#わが家はレトルト屋さん
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レトルト調理器「わが家はレトルト屋さん」を買いました【商品レビュー】
https://youtu.be/I1axP7Io8bw?si=Ksjf0g5h81oHrKmV
動画を気に入っていただけたら動画への高評価と、下記のリンク先からチャンネル登録をよろしくおねがいします。 https://www.youtube.com/c/youheired?sub_confirmation=1 投げ銭を募集しています。詳しくは下記のリンク先をごらんください。 https://kampa.me/t/lvo
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やあ! みなさんこんにちは。 クソバイス男こと増田です。 何を隠そうこのワイ、母親の介護歴17年(糖尿→脳卒中→骨折→認知症で要介護4。この間祖母の介護も4年被ってる)、父親の介護歴11年(骨折→肺がん→認知症予備軍で要介護3)を自宅みている 大馬鹿者 大ベテランなんですね。もちろん独身KKOです。 と言うワケで、アドバイス欲を満たすための生贄を見つけたので、クソバイスするよ。 さあLet'sクソバイス ストレス解消方法について ストレス解消はルーチンにして日常に入れ込むことが大切。 水分補給と同じで、ストレスがたまったら解消するのでは間に合わないことが多いので、ルーチンにれる。 例えば俺の場合、毎週木曜日が仕事完全休暇という仕事なのだが、この休みに合わせて、木曜日は両親ともにデイサービスに送り出している。 そして、木曜日はストレス解消の日、自分を甘やかす日と決めて、何もしなかったり、だらっとアニメを見たり、本を読んだりしてる。 また、3ヶ月に一度ぐらいショートステイに夫婦揃って出てもらったら、泊まりのエンタメにも行く事にしている。 自分の場合は、だいたいは夜行バスで大都市圏まで出て、大きなシネコンで一日映画三昧したりって感じですが、こう言う日を確実に大切にすること。 そしてこれは「開いたらやる」じゃなくて「何があってもやる」と決めてスケジュールに入れること。有給休暇と同じね。 そうじゃないと自分が持ちません。 なお、ショートステイは定期的に利用しておかないと、緊急時に対応してもらえないので、その訓練も兼ねています。 緊急時ってのは、俺に何かあった時が最大。そのほか、どうしても外せない義理のときとか、高校生の頃に心を救ってくれた声優さんがx年ぶりにコンサートするとか、そういうときね。 災害のときとか、色々なときに泊まりで預けられるようにしておかないと詰む。 増田で愚痴れ それでも愚痴を言いたいときあるよね。そういうときは増田で愚痴りましょう。 𝕏?とかああいうアカウントがあるのはオススメしない。 増田なら💩💩🎠🦌とか書いても誰も何も言わないし、きゃっきゃしてりゃいいので。 そのための増田。まぁ、実践しているのだと思いってそこは安心しました。 技術的な話 まぁこれはやってんだろうと思いますけど一応通り一辺倒だけ。 まさにクソバイス 地域包括支援センターに言って、ケアマネを付けてもらってみっちり話をしよう(まぁ付けてると思っていますが) 他に相談出来る窓口をざっと揚げておくと 地元の社会福祉協議会 病院の患者相談窓口(ソーシャルワーカー・ただ忙しすぎて駄目な事も多い) 都道府県の国民保険連合会(電話・法的な窓口) 市区町村の福祉関係窓口 大会社の場合、会社が介護離職予防のために相談窓口を持っている場合があるとか。 どこの窓口がよいとかは当たり外れが大きすぎて厳しいことも。数を打とう。 病院などで介護向けの家族会みたいな組織がありますが、ワイは入ってません。参加者の年齢が上すぎて流石に合わなかった。 介護は親の金でやれ。自分の金は使うな(入れるなら生活費だな) 介護離職だめ、絶対。 介護者の都合>本人の希望>行政・施設の都合 と言う優先度でプランを組み上げろ まぁ実際には逆になるんだけど、最初はこうするつもりで挑まないとつらい。 介護は情報戦。繰り返す。介護は情報戦。 要介護者のことを一番良く知ってるのは自分だ、というスタンスを決してぶらさないこと。プロのアドバイスはプロのアドバイスで客観視できて貴重でちゃんと耳を貸すべきだけど、丸呑みはしないこと。プロはずっと介護しているワイらほど長く過ごしていないから。 さらに細かい話 状況がハマったら活用してね 長期になりそうなら、介護保険の点数はできる限りサービスに振るべし。ものは借りた後に買取するつもりで 介護保険は物品の貸与と、サービスが同等になっているが、貸与は長期になるとコスパが悪い。できるだけその分をサービスに割り振る方向で。 確かに介護期間が2年以内とかならレンタルの方がコスパがいい。短期間で症状が変わっていく場合にはどんどん変えられるメリットもあるので、最初の1年ぐらいはレンタルするのがよい。しかし、その後、状況が安定して、なおかつ必需品で、メンテがいらないものは買い取って介護保険から外し、その分をサービスに回すべし。中古の購入は簿価になっているので十万円とかする器具が数千円で買えたりします。 置き手すりやトイレ用の肘掛けなど ベッドの本体(マットレスは汚れると交換なので) スロープ 以下のものは貸与のほうがいい 車椅子や介護ロボットなど 定期メンテナンスが必要で消耗品 マットレス 使っているとへたってくるのと、完全に粗相して汚したといった理由でも交換出来る デイサービスに必要なものはとにかくクリアメッシュ袋(ファスナーがついているやつ)に入れて準備して整理。 便で汚染された衣服はドラム式ではなくて、操作してたっぷりの水を入れた縦型洗濯機でやれば手洗いをせずに落ちる コインランドリーは恋人。雨の日や寒い日でも暖めてくれる(乾燥機) テプラ君は頼れるひと。 3Dプリンタとレーザーカッターは神器。フルオーダーの本人に合わせた道具が2千円とかで出せちゃう。レーザーカッター+ポリエチレンフォームの可能性も無限台。 しまむらは神。 介護ショップで購入すると凄い高い介護用の下着が、なんとしまむら価格で売ってる。やばい。 それに比べて靴屋の渋いことよ…。足下見すぎ(靴だけに) 車椅子を乗せられる自動車は、諦めて新車で買うべし。中古で4年探し続けたが毎日送り迎えに使われて30万kmとかとんでもなく走ったようなものしか回ってこないので貯金をはたいて買った。今では欠かせない相棒。 親の金で解決できる範囲のことは金で解決する。 だるいとき用に冷凍弁当を用意しておく。そのために冷凍庫を追加で買っとく とろみがついた状態で売っているペットボトル飲料とかあるんやで 柔らかレトルトご飯とかもあるんやで 親はテレビっ子世代なので、異様に安い中華テレビを買って放置、後はテレビがお守りをしてくれる。 報連相大事。 通っているデイの連絡ノートとか大事や。 最後に頼るべき所には必ず報連相 自分の兄弟、叔父伯母など、遠くに住んでいていつもは介護に参画してもらえない人でも、とにかく報連相はしておく。今どんな状態だとか、入院したとか退院したとか。 ワイの場合、介護すると言う共通の目的が出来たことで、前よりも親類と仲良くなった気がする。 万が一親を残して自分が死んだ場合のことを考えておく。親がワイがいないときに死ぬより、ワイが先に死ぬほうが悲惨なことになるので。 デイサービスにしておくことのメリットはこれ。自然と毎日来てくれるので、最大でも48時間以内には発見される 通院2回方式どうよ。検査と診察を2回にわける 検査科が独立しているような病院だと、検査科は診療時間関係なく稼働していて検査OKになっていることが多い。そこで、検査は診察日の一週間前以内の診察がある日のどこかで行く。 検査の攻略法 採尿は自宅で採尿して持ち込みたいと相談すると採尿キットをくれるので、それで当日朝とって冷蔵庫に入れておき、持ち込む。 すると、スムーズに進むと、採血だけで到着してから最短10分で終わったりする。通常診察があると結果が出るまで待つことになるが、待つ必要は無いので速効で帰れる 診察は、朝一番の一番最初の予約に入れてもらう 朝一番は開いていることが多い。通常採血から検査結果が出るまで1時間かかるため、この時間帯の予約は検査が不要な患者しか入れられないのだ。 しかし、事前検査をしておくと検査の待ち時間がないため、入れてもらえる。すると待ち時間がほとんどなく診察を終えることができる。 ワイの場合は、検査はデイサービスに迎えに行って車に乗せ、その足で病院に行って検査する。また診察日は、診察を終えたら、その足でデイサービスに送り届けて預けてしまう。こうすることでデイサービスを休む日も最短に出来る。 そのほか よくある質問と回答 仕事はどうしたらいいですか? 介護離職だめ、絶対。ソースはワイ まず今の職場で働く事を考える。無理なら今の会社で働けることを考える。 プライバシーとかかなぐり捨てて、上司や同僚には状況をいつも話しておくことが大事。 ワイの場合、結果論だが、2ヶ月介護休暇取って環境を整えてやれば離職しなくても時短勤務でいけたと思われるんで、マジ早まらない方がいい。一度離職すると介護持ちが新たな就職口探すのは困難。 ��うしても介護離職に追い込まれたら、介護者向けの求職なども存在はするので、労基の窓口に相談してみる。 介護施設とトラブルになったんですが 介護保険での事業の場合は、介護保険の保険者、つまり都道府県の���保連が窓口になった苦情申し立て相談窓口があるので、ここに相談するのが正規ルート。他に相談してもぬるっとしか対応してくれない。 行政の相談窓口はクソ せやな。ワイもそう思うわ。行政は相談するところと言うより情報を引き出すところと、手続きの窓口だと思って対応した方が上手いこと動いてくれる。 てか、なんで施設に預けずにお前見てんの? 金がないから。 人間そんなに簡単に割り切れる生き物ではありません。 なんでそんなにがんばってるの? しょうがねえだろうっせえよ 老人は生産性がないから若者のためにうんぬんかんぬん 安楽死うんぬんかんぬん うるせえ黙れ かわいそう だから黙ってろって 俺は見捨てるわ ワイにもそうやってイキってる時期がありました。ちゃんと現実を見つめて備えとけよマジで。 真面目な話、医療費とか使い過ぎていて気が引けるんですが 親が払った社会保険料や税金をざっくり計算してみるといいよ。生涯で家が建つぐらいの金は平気で払っている。ほとんどの人は、払った分を使ってるだけ。 統計学の心得があるなら年金・社会保障の構造を計算してみると実によく出来ていて、惚れ惚れするから。 特に公的保険てのはミクロではなくてマクロで社会的コスト(≠費用)を最小化し経済効果(≠金銭的利益)を最大化する仕組みなので、個人であの人は多くもらいすぎているなんてのは間違った議論です。理解できずに言う輩には「うるせえ黙れ」でよい。 終わったら俺も介護される側じゃん 先輩を見てると、介護をしっかりやってた人はあんまり要介護者にはならずにぽっくりいってる感じがする(終末期は別) 介護をやってると自然と介護予防の知識も付くから、地道にやっていこう 介護に巻き込まれた時点で人生終わりでは? まぁ、終わったということを受け入れるとそれなりに楽になるよ。
介護に関するクソバイス (増田編)
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また下書き入れっぱなしで久しぶりの更新になってしまった!!
やらなきゃいけないことや継続は苦手です。
でも読んでくれる人もいるので、頑張ります!
ただでさえSNSの更新頻度も低いし…。
最近、というかもうずっと。永安に悩んでいる。
どうでもいい事から真面目な事まで。
でも八割はどうでもいい事で悩んでいたりする。
自分はなんなんだろう?とか
自分のイメージと、他人からのイメージのギャップとか。
何がしたいとか、どうしていきたいとか
それから将来の事とかお金の事とか…。
永遠に思春期から抜け出せていない。
でもようやく、少しずつ、他人とのコミュニケーションや、自分を出していくことを
本当に少しずつだけど、出来てきているから
少し楽にもなってきた。
プロレスを始めてから 考えることや、悩み、体の痛み、金欠等でウンウン落ち込んだり、悩んだりする事増えてゲンナリもするけど、
新しく見えるものだったり、プロレス以外でもチャレンジに臆することが減ったり
いいこともすごく増えた。
全く何もしていないのはやっぱ1番良くない!
