Tumgik
#「哲学と宗教全史」
yoga-onion · 14 days
Text
Tumblr media
[Image above: Kyoto Sanzenin Temple, statue of Mahāsthāmaprāpta]
What is the 23 nights temple? [Part 1]
Thank you for your continued support of the ‘A Message from 23 Nights Temple’ blog. We have received quite a few questions from our readers about the ‘23 Nights Temple’, so we would like to answer them here in two parts.
23 nights is one of the folk rituals on the night of a specific moon phase, such as the 13th, 15th, 17th or 19th night, to wait for the moon to rise, make offerings, eat and drink together. Hundreds of years ago, halls where these events used to be held were scattered all over Japan, but unfortunately most of them have now been demolished and replaced by parking lots and modern ossuaries, especially in urban areas. The moon-waiting rituals of the Mid-Autumn Moon, 15 Nights (Full Moon), are still practised today. Although most modern Japanese are agnostics, some ritual events incorporating Buddhism and Shintoism remain.
The moon phase on the 23rd night is the ‘waning moon’, the half moon after the full moon, when the left half of the moon appears to be shining. The moon on the 23rd night is characterized by appearing late, around midnight, and in some mountainous areas surrounded by mountains, it can appear as late as 1 a.m.
In moon-waiting, the object of worship was determined by the time of the lunar phase at which the event was held. The object of worship on the 23rd night was Mahāsthāmaprāpta (bodhisattva mahāsattva), who was also said to be the incarnation of the moon. The light of wisdom possessed by Mahāsthāmaprāpta was thought to illuminate everything, freeing people from suffering and giving them strength.
In Shinto, Tsukuyomi-no-mikoto (Ref) is another name for Mahāsthāmaprāpta. He is also known as the god of agriculture and fishery, due to his characteristic control over the moon calendar.
The widespread ritual of waiting for the moon on the night of the 23rd lunar phase can be attributed to the worship of Mahastamaprapta, the savior of all things.
In “ A Message from 23 Nights Temple,” one of those shrines is featured. However, 2 years ago, the shrine, built over 1,000 years ago, was removed and converted into a commercial ossuary (August 2022), and the monk who left many of his messages died at the same time, but we continue to present the Zen words he left behind.
And personally, I am posting this not quite as a religion, but with the hope that as many people as possible will remember the philosophy of the prehistoric people, who lived with a sense of the cosmos, worshipping nature and enjoying the beauty of flowers, birds, wind and moon.
Tumblr media
『二十三夜堂』とは何ですか?[その1]
日頃から『二十三夜堂からのメッセージ』ブログをご愛読いただきありがとうございます。読者のみなさんから『二十三夜堂』についてご質問が多々ありましたので、ここでお答えしようと思います。
二十三夜とは、十三夜、十五夜、十七夜、十九夜などの一つで、特定の月齢の夜に、人々が集まって月の出を待ち、供物を捧げ、飲食を共にする民俗儀式のこと。数百年前までは、こうした行事が行われるお堂が日本各地に点在していたが、残念ながら現在ではそのほとんどが取り壊され、特に都市部では駐車場や近代的な納骨堂に取って代わられている。中秋の名月、十五夜(満月)の月待ちの儀式は、今日でも行われている。現代の日本人の多くは無宗教だが、仏教や神道を取り入れた儀式行事も残っている。
二十三夜の月齢は、左側半分が輝いて見える「下弦の月」、満月の後の半月のこと。二十三夜の月は深夜0時ごろに現れるのが特徴で、山に囲まれた地域では深夜1時ごろに現れることもある。
月待ちでは、行事を行う月年齢の時期によって崇拝の対象が決まっていた。二十三夜で礼拝したのは、月の化身ともいわれた「勢至菩薩 (せいしぼさつ、梵: マハースターマプラープタ) 」である。勢至菩薩が持つ智慧の光は全てを照らし、人々を苦しみから解放して力を与えると考えられていた。その名は文字通り「大いなる力の到来」を意味する。
神道における「月読命(つくよみのみこと: 参照)」は、勢至菩薩の別名。暦を支配するという特徴から、農耕や漁業の神としても知られている。
二十三夜の月待ちが人々の間に広まった理由は、万物を救済する勢至菩薩を崇拝の対象にしていたからだといわれている。
『二十三夜堂からのメッセージ』では、それらの一つを取り上げています。しかし、2年前、1000年以上前に建てられた祠は取り払われ、商業的納骨堂へと改装され(2022年8月)、またメッセージの数々を残した僧侶も同時期に亡くなっていますが、彼の残した禅語を継続してご紹介しています。
そして個人的には、宗教というよりは、自然を崇拝し、花鳥風月を愛で、宇宙を感じて生きていた先史時代の人々の哲学を、一人でも多くの人に思い出してもらいたいという思いで投稿しています。
90 notes · View notes
ari0921 · 10 months
Text
我が国の未来を見通す(94)
『強靭な国家』を造る(31)
 総括「『強靭な国家』を造る」(前段)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに──「『強靭な国家』を造る」を総括す
るにあたって
 「『強靭な国家』をいかに造るか」というテーマ
で20回にわたり延々と書いてしまいました。すべ
てが「強靭な国家」を造るという“「大目的」のた
め”ということから、あえて、毎回のテーマを変え
ないまま書き綴った結果でした。
改めて読み直してみますと、あくまで私の“独りよ
がり”ではあるのですが、“「強靭な国家」を造る
ことがいかに大変なことか”について再び考え込ん
でしまいます。
卑近な例をとりあげますと、現在ハマスと戦争の最
中にあるイスラエルは、日本などと比較して、20
00年にも及ぶ長い間、国を挙げてあらゆる分野で
「強靭な国家」造りを最優先して実行し続けてきた
国家であり、(すでに触れたような)その“強さ”
は、昨日今日に出来あがったものではありません。
しかし、そのようなイスラエルであっても、今回の
ような事態を招く結果になってしまいました。ハマ
ス側からすれば、10月8日の奇襲攻撃に対する報
復が、現時点において1万5千人以上の犠牲者を含
むガザ地区の壊滅に至ったわけですから、人質交換
のための一時的な停戦合意は継続していても、その
後の展開が不明であることを考えると、“割に合わ
ない、とんでもないことをしでかしたものだ”と思
ってしまいます。
イスラエルの“非情”ともいえる作戦は、単に報復
に留まらず、“この機会にハマスを壊滅する、少な
くとも、未来永劫にハマスに手出しをさせない”と、
本来の戦略に立ち返ってこれまで以上に“強い決
意”をもって作戦を遂行した結果でしょう。それこ
そが、これまでもそうであったように、将来のため
に「強靭な国造り」をめざすイスラエルという国の
“生き様”であり、「国の形」であると私は考えて
います。
我が国にあっては、明治維新に「富国強兵」「殖産
興業」という「国家目標」を打ち立て、迫りくる西
欧諸国の脅威に立ち向かうことを主目的に、まさに
“強靭な「近代国家」”を造ることを目指してきま
したが、幾多の戦争や大震災、世界恐慌の影響など
を経て、ついには「大東亜戦争」を招く結果となっ
てしまいました。
「歴史は物語である」「歴史は検証できない」とは
東洋史学者・岡田英弘氏の名言ですが、“仮に日本
が明治初期に「富国強兵」などを唱えず、「近代国
家」を目指さなかったら、その後の歴史はどうなっ
たであろうか”については検証できないのです。
しかし、18世紀後半、地球の85%を支配した西
欧諸国の植民地主義の拡大、その中でイギリスをは
じめとする西欧諸国に割譲されるという形で独立を
失った「清」の例などを見れば、明治以降の我が国
の「国の形」が相当違っていただろうということは
容易に想像できます。
現在から先の「未来」についても同様のことが言え
るでしょう。“歴史の大きな転換点にある現時点”
において、私たちが、後世のために未来起点のアプ
ローチに基づき、さまざまな手段を行使して“「強
靭な国家」造り”を目指そうとする場合と、逆にそ
のような努力を怠る場合とでは、我が国の「未来図」
を大きく変わることは疑いようがないのです。
昭和16年、日米開戦に至る一連の交渉のなか、9
月6日の御前会議で、海軍軍令部総長・永野修身が
「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬと
すれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族
永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するな
らば、たとえ戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、
われらの子孫はかならず再起三起するであろう」と
発言されたとの記録が残っています(フィクション
だったという説もありますが)。
残念ながら、そのような精神は戦後、無情にもGH
Qによって打ち砕かれたかのように見えますが、こ
れまで縷々述べてきましたような、日本人の根底に
ある“強さ”、 まさに中西輝政氏が指摘する「日本
人の『荒魂(あらみたま)』」は、戦前の歴史を否
定した大方の日本人には忘れられていても、各為政
者の時々の発言などから、周辺国にはその記録や記
憶が依然として“残っている”と想像できるのです。
「強靭な国家」造りの中で、「国家戦略」の目標と
して掲げた「安全」については、我が国は、今回の
イスラエルのように、ハマスによる攻撃の後、つま
り“有事”が起きてしまった後に「手を出すのでは
なかった」と思わせるのではなく、手を出す前から、
「日本に手を出すと“大損”をする」と相手に“躊
躇”させること、つまり「抑止」を目指さなければ
なりません。
これは容易なことではありませんが、その根底に永
野軍令部総長のいう「祖国護持の精神」がなければ
ならないことは明白でしょうし、周辺国に記録と記
憶が“残っている”間に、「抑止」のための「強い
意志」と「能力」を明示しておかねばならないと考
えます。
本メルマガでは、あえて軍事とか安全保障には詳し
く触れませんでした。しかし、終戦後、法律家や歴
史学者など有識者たちがこぞって「再軍備」に反対
していたことをはじめ、最近でも高名な経済学者が
「日本経済の復興が最優先で、防衛力増強などやっ
ている場合ではない」旨を自著に書き記していた事
実を知って、「それぞれの専門家にまかせておいて
は、この国はダメになる」と思う危機意識がますま
す膨らみました。
前置きが長くなりました。我が国の未来に降りかか
るであろう、ほかの「暗雲」でも同じことが言える
と思います。それぞれの分野で“致命的な事象”が
発生してから慌てても遅いのです。我が国が“苦
手”としている「抑止」とか「未然防止」とか「回
避」などをキーワードにして、「下降期」の中で
“どんでん返し”を狙って“「強靭な国家」造り”
を目指さなければならないとの認識が、私には一層
強まっています。
▼「国家」を再生する
“強くて、しなやか”な「国家」をいかに造るかに
ついて、これまで、“強靭性”を主に取り上げてき
ました。
実は、本メルマガの総括にあたる第4編を「『強靭
な国家』を造る」とした訳には、“強靭性”のみな
らず、“「国家」の再生”の方にもかなりのウエイ
トがありました。今回はその「国家」について取り
まとめておきたいと考えます。
ウクライナ戦争やコロナ禍の状況から、「自分の国
を自分たちで守れない国は生き残れない」と気づい
た元朝日新聞主筆の船橋洋一氏の言葉を紹介し、同
