Tumgik
#躁の診断方法
takahashicleaning · 1 year
Text
エピソード8 Episode8 - 知恵が試されるバランスとテーラワーダ仏教の「結び」、マクロ経済学(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
Tumblr media
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です。
1971年に、3人のフィジオセラピスト、つまり物理療法家が、筋肉反射テストの完全な研究を発表しました。
ミシガン州デトロイトのジョージグッドハート博士は、自分の臨床経験を用いて筋肉反射テストの技術を手広く研究し
「指先も含めたあらゆる筋肉の強さ、あるいは衰弱は、筋肉に特定な対応する臓器の健康状態や症状に密接に関連している」と言う飛躍的な発見をしました。
彼は、さらに、各々の筋肉が鍼灸(しんきゅう)で言う「経絡」に関係している事を見出して
「経路」の素晴らしさを医学に応用した医師のフィリックスとともに研究を実らせるにいたりました。
その結果、彼の研究は急速に知られるようになり「応用キネシオロジー国際大学」が創立されるきっかけとなったのです。
それに加え、参加するメンバーの中には「アメリカ予防医学協会」に所属する人たちもいました。
この分野に関する開発が徹底的に知られるようになったのは、1976年にデビットウォルサーによって
応用キネシオロジーに関して詳しく述べられている。かなりの量の書物が発行されたからです。
キネシオロジーに関する最も衝撃的な発見として、まず挙げられるのは、身体が有害な刺激にさらされると筋肉が即座に弱くなることが明確に現れたことです。
特定のどんな筋肉の衰弱も、それに対応する臓器の病(鍼灸と医学診断の検査で確証される)よのプロセスを示したので
キネシオロジーは疾病を見つける上で非常に役立つ臨床道具のようになりました。現在ではデータが膨大に蓄積されています。
さらに、キネシオロジーを精神病患者の診断と治療に使い始めたジョンダイアモンドと言う精神医学博士がいます。
彼はそれをキネシオロジー行動学と呼びました。
博士は、音楽や顔の表情声の調節や情緒ストレスなどの様々な心理的な刺激が有益か有害であるかといったような研究するためのテクニックとして使用しました。
このテストは、何も知らされずにテストをしても、指先も含めた身体が同じ反応を示すことが衝撃的な研究成果でした。
ある封筒に何かの物質を入れて、何も知らない人同士でテストをすると、結局、顕在意識が気がつかなくても
指先を含めた身体は実に正確に答えてくれると言う圧倒的な結論が導き出されました。
したがって、このテストは、誰が行っても再現可能な科学的なテストであり薬物療法と同様に、栄養療法は
躁うつ病、統合失調病、アルコール依存症。及び、うつ病に影響を及ぼすことが可能なのです。
21世紀になるとキネシオロジーテストが発展し、O(オー)リングテストと言うものが生まれました。
これは、親指と人差し指でO(オー)リングを作ることによって、目覚ましい効果を得ることができます。
結果が真実であるときにO(オー)は、強くなり親指と人差し指を引き離すのは困難です。
結果が違っている場合は、比較的弱くなり、簡単に離すことができます。
参考として、このテストで答えを確かめることが現在では最良です。
TVや行政府のトップや法律、宗教や憲法、会社のトップを計測できるので貨幣価値と異なる指標でも検証可能になります。
こちらの方もAppleがO(オー)リングテストをiPhoneやAppleWatchなどで簡単に測定できるように標準搭載すれば
リアルタイムで計測できて、選挙制度にも組み込めば票率の参考指標として、さらに社会システムが向上して良いかもしれません。
この書籍が出た当時、処理能力が低いためホーキンズ博士の書籍を源にしてもiPhoneでは実現不可能でしたが・・・
センサーが小型化されAppleWatchや量子暗号化も実現可能となり
パスキー、高度なセキュリティとシンフォニーしているため
十分、2023年時点の今なら可能です。
世界の人口の15%しか臨界点である200の意識レベルを超えていませんが
その15%の集合的なパワーには、世界の残りの85%のネガティブ性を釣り合わせることができます。
パワーのスケールは、対照的に進むので、実際に1000の意識レベルにいるたった1人の神のごとき存在は
人類のすべての集合的なネガティブに対して完全に釣り合いを取ることができます。
これは、キネシオロジーテストによって示されました。しかし、このレベルの人間は層が薄く持続できません。
2023年現時点の世界人口では、600 の意識レベル700人位。500 の意識レベル9000人位。400 の意識レベル17500人位。
このインターネットもある現代で場の量子論のように相互作用ホットラインを他力というレベルの高い人で満たされた行政府のトップ達が
量子論のボース粒子のように共有すれば、1000の意識レベルにテクノロジーで同レベル位を維持する!
そして、現代では持続的に行う知恵が必要と言う現実的なアイデアです。
同時に1000の意識レベルへの人間の自力での育成も行い増やしていく!!これが人工知能時代に対応した少数精鋭社会の真理。
初めは、とても辛いのですが、自らの人生に責任を取ることで、まずは、エネルギーの低いレベルから200に上ることができます。
それが最も高いレベルのすべての飛び石となるパワーが出現する臨界点です。
現実には、ここに至るまでが、すべてのレベルで最も過酷なため、社会システムが補助金、ベーシックインカムなどの事前分配で保護して
下支えすることがマクロ経済学でも示されてるデータの真の解釈です。
過酷な真実に直面する「勇気」は、次第に大きなパワーが現れる350のレベルである受け入れる「受容」に比較的速く導きます。
ここには、人間の社会問題の大部分を解決することができるくらいのエネルギーを含んでいます。
これは、次第に500のもっと大きいパワーである「慈愛」のレベルに通じています。
それから、自分自身にもまた他の人たち、誰もが人間の弱点に対して「許し」と「慈愛」を引き起こし下支えするのです。
これが、法律内での社会システム行政府のトップへ引き上げ、権力のトップにいるべき資格を持つ人間のレベルです(選挙の選別をゆるく優遇措置)
ここに達してないと、高い透明な社会システムにも関わらず混乱。それと至らない本人には、200以下の地獄界のような試練、無限とも言える終わりなき時空が待ち受けています。
政治の世界では「伏魔殿」などと経験的な概念が古代からあります。
「慈愛」と言う意識レベルは、一神教で言う神の恩恵への入り口です(エピソード5でも言いました)
そうなると私たちは誰であり、なぜここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ、さらにすべての存在の究極の源へと導かれます。
本来、パワーレベルの高い人間にお金が集約していくことが、世界を治める上では、そうだけれども
そうならないのが、人類の歴史で。そこを現代の社会システムであるカントなどが言っている「永遠平和のために」の本の民主主義、資本主義と言う
人工的なシステムで本来の理想に近づけていくことが、これからの人工知能の時代には重要。
つまり、最低年収や最低生活レベルの底上げが必要となります
これは、ジョンロールズの格差原理によると、最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義であるとも言っている根拠で
産まれた環境、才能などでスタートに差が生じてしまう。そこから、成功しても社会システムに頼って成功しているので、恵まれない人に再び分配する必要がある根拠になります。
また、サンデルは徳倫理を重視してます。
警察比例の原則。
世界最初の超大国。古代エジプトは、神の定義を邪悪な権力と誤解したために滅んでしまった!その後、数千年かけて再定義されようとしている。
(202405追記)
ちなみにホーキンズ博士は、メンサの会員でした。
<おすすめサイト>
この世のシステム一覧イメージ図2012
ジョアン・ハリファックス:慈悲、そして共感の真の意義について
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
ディヴィット・チャーマーズ:あなたは意識をどう説明しますか?
パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon
エピソード7 Episode7 - テーラワーダ仏教の「結び」と意識のマップ、マクロ経済学について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
1 note · View note
yaniwaniwa · 2 years
Text
医者に発達障害専門の医療機関にかかることを勧められる。そこで診断を受けろという。またか。と思う。現在鬱と躁鬱と不安と不眠の薬を出されている。一時期ADHDの薬も処方されていた。
自分の病は未だに名前をつけられていない。
奇妙なことに感じられる 医者は私に何を見出して薬を処方している? 病名のつかない人間に?
病名なんて関係がない、ただ症状があってそれを止めるための薬が足される。(効果はないことが多い)病名がつくことは社会福祉の点で必要なことであり、脳は何も変わらない
脳の異常は対症療法しか存在しないのだろう。
苦しみ。
はじめは小学生の頃だった。午後の授業を休んで児童相談所でテストを受けた。結果は知らないが問題はなかったらしい。
高校2年生か3年生でもう一度テストを受けた。発達障害もありえる、という曖昧な答えだった。
周りは自分を人間だと思っているようだが、自分は自分を人間では無いと思っている。
そして今年夏、またテストを受けた。これは社会に出るにあたって己に必要なものだと感じたからだ。そこでも分野別のIQの差は大きいと出たが発達障害か断定できないという結果だった。そもそも知能検査を何回も受けるような奴がまともなわけがない。
モラトリアムはもはや無い。
化物が人間社会の中に入らなければならない時がもうすぐ来る。
0 notes
naotam1 · 2 years
Photo
Tumblr media
#おはよ #イマソラ 08/02(火) 晴 #日光浴 #日向ぼっこ #玄関前 #セロトニン #30分 #治療 #朝食前 #朝散歩 早朝覚醒 気が散漫、下書き書いて投稿忘れ🤣🤣🤣 まぁよき 今日は酷暑だった 2階建2階南西角部屋は、西日と瓦焼けで 熱中症気味 足攣ったり、トイレ多かったり 水分、塩分補給、忘れずに〜 家で勉強してた #双極 #双極性障害1型 #ラピッド #浜松 #睡眠記録 #fitbit #良い1日�� #4日連続軽躁 #医学的には軽躁を抜けた #7日連続すると躁に入る診断も #躁 #躁の診断方法 #頭ぐるぐる #熱中症なのか火照ってるのか躁なのか分からない #ひどい便秘 #便秘薬の頓服漢方少し効いた #気が散漫 #気が散る #でも冴える #根拠がない https://www.instagram.com/p/CgwK46AvAJf/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
Text
0351 名無しんぼ@お腹いっぱい (アウアウウー Sa09-yFjT) 2022/07/31 21:29:49
子どもの頃からぼーっとした子だったんだろうね
勉強も全然ダメだろうし何にも自信持てないで キャバの時は見た目も良かったし稼げたら自己肯定感も上がって強気でいれたんだろうけど
自信の無い人って自分の意見にも自信持てないからすぐ謝ったり折れたりする
自分より相手の方が正しいんだろうと思うんじゃないかな
ID:oxA9qpWXa
0352 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 15b8-sMW4) 2022/07/31 21:52:38
レター先生の雰囲気が変わった&「あの頃より色々視える様になったの」っていうのは何か意味があるのかな
1
ID:7kfTu0e/0
0353 名無しんぼ@お腹いっぱい (バットンキン MMde-BN66) 2022/08/01 05:13:48
>>348
上京したからだと思う
地元にいれば何だかんだ適齢期に結婚してサチコみたいな普通の人生だったんじゃないかな
ID:TOTNxa8RM
0354 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイ fa09-0eUa) 2022/08/01 06:06:49
エミーは確かに田舎にいたらデキ婚しそうな感じではあるけど
家事育児ってそんな甘いもんじゃないからなぁ
社会経験の浅い発達障害持ち母親、当人も子供も大変そうだよ
萌やゆあも地獄だと思ったけど、そのうちホス狂やめればいいっていうシンプルな解決法があるのに対して
エミーって救いがたい、どうしようもないよね
明るく終わって欲しいけどさ
1
ID:nvYvnmDh0
0355 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 2588-l80U) 2022/08/01 06:30:48
いわゆる「理解のある彼くん」と結ばれていたらエミは幸せになってたかもしれないのだけど
若い頃のエミは貢ぎ体質でモラハラな彼くんに惚れてたもんね
理解のある彼くんって包容力あって優しいけどパッと見がさえない感じだから、エミはそういう男をみくだして惚れたりしなさそう
1
ID:FNCKyKIG0(1/4)
0356 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 79e8-NjaX) 2022/08/01 06:52:12
>>352
独立して好き勝手できるようになったという事でしょう
ID:Jk3Zv/aV0
0357 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW d5af-in/Z) 2022/08/01 11:06:18
>>355
たしかに
そして、生きづらさを抱えてるけど見た目だけは良い女の子が理解のある彼くんに救われる漫画は明日カノっぽくないね
明日カノの、男に最終的な救いを求めてないところ好きだよ
そこだけは今も一貫してるね
ID:ku5OhEjD0(1/2)
0358 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 1dd3-d0wC) 2022/08/01 12:02:38
発達発達言われてるけど診断が降りるレベルの発達なら今の勤め先でももっと低次元な段階で躓いて部屋もやばいことになってる気がする
1
ID:3b80lap10(1/2)
0359 名無しんぼ@お腹いっぱい (ササクッテロラ Sp05-in/Z) 2022/08/01 12:31:18
発達というより自分に激甘な自堕落生活・人付き合いを長年続けてたらそれが当たり前になっちゃった感じ
だから仕事が嫌なら普通に飛ぶし、部屋もたまに綺麗にすればいいかな、用事なければ出勤ギリギリまで寝てていいよね、説教してくる奴らより優しくしてくれる男いたらそっち選ぶのが普通だよね(キモいけど)、で20年以上来たのでは
2
ID:RbFC2Az1p
0360 名無しんぼ@お腹いっぱい (ラクッペペ MMee-faM0) 2022/08/01 12:34:07
エミって今は反撃しない美人=ブスのサンドバッグに見えるけど
一応本命を落とせるレベルのバンギャならそこまでトロ臭キャラだったとも思えず
(グルーピーか趣味仲間出の彼氏かわからないけど)
貢いだ彼氏にトンズラされたあたりから騙され続きで尊厳死んだ感じ
攻撃性や躁鬱の有無、あと性格も違うけど
優愛とエミは男運の悪さ込みで似たようなルートを辿ってると思う
優愛はホス狂依存をやめられればセーフだけど破滅も見えてるから
ID:8PvOHt1RM
0361 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 2588-l80U) 2022/08/01 12:34:51
>>358
発達に診断されてる人でも、仕事や勉強や日常生活やひととのコミ��ニケーションをこなしている、健常に近いひともたくさんおるよ
エミよりひどくないと発達じゃないとか、偏見ひどいわー
ID:FNCKyKIG0(2/4)
0362 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 7a88-blLB) 2022/08/01 13:57:30
エミーより年上で、人に言えない仕事してたんだろうなって予想できるのって、雪の母じゃないかな。
ってコメント欄に次章予測書いたけど反映されない感じなのでここに書いてみる。
ID:mQ1YN6v+0(1/2)
0363 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW d67a-/XMk) 2022/08/01 14:45:19
予想は少しでも当たってると作者が同じネタで考えてた時に書きづらくなったりするから嫌がられるよ
1
ID:kSvUWq5t0
0364 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 9928-kgvR) 2022/08/01 14:56:00
>>354
帰る場所がある萌はホス狂やめれたけど
ゆあは金出してでも誰かに依存する関係を止められないんだからそのシンプルな解決法はかなり難しい感じがするよ
エミと同じような未来かそこに行き着くまで長生きしないような感じがする
ID:CntPIXlJ0
0365 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 2588-l80U) 2022/08/01 14:56:05
>>363
それきいたことある
ファンがネットでストーリー予想を語り合うのって作者には迷惑かかってるみたいなはなし
公式サイトではやめといたほうがよさそうだね
1
ID:FNCKyKIG0(3/4)
0366 名無しんぼ@お腹いっぱい (アウアウウー Sa09-NctA) 2022/08/01 15:48:12
父親がまともだったらゆあてゃは普通のかわいい女の子だったのかなと思うと切ない
1
ID:m8KpBxaxa
0367 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 7a88-blLB) 2022/08/01 17:13:37
>>365
原作に迷惑かけたくないので控えるようにしますが、「次章はレター先生!未来ちゃん!捻ってちえママ!」みたいのは予想ですらないんだー、って思った。(思ったことを吐き出したかっただけ)
ID:mQ1YN6v+0(2/2)
0368 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW a691-sMW4) 2022/08/01 17:34:46
エミー叩きコメ不快だったってのよくわかるな
エミーにツッコミ所が多々あるのはわかるけど
リアル女性の同性(特に歳重ねた美人)への残酷さや意地悪さ、マウントがこれでもかと凝縮されてる感じで
作者の絵柄的に微調整が難しいのかもだけど
記号的な老けをやたら強調した容姿描写もなんか不快だったな
それ見て毎回毎回、目尻のシワが!ガリガリのデコルテが!薄い前髪が!ってみじめみじめと指摘してる人たちこそホラーだった
夕日を浴びて泣きながら走るシーンも、風でスカート膨らんでるだけでは?って見える描写に
40代は痩せてても下腹出てるんだよねリアル!って感想いくつも見かけて
そんなとこばっか見てるのこえーよと震えた
リアルで絶対関わりたくない人種よ
ID:KkpzrNnI0
0369 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW d5c3-in/Z) 2022/08/01 17:37:24
>>366
ゆあはなんで援交してるって噂されてたんだろ
あの軽ではるばる東京来たキモ男で初体験だから、無実だよね?