中学生の頃くらいかな?
性格の悪い奴しか居ないんじゃないかみたいな学年だったんだけど、
聞こえる音量で悪口を言われるのが常だったのです。
私だけだったと思いたくないけど、もしかしたら私だけだったのかな…。
だから未だに他人の事を気にしすぎて疲れちゃう事が多々ある。
だからなんとなく苦手な人を避けたりもする。
でもその苦手な人もただ人見知りしているだけだったり、たまたま調子悪い時だったり。
それがわかった時すごく嬉しかった。
自分に攻撃的な人ばかりじゃないんだと。
リトパ等でイベントさせて頂く時や、売店でお客さんと話す時も
こんなに自分を気にかけてくれる人がいるんだ。と温かい気持ちになります。
だからもっとコミュニケーションも積極的にしていきたいな。
ちょっと昔話したついでに私の趣味のことも少し笑
私すごく可愛いものやサブカル的なものが大好きで。
サンリオやちいかわやおぱんちゅ等キャラクターグッズめちゃ集めてて今のブームはドラえもんとコロ助。
少し前に出たカイロソフトから出ている『ドラえもんのどら焼き屋さん物語』 ※画像1枚目
このカイロソフトさんのゲームはガラケー時代からプレイすることが多く、スマホになってからも課金する事も多々ありお世話になっているのです。
そんなカイロソフトさんのドラえもんゲー!やるしかないなとポチポチやっているともう2周してましたね😭
���ゲー過ぎた。
右を見ても左を見てもかわいいに溢れている…。
全部回収するまで辞めたくないとここまでゲームやりこんだの久しぶりかも!
ゲーム実況も好きでよく見るのですが、
ドコムスさんや牛沢さんやレトルトさんもどら焼き屋さん物語を実況しているのでそれ見ながらやってます。
そして気付いた自分は意外とドラえもんが好きなんだという事実。
幼い頃の遊び場にはどこでもドラえもんが置いてあって、アニメもずっと観ている馴染み深い作品。
何故か0巻とドラミちゃんの単行本はこのブームの前から家にあり、ついにこの間見つけた50周年記念スペシャル版の第1巻!! ※画像2枚目
嬉しすぎるねこういう特別感!!そしてキラキラに弱いのでね!!買っちゃいましたよね!!
てかドラえもん50周年なんだ…キティちゃんも50周年でグッズ増えて幸せだなぁ…。
欲しいもの全部買えるように頑張らないといけないね。
話逸れちゃったけどこのゲームをやってコロ助かわいいなぁ…ってなってキテレツ大百科もアマプラで配信分は全部見きってしまったよ!
いざすすめやキッチン〜♪ってオープニングかわいすぎわろた
幼少期ANIMAXでやってたけど小さ過ぎて記憶ないからちゃんと見なおしてよかった!
ドラえもんよりちょっとシリアスさがあると感じた!
ネトフリでやってるT・Pぼんも少し前に1話数分見たけどあまり刺さらなかったけどもう一度チャレンジしみようかなと思う。
ちょっと前にファミマで出てたまんまるやき! ※画像3枚目
これ良かったねぇ…カスタードクリームが入った今川焼きみたいな焼菓子でめちゃくちゃ美味しかったしシール入ってるの嬉しかった!
キテレツ2種類当たってサチ!!コロ助の笑顔を守りたい!!
今はチョコクリーム入りのちいかわに変わっているので、もう手に入らないかも…。
ちいかわ好きだけどチョコクリーム苦手なのでね…。
ちょっと話すつもりがだいぶ話してしまった!
好きな事の話を文字でしちゃうととめられないね…。
書くことない時とかは好きな物や事の話しますね笑
あざした!
P.S.
そういやちょっと前に
日付け変わる頃位まで働いて、脚もパンパン、喉もガラガラ。
そんな状態で何故かその後カラオケ行っちゃって謎に5000円くらい散財してめちゃくちゃ落ち込んでた…。
でもめちゃくちゃデブの犬を帰りに見かけて少し元気出た。



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231231
朝は雨が降っていたけれど、昼頃には止んで、気持ちよく晴れ。 電車に乗って出かける。 明日は1月1日で、一粒万倍日で、わたしは彼に誕生日プレゼントをあげていなかったから、財布を贈る。 いろんな財布をみていたら、自分も欲しくなってしまって、探しに行く。 あの財布がいい、はあったけれど、在庫がなくて、在庫があっても、革の風合いがしっくりこなくて、購入には至らなかった。 カフェでお茶をする。そばとからあげとブロッコリーのエビのサラダを買って帰る。 テレビの音もない部屋でおいしく食べた。 今年を振り返ったり、来年やりたいこ��を話したりした。 今日を楽しもうとお菓子を買い込んでいたけれど、食べきれなかった。お腹いっぱい。 布団にころんでぼんやりしていたら、1月1日が近づいていた。 日記を書いている、この間に、2024年になっていて、あけましておめでとうございます。
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240101
朝、無理やりに起きて、初日の出を見に行く。 歩いて数分の川。 いつもならこの時間に川へ向かう人なんていないのに、おもしろいくらいたくさんの人が川に向かっている。 対岸にも人はいて、これが元旦か、と思った。 太陽は今日も昇ってきて、それをみんな、じっと見ていた。 空の色のグラデーションがきれい。 太陽が昇りきって、いつもの水色が広がればすっかりいつもの朝で、魔法がとけたみたいだった。 コンビニに寄って帰る。 消費期限の近い食パンが少しでも和食になるように、味噌を塗って、チーズと刻みのりをのせて、食べた。 昼ごはんは焼うどん。晩ごはんはレトルトおでん。
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240102
朝、憂鬱な雰囲気。 昨日洗えなかった食器を洗う。 彼の実家へ行く。 おいしいものをたくさん食べて、お腹いっぱいのはずだったのに、とんかつを食べて帰った。クリームコロッケがサクッとトロッとしていて、想像以上においしくて、感動した。 ここ数日、やたらと食べてしまうし、ねてしまう。 今日も帰ってきてからずっと寝ていた。
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240103 ずっと机に向かっていた。 そのわりに作業は進まなかった。 どうにもやる気がでなくて、Youtubeで動画ばかりみていた。 時間の経過にあわせてスーパーへ出かけた頃にはもう夜で、もっと早くに出ればよかった。 いつものスーパーはまだお休みで、少し遠いところまで歩いた。 豚肉とたまねぎと、まいたけを買って、ハヤシライスを作った。 高いと感じてしまって、牛肉もマッシュルームも選べなかった。 トマトの酸味がとがっていた。 明日には丸くなるだろうか。
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考えてみる、サバイバル
今年は元日に突然携帯の地震を知らせるアラームが鳴り出し、ギョッとなった。まもなく、能登で大きな地震があったことを知った。本当にいつどこで地震に遭うのかわからない今日この頃だ。日頃の備えが大事というが、どんな備えをすればいいのだろうか。どうすれば、自分や家族や周りの人の命や財産を守れるのだろうか。
「サバイバルファミリー」という映画を観た。どういう話かというと、主人公は東京のマンションに住む、中年の夫婦��高校生の息子と娘の一家。お父さんは平凡なサラリーマンで、会社から帰れば、晩酌しながらテレビをみている。息子と娘は親に関心がなく、勝手なものを食べている。お母さんはひとり台所で、実家の鹿児島から送られてきた大きな丸一匹の魚を捌こうと格闘しているけれど、誰も手伝わないし、食べたがらない。
そんなある日朝、突然電気という電気がみな停まってしまう。電気ばかりでなく、乾電池や車のバッテリーも全く働らかなくなる。お父さんと子どもたちは、文句を言いながらとりあえず会社や学校に向かう。自分のマンションだけでなく、かなり広範囲に停電していることがわかってくる。スマホで検索しようと思っても、画面には何も映らない。お母さんがスーパーに行くと、みな買い出しに来ているが、レジが動かずそろばんで計算するので、長蛇の列となる。
三日ぐらいは、ロウソクとカセットコンロとレトルト食品で凌いでいるが、水道からの水も出なくなり、会社や学校も休み��なり、多くの人がだんだんと東京脱出を始める。大勢の人が家族を伴って、ガラガラとスーツケースを引いていく。この一家はお父さんがうまく調達したおかげで、一人一台自転車がある。途中の商店では、ペットボトルの水が一本2500円の高値で売りに出されている。この家族も高値承知でありったけを買い占め、旅を始める。お母さんの実家の鹿児島を目指して。途中のお米屋さんでは、水や食べ物を持って行くと、お米一合と交換してくれる。そこにロレックスや高級車の鍵を持って交換に来る人物が現れるが、「そんなもの食えるかい! 」と突き返される。
「大阪から先の関西では電気が来ているらしい」という噂が飛び交い、今や車の走らない東名高速道路を大勢の人が歩いたり、自転車だったり、中には荷車を引く人も、西に向かう。途中のサービスエリアで野宿。寒い季節ではないのが、まだよかった。寝ている間に、水を一本盗まれて、息子がすぐに追いかけるのだが、盗んだ家族には赤ちゃんがいて、取り返すのをやめる。
脱出から16日目高速道路を降りて、川で洗濯をする。水が一見きれいだからと飲んだお父さんが下痢をする。強風に煽られて転倒し、自転車やお母さんのメガネが壊れる。次に通りかかったちょっと大きい街の無人のホームセンターを覗くと、食べ物はとうに無いが、キャットフード、精製水( コンタクトレンズに使うもの? )、自転車の修理材料などを手に入れる。火おこししようとしたもできないお父さんを横目で見つつ、おいしくないキャットフードを食べる。
さらに高速道路を走り続ける。長いトンネルの入り口で報酬と引き換えに、トンネルの案内を買って出る盲目のお婆さんたち。無視してトンネルに入るも、真っ暗な中、停まっている車や障害物に阻まれて進めなくなり、盲目のお婆さんに手引きしてもらう。
次はいやに元気な家族と遭遇する。彼らは日頃サイクリングしながらキャンプをしているらしく、装備も揃っていて、みなで楽しそうに食事をしている。「食料や水はどうしているんですか」と尋ねると、山の中の岩場の間から湧き出ている水は、周りに苔が生えていればそれは安全な証拠なのでそういう水を汲んだり、地面から直に生えているオオバコのような植物は食べられますよ、セミなどもおいしいですよ、と教えてくれる。
43日目、やっと大阪に到着。電気は来ていない。通天閣のタワーの入り口には、たくさんのメモ紙が貼ってある。「岡山のおじさんのところに行く。◯◯」などの伝言が。娘がブチ切れて「もう嫌だ! お父さんが大阪に来ればなんとかなるって言った���ね?」「そんなこと俺いったか? 」「ほら、そうやってまたいつもの責任のがれ」「親に向かってなんだ、その口の聞き方は! 」すると息子が「親らしいことしてくれたことあったかよ! 」今度はお母さんが、「いい加減にして! そんなこととっくにわかっているじゃないの、お父さんがそういう人だってこと」ここでお父さんはがっくりとなってしゃがみ込んでしまう。水族館の前で、飼っている魚を調理した炊き出しの列に並ぶも、自分たちの前で終わってしまった。お父さんは調理していた人に、土下座をして「せめてこの子たちだけにでも何か食べ物を」と懇願するが、「無いものは無い」と断られる。
67日目、食料も水も無くなり、岡山あたりの田舎道をとぼとぼ歩いている。と、一頭の豚が目の前を通り過ぎていく。えっ、となり夢中で追いかける。四人でやっと捕まえてみたものの、どうやってとどめを刺すのと手間取っているところ、後ろから「うちの豚に何をする! 」とお爺さんの怒鳴り声。お爺さんのうちの電気柵が働かなくなり、豚たちが逃げ出したのだった。お爺さんが、持っていたナイフで手早くとどめを刺し、豚を運ぶのを手伝い、そのお爺さんの家に。庭先の井戸水を汲ませてもらい、ごくごく飲む。久しぶりの白いご飯に、卵や野菜のおかずに豚肉の燻製。近所のお婆さんがキャベツや大根を届けてくれる。「あれまあ、お客さん? お孫さんたちが帰っているのかと思った」お爺さんの家族はアメリカにいて、連絡もつかないのだ。
ご飯の後は、さっきの豚の解体を手伝う。バラバラにした肉に塩をすり込む。一週間ほど熟成させてから燻製にするのだそうだ。逃げた他の豚も、みんなで追いかけ回して捕まえる。井戸水をバケツで汲んでは、お風呂に運び薪でお風呂を沸かす。何十日ぶりのお風呂に入り、夜はお孫さんたちが着る予定だった新しい寝巻きを貸してもらい、これまた久しぶりの布団に横になる。
毎日薪割りしたり、洗濯をしたり、お爺さんの手伝いをして過ごす。一週間後、豚肉を燻製にしながらお爺さんが語る。「お前さんたちさえよければ、ここにずーっと住んでもいいんじゃぞ。わしも年取って、一人で車も洗濯機も使えない生活では大変でなぁ・・」と誘われるが、この一家は鹿児島にいるお母さんの実家のお父さんの安否も気になっていて、結局お爺さんの申し出を断り、たくさんの食料をもらって、また自転車の旅を続ける。
そのあともいろいろあって、命の危険にも晒されて、奇跡的に誰かが動かしてくれたSLに拾われて、ようやく108日目に鹿児島のお祖父ちゃんの家にたどり着く。お祖父ちゃんは元気だった! お祖父ちゃんは浜で魚釣りをしていた。それからは村人同士助け合って、魚を捕りに行ったり、畑をしたり、鶏の世話をしたり、お婆さんに機織りを教えてもらったりして、みんなで元気に楽しく一生懸命に暮らし始める。
それから、2年と126日目の朝、突然村のスピーカーから埴生の宿のメロディーが流れてくる。みんなが驚いて家を出てみると、街灯が次々と点き始めた。すっかり忘れていた電気が戻ってきたのだ。そして場面は変わって、東京の一家のマンション。日常を取り戻し、以前の生活に戻る。テレビからは、「世界同時停電の原因は、太陽フレアか彗星の異常接近ではないかと、専門家からは語っている。サイバーテロの疑いはなくなったとのことです・・」停電前はそれぞれ勝手に心もばらばらに生きていた家族だったのが、思いやりのある温かい家族になっていた。
とまあ、そういう話であったが、いろいろといいヒントがあった。非常時にはアナログが強いこと。キャンプ生活などに慣れておくこと。北杜市に住んでいて、地震などで自分の家が壊れていない限りは、ここにいた方が湧き水もそばにあるし、薪や焚き木を��やして暖を取ったり煮炊きすることもできる。むしろここは、首都圏からの避難地域となるだろう。今できることといったら、いつでも人を迎えられるように、家の中を整えておくこと、食料や薪を備蓄しておくこと?
