を読んだことがありますが、ほぼ同じことを言っています。 「私はビジネスの世界で多くのことを達成しました。他の人にとって、私の人生は成功しているように見えます。 しかし、仕事以外に大きな幸せはありません。結局のところ、お金持ちであることは私が慣れてしまった人生の一部にすぎません。 今、病床に横たわってこれまでの人生を回想していると、死が近づくにつれて誇りに思っていた名声もお金もすべて消え失せ、無意味になっていることに気づきました。 暗闇の中で生命維持装置の緑色の光が見え、ブンブンという音が聞こえます。死が近づいているのを感じる… 一生分のお金があるなら、お金だけではなく他のことに集中すべきだということがわかりました。 もっと重要なことがあるはずです: 人間関係、芸術、若い頃の夢かもしれません。 お金を常に追い求めていると、私のように人間は歪んでしまうだけです」 スティーブは偉大さを追い求めた自分の人生を少し後悔していましたが、私は同じ経験をしたくありません。
私たちは一生懸命働くべきでしょうか、それとも人生を楽しむべきでしょうか?それを再考する時が来ました |袁 VK 著 |ジャーナル北 | 2024 年 2 月 |中くらい
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patsatshit · 11 months
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
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ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリスト��文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
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僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃ���。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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38nakao · 6 months
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2024.03.13(水)
100%勇気!10000%やる気!10%元気!(労働残り2)
 結局前回の日から空いちゃった。なぜってケータイを会社に忘れたからである。書きたいことも流れてしまって、今なんか書きたいなと思えたから書いている。
 最近気づいたのだけど、やりたいことを今すぐにやれないとやる気のピークが過ぎて、そのままやりたいことが流れ去ってしまうのがわたしらしい。やる気の継続性がない。ただ、やらなきゃいけないことはよく知っていて、わりと優先度も分かっていて、それでもやりたくないとやらない。そういう時はもっとやりたくないことを強制されてるときにやる。そういうことで、労働中に新生活に必要な家電と寝具を調べて購入したり、忘れてた歯医者の予約などをした。(基本的に多動で、何かやってるときに違うことを出されると、そちらに注意や興味が削がれちゃう。どーしよ)
 この前、某夜学バーで『蓮と刀』という作品の講義を聞いた。橋本治さんは『「わからない」という方法』という本だけしか知らないし、なんならそれも前半しか読み終えてないけど、わたしが小さい頃ぶち当たって納得しないままやってたことに対して触れていて、あー!そうそう!なんかこの人わたしのこと分かってくれてる!?と思ったのを覚えている。それくらいの知識で観に行った(そんなのでも良いと書いてあったから)。
 メモもしてないので言葉とかニュアンスがぐちゃぐちゃのふわふわだけど、講義中に「みんなホモになれ!」なんて言葉が何度も飛び出した。もちろん本の中で出てるから講義にも出るわけだけど、まだ同性愛への差別がすごい時代だろうに、そんなストレートな言い回しできるのはすごいなと思う。今の時代ならそこだけネット記事とかに取り上げられて、本来言いたかったことは少しも触れられずに、「橋本はパヨク」とか「ホモセックス推奨おじさん」とか言われちゃうんだろうな。
 どんな本か言われたらすごくむずかしいけど、「本当に自由になるためになるには。今の不自由さについてやそうなってしまった背景から読み解いて、解決までを指し示した本」だと、わたしは感じた。
 どきりとしたのが、「『おとうさんがこわい」と言い出せないまま大人になった男がおじさん」という言葉。「おじさん」というのがなぜ偉そうなのかは、年を取るだけで権力を得られることに気付かずに精神は子どものままだから、みたいなことも書かれていて、そうそう!と頷いていたら、急に耳の後ろあたりをぷちっと針に刺された気がした。
 それを「お母さん」に置き換えたら、わたしもおじさんになってしまうのだ。
 今年で33になるのだけど、まだお母さんが怖い。わたしに関することで体裁が悪いことだと自分のことでもないのにヒステリックに詰められるのだ。
「あんたはもっと賢いと思ってた」「お母さんに惨めな思いさせる気?」 「むかし〜〜したのが馬鹿みたい」