ID:vuvr8sH10
0370 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 7a20-GFQP) 2022/08/01 17:51:18
貧しい家住まいなのに東京に遊び行ったことや
そこそこの進学校に入学できるくらいには勉強できたことから女子間の嫉妬に尾ひれがついた結果だと思って見てた
ID:CNmVVmqU0(1/2)
0371 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 2588-l80U) 2022/08/01 18:11:53
優愛は田舎在住であかぬけて美人だったのと、ほかの女子達と仲良くつるまなかったから、嫉妬であることないこと悪口言われてたんだろうなと思ってる
ID:FNCKyKIG0(4/4)
0372 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 7a20-GFQP) 2022/08/01 18:42:52
孤高で気の強い系の美人はああいう田舎じゃあることないこと言われるよねって説得力は凄かった
ID:CNmVVmqU0(2/2)
0373 名無しんぼ@お腹いっぱい (アウアウウー Sa09-y5OL) 2022/08/01 18:43:12
ゆあは田舎の地味な女子からは色々な意味で浮いた存在だったと思う
ID:Hy7uPqxea
0374 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 1dd3-d0wC) 2022/08/01 20:33:59
どのグループにも私はお前らとは違うんで的な態度取ってるとああなる
垢抜けてるだけで嫉妬で嫌われるとかはない
ID:3b80lap10(2/2)
0375 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW ed7b-7aQP) 2022/08/01 20:46:31
お婆ちゃんやみぽつと話してる所見るとどこにでもいるただの女の子だ
だからこそ父親の存在が悪い意味で大きかった
ID:vTYdNN1C0
0376 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW d5af-in/Z) 2022/08/01 22:04:11
ゆあのお母さんってどんな人だったんだろうね
ID:ku5OhEjD0(2/2)
0377 名無しんぼ@お腹いっぱい (スッップ Sd9a-tabl) 2022/08/01 22:07:19
垢抜けた美人ってだけならむしろ周りから好かれると思うから優愛は田舎者のお前らとは違う私オーラがすごかったんだと思う
1
ID:aZ81C7YMd
0378 名無しんぼ@お腹いっぱい (オッペケ Sr05-d0wC) 2022/08/01 22:10:28
>>377
これ
ID:tzUfKR5Wr
0379 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワッチョイW 0e96-+6yD) 2022/08/01 23:50:43
>>359
145話で注意されたのに30分近くガム取っていた描写でおそらく軽度の  (配慮)だと思ったよ
しかし給料が1/10になったって、仮にバイトが月10万だとしたらソープは100万か
高級とつくのだから不思議じゃないのかもしれないけど
最初からソープなら若い分更に稼げたろうし、
今の惨状をみる限り誰にも貢がずアホみたいな支出をせずに20歳から40歳までガッツリ稼いで楽隠居がベターだったのかも
現実の、20年以上のベテランヘルス嬢をみて思ったわ
ID:m2irueA00
0380 名無しんぼ@お腹いっぱい (オッペケ Sr05-d0wC) 2022/08/02 00:36:05
>>359
そう思う
発達だとしてもそれ自体はライトで本質な感じはしない
エミより酷くないと発達じゃないなんて誰も言ってないしたとえフィクション医者でもないのに発達障害断定する人とか発達前提で話進める人の方が偏見酷い
0 notes
wkmnbipolar · 3 years
Text
3年ぶりの鬱
朝目を覚ますと既に絶望している
普段思い出さないような過去の失敗したこと 嫌なことばかり思い出し振り払ってもやまない
意欲・行動・思考の全てが後ろ向きになり自信が極端に削がれる
身体が重力を感じていて思うように動けない 動かせない 空気が抜けた風船のようでシャンとしない
逆らって動かすと負荷がかかるらしく、おつりがくるみたいに後から余計に身体が重くなり寝込む
信じられないくらい疲れやすい
人と会いたくない
この先なにもかもうまくいかないんじゃないかとなんの気力もわいてこない
鬱になるとだいたいこんな感じ
これはしばらくなんにもしないでいれば回復する 1年なのか 半年か2か月かはわからない
でも抜けないトンネルはない事も知ってる
これは悩みのようで 悩みではない
喜びや快を感じる脳内物質 セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンが行き渡らなくなるとこの状態になる
自然に戻るのを待つ あまり長引くなら薬も使う
時間の経過でこの悩みは消失する この鬱のディテールも一緒に消え失せる
双極性障害は感情障害の一種でそううつ病と呼ばれていた 古典的な病気で 病気でもあり気質でもある
鬱病がストレスが過剰にかかれば誰でもなりうるのに対し 躁鬱は躁鬱に生まれついた人しかかからない 体質のようなもの 遺伝子は直接関係ないと発表されたけどよくわかんないみたい 1〜2%くらいの人がかかる 
完治しないと言われてる 寛解しても再発率は高く 生涯予防のために服薬が必要 鬱でも躁でもない時期は問題なく過ごせる
わたしは27歳で躁鬱病と診断される
周りの人の気分の波とは違う落ち込みや高揚が季節ごとにあるのは気づいていた
その診断の前の鬱は半年間ハッキリとした波でなんとか仕事には行ってはいたけど毎日絶望していて 初めて掃除も料理も出来なくなった 電車を見れば飛び込む事ばかり考えた 酷くなればなるほど 人にその状態を悟られてはいけないと脅迫観念が働き 自力では病院に行くだとか 人に相談するとかは絶対に無理で どんどんどうしたらわからなくなっっていった。あの恐怖は私も鬱になった時にしかどういうものか思い出せないくらい伝えられないものです。
母にすすめられ心療内科へ行き 鬱 と言われ処方された抗うつ剤で 躁転した 休職して実家で療養した 正しい病名がわかるまで4件はしごした 心療内科で躁鬱病を見れる医者がいる事は少ない そういったことも最初は知らなかった 
はっきりとした躁は2ヶ月続きおさまると深い鬱がやってきた これは長く1年以上続いた
治療してるのに浮上せず一生このままなんじゃないかと思うと何の希望もなかった。
ある日突然普通になる。
そこから6年間 躁も鬱も来なかった。
季節ごとの気分の波に悩ませられる事もなくなった。
睡眠が不規則になりお酒が引き金で3ヶ月鬱が来た。
36歳でdjとお酒をやめ 夜更かし生活をやめた。
間もなく靴の修行に入る
過重労働で3年ぶりの鬱
今回はそりゃなるわ 健康な人でも続かないんだからよくやったわという感じ
今回の反省点は もう少し病気の事を考慮しましょうということ。
安定しているからと まるでなかったかのようにするのもやはり違うということです。
双極性障害と仕事の両立はいつも課題でした。
服薬をずっと続ける事
これが わかってはいても いざ健康になると病院に行きたくないし、薬なんか飲みたくないのです。(それでも飲むんだけど、)
ずっと波がなければ病気は治ったんだと思いたくなるのが心理です。
でも再発しないためには飲み続けるしかないようです。
飲み続けていても負荷をかけ過ぎては破綻します。
やり過ぎないようにする事を学ぶ時です。
躁状態というなにもかも振り切った状態を体験しているだけに やり過ぎずに よいものを作ったりすることに疑念や抵抗があると思います。そんな事が可能でしょうか??
可能です。
そんなときは学生時代に習った藤本由紀夫さんを思い出しましょう。
美大という場所には先生でも学生でもよく徹夜する人がいました。〆切に間に合わせるためです。徹夜自慢をする人を無能の証明を自らしているものだと言い、旧来の価値観を誰の目にも明らかに静かにひっくり返し続けていました。自意識を感じさせない既製品を多用する作品群と先生自身もめちゃめちゃクールでした。
洋書屋のNADIFFを辞めた後、藤本さんのaudio picnic展の展示の手伝いをしたことがあります。10年連続、1年に1度開かれる展示でした。
大谷美術館は兵庫県香里園駅にある施設美術館      広大な敷地の展示準備をほぼ3人だけで1週間で行いました。
全ての段取りが組んであり
毎日決まった時間に作業は終了しました。
藤本さんから教わったのは
作品をつくるときに 大きいものをつくろうだとか量で勝負しようだとか とにかくかっこつけないでください 自分が何に気になっているか 表現したい事をつきとめ そこからぶれずに 全ての要素を考え抜いてください という事でした。 本当にそう言ったかは覚えていませんが当時の私はそう受けとりました。
作品を作ることに一生懸命で、どうやって展示するかを考えてないで徹夜で展示台をつくる事に陥らないように 展示台 照明 が必要か?とか、慣習に惑わされるなということです。
整理整頓 時間の使い方 自分の頭で考えぬくこと 当たり前と考えられてる事を疑う 気になったら調べる 
事前に計画的に動けばその必要はないし、半年後〆切のものを放置してたいてい最後の1ヶ月で仕上げる現象について警鐘を鳴らし続けていた。
徹底して徹夜を非難していました。
今になって思えば先生も躁鬱病だったのでは?
と思うほどです。
いえうさぎとカメの🐢の話だと思います。
躁鬱病は神出鬼没
数年音沙汰がなくても完全に気配を消して潜んでいる。これが今回刷新した認識です。
本にいくら生涯の服薬が必要、再発率が高いと書いてあっても
何もない普通の状態が年単位で続いているのに
自分をいつまでも病気の枠に閉じ込めて置きたい人がいるでしょうか?
双極性障害の難しさはここに集約されていると思います。
傍目には普通にみえる事が、普通と同化して生きることが可能なので、さらにコントロールを難しくしています。
可能だけど負荷がかかる。
健康な人だって色々大変だ。
健康な人と決定的に違う点があります。
躁鬱病者は自分の健康状態や心の状況を把握することが極端に苦手なのです。
その環境に同化しようと注意を払うことにエネルギーを使ってしまいます。
結果、小さい自身の変化に気づいてはいても
それを見過ごします。
例えばその環境が極端に人手が足りていなく仕事量が慢性的に増えていれば
わたしだけが大変なのではない。力にならなくてはともう空のエンジンをふかし続けるのも
躁鬱病者の特徴です。
ここでいう いわゆる鬱病になりやすい人の病前性格、生真面目で神経質などというステレオタイプとはまた違います。
躁鬱病者は ただ人に感謝されたい永遠のお調子者です。褒められ続ければ木のてっぺんのなにもないところまで登りつづける空っぽの人なのです。
通院について
安定していれば2〜3ヶ月に1回通院 半年おきに血液検査して甲状腺、腎臓が通常か、薬の血中濃度が保たれてるかをチェックする。
この疾患は自立支援法が適応され1割負担になるので更新手続きを欠かさない。
大きい病院だと先生が変わるときもあるし 他の街に引っ越せば病院を探さないといけない。長く通う事になるからいい医者と巡り会うことが大事。
様々な調整をして飲む薬は、双極性障害の脳にしか作用しない塩の結晶みたいな薬です。
精神科の薬というとイメージがよくないようですが、これは糖尿病の人が血圧を下げる薬を飲むのと同義です。 心が弱い人が飲んでる薬 のようなステレオタイプは消え去るべきだと思います。精神疾患は脳の機能不全です。 
わたしは割と病気についてカジュアルに周囲に伝えてきましたが、たまーに伝わる人がいればラッキーで、殆どの健康な人にとっては関係ないんだろうなーと思うようになりました。
最近では症状が殆どなかったので周囲に伝えるきっかけも失っていたように思います。
仕事となると 病気に対しての言及は職を失いかねないのでよほど信頼しないと言わないし 言わないと行けない場面は通院の時くらいで他の病気にすり変えたりしてやってきました。
仕事の上でこの病気がメリットになることは1度もありませんでした。
病気によってdjが出来なくなり 酒が飲めなくなり クラブに行けなくなりました 友達も減ったように思います。でも仕方ありません。夜更かしをやめ、睡眠リズム、睡眠時間を一定にする事は波を安定させます。
悲しかったです。喪失感で鬱になりました。あがきました。そして靴づくりと出会いました。
しかしこの病気になったことを肯定できる方法があると思いました。
靴づくりを続ける事と メンタルヘルスについて自分が得た知識を役立てる事です。
双極性障害を活かして活躍している人に阪口恭平という人がいます。
いのっちの電話という自殺者を減らすホットラインをひとりでやっています。
わたしはかけたくなったことはあるけどまだ電話していませんが躁鬱大学という本にはとても助けられました。
一流の靴づくりを目指すなら 精神疾患を持っている事は隠すのかもしれません。
わたしは生きて行くために自分の裁量で仕事をコントロールする必要があると考え靴づくりを始めました。
故郷で靴の仕事をするために今修行しています。
ここは療養しに帰る場所のようになっていますが空気も水も土も豊かです。
故郷では一度も躁にも鬱にもなった事がありません。家族がいるおかげなのかもしれません。犬のせいかもしれません。
なにより一生続けられる楽しみをまた見つけられた自分はラッキーです。
今年は人の靴をどんどん作りたいと思っています。あなたの足を測らせてください🥾
3 notes · View notes
elpisinthejar · 3 years
Text
初診
5/11、11:30で初診予約した病院に行く途中で電車を途中下車してのんきに違う街を歩いてから、まずいまずいとパニック一歩手前で電話したけどすごく早い電車にのってたのでセーフだった。完全に健忘が出ている。電話の相手の相談員のお兄さんが感じが悪くてこの時点でヤバいなと思った。
病院の印象は、外は明るいが中が暗くて、こたつの中みたいだなと思った。うつ病の人には落ち着けるのかもしれない。事務員はEQは低く意地悪だが仕事の面ではしっかりしている系の人が多い印象。気持ち悪いなと思ったのは、作業服姿の看護師?が老いも若きも浮ついていて、ナースステーションを見てるとちょっとタガの外れた躁鬱の子供が集まってるような感じだった。ソーシャルワーカー達は、身の置き場がなさそうにちょこまか地味に歩いている。全体的に、ここが機能不全にならずにすんでいるのは金があるからなんだろうなという印象を受けた。もしくは金があるから各人の諸々が出てるのかもな。ネガティブな印象ばかり受けているので、だいぶ追い詰められた気分になっていたんだと思う。
先生には一発で通された。部屋には先生しかおらず、話を書き取る係の人はいなかった。EMDR治療をする先生を探して予約したからか、かんたんに過去を話すとすぐにトラウマ治療の話になった。たぶん他なら、前の病院と同じように境界性かうつ病か社会不安障害と言われただろう。そして、今は回復期にあること(私もそう思うし、今は年末の底つき体験で本格的なPTSD発症の狭窄の状態にあると思う)で、今は休養することが大事で、カウンセリングのフラッシュバックを抑えるためにEMDRを定期的に受けてからカウンセリングの被爆療法をするといいと言われた。先生の第一印象は、この職業で年齢の日本人ヘテロ男性にしてはwell groomedなだけでなく、contained, そして まぎれもなくdominantな感じで I got fricking intimidated. 状況を支配コントロールすることに長けていて、自然と自分の流れを作って相手を乗せることに慣れた人に独自の、人間の尊厳について傲慢な感覚を持っている雰囲気だった。こういう牧師を二人見たことがある。根っこの強い自罰傾向が違う形で表出してるような説教をし、権威に対することは嫌いだが、自分自身で権威を体現することは好きそうな感じだ。そういうのを髪型や服装やメリケンっぽいsit backな座り方、briskな話し方から感じた。前の先生に感じた、性質になるまで訓練されたwelcomingでreassureingな雰囲気はなかった。たぶん、相手の考えや選択を褒める/認める言動をする事で相手に「先生から正しいと認められた」と感じさせたいんだろうなと思った。…けど、私は「にんじんで釣られてんな」と思った。そういうmanipulatingな彼の傾向と利害が一致すれば私は得をするだろうが、問題は、私が彼を信用しきれて委ねられるかということ、また、お互いがsame pageに乗れるかどうかにおいて、彼は彼にとって思い通りにならない私の弱さや私の我の強さを受け入れられるだろうか?(その過程では私に説得力や克己心が必要とされるだろう)ということをリスクとして予感した。
そういうことを考えながら過去のことを話していると、2年は仕事をせず生保をうけて治療しつつ作業所にいくといいと言われて完全にWTF?!だった。奥さんがいるから女性の就労の難しさはわかると言われたが、こっちのヤバい状況をtrivializingしてると思った。それは現実問題として難しい事を話したが、先生の意見は変わらず、また、完全に先生に仕事などのペースの決定を委ねるようpatronizeされて、なんか選択権と自立性をカタに差し出さないと治療できないほどの重篤な問題を抱えてるんだと相当ショックで笑うしかなかった。この、debit & creditの感覚は私の中に根強く存在する偏りなので、これは事実じゃないと思いつつも、その感覚は尊厳を脅かされる惨めさとしてどうしようもなくショックに感じるのだ。これはオカンに、「うちで暮らすにはそれをしないといけない義務なの?」と聞いたあトラウマに起因しているはずだ。あれは彼女が一人子供を殺している分、お前を餓えさせはしないが代わりにお前の腕を食わせろ的な引き換え条件だった。ヒエ〜悪魔
その後ソーシャルワーカーさんと話したけど、彼女はものすごく小さい声で肩を丸めて話す自信のなさそうな、厄介な現実を切り開いてきた人ではなさそうな感じで、文書に書かれたことを繰り返すしかできなさそうだったので力不足なように感じた。ただし彼女も、「生保はどうかと・・・・(黙り込む)」という風に、先生の判断に納得出来ていない様子だった。
疲れ果てて帰ってショックが出てちょっと泣いてポテチ食って15時半頃寝て、22時に起きてサンドイッチ作って食べてまた3時間寝て、明け方15分走って、カスタードを作って食べた。甘いクリームは最高だ。
私は仕事をやめて生保を受ける判断はできない。その状況だと作業所に通っていても、日々に安心が持てないので治療のベースが築けないだろう。そう先生に伝えようと思う。先生は筋肉ムキムキのマッチョが一人、仕事しながら治療に成功したが、彼だけだと言っていた。私もそうなってもいいはずだ。そう思うと、私は自分の中に自信や希望を感じるし、そのためには力になってくれる存在をもう少し確保しないといけない。Uさんにそのうち聞いてもらおうと思った。Uさんに人生を少し引き受けてもらおうと思う。☆さんは、こういうこと理解できなくて見下すかビビるかだろうからやめとこう。
うん、書きながら思ったけど、私は先生に対してかなり冷徹なマキャベリアンの印象を持って恐れているな。オカンの嫌なところを投影してるのかもしれない。
予定どおり寝る時間になったので寝る。自律しつつ休養することを当面の目標にし、Uさんと話す機会を見つけるよう気に留めておく。
1 note · View note
guragura000 · 4 years
Text
自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥���恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し���い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
2 notes · View notes
cobalt-aru · 2 years
Text
浪費のこと
とても恥ずかしいことなのだが、お金を持っていると持っているだけ使ってしまう。それに長年すごく困っている。
全くお金持ちじゃないのに。むしろ貧しいのに。