氏の「日本には『国家安全保障』という『国の形』
がない。そして、その『国の形』をつくるのを阻ん
できた『戦後の形』がある」との言葉も紹介しまし
た。
私は、この発言を船橋氏の“自責の念”と解釈して
いますが、氏の書籍の中にも「国」という言葉が何
度も出て来ます。一方、その「国の形」をつくるこ
とを拒んできた「戦後の形」にはとても“根深いも
のがある”とも考えてしまいます。
しかし、その要因は明らかでしょう。まずは、戦前、
特に満州事変以降、軍部主導のもとの「挙国一致」
が強調され、教育面でも「国粋讃美」とか「尽忠報
国」などを強要されたことに対する“揺り戻し”、
つまり「反動」があるのでしょう。
そして、終戦後、GHQの巧妙な対日政策もあって、
その“揺り戻し”は、日教組など唯物史観に染まっ
ている人たちにとっては自分たちの思想拡大の絶好
のチャンスとなって、その“揺り戻しが度を越し
た”格好になりました。
なかでも、彼らが好むトロツキーの言葉である「す
べての国家は暴力の上に基礎づけられている」が発
展し、「国家は悪」として、「国」とか「国家」を
全否定する考え方にまで拡大しました。
私は「国家論」について社会学的に深く解説できる
能力はありませんが、少しだけ踏み込んでみましょ
う。まず「国家」の起源ですが、これもまた社会学
的には解釈が分かれるようですが、門外漢の私が理
解した言葉で要約してみます。
欧州諸国が「主権国家」として独立したのは、「3
0年戦争」(1618年~48年)の結果、疲弊し
た諸国が結んだ「ウェストファリア条約」(164
8年)でした。その直後から「国家」の意義づけに
ついて社会学的な論争があったようです。
まず、「ウェストファリア条約」によって、「王が
持つ主権はキリスト教ではなく神から直に授けられ
たもの」(「王権神授説」)とする考えが普及し、
王政国家が欧州各地に出来上がりましたが、その考
えに反発するような格好で、3年後の1651年、
有名な『リバイアサン』が出版され、著者のトマス
・ホッブス(イングランドの哲学者)は、「自然状
態では、人々は絶え間なく恐怖と暴力による死の危
険さえある悲惨な状態にあり、そこを脱して、安全
と平和を手にするために“社会契約”を結び、その
結果、『国家』が出来上がった」と意義付けました。
これからしばらく過ぎた1690年、同じく英国の
哲学者ジョン・ロックは『統治二論』を世に出し、
「自然状態にある人間はすでに理性を持っている」
としながら、「自分の自然権を守るために、その一
部を放棄し、『1つの集合体』に委ねる、その集合
体が『コモンウエルス』と呼ばれる『国家』の起源
である」と説きました。
つまり、ホッブスが、「場合によっては生きるか死
ぬかの岐路に立たされかねない自然状態にあって国
家が不可欠である」としたのに対して、ロックは
「国家は、自然権を破った者に対して有無を言わさ
ず、強制的な手段をもって『処罰』するために作ら
れた」として、「保険に加入するように『より大き
な防御』のためにあり、必ずしも国家は不可欠なも
のではない」とも解釈したようです。
このように、“社会契約説”としての「国家」の起
源が発展し、やがて「市民革命」に至って近代国家
が出来上がるのですが、それからしばらく後、マル
クスによる共産主義思想が普及し、「国家」の性質
を「暴力の独占」とするトロツキー的な国家論が興
隆することになります。
一方、同じ時代に生まれたドイツ社会学者のマック
ス・ヴェーバー(ウェーバー)は、名著『職業とし
ての政治』(脇圭平訳)の中で、「国家とは、ある
一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占
を要求する人間共同体である」と定義しました。
本書は、1917年、ドイツが第1次世界大戦で敗
戦した後、ミュンヘンにある学生団体のために行な
った公開演説をまとめたもので、それまでのドイツ
社会が、「ドイツ帝国」は存在しても、多種多様な
団体が物理的暴力をノーマルな手段として認めてい
た事実とは違った意義が「国家」にあると解説した
のです。
しかも、トロツキーとは違い、国家の「“合法的
な”暴力の独占」を定義し、「許容した範囲の中で
物理的な暴力行使が求められている」として、「警
察や軍隊はその主な道具・装置である」と解釈した
のでした。
このように考えると、安全保障を米国に丸投げした
まま、あくまで「警察予備隊」として発足し、しば
らく“再軍備”を否定し続けた「吉田ドクトリン」
は、その後長い間、唯物史観の人たちに巧妙に利用
されてしまいました。彼らは、マックス・ヴェーバ
ーの「“合法的な”暴力を独占するのが『国家』で
ある」との考えに至らないまま、(単なる暴力装置
としての)「国家」自体を否定している間に時が流
れ、我が国の「戦後の形」として定着してしまった
と解釈できるのではないでしょうか。
余談ですが、マックス・ヴェーバーによって「国家
論」を叩きこまれたドイツに、やがてヒトラー率い
るナチスが合法的に誕生するのですから、歴史とは
皮肉なものです。
さて、我が国の「国家」には、さらに長い歴史があ
ります。我が国の建国は、まだ「国家」という呼称
はなかったものの、「神武天皇の即位」(紀元前6
60年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)とされて
いますし、近代国家の建設が始まった「明治維新」
も「国家の起源」として考えられる場合もあります。
戦前の歴史家の巨匠・坂本太郎氏の『日本の歴史の
特性』によれば、我が国の歴史の中で「国家」とい
う文字が初めて出てくるのは、正倉院宝物の中の
「国家珍宝帳」(756年頃に献上された献物帳
(宝物の目録))だそうですが、この場合の「国家」
は、現在の「国家」とは違う意味をもっており、国
家はミカド、つまり天皇と同義に用いられていたよ
うです。同様の表現は、当時の“現行法”であった
「律」の中にもあり、同じく国家=ミカドを意味し
ていたのだそうです。
つまり、トロツキーの「国家の性質を暴力の独占」
のような概念を我が国の「国家」論に当てはめよう
としたのは最初から無理があったのですが、結果と
して一人歩きしまったのでした。
今なお、公の場で「国」「国家」「国益」「国力」
「国体」などの使用が何となく憚(はばか)られ、
挙句の果てには「愛国心」のようなものまで否定さ
れ、放置されたまま今日に至っていることもすでに
取り上げました。一日も早く、真の意味での「国家」
の再生が望まれると考えます。
改めて、「国家」の現代的な理解をまとめてみます
と、「国家」とは、「その領土と人口を通じて、特
定の地域における社会的、政治的、経済的な活動を
組織し、調整する役割を果たし、個々の国民が自由
で平等な生活を送ることができるように、公正で公
平な社会を維持するための枠組み」のようです。
つまり「社会的、政治的、経済的な活動を組織」を
手段として、「個々の市民(国民)が自由で平等な
生活を送ることができる」ことを目的とした「公正
で公平な社会を維持するための枠組み」を指すとい
うことでしょう。
「国家」の起源にさかのぼるまでもなく、手段も目
的もそれぞれが複雑で、幅広く、奥も深く、しかも
現時点のみならず、未来においても、“自由で平等
な生活”を担保する必要があるわけですから、その
ためにも「国家」に「強靭性」を備える必要性がま
すます増大していると考えます。
▼国際社会に“リバイアサン”が復活した
さて、国際社会においても、冷戦後しばらくの間は、
「国対国」の争いから「国対テロ集団」のような争
いがクローズアップされてきました。しかし、この
たびのウクライナ戦争を境にして、再び「国対国」
の争いがクローズアップされ、それが発展して“新
冷戦”のような「分裂の時代」が現実のものになっ
てきました。
現下の情勢下、国際連合の無力さも露呈したことも
あって、ホッブスの言葉を借りれば、国際社会は
“リバイアサン”(つまり“怪獣”)が大暴れし、
それを制御するのが困難な時代になりました。この
厳しい国際社会の中で生き残るため、つまり、暴れ
まくる(可能性がある)“リバイアサン”から生命
や財産や平穏な生活を守るためには、船橋氏の言葉
を借りるまでもなく、個々の「国」あるいは「国家」
を主体に物事を考え、同じ認識を共有する「国」ど
うしの“社会契約説”ともいえる「同盟」とか「連
携」の必要性が“より増してきた”といえるでしょ
う。
“リバイアサン”を制御するためには、「外交力」
とともに「軍事力」が必要なことは明白ですので、
国家の“暴力装置”の重要性がより増して来たとも
いえるでしょう。しかし、その意味は、「世界同時
革命」に立ちはだかった時点の国家の“暴力装置”
と全く意味が違います。
総括しますと、厳しい国際情勢の中で、我が国が生
き残るために、依然として存在している唯物史観、
あるいは自虐史観の持ち主たち(ちょっとでもその
ような考え方に同調する人たちを含め)が自分たち
の信条とか先入観と決別する時が来たのではないで
しょうか。つまり、マックス・ヴェーバーの「国家
は“合法的な暴力”を独占する人間共同体」の考え
を理解し、容認することが求められているのです。
そのステップを踏んで、時計の針を戻して再出発し
てこそ、大多数の国民がこぞって「国家」を取り戻
し、後世のために“「強靭な国家」造り”に邁進で
きるものと考えます。
くどいようですが、戦前のように、あるいは中国や
北朝鮮などのように、我が国にあっては、国家の
「強制力」を行使できないのは明白です。「国を挙
げて」、つまり「挙国一致」と唱えても、大多数の
国民一人一人が“その気になる”ことがなければ、
いかなる政策も「国家戦略」も絵に描いた餅にしか
なりません。
すなわち、「『国家』を再生する」ことは「国民が
その気になる(覚醒する)」とイコールでもありま
す。そのようなことを狙いつつ、「国家意思」を分
析したつもりですが、天変地異や外圧に寄らず、い
かにして“国民が自発的に覚醒するか”を考えると、
そこにまた難題が待っていることもすでに述べたと
おりです。
今回はここまでにしておきます。次回、我が国の
「国家」論から派生する「統治のありかた」や「政
治」についても取りまとめて、第4編の総括を終了
したいと考えています。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
9 notes · View notes
the-don-crow · 6 months
Text
2 notes · View notes
bailonglee · 8 months
Text
彼ら
僕たち全員が、[何かがおかしい]、[世の中狂ってる]、そう感じていた正体が、グローバリストと呼ばれる連中だった。
私にとっては、とても長い旅だった…w
訳わかんない、統一化の規則、髪の毛は眉にかからず、耳にかからず。
パーマ、茶髪禁止。
中学に上がって、すぐそんな規則に触れた…
そもそも、何でもかんでも、規則、規則とやりたがるのは誰なんだろう?
その正体が、わかった。
“政治”に巣食うのは、誰だ?
それが、大本教をトップとした下位組織、生長の家、日本スピリチュアル協会、創価学会など。
縁もあったか、彼らの本質がわかった。
やたらと、競いたがる。[俺の腕前を見せてやる!]とかw🤣
上から目線、何もかも知ったような態度。[俺は悟ってる。俺は知っている。]的なスタンス。
表面上は、常識人、善人アピール、だが肝心な所では、全て自分が優先、他人がどうなろうが、(俺はこんなにも大変なんだ!)、それを言い訳に、やたら自分を甘やかす。本当の慈悲は、かけらも持っていない。
頭でっかち、物事は自分らの計画通りにやる。緻密な計算、幼稚な画策、それを細かくスクリプト化する。(そのパラノイアぶりが、アカシックレコードまで発見した。)
性欲が凄い…w🤣そして、他人の伴侶だろうが、平気で手を出す。生長の家に関しては、乱交を、魂の錬成と解釈する。統一教会の合同結婚式は、有名。言い訳もある。色欲界を抜けねば、悟りの境地に至れないとか。ただの乱交なのにw🤣
犬や猫が、人間の真似をする。
人間のように、歌おうとする犬もいるw🤣
しゃべる猫とか動画で実際あるが、[そう聞こうとしたら、そう聞こえる]程度、ワウワウ鳴いてるだけw🤣
私達が今人間でいるのは、大変凄い事。
人間は、神になれる。
キリストは、無受精と言われるが、立派に女股から生まれた。
人間として、生まれた。
歴史上の人物であり、架空の存在ではない。
ナザレという貧しい町に生まれ、30歳まで大工として生計を立てた。
8人兄弟だ。
さて、
私は創価学会の人間、2人と友人だった。
一人目は、富山県で。
同じ村田製作所の仕事をした。
皆は、学会員であるという事で、彼を敬遠した。
私は最初に宣言した。
創価学会に入る気はないが、人として共感出来る部分があれば、付き合いは出来ると。
彼は、喜んだ。
一緒にサウナ行って、フルチンでプールで泳ぎ、ふざけたりしたw🤣
創価学会員とて、人間。
必ずしも創価学会員だけで行動する必要ないし、誰かを絶対に学会員にしなきゃならない訳でもない。
だから、私は普通に学会員と付き合える。
問題なのは、学会員としか付き合わない、コアな連中だ。
こいつらが、集団ストーカーしたり、盗聴、電磁波攻撃したりする…
田舎もんの、いじもられっ子の、妄信者だ。。
もう一人は、ここ大田区。
彼は最初、リュックに大量の創価学会の資料を詰め込み、私を説伏するために来たが、創価学会の知識を遥かに越える私の哲学、知識、彼は諦めたw🤣✨😎
そして、普通にバイク友達、普通に茶飲み友達として、よく遊んだw 🤣
だがしかし、創価学会からの圧力か?、彼は大田区を離れ、神奈川へと引っ越した。。
私を説伏出来なかった訳だが、キリストの魂を持つ人間を、誰が説伏出来るというのだ?w🤣
プラス、ルシファーの魂まで持つ、つまり、善と悪の、ハイブリッドなのよ、こちとらw🤣
で、
新興宗教2世たちが、私に興味を持ってくれる事が、多々あるのは、嬉しいですねw🙂✨👍
俺には、敵愾心などないw
競う気も、無い。
世界を愛で満たしたい、それだけw
彼ら信者は、輪廻しなきゃ、この時代は生き抜けない…
それくらい、修行と経験、知識が足りない。。
私含むスターシードたちは、彼ら信者が、想像すら出来ないくらい、艱難辛苦を乗り越えた。
信者たちは、他人、つまり池田大作なりの追体験をしてるだけ、本質は、経験不足を隠すため震え、「威風堂々」などとぬかし、自分を大きく見せている…
残念ながらスターシードたちとは、蟻🐜と、象𓃰ほど、違うw🤣✨
蟻が数の論理を言い勝ち組叫ぼうが、一瞬で象に踏み潰されるが、我々象は、蟻を踏み潰さぬよう、細心の注意を払い続けているw🤣
まあ、
信者諸君、
そんな事実、
受け入れなきゃ、
自分らでこの世界を滅ぼすでしょう。
2 notes · View notes
sskyt · 1 year
Text
『「呪術」の呪縛』下巻の読書ノート
Tumblr media
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(下)リトン、2017年。
第一部 呪術概念の再検討
鶴岡賀雄「「呪術」の魅力:「永遠のオルタナティブ」の来歴と可能性についての試論」