などなど、大抵のトラウマはお母さんから与えられた。これだけだと毒親と思われてしまうから、そうでないことを話しておくと。やってみたいと言った習い事はさせてくれたし、それの送り迎えをして、朝早くからパート行って朝夜のご飯を用意し、それをずっと続けていた。いま思えば、お母さんも忙しくて大変でつらくて苦しかったんだった。そりゃあ習い事と学校以外じゃ遊んでばかりで、ろくに話もせずご飯が済んだらすぐ遊びに戻って家事の手伝いをまったくしないんだから、そりゃあ腹も立っただろう。その鬱憤が晴らすタイミングが必要で、それがほんとに叱らなきゃいけないときか、こっちの不手際を責めれるときだったんだろうなあ。
 わたしにとって、お母さんは権力だった。
 手伝いをしようとすれば「どんくさい」「要領が悪い」と指摘され、テストで90点だったら何で一問だけ間違えたのかと指摘され。怒られまいと、「それ本当は知ってたのに勘違いした」と本当にそうなので言えば「言い訳するな」「何で確認しなかったのか」と怒られ、また要領について掘り返されて怒られる。
 100点を取ると、褒められるでもなく「よーし」だった。それなのでテストは90点がボーダーで、それ以下は馬鹿だと思っていた。100点を取らないと認められないと思っていた。塾も通ってたし、その上で学校の授業も宿題も真面目にやってたから、そんなに苦労はしてないのだけれど。この積み重ねでカンペキの反対はダメ、0か100かの二進法価値観になったのは否めない。自分でもできるのに、なぜできないのだと思ってしまう節がある。
 もう少し褒めてもらっていたら。小さい頃は今よりも思ったことをうまく言えないし、あまりお母さんと会話をした記憶がない。どんなひとなのかよく知らず、褒められるより怒られてばかりなので、お母さん=怖い・絶対という城ができてしまった。弟の方がわたしよりも弱くて泣き虫で、わたしまで何かあったらお母さんは嫌だろうな、とうまく甘えられないのもあった。いま思えば、わたしがお母さんを知ろうとしないのも良くなかった。
 高校になってから、わたしの中でお母さんの権威がハリボテだったと分かって怯えたりすることはなくなったし、そこそこ対等に話せるようになった。だけど、お母さんにとってわたしは子どもで不完全で、親は子より上にいなきゃいけないと思っている。そういう態度が抜けないから、お母さんに話さなきゃいけないことが話せないままでいる。
 お母さん、わたしは遂に仕事を辞めたよ。お母さん、わたしは最近一人暮らしに戻ったよ。あんだけ反対されたのに。
 どうせゴールデンウイークに実家に帰らないといけないので、その時に言うつもりだ。
 お父さんに怖いと言えずに育った男がおじさんなら、お母さんに怖いと言えずに育ったわたしはおばさんだろうか。
 不安や恐怖に対して、立ち向かうではなく逃げ続けて、その向こうに行けば何かあるかもしれないのに。
 お母さん、わたしはあなたのことが怖かった。今でも怖い。あなたは不安から逃れるために労働をしている。その労働を嫌だと、辞めたいと思っているのに、見えない不安が怖くて頼まれてもないのに指定時間より早く準備をし、指定時間にタイムカードを切る。なんて勤勉な労働者でしょう。
 お母さん、それを続けても不安はなくならないよ。それで幸せならばそれでいい、それを続ければいい。なのに、わたしが「普通の社会人」から外れると惨めになったり嫌な気分になるのは、お母さんが満たされていないからだ。それをわたしのせいにしないでくれ。お母さんは災害なんかが起こると「こうして屋根があってご飯が食べられるだけ、ありがたいよね」というでしょう。ありがたがるのなら、本気でありがたがれ。幸せになれよ。自分を安く見積もるなよ。自分の人生を歩んでくれよ。
 昨日かな、会社で後輩に話しかけたら「中尾さん、最近ウキウキしてますよね」と言われた。そりゃあ有給が2ヶ月も消化できるのだし、毎朝8時に起きて日付をまたぐかのスレスレの時間に帰る生活も終わるのだ。
 新しいことがたくさん始まる。
 正直なところ、見切り発車なところも多いし、把握してないことも多い。辞めてしばらく経って、やべー!!!と思うことは間違いない。でも考えられるときに考えたらいいし、頼れるひとにうまく頼ればなんとか大丈夫だと思う。
 トラブルは予測するに越したことはないが、起きるかどうかも分からないトラブルに怯えて立ちすくむなんて、そんな馬鹿なことはもうしたくない。
 言い訳なんてしてる暇はない。怖いことだらけだけど、やるしかない。
 これからは全部の責任を自分で負うのだ。そうして、わたしはわたしを幸せにすんのだ。
 
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dainanagekijo · 3 months
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ヘッダ・ガーブレル Hedda Gabler
じゃ、私にできることは、何もないのね。
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彼女はなぜ原稿を燃やし、銃の引き金に指をかけたのか——。
自分の生と自己についての実感を求めて、空虚の中で心を圧された女性「ヘッダ」。生きている価値、妻であることやパートナーの意味や意義、ひとりの人間として必要な承認をめぐる、生が自己を求める切実さを描く物語。
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開演日時: 2024年8月31日(土) 14:00・18:00 / 9月1日(日)14:00 ※各回終演後に演出家によるトークセッションを実施予定 ※受付開始は開演の45分前、開場は30分前 ※上演時間は100分を予定
託児サービスあり(先着順・有料) 9月1日の回が対象。公演2週間前までに要申込。 (三重県文化会館 TEL059-233-1122)
英字プログラムあり