修士・博士課程の5年間は、奨励金を貰っていたことで逆に気持ちが大きくなってしまい(「少しくらい贅沢しても大丈夫」と思うばかりだった)、お金を使い過ぎて後から支払いに困り、親に立て替えてもらったのも、一度や二度ではない。
だからおそらくその時にお金持ちでも貧乏でも大して浪費癖は変わらないのだと思う。
反省して貯金をしたいと強く思っても、その翌日には平気でお金を使っていたりする。
「将来必要な時のために貯金をする」という概念が頭の深い所に無い感じ。
定期的に買いたい波が発生するのは、主に化粧品や服。一つ一つが安いものでも沢山買えば(当たり前だが)高額になる。
元パートナーに浪費を叱責された時は、日用品(生活費から出る)を多めに買ったり、プチプラ(=安価な)化粧品を内緒で買ったりしていた(レシートや外箱が絶対見つからないように証拠隠滅していた)。それで浪費欲を満たしていた。
多分、軽躁状態の時やストレスや疲労が溜まって発散したい時(←これもある意味軽躁状態だけど)に購買欲が高まるのだと思う。
同じ双極性障害の人でも物欲が無いという人がいると知った時は、心底羨ましいと思った。
これまで楽しんできた趣味も全てお金を使うダメなものに感じ(←極端な思考…)、購買欲を刺激されるSNSはいっそのこと一切遮断したいと思った時は、世の中が灰色に映って、相当きてるな・ヤバいな…と思った。
パートナーにも心配&諭され、私もどうにか治せるなら治したいという気持ちがあったので、二人で相談して、普段は外出に必要な分だけ持ち、残りはパートナーに預けることにした。クレジットカードも極力使わないようにする。
少し話は飛躍するが、障害年金の取得のためには、主治医に浪費家であることを言ってはいけないらしい。
理由は、障害年金申請用の診断書に、本人がお金の管理をきちんと出来ることの度合いだけは必ず「絶対可能」(書いてもらった事がないので文言は曖昧にしか知らないけど…)と書いてもらわなくてはいけないからだそうだ。
そのためには、カルテに"浪費家"や"浪費癖があること"が書かれていてはいけない。
そしてカルテに書かれるということは、患者本人から聞き取りしたということなので、実際に浪費家であっても、打ち明けてはいけない、ということらしい。
でも……「あまり言いたくないのですが…」と前置きして、私は前回の診察で浪費癖(とそれを治すための上記対処法)を白状してしまった。
診察の直前まで迷ったが、言っておいた方が長い目で見て自分の今後の治療方針などのためになると考えたからだ。
このコントロールの出来なさ、どうしようもなさ、そして相談のしにくさは私とパートナーの二人の間だけの話にしておくには深刻すぎると思っていたし、今後カウンセリングや心理療法を受ける際にもこの点を考慮して話をしてくれたり相談ができるかもしれないと思ったのだ。その方が自分の治療にきちんと前向きに向き合えるのではないかなと思った。
もちろん主治医には、将来、障害年金の申請も考えている旨も伝えていた。事情を汲み取ってくれたのか分からないが、聞き流す感じにしてくれた(気がした)。
というわけでいつも念じたり決心したりするものの、昨日も隠れてメルカリで化粧品を購入してしまった(幸運にも(?)パートナーは外出中で買った事も購入品受け取りもバレていない)。
でも諭された時に、「欲しい物にお金を使う事自体は咎めないけど、使ったことをちゃんと報告しなさいね。そうしないとお互いが困るからね。」と言われていたので、やっぱり後ろめたい。今度ちゃんと話そうかな…。
パートナーも色々欲しい物を買ったり趣味に使っているけど、ちゃんと予算範囲内でお金を使っている。
パートナーが私に言いたいのは多分、ちゃんとお金を管理すること(=今どれだけのお金を好きなことに使ってよいのか把握していること)をちゃんと身に付けてほしいという事だと思う。
ちなみに少なくとも母と妹も浪費家なので、遺伝もあるのかも?なんてね…(マジレスすると衝動性は遺伝かも)。
1 note · View note
nyantria · 7 years
Quote
外国人男性急死で問われる日本の「身体拘束」 世界と大きく隔たる現状とは? 杏林大学の長谷川教授は「おそらくサベジさんの死は氷山の一角」と危惧する。 日本で英語教師として働いていたニュージーランド人のケリー・サベジさん(27)が神奈川県の精神科病院で入院中に急変し、死亡した。死亡と入院中の「身体拘束」の関連性が疑われている。 サベジさんは2010年頃から精神病の治療をしていた。2015年に来日し、英語教師になったが、副作用の問題があり服薬が不規則になる。2017年3月頃から服薬を止め、再度、精神病の症状が出始めた。4月29日から30日にかけて、横浜にある兄の自宅で断続的に「大声で叫ぶ」「外に走り出る」など躁状態になった。 一度サベジさんは警察署に連れて行かれ、横浜市職員に神奈川県大和市の精神科病院「大和病院」を紹介された。その後、強制的に入院する「措置入院」をすることになった大和病院で「躁うつ病」と診断される。遺族によれば、サベジさんは同院の閉鎖病棟の施錠可能な個室に入室し、足・腰・手首を拘束された。 サベジさんの兄によれば、同院看護師に「拘束の必要はないのではないか」と聞くと、「とりあえずしばらく拘束される」と言われ、そのためにオムツ付きのパジャマセットを購入することになったという。心肺停止状態で発見されるまで、足と腰の拘束は体を拭くなどの時以外では解かれなかったそうだ。 BuzzFeed Newsの取材で、大和病院に入院した4月30日から死亡した5月10日までに10日間の身体拘束を受けていたこと、容態が悪化して搬送された大和市立病院で「抑制により深部静脈血栓ができて肺梗塞に至り、心肺停止となった可能性」を推定されたことがわかっている。 しかし、大和病院は死亡と身体拘束の関連を否定。死亡は不可抗力であり、「適時拘束は中断されていた」と主張している。遺族側がそのことを確認できる看護記録の閲覧を求めたところ、同院は「プライバシーの問題」を理由に、7月19日現在、それに応じていない。 「ニュージーランドの医師は、弟の身体拘束について“残念”“ニュージーランドだったら身体拘束はされなかったのに”と言っていた」サベジさんの兄はBuzzFeed Newsの取材にそう打ち明けた。 そもそも、日本における身体拘束とは、精神保健福祉法に基づき、止むを得ない場合に認められる処置。人権侵害の可能性が指摘されており、同法についての厚生労働省の告示でも「できるだけ早期に他の方法に切り替えるように努めなければならないものとする」と明記されている。 患者が対象となるのは、主に1. 自殺企図または自傷行為が著しく切迫している場合、2. 多動または不穏が顕著である場合、3. 精神障害のためにそのまま放置すれば患者の生命にまで危険が及ぶおそれがある場合。また、その間は身体的拘束が漫然となされることがないように、医師は頻回に診察を行うものとされる。 では、その実態はどうなっているのか。サベジさんの遺族による記者会見に同席した杏林大学保健学部教授の長谷川利夫氏は、日本の精神科医療における身体拘束を“ブラックボックス”と表現した。2017年の厚労省による調査結果(2014年6月30日時点)によれば、身体拘束中の患者は1万682人と過去最高になっている。 長谷川氏によれば、諸外国の身体拘束の平均継続時間は数時間〜数十時間ほど。例えば、アメリカのカリフォルニア州は4時間、ペンシルベニア州は1.9時間、ドイツは9.6時間、フィンランドは9.6時間、スイスは48.7時間。遺族によれば、サベジさんもニュージーランドで入院した際には、身体拘束を受けていなかった。 一方、長谷川氏が2015年に日本の11の医療施設について実施した「身体拘束の平均継続期間の調査」によれば、その平均は約96日(約2300時間)に及んでいたという。その一因として「精神科医療の現場に“とりあえず身体拘束をしておこう”という発想があるのではないか」と同氏は指摘する。 「おそらくサベジさんの死は氷山の一角」と長谷川氏は危惧する。サベジさんの遺族と長谷川氏は19日に「精神科医療の身体拘束を考える会」を設立した。 長谷川氏は長らくこの問題を訴え続けてきたが、「改善されるどころか悪化している」という。そして「おそらくサベジさんの死は氷山の一角」とした。19日の会見では、サベジさんの死をきっかけにした「精神科医療の身体拘束を考える会」の発足が発表された。 同会は、日本の身体拘束についての情報を限りなく多く集めること、それを広く知らせていくことを目的に活動する。今後は国内外で署名活動を行い、その結果とあわせて、総理大臣と厚生労働大臣に「人権侵害の調査」や「実施状況の検証」などを求める申し入れをするという。 「日本の身体拘束は世界的に見ても異常な状況です。サベジさんのご家族のような遺族の方、今も苦しんでいる患者の方、関心を向けてくれる方など、ぜひみなさんと一緒に、身体拘束の是非について考えていきたい」(長谷川氏) サベジさんの兄は会見で、「唯一の兄弟であり、一番の友人だった」というサベジさんについて、声を詰まらせながら、次のように語った。 「身体拘束は非人道的で、そもそも弟には不要だと考えていましたが、まして心肺停止の原因になり得るとは思ってもみませんでした。弟の死は例外的な事件ではありません。弟の身に起きた悲劇を、もう二度と繰り返してはいけません」
外国人男性急死で問われる日本の「身体拘束」 世界と大きく隔たる現状とは? https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/shintaikosoku-zehi?utm_term=.saMLdA7dV#.amw8avqar
3 notes · View notes
Text
正しく働かない脳
Tumblr media
2019年2月 号
2019年(平成31年)2月9日
第154回アミュゼ柏相談会資料
正しく働かない脳
統合失調症(schizophrenia)
 1.陽性症状
 妄想(被害関係妄想、注察妄想、追跡妄想、被毒妄想)や、幻覚(幻聴、幻視)などです。
 たとえば、第三者同士が本人を観察し詮索しあっているという対話形式の幻聴、患者の挙動にいちいち口をはさむ幻聴、患者に話しかける幻聴。話しかけに対する患者の応答反応は、独語、空笑いのように観察されます。
 させられ体験(操られるままに考え行動してしまい、これに抵抗することが出来ない)、思考察知(自分の考えが相手に知られている)、思考伝搬(自分の考えが世間に知れ渡っている)、思考吹入(思考を吹き込まれる)、思考奪取(考えを抜き取られる)などがあります。また、思考のまとまりが悪くなり、極端な場合は、支離滅裂な思考、非論理的呪術的な思考となります。
 感情の面では、「打てば響く」ような共感が無くなり、これは疎通性障害と呼ばれます。そこから生ずる独特の冷淡なよそよそしさ、いわゆる統合失調症らしさが、患者の印象全体を覆っていきます。感情の鈍麻や浅薄化、状況にそぐわない不自然な感情の動きなどです。
 緊張病症状というものもあります。緊張病性の興奮と昏迷の両極端が時間的に劇的に交代して現れるものです。意志発動の亢進、及び低下の現れと考えられる。
 このように、統合失調症では、精神機能の様々な面で、現実世界や他者との生きた接触が損なわれていきます。ミンコフスキーE.Minkowskiは、これを「現実との生ける接触の喪失」と表現しました。ウジューヌ・ミンコフスキー(Eugene Minkowski):1885年、ロシア、サンクトペテルブルグ生まれ、ポーランド系ユダヤ人の両親を持つ。20世紀にフランスで活躍した精神科医。著書、”精神分裂病”で著名。
 2.陰性症状
 陰性症状は正常な精神機能が減弱欠如してしまうもので、感情の鈍麻、平板化、意欲と自発性の欠如、会話の貧困、寡動、社会的ひきこもりなどです。
 
 うつ病(depression)
 うつ病は、次のような症状が特徴的です。
必須①抑うつ気分。毎日一日中、気分の落ち込みが2週間以上続く。
必須②興味・喜びの喪失。毎日一日中、何事にも興味が持てず、楽しいはずのことが楽しめない。このような状態が2週間以上続く。
③2週間以上、よく眠れていない。
④食欲が落ちて体重が減少する。(逆に、食欲が亢進して体重が増加する。)
⑤疲れやすい。ほんの少し働いただけで、2日間ぐらい寝込む。
⑥自責感。自分は駄目な人間だ、皆なに迷惑をかけているなど自分を責める。
⑦思考力、集中力の低下。いつもは普通に決められる事が決められない。
⑧生きていてもしかたがないと思う。
⑨動作が緩慢。動きや反応が遅くなる。
精神科医 加藤忠史さんはうつ病診断基準を次のように述べています(参考文献(1))。
1.『必須①、必須②のうち、どちらかが必ずある』
2.『必須①から⑨迄のうち、5項目以上該当する』
3.『これら症状が毎日一日中、2週間以上にわたって続く』
これら三条件が当てはまる場合、うつ病と診断されます。あなたは如何ですか?
Tumblr media
第1図 不安障害、うつ病、双極性障害、統合失調症、境界性パーソナリティ障害、発達障害の概念図
  数あるパーソナリティ障害を代表して、境界性パーソナリティ障害を示しています。 
  双極性障害(bipolar disorder)
 双極性障害は、以前は躁うつ病と言われていました。躁状態(ないし軽躁状態)と、うつ状態の組み合わせを1サイクルとし、生涯これを何回も繰り返す病気です。
 躁状態:気分が病的に高揚して、ハイテンションになった状態。しばしば睡眠さえ取らず活発に活動して、楽しいことに熱中します。爽快な気分で新しい発想が次々と湧いてくる。意欲が亢進する。また反面、注意散漫で仕事の完成が困難となる。高圧的で落ち着きが無く、不機嫌で怒りっぽい、一度起こりだすと手がつけられないほど激昂します。
 また、冷静な判断力が失われ、過度の浪費をしてしまう。他人への攻撃性が増して、時に職場や家庭での人間関係に破滅的トラブルを来します。
 重症になると興奮して反社会的行為に至る事もあります。
 こうした状態が1週間以上続く場合、躁状態の疑いが強くあります。
 軽躁状態:躁状態と同様の症状が現れますが、症状が比較的軽く、職場や家庭での人間関係を破滅させるほどではない状態。時には仕事の能率が上がり、周囲の人を感心させる事もあります。周囲の人が本人の軽躁状態に気づかない場合もあります。こうした状態が4日以上続くと軽躁状態と言えます。
   双極性障害には、Ⅰ型とⅡ型があります。
双極性障害Ⅰ型:強度の強いはっきりとした躁状態とうつ状態を1サイクルとして、周期2年間程度で繰り返すタイプ。
双極性障害Ⅱ型:軽躁状態とうつ状態を1サイクルとして、周期1年間以下で繰り返すタイプ。特定の季節になると、軽躁とうつの転換が起こりやすい。Ⅱ型の場合、本人も周囲も軽躁状態に気づかずに、うつ状態のみが目立って、うつ病と誤診されるおそれがあります。双極性障害の薬とうつ病の薬は異なるので、誤診されてうつ病の薬を飲み続けると、双極性障害が遷延化しますから気をつけなければいけません。
 自殺の危険性:双極性障害のうつ状態では、患者の自殺のリスクが高まると言われています。躁状態から回復した後に、躁状態の時の行動を後悔し、うつ状態の時にそれを苦にして自殺念慮が高まるからです。周囲の人の配慮が大切です。
 神経症(neurosis)
 神経症(近年は不安障害という)は、過度の不安、ヒステリー症状、恐怖症、強迫症状、抑うつ状態などを示す障害であり、そこには明らかな身体の病気は見られず、また、統合失調症のような妄想・幻覚なども無い精神疾患です。神経症には、以下に述べるように様々の病態があります。
1.パニック障害(急性不安障害)
 パニック障害は、激しい動悸、胸痛、窒息感などの症状が予期できない形で突然発生します。発作は数分~数10分で治まりますが、このような発作が何回も繰り返して起こります。発作が起こる背景には、疲労の蓄積、睡眠不足、不規則な生活などがあります。発作を抑えるのに、抗不安薬や抗うつ薬(三環系、SSRI)が有効とされています。
 2.全般性不安障害(慢性不安障害)
 周囲の状況とは関係なく、主観的不安感が毎日のように持続する症状を言います。例:自分や家族が病気や事故に遭うのではないか、失業するのではないか等。同時に、発汗、動悸、振戦、緊張性頭痛等を伴います。女性に多いとされます。
3.恐怖症
 恐怖症は、現実には何の危険も無い対象・状況に対して、強い恐怖感を抱く精神疾患です。恐怖に伴う身体症状として、心悸亢進、発汗、吐きけ、振戦、失神があります。恐怖症では、恐怖の元となる対象や状況を避けようとする回避行動が起こり、社会生活を円滑に営む事が出来なくなります。又、しばしば強迫行為を伴います(例:不潔恐怖による洗浄強迫)。恐怖症には、次の三つがあります。
 (1)広場恐怖(agoraphobia)
 広場恐怖は、文字通りの広場ではなく、何かあった場合に助けを求められない場所や状況に対する恐怖です(例:乗り物の中、閉所空間、人混みの雑踏等)
 (2)社会恐怖(social phobia)
 社会的・社交的状況、特に比較的少人数の集団内で、注目される事に対する怖れが中核をなし、そ���ような状況を回避する結果、学業や職業の機能が低下してしまいます。その要因として、自己評価の低さ、周りの人の自分に対する批判に対する怖れが関連しています。赤面、尿意頻回、視線恐怖、対人恐怖等が起こります。
 (3)特定の対象・状況に対する恐怖
 特定の生きもの(蛇、蜘蛛、昆虫、鳥、蛙等)、特定の状況(雷、飛行、暗闇、高所、公衆便所での排便排尿、特定の食物、血・傷害の目撃、エイズなどの罹患、自然災害のニュースに接すること)、によって生ずる恐怖。特定の対象・状況に対する恐怖は、恐怖症の中で一番多いです。
 4.強迫性障害(obsessive-compulsive disorder)
 強迫とは、ある観念や衝動が、自分の意志に反して執拗に意識に上り、それをばかばかしいと思いながらも止める事が出来ない、そして、これらを敢えて抑えようとすると、かえって強い不安が起こる、という一連の流れを指します。強迫行為は、強迫観念を打ち消し無害化するために行われます。
 (1)不潔・汚染の強迫観念、これを打ち消す為の洗浄が強迫行為。たとえばドアのノブに触ったら手を洗われずにいられない。
 (2)安全確認行為。ガス栓を閉め忘れたのではないか。玄関の鍵を染め忘れたのではないか、と何度も何度も確認する強迫行為。
 (3)行為の儀式化
 生活上の行為を自分が決めた手順の通りに行わないと不安になる。例:手順通りに食事をする、外出する際、洋服を着る、靴を履く、手順通りにしないと最初からやり直すなど。
 (4)性的に卑猥な言葉、相手に対する攻撃的な言葉などが反復して頭に浮かぶ。
  強迫性障害には薬が有効です。抗うつ薬(三環系のクロミプラミン、SSRI)が効きます。
 5.ストレス障害
(1)適応障害(adjustment disorder)
 適応障害は、ストレス因子に反応して3ヶ月以内に、情緒、行動の面に症状が現れ、社会的機能が失われるものを言います。ストレス因子は、若年者では学校の問題、親の不和・離婚、成人では結婚、離婚、引っ越し、経済問題、職場の問題等。国際的問題としては、迫害、移住、亡命、難民化等。主たる症状は、抑うつ、不安、行動の障害が、生活に伴います。ストレス因子が除去されると、6ヶ月以内に症状は消えていきます。
 (2)外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder,PTSD)
 日常生活の範囲を超えた異常な事態、戦争、自然災害、火災、交通事故、暴力、強姦など、生命の安全が脅かされた場合、人は誰でも非常に強い感情を伴うストレスを受けて精神的に病的な状態に陥ります。これを外傷後ストレス障害(PTSD)と言います。従軍兵士が戦場から帰国後、重篤な精神症状を示すことは、戦争神経症としてよく知られていました。
  PTSDの典型的な症状として、以下のものがあります。
(イ)夢の中、あるいは覚醒時に外傷体験を再体験する。
(ロ)外傷体験を想起させる事柄を何時も避ける。
(ハ)睡眠障害、怒りやすい、驚愕反応。
 6.転換性障害(conversion disorder)
 転換性障害は以前、ヒステリーと言われていました。随意運動機能の異常を起こすもので、失立(立つことが出来ない)、失歩(歩くことが出来ない)、失声(声が出ない)、チック(突発的、無目的、不随意(ふずいい)に急速な運動や発声が起きるもの。子どもに多く、まばたき、首振り、顔しかめ等)等が起こります。
また、感覚機能の異常(知覚脱失、疼痛など)がありながら、原因となる身体疾患が見あたらない場合があります。発症の原因として、心理的葛藤、ストレス因が関与しています。