 「マギア」を人類学的・宗教学的分析概念としてではなく西欧精神史の構成要素として見て、古代ギリシアから、中世神学、ルネサンス、近世キリスト教、現代芸術に至るまで、マギアの位置づけを跡づける。  そこでは、マギアがつねに、公共宗教や哲学といった正統的な知や生き方に対して、劣位に置���れた人々による代替行為として位置づけられる。しかし、この民衆の低級知は正統知でないがゆえに、かえってそれを批判的に超える超高級知ともなりうるものであった。  近世神秘神学における神的/悪魔的/自然的という三分法が、人類学・宗教学における宗教/呪術/科学の三区分に改鋳されていったのではないか、という指摘はなるほどなあと感じ。また、世間的・民衆的な低級知たるマギアがつねに物を介するというのも、フェティッシュとの関係で興味深い。  「神秘主義」概念の検討については別稿に譲るとされているが、その「別稿」とはこれですね。→ 鶴岡賀雄「「神秘主義」概念の歴史と現状」『東京大学宗教学年報』vol. 34、東京大学文学部宗教学研究室、2017年、pp. 1–24。 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/47687#  なお、本論文の中で、サラマンカ大学の学士アマドール・デ・ベラスコが持っていたグリモワール(魔術の指南書)をめぐる事件の話が出てくるが、最近、魔術のことを考えすぎ���、先日、江川さんから「grimoireとは魔術書のことなんですよ」と教えてもらう夢を見た。 山崎亮「社会学年報学派の呪術論素描」
 ユベールとモースの「呪術論」は混乱に満ちた論文であり、その一因として呪術のアポリア(呪術は私的なものであるが、社会的な性格ももつ)が挙げられる。この混乱を理論的に整理したのがデュルケームの聖理論であるが、ユベールとモースは納得していなかった。 江川純一「「magia」とは何か:デ・マルティーノと、呪術の認識論」
 イタリア宗教史学におけるマジーア概念を、特にエルネスト・デ・マルティーノの『呪術的世界』とその後の転回にしたがって明らかにする。宗教学において一般的に、「呪術」は「宗教」のネガとして語られがちだが、宗教史学はこの対比・対立を認めない。  デ・マルティーノは『呪術的世界』において、呪術的世界は「自分の魂の喪失の危機とそこからの解放」という実存のドラマによって根拠づけられるとして肯定的に評価したが、この世界を歴史的時代であるとしたがゆえに、進化主義的宗教論と見分けがつかなくなってしまった。  「呪術的心性と原始的心性を混同している」という師ペッタッツォーニらの批判を受け、デ・マルティーノは後年、「呪術的世界」という想定を取り下げ、神話ー儀礼の結合物としての「呪術ー宗教現象」を探究するようになる。  注にある、「今後、20世紀の宗教学思想を振り返るときには、ペッタッツォーニ、デ・マルティーノ、エリアーデのトライアングルによる、神話ー儀礼的技術としての「呪術ー宗教」の考察が軸となるであろう」という指摘が興味深い。
 なお、A. C. ハッドンが報告したボルネオのトゥリク族の男の話(ある男は鉤形の石を頑なに手放そうとしなかった、その石は魂が自分の身体を去るのを引き留めているのだという)がラトゥールのファクティッシュのようで面白い。
第二部 事例研究:古代~中世
渡辺和子「メソポタミアにおける「祈祷呪術」と誓約:「宗教」と「呪術」と「法」」
 なかなか論争的ですごい論文であった。一言ではまとめづらいが、アッシリアの『エサルハドン王位継承誓約文書』(ESOD)の構成や文法を分析することで、誓約と儀礼、「言うこと」と「すること」の宗教的な結びつきを考察する。  アッシリア学者の重鎮オッペンハイムは、西洋人として祈りと儀礼が結びつくことに耐えられず、「メソポタミア宗教」は書かれるべきではない、とまで言う。また、ESODの誓約と儀礼という形式こそが、契約(誓約)宗教としての一神教の成立と後のキリスト教の成立にも影響を与えたという。
高井啓介「その声はどこから来るのか:腹話術の魔術性についての考察」
 叙述がトリッキーで面白い。腹話術が古代の神学者たちによって魔術として扱われ、近代に脱魔術化していった過程が示される。旧約聖書サムエル記上の「降霊術」がギリシア語に翻訳される際にἐγγαστρίμυθος(腹話術)と訳されたために腹話術の魔術化が始まった。  降霊術が腹話術と見なされることで、腹話術師は腹の中に悪霊をもつことになり、霊媒は魔女扱いされるようになる。しかし、腹話術の魔術性を否定し、単なるトリックだとしたのが、『百科全書』で数学に関する項目を多く書いているジャンバプティスト・ドゥ・ラ・シャペルの『腹話術』であった。
山本伸一「カバラーにおける神名の技法と魔術の境界」
 ユダヤ教のカバラーにおいて、正当な呪術と禁じられた魔術の境界は不分明である。このことを15世紀のカバラー文学、ルネサンスの自然魔術の影響下のカバラー、18世紀のエムデン=アイベシュッツ論争という3つの事例に即して考える。  15世紀スペインのカバラー文学の共通点は、主人公であるカバリストが終末とメシア来臨を促すために悪魔を追放しようと立ち上がるも、悪魔に騙されて取り逃がしてしまい、逆に魔術に手を染めた悪人として非難される、という物語。中2っぽいというか、『進撃の巨人』(デビルマン)フォーマットだなと。 青木健「ゾロアスター教神官マゴスの呪術師イメージ:バビロニア文化の影響と呪術師イメージの由来」
 マゴスには「呪術師」「神秘主義の達人」「放蕩」といったイメージが付与されるが、ゾロアスター教の神官の職能を検討してみると、実態は王朝に仕える官僚であり、吉凶暦や蛇占いといった副業の方がイメージの形成要因となったと考えられる。  青木健『古代オリエントの宗教』は、渡辺論文の注で、紀元前2世紀から13世紀までのオリエントの宗教史を扱うものなので、「書名と内容が一致していない」と批判されていた。 毛利晶「古代ローマにおける凱旋の儀式:トリウンプスに関する最近の研究動向を中心に」
 ローマで戦争で勝利を収めた将軍が行う凱旋の儀式トリウンプス(triumphus)。そこでユピテルの扮装をする凱旋将軍の役割は神か王か。近年の論争を踏まえて、著者は元々ユピテルの儀式であったものが後に将軍自身を讃える儀式へと変化していったと推測する。  凱旋式挙行の要件が、①命令権(imperium)、②鳥占権(auspicium)、③軍隊指揮(ductus)、④幸運(felicitas)の4つだったというのが、統治(王)・呪術(宗教)・軍事の三権が一人に集中しているようで興味深い。 野口孝之「近代ドイツ・オカルティズムの「学問」における「魔術」」
 19世紀後半から20世紀初頭に展開されたオカルティズムにおける「魔術」の位置づけを、キーゼヴェッター、エスターライヒ、シュティルナーという3人の思想を中心に検討する。  ドイツの代表的なスピリチュアリスト、カール・ドゥ・プレルの概念das transzendentale Subjektを「超越的主体」と訳しているけど、「超越論的主観」では。このドゥ・プレルの理論を援用するキーゼヴェッターはオカルティズムをGeheimwissenschaftと呼び、先人としてスウェーデンボルグを挙げている。  ちなみに、スウェーデンボルクを批判したカントの『視霊者の夢』の第一部第二章のタイトルはgeheime Philosophie(オカルト哲学)である。
寺戸淳子「「呪術ではない」祭儀:「秘義」としての聖体拝領」
 大変勉強になった。キリスト教の「聖体拝領(聖餐)」「実体変化」「神秘的肢体」といったややこしい話を基本的なところから丁寧に教えてくれるので、これらの神学的議論に関心がある人におすすめの入門的論文。  12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。  12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。  逆に、教会はCorpus mysticumと呼ばれるようになった。つまり、聖体と教会の呼び方が入れ替わったのである。この教会を指す「神秘的肢体」がやがて法人のような擬制的人格一般を指すようになっていった。カントーロヴィチぽいなと思ったら、カントーロヴィチが参照されていた。 佐藤清子「19世紀合衆国における回心と「呪術」:チャールズ・G・フィニーの新手法擁護論とその批判を中心として」
 きわめて明晰な論文。19世紀アメリカの第二次大覚醒の時代を代表する牧師フィニーは「新手法」と呼ばれる礼拝方式を導入して革新をもたらしたが、それは回心を意図的・合理的に促す手法であり、限りなく呪術に接近していく。  フィニーはスコットランド啓蒙思想の影響の下、自然法則の学習・応用という方法論を採用し、自らの回心の方法を「科学」あるいは「哲学」であると称した。他方で、呪術・宗教・科学の三区分で知られるフレイザーもまた、同じくスコットランド啓蒙の思潮に影響を受けていることは興味深い。  フレイザーは呪術を稚拙な科学であるとしたが、もし仮に「回心」を心理学的な技術によって達成できるようになったとしたら、それは科学なのか呪術なのか。実は科学と呪術の区別は、その知識や技術の程度の差異によるのではないのではないか。  フィニーの「祈り」についての議論も面白い。回心は聖霊の働きによるが、人間は聖霊をコントロールできないがゆえに、回心も究極的には神に委ねられている。しかし、フィニーは回心と聖霊の間に「祈り」という人間の行為を介入させる。とはいえ、人間は祈りによって神を操作できるわけではない。  フィニーによれば、祈りはそもそも聖霊の働きによって可能になるのだから、祈ることができること自体がそれが叶えられる可能性があることの証拠となる、という。ここには、祈りのアポリア(祈りは効果があるならば、祈りにはならず、効果がないならば、祈る必要がない)を解く鍵があるように思われる。 久保田浩「近代ドイツにおける「奇術=魔術」:奇術とスピリチュアリズムの関係に見る〈秘められてあるもの〉の意味論」
 19世紀ドイツで機械仕掛けの奇術を行う奇術師は、トリックを説明(klaeren)可能なものとしながら、それを驚嘆すべきものとして提示する者であり、スピリチュアリストの種明かし(erklaeren)をして詐欺を暴く啓蒙(Aufklaerung)の意義も担っていた。  奇術師がスピリチュアリストを科学的に暴いたり、宮廷からお墨付きを得た「宮廷奇術師」が登場したりと、『鋼の錬金術師』が好きな人にお薦めしたい論文。スピリチュアリストが、奇術師は本人も気づいていないけれど実は霊媒であり、本人が奇術だと思っているのも霊媒現象なのだと主張する話が面白い。
井上まどか「ロシアにおける呪術概念の検討」
 前半が現代ロシアの事典や概説書における「呪術」概念の分析、後半が16世紀に編纂された『百章』における「呪術」の用法について。「準備的覚え書き以上のものではなく」という著者の言葉通りの文章であった。  『金枝篇』の著者名が「D. D. フレイザー」となっていて、目を疑った(ロシアだとJもGもDなんですか)。それ以外にも本書は誤植が非常に多い印象。上巻目次のタイトルからして既に間違っている。
西村明「呪術としてのキリスト教受容:ミクロネシア・ポンペイ島を中心に」
 最終章でいよいよ真打ち「マナ」登場。ミクロネシアのポンペイ島における宣教でキーワードとなった「マナマン」から、マジックワードとしての「マナ」概念の歴史的形成の議論へ。  まず、宣教師は植民地主義的視点で現地の宗教的・呪術的実践を裁断するが、しかし、その視線は一方向的なものではなく、現地民もまた、自分たちの価値体系の中にキリスト教を位置づけて理解する。ポンペイ島で、二つの異なる価値体系を通訳した概念が「マナマン」であった、という話が面白い。  さらに後半、この「マナマン」(ミクロネシア)と同族語である「マナ」(メラネシア・ポリネシア)という概念が辿った数奇な運命が論じられるが、これも面白い。  「マナ」とはそもそも、コドリントンが『メラネシア人』(1891)において初めて学術的議論に導入した語で、その後、超自然的力を指す普遍的な概念として人類学・宗教学で多用されていった。しかし、コドリントンが現地調査したモタ島とバンクス諸島は、当時、ポリネシア人と宣教師の影響を受けていた。  メラネシアの「マナ」が形容詞や動詞としての含意があったのに、ポリネシアでは名詞として用いられた。メラネシアの宣教師たちは先にポリネシア語に通じていたために、「マナ」を名詞的に理解してしまった。こうして、コドリントンがやってきた頃には、既にバイアスのかった「マナ」となっていたのだ。  このように、「マナ」とは、ポリネシアとメラネシア、現地民と宣教師、そして世界各地の多様な宗教間といった、異質な価値体系を通訳=通約する概念として強力な力をもつようになっていったのである。異質な体系の間の界面に生じる通約的概念という意味では、「フェティッシュ」にも似ているように思う。
3 notes · View notes
kennak · 2 years
Quote
ロシアの一体性とは何なのでしょうか。ロシアは100以上の民族が暮らす多民族国家であり、脱植民地化していない帝国です。寄せ集めともいえるこの国家を一体のものとして描くため、ロシアのナショナリズム思想は「多様性における一体性」という観念を発展させました。この観念の歴史の延長線上に、今回の戦争を考えることもできると思います。 ―― 「多様性における一体性」とは何を意味するのでしょうか? ロシアのナショナリズム思想は、西欧と比べてロシアに独自性が無いというコンプレックスから形成されました。19世紀初めに近代ナショナリズムが勃興すると、独自性への模索が始まりました。当時、西欧への文化的依存が強かった貴族��級や知識人たちは、ロシアの独自性に対して悲観的でした。例えば1820~30年代の文学者たちは、ロシア語で書かれた文学は全て西欧の模倣でありロシア独自の文学と呼べるようなものではないとしばしば嘆きました。しかし、1840年代になると、独自性が無いこと自体が独自性だという逆説的な言説が出現します。当時を代表する文芸批評家ヴィッサリオン・ベリンスキー(1811―1848)は、「ロシア人はイギリスに行けばイギリス人のようになり、フランスに行けばフランス人のようになる。そのような高い適応能力こそがロシア人の独自性である」と述べます。 重要なのは、ベリンスキーがこの「適応能力」の傍証として、当時ロシア帝国が侵略中だった、コーカサスを舞台にした文学作品を参照することです。その作品には、従軍してコーカサス戦線に行き、そのまま根づいて現地化した、つまりコーカサスに適応したロシア人が出てきます。このように、独自性の欠如というネガティブな特徴が高度な適応能力といったポジティブなものとして捉えなおされるには、西欧へのコンプレックスが植民地に対する優越感で補われる必要があったのです。西欧の模倣は恥ずかしいことだけれども、それによって培われた模倣の能力が、植民地を統合していく上では誇るべきものに変わる。ロシア人は独自性がない空の容器であり、だからこそさまざまな他の民族を包摂していくことができる、という主張がそこから現れます。 一方、スラブ派と呼ばれる人たちは、宗教哲学における一体性のイメージにロシアの独自性を見出しました。思想家のアレクセイ・ホミャコフ(1804―1860)は、教会で祈りを捧げる信者はキリストと一体になり、さらに、全ての教会は一つの身体のように有機的なまとまりを形成すると考えました。そして、西欧のカトリックやプロテスタントと比較して、東方正教会においてのみ、信者一人一人の自由に基づく一体性、つまり「多様性における一体性」が実現されていると主張しました。この一体性のイメージは教会にとどまらず、ロシアの共同体や国家にも当てはめられていきます。 こうして、多様性を包摂する力こそロシアの国民性であり、多様な諸民族を併合すればするほどロシアはロシアらしくなれる、という思想が発展してゆきます。これはまた、多民族帝国としてのロシアと国民国家としてのロシア(ロシア民族の国家としてのロシア)という、二つの国家のありかたの間で、ロシアのナショナリズムが抱えた矛盾を解消する装置としても機能してきました。国民性(民族性)の欠如というコンプレックスを抱えたロシアのナショナリズムは、その欠如を帝国性によって補い、帝国性に基づく国民性の理念を形成したのです。ソ連時代には、共産主義というイデオロギーが多民族国家の一体性を維持する主軸となりましたが、やがてソ連崩壊に至ると、帝国的ナショナリズムがリバイバルし始めます。