もうひとつ気になるのが、「年長者としての知恵」のようなもの。年長者はパソコンやスマホに弱く、操作方法などは若者に訊かないとわからないことばかり。でももしパソコンやスマホが一切使えない世の中になった時に、どこまで年長者がサバイバルの知恵を出せるだろうか。本当に長く生きた分だけいい知恵があればいいけど。
さっきの映画の話では、最初はばらばらだった家族の気持ちもだんだんとひとつになり、お互いにかけがいのない家族として心が結ばれる。停電が終わり東京に戻るのだけど、本当に戻る必要はあったのかなぁ。鹿児島にいた二年半は、みなで漁をしたり、畑をしたり、はた織りしたりして、お金も介在せずに生きていたわけだ。これからこの地震や災害の多い日本で生き抜くには、都会を出て地方でコミュニティを作って、いろんな年齢の人が、各々出せる力を合わせて生きていく以外の得策は無いのではないかしら。
2024年1月
映画「サバイバルファミリー」は、2017年2月に公開された。監督 矢口史靖。
主演 小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかな
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今日は布の水通しをした。今乾かしている最中。ロバートがカナダに行ったので昨日から一人だ。なんか昨日は早く起きれたのに、今日は昼12時ごろ目が覚めた。一度5時とか6時ごろ目が覚めて、でももうちょっとゴロゴロしようってことで寝てたら気づけば昼だった。
洋裁やろうかなと思ったけど、今日はなんかやる気が起きない。なんか2時とか変な時間まで起きてしまう。昼夜逆転してしまいそう。久しぶりに編み物やった。装苑のカーディガンの続き…あと袖と襟だけなの。まあそのあとつなげてボタンつけたりせなあかんけども。それは数時間あればできる��ろうし。
そしてパスタ作ったけどあんま食べれず。全然食べれんくてだいぶ残してしまった。レトルトのやつあんま美味しくないからなあ…舌が肥えてしまってなんでも割と不味く感じる。レトルトなんて買うべきではなかったなとつくづく思う。明日は鶏肉と牛乳買ってきてクリームシチュー作ろう。ブロッコリーかきのこ類かどっちか入れようかな。そして一日中クリームシチューを食べる。クリームシチューは好きだからめっちゃ食べれる。
ロバートおらんうちにもう一枚シャツ作ろうかな。裁断ぐらいは今日中にしとこ。シャツのことは軽くショートでうpしてもいいかもな。動画編集面倒やし。ロバートにチャッキーのシャツも作ってあげたいから、生地も見にいきたいな。
今年はさ、赤い服たくさん作ろうと思ってるんやよな。2025年の私個人的なテーマカラーは赤❤️赤いタータンチェックに生地と赤い無地の生地を買う予定。もう用尺とかも計算してるからね。赤い無地の生地はマジで悩む…リネンがいいんやけど、リネンやと色味があんまり鮮やかじゃなかったりなんかくすみカラー系だらけになるから思ってた赤!じゃないってなりそうだしなあ。
なんか80年代バンドのPVてやたら布が後ろではためいてるやつ多いよなあとか思ったw
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なんか見てたら笑っちゃうwそして、今やもうこの人たちももう結構おじいさんなんだよなあとも思ったり。80年代を2年しか生きていない私も結構おばさんやしな。
人生って儚いよね。なんかさ、年代とか男女差とか色々とあるけど、今この日本に住んでいるというだけでもかなり共通点あるよなって思う。80年代って昔なんやけども、なんかそこまで昔すぎないというか、便利さ具合はあんま現代と変わらないよなあ。昔はたしかにスマホはなかったけど、炊飯器でご飯炊いて、水洗トイレが普通だし、電気のついた部屋で夜中まで何か用事やったり、こういう音楽聴いたりとか、基本の生活は変わらない。なんか戦時中の生まれ、大正生まれの人とか、まあまだギリ生きてるけどもさ、その人たちもこの便利になった80年代を過ごしてきたわけで、そういうのは一緒だから。長い歴史を考えるとほんま今この世に同じ国っていうだけでも老若男女問わず凄い共通点やなって思う。80年代に飛ばされてもそこまでカルチャーショックは感じず、ある程度慣れて快適に過ごせそうやけども、60年代、50年代とかなると割と厳しいかもとか思ったり。高度経済成長期自体は客観的に見て確かに良かったけども、まだまだ現代人には色々不便すぎるし。でもあの時代のファッションとか好きやなあ。

この前三田の博物館で見た屋久杉の年輪見てたらさ、ほんま人間の人生って一瞬やなって思う。これは1000年ぐらいの年輪なわけだけども、この1200年代の人とかほぼ知らんもんな。よく考えたら。天皇とかくらいなら有名な人はいるだろうけども、正直パッと出てこない。この全ての時代、歴史で学んだわけだけども、それぞれの時代の生きていた有名人をパッと思い出せないわ。ていうか、誰が生きていようが、何したか、めっちゃどうでもええことやよなあって思ったりね。この木からしたら人間の人生なんて本当に短く儚い虫みたいなもんだろうなと思う。
でも実際このそれぞれの時代にそれぞれの人間の歴史があって、みんな色々人生かけて研究したり色々してくれたおかげで、こうして今便利な生活が成り立っているんだなと思う。綺麗なものや美味しいもの、全て先人の努力だったんだなあって。シンプソンズでスプリングフィールドができた当時にレモンの木を植えたけど、当時はレモンが一番甘い果物だったとかいう冗談のようなわりと史実に近いことが言われてたわけ。美味しい甘い果物も当たり前じゃなくて農家の人の品種改良の努力のおかげなんやね。まあ品種改良なんて気軽に言うけど、人の一生かかるレベルでやらなあかんもんなあ。それ考えると歴史を学ぶのって、過去を知って今までの人類の失敗から色々学んで効率よく生きる���めって感じする。でも、それを全然学校では教えてくれない。だから歴史の授業不要論とか出てくるんやろうな。ある程度自分が興味ある分野の歴史は自分で学ばなければいけないことになるもんなあ。
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ビアンカがホットハニーレモンジンジャーを用意してくれている。ポッドでお湯が沸いている音がする。ジャケットのフードを被ったまま熱心に本を読んでいるナオヤがいる。私はそれらから1~1.5mくらいのところで膝にパソコンを開いている。左膝にはラーメン(小さな柴犬)の熱を少しだけ感じる。時刻は16:56、12月28日、RV(キャンピングカー)トリップの3日目。RVに乗ってから、丸48時間が経ったのかな。時間のことはよく判からない、不思議な心地だ。
他の3人はRVの外のテーブルに居て何やら話し込んでいる。きっと明日のプランだろう。
6人もいると、行動は大変かと思いきや、全然。ノーストレス。
旅は、その序章が12月21日に始まった。崇とカレンとヌヌ(おでぶな柴犬)と出発した際の事はもはや鮮明には思い出せない。自分の記憶倉庫の小ささに本当に驚く。
ビアンカは音楽が好きだ。いや、みんなそれぞれに好きだけど、誰よりもすぐに音楽をかけて、誰よりもみんなが納得をするDJをするので、もうすっかりDJの座はビアンカのものになった。ホットレモンをみんなに配った後、本を開いてすかさず、音楽かけて良い?と断ってから、静かなジャズが始まった。
ビアンカとは12月21日に初めてサンフランシスコで落ち合った。ビアンカはニューヨーカーなのだけれど、今は仕事でLAに住んでいて、休暇はサンフランシスコにいるという。公開は禁じられている途方もないセレブの家を建てる仕事に就ているところとのこと。この部屋の外では話しちゃダメよ、と言いながらセレブの名前を教えてくれた次の日には、この車の外では話しちゃダメよ、と車内で話して、ここ以外では話しちゃダメよって言ってみんなに言いふらしている、と笑っていた。ビアンカは崇のコロンビアの同級生で、そのままアメリカで建築家になった。崇は建築でコロンビアに入ったのに、卒業する時にはメジャー変更をしてすっかりテックの人間になった。
台湾人達は皆洋名を持っていて、「ビアンカ」と言われてもどんな人間を想像していいのか今一つわからなかった。
初めて彼女を目にした瞬間のことはとても鮮明に憶えている。
私は車の後部座席に座っていて、眠くて、降りなかった、ビアンカの家に着いた時。崇とカレンが降りて、お団子を高い位置に作った背の高い女性が現れた。手の振り方とか、ヌヌを可愛がる「オーマイガッ」の発音などから、とてつもなくアメリカンな雰囲気を感じ取った。それがほんの5秒くらいの間に捉えた第一印象。
聞いていた話は、すごく料理をする人、ワイナリー巡りには熱心だと思うということ、くらいかな。買い物リストをカレンとビアンカが作ってくれていて、もう本当に凄まじい量の食材が並んでいて、私と崇はどうやって二人の暴走を止めようか、と目論んでいた。そんな感じで初めましてをした。サングラスを額に乗せたアメリカンな彼女が隣に、小さくてシャイな芝犬を膝に乗せて乗り込んできて、ようやく2024EOY tripの始まり。
まずはサンフランシスコの日本食スーパーに行って買い出し。特に恐れていたような暴走はしなかったし、レトルト食材を平気で買う感じから、聞いていた「ビアンカ」象は早くも改まる。
最初のAirbnbに向けて車旅が始まった。その柔らかな口調が、第一印象のイケイケ系アメリカンな印象を改めていく。気遣いの細やかさも「良い人」感が強まる一方。
1件目のAirbnbはものすごく大きかった。元々6人+2匹というプランで予約して、直前で来れなくなった人がいて4人プラス2匹になったので一人一部屋あるやらもうとにもかくにも広い。アメリカンピーポーと旅をするととんでもない贅沢をする事になるんだなぁ、という感覚。難しいことは考えず、ここまで来たんだから楽しみ切れれば良いなという思いでスタートした。
一通り贅沢すぎる家の、扉という扉を開いてキャーキャー言った後、ビアンカはすぐさま犬の散歩に出た。(という記憶があるやらちょっと自信がないやら)。タカシとカレンの犬の飼い方にかなりカルチャーショックを受けていた(散歩に出ない。基本寝てる。贅沢なご飯。プリンセスプリンセス)ところなので、ビアンカの犬ファーストな様子にはちょっと安心した。稼いでるんだろうなぁ、というオシャレな革リードに、こだわったドッグフードに、すごいわ。インディペンデントウーマンね、と私のことをおちょくったその言葉、そっくりそのまま本気でお返しするわ。
