ブラジル建築紀行 サンパウロ編その1
ブラジリアで衝撃に近い2日間を過ごしたあとサンパウロへ移動、2泊してベロオリゾンチに行った後さらに一泊して最終日を過ごしました。
サンパウロでは、ニーマイヤーをはじめ、パウロ・メンデス・ダ・ロシャ、イタリア人女性のリナボバルディ、ヴィラノヴァ・アルティガス、ルイ・オオタケ、イザイ・ヴァインフェルトなど、たくさんの建築家の作品を見歩きました。
初日はクリスマスどんぴしゃりの12月25日。ホテルから出て、最初に見たのがこちら、MASP/サンパウロ美術館。リナボバルディ。大きさにびっくり。パウリスタ大通りのランドマーク。
スパン飛びすぎでしょう笑。
70mを超えるピロティでは、マーケットやコンサートなども行われるそう。
スラブがたわんでいるように見えるのは、広角カメラのせいなのか、ファインダーをのぞいたり外したりするも、実際たわんでいる。
吸い込まれるような階段をのぼっていく。
2階が企画展、
3階が常設展。ブラジルの新聞王と呼ばれたアシス・シャトーブリアンのコレクションで、南半球屈指の美術館と言われているそう。有名どころの作品がたくさん。
コンクリートの台から立ち上がったガラスに絵がはめ込まれている。広い空間の奥まで見渡せて、裏面に貼られている絵画の説明を見るために裏側も丁寧に見てまわる。
裏側の広場から。ピロティのむこうに公園の緑が見える、これだけのボリュームの建物でありながら、周辺の環境を分断しない。当時は、本体が透けてみえていたといいます。
抜けて見える緑。
日を変えて、自邸であるガラスの家、大規模なリノベーションの文化施設セスキポンペイヤへと足をのばす。
旅の最終日、12月29日。出発前にサイトで確認した見学可能な曜日、時間にいくも、門閉鎖中。
屈強な使用人風の男性が、NO休み!と、身振り手振りで近づいて、そのまま背をむけてしまった。ちょ、ちょっと待ってー!!すると、奥から別の方が走り寄ってきた。
12月21日から、1月5日まで休み、と言ってるっぽい。
2人して、門にはりつき、
「問い合わせのメールをおくったのに、返事がなかった」
「問い合わせが多くて全部返せない。」
「サイトを見たけれど、そんなことは書いてなかった。」
「地球の裏側から、30時間かけて、これを見るためにきた。」(やや誇張)
「僕は庭師だから、勝手に門をあけられない。」
「じゃあ、あなたの友達として敷地内だけみせてくれない?」(くいさがる)
「そんなことしたら僕がクビになる。ほら、カメラがついてるでしょ」(カメラをゆびさす)
IPHONEの翻訳ソフトで、かわりばんこに、画面を門越しにみせる押し問答。
「これ、どうにかなると思う?」「ならないよね。」(私たち)
イタリア語だかポルトガル語だか、知っている限りのラテン系言語で、
「つまり、21日からクリスマス年末休暇で、3日前にきても見れなかったのですね」
「SI-----!!」
やっとわかってくれたか、という悲壮感にも似た笑顔で、すみませんのポーズで手をあわせるも、踵を返して走り去った庭師。
「カメラや携帯気をつけて」という庭師のことばもよそに、やけくそで記念撮影。
サイトを見直したら、休みの日程が書かれていた。出発10日前くらいにこんな青字あったっけ?
