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#風と共にゆとりぬ
taiyaki-taberu · 7 months
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『風と共にゆとりぬ』
会社員時代のことや悪化した痔などについて記された著者のエッセイ第2弾。
エッセイ第一弾『時をかけるゆとり』を読んだことがあるが、目の前の行為に対する心境をポップにセルフツッコみしていく様子が本を読んでいるというよりか漫画のような感覚に近く、めちゃくちゃ読みやすかったのを覚えている。本冊は日経新聞のプロムナードに掲載されていたものも集録されていたのだが、それは他のエッセイよりも体制を整えているというか、日経という後ろがあるからかポップさは少なかった。ただ、短い"枠"の中でも著者らしさを感じられた。むしろ短いからこそ洗礼されて印象に残るのかもしれないとさえ思われた。
合唱コンクールで使用する楽曲の歌詞を依頼されたという話があった。以下はその中での一節だ。
"私が合唱を好きな理由はいくつかあるが、そのうちの1つはあらゆる世代や地域を超えた共通言語になりうるからだ。"
読後は合唱コンクールという懐かし響きに触発されて、サブスクで昔歌った曲や、抽選に外れて歌えなかったけど知っている曲を聞きまくった。学校からの帰り道、恥も知らずに友達と大声で歌っていたあの頃を思い出した。思い返すと、他県の人と合唱コンクールなどの話をしたことがなかった気がする。今度友達に会ったら歌ってみて乗ってくるかチャレンジしてみよう。
2023.11.12
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patsatshit · 7 months
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
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ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
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僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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oyasumimumemo · 3 months
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週報-3
2024年02月12日(月)
朝、鏡を見たら顔にほうれい線があって半日落ち込んでいた。スキンケアとか表情筋トレとかちゃんとやろう、あと普通に増量するべきだ。体力もつくかもしれない。仕事が終わって少し買い物をしてから電車に乗った。電車に揺られて本を読む。彼氏が迎えに来てくれたドラッグストアでクリーム玄米ブランが安かったのでたくさん買ってもらう。社会の緊張感がしんどいことを彼氏に会った瞬間に思い出す。
2024年02月13日(火)
雑談がつらすぎて会議のほうが楽しいまである。
2024年02月14日(水)
バレンタインデーだった。朝、彼氏に本命チョコを渡した。車で会社まで送ってもらう。朝礼が終わると女性社員がお菓子を配りはじめた。内心何を思っていても皆様大人なので、私めにもお菓子をくださった。こういう無自覚の圧力良くないな嫌だなと思いつつも、いつも貰ってばかりだし・・・と日和って私もお菓子を配った。大げさにお礼を言う皆の顔を見ないようにして自席に戻り何食わぬ顔で仕事をした。生き様がダサい。なんかごちゃごちゃ思ったけど、手元にお菓子がたくさんあるのは良い。幸せのストックだから。彼氏に渡したお菓子は半分くらい私にリターンする。その上ホワイトデーもしっかり貰う。
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2024年02月15日(木)
ニヒリスト気取って暗いボカロ曲聴きながら帰った。いかにもな中二病(アラサー)・・・。ぬるくて湿った春風がエモくて泣きそう。仕事終わりに受診した精神科で彼氏にも関係する話題があったので帰宅後に内容を共有した。
2024年02月17日(土)
昨日は社内の講演会・祝賀会があって精神疲労でボロボロになった。私は純粋ゆえにフィルターが弱く、自分にとって有害なものを直にくらったりする。今日もそのストレスを引きずって彼氏に迷惑をかけた。でもストレス発散にホラー映画を観てたらすごい嫌がられてムカついた。一人でみてるだけの何があかんねん。私ら善人からみて到底理解できないような悪行も当人すれば「こんなはずでは」の末だったりするのだ。ちがうこともあるけど。
2024年02月18日(日)
ここ最近ずっと眠くて毎日昼寝をしている。季節の変わり目センチメンタルについて、夏→秋より冬→春のが嫌な感じでタチが悪いなあと思う。苛々する。ていうかセンチメンタル自体結構しんどい。しんどいけど、心地良い、けどやっぱりしんどい。
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ari0921 · 4 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの���写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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kyoto4 · 7 months
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20231103 文化の日、快晴
 このところずっと天気がよい。あまりにも雨が降らないおかげであちこちカラカラである。今年の秋は台風がきていない。発生しても日本列島にまであがってこない。気温も連日25℃をこえている。  文化の日という祝日は、日本国憲法が公布された日である。古来は天長節、明治天皇の誕生日にあわせ、新暦のこの日と明治節と定めた。そして戦後においてわざわざこの日を日本国憲法の公布日としたのは、明治節を祝日として残したいという政府の思惑と、日本という国が戦争を放棄した平和国家に生まれかわる、というつよい願いの入り混じった結果である。  でもそういうことはあまり現代では知られておらず、何か文化的なことをして過ごす日、と漠然と認識されている。文化的な行いを為すには、世の平和によって担保される必要がある。現実において、殺し合い、破壊の応酬をおこなっているような地域では、そんな余裕は生まれない。理想と社会的な現実は大きくちがうのかもしれないが、それでも「理想」を思いうかべることのできる能力を人間は持っているのだから、それを追い求めることは可能である。  夫鳥俛而啄、仰而四顧。夫獣深居而簡出、懼物之為己害也。猶且不脱焉、弱之肉強之食。(韓愈・『送浮屠文暢師序』より)  いわゆる「弱肉強食」の出典とされる鳥や獣が捕食活動をするさまを描写したところだが、食物連鎖の一部をとりあげたもので、それは肯定も否定もされるようなことがらではない。生存競争という字句には勝者や敗者という価値判断を含まない。ルールを整備し、誰もが気持ちよく生きてゆけるようにつかえるだけの知能をもちながら、それをあえて見ないふりをしてゆくというのは、なんとももったいないことだと思う。  紅葉がいくらかすすみはじめた。京都の風景が、いちばん美しく映えるのは、この時期、これからという人は多い。春は霞み、夏は暑すぎる。冬は彩の多くを失う。秋がよい。  当然のことながら、観光客がふえてきた。海外からもたくさん来ているし、道路を走っているクルマも他府県ナンバーが目立つ。新聞には毎度のことながら観光公害を危惧する記事が週に一度は掲載される。市バスは観光スポットのみに停車する急行バス導入をきめ、巨大な手荷物持ち込み対策もすすめようとしている。京都駅からの乗合タクシー運用も試験的にはじまった。それでもあちこちで、いろいろと問題はでてくる。問題の根幹は、観光客がふえることで利益を得られる人と、迷惑をこうむる人が別々であるという点にある。地元以外の業者の進出も、コロナ禍をうけてさらにすすんだ。  実際のところ、海外から観光に訪れる大半の人たちのマナーはそんなに悪いものではない。たまに、文化的なちがいの何かが目だつだけである。(あとはサイズの問題)。ちゃんと説明して呼びかければ、ほとんどの場合は通じる。  そうやって文化的な交流がすすめば、先々の思わぬいさかいは減らせることができる。知らないから畏れる。敵対するよりも仲間となるほうが、はるかに生存にかけるコストは小さくすむ。場合によって統治者は、共通の敵を設定することによって生まれる集団の結束を利用し、統治コストを落としたいと願うことがあるが、それは統治者のエゴである。文化とは非権威主義的なものである。人が人を支配することに、根本的に抗議するものである。  文化の日に思う。
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kennak · 8 months
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30代女性。セクシャリティがよくわからないので性欲と性癖について聞いてほしい。  【幼少期】小さい頃から性欲が強くよく父親の持っている週刊誌のグラビアページを見てニヤニヤしていた。セーラームーンのアニメが大好きで戦闘シーンのパンチラ(レオタードなので正確にはパンチラではない)をコマ送りにしてもらって喜んでいた。幼稚園で親友の女の子が用を足しているのをドアの上から覗いたり(ごめんなさい)公衆トイレで母親が用を足しているのをドアの下から覗いたり(ごめんなさい)公園で母親のスカートをめくって死ぬほど怒られたり(ごめんなさい)母親の実家に帰省したとき叔母の風呂を覗いたりした。(ごめんなさい)ただその後ふつうに叔母に風呂に入れてもらったときは恥ずかしくてずっと下を向いていたので、単に裸が好きというより相手の意に反して隠されているところを晒したいという加害欲込みだったんだと思う。  女体に興奮するのとは別に手のひらサイズの小さくてかわいい生き物を狭い所に閉じ込めてつついたりしたいという欲求もあった。ディズニーの「不思議の国のアリス」で牡蠣の赤ちゃんたちがまとめてセイウチに食べられるシーンの顔と悲鳴はたまらなかった。よく妖精のような生き物をいじめる妄想をしたけど自分はその対象が好きなのにいじめるとその対象に嫌われちゃうな…というジレンマがあった。  【小学生時代】夕方に再放送していた水戸黄門や大岡越前で町娘が悪いおっさんに手籠めにされそうになるシーンにものすごく興奮した。ただ子供なので裸に剝いたあとどうするのかはわからなかった。病院の待合室のテレビでそういうシーンが流れたとき明らかにいつもより人が見入っていてなぁんだみんな好きなんだとちょっと安心した。この頃まで性的対象は女性だった。(本当に女性が好きなのかショタや男の娘みたいに性的客体化されていれば男性でもよかったのかはわからない)  【中学生時代】オタク女性向けサブカル雑誌「ぱふ」を読む。記事や投稿コーナーで腐女子が男性キャラに「美人」とか「エロい」と言って盛り上がっている様子を読んで「男の人をそういう目で見ていいんだ…!」「男性を女性と同じようにオカズ要員として扱う界隈がこの世にあるんだ…!」という人生最大のカルチャーショックを受ける。ここらへんで主な性欲の対象が男性に移り変わる。リアルの恋愛には興味がなく周りの女の子たちがどうしてアイドルや恋バナに夢中になっているのか理解できなかった(今でもどんな人がタイプ?とか嵐だと誰が好き?と聞かれてもわからないので困る)  【高校生時代】テニプリ、BLEACH、銀魂、リボーンなど腐女子に人気のあるジャンプ漫画の全盛期で毎日起きた瞬間から寝る直前まで推しキャラや推しカプのことを考えていた。一番好きなのは受けがモブおじさんや攻めにレイプされる展開でそういう二次創作を読んだり妄想したりした。メインで好きなのはBLだったけど平行して女体に興奮するヘキも残っていたので、ドラマや漫画の女性登場人物がヌード写真集を見て嫌がるシーンを見て「これが一般的な女性の反応で見入ってしまう自分は異常なのではないか…」と不安になる。  【大学生時代】ゆっくり虐待にハマる。ウザいゆっくりに制裁を加えるよりキュートアグレッションの文脈で性的虐待する展開の方が好きだった。これは自分でもさすがにヤバい趣味だと思うので誰にも話したことはないし記憶に蓋をして努めて考えないようにしている。  この頃から刀剣乱舞など女性向けキャラカタログコンテンツが流行し、少年漫画には存在しなかった自分のアバターが作品内に登場したことで男性キャラ×自分にも萌えるようになる。(メインは男性キャラ×男性キャラで活動してたけど)思春期のころは自分の全てにコンプレックスがあって(今もあるけど)自分がかっこいい男性キャラと特別な関係になるのが厚かましいようで苦手だったんだけど、普段性的客体化している男性キャラへ向ける攻撃性を自分へ反転すれば夢妄想もイケることに気付く。かっこよくて悪い攻めキャラにレイプされたり利用されて捨てられる妄想が好きになる。  【現在】性欲が減退したのか妄想や二次創作自体以前より楽しめなくなった。BLはそこまで興味なくて男性キャラ×自分で妄想してる。(内容は催眠とかレイプとか)フィクションより現実世界のことに興味が出てくる。  ここから悩み相談になるんですが①女性なのに女体に興奮するのはなぜなのか?バイなのか?②幼少期から現在に至るまでレイプものが一番好きなのは異常か?③キュートアグレッションがあるのはヤバいか?  ①について以前朝日新聞の人生相談コーナーに「私は男性が好きで結婚もしているけれどAV鑑賞が好きで、若い頃は女友達と観てゲラゲラ笑ったりしていた。これはどういう心理なのか?女優に感情移入しているのか?」という相談があって、上野千鶴子が「女体=エロい 男体=エロくない という社会のジェンダー規範を内面化していれば女性が女性に性的興奮するのは何もおかしなことじゃない」的な回答をしていて長年の疑問が解けた…!と思ったんだけど、その理屈だと私が社会経験の乏しい幼少期から女体の秘匿された部分に強い関心を持っていたのが説明できないのでは…?やっぱり本能なのか?と気になっている。②についてDLsiteの乙女向けランキングでは無理矢理凌辱系が常連なのでそんなことはないと思いたい。ただレイプものが好きと言ってもポルノあるいは自分がポルノ認定した作品のレイプ展開が好きなのであって、普通に楽しんでいた作品でキャラクターがレイプされるとショックで何年も引きずったりする。「日出処の天子」の刀自古と「ダウントンアビー」のアンナの件はトラウマになっている。③について最近もセイレーンに味噌漬けにされるモブちいかわ族に加害欲を喚起されて困っている。(嫌いだからいじめたいんじゃなくて可愛いからいじめたいという気持ち)  なんでこんなことを聞いてほしいのかというと自分の性癖がはっきりしないまま婚活とかしていいのかな…?と気になったから。