最初の晩は鍋をした。私は何かと洋食ばかり自炊するので、みんなのアジア食好きが面白い。長いこと自国を離れると、できるだけふるさとのものが食べたくなるものなのだろうか。私は昔から、どこに行っても、日本にいても、主食はパスタだし、米はリゾにしがちだ。みんなでつつく鍋はもちろん美味しいし、一向に不満はない。
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今は12月29日(日)の23時47分。私は早くも3泊目となる(実際の感覚はもっとたくさん泊まった気がする)ロフトでの寝床(キャンプ用のマットレスに寝袋)を用意して上記までの記述を読み直しながら再び少しだけ書いてみようかと思う。既にカレンの寝息が聞こえて、ナオヤが扉を開いてキャンピングカーを出ていった、おそらくトイレかシャワーだろう。
私の寝床の真横に寝ているビアンカにはタイピングしていても平気?と聞いたら「I can sleep in any condition」と3回目くらいの同じセリフを聞いた。
カレンのベットには犬が2匹寝ていて、奥のキングベッドにはタクオミとタカシが居る。タクオミはDUNEを英語で読んでいる。タカシ(=崇)はスマホをみていて、私の真下のベッドのナオヤもスマホを見ている。なんだかすっかり日常を感じる、キャンピングカーに。素敵な感覚だ。
キャンピングカーの第一印象は、思っていたより広い!だ。とても広い。
とはいえ6人(+2匹)で生活するので、言うても割と一杯一杯。
今日は雪山ハイキングをした。ビアンカと二人で朝の5時に起きてみんなのランチボックスを拵えた。カレンもすぐに起きてきてたくさんのベーグルにひたすらクリームチーズを塗ってくれた。雪山はとても本格的で大変だったけれど、下山後のロッジがとても素敵だった。
帰宅後のシャワー、そして魚介のリゾットはもうこの上なく最高だった。美味しかったなぁ。毎食とてつもなく贅沢に食べることにみんなで一心になっている。
一つのキャンピングカーの中で、毎晩異なる展開が、計画外で形成されていく感じがものすごく面白い。たとえば今、3泊目の夜は、上述のように、寝る人は寝たけれど、書いている私を含めて起きている人は起きている。このケースは初めてだ。
昨夜はみんな焚き火の煙臭が凄まじくて、シャワー浴びた人からどんどん寝ていった、翌朝が早いので。その前は、、、と考えてみて、今晩は既に4泊目なのでは!?となった。出発日は26日なので、29の晩というのは4日目?
毎日楽しいことがあって、もうよくわかりません~。
旅の始まり、Airbnbパートの12月21日に話を戻そう。
最初の晩は鍋をして、うわー!たくさんDVDがある、とかジブリ映画の話とか、スターウォーズ観ていないなんて、というお決まりの話とか。
ともかく家が贅沢すぎて、もうここに一週間は泊まりたい、そう思っていた。旅好きが伺えるインテリア(いろんな旅行先が収められたたくさんの額縁がいろんなところに散りばめられていたり)に、全てが使い居心地の良いグッズ、空間。(使えるリキュールを揃えなかったけれどシェイカーがあった。今度からアメリカのサマーハウスに行く時はカクテルセットを持っていきましょう)
ポーカーを一通り楽しんだ後に、おやすみと解散して、私はリビング���本を読んでいた。しばし集中していたら、突然にビアンカの部屋の扉が開いて、「気づいちゃった!」というので、何かの大事だと覚悟の気持ちで続きのセリフを待った。スターウォーズを半強制的に観させられていたAVスペースのタカシも、どうした!?という感じで固唾を飲む。
「餅を食べ忘れちゃった!」とビアンカ。
タンユェン、と言って、中国では冬至の日に欠かさずに食べる団子があるのだそうだ。カレンとビアンカはいずれも台湾人である。
眠って目を閉じていたのに、急に思い出しちゃった!という。
私とタカシは冬至のこだわりは無いものの、私はありがたく楽しく、その文化を味わった。
団子を拵えて、楽しんだ後に、健やかにおやすみ~!と部屋に引き上げたビアンカ。
翌朝は少し散歩をした。ネイバーを味わうのはとても楽しかった。別荘街を丹念に歩いて、建築物などを楽しんだ。もののけもののけ言い合っていた雨林帯に、木の家はカビそうだなと思ったり、深い緑の中に一台の真っ赤なジープが良く映えたり。
はて、22日は午前中から本当によく飲んだ。ワイナリー巡りある。
1件目には11時にJoseph Phillips。晴れではなかったけれど、ワイン畑のドライブは最高だった。10年も経つけれど、南仏巡りが鮮明に思い出されてノスタルジックなドライブ風景。
JPは身の丈に合わない気がするくらいゴージャスがすぎる空間。ぶどう畑が広がる展望を存分に活かした建物、玄関。駐車場からわざわざルートが定められて入り口まで誘導されるのだけれど、通る時には“なんで?��となる。どこを歩いても玄関に行けるのに、なぜわざわざここを通るようにと定められているのか、と。
リッチな空間に入った後、ウェルカムシャンパンを片手に席まで案内される。座席は背の高いテーブルに座高の高い椅子。溢れんばかりの輝くグラスたち。全員の氏名が印字されたワインリストも重厚なバインダーに挟まっている。あまりの裕福な環境に馴染みきれていない間に、スーザンが登場。恰幅が良くて背は低め。セーターにはコルクが縫い付けられていて、ツリーになっていた。ライトがキラキラとコルクと一緒に縫い付けられていて、ゆかいこの上無い。重厚なメガネに、クリスマスなイヤリング。誰しもが楽しくなる人がスーザンだ。
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今は1月3日の15:42。San Joseのダウンタウンにあるカフェに、タカシとナオヤといる。日本ではカフェでMacBookを開くのにほんのちょっとだけ抵抗を感じる。なんかそれっぽくなるのがすごく嫌で。笑 アメリカではMacBookがiPhone人口くらいの勢いなのでなんとも感じない。私たち日本人3人はややBGMの音の大きすぎるカフェの大きなテーブルでそれぞれのMacを開いてそれぞれなんかやっている。私は29日の夜中にキャンピングカーのロフトで少し書き進めたその日からさらに1週間前くらいの日記を読み直したところ。
旅が終わった。
旅が終わるのはいつも寂しい。でも今回はそれなりに肉体的な疲れもあるし、NYCが好きすぎるので帰ることが楽しみでもある。でもNYCに戻ったら残り後ほんの20日間ほどで、本当の帰国になるので、そのことを想像するともっと寂しくなので先のことに思いは馳せないようにしている、そんな1月3日。正月感は全くない。元日の朝にキャンピングカーのキッチンでビアンカとお雑煮を作った時間が正月感のピークである。
昨夜はMBAの試合を観に行った。とてつもなく楽しかった。クラブにいるみたいな騒ぎだった。アメリカってこんな感じなんだなぁ、と改めて体感もして楽しかった。朝は仕事に行ったカレン以外のみんなで素敵なカフェで朝ごはんを食べた。都市に戻るこれ以上なく最高のやり方なんじゃない?と好きな時間だった。テラスで朝食食べる冬の西海岸最高。朝ごはん食べた後はビアンカのオフィスで少し仕事をしてからSF散歩をした。
その前の晩、すなわちRVを降りてカレンの家に戻ってきた最初の晩はみんなで『あいの里』に(布教を受けて)没頭して寝不足になった。
今日の午前は写真のアップロードに費やした。初めて見る動画が沢山。見直し出してみて、もうRV Tripが手の届かないところに去ってしまった感覚と直面した。旅の全部が、あまりにも最高だった。RVを降りてからも結局みんなで一緒にいるから、旅が終わってしまった感覚が急激ではない。普段の旅行や登山では、山を降りたり、駅についたりすると友達と解散をするから、その瞬間からどっと襲ってくる、旅の終わりの感覚が。でも今回は、終わった後もみんなでご飯食べて、シャワー譲り合って、買い出しの話をしていて、なんだか新しいカタチだ。
ビアンカ(私の1月の大屋さんになった)は昨日LAに戻った。
ナオヤは明日日本に帰る。
私は明後日の早朝にNYに立ち、タカシとタクオミは明後日の夜NYに立つ。
SJに残るカレンの寂しさを想像すると他人のことながら胸が潰れそうになる!友達と一週間くらい過ごした後にみんなが帰って行った時のあの感情の、今回はどれほど膨大なものになるのだろう。ボーイフレンドまでもみんなと同時に去っていくのだから。
崇が昨日仕事のmtg中に、once in a lifetime levelの旅だった、と同僚に向かって言っていて、アメリカっぽい大仰な表現だなぁ、と隣でMR作りながら片耳で聞いていた。でも今こうしてpagesを前に書きたい気持ちと何を書けば良いのか、という気持ちと、どこからどうやって記録すれば良いのか途方に暮れる現実を前に、確かにこの旅は、どこから手をつけたら良いのか自分でも手に負えないくらいの大きな大きな旅だったんだなぁ、と実感している。スパイシーなチャイラテが切れたのでpagesも新しくして何かを書いてみたい。そういえばチャイラテを作ってくれたお姉さんに「by the way あなたの名前とても素敵ね」と言われて嬉しかった。アメリカでそんなこと言われたの初めて。
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ぶっハウコミックス発売記念に
質問を募集してみました。送ってくださった皆様ありがとうございます!回答作業がすごく楽しかったです。
感想を添えてくださった方々、この場でまとめてのお返事になりますが、とてもとても嬉しかったです。ぶっハウの略し方も面白くて好きと言っていただけて…笑 他にもっとあった気がするのに…結局ぶっハウと言ってしまってますね。続編を…と言ってくださった方々もありがとうございます!
なにも決まってませんが、もし仮に続編が出ることがあればその際に今回お答えしたことと設定が変わる可能性もあります。なのでひとまずこれは現時点での答えということで…受け取っていただけたら幸いです。
それでは質問に答えさせていただきます🙌
※めちゃくちゃ長いので折りたたみます!
