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#ある評伝 三島由紀夫
misasmemorandum · 1 year
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『ある評伝 三島由紀夫』 ジョン・ネイスン 野口武彦 訳
『午後の曳航』を英訳した翻訳家によるもの。1974年にアメリカで出版され、邦訳版は1976年に出てる。三島が自決(介錯死)したのが1970年だし、三島の作品の翻訳をしたこともある人で、その間三島と交友関係を持っていたから、三島夫人の瑤子さんに評伝を書くために協力もしてもらったようだが、出来上がったものに、三島の被虐趣味と同性愛が書かれているために、遺族により増刷などを止められた、ちょっとした問題作。こんな本があるのは、誰かの伝記だかで読んだことがあったと思うが、今回初めて読んでみた。図書館に初版があったので、上に書いた遺族が嫌がった部分もちゃんと入っている。で、こう言う部分を削除した版が文庫化されてる。遺族の気持ちは分かるけど、、、だ。  
被虐性に関しては、以前、性質を同じくする人が書いた本を読んだ。ネイスンいわく、
公威の「少年期の感受性」の真相に横たわる死へのエロティックな衝動は、ほとんど生来のもの...(中略)...公威が死を、あるいは、それにひとしく破滅的で宿命的な何ものかを、じりじりして待ちこがれている「特権的な運命」と目していた。(p48)
そして、三島にとってとても大切だったのが、「美」と「死」と「運命(天才)」
三島が戦後すぐ、まだ20歳なのにすげに時代遅れになってしまったのは、三島が好きなジャンルや、三島を応援していた同好の士たちが戦後の社会的変化で拒絶されるようになってしまったからだそうだ(pp61下−62上)
自分の名前を「魅死魔幽鬼尾」と書いてみたり、お茶目なんだかヤンキー的幼児性なのかなんなのか分からんが面白いと思っておく(苦笑)。
次に、三島が肉体改造を始めた理由。
おそらくは昭和三十年前後に、三島には自分が真正に存在していると感じ、自分が現実に生きていると知ることのむずかしさを体験するような或る瞬間が訪れたのだ。そして三島は、言葉(芸術)は自分が現実を体験する機会を持つよりも前に「現実を蝕む」ものだとして、それを罪すベく意を決する。三島が意識的に「言葉と対立する」何ものかを求めはじめたのはまさにこのときであった。「肉体の言葉」たる筋肉すなわちこれである(p113上)
さてさて、三島の結婚。その前に三島の性向を三島の両親は知っていたに違いないと著者は言う。父親は否定し続けていただろうが。そして、花嫁になる瑤子さんも知っていただろうと言う。そうなんだぁ、と驚いた。
昭和35年に出演した映画『からっ風野郎』では、自分より背の低い女優だけが出てることを確認したそうで、若尾文子と共演したそうだ!若いときの若尾文子、可愛いものねぇ。この映画、見てみたいかも(爆)。
肉体改造をし、自衛隊に体験入隊したり、楯の会を作ったりする兄を、弟の千之は、子どもの頃にさせてもらえなかった戦争ごっこを楽しんでいただけだろうと言う(p219)。
しかし、晩年の三島の政治的見解/思想は、私には理解できない。読む気にもならんし、読もうと頑張っても頭に入らん。全くのフィクションだと思えば読めるかも知らん。次回、試してみよう。
自決したとき、自ら腹を裂き、介錯のために3度首を打たれる間、自分の血で「武」と書くつもりだった(p246)そうだが、あまりの苦痛に三島は、その苦痛を感じる以外に何も考えられなかっただろうと思う。三島にとって何も考えられないと言う状態、何も考えずに感覚だけにある状態はこの時が初めてだったかもしれない。この状態を三島は文章に表したいと思ったのではないだろうかと思った。
三島は遺言で文人ではなく武人として死にたいと書いていたので、遺族は三島に楯の会の制服を着させ、軍刀を胸に置いた。が「最後の瞬間に、瑤子は原稿用紙と万年筆を棺に納めた」そうだ(p247上)。奥さんは小説家三島由紀夫と結婚したんだもんね。
また、白い薔薇を持って来た弔問客に母の倭文重が
「お祝いには赤い薔薇を持って来てくださればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげてくださいませな。」(p247上)
と言ったそうだ。お母さん、泣かさんといてくれよ!と思った次第です。
著者は後書きで三島の死について
私にいえることは、ただ三島の一生の物語から感知するかぎりでは、それが基本的に死へのエロティックな陶酔にかかわっているように見えると言うことだけである。私が言いたいのは、三島は生涯かけて情熱的に死を欲し、「愛国心」を、あらかじめ処方された一生の幻想たる苦痛に満ちた「英雄的な」死の手段として意識的に選択したように見えるということだ。私はかならずしも三島の最後の数年間のあの熱烈なナショナリズムが、ひとを担いでいたのだと信じているわけではない。しかし私には、どうしても三島の自殺がその本質において社会的でなく私的であり、愛国主義的でなくエロティックであったように思われるのだ。私の解釈が真実の全てだと言うつもりはない。ただそれが真実だろうと信じているまでのことである。(P250)
と言う。同感。
生前、三島は、気に入らないことが起こると、それを起こした人物とはすぐに関係を切っていたようだ。交友関係が広かっただろうから、面倒な関係はないものにするのが楽だったんだろうな。
さて余談。三島が歌舞伎の脚本を書いた件で、文楽の太夫に義太夫の部分をチェックしてもらったとあったのだけど、文楽座の鶴澤燕三って、文楽「座」って何よ!!??そして演目名、『椿説夕張月』となってるが、正しくは『椿説弓張月』やで。翻訳者のケアレスミスとして、校正した人とか編集者とかも見過ごしたのか?あかんやろ、と思った。
また三島の作品を読みたくなった私でした。
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kennak · 3 months
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■エクストリーム東京都知事選挙2024  追記0621へずまりゅう、小林興起撤退。暇空茜参戦。告示直後からヌードポスターが話題となる民主主義の終末のような選挙戦。おそらくN国とつばさの党のおかげで、公職選挙法はより厳しい方向に改正されるだろう。はてブでは「法律に反していない!表現の自由!(キリッ!」というブコメが多く見られるが、単に日本社会の腐敗が進んだ結果、法の穴をつく輩が増えただけのことである。「腐敗した社会には、多くの法律がある」というサミュエル・ジョンソン言葉は、まさにこういうことなのだろう。概要エクストリーム選挙とは、選挙を利用したエクストリームスポーツの一種である。過去の開催東京都知事2020 https://anond.hatelabo.jp/20200612200441衆議院東京15区補欠選挙 https://anond.hatelabo.jp/20240420021008ルール東京都知事選挙に立候補し、供託金没収の候補者の中でもっとも多く票を得ること。ただし次点候補者を含む落選者全員が供託金没収となった場合はノーゲーム。最低でも次点は供託金が戻ってくることがゲーム成立の条件。選挙期間中、または選挙直後に公職選挙法違反、政治資金規正法違反等で本人または関係者から逮捕者が出た場合は失格。優勝の他に「最低得票賞」「供託金未没収候補者最少得票賞」「審査員特別賞」などがある。特別賞は失格者の受賞もあり。なお、2016年の選挙より以下のルール追加により逆転優勝が可能となっている当選した候補、または供託金返還となった候補が以下の理由により特別賞受賞となった場合は、逆転優勝とする。但し、選挙期間中の逮捕はこれまでどおり失格扱いとなる。該当者が複数いた場合は、当選した候補が優勝として扱われる。選挙終了から2年以内の辞任。または選挙違反、汚職による逮捕。選挙終了から2年以内のリコール、または議会による不信任(解散の可否を問わず)。選挙終了から1年以内の当該者にたいする百条委員会設置。2016年は意外なことに上記のルール適用とならず、上杉隆の優勝が確定となった2024年からの新ルール選挙妨害(選挙違反)による逮捕は失格とし、競技から永久追放とする。2024年東京衆院15区の結果を受けての追加ルール。選挙及び競技自体への攻撃とみなし立候補しても今後は競技参加者とみなされない。競技の特徴選挙で「供託金が戻ってこないぐらい」負けて、「その中でも一番の得票」ということで、ある程度知名度は必要だが政治家としては期待されていない、「最強の泡沫候補」を決定する競技である。過去に黒川紀章、大前研一なども優勝している。政治家としてのキャリアがあったり、政党や圧力団体のバックアップがある候補にとっては無縁のスポーツであるが、2012年の優勝者の松沢成文のようにまれに番狂わせもある。2020年は前熊本県副知事の小野泰輔が9.99%という絶妙な好演技により優勝。高田・桜井・誠は2回連続の準優勝となる。2020年の結果https://anond.hatelabo.jp/20200706143404優勝優勝:小野泰輔(前熊本県副知事) 612,530票 9.99%準優勝:桜井誠(政治活動家)178,784票 2.92%審査員特別賞による逆転優勝該当者なし2020年2024年の主な選手小池百合子(3回目)現職都知事・元衆院議員・元環境相・元防衛相。立候補となれば現���3期目の立候補となる。選挙のたびに学歴詐称問題が出たり、スキャンダルにもならないような醜聞(市区長会の推薦問題)が出るのは小池の人望の無さ故か。15区補選で応援した乙武が大爆死し、圧勝の前回よりは得票を減らす可能性があるものの都知事選は盤石と思われる。もちろんエクストリーム競技にも絡まないなだろう。ただしそれは正式に立候補した場合。小池百合子は意味不明に政局を荒らしてきた過去があるため���今回も国政転出を理由に不出馬の可能性もゼロではない。蓮舫(初)東京選曲選出現職参院議員。元内閣府特命担当大臣。都知事選への立候補自体は何回も取り沙汰されてきたが満を持しての登場。ただし選挙に強かったのは10年以上前の話で、前回の参院選では大幅に票を減らして4位での当選で、なんと共産党の山添拓にも負けている。その選挙での立民+共産+山本太郎の得票数を足せば220万票で当選も見えるものの、小池百合子以上の人望の無さから当然そこまでの得票は見込めず、150万票前後の次点がいいところだろう。2位じゃだめだんですよ。都知事選は。石丸伸二(初)◎前安芸高田市長。維新の会が推薦を模索していたが今回は無所属での立候補。いわゆる小野泰輔ポジションだが、小野ほどの得票は厳しそう(小野と違って評判悪すぎ)。国政への野心満々の人が踏み台に都知事選を使うのは迷惑なのでやめていただきたい。西村博之・堀江貴文といういつものアレが応援に入る時点で、供託金の返還は厳しいだろう。なんでこんなキングボンビーみたいな人たちに応援頼むんだろうか。エクストリーム競技最有力候補。小林興起(初)△元衆院議員。衆院5期勤めたベテラン政治家だが、小林が現役の代議士だったのはもう12年も前で正直過去の人感が強い。エクストリーム競技入賞なるか。清水国明(初)▲タレント。久しぶりの大物タレント泡沫候補。清水国明といえばブラックバスのリリース裁判が有名。都知事になったら神田川や皇居のお掘りにブラックバスを放流するつもりだろうか?エクストリーム競技でも有力候補である。ドクター中松(7回目)△名物泡沫候補最後の大物。羽柴誠三秀吉、又吉イエスが鬼籍に入りマック赤坂が引退、中松本人も95歳と高齢での立候補。近年N国やつばさの党など泡沫候補の品質低下もひどかったので、立候補と競技参加は歓迎したい。是非ともエクストリーム競技を優勝し有終の美を飾っていただきたいものである。田母神俊雄(2回目)◯元航空幕僚長・参政党顧問で2014年以来の登場。そのときに公選法違反で逮捕・有罪・公民権停止5年となり、今回はその喪明けである。2014年の立候補は12.5%の得票率で「供託金未没収候補者最少得票賞」を受賞。ただ最大の支援者だった石原慎太郎は鬼籍に入り、やや過去の人感がつよい。15区補選では参政党候補を応援しており、百田尚樹の日本保守党と極右ブロック同士の内ゲバの様相を呈している。このことから、今回は供託金没収となる可能性が高いのではないだろうか。エクストリーム競技有力候補。黒川敦彦(初)✕つばさの党代表。15区補選エクストリーム競技優勝。ただし新ルールにより今回同様の結果となった場合は失格永久追放となる。15区補選での選挙違反(選挙妨害)により逮捕勾留中。立候補表明しているものの当選どころか供託金は戻ってこない。収監中のためまともな選挙活動も不可能。少なくとも都知事選期間中は保釈もされないだろう。仮に配下のスタッフが、15区補選と同様の行動を取れば再逮捕もあり得るし、執行猶予なしの実刑もあり得る。おそらくエクストリーム競技最後の登場となるだろう。桜井誠(3回目)△日本第一党党首。田母神俊雄など極右候補の乱立で、今回も供託金返還は厳しい.エクストリーム競技入賞はワンちゃんあるか。最近は参政党という反グローバリゼーション反ワクチンの民族派、日本保守党という安倍晋三永世名誉大宰相を御本尊とする清和会勝手別働隊など、極右ブロックも分裂しており単なるレイシストに過ぎない高田桜井誠はやや時代遅れ感が強くなっている。へずまりゅう(初)✕迷惑系YouTuber。2023年の都議会選で豊島区選挙区から立候補し落選。つばさの党やN国と変わらない輩。ひまそらあかね(初)△メディアにもウィキペディアにもゲームクリエイターとあるが、現状は職業政治活動家。いわゆるプロ市民というやつである。数多くのプロ市民を相手に訴訟を起こしている彼からしてみれば不本意だろうが、活動内容はウィキペディアに書いてあるプロ市民の定義そのまんまである。へずまりゅうとちがい資金力と熱烈な支持者はいるものの、おそらく供託金は戻ってこない。エクストリーム競技者としては未知数だが、桜井高田誠、ドクター中松より得票できるかは注目。安野貴博(初)✕SF作家、AIエンジニア、スタートアップ創業者。ゲンダイは「天才エンジニア」ともてはやしているが、特に何か目立った実績があるわけではない。おそらく成田悠輔や古市憲寿のポジションを狙って実績作りのための立候補だろう。今後バラエティや情報番組に登場して、炎上狙いの発言をしないか注視が必要。N国✕例によって候補乱立のN国は個別候補の記載は省略する。得票が分散するので供託金どころかエクストリーム競技入賞も厳しいだろう。ていうか、こいつらいじるのもう飽きた。近年の泡沫候補の分類エクストリーム東京都知事選挙も10周年となる。10年前に比べ泡沫候補もいくつかの傾向に分類できるようになってきたので、ここで定義してみる伝統的泡沫候補都知事選に限らず様々な選挙に登場する選挙マニア。マック赤坂、羽柴誠三秀吉、又吉イエスなど相次いで引退や死去により近年減少傾向。今回立候補のドクター中松も95歳と超高齢。清水国明が大型新人となるか?過去の大物政治家今回の小林興起、2016年の山口敏夫など。なんで今都知事選?となりがち。供託金は戻ってこない。極右日本第一党、日本保守党、参政党など。一口に極右と言っても微妙に信条が違う(日本第一党はレイシズム、日本保守党は安倍晋三親衛隊、参政党は反グローバリズムの民族派)ため内ゲバのようなことをやっている。ただ、2014年の田母神俊雄や2024年衆院東京15区補選の飯山陽のように供託金が戻ってくることもあるのでバカには出来ない。イキリIT今回の安野貴博、2014年の家入一真など。デジタル後進国である日本を憂いて立候補するが供託金は戻ってこない。宮坂学氏のようにビジネスでも政策でも実績がある人はここに含まれない。選挙ゴロ・輩N国。つばさの党、へずまりゅう暇空茜など。選挙をビジネスとして捉えており、当選することは二の次である。何らかの理由で警察に捕まっている。近年動画サイトやSNSを駆使したマネタイズが横行しており、今後の公職選挙法のあり方にも悪影響を与える存在。民主主義と選挙制度のバグとも言える。寸評今回は自民党の裏金問題が地方選挙にも影響しており、静岡県知事選、港区長選、小田原市長選、鹿沼市長選と連敗中。特に港区と小田原市は現職敗北という惨状。自民党東京都連会長の萩生田光一(裏金2728万円、役職停止中なのになぜか都連会長)は小池への支持を表明しているが、何もしないほうがマシである。エクストリーム競技は、今回は逮捕者が出なければいいのだが。エクストリーム競技は正常の選挙が行われて始めて競技になるものなので。Permalink | 記事への反応(9) | 21:19 ツイートシェア
エクストリーム東京都知事選挙2024
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honyakusho · 4 months
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2024年5月20日に発売予定の翻訳書
5月20日(月)には22点の翻訳書が発売予定です。
ウェルギリウスの死 上
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ヘルマン・ブロッホ/著 川村二郎/訳
あいんしゅりっと
ウェルギリウスの死 下
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ヘルマン・ブロッホ/著 川村二郎/訳
あいんしゅりっと
失われた創造力へ
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多木陽介/編訳著
どく社
南光
朱和之/著 中村加代子/翻訳
春秋社
ナチス逃亡者たち : 世界に潜伏、暗躍したスパイ・武器商人
ダニ・オルバフ/著 山岡由美/翻訳
朝日新聞出版
ロールズ 哲学史講義 上 新装版
ジョン・ロールズ/著 バーバラ・ハーマン/編集 坂部恵/監修・翻訳 久保田顕二/翻訳 下野正俊/翻訳 山根雄一郎/翻訳
みすず書房
ロールズ 哲学史講義 下 新装版
ジョン・ロールズ/著 バーバラ・ハーマン/編集 坂部恵/監修・翻訳 久保田顕二/翻訳 下野正俊/翻訳 山根雄一郎/翻訳
みすず書房
ルドン 私自身に 新装版
オディロン・ルドン/著 池辺一郎/翻訳
みすず書房
バレンボイム/サイード 音楽と社会 新装版
ダニエル・バレンボイム/著 エドワード・W・サイード/著 アラ・グゼリミアン/編集 中野真紀子/翻訳
みすず書房
ヒトラーを支持したドイツ国民 新装版
ロバート・ジェラテリー/著 根岸隆夫/翻訳
みすず書房
きょうりゅうレントゲンびょういん
キョン・ヘウォン/著 真鍋真/監修 こまつようこ/翻訳
パイ インターナショナル
日本短歌行 : 〈小倉百人一首〉中文全訳
安四洋/翻訳
星雲社
しずかなところはどこにある?