人付き合いが苦手なのと怠惰な性格と2011年氷河期卒で一度も就職したことがなくて婚活市場のスタートラインにすら立てないのと中学から大学卒業までぼっちで一時期いじめられたり学校生活にろくな思い出がなくてもし子供なんかできたら自分の黒歴史の再放送を見る羽目になりそうなのが不安で今まで一度も人とお付き合いしたことがない。そもそも人に恋をしたことがない。一人の方が気楽だけど「二次元キャラじゃない生きてる人間と恋愛する」「セックスする」という人生の実績解除をしたい気持ちもあって…めちゃくちゃ自分本位で申し訳ないですが…。そこで自分のセクシャリティとか性癖に引っかかるところがあるのにそれを隠したまま恋愛とか婚活するのは不誠実かな?というのが気になって行動に移せないでいる。あと男性は慣れてない分自分が性的客体化されるのは嫌じゃないか?とか。  まとめると・女性なのに学生時代は勉強に集中できない程エロいことで頭がいっぱい・ドハマりしたキャラの8割は男性だけど視覚的にエロいと思うのは男体より女体・男性を好きになるのにも腐視点と夢視点で二種類ある・リアルの人間に恋をしたことがない。テレビで見てかっこいいなと思うことはあっても熱が持続しない・性的な妄想は好きだけど自己肯定感が低いからか自分がリアルに当事者になるのは嫌悪感や恥ずかしさがある・性欲と加害欲が結び付きがち  アラサーあたりから下の二項目が結びついて「自分を性的客体化されることが地雷な私が犯されるのを客観的に見て可哀想だと思って興奮する自分」みたいなよくわからないことになってる。まあSとMは表裏一体とも聞くし…。「性欲と加害欲をぶつける愛しい他者」が「性欲と加害欲をぶつける愛しい自分」にチェンジしたのかな?そう思うと人生の主役が30代半ばにしてやっと二次元から本人になった気がするけどもう手遅れな気がする。  【追記】長いのでそもそも読んでもらえないんじゃないかと思っていたのですが皆さん意外と真面目に読んでくださって体験談やアドバイスなどもいただけててうれしいです。特に同じ女性と思しきユーザーからの共感、AVや男性向けアダルトコンテンツ好きな女性も多いのがわかってほっとしました。もっとボロクソに言われても仕方ないと思っていたら意外と「ごく普通、実行に移さなければ問題ない。婚活でもわざわざ言う必要はない」というブコメが多くて驚いています。「性癖」の誤用についてめちゃくちゃ指摘されてた。日常的に誤用の方で使っていたのでつい…以後気を付けます。あと「一度も就職したことがない」と書いたので「子供部屋おばさんニートなのか?」とのコメントが多かったですがバイトはしてます。(パートやアルバイトの場合就職という言葉は使わないそうなので)子供部屋おばさんなのはその通りです お恥ずかしい…。以下答えられそうな範囲で返信。  「女性が女性に対しての欲望を持つって言うのはラカンかなんかで読んだ気がするな。ほぼ忘れてるから説明できんけど笑"女は存在しない"だっけ。男のホモセクシャルというのは存在するが女のレズビアンはない、女を愛するのは(身体)男にとっても(身体)女にとっても正常。なぜなら(身体女は存在するが)精神が女は存在しないから、みたいなこと書いてあった希ガス。」  「女は不死である」って本ですかね?すごく興味を惹かれました。読んでみたいです。  「なにが元増田に対して言いたいかって言うと、自分の性癖に怖がらずに、むしろ色々取り入れたらいいんじゃないかってこと。あとレイプ陵辱暴力は確かに興奮するけど、例えるならばめっちゃ味の濃い料理なので、そればっか食ってたら舌が鈍くなるんじゃないかってこと。まあ鈍くなってもいいと思うけどね、自分の人生だし。」  味の濃い料理めちゃくちゃわかります…!どんどん強い刺激に慣れてしまってふつうの萌えに不感症になるのよくないですよね…。  「②については仕事してた身から言うと、受ける側が積極性を持たない極限がレものだ。マグロのフィクション版というか…。ただそこに首絞められとか腹パンされ嘔吐、腹ボコなどが入ってくると別の願望になるよ」「レイプって自分から何かする事ないし、なんならセックスするかどうかの決定自体も「されてしまった」にする完全なる受動的性行為なんだよ。」  めちゃくちゃ納得しました。よく「令嬢が政略結婚させられるけど実は両想いで…」みたいなTL漫画の広告が流れてきますがそういう「良好な人間関係を築く手間をすっ飛ばして素敵な相手と一緒になりたい」みたいな需要のもっと極端なやつってことか。    『婚活の理由が「恋愛」と「セックス」だけど、婚活とはそこ意外と関係ないから気を付けて。婚活は「これから人生を共に生きるパートナー」を見つけるところであって恋愛したことない人を恋愛させる機関じゃないぞ。セックスの可否ももちろん夫婦生活に影響でるけど…』「それよりも、自分に結婚が本当に必要かどうか、掘り下げた方が良いのでは。」「婚活は時期尚早ではないかな まず出会いの場に行って自分が人を好きになる感覚があるのかトライしつつ、自分の食い扶持を自分で稼ぐ経済的自立をするのがまず大前提では」  それは本当にそうですね…。言われてからよく考えたら「結婚したい」じゃなくて「結婚したいと思えるほどリアルの世界で好きな人が欲しい」だったかもしれません…。  『「女性はエロいことに興味がないもの」みたいな社会通念が女性の生きづらさに繋がっている気もする。性別に関係なく性欲の多様性はある』  実際最近女性の性欲について解説した増田の内容が非常に理性的だったのと、「俺のイメージする女性の性欲に近い」というブコメが上位に来ていたので「そうじゃない奴もいるよー」と知ってほしくて書いたところはあります。(ただ私の文章読んで女だって性欲まみれじゃないか!と思われるのも世の女性に迷惑かけないか心配になってきた…)  「言っちゃ悪いけどクソしょうもない凡庸な悩み。長文書いていいのはやかんが沸騰するの見て興奮するとかそんなレベル。」「正直どうでもいい凡庸な自分語りだけど一度も就職したことなくて今何してるんだ?婚活してる場合だろうか。たぶんその前に友達作るとこから始めた方が良さそう。性癖以前にコミュニケーションに問題ありそう。」  そう言われましてもアンケートとか取った��とないし本当にわからなかったので…。みんな普通に友人と何に勃つかとか何に萎えるとか会話するものなんですか?羨ましいです…。  「こういう長文を書くのは最も増田らしい増田の使い方のひとつだと思うしみんなどんどん書いてほしい。」  優しい。  『性癖や嗜好よりも学生時代のいじめとコミュニケーション不全の方が問題。現実逃避からやっと今に目が配れるようになったと。あなたに告げたいのは「これからよくなるから大丈夫」てこと。』  優しい。泣く。  「性欲が強いと豪語するなら、自分の自慰行為や性行為について語らなければそれは性欲として見做すことは間違っている。同性が性的に辱められている不様さを愉悦する悪趣味なだけだ。同性の友人の不幸にも興奮してそう」  それは全然違います。男性キャラがレイプされると女性キャラと同じくらいかそれ以上に興奮するので「同性が性的に辱められている不様さを愉悦する」には当てはまらないし、本文にも書いてありますが「好きor可愛い」と思っているキャラがひどい目に遭う展開に興奮するのでむしろ制裁されてスカッとするようなキャラがレイプされも全く嬉しくありません。「同性の友人の不幸にも興奮してそう」←尊敬するフォロイーの痴漢され報告ツイートを見てその人の良さを何も理解していない知らない男に雑に消費されたのが悲しくて未だにふっと思い出して嫌な気持ちになるのでそういうことを言われると腹が立ちます。侮辱された気分です。
自分の性欲と性癖について聞いてほしい。【追記】
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tutai-k · 1 year
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文学フリマ東京参加します
2023年5月21日(日)、東京・流通センターにて開催される文学フリマ東京36にサークル・ヨモツヘグイニナで参加します。 お品書き↓
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新刊は『けものと船乗り』、『ヤールルカ』の二種類です。
★けものと船乗り 船をことごとく沈めてしまうという「魔の水道」を挟んで、島とむきあう街……その街の灯台には、もう一匹のけものが棲みついていた。 街のひとびとには「けもの」と思われているアーシアは、ある日磯で船乗りと出会う。けものに焦がれて水道を渡りたがる船乗りは、それでも、星の読み方も、鳥のことも、航海についての知識をすべて、忘れてしまっていたのだった……。 B6サイズ/42ページの小さな幻想小説です。 ★ヤールルカ 動物写真家とハンター、ふたりの女が出会い撮ることと撮られることについて考えるファンタジー小説。B6サイズよりちょっと大きい、12ページのコピー本です。
通販で予約していただいてるかたは本日発送いたしましたので、週の半ばころには到着するんじゃないかなと思います。
他に持ち込む本ピックアップ ★山梔の處女たち(準新刊) アルファの少女ふたりの物語『首輪とロマンス』、魔法学院に通う少女たちと教師・使い魔の物語『魔女の選択』、人生の岐路にまどう少女たちの恋をすること・しないこと、そして未来についての物語です。 ★浜辺の村でだれかと暮らせば(おすすめ) 田舎で漁師をいとなむ日和。父が死に、自分の収入だけでは生活が心許ない…そんなとき「だれかと暮らす気、ない?」と声をかけられて……。やってきたのは都会の男。人付き合いは得意じゃないし、村に役立つような特技も持ってない。それでも、「この土地」で生きていくことを、ともに選ぶ「ひとびと」の物語。
委託本 ★『征服されざる千年』(鹿紙路さん) 東アフリカ×三つの時代×百合、歴史と物語りの剣呑な関係、歴史実践という切実な営みについての長編小説 5~6世紀 魂の救済を求め沙漠を旅する修道女と元娼婦(シリア~エチオピア) 15~16世紀 漁師の娘に恋い焦がれるムスリマの少女(マダガスカル~エチオピア) 21世紀 共に逃避行する歴史人類学者と考古学者(日本、マレーシア、シンガポール、マダガスカル、ロンドン、タンザニア、エチオピア) ほかに、鹿紙さんのお手製の素敵なブックカバーも委託します! ★『日々詩編集室アンソロジーvol.1 わかち合い』 31名の寄稿者とHIBIUTA AND COMPANYのスタッフによるエッセイや旅行記を集めた本です。全部リソグラフ! ★『存在している 編集室篇』 HIBIUTA AND COMPANYに集うひとびとが、どこへ行こうと出発し、どんな道のりを歩いて「ここ」へたどり着いたかをそれぞれの言葉で語るエッセイ集。第一弾は編集室篇。編集室にいる「ひと」のことを知らなくても、「ひとりの人間がどんな軌跡を歩いてきたか」、言語化に長けたひと・出版という選別に勝ち抜いたひとだけでなく「だれもが」語りたいときに語る試みをする本です。
他に↑の日々詩編集室から9月に『ゆけ、この広い広い大通りを』というタイトルの三人の女たちの物語が出るので、試し読みの冊子(ちょっとだけ)とかも持って行きます。よかったらどうぞ。
文フリ東京、お隣は八束さん。
新刊の「アフター・ヘブン」、その書物について書かれた八束さんのブログを読んで、このような目を持つ稀有な作家の書物に手が届く世界は幸福である、と言う思いを強くしました。 『光や風にさえ』もそうなんだけど、権威や能力主義からは取りこぼされてしまう個人(これはフィクションの登場人物であっても、というかフィクションの登場人物であるからこそ、ストーリーラインに載せられず、すくいあげられなかったりする)の物語を、丁寧に、(逃げずに)、決してあきらめずに「描く」姿勢に敬服する。
東京、行くのは実は三年ぶり。鹿紙さんに委託をお願いしていたので、初頒布の本ばかりではないけれど、それでも、わたしがこの本たちを携えて東京へ行く、と言うことは「初」で、どきどきしている。
新幹線の切符、予約を間違えて、東京→名古屋というのを買っちゃった。
今週中に、もう一個くらいお知らせしたいことがあると思うので、そしたらまた、ブログを書きます。
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onishihitsuji84 · 10 days
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『ガラスの街』
 五月は読書の月だ。僕は本を読んだ。数多の本を。  最初、それは次の小説のアイデアを得るためだった。頭上の樹々からワインのための葡萄をもぎ取るような、循環を続けるにあたっての摂取だった。いきおい堕落しつつある現実から少しでも意識を逸らすためでもあった。  普段の僕は、本を読んで時間を過ごすことは少ない。長い時間ひとつの文章に集中することができないのだ。  それに読むことよりは書くことのほうがずっと大切だと僕は思っている。読む行為は、現実という制限された枠組みのなかではせいぜい膝丈ほどの優先度しかなかった。  しかし五月ではあらゆるものが落下した。熟れ過ぎた果実が枝との繋がり終え、足元に開いた坩堝に呑み込まれていった。読む行為もそうだ。落ち、煮え滾る器の中で混合した。  いまでは僕の「読む」は混沌としている。それはいまでは長身の僕、その僕以上にのっそりとそびえる一本の巨大な柱となっている。物言わぬ花崗岩の柱。五月、僕はそんな柱を中心にぐるぐると回り続けている。手は文庫本に添えられ、目は9.25ポイントの文字に注がれている。足は僕の意識から離れて交互に動いている。ひたすら歩き、ひたすら読んでいる。柱から少し離れた誰彼にどう見られているかどう言われているかなんてことお構いなしに。
 いや。そんな話自体がどうでもいい。関係ない。  きょう、僕は自分自身が”うすのろ”だということを語りにきたのだ。
***
 五月。  僕はどんなものを読んだのだろうか。   金ができて僕がまずやったことは大学生協の本屋に行くことだった。カウンターで二枚つづりの注文用紙を手に取り、もう何年も使い続けている青のボールペンで書いた。 "9784002012759"  週明け、僕は地下の生協で注文の品を受け取った。『失われた時を求めて』全十四冊。いまは第一巻を読んでいる。僕がふと目をあげると、あの遠い窓の奥で、大叔母が目を爛々と輝かせているというイメージが浮かぶ。泳ぐような精神の移ろいもまた。
 シェイクスピアの『夏の夜の夢』も読んだ。 『MONKEY』のvol.31の三篇、ケン・リュウ「夏の読書」、イーディス・ウォートン「ジングー」、ボルヘス「バベルの図書館」も読んだ。  仕方なく後回しにされていた本を買って読んだのだ。  金銭の自由は、精神という鈍い壁に茂っていた蔓植物のような不足を一太刀で解決した。
『春の庭』も読んだ。『九年前の祈り』も。  ウルフの『波』も読み始めている。  僕の貪欲は、過去に読んだことがあるかどうかなんてものでは選ばなかった。カーヴァーの『象』、春樹の「タイ・ランド」、マンローの「イラクサ」、ヴォネガットの『スローターハウス5』。マラマッドの「悼む人」も読んだ。
 一度の時に、僕はこれらの本を読んだのだった。  こんなに大量のフィクションを仕入れて、いったい何をしようとしているのか?  紛争でも起こそうとしているのか?