 解決不能の事態に対する葛藤から生じる不快な感情が、身体症状化したものと考えられています。身体の麻痺、視覚障害、無言状態などが、転換症状として良く見られます。
 7.解離性障害(dissociative disorder)
 解離性障害は、身体に器質的な異常が無いのに、意識や同一性の障害が起こります。
解離性健忘:心的外傷となる様な出来事に遭遇して、その後、その出来事を想起できなくなること。
解離性同一障害:いわゆる多重人格のこと。複数の人格の状態を行き来する事が長期にわたり継続します。解離性障害のうち、もっとも重症で慢性的症状です。
 8.摂食障害
(1)神経性無食欲症
 思春期やせ症と言われています。発症年齢は13歳~20歳の未婚女性に多い。主な症状は、摂食拒否と高度のやせです。患者は「食欲がない」と言って食事を拒否し、急速に体重が減少します。やせていても本人は「まだ太っている」と主張し、食べないで活動します。性格は、自己中心的、強情、頑固、負けず嫌い、他人に厳しい、ところがあります。
 (2)神経性大食症
 神経性大食症も若年女性に多く、神経性無食欲症よりやや遅れて、10代後半~20代前半に発症します。症状の特徴は、
(イ)はっきりした”無茶食い”を繰り返して行っている。
(ロ)摂食行動を自己コントロール出来ない。
(ハ)体重増加や体型に過度の関心をもっていること。
 ”無茶食い”の後は、自己嫌悪、罪悪感、抑うつ気分を生じます。神経性大食症の背景には、思春期の人生課題を遂行する事に困難を抱えて、悩んでいる事情があります。
  パーソナリティ障害(Personality Disorder)
1. 妄想性パーソナリティ障害(Paranoid Personality Disorder)
 他人の動機を悪意のあるものと解釈するといった,広範な不信と疑い深さが、成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。 以下のうち4つ、またはそれ以上によって示されます。
 (1)十分な根拠もないのに,他人が自分を利用する,危害を加える,または騙すという疑いをもつ。
 (2)友人または仲間の誠実さや信頼を不当に疑い,それに心を奪われている。
 (3)情報が自分に不利に用いられるという根拠のない恐れのために,他人に秘密を打ち明けたがらない。
 (4)悪意のない言葉や出来事の中に,自分をけなす,または脅す意味が隠されていると読む。
 (5)恨みをいだき続ける。つまり,侮辱されたこと,傷つけられたこと,または軽蔑されたことを許さない。
(6)自分の性格または評判に対して他人にはわからないような攻撃を感じ取り,すぐに怒って反応する,または逆襲する。
 (7)配偶者、または性的伴侶の貞節に対して,繰り返し道理に合わない疑念をもつ。
 【妄想性パーソナリティ障害の事例】
訴訟好きの人。配偶者の貞節を何の根拠もなく常に疑う人。持続する強い猜疑心を持つ人。
 2. シゾイドパーソナリティ障害(Schizoid Personality Disorder)
 社会的関係からの遊離,対人関係状況での感情表現の範囲の限定などの広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち4つ、またはそれ以上によって示されます。
 (1)家族の一員であることを含めて,親密な関係をもちたいと思わない,またはそれを楽しく感じない。
 (2)ほとんどいつも孤立した行動を選択する。
 (3)他人と性体験をもつことに対する興味が,もしあったとしても,少ししかない。
 (4)喜びを感じられるような活動が,もしあったとしても,少ししかない。
 (5)第一度親族以外には,親しい友人または信頼できる友人がいない。
 (6)他人の賞賛や批判に対して無関心に見える。
 (7)情緒的な冷たさ,よそよそしさ,または平板な感情。
 【シゾイドパーソナリティ障害の解説】
 シゾイドパーソナリティ障害の人は、生涯にわたる社会的ひきこもりと極端な内向性を特徴とします。親密な人間関係に対する欲求を欠き,常に孤立して行動することを選びます。他人の賞賛や批判に関心を示さず,親兄弟以外には親密な関係を持ちません。職業も対人接触の乏しいものを選びます。冷たくよそよそしい印象を与え,しばしば家族に対してすら冷淡であるが,意図された攻撃性としての冷たさではなく,そもそも対人関係に喜びを感じないのです。怒りを現すことは滅多になく性体験に対する興味は極めて乏しい。
 3. 失調型パーソナリティ障害(Schizotypal Personality Disorder)
親密な関係では急に気楽でいられなくなること,そうした関係を形成する能力が足りないこと,および認知的または知覚的歪曲と行動の奇妙さのあることの目立った,社会的および対人関係的な欠陥の広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち5つ、またはそれ以上によって示されます。
 (1)関係念慮(関係妄想は含まない)、関係念慮:例として、教室の後ろで同級生3~4人が話し合っていると、自分の噂をしていると感じる。
 (2)行動に影響し,下位文化的規範に合わない奇異な信念,または魔術的思考(例:迷信深いこと,千里眼,テレパシー,または“第六感”を信じること;小児および青年では,奇異な空想または思い込み)
 (3)普通でない知覚体験,身体的錯覚も含む。
 (4)奇異な考え方と話し方(例:あいまい,まわりくどい,抽象的,細部にこだわりすぎ,紋切り型)
 (5)疑い深さ,または妄想様観念
 (6)不適切な,または限定された感情
 (7)奇異な,奇妙な,または特異な行勤または外見
 (8)第一度親族以外には,親しい友人または信頼できる人がいない。
 (9)過剰な社会不安があり,それは慣れによって軽減せず,また自己卑下的な判断よりも妄想的恐怖を伴う傾向がある。
 【失調型パーソナリティ障害の解説】
 「魔術的」などと形容される奇異な思考や独特の信念,関係念慮(例:教室の後ろで同級生3~4人が話し合っていると、自分の噂をしていると感じる),妄想様観念などを持ち,疎通性(話が通じること)が障害されがちです。このため安定した社会関係や親密な人間関係を持つことが難しいです。社交場面で強い不安を持ちますが,それは自己卑下よりも妄想的恐怖に結びつきやすいからです。魔術的思考には,迷信深さ,テレパシー・予知能力を信じること,現実にありえないそのほかの思い込みなどが含まれ,いずれもその人が属する下位文化の常識から逸脱したものです。
 4. 反社会性パーソナリティ障害(Antisocial Personality Disorder)
他人の権利を無視し侵害する広範な様式で,15歳以降起こっており,以下のうち3つ、またはそれ以上によって示されます。
 (1)法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
 (2)人をだます傾向。これは繰り返し嘘をつくこと,偽名を使うこと,または自分の利益や快楽のために人をだますことによって示される。
 (3)衝動性、または将来の計画を立てられないこと。
 (4)いらだたしさおよび攻撃性。これは身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
 (5)自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
 (6)一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない,または経済的な義務を果たさない,ということを繰り返すことによって示される。
 (7)良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり,いじめたり,または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり,それを正当化したりすることによって示される。
5. 境界性パーソナリティ障害(Borderline Personality Disorder)
 対人関係,自己像,感情の不安定および著しい衝動性の広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち5つ、またはそれ以上によって示されます。
(1)現実に,または想像の中で、見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力。 
(2)理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる,不安定で激しい対人関係様式。
(3)同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像または自己感。
(4)自己を傷つける可能性のある衝動性で,少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費,性行為,物質乱用,無謀な運転,むちゃ食い)
(5)自殺の行動,そぶり,脅し,または自傷行為の繰り返し。
(6)顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2~3時間持続し,2~3日以上持続することはまれな,エピソード的に起こる強い不快気分,いらだたしさ,または不安)。
(7)慢性的な空虚感。
(8)不適切で激しい怒り,または怒りの制御の困難(例:しばしば、かんしゃくを起こす,いつも怒っている,取っ組み合いの喧嘩 を繰り返す)。
(9)一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離性症状。
 【解説】
 まず特徴的なのは,人とのかかわりが非常に不安定で,人の評価が,すばらしくいい人からすばらしく悪い人へと簡単に逆転するような,非常に不安定な対人関係をもっています。
 それから,衝動行為が多い。衝動行為として薬物噂癖,摂食障害,つまり過食や拒食や,買物依存とか,万引きもあります。
 それから,自殺企図か,見せかけの自殺が多い。「手首を切ってしまった」と人に見せに来るとか,「これから死にますから」と連絡しておいてから薬を飲むとか,いろいろ人騒がせな自殺未遂がみられます。
 また,感情の浮き沈みが激しい,落ち込んだときというのはうつ状態に似ているけれども,うつよりも期間が短い。多くて2,3日,短ければ2,3時間ぐらいでまた立ち直る。そういうスパンの短いうつ状態が起こる。
 それから,自我同一性の混乱がある。それは自己表象が逆転したり,不安定だからです。また,空虚感,独特のむなしさを抱えています。
【事例】原始的投影性同一視とストーカー行為
 境界性パーソナリティ障害の人は、原始的投影性同一視という防衛機制を使います(注1)。原始的投影性同一視というのが恋愛のほうで起こると,ストーカーになります。投影だけなら一人で思っているだけですが,投影性同一視になると,「どうもあの人は私のことを好きらしい。じゃあ私もあの人を好きになって,花束を届けましょう。カードを届けましょう」ということになる。相手は身に覚えがないのに付け回されて,「いらない」と言うのにいろいろなことをしてくれる。そういうストーカー現象になるわけです。引っ掛かりやすいのは恋愛です。原始的防衛の作用で熱烈に愛してくれる人だったりしますから,恋愛の相手も,最初はたいへんうれしいのですが,だんだん変だなと思うようになります。また,二者関係(注2)ですからすごくしつこく「絶対に自分のほうだけを向いてくれなければいやだ」みたいなことを言いはじめるとか,四六時中携帯電話で追い回すということになってくると,だんだん相手がうるさがったり,嫌そうな態度をとると,今度は悪い表象を相手にかぶせて見ますから,待ち伏せして恨み言を言うとか,執拗な攻撃が始まってきてしまいます。そういう目にあうことになりますから、特に女性は交際相手の男性が境界性パーソナリティ障害の持ち主でないかどうか、十分に気をつけないといけません。
 
注1:①投影とは、自分の中にあると認めるわけにはいかない欲動や感情を、自分の中にあるのではなく、他の人のほうにあると思うこと。EX.1 自分はAさんを本当は嫌っている。しかし、それを認めたくないので、Aさんが自分を嫌っていると感じる事、すなわち向け換えです。EX.2 自分はBさんに本当は異性感情をもっている。それを認めたくないので、向け換えしてBさんの方が自分に異性感情をもっているとすること。②投影性同一視とは、EX.1のように、本当は自分がAさんを嫌っているのに、Aさんのほうが自分を嫌っていると感じる。その嫌われているという感情に同一化して、自分のほうから働きかけ、関わりをしてしまうこと(たとえばAさんが会社の同僚なら、Aさんの足を引っ張る様な言動を取る)。③原始的投影性同一視:「原始的」というのは、分裂の機制が働くことです。すなわち、人や物事を見るとき、”100%良い”、あるいは”100%悪い”とう表象をかぶせて見ることです。欲動や怒りの程度が激しい性質を帯びます。
注2:二者関係:人間関係において、「私とあなた」と言う関係しか認識できないことです。この対となる概念が三者関係で、「私とあなたとあなたの友」と言うように、第三者の存在を認めることです。幼児は二者関係しか認識できません。お母さんは私とだけ関係している、と思っています。
 6. 演技性パーソナリティ障害(Histrionic Personality Disorder)
 過度な情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち5つ、またはそれ以上によって示されます。
(l)自分が注目の的(まと)になっていない状況では楽しくない。
(2)他者との交流は,しばしば不適切なほど性的に誘惑的な,または挑発的な行動によって特徴づけられる。
(3)浅薄ですばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象的だが内容がない話し方をする。
(6)自己演劇化,芝居ががった態度,誇張した感情表出を示す。
(7)被暗示的,つまり他人、または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。
 7. 自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic Personality Disorder)
 誇大性(空想または行動における),賞賛されたいという欲求,共感の欠如の広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち5つ、またはそれ以上によって示されます。
(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する,十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
(2)限りない成功,権力,才気,美しさ,あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
(3)自分が“特別”であり,独特であり,他の特別な、または地位の高い人達や団体にしか理解されない,または関係があるべきだ,と信じている。
(4)過剰な賞賛を求める。
(5)特権意識,つまり,特別有利な取り計らい,または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
(6)対人関係で相手を不当に利用する,つまり,自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない,またはそれに気づこうとしない。
(8)しばしば他人に嫉妬する,または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
(9)尊大で倣慢な行動,または態度。
 【解説】自己愛性パーソナリティの各項目とも、誇大な自己感覚、賞賛されたいという欲求、共感力の低さ、と言った心理的特性を指標としている。
【事例:他者からの是認がとりわけ気になる】
 Aさんは,人の視線が気になると訴えて外来を受診した。問題は中学生時代から始まっており,教室の中で教師や同級生と視線を合わせることが困難である。自分の視線が相手を傷つけて,その結果,攻撃的な人間だと思われて,相手から嫌われるのではないかと恐れて,視線をそらしてしまう。彼にとっては,他者を攻撃することがないがゆえに誰からも愛される,そうした自己が理想であった。やがて,視線だけが問題なのではなく,根底にある他者からの是認を失う不安が心理療法のテーマとなった。米国の精神分析家コフート(H.Kohut)は、1970年代に、”自己愛”イコール”自己評価”として捉え、臨床的にも理論的にも徹底させた。Aさんの場合、自己愛は隠されていて表には出てこないが、自己評価を高く保ちたい、他者からの是認を失いたくないと言う思いは、まさに自己愛的である。
  8. 回避性パーソナリティ障害(Avoidant Personality Disorder)
 社会的制止,不全感,および否定的評価に対する過敏性の広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち4つ、またはそれ以上によって示されます。
(1)批判,否認,または拒絶に対する恐怖のために,重要な対人接触のある職業的活動を避ける。
(2)好かれていると確信できなければ,人と関係をもちたいと思わない。
(3)恥をかかされること,または馬鹿にされることを恐れるために,親密な関係の中でも遠慮を示す。
(4)社会的な状況では,批判されること,または拒絶されることに心が囚われている。
(5)不全感のために,新しい対人関係状況で制止が起こる。
(6)自分は社会的に不適切である,人間として長所がない,または他の人より劣っていると思っている。
(7)恥ずかしいことになるかもしれないという理由で,個人的な危険をおかすこと,または何か新しい活動にとりかかることに,異常なほど引っ込み思案である。
 9. 依存性パーソナリティ障害(Dependent Personality Disorder)
 面倒をみてもらいたいという広範で過剰な欲求があり,そのために従属的でしがみつく行動をとり,分離に対する不安を感じる。成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち5つ、またはそれ以上によって示されます。
(1)日常のことを決めるにも,他の人たちからのありあまるほどの助言と保証がなければできない。
(2)自分の生活のほとんどの主要な領域で,他人に責任をとってもらうことを必要とする。
(3)支持または是認を失うことを恐れるために,他人の意見に反対を表明することが困難である。
(4)自分自身の考えで計画を始めたり,または物事を行うことが困難である(動機または気力が欠如しているというより,むしろ判断または能力に自信がないためである)。
(5)他人からの愛育および支持を得るために,不快なことまで自分から進んでするほど、やりすぎてしまう。
(6)自分の面倒をみることができないという誇張された恐怖のために,1人になると不安,または無力感を感じる。
(7)1つの親密な関係が終わったときに,自分を世話し支えてくれる基になる別の関係を必死で求める。
(8)自分が1人残されて,自分で自分の面倒をみることになるという恐怖に,非現実的なまでにとらわれている。
 10. 強迫性パーソナリティ障害(Obsessive-Compulsive Personality Disorder)
 秩序,完全主義,精神および対人関係の統一性にとらわれ,柔軟性,開放性,効率性が犠牲にされる広範な様式で,成人期早期までに始まり,種々の状況で明らかになります。以下のうち4つ、またはそれ以上によって示されます。
(1)活動の主要点が見失われるまでに,細目,規則,一覧表,順序,構成,または予定表にとらわれる。
(2)課題の達成を妨げるような完全主義を示す(例:自分自身の過度に厳密な基準が満たされないという理由で,1つの計画を完成させることができない)。
(3)娯楽や友人関係を犠牲にしてまで、仕事と生産性に過剰にのめり込む(明白な経済的必要性では説明されない)。
(4)道徳,倫理,または価値観についての事柄に,過度に誠実で良心的かつ融通がきかない(文化的または宗教的同一化では説明されない)。
(5)感傷的な意味のない物の場合でも,使い古した,または価値のない物を捨てることができない。