会場: 三重県文化会館 小ホール(三重県津市一身田上津部田1234) ※三重県文化会館へのアクセス
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原作:ヘンリック・イプセン 構成・演出・美術:鳴海康平
出演: 木母千尋、三浦真樹 諏訪七海、桑折 現 山形龍平、梨香
舞台監督:北方こだち 照明デザイン:島田雄峰(LST) 音響:平岡希樹(有限会社 現場サイド) 照明操作:前田遥音 衣装:小野花弥 肖像画製作:永村清華 フライヤービジュアル撮影:松原豊 フライヤーレイアウト:橋本デザイン室 アダプテーション:鳴海康平
フライヤー撮影協力:Bon Vivant(三重県伊勢市本町20-24)
※原千代海訳、毛利三彌訳、福田恆存訳、 Deborah Dawkin and Erik Skuggevik 英訳、 Terje Sinding 仏訳を参考にさせていただき、上演台本を作成しています。
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料金:(全席指定) 一般前売 2,500円(当日 3,000円) 22歳以下 1,000円(前売・当日とも)
チケット取り扱い(チケット発売日:6月29日10:00)
▋三重県文化会館 チケットカウンター(窓口・電話) tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) WEBチケットサービス「エムズネット」 https://p-ticket.jp/center-mie/
▋第七劇場(予約のみ) https://www.quartet-online.net/ticket/hedda24
※未就学児の入場不可 ※22歳以下チケットでご入場の際は、年齢の確認できる証明書のご提示をお願いいたします。
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三重県文化会館 公演情報ページ https://www.center-mie.or.jp/bunka/event/detail/48724
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関連企画
「ヘッダ・ガーブレル」を読んでみよう
演出家・鳴海のナビゲートで、実際の上演台本を使った読み会を開催します。みなさんで声に出して読みすすめながら、作品を紐解いてみましょう。
日時:8月12日(月・祝)14:00〜16:00 会場:三重県総合文化センター 生涯学習センター棟 2階 まなびラボ 参加料:1,000円
事前申込制(先着)
参加料は当日精算
定員 15名
申し込み受付は6/29(土)〜8/3(土)※必着
お申し込み・お問い合わせ
tel: 059-233-1122 窓口:三重県文化会館 チケットカウンター  10:00〜17:00/月曜休館(祝日の場合は翌平日休館) 申込URL: https://www.center-mie.or.jp/bunka/
※未就学児のご参加はご遠慮ください。 ※筆記用具をご持参ください。 ※定員に達し次第、受付終了となります。
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ヘッダ・ガーブレル
1891年、ミュンヘンで初演。研究者の夫テスマンとの関係に息苦しさを感じている妻ヘッダは、退屈な日々と、身近な生気に溢れた人たちに苛立ちを覚える。テスマンの研究者としてのライバルでありヘッダの元恋人レェーヴボルクの死、ヘッダの古い友人テアとテスマンの研究上の意気投合、レェーヴボルクの死に関する判事の思惑が交錯し、嫉妬と羨望と絶望が高まる中でヘッダは、自身の行動で自らを追い込み自殺してしまう。
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ヘンリック・イプセン(1828〜1906)
ノルウェー出身の劇作家・詩人。「近代演劇の父」と呼ばれる演劇史上の巨人。シェイクスピア、チェーホフと並び、現在でも世界中で盛んに上演される。19世紀当時一般的だった勧善懲悪の物語や歴史上の偉人が登場する大作から離れ、個人の生活や現実の社会の課題などを題材に戯曲を執筆。
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第七劇場
1999年、演出家・鳴海康平を中心に設立。主に既成戯曲を上演し、言葉の物語のみに頼らず舞台美術や俳優の身体とともに多層的に作用する空間的なドラマが評価される。国内外のフェスティバルなどに招待され、これまで国内25都市、海外5ヶ国11都市(フランス・ドイツ・ポーランド・韓国・台湾)で作品を上演。代表・鳴海がポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間滞仏後、2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。2014年、東京から三重県津市美里町に拠点を移設し、倉庫を改装した新劇場 Théâtre de Bellevilleのレジデントカンパニーとなる。 https://dainanagekijo.org
写真「三人姉妹」2023・三重県文化会館 ©松原豊
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鳴海康平