 何のためか。それは僕自身にもわからなかった。  僕は特定の目的をもって読んだわけではなかったようだった。五月の読書は「文章の上達」や、「ストーリーテリングの技法」といったそれまでの興味とは別物だった。振り返ればそうだとわかる。
 五月の読書は、それまでの自分を抑制しようとする、極めて機械的な態度とは違っていたのだ。  言えば、それは無垢に機械的な読書だった。  これまでの僕は断じて読書好きではなかった。どんな傑作でも一時間もしないうちに音を上げて投げ出した。ドストエフスキーやメルヴィルと出会ったときでさえ、メインストリームは”書くこと”、そして”生きること”で変わらなかった。この五月に僕は初めてむさぼるように読んだのだ。頭を空っぽにして。堆い小説の亡骸の山に坐すかのようにして。
 それで、僕は何かしら成長したか。  いや。成長なんて一つもなかった。  そこには変化さえなかった。二週間前と、すべては同じだった。僕が着るのは依然深いグレーのブルゾンだった。コミュニケーションもぎこちないままだった。  だからそこで起きたことはシンプルだ。つまり、僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み、ある一つの事実に行き当たった。 「僕はなんという��能なのだ」という事実に。
***
 一昨日から僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み始める。  『MONKEY』でオースターのエッセイを読んで彼のことを思い出し、その夜に丸善に立ち寄った僕は彼の本を久々に手に取った。  三日で読んだ。 「三日で読む」というのは僕にとってほとんどあり得ないことだった。僕のリュックサックには必ず四、五冊の本があった。読むときにはまずそのとき一番惹かれる本を手に取った。そして十数ページが過ぎ、抱いていた軽度の好奇心が満たされてしまうと、浮気性の蜜蜂のようにまた別の小説の甘いのを求めるのだった。  だから、一日目、二日目と時を経るごとに加速度的にその好奇心が勢いを増し、三日目には150ページを一つの瞬間に通貫して読んでしまったのだ。僕の読書体験において、異例中の異例だった。
『ガラスの街』を読んで、僕はうちのめされた。徹底的に。 ”面白さ”、そして”新鮮さ”の二つが、やはり事の中心だった。読書においておきまりのその二つが今回も僕を虐め抜いたというわけだ。 『ガラスの街』を読み終えた瞬間、僕の生きる世界のどこかが確実に変化した。
「祈っている。」  僕がこの最後の一文を読んだとき、曇り空の下にいた。その一節がこちらに流れ込んできたあと、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと揺れるほどぶっきらぼうに立った。取り乱していたのだった。僕はそのままであてもなく歩き始めた。 「これ以上座っていることはできない」 「このまま座っていると、僕は頭の先から崩れ落ちてしまう不可逆的に」  そうした、僕という精神を一切合切覆してしまうほどの強烈な予感のために。  僕は予感に乗っ取られないよう、何も考えないと努めていた。何も感じまい、何も見まい、と。  リラックスを意識し、肩から力を抜く。腕をぐんと伸ばし、指をぽきぽきと鳴らした。イヤホンを耳にした。『ベリーエイク』を再生する。いつか足元をくすぐった波のように心地よい、ビリーアイリッシュの声に心をしっとり傾けた。  もちろん、そんなことは無駄だった。とりあえずの形など、何の助けにもならなかった。以前との比較から始まる違和感たちは強権的に僕の感情の戸をこじ開けた。  歩く中、透明の空気が奇妙に凪いでいた。風景からは特定の色が抜け落ちていた。向こうで笑う声、衣擦れの音、靴底の摩擦。音という音がワンテンポずれて聞こえた。  変化は女王だった。彼女は支配的だった。  僕は小説による変化を受け入れ、恭順のように認めたわけではなかった。むしろ、変化は僕にどうしようもなく訪れていた。言わば、言い渡しのようにして。  女王を僕は素晴らしい小説を読んだ後の”ゆらぎ”の中に閉じ込めたのだった。何もかもが、僕に合わない形に作り替えられていた。建物を構成する直線はいまやでたらめで恐怖がつのった。頭上の青はこのように汚い灰色では絶対なかった。
――そして、当然、この点についての文章はかたちだけに過ぎない。これらは省略した文章。書く必要がないということ。  なぜなら、あなたたちもかつて同じ経験を経ているからだ。小説を読み終えたあとに来る世界の変質を。  加えて、忘れるなんてことを女王が許すわけもない。これについても言わずもがなだろう。
 そして、重要なのは変化のよろめきではない。   そうなんだ。きょうしたいのは女王の話とは実は違うのだ。ここであなたに伝える言葉は破壊だ。  破壊。  それは”面白さ”と”新鮮さ”のコンビがやったわけではなかった。変化の体験に曝されたゆえのサイコ・ショックでもない。  木々を打ち砕く手斧となり、人体を壊す剣となり、バベルの塔をゼロにする雷となったのは、オースターの書きっぷりだった。
 オースターは、考え抜いていた。  そこで”感じ”は排除されていた。  感覚による言い表しがまるで無かったのだ。僅かにイメージに依拠するものがあっても、それは必ず共感の姿勢だった。テーブルに身を乗り出し、相手の声に耳を澄ませる態度。
『ガラスの街』では、本当に一切妥協はなかった。僕はとても信じられず、街を隅から隅までしつこく歩き回った。しかし、本当に妥協はどこにも無かった。
 オースターは僕とコミュニケートすることを選んでいた。そのへんの宙に感覚という水彩画を描いて「ほらご覧」とする、ごく個人的で他者には見せつけるだけという表現は徹底的にしなかった。チャンドラーを始め、私立探偵ものに由来する例の論理的な高慢さはあった。しかし、確実にオースターは読者と対峙していた。彼は殴る、殴られる痛みを完全に了解した上でリングに立っていた。  彼の据わった眼が僕を揺るがしたのだった。彼は完全の脆弱性を知りながら、完全に書いていた。  それだから、彼を読んだとき、僕は……
 向こうから厚底ブーツの女が歩いてくる。  女は痩せている。薄い、流線形の黒一枚に身を包んでいる。背が高く、ありったけに若い。二十歳前後に見える。二つの瞳はキャップに隠れている。すれ違いざまに見える耳にさえ、カナル型のイヤホンで黒が差されている。マニキュアはあまりにも美しい銀色に染まっており、高まりを誘う。  センスがいい。綺麗だ。  彼女はなんて豊かなんだ。  僕はそう思う。  ほとんど同時に、ガラス一枚を隔てた向こうで本を読む人を見つける。  また女だったが、今回性別は重要ではなかった。その読む人は区切られたブースで、文庫に目を落としていた。化粧や唯一のファッションなどもなく、やはり装飾は重要でなかった。というのも、いまにも涎が垂れてきそうなほどに口をあんぐりと開けて読んでいた間抜けなその放心が、僕の記憶に楔として打ち込まれていたからだ。
 これらのスケッチが、何かを直截に意味することはない。二つの風景は隠喩ではない。  正直に、上記は僕が受けた印象の再放送だ。  この日記は『不思議の国のアリス』ではない。二つは作為的な意味を持たない。  書いたのは「意味を持たない」ということを明らかにするためだ。  その内容でなく、外側、僕のスタイルという基本的な骨組みを露わにするためだ。
 そう。だから、つまり……僕は痛みから逃げている。オースターとは違って。  きょう、読んで、事実は突きつけられる。
***
”言葉”はもう一度響く。
「大西さんの小説は、けっきょく古典から表現を引用しているだけ」
「僕は彼にもう興味がないんだ。かつて、彼は賢い人だと思っていた。書くものに何かしらの意味があると思っていた。でも、そうじゃないと知った」
「あなたの課題は、独自の世界観を提示できるかということです。海外の小説、そして村上春樹でなく」
***
 そして、このように敗北してもなお、僕は決定的な何かについて述べることはなかった。張りつめた表情で、まやかし、それ自体に必死に祈る。もうそのような生き方しかできないと信じ込んでいるのだ。
「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
 祈りの文句を何度も何度も口にした。  僕の声はいつも通りにすごく軽くで響いた。  そして一度響いてしまったものは泡沫のようにたちまち消え去った。
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alaephoenicis · 9 months
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「答えは愛」
「で、質問は何でしたっけ?」
Dr. アリーナ・レセニヒによるインタビュー
ゲスト:サンユ
オリジナル動画:https://youtu.be/ZJSXAyWoPw8
【和訳】 ALAE PHOENICIS by Telegram
サンユとは
Dr.アリーナ・レセニヒが「サンユ」を紹介:
サンユは私にとってとても特別な人。4年半前に出会ってから、私の人生はとてつもなく変化し、良い意味でひっくり返りました。それ以来彼女と共に歩んでいます。あらゆるレベルでの学びがあり、それまでの人生では想像も出来なかったことを実行できるようになりました。今やれていることは以前はとても出来ませんでした。私はとても怖がりな人間だったからです。特別な時代に、流れに逆らって泳ぎ、自分の顔を公に晒して啓蒙活動をし、多くの逆風を受けて…それでもって、結構楽しくしていられるなんて…誰も信じなかったでしょう。きっと叫びながら逃げ去っていました。
そして、考えたこともなかったような新たな人生の基準も得ました。
人との付き合い方や、自己表現の仕方はとても自由になり、彼女のおかげで濃い喜びを感じるようになったことで、人生が良きように代わりました。
本日、私のスピリチュアルな師であり、愛する友人であるサンユが来てくれてとても嬉しいです。
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アリーナ:こんにちは、チョコ・マウス(笑)
サンユ:こんにちは、愛すべき人(笑)
アリーナ:来てくれてありがとう。彼女には大方50回ぐらいお願いしたのよ、私の公開インタビューに来て「愛」と言うテーマについて語って欲しいって。だって、それがサンユ自身であり、サンユが人生で体現していることであり、彼女を構成するすべてを表現しているから。
彼女は常に断っていたのだけど、あるとき私は彼女が弱気になった瞬間を捉えたわけ。とっても嬉しいわ。でも、エンジェル、どうしてこんなに時間がかかったの?