(6)他人が自分のやるやり方どおりに従わない限り,仕事を任せることができない,または���緒に仕事をすることができない。
(7)自分のためにも他人のためにも,けちなお金の使い方をする。お金は将来の破局に備えて貯えておくべきものと思っている。
(8)堅苦しさと頑固さを示す。
   発達障害
 1.精神遅滞(知的障害)・・・第1表参照
 知能が平均より有意に低く(知能指数IQが70以下)、かつ、社会的不適応をきたし、その状態が18歳までに出現するものを精神遅滞と呼んでいる。重度精神遅滞20<IQ<35、中度精神遅滞35<IQ<50、軽度精神遅滞 50<IQ<70、に分けられる。IQが70以上は定義により精神遅滞でないとされる。
Tumblr media
 遅れが中度よりも重い場合は,言語理解に乏しく,身辺自立困難,自傷,他傷,こだわり,破衣などの行動上の問題が出現することが多い。軽度の遅滞では,身辺自立は成立していることが多いが,本人の能力と要求水準の間に乗離があり,思春期以降になって,情緒障害、非行,性的問題などの社会不適応をきたすことがある。
 全人口の約2%に精神遅滞が認められるが、その大部分は軽度精神遅滞である。
  また、医学的には”精神遅滞”であるが,福祉や教育では”知的障害”と呼よばれる。
   2.自閉症スペクトラムとその他の発達障害・・・第2表参照
Tumblr media
 (1)自閉症スペクトラム
 (ア)古典的自閉症(カナーtype自閉症)
  第2表で、古典的自閉症、別名、カナーtype自閉症は、米国の精神科医、レオ・カナーが1943年に”自閉症”という名称を提唱したことによる。つい最近まで、自閉症といえばカナーの提唱した自閉症をさした。その診断基準は、以下のとおりです。
 ①他者との情緒的接触の重篤な欠如、
 ②物事をいつまでも同じにしておこうとする強い欲求、
 ③物に対する強い関心と、物を器用に扱うこと、
 ④言葉が無いか、あったとしても、オーム返しや他者には通じない独特の言葉を使ってしまうなど、コミュニケーションに役立たない言葉の使い方、
 ⑤知的な顔立ち、カレンダーの計算など、特殊な領域での優秀な能力、の5点である。
  (イ)アスペルガー症候群
  古典的自閉症と比べ、言語の発達が比較的良好で、IQの比較的に高い人をアスペルガー症候群という。高機能自閉症と同等の意味である。
  
 (ウ)高機能自閉症
  高機能自閉症スペクトラムの基本症状は、
  ①社会性の障害、
  ②コミュニケーションの障害、
  ③想像力の障害、こだわり
 この3つを三組の障害という。これらの症状が出揃うのは3歳を過ぎてからが多い。精神遅滞のない子どもの場合は、健診などで自閉症を見逃される恐れがある。三組の障害について詳しくは、”発達障害、ー高機能自閉症ー”(相談会案内2018年11月)を参照してください。
 
 高機能自閉症の”高機能”の意味は、IQが70以上という基準である。高機能と一口に言っても、IQが70ぐらいの境界域から、IQが140台の知的能力が非常に高い人までを一括して言っている。高機能は「能力が平均より高い」という意味ではなく、「明らかな知的遅れがない」、という意味で専門家の間で使われている。IQが70台の自閉症の子どもは、定義上、高機能自閉症と呼ばれるが、かれらは小学校の普通学級の学習課程をこなすことが難しいです。
 自閉症(Autism)のうち70~80%が精神遅滞を伴うが、大半は軽度の遅滞です。
 自閉症の子どもも大半が状況によって、不注意、多動、衝動性を示しますが、それらのほとんどは自閉症の特徴である三ツ組の障害から説明がつきます。 自閉症の子どもの不注意、多動、衝動性の多くは、周囲の人の、自閉症児への配慮が不十分であることから来ている場合が多い。自閉症の子どもは、提示される情報が理解でき、見通しが持て、余計な情報が排除される環境では、不注意、多動、衝動性が顕著に改善されるからです。
 
 しかし、中には、三ツ組の障害からでは説明がつかない、ADHDの子どもも存在します。
 (2)注意欠陥多動性障害(ADHD;Attention Deficit/Hyperactivity Disorder)
   ADHDは、①不注意、②多動、③衝動性、の3つの症状で診断される。これらの症状が、知能の発達水準に見合わないほど強く、日常生活における困難の原因となっている場合を言う。ADHDの人は、ほとんどが精神遅滞を伴わないか、あっても軽度遅滞である。
  (3)学習障害(LD;Learning Disorder)
  最も狭義のLDは、米国精神医学会の定義、”読む、書く、計算する、の3つの能力の障害”を指す。自閉症の子どもには、認知の発達による得手、不得手があり、子どもによっては、LDが併存していると考えて対応したほうが良いときもある。
  LDの人は、ほとんどが精神遅滞を伴わないか、あっても軽度遅滞である。
  4.その他・・・チック障害、レット障害、小児期崩壊性障害等
  参考文献:
(1)仙波純一、石丸昌彦:新訂 精神医学、放送大学教育振興会
(2)今日の治療薬2015 44抗精神病薬・抗鬱薬・気分安定薬・精神刺激薬 南江堂
(3)フロイド.E.ブルーム他著、中村克樹、久保田競監訳:新脳の探検(上) 講談社
(4)NHKテレビテキスト「きょうの健康2015年11月号」うつ病 P50
(5)ストレスや疲労とつきあうためのセルフケアガイド、疲労解消・イキイキ生活、 BTUストレスマネジメント研究所
(6)米国精神医学会編、高橋三郎、大野 裕、染矢俊幸訳;DSM-Ⅳ-TR、精神疾患の分類と診断の手引き、新訂版
(7)馬場謙一;心の健康と病理、放送大学教材、2006年第3刷
(8)馬場禮子;精神分析的人格理論の基礎、岩崎学術出版社2013年第5刷
(9)太田昌孝;発達障害児の心と行動、放送大学教材、2006年3月 改訂版第1刷
(10)内山登紀夫、水野 薫、吉田友子:高機能自閉症 アスペルガー症候群入門、中央法規出版(株)、2002年 
                                                                以上
0 notes
numa-chi · 4 years
Quote
私はうつ病です。昔の事も思い出せず、感動せず、感情もわからず、物を覚えられず、体を動かすのもつらく、毎日ただひたすら苦しく、生きているだけでお金がかかるのに生きてる意味ってありますか? 長谷部 和彦, 元公立小学校 教諭 回答日時: March 13, 2020 長くなります。よかったら読んでください。 まず、私から提案したいと思います。 私の家に遊びに来ませんか。鹿児島県のとある田舎町で農業を営んでいます。新規就農してからまだ半年余りなので、アルバイトをしながら何とかやっている状態ですが。 独り者です。バツイチです。質問者の方が男性でしたら、何日か泊まっていただいても構いません。 柴犬と猫とヤギ、ニワトリがいます。 以下、陰鬱な内容を含みます。耐性の無い方は読まれない事をオススメします。 私もうつ病でした。 それも重度のうつ病でした。主治医には、最終的には脳に電極をつけて電気ショックを施すことを勧められたぐらいです。 入院治療も2度行いました。 最初の入院は、自殺未遂をしてから運ばれました。施錠された病室に隔離されました。常にモニターで監視されていて、トイレなどハナから丸見えです。 1週間の後、一般病棟に移りました。 職場には、主治医からうつ病の為3か月の休職が伝えられました。 2週間後くらいから、躁状態に入りました。 室内では腹筋、腕立てを繰り返し、外出許可をもらってはランニングに勤しみました。 自分自身が何故うつ病になってしまったのか自省し、退院してから復職する迄のやるべき事リストを作り上げました。 前向きな様子を見て、主治医も退院時期を前倒しにしました。 一月後、退院しました。 退院してから、先ずは主夫業に精を出しました。 過剰なまでの不安と心配を与えてしまった妻の為、早起きして犬と散歩に行き、朝ごはんを作り、掃除、洗濯を済ませ、夕ごはんの買い出しに行き、夕ごはんを作って妻の帰りを待ちました。 週に2回の通院は、あえて15キロの道のりを自転車で通いました。散歩にも出かけ、野の花や小鳥なんかをスケッチしたりもしました。 全てはうつ病を克服するためだけに、日々を過ごしました。認知療法、行動療法、薬物療法すべて行いました。 1か月後、再発しました。 休職期間も残り1か月ともなると、緊張と不安が絶え間なく襲ってきます。また寝れない日々が続きます。食欲もなくなり、何をするのも億劫です。 復職1週間前ともなるとある思いが心を支配します。 (死にたい…) とにかく私は死にたかったのです。 いわゆる、希死念慮です。 簡単に言うと自殺願望なのでしょうが、色んな自殺の方法を探りました。 結局は首を吊る事に落ち着きました。 妻の居ない日中に、何度も何度もタオルなどで首を吊りました。でも死に切れませんでした。 勇気を振り絞って復職しました。 3か月ほど働いたでしょうか。職場での日々は、私にとって正に地獄でした。常に緊張していました。頭が上手く回転しません。真っ直ぐ歩くことさえままならず、何故か柱や机の角にぶつかりました。トイレに用がなくても頻繁に入り、周りの好奇な目から逃げました。その度にトイレの窓から飛び降りたい気持ちになりました。自殺を試みた人間に対して、同僚は腫れ物に触るように対応します。 毎週末、今日こそはと思い、首つりを繰り返しました。しかし、最後まで出来ません。 私は思い込みの世界で生き、想像の世界で苦しんでいました。 自殺未遂をしてから、うつ病と告知されてから、いやもっとずっと前から私は、私自身の妄想に自縄自縛の状態でした。 あいつは仕事が出来ない。 あいつのせいでみんな迷惑している。 自殺未遂するぐらいなら仕事を辞めればいいのに。 それでも上司は私を励まします。 君なら出来る。死んだ気になってがんばりなさい。みんな君の事を心配しているんだ。恩返ししないとね。 妻も私を励ましてくれました。 折角、頑張って公務員になったのに、今辞めたらもったいないよ。家のローンはどうするの。その年から転職なんて出来ないよ。あなたの大好きな柴犬も手放して、動物も飼えないようなアパートに移る事になるよ。今が頑張りどきよ。 私はもう限界でした。いや、もうとっくに限界だったのでしょう。主治医からは兎に角強い睡眠剤と抗うつ剤を処方してもらいました。 起きていても何時もボーッとしていました。 漢字もどう書くのかよく分からなくなりました。 ひらがなさえ、「あ」と「お」の違いさえよく分からなくなり、度々授業中の計算ミスを子どもに指摘されました。 ある日、子どもに問いかけられました。 「先生、なんで死のうと思ったの?前の先生が、H先生はぼくたちのことが嫌いで死のうとしたって言ってたけど、本当?」 「そんなことないよ。死のうとなんかしてないよ。」 咄嗟に取り繕いました。 代行の先生が、断片的で恣意的な情報を子どもたちに伝えていたようでした。 再休職することになりました。 うつ病の原因は今だからよく分かります。 新しい学校に移動したものの、子どもたちと以前のような信頼関係を築けないことからの自己嫌悪。 同僚とも良好な関係を持てないことからの苛立ち、不安、不満。 それらから派生するように、仕事への自信喪失。 40過ぎても子どもを持てないことへの落胆。 35年住宅ローンの重圧。 自分の故郷が地震と津波で壊滅的な状況なのに、何も出来なかったことへの後悔。 妻とも友人とも、会話が噛み合わないことからの孤独感。 当時の私は客観的に見ても、八方塞がりでした。 でも多くの方たちも、多かれ少なかれ40も過ぎれば仕事や家庭で問題を抱えています。しかし、うつ病にはならないでしょう。だからこそ私は私自身に失望しました。失望感は再休職したことからさらに募り、積み重なった失望感は、絶望感へと集約されました。 再休職して、私はまさに生きるしかばねの様でした。 以前の休職期間のように、前向きにうつ病治療をすることも有りません。ただ、ただ死なないように生きているだけです。 誰かの歌詞にあったように、 私は小さく死にました。 当時の私は死にたいと云うよりも、「楽になりたかった」のです。 40も過ぎて再休職し、再び同僚や子どもたちに迷惑をかけ、上司の配慮や期待にも応えることが出来ず、その上、妻への罪悪感は筆舌に尽くし難いものがありました。 いつ自殺が成功しても大丈夫なように、定期的に遺書を書きました。妻への謝罪、同僚たちへの謝罪、両親兄姉への謝罪、毎日毎日こんな自分が生きていることが申し訳ありませんでした。 妻は週末になると、神社へとわたしを連れ出しました。近所の神社、箱根神社、鶴岡八幡宮、春日大社にも行きました。 2時間で2万円もするカウンセリングも受けました。 主治医から処方される薬は、5種類まで増えました。病院でのカウンセリング担当医は、大学を卒業したばかりのような若い女性です。彼女なりに真摯に私と向き合ってくれましたが、私は彼女から助けてもらえるとはとても思えませんでした。主治医で院長でもあった先生は、薬を処方するだけです。もしうつ病が治らず、教員を退職する事になったら精神障害者として生活保護を受けるしかないと言われました。 一向に良くならない私の状況に、妻は失望し、疲弊しました。あとで知った事ですが、リストカットなどの自傷行為をしていたようです。 毎晩、妻から叱責をされるようになりました。 このままだとどうなるか分かる?あなたがうつ病を治さないとどうなるか分かる?いい加減、治してよ!どれだけあなたが沢山の人たちに迷惑を掛けているのか分かる?だから早く治して! 時には包丁を持ち出され、一緒に死のうと懇願されました。 一度、人は道を踏み外すととことんまで堕ちるのだと思いました。しかも、底がありません。どこまでも堕ちるのです。 生き地獄でした。 翌年の4月、私は別の学校に移動し復職することになりました。 私は私を偽りました。うつ病は治っていません。しかし、治った事にしないと妻がもちません。 治ったと偽り、主治医にも復職を許されました。 復職して、3週間後の朝、自宅の梁に電気コードを括り付け、椅子を倒し首吊り自殺しました。 死んでいませんでした。 気づくと愛犬の柴犬が必死に私を舐めていました。 何も見えません。呼吸が止まっていたのでしょうか。私は必死に呼吸をしました。呼吸を繰り返し繰り返し行うと暗闇に光が差し込んできました。 何故かコードは解けていました。今際の際で、コードを解いていたようです。しかし自分が何をしたのか暫く理解できませんでした。失禁していることに気づきました。脱糞までしていました。眼球は出血し、白目部分は真っ赤に染まっていました。左半身が上手く動きませんでした。 その日、再入院することになりました。 主治医から、電気ショック治療を勧められました。一定の効果は期待できるが、全身に激しい電気ショックが流れるので多少の骨折や記憶の欠落などのリスクは覚悟してくれと言われました。妻の反対で行いませんでした。 もはや、自分が何をしたいのか、生きたいのか死にたいのか全く分かりません。ただただ矮小で卑屈で社会のゴミのような存在だと思いました。 生きている意味などあろうはずもありません。 でも私は生きていました。あの日以来首を吊るのも止めました。何も考えず何もせず、出されたものを食し排泄し、夜になれば睡眠剤でぐっすり寝て朝になれば看護師に起こされ、何もない1日が始まります。 2か月後退院しました。暫くして、教員を辞めました。無職になりました。新築の家も売りに出しました。妻には当然ですが、見放され東北の実家に帰ることになりました。実家にはまだ思春期の姪たちがいたので、兄がアパートを探してくれそこに1人で暮らす事になりました。 私は何も考えなくていいように、中古のゲーム機を買って一日中ゲームをしていました。たまにスーパーに食料を買いに行きますが、誰かに見られるのが恥ずかしくて、短時間で目につくものをそそくさと買ってアパートに戻ります。何も考えません。感情も有りません。風呂にも入りません。歯も磨きません。ある時、履けるパンツが無く、Tシャツを逆さにして履きました。チンチンが寒かったです。 以前の主治医から実家近くの病院を紹介され、紹介状も持たされていましたが、そこの病院に行く事は有りませんでした。もう精神科医も抗うつ剤も睡眠薬も私には必要ありませんでした。 なぜなら私は人の形をした、ただの醜いぬけがらでしたから。 時間も季節も、世間も仕事も、私には何の意味も有りません。物欲、金欲、食欲といった欲求もありません。ただ日々死なないように生き、金を食いつぶし、秋が来て、冬が来て、春が来ました。 定期的に父から電話がありました。その日は今までにない雰囲気で、もうアパートを引き払えと言ってきました。 実家で両親と兄家族と暮らす事になりました。 父は頻繁に私を外に連れ出しました。80も近い父の運転で、被災地の風景を見たり、故郷の野山を見たり、桜を見たりしました。 5月過ぎ、父が帯状疱疹になりました。 6月になると、胃腸に何らかの不調を訴えるようになりました。 7月、近隣の中核病院に入院することになりました。 最初は泌尿器系の病気が疑われ、手術を受けましたがあまり体調が改善されません。その��、ガンが疑われましたが、その部位が分からないと言われました。原発不明ガンと診断されましたが、本人には告知していませんでした。 父が体調を崩してから、病院の送り迎え、入院の準備や手続き、お医者さんの対応など、私が行いました。初めは嫌々でしたが、結局手が空いているのは私しかおりませんから、仕方なく対処していました。 原発不明のガンなので、具体的な治療方針が決まりません。何故か、一時退院が許されました。 退院してから、定期的に通院する事になりました。その日は泌尿器科の受診の日でした。泌尿器の主治医がお休みで代理の先生に診てもらいましたが、受診後父の様子が変で、帰り道に尋ねるとガンだと告知されたと言います。 何年ぶりでしょうか。私の中に忘れていた感情が芽生えました。 怒りです。 その日告知してきた先生は、あくまで泌尿器科の主治医の代理で、しかもガンの部位はおそらく消化器系だろうと言うことで告知する時期は消化器科の主治医と治療方針と共にこれから考えていきましょうという段取りになっていたのです。 父の落胆は見るからに明らかでした。父はタバコも吸いません。深酒もしません。健康番組が大好きで、健康に人一倍気を使っていました。 食事の世話も私が行っていましたが、食欲もめっきり無くなりました。歩くのも酷く疲れるようになりました。 私は消化器科の主治医とアポを取り、抗議の為病院に赴きました。何の相談もなく、科も違う代替先生が告知をしてしまった事に、平謝りでした。 それから私は、ガンについてできうる限り勉強しました。通院の際は、ノートを持ち込んで先生の所見を事細かくメモしました。 PET検査なるものでガンの所在が分かるかもしれないと聞き、検査機のある病院まで連れて行きました。 しかしながら、ガンの所在、及び部位は特定できませんでした。 8月になり、いつも以上に辛そうな父を見て再入院させる事にしました。病院に着くともう自力では歩くことが出来ず、車椅子に乗せて診察室まで連れて行きました。 父は気丈で弱音を吐くことを聞いた事がありません。 私が小学生の頃、車のドアで親指を挟み、骨が見えていても自分で運転し整形外科に行き、夕方には仕事をしていました。 私が中学生の時には、母が粉砕機で薬指を切り落としてしまいました。側にいた父は、すぐさま薬指を拾い、氷袋に入れて母を病院まで連れて行きました。指はくっつきませんでしたが。 そんな父が、自ら車椅子に乗っている姿に愕然としました。 主治医からは、胸水が溜まっているのでお辛いのでしょうと言われました。とりあえず、入院治療することになりました。 胸水を抜いてもらい、多少楽になったのか父に少しだけ笑顔が戻ってきました。後から来た母とも談笑していました。 数日後、父は永眠しました。 死因は、原発不明ガンとのことですが直接的な死因は、窒息死です。深夜になって吐いたものが気管に詰まり、自力では解消されず看護師が気づいた時には亡くなっていたのです。 解剖はしませんでした。 母の取り乱しようは筆舌に尽くし難く、身内一同呆然としました。 それでも、お通夜や葬儀は粛々と進められます。 葬儀が終わり、明日早朝に火葬を残すのみという晩の頃、私は葬儀会場で棺の中にいる父と2人きりになりました。 止め処無く涙が溢れてきました。あんなに泣く事はもはやないだろうと思います。 おそらく1時間ほど泣き続けたでしょうか。その間、私は心の中で同じ言葉を繰り返していました。 (ごめんなさい。ごめんなさい。) (もう大丈夫だから。) ほぼ平均寿命とは言え、父は80手前で亡くなるような人ではありません。ましてや、ヘビースモーカーで高血圧の祖父より早死にするような人ではないのです。 では何故、こうも早逝してしまったのか。 