■倉田さんの生活力はどんなものなんでしょう。家事に関しても、陶芸に熱中しすぎるあまり手が回らないだけなのか、家事センスが皆無なのか。一緒に暮らすとそのへんも見えてくるのかなという想像をしていて気になった次第です。
→倉田は陶芸優先で生きてきたので、料理は現時点だとパスタやそばを茹でる、米を炊く…目玉焼きを焼く…ぐらいしかやったことないと思います。洗濯も洗剤の量とか適当で柔軟剤という存在も知らなそうです。掃除は小中学校でやる範囲の知識はあると思います。器用なので全部何度かやれば人並みに身につく気がしますが…!陽人は陽人で家事が好きなので、なかなか身につけるタイミングがないかもしれません。陽人が風邪で寝込んだりしたら、おかゆとか初めて作る気がします。失敗して急いでレトルト買いに行ったりして…そのあと陽人に料理を教えてくれってなるかもしれませんね…!最初は料理に苦戦する倉田の姿に萌えてそうです陽人。
■陽人くんの得意料理はなんですか?また、倉田さんは陽人くんのどの料理が一番好きですか?
→陽人は実家(トマト農家)に貢献したくて農大に入りました。ゆくゆくはトマトを扱った食品の研究をしたいと考えている…という設定を考えていたので、トマトを使った料理が得意です!最終回を迎えたあとであれば、陽人のトマト料理の腕が本領発揮されるので倉田もトマト料理が好きだと思います。あとは最終回で大学の子から鶏肉をもらったという話があったので、鶏肉をくれる知り合いがいるなら唐揚げとかも多くて自然に好物になってそうです。(という気持ちでコミックスの表紙を唐揚げにしました…笑)

■(こいさじもですが、)キャラクター名の付け方?由来?はなんでしょうか?理由があれば…!
→結構響きや雰囲気で決めてしまっています。倉田はちょっと硬くてまじめな感じがいいな〜とか、陽人はあたたかい、光にちなんだ感じがいいな〜とか…!倉田亮二の「亮」はあきらかではっきりしているという意味合いがあるので、倉田のはっきりとした態度と誠実なイメージからこの字を選んだところがあります。
■ぶっハウ原稿中の瀬田先生のお供はなんでしたか?食べ物でも音楽でも…!
→お供はコーヒーでした!コーヒーの味というよりかは、入れる工程が作業のときリフレッシュできて好きです。作業中は動画音楽色々流していますが、一度見たものを流すことが多いです。一時期アンナチュラルとMIU404、BANANA FISH、攻殻機動隊あたりをずっと流していました…!大好きな作品です。作業中高頻度で流していたもの↓
ナポリの男たち(実況者)/BUMP OF CHICKEN/米津玄師/残響のテロル(ost)/HYUKOH/星野源/Something Real(zac blanc)/Michael Henry & Justin Robinett/Yuri on ICE(ost)/Ryu Matsuyama/借りぐらしのアリエッティ(ost)/攻殻機動隊(ost)
追記:「薔薇のない花屋」というドラマのostも流していました!(下でアリエッティのostがぶっハウのイメージがある的なことを言ってますが、それよりもこちらのほうが作品に合うイメージは強いかもしれません…)

■倉田さんのお家の間取りを見てみたいです(庭とか窯含め)
→私が正しい間取りをわかってないので(すみません…)見る人が見たらこんな間取りあり得ない!と卒倒されそうですが、一応載せておきます。最終回後です。古い家を安く譲ってもらい、少しリフォームや増築した設定です。よく見るとなんか色々変なので、ゆる〜く見てください…笑
■一緒に暮らしはじめた2人はベッド別なのでしょうか…予想は別々に寝室というか部屋があるけど倉田さんが何かと寝る時は自分のところに引き入れる、です笑
→これはすごく迷ったんですが、ベッドは別です!作品作りの邪魔になると思い、陽人が別を提案しました。倉田は一緒に寝るものだと思い込んでいたのですが、陽人が別部屋を提案したのでその方がいいのかと受け入れています…笑 でもおっしゃる通り、行為などがなくても高確率で倉田のベッドに行って一緒に寝てると思います!
■陽人は農大生ですが専門はなんですか?
→上で少し話しましたが、陽人は食品の研究をして実家に貢献したいと考えています。実家のトマトをプロデュースして商品化したいとかかな…なので、食品開発や栄養科あたりの学科に所属しています。ただ大学2年ぐらいなので、おそらく良くしてくれる教授はいますがまだ基礎を学んでいる段階だと思います!
■陽人の兄弟構成の詳細を…!!4人男兄弟って素敵…
■陽人くんのご兄弟についてお答えいただける範囲でお教えいただけるとうれしいです。
→これはシーモア様の特典ペーパーの情報ですね…!陽人は四兄弟の次男なのですが、長男が実家を継ぐ予定です。長男には長い間男性の恋人がいて(家族も受け入れています)、陽人はそれがあって同性同士の恋愛に偏見がありません。年齢は長男28歳、陽人20歳、三男18歳、四男10歳ぐらいを想像しています。陽人は兄からも弟からもとても好かれているんだろうな〜と思う反面、あの性格なので結構板挟みになっていそうです。
■2人の恋の陰の立役者である山本さんのことも大好きなので、プロフィール(生年月日、下のお名前や陶器を好きになったきっかけなど)を教えていただけると大変嬉しいです
→山本を好きと言ってくださって嬉しいです。山本の下の名前は春焚(はるた)です。倉田の年齢は三十前後ぐらいと想定しているのですが、倉田よりも2つぐらい上で、父親が陶芸家のイメージでいました。ただ本人はずっと陶芸が好きではなく、陶芸大好きマンになったのは大学生のころとかにきっかけがあったのかな…とぼんやり考えています!名前に春を入れたので、春生まれと思ったんですが…春という名を持ちながら冬生まれの山本がいいな〜なんて思ってしまいました。

■質問ではないのですが、描き下ろしで倉田さんが陽人に「一緒に住まないか?」と言っていたので…いつかこっそり2人の同棲を見てみたいです!
→ありがとうございます!同棲している二人、描いてみたいですね…。二人のいちゃいちゃをいつか描けたらいいです。Xで少しだけ描いたので、一応こちらにURLアップしておきます! https://x.com/setakoke/status/1833469234481140104
■陽人くんは176cmと作中にありましたが、倉田さんの身長はどれぐらいなのでしょうか?
→倉田は188cmぐらいです!倉田家のリフォームされていない出入り口は屈まないといけません。

■倉田さんって恋愛対象は男性なんでしょうか…。それとも陽人くんが初めて…?
→いろいろあって一度だけ女性と関係を持ったことはありますが、ずっと陶芸一筋な上、恋愛をする年頃かなというタイミングで師匠とのことがあったので恋愛経験はありません。恋をしたのは陽人が初めてだったので、最初は少し戸惑ったかもしれません。そこを描けなかったのが残念ですが…泣 でも恋だとしても、それが別にどうなるわけでもないと思っていたので戸惑ってすぐどうでもいいだろう、と言い聞かせて終わったのかなと思います。
質問については以上になります!すごく長い!すみません!
あと個人的に補足しておきたいことが長髪と眼鏡についてです。これはフェチで取り入れたわけではなく、陶芸の仕事もハウスキーパーも、生活を中心にした職業なので、生活が自然に見えるように…生活の中で自然に起こる動きを多めに描写したいなと思って取り入れたアイテムでした。でも髪を切るってやっぱり漫画の中では意味が出てしまいますよね。���果特別感が生まれ不自然に感じてしまうこともあり…難しいな〜と考えていました。
ホクロはフェチです…攻めもでも受けでも、ホクロ多い子好きです。
おそらく問題のない範囲でお答えしたと思うのですが、もしダメなものがあれば後日こそこそと消している部分もあるかもしれません…笑 とても楽しく考えることができました!少しでも皆様の萌えの足しになれば幸いです。

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『自炊』と『料理』の違い。
議論されることも多い事柄です。
私のイメージですと『自炊』とは、生活のための食事。
『料理』は創意工夫や料理というものを作る。
世界の食事情から少し引用させていただくと
とある外国の方が作る食事は『自炊』が多く、し外国の方が『料理ができるよ』と言われますと、日本の家庭では『自炊』じゃないかな?と見えます。
欧米などの人たちの料理は
『冷凍食品をチンする』これも料理だと言いますし
出来合い品を並べても『料理』という人も多く
日本の回転寿司は、すでに素晴らしい料理と感じるのもそれなんでしょうね。
日本のカレールーを使ったカレーでも、結構な高度の料理の一つに捉えるみたいです(笑)
そしてこの世の中は、外食に『自炊』という味レベルを求めてらっしゃる人が多いんだなと、分析できます。
というのは、特に若い世代の方ですが、外国人から来た労働者の方たちも、宗教で食事ルールがないのであれば、マックやコンビニや、マーケットで買うとしても手っ取り早いものが中心です。
レトルトや惣菜、いろいろと充実はしているので、手に入れやすいですしね。
例えば、ネットニュースで話題、テレビで取り上げられる大衆系のチェーン店や(ファミレスに回転寿司などなど)やマーケットのお寿司や惣菜や。
自炊のようなグルメは若い人にもとても人気ですし、ネタの良い単価が高いけれど、トータルで言えば、美味しいとは言い難いマーケットでの割高お寿司も人気です。
私でしたら、ちゃんとした昔ながらのお寿司屋で食べた方が、満足度は高いはずなのにと思いますが。
パスタだって自炊のような料理を喜んで外食でいただけるのは、それはそれで素晴らしいですが>
いまだに原価100円前後のもので、家で作るとたちまち、上質なイタリアンレストランの味になるものですが、ファミレス系は安いと言えども変わった味で、同じ料理名とは思えないものだったり。
それを基準とした味となると、外食よりも自炊の方が上手にできることもあるものです。
今や、自炊はできても料理はできない人が増えており
これらは子供達を観察するとわかりやすく、『家より給食の方が美味しい』などと言葉が出てくるものです。
給食においても、今は『コスト重視であり』美味しい努力は昭和平成までだったそうです。
物価高騰や調理の人件費削減などで、他の中抜き業種に価格を持っていかれるからこそ(いわゆる利権癒着天下りなどなど(笑))とても質素な給食になっている事実があります。
唐揚げにおいても唐揚げとは言えない代物で、大半が鶏細切れの切っカスのようなものだったり。
ごはんでさえ残したいぐらいだそうで、『ふりかけ持参を許可する公立学校』があるぐらいです。
専門家の意見?としてだそうですが、栄養面で塩分がと言いますが、1日トータルで栄養なんて考えるものなので、おかしな言い訳ですし、学校給食で栄養なんて足りるわけがありません。今ではすっかり大切なのは、お腹を満たすこと��アレルギーとカロリーぐらいになるのでは?学校教育では食の喜びなどは学ばないようです。食育もすっかり文面上ぐらいだそうです。
献立をよく見れば、冷凍食品や業務用の加工食品が多用されており、調理も大変、楽だと美味しい思います。昔は給食も自由で、創意工夫がされていたそうです。その差も、平成までだったそうな。
物価高騰と自民党による教育のおかしな方針で随分と、お粗末になったようです。
味覚が育つのは、間違いなく幼い時期ですので、それらが基準となると思います。
けれど味の経験が多ければ、同じ鶏肉一つを調理するだけで、知らない人と知っている人との差が大変わかりやすいものです。
おにぎり一つでもこれが差が出る。家で作るお寿司にしろ差が出るのは当たり前です。
ステーキにしろ、市販のステーキソースをかけるだけでいただく家も多いですが、その肉の焼き方と、パパッと作れる美味しい手作りソースを作れると、すでに外食以上になりますしね。
同じもので出来る人、出来ない人とで随分と差が出る。
外食でもですが、『やっぱり家で作って食べたらよかったな』なんて本当に、山ほどあるわけで。
そんな同じ感想をおっしゃる芸能人の方もおり、共感した最近です。
グルメが普段の食事でできるなら、なんて素晴らしいことでしょう。
それが『料理』。
同じ食材で同じ調味料でも美味しくできるのも『料理』。
けれどその同じ食材と同じ調味料でも、ただお腹を満たす満足度ぐらいなら『自炊』というわけです。
この違いはやっぱり実際の経験数と教養の格差であるのは、間違いない。
同じお米でも料理上手だと美味しいお米が炊き上がります。
それぐらい違うということを子供たちが知るといいなと思います。
家庭が一番、ゆったりできる時間は何せ、食事時間。
どうせ自炊するなら、料理をする方が、満足度も高い。
外食よりもおうちの方が美味しいって言葉は、作り手にとっても最高の言葉です。
自炊より料理でおうち外食してくださいね!