第七劇場、代表・演出家。Théâtre de Belleville、芸術監督。1979年北海道紋別市生まれ。三重県津市在住。早稲田大学在籍中の1999年に劇団を設立。「風景」によるドラマを舞台作品として構成。国境を越えることができるプロダクションをポリシーに製作し、ストーリーや言語だけに頼らないドラマ性が海外で高く評価される。ポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)として1年間渡仏し活動。帰国後2013年に日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。AAF戯曲賞審査員(愛知県芸術劇場主催 2015〜)。名古屋芸術大学芸術学部舞台芸術領域准教授(2021〜)。
写真 ©松原豊
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主催:三重県文化会館[指定管理者:公益財団法人三重県文化振興事業団] 共催:レディオキューブFM三重 助成:公益財団法人岡田文化財団  文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業(地域の中核劇場・音楽堂等活性化事業))  独立行政法人日本芸術文化振興会 特別協力:名古屋芸術大学
製作:合同会社 第七劇場
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お問い合わせ: 三重県文化会館 tel. 059-233-1122(10:00~17:00/月曜または月祝翌平日休館) 第七劇場 [email protected]
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86stagram · 4 months
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ちょっと前のパシャリング📷🌟 野良でトモダチと会えるの、嬉しいね🎇
むかしむかし、友限が全然成立しなかった頃、 たまたまタイミングが合ったトモダチの野良に入る方がまだご一緒できてた時代を思い出す…… あの頃の幸せと言ったらなか���たよね……
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思いっきりイメチェンした子、事情があってしばらくログインできないトモダチ、持っていないコーデ、自分では思いつかなかったミックスコーデ、いろいろなみんな……
ぼくも最近はあまりアドパラで暴れられなかったから言える立場じゃないんだけど、前ほどは見かけなくなったアイドルさんが多くなってきた印象。2日以上来てない人が半分くらい……。
人間の腕はちょっと前よりかはうっすら良くなってるので、できれば無理のない範囲で友限もやっていきたいなって思ってたんだけど、なんか数ヶ月前よりもメンバーが集まりにくくなってきちゃったな(っY`。)ぐすん 楽しい写真ばかりのはずなのに、少しさびしくなっちゃうね(´Y`)、、、
せめて今すぐの方でパシャりまくるとかしていきたいな~~🔥🔥🔥 ログインした時にお呼ばれ通知で交換日記みたいなことしてた日々が懐かしい💭
以下、人間の言葉: そういえばネコメイクが登場したので既存のパーツと合わせてサブキャラの1匹を再現できることに気づきました。明日あたりちょっと試して遊んでみようかなと思っています!🐈️゛
あと、夏に新作が出るキンプリのために(それまでほとんど知らなかった)プリリズを履修しているのですが、ようやくDMFの14話まで来ました。しかし先は長いです。 一応キンプリの映画自体は単体で観ても楽しめるはずだと聞いていますが、オーロラドリームのキャラやジャンプが出てくるので元々知っている方が楽しめるかもとも聞いています。できれば全部観てからがいい…… 時間がなさすぎたらサクッと旧作を見てから映画館に行くことになると思いますが、どうなることやら……
ニャァアン🐈️💨💨💨💨💨(´Y`)暴れネコめ…… 💥🐱💥🐱💥ウワァアア(´Y`)ァアアァア💥🐱💥🐱
↓これマジで役に立ってない なんでだろ
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話は横にそれますが、(ここから先はマジで読まなくていいです) アイプリにはプリズムジャンプやメイキングドラマ、やってみた、プリマジイリュージョンのようなシリーズでお決まりの魅せ場はありませんね……。 ただし我々は7話までしか観ていないので、それ以降に出てくるのであれば全くの見当違いな話をすることになります。出てないならさっさと魅せてほしいよ…… 心を掴んで😢
プリズムアクトというプリズムジャンプやメイキングドラマに比べても長く一生懸命な感情表現シーンに浸った後でアイプリを観始めると、ライブ中に延々と流れるモノローグだけでお気持ちを済まされるあたりが浅いのに煩わしい演出に感じてしまいます。 これまでのコーデが光る演出は毎度ではなく、極稀に限られた者だけがバズリウムチェンジできる。でも何がどうすごいのか、ステージを通してアイプリとファンは本当に情熱が通じ合っているのかはいまいち伝わってきません。
DMFは真っ直ぐでみんな頑張りやさん、全体的に明るいけど決して軽いわけではないですよね。だからこそ濃淡のギャップで余計にそう感じるのかもしれません。 いや……、でも、まさかずっとああやってモノローグで済ませる気とちゃうやろなぁ!? ちゃうって言って♡(と書かれたオタクの団扇) プリティーシリーズはアニメでもゲームでも切り替わりごとに必ずどこかで先代とは違う要素を組み込んできました。大抵の女児は3年ごとに女児向けコンテンツを卒業するので、時代に合わせた挑戦をしてきたという痕跡が感じられます。でも、だからこそ大事なものを捨てないで!