ロシア・ウクライナ戦争とナショナリズム | 東京大学
5 notes · View notes
lvdbbooks · 1 year
Text
Tumblr media Tumblr media
2023年3月31日
【新入荷・新本】
『広告 Vol.417 特集:文化』(博報堂、2023年)
価格:1,000円(税込)
/
2019年のリニューアル以降、「価値」「著作」「流通」「虚実」というテーマを特集してきた雑誌『広告』最新号は「文化」特集。文庫サイズでありながら、全35記事、1100ページの重厚感のある本に仕上がっています。表紙は、1冊1冊色味が異なる「赤」のグラデーションがシルクスクリーンで刷られています。現体制での刊行は今号で一旦終了するようです。
<目次>
108 文化とculture 社会学者 吉見俊哉 × 『広告』編集長 小野直紀 文:山本 ぽてと
109 ドイツにおける「文化(Kultur)」概念の成立とその変質 文:小野 清美
110 文化と文明のあいだ 文:緒方 壽人
111 まじめな遊び、ふざけた遊び 文:松永 伸司
112 建築畑を耕す 文:大野 友資
113 断片化の時代の文学 構成・文:勝田 悠紀
114 現代における「教養」の危機と行方 哲学者 千葉雅也 × 『ファスト教養』著者 レジー 文:レジー
115 ポップミュージックにおける「交配と捕食のサイクル」 文:照沼 健太
116 カルチャー誌の過去と現在 文:ばるぼら
117 「文化のインフラ」としてのミニシアターが向かう先 構成・文:黒柳 勝喜
118 激動する社会とマンガ表現 文:嘉島 唯/編集協力:村山 佳奈女
119 中国コンテンツをとりまく規制と創造の現場 文:峰岸 宏行
120 SNS以降のサブカルチャーと政治 文:TVOD
121 開かれた時代の「閉じた文化の意義」 哲学者 東浩紀 インタビュー 聞き手・文:須賀原 みち
122 文化を育む「よい観客」とは 文:猪谷 誠一
123 同人女の生態と特質 漫画家 真田つづる インタビュー 聞き手・文:山本 友理
124 ジャニーズは、いかに大衆文化たりうるのか 社会学者 田島悠来 × 批評家 矢野利裕 構成・文:鈴木 絵美里
125 ディズニーの歴史から考える「ビジネス」と「クリエイティビティ」 文:西田 宗千佳
126 ラグジュアリーブランドの「文化戦略」のいま 文:中野 香織
127 成金と文化支援 日本文化を支えてきた「清貧の思想」 文:山内 宏泰
128 経済立国シンガポールの文化事情 文:うにうに
129 流行の歴史とその功罪 文:高島 知子
130 広告業界はなぜカタカナが好きなのか 「いいもの」は未知との遭遇から生まれる 文:河尻 亨一
131 クリエイティブマインドを惹きつけるアップル文化の核心 文:林 信行
132 未知なる知を生み出す「反集中」 文:西村 勇哉
133 「ことば」が「文化」になるとき 言語学者 金田一秀穂 × 『広辞苑』編集者 平木靖成 聞き手・文:小笠原 健
134 風景から感じる色と文化 文:三木 学
135 「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ ミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力 文:小森 真樹
136 京都の文化的権威は、いかに創られたか 構成・文:杉本 恭子
137 生きた地域文化の継承とは 3つの現場から見えたもの 構成・文:甲斐 かおり
138 ふつうの暮らしと、確かにそこにある私の違和感 文:塩谷 舞
139 過渡期にあるプラスチックと生活 なぜ、紙ストローは嫌われるのか? 構成・文:神吉 弘邦
140 文化的な道具としての法の可能性 文:水野 祐
141 「日本の文化度は低いのか?」に答えるために 構成・文:清水 康介
142 イメージは考える 文化の自己目的性について 文:中島 智
5 notes · View notes
ogawa-xd · 2 years
Text
■デザインと哲学 1
Tumblr media
「哲学とデザイン」グループによせて、まず自分のイメージしている全体像を示そうと思う。 とくに哲学は、語り出すとついつい細部に踏み込んでしまうものだが、ここでは、ド素人の蛮勇をふるって、とにかく拙くとも概要を一気に眺めてみたい。デザインについても語る人ごとに玉虫色をしたものだが、哲学との関係で自分のイメージを語っておく。 申すまでもなく、おそらく大きな勘違いも潜んでいると思う。まちがいがあれば、ご指摘のほどよろしく。
1. 「古代から近代まで」の哲学を一気に流す。 2. 「デザインとは」哲学とからめて語る。 3. 「現代の哲学トピック」デザインと関係のあると思われる話題をひろう。
1. 古代から近代まで
哲学はおもしろい。 おもしろいに決まっている。なぜならその学問は、人の「思考」あるいは「知的探求」の歴史なんだから。「考えること」は人のもっとも人らしいものだ。今のところ「人のように」考えるものは人しかいない。
古代から中世を経て、近世、近代への流れを一気に見る。 (といっても西洋の話しにかぎるのだけど。)
古代:2700年くらい昔、神話などの世界観に対して、本当はどうなの? という疑問が示された。誰かの、すでにある「それらしい」話しを、鵜呑みにするのではなく、自分の頭で「よく考える」ことが始まった。世界の根源は水だとか火だとか原子だとか数字だとか。時間の不思議についても考えた。もちろんそれまでにだって、深く考えた人はいたはずだが、物事に対するそのような探求アプローチが、一つの「問題領域」としてその頃に初めて固まってきた。(タレスら) そのはじまり自体も興味深いが、それ以前の人がいったいどんなふうに思考していたのかにも興味がそそられる。(おそらくそれは〈意識〉のはじまりにさかのぼる話しになり、かなりおもしろいのだが、それはまたいずれ。) その後、そういった現実の世界の裏には目に見えない「普遍的な本質」の世界があるのでは、という発想が出てきた。つまり「本質」という考え方が生まれた。世界を知るにはその本質を知らなければならないということ。(プラトン) 存在論から認識論へと軸足が移ったともいえる。これも大きな構図。
中世:その後、宗教(一神教)が世界を長らく席巻した。 宗教の基本的な構えは「信じる」ことにある。しかし「信じろ!」という要求は、つまり「考えるな!」ということであり、これはいわば「反哲学」である。人は「考えること」をやめることも止めることもできない。今のところまだ。 だからとうぜん、これらは最終的には棲み分けることにならざるをえない。
近世:宗教の反動もあり、ルネサンスを経て、とにかく一度はすべてを「疑ってみる」ことから、現代につながる哲学が、再スタートした。(デカルト) 疑った末にたった一つ残った疑えないものとは「自分という存在」だったが、それは自分という、世界を見ている「主観」と、見られている「客観」という二元論の構図となり、それに沿って世界を見るアプローチが始まった。プラトンの「本質vs.現実」というのが垂直的な二元論だとすれば、「主観vz.客観」は、水平的な二元論といえる。 その中で、経験を重んずる派と合理的な思考を重んずる派という潮流ができた。これは現代でも普通に比較される二つの立場だ。
近代:近代のはじめに「経験vs.合理」の議論を(両否定ではなく)調停しようというものが現れた。それはさらに「主観と客観」「本質と現実」に繋がっていく���(カント) カントは感性/知性/理性という三つの働きで読み解いた。これらは英語にするとよくわかる。感性:sensitivity/知性:understanding/理性:reason である。経験は感性がうけとめ、理解(知性)する。理性はその理由を考える働き。人は生まれながら観念の基本的な枠組みを持っていて、それと感覚からくる入力とで理解する。その枠組みとは、何かが同一であることとか、すべてのこと(結果)には原因となることがある、など。同一性とはたとえば、昨日見た机の上の花瓶と、今見ている花瓶が同じものである、という認識である。よく考えるとこれらが本当に同じものであることを完全に立証することはむずかしい。 余談だが、カントは「直観なき知性は空虚、知性なき直観は盲目」と言ったそうだが、孔子(2500年前の中国の哲人)の言葉「学びて思わざるはくらし、思いて学ばざればあやうし」と見事に共振しているのは、おもしろい。 わたし達は世界がまず存在していてそれを我々が認識している、と素直に考えているしそれ以外にあるのか、と思う。が、カントの考え方を突き詰めると、我々が認識するからこそ世界はあるのだということになる、という。これを「コペルニクス的転回」と呼んだ。
古代から近代:以上が、古代から近代までの2500年間くらいの話しで、長いようで短い。 自分のレベルのせいかもしれないが、ここまでは少々は小難しいが、それほど難解な話しでないような気がしている。
現代の哲学には、いろいろな主張があり、あまり一直線に話しにならばない。そこに行く前に、デザインの話しを少ししておくことにする。
2 notes · View notes
takahashicleaning · 23 days
Text
TEDにて
ビル・シリト:マトリックス(行列)の作り方と足し算、掛け算
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
経済学や暗号学、3Dグラフィックスのように、大量の数字を扱う問題に取り組んでいるとき、それらの数字を格子、つまり、行列(マトリックス)にまとめると便利です。
行列(マトリックス)の足し算、引き算、掛け算(割り算はできませんよ!)の計算方法とコツを、ビル・シリトが示してくれます。
講師:ビル・シリト、アニメーション:The Leading Sheep Studios *このビデオの教材:http://ed.ted.com/lessons/how-to-organize-add-and-multiply-matrices-bill-shillito
そろそろお分かりでしょう。人生で何をしようとも数字が必要です。ですが、特に、ある分野では、少しどころか大量の数字が必要です。これらの数字は、どう管理すればよいでしょうか。
過去に遡ってみると古代中国の頃、数学者たちは、何列もある大量の数字を一度に表現する方法を思いつきました。
今日では、その並びを「行列(matrix)」複数なら「matrices」と呼んでいます。
「マトリックス(行列)は、至るところにある。我々を四方八方から囲み、今でさえ、まさにこの部屋の中にもだ(映画のマトリックスのセリフ)」
失礼、話を戻しましょう。それでも、事実、行列は至るところに存在します。使われるのは、ビジネス界。経済学、暗号学、物理学、電子工学、コンピュータ・グラフィックスなどです。量子力学のディラック方程式や対称性にも。
これに注目した量子力学の巨人の一人、ポールディラックが量子に導入して、もう一人の巨人であるシュレーディンガー方程式と相対性理論を構築した巨人のアインシュタインの理論を融合しました。
二つある内の一つ。特殊相対性理論の方をシュレーディンガー方程式と融合し、ディラック方程式なるものを構築しています。
ここから「対称性」=「美(数式美)」の哲学が確立しました。
これが相対的な量子の相互作用を数式で表現できる「場の量子論」発展のキッカケになります。
もう一つの一般相対性理論は、Super String Theory(スーパーストリング理論)やループ重力理論など有望な理論で構築されようとしています。
行列(マトリックス)が、素晴らしい理由の一つは、その中に、沢山の情報を詰め込むことができて、膨大な数の異なる問題から成るまとまりを、たった1つの問題に、帰着できることです。さて、行列(マトリックス)を使うには、計算方法を学ぶ必要があります。
実は、行列(マトリックス)を普通の数のように扱うこともできるんですよ。足し算、引き算、掛け算もできます。割り算は無理ですが、説明は、泥沼になるので割愛します。行列同士の足し算は、実に簡単です。各行列の同じ場所にある成分を順番通りに足していけばよいのです。
よって、最初の成分同士を足し合わせます。2番目の値、3番目、同様に続けます。当然、同じ大きさの行列同士でないと足せませんが、だいたい直感的に分かることでしょう。行列全体にスカラーと呼ばれる数字を掛けることもできます。その数字を各成分に掛けるだけです。
ですが、お待ちを。まだありますよ!ある行列に別の行列を掛けることができるんです。けれども、足し算とは違い、成分ごとに掛けるのではありません。もっと独特です。コツが分かれば、とても面白いですよ。頭の体操でパズルを解きながら現実的な結果も得られるし、このように計算します。行列が2つあるとしましょう。
両方とも、2x2の大きさだとします。つまり、それぞれ2行2列の行列だということです。最初の行列を左に、2番目の行列を隣に書くことにして少し上に移動させます。Excelで表を作っているような感じです。行列を掛けたときに、得られる積は、右側に置きます。
分かり易くするために、現実には実在しない仮想的な格子線も引きますね。さて、最初の行列の最初の行と2番目の行列の最初の列を見て下さい。それぞれ2つの数がどう並んでいますか?行の最初の数字と列の最初の数字を掛けます。
1掛ける2は2。続きもやりますね。3掛ける3は9。次にそれらを足します。2足す9は11ですね。その数字を左上に置き、計算に用いた行や列の位置と合うようにします。分かりますか?他の要素でも同じことができます。-4足す0は-4。4足す -3は1。-8足す0は-8。従ってこれが答えです。
そんなに難しくないでしょう?ただ問題点が1つあります。足し算と同様、行列は適した大きさでなければなりません。これら2つの行列を見て下さい。2掛ける8は16。3掛ける4は12。3掛ける、おっと、2番目の行列にはもう行がありません。使い果たしてしまいました。だから、これらの行列は掛けることができないのです。
最初の行列の列数と2番目の行列の行数が合っていなければなりません。注意深く、寸法(次元)を正しく一致させていれば、とても簡単です。でも、行列の掛け算を理解することは始まりに過ぎません。行列を使ってできることは沢山あります。例えば、秘密のメッセージを暗号化したいとしましょう。