サンユ:…愛とは、永遠から来ているもの。言語とは、限られたツール。ということは、何かを言葉にする度に、私は「これは完全ではない、何かが違う」と感じる。それは「大海を風呂桶に流し入れる」ような感覚がする。そして…(口ごもって)
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サンユ:それに...言語は、「味」を伝えることが出来ない。もし、私が今、あなたの知らないインドの果物の味を教えたくて、「想像してみてね、噛み心地はデーツとバナナを合わせたような感じで、甘みはラズベリーとキウイとパイナップル、でもそれほどジューシーではない」って描写するとします。…どれぐらい時間が掛かる?
アリーナ:決して無理な話ね。
サンユ:もし、果物の味さえも伝えることが出来ないならば、「たったひとつの味」をどうやって伝えられる?
一方で、言語はガイドにもなる。あなたが「塀を作りたいのだけど、どうすればいい?」と尋ねてきたとすると、「石、次に粘土、石、粘土…これを積んでいけば?」って伝えて、何が起こるか見てみましょう、となる。ここで私がどう思うのかはどうでもいいの。あなたが私を信じようが信じまいが、どうでもいい。要は、あなたが「この体験」に心を開けるのかどうか。そして、単純にまる一日、石と粘土を交互に積み上げてみれば、出来上がったものと「塀」とに結びつきを見つけられるのかどうか、あなたが自分自身のために知ることができる。こうして、「言語」は道標にはなる。
そうやって、あなたは私が弱気になる瞬間を捉えたわけ。
アリーナ:なんて、素敵!
でも…「愛」とはあなたにとって何なの?「とても言葉には出来ない」っていっているのはわかったけれど、それでも言葉にしてみようとするならば、どのように描写する?どういう意味で言っている?
サンユ:私のいう「愛」とは、二人の人間がお互いに「愛している」といい、それと同時に「他の人は愛していない、もしくはより少なく愛情を感じている、もしくは別の種類の愛情である」ということを示唆するものではないわ。私が話そうとしている「愛」とは、そういうジャンルのものではなく…
アリーナ:でもそれが、殆どの人が「愛」だと思っていることでしょ?
サンユ:そう。その通り。
私の云う愛は、ある種の、深くて普遍的な真実で、それは私たちの心の器の底の方に眠っている。そして、一つ一つの心は、巨大なダイヤモンドの一側面であり、神聖さを映している。すべての側面(ファセット)は、その神聖さを自分なりに映し出し、その他のあらゆる心を同じように照らす。なぜなら、それらも「自分なりの神聖さ」を映し出しているから。
つまり、私の云う「深い愛」とは、ひとつには「創造物全体の中に在る意識はたったひとつ、唯一の愛流である」ということ。そして私たちはこの愛を源泉として湧き出ているということ。愛という根源が私たちを織りなしてる物質。それが、私たちをここに生み出した意図だということ。
創造物は全体でひとつをなしており、人は誰でも、その「唯一の光」から生まれ出た。
私たちの身体は個性という差異のある世界に生まれ、その物質的なレベルにおいては多様性という原理がある。しかし、その物質的���ベルの背後には、非物質的なもの��スピリチュアルなものがある。そして、そこにはこの、たったひとつの流れしか無い。
そして、ふたつ目の秘密。これは誰でも、望みさえすれば自分の中に発見できる。それは、私たちが永遠の存在だということ。生み出されたこともなく、死ぬこともない。私たちはスピリチュアルな精神的存在で、人間的な体験というのを80年とか90年間ぐらいをこの身体の中味わう。そして、身体が亡くなっても、私たちは未だそこに在る。つまり、私たちは永遠なる意識体として、時間制限付きで人間としての経験をしている存在だということ。
アリーナ:OK。ご説明ありがとう。でもね…
それは私たちが日常体験していることではないわ。だって、私たちはお互いに別々の存在としての体験をしている。分離され、孤立し、殆どの他人のことはどうでも良くて…なぜ、そうなのかしら?
サンユ:私たちにはある種の社会的に導入された催眠、心理的条件付けが施されている。「私は私の身体であり、私のマインドが考えているものであり、自分の過去を合計したものである」、そのように教育されている。いわゆる「ボディ=マインド・アイデンティティ」と呼ばれるもの。それはとても精鋭な輪郭を持っていて、形があり、顔があり、名前がある。「ここに居る私以外は、その他の世界」だと思っている。それを私は「分離のアイデンティティ」と呼んでいる。
エゴとはEGO - edged God out - つまり、普遍的な宇宙意識は自意識から追い出されている。まるでメルヘンにあるように、偽の王様(EGO)が王座に座り、本物の王様が追放されている状態。
アインシュタインは、こうして私たちが互いに分離していると思い込んでいることを「意識の視覚的錯覚」と呼んだ。
アリーナ:そうね… では何故、EGOと同一視するのをやめて「愛の意識」の中で生きることが大事なのかしら?
サンユ:量子物理学、そして古き叡智によると、私たちは自らの精神を以て、その現実・人生・世界を創造しているとのこと。イエス・キリストは「汝の信じる通りのことが、汝に起こる」「汝が考えるものに、汝はなるだろう」といった。
量子力学は「あなたの思考が、あなたの現実を創る」とした。
一日に、6万の思考がマインドに入ってくる。天才と統合失調症の人には一日8万にまで至ることも。
つまりそれは、まるで宇宙飛行士のヘルメットをかぶっているような感じで、その中では6万の思考が軌道に乗ってヒューヒュー飛び回っているようなもの。私たちは自己解釈の世界にいる、(頭を指して)これはストーリーテラーなわけ。これは毎秒毎秒、ストーリーを創り出していて、私たちはシミュレーションのような世界の中にある。
ここで、例え話をすると、真夏の暑い中、アイスカフェの外席に100人ぐらい座っているとして、そこへ想像を絶する驚くほど美しい女性がやって来る。ミニスカから覗く長くてスリムな足。豊満な胸。とにかく華麗そのもの。彼女は前列にあるすべてのテーブルの間を通り抜ける。最初のマインドが思うことは「ワオ!なんて美しいのかしら!…毎日鍛えてるの?どうしよう、私はもう半年もちゃんとトレーニングしてないわ。いい加減にジムに行こうとずっと思ってたのに。ああ、でも毎月の費用を払えるかしら…でももうイヤ、お腹はダボついているし、足だって…明日絶対に申し込みに行こう」。次のマインドはこう思う:「なんて女。あんなのと付き合いがなくてよかったわ」。その次のマインド:「まあ…60年前は私もああやって人生を楽しんだわ。人生の春は本当に良かったわ。でも正直なところ、80歳になった今は、あんな虚栄心市場で誰かと張り合ったりしなくていいので私は楽だわ。あの娘はせいぜい楽しめばいい」。次のマインド:「なによ、売春婦みたい。この世は売春宿じゃないのよ。もうちょっと肌を隠せないのかしら。親にしつけられていないの?破廉恥な」…等等。
あ、一つ忘れていた。もう一つのマインドは「おお!あの娘とベッド・インしたいな。でもあんな外見の娘が僕になびいてくれるはずがない」というやつ。
そこで、懸賞付きの質問。このアイスカフェの客たちは「誰」を見ているのでしょう?
アリーナ:誰もが、自分のことしか見ていない。
サンユ:その通り。誰もが、この美しい女性をスクリーンに見立てて、自分の価値観、自分が癒せていない心の傷…または自己の存在価値に残された傷、自分の夢や願望、世界観、人間観を眺めている。
彼女はスクリーン。(頭を指して)これはスライド投影機で、スライドを差し込む割れ目がここにある。そしてこれまで自分が溜めてきたすべての条件付け・刻印・プログラミング・パターン・過去が、このスライドに入っている。このスライドを通して、自分自身をこの女性に見ている。…ということは、私たちはかつて、自分自身以外をこの世の中に見たことがない、ということ。誰もがこの女性の中に別人を見ているだけではなく、誰もがこのアイスカフェという同じ場所に居るのに、そこには100種の世界があって、ひとつは爆発せんばかりの楽しい気分になっているのに、1,5メートル先の席では爆発せんばかりの憤りを感じている。誰もが、自分だけの世界に生きている。
そうなると、トランプについて、コロナについて…何に関しても、誰かの意見に耳を傾けたところで、世界についてそんなに多くのことはわからない。実際には、「世界とはこういうものである」と主張している人物のことが、本を開くように見せられているだけ。
私がまだ、診療所を営んでいたころ、多くの愛すべき患者さんたちがやってきた。コロナの期間に関していうと、ある人は人類史上最大の残酷で邪悪な黙示録を目前にしており、ある人はパラダイス・黄金時代へ移行する直前のように感じていた。そしてその中間には更に、様々な色彩があった。そして、全員が同じ惑星に住んでいるのに、そこには75億種類もの世界が存在しているのは驚くべきこと。
エゴ意識には、いくつかの強迫観念がある。
その内のひとつは、分極化という意識。こいつは常に審判しないと気が済まない。審判のひとつは、世界を善と悪に区分化することで、当然、善側は私だ、となる。
アリーナ:違う違う。善側は私よ!私の方が善側よ!
サンユ:あら…(笑)言っておくけど、あなたは邪道に走っているわ。私たちのどちらか一人が善側なのだとすれば、それはどちら?
アリーナ:そう、それは私よ。善側は私。
サンユ:アハハハハ!じゃあ、こうしましょう。「私たち」は善側ね?OK?(アリーナ:OKよ!どっちにせよね(笑))
それで、「善良」だと謳ってきた者たちが残してきた血痕を辿れば…善良なキリスト教徒たち、善良な回教徒たち、善良な資本主義者たち、善良な植民地主義者たち、善良な共産主義者たち、善良な国家社会主義者たち… これらを振り返ると、私たちは本当に「善側」に属したいのかわからなくなってくる。そして意図的ではなかったことは確かであろうと、どうやら地獄への道というのは「善良」という名の石畳で張り巡らされている。
人類の歴史は、人類の歴史を何一つ教えてくれていない。今のところはね。でも、それはこれから変わるかも知れない。(アリーナ:今がチャンスよ)そうね(笑)。私たちには、自分自身と世界を別の形で眺めることが出来る。その別の形とは、創造物を全体として捉えることと、すべての小さなパーツは大きな全体を反映している。ラテン語の pars pro toto (一部が全体を代表)。小宇宙は即ち大宇宙である。イエスの述べていた、天界は即ち地上界、鏡の法則、アナロジーの法則。露の玉がどれだけ小さかろうが、それは創造物全体を反映している。どういうことかというと、私がこの世で目にするもののすべてを、私は自分の中に見出すことが出来るし、私が自分の中に見出すすべてを、私はこの世に見出すことが出来る。
そして…私は何に対して戦おうとしているのだろう。
そこで、あなたの「EGOから離れて「愛の意識」への移行がなぜ大事なのか」という質問だけど、アインシュタインの言葉を借りると「原因がつくられたレベルでは、その問題を解決することが出来ない」ということ。
アリーナ:つまり、憎しみは憎しみをもって解決できないし、怒りは怒りをもって解決できない、ということね?
サンユ:そういうこと。だって、不安・憎しみ・憤りといったものは、分離のアイデンティティから起こったものであり、この問題解決には、上位の階層へ移行しなければならない。それが「一体感」という意識。ワンネス、統合、愛。
そして…病んでいるマインド(意識)は、分離のアイデンティティという幻想の中にあり…つまりワンネスを破り飛び越えてしまっていて、断片化された世界を創造してしまう。
マインドが健全ならば、それは愛の意識の中にあり、愛に満ちた世界を創造することになる。
アリーナ:ここで、ちょっとプライベートな質問をするわね。あなたは心理セラピストであり、27年間いくつかの診療所を営んできたけれど、あの巨大な「C危機」がやってきたとき、あなたはあなた自身や何よりスタッフに、今後どのような規制が及ぶのかを懸念して、診療所を閉鎖する決断を下して、それまでほぼ500㎡の敷地にある大きな家に住んでいたのに、今後何をどうするのかわからないまま、ほとんどすべてのものを手放したわけだけど…
サンユ:でも知ってる?以前、私はいつも鍵を探しまくっていたでしょう?でも今は、この惑星で私の車の鍵はひとつしか無いのよ。なんという気楽さ!(笑)
アリーナ:それがまたあなたらしいわね。生活基盤のすべてを失ったのに、鍵が減ったって喜ぶなんて。でも、あんな形で自分の生活基盤を手放すよう強要されて、あなたにとってそれはどういうことだった?