また、似た展開をやるにしてもこれまでのプリティーシリーズであれば何話も重ねてきたであろうストーリーですらサクっと済ませてしまうことに拍子抜けでした。 とくに大会で負けるキャラのライブパートはあっさりカットするなど、びっくりするぐらい感情移入する隙がない。待たんかい ひまり「あ~楽しかった!」 さくらさん「たの、しい…………?」 いや、人の心とかないんか? (どうでもいいけどニコニコがまさかのずーーっとメンテで読めね~のな)
ひまりがアイプリであることを学園長に知られるまでも、アイプリが禁止された後即解禁されるまでも、あまりに短くて「ひみつ」の持続時間はオーデコロン並、ガチで驚きました。 うせやろ、らぁらですらはっきりバレるまでに20話くらいかかったやんかい! 展開を急ぎすぎちゃうか。。。ソシャゲのスキップボタンがあるストーリーかよ
諸々はギャグとして楽しめばいいのかもしれませんが、それにしてもノレない。どうして……。 今のところ一番面白かったシーンはヴィクトリアとパトリシアの掛け合いで身振り手振りがやたらと激しかったところです。 (どっちが先にあんな感じだったかはわからないけど)友情は壊れたつもりでも、実は自分自身の習慣として残っていたんだ…… ちょっとしみじみしてしまいました。 でも正直、その前で他の全てが霞んで���まうのはまずいやろ。他にもっとなんかあるやろ、なんか
私はもともとアイドルタイムプリパラもプリチャンも最初はあまり楽しめないでいて、どこかのターニングポイントで「あ、知りたい」と強く感じた時に最初から観直すということをしてきました。 特に華園しゅうかちゃんやガァララというキャラクターの関係性、周囲の人が口にする感想の数々、私にとってはこれらが鍵でした。ブログ時代が終わってSNS時代だから仕方ないけど、アイプリの感想をがっつり書いている人少なすぎ…… なんでもいいから書いて
あぁえっと、要は、今後の可能性を期待しているので、面白くないとか苦手だという理由でアニメを切ることはしません。現実が忙しいとか、視聴中に爆睡して虚無った場合に視聴継続を諦めています。ぶっちゃけアイプリも観ている途中に眠くなりがちで義務アニメ枠。早く面白くなってほしい。
プリチャン3期とプリマジは…… 正直放送途中で存在を忘れてしまった。優先順位がかなり低いアニメになってしまった。 でも、大量にある視聴したい映像作品の末に観るであろうリストくらいには座しています。何年後になるかわからないけど。
あと、これがマジで気になってること。アイプリって何? そりゃアイドルプリンセスなのは知っています。そうじゃなくて、場所とジョブを同じ単語で指さないでほしいのよ。 例えばYouTubeとYouTuberは別でしょ? その両方をまとめてYouTubeと呼んでいるかのような曖昧さ、ていうかちょっと不親切やないか? きちんと説明しているところあった? あったなら観ます。
アイプリバースデーの役割もよくわかりません。番組なのはわかるよ。じゃあそれはYouTubeでいうチャンネル、企業がやっているタイプのチャンネルではないか? そこに出演しているのがひまりをはじめとしたアイプリたちであって。でもオーディションって何? 毎回何をジャッジしてるんだよ、暇なん……?(目的は?)
エンディングで「推し活最高」と言っている割には誰も誰かを推していないのがずっと気になっていました。お掃除対決のひよこ脱走ハプニングでみんなが疲労困憊している時、「みんなを元気づけたい」からとひまりがアイプリをしたがるのも謎です。 すごく疲れたからって、私たちだって「YouTube観たい~観て元気になりたい~」とは思わないはずです。せめて具体的に「誰々ちゃんのチャンネルが観たい~」になるはずです。
あの番組に出演しているアイプリであれば、とりあえずは観てもらえるんでしょう? みんな観ているという共通の話題があるだけで、バズリウムチェンジという(謎の)偉業を遂げたアイプリだから注目しているのであって、ひまり個人を推してはいない。ビジュアルで推すならまだしも、まだ個人で配信していない内面的な魅力は不明瞭だからです。 どうして元ある掃除という役割の途中に消えてまで? なぜ自分が元気を与えられると思うのか? しかもいなくなってることに学園の誰もが気づかない。状況的に、同一人物じゃないかと疑うキャラがいたっておかしくない。でも、そもそもいなくなってることにモブの誰も言及しない。現実世界のひまり、人としてさみしすぎないか? ひまりはみつきとさくらさんとつむぎ以外に推されていない。 でも彼女は主人公です。主人公が主人公たる理由を、物語できっと描いてくれるはずです。本当に推してくれている人が片手で数えられるのは、正直今のキャラクターからして身の丈に合っているのはそのレベルだと突きつけているようで心が痛いです。私はひまりを推していません。
ヴィクトリアがアイプリを解禁した時にわざわざ 「この2人の初めてのファンはわたくし」(セリフはうろ覚え) と言ったシーンでは、明確に推しを表明するシーンが描かれています。 つむぎがアイプリリクエストを送った時は匿名、送ったのは自分だと伝えたのは1対1でした。影で支えるささやかな推し方です。私はこっちの方が好きです。
一方、ヴィクトリアは全校生徒の前で宣言しているあたり、個人的には厄介ファンじみていて同じ界隈には居たくないタイプのファンです。……が、彼女は数十年?ぶりに友情の大切さを思い出した劇的なシーンの後ですからね。あの手のひら返しはきっと熱い感動の現れでしょう。
推し活は身を滅ぼすこともあるけれど、自分自身や周囲の人生を輝かせる素敵なものだということを二度と忘れないで欲しいです。
あれ、私もしかしてヴィクトリアのこと……、(頬を赤らめる)
まぁ、私は推しとかいう言葉が割と苦手なのですが……。(カスやん) (脳内では「~が好き」に変換して聞いているので周囲に気遣いを求める発言ではないです) できれば明日は8話以降を観ます。午前2時って何?