レーッタ・ニエメラ/著 島塚絵里/翻訳
岩波書店
マンガで読む 資本とイデオロギー
クレール・アレ/著 バンジャマン・アダム/著 トマ・ピケティ/企画・原案 広野和美/翻訳
みすず書房
ネイションという神話 : ヨーロッパ諸国家の中世的起源
パトリック・J・ギアリ/著 鈴木道也/翻訳 小川知幸/翻訳 長谷川宜之/翻訳
白水社
パンセ
ブレーズ・パスカル/著 由木康/翻訳
白水社
ワインレッドの追跡者 : ロンドン謎解き結婚相談所
アリスン・モントクレア/著 山田久美子/翻訳
東京創元社
伝説とカフェラテ : 傭兵、珈琲店を開く
トラヴィス・バルドリー/著 原島文世/翻訳
東京創元社
ふつうのことばたち : わたしたちの心をつなぐ
キム・イナ/著 たなともこ/翻訳
イースト・プレス
流浪の英雄たち シャフタール・ドネツクはサッカーをやめない
アンディ・ブラッセル/著 高野鉄平/翻訳
カンゼン
カルロ・スカルパの日本
J.K.マウロ・ピエルコンティ/著 三浦敦子/翻訳
鹿島出版会
建築という芸術 評伝フランク・ゲ-リー
ポール・ゴールドバーガー/著 坂本和子/翻訳
鹿島出版会
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奄美シマ唄や屋久島など南西諸島の唄をつなぐ「えぐさゆうこ」と、ブルガリア民謡や江州音頭を横断する「佐藤みゆき」のツインヴォーカルによる日本・ブルガリア民謡デュオ「セデャン歌」のおふたり(ピアノで江草啓太さん)と、寺田&寺原デュオで共演します。えぐささんとひょんなきっかけで知り合い本企画に繋がったのですが、最近はすずめのティアーズでもご活躍の佐藤みゆきさんは僕も太郎さんも昔から仲良しのお友達。こうしてご一緒できることをとても嬉しく思っています。
会場は横浜の日ノ出町・視聴室その3です。横浜方面の方も、そうでない方も是非気軽にお越しください!
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セデャン歌 with 江草啓太 / 寺田亮平&寺原太郎 ツーマンライブ 
~Songs and Melodies of Islands and Continent 
2024年10月25日(金) 19:00 Open 19:30 Start 
出演:
えぐさゆうこ(Vo、三線) 
佐藤みゆき(Vo、カヴァル) 
江草啓太(ピアノ)
寺田亮平(喉歌、イギル等) 
寺原太郎(バーンスリー)
予約;2500円+1d
当日;3000円+1d
日ノ出町・試聴室その3  http://shicho.org/s3about/
神奈川県横浜市長者町9-159 第1田浦ビル2階 
予約フォーム:https://ws.formzu.net/dist/S95718930/
問い合わせ:[email protected] (ハルヴァ・ミュージック) 
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出演者プロフィール
セデャン歌(セデャンカ)
奄美シマ唄や屋久島など南西諸島の唄をつなぐ「えぐさゆうこ」と、ブルガリア民謡や江州音頭を横断する「佐藤み��き」のツインヴォーカルによる日本・ブルガリア民謡デュオ。えぐさゆうこが奄美島唄の多重コーラスアレンジを試みるなど民謡の和声の可能性を探っていたころ、ライブハウス等でブルガリア民謡を歌う佐藤みゆきと出会い、民衆に歌い継がれてきた歌に対する想いを同じくする2人で2019年民謡デュオ「セデャン歌」を結成。
セデャン歌の名前の由来は、ブルガリア語で、みんなで座って作業をすること(トウモロコシのひげ取りなど)を意味するsedyanka(セデャンカ)より。
日本とブルガリア、離れた場所ながら通じ合う民謡の世界観を伝え、歌い継がれる古謡、民謡を声を重ねて歌い繋ぐユニット。
https://sedyankajapan.wixsite.com/music/about
江草啓太
ピアニスト、作・編曲家。2008年にマキシシングル『KALAYCILAR』を植松伸夫設立のドッグイヤー・レコーズからリリース。えぐさゆうことのDUOでは屋久島、奄美大島等の古謡や作業唄を発掘し蘇演する試みを行う。小西康陽のソロプロジェクト「PIZZICATO ONE」や、KERA(=ケラリーノ・サンドロヴィッチ)のソロアルバム『Brown, White & Black』に参加。近年はNHK『おかあさんといっしょファミリーコンサート』へのゲスト出演、そして横浜・名古屋・大阪で行われた『LA LA LAND IN CONCERTO』では東京フィルハーモニー交響楽団と共演。舞台作品への関わりも多く、『ETERNAL CHIKAMATSU』『黒蜥蜴(共にデヴィッド・ルヴォー演出)』で音楽を担当するなど幅広く活動中。「月刊てりとりぃ」同人。
寺田亮平 
音楽家。トゥバ音楽演奏家、喉歌(のどうた)歌手。ロシア連邦トゥバ共和国に伝承されてきた音楽や喉歌を2010年より断続的に現地滞在しながら修行を行っており、トゥバの伝承音楽から自らのオリジナル楽曲、日本の伝承歌をアレンジした演奏など独自の音楽活動を展開している。使用楽器はトゥバの伝統楽器イギル、ドシプルール、口琴やギターなど。師匠はトゥバを代表する音楽家の一人であるオンダール・モングンオール。トゥバ語を学び、現地の音楽コミュニティーと深く繋がりを持つ外国人演奏家であり、現地の伝統的な歌の聞き取りや翻訳作業等も行っている。国内では中央アジア、シベリア関係のコンサートや各種イベントもプロデュースし、2017年に共和国政府よりトゥバ文化大使として表彰を受けた。2023年11月にソロアルバム「クズル・トーキョー」発売。
https://teradaryohei.com/
寺原太郎
 91年より巨匠ハリ・プラサード・チョウラスィア師の弟子である中川博志氏に、96年より巨匠ニキル・ベナルジー師の愛弟子H.アミット・ロイ氏に師事。06年より継続的にオーストラリアWoodford folk festivalに出演。07年坂本龍一プロデュース「ロハス・クラシックコンサート」出演。映画「るろうに剣心」(2012、2014)、スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」(2015)、インドネシア映画「見えるもの、見えざるもの(Shikala Niskala)」(2017)、NHK朝ドラ「舞いあがれ!」(2022)等で挿入曲を演奏。国内外で演奏活動を行う。共演にU-zhaan、常味裕司、Tenzin Choegyalなど。2016年より都賀のギャラリーで「世界音楽紀行」をナビゲート、ワールドミュージックフェスティバル「オンガクノムラ」企画。インド古典音楽の深い理解に基づく、叙情的かつダイ ナミックな演奏で、各方面より高い評価を受ける。 https://srgmtaro.jimdofree.com/
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straycatboogie · 1 year
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2023/06/25
BGM: コトリンゴ - 悲しくてやりきれない
今日は休みだった。カレン・チャン『わたしの香港』を読み終えたので、インスタグラムに寸評と写真をアップロードして(これはぼくの中の上半期、いや今年1年の「ベストブック」の1冊に入ると見た)そしてそれを図書館に返しに行く。そこでぼくは、ジャンヌ・シオー=ファクシャンという人が書いた『大人のギフテッド』という本と出くわす。読んでみると訳文がやや不自然で読みにくいが、それでもぼくが関心を持っている分野をフォローした1冊であるという印象を抱いたので借りることにした。ちなみに、ぼくは前にWAIS-IIIの検査を受けた時にIQとして121という数字を提示された。ギフテッドとはIQ130以上の人のことを言うらしいので、つまりぼくはギフテッドではないことになりその定義からも外れる……のだけれど、ぼく自身が生きづらい思いをしているのはたとえ定義にそぐわないにしてもそうした「(あくまで相対的な)高知能」から来るのかもしれないと思ったので、ならこの本から謙虚に学ぶことの意義は大きいと考えたりもしたのだった。果たしてどうなるのだろう。
アメリカのあるDiscordユーザーから、「日本人は学校でMXY-7について学ばないのか?」といった質問をもらった。ぼく自身、そのMXY-7が何なのかぜんぜん見当がつかなかったので調べたら太平洋戦争当時のゼロ戦と関係があるらしい。その彼に「日本の学校では古代から歴史を学んでいくから学期のおしりの方で戦争を学ぶことになって、駆け足になる。だからどうしたってゆっくり学ぶことはできないんだけれど、でもその代わり日本の優れたアーティストが戦争についていろんな作品を著しているみたいだ。片渕須直監督『この世界の片隅に』ってアニメがあるよ」といったことを話した。すると彼はさっそくその『この世界の片隅に』を見てくれた。そして、感動したとメッセージを送ってくれた……実にいろんなことを考えさせられた、と。いや、単に「So What?(ま、そんなこともある。で?)」な話である。でもぼくはせっかくなのでこうした小さな「国際交流」の果実について書いておきたいと思った。それでぼくもまたあの映画の主人公のすずさんに会いたいと思い、舞台となった呉を訪れたいと思ったのだった。また時間が取れたらネットフリックスで見てみたい。
昼寝をした後、ふたたびイオンに行く。そしてそこで英会話教室の宿題を仕上げようとするもぜんぜんうまくいかず、提出期限までにはまだ余裕があると思い読書をしようとしてぼくの愛聴盤であるモーマスの『ヴォイジャー』を聴きながら『大人のギフテッド』を読んでみたり、唐突に三島由紀夫『仮面の告白』をめくってみたりする。三島『仮面の告白』は最近ぼくが書き始めた回想録に役立つならと思ったからまた読んでみようとも思ったのだった。そしてふと「すっかりぼくもいい歳こいた『おっさん』になっちゃったな」と思う。時代は2020年代なのにぼくは1990年代を、さながら「終わらない思春期」(斎藤環)を生きるかのように生きている。聴く音楽にしたってブラーだったりビースティ・ボーイズだったり、読む本にしたって村上春樹やポール・オースターだったり……今書いているぼくの回想録『さよなら天国』にどれだけ価値があるか、ぼくにはぜんぜんわからない。ただ、なんにもしないで日々を生きてそして死ぬのもつまらないと思い、書いてみているのだった。ぼくなりの「恋とマシンガン」な毎日についてを。
夜、ミーティングに参加する。そこでアメリカのホームドラマ『コスビー・ショー』を字幕無しで見ながら、いったい彼らは何を話していてこのドラマは何を伝えようとしているのかをあれこれ話し合う。ふとそこから、「悲しみに暮れた時、皆さんはどうやって解決させますか」という話題で話が盛り上がった。悲しい時……かつてのぼくなら一目散に酒を買い込み、それを浴びるように呑んでいたことを思い出す。それはつまりある意味でぼくの脳のリセットボタンを押すことだ。でも、パソコンやスマートフォンを使った人ならわかるようにそうしてシャットダウンすることは確実に負担がかかる。今のぼくは、「とにかく時間に任せよう。時間が解決してくれる」と自分に言い聞かせる。そして、映画の1本でも観ようと思う。愉快なコメディを観るなり、あるいは逆に思いっ切り鬱な映画を観てみたり。小津安二郎を観るかもしれないし、それこそさっきも書いた『この世界の片隅に』を観るかもしれない。今お世話になっているロシアのビクトリアさんとも、こうした手軽なライフハックについて語れたらいいなと思った(ロシアから安易に連想して、タルコフスキーの映画を観るのもいいかなともふと思ってしまった)。
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abraxas174 · 3 years
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『歓喜の島』ドン・ウィンズロウ 後藤由希子 訳
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ウォルター・ウィザーズは元諜報員。CIAの人材調達係として、スウェーデンで働いてきた。旧家の出で、そつがなく人の気を逸らさない。控え目で自分の分の勘定は自分で持つので、誰からも好かれている。美男だが押しの強さはない、俳優で言えばレスリー・ハワードやフレッド・アステア、シャルル・ボワイエといったタイプ。服装の趣味がよく、一本のマッチで二本の煙草に火をつけることができる。一口でいうと、スタイリッシュなのだ。
ところが、彼がその人たらしの腕にものを言わせて籠絡し、西側のために働かせていたカモたちが始末されたり、評判を落としたりすることが相継ぐ。潜入スパイがいるらしい。自分のせいで拷問を受けたり、命を落としたりする人間が出たことで、悪夢を見るようになった、ちょうどその頃、ジャズ・シンガーで恋人のアンも、アルバムの録音でニューヨークに戻ることになった。ウォルターはカンパニーに辞職を願い出た。彼はニューヨークの情報会社に勤めることになる。
クリスマス・イブの日、ウォルターは社長から直々、パーティーでのボディガード役を命じられる。対象は次期大統領候補の上院議員ジョーゼフ・ケニーリー(ケネディがモデル)の妻マデリーン。ごついタイプでなくソフトなタイプがいいというので、彼にお鉢が回ってきたのだ。当時は冷戦時代、民主党推しで、ソヴィエトと戦う姿勢のケニーリーのことを彼は買っていた。パーティーに押しかけて来たビート詩人を体よく追い払ったことで、ケニーリー家のお覚えめでたくなったウォルターだったが、ケニーリーは食わせ者だった。
ジェイムズ・エルロイの『アメリカン・タブロイド』を読んだから、ジャック・ケネディの女好きはよく知っている。FBI長官のフーヴァーが、その秘密を暴露しようと暗躍していたことも。この夜もジョー・ケニーリーは浮気相手のスウェーデン女優マルタをパーティーに呼んでいた。ウォルター名義の部屋を使って密会しようとしていたのだ。ところが、その晩、マルタが死ぬ。自殺に見せかけた殺しであることをNYPDの警部が見抜き、ウォルターは容疑者にされてしまう。
二人の情事は誰かに盗聴されていた。ウォルターは、アンの不審な動きに目を留めて後をつけ、うまく立ちまわって録音テープを入手する。一九五八年はアメリカン・フットボールの歴史に残るジャイアンツ対コルツの試合があった年。ウィンズロウはこの試合をかなりの長さにわたって書いている。これがフットボールに興味のない日本人には長すぎると評判が悪い。しかし、その後、録音テープをめぐっていくつものグループが争奪戦を繰り広げる。ボールの奪い合いとテープの奪い合いは、どちらも知力と体力を尽くしたチームプレイだ。
しかも、コルツのオーナーは試合の勝ち負けではなく、六点差での勝利にこだわっている。それが賭けの勝敗を決めるのだ。この点も、グラウンドで必死に戦うプレイヤーを尻目に、観覧席にいるオーナーが選手を操っていることを仄めかしている。試合に大金を賭けているウォルターとケニーリー二人の姿が、その後の暗闘を象徴していると見れば、このシーンの意味が分かる。スタンドから試合を眺めるウォルターは、どうやら自分がまきこまれたゲームについても手がかりをつかんだようだ。
ジョン・ル・カレ風のスパイ活劇から、ニール・ケアリー風の探偵小説、その間にアーサー王と王妃グィネヴィア、それに騎士ランスロットに擬した、ケニーリー、マデリーン、ウォルターの三角関係を挟み、大晦日のニューヨークの街を舞台にしたド派手な追走劇を配したサービス満点のサスペンス。後味のいいのは、この時期のウィンズロウの持ち味。一途なまでに思い姫を守ろうとあらゆる手を尽くして力を揮うサー・ウォルターの姿が凛々しい。
何より、プロローグ「懐かしのストックホルム」に始まる、ジャズの名曲、演奏について触れた部分が多いのも、往年のジャズ・ファンにはうれしいところ。なにしろ、あの伝説の伯爵夫人までが登場し、ウォルターとアンに声をかけるのだ。ニューヨークの名店、お高くとまるのではなく、ステーキを食べるなら、本物のジャズを聴くなら、ここといった通好みのお勧めの店があれこれ並び、タイムマシンに乗って、一九五八年のマンハッタンを訪れたような気になれる。