仮に「Math Rules」とします。とは言え、それ自体は秘密にするようなものではないんですけどね。文字を数字で表して、その数字を行列の中に入れ、それから暗号鍵を別の行列に入れます。掛け合わせると暗号化された行列が新しく出来ます。この新たな行列を解読し、メッセージを読む唯一の方法は鍵である。
この2番目の行列を手に入れることです。数学の分野でも行列が頻出する線形代数というものがあります。線形代数を勉強する機会があればやりましょう。なかなか乙なものですよ。
でも、これだけはお忘れなく、一定の訓練は必要だが、行列(マトリックス)の使い方が分かればどんなことでも可能だと。
「これは最後のチャンスだ。(映画のマトリックスのモーフィアスのセリフ)」
「私が見せるのは真実だ。純粋な真実だ!!(映画のマトリックスのモーフィアスのセリフ)」
(個人的なアイデア)
話がそれるが、映画のマトリックスをもう少し。
実は、この映画「Matrix」という言葉には、もう一つの意味があって、密教で説かれる「胎蔵界」という意味もあります。
仏教が描く「蓮華(れんげ)の花」。あれも「マトリックス」です。
預言者オラクルは「ハイヤーセルフ」を表現しています。
「ザイオン」はエルサレム地方の歴史的地名「シオン」から。
続いて
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。
数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています���
また
2024年の映画「オッペンハイマー」から。
これは教科書に載らない歴史です。
映画天才物理学者ロバート・オッペンハイマーの背景を考える!
マンハッタン計画が、アメリカの情報公開法で開示された可能性が高いです。
オリビア・ニュートン・ジョンの祖父のマックス・ボルンは原爆の父のオッペンハイマーの指導教官でした。
マックス・ボルンは、シュレーディンガーが波動方程式をシステマティックに構築したにもかかわらず
波動関数ψ(プサイ)の計算結果が何の概念、解釈を示しているのか?一体何なのかが謎でした。
それに対する波動関数についての最も実用的な回答をこのマックスボルンと言う人が初めて示したことで知られています。
ロバート・オッペンハイマーは、アメリカの物理学者で、原子爆弾開発プログラムのリーダーでした。
彼は、20世紀中における理論物理学の重要な貢献者であり、量子力学、相対性理論、宇宙物理学などの分野で多大な成果を残しました。
彼は、マンハッタン計画の一環として、原子爆弾の開発に関与しました。
彼は当初、この計画には反対していましたが、最終的には協力し、開発に重要な役割を果たしました。
しかし、原爆の使用についての意見は複雑でした。
彼は、原爆が世界を変えることになるとあり、同時に、エネルギーの恐ろしい破壊力を理解していたため、アインシュタイン同様、その使用に矛盾を感じていました。
また、戦後には核兵器が人類にとって大きな脅威になると警告し、核実験には反対していました。
このオッペンハイマーが計算したところによれば、陽子が「空孔」ならば、すべての物質は10億分の1秒程度で崩壊してしまうと言うことを計算で示しています。
量子論の黎明期に「空孔」と言うアイデアは、ディラックが提唱し、その後、否定されて、場の量子論が構築されています。
さらに
第二次世界大戦にまで拡大し、人口が半分になり、人類絶滅の手前まで古代から続いてきた戦争のレベルを超え
人類史上初の巨大な戦争による憎しみの連鎖を断ち切り終結するためには
数学のゲーム理論から連合国以外のどこかに原子爆弾を落とすことが必須ということが
計算で判明していたという事実は、一般的にあまり知られていません。
これは教科書に載らない歴史でもあります。
そして
エルミート行列は、量子力学において非常に重要な役割を果たします。
エルミート行列とは、その随伴行列(共役転置行列)が元の行列と等しい行列のことです。
量子力学におけるエルミート行列の重要性
1、観測可能量の表現
量子力学では、物理量(例えば位置や運動量)はエルミート演算子として表現されます。エルミート演算子の固有値は必ず実数であり、これは観測可能な物理量が実数であることを保証します。
2、固有値と固有ベクトル
エルミート行列の固有値は実数であり、異なる固有値に対応する固有ベクトルは直交します。この性質により、量子状態の正規直交基底を構築することができます。
3、ハミルトニアン
量子力学の中心的な役割を果たすハミルトニアン(エネルギー演算子)もエルミート演算子です。ハミルトニアンのエルミート性により、エネルギー固有値が実数であることが保証され、物理的に意味のあるエネルギースペクトルが得られます。
スーパーストリング理論との関連
スーパーストリング理論は、素粒子物理学の統一理論を目指す理論であり、基本的な構成要素を1次元の「ストリング」として扱います。この理論においても、エルミート行列やエルミート演算子は重要な役割を果たします。
1、D-ブレーンと行列モデル
スーパーストリング理論では、D-ブレーンと呼ばれる高次元の膜が登場します。これらのD-ブレーンのダイナミクスは、行列モデルを用いて記述されることが多く、エルミート行列がその基礎を成しています。
2、場の量子論との関係
スーパーストリング理論は、場の量子論と密接に関連しており、場の量子論におけるエルミート演算子の概念がそのまま適用されます。特に、ストリングの振動モードや相互作用を記述する際に、エルミート行列が重要な役割を果たします。
エルミート行列の性質は、量子力学の基本的な構造を支えるだけでなく、スーパーストリング理論の高度な数学的構造にも深く関与しています。
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷の高橋クリーニング店Facebook版
0 notes
yoga-onion · 1 day
Text
Tumblr media
[Image above: D. T. Suzuki (11 November 1870 - 12 July 1966) was a Japanese Buddhist scholar and doctor of literature. ]
A message from 23 nights temple Q&A: Part 2 [Part 1]
Next question was, want to know more about Tendai Buddhism and how to do face-to-face learning outside of Japan:
More than 1,400 years after its introduction, Buddhism in Japan was born from the founders of sects in Japanese history and culture. Today, about 13 major sects exist, including the Tendai sect. Of these, three are Zen sects: the Soto, Rinzai and Obaku.
Among them the most representative are, Saicho, founder of the Tendai sect, whose head temple is Enryaku-ji on Mt. Hiei; Kukai, founder of the Shingon sect, who brought esoteric Buddhism to Japan, whose head temple is Kongobu-ji on Mt. Koya; and Dogen, author of the Shobogenzo, a philosophy book said to be a manual for Zen meditation practice and originator of mindfulness. Founder of the Soto sect, whose main temple is Eiheiji Temple.
Buddhism means 'Buddha's teachings'. In the beginning, everything was transmitted orally and it was only after Buddha's death that documents and scriptures were created. All of the Buddhist scriptures that remain today were described by the memory of Buddha's disciples. In the meantime, it underwent various transformations through the views of translators and other factors, and representative gurus from different countries established and divided into sects. The Tendai sect is one of these sects, founded by Master Saicho. Incidentally, my trusted teacher is a Zen monk of the Soto sect, and he says that one should not be confined to a sect. It is because Dogen, the founder of the Soto sect, taught that the Buddha's teaching is one and that we should not be obsessed with sects.
Those wishing to study face-to-face or Buddhist thought outside Japan should visit your local Buddhist temple or Zen centre. You can easily find one by hitting the usual keywords. However, not all are good teachers. It is recommended to search patiently for a teacher or centre that suits you. For international learners, books by Japanese Buddhist scholar D.T. Suzuki are relatively accessible. He wrote on Zen in English and introduced Japanese Zen culture to the rest of the world. He was also a prolific translator of Chinese, Korean, Japanese, Vietnamese and Sanskrit literature.
In fact, the teachings of Zen that we are learning are not like there is a holy scripture that says this is the absolute truth, nor is there a founder who says that this is the absolute truth.
And it is best not to decide on a teacher based on sect or culture, but to knock on the door of a person you can identify with. More importantly, he or she may not only be in the temple.
Tumblr media
二十三夜堂からのメッセージ Q&A: その2 [その1]
次の質問は、天台宗についてもっと知りたい、日本国外で対面で学ぶ方法を知りたいというものでした:
伝来から1400年余りの年月を経て、日本の歴史文化のなかで、宗派の開祖たちから生まれたのが「日本の仏教」。 現在、大きな宗派として存在しているのは、天台宗を含め約13宗派。その中で禅宗は、曹洞宗、臨済宗と黄檗宗の3宗。
中でも代表的なのは、天台宗の開祖の最澄、総本山は比叡山延暦寺、日本に密教をもたらした、真言宗の開祖の空海、総本山は高野山金剛峯寺、そして、坐禅修行のマニュアルとも言われている哲学書「正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)」の著者でマインドフルネスの元祖、曹洞宗の開祖の道元、大本山は永平寺など、が挙げられる。
仏教とは「ブッダの教え」という意味である。当初、全ては口頭で伝えられており文書·経典ができたのはブッダ没後のことだ。今日残っている仏教経典はすべて、ブッダの弟子たちの記憶によって記述されたもの。その間訳者の見解などを通して様々な変形を繰り返し、各国の代表的な教祖が宗派を立ち上げ分かれていった。天台宗はその一つで、最澄が立ち上げた宗派である。因みに私の信頼できる先生は曹洞宗の禅僧だが、彼は宗派に囚われるべきではないと言っている。というのも曹洞宗の開祖である道元禅師が「ブッダの教えは一つであり、宗派に執われるな」と教えていたからだ。
国外で対面学習や仏教思想を学びたいとご希望の方々は、ローカルの仏教寺院、または禅センターを訪ねてみると良いと思います。お決まりのキーワードを叩けば、すぐに見つかります。但し、全てが良い先生とは限りません。自分に合った先生やセンターを根気よく探すことをお勧めします。海外の方々は、日本の仏教学者、鈴木大拙氏の本が比較的手に入りやすいと思います。彼は英語で禅に関する著作を発表し、日本の禅文化を世界に紹介し、また中国語、韓国語、日本語、ベトナム語、サンスクリット語などの多作な翻訳者でした。
実際、私たちが学んでいる「禅」の教えは、これが絶対の真理だという聖典があるわけでも、これが絶対の真理だという教祖がいるわけでもありません。
宗派や文化で師を決めるのではなく、ご自分が共感できる門を叩くのが最良かと思います。もっと言えば、その人はお寺にのみいらっしゃるとも限りません。
62 notes · View notes
ari0921 · 11 months
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)11月11日(土曜日)
    通巻第7995号
 「プーチンの頭脳」と言われた、あのロシア思想家はいま
   NATOをフィンランド化、中国を分裂させ、日米同盟を離間させよ
*************************
ロシアの政治思想家アレキサンドル・ドゥーギンは、その後、どうしているか?