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elle-p · 2 years
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P3 Club Book final 2 pages (33-34) scan and transcription.
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とにかく、ガメツイのが印象深かった泉の精トリッシュ。イゴールと並んで皆勤賞?
Qテレビでときどきやっている「偶然見かけた、こんな人」に出てくる人たちは、いったい誰?
ゆ あの人たちは、私たちの大先輩、ってことになるのかな?
美 『女神異聞録ペルソナ』や『ペルソナ2罪』、『ペルソナ2罰』で活躍していた、ペルソナ使いの人たちだ。テレビの様���を見る限り、今は平和に過ごしているようだな。
風 そもそも、レポーターのトリッシユって人も、登場キャラクターのひとりなんだよね?体力回復の泉で、「痛いの痛いのとんでけー」ってやってたみたい。でも、すごい高額な謝礼取られるんだって。
順 オレたちゃ楽だよな~。エントランスに戻れば完全回復だからな。
真 しかし、彼らもペルソナ使いとしての力を持っているのに、今回の港区での危機には動く気配がなかったな······。
美 それは、彼らがペルソナ使いとは限らない、からじゃないだろうか。
真 どういうことだ?
美 企画担当者によると、本作では 「命の本質」を、時空間に何らかの変 化を与えようとする自発作用、 と定表している。 シャドウの能力とされる時空干渉作用は、つまり命あるものなら行使できる可能性がある。
真 力が不要な平行世界を望み······それを実現させた者がいる、と?
美 まあ、あくまでひとつの可能性だ。それはさておき、偉大な先輩がたをちょっと紹介しておこう。どこかで逢えるときに備えて、な。
ゆ 気づいた人いるかな?会える日はすべてその人のお誕生日です。マークが帰国中なのも納得ってカンジ。ブラウン、黒須純、アヤセは残念。
トリッシュの「偶然見かけた、こんな人」 キャラクターファイル
「見るからに姉御肌の二十代の女性でぇす。お姉さんはカメラマンさんですって!愛用のカメラは師匠から託されたものだとか」
4/9に登場するのは、黛ゆきの。通称ユッキー。1作目から登場している女性だ。『罪』ではカメラマン見習いだったが、その後、無事に夢を叶えまた模様。
「黄色いキャップで目立ちまくりの二十代の男性でぇす。海外で、あーとを勉強中のお兄さん。一時帰国中に会えたのは奇跡かも?」
7/11は1作目に登場したマークこと稲葉正男。高校時代からアートとヒップホップを愛していた。『罪』、『罰』で はアメリカ留学中のため出番なし。
「ブロンドヘアーが眩しすぎる二十代の女性でぇす!お姉さんは元アイドルなんですって!そりゃ、信号待ちでもオーラ出まくりだわ!」
5/4に登場するのはリサ・シルバーマン。通称ギンコ。生粋のアメリカ人なのに、母国語はすっかり日本語。カンフー映画好きでインチキ広東語も操る。
「トリッシュの好みで声かけちゃいました!イケメンの二十代の男性でぇす。お兄さんみたいな刑事さんを目指しているんですって」
7/27に登場するのは『罪』の主人公、周防達哉。『罰』にも登場している。高校3年だった当時は兄に反抗していたが、すっかり素直になってようである。
「口元のホクロが魅力的な二十代の女性でぇす。お姉さんはセラビストなんですって。癒されたいですよねぇ」
6/4登場の園村麻希は、1作目から出演。高校時代は体が弱い少女だった。『罪』でカウンセラー見習いとして登場したが、その後、資格を取ったようだ。
「仏頂面の···もとい!え、営業マンの二十代男性でぇす。前髪で隠してるけどわかりますよ、額の傷。壮絶な少年時代がうかがいしれますね···」
8/18登場の城戸玲司は1作目から出演している。ワイルドな不良だったが『罪』では営業成績がよくないサラリーマンに。リストラされてなくて何より。
「サングラスと腰まで伸びた長髪がいかつい三十代のおじ···じゃなくてお兄さんでぇす。 お兄さんに職業をしつこく聞いたらすっげぇ怒られました。怪しいなぁ···」
6/13は、『罰』に登場したパオフウ。 本名は嵯峨薫。盗聴バスターやハッキングなどの裏の仕事を営んでいた。そりゃ、しつこく訊いたら怒られるだろう。
「個性的なショートカットが素敵な二十代の女性でぇす。帰国子女で英語ペラペラ。スタイルもいいし···リアル才色兼備ですね!」
9/21はエリーこと桐島理子。1作目から登場 で、『罰』では大学に通いつつフアッションモデルをしていた。モデルの仕事はまだ続けてるのだろうか?