『ユリシーズ』で、ジェイムズ・ジョイスはダブリンのとある一日を様々な文体で描いたが、『歓喜の島』でドン・ウィンズロウが描こうとしたのは、一九五八年のクリスマスから大晦日にかけてのニューヨーク。ロックフェラー・センター前に大きなクリスマス・ツリーが立ち、電飾が輝き、人々は愛する人たちにプレゼントを買うために、五番街をそぞろ歩く。クラブでは着飾った人々が、流れるジャズを聴きながら酒を楽しんでいる、そんな古きよき時代のマンハッタン島の姿が現出する。
主人公のウォルター・ウィザーズは、これが初出ではない。ニール・ケアリー・シリーズ第四作『ウォータースライドをのぼれ」で、時代に取り残されたアル中の名探偵として脇役で顔を見せている。お気に入りのキャラクターではあるが、初登場にして殺してしまっていた。一九五八年を舞台にした作品を構想していた作家は、彼の黄金時代をこの時代に持ってくれば、スタイリッシュで頭脳明晰なところが主人公にうってつけだと思ったという。
訳について一言。後藤由希子の訳は、東江一紀の名訳にも引けを取らない調子のいい訳に仕上がっている。ただし、人名に誤りがある。今回は一九五八年を謳いあげるために、ブロードウェイの名優たちのまねき上げが披露されている。その大事な場面で、あのドン・アメチーをドン・アミーチー。愛すべき名優イーライ・ウォラックを、エリ・ウォラックとしている。こういうところ、作家は愛を込めて書いている。訳者も心して訳すべきだ。
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palomino8th · 4 years
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p57 〈黒い雪〉裁判  裁判というものは、意外意外また意外、としか言いようがなく、民事刑事の差こそあれ、私の 『宴のあと』裁判のときは、勝ったと思ったのが負けてしまい、今度の武智鉄二氏の〈黒い雪〉 裁判の場合は、検事求刑の異例のきびしさから見て、これはあぶないと思っていたら、無罪にな ってしまった。全く、国家権力は芸術の圧殺者であるなどとタカをくくっていると、一転して、 気味がわるいほど芸術の理解者の相貌をあらわす。民主主義の三権分立は、実にタンゲイすべか らざるものがあって、戦前の法廷知識などでは予測もつかぬ結果を生ずるのである。 〈黒い雪〉という、武智氏のいわゆる反米反共映画は、いざ起訴されても、文壇はもとより映画 界の支援も得られず「映画芸術」の反逆児小川徹氏や私ほか数人が、ヘソまがりの支持者たるに とどまって、武智氏はかなり心細い戦いを戦ったはずであるが、意外にも、われわれ被告側鑑定 証人の意見も大幅に取入れられ、この映画のワイセツ性をののしるヒステリー婆さんなどのタワ p58 言に耳が傾けられなかったのは、国家のためまことに慶賀すべきことである。  私が法廷で述べたことは、この映画の醜悪さは議論の余地がないこと、この映画の主題は(た とえば私の映画〈憂国〉が、一定の政治状況下において、性が異常に美しく昂揚するのを描いた のとちょうど反対に)一定の政治状況下において、性が極度に歪められ圧殺されるのを描いてい ること、性行為はそのような醜悪な形でのみ描かれ、唯一の純情な恋人同士の間には性交が存在 しないこと、能の居グセその他の様式を大胆に用い、また長回しの技巧によって、一時的な性的 印象を政治的寓喩へ移行させる様式をはっきり意図していることであった。今も私のこのような 考えに変りはない。  すばらしく穢ならしい映画であるが、問題の米軍基地のそばを裸女が駆ける場面だけは、ふし ぎに美しい印象になって残っている。あそこには、何か壮烈なものがあった。何もしいて、裸女 を日本の象徴と見立てなくても。  私がこの裁判について心配したことは、現下日本の、文化に対する偽善的風潮が裁判に影響し はしないか、ということであった。私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生という考えがき らいである。蝿のいないところで、おいしい料理が生れるわけがない。アメリカ文化を貧しくさ せたものは、清教徒主義と婦人団体であって、日本精神はもっともっと性に関して寛容なのであ る。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に発展してきたものである。教育マ マ的清潔主義(ミュゾフォビー)は、外来文化の皮相な影響であるから、武智氏のいわゆる「民 族主義」作品が、教育ママに死刑を宣告されることは、いかにもありそうな事態であった。そし て、政治的にも、保守と革新が、仲よく手を握る分野は、かかる教育ママ的清潔衛生思想の分野 p59 であって、現下日本で、イデオロギーを超えたもっとも甘い超党派理念は「偽善」である。〈黒 い雪〉に目クジラを立てた婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにち がいない。したがって、ガリガリの反動の婦人証人も出廷させた検察側は、計算をまちがえたわ けである。  いくら〈黒い雪〉が穢ならしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸倆の一種として、 芸術のよいところは、そこに呈示されているものがすべてだということだ。芸術は、よかれあし かれ、露骨な顔をさらけ出している。それをつかまえて「お前は露骨だ」というのはいけない。 要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを判断することは遠慮すべきであるように、やはり芸 術を判断するには遠慮がちであるべきである、というのが私の考えである。それが良識というも のであり、今度の判決はその良識を守った。  この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするような美しさしか認めることのできない 女性的暴力によって、いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであろう。われわれは、二度と 西鶴や南北を生むことができなくなるであろう。  しかし判決理由を仔細に検討すると、少し変なところもある。チャタレー裁判以来問題になっ た「部分か全休か」という問題、すなわちチャタレー裁判では、部分摘示によって作品全体がワ イセツとされたのであるが、この判例が悪い影響を及ぼしている。今度の判決は、作品全体との 関係において評価するという正道を歩んでいるのであるが、これをみちびきだすために、次のよ うな法理論を編み出している。 「特に劇映画においては観客に、文書のように、ある特定の場面のみを停止させたり、くり返さ p60 せたりして観覧するなどの自由な選択が許されず、いわば構成された全映像をある定まった時間 内にそのまま観覧することが強制されているから」  そのワイセツ性の判断には「映画作品全体との関係において、しかも時間の流れのなかで評価 し、判断しなくてはならない」としているのである。  これはいかにも便宜的な判断で、最高裁の判例に拘束される下級審が、やむなく編み出した苦 肉の策と思われるが、これでは各ジャンルの芸術に共通の本質である「全体性」を、映画にだけ ゆるしたことになって公平を欠く。しかし、これが頂門の一針になって、徐々にこのような考え 方が芸術に関する一般常識として浸透してゆく方向へ、裁判所全体が目ざめてゆくことを切望し てやまない。 (「毎日新聞」(一九六七年/昭和四十二年)七月二十二日)
三島由紀夫「〈黒い雪〉裁判」 (「毎日新聞」(一九六七年/昭和四十二年)七月二十二日) 新潮社 『蘭陵王』(1971年5月6日刊) 収録
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deadscanlations · 5 years
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The Wooden-Mortared Kingdom - Garo 20th Anniversary Memorial Issue  - VARIOUS
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Here’s a proper post for it. For Garo’s 20th anniversary, a massive anthology was put out collecting all of the authors that had been featured in the magazine up until then (at least it looks that way), haven’t verified). 1200 pages.
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Abe Shinichi AKASEGAWA Genpei AKI Ryuuzan AKIYAMA Shigenobu ANZAI Mizumaru ARAKI Nobuyoshi ARASHIYAMA Kouzaburou EBISU Yoshikazu FUJISAWA Mitsuo FURUKAWA Masuzou HAGA Yuka HANAWA Kazuichi HAYASHI Seiichi HIGO Tomiko HINO Hideshi HIRAKUCHI Hiromi HIRATA Hiroshi HISAUCHI Michio Hoshikawa Teppu IIKO Junzou IKEGAMI Ryoichi ISHII Hisaichi ITOI Shigesato IWAMOTO Kyuusoku KAMOSAWA Yuuji KANNO Osamu KATSUMATA Susumu KAWASAKI Yukio KIMURA Tsunehisa KOBAYASHI Norikazu KOJIMA Goseki KONDOU Youko Kou Shintaro KUSONOKI Shouhei MASUMURA Hiroshi MATSUMOTO Michiyo MATSUO Hiroshi MINAMI Shinbo MINEGISHI Toru MITSUHASHI Otoya MIURA Jun MIZUKI Shigeru MOMOTAROU Kotarou MORISHITA Hiromi MURANO Moribi NAGASHIMA Shinji NAKA Keiko NEMOTO Takashi OKUDAIRA Ira OSAWA Masaaki SAKURAI Shoichi SASAKI Maki Shimizu Satoshi SHIRATO Sanpei SUGIURA Hinako SUZUKI Oji SUZUKI Seijun SUZUKI Shigeru TAKAGI Jun TAKAYAMA Kazuo TAKITA Yuu TAMURA Shigeru TANI Hiroji Tashiro Tamekan TATSUMI Yoshihiro TERUHIKO Yumura TSUGE Tadao TSUGE Yoshiharu TSURITA Kuniko UESUGI Seibun WATANABE Kazuhiro WATARI Futoshi YAGUCHI Takao YAKUWA Masako YAMADA Murasaki YODOGAWA Sanpo YOSHIDA Mitsuhiko YOSHIDA Shouichi 
 タイトル : 木造モルタルの王国 : ガロ二〇年史 出版社 : 青林堂 初版発行日 : (昭和59年)1984年12月1日 ISBN : 4792601320 サイズ(函) : 縦23㎝ 横18㎝ サイズ(本) : 縦22㎝ 横16㎝ ページ数 : 1200ページ 備考 : 各作品の欄外に���者の経歴・コメント記載 収録作品  『ざしきわらし』 - 白土三平  『ねこ忍』 - 水木しげる  『海原の剣(武蔵の巻)』 - 諏訪栄(小島剛夕)  『顔の曲がった男の物語』 - 星川てっぷ  『真昼』 - 渡二十四  『愛 : 新釈武士道物語』 - 加治一生  『チーコ』 - つげ義春  『若草漫歩』 - 藤沢光男  『宇宙の出来事』 - 田代為寛  『夏』 - 池上遼一  『かかしにきいたかえるの話 : シリーズ・黄色い涙』 - 永島慎二  『六の宮姫子の悲劇』 - つりた・くにこ  『巨大な魚』 - 林静一  『どろ人形』 - 日野日出志  『海ほおずき』 - 仲圭子  『花あらしの頃 : 寺島町奇譚』 - 滝田ゆう  『長持唄考』 - 矢口高雄  『雨季(2)』 - つげ忠男  『わかれみち』 - 辰巳ヨシヒロ  『たこになった少年』 - 淀川さんぽ  『かんたろ月』 - 勝又進  『うらぶれ夜風』 - 川崎ゆきお  『雨の色』 - 鈴木翁二  『マツコおじちゃんの嘆き』 - 秋竜山  『ぼくのデブインコちゃん』 - 佐々木マキ  『無頼の面影』 - 安部慎一  『幻の少女・和小路伯爵邸のトラブル』 - 谷弘兒  『肉屋敷』 - 花輪和一  『北への旅人』 - 吉田昌一  『彩雪に舞う・・・・・・』 - 楠勝平  『おざ式』 - 赤瀬川源平  『「ガロ」第一期 : ガロの時代をひらく』 - 上野昂志  『再会』 - 増村博  『紫の伝説(イメージSTATION)』 - 古川益三  『絶対休日』 - 秋山しげのぶ  『荒れた海辺』 - 安西水丸  『クシー君の発明』 - 鴨沢祐仁  『毆者(ボクサー)』 - 吉田光彦  『昇り凧』 - 村野守美  『ペンギンごはん』 - 湯村輝彦.糸井重里  『愛の嵐』 - 蛭子能収  『ぼくの弟』 - 糸井重里  『?』 - 南伸坊  『それからの岩本武蔵・怪談』 - 岩本久則  『ハリー氏のこと』 - 松尾ひろし  『愛妻記』 - ひさうち・みさお  『ギョーザ定食の昼』 - 平口広美  『お父さんのネジ』 - 渡辺和博  『長靴をはいた猫』 - 清水聰  『ものろおぐ』 - 近藤ようこ  『モダン・ラヴァーズ』 - 奥平衣良(奥平イラ)  『性悪猫』 - やまだ紫  『青春の汗は苦いぜ』 - 小林のりかず(小林のり一)  『夜行』 - 高山和雄  『ぷいさん村放送局』 - 八鍬真佐子  『五人だまし・道糞武士道 : 幻想の明治』 - 高信太郎  『怠屈な日』 - 泉昌之(和泉晴紀[作画].久住昌之[原作])  『K』 - 大澤正明  『海のお話』 - 滸太郎  『二つ枕(初音)』 - 杉浦日向子  『PHANTASMAGORIA』 - たむら・しげる  『野辺は無く』 - 三橋乙椰(シバ)  『少年』 - 森下裕美  『糸口』 - 松本充代  『ママと呼ばれて三ヶ月』 - 根本敬.高木順  『ローカル線の午後』 - 菅野修  『ホトホトなんぎなパパとママ』 - みうら・じゅん  『扁桃腺の夏』 - 峰岸達  『戻ってきた日』 - 肥後十三子  『スラップスキップ』 - いしい・ひさいち  『はぴー・ばーす・でい』 - 芳賀由香  『どうなってんの : イソップ式漫画講座』 - 水木しげる  『浪漫写真 : 私のアリス達』 - 荒木経惟  『図象の学習塾 : 肖像 イメージ選挙』 - 木村恒久  『目安箱 : 「書けないということについて』 - 上野昂志  『嵐山の人生相談』 - 嵐山光三郎  『重坊のスーパーマーケット : 悪評嘖々』 - 糸井重里  『劇画風雲録 : 嗚呼、貸本の灯は輝やいて』 - 桜井昌一  『連載随筆 : 夏と暴力』 - 鈴木清順  『白土三平論 : 英雄論』 - 石子順造  『清文入道のウンチク寄席』 - 上杉清文  『読者サロン』  『「ガロ」第二期 : 多様化・拡散の時代』 - 呉智英  『木造モルタルの王國の貴賓室』 「木造モルタルの王国」によせて(※寄稿文.小冊子)  『「ガロ」有罪説』 - あがた森魚  『ガロはきっと大丈夫』 - 秋野等.井上章子  『二十年のランナーへ』 - 有川優  『(タイトルなし)』 - 岩家緑郎  『ガロには貧乏がよく似合う』 - いしかわじゅん  『(タイトルなし)』 - 糸川燿史  『「ガロ」は忘れない』 - 小野耕世  『とにもかくにも、エライ!!』 - 川崎徹  『すてきな可能性を持ったマンガの世界』 - 金子勝昭   『長井さんと苦労のこと』 - 川本コオ  『(タイトルなし)』 - 桑原甲子雄  『(タイトルなし)』 - 小島剛夕  『「ガロ」われらの聖森』 - 佐々木守  『大プロデューサー・プランナー 長井勝一さんへの手紙』 - 佐々木昭一郎  『(タイトルなし)』 - 末井昭  『(タイトルなし)』 - 杉本博道  『(タイトルなし)』 - 谷川晃一  『高校時代、文学、エロチシズム、思想の香りを味わっていた』 - 高取英  『(タイトルなし)』 - 高橋章子  『祝・開店20周年』 - 長新太  『(タイトルなし)』 - 竹宮恵子  『 『ガロ』に 』 - 鶴見俊輔  『きみよ』 - 堤任  『(タイトルなし)』 - 栃谷隆  『(タイトルなし)』 - 内記稔夫  『(タイトルなし)』 - 野本三吉  『(タイトルなし)』 - 萩尾望都  『(タイトルなし)』 - 原田三郎  『安倍慎一』 - 松岡博治  『(タイトルなし)』 - 松田哲夫  『(タイトルなし)』 - 村上知彦  『「ガロ」創刊20周年、本当にバンザイ!』 - 森田芳光  『青林堂はえらい』 - やなせ・たかし  『(タイトルなし)』 - 吉弘幸介  『(タイトルなし)』 - 四方田犬彦  『(タイトルなし)』 - 渡辺一衛