料理研究家 指宿さゆり
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自動販売機を自社で所有するメリットは?

利便性が王様である世界では、自動販売機はスナックや飲み物にすばやく簡単にアクセスするための不動のソリューションとして時の試練に耐えてきました。しかし、技術の進歩が私たちの生活を絶えず形作る中、自動販売機は目覚ましい変化を遂げ、合理化された効率と強化されたユーザーエクスペリエンスの時代を迎えました。そのような革新の1つは、自動販売機 を自社で所有することあり、これらのユビキタスな自動小売ソリューションとのやり取りの方法に革命をもたらしました。
自動販売機は、その謙虚な始まりから長い道のりを歩み、昔の単純な押しボタンメカニズムを超えて進化してきました。最先端のテクノロジーの統合により、個人の好みを理解して対応できるスマート自動販売機が作成されました。従来の自動販売機からより高度なバージョンへのこの移行は、自動販売機の注文と購入の概念への道を開きました。
高級カフェと同じように、飲料 自動販売機 を細部までカスタマイズできることを想像してみてください。この未来的なビジョンは、自動販売機の注文システムのおかげで現実のものとなりました。ユーザーフレンドリーなタッチスクリーンと直感的なインターフェースの統合により、顧客は詳細な説明と画像を備えた製品の広範なメニューを閲覧できます。このインタラクティブなアプローチにより、消費者はタップするだけで目的のアイテムを選択でき、混乱や誤解の可能性を効果的に排除できます。
飲料メーカーが自販機を置いてくれなくてお困りの事業者様必見 缶ビール・お茶・ジュースの販売に最適
別売りの円柱容器を利用することで食品・物品の販売も可能
缶 / ペットボトル 飲料 自動販売機
本体サイズ 横幅100cm×奥行65cmX高さ183cm
最大商品サイズ
長さ21cm以下の缶・ペットボトルX10種類
長さ13cm以下の缶・ペットボトル×15種類
対応商品種類 25種類
1種類あたり容量 約15本
受付硬貨 10円,50円100円,500円新硬貨対応)
受付紙幣
千円札(最大4枚まで)、
新札(2024年)にも部品交換で対応可能
設定可能価格 10円〜9990円(10円刻み)
溫度管理 冷蔵5C もしくは加温55C
消費電力 年間1100kwh(月間電気代 約2500円)
※家庭用コンセントを使用可能(単相100v,1500W)
※12種類の内、6種類のみを冷蔵、残り6種類を加温に設定することも可能です。
※大容量サイズのお取り扱いもございます
**「再生品」とは、使用済みの自動販売機を「内部部品の整備」・「外装の再塗装」した製品です
本体価格が30万円以下のため「少額減価償却資産」として一括で損金算入できます(原価償却不要)
屋外設置 対応
新品 59万0000円(税抜)
再生品 29万0000円(税抜)
自動販売機の注文および購入システムの主な利点の1つは、それが提供するシームレスなユーザーエクスペリエンスです。ゆるい変化を手探りしたり、自動販売機の不可解なコードを解読しようとした時代は終わりました。最新のアプローチにより、顧客は選択を行い、選択を確認し、安全で効率的なチャネルを通じて支払いを行うことができます。これは時間を節約するだけでなく、全体的な満足度を高め、自動販売機から購入する行為を思い出に残る楽しい体験にします。
サンデン・リテールシステム製 5~10種類対応 冷凍自動販売機 ど冷えもん
投入口を調整して小型〜大型まで様々なサイズの商品を1台で販売可能
大型の冷凍ピザ、小型の冷凍スイーツ、レトルト容器入り食品の販売に最適
冷凍食品 自動販売機「ど冷えもん」
本体サイズ 横幅103cm×奥行80cmx高さ183cm
ツイン設定時
横幅12cmx奥行18cmx高さ9.6cm*)
対応商品サイズ
シングル設定時
横幅22cmx奧行17cmx高さ9.6cm(*1)
対応商品種類 5〜10種類(商品サイズによって変動)
1種類あたり容量 約10個(商品の厚みによる)
受付硬貨 10円,50円,100円,500円玉新硬貨対応
千円札(最大4枚まで)、
受付紙幣
新札(2024年)にも部品交換で対応可能
設定可能価格 10円〜9990円(10円刻み)
溫度管理 冷凍(-25~-19)
消費電力
メーカー非公表
(月間電気代 約7000~9000円)
※家庭用コンセントを使用可能(単相100v,1500W) ※最適サイズのブラスチック容器につい
てもご案内可能です。 ※標準部品による最大高さは6.1cmまでです6.2~9.6cmの商品を販売するには部品交換が必要となります。
自動販売機の注文と購入システムの統合は、利便性をまったく新しいレベルに引き上げます。事前に注文できるため、ユーザーは待ち時間を最小限に抑え、遅滞なく軽食を楽しむことができます。灼熱の夏の日のさわやかな飲み物であろうと、午後半ばの空腹感を抑えるための軽食であろうと、事前注文の便利さは、あなたがそれを最も必要とするときにあなたの目的のアイテムが準備され、あなたを待つことを保証します。
テクノロジーと利便性の融合は、自動販売機の領域に目覚ましい変革をもたらしました。自動販売機の発注・買取システムの導入により、購買プロセスが合理化されただけでなく、ユーザーの満足度も新たな高みに引き上げられました。UMS Co.の「リフレッシュドビバレッジ」自動販売機は、この進化の証であり、カスタマイズ、効率、利便性が最高に君臨する未来を垣間見ることができます。
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伯父夫妻の息子である従兄弟とは、特に仲が良いという訳では無かったが親類が集まった時には 話したりする程度には交流があった。兄は自分より歳が近かったからもう少し付き合いはあったらしい。 従兄弟は中堅以上の私大を卒業後、ある市役所の職員になった。 安定した公務員になれた事を伯父夫妻はよく自慢していた。 しかし運の悪い事に配属された部署の上司が所謂ブラック上司だったらしく 従兄弟はかなりキツいパワハラ・セクハラ・モラハラを受け続けたらしく、精神を病み退職した。 一度だけ兄・父と一緒に様子を見に行った事はあるが、どちらかと言えば生真面目でしっかりした性格だった筈の従兄弟が ここまで生気がなく虚ろな表情を浮かべる人間になってしまったのかと、正直ぞっとしたのを覚えている。 後で聞く所によると、鬱病・適応障害の診断が出ていた様だった。 退職してからの従兄弟は、伯父夫妻曰く「引きこもり」。 しかし実際の所は、週1~2程度は単発バイトをしたり在宅で出来る仕事で少額を稼ぎつつ(伯父夫妻に冷蔵庫の使用禁止を言い渡され、 貯金から小さい冷蔵庫を買って部屋に置いていたらしい)働いていた時の貯金を削りながら生活していたそうだ。 また、たまに学生時代の同級生や、ネットのオフ会等には顔を出していたらしく、完全な引きこもりでは無かった。 だが生憎と伯父夫妻は共に「うつ病なんて甘え」「心の風邪とか言うんなら寝てたら治るんじゃないの?」「怠けている、努力が足りない」 という、年代を考えても心の病や現代社会の挫折にはまるで理解の無い類の人達だった。 父もその点を心配して会った時には色々言ってはいたそうだが、まるで響かず聞く耳を持たない様子だったとか。 また母も伯父妻とはたまに会う程度には交流があったものの、ウチの子はまだ働かず家でサボってばかりで困る…といった 愚痴をよく聞かされていたそうだ。 私も知っている人ではあるので多少は心配していたが、正直「引きこもりの従兄弟(と聞かされていた)」と どう向き合って接して良いか分からず、付き合いが疎遠になった事もあり、特に口を出したり また従兄弟自身と交流を積極的に持とうとした事は無かった。今ではそれを後悔している。 従兄弟が30歳近くになった頃、母が伯父妻経由で「◯◯君(従兄弟)は社会復帰に向けて色々頑張っている」と聞いた。 何でも、今まで従兄弟の引きこもりに困りつつも特に相談らしい相談をしてこなかった伯父夫妻がようやく重い腰を上げ 知人から紹介されたというニート・引きこもりの支援団体に相談し、その団体の人達の協力で適切な支援の元、社会復帰に向けて動いているという。 従兄弟の状況が改善に向かっている(らしい)と知った時は、素直に驚きと喜びがあった。 本格的に社会復帰に成功したら一度顔を出しに行こうかと両親や兄とも話していたが、既に親元を離れ就職し それぞれの生活があったので、実現する事は無かった。 それから一年程して、遂に従兄弟が引きこもりを脱し、伯父家を離れ別の場所で支援団体の人達から紹介された 住み込みの仕事をしながら社会復帰に向かっていると母経由で聞いた。 今どき住み込みの仕事、という点に引っかかりを覚えたが、支援団体がやっているのであれば 引きこもり用の簡単な仕事(作業所の様なイメージ)をやらせているのだろうと解釈した。 当時はまだ、支援団体全般に「あまりお金にならない、人の役に立つ仕事をしている人達なのだろう」というイメージを抱いていた。 人間の善性を素直に信じていたといえる。 それから数ヶ月後、仕事中に実家の母からいきなり連絡がきた。 一体何事かと思ったら、「◯◯君の事で警察から連絡がきた!」と言う。 最初は詐欺?かと思ったけど、父が警察と対応しており、話を聞く限りは本物だという。 警察は従兄弟の身元引受人として連絡をしてきたと。 何故両親に…と思ったが、父はとりあえず従兄弟を迎えに警察に行った。 落ち着いたらまた連絡するから、と母に言われその時は終わった。 翌日、母から連絡があった。従兄弟の身元引受人となり、とりあえず父が自宅(実家)に連れ帰り、話を聞く事にした。 久々に会う従兄弟は以前顔を見た時より随分やつれており、精神的にもかなり不安定に見えたという。 結論から言えば、伯父妻から母が聞いていたという話は殆ど嘘だった。 伯父夫妻が知人から紹介された支援団体に相談に行ったのは本当だが、「適切な支援」なんてのは真っ赤な嘘だった。 従兄弟によると、実際は無理矢理部屋に入って来て威圧されたり怒鳴られながらの長時間の「コミュニケーション」。 それがストレスでバイトを増やして家にいない様にしたら態度が反抗的と見なされ、余計に対応は悪化するばかり。 また、数万円を渡され家を追い出され、当然お金が尽きて路上生活を余儀なくされたり(最終的には警察に保護されて家に戻されたという) 共同生活体験と称して、タコ部屋みたいな所に住まわされ重労働をさせられ、食事もまともに貰えない奴隷の様な「合宿」をさせられたという。 ますます精神状態が悪化した従兄弟は、余計に部屋に引きこもり両親との会話を拒絶する様になり(それまでは最低限の両親との会話はあったらしい) 家から逃げ出そう、しかしお金も無く(僅かな蓄えは従兄弟が「合宿」中にいつの間にか伯父管理になっていたとか…)派遣のバイトすらも 精神状態の悪化で難しくなり、どうにもならなくなった挙げ句に、最終的には生活保護を受給して生活しろと 支援団体の人間の「支援」の元、半ば無理矢理手続きをされ、家から離れた家で「自立」させられる事になったという。 最初は信じられなかった。が、母の「◯◯君が嘘を言っているとも思えない」とも言われた。 話している時の様子や怯えが尋常じゃないと。 また、従兄弟が引きこもりを脱したと聞いた際、(従兄弟と)一緒にお祝いの食事でも、と伯父妻に母が言った時に 結構強めに断れられた事もあり、何故だろうと内心疑問には思っていたそうだ。 生活保護を受けて住まわされたアパートは、従兄弟曰く「野宿生活していた方がまだマシだった」という地獄の環境だったという。 文字通りタコ部屋みたいな狭い部屋に数人の人間と共に押し込まれ(元ホームレス、明らかに認知症の気がある老人、 知的障害がありそうな中年男性、明らかに薬物等をやっていたかの様な形相の中年男性、という面子だったそうだ) 生活保護費は受給者証と共に取り上げられ、ボロボロのアパートには明らかに見合わない家賃や生活管理費用、 高額な食事代(1日2、3000円程取られ、レトルトのカレーやご飯、安い菓子パンにペットボトル1本、といった内容だったという)を 差し引いた金額を渡され、手元に残る自由なお金は残り僅か。 