かれは「プーチンの頭脳」とまで言われた。娘のダリアが父親の車で走行中に爆殺され、身代わりになったと言われた。この狭隘なロシア民族主義を謳う思想家は、しばしなりを潜めていた。
 ドゥーギンの娘ダリアはギリシア思想史に詳しく学生時代には父親の思想とは距離を置いたが、しだいにロシア地政学と民族主義に接近し、ウクライナ侵攻作戦を支持する言論活動を展開していた。
 2022年8月20日に起きたダリア暗殺は、ウクライナのSBU(保安庁)の仕業と見られるが、犯人として手配されたのはアゾフ大隊の流れをくむ活動家だったともいう。享年29歳。
 ドゥーギンは明確なロシア至上主義を唱え、「プーチンのイデオローグ」と言われるのだが、最近の発言で「ロシアの真の同盟国はイラン、北朝鮮、ベラルーシといった『のけ者国家』だ」と自嘲気味な発言もしている。
彼は「現代のドストエフスキー」、「右翼のトロツキー」、「正教会の修道士」、「第二のラスプーチン」、或いは「もう一人のトルストイ」などと毀誉褒貶が激しい。
 ひと頃のドゥーギンンはパラノイア的な地政学を主唱し、「カリニングラードをドイツに返還し、NATO諸国をフィンランド化し、日本に千島列島を返還し、日米同盟を亀裂させて日本をロシアの同盟国とせよ。中国は分裂させるべきだ」などと唱え、その神秘主義あるいはオカルト的妄言は、パラノイア民族主義、あるいはウルトラナショナリストとも見られた。
だが、ドゥーギンはプーチンの側近でもなく、クレムリンとの絆は殆どなく、「プーチンの頭脳」というのは宣伝でしかない。
ネットのインフルエンサーとして、むしろ娘のダリアの影響力のほうが強かった。暗殺標的はドゥーギンではなく、テロリストは最初からドゥーギンの娘をターゲットとしていたとは佐藤優氏の分析だ。
 ▼オカルト的な神秘主義をプーチンが好むだろうか?
かれは多言語に精通し博学で社会理論、難解な文学、規範哲学に精通している。
ハンティントンの文明主義からアレイスター・クロウリーの悪魔主義、極左サンディカリズムから極右伝統主義と多彩なアプローチに対応してきた。モスクワ大学で教授を務めたほど博学だった。
ドゥーギンは基本的にはニヒリズムに立脚し、反自由主義革命を公然と呼びかけ、国際秩序の終焉を予言し、西側に対する完全な嫌悪感を示してきた。だからロシア人の愛国者でもドゥーギンの思想に戸惑いを感じた。
ドゥーギンの哲学的発言や政治的思想は、古典的な地政学、伝統主義、オカルティズム、フランスのポストモダニズム、ヨーロッパのニューライトなどの受け売り部分が濃厚にあって、もしプーチン大統領との共鳴部分があるとすれば、「新ユーラシア理論」である。
新ユーラシア主義を主唱するドゥーギンの考え方は、ロシアが「モンゴル帝国」のような伝統主義的なユーラシアの宗主となって、近隣諸国を包摂し統合することを理想とする。
この新ユーラシア主義がプーチンの外交政策立案に直接的影響を持ったことはない。
けれどもロシアに対する西側の長年の敵意、伝統的な陸上大国と海洋大国の間の避けられない戦い、邪悪な外国勢力によるロシア社会の転覆などとするドゥーギンの被害妄想的な地政学的分析が、プーチン政権の基本的な西洋観、歴史観と類似性があることは事実だろう。
ドゥーギンは2023年2月24日、珍しく日本のTBSのインタビューに応じ、「ロシアが勝つか、人類が滅びるかであり、ロシアが勝てば世界は平和になる」と神秘主義的預言をしている。
3 notes · View notes
nyantria · 1 month
Text
陰謀論
2024年8月9日 by Lars Meler
Edwin
他人の行動や表明された、あるいは推測された動機に注意を払うことは、集団生活において生存に値する。しかし、それが乱暴に誇張され、他者に対する根拠のない不信感によって煽られるなら、パラノイアである。(重度の)被害妄想は狂気である。そして狂気の場合、判断力が損なわれる。
では、ヨーロッパへの第三世界からの移民が、言論の自由、議会主義、法の支配を含む、われわれが知っている西洋文明の終焉をもたらすための秘密工作であるという視点に賛同する人はいるのだろうか?そして、キリスト教を根絶し、イスラム教をその代わりに据えるというマスタープランは考えられるだろうか?
あるいは、陰謀論は嘲笑によって否定することを意図したあざとい主張だと考えることもできる。冷戦時代には、未来は進歩的前衛(とソビエト帝国または中華帝国)のものだと確信していた左翼知識人の間で、共産主義の全体主義に警告を発する人々を嘲笑することが好んで行われた。
それ以来、(オーストリア出身の哲学者カール・R・ポパーが定義した)「開かれた社会」に共産主義者が広く浸透しているという疑念は十分に根拠のあるものであり、芸術界、教育制度、公務員における日々の優先順位に影響を及ぼしていたことがわかった。典型的な知的優越感をもって行われる嘲笑は、全体主義への反対、つまり自由の声を封じ込めるためのものだった。すでに外敵と手を結んでいる者たち(例えば共産党の党員)は、理想主義的な純朴さと正義の憤りを装うが、内心は冷笑的であり、開かれた社会を破壊する破壊活動が、広範囲ではないにせよ、どれほど集中的なものであるかは十分すぎるほど承知していた。
第二次世界大戦後、西ヨーロッパには外国人が押し寄せた。大陸の一番外側を見違えるほど変貌させた巨大な人口移動の人的要因となった彼らは、波状的に流入してきた。もともとは、政治的独立を果たそうとしていたヨーロッパの植民地から生まれた人々である。アフリカやアジアからやってきた人々のなかには、単にかつての臣民に与えられた植民地支配後の特権によるものもある。文化的統合の見込みがどうであれ、世界で最も遠い場所から来た人々は、大規模な社会実験の一環として快く受け入れられ、帰化を勧められた。
根深い部族主義的感情、経済的優遇、暴力的迫害の犠牲者は、旧植民地支配者に避難しなければならなかった。しかし徐々に、移民は別の形態をとるようになった。
1960年代、アナトリアの恵まれない地域から村人たちが西ヨーロッパ各地の政府によって輸入され、産業における非熟練労働に従事した。当時は経済が活況を呈しており、労働力に対する需要もそれに比例して逼迫していた。大量移民の第二波をもたらした外国人求職者たちは、素朴に "ゲスト・ワーカー "と呼ばれた。この呼称が暗示するように、彼らは村に家を建てるだけの資金を貯めたら祖国に帰ることになっていた。
しかし、西側諸国は自らの "寛容の罠 "にはまった。軽率な楽観主義を特徴とする当時の政治家たちは、自分たちの決定が長期的にどのような結果をもたらすかを理解できなかった。アナトリアの労働者たちは故郷に帰る代わりに、大家族を連れてきた。この点については、産業の一時的なニーズに対応するために自由化された法律によって許可され、彼らは「家族の再統合」などを申請した。
西側諸国の政府によって奨励されたわけではないにせよ、異質な共同体、いわゆる「飛び地」は、急成長するディアスポラの橋頭堡となった。その多くは、信仰と自由に対して不寛容な第三世界からの移住者たちであり、彼らの出現は、「過渡的社会」、すなわち、(a)滅びゆくキリスト教、(b)革命的イデオロギー(社会主義やイスラム主義など)に対するヒューマニズムの最終的な敗北、(c)社会的激変を特徴とする不安定な歴史的実体への共同参入を意味した。
アラブの石油国家の専制的な政府が、アジア人を家事奴隷のような条件で雇っているのとは異なり、ヨーロッパ人は「ゲスト労働者」を自由に処分できないことが証明されている。いったんヨーロッパに定住すれば、外国人は生粋のヨーロッパ人と同じ権利を享受できる。だから、彼らは滞在するようになったのだ。
1980年代、移民の第三の波が西ヨーロッパに押し寄せた。かつての植民地大国だけでなく、西側諸国全般が、国境で「亡命」を主張する者を受け入れることで、過去の不正義(すなわち人種差別主義、植民地主義)を発展途上国に償うことを期待されたようだ。おそらく政治的な懺悔(と罪悪感)の表れであろう、このジェスチャーは西側諸国特有のものだった。
狡猾で気まぐれな暴君の典型であるムアンマル・カダフィは、キリスト教の古くからの拠点(そして中東やアフリカで迫害されているキリスト教徒の避難所)であるヨーロッパは、いずれイスラム教徒に征服されるだろうと予言した。2006年4月10日にティンブクトゥで行われた演説で、彼はこの問題を次のように要約した:
「ヨーロッパには5千万人のイスラム教徒がいます。剣も銃も軍事征服もなく、アッラーがヨーロッパでイスラムに勝利をもたらす兆しがある。ヨーロッパの5千万人のムスリムは、数十年以内にヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。アッラーはトルコというイスラム国家を動員し、EUに加える。これでまた5千万人のイスラム教徒が増える。ヨーロッパには1億人のイスラム教徒がいることになる。イスラム教国のアルバニアはすでにEUに加盟している。イスラム教国のボスニアはすでにEUに加盟している。国民の50%がイスラム教徒だ。ヨーロッパは苦境に立たされている。」
時間は紛れもなくイスラム主義者のために働いている。ヨーロッパ中のイマームたちは、歴史的な特権である二枚舌(「タキーヤ」の概念を参照)で話しながら、日常的にホスト国のいわゆる「開国」(すなわち征服)を祝福し合っている。彼らは「進歩的エリート」(黒い戦闘服に身を包んだ議会外のストームトルーパーは言うまでもない)の狂信的な支持を当てにすることができ、社会に対する信徒の忠誠を厳粛に保証することができる公共の議論において、伝統的な犠牲者の役割を引き受ける一方で、彼らはアラビア語、ウルドゥー語、ペルシャ語で、西洋の弱点と差し迫った没落について仲間の信者に指導する。
まともな神経の持ち主であれば、国境に出頭してきた一人一人が陰謀に加担していると疑うことはないだろう。移民は、自分たちの生活環境を改善するためなら、あらゆるものを捨ててでも別れ、犠牲にすることを厭わない。結局のところ、「より緑豊かな牧草地」を求めて外へ出ようとする衝動は、人間の根源的なものなのだ。しかし、人身売買業者の手によって、多くの移民が命がけでヨーロッパを目指している。だから正直なところ、小柄なティーンエイジャーも、妊娠中の母親も、ぽっちゃりしたほっぺの幼児も、犯罪の疑いがあるわけではない。
少数派になりつつある非西洋人は、遅かれ早かれ(民主的な能力を持つ)多数派となり、近隣や都市全体を占拠し、抗しがたい権力基盤を構成する。そして、宗教的なひねりを加えた公民権運動家(すなわち「社会的不公正」や「人種差別」に反対する運動)を装う者も含め、外国人の支配の拡大に熱心な人々の多くは、それを利用する用意がある。彼らは一般的な妬みや不信を煽ることをためらわない。社会の分裂は、彼らが支配権を得る究極のチャンスなのだ。対立と混乱を好む彼らは、真の陰謀家として振る舞う。
しかし、エイリアンの陰謀は、日和見主義的なもので、いわば「二次的なもの」にすぎない。したがって、はるかに憂慮すべき別の陰謀が存在する。権力のために自分の家庭や家族を無慈悲に犠牲にするヨーロッパの進歩主義者たちの意欲を中心に展開する、これが「第一の」陰謀である。この陰謀の本質は、世間知らずの域をはるかに超えている。強力な政治家と意思決定者が関与しているのだ。
1997年5月の総選挙と政権交代の後、地滑り的勝利で勢いづき、長期的な成功計画を立てる準備が整ったイギリス新労働党の指導部は、第三世界の大衆に門戸を開き、それによって有権者の構成--そして政治的気質--を永久に変えようと決めた。党中央顧問のアンドリュー・ニーザーはその後、指導部が(明白な理由で)国民に秘密にしていたこの運命的な政策は、「......右派の多様性を鼻にかける」ために明確に考案されたものだったと明らかにした。
つまり、英国の民族構成を変えるという戦略的な目的だったのだ。指導部はその見返りとして、党に対する無限の大衆(つまり外国人)の支持を期待した。そのような背信的な計算があったのだ。それ以来、元ビジネス担当国務長官のマンデルソン卿は以下のように告白しており、その罪深さは天に泣いている:
2004年、私たちはこの国に働きに来る人々を歓迎するだけでなく、捜索隊を派遣していた。
権力を維持するために自国を売り渡す!何世紀もかけて築き上げてきた高信頼社会が解体されようとしている。反対側には無政府状態が待っている。- ホワイトホールの責任者たちの名が、悪名高きものとなりますように。
Conspiracy Theories - Edwin’s Newsletter #1
1 note · View note
bibliomaniabooks · 3 months
Text
Tumblr media
【新本入荷】 お待たせしました。 話題の新刊「怪奇古物商マヨイギ1巻」が到着しました。 当店もお世話になっている高川ヨ志ノリさんのご厚意で当店限定特典のマヨさん紙スタがつきますッ! また店主も読んでる「哲学と宗教全史」にグノーシス主義研究の書もッ!