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nrmkh · 5 years
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死ぬのではないかという恐れが、私には必要だ。病気も同様。不安と病気から解放されてしまえば、舵を失った船のようなもの。(中略)私の苦しみは、私の自我、私の芸術の一部である。切り離すことはできないし、苦しみを取り除けば、私の芸術も廃れる。私はそうした苦悩を養っていきたい。
(MM T 2748, 1927-1934)
ムンクの言葉を読んだ時、三島由紀夫がこう書いていたことを思い出しました。
ラジウムを扱う学者が、多かれ少なかれ、ラジウムに犯されるように、自ら人間でありながら、人生を扱う芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。ラジウムは本来、人間には扱いかねるものである。その扱いには常に危険が伴う。その結果、人間の肉体が犯される。人間の心とは、本来人間自身の扱うべからざるものである。従ってその扱いには常に危険が伴い、その結果、彼自身の心が、自分の扱う人間の心によって犯される。(中略)多少ともこういう毒素に犯されていない人間は、芸術家と呼ぶに値いしない。(「楽屋で書かれた演劇論」芸術新潮・1957年1月)
二人とも、自分を犯すものに対して敏感で意識的でした。そしてそれが必要だと認識していた点も共通しています。二人とも芸術家と自認し、そうでありたい、そうであることしかできない、というような意思や願いが文章から滲み出ているように感じます。ただ、三島はその毒素と向き合いながら、人間だけではなく、社会や国家に対しても行動を広げていきますが、ムンクは、そもそも若いころに祖国を飛び出した経緯もあって、社会や国家に対して憧憬は強くあったものの、行動や創作は人間そのものや自分の内面に向き合い続けた、という違いがあります。この違いにおいて言えば、ムンクから1世代ほど年上だったイプセンは、どちらかといえば、三島寄りかもしれません(もちろん文学作品上は大きくことなりますが)。
そのイプセンは、手紙でこう書いています。
『ブラン』を執筆していたとき、私はガラス瓶にサソリを入れて、デスクに置いておきました。するとときどき、そいつが弱ってきます。そこで熟した果物の切れ端を中に入れると、そいつが怒って、毒を果物の中に放出し、また元気になる。私たち作家にも、それと同じようなことが起きるのではないでしょうか。自然の法則は、私たちの精神世界にも当てはまります。 (ペーテル・ハンセンへの手紙・1870年10月)
これを読むと、どうやらイプセンも芸術家、つまり三島が言う毒素に犯されていたようにも感じます。
今年ムンクが去って75年、イプセンが去って約110年。来年は三島が去って50年。三人が犯された芸術家の職業病は概ね今も変わっていないでしょう。
その彼らの作品に向き合うとき、私たちはその中に他者を見つけることもあれば、自分が他者になってしまうこともあります。涙を流したり、大笑いしたり、感動したりすることだけが、作品の機能ではありません。それらも確かに一部ではありますが、毒素に犯されながら作品をつくる類の者の職能は、私たちが見えていなかったものや、見えているのに見えていないふりをしているものや、見たくないものを気づかせてくれることでもあります。その結果、そこに理解し合うことが難しい他者が見えてきたり、自分が作品から疎外されているかのような他者になってしまったり、周囲の多数にとって自分が他者であることを理解したりもします。
イプセン「幽霊」の中で、アルヴィング夫人は1幕でこう言います。
だって、ここには新しいことが書いてあるわけじゃなく、まあ、たいていの人が考えたり、思ったりすることばかりなんです。ただ、たいていの人は、それをはっきりさせなかったり、触れないでいるんです。
私たちは全員ひとり残らず、他者と生きています。それは自然であったり、社会であったり、地域であったり、学校であったり、家庭であったり、友人知人であったり、画面の中であったりするでしょう。他者を他者として意識しながら生きるのは、慣れていなければ疲れてしまい拒否したくなる気持ちもわかりますし、慣れたら慣れたで隣にいるのが他者であることを忘れてしまうこともあるかもしれません。私たちは、他者と生きていることに気づき、拒否したり、慣れたり、理解したり、許し合ったり、忘れたり、傷ついて/傷つけて思い出したりするという、絶妙な幅の中を動きながら、生きていくしかありません。その幅の中で、どのポジションが個人の安寧なのか、社会の安寧なのかは、場合によって異なりますが、自分のポジションの安全のために、好悪の別は脇に置き、他者のポジションの安全も認めることが、個々の自由の前提にあると思います。
ムンクの生まれる4年前に去ったトクヴィルによって予言されたマスメディアの覇権は、現在ではインターネットとともに、三島と同時代を生きたオルテガによって指摘された大衆に飲み込まれ、それは上にも下にも拡がり続けています。その拡張や複雑化、頽廃の進行は止められなくとも、そして日本においては虫の息だとしても、芸術家の仕事は、それに抵抗するものであり、多少でもブレーキとして機能しているはず、と私は信じています。
ということで、いくつか報告を。
7月「ワーニャ伯父さん」三重・韓国公演を終えた翌週から、「オズの魔法使い」土浦公演、三重県生涯学習センターとの夏の子どもイベント、若い演出家と俳優のための演劇合宿「Belleville Camp19」、京都造形大での知人衣装家のWSヘルプ、広島の若い演劇人との創造交流事業、愛知での「ムンク|幽霊|イプセン」関連WS、三重の絵本作家展での台湾視察などが続き、しばらくろくにFBへきちんとポストしていませんでした。
7月に上演した「ワーニャ伯父さん」は好評をいただき、来年度に国内2会場で再演される予定です。 Belleville Campもとても有意義な時間となり、来年度も実施しようと思っています。
そして、明日11月1日からチケット販売がはじまる「ムンク|幽霊|イプセン」。ムンクが描いた《イプセン『幽霊』からの一場面》と、イプセン「幽霊」を原作に、愛知県芸術劇場と愛知県美術館と協働して、劇場と美術館でパフォーマンスする公演です。ぜひお越しくださいませ。チケットは確保はお早めに。 特設サイト https://munch-ghosts-ibsen.tumblr.com
で、同時に、11月1日から東京入りし、1日と2日にリハ、3日に作品上演、という企画に参加します。昨年から引き続き呼んでいただきました。隣屋・三浦雨林さんと、ユニークポイント・山田さんのテキストで別々に演出して2作品を上演する学習院女子大学でのフェスティバル企画「演出とはなにか」。上演時間は1作品あたり20分程度の予定。休憩挟んで2作品連続上演、終演後に内野儀さんと演出2人とのトークもあります。こちらもぜひぜひ。 フェスティバル pafe.GWC2019 サイト http://pafe-gwc.info/ensyutu.html
11月末には「赤ずきん」が広島で上演されます。
12月頭には、日本ポーランド国交樹立100周年記念舞台芸術交流事業で三島由紀夫「班女」をワルシャワ、ポズナンのポーランド2都市で上演してきます。(「班女」出発前特別公演がBellevilleに11月24日にあります)
12月と2020年1月には、三重県立美術館・企画展での関連企画もあります。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/000231751.htm
2020年3月には三重県文化会館にて「とびだせ!みえの絵本作家たち展2020」のお手伝いをします。 https://www.center-mie.or.jp/bunka/event/detail/27529
もう今年もあと2ヶ月。早いもんですねぇ。
※トップ画は、エドヴァルド・ムンク Edvard MUNCH 《イプセン『幽霊』からの一場面》1906年 テンペラ、画布 愛知県美術館蔵
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xf-2 · 4 years
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メルケル政権が2020年9月2日、「インド・太平洋政策ガイドライン」という72ページの戦略文書を閣議決定し、政治的・経済的に重要度を増すアジア地域への関与と友好国との協力を強める方針を打ち出した。ガイドラインの対象は、インドから中国、オーストラリア・米国までを含む広い地域だ。 【関連画像】 ドイツは、オーストラリアやシンガポールなどと並び、日本をインド・太平洋地域で「共通の価値観」を持つ重要なパートナーと見なしている。 
  さらにドイツ政府は今年、フリゲート艦「ハンブルク」を5カ月間にわたってこの地域に派遣し、すでに展開している英仏の艦艇とともに共同訓練を実施することも明らかにした。 
  ドイツが、欧州から遠く離れたアジアに艦艇を派遣するのは極めて珍しい。ドイツは北大西洋条約機構(NATO)域外での軍事行動に慎重だった。この国は、伝統的に陸軍を重視してきたので、海軍力は弱い。 
  ドイツ国防省のアンネグレート・クランプカレンバウアー大臣は、「21世紀に入って国際政治・経済の重心は大西洋からインド・太平洋地域に移りつつある。世界の大都市33のうち22がこの地域にある」とした上で、「この地域を通過する貨物の輸送路は、EU(欧州連合)にとっても重要だ。したがってインド・太平洋地域の安全保障は、我々にとっても大きな関心事である」と強調した。 
  ドイツの論壇では、ガイドラインの公表とフリゲート艦の派遣決定は、「中国に対する警鐘だ」という見方が有力である。ガイドラインは「北朝鮮の核開発問題と並んで米中間の対立は、この地域の安全保障への脅威だ。この地域では2010年から2019年までに軍事支出が50%増加。中国の軍事支出は85%増えている」と述べ、中国の勢力拡大に対する懸念を間接的に表明している。
  ドイツは、オーストラリアやシンガポールなどと並び、日本をインド・太平洋地域で「共通の価値観」を持つ重要なパートナーと見なしている。クランプカレンバウアー大臣は昨年12月15日、岸信夫防衛大臣とのオンライン会談で、ガイドラインの背景について説明するとともに、日本との防衛協力も深めていく方針を明らかにした。岸大臣もこの姿勢を歓迎した。
  これまでドイツ政府はしばしば「アジアの安全保障の重視」を掲げてきたが、具体的な政策が伴わなかった。同国のフリゲート艦派遣の決定は、遅まきながら「ブーツを地面に着ける」姿勢を示すという、象徴的な意味を持っている。この異例の決定が中国を視野に置いたものであることは明らかだ。 
  中国側は、フリゲート艦を派遣するドイツの方針に反発した。中国共産党系メディア「環球時報」は、「ドイツ政府の今回の発表は、おそらく米国の圧力に屈して行われたもの。内政干渉だ」と論評している。
 ●独政府「一帯一路はEUを分断する」と警告  
ドイツはゲアハルト・シュレーダー前首相の時代から、中国との経済関係の拡大に努めてきた。ドイツにとって中国は、世界最大の貿易相手国である。しかし近年は、中国への姿勢を硬化させるドイツの態度が目立つ。ドイツ産業連盟は2008年、「中国とEUは、政治・経済システムをめぐる競争関係にある」という声明を出した。また同国政府は「中国の一帯一路政策は、EUの分断につながる」と主張する。その1つのきっかけは、東アジア海域の領土問題だった。  フィリピンは2014年、南シナ海に位置する南沙(スプラトリー)諸島などの領有権に対する中国の主張を不当として、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に仲裁を要請した。同裁判所は2016年7月12日に、「南沙諸島などに対する中国の領有権主張に法的根拠はなく、国際法に違反する」という判決を下した。  EUはこの判決が出た直後、7月15~16日にアジア欧州会議(ASEM)がモンゴルのウランバートルで開かれるまでに、同判決に関する統一見解をまとめようとした。独仏など大半の国々は、中国を批判する判決を支持したが、EUは結局ASEMまでに統一見解をまとめることができなかった。それは、ギリシャとハンガリーが判決を支持しなかったからである。  
なぜギリシャは中国批判を避けたのか。その理由は、アテネ南部のピレウス港にある。このコンテナ港に、中国遠洋海運集団(COSCO) が2009年から投資し始めた。現在は同社が資本の51%を握っている。COSCOはピレウス港に6億ユーロ(約756億円)を投じて、地中海最大のコンテナ港を建設中だ。中国はピレウス港を、自国からの貨物を欧州に送り込むための重要な橋頭保(きょうとうほ)の1つと位置付けている。つまりこの港への投資は、中国の一帯一路プロジェクトの一環なのだ。
ハンガリーも中国依存
 ハンガリーがASEMで造反した理由も、経済だ。同国のビクトル・オルバン首相はEUきっての親中派である。同氏は2017年11月、中国の李克強(リー・クォーチャン)首相と中東欧15カ国の首脳を首都ブダペストに招いて「16プラス1サミット」を開いた。  
オルバン首相は、EUが重視する三権分立や報道の自由の原則に批判的な右派ポピュリスト。近年はEUとの間で摩擦が絶えない。ハンガリーは中国との経済関係を緊密化し、インフラ整備の資金を受け入れることができれば、EUへの依存度を減らすことができる。  
「16プラス1首脳会議」でオルバン首相は、「今や、東アジアの星は絶頂期を迎えている」と中国を持ち上げた。さらに「疲弊し、老いさらばえた西欧諸国には、もはや中東欧諸国のダイナミックな成長を支援する資金がない。このため我々は中国の資金とテクノロジーを必要とする」と述べた。 
  つまりハンガリーも中国によるインフラ投資を頼みの綱としているため、南シナ海問題をめぐる中国を怒らせるEUの決定に反対したのだ。 
  当時ドイツの外相だったジグマー・ガブリエル氏は、ギリシャとハンガリーの造反について、「一部の加盟国が中国と対立したくないと考えたために、EUが共同歩調を取ることができなかった」と不満をあらわにした。このように中国マネーは、EU加盟国の態度にすでに影響を及ぼし始めている。