チラ見ではありましたが、豪邸でした。また来ますよ。
そして、セスキポンペイヤ。
もともとは1856年に建設されたドラム缶工場とストックヤード。
1856年、日本はまだ江戸時代(ペリー来航が1856年)、
チョンマゲ時代の建物が、1970年代に使われなくなり荒れ果てていたところを、再生計画をたちあげたのが総��文化施設運営のSESC。当時、、モダン建築で名を馳せていたリナボバルディが再生設計をおこない、1977年~1982年という期間をかけて、SESC Pompeia セスキポンペイア文化センターとして、地域の老若男女が集う場としてよみがえったもの。
低層のレンガづくりの建物群は元ストックヤード、アクティビティと多様性というテーマで、多種多様な文化施設が配されている。
大きな倉庫空間の中に、フロアが作られている。
地上レベルは図書館。
連続する階段の上にコンクリートのキューブが乗っかっていて、
またも憩い��スペース。新聞呼んだり、チェスを楽しんだり。
さらに上があって、ここも思い思いに利用できるラウンジのようなスペース。椅子やテーブルもリナボバルディのデザイン。
水辺のスペースもあり、ベンチでくつろぐ人たち。
お隣の棟は、シアターの棟。コボゴブロック的なレンガ積みの壁。
リナボバルディは2回ほど日本を訪れたことがあり、この側溝は、鎌倉のお寺からのヒントだとか。
ちょっとしたディテールに女性らしさが。
そして、こちらが、新築棟のスポーツ施設。
この日、12月29日、イベント関係者しか入れないところを、またもご一緒してくださった藤井さんご夫妻のおかげで、入ることができました。
このデッキ、こんなふうに賑わうそうです。(昔のカーサブルータス)自由だ!
2棟をつなぐランダムな廊下。
雲型窓は格子をはめただけの換気窓。ガラスははまっていない。ベロオリゾンチのニーマイヤーの図書館で���そうゆう開口部があったけれど、文化の違いを感じる。
右の塔は貯水塔。
渡り廊下見上げ。
プールの入り口。
ざっくりなのかデザインなのか?な打ち放し壁。手すりとバランスが絶妙。
ジオポンティに師事し、32歳でイタリアからブラジルに渡ったリナボバルディ。多民族で複雑な社会階層が混在するブラジルで、人々のために真に開かれた場所を追求し続けた。
サンパウロ美術館が1968年、SESCポンペイアが1977年、どちらもブラジルの軍事政権のさなか、オスカーニーマイヤーが1964年から1985年まで国外で活動していたというその間にうまれたダイナミックな建築が、その信念の形と思うと、とても興味深かった。
サンパウロで、もうひとつ、リノベーションの美術館をみました。ブラジル建築家の巨匠のひとり、パウロ・メンデス・ダ・ロシャのサンパウロ州立美術館。通称PINA。
もとは美術学校として建てられた建物でしたが、1905年に美術館となり、1993年から1998年にかけて、ロシャは入り口と動線を帰る修復を行いました。
オリジナルの美しいレンガづくりの建物に、コールテン鋼の渡り廊下、エレベータと水平垂直の動線を追加。
中庭にはガラスの天蓋。
半屋外空間のように光が美しい。
今回ブラジルで見た建築の中では、数少ないヨーロッパ的感覚の建物。と思う。
光と影の美しさ。
窓から見えた庭園も、ヨーロッパ的でした。
そして、こちらは、ブラジル彫刻美術館 MUBE。いかにもブラジルらしい。幅12m、長さ60mの梁だそう。
緩やかに地下に入っていく形。ブラジルの建築案内本には「荒々しい優雅さ」と表現されていました。
レベル差による空間の緩急。
マッシブなコンクリートに華奢な手すり、木製の家具と、段差。無機質な美しさ。
つま先立ちしたみたいな椅子があちこちに。
��ンドスケープは、ブラジリアでとても印象的だったランドスケープデザイナー、ブルレマルクスによるデザイン。
ブラジルの街の立体交差を思い出すような。
こんな感じ。
内部。シンプルで荒々しい感じとアール使いが絶妙なバランス。
ブルレマルクス展を開催中でした。ブラジリアで見たきのこのベンチのようなものを発見。
テキスタイルも。
ブルレマルクスとワタシ。
こちらはロシャ設計の集合住宅。Condomínio Edifício Guaimbe.1962年の建物。
エントランス。
天井の低さが際立つ。
四分円のひさしと、逆三角形の窓台が連続している。ワンフロアに1住戸の間取り、200㎡の広さだそう。
ブルータルとグリーン。
このアパートメントの界隈は、サンパウロの代官山?Oscar Freire通り。
おしゃれなカフェがあったり、
おしゃれなブックショップがあったり。リブレリア・ダ・ヴィラ。
ブラジルを代表する現代建築家、イザイ・ヴァインフェルトの設計。
クリスマス休暇中でクローズしているこの本棚サッシュが、回転する仕組みになっている。
こんな具合。どこかのサイトから。
ブラジリアで見学&ランチしたB hotelもイザイ・ヴァインフェルト設計でしたが、サンパウロの高級ホテル「Fasano」も彼の設計。
自然光がおちる具合がとてもきれい。
限られた富裕層のための洗練された高級感。