0 notes
sskyt · 1 year
Text
『「呪術」の呪縛』上巻読書ノート
Tumblr media
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(上)リトン、2015年。
 今、呪術がかつてないほど注目されている。近代西欧に成立したreligionに対して、劣位に置かれるmagic概念を所与のものとして前提とすることなく、改めて問い直し、概念史や各国の事例研究といった観点からその諸相に光を当てる書。
 以下、所収論文についての読書メモ。 江川純一・久保田浩「「呪術」概念再考に向けて:文化史・宗教史叙述のための一試論」
 全体の導入論文。日本語の「魔法」と「呪術」、学問的概念としてのmagic、西洋文化史におけるmagic、そして、本書の背景と構成が論じられる。「魔法」(1474)が室町中期に現れているのに対して、「呪術」は『続日本紀』(699)に言及がある。  とはいえ、「呪術」は近世・近代において人口に膾炙しておらず、20世紀後半にフレイザーのmagicの訳語として定着した(それ以前は「魔法」)。また、学問的概念としてのエティックな次元と日常言語としてのイーミックな次元の区別の重要性が指摘される。  学問的概念としてのmagicで要注目なのはタイラーとフレイザーであり、特に後者のmagic→religion→scienceという図式が重要。その後のmagic研究の系譜はある意味ですべてここから始まった。他方で、イーミックな次元で見れば、magicの語源は古代ペルシア語に由来するギリシア語のμάγοςに発する。  すなわち、magic概念には、そもそもペルシア由来という他者性が付与されており、つねに地理的他者(非西洋)、歴史的他者(古代)、宗教的他者(異教)という含意がある。近代的なreligionとscienceは、他者にmagicという名を与えることで、自己を正当化してきた歴史的経緯がある。 第一部 呪術概念の系譜
藤原聖子「アメリカ宗教学における「呪術」概念」
 ウェーバー以来、ピューリタンは「世界の脱魔術化」として位置づけられてきたが、1980年頃からピューリタンも呪術を実践していたとする研究が盛んになった。これらの研究を島薗進の新宗教研究(呪術と近代化は背反しない)と比較対象する論文。  アメリカにおけるピューリタンの呪術実践研究では、呪術と近代化の関係は問題とならず、呪術の感情面が重視され、信仰と理性の対立図式、すなわち、アメリカの知性主義対反知性主義というナショナル・アイデンティティの問題へと引きつけて理解されている。  たしかに考えてみれば、アメリカのホラー映画は、魔女、魔法、霊、占い、ゾンビと呪術に事欠かない。むしろ合理性の反作用としての呪術に取り憑かれているようにさえ見える。それはアメリカという国のアイデンティティに関わる問題で、非常に興味深い。  ちなみに、アメリカの呪術総決算的なホラー映画として「キャビン」おすすめです! この『呪術』論集は、「宗教」概念批判を経た後で、「宗教」周辺の重要概念をアプリオリに前提とせず、反省的にその概念の意味を問い直すという点で、『ニュクス』第5号「聖なるもの」特集と双子のような存在ですね。
竹沢尚一郎「イギリスとフランスにおける呪術研究」
 エヴァンズ=プリチャードのアザンデ研究における妖術論とグリオールのドゴン研究における占い論の検討を通じて、呪術を複雑な世界の「縮減」(ルーマン)の仕組みであるとする仮説を提唱する。
 注で触れられている、レイモン・ファースの師マリノフスキーへの問い「もしすべてがすべてに結びついているとすれば、どこで記述を終えたらよいのでしょうか」は、いかにもラトゥール的な問いのように思える。 横田理博「ウェーバーのいう「エントツァウベルンク」とは何か」
 この論文は何度読んでも面白い。ウェーバーのEntzauberung(脱呪術化、魔術からの解放)は有名な概念で、様々な論者によって援用されるにもかかわらず、ウェーバー自身はこの概念を定義しないために、その内容は実は不明確である。  著者は丁寧な読解によって、「脱呪術化」が『プロ倫』における「救いの手段としての呪術の否定」と、『職業としての学問』における「世界の意味づけの否定」という二つの意味をもつことを明らかにする。また、前者が呪術から宗教への移行であるのに対して、後者は「世俗化」を意味する。  ちなみに、私が『現代思想』のウェーバー特集に寄稿した「世界に魔法をかける」の元ネタはこの論文です。「脱呪術化」という概念でひとつ気になるのは、この語はつねにEntzauberung der Weltと「世界の/世俗の」という言葉を伴っていること。この点も「脱呪術化」を援用する論者に見落とされがちだ。
高橋原「初期の日本宗教学における呪術概念の検討」
 日本の宗教学の歴史の中でmagicの訳語としての「呪術」が定着していった過程を跡付ける。明治時代はmagicの訳語として「呪術」は用いられていなかったが、日本の宗教学の確立とともに大正時代にフレイザーの影響の下、「呪術」が定着していった。 谷内悠「呪術研究における普遍主義と相対主義、そして合理性:分析哲学と認知宗教学から」
 「呪術は合理的である」と言われるときの「合理性」について、タンバイアの普遍主義/相対主義の議論を批判的にアップデートさせることで解決しようとする。概念図式/メタ概念図式の議論はガブリエルの「意味の場」の議論を想起させる。  ただ、普遍主義と相対主義の対立をメタ概念図式によって解決するというのは、問題を一段先送りにしただけのような気もするし、最後に出てきた「生物的合理性」は素朴な自然主義のように思えて、正直なところ、肩透かしの感がある。 第二部 事例研究:アジア
鈴木正崇「スリランカの呪術とその解釈:シーニガマのデウォルを中心に」
 スリランカで最も呪力の強いとされるデウォルについての神話と実際の呪術実践から、呪術の特徴を探る。呪術は「外来」「異人」といった境界的状況に対する意味付与・統御として発生するのであり、現在のグローバル化による変動もまた呪術が力をもつ場である。  たしかにマゴスの語源的意味にしても、フェティッシュにしても、文化的・地理的・時間的な境界において、あるいは、他者との界面において、「呪術」(なるもの)は発生するように思われる。個人的には、障り、罪、穢れ、害、悪を意味するシンハラ語の「ドーサ」という概念が面白い。 木村敏明「プロテスタント宣教師の見た「呪術」と現地社会:ヨハネス・ワルネック著『福音の生命力』をめぐって」
 スマトラのバタックに宣教したヨハネス・ワルネック『福音の生命力』に基づいてキリスト教から見た呪術の意義と効用を検討する。ワルネックは、インドネシアの宗教をアニミズムとして特徴づけたが、その評価は両義的である。  著者はこれを「世界観としてのアニミズム」と「エートスとしてのアニミズム」に分類し、前者が称賛されるのに対して、後者は現世利益を追求する自己中心的な呪術実践であるがゆえに非難されるとする。しかし、ヨハネスはこうした呪術を逆手にとって宣教が可能となるとして、利用価値も認めている。 池澤優「中国における呪術に関する若干の考察:呪術という語の呪術的性格」
 面白かった。呪術を「非人格的な法則性に基づく宇宙の操作」と定義すると、人間の作為が宇宙の経営に関与するという点で、陰陽五行説のみならず、古代中国思想全般が「呪術」になってしまうが、これは概念の使い方として非生産的である、という。  古代中国宗教研究における「呪術」の用例として、『詩経』研究が取り上げられ、そこではおおむね「呪術」が素朴な宗教を指す語として用いられ、特に言霊信仰のようなものが想定されている、と指摘される。  私は特に、グラネ『中国古代の祭礼と歌謡』の解釈が面白かった。詩は個人の感情を歌ったものではなく、慣習によって定められた集団の感情を表出したものであり、慣用句は「興」という強制力をもって、自然を循環させる力をもつ、という。詩はいわば礼のような宇宙の形式なのだろう。
川瀬貴也「近代朝鮮における「宗教」ならざるもの:啓蒙と統治との関係を中心に」
 朝鮮における近代化、日本の植民地支配という観点から、「宗教」と「宗教」ならざるもの(呪術・迷信)との区別が何を意味しているかを示す論文。特に、今村鞆、村山智順による植民地下の民俗学的調査の視線が見つめる「迷信」が興味深い。  近代化・啓蒙によって退けられた「巫俗」が宣教師たちによって朝鮮宗教の本質と捉えられ、さらに、朝鮮民族のナショナリズムへと結びつき、現代韓国社会において伝統と見なされるようになった、という指摘が面白い。この辺りの話はどうしても「コクソン」を思い出さざるをえない。 第三部 事例研究:日本
井関大介「熊沢蕃山の鬼神論と礼楽論」
 近世日本儒学における鬼神の問題を、白石・徂徠・蕃山を中心に、主に「礼」の観点から検討する。蕃山にとって、祭祀儀礼の意義は、人心を無意識裡に統御し、社会を統治することにあったが、それは天人相関論によって宇宙の運行を正しく経営することでもあった。  蕃山によれば、鬼神祭祀の礼は、社会が経済的に豊かになって人心が堕落し始めたとき、富の余剰を有益無害な仕方で蕩尽させるために整備された、とのことだが、これはまんまバタイユの社会的蕩尽の理論と同じですね。 一柳廣孝「魔術は催眠術にあらず:近藤嘉三『魔術と催眠術』の言説戦略」
 明治期の催眠術ブームのベストセラー、近藤嘉三『心理応用魔術と催眠術』にしたがって、明治期の「魔術」イメージを検討する。近藤によれば、魔術とは心の中の霊気を通じて感通する手法であり、睡魔術と醒魔術に分けられ、前者は催眠術からは区別される。  魔術は、感通によって、施術者の意思が被術者へと影響を与えることであり、催眠術とは睡魔術のの導入部分にすぎず、近藤は催眠術による治療は有害であるとさえいう。ここら辺は黒沢清の「CURE」っぽい話ですね。 宮坂清「科学と呪術のあいだ:雪男学術探検隊、林寿郎がみた雪男」
 これは面白い。1959~60年の雪男学術探検隊に参加した動物学者林寿郎の記録から、雪男に関する科学的視点と呪術的視点の関係を問う。学者が探求していた「雪男」とシェルパにとっての「イエティ」が、実は同じではなかったことが判明する件がハラハラして特に面白い。  日本の雪男ブームの出発点は、今西錦司(1952年のマナスル登山隊が雪男の足跡を目撃)だったんだね。知らなかった。あと、雪男探検隊って、川口浩探検隊みたいなものかと思ってたら、ちゃんとした科学的調査隊が派遣されていたのも知らなかった。 今井信治「「魔法少女」の願い」
 1960年代の『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』から現代の『魔法少女まどか☆マギカ』まで、魔法少女アニメを時系列順にたどりながら、そこで描かれている「魔法」表象があとづけられる。  東映魔女っ子シリーズが女子の人気を博したのは、当時、女子向けのテレビ番組がなかったからで、別に魔法でなくてもよかったとの分析だが、そうはいっても「セーラームーン」の継続的な人気や、映画「マジカル・ガール」を見ると、やはり女の子にとって魔法は特別な意味をもっているようにも思われる。 堀江宗正「サブカルチャーの魔術師たち:宗教学的知識の消費と共有」
 アニメやライトノベルで人気の「魔術」を分析することを通じて、データベース消費型のサブカルチャーがその消費者にとって「宗教」よりもリアリティをもつようになった現状を明らかにする。  「魔術」関心層は20~30代の男性であることと、魔術・宗教的語彙をもったメディア作品の受容者は自分を能動的に魔的キャラクターを使役する存在(つまり魔術師)として同定しているという分析を組み合わせると、なかなかに痛い実態が見えてくるような気がする。
 魔術を扱った代表的な作品として『とある魔術の禁書目録』が挙げられているが、現在(2023年)に改めて同様の問題を扱ったら、おそらく代表的な作品は『呪術廻戦』が挙げられることだろう。また、作中では錬金術はあくまでも「科学」であって「魔法」ではないとされるが、実態としてはどう見ても「魔術」を扱っている『鋼の錬金術師』がまったく言及されないのは不思議。
追記
藤原聖子「「呪術」と「合理性」再考:前世紀転換期における〈宗教・呪術・科学〉三分法の成立」『思想』No. 934、2002年、120-141頁。
 呪術は、科学と比べて「非合理的」とされる場合(フレイザー)と、宗教と比べて「合理的」とされる場合(ウェーバー)があるが、これは両者で「合理性」の意味が異なるためである。著者によれば、さらに第三の失われた合理性概念がある。  すなわち、呪術は、理論ー合理的な科学に対して、理論ー非合理的であるが、実践(合目的的)ー非合理的な宗教に対しては、実践ー合理的である。この2種の合理性に加えて、呪術には「ゾッとさせる」という意味での「実体的非合理性」が含意されている(デュルケーム、オットー)。  奇跡論においては、古代末期か~中世末期、奇跡は「聖」に結びついていたが、19世紀末には「超自然」と結びつくようになった、という話(マリン)が面白かった。つまり、キリスト教では奇跡が聖人の業として呪術に対置されていたが、近代以降、科学と対立するがゆえに超自然と結合した、ということ。