  もしも他の中東欧諸国が中国マネーに幻惑されて一帯一路に参加し、ギリシャのまねをして中国の政策を追認するとしたら、EUの結束は今以上に揺らぐ。ドイツが一帯一路に強い危機感を抱いているのは、そのためだ。 ●ドイツ大統領が中国の香港政策を公に批判  ドイツの政界では、中国の対香港政策に対する批判も強まっている。フランク・ヴァルター・シュタインマイヤー大統領(社会民主党=SPD)は昨年夏、珍しく歯に衣(きぬ)を着せぬ表現で中国を批判した。  同氏は公共放送局・第2ドイツテレビ(ZDF)とのインタビューで「中国は2020年6月に香港で国家安全法を施行した。これは香港の憲法に違反するばかりではなく、国際的な取り決めにも違反するものだ」と述べた。  さらに同氏は「この国際法違反に対する我々の怒りは、一時的に終わるものではない。もし中国政府が、欧州の憤りはすぐに下火になると考えて国家安全法を撤回しない場合、中国と欧州の関係は永続的に悪化するだろう。これは中国にとって利益ではないはずだ。私は中国が国家安全法について考え直すよう望んでいる」と述べた。 
  同国のハイコ・マース外務大臣(SPD)も「中国が国際的な取り決めを守っているかどうか、EUは結束してチェックしなくてはならない」と発言。 
  緑の党のカトリン・ゲーリング・エッカート院内総務は、「ドイツ政府は中国に対する圧力を高めるべきだ。私はメルケル首相がなぜ国家安全法について沈黙しているのか理解できない」と述べ、政府の中国に対する態度が甘すぎると批判した。来年に予定される総選挙のあと連立政権入りすると予想されている緑の党は、中国での人権問題について最も舌鋒(ぜっぽう)が鋭い��党だ。  さらにドイツ政府は国家安全法の施行以降、「政治的迫害を受けている」と主張する香港市民の亡命を認めた。
  同国の公共放送局「ドイチェ・ヴェレ(DW)」は、「国家安全法が施行となって以来、3人の香港市民がドイツへの亡命を申請した。連邦移民難民局(BAMF)は、2020年9月にそのうちの1人の亡命申請を承認し、ドイツでの滞在を許可した。他の2人の申請は却下した。2020年1月から9月までに、中国・香港から416人がドイツに亡命を申請し、そのうち61人が政治的亡命を認められた」と報じている。つまりドイツ政府は、「香港では一部の市民が政治的理由で迫害を受けている」と判断したのだ。香港特別行政区は、「内政干渉だ」としてメルケル政権の決定を厳しく批判した。
コロナ危機でドイツの対中依存はさらに高まる?
 ドイツにとっての大きな弱みは、同国の経済界が中国に強く依存していることだ。特にドイツ経済がコロナ・パンデミックにより深刻な打撃を受けつつある今、中国市場の重要性はむしろ高まっている。 
  国際通貨基金(IMF)によると、ユーロ圏の2020年の国内総生産(GDP)は前年比で7.2%減った。欧州経済で機関車役を務めるドイツのGDPも5%減少。スペインは11.1%、イタリアは9.2%、フランスは9.0%の下落幅を記録している。日本のGDPは5.1%、米国は3.4%減った。IMFは、昨年の全世界のGDPがコロナ不況によって3.5%減ったと推定する。 
  対照的に中国は、武漢など一部の都市の完全封鎖、外出禁止措置やデジタル技術による個人の行動監視を含めた厳しい感染対策によって、欧米諸国よりも早く感染者数の増加に歯止めをかけることに成功した。
  中国と欧米の経済パフォーマンスの間には、大きな格差が生まれつつある。IMFによると、中国のGDPは昨年2.3%成長した。主要経済国の中で、昨年GDPを増やすことに成功したのは中国だけである。 
  また欧州や米国では昨年秋以降、パンデミックの第2波によって経済活動に再びブレーキがかかりつつある。英国で見つかった変異株B.1.1.7はこれまでの新型コロナウイルスに比べて感染力が20~35%強い。南アフリカやブラジルで見つかった変異株も、欧州大陸で徐々に広がりつつある。 
  このためドイツなどは昨年3月と同じように、国境を閉鎖し始めている。同国の自動車メーカーは東欧からの部品が調達できなくなり、生産停止に追い込まれる。これが、経済成長にブレーキをかけるのは確実だ。 
  ドイツ政府は昨年秋の時点で、2021年のGDPが4.2%増えると予想していた。しかしコロナ第2波が経済活動に再びブレーキをかける恐れが強いとして、今年1月中旬には「2021年のGDP成長率は3%になる」と下方修正を迫られた。  IMFは、今年の全世界の経済成長率を5.5%、ユーロ圏を4.2%と楽観的な予測を発表しているが、パンデミック第2波の影響で、これらの予測値を引き下げざるを得なくなるのはほぼ確実だ。 
  これに対し、中国の2021年のGDP成長率は8.1%に達すると予想されている。これはインド(11.5%)に次いで、世界で2番目に高い予測成長率だ。日独の今年の成長率は、中国に大きく水をあけられる。
  欧州の経済学者の間では、パンデミックによって世界経済における欧州の地位が低下し、中国の重要性がますます高まるという見方が有力だ。欧州の輸出産業がグローバル不況の悪影響を最小限に抑える上で、中国は不可欠の市場となるだろう。中国がコロナ不況というトンネルの出口に向けて、他の地域よりも速いスピードで進んでいることは、各国の企業を中国にひきつけるに違いない。このことは、世界経済が中国に依存する度合いがさらに高まることを意味する。 
  例えばドイツでは今年1月から、食料品店で買い物をしたり公共交通機関を利用したりする際に、フィルター性能が高い医療用マスクFFP2かN95を着用することを政令で義務付けた。このためスーパーや薬局で大量のFFP2マスクが売られている。その大半は中国製である。高コスト国ドイツにとって、人件費が安い中国は製造拠点としても必要不可欠の存在だ。
 ●中国の景気回復がドイツ企業の頼みの綱 
  ドイツ企業にとって中国がいかに重要であるか、昨年の第3四半期の時点ですでに浮き彫りになっている。例えばEU加盟国のGDPは昨年第3四半期に11.5%も増えた。ドイツもこの期にGDPを8.5%増やしている。理由の1つは、中国で消費需要が回復し始めたため、ドイツなどEU加盟国からの輸出量が増えたことだ。 
  例えばドイツ自動車工業会(VDA)の統計によると、同国のメーカーの昨年4月の自動車輸出台数は前月に比べて約91%も減って2万2680台になった。しかしその後、輸出台数は増加傾向を示し、11月には33万8440台となった。自動車業界の関係者は、「これは中国での自動車需要が回復したためだ」と指摘する。昨年11月の単月の輸出台数は、前年同期を11%上回ったほどだ。
  ドイツが中国との経済関係を、短期的に減らすことは考えられない。ドイツ政府は今後、「政治は政治。経済は経済」と分離して、中国のアジアでの勢力拡大や人権問題について批判的な姿勢を強めるだろう。これに対し中国は政経一体を維持して、ドイツ政府に圧力をかけようとするに違いない。 
  まもなく中国は、GDPで米国を追い抜き、世界最大の経済パワーになる。議会制民主主義を採用していない国が、GDPランキングで首位を占めるのは史上初めてのことだ。東西冷戦に敗れて崩壊したソビエト連邦(当時)との最大の違いは、中国が多くの外国企業にとって大きな魅力を持っていることだ。ドイツ人にとって、安全保障・人権重視と収益・雇用の間にあるジレンマを解決するのは容易なことではない。
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munch-ghosts-ibsen · 5 years
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作品概要
第七劇場 × 愛知県芸術劇場 × 愛知県美術館 ムンク|幽霊|イプセン 原作:エドヴァルド・ムンク、ヘンリック・イプセン 構成・演出・翻訳:鳴海康平 ムンクが描いたイプセンの「幽霊」。
愛知県美術館に2016年に収蔵されたムンクが描いた《イプセン「幽霊」からの一場面》と、そのモチーフとなったイプセンの「幽霊」。ノルウェーが生んだ2人の巨匠が残した作品を原作に、第七劇場が愛知県芸術劇場と愛知県美術館と協働し、パフォーマンス作品を上演。
※本作品は、愛知県美術館[コレクション展]展示室内でのモノローグパフォーマンスと、愛知県芸術劇場 小ホールでの演劇作品「幽霊」上演の2つのパフォーマンスが実施されます。
会場 愛知県美術館[コレクション展]展示室4 愛知県芸術劇場 小ホール
名古屋市東区東桜1-13-2 地下鉄東山線または名城線「栄」駅下車、徒歩5分 (オアシス21から地下連絡通路または2F連絡橋経由) ⬇
日程 美術館パフォーマンス 2020年1月8日(水)〜13日(月祝) 劇場パフォーマンス 2020年1月10日(金)〜13日(月祝)
※1月9日、高校生招待ゲネプロを実施。詳しくはこちら。 ※託児サービスあり。詳しくはこちら。 ※1月9日、ゲネプロにて「あなたの感じた『幽霊』を描こう!」企画を実施!詳しくはこちら。 ※美術館パフォーマンス上演時間 約20分 ※劇場パフォーマンス上演時間 約90分 ⬇
出演
[劇場パフォーマンス] 木母千尋、三浦真樹 桑折現 山形龍平、諏訪七海
[美術館パフォーマンス] 菊原真結 上条拳斗、藤沢理子、藤島えり子、松本広子、三木美智代 ⬇
スタッフ
舞台美術:杉浦充 舞台監督:北方こだち 照明:島田雄峰(LST) 音響:平岡希樹(現場サイド) 衣装:川口知美(COSTUME80+) フライヤーレイアウト:橋本デザイン室
ノルウェーを同郷とする画家ムンクと作家イプセン。その二人を『幽霊』でつなげるというのは、あまりにも話ができすぎているようにも思います。二人が見ていた、もしくは二人を見ていた幽霊とは何だったのでしょうか。今回、愛知県芸術劇場と愛知県美術館の協力で実現したこの企画では、ムンクのテキストや、ムンクを巡るテキストを中心にしたモノローグパフォーマンスを美術館で、イプセン『幽霊』とムンクが描いた『幽霊』のムードスケッチを原作に舞台作品を劇場で上演します。幽霊として浮かび上がる因習や慣習、愛や結婚、義務と自由などに対する伝統的な価値観。おそらく今の現れるその幽霊の正体に少しでも近づけられたと考えています。 鳴海康平(第七劇場 演出家)
「ムンク|幽霊|イプセン」は美術館と劇場でパフォーマンスが行われます。流れる時間も鑑賞方法も異なる二つの場所を繋ぐのはイプセンの戯曲『幽霊』です。イプセンがリクスモール(デンマーク・ノルウェー語)で執筆し1881年に発表したこの戯曲は、前作「人形の家」のノラのもう一つの姿としてよりセンセーショナルなものとして受け止められました。日本では明治40年(1907年)ドイツ語からの翻訳として紹介され、100年以上経った今も度々上演され続けています。今回の上演が《今ここにいる私たち》がムンクの作品を通してイプセンの言葉と繋がるスリリングな体験となることを楽しみにしています。 山本麦子(愛知県芸術劇場 プロデューサー)
ベルリン・ドイツ劇場の監督兼演出家のラインハルトが、近代心理劇上演のために新設した小劇場の座席数は、愛知県芸術劇場小ホールとほぼ同じ300席余り。1906年秋のこけら落とし演目として同年5月に没したイプセンの『幽霊』が選ばれ、舞台美術や衣装の色合い、演者のポーズなどを含めた全体の雰囲気イメージ画がムンクに依頼されました。ムンクが各場面に応じて何枚も描いた構想画の中でも印象的な一枚がこの作品です。視線を合わせずうつむく人物たちの顔を照らす黄緑の不気味な光、物語を支配する血の因縁を象徴するかのような赤。ムンクはイプセンの霊からの視線も感じつつ描いていたことでしょう。 深山孝彰(愛知県美術館 美術課長)
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エドヴァルド・ムンク Edvard Munch 《叫び》の作者として世界的に有名なノルウェー出身の画家。若い頃、故郷では評価されず、ドイツで開いた個展は保守派の攻撃により1週間で打ち切りとなる。この「ムンク事件」で有名になり、ドイツを拠点に活動。その後故郷で開かれた大規模個展にイプセン(67歳)が訪れ、ムンク(32歳)に「敵が多いほど、多くの友に恵まれる」と言ったとされる。その後、イタリア、フランス、ドイツ、ノルウェーで活動した。
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ヘンリック・イプセン Henrik Ibsen ノルウェー出身の劇作家・詩人。「近代演劇の父」と呼ばれる演劇史上の巨人。シェイクスピア、チェーホフと並び、現在でも世界中で盛んに上演される。19世紀当時一般的だった勧善懲悪の物語や歴史上の偉人が登場する大作から離れ、個人の生活や現実の社会の課題などを題材に戯曲を執筆。
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エドヴァルド・ムンク Edvard MUNCH 《イプセン『幽霊』からの一場面》 1906年 テンペラ、画布 愛知県美術館蔵 1905年、ベルリン・ドイツ劇場の芸術監督となった演出家兼プロデューサーのマックス・ラインハルトは、隣接する建物を座席数300余りの小劇場(Kammerspiele Theater)に改装。1906年秋のオープニングプログラムに、同年に亡くなったイプセンの「幽霊」を選び、その舞台美術のムードスケッチをムンクに依頼。そのうちの一つが上記の作品であり、2017年より愛知県美術館蔵。
イプセン「幽霊」
1881年発表。「人形の家」同様、センセーショナルな反応と非難を巻き起こす。愛のない結婚だが放埒な夫のもとに留まったアルヴィング夫人。夫の死後、夫の偽りの名誉を讃える記念式典を前に、息子オスヴァルがパリから帰ってくる。しかし、息子と自分、そして女中レギーネ、その父エングストラン、牧師マンデルスとの間で、因習や慣習、愛や結婚、義務と自由などに対する伝統的な価値観が幽霊のように浮かび上がる。
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第七劇場 Dainanagekijo 1999年、演出家・鳴海康平が早稲田大学在学中に設立。国境を越えられるクリエイションをポリシーに作品を製作。ストーリーや言葉だけに頼らず、舞台美術と俳優の身体とともに「風景」によるドラマを築く独特の舞台空間が海外で高く評価される。国内外のフェスティバルなどに招待され、これまで国内24都市、海外4ヶ国(韓国、ドイツ、フランス、台湾)9都市で公演。2006年より東京都豊島区 atelier SENTIOを拠点とする。2013年、代表・鳴海がポーラ美術振興財団在外研修員として1年間のフランス滞在から帰国後、日仏協働作品『三人姉妹』を新国立劇場にて上演。2014年より三重県津市美里町に拠点を移設し、Théâtre de Bellevilleのレジデントカンパニーとなる。 代表・鳴海はAAF戯曲賞審査員(第15回〜)。第16回大賞受賞作「それからの街」(額田大志作・愛知県芸術劇場小ホール・2017)上演の演出を務める。
【website http://dainanagekijo.org】 Photo: ワーニャ伯父さん(三重県文化会館・2019)
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杉浦 充 SUGIURA Mitsuru 1978年愛知県生まれ。金沢美術工芸大学彫刻専攻卒業後、ドイツ国立デュッセルドルフ美術アカデミー舞台美術専攻卒業。2011年より8年間、舞台美術家ヨハネス・シュッツに師事する。欧州を中心にザルツブルク音楽祭、パリ・オデオン座、ウィーン・ブルク劇場、ベルリーナアンサンブル、フランクフルト歌劇場などで、演出家カリン・バイヤー、リュック・ボンディ、ヨハン・シモンズ、ローランド・シンメルプフェニヒなど数々のプロダクションに、舞台美術助手あるいは共同舞台美術家として参加。現在ベルリンと愛知を拠点に活動。
⬇ ⬇ ⬇ ムンク|幽霊|イプセン 主催:合同会社第七劇場、愛知県芸術劇場、愛知県美術館 協力:長久手市、猫町倶楽部、三重県文化会館 日本語字幕協力:NPO法人 名古屋難聴者・中途失聴者支援協会 製作:第七劇場 助成:芸術文化振興基金 お問い合わせ:第七劇場 [email protected] 070-1613-7711(平日10〜18時)
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genron-tomonokai · 6 years
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[友の会メール]新芸術校第4期 最終選抜成果展が今週末に開催!『新記号論』まもなく全国書店発売!