ホテルつながりで、日系建築家の大御所、ルイオオタケの『ホテルユニーク』。文字通りユニーク。驚きの大きさや形にもだんだん慣れてきたような。
最上階のレストランとプール。ブラジリアのホテルと同様、やっぱりここもプールが縦長。観光客のランチスポットという具合でした。
サンパウロ建築行脚、その2に続く→『ブラジル建築紀行 サンパウロ編その2』
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生涯と作品[編集]
1928年、6月3日、ミズーリ州、エクセルシア・スプリングス(Excelsior Springs)に生まれる。
1946年、アメリカ合衆国陸軍に入隊し、1947年まで大韓民国に駐留する。
除隊後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで、短期間美術を学ぶ。
1948年から1949年まで、ヴァージニア州のウイリアム・アンド・メアリ・カレッジで哲学を学ぶ。
1949年から1953年まで、コロンビア大学で哲学を学び、学位を取得。その間も絵画制作を続け、1950年代は抽象表現主義に影響を受けた絵画作品を制作していた。
1957年から1962年まで、コロンビア大学で美術史家のメイヤー・シャピロのもとで美術史を学び、学位を取得。
1957年、ニューヨークで最初の個展を開く。抽象表現主義の絵画が展示された。
1959年から1965年にかけて、『アート・ニューズ』、『アート・インターナショナル』、『アーツマガジン』各誌で、前衛美術についての作品批評を行う。絵画の終焉を主張し、美術評論家としての高い評価を得る。
1960年代にはいると幾何学的な要素が強くなり、金属の物体を画面にはめ込むレリーフ状の作品を製作。
1962年頃から床に直接置く立体作品を制作するようになる。
1963年、1964年の個展では、カドミウム・レッドに塗られた木を基本にした箱状の立体作品が直接床に置かれた。
1964年から金属やプレキシグラスが用いられるようになり、形態はさらに純化され、直線的な箱型の作品を繰り返し制作する。
1965年から制作されるようになった「積み重ね(スタック)」と呼ばれるシリーズは、壁に直接同型の薄い箱状の立体が縦一列に並べられるものであった。これがジャッドの代表作となり、箱状の立体が反復的に複数並べられる作品は数多く製作されている。
1965年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表[1]。
1968年、ニューヨークのホイットニー美術館で、回顧展が開催される。
1971年、戸外に置かれる円形の作品を制作。また、この年からテキサス州マーファ(Marfa)を訪れ始める。
1972年頃から素材に合板を用い始める。
1977年、テキサス州マーファに移住。
1979年、DIA美術財団の援助を受け、テキサス州マーファの陸軍基地跡の廃屋を含む砂漠の土地(1.4 km²)を、自作や他の作家の作品を恒久設置する場所にするために買い取る。
1980年代には特殊な錆付けをしたコールテン鋼を用いるようになる。
1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。マーファの土地建物は一部をチナティ・ファンデーション(The Chinati Foundation)が、また別の一部をジャッド・ファンデーションが管理している。チナティ・ファンデーションにはジャッドや他のミニマルアートの作家たちの作品が展示されており、これらの作品は一般公開されている。また、ジャッド・ファンデーションはジャッドのドローイングやライティングなどのアーカイブ、また彼が個人所有していた自宅やスタジオ・スペースなどを管理している。
エピソード[編集]
ジャッドは、フランク・ステラがころころと作風を変えるのを見て「あいつはただの裏切り者で、ペテンだ!」と、執拗にステラを記者会見の場ですら攻撃していた。ジャッドは一度決めた作風を生涯に一度の変更すら許さない、頑固一徹の芸術家でもあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドナルド・ジャッド
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昨年竣工した、練馬中村のリノベーションのお宅に、表札を取付けに伺いました。
旗竿地に建つ家のため、敷地の入り口から分かりやすいよう、
建物のコーナー部分に取り付く形状にしました(名前部分はぼかしています)。
錆びてる!と驚かれるかもしれませんが、今回はコールテン鋼という、
表面にだけ錆を発生させることで、その表面の錆が本体を錆から守る素材を採用しました。
はじめは普通の鉄板に見えますが、赤い錆が発生し、赤褐色から茶褐色へと次第に変化していきます。
こちらは取付け前の様子です。
黒い外壁に映えるよう、出来るだけ赤く錆びさせたかったので、
約2週間、朝と晩に霧吹きで水やりをしていました。
(ちらっと写り込んでいますが、以前ご紹介したサボテンも健在です!)