5 notes · View notes
psalm80-lilies-iii · 3 months
Text
中世キリスト教世界の今日的意義
教父時代に教理が確立されたあとキリスト教神学が新プラトン主義からトマス・アクィナスによるアリストテレスの完全な援用へと進展する、それは結局、神を「時間や場所に制約されない無窮の存在」として捉えたいという願望の具現化なのだと思う。「形而上学」とはそういうことだ。
一方で、いまのクリスチャンは神を「特定の時代・特定の地域に顕現する存在」として捉える。理由は「聖書の神はそういう神だから」がひとつ、もうひとつは「プラトンやアリストテレスは聖書と関係がないから」だ。そういう神理解は宗教改革以来だが、その基礎にあるのは「聖書の人文主義的理解」だ。
「歴史的な神理解」は「歴史的な教会理解」と結びつく。形而上学的に神が理解できると思っていた時代、カトリック教会(の権威)は歴史・地理・文化を超越していると思われていた。宗教改革がそれを叩き壊した時、教会もまた歴史的・地理的・文化的な存在として自らを見出したのである。
それは信仰の担い手が修道僧から在俗の一般信徒に移る過程でもある。スコラ(大学)哲学の時代でも神学の担い手は修道会出身者だった。時空を超越した存在として観想的に神を捉える修道僧に対し、特定の歴史・地理・文化の中に生きる在俗の一般信徒は「我らと共にいます神」をいま・ここで待ち望��だのだ。
いまのクリスチャンはその信仰を新教旧教ともに宗教改革に負い、宗教改革はその信仰を聖書と教父に負っている。中世の意義は欠落した形だが、異教とも異端とも近代思想とも戦わずにその世界観を保持できた中世のキリスト教世界は今日のクリスチャンにとってノスタルジックな理想郷に映らなくもない。
0 notes
kozuemori · 6 months
Text
昨日、東京で桜の開花宣言がありましたね。近所の桜もつぼみが膨らみ、ちらほらと咲き始めています。今日の東京はジャケットやコートなしでも過ごせる暖かいお天気でしたが、まだ気温が安定しない時期ですし、花冷えという言葉もあります。寒の戻りに気をつけながら体調を整えつつ、春を迎えましょう。🌸
明日、3月31日は近代スピリチュアリズム176周年記念日です。私のサイトに歴史やスピリチュアリストの先駆者達を紹介していますので、よかったらご覧になってください。
日本で『スピリチュアル』というと、本来とは少し異なるニュアンスで捉えられていることがあるようです。恋愛や結婚、占いやおまじない、護符やパワーストーン等の各アイテムや迷信などをスピリチュアリズムと関連付けていますし、霊や霊界に関しての認識も恐いもの、悪影響を及ぼすもの、未知なるもの、というところにとどまっているようです。
以下の7つの信条を理解することがスピリチュアリストに求められています。
1  神は親です 2  人類は皆同胞です 3  霊との交わりと指導霊の参与を認めます 4  人の魂は死後も存続します 5  個人に責任があります 6  カルマの掟を認めます 7  永遠に進歩する機会が、すべての人に与えられています
そしてまた、これらの信条に基づくスピリチュアリズムとその哲学を広めることもスピリチュアリストには求められています。
ちなみに、優秀なミディアムやヒーラーを輩出し、スピリチュアリスト教会やアーサー・フィンドレイ・カレッジなどの母体でもあるイギリスのスピリチュアリスト・ナショナル・ユニオン(SNU)では、スピリチュアリストの活動指針やゴールとして、以下のミッションステートメントを掲げています。
・宗教や宗派にとらわれず、人間は皆平等であるという認識を持つこと ・スピリチュアリストとスピリチュアリスト教会の形成を支援すること ・スピリチュアリスト相互の友愛関係を強化すること ・あらゆる階層のスピリチュアリストを増やし、育成すること ・文献の印刷、出版、頒布 ・宣教活動を促進すること ・スピリチュアリズムの発展のために合法的なあらゆることを行うこと
私がこのブログでデモンストレーションやサーモンの様子をお伝えしているのも、クラスやイベント、ワークショップを開催しているのも、全てこのミッションに従った行為です。それは霊界から期待され、推奨されている行為です。スピリチュアリストはミッションに沿った責務を担うなか、時に個人的な見解や独自の趣味嗜好から離れることも求められます。
また、スピリチュアリストは自分の能力だけでそれらのミッションを行なうのではありません。大神霊、類魂霊、指導霊の導きや応援のもと、その多大なアドバイスやインスピレーションという光の源泉があってこそ、スピリチュアリストとしての自分の活動が可能となることを理解する必要があります。
クラスの中で行なっている誘導瞑想も私自身の指導霊に導かれ、ヒントを与えられて作った霊界との共同作品です。春学期のクラスで行った誘導瞑想のいくつかをピックアップしてショップで販売していますので、ご興味があれば春休みにぜひ試してみてくださいね。
Tumblr media
誘導瞑想「もののあはれ」 30:41
平安時代の美的理念『もののあはれ』を旅する誘導瞑想です。『もののあはれ』とは日本文化においての美意識、価値観に大きな影響を与えた思想で、四季に移ろいゆく季節の風情やさまざまな人間関係の間に生じるしみじみとした情緒を大切に思う心です。『もののあはれ』を感じるだけでなく、知ることの大切さを平安時代の女流作家や歌人たちと共に探ります。
・・・・・
誘導瞑想「ライトワーカー」 31:30
この誘導瞑想では地理的な条件とその特有の歴史によって、宗教的な主都となっている国境の街を訪れます。丘陵と川に囲まれた自然の要塞に守られるようにして築かれている、緑豊かな国際都市であるこの場所に世界中からライトワーカー達が集まり、共同生活を送っています。あなたもその仲間に入り、自分に課された使命を確認しましょう。
・・・・・
誘導瞑想「ジャポニズム」 31:30
第2回パリ万国博覧会に招待されたあなたは、当時の最新技術と芸術、文化教養に触れます。活気のある会場は熱気と娯楽性に溢れ、訪れた人々を魅了しています。その中でも特に異彩を放つ日本趣味『ジャポニズム』の展示会場は、ヨーロッパの芸術家たちの注目の的。あなたもそこで、ご自身の内側にいるアーティストと出会ってください。
・・・・・
誘導瞑想「聖杯伝説」 33:41
美しい七色の光に誘われながらイタリア・ミラノの教会を訪れます。そこで最後の晩餐に使われたキリスト教の聖遺物とされる4つの聖杯のエネルギーに触れ、修道院の食堂で聖なる響きに出会い、壁画に現れるあなただけに与えられた特別な聖杯を受け取ってください。指導霊からもたらされる慈愛に触れ、聖杯のありかを教えてもらいましょう。
全て動画ではなく音声ファイルです。サイトまたは直接ショップからご購入いただけます。
・・・・・・・・・・
今後のイベント・ワークショップ 
Tumblr media
All About ミディアムシップ
4月21日(日)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
4月22日(月)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
料金:1回 8,000円(アイイス会員・税込)・10,000円(非会員・税込)
両日共に同じ内容です
どなたでもご参加いただけます
最少催行人数:3名
ミディアムになりたいと思っている人、ミディアムの役割について知りたい人のための6時間ワークショップです。アイイスでの講師歴9年、ミディアム歴8年、イギリスのアーサー・フィンドレイ・カレッジにて数回に渡って講師・プロの為のミディアムシップ、サイキックアート、トランス、シャーマニズム等のワークショップに参加し、海外のミディアムとも交流のある講師による最新の情報を含めたレクチャーとゲーム感覚で楽しめる実習を通じて、あなただけの唯一無二のミディアムシップを作り上げていく過程を経験していただきます。
あなたの中に潜在する本来の能力を知り、それを呼び覚まし、育み、特化した分野をさらに伸ばして磨き上げましょう。そして同時に自分の苦手な分野を知り、それを伸ばす方法も試してみましょう。
ミディアムシップは決して完成することのない、永遠に学び、伸ばし、育むことのできる能力です。その過程を指導霊の応援と協力のもと、楽しみながら一歩一歩着実に進んでゆきましょう。大切なのは、自分に期待しながら挑戦し続けること、自分を信じて諦めないことです。練習すればするほど、そして失敗を重ねるほど感覚が研ぎ澄まされ、あなたは素晴らしいミディアムになれるでしょう。
レクチャー内容
 ・ミディアム、ミディアムシップとは
 ・ミディアムシップの種類とその役割
 ・良いミディアム、ミディアムシップとは
 ・霊能力はなぜ与えられ、なぜ失効するのか
 ・ミディアムとサイキック 
 ・想像と霊感の違い
 ・デモンストレーションとカウンセリング
実習
 ・シッティング・イン・ザ・パワー 
 ・ミディアムシップクイズ・30問に挑戦!解説付き
 ・サイキック、ミディアムシップ、トランス各実習
 ・直感と指導霊により深く繋がるための各実習
このワークショップは以下のような方に向いています 
 ・ミディアムシップついての理解を深めたい
 ・ミディアムシップの練習、経験をしてみたい
 ・ミディアムという役割に興味がある
 ・ミディアムになりたい
 ・指導霊との繋がりを深めたい
 ・本当の自分の人生の目的を探りたい
 ・自分自身の可能性や能力を探りたい
 ・霊性開花を通して人の役に立ちたい、社会に貢献したい
このワークショップは2019年4月17・21日に開催した同タイトルのワークショップの内容と同様ですが、一部を加えたりアレンジしてアップデートしています
詳細・お申し込みはこちらからどうぞ。
ショップからも直接お申し込みいただけます。
・・・・・
サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
5月19日   担当ミディアム:澤輪・森
6月30日  担当ミディアム:ゲスト・森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
・・・・・
ドロップイン・ナイト 木曜日 19:00〜20:00
5月23日(木)指導霊(スピリット・ガイド)のサイキックアート
詳細とお申し込みはこちらからどうぞ。
過去の開催の様子はこちらからご覧ください。
Tumblr media
夏学期クラスのスケジュールが決定いたしました。サイトとショップにてお申し込みを受付中です。(アイイスのサイトでも告知されています)
春学期に蒔いた霊性開花という名の種を、眩しい太陽と清らかな水、豊かな土壌、そして爽やかな夏の風のエネルギーを享受しながら、共に大切に育んでゆきませんか?皆さまのご参加をお待ちしています!
アウェアネス・ベーシック前期 Zoomクラス 
月曜日:10:00~12:00  日程:5/13、5/27、6/10、6/24、7/8
火曜日:13:00~15:00  日程:5/7、5/21、6/4、6/18、7/2
・・・・・
アウェアネス・ベーシック後期 Zoomクラス   
土曜日:19:00~21:00  日程:5/11、5/25、6/8、6/22、7/6
・・・・・
アウェアネス・ベーシック通信クラス
開催日程:全6回
・・・・・
アウェアネス・オールレベルZoomクラス
火曜日:19:00~21:00  日程:5/14、5/28、6/11、6/25、7/9
木曜日:10:00〜12:00 日程:5/9、5/23、6/6、6/20、7/4
・・・・・
アウェアネス・マスターZoom クラス
火曜日:19:00〜21:00 日程:5/7、5/21、6/4、6/18、7/2
金曜日:19:00〜21:00 日程:5/17、5/31、6/14、6/28、7/12
・・・・・
サイキックアートZoomクラス
日曜日:17:00~19:00  日程:5/12、5/26、6/9、6/23、7/7 水曜日:16:00~18:00  日程:5/15、5/29、6/12、6/26、7/10
・・・・・
インナージャーニー 〜瞑想と内観〜 Zoomクラス  
月曜日:16:00~17:00   日程:5/20、6/3、6/17、7/1、7/15
土曜日:10:00~11:00 日程:5/11、5/25、6/8、6/22、7/6
・・・・・
マントラ入門 Zoomクラス  
土曜日:13:00~15:00 日程:5/18、6/1、6/15、6/29、7/13
・・・・・
トランスZoomクラス
土曜日:19:00~21:00  日程:5/18、6/1、6/15、6/29、7/13
・・・・・
サンスクリット・般若心経 Zoomクラス 
月曜日:13:00~15:00   日程:5/20、6/3、6/17、7/1、7/15
水曜日:19:00~21:00   NEW! 日程:5/15、5/29、6/12、6/26、7/10
サイトのクラス紹介ページはこちらです。
継続受講の方は直接ショップからお申し込みください。
0 notes