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[友の会メールvol.316]新芸術校第4期 最終選抜成果展が今週末に開催!『新記号論』まもなく全国書店発売!
(2019年2月28日配信)
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こんにちは、スタッフの宮田です。
『新記号論』がゲンロンショップでご購入の皆さま、友の会「選べる単行本」でお選びいただいた皆さまに届きはじめ、嬉しいお声を頂いております! 3/15(金)にはボルボ スタジオ 青山にて『新記号論』刊行記念イベントも開催されますので、こちらもお楽しみに!
また、新芸術校第4期の最終選抜成果展がいよいよ今週末に迫ってまいりました。 受講生の1年間の成果を見に、ぜひ現場に足をお運びください!
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★『新記号論 脳とメディアが出会うとき』ついに発売開始!★
脳とメディアが出会うとき……記号論は新たに生まれ変わる! 石田英敬氏と東浩紀によるゲンロンカフェ発、伝説の白熱講義を完全収録! 超時代・超領域の思想書が世に送り出されます。 書店発売は3/4(月)ですが、ゲンロンショップでのご購入分はすでに発送を開始しています! Amazon: https://amzn.to/2I3xooO ゲンロンショップ: https://genron.co.jp/shop/products/detail/215
ゲンロンショップでは、送料無料キャンペーンを実施しています! 3/3(日)24時までのご予約で国内送料無料!
『新記号論』刊行記念イベント開催!
ゲンロンカフェにて開催した石田英敬氏の伝説の講義に、大幅な改稿を加えて書籍化、3月4日に発売される『新記号論』の刊行を記念して、「ボルボ スタジオ 青山」にて記念イベントを開催いたします。 石田氏と、共著者である東浩紀、そして本書の編集者の斎藤哲也氏が登壇し、『新記号論』が書籍になるまでを振り返り、本書の意味をあらためて議論する、世界最速の読書会ともなるイベントです。ぜひご来場ください!
こちらのイベントは間もなくチケット完売となります。 当日は生放送も実施いたしますので、『新記号論』をお手元にご用意し、ぜひご覧ください!
石田英敬×東浩紀×斎藤哲也 【ゲンロンカフェat VOLVO STUDIO AOYAMA #17】 「ゲンロン叢書第2弾『新記号論』刊��記念イベント」 https://genron-cafe.jp/event/20190315/
さらに! 『新記号論』のベースとなった石田英敬氏によるゲンロンカフェのイベント全3回のVimeoアーカイブ動画を、お得なセットで販売中!
通常レンタル価格¥1,800→¥1,500(ご購入は¥3,600→¥3,000)とたいへんお買い得です! 書籍と相互補完する超充実の内容です。こちらもお見逃しなく! https://vimeo.com/ondemand/genronshinkigou
そしてさらに!河出書房新社さまより、東浩紀『ゆるく考える』発売中! http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309027449/
いつの間にか中小企業ゲンロンのオヤジ経営者になっていた。 人生の選択肢は無限だ。ゆるく、ラジカルにゆるく。東浩紀のエッセイ集! 装幀は『新記号論』と同じく水戸部功さん! こちらもぜひ、『新記号論』と併せてお手に取ってみてください! Amazon:https://amzn.to/2IHMIIf
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★ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第4期 最終選抜成果展が今週末に開催!★
【最終選抜成果展】 展覧会名:『ホーム・ランド』 出展作家:浦丸真太郎 / 青木美紅 / 國冨太陽 / NIL / F・貴志 / アイコン(SHUTING CHANG) 会期:2019年3月3日(日) ~ 10日(日) 開廊時間: 3/3(日), 3/4(月), 3/9(土)〜3/10(日)13:00-20:00 3/5(火)〜3/8(金)15:00-20:00 第1会場:ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエ 第2会場:gallery 201
【非選抜者による裏成果展】 展覧会名:『オトシブミ踊る』 出展作家:伊賀 大 / 三浦春雨 / BeBe / 江原沙保梨 / すーちゃん / 杉本幸子 / 林修平 / 松浦香帆 / 松枝昌宏 / PHILIPP AUBERT / BB [ おおば英ゆき ] / 小林真行 / 谷本美貴子 / 礒崎祥吾 / 伊藤由貴 / 宇留野圭 / 小菅玲奈 / 酒井陽祐 / TMTMTR 会期:2019年3月3日(日) 開廊時間:13:00-20:00 会場:ゲンロンカフェ
※ゲンロンカフェでは1ドリンクの注文をお願いいたします。 ※選抜成果展と裏成果展では会期が違いますのでご注意ください。
さらに、ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期 最終選抜展講評会を開催します!
ゲンロン友の会クラス30, 50, 250 の方は、会場にてご観覧いただけます。 観覧料は無料となりますが、ワンドリンクのご注文をお願いいたします。 展覧会のため、立見となりますのでご了承ください。
岩渕貞哉×津田大介×和多利浩一×黒瀬陽平 【ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期 #36】 「最終選抜展講評会」 https://genron-cafe.jp/event/20190302/
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★ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第5期 受講生募集について★
新芸術校第5期 受講生募集ですが、一般受講生、コレクティブリーダー課程ともに定員に達し、ただいまキャンセル待ちで受付中です。 すでにキャンセルも若干数出ているので、まだまだ受講できる可能性がございます。 ご希望の方はお早めにお申込みください! https://school.genron.co.jp/gcls/
★新芸術校×ひらめき☆マンガ教室の連動イベント開催!★
美術からマンガを、マンガから美術を語る、 待望のイベントを、ここに開催!!
ゲンロンの人気スクールから、新芸術校主任講師・黒瀬陽平氏と、ひらめき☆マンガ教室主任講師・さやわか氏、そして、ひらめき☆マンガ教室ゲスト講師でありながら、さやわか氏とともに「ニッポンのマンガ」シリーズを大井昌和氏をお招きして、特別公開授業を開催いたします! 美術とは、マンガとは、芸術とは、そしてプロとは何か、生き残るための術を惜しみなく公開するイベントです。
ゲンロンスクールからは、新たな才能が次々と生まれています。 いま、このようなスクールが生まれる理由とは何か。そしてなぜ才能は「育つ」のか? その理由を、会場でぜひお確かめください!
黒瀬陽平×さやわか×大井昌和 「野生のアーティストと、未来の現代美術。 ――新芸術校× ひらめき☆マンガ教室・特別公開授業」 【四天王シリーズ #9】 https://peatix.com/event/597019
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それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ  ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆3/1(金)13:00- 【再放送】田中功起×梅津庸一×黒瀬陽平 「いま、日本現代美術に何が起こっているのか #2.5 ――個と集団から考える現代美術」 (2018/1/26収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318626874
◆3/1(金)18:00- 【再放送】東浩紀×上田洋子 「『哲学的体験』としてのダークツーリズム ――チェルノブイリツアーのアクチュアリティ#2」 (2018/11/20収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318627738
◆3/2(土)16:30- 【無料生放送・講評】岩渕貞哉×津田大介×和多利浩一×黒瀬陽平 【ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期 最終講評会】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318532043
◆3/5(火)18:00- 【再放送】外山恒一×白井聡 「永続敗戦と全共闘以後 ――外山恒一・十番勝負『全共闘以後』刊行記念対談」 (2018/11/26収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318628139
◆3/6(水)18:00- 【再放送】三浦瑠麗×津田大介×東浩紀 「2017年、世界はどこへ向かうのか ――『「トランプ時代」の新世界秩序 』刊行記念トーク」 (2017/2/1収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318628384
◆3/7(木)13:00- 【新芸術校 受講生募集 締切間近!】 【再放送】さやわか×黒瀬陽平×東浩紀 「ゲームとアートは出会うのか」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #11】 (2018/9/13収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318642959
◆3/7(木)18:00- 【再放送】千葉雅也×東浩紀 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #5】 「モノに魂は宿るか ──実在論の最前線」 (2018/3/25収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318643356
◆3/8(金)13:00- 【新芸術校 受講生募集 締切間近!】 【再放送】千葉雅也×黒瀬陽平 司会=坂上秋成+東浩紀 「アートと哲学の交差点 ──あるいは2010年代におけるクリエイティヴィティについて」 (2013/12/13収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318643817
◆3/8(金)19:00- 【生放送】黒瀬陽平×さやわか×大井昌和 「野生のアーティストと、未来の現代美術。 ──新芸術校× ひらめき☆マンガ教室・特別公開授業」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318760300
◆3/9(土)19:00- 【生放送】千葉雅也×三浦瑠麗×東浩紀 「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベント」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318550505
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆3/1(金)23:59まで 【再放送】大山顕×東浩紀 「都市と道の写真論」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #6】 (2018/4/22収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318265060
◆3/1(金)23:59まで 【生放送】伊勢田哲治×三中信宏 司会=山本貴光 「科学と科学哲学 ――はたして科学に哲学は必要なのか?」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318272824
◆3/2(土)23:59まで 【無料生放送】黒瀬陽平 「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第5期 受講生募集 無料説明会」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318606992
◆3/4(月)23:59まで 【生放送】糸谷哲郎×佐藤天彦×戸谷洋志 「将棋、哲学、人間(あるいは人工知能) ――『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』刊行記念イベント」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318278018
◆3/5(火)23:59まで 【生放送】筆保弘徳×山口宗彦 「台風についてわかっていることいないこと ――台風研究の最前線」 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318519830
◆3/6(水)23:59まで 【チャンネル会員限定・生放送】安藤礼二×東浩紀×佐々木敦 「平成にとって批評とはなにか ――思想(1st cycle)」 【ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第4期 #15】 http://live.nicovideo.jp/watch/lv318630734
◆3/7(木)23:59まで 【再放送】亀山郁夫×岡田暁生 「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢 ――ベートーヴェンからショスタコーヴィチまでの交響曲を考える」 (2017/4/14収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318625632
◆3/7(木)23:59まで 【『新記号論』まもなく発売!】 【再放送】石田英敬×東浩紀 「一般文字学は可能か ――記号論と脳科学の新しい展開をめぐって #3」 (2017/11/24収録) http://live.nicovideo.jp/watch/lv318626324
※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入いただけるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆【vimeo】川島素晴×渋谷慶一郎×新垣隆 司会=木石岳 「『現代音楽』に未来はあるか? ――『やさしい現代音楽の作曲法』刊行記念イベント」 https://vimeo.com/ondemand/genron20180704 (2018/7/4収録)
◆【vimeo】大谷能生×速水健朗 「<俺による永久革命>の復活 ――『平岡正明論』刊行記念イベント」 https://vimeo.com/ondemand/genron20180701 (2018/7/1収録)
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧 https://bit.ly/2sybMGS
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★New!★ ◆3/8(金)19:00- 「野生のアーティストと、未来の現代美術。 ――新芸術校× ひらめき☆マンガ教室・特別公開授業」 【四天王シリーズ #9】 https://peatix.com/event/597019
★満員御礼!★ ◆3/9(土)19:00- 千葉雅也×三浦瑠麗×東浩紀 「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベント」 https://peatix.com/event/597020
★New!★ ◆3/15(金)19:00- 石田英敬×東浩紀×斎藤哲也 【ゲンロンカフェat VOLVO STUDIO AOYAMA #17】 「ゲンロン叢書第2弾『新記号論』刊行記念イベント」 https://peatix.com/event/604380
★New!★ ◆3/28(木)19:00- 日比野克彦×中村和彦 司会=石戸諭 「障害者スポーツから考える未来 ――電動車椅子サッカー映画『蹴る』公開記念イベント」 https://peatix.com/event/611746
★New!★ ◆3/29(金)19:00- 夏目大×吉川浩満×木島泰三 「頭足類の心と私たちの心 ――『タコの心身問題』刊行記念イベント」 https://peatix.com/event/607331
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ   ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
今後の展示予定
◆2019年3月3日(日) - 3月10日(日) ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校 第4期 最終選抜成果展『ホーム・ランド』 出展作家:浦丸真太郎 / 青木美紅 / 國冨太陽 / NIL / F・貴志 / アイコン(SHUTING CHANG)
開廊時間:3/3(日), 3/4(月), 3/9(土)〜3/10(日)13:00-20:00 3/5(火)〜3/8(金)15:00-20:00 第1会場:ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエ 第2会場:gallery 201
3月2日(土) 最終審査会(非公開) / 無料ニコニコ生放送にて閲覧可
◆2019年3月3日(日) ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校 第4期 裏成果展『オトシブミ踊る』 出展作家:伊賀 大 / 三浦春雨 / BeBe / 江原沙保梨 / すーちゃん / 杉本幸子 / 林修平 / 松浦香帆 / 松枝昌宏 / PHILIPP AUBERT BB [ おおば英ゆき ] / 小林真行 / 谷本美貴子 / 礒崎祥吾 / 伊藤由貴 / 宇留野圭 / 小菅玲奈 / 酒井陽祐 / TMTMTR
開廊時間:13:00-20:00 会場:ゲンロンカフェ
いよいよ「ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校」の第4期生の最終成果展が始まります! 新芸術校では展示の実習として、受講生が4グループに分かれ、それぞれが展示を企画・実践するプログラムを実施しています。 本プログラムでは、グループごとに毎回採点が行われ、全体の成績上位者によって最終成果展が行われる、という”サバイバル型”のシステムになっています。 グループA〜Dまでのグループ展と全授業日程はすでに終了し、最終選抜成果展示には6名の受講生が参加することになりました。 また、選抜されなかった受講生たちによる"裏"最終成果展示、「オトシブミ踊る」がゲンロンカフェにて開催されますので、こちらもお見逃しなく!