サンユ:強要された?(アリーナ:ええ)
ねえ、ちょっとしたゲームをしない?(アリーナ:いいわよ)
私は思春期の娘で、あなたは私の母親ね。
あなたは娘に、自分の人差し指で自分の鼻を触らせたいの。
娘の私はそれを最高に馬鹿馬鹿しいと思っていて…だって子供が思春期になると親ってなんだか変になるのよね。私はそれが嫌で。母親のあなたは云うことを聞かせようと頑張って欲しいの。
アリーナ:わかったわ。
サンユ、人差し指で鼻を触ってご覧なさい、いい子だから。
…サンユ?…ほら、鼻を触ってよ。ねえ、触ってったら。今すぐに!
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指図を受けて、うつむくサンユ
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しつこく言われて、目をそらすサンユ
サンユ:OK。ちょっと待って。
では、云う通りにしなければ、どうなるの?
アリーナ:4週間テレビ禁止。3ヶ月間外出禁止。次の誕生会は3回なし。それとxボックスも3ヶ月間禁止。
サンユ:ちょっと待って…(上の条件を復唱すると、アリーナが肯定)。
ふーん…(しばらくうつむいて考えてから)
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ゆっくりと鼻を触るサンユ
サンユ:エンジェル、(満足そうに微笑むアリーナ)今、決断して行動したのは誰?
アリーナ:あなたね。
サンユ:(頷いて)正解。どこで強要されたのかしら。私がやった。自分の決断。
そしてあなたの質問は、それがCの時期にどのように反映されたのか、ということよね…(しばらく考えて)そうね、アジェンダ2030を取り上げましょう。ワーストケース(最悪の場合)は、信じがたい虐殺があり、生存者は皆バイオロボットに変身。
私はそれ同類のものを自分の中に見いだせるのだろうか?
長く探す必要はない。私も人生の最初の3分の1はお肉を食べていた。たった3センチの口内で味わう喜び。如何なる呵責も感じずに、敢えて…いえ、何も考えてさえいなかった。この3センチの喜びのために、誰かが動物を一生「収容所」で虐待し、苦しませることを容認していた。
ここで誰かが、「サンユ、だって人間とは違って、動物なんだから」って云うかも知れない。それは理解できる。けれど、動物の痛覚は人間と変わらないことも今は知っている。動物も人間と同じように愛情を感じること、そして自分以上に子供に愛情を掛けることも知っている。私にとってその点で、人間と動物の区別がない。やっぱり「感性を持つ存在」。その意味で、それを主義として自分の中に見出すのなら、何に対して私は戦闘をおこなうのだろう。それでも、だからといって私はそのアジェンダに自分を差し出すつもりはない。全くない。どちらかといえば、私はその主義を自分の中に再発見しようと決断し、自分の中で統合しても、今後はマニフェストしなくて良いということになる。これは他のテーマにも繋がってくる。
「お前はクリスマスも大晦日も、家族と過ごしてはいけない」と言われれば「はあ、そうですか。ご説明ありがとう。でも私のつもりは全然違って、当然クリスマスを家族と過ごすために会いに行きます」と言うでしょう。
そう。当時、私はマスク解除証明を発行していたことで、警察との対峙があった。そして、自分の中のどこに“警察”を見いだせるのか、自問した。すぐに明らかになったのは、彼らは「自分たちの世界」、つまり「階層構造と秩序で成り立っている法と規律と義務と権利の世界」を愛しているということ。そして、彼らは自分たちのやり方で、自分たちのツールを自分たちの世界のために駆使する。私は自分のやり方で、自分の世界を、彼らとは違う手段で確保しようとするわけで、そこには当然差異がある。それでも、自分の世界を確保しようとする主義主張を彼らは映し出していた。そこで私は争う必要がない。
私に言えるのは、「ご訪問ありがとう。当然、私は証明書を発行し続けますが、この問題をどう解決しましょうか」ということ。「私は罰金を払わねばならない?なるほど。私がそれを受け入れたいのか、よくかわからないので、様子を見ましょう。私の子供はマスクを着用すべきということですが、何故なのかご説明いただけますか?あなたの見解は興味深いですが、私にとってはそれは全くもって真実ではないし、重要でもありません。私の子供がマスクを着用せずにいられるよう、何でもやります。父兄イニシアチブを設け、動画を構成し、なぜマスク義務に反対なのか説明します。その他の組織に働きかけ、法律家に相談します。これらのすべてに効果がなければ、私は子供を学校には行かせません。そして、あなた方がホームスクーリングをさせたくないのであれば、私たちは国を去ります」。
「あなた方は、私にワクチン接種を受けさせたいのですか?なぜ?絶対にイヤですね。どうしましょうか?私は刑務所行きですか?OK。この転生では私はまだ刑務所に入ったことがないです。では、外からの条件に縛られないで自由に生きるための訓練を喜んでさせてもらいます。それは何時からスタートしますか?」
これらはひと言で言い換えると、「no war(戦争反対)」。
私は繋がり(connected)続けていたい(訳注:高次の自分と)。この、何事もジャッジしないという繋がり(connection)。ドイツ語のUrteil (音:ウルタイル/意味:審判・ジャッジ) という言葉は良く出来ている。Urーというのは原初・オリジナルなものを指し、Teilというのは「部分、分けた一部」と言う意味。原初の段階ではひとつだったものが、意識によって分割されているからジャッジが起きる。
そうして、審判・ジャッジするいかなるものにも、私はエネル��ー的に連結しようと思わない。それは私を弱らせるので。
つまり、私は自分自身のエネルギーの中に留まり、そこと繋がり続けます。それは当然「民事不服従」ということになる。だって、私の世界で不正が正義として扱われるのなら、民事不服従とは「愛の行動」だということになり、服従こそが犯罪。私が愛に満ちた抵抗の道を選ぶのは当たり前じゃない?でも、そこには憎しみも分断もなく、戦争も起こらない。
アリーナ:わかったわ。そこにあるのは唯一、愛だけ、ということね。でも、それならばこの世の邪悪はどうなるの?
サンユ:(大きく頷いて)…うーんと。
同様のイメージとして… 「電流」をとってみましょう。ラジオに電流を流すと音が出る。電球に流すと明かりが灯るし、ヒーターを通すと暖を取れる。
このイメージをもって、「愛」という流れを想像すると、権力志向の人の頭に差し込まれたスライドのフィルターを通った結果、その愛は「暴君」という姿で映し出されるかも知れない。
別のフィルター、お金に執着する人のスライドの場合、愛の流れがやって来ると、その先の結果は窃盗犯かもしれない。
3つめのフィルター、3つめのマインドセットであるスライド。それは宗教的…もしくは政治的思想。愛の流れがその意識フィルターを通ると、果には狂信的なテロリストが表現されるのかも知れない。
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愛流は、どんなマインドセットによって濾過されるかで、最終的表現の形が異なるだけ
どんなスライドがフィルターになっているかによって、結果は歪み、果には倒錯的なものにまで至る。
だから、いわゆる「邪悪な人物」というのも、自分がやりたいようにやる権利がある…もしくは、それをするのが正しいことになるのかも知れない。…例えば自爆テロ…そうして他人を死の巻き添えにするとか。その者のマインドセットからは、それは正しい行動ということになっているか、もしくは「自分にはその行動を起こす権利がある」とみなされている。
改めていうと、私は彼らを正当化しているのではなくて、心というのはジャッジに興味がなく、ひたすら「理解したいだけ」なのです。
2000年前のベストセラー(訳注:聖書のこと)には「隣人を自分のように愛せよ」とあったけど、私には「隣人を自分自身として愛せよ」と聞こえてくるし、その声から更に「敵を愛せよ」とも聞こえてきた。
そして、ここであなたに質問するけれど、私は「隣人(訳注:原語では「最も近くにいる人)」そして「最も遠くにいる人」を愛すべきだという。では、この最も近距離の人と、最も遠距離の人、これら両者の間のどの辺りに切れ目があるのか?
どういうことかというと、ファウチだとか、ゲイツだとか、ドイツ健康相のラウターバッハだとか、シュワブだとかなんだとか…みんながこの中に含まれている。
「主よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。
では、彼らは何故、知らないのでしょうか?
彼らは、自分たちが何者かを、知らないのです。
自分が永遠の意識体であり、しばしの間、短い体験をするために肉体に宿っているだけなのだ、ということを知らなければ、その無知から苦悩が生み出される。それは、無常のものにしがみつくことであり、死に絶えてゆく儚さへの恐怖がそこにあり、自身をそれと同一視していると、その他の創造物と自分とは分離しているという世界観にあり、そのために利己的考えに陥って、その他の世界と自分との繋がりは絶たれてしまっている。
この世の犯罪のすべては、加害者が被害者と自分を同一視しないことから起こる。
だからこそ、私たちは自分の意識に働きかけ、エゴという意識によって生み出される分離分断を手放し、ワンネスの意識に至ることに価値を置くことになる。
アリーナ:うん…それで、この世の行く先についてのあなたの予見は?終末の世がやってくるのか、それとも新世界の誕生へ向かうのか。
サンユ:…蛹にとっての「この世の終わり」というのは、この世にとっては「蝶の誕生」を迎えること。
私たちは今、本当に自分たちがどのようなプロセスの中の、どの地点にいるのか、わかっているのだろうか。
私にはわからない。
ただ、愛というのは「目的地点」にとらわれてはいない。
想像してみて。今日が月曜日だとして、木曜日にはこの世のすべての核爆弾が投下されるとする。どの島だろうが、逃げ場はない。そこで、あなたの玄関のベルがなり、開けてみると誰もいないので、ドアを締めようとした時、足元の玄関マットには赤ちゃんが寝かされていた。木曜日には世界が崩壊すると知っているあなたは、足元の赤ちゃんを有機ゴミに出すだろうか?それとも、抱き上げて栄養を与え、おむつを換えて愛撫し、木曜日に原爆が落とされたら、自分の身体で赤ん坊を覆い、守ろうとするのだろうか。
それはつまり、愛は「結果とは無関係」だということであり、結果は自ずと現れてくる、それだけのこと。
アリーナ:そう、そういうことなのよね。ありがとう。私は皆さんに、身体的健康について自分の知識をシェアしたいとは思っていますが、その他にすこしでも、感情面、そしてスピリチュアルな側面についても自分が学んだことを、皆さんんにシェア出来ればと思って。
〈2022年秋に開催されたワークショップ・セミナーの紹介〉
サンユ:私たちの核となるものは、永遠に神聖であり続ける、これは全く持って素晴らしいこと。どういうことかというと、私たちの奥深くにある自然は太陽であり、人生において何が起ころうと、この太陽は決して破壊されることはない。この核心は永遠に神聖なまま。
スクリーンに上映されているのはホラー映画だったり、アクション映画だったり、家族ドラマだったり。しかし、上映が終われば、スクリーンは真っ白に戻り、なんの破損もなく、焼き跡もついていない。全く変化はなく、壊されることはない。私たちの内なる太陽(光)とはそういうもの。
人生を歩む中には、転生という観念、つまり別の人生の存在と共鳴することがある。人生は今回一度きりと考える人たちは、スラグのようなものに撒かれている。つまり幻想が玉ねぎのような層になっていて、そうした「概念(コンセプト)」に覆われている。それは分離の意識という誤った知覚であり、傷心、被害者意識にまみれている。
私たちが取り組むべきことは、この覆われた殻を取り外していくこと。
これはミケランジェロの説明に通じるものがある。
「こんな、雑な大理石の塊から、君はどうやってこの世のものとは思えないほど美しい、あのダビデのような姿を掘り出すことが出来るのか」という問に、彼はこう答えた「ダビデは既に大理石の塊の中に居るんだ。私はそれを覆っている余分な部分を取り除いているだけ」。
私たちはみんな、まさにそれをやっている。私たちは、真実ではないものはすべて、幻想として見抜くようになり、時と共に内なる光は自ずとして輝き出してくる。
こうした概念を自覚していくワークは大事。
私たちはあまりにも多くのことを、信じ込んできた。
そしてもしかすると、信じてきたすべてのことが、真実ではなかったのかも。
それで、人類は自分が考えていることを信じてきたために、苦悩してきた。繰り返して言います:もし、私たちがこれまで考えてきたこと、これが嘘であったのなら、これを信じていれば私たちは苦悩することになる。
しかし、素晴らしことに、宇宙は私たちの内部にナビシステム、いわゆる「感情ガイドシステム」を設置してくれた。私の感情は、私にとっての方磁石のようなもので、毎秒の如く私の日常、そして私の人生に寄り添ってくれている。
そして、アインシュタインはこうも言った:「私は神の思考が知りたい。それ以外は二の次だ」。
では、神の思考とは?実際には神は思考をしておらず、存在そのものなだけだけど、イメージとして、神という存在が思考するならば、。それは愛という思考。
もし、私たちが宇宙に漂う愛の思考と一致して振動しているならば常に、私たちは感謝、感激、献身、結束、幸福を感じるはず。
しかし、もし私たちが宇宙の思考と一致して振動していないのならば。即、憤り、悲しみ、失望、傷心…いわゆるネガティブな感情に襲われることになる。
そして、そのようなネガティブな感情が降りてきたときこそ、高次の自分はあなたに向かってサインを送っている:「君は今、君の真実とは共鳴しない振動の仕方をしているよ、戻りなさい」。
私たちはこれを学ぶべき。〈部分的にワークショップの内容紹介〉
アリーナ:締めくくりに、何か私たちに向けて言っておきたいことはあるかしら?