「知的で勝ち気な雰囲気丸出しの二十代の男性でぇす。スカーフやジャケットの背中にかたどった“1”のデザインは、こだわりなんですって!」
10/2は大人気の南条圭。通称、南条くん。桐条の出自、南条財閥の時期総裁。1作目から出演し、『罪』ではオックスフォード大学に留学中だった。
「青い髪と化粧とギターケースでかっ歩してた二十代の男性でぇす。お寿司屋の修行とバンドを両立するお兄さんは、昨日お誕生目だったとか!」
11/16のお兄さんは三科栄吉。『罪』で登場し、ミッシェル、死神番長、バンツ番長などの異名を持つ。当時組んでいたバンド名は「ガスチエンバー」。
「目の下のホクロで大人の色香全開の三十代の女性でぇす。お姉さんはフラメンコの心得があるそうです。バラの花をくわえちゃったりするのかな?」
11/30 は『罪』『罰』に出演の芹沢うらら。下着メーカーの社員で、男運が悪い。結婚詐欺で自分を騙した男を殴るため、ボクシングジムに通っていた。
「スタイリッシュなスーツの着こなしの三十代の男性でぇす。お兄さんは、お菓子作りが趣味の刑事さんだそうです」
12/30は、『罪』の主人公達哉の兄で、『罰』に登場する周防克哉。熱血刑事だが密かにパティシエに憧れてたという過去がある。猫とカレーライスも好き。
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europiumoon · 1 year
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gm
2週間休息を得たことで元気が出ている。久しぶりの朝投稿。こちらは大雨で仕事に行くのが少し憂鬱。本当なら在宅にしたかったけど、今日締め切りの資料作成を手伝っているものだから出社する。偉い。部署内でコンピュータ、資料作成関連は私に聞けばなんとかなる、の構図が出来上がっていて私はそこまでじゃないので、SNSに流れてくるパワポやエクセルの小技をちょこちょこ頭に入れて応用している。そのおかげでおすすめ欄に、そういった類の投稿しか出てこなくなったけど。資格勉強も再開した。網羅できたらかっこいいんだなと想像して。朝のLINEニュースに単身高齢者増加の話が出ていた。
私は孤独死が無くなる社会にしたいよ。尊厳をなくさないためにも。そのために今の会社に入ったのだから。私の夢。夢を叶えるためにも健康って大事だなと改めて痛感させられた。蕁麻疹の次は踵の炎症なんだけど、健康第一に。
冒頭曲が主題歌だったアイスクリームフィーバー観たかったな。タイミング合わず観れなかったけど、映画はナマモノだなと考えさせられる。
今日の香水はディプティックのドソン。深く雨に似合う香りだと思う。恋人や親には不評だけど、私は好き。
恋人から、俺のこと好きじゃないでしょう、と言われて憤慨した。なんでそう言うこと聞くの、と聞くと、なんとなくと返ってきた。言葉で不安になる私���違う目線でみると、当時彼と出逢ったばかりの私と違くて悲しくなった。気丈な私も泣き虫な私も病に伏す私も全部が私自身なのに。愛だの恋だのは私は及第点も取れないのはただ単に下手なんだなと思う。恋人のこと好きなのよ。でも、重いよな。わからない。
全て上手くいきたい!