今後の展示予定についてはこちら http://chaosxlounge.com/ 新芸術校のサイトはこちら https://school.genron.co.jp/gcls/
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ  ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
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★友の会第9期への更新・新規入会を受付中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/183
◆「ゲンロン友の声」サイト、質問募集中です! 知られざるTumblrサイト「ゲンロン友の声」では、 友の会会員のみなさまからお寄せいただいたご意見・ご質問に対して、 東浩紀をはじめとするスタッフがお返事を差し上げております。ご要望などもお気軽に! http://genron-voices.tumblr.com/
◆◇ 東浩紀 執筆・出演情報  ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
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◆河出書房新社より東浩紀『ゆるく考える』発売中! いつの間にか中小企業ゲンロンのオヤジ経営者になっていた。 人生の選択肢は無限だ。ゆるく、ラジカルにゆるく。東浩紀のエッセイ集! http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309027449/
◆『AERA』の巻頭エッセイコーナー「eyes」に、東浩紀が連載中! 最新の記事は、「東浩紀、ニコ動『復活にはかなりのアクロバットが必要だろう』」です。 https://dot.asahi.com/aera/2019022700018.html
これまでの記事は朝日新聞のウェブサイト「.dot」で全文をお読みいただけます。 https://dot.asahi.com/keyword/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/
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yukarikousaka · 2 years
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2022.04.05
 忙しいので四つの雑記。①レースが好きだ。もちろん、糸を編み上げてすかし模様の布上に仕立て上げる技術のこと。春になるとレースの服を上に少し羽織るだけで楽しめるようになるから嬉しい。レースの技術については語りだすと止まらないのだけれど、大好きなファッション・ブランド「ハザマ」のレース・スカートを織る工程の動画だけはもっと沢山の人に観られてほしいと常々思っている。美しく繊細でかつ力強い、誇るべき仕事だ。
 ②どの情報を隠し、どの情報を開示するかというバランス感覚について常々悩まされている。文芸に関することだけでなく、プロフィールやアイデンティティ、論文やレポート、どの情報を開示するかということよりも「どの情報を敢えて伝えないか」ということ。嘘をついているわけではないけれど、恣意的な情報量の操作。そういうものを発信するときにも受け取るときにも誠実に向き合わなければいけない事柄が増えてきていて、難しい。
 ③今月発売の五大文芸誌はどうやら大変なことになっているようだ。フォロワーさんが沢山掲載されている文學界、三島由紀夫の新発見書簡が掲載されている新潮、そして何より石沢麻依小特集が組まれている群像をもっとも楽しみにしている。『貝に続く場所にて』は未だに記憶の深い部分に刺さって咀嚼して判別することすらできないような状態で、そんな作品はここ数年で久しぶりだ。新作長編「月の三相」と、批評も楽しみにしている。
 ④今日はお腹が減っていて、アイスクリームを食べた。アイスクリームが段々美味しく食べられるようになってきていること、レースの服が着られること、お風呂に入っているときに思いつきで電気を落としてみると思ったよりも明るい外光がやわらかに入りこむこと、そういうことから春を毎日肌で感じている。春はなにもあけぼのだけが素敵なわけじゃない。そんなことは清少納言だって知っているだろうけれど。以上、四つの雑記でした。
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theatrum-wl · 6 years
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回  銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
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〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館  銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
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〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なって��まうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
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〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
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〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
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〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
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〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
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〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
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〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
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〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
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〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという��共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
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〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~  総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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sayahatakahashi · 6 years
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【ESSAY】 「大地の魔術師たち」展(1989年)に関する議論(1):ラッシード・アライーンによる批判
本当に民芸や伝統に興味があるのなら、どうしてわざわざ世界のあちこちまで探しに出かけるのですか?なぜヨーロッパの村や町で探さないのですか?パリにだってまだあるのに。そうしないのは、それが十分にエキゾチックではなく、「他者」を表象しないからですか?
私たちはあなた方に同情して差し上げます、ですがどうして、本当に一体どうして、あなた方のいわゆる霊性の問題の解決策としてだけ私たちを使いたがるのですか? (引用者訳)
Rasheed Araeen, “Magicians of the Earth: On ‘Magiciens de la Terre’(1989),” in Exhibition, ed. Lucy Steeds (Whitechapel Gallery, 2014), 129-135.  上記の言葉は、1989年にポンピドゥーセンターで開催された「大地の魔術師たち」展のイベントにて、ロンドンで活動する現代美術家、ラッシード・アライーンが本展のキュレーションに対して投げかけた問いである。
 ラッシード・アライーンは1935年にパキスタンのカラチに生まれ、大学で土木工学を学び、1964年にロンドンに移住してからは美術家の活動を続けてきた。当初ペインティングにあった彼の関心は次第に彫刻へと移行し、やがてアライーンはミニマリズムと参加型アートのパイオニアとなる。しかし、当時のイギリスのアートワールドは外国人作家に対して極めて閉鎖的であった。1969年にジョン・ムーア賞を獲得した彼の作品に何人かのギャラリストは興味を持ったが、彼らはなかなか展示には踏み切らなかった。「君���作品は好きだけど、私たちはイギリス人作家とアメリカ人作家しか展示しないんだ」 ある時は、そう告げられたという。
 やがてアライーンは、アートワールドに根強く存在する帝国主義に対し、テキストやキュレーションを通して反論するようになる。彼のミニマルな作品は政治性からは切り離されているように見えるものであるが、作家人生を通して直面してきた不平等についての彼のテキストは雄弁だった。
 アライーンは、1989年にポンピドゥー・センターとヴィレット・グランド・ホールで開催された「大地の魔術師たち」展への招待を受け、参加することとなる。キュレーター、ジャン=ユベール・マルタンは、西洋に蔓延るヨーロッパ中心主義をの現状を覆すような展覧会を目指し、存命の西洋の作家と非西洋の作家を半数ずつ選定し、同じ大きさの展示空間を与え、「平等なやり方で」展示をした。この展覧会について解説している、artscapeのArtwordsにおける「大地の魔術師展たち」の項目を引用したい。
1989年、ポンピドゥー・センターで開催されたJ=H・マルタンによる企画。西洋と非西洋の区別なく世界中から100人の同時代作家を選定し、仮面や曼荼羅といったいわゆる民俗「資料」と「作品」とを併置して展示した。同様に民族博物館コレクションと美術館コレクションを並べて展示した大規模な展覧会として「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展(MoMA、1984)の先例があるが、まさにそこで紛糾した議論こそがこの企画の背景となっている。すなわち「資料」と「作品」の分類が暗に孕む、西欧に根深く残存している植民地主義的差別意識の検討である。「アート」を相対化させようとする態度はタイトルの「魔術師」という総称からして明らかで、物故作家を含めず、出展作すべてに作家名を表記し、全作家にほぼ同面積のスペースを用意するなど徹底していた。表現者を同列に扱うことの徹底は、美術概念のみならず美術館と博物館を分化させているミュージアム概念の問い直しであるともいえる。ガーナの奇抜な装飾棺桶などが話題になった一方で、なおも展示に「先進国」と「第三世界」とを分ける階層意識を見る指摘もされたものの、90年代に先駆けてマルチカルチュラリズムの議論を深めた画期性は大きい。「アフリカ・エクスプロアーズ」展(アフリカ美術センター、1991)をはじめ、90年代に入ってこの趣旨を引き継ぐ展覧会は各地で開催された。なお、日本からは河口達夫、河原温、宮島達男、勅使河原宏の4人が参加した。
Artwords, s.v. “「大地の魔術師たち」展,” by 成相肇, accessed June 17, 2018, http://artscape.jp/artword/index.php/「大地の魔術師たち」展.
 ここではこの展覧会は、「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」での問題を引き受けて企画・キュレーションが行われたものであるとし、その「90年代に先駆けてマルチカルチュラリズムの議論を深めた画期性」が評価されている。
 そして、ラッシード・アライーンは、この解説文のうちの一行で語られている、「なおも展示に『先進国』と『第三世界』とを分ける階層意識を見る指摘もされたものの」という部分の仕事を行った作家だった。現代においてこの展覧会はグローバル時代のキュレーションの一つのあり方を示した例として参照されるが、そうしてこの展覧会を振り返る意義はアライーンらによって当時幾度となく行われた議論にこそあるだろう。
 幸い「大地の魔術師たち」展における議論に立ち戻るための文章は、たくさんの本に収録されている。その中でもまず、ルーシー・スティーズが編集した『Exhibition』(2014)に収録されている、アライーンが「大地の魔術師たち」展に対して行った批評を拙訳ではあるが紹介したい。
 以下にアーティスト、ラッシード・アライーンによる「大地の魔術師たち」展への批判(1989)の全文を引用する。
 (パリにあるポンピドゥーセンターのイベントにて、)皆さんに英語でお話をしなければならなくてごめんなさい。この謝罪はつい先ほどガイ・ブルットが行った謝罪と同じものではありません。私が皆さんにフランス語でお話できないのは、私がフランスの領土下出身ではなくてフランス語を話せないからです。私はイギリス領土下の出身です。私は英語の他に、実は二つの言語を話せます。私の母語はパンジャーブ語で、国語はウルドゥー語です。今、そのどちらかの言語で皆さんに語りかけることもできたでしょう。もしかするとそれは皆さんには新鮮に聞こえて、楽しんでもらえたかもしれません。そこに私は抑揚さえつけて、より面白く聞こえるように話すこともできたでしょうが、皆さんは私が話していることを何も理解できなくなってしまうでしょう。そのため、私は皆さんと話をするにあたって植民地時代の話法に戻ってこなければなりませんでした。これは一つのパラドックスであり、それはこれから私がお話する、この展覧会全体のパラドックスでもあります。
 これは、私がこれから提起したいことの前置きに過ぎません。私はここ十五年間このような問題を扱ってきて、Third Text(ジャーナル)に「プリミティビズムからエスニックアートへ」という記事も書きました。これは結構長い記事ですし、もう手に入るので、今ここでは学説的にそれらの問題について話すのは避けたいと思います。しっかりと読みたいと思う方は、ぜひこの雑誌を手に入れてください。さて、ここで私がこれから話すのは、非常に個人的なステートメントです。
 本日の私の登壇は、この展覧会の参加作家である私自身によって、また、私が今回参加するにあたって抵抗感を抱いてきたという事実によって決められました。ですから、今日は私の個人的問題についてお話させていただかなければならないと思っています。そしてその中で、とりわけ本展覧会における他者の認識のあり方と、私たちの現代文化に対する彼ら(他者)の芸術的なアプローチがどのようなものであるか、ということに関連して、この展覧会が提示した幾つかの疑問点についても触れられたらと考えています。これらの問いは別に新しいものではありませんが、自己満足せずに議論を続けていくことは重要なことです。このような祝いの場でただあぐらをかき、やりたい放題するのは容易いですが。
 私はこの展覧会を見た後、どうして自分が参加しているのかわからなくなりました。私の立場や視点がこの企画とあまりにもかけ離れていたので、私は一人の参加作家として使われていなかったのではないかと感じ始めました。このように感じているのは、私だけではないと思います。いわゆる「第三世界」出身の他の作家たちも、同じ立場にいます。
 私たちは皆、少数集団を作ります。これはラ・ヴィレットの展覧会場に到着した最初の日にはっきりとわかりました。そこでは皆、エキゾチックな者か有名なヨーロッパの作家たちのどちらかを追いかけ回しているように見えました。
 ところで、私はこの段階で、私のここでの発言は、個々の作品やそれらの芸術的な質や価値に向けたものではないことを明言しておきたいと思います。私は伝統というものが過去のものであるか今に続くものであるかということに関わらず、その重要さを重々理解しています。そして私は、特に領土支配下にあり独立の地を見つけるのが困難になっている文化のために、いつも伝統の重要さを強調してきました。しかし、ここでの問題は何らかの伝統についてではなく、とりわけ何かラディカルな変化に向かおうとする力によって伝統が使われるという、そのやり方にあります。インドでは、伝統に留まろうとする、または伝統に回帰しようとする人々と、国を近代化したい人々との間での抗争が19世紀から続いています。これは、20世紀の最も偉大な思想家の一人、ラビンドラナート・タゴールが述べた以下の文脈の中で語られています。
「恐る恐る因習的な型に従い続けることは未熟さの証である…この国の作家はインド美術として分類されえる何かを作るというその義務を拒否するべきなのだ」