サンユ:アインシュタインの引用だけど、「人は、最初から実現不可能に思えるかどうかで、その思想の良し悪しを見極めることができる。それゆえ私は、希望するすべての人たちとともに、愛の思想、愛に満ちた世界をあえて夢見るのである」
そして、ヴィクトル・ユゴーの引用:その時が訪れたアイデアほど大きな力を持つものはない。そして今、約1万3500の戦争と36億人の死者を経て、ついに愛の時が来た。
安全を守るために自由を放棄すれば、自由も安全も失いかねない。
そして、安全とは港に停泊する船でもある。しかし、船はそのために造られたのではない。
そして今、変化の風が吹くとき、私たちは何を望むのだろうか?
防護壁を作りたいのだろうか?それとも風車を作るのか?
防護壁とは、抵抗すること、コントロールすること、しがみつくことを意味し、風車は手放すことを意味する。
そして時には、自分らしくいられるようにするため、私たちは自分らしさを手放さなければならないこともある。
そして、ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの女流版画・彫刻家)はかつてこのように言った:私たちの才能は、使命である。(ドイツ語で才能は「ガーべ」、使命は「アウフガーべ」)
そして、私たちのガーべが誕生時に託されるものならば、今私たちはどうすべきなのか。闇について嘆きたいのか、それとも明かりを灯したいのか、そして、私たちのガーべを昼の光に晒し、大いなる全体に捧げ、私たちが己の道を行くことで愛の意識へと到達することを望んでくれる人たちのために、どんな明かりを灯すのか。
なぜなら、きっと今こそ人類史上最も重要な革命の時代が訪れているのだから。政治革命ではない。経済革命でも、社会革命でもない。
起ころうとしているのは、自己の意識変容。分離のアイデンティティから、愛の愛テンティティへと移行しようとしている。
マハトマ。「偉大なる呼吸」と言う意味。
マハトマはこう言った:「あなたがこの世に見たいと願う変化、あなたがその変化になりなさい」。
彼は、何故そのように言ったのでしょう。
それは、私たちはひとつであり、分離した存在ではないから。
そこにあるのは大きなひとつの意識という大海。
私たちは人間という意識領域の中に、互いに繋がり合いながら集団として存在している。
あなたが成し遂げる如何なること、どんな針穴をあなたがくぐり抜けようと、それは何処かの誰かに何かをもたらし、この誰かも、自分なりの針の穴をくぐり抜けている。
そして、何処かの誰かが自分のためにくウォンタム・リープを成し遂げたとして、それはあなたに跳ね返ってきて、もしかするとあなたは自分にとっての新しいレベルへとジャンプすることになるのかも。
一人は万人のために、万人は一人のために。
そして…危機というものが来るのは大抵、ある種の生き方がもう耐え難くなった時。
そして、問いかけるべきことは「すべての社会には、それ相応の革命が起こる」ということ。そして今、私たちは愛の革命を望むに値しないだろうか?
アリーナ:私はそれにイエスと答えるわ。そして、その道へ向かおうとする誰もを、喜ばしく思う。
サンユ:そして、その道へ向かおうとしない誰かをも、喜ばしく思っていいのよ。彼らが己の道を往き、自分の魂が求める全てを得ていけるよう、願いましょう。
アリーナ:その通りね。私のエンジェル、一千回、感謝を述べさせて。
サンユ:ありがとう。百回分の感謝をお返しするわ。
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kinemekoudon · 1 year
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【8話】 弁護士に言われたとおり取調べで黙秘してみたときのレポ・前編 【大麻取り締まられレポ】
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前回のあらすじ 僕とプッシャーと友人の3人で、共謀の上に大麻を所持した容疑で捕まった僕は、接見で当番弁護士に「50パーの確率で不起訴を狙える」と言われていた。
僕は「どういう理屈で50パーなんでしょうか?」と弁護士に尋ねると、弁護士は「共謀の罪での逮捕は、他の方が自白してしまうケースが多いんです」と答える。
僕は「一緒に捕まった2人は自白しないと思うので、大丈夫だと思います」などと言うと、弁護士は「ところが、いざ捕まってみると喋っちゃうんですよ、これが。そういうケースを何件も見てきましたから」と恐ろしいことを言うので、僕は少し勘ぐって黙りこくる。
弁護士は続けて「むしろ、ほとんどの人が喋っちゃいます。黙秘を続けられる人はサイコパスみたいなひとしかいませんね」と笑いながら言う。僕が「まぁ…2人はサイコパスっぽい感じはあります」と応えると、弁護士は「そうですか。いずれにせよ、不起訴を狙うのであれば、現段階では2人を信用するしかないですからね」と身も蓋もないことを言う。
しかし弁護士は、僕が気落ちしているのを見てか「まあ、売人の車で大麻が見つかっていて、持ち主が判明していないという状況ですから、このままいけば、犯行の主体を立証できず、証拠不十分のために不起訴となる可能性は高いでしょう」などと僕に期待を持たせてくれた。
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それから1時間ほど、弁護士に今後の対策について色々と教えて貰った。ただ、僕がやるべきことは、黙秘と署名押印拒否ということであった。不起訴を狙うにあたって、黙秘は自分の利益にはならないが、不利益にもならない。また、調書の署名押印を拒否すれば、調書を証拠資料として使用することを防ぐことができるのである。
また弁護士は、国選弁護人として就いてくれることになり、僕が黙秘を続けるメンタルを保てるよう、頻繁に接見に来てくれると言うので、とても心強い味方がついてくれたと思った。
※このときに弁護士に貰った「取調べをウケる心がまえ」というプリントがよく出来ていたので、pdfのURLを貼っておきます。
接見を終えると、消灯・就寝時間の21時が過ぎ、22時をまわっていた。場内は暗くなっていたが、監視のため蛍光灯がついており、居室内も天井の蛍光灯3本中1本だけ明かりがついていた。
居室に戻ると、留置官が「今日は5番の布団敷いといたから。あと寝る前の薬あるから、このコップに水入れてきて」などと言うので、僕は洗面で水を入れ、鉄格子の前に行く。留置官は配膳口を開き、僕に手を出すように言って、薬の包装シートのプラスチック部分を押して、中の薬でアルミ部分を破り、僕の手の上に直接薬を落とす。
僕はマイスリーとデパスを飲むのは久しぶりだったので、少しわくわくしていた。僕は薬を水で流し込み、コップを留置官に返すと、布団の中に入り込む。布団は非常に粗末なもので、敷き布団はこれぞ煎餅布団といった具合に入れ綿の少ない薄く固い布団で、掛け布団は薄い割に重く、ちりちりしていて触り心地の悪い毛布であった。
寝具は粗末、天井の蛍光灯は眩しい、加えて隣室からはいびきが聞こえるので、この環境で寝るのは、睡眠に神経質な僕には難しいことであったが、こんなこともあろうかと、あらかじめ睡眠薬をゲットしておいたのである。
薬を飲んでから、1分ほどでデパスが効いてきて、強ばった筋肉が弛緩し、あらゆる不安が和らいでくるので、(今日は本当に長い一日だったけど、未体験のことばかりで結構おもしろかったな…)などと天井を見つめながら前向きな回想をしていた。
さらに10分ほど経つとマイスリーが効いてきて、眠たくなってくると同時に、思考が少し加速し、個人的におもしろい発想が連続して生成されているように感じるので、結構楽しい。そうして自分の思考にニヤけたり感心したりしていると、次第に意識が遠のき、いつの間にか眠っていた。
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――逮捕から2日目。朝、起床時間とされる6時30分の10分前に目が覚めた。6時30分になると、消えていた蛍光灯が点灯するとともに、留置官が「起床―!」と大声を出して、まだ眠っている収容者を起こす。
布団を畳み、右隣の居室のベトナム人と入れ違いで布団置き場に布団を置いてから居室に戻ると、配膳口にブラシと雑巾の入った桶が置かれており、トイレと洗面を掃除するように指示をされた。
トイレと洗面はステンレス製で、水垢や尿石もなく清潔であったが、パフォーマンスとして掃除をし、ブラシと雑巾を桶に入れて配膳口に戻した。留置官がその桶を回収すると、今度は扉を開けて掃除機を渡し、床を掃除するように指示をしてきた。床は誰かの抜け毛が多く落ちていたので、割と丁寧に掃除機をかけておいた。
掃除機をかけている間、留置官が配膳口にタオルと石鹸、コップに歯ブラシと歯磨き粉を置いていたので、僕は掃除機を留置官に返してから、洗面で歯を磨き、顔を洗った。
タオルなどを抱え、鉄格子の前で待機していると、昨日左隣の居室でいびきをかきながら寝ていた、ガタイがよく目がギョロリとした50代くらいのヒゲの男が、ロッカーに向かう際にこちらを見てきた。
ギョロ目の男は僕と目が合うと、30度くらい頭を下げて「こんにちは!」と大声で挨拶してきたので、僕は少し萎縮して「あ、ちわ…」とぼそぼそした声で挨拶を返しておいた。ギョロ目の男は続いて、僕の右隣の居室にいるベトナム人にもかしこまって大声で挨拶をしていた。
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↑ギョロ目の男は清原を老けさせてもう少し色白にさせた感じ
ロッカーにタオル等をしまい、自分の居室に戻ると、すぐに朝食の支度が始まった。今回の朝食は、コンビニ弁当のようなプラスチック製の容器の中に、白米、きゅうりの漬物少々、マカロニサラダ少々、千切りされたたくあん少々に、メインのおかずとして野菜の入った薄く丸い形をした小さい天ぷら1つが入っている質素なものであった。
朝食を終えると、時刻は7時15分だった。本を読めるのは8時かららしく、仕方がないので文字通りゴロゴロしていると、「点呼開始―ッ!」という爆音が留置場内に響き渡った。
点呼の合図からすぐに、遠くの方で「第6号室!27番!」という大きなかけ声の後、「ハイ!」という収容者の声が聞こえ、「以上1名!」という大声の後、4人の留置官が「「「「おはようございます!」」」」と大声で挨拶をし、隣の居室へ移っていく。
それから、留置官らは僕の居室の前に立ち、「第2号室!5番!」と大声を出すので、僕は寝っ転がりながら「あい」と応えると、居室の後ろの小窓の前に立っていた暗い色のレンズの眼鏡をかけたヤクザ風の留置官が「座れぇ!!」と大声で怒鳴ってくる。
僕はまぬけ面で「はい?」と言ってみると、ヤクザ風の留置官は「座れ!座って返事しろ!」と大声で指図してくるので、僕は仕方なしに上体を起こし、「はーい」と間の抜けた返事をする。
しかし留置官からのリアクションはなく、3秒ほど無音の空間になる。僕は少し戸惑った感じで「はい…」と言い直すと、留置官は「以上1名!」「「「「おはようございます!」」」」と大声を出し、次の居室へ移っていく。僕は彼らを人間らしくふるまっているNPCだと思う。
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7時30分になり、“運動”の時間になる。この運動の時間とは、留置場の敷地内にある屋根のない狭い場所に出られるというだけの時間である。また運動場では、貸し出しの爪切りや電動ひげ剃りを借りることもできる。
僕はなんとなく日差しを浴びたかったので、運動場で伸びをしていると、隣の居室にいる若いベトナム人が「何で捕まりましたか?」と急に話しかけてきた。僕は「ああ。大麻持ってたのが見つかったんだよね」と応えると、ベトナム人は「ハハ。日本人はだいたいドラッグです。若い人は大麻ですね」と言う。
僕は「そうなんだ。よく知ってるね。ここに来て結構経つの?」と聞くと、ベトナム人は「6ヶ月います」と言うので、僕は驚いて「何をしたらそんなに拘留されるの?」と聞くと、ベトナム人は「ビザが切れて不法滞在で捕まりましたが、コロナのせいで入管は人がいっぱいですから、入管が空くまでここで待機させられています」と言う。
僕は「へえ。それは不憫だなあ。辛くない?」と聞くと、ベトナム人は「もう辛くないです。ここに来て日本語が少し上手くなりました」と言う。話を聞くと、ベトナム人はこれを機に、留置場内で積極的に日本人と喋り、日本語を上達させようとしていたらしい。立派だ。
また、運動の時間が終わる寸前に、左隣の居室にいるギョロ目のじじいとも少しだけ会話をした。ギョロ目のじじいは、僕とベトナム人の会話を聞いていたようで、「おう、5番は大麻か。おれは覚醒剤だよ。よろしく」と言いながら、僕と握手をして去って行った。
つづく
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
#フィクション#エッセイ#大麻#大麻取り締まられレポ
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elle-p · 6 months
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P3xP4 World Analyze pages 32-33 transcription.