それすらも色々な名目で「罰金」を取られ更に減らされたり、同室の人間に盗まれたり、 それで少しでも不満を言うと支援団体の人間に暴力を振るわれ、更に罰金や食事を減らされたりするという、まさに地獄の様な環境だった。 話を聞いた両親は「刑務所の方がマシなぐらいの酷い生活」だと思ったという。 仲良くしようとも思えない不潔で異常な性質の人達との不潔で不便な共同生活、従兄弟はその中では比較的まともだった為、 最初は何とか生活を改善しようとしたが、それすらも生活を管理する支援団体の目についたらしく、些細な事で怒鳴られ暴力を振るわれ 罰金の名目で金を取られ食事すら満足に取れない日々に、さすがに耐えられなくなったので、手持ちの小銭をかき集め、遂に脱走を決意したらしい。 しかし、このまま自宅に帰っても、支援団体の言われるがままだった両親の元に戻った所でまた連れ返されるだけだと思い どうしたものかと考えた挙げ句、何度か行った事があり、最寄り駅や何となくの住所も分かり、そして何よりも「話をちゃんと聞いて、助けれくれそうな」 親類…つまりウチの両親(従兄弟からすれば叔父夫妻)の事を思い出し、向かう事にしたと。 しかし途中で交通費は無くなって数駅手前で下車。 そこからは歩いて叔父宅(実家)まで向かっていた所、不審者として通報を受けた警察に捕まり、事情聴取の際に 身元引受人として叔父(父)を指定したという。両親に連絡したらまた地獄に戻される!と思い、必死にお願いしたそうだ。 で、警察から叔父(父)に連絡がきて、今に至る…と。 正直、驚いたし怒りも湧いた。 嘘をついた伯父夫妻にもだが、怪しい支援団体にも腹が立った。 何でそんなおかしな、ヤクザや反社みたいな人間がやっている様な団体を頼ってしまったのだと。 話を聞いた両親は、伯父に連絡はしたものの、話を聞いてしまった以上しばらくは返せない、支援団体とは手を切って欲しいと言った所 伯父には激怒され、もう金を支払っているのだから(具体的な金額は知らないが、10万20万じゃきかないと思う)それは困る。 アイツには自立して貰わなければいけない、これ以上面倒なんて見きれないから全部(支援団体の)言う通りにしなければならない、と まるで聞き耳を持たない強行的な態度だったそうだ。 母にも伯父妻から連絡が来たが、同様の態度で全く悪びれた様子も無く、「これでは治るものも治らない」と母は思ったそうだ。 週末に実家に足を運んだ。同様に実家に来た兄と共に、両親と今後の事を話し合った。 伯父にも既に父が連絡をしていたが、結果的に嘘を吐いていた事をロクに謝罪しないばかりか あちら(団体)は勝手に脱走した事を非常に怒っている、早く返さなと信頼関係が無くなる、勝手な事をするな! といった事を繰り返すばかりで、話にならなかったらしい。 家族で話し合い、従兄弟から聞いた話があまりに酷かったのもあり、団体の元に返すのは難しいよね、という話になった。 もちろん伯父家の所にも。彼らが引きこもりやうつ病に理解がある人間で無い事は完全に分かったし、おかしな支援団体に というかぶっちゃけ反社かヤクザみたいな団体の所には返せないという事になった(HPを見る限りはちゃんとした団体に見えたけど)。 やはり、従兄弟が嘘を吐いて逃げようとしているとは思えなかったし、兄が以前聞いた事があるという「貧困ビジネス」の話と 一致する所が多くあり、伯父達は騙されたり付け込まれてしまったんじゃないかと。 伯父は元々思い込みが激しく一度決めたらこう!だと動かない性格だと父も言っていたので、今の状態では家にも ましてや団体が用意したというタコ部屋みたいな所にも戻せないと。 じゃあこれから従兄弟の処遇をどうしたら、という話になった。 従兄弟自身は、お金は後で必ず返すからしばらく漫画喫茶で寝泊まりする、といったのだが 両親はそれでは不便も多いだろうと、当面の間は従兄弟を家に寝泊まりさせる事になった。 これには私・兄も反対しなかった。この決断は後に正解でもあり不正解でもあった事を痛感させられた。 受給者証も取り上げられていたので、最寄りの福祉事務所等にも両親は相談に行っていた様なのだが、 これが仇となったのか、従兄弟が実家で暮らす様になって半月も経たない内に、団体のメンバーという人間が実家に乗り込んできた。 団体メンバーは初手から弁護士と主に来襲し、あなた達の行為は何ら解決にもならない、また従兄弟の意に反し(本当に言った) 従兄弟を家に軟禁する行為(これも本当に言った)は誘拐罪に当たると。 とりあえず従兄弟さんを引き取らせろ、それからは弁護士を通して話し合ってくれ、といって強引に連れ帰ろうとしたので、 文字通り押し問答になったという。団体職員を名乗った人間も弁護士も、外見は普通で口調も乱暴では無かったものの 言ってる事やってる事は完全にヤ◯ザかチンピラのそれだったと。どう考えてもまともな輩では無いと、両親は言っていた。 それは、その対応で疲弊した両親の代わりにこちら側の弁護士同席で対応した私・兄も同意見だった。 しかし調べる限り団体の人達に反社の陰は無く、公的な機関や他の支援団体などとも関わりがある様な「ちゃんとした」団体であり 表面上は「まともな人達」「弱者支援をしている正しい人達」だった為、それだけに人を人とも思わない様な彼ら・彼女らの言動が余計不気味に思えた。 団体側の意見は、自分達のやっている事は全て正しく(従兄弟の様な)弱者を助ける為にやっている事であり、 そんな我々を信用せずに悪質な団体だと思い込むあなた達はどう考えてもまともじゃない、おかしいとまで言われた。 あまりにも「自分達が正しくあなた達(一家)が異常である」という様な事を言うので、逆に自分達の常識がおかしいんじゃないかとすら疑った。 団体とは揉めに揉めて、弁護士も挟み何とか受給者証の返却には応じてくれたものの、管理名目で取り上げられていた 従兄弟の私物の大半は返って来ず(従兄弟も「もうあの人達とは一切関わりたく無い」と泣き寝入り)、これでやっと終わるかと思いきや 今度は私達がターゲットとなり、謎の嫌がらせが始まった。 どこで調べたのか、父の勤務先や母の仕事先に「(父は)長年不正を働いている」「立場を利用して便宜を図っているらしい」 「(母は)職場から少額の横領を繰り返している」「顧客として利用したが(母に)悪口を言われた」等の 嫌がらせ電話がどこからともなくかかってきた。もちろん根も葉も無い事実で、完全に嫌がらせだった。 さすがに皆が真に受けた訳では無いだろうが、嫌がらせをされる様なトラブルを抱えた人間と積極的に関わりたがる人間はいない。 父は定年後も嘱託職員として務める予定だったが、変な噂が立って居辛くなったと、定年まで数ヶ月を残して早期退職。 母も神経を病んでしまい、長年勤めていた仕事を辞める羽目になってしまった。 当時勤務していた職場にも、嫌がらせ電話やメールがきた。 内容を確認した上司によると「(私が)職務上の立場を利用して不正を働いている」「意図的に顧客の情報を漏らしている」 という旨の密告の電話・メールがあったという。当然強く否定した。そんな事をする訳が無いと。 しかし、信用を大事にする業種・職務・職場だった事もあり、結局私はそれまでの業務を取り上げられ、畑違いの別部署に異動が決定した。 その頃にはどこで漏れたか噂も出回っていた様で、疑念半分、でも皆大人だから直接口に出して疑いはしない、でも強く疑われているという空気は感じる。 そんな空気圧に耐えられなくなり、あっという間に神経を病んで仕事を続けられなくなってしまった。 兄の方にも嫌がらせの電話やメールはきていたらしい。 しかし、ITの特定派遣の正社員というやや特殊な仕事、「正社員だけど派遣、派遣だけど自社(と呼ばれる会社)には所属しているので正社員」という立場だった事もあり 「(自社の業務に)関わった事も無い、そもそも開発業務なんて殆どやっていないだろうに、どうやって業務の秘密事項を漏らすんですか?」 「退職しても良いけど、今の派遣先にはチームとして来ているので、TLの自分が辞めたら契約切られますよ?」と強めに主張して、仕事を辞める事にはならなかったらしい。 しかし後になってから兄は「嫌がらせされているという事実や、(自社の上層部に)変な目で見られる様になったのは辛かった」と零していた。 全て、従兄弟を追い詰めた、あの支援団体と揉めた後に起こった事だった。 当然支援団体を疑ったが、明確な証拠も無く、団体に直接問い合わせもしたが、無視か 「そんな事は知らない」「変な事を言いふらす様なら名誉毀損で訴える」と居直られた。 警察にも相談したが、そもそも犯人が誰だか分からないし、私達が主張する例の団体が犯人という証拠や根拠も無い、 よって捜査をするのは難しいし、噂を真に受けて被害を被ったのであればともかく、最終的には「自分で仕事を辞めたんでしょ?」と、 それを「被害」と認定するのは難しいとも言われた。 「不満があるのであればお互い話し合って…」と、被害届けすら受け付けて貰えなかった。 弁護士にも相談したが、仮に嫌がらせの電話が事実でも犯人を特定し団体の関与を認定する事すら難しいと言われ、徒労に終わった。 私達一家は、謎の嫌がらせ犯人に多大な被害を受けながらも、泣き寝入りするしか無かった。 結果的に、従兄弟を助けた事で私達一家の生活は滅茶苦茶になった。 伯父と揉めに揉めて絶縁状態になった事もあり、また地元にも変な噂が出回ってしまった事もあり、両親は長年住み慣れた土地を追われる様に離れ 慣れない土地で慣れない仕事をする生活を送る羽目になった。 定年後は、父は嘱託職員でゆるく働きながら、二人でゆったりとした老後を過ごしたいと言っていたが、 今は慣れない土地で慣れない仕事に追われ、二人とも年齢以上に老けて見えるのが悲しい。 自分は仕事を続けられなくなり、適応障害と診断され、当時交際していた相手とも関係が破綻してしまった。 今は何とか別の会社に再就職したものの、人生プランはかなり狂ってしまったし、今の仕事で嫌な事があったり 年収を計算する度に「前の会社にいたらこんな事には…」と思ってしまう。この後悔は一生消えないだろう。
引きこもりの従兄弟を助けたら生活が崩壊した
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二年前日記35(2021年8/27〜9/2)
8月27日 ワクチン接種1日後、熱はまったくなし。腕の痛みは昨日より少し強いぐらい。倦怠感も若干ある。今日も本調子ではないのでのんびりしよう。午前中は読書。お昼はパンと夫がワクチン接種お疲れ様で買ってきてくれていた豚タンを食べた。昨日姫路駅で買った御座候も食べる。昨日冷凍し、常温で解凍してからレンジで20秒、オーブントースターで2分加熱したらパリパリの仕上がり。ご夕方、昨日ネットで取ったチケットの引き換えに行って頼まれていた人のところに持っていった。晩ご飯は、鳥手羽とトマトの煮込み、さつまいもとしめじと揚げの味噌汁、茄子の柴漬け。手羽元はらっきょうの漬け汁で煮込んだらとても美味しかった。一年前に漬けたものをようやく食べ切った。今年は漬けなかったがお義母さんがくれた。こちらも楽しみ。夜は日記をアップして、県民モニターの回答を送った。Sさんが、私がいない一週間のレポートのようなものを送ってくれた。何ていい子なんだろうか。彼女に幸せなことがたくさんあるといいなと思う。
8月28日 夫は今日も仕事。でも半日だけで帰ってくるそう。午前中は家事を頑張ったが、昼から寝てしまう。夕方、友人にメールをする。買い物に行くのが面倒だったので、晩ご飯はレトルトの牛丼、小松菜と揚げの味噌汁。牛丼は吉野家のものでやっぱり美味しかった。コープさんに売ってるので、時々買っておこうと思う。夜は、俳句の選句や買い物をいくつかする。いろいろと物入りだわ。決めることが多くて疲れてしまうな。メルカリで頼んでいた育児辞典が届いた。優しい言葉で、いろんなことが詳しく載っていてとても頼りになりそう。産まれるまでのこともたくさん書いてあったので、今買ってよかった。
