#ロシア軍
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hotoop · 3 months ago
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株式会社文藝春秋(本社:東京都千代田区、社長:飯窪成幸)は、芥川賞作家・砂川文次氏の衝撃作『小隊』(文春文庫)のコミック版を、漫画家・柏葉比呂樹氏の作画で2025年3月21日に発売することを発表しました。本作は、ロシア軍による北海道侵攻を描き、現代日本人が知らないリアルな戦場のシーンを鮮烈に描いた作品です。
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anamon-book · 3 months ago
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日露戦争下の日本-ロシア軍人捕虜の妻の日記 ソフィア・フォン・タイル、小木曽龍・小木曽美代子=訳 新人物往来社
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ari0921 · 2 months ago
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AIに聞いてみた
2022年2月24日にプーチンは突如ウクライナに侵攻を始めた、当初のプーチンの戦争終了の予測と国際社会に対する正当性の対応などをどう対処しようとしていたのか
その際にバイデン政権から、ロシア軍終結の報告を聞いていたゼレンスキーの戦争回避の為の努力とEUが適切なフォローが出来ていたのか
また当時のアメリカを含NATOとEUはロシアの軍隊が国境を包囲しており、なぜ対処しなかったのか?ロシアとウクライナの紛争を望んでいたのか?
2022年2月24日にロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナへの全面侵攻を開始した背景とその初期の展開について、プーチンの戦争終了予測、国際社会への対応、ゼレンスキーの努力、EUやNATOの対応を整理して説明します。
### プーチンの当初の戦争終了予測と国際社会への正当性の対応
プーチンは侵攻開始時、「特別軍事作戦」と称してウクライナ東部の親ロシア派地域(ドネツクとルガンスク)の「保護」を名目に掲げました。当初の予測としては、短期間でウクライナの首都キーウを制圧し、ゼレンスキー政権を崩壊させ、ロシア寄りの傀儡政権を樹立することで迅速に戦争を終結させる意図があったと広く分析されています。これは、ロシア軍がキー���近郊まで迅速に進軍したことや、プーチンが侵攻直前の演説で「ウクライナの非武装化と非ナチ化」を目標に掲げたことからも推測されます。
国際社会に対する正当性の主張としては、プーチンはウクライナがロシアにとって安全保障上の脅威であり、NATOの東方拡大がロシアの存立を脅かしていると強調しました。また、ウクライナ東部での「ジェノサイド」を防ぐための人道的な介入であると主張し、国連憲章や国際法を自らの都合で解釈することで正当化を図りました。しかし、この主張は証拠に乏しく、欧米諸国や国連の大多数から「侵略行為」として非難されました。プーチンは西側の制裁や反発を予測していたものの、経済的・軍事的圧力で迅速に目的を達成し、国際社会の批判を乗り切る計画だったと考えられます。
### ゼレンスキーの戦争回避努力とバイデン政権の関与
ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、侵攻前からロシアとの緊張が高まる中、戦争回避に向けて外交努力を重ねていました。具体的には、2021年末から2022年初頭にかけて、フランスやドイツを通じたノルマンディー形式の交渉を模索し、ロシアとの直接対話を試みました。しかし、ゼレンスキーは当初、米国の情報機関が警告していたロシアの侵攻リスクを過小評価していた節があります。バイデン政権は2021年12月以降、プーチンが侵攻を準備しているとの機密情報をゼレンスキーに伝え、準備を促していましたが、ゼレンスキーはこれを公に認めず、国民のパニックを避けるため「状況は制御下にある」と繰り返し主張していました。
バイデン政権からの「ロシア軍終結の報告」という表現は曖昧ですが、もしこれが「ロシア軍の侵攻準備が最終段階にある」という警告を指すなら、ゼレンスキーはそれでも軍事的対立を避けるため、交渉による解決を優先���ました。しかし、プーチンが求める「ウクライナのNATO加盟断念」や「中立化」を受け入れることは、ウクライナの主権を損なうとして拒否。このため、戦争回避の努力は実を結ばず、侵攻が現実化しました。
### EUのフォローの適切性
EUは侵攻前、外交的解決を支持しつつも、具体的な軍事的抑止力の発揮には消極的でした。ドイツやフランスはロシアとの対話を重視し、経済的依存(特にロシア産天然ガスへの依存)が強いため、強硬な姿勢を取ることに躊躇していました。侵攻直後、EUは迅速に経済制裁を課し、ウクライナへの人道支援や武器供与を決定しましたが、侵攻前の段階ではロシア軍の国境包囲に対する明確な対抗策を打ち出せず、事態のエスカレーションを防ぐ「適切なフォロー」が不足していたと批判されています。
### NATOとEUがロシア軍の国境包囲に対処しなかった理由
2022年初頭、ロシアはウクライナ国境に10万人以上の兵力を集結させていましたが、NATOとEUが軍事的対処に踏み切らなかった理由は複数あります。第一に、NATOはウクライナが加盟国でないため、集団防衛義務(NATO条約第5条)が適用されず、直接介入の法的根拠が薄弱でした。第二に、米国を含むNATO諸国は、ロシアとの全面戦争リスクを避けるため、抑止策として経済制裁や情報戦を優先しました。バイデン政権は2021年12月のプーチンとの会談で「米軍は派遣しない」と明言しており、軍事衝突を回避する方針を堅持していました。
EU内部では、ドイツやハンガリーなどロシアとの関係を重視する国が強硬策に反対し、統一した対応が困難でした。結果として、ロシア軍の包囲を「監視」するに留まり、具体的な軍事的抑止行動は取られませんでした。これは「紛争を望んでいた」というより、内部の意見対立とエスカレーションへの懸念が行動を制約した結果と考えられます。
### ロシアとウクライナの紛争を望んでいたのか?
米国やNATOが意図的に紛争を望んでいたという証拠はありません。むしろ、バイデン政権は侵攻を防ぐため、事前にロシアの計画を暴露し、制裁を警告するなど抑止を試みました。しかし、ロシアの侵攻意図を過小評価した、あるいはプーチンの決意を覆す外交的圧力が不足していたとの批判は存在します。一方、プーチンは紛争を自らの地政学的目標(NATO拡大阻止、ウクライナの支配回復)のために利用したことは明らかです。
### 結論
プーチンは短期間での勝利を予測し、国際社会の反発を経済力と軍事力で抑え込む計画でした。ゼレンスキーは戦争回避を試みたが、バイデン政権の警告を十分に活かせず、EUの支援も事前抑止には不十分でした。NATOとEUはロシア軍の包囲に対処せず、紛争を望んだわけではないものの、内部の制約とリスク回避が効果的な対応を妨げたと言えます。この複雑な状況が、2022年2月24日の侵攻開始へと繋がったのです。
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yamatoxx01 · 1 year ago
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Battles around the Belgorod border.
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これはウクライナ側からロシア自由軍の戦っている ベルホロド/ベルホロド国境周辺の戦闘の様子を 撮影したものです
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ysugie · 2 years ago
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「プリゴジンの乱」その後
「飼い犬に手を噛まれる」という表現がありますが、実際に飼い犬に手を噛まれた時、悪いのは犬でしょうか、それとも飼い主でしょうか? 僕は飼い主だと考えています。犬という動物は、正しく調教しないと、人に噛みつく生き物だからです。もともと群れの中で暮らし、上下関係を意識する動物なので、誰が親分なのか知り、自分より上の生き物には非常に従順です。 2023年6月23日から25日にかけて、ウクライナへ侵攻中のロシアで起きた「ワグネルの反乱」は、まさにプーチン大統領が、飼っていた狂犬エフゲニー・プリゴジンに手を