“滅び” をもたらすもの “ニュクス”
月に宿るもの
地球の衛星である “月” は、太古の時代から謎めいた存在だった。人類が月に到達して生命が住んでいないことが確認されてからも、その大きすぎる衛星がどのように誕生したのか謎はより深まった。月は地球生成直後に小型の惑星が衝突し、飛び散った地球の断片が集まって誕生したとされる “ジャイアント・インパクト” 説が支持を集めている。しかし、地球に衝突した物体が惑星ではなく巨大な生命体だったとしたら?後に “ニュクス” と呼ばれるその生命体は地球の常識とはかけ離れた存在で、衝突後、地球の断片とともに月となった後も生き続ける。ニュクスの持つ性質は、やがて生まれた地球生命体に影響を与えることとなった。ニュクスは言ってみれば “死” そのものを放射しており、地球上の生命はそれを受けて死ぬ。生物は “死” を恐れ、それを避けようとするようになったことで結果的に高度な生命へと進化していった。
ニュクス本体は、本来の姿を取り戻すため、地球上に飛び散った自身の “精神” であるシャドウを呼んでいる。
シャドウの母体
地球に生命が発生したこと自体ニュクスの衝突が遠因となっているため、ニュクスがすべての生みの親ということもできたが、それはまた命を奪う恐ろしい敵でもあった。知能と呼べるほどの能力を得る前から、地球の生命は “恐れ” や “争い” といった概念を獲得していた。ニュクスは衝突の際に自身の精神を失ったが、それは地球全域に飛び散っていた。それらが “死” を発する源となったのだが、同時に地球生産の精神にも強い影響を与えていく。精神の一部が、ニュクスの断片と同化しようとする “シャドウ” と呼ばれるものに変化するのは、この影雪により始まった。地球の生命はニュクスとその影響を強く恐れ、誰もが持つその意識はゆっくりと “集合的無意識” に発展していく。地球生命の個体がそれを意識することはあまりなかったが、集合的無意識は対抗手段として “ペルソナ” の力を造り上げていき、限られた者がその力を使えるようになっていったのである。
人間のように発達した精神は、ペルソナ能力を扱うのに向いているが、同時にニュクスの影響も受けやすくなる。
ニュクスの復活
ニュクスの本体と飛び散った精神体は、それぞれ元の合一した状態に戻ろうとしている。シャドウもニュクスと融合を求めて移動するが、それはニュクスの精神体とよく似たものに変化しているため。シャドウは生命から分離した直後はたいていとても小さく力の弱い状態だが、シャドウ同士が呼び合って融合していくことで成長する。場合によってはニュクスの精神体と融合し、非常に強い力を一気に得ることもある。
融合を繰り返したシャドウほど強い力を持ち、タルタロスで “番人” と呼ばれる存在になったり、街に出現する大型シャドウクラスにも成長する。幾月は12体の大型シャドウを特別課外活動部を媒介として融合させることで “死” のシャドウを造ろうとした。“死” のシャドウはニュクスの一部と呼べるほどの力を持っており、"化身" を意味する「アバター」の名で呼ばれる。
シャドウそれぞれもある意味 “ニュクスの化身” だが、そう呼ばれるにふさわしい力を得た状態が “死” だ。
ニュクス教という名の終末思想
[ニュクスの代弁者]
影響はすべての生命が受けているため、程度の差こそあれ、ニュクス教に類する意識は誰もが持っている。ストレガ、というよりもタカヤが “代弁者” を名乗っているのは、ニュクスの影響に対する感受性が強く、自分の中で思い込みも含めて発展させていった結果であろう。
[布教活動]
ストレガは “滅び” が現実のものとなることを目的としており、人々の意識をそちらへ向けさせる活動を行っていた。ニュクスの情報はストレガ自身で得たものだが、ある程度幾月が意図的にリークしたとも考えられる。
街のあちこちにニュクスを意味する記号が落書きされ、ビラも撒かれている。
[救いを求める人々]
ストレガがきっかけを用意した後は、信じ込んだ人々が勝手に広めてくれていた。落書きやビラは信者たちが自主的に行っている。
信じてはいなくても、噂に振り回される者もいる。
狂信的な者は、かえっててそう見えないかもしれない。
大型シャドウという “呼び水”
シャドウ同士が引き合う力は、シャドウの融合が進むほど大きくなる。それは “引力” に近いもので、近づくことでより強く引き合うようになる。かつて桐条鴻悦の指示で行われ、ある程度融合が進んだ状態のシャドウが “爆発事故” で飛び散ったのが10年前。子供の体内に “死” が封印されたことで大型シャドウそれぞれも休眠状態となっていたが、港区に戻った “死” がファルロスとして目覚めたときに、大型シャドウたちも休眠から覚め、融合を目指して活動を再開した。
I 魔術師
マジシャン
最初に巌戸台分寮の屋上までやってきた大型シャドウ。ペルソナとしてタナトスが現れ、喰らわれた。“死” が大型シャドウを取り込んでいくプロセスは、基本これに準じたもの。
Ⅱ 女教皇
プリーステス
影時間に暴走したモノレールに現れた大型シャドウ。本来、影時間では動かないはずのモノレールが暴走したのは、大型シャドウが半分同化した状態であったためと思われる。
Ⅲ 女帝
エンプレス
行方不明となった山岸風花を救出するため、学園の体育倉庫から入ったタルタロスに出現した大型シャドウ。“皇帝” とは対となる存在で、ともに外からタルタロス内部に進入している。
IV 皇帝
エンペラー
“女帝” とともに現れた大型シャドウ。2体ともほぼ同等の強さだが、剣を持つ “皇帝” と比べると “女帝” はワンドを持ち、魔法による戦いを得意としていた。
V 法皇
ハイエロファント
白河通りにあるラブホテル内に出現する大型シャドウ。“法王” がそこに現れるというのも妙な組み合わせだが、ホテルにはもともと “法王の間” という大きな部屋があった。
VI 恋愛
ラヴァーズ
“法王” との戦いの直後に出現した大型シャドウ。タロットの位置には “誘惑” の意味がある。アダムにとってはリリス、イヴにとってはリンゴを勧めるヘビが “誘惑者” である。
VⅡ 戦車
チャリオッツ
旧陸軍基地に現れる大型シャドウ。名前の通り戦車の形をしており、砲台の “正義” とは合体分離を繰り返しながら攻撃してくる。カードに描かれているのは古代の戦車。
VⅢ 正義
ジャスティス
"戦車” とともに現れた砲台の姿をした大型シャドウ。タロットには天使ミカエルが持つとされる剣と天秤が描かれるため、現代的な “剣” として砲台の姿になったと思われる。
IX 隠者
ハーミット
ポロニアンモールに出現した大型シャドウ。タロットではカンテラを持った老人の姿が描かれることが多く、灯りから電気、真空管というイメージに繋がったと思われる。
X 運命
フォーチュン
巌戸台駅前に “剛毅” とともに現れた大型シャドウ。“運命の輪” を回す者と解釈されるスフィンクスの姿をしている。カードには、善と悪の2種類の動物が描かれている。
XI 剛毅
ストレングス
“運命”とともに現れた大型シャドウ。タロットにはライオンを制御する女性が描かれ、その頭上に “無限大” の記号が浮かんでいる。解放された花嫁の喜びを表している。
XⅡ 刑死者
ハングドマン
ムーンライトブリッジに現れる大型シャドウ。タロットでは片足で逆さ吊りになった姿で描かれるが、逆位置にすると表情が笑顔に変わると言われている。
XⅢ 死神
デス
“死” の大型シャドウでもある、タナトスのペルソナ。タロットで骸骨が描かれるのは、性別不明あるいは両性具有を暗示している。カードは逆位置で再生を意味する。
人格を持ったシャドウたちの役割
[ファルロス]
封印が解け、目覚めたばかりの “死”。封印された10年前から変わっていないという意味で少年の姿をしている。“死” が封印された時点でのリーダーの年格好に近いが、顔は似ていない。囚人をイメージさせるストライプの寝間着は、封印された存在であることを示している。
聖書に「二種の糸で織った服を着てはならない」という一節があり、縞模様の服は反逆者や犯罪人が着るものというイメージが作られたという。
[望月綾時]
12体の大型シャドウが融合した後、封印されていた “死” が現実に現れたときの姿。転校生として生活している間は、シャドウとしての記憶は封印された状態で明るい性格をしていた。記憶を取り戻した後も人間としての感情を持ち続けており、特別課外活動部に自分を倒せと進言する。
女好きであったり人に好かれたがる性格は、稲羽市のクマとも共通した要素。シャドウも元々は人の精神の一部だからか。
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yuriponz · 2 years
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7/26は相模原障がい者殺傷事件で命を奪われた19名の方々の本命日。
舞踏仲間と、現場である津久井やまゆり園の献花台前にて祈りの舞踏をしました。
ザーザーの雨とゴロゴロの雷は、浄化の雨。。?
いや!この事件を忘れさせてはいけない、思い出して自分に問おう、、潜む差別の心を引っ張り出し浄化させよう、というメッセージだった。
共に生きる社会を考える会主催の「犠牲者を偲ぶ会」では、黙祷の間、笛を吹かせていただきました。カザルスの「鳥の歌」を。
死刑囚になると、接見もできず、手紙のやり取りも禁じられるため、植松死刑囚は再審請求を行った。
死刑になるほどの事件を起こしたのは何故か、、事件を起こさぬよう、周囲ができたことは何かを考え合う。それを封じられている。
顔を合わせて互いの思いを聴き合うことが、今を生きる人間にとってどれほど大切なことか。
県主催の、やまゆり園の中で行われた追悼式は、一般市民の献花をシャットアウトし、行われた。なんとも哀しい。
一夜明けたら、抜けるような地球色の空と、吹く風にのる雲。
心地よい風になりたい。
July 26th was the anniversary of the murder of 19 people at Tsukui Yamayuri En, a facility for the disabled in Sagamihara City.A staff member working there was the murderer.
With my butoh friends, I performed a prayer dance in front of the dedication stand. Afterwards, I played Casals' "Song of the Birds" on my recorder.
That day, heavy rain and thunder, was it a cleansing rain?
No! It was a rain of message: let us not forget this incident, let us remember, let us pull out the discriminatory mind that lurks inside of us and purify it.
in Japan, when a person is on death row, he or she is not allowed to have access to the prison and is forbidden to exchange letters.
That is why the criminal, a prisoner on death row, filed a request for a retrial in order to meet with others.
Why did he have such a horrific case that he was sentenced to death?What can people around him do to prevent the incident from happening?
Prohibiting contact with the outside world blocks us from thinking.
How important it is for people living today to meet face to face and listen to each other's thoughts!
The memorial service held at the Yama-Yuri-en Garden, sponsored by the prefectural government, shut out the public from offering flowers. It was a sad thing.
As the night dawned, there was an earth-colored sky and clouds drifting in the breeze.
I want to be a pleasant breeze.
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kurayami-no-ko · 1 year
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Sannan hen’s friendship song: 今影
This song is from the earlier section of the musical when Chizuru comforts Sannan about becoming a Rasetsu. I again will state that this is probably highly inaccurate as I don’t have the official lyrics. Also don’t read this if you want to avoid spoilers.