原因は、私です。 私の存在がストレスとなり、私のうつ病が治らないこともストレスとなり、40過ぎの息子が無職になって帰ってきて引きこもりになっている現実がこの上なく父に負担を掛けたのは間違いありません。帯状疱疹になったのも、胃腸に不調をきたしたのも、がんと診断されて1か月余りで亡くなったのも、私のせいです。身内は誰も口には出しませんが、みんなそう思っている事でしょう。 それなのに私は、父の棺の前で1時間ほど泣いて泣いて泣き疲れた後、気づいたのです。 うつ病が治ったと…。 皮肉なものです。父の病と死が、私のうつ病を寛解に導いたのです。 半年前まで、私は私の抜け殻でした。 何もせず、何も考えず、ただ無意味に時間とお金を浪費する肉の塊に過ぎませんでした。他人と会話する事は勿論のこと、身内ですら顔を見て話すことも出来ませんでした。 それが3か月前から止むを得ず、父の世話をするようになってお医者さんと交渉したり、看護師と話したり、父の様子を親戚に伝えたりするうちに何となく、うつ病は回復の兆しを見せ始め、最終的にに父の死によって寛解に至ったのです。 父は全く意図していなかったでしょうが、結果的に父の病と死が、私を深い深い谷底から救ってくれたのです。 結局のところ、私のうつ病を治したものは医者でも無く、カウンセリングでもなく、ましてや薬でもありません。タイミングときっかけ、そして行動です。 以下は私の経験則からの私見です。異論がある方もいらっしゃると思いますが、ご容赦ください。 うつ病は、薬で治る病気ではありません。 一般的な解釈としては、うつ病は過剰なストレスなどにより、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンといった神経伝達物質が上手く働かなくなり、シナプス間における電気信号が不調となる為、活動性が低下し、感情が失われていくとされています。 抗うつ剤などの薬は、上記の神経伝達物質を良好に分泌させる為のものですが、あくまで一時的なものです。言わば、身体が疲れた時のユンケルみたいなものです。ユンケルのような滋養強壮剤の効果は、有って小一時間ぐらいらしいです。医者に聞きました。寧ろ(俺はりぽDを飲んだから元気だ!)といった暗示の副作用の方が大きいといいます。抗うつ剤も同じです。気休め程度にしかなりません。しかも抗うつ剤を服用し続ける事は何の根本的な解決にはなりません。また様々な種類があり、強いものを飲み続けると廃人になるようなものも有ります。ハイリスクローリターンです。 私が知っている精神科医で、うつ病を本気で治せると思っている人はおりません。彼らは、薬を処方し点数を稼ぎ、報酬を得ているに過ぎません。私が暫く通院していた病院は、正にそうでした。2年ほど通いましたが、沢山の精神病患者で寛解に至った方を私は知りません。私の主治医だった精神科医は、患者を1時間待たせ5分の問診で処方箋を書き、効率よく病院に富を蓄積させます。おそらくそれが出世の処方箋なのでしょう。 先日、NHKドラマで阪神淡路大地震を体験した精神科医の話がありました。患者の話を30分でも1時間でも真摯に聞く先生でした。私もそういう精神科医に出会ったら違っていたのでしょうが。 現実は違います。それでも精神科医に診てもらいたければ、開業医をお勧めします。少なくとも組織の中にいる精神科医はダメです。 カウンセリングもお金と時間がかかるばかりで、効果のほどは期待できないと思います。 中には、行動療法や認知療法で寛解する方もいらっしゃるとは思いますが、私は懐疑的です。 そもそもうつ病の根幹的な治療は何か? まず、うつ病に至ったストレスを無くすことです。私は公務員という立場や家のローン、世間体などから仕事を辞めるという選択肢を選ぶのか遅すぎました。 そして、死なないように生き、どこかのタイミングで行動を起こすことです。具体性に欠けますが、深い深い闇の中にいて、抗うつ剤や他人の空虚な言葉が一筋の光になる…なんて事は現実的ではありません。 最初はどんな行動でも構いません。ポイントは、うつ病を患ってからした事がない行動です。 よくうつ病を患った人に、「神様から休みなさいって言われているんだよ。」という方がいますが、うつ病患者は休んでいるわけではありません。深く傷つき、深い闇の中でいつ終わるとも分からない嵐が過ぎ去るのを息を殺し、感情を捨て、ただただ耐えているのです。 話が逸れました。 質問者の方は、生きている意味があるかと問いかけられていますね。 私の答えは、「ない」です。 そもそもが、生きているだけで意味がある人間なんてどれほどいるのでしょうか?人間は人間を特別視し過ぎです。過去には、人間ひとりの命は地球よりも重いと言った政治家が居ました。馬鹿げています。 この地球には、既知の部分だけでも175万種の生命体がいるそうです。未知を含めたら500万とも800万とも言われています。その多種多様な生き物が懸命に命を繋いでいます。その中で、何故人間の命だけが尊いと言えるのでしょうか。 周りを見渡せば、ニュースを見れば犬、猫より価値の無い生き方をしている人が沢山います。蜂や蟻よりも生産性の無い生き方をしている人間がありふれています。 人間の命、そのものには意味がないのです。 あるとすれば、意味ではなく「時間」だと思います。 そして時間があるからこそ、「行動」ができるのです。 重度のうつ病患者は、行動が出来ません。 行動が出来ないということは、時間が止まっているのです。 故に今のあなたが、生きている事の意味を問いかけるのははっきりいって無意味です。 それはあなた自身が本当は理解されているはずです。 けれども今あなたがその漆黒の闇を抜け出せるその日が来た時、あなたの(生)に価値が生まれます。あなたが自分の足で、自分の意思で前に進み始めた時、時間が再び動き出します。 生きている限り、意味はなくてもあなたには「時間」がある。時間があるという事は、あなたの人生は何度でもやり直せるのです。 更にあなたが価値ある、より良い行動をとることで、あなたの(人生)に意味が生まれると思うのです。 人の(生)に意味があるとすれば、価値ある行動を実践した時、初めて生まれると思うのです。 人の人生の評価は何で決まるのでしょうか? 財産、出世、肩書き…人それぞれでしょうが、私は行動だと思います。どれだけ価値ある行動を人生で出来たか、だと思うのです。 だからまずあなたがするべき事は、死なないように生きることです。そして、私のようにきっかけを待つか、自らきっかけを作り行動することです。 正直言って、私のようなきっかけを待つことはお勧めできません。 だからこそ、私のところに遊びに来ませんか? もしかしたら、何かのきっかけになるかも知れません。仮にならなくても、きっかけのきっかけぐらいにはなるかも知れません。 私は今、農業に従事しています。何故、東北から南九州に来て、農業をしているかの経緯は割愛しますが、私はうつ病が寛解してから2年ほどの、50手前のおじさんです。 うつ病が治り、取り敢えず3つの事を目標に掲げました。 ①飼っている柴犬を、日本一幸せな柴犬にする事。 ②最低限、父の年齢まで生きる事。 ③世界の真理を一つでも多く学ぶ事。 です。 農業では、無農薬、無化学肥料での、循環農法を実践しています。なるべく、F1の種に頼らず固定種の種から作付けして、この土地に合った野菜を育て、種取りをして、安全、安心な、究極的には硝酸態窒素を過剰に含まない、ガンにならない野菜作りを目指しています。 知らない土地に来てからの挑戦なので、苦労もありますがやり甲斐も有りますし、生き甲斐も感じています。 何よりも、何度となく死んでしまってもおかしくない我が身がこうしてお天道様の光を浴びて働けることが、嬉しくて嬉しくて仕方が有りません。 昔、ドイツの哲学者が言っていました。 (自らを否定して否定し尽くした時、あなたは超人となるだろう。) 私のうつ病期は、自己否定の繰り返しでした。 もちろん、私は超人には成れておりません。 ただ、周りの人達よりちょっとだけ物事の本質を理解出来るようになったかなと思います。 一昨日、東日本大震災から9年経ちました。 2万人以上の方が亡くなられました。 彼らにはもう時間が有りません。行動を起こすことも出来ません。 だからこそ我々生きている人間は、然るべき行動により、震災を語り継ぎ、亡くなった方たちを忘れずに生きねばなりません。 あなたは生きている。 あなたには時間がある。 あなたは行動を起こせる。 大丈夫。時は必ず訪れます。 最後にアメリカの詩人の言葉をご紹介します。 (寒さに震えた者ほど 太陽の暖かさを感じる 人生の悩みをくぐった者ほど 生命の尊さを知る これから私は幸福を求めない 私自身が幸福だ) 長文につき、乱筆、乱文ご容赦ください。
https://jp.quora.com/%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85%E3%81%A7%E3%81%99-%E6%98%94%E3%81%AE%E4%BA%8B%E3%82%82%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%9B%E3%81%9A-%E6%84%9F%E5%8B%95%E3%81%9B%E3%81%9A-%E6%84%9F%E6%83%85%E3%82%82/answers/202981897?ch=2
0 notes
miyakawastuff-blog · 6 years
Text
ご気分が晴れるのであれば
Subject: 私の病歴,清書、推敲済み ご気分が晴れるのであれば、喜んで「武勇伝」を開陳しますね、現在わたし66ですから、今から31年前、ちょうど35の時でした。連夜に渡る組合活動(従業員50人ばかりの町工場でしたが。)を繰り広げておりました、私はもともとは文系出身でしたが、以前働いてbいた会社が電子部品の開発会社だった関係上、IC等の電子部品の製造技術には割りと明るかったのですが他方、町工場では、教養程度の数学知識、電子工学理論の分かる人もいなかったため、液晶製造機械,ハイブリットIC製造機械設計の実働部隊の技術リーダーをやってました、技術的に日進月歩の機械技術の道は相当ハードルが高く、毎晩、組合のチラシ、会議録作りが終わる午前0時過ぎから、3~4時過ぎまで「数学」や「機 械工学」「電子工学」の独学をやってたんですね、アサは7時起きで会社に通っていました。やはり人間、無理はできませんよね、ピント張った糸は切れや すいの例え通り、精神的、肉体的にダウンしてしまいました、ある日銭湯に はいっていたんですが、湯船のなかで心臓にいじょうを感じたんですね、動悸がはげしかったのです。湯舟の中でさえ、手足は蒼白,これはいけないとおもって、急ぎそこを でて、ようよう家に帰りつき、そのまま、救急車を呼んだんです、昭和医大の緊急外来に通され、心電図をとられましたが、異常はないといいます。医師も困ったんでしょうね、結局応急処置として「セルシン」(精神安定剤、筋肉弛緩剤でもある)の静脈注射を打ってもらって、すごすご、家路にむかったのです。当時組合のほうも解雇撤回を巡って会社側と、鋭く対立していて、会社側の団交拒否にもあっており、予断を許さない状況でした、争議は場を東京都労働委員会に移しておりました、会社側弁護士と数回にわたって、話し合いの為にに澁谷の法律事務所を訪れていましたが、ある時不幸なことに帰りの電車内で動悸が始まってしまったのですね、脂汗たらたら、いきたここちがしませんでしたね、山の 手線、澁谷から目黒まで遠かった。雪の日だったことを覚えています、、なんとかやりすごして 、まんじりともせず夜を過ごし、朝を向かえました。そのまま朝食も食べず、朝一で都立荏原病院内科をたずねました。血圧、心電図、異常な しでした、念の為,心筋梗塞を疑ってGOT値を知るべく、血液検査もうけましたが、後日連絡では異常なしという結果でした、時は、冬、職場はとても寒かった、製図台で震えていました、殊のほかこの冬は寒かったような気がしました。体温を支配する自律神経が狂ってたんですね。ひと冬動悸と寒さに耐えていました。殆んど会社を休んで電気コタツにうずくまって死の予感に慄く毎日を過ごしていました。、ようやく春になって、会社を退職し、自営の道にはいりました。家で仕事が出きることが何より嬉しかった。CAD用のPC、プロッター^を買い込みました、如才なかった、会社員時代の営業部長さんが、既に独立していて大田区の下丸子に工場をかまえておりました、そこの専属設計屋として 。以後働き続けました。さて「病だれ」のほうですが、よくならないまま冬から春へ、、昭和医大、心臓内科(第三内科として心臓病では都内で有名でした)にかかり、ブドウ糖を定量飲んで時々刻々の血糖値を調べる、血糖負荷試験、心臓エコーをとったり、10分心 電図、トレッドミル負荷心電図、心臓の大きさを知る胸部レントゲンを取ったりして精密検査をうけました、結局心臓に異常なしとして精神安定剤を処方されました。「気のせいだろう」と診断された訳です。激しい動悸症状と病名(心気症)の?乖離にがっくりきていました。そんな折、近所にS精神科クリニックがある事を知りました。そこを真っ先に受診しました。慶応閥の先生でしたが、結局「くすりや」さんでしかなかったですね。、受診するや、精神保健法32条の申請をしてくれたのはいいのですが、これで何が判るのってかんじのへんなヘッ ドギャ(剥き出しの針、電極を頭皮にぶちぶち刺す古いタイぷの脳波測定装置!!)をかぶらされて、カルトっぽい「脳波」なるものをとらされました、その上、今では御禁制のくすり(確か新宿クリニックだったかか、乱用違法処方で院長が逮捕されました、これが新聞に載って一躍、合法麻薬として有名になったクスリです!!)「リタリン」、抗欝剤として「三環系」のくすり、そして「睡眠薬」として、今では、その常習性、依存性、致死量の閾値が低く危険性があるとして現在9殆んど処方されることの無くなった「イソミタール」0.3gが処方されました、抗欝剤のせいという結論でしたが、深刻な口渇、尿閉(例え膀胱に溜まっていても、年寄りの前立腺肥大と同じ症状を呈し、おしっこが出なくなりました 、老人では最悪尿道カテーテルを使っての導尿しか手はなくなるそうです。このような前立腺障害,口渇は、三環系坑欝剤の薬理作用のもつ坑コリン反応として容易に、そういうケースがあるんだそうです、泌尿器科の先生が仰って ました))、におそわれ、やむを得ず「泌尿器」科にjかかったりりました。笑うに笑えないお粗末でした。さらに眠剤(イソミタール)の方は、のち原因不明の全身痙攣、妄想を引きおこし「緊急入院」の憂き目にあったりしました。件のクリニック、32条対象者ということでクスリをやたらめったらだすところでした、(当時は医薬分業になっていず、処方が多ければ多いほど医院に利益が転がりこむ構造でした)、今の品川の家に引越し、件のクリニックから、(品 川シーサイドにある)診療内科に転院しました。当初は話をよく聴いてくれる先生が担当医でしたが、一年後、彼は横浜にクリニックを新設してし、独立してしまいました、その後に来た新しい先生が酷かった、一応心療内科の講習をうけたたのらしいですが(心療内科医は確か数十時間の講習を受けるだけで内科医がそのままスライド式になれたとおもいます。専門性の低い領域でした、従って内科医が容易に兼務できるといい知り合いの内科医は儲かりそうだから、心療内科の看板を掲げようかなとつぶやいていましたが、後任の同医院の心療内科の先生は美容外科を兼任していた!!)その先生、散々人が副作用が怖いっていってるのに、ろくすっぽ人の話も聴かずに前のクリニックの処方をまんまだすひとで した。眠れないといえば「イソミタール」増量しますか?だったし、まあ、なんという不見識だったんでしょうかね、結局わたしが気まぐれで当 時、福島原発爆発で社会問題になっていたとこを捕まえて「先生、原発についてどうおもわれますか?」と聴いた途端にわたしをまじまじと見つめて「あなた、統合失調です、間違いない、私の手に負えないから大学病院にいってください。精神科を紹介しますから、もう来ないで下さい」とのご託宣、バンやむを得ず大森の東邦医大,精神科にか かりました。担当医の教授に来歴を話しました。ひどく同情され、クスリもうんとライトなものに変わりました、そのご東医大邦系列の精神科クリニックに通い、現在に至っております。やれやれ、長いはなし、お付き合い願って有難うございました。現在の病識は強い不眠症と躁鬱、特に躁病だけですね、不眠の為、生活が乱れ、ひきこもっています、
0 notes
wkmnbipolar · 3 years
Text
3年ぶりの鬱
10月の末で仕事をやめ 翌日から眠り続ける
トイレと食事以外眠り続けるのが丸5日
そこからすぐに復活すると思っていたら40日間鬱からの攻撃はやまない 自信が奪われ 意欲 思考 行動が妨げられる 体が重く動作が遅い 忘れてるはずの過去の失敗をどんどん引き出して追い詰めてくる 振り払っても止まない 人と会いたくなくなる ��もとりかかる気にならない むりやり靴の作業をやろうとしてもすぐに疲れる 翌日動けなくてねこむ 音楽 映画 読書 なかなか頭に入ってこない 素通りしてしまう
これは脳内物質のやりとりがうまくいかなくなる脳の機能不全🧠セロトニン ノルアドレナリン ドーパミンがうまくいきわたらなくなると 喜び 快 を感じにくくなるため 判でついたようにこういう状態になる 単極の鬱も双極の鬱も適応障害の鬱もみんな同じ 鬱の手口は知り尽くしていても 八方塞がりになるのはいつも同じ わたしは27歳で躁鬱病と診断された 半年ほど鬱が続いて 初めて部屋の片付けが出来なくなった 仕事にはなんとか行っていたが毎日絶望していて電車に飛び込みたかった 初めて母に連れられ心療内科に行き 鬱と診断された 出された抗うつ剤で躁転 会社を休職して実家で療養 躁がおさまった後深い鬱が来てそれは一年続いてた 躁鬱病とわかるのに4件医者を転々とした 健康な状態なら死ぬことを考えることはあまりないと思う 毎日絶望していてなにもできず いつ浮上できるかわからなければ死ぬ事を考えるのは自然な事だと思う
ある日突然元に戻った その後7年鬱も躁も来なかったけど 忘れた頃にまた鬱は来た  その時は 酒量が増えて 睡眠リズムが乱れていた 鬱の記憶は平時に戻ると封印されるみたいに思い出されない そうじゃないと日常生活を送れないからだと思う もちろんまるっと忘れる訳ではないが、、、 なんで病識を保つのは簡単じゃない 鬱でも躁でもない時期は普通だし病的な感じはない 健康になれば 病院に行きたくなくなる 薬をやめたくもなる もう治ったと思いたい 
これは完治しない 気質だと考えれば結局いつまで経っても潜んでいるもの���やりすぎれば動けなくなる 自分で仕事をコントロールできる必要があり そのために靴づくりの修行をしている やり方をどんどん変えていけばいい
予防のために薬を飲み続ける必要があるという事は病院に継続して通う必要がある。引越しや異動で病院や先生が変わってしょーもない先生にあたると行く気を失くす。
自立支援法の手続きをすればこの疾患は1割負担になる。定期的に更新手続をして安定していれば2〜3ヶ月に通院して都度血中濃度を測って 甲状腺や腎臓に異変がないかチェックして   1日2回薬を毎日飲み続ける事はとっくに慣れてはいるけど面倒くさいには変わりない ただ、こういった事はたいした事ではない
困るのは仕事のとき
働くとき、面接を受ける時 学校へ通うときも 殆どの場合病気である事を伏せて その環境に合わせて同化する 最初に言うとまず働けないし合格しない
この その環境の '普通' に合わせようと気配を消す特性も躁鬱病者の気質のひとつだから (消せているかどうか別として)
それでうまくいく場合もあるし 独特の軍隊のようなルールを持つ環境の中に身を置くと途端に疲弊して自分らしさを失ってしまう 窮屈になると鬱が出ると思う 伏せていれば病気はわからない でもある程度負荷がかかったときには当然周囲に言わないと理解も考慮も得られない
Tumblr media
ただ 言うと職を失う危険がある
このバランスは本当に難しい 頻繁に登場人物が変わるような職場は適さないし 適切な相手に正しく情報を伝えるのは簡単じゃない
そしてリテラシーの低い集団というのもたしかにあると思う
軍隊 のリーダーは たいてい知性も想像力もなく 精神疾患を理解できない
ー 心が弱い人がなる自分に無関係のものだと思っていることが多い気がする(これは経験測)
躁鬱病は先天的な脳の機能不全で どちらかというと体質でなりやすい糖尿病のような疾患に近い 血糖値を下げる薬を飲まないと危ないから飲む それと似た ”脳の疾患”であって ”心の疾患”ではない
心ってなんだろうと思う そういった調整を10年以上やってきている自分を心が弱いと思ったことは一度もない