8月29日 朝、読書。NHK俳句をリアルタイムで見る。朝ごはんは、しめじと玉子のホットサンド、スムージー、御座候、コーヒー。サクッと掃除をして、買い出しへ。暑さが戻ってきて大変。お昼は買ってきた、ミニうどんと丼のセット。ゴロリと横になると、また3時ぐらいになってしまった。本棚が完成したので、本を入れていく作業をする。楽しい。夫の作業服の丈を直してもらいにリフォーム屋さんへ。いつも行ってたところがなくなっていてはじめてのところに行った。晩ご飯は夫が作ってくれた。さつまいものそぼろあん、レタスのスープ、レンコンのきんぴら。食後にアイス。産前に揃えないといけないものを考えていると、なんだかしんどくなってきてしまった。不確定なことの準備がとても苦手なのかも。コツコツと一個一個、やっていこっと。いざとなれば一気に揃えられるだろう。
8月30日 朝家事、ノートタイム。天気がいいので布団も干した。DVDをかけながらヨガもした。お昼寝は一時間ぐらい。30分だけ本棚の整理をしようと思ってタイマーをかけたが、集中しすぎて気づいたら夕方になっていた。巣作り本能というやつなのだろうか。片付けが楽しくて仕方ない。こんなのは生まれて初めて。事務仕事を片付けて、晩ご飯の準備。昼間にある程度やっておいたので楽ちん。夫は帰ってきてから、車のワックスをかけていた。たくさん蚊にさされてかわいそう。晩ご飯は、プルコギ風の炒め物、きゅうりの酢の物、お味噌汁。
8月31日 育児の辞典に、赤ちゃんはお母さんの骨盤の大きさによって自分の大きさを決めていたり、酸素や血液の量で、どれぐらい動くかを自分で調整してると書いてあった。すごいなぁ。はじめてのことなのでわからないけどなんとなく動きはおとなしめな感じがする。いろいろわかってくれてるんだな。高齢だからといろいろ気負っていたが、今さらあがいてもどうしようもなかったり、変にしわ寄せがきたりするんだと思うので、なるようになるよねと考えることにする。今日は夫の誕生日。少し歩いたところにあるスーパーに買い出しに行く。お昼は近くの喫茶店でカレーを食べた。荷物があったので帰りはバスにする。帰宅して横になり、買ってきた本を少し読む。片付けの続きをしていたら、結構いい時間。晩ご飯にとりかからねば。晩ご飯は、海老ネギ味噌春巻き、レモン鷄、アボカドのポタージュ、青じそおにぎり。どれも『おかずのクッキング』に載っていたレシピ。取りかかったのが遅かったのもあるが、食べるのが8時になってしまう。どれも美味しかった。ケーキも食べてお誕生日のお祝いとする。夫は46歳になった。
9月1日 午前中は、朝家事、読書、ヨガ。昼寝は1時間ちょっと。午後から片付け、事務仕事。明日から雨だからかむくみがきつくイライラもある。夕方、バナナを買いにスーパーに行く。帰り道で下の階の人とものすごく久しぶりにすれ違って挨拶をした。この時間に買い物に行くんだな。あまりにも見かけないので心配だった。晩ご飯は、昨日の残りの春巻き、レモン鷄、薬味としらすをたっぷりのせた冷奴、じゃこ天、鷄スープ(わかめ、エリンギ、ねぎ)。
9月2日 朝、鍼に行く。カチカチになっていた首周りがほぐれてすっきり。ワクチンの副反応はほとんどなかったと思ってたけど、結構負担になってたんだな。お腹が大きくなってきて、すでにもうしんどいかもしれないと少し弱気になっていたが、大丈夫だと思えた。ありがたい。カメシゲセイロに寄って、早めのお昼ご飯。シェントウジャンと卵まんじゅうを食べた。どちらも美味しかった。無印でマタニティパンツ、ユニクロで下着を買って2時ごろ帰宅。少し昼寝をしてから片付けの続き、事務仕事、日記のアップ。今日は夫は義実家��ので、晩ご飯は簡単に雑炊ですませた。
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2023/4/22〜

4月22日 よく眠れずもうだめかと思っていたのに、午前も午後も友人に会って、それ以外は電車とかで信じられないほど眠ってへとへと。
今日はfurfurの赤いワンピースとzuccaのガーディアンを着る!と決めていたので、部屋を出て肌寒かったけれど、1日ずっと寒かったけれど、やっぱりお気に入りの服を着られてずっと幸せ感があった。
午前中はギャラリーの打ち合わせで高田馬場へ。 待ち合わせまでの待ち時間、駅の時計の上に馬がいるのを見つける。 午後はお茶をしに池袋へ。 待ち合わせまで西武と東部の間をうろうろしていたら、駅の柱の上にふくろうがいるのを見つける。
ギャラリーの担当のお姉さんがしっかりして可愛くておしゃれだった。身なりはとてもシンプルなのにおしゃれ!
そのあとミズマアートギャラリーで新津保さんの展示を鑑賞。 やっぱりアクリルマウントで白枠をつけて展示をしたい。 早速ギャラリーの方からメールが入っていたり、いろいろ作品作り以外での準備もあるので、今はとりあえず体力を温存させるためにひとまず眠る。
お茶をした友人は、出産や子育てを選択できる環境にいるけれど、それを選ぶと写真や作品作りをしなくなってしまうのでは?という怖さがあって、それを選べないとのこと。 私はそれを聞くことができて嬉しくなってしまう。 新年度のことや、キャプションの考え方のこと、長島先生のレビューの話、疲れている時はレトルトの湯煎すらできない話、などをした。 私がいま不安感が付き纏っている体調の話をして「あ、こんな話しちゃってごめん…」と言うと「いや、…あ、ハリネズミかわいい〜」と、ソーサーにカップで隠れていたハリネズミを見つけた反応にかき消されてしまって、テンションも何もかも噛み合ってなくておかしかった。
いろんな花が見頃なことがよくわかる帰り道に少しだけ写真を撮れた。
友人と別れていっき眠気とだるさが現れ、山手線を逆回りしたりして何とか帰宅。
昨日、今日と、会った人にタカノのフルーツチョコはバナナばかりが残る不思議の話をしたけれど、全く共感を得られなかった。

4月23日 頭の中で写真展用ブックレットに載せるキャプションをずっと考えていた日。 それなので、そのほかのことを気にするのが面倒なり、それでも家に帰ってするすると体の力が抜けてしまった。
昨晩はいつも行くショッピングモールの地下1階のチケットセンター(?)に辿り着けず、モールの通路をぐるぐるする夢を見た。チケットセンターは1階へ移動していたのだけれど、いつも通りのテナントが並ぶだけの安心できるはずの風景に、お目当てのセンターを見つけられず恐ろしくなった夢。
8年?7年?前の日記を見ると、ちょうど今頃、藤まつりに行って、パパブブレの飴を部屋で舐めてポップをしていた。
午後の予定で「あまり興味ないかもですが…」と、スカイツリーがディズニーとコラボしたライトアップをしていることを教えてもらった。 バズ・ライトイヤーのことを“バズ”と呼んでいて、友達みたい。 出してもらったお花のお茶はマリーゴールドだった!
宅配便の集荷のタイミングでいつもシャワーに入ってしまい、2週連続で対応できずにいる。

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【2984日目】2021-03-19 今週は家カレー5回目。お外で食べられなくてモヤモヤしています。 . SAMA(レトルト)監修@自宅 ____________________________________ ◎チキンスープカレー . スープカレーのSAMA創業者 高橋秀一さん監修のハイブリッジジャパン社製のスープカレー。 通常のレトルトカレーのパッケージよりかなり大きいのですが、開けて納得、巨大なチキンレッグがドババーッと出てきました。 . 世の中に星の数ほどあるスープカレー屋さんの中でも、SAMAは好きなお店。お店ではココナッツスープを選ぶため、ひさしぶりのトマトスープ。といってもお店のトマトスープとは、また違った美味しさを楽しめました。 野菜をペーストしているのか、少しとろみのあるスープには、ほどよいトマト感と香ばしさが内包されており、口に運ぶたびに、ぶわっと口の中に広がります。 . ごくごく飲むのも良し、ほろほろになるまで煮込まれたチキンレッグの身をほぐして、スープを纏わせていただくのも良し。 レトルト臭もなくおいしくいただけました。 . 説明書きをうっかり読み飛ばしてしまい、揚げ野菜の用意を忘れてしまったことだけが後悔です。 . ____________________________________ 🇯🇵 #instafood #asianfood #asia #spice #foodpic #foodstagram #tasty #spice #soup #curry #SAMA #サマ #カレー #スープカレー #カレー好きな人と繋がりたい #フクドローン #ふくすたぐらむ ↓SAMA @sama_shimokitazawa_official https://www.instagram.com/p/CMuJXkNgE7c/?igshid=3mdxcqj7ke36
#instafood#asianfood#asia#spice#foodpic#foodstagram#tasty#soup#curry#sama#サマ#カレー#スープカレー#カレー好きな人と繋がりたい#フクドローン#ふくすたぐらむ
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会社で黙祷をした
10年前は家のこたつで友達に手紙を書いていた
家具がバタバタと倒れていって
地震が収まった頃にはぐちゃぐちゃに散らかった部屋
まだ何が起こったのか掴めていないような状態で
階段をくだっていくと、猫を抱えて庭に出ていた祖母と祖父が居たのを覚えてる
兄は卒業式の送別会で学校にいて、
教師である父と母もそれぞれの学校にいた
あれ程、家族の安否、存在を心配したことはないかもしれない
その日の夜は、兄の中学の卒業式とのこともありローストビーフにお刺身、赤飯。暗い中ろうそくを立てて食べた。状況と夕食のミスマッチ感は否めなかった
2日後に私の誕生日だったけど、どんな風に過ごしたか、覚えていない。
それ以上に、その時の状況は中学一年生のわたしには強烈だったのかな
田舎だから雪はまだまだ降るし、今よりもかなり寒い時期だった
電気もつかず、石油ストーブで沸かしたお湯をペットボトルに入れてこたつを暖め、みんなで寝た
すこし、火傷しそうだったのを覚えてる
近くのコンビニには長蛇の列だし、石油を求めて、ガソリンを求めて父と車に乗ったのも覚えてる
お湯で温めたレトルトのビビンバも、覚えてる
土鍋で炊いたご飯も。
ラジオに流れる津波のニュースも。
久々についたテレビでは、想像もつかないくらいの恐怖が写ってた
その後、あの日から少し��ったあと部活で被災地の学校と合同合宿をした
バスでは、家族が亡くなった子と話をした
ここが家だったと、もう足場しかない場所を指差して言っていた時、わたしには想像もできない位の気持ちがあるんだろうと思った
そんな中で部活を頑張り、笑顔でその場にいるあの子は強いと思った。
10年でたくさんのことを経験し、今では社会人として働いている
あの時は何もできなくて、ただ頼ることしか、願うことしか出来なかったけど
今、少しでもなにかできるようになっていたらいいなと思うし、そうである為に努力したい
少しずつ、前に向かっているこの地を誇りに思います
まずは、あの日を忘れないこと。
そして、今あること全てに感謝をすること。
#3.11
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自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後���は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。��かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
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