今影
山南:この手で温もりけしてきた
鏡にうつらぬ姿をまとった
志を微笑む影なき、者たち
なにを残してやれるだろうを
共に風花また会おうたちに
物陰でしかない
いずれ消えてゆくのに
---
Sannan:Kono te de nukumori keshite kita
Kagami ni utsuranu sugata wo motatta
Kokorozashi wo hohoemu kagenaki, monotachi
Nani wo nokoshite yareru darou wo
Tomo ni kazabana mata aou tachi ni
Momokage de shikanai
Izure kiete yuku noni
---
Sannan:Warmth has gone from these hands
The mirror no longer reflects this form
These phantoms who are smiling about their ambition
What more are left for us to do
In order to meet together under the snow
Our only option left is to hide
Even when eventually we will be heading towards our demise
---
千鶴:それでもあなたの手は温かい
まるで闇に消えた
温もりのように
いまも生きているから
---
Chizuru: Soredemo anata no te ha atatakai
Marude yami ni kieta
Nukumori no you ni
Ima mo ikite iru kara
---
However, you hands are still warm
It feels like darkness is disappearing
Because of this warmth
You right now are still living
---
山南、千鶴:命は命
さまようのって言ったとしても
山南:今を歩くなら
千鶴:残せる足跡なる
山南、千鶴: 探し続けていまも
---
Sannan, Chizuru: Inochi wa inochi 
Samayou notte ittatoshitemo
Sannan: Ima wo aruku nara
Chizuru: Nokoseru ashiato naru
 Sannan, Chizuru: Sagashite tsudukete ima mo
---
Sannan, Chizuru: Life is life 
Even when one loses one’s directions
Sannan: Even now if I continue on walking
Chizuru: Leaving footprints behind
Sannan, Chizuru: Even now I will continue on searching
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tokyomariegold · 1 year
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2023/4/3〜
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4月3日 年度を始めて不安が爆発中。 長い1日があっという間だった。 坂本龍一の訃報にそこまで落ち込まずにいられたことくらいが、年度初めのドタバタの救い。それ以外は(それも含めて)ずっとずっと不安で、お昼休みは長島先生のB&Bのトークを聴いて、ぎこちない会話への対応策の文章を読んでいた。
年度更新のバスの乗車証の更新を忘れていることに気が付き、行きは初乗り170円のバス停で降りて歩いてみて、桜がほぼ終わり、でも菜の花が強く黄色いのを確認した。 帰りは更新したバスの乗車証でバスに乗ったけれど、新年度のばかまじめに通勤する混雑に巻き込まれて、へっとりしてしまった。
青柳さんの詩も、文月さんのパラレルワールドも、水野しずの新刊も、そこそこにも読めず、このまま新年度を過ごしておざなりになりそう。
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4月4日 今日から通常運転のような、まだ新年度のバタバタを抱えているような、とびきりの忙しなさの勢がなくてむしろとてもとてもぐったり疲れてしまった。 春の忙しなさとか落ち着かなさに、去年の日焼け止めを塗って少し粉っぽくなる肌が拍車をかけている。 このそわそわを埋め合わせるのに、資格試験の一問一答の参考書やTOEICの単語帳ってちょうどいいかも。だからこの時期ってみんな新しい参考書を持ち始めるのかな。 もうすぐ誕生日の友人へ、グミチョコのプレゼントを探している。 彼女は、本人もわたしも、ちょっと上質なチョコレートが好きだと思っていたのだけど、最近、同じく好きなグミも合わさったグミチョコが好きなのかもしれない、と気がついてその自分の嗜好のチープさにがっかりしたそう。
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4月5日 新年度早々の東京出張。 今日あたりから入学式のひと多いのかな、とそんな感じの親子を探してしまう電車内。 昨日、一期下の方とまた一緒に帰ってきて、私が女子大出身であることを知って、とても女子校育ちのイメージにぴったりだと思ったそう。高校まで共学の公立の学校に通っていたので履歴書上はそこまで完成された女子校お嬢様ではないけれど、社会の出た今となってはポジティブにそうゆうことにしていきたいと思っている。 女子高育ちのレッテルを自ら貼るし、その色眼鏡で見て欲しいし、(割と自分の感覚が世間のいわゆる“女子校育ち”のイメージの一部に近いと思ったりしたからです)それでいて心地よく無理なく生きていけるようにしていくんだから!と、エビアンを沸かして飲んでます。 だから今日の出張先で、打ち合わせ室のドアを開ける時はあまり虚勢張らずに、おはよっ!ってしたくない挨拶はしないで始めたいです。 昨晩からの頭痛のために飲んでいたロキソニンのおかげか、今日は身体も心も少しだけすっきりしている感覚。 出張中、用務先の移動間で立ち寄った池袋でデパ地下のいつも休日は売り切れている苺のお菓子を拝められたりして、その程度の特別感でいいよね平日休暇。 早めに用務を終えたので、パパブブレでプレゼントのグミチョコを買って、途中立ち寄ったミッフィースタイルでガチャガチャ的なランダムセレクトマスコットを買って、スパイラルでポストカードを買って、千疋屋カフェでパフェを食べる人たちを眺めながらベンチでお手紙を書いた。 そのままレターパックで送る準備もして、窓口へ持っていくと、送る品物欄の“おもちゃ”を指して「おもちゃってなんですか?」と局員さんに訊かれる。「フィギュア…?かな、これなんですけど」と自分用に買ったミッフィーマスコットをみせると「可愛いですね〜」と言ってくれた。 1日を半日で過ごすと大丈夫になるはず、と言い聞かせて、自分を大人しく帰宅させています。
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4月6日 強い風とぬるい空気の日。 少し早めの腕時計の時刻が5分遅れになっていてた。 昨日の出張のときに違う鞄を使ったため、定期券をそのまま入れっぱなしで、駅で忘れたことに気がつき取りに戻った。 いつもより遅い電車に乗って、いつもと違うルートのバスで、いつもと違うバス停で下車して歩いて出勤した。 靴下を裏返しで履いていたことに職場に着いてから気がついた。 久しぶりにしっかり居残りをしてへとへとになった。 朝、定期をとりに戻った時に持って出た傘を職場に忘れてきた。 新年度のそわそわと、昨日の出張と、明日の通院が重なって、ぼろぼろになってきていて、写真のことや文章のことや色々考えたいけれど、今は何もしたくない! 新しい上司は女性の方で、だから緊張している気がする。 今が1番、社会に出て、わたしはわたしだ、と言い聞かせている気がする。 移動中の車内で、男性が多い今の業界で、女性であることで舐められることが多くてそこに若さが更に拍車をかけるため、早く歳をとりたい!とずっと思っていた、とお話ししてくれた。 わたしは今まだ多少若くて女性だから、社会で不当位に傷つかされることが多いとかなり気づき始めている。それでも、このままの自分でしかいたくないし歳もとりたくない。 ぎこちない会話への対応策、の図録の長島先生のテキストを読みながら帰宅。 今日は満月だよ。
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4月7日 次に体重が落ちていたら入院って言われた! 今日は風がとっても強かった!
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ari0921 · 6 months
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桜林美佐の「美佐日記」(237)
ハマスとイスラエルの紛争ー現代風の価値観は通用
しないー
桜林美佐(防衛問題研究家)
────────────────────
おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、237回目となりま
す。
私は数年前に少しだけクラヴマガを習っていました。
クラヴマガは、ハンガリーで生まれたユダヤ人武道
家イミ・リヒテンフェルドが完成させた護身術です。
イミ・リヒテンフェルドは警察官の父の指導により
ボクシングなどで活躍するアスリートでしたが、1
930年代から始まったユダヤ人迫害により、実際
に暴漢たち相手に誰もが身を守らなくてはならない
状況になったことから、このテクニックを編み出し
たといいます。
その後、ナチスの迫害から逃れるためパレスチナに
脱出し、ユダヤ人による軍事組織ハガナーの一員と
して近接戦闘術を指導。1948年に設立されたイ
スラエル国防軍は、ハガナーが中核になっています。
 軍でも必須であるクラヴマガではありますが、始
まりはどんな人でもとっさに身を守れるように、と
いうことからでしたので、女性にも適しているとい
うことで、日本でもいくつかジムができているので
す。
 私は本当に少しかじった程度ですが、何か道具を
借りたり試験を受ける時はTシャツを買う必要があ
るとか細かい出費があるのが大変だと、イスラエル
通の知人に話したら「それはイスラエル的ですね~」
と笑っていたのを思い出します。
 習い事は、だいたい入ってみたら色々お金がかか
るものなのかもしれませんが、この時の知人の反応
がふと頭によぎったのは「反ユダヤ主義」が世界で
広がった理由として、彼ら(の一部)が、成功して
お金持ちになっているということがよく言われるこ
とです。
 前回までに書いたように、ローマ帝国に聖地エル
サレムを奪われたユダヤの人々は世界各地に散らば
りました。しかしそこでも何かと差別され、教育を
充実させ、識字率が高くても、就ける職業は限られ
ていました。
 そこで、多くのユダヤ人が金融業に携わるように
なったと言われます。そして結果的に大きな資産を
築く人々が出てきたわけです。
 道ばたで暴行しても強くなって抵抗してくる、そ
してそれさえ商売にしている、迫害しても金持ちに
なってしまう、という具合で、いじめる側はますま
す面白くない、こうしたことも「反ユダヤ主義」を
エスカレートさせているのかもしれません。
 いずれにせよ、ハマスなどイスラム組織は「反ユ
ダヤ主義」を今改めて世界の人々に植え付けること、
そしてそれを利用しようとしていることが分かりま
す。それもガザの無辜の人々を人間の盾にして、で
す。
イスラム教の目的は、世界をイスラム教に塗り替え
ることですので、この出発点は私たちも念頭に置く
必要があると思います。
 ハマスはイスラム教で世界征服をすることを最終
目標にし、手始めにイスラエルを絶滅させると明言
しているわけですから、もしイスラエルで成功した
ら、次のターゲットに向かうことになります。日本
も標的になるのです。
 この出発点という概念が、日本では不足している
ような気がします。イスラエルの人々にとっての出
発点は、アブラハムやモーセです。
 私たちの多くの固定概念というのは、何千年以上
も前のことを信じているのか?とか、命は地球より
重いとか、話し合いや停戦こそみんなを幸せにする
とか、そういう現代的な思考形態から始まっていま
す。
 しかし、こうした私たちの「ものさし」が通用す
るようになった歴史はまだ浅く、しかもあくまでも
理想(幻想)であるということが暗黙了承されてい
ると言えます。
 それが証拠に、米国であれ、自国民がテロで殺害
されれば、テロの首謀者を殺害し「停戦」に向けて
話し合ったりしていません。
 私たちは今、戦争やめろ犠牲を増やすなと騒ぐだ
けでは平和が戻らないという厳しい現実を目の当た
りにしているのです。日本にハマスが存在するよう
なことになれば、もっとリアリティを持つことにな
るのでしょう。
 もちろん、犠牲者が増えることは何とかして阻止
できないかという気持ですが、多くの日本メディア
が言うほど単純構造ではないということです。
 話が飛ぶようですが、イスラエルにはエチオピア
から移住した黒人のユダヤ人も多数存在します。
 なぜ、エチオピアなのか?そのルーツは、ソロモ
ン王の時代にさかのぼります。ソロモン王とシバ王
国の女王が恋に落ち、ふたりの間に生まれた子供の
子孫とされるのが「エチオピア系ユダヤ人」です。
 1970年代以降、エチオピアの政情不安や飢饉
により、同国で暮らしていたユダヤ系エチオピア人
が殺害されたり、餓死するという事態になった時、
イスラエルは大規模な救出作戦を遂行したのです。
 「モーセ作戦」「ヨシュア作戦」「ソロモン作戦」
と名付けられたミッションにより、旅客機をフル回
転させ、4万人ものユダヤ人をエチオピアから救出し、
イスラエルに移住させました。
 彼らにとって「出エジプト」は、伝説でも神話で
もなく、まさにまだ続いている現実なのです。
驚くのは、イスラエルの最高裁がエチオピアからの
移住は完了したと、この作戦の完了を宣言したのは
2022年2月、つまりつい最近のことです。
 そして、まだ移住していない人もいると、依然と
して今年も数百人規模でイスラエルに移ってきてい
るそうです。
 ユダヤ人である限り決して見捨てない、とにかく
これが、イスラエルの人々なのです。このエチオピ
アから来た人たち、トイレも使ったことがなかった
地から来て、イスラエルでは差別を受けたりして、
人間社会らしくここでまた揉めるのですが、とにか
く彼らは、人間としての好むと好まざるという感情
は関係なく、同胞を救い「約束の地」を共有するの
です。
 こうした事例からも、よくハマスとイスラエルの
紛争は「憎しみの連鎖だ」とか解説されますが、軽
さを感じざるを得ません。彼らは一個人として、よ
りも民族としての使命を帯びて生きている、そのよ
うに思えます。
 現代風の、ぽっと出の価値観で、この問題を評す
ることなどできない、とにかくそのように強く思い
ます。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
皆様にとって良い1週間でありますように!困難の中
にいる全ての人のために祈り、あらゆる紛争の犠牲
者を悼みながら。
(さくらばやし・みさ)
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foucault · 1 year
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大隈美佳展より、青絵ドラ鉢。7寸ちょっとの大きさなので、盛り鉢として使うのもよし、手元で取り皿に使うもよしです。ぬっと出てくる熊二頭。
昨日は博多松囃子の笛の音が遠くで聞こえました。かそけき音が風に乗って聞こえるか聞こえないか、というのはいいですね。先日、嘉吉の乱に関する書籍を読んでいたのですが、「松囃子」は播磨白旗城に逃れていた幼い足利義満(当時の幼名は春王)を慰めるために赤松則祐が行った芸事(いわゆる「風流」か)が義満の帰還と共に「赤松囃子」として京都でも定着し、のちに「松囃子」と転訛して各地に伝わったのが由来だと書かれており、へぇ、と思いました。能だと新年の謡初を松囃子と呼んだり、狂言の『松脂』などでも松囃子を舞ってみせたりするので、単に新年「松の内」の時期に行われるめでたい囃子ものだから松囃子、なんだと思ってました。いつまで経っても知らないことばかり。熊本・菊池の松囃子も見てみたいなと思います。
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