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kennak · 2 months
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『ストロングゼロは飲む社会福祉』まことに上手いことを言った人がいるものです。 その言葉を初めてネットで目にした時、私はストロングゼロは卒業し、ペットボトルの焼酎を飲むようになっていましたから、その言葉の意味を理解するどころか、誰よりも体験していたと言えるでしょう。 つまり、毎日毎日飲んだくれていたわけです。一日の半分近くは酔っ払っていたでしょうか。それでも朝から飲むわけじゃありませんから、アル中とまではいかないでしょう。 でね、飲んでいる時に何度か考えたことがあるんです。 お酒が飲めなかったら、自分は一体どうなっていたんだろうって。 飲まない方にどういうことか説明申し上げますと、ストロングゼロやペットボトルの焼酎を飲むような人間はお酒に救われている、酔っ払うことで救われていると考えているのであります。 ですからそのような人間にとって、ストロングゼロは飲める社会福祉というわけです。 その福祉を体質で取り上げられてしまうと私はどうなってしまうのか不安になり、また酒をあおるのでございます。 その日はちょうと七夕でございました。やけに蒸し暑かったものですから、いつもの焼酎をストロングゼロで割って飲んでおりました。こうすると暑い日でも飲みやすくなるんです。 飲みながらネットを見ていると、どこも話題は首長選挙の結果ばかり。 投票締め切りの20時と同時に当確が発表されまして、当選は現職なので予想通りの結果でございましたが、2位と3位は予想外の争いで、こっちの方がずっと盛り上がっている。 2位でも3位でも落選なんだから、私なんかはどうでもいいだろうと思うのですが、ネットの世界はどうもそうじゃないようです。 「あいつに投票したやつはアホ」 「有権者が馬鹿ばかりだから民主主義が成り立たない」 そのような罵倒するような書き込みが無数に見つかるわけです。しかも、ネットのどこへ行ってもですよ。 なんでそんな書き込みをするものなんだろうかと思いましてね、わかりませんよね。共感できない。 でも、そんな時は実際に試すのが一番なんですよ。体験することでわかることがあります。 ストロングゼロもそうでした。どうして飲むのかと体験するうちに、私も毎日飲むようになった。何事も体験しなければわからないものでございます。 ですから私も似たようなものを書いてみました。 「バカだから騙されて投票したんだ」 そうするとですね、不思議なことに気分がぱぁっとよくなったのです。頭の中のモヤが晴れるといいますか。 言葉につられて、まるで自分が強くなったような、偉大になったような気がするのでしょう。 「境界知能」なんて言葉も覚えまして、「お前は境界知能だから当たり前のこともわからないんだ」なんて書いてやると、向こうは黙りこくるわけです。言い負かした。 すると、やっぱり心持ちがよくなってくる。 なるほど。やはり体験してみるとわかります。驚くことに、この頭がすっきりとする感覚はストロングゼロと同じなのでございます。 お酒を飲まれない方、ストロングゼロを必要としない方にはわかりますまい。どうしてストロングゼロのような美味くもない酒を飲むのか。 それと同じで誹謗中傷を不要な方にはわからないでしょう。一方で必要な方もいる。 つまり誹謗中傷は『書く社会福祉』でございます。 そういえば、ネットニュースで読んだことがありました。誹謗中傷で裁判までやって損害賠償が確定しても、相手は支払い能力がないケースが多いというやつです。 目ざとく見つけたんでしょうね、誹謗中傷をすることで自分が救われることに。もしかしたら、お酒が飲めないタイプが「書く社会福祉」を使っているのでございましょうか。 いやいや、私などのように『飲む社会福祉』との併用される方も多いでしょう。 飲みながら『書く社会福祉』の方をしていますと、脳の血流が活発になるような感覚がありまして、酒がよく効いいて、体が軽くなって今にも浮き上がるような、そんな心持になれるのです。 よくいますでしょう。居酒屋で大声をだして説教しているおじさんが。あれと同じような状態になれるのです。 この「書く社会福祉」は今では欠くことのできないものになりました。 飲む方の福祉と違いまして、こちらは朝起きてすぐでも、仕事中でもできますでしょう。 気分が落ち込んだ時に、なんでもいいんです誹謗中傷なら。話題だって政治じゃなくていい。芸能、スポーツはもちろんのこと、一般人の弁当だって、本当になんだっていいのです。 バカだとかアホだとか、そういった簡単な言葉で構わないのです。中身なんて必要ありません。 中にはもったいぶった文面を作る方もいますが、中身なんてございません。結局のところ、バカかアホと書いてあるだけでございます。 『書く社会福祉』というのは結局のところ誹謗中傷であればいいのです。 先陣を切ってバカとかアホとか書きますでしょう。そうすると、ネットの向こうの福祉仲間でしょう。わっと集まってきて、あっという間にバカだのアホだの誹謗中傷で埋まっていくのでございます。 それがまた気持ちのいいのです。 共感される、共感することで私のこころが満ちていくのが感じられるのです。 これほどの福祉があるのに秘密にするわけにもいかず、こうしてお伝えしたのでございます。 どうぞ一度、一度でいいから試してごらんなさい。 コツはただ一つ。世の中は馬鹿ばっかりだと思い込むのです。 福祉を受けると思うとハードルが高く感じられるかもしれませんが、気にすることはございません。 一緒に社会をよくして行こうじゃありませんか。 某怪談コンテストに応募しようと思って書いたけど垢バンされるかもしれないから供養に
実話怪談「福祉」
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