今回はお酒も夜更かしもやめたから大丈夫だと思った まさに軍隊だったし 技術を身に着けるためには仕方がないと 少し疲れ過ぎてしまった
実家で療養して 犬の散歩 祖母の病院の送り迎え 薪割りや家事 仕事の手伝い 少しづつやって 動きすぎたらおつりが来て寝込んで それを繰り返して だんだん回復していく そしてある日突然 呪いが解けたように 普通の状態にもどる 健康でありさえすれば 何の問題もない それで十分 幸せだということ
朝目覚めたとき絶望していない
視界が開けて 呼吸が楽で
身体は軽く 景色がきれい
気圧に左右されない
これさえ忘れずにいられれば なにかを成し遂げても 成し遂げなくても 光を浴びて畑をやって 味噌をつくって 羊か猫を飼い 靴を作り続けて
本当の意味で健康になっていく 健康にしていく それが望みです
2 notes · View notes
q-food · 6 years
Text
中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』
中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館2018)                                     森田和樹 序章 戦争とトラウマの記憶の忘却 1 問題の所在 アジア・太平洋戦争期における「トラウマ」と本書の問い[p2-3] :「戦時神経症」または「戦争神経症」と名付けられ、軍部や国家の一大関心事となる。 ※ にもかかわらず、なぜ日本社会では戦後50年以上も戦争神経症は見えない問題となってきたのか。
2 先行研究と本書の位置づけ 直接の先行研究:野田正彰『戦争と罪責』(岩波書店1998)、清水寛 編著『日本帝国陸軍         と精神障害兵士』(不二出版2006) →特に清水編著の方が戦争神経症を含む「精神障害」兵士について包括的に論じる唯一の  研究[p11] 問題点:・戦争神経症の顕在化と深い関連のある総力戦のインパクトが考慮されていない。     つまり、総力戦体制と「福祉国家」化や軍事援護研究が明らかにしてきたような、     総力戦期における動員の拡大と同時にとられるようになった多面的な統合策と精     神疾患の関係が考察されていない。[p12-13]     ・国府台陸軍病院という陸軍病院の資料に基づいた考察に限定されており、国府台      陸軍病院の特質や患者の動態、戦争と精神疾患を取り巻くさまざまな文化・社会         的構造が捨象されているため、静態的な歴史像になってしまっている。[p13]
3 本書の課題と視角 課題[p14] ⑴総力戦期において軍隊内の精神疾患への対応にはどのような特徴があるのかを明らかに  すること ⑵戦時精神疾患の問題を国府台陸軍病院のみに集約せず、より広い文化・社会的構造の中  で再考すること →視角[p14-15] :・総力戦下において福祉領域へ国家の介入がつよまったという文脈を踏まえる。   →軍事援護という問題領域での議論を再構成する。  ・医療記録に残された人々が全体から見ればある意味で特異な位置に置かれた存在であ   ったことを念頭に置き、国府陸軍病院の外に目を向ける。   →病気の発現の仕方や受け止め方を社会的、文化的構造のなかで捉える。 ※ 精神科医で医療人類学者の宮地尚子が、一般的には受けた被害が大きければ大きいほどその人物は雄弁にその問題について語りうると考えられているが、実際にはトラウマ的出来事からの距離の近さは発話力に反比例すると指摘していることに示唆を受ける。
第1章 兵員の組織的管理と軍事心理学 総力戦としての第一次世界大戦[p24-25] →・軍部はあらゆる分野の関連を要請する総力戦という衝撃によって心理学も含めた軍事   以外の分野に関心を持つようになる。  ・心理学では「作業能力とその発言に関する研究」を行う実験心理学という分野が産業   効率化にも利用されるようになり、その力量を活かせる場を探していた。
1 軍隊と心理学[p25-33] -陸軍と心理学研究 ・1921年4月から陸軍士官学校の教育課程のなかに心理学が設置される。 背景:第一次世界大戦におけるドイツ軍の敗北と帝政ロシアの崩壊(ロシア革命)によ    る大正デモクラシー(「新思想」)の開花と「思想悪化」 →強圧的で盲目的・奴隷的服従ではなく、「理解ある服従」を兵士たちに求めることで軍紀  を引き締める必要性が高まる。そのためには将校が教育学や心理学の知識を身につけて  おかなければならないとされる。 →実験心理学および戦��心理学と呼ばれている分野が陸軍に応用される。 「精神的の機能を分量的に而も其個人差を測定せんとする」分野 ex)「戦時及戦争中の心理」(戦争心理学)「平時の軍隊心理」(実験心理学)の把握 :実験心理学の実践として当時渡米していた東京帝国大学教授松本亦太郎らにより、第一  次世界大戦中に米軍で実施された集団式知能検査が紹介され、実際に検査が行われる。 ※ しかし、陸軍では海軍のように特殊化・細分化された技能を持つ兵員を選抜する必要がなかったため、検査自体は単発で終わる。
2 戦争心理・戦争心理研究[p34-45] ⑴内山雄二郎『戦場心理学』 :陸軍では、心理学・教育学・倫理学・社会学を研究するために2年あるいは3年間将校  を東京帝国大学および高等師範学校などに派遣する制度が戦間期にできあがっており、  その制度に基づき1927年から1930年まで東京帝国大学文学部において教育学・心理学  の聴講を命じられ、系統的な心理学研究を行った歩兵少佐内山雄二郎が書いた本。 →この本のなかで内山は、戦争において臆病であったり精神的に不調をきたしたりするこ  とは、必ずしも兵士個人の性質にのみ原因が帰せられるべきではなく、環境などの外的  要因の影響も大きいと指摘。
⑵『偕行社記事』における戦場心理の報告 陸軍将校の研究・親睦組織「偕行社」の機関紙『偕行社記事』において満州事変から日中全面戦争の時期に「戦場心理」を関した論文が多数掲載される。 :前線よりも後方部隊の方が戦闘の悲惨な光景から受ける精神的影響が大きく、恐怖観念  を伴う、死傷者が出た場合に後送を申し出る者の中には臆病者がまじっている、負傷し  て後送される兵士を羨むなど、さまざまな事例が報告される。
⑶教育総監部における研究 :1938年、数回戦場心理班を設け前線兵士たちに質問用紙調査と聞き取り調査を行う。 ※ 資料は終戦時の「処分」命令と戦災によって紛失
第二章 戦争の拡大と軍事精神医学 軍隊における精神病はなぜ問題とされるのか。 -1912年陸軍軍医学校卒業式における「御前」講演[p52-53] :「精神変質」や「精神薄弱のような「素因ある兵卒」が「生活の激変」を伴う軍隊生活に  入ることで精神病が発生し、それによって抗命、逃亡、離散などの「犯罪」を犯すよう  になり、それが軍全体に広まる。
1 日中戦争以降の治療方針と治療体系 1937年8月患者後送計画[p54-55] ;・治療に一ヶ月以上かかるものは内地移送とする。 ※ 朝鮮人、台湾人兵士に関しても同様。  ・内地移送された兵士は、国府台(こうのふだい)陸軍病院(千葉県市川市)で治療を   受ける。 ※ 国府台陸軍病院は、1938年11月に重度の「戦時精神病」患者を治療するための特殊病院として開院。そこの軍医たちはエリート中のエリート。なお、斎藤茂吉の長男、斎藤茂太も国府台陸軍病院で軍医を勤めていた。
2 「戦時神経症」の定義 軍医たちは戦争神経症をどのように理解したのか。[p59-61] ・陸軍軍医大佐梛野巌の講演での発言(1937年11月) :・第一次世界大戦で注目を浴びたKriegsneurose(ドイツ語で「戦争神経症」)に対して  「戦時神経症」という訳語をつけた。神経症患者が戦線から離れるほど重篤化し、後方   部隊や休暇で帰郷中にも発症することがあるため、「戦争」ではなく「戦時」という言   葉に置き換えた。  ・「戦時神経症」の具体的症状の大部分はヒステリー(麻痺・知覚過敏症・歩行障害・言   語障害・聴覚障害など)とする。  ・「戦時神経症」の原因には先天的な部分と後天的な部分があるとしつつ、根本的な   原因は「帰郷願望」にあるとし、治療はこうした願望を打ち砕くことであるとする。
3 「皇軍」における戦争神経症の存在の隠蔽 ・陸軍医務局は、欧米軍に多数発症した戦争神経症は、日本の皇国民の場合、士気旺盛な  ため起こりえないと述べる。 ・しかし、民衆の間では帰還兵のなかに精神的変調をきたすものたちの存在(「戦地ボケ」)  の噂が流れていた。
小括 このように軍隊における精神疾患の原因を兵士個人の脆弱性・逸脱性に帰する見方は、過酷な戦場の状況や軍隊内務班における「私的制裁」などが兵員の精神に及ぼす深刻かつ長期的な影響を見過ごし、ひいては戦争と精神疾患に関する軍部の責任を免責���る論理につながったと考えられる。またこうした問題が戦後日本社会において広く認識されることを阻む一要因にもなったのではないだろうか。[p70]
第3章 戦争の長期化と傷痍軍人援護 戦争の長期化と援護政策の展開[p78-79]  ・1937年3月軍事救護法が改正され、軍事扶助法が制定される。  ・扶助対象の拡大と充実がはかられる。  ・1937年11月内務省社会局に臨時軍事援護部が設置され、1938年4月には厚生省外   局として設置された傷兵保護員が臨時軍事援護部から独立して傷痍軍人保護事務を担   うことになる。また、1939年7月には臨時軍事援護部と傷兵保護員合併し、軍事保   護員が設置され、傷痍軍人・軍事遺家族・期間軍人の援護事業を統合的に行う。                   1 医療保護 ⑴傷痍軍人療養所の開設[p79-83] 療養所入所資格 :陸海軍病院での診断の結果、兵役免除と判断され、引き続き療養を必要とするもの。 ※ 結核と精神症をわずらった人々に対しては、「公務に基因」と規定することで、対象者を広くとる。 →恩給診断書に関わる問題(「傷痍軍人」としてさまざまな優遇恩恵を得られるかどうかの              線引きには戦傷病が戦闘・公務に基因するかどうか。) :精神神経疾患の場合、外相という明確が原因が存在する頭部戦傷や外傷性癲癇などは一  等症だったが、精神分裂病をはじめとするそのほかの精神疾患は戦争末期に傷痍疾病差  が改定されるまで二等症であった。 →「傷痍軍人」とそれ以外の傷病兵との間に区別が存在することによって、傷病兵たちの   間の不満を高めるのではないかという問題が起こる。
⑵傷痍軍人武蔵診療所[p83-88] 武蔵診療所までのルート ① 回復して原隊復帰の見込みがある者は国府台陸軍病院に残る。 ② 症状が固定して回復(原隊復帰)が見込めない者のうち家に帰れる者は帰る。 ③ 帰れない者は武蔵診療所へ転送される。 ※ このような患者の再配置は、戦況の悪化に伴い、先頭・労働能力に応じて人員をより組織的に管理しようとした試みであったといえる。 武蔵診療所の入所数(1940~1945) 総数:953名 精神分裂病、進行麻痺、躁鬱病、神経質・神経衰弱・ヒステリーなど、神経薄弱、癇癪という順番に患者が多かった。
⑶食糧事情の悪化と死亡率の上昇 戦争の進行とともに療養所の食糧事情が悪化し、死亡者の増加につながる。[p89]
2 職業保護-「再起奉公」の対象外となった精神障がい者-[p90-92] 戦時下の傷痍軍人保護の中でも最大の問題は、就労能力を失った「戦争傷痍者」を再び職業戦線に参加させ、「第二の御奉公」をさせることであった。なぜなら、人一倍健全な身体をもって国家の為に尽くして傷ついた者を「生来の不具者」と同列にしてはならないからである。そのためには、職業教育によって職業生活への復帰を可能にする必要があった。それは、傷痍軍人を日露戦争時のように「社会的寄食者」の状態に置くのではなく、積極的に国家の「人的資源」として活用すべしという総力戦の要請とも合致するものであった。[p90] →・傷痍軍人援護における職業斡旋は、基本的に総力戦という文脈のなかで理解すべき。  ・第一次世界大戦期のドイツでは神経症患者の戦時労働力化が組織的にすすめられ、労   働が治療の一環として考えられる一方、恩給の節減という国家の目的にもかなったも   のであった。 ※ 結局、精神障がい者となった人々は雇用されず。
3 国民教化-保護と排除のせめぎあい-[p92-97] 国民教科の第一指導目標 :「国民をして、戦没軍人、傷痍軍人及出征軍人に対する感謝の念を昂揚持続せしめ、苟も  年月の経過に伴ひ冷却するが如きことなからしめること」 →ポスター・パンフレットなどの文芸作品の作成、映画・レコード・ラジオの利用、標語・  絵画などの募集、善行者の表彰など ※ 戦傷病兵間の亀裂/戦傷病者緒方文雄による病院生活の記録『陸軍病院』(講談社1941) :皇軍将兵には戦争神経症のような意志薄弱な1人でもいるはずがない。 →恩典を貰ってしかるべき「われわれ」と大した症状もないのに恩給を要求する戦争神経  症の「彼ら」を差異化。
第Ⅱ部 戦争とトラウマを取り巻く文化・社会的構造 第1章 戦場から内地へ-患者の移動と病の意味- 戦場から内地へ、また病院から郷里への移動は、単に物理的な移動にとどまらない、病の持つ意味が変移していく経験だったのである。[p106]
1 統計から見たトラウマの地政学[p107-112] 1940年の陸軍身体検査規則改正 :徴兵身体検査の基準が大幅に緩和され、従来不適合とされていた「身体又は精神の異常  のある者」であっても兵業に支障がなければ合格判定を出すことに。 →患者数の増加 :・国府台陸軍病院に送られてきた患者の圧倒的多数が中国大陸からの患者であった。  ・しかし「精神病」および「その他の神経病」者数は1942年〜45年の4年間だけでも   国府台陸軍病院に収容された患者数をはるかに上回っていた。 ⇒国府台陸軍病院は、精神神経疾患の治療の中心地と位置付けられていたが、入院した患  者は全体のうちのごく一部であり、その背後には精神疾患を患いながらも内地に還送さ  れなかった膨大な数の患者が存在していた。 →内地に還送されて治療を受ける者は「特権」とされ、軍部や将兵たち自身が特有の目線  を向けることにつながった。 Ex)・内地還送を望んで自傷行為に及ぶものたち   ・後方へと送られることを「恥」と考え、自殺するものたち ※内地還送をめぐってさまざまな心性が兵士たちの間に広がる。
2 戦場に取り残された精神疾患兵士たち 「中国では精神を患った兵士には全く出会わなかった」という証言 →軍隊内部、野戦病院・兵站病院においても患者は隔離されていた。[p114]
3「ヒステリー発生の温床」としての陸軍病院 国府台地区軍病院の軍医たちは、戦場から内地へ還送された患者の病像変化に多大な関心を寄せる。 →笠松章「戦時神経症の発見と病像推移」/細越正一「戦争ヒステリーの研究」[p130-131] :・戦場体験直後の反応とその後の時間差を伴って現れる症状を区別し、前者は誰にでも   生じうる生理的な反応で一過性のものであるとする一方、後者は戦場からの逃亡や恩   給などの願望のもとに発言する症状とされた。  ・持続的な精神加工による症状の発展固定への移行が前線から後送され内地陸軍病院に   いたるまでの患者の移動と重ね合わされて捉えられる。  ・同一の体験でも発症する人としない人が生じるのはなぜか、という問題に対しては「本   人の素因」に原因を還元する。 小括 基本的に国府台陸軍病院の軍医たちは、戦争神経症の原因を、暴力に満ちた戦場・兵営の状況ではなく、願望や素因のように患者個人に問題があるためだと考えた。このため、戦場・兵営体験の持続的で長期的な影響は見過ごされることになった。国府台陸軍病院の軍部に言わせれば、前線と銃後の中間地点に点在する陸軍病院は、後方に近づくにつれて「ヒステリーの温床」としての性格を強めていくものであった。[p134]
第2章 一般陸軍病における精神疾患の治療-新発田陸軍病院を事例に- 1 衛戍病院・陸軍病院における精神疾患の治療 衛戍病院→陸軍病院という名称へ(1936年11月)[p139-143] :戦争の長期化とともに各陸軍病院内の精神治療科も拡大 2 陸軍病院と銃後社会 ⑴新発田陸軍病院の概要[p144-145] ・三等甲病院で収容人数は294名 ※ 一等病院(小倉・大阪・広島)の収容人数は2950、2731、913、二等病院である国府リクグ運病院は1272名 ⑵患者の慰問[p146] ・大日本国防婦人会の支部会員たちが頻繁に病院を訪れる。 ⑶病気を恥じる兵士と家族[p147-148] ・<健康な身体>の基準を満たさないことは<国民>として、<男>として恥ずべきとい   う価値観が社会的に共有されていたため、身体的要因によって除役となることは「恥ず  べきこと」と考えれた。 Ex)「遺憾」と感じたある男性は、徴兵保険金を献納、後送を拒否、遺家族が献金(償い)、   自分の病気の悪化に際して必ず全快させて再び原隊復帰させてくれと頼む患者 ⑷「白衣の勇士」のあるべき姿[p149-150] ・「第二の奉公」を志すものたち-戦傷病兵たちの再就職を準備する場としての陸軍病院 ・「偽傷痍軍人」の登場
3 新発田陸軍病院病床日誌に記録された精神神経疾患 ・新発田陸軍病院では「神経衰弱」患者が最も多く、そのなかには頭痛や睡眠障害などを  伴う軽度の心身の不調から、自傷他害のおそれがあるため受診に至ったケースまで幅広  く存在していた。[p159] ・除役になるという経験-兵役を全うできずに郷里へ変えることが<男として>恥ずかし                  いという意識。[p162]
[補論]戦争と男の「ヒステリー」-アジア・太平洋戦争と日本軍兵士の「男らしさ」 軍医と患者の口問 口問 (中略) (三)お前の病気は一体なんだと思ふか?-ヒステリー (四)ヒステリー等は日本の兵隊にあるか?-ありません (五)一体どんな人間がかかる病気か?男か?女か?-女です[p195] →・ヒステリーの特徴である感情的反応の強さは、女性に生まれつき備わった性質である   ためにヒステリーは女性に多いという説明が社会的に広がっていた。 Ex)女性解放運動は、「ヒステリー性の跋扈」であり、「戒むべきこと」  ・軍隊における「女々しさ」=「女性性」を否定的価値として措定し、それを克服する   ようにする文化 ⇒ヒステリーになった兵士は、「女々しい」恥ずべき存在として自他ともに捉えられた。[p183-196]
第3章 誰が保証を受けるべきなのか-戦争と精神疾患の「公務起因」をめぐる政治- ・「戦時神経症」と傷病恩給の関係性はどのようなものだったのか。
1 陸軍における恩給制度 ・恩給法[p203-206] 傷痍疾病等差-一等症、二等症(公務起因でない場合) 恩給の種類:・普通恩給 ・ 一時恩給            ・増加恩給       ・傷病年金       ・傷病賜金 2 国府台陸軍病院における恩給策定 ・恩給策定は軍医によって行われていた。[p209-213] →軍医たちは、頭部外傷やマラリアなどの流行病患後の精神神経疾患のように公務に起因  することがわかりやすいものたちを「一等症」にする一方、「精神薄弱」は「二等症」と  した。 →精神分裂病、躁鬱病、反応性精神病、神経衰弱、癲癇などは公務に起因するか否かを判  定する要素として重視された。 ※ しかし実際にはこれらの要素ではなく、軍務への貢献によって公務起因かどうかを判断するようになった。
・「戦時神経症」をめぐるアリーナとしての臨床 →軍医たちは、戦争神経症の発症メカニズムを説明するうえで、患者の願望(逃亡欲求な  ど)を重視していた。 戦争神経症の治療の場は、まさに自らの生存・生活をかけた患者の訴えと、彼らが国家のために自らが払ったと主張する「犠牲」を客観的に証明できる器質的根拠がないことを立証しようとする軍医の主張がせめぎ合うアリーナだった。[p217] ※ 扶助をもらえなかった患者たちが「当局を非難し動もすれば反軍的なこと迄も云々する。」[p217]
・恩給の策定[p229,233] →・内地で発症した患者を一等症患者からなるべくのける。(1942年以降、内地で発病す   るものたちが中国大陸で発病するものたちを上回る。)  ・「勤仕年月六ヶ月以上」や「困苦状況」の証明がない限り、公務起因で発病したとはみ   なさない。