 これは1920年代に語られたことです。もちろん物事はあの時代から変化しました。文化的アイデンティティーを拒否することから、改めてそれを自己主張することへのシフトしてきています。しかしこれは伝統に回帰することを意味するわけではありません。そこに伝統的な勢力の再興があるならば、それは西洋の帝国主義を前にしての自己定義という駆け引きのうちの一つです。そして、この展覧会のカタログではそのように書かれていましたが、霊性の探求は必ずしもこの伝統の再興の中心にあるわけではありません。
 この展覧会に参加して遺憾に思うのは、私の制作自体が、異文化出身者として私に影響を与えたものとは切り離されているからというだけではなく、「ヨーロッパ人に帰属するモダニストとアヴァンギャルド、そして非ヨーロッパ人に帰属する伝統」という二つの分かりやすいカテゴリを基盤としたこの展覧会の趣旨とは反対の立場にあるからです。私は、モダニズムの非宗教的で革新的な側面に影響を受け続け、その発展に貢献し、またそれを西洋から解放することができたら、という野心を追い求めて人生のうちの25年をヨーロッパで過ごしてきた作家として、ここである問題に直面しています。私は自分の立場と対照的なこの状況に置かれて一体どのように応答したらいいのでしょうか。私は人生をかけてのようなことから逃れてようとしてきたというのに、いったいどのようにして西洋のエキゾチックなものに対する夢中さを、そしてそれに魅了されるすべての西洋の作家たちを、共有することができるというのでしょうか。私がいわゆる第三世界の一員であるとして――私にとっての第三世界はカテゴリーでも地理的な空間でもなく、概念ですが――どのようにして、この展覧会に参加できてただ嬉しいとしか思っていない世界各国の多くの作家たちの気持ちを、私が共有できるというのでしょうか。
 私は魔術師ではありません。たとえ作品に何らかの霊性が付与される時であっても、私にとって魔術というのは芸術とは全く関係ないものです。もしこの「魔術」という言葉に皮肉が込められているなら、私はそれを理解できていま��ん。私はそれがこの展覧会の中で何を意味するのかわからないのです。私はこれまでいつも魔術は何らかのペテンや霊威――もしかするとそれらは成功と権力を獲得するためには必須のものなのかもしれません――と関係のあるものだと思っていました。ところで、それと私たちにいったい何の関係があるというのですか?もしこの展覧会が権力を祝うためのものであるならば、なぜ私たちは呼ばれたのですか?私たちの権力のなさを嘲るためでしょうか?三ヶ月後には、私たちは自分の村の野生に帰るように言われて、ヨーロッパのヒーローたちは現代美術を支配して独占し続けるのですか。
 私は、霊性のために芸術をやっているためではありません。私にとっての芸術は職業であり、自己消費や自己満足に限らない、知的な追及を要する非宗教的な活動です。それは新たな思想の追求であり、私個人の領域に限らない、普遍的な思想との関係の中でそれらの新たな思想を言語化し表現することです。そして、もちろん、それは新たな思想は動的な文化や人間性の進歩に必須のものであるという考え方に基づいています。いま、私の作家としての野心を明らかにしたのは、みなさんの興味を私の作品へと向けることを目的にしたものではなく、第三世界出身の私たちがこのような野心を持った時に直面する基本的な問題について指摘したかったからです。私たちは、自らを近代の発展の前線に置くような大志や野心への承認を誰かに譲り渡さなければならず、この近代世界の一員になるべきではないとされているのです。私たちの功績について、「彼らは存在しなかった」とすべての美術史の本が語るでしょう。ですが、私は今ここにいるということを嬉しく思っていますし、私をこの議論に参加するように招待してくれた主催者に感謝しています。私はこの展覧会がすべての終わりになるのではなく、意義のある議論の出発点になることを願っています。
 これはお互いのことをよりよく知るためのよい機会になるかもしれません。知識だけが無学に対抗することができるのです。しかしながら、意義のある議論や対話は真の平等の上で飲み成り立つということを理解しなければなりませんし、フランス革命の200年祭を祝福している今それを認識することはとりわけ大切なことです。世界的に言えば200年前の自由、友愛、平等の宣言は大して達成されていませんが、希望を捨てて絶望してはなりません――ただ私は、現在の問題を解決するための西洋文明の能力については懐疑的ですが。
 いきなり本題から議論を始めてしまってすみません。私は不平等の政治ではなく、芸術について話さなければなりません。しかし、私たちはそれらを切り離すことができるのでしょうか?一方が莫大な権力を持っていてもう一方が何も持っていないという、世界の異文化間にはびこる不平等の存在を無視することができるでしょうか。この展覧会はそのような不平等さをいくらか実演して見せているだけでなく、祝福することによってそれをさらに強化しています。異文化をただ伝統という観点のもとで見て、その文化特有の伝統的な表現としてのみ捉えることは、近代史に参加するための現代的な闘争をその文化に与えない、ということです。例えば本展においてインドは、あまりにも歪んで提示されているだけではなく、その近代的な性質はすべて無視されています。
 インドにおける近代的な性質は西洋の描くそれとはまったく相反するものであるというのは事実かもしれません――ですが、その抗争を無視すること、そしてそこにある根本的な動機は、インドを近代世界から切り離すためでしょう。インドをただ民俗や宗教的な伝統に還元して、それを無力にするのです。
 このようなことから、本展覧会のコンセプチュアルな枠組み――確立された位高き西洋の作家たちによって提示されたモダニズムと、ここでは伝統文化によって提示されたいわゆるプリミティビズムとの関係のようなもの――の中では、異文化間の対話を築くことは不可能に思えます。
 また、皆さんにお話をしようとするにあたっての私個人の苦労に、私が立っているべき立場がインビジブルであるということもあります。それは認識されないし、認識されえるようにも思えません。どういうことか説明させてください。私がこの展覧会に招待されたのは、私の近作のうちの何点かが私の出身文化をほのめかすものであったので、私の作品はこの展覧会の趣旨に合っていると判断されたからでした。一方で、もし過去25年間のアヴァンギャルドのムーブメントについての特別展があったとしても、私が過去25年間ヨーロッパに住んでいてミニマルアートとコンセプチュアルアートの前線にいたという事実に反して、私はそこに呼ばれなかったでしょう。
 異文化が論点の時にのみイベントへの参加の誘いを受けることは、私にとって珍しいことではありません。例えば、1998年*1の10月、世界博物館というロッテルダムにある民族学博物館から、「異世界からの美術」という展覧会のためのカンファレンスに招待したいという手紙を受け取りました。同封されていたリーフレットにはこのように書かれていました。「西洋にヨーロッパでは…(すみません、これは私が書いた英語ではなく引用しています)、非西洋世界における現代文化の発展への関心が高まっています。その魅力的な例として、マルケスやショインカのノーベル賞受賞や、そしてセンベーヌ・ウスマンやスレイマン・シセ*2のようなフィルマーの躍進(おそらくフィルムメーカーという意味でしょう)が挙げられます。非ヨーロッパ人抜きのオランダ国際詩歌祭、ロッテルダム祭のプログラムなど想像できません。」
 私はこのように返事をしました。「申し訳ありませんが、招待をお受けすることはできません。」私の不躾な物言いをお許しください。「私は、非ヨーロッパ人作家の作品の議論と熟考のための民族学博物館のフレームワークを、受け入れることができません。お気持ちは感謝しますが、あなた方は根本的なところで間違っています。非ヨーロッパ人の現代美術は、現代のヨーロッパの作家の作品と異なるものではありません――作品の質は個々の作家によって差があるでしょうが、その現代性は同じです。もし彼らの功績が、たとえばマルケスやショインカのようには評価されないとしても、それは異文化的である作品自体とはなんら関係がありません。問題は、異なる文化的慣習ゆえに非ヨーロッパ人作家の作品を理解することが難しいということにではなく、むしろ非ヨーロッパ人の作品の中に近代性を見出すことを阻む、西洋文化に存在する確たる仮定のほうにあります。」
 ここで指摘しているのは核となることです。西洋において支配的な視点は、異文化出身の作家は見るに値しない西洋美術の低俗な模倣しか生み出してこなかったというもの、また彼らには近代の文脈の中でオリジナルな作品を作る能力がなく、それはどういうわけか彼らの文化の性質に関係しているというものです。異文化は、西洋文化に侵されておらず純粋であるときのみ本物であるというのです。この視点はこの展覧会のコンセプトの枠組みの中に組み込まれていますし、それが本展が異文化の伝統についてここまで気にすることの理由かもしれません。私は、私たちの現代美術に模倣が全くないということを言っているわけでも、モダニズムの枠組みを当てはめていることに何も問題がないと言っているわけでもありません。問題は、私たちの文化ではなく、他者が中心に入ることを許さないモダニズムのイデオロギーにあるということです。「他者」は、現代の文化から凝視されながらもその発展に参加することはできず、辺境に留まらなければならないのです。
 どうしてモダニズムについての問いが私たちにとってここまで重要なのでしょうか。それを理解するためには、反植民地闘争を理解しなければなりません――それは支配者を交代するだけのものではありません。それは、単なる伝統の再興でも保存でもなく、停滞した社会の構造を壊して、近代化のダイナミズムの一員となるということです。例えばインドにおける私たちの闘争は、非宗教的かつ、近代的で民主的なものです。インドにおける近代性の探求には、必ずしも伝統を否定する必要性などなく、それは私たちの時代の一部を成すダイナミックな発展の流れを通じ、新たな歴史的文脈を伝統に付与することができるものです。そして、それはまた近代国家としてのインドへの転換において、新たな役割を担うのです。もしも伝統が変化の一部になることを拒否するのであれば、それは化石になり、変化のダイナミズムの障害になってしまいます。
 一方で植民地主義は伝統的な構造を維持することを推奨し、フランツ・ファノンが思考のミイラ化と呼ぶものを生み出します。
 「文化のミイラ化は、個人の思考をもミイラ化します。植民地の人々に広くみられる無関心さは、この働きの理論的な結果です。そのため私たちの目には、古典的で不活発な組織は、まるで伝統の重要性や文化の特別性、支配下の人々の個性を盛り込んでいるかのように見えるでしょう。この偽りの尊重は、実際にはもっとも入念なサディズムであり、酷い蔑みであるも同然です…定期的に見受けられる『先住民の文化を尊重すること』への関心は、…文化によって生まれた価値を熟考する、ということを意味しません…むしろ、この動作は、文化をモノとして扱い、閉じ込め、投獄するという決定を露呈しています。エキゾチシズムは単純化の一つの形です。それは文化の対立を許しません。その一方で、そこにはダイナミズムやその成長、深さが認められているような文化もあります。このことに関して私たちはその文化の性質や希少性、物自体に注目しますが、その構造に目を向けることは全くありません。」
 私はこの展覧会全体のコンテクストにおける「現代」という言葉の使われ方を奇妙に感じます。文字通り読めば問題がないかのように見えますが、一方で「現代」とは同時代性からの出発という意味であり、近代という言葉と同義語までは言わずとも近代との関係をほのめかすものです。例えばインドでは、たとえ古典的、民芸的な伝統が過去に帰属するものであろうと今日に存在するものであろうと、「現代」という言葉はそれらから区別されています。また、この展覧会に参加している西洋の作家たちが皆、民芸的・伝統的な作家ではなく、現代美術のメインストリームで活動しているということを見ると、それは合点がいきます。一方で、異文化の場合には、そこの区別は作られないのです。同じ時代に作られた芸術の全てをその時代の現代美術だと判断するのなら、どうしてこの展覧会にヨーロッパの民芸的・伝統的な作家は含まれていないのですか?ヨーロッパの民芸的・伝統的な作家たちはいったいどこですか?本当に民芸や伝統に興味があるのなら、どうしてわざわざ世界のあちこちまで探しに出かけるのですか?なぜヨーロッパの村や町で探さないのですか?パリにだってまだあるのに。そうしないのは、それが十分にエキゾチックではなく、「他者」を表象しないからですか?
 異文化において今日作られた芸術がいわゆる西洋の現代美術というものから異なる構造を持っているという考え方は、完全にばかげています。それは、資本主義が地球の隅々まで侵食し、世界中の社会的、経済的、文化的な生産を変えたという事実を無効にすることです。これは別に新しいことではありません。芸術はいつも支配的なシステムとの関係の中で作られてきましたし、もしその支配的なシステムが階層的であれば、芸術の生産も社会階層によって異なってきます。今日の現代美術が支配的なシステムとの関係の中で世界中で作られているという事実を否定するのは、ナイーブなゲームをするためか、問題をややこしくするための意図的な試みかであるかのどちらかです。
 今日世界中にある課題は権力が近代世界に介入するということであり、そして今日作られているメインストリームの芸術はこの課題の一部です。西洋の作家は、「様々な人種的派閥を持つ歴史的な主体としてのモダンアーティスト」というヘーゲル的な理解のもとで、作品を商品へと変え、各々の複雑性が強調された価値を交換するための全ての権力や評価、そしてまた国際的なアートマーケットへのアクセスを持っている一方で、そのアクセスは異文化の作家には開かれていません。この展覧会はそのような課題の存在を否定しており、またどういうわけか、この問題によって生まれる論争や反論を認識することも拒否しています。この展覧会は重要な問題を扱うことに失敗していますし、新たな方向性を提示する機会も逃してしまっているのです。
 私たちは200年の間、あなた方の自由、友愛、平等の宣言に耳を傾けてきましたし、私たちはそれらの目標を獲得するために出来る限りのことは全てやってきました。それでもあなた方は、私たちがその一員であり続けてきたということを、知りたがらないのです。あなた方がしたいことは、私たちの古い村や寺、神社に行くことだけで、歴史の分岐点の上に立っている私たちに会うことは拒絶します。私たちはあなた方が、存在論的でも心理的でもなんと呼んだっていいのですが、深刻な危機の中にいること、そしてあなた方の文化が――「私たちの文化」と呼びたいところですがこの独占下であなた方はそのように主張されていますので――あなた方の文化がばらばらに解体されてきているので気をしっかり保つのが大変になってきていることも知っています。私たちはあなた方に同情して差し上げましょう、ですがどうして、本当に一体どうして、あなた方のいわゆる霊性の問題の解決策としてだけ私たちを使いたがるのですか?
 私たちはあなた方から、どのように文明化し知的な議論を行うかなど、世界に関する様々な知識を学びましたが、今私たちは同じ文脈の中で同じレベルに立って対話をすることさえできないのです。どうしてあなた方は私たちに話しかけるために異なる文脈をわざわざ探す必要があるのですか?すべての西洋文明の重荷をあなた方フランス人の肩に背負わせてしまっていたらすみません。私は文句を言うためにここに来たわけではありませんし、事実皆さんに文句を言うことは何もありません、ですが私はこの展覧会に失望したということは言わなくてはなりません。これは美術史の転機となったかもしれないのに。
 オランダに手紙を送った数日後、私は「大地の魔術師たち」展の参加のためパリへの招待を受けました。私は自分の感情に奇妙な喜びが混ざっていたことに驚きました。それは35年間の中で私が初めて受け取った国際展への招待だったのです。しかもパリです!ここでお話しさせていただいたように私はこの展覧会に疑念を持っていましたが、断ることができませんでした。私があの時ノーと言っていたら、この展覧会に何の変化ももたらせなかったでしょう。自分の参加で今回何か変化を起こすことができたのかどうかも、ここでお話したことが何か状況を変えるものになるのかどうかも私にはわかりませんが、皆さんにここでお話することができてよかったと思っています。ありがとうございました。(引用者訳)
Rasheed Araeen, “Magicians of the Earth: On ‘Magiciens de la Terre’(1989),” in Exhibition, ed. Lucy Steeds (Whitechapel Gallery, 2014), 129-135.
 アライーンは本批評文で、「第三世界」出身の作家として、この展覧会を考える上で重要なキーワードである「霊性(spirituality)」や「魔術(magic)」について検証し、また彼のような作家が現代美術を行う上で直面しなければならない問題点を提示してその根底にあるものを指摘している。この批評文は、不当なキュレーションを受けた異文化出身の作家が、見せかけのもてなしの内側にある搾取性に知的に応答し、どのように議論に参加していくことができるかを示しており、30年ほど前に書かれたこの文章の幾つかの部分は、現代においてもまだ悲しいほどに痛快に響くままである。
次回の更新では、以上のような批判に対してキュレーターがどのように返答したか、ジャン=ユベール・マルタンへのインタビュー記事を翻訳することに合わせて、中心地で行われる国際芸術展のキュレーター達が今日のポストコロニアリズムについてどのような態度を取っているかを考察していきたい。
*1 98年と記述されているが、この展覧会が89年に行われたものであることから、間違いである可能性がある。 *2 アライーンが受け取った手紙ではSulaiman Sisseと書かれているが、スレイマン・シセの正しいスペルはSouleymane Cisséである。手紙全体に多くの文法の誤りやミススペルが見受けられ、アライーンは補足をしながらあえてそのまま読み上げた。
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