こちらは引きで見た様子です。
まだ錆び途中なのでそこまで目立ちませんが、ゆっくりと時間をかけて、
外壁の黒と植栽の緑に映える表札に育っていくのが楽しみです。
かわの
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住宅特集6月号
住宅特集6月号
今月の住宅特集は親しい知人の作品が掲載されているので、じっくり拝見した。
まず巻頭論考「人間と建築」で3人の建築家が、各々の最新プロジェクトを通じて共感を得ながらも、一定の距離を保ちながら’’渇き’’を、各々で語っている。人間論として理解できた。
建築を小説に例え、「書くこと」=物語を描く、「原稿用紙」=書くことに規律や規定を与える、というのはなるほどなぁと思った。
中山英之のプロジェクトは、「弦と弧」というタイトルから想像できるように、おおらかな曲線を用いた平面のヴォリュームに、弦として梁を掛けて、これらにより囲まれた所に床デッキプレートや板が切り抜いて敷かれる。構成かた感じる大らかさの一方、長谷川さんがおっしゃるよう、首都高のジャンクションのような落ち着かなさも感じる。
石上純也のプロジェクトについて多くの海外友人から反応がある。
ビジュアルだけでも、もの凄いインパクトであるが実際に図面や工事状���の写真をみると、色々な箇所に関心がある。生活の仕方や料理店の運営に言及するのは、ナンセンスだと思う。大嶽先生と話してて、僕は基礎がどうなっているのか気になりだした。写真から配筋状況は読めるが、建築と地盤の設置、その下層部の力関係に興味を覚えたし、完成したらぜひ訪問したい。彼は「For me, man made things has same meaning as natural things because human being also one of nature」と語っているし、このプロジェクトから人間の根源をより感じることができるし、論考にも示唆的。
長谷川さんのプロジェクトは地形に対して純粋に構築されている。特に図面から担当者の影響を感じずにはいられなかった。プラントやエントランス付近の斜め床で降る手前の第1歩のアシモト、そこからの空間体験は素晴らしいだろうし、恰好いいだろうなと想像した。もちろん他にも建築家のスタディ要素はたくさんあると思うけれど、僕は外部との接地面に非常に興味を感じた。
梅沢先生の「Irony Gallery」は、これまでの「Iron house」など、コールテン鋼住宅の集大成として発表されていた。「超長期住宅の実現に対して、気密性や遮音、断熱性などは多少の犠牲も得ないとしている」という
Textに非常に共感した。ディスアドバンテージがあるからこそ生まれる豊かな生活もあると思う。まだまだ発展を追求する姿勢に感銘したし、また成城に行きたくなった。
論考で、長谷川さんが語る「民兵」と「野武士」は僕の夢にも関係していて勇気を得た。それは石上純也が述べる固有性にも関わるが、建築家も人間であるし、「野武士」が画策して来た 上の世代の転覆に対して、私たちこそ、建築を従来の開かれ方とは異なる、開かれ方を実践しなければならない。と痛感した。
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