3 戦後の精神疾患と傷病恩給をめぐる言説と実態 恩給申請という行為への着目は、個人及び集団の戦争記憶が構築され、戦われる場や、自己の問題経験を定義し、社会や国家に向けて訴えようとした主体としての戦争被害者像を前景化させる。しかし一方で、その語りはある一貫したストーリーと公務起因とう法の規範を満たしていなければ裁定には結びつかなかったものと考えられる。援護法をめぐる議論でも指摘されたように、公務起因の要件として発症時期は限定されており、戦後長期間を経て発症した遅発性PTSDは対象外となった可能性が高いだろう。また、言語化不可能(困難)であるというトラウマの性質や、戦争・軍隊経験のように、戦地で殺し殺される恐怖、厳格な上下関係、飢えや病に苦しみながらの果てしない行軍など種々のストレスが複合的に絡み合う経験とは馴染みにくい制度であるとも言えるのである。[p253]
第4章 1 旧国府台陸軍病院入院患者の戦後 目黒克已による証言(1965年に旧国府台陸軍病院に入院していた戦争神経症患者を調査) 現在はそうでもないですが、調査した時点では精神病患者に対する差別があり、精神病であるということだけで日本の社会の中で切り離されていましたね。たとえ病状が軽くても本人も親族も言わないし、言えば就職も結婚もできない、出世もできないというのが普通でした。彼らは指針病であるということ自体を恥と考えていたし、その延長線上で返事をしない人々が多数いました。[p268]
2 神奈川県の精神病院に入院した元兵士たち 自己および他者に対して攻撃性を発揮する患者たちの存在 :「軍隊の現実が市民の現実に取って代わる時、感情や行為の認知スタイルも変化する・・・  この新しい認知の仕方、体験の仕方を身につけるということは人格の完全な変容を意味  する。」(シャータン)[p282] →・家庭内暴力の存在  ・「社会適応」の再考-結婚や就職を通しても「社会適合」はなされない。[p293]
3 臨床の場に現れた戦争の傷跡 PTSDはよく「異常な状況にたいする正常な反応」であると言われるが、そもそも正常/異常の境界線は、文化やその時代の価値観に大きな影響を受ける。「日常的に人を殺す」ことが「異常」であると考えるのは戦後の市民社会における価値観であると言えるだろう。「人を殺せる」兵士こそが「正常」であるという圧倒的な価値体系のもとで生きなければならなかった元兵士の中には、そうした軍隊の論理と、個人の良心や戦後の市民社会における加害行為を否定する論理とのギャップに苦しみながら戦後を生きた人々もいたのではないだろうか。[p191-192]
終章 なぜ戦争神経症は戦後長らく忘却されてきたのか? ⑴精神的犠牲者の大部分を占める戦地に取り残された人々の記録が軍事精神医療システム  から抜け落ちてしまっていたり、終戦時の焼却命令などによって失われたりしてしまっ  た。また彼ら自身も「自分だけが生き残ってしまった」という生存者罪悪感や記憶喪失  などのために証言することが困難であった。 ⑵軍事精神医療システムに組み込まれたとしても、過酷な「戦場」体験がその直後に何ら  かの影響を人間の心身に及ぼすということは認知されていたものの、それがいかに長期  的な影響を及ぼすかという点は考慮されていなかった。 →「戦場」とは地理的に限定された概念でいいのか、また国家間の戦争が終わるとともに   それは消失してしまうものなのか。 トラウマを負った人はよく「二つの時計」を持っていると言われる。一つは現在その人が生きている時間であり、もう一つは時間が経っても色あせず、瞬間冷凍されたかのように本尊されている過去の心的外傷体験に関わる時間である。そのような圧倒的な恐怖を核とする心的外傷後の反応として戦争神経症を捉え直してみると、病院に居るはずなのに敵襲に怯えたり、死んだ戦友の幻覚に悩まされる兵士や、明確に言語化はされてないがさまざまな身体の機能障害(とりわけ四肢の痙攣や目・耳の機能障害など軍事行動に関連する部位の障害が多かった)を呈する兵士など、彼らの心身に刻み込まれた「戦場」の痕跡が存在した。これらの事例に加えて、第Ⅱ部第四章の神奈川県や山形県の精神病院入院患者の事例もあわせて考えると、「戦場」という空間から離れ、「戦時」という時間が終わってもなお残る傷を生み出す-そして「戦後」もしくは「新たな戦前」になるかもしれない時代を生きる私たちもまた、その傷とともに生きている-ものとして戦争を捉え直すことが必要なのではないだろうか。[p306-307]
0 notes
kisanebacci · 5 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
セカンド減薬強行断薬断行療法批判
ハッタツ障害断薬断行療法批判
笠陽一郎 嶋田和子 内海聡 片岡聡 の四犯人の四悪四罪を、批判し続ける
笠陽一郎 嶋田和子 内海聡 三大掏り替えアクジ犯の四悪四罪を、糾弾し続ける
キーサンは己が生をかけて 笠、内海、嶋田和子の四悪四罪と闘い続け、クスリゼロ社会復帰成功宣伝ハッタツ障害当事者達と闘い続ける
笠陽一郎医師、あなたに、 えばっちは宿命のように問い続けます。 前進友の会というキーサン患者会の中で 今までと同じように全く変わらず これからも変わることなく 永遠に すべての精神医にすべての精神医療福祉業者に 問い続けます おそらく最後の一息になっても問い続けます りゅうさんにも問い続けます 「オマエハホントウニタダシイノカ」
我々は、ヤクチュウだ マヤクヤクチュウでアル それで、再度、問おう、 そのヤクチュウにしたのは、ナンナのだ 我々をヤクチュウにしたのは、ナンだったのか われわれが、最初に薬をムリヤリ飲まされたとき これは、マヤクで、ヤクチュウになると、説明をうけたのか 抜くときに、こんなに、シンドクナリマスヨ、と、 説明を受けたことがあるのか ないではないか、ナインだぞ、ナインだ。 我々をヤクチュウにしたものとはナンだったのか そこには、攻撃の手は延びず 怠惰な、怠け者の、成長の無い、キチガイ自身を 攻めるものになっているんだと、 そう、言っている そう、叫んでいるのだ、このタワケ者ドモ 笠よ、嶋田和子よ、内海よ、ドウナンダおまいら ソモソモ、精神病院などと、と云うトコロでは、 クスリの説明はおろか、ムリヤリ飲まされて、 しかも、口の中のチェックまで受けていたのだから、、、、 だから、こいつら、四悪四罪之四犯人ども、 今さらナニをほざいて腐るのや、 と、想うんである だから当然、こう言わせて貰う オマイ等の言う成長ナンゾは、 オマイ等の言う処方薬依存ナンゾは、 断固として、拒否させて貰う、徹底的に拒否させて貰う 断然、拒否だ、毅然として、拒否だ 断乎、断然、拒否だ 断固、徹底的拒否だ 毅然として、断固たる拒否だ 長々、言うのも、アホらしい。 我々は、キチガイ、ヤクチュウ、怠け者、アホンダラ、異常者、 精神病患者、キーサン、クルクルパァー、役立たず、鬼、 キチガイ病者 キチガイ患者、キーサンキチガイ、 汚い危険なキチガいまつろわぬ者達なのでアル 危険、汚い、キツイ、キチガイで、エエのんや それで、結構なんでアル 社会復帰失敗者のクスリゼロ失敗者のヤクチュウの ロクデナシの反社会復帰患者なのでアル ドコにも行くトコロがなく、行くアテもなく、行けもシナイので そんななかまたちが、患者会をこしらえて、維持し続けて ココに来ているのでアル 殺されないように、死んでしまわないように、 ココに来ているのでアル それでも、死んでシマウなかまが、、、、、、 それでも、殺されてシマウなかまが、、、、、、 我々は、それでも、行き続け、生き続け、るのである。 我々は、ココにこそ、ソコにこそ、誇りを抱いている
「生命の底で居直り」 「街で居直り」「街に居座り」続けているのである
「キーサン革命」とは、「生命の底で居直る」とは、 まさに、実に、コウいうコトなのでアル
精神病患者 精神病患者会 キーサン革命の鬼 キーサン患者会 キーサンセーカツ 激怒撃怒劇怒戟怒撃怒檄怒 鬼 怨霊 偏執狂 魑魅魍魎キチガイ 精神医との闘い、精神科看護士の暴力との闘い、精神病患者 精神病患者会、精神医へのおとしまえ キーサン革命 キーサン患者会 キーサン革命極意、自尊自主自衛自レク自炊自闘自爆自治を目指す意識を持った精神病患者会のことである
キーサン患者会 精神病院へのおとしまえ
正しい診断だから正しい処方と処遇になる 誤った診断だから誤った処方と処遇になる この『矢印』がある限り、 キチガイは医療というモノと 闘い続けるしかないのです。 正診を求めるということではないのです。 この矢印ソノモノをどうにかして 壊したいわけです。
カチコミ 精神病院 四肢拘束 保護室 閉鎖病棟 電気ショック 大量薬物投与 看護士の暴力  等々へのおとしまえ
精神病者のレクと食事会とカチコミ
生き延びる
「えばっち血涙記原則と基盤」
生き延びる
「キーサン革命極意全七巻」
ハッタツ障害とムリなゲンヤクへのおとしまえ
笠陽一郎よ少しは、眼を覚ませ 叩いてでも、眼を覚ましてヤロウ
「原則と基盤第一巻第二巻第三巻」
さてさて・・・
「患者を苦しめることにツナガル 『ハッタツ障害』『セカンド』『減薬実践』批判
其の壱から其の伍」まで
無理無体なハッタツ、ゲンヤク、セカンドを批判し始める
発達障害概念との闘い、ムリなゲンヤクとクスリはゼロが目標、発達障害バンザイ笠陽一郎医師との 患者会の誇りをかけた闘い 社会復帰圧力との闘い、クジラ家族会との闘い、発達当事者団体リトプカタオカとの闘い
「ナンなのダ」シリーズ全12巻
「キーサン革命宣言」 アットワークス社 江端一起著
「懲りない精神医療電パチはあかん」 千書房 前進友の会編著
「天上天下病者反撃 地を這う精神病者運動」 社会評論社
病者の本出版委員会  事務局ごかい 藤枝友の会 前進友の会
「バクチク本 キーサン革命」 人民新聞社 江端一起著
「かけがえの前進」 ドキュメンタリー映画 CINEMA塾 疾走プロダクション
長岡野亜監督 原一男監督
「精神病 エバタ病」
エバタ病併発躁鬱躁鬱躁鬱躁鬱病
患者個人の脳や神経や特性や症状のせいにするな
学校や会社や工場や教育や社会的要因を無視するなコチラの方を重視せよ
コテコテの躁鬱病 コテコテの反権力性人格障害弾薬誘導弾病 根性曲折的鬱憤噴火莫大爆破型人格障害火炎弾装着障害 刹那狂気的刹那危機型爆発性阿修羅羅刹人格障害砲弾装病 刹那的破滅壊滅狂鬼成長ホルモン分泌物糞尿付着分娩型人格障害毒薬品病 高屈折高粘着高爆発高威圧暴力憤慨唯我独尊反社会人格障害弾薬誘導弾障害 瞬時社会爆破世間爆発法律爆裂対好天気対好青年糞尿投擲型人格障害爆弾病 人生投擲瞬間確実着火性治療抵抗力感染先導的扇動的煽動型人格障害爆薬装着病 エバタ病
セカンドゲンヤクハッタツダンヤク療法批判
笠陽一郎医師批判、片岡聡批判、嶋田和子批判、くじら会批判
嶋田和子との対決 医療を考える会との対決
腐ったクスリゼロ到達社会復帰成功美談ハッタツ障害当事者との対決
笠陽一郎、嶋田和子、内海聡 之 四悪四罪
「批判其の肆 ハッタツ断薬療法批判」と
「嶋田和子とはナンなのだ シマカズ本の四罪」と
より、再構成してみました 四犯人の四悪四罪が分かりよくなるかと、想って 再構成して、読み直してみたら、コレはコレで 読み返すには、エエかなと想いました そしてシマカズ本批判として書いたものながら コレ四罪人全体の悪行ナンダナと想いました 医者二人ライタ一人ハッタツ当事者一人の 四犯人のヤツテは、ならなかった所業なワケです 再度、ご一読頂ければ、幸いです
笠陽一郎との対決 くじら会との対決
腐った笠リロン信奉者との対決
笠陽一郎には いいかげん目を醒まさせなアカん
今住んでいるところ
キーサン革命の巣窟 キーサン患者会 キーサン革命の鬼が島 躁鬱国 キーサン国 越前国 信濃国 山城国  キーサン革命の策源地 キーサン革命の行きついた先 精神病患者会
以前住んでいたところ
キーサン鬼ヶ島 怒ぐされキチガイ国 山城国 - キーサン市躁鬱町 躁国一丁目 鬱国一番  - 妄想ギリギリシュミレーション団地一棟 保護室 - キーサン革命の巣窟 キーサン患者会
越前国 信濃国 伊予国 駿府国 武蔵国 山城国
キーサン革命 カチコミ キーサンの仁義
連絡先(仕事)
医者や弁護士は無罪が証明されるまでは、有罪である  マスコミとギインには要注意
仕事
キーサン革命バンザイ
仕事
キーサン革命バンザーーーイイイ
仕事
精神医糾弾業
仕事
キーサン鬼ヶ島キチガイ国 キーサ
連絡先(個人)
ヂゴクへの道は善意で舗装される  愛と正義ほど恐ろしいものはない
自宅
キーサン革命バンザイ
自宅
キーサン革命の妄想スレスレギリギリシュミレーション策源地の地獄の一丁目 飯を一緒に喰い一緒に糞をして一緒に笑い泣く哭く一番地
キーサン革命の鬼ことえばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
1 note · View note
n0-l · 7 years
Text
2017.04.21
大学図書館に返す本と、とりあえず昨日届いたマンの短編をトートバッグに入れて、マスクをして病院に行った。晴れだった。三週間前、待合室で見た若くて可愛い女性を探したが、見当たらなかった。
「調子はどうですか〜?」女性医師が言った。 「けっこう、鬱というか、気分が上がらないなと思うことが最近多くてですね」 「鬱で気分が上がらない?」 「まあ、鬱って言っていいのか、は…わからないんですけど…鬱…まあ気鬱…がひどいと……なんかいつもならその、風呂場に本とか、持って行って、えー、読書とかしたりするんですけど、それもなんか億劫になってきて、風呂も、そのー、五日間くらい入らなかったり、まあ昨日は入ったんですけども…そういう日々が、続いていってしまっているかなと…」 「うん、そうですか〜〜。不安になるのはどうですか〜?」 「そうですね。不安になることも、まあ、あって…飲んで…ちょっと緩和させているんですけども…」
医師は、僕が話している間、「うん」と「ふーん」を多発した。
「大学はー行けてるんですかー?」 「大学は…退学届をですね…」 「あーそっかそっか。失礼しました。ちょうどこの三月にねえ」 「来年からまた、その、通信の大学に行こうと考えています。その、資格が取れる…ソーシャル…ワーカーの」 「ヘーーーーー!そうなんだーー!」とびっくりしたように相手は言った。その反応に僕はびっくりしてしまった。 「心に関わる仕事がしたいなって、まあ、自分でもちょっと、本とか読んだりするのが好きなんですよね」気後れしながらそう言い、「ですよね」という言葉の端の部分が相手に全く聞き取れないような掠れた声だった。 「精神科の精神保健福祉士のこと?」 「そうですね。精神保健福祉士として働けたらなと…」 「精神の問題を抱えた人の支援をしたいんだー?」 「そうですね、はい。けっこう、共に苦しみってのが感じられてしまうような性質で、何か助けてあげたいとか、悩み事を聞いてあげたいっていう気持ちはけっこうあってですね、人に会うと、でもそれってなんか、専門的な知識とか…があるわけじゃないし…その、経済的な面でも。自分がちょっとね、不安定なので、思って…はい。でもまあ最近思ったんですけどね」 「ああ、そう〜。でもよく精神保健福祉士っていう資格を知ったね。あんまり、こう少ない人数しかならない職種なので」 「なれない?」'ならない' という言葉が'なれない' に聞こえ、そう聞き返した。 「ん、あの、少しだけだって意味です。だから看護師とかに比べるとー、すーごく少ないです」
やがて診察を終える頃になり、僕は立ち上がって出ようとする間際に言った。
「やっぱり、鬱的な部分は我慢するしかないですかね?」 「うーん。我慢ていうか、上手に使うってことだよねえ。自分の限られたパワーをどう、優先順位をつけて何にエネルギーを注ぐか〜って」 「抗うつ剤とかって家にあるものを例えば飲むとかって禁止ですよね?」 「うーん。基本、デパケンのような躁鬱治療をする場合は、抗うつ薬は普通使わないもんよ〜」
そのあと、東にちょっと進み、駅東公園を左に曲がって少し進んだところにある以前にバイトの面接に落ちた酒屋に行った。公園では、ばあさんの集団がゲートボールをやっていた。こういう風景も僕が家にこもっている時、確かに存在しているんだと思った。カイザードームという1リットルのビールを買おうと思った。父親が昨日酒を飲まず「明日は飲もうと思って」と言ったから、このどでかい缶のやつを買ってみてやろうと思った。レジの裏を見ると、「KEITH」と書いてあるタバコが一番下に置いてあり、珍しいなと思い、スマホで調べると紙巻タバコではなく、リトルシガーという葉巻タバコのようだった。買ってみることにした。アロマ・ローストというのもあったが、マイルドを買った。葉巻はオイルではダメだからと思い、コンビニで売っているガスライターを探したがなかったから、コンビニに行ってライターを買い、早速外で吸ってみたが、なんて甘くて美味しんでしょうと思った。
大学図書館に向かった。新学年が始まり、人がおらず、 ひっそりとしていた、最近までの学内とは違って、学生でいっぱいだった。返却をしようとするが受付には誰もおらず、二階に上がり、エクリを三冊ほど取ってまた戻るとやはり誰もいないから、受付の目の前にあったベンチに座って、しばらく本を読むが、誰も来ないから、受付にあった電話の受話器を勝手に取って耳に当ててみるが、誰も出ないし、どこに繋がっているかはわからなかった。これもしかしてセルフでの貸し出しができるんじゃないかという考えが一瞬浮かび、とりあえず辺りを見回すがセルフ貸出機のようなものはなかったしそれはありえないだろうと思った。「巡回中。用がある方は事務所へ」というメッセージを見つけて事務所を探したら受付の左の奥に事務所があり、そこで声をかけるとおじさんが出てきた。それと同時に僕は若干安堵した。あの襟を指摘してくれた女性じゃなくてよかったと思った。前々回「襟立ってますよ」と言われ、前回「今日は襟立ってないですね」と来たので、今回僕はわざと襟を中途半端に立たせておいた。もしあの人だったら、それが一番いい選択だと思ったからだった。だが、おっさんだったので僕はすぐ襟を直した。
家に帰ると、エクリを読んだが、さっぱりだった。
子供はしゃぎながら、[自分のものとして]引き受ける像の動きと、鏡に写るその周囲との関係、つまりこの虚像的な複合とこれが裏付ける現実、それが自分自身の体であれ、人間であれ、さらには自分のそばにある諸々の対象であれ、との関係を体験する。125
わたしは他者との同一化の弁証法の中で自分を客観視したり、言語活動がわたしにその主体的機能を普遍性の中で取り戻させたりします。126
重要な点は、この形態〈自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ口のきけない状態にある小さな子供が、自分の鏡像を小躍りしながらそれとして引き受けること(?)〉が自我という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列の中へと位置付けるということであり、あるいはむしろそれは、主体がわたしとして自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。127
このように、主体が幻影の中でその能力の成熟を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態はゲシュタルトとしてのみ、すなわち、外在的においてのみ主体に与えられるものであって、そこでは確かにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験する所の騒がしい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性の元であらわれるのです。127
「ある研修グループが出版されたばかりの「エクリ」を読むことに没頭していた。病院のスタッフや研修員が集まる全体集会でラカンの読書会について報告したりもした」と、「横断性からカオスモーズへ」の163pに書かれていたことや、「1950年に病院の仕事に忙殺されていたウリがパリに行けないので、20歳のガタリにラカンを読むように勧めると同時に研究活動について報告するように要請した」「ウリのおかげで、ガタリは他の知的人士に先駆けて〈鏡像段階〉や〈攻撃性〉あるいは家族に関するラカンのテクストを発見する。これらの著述のもたらした影響は大きく、ガタリはそれらをほとんど暗記してしまい、1951-1952年頃には、知りたいと望む人に暗唱して聞かせることができるほどだった」と交差的評伝の49-50pに書かれていたエピソードなどを受けて、エクリに手を出したのだと思うが、今はその理論を凝縮した本が出ているのだし、それでいいんじゃないかと思った。三巻、というか一巻すら読めない。
僕は、ガタリがそのラカンのセミナーを聞くためにパリに、そしてソムリーのウリのクリニックに報告をしに、ミニバイクで往復したというエピソードがとても面白かった。
「ただそのセミナーを聞いた」とかではなく、「ミニバイクで往復した」という手段としての行動の実態を知るということは、とても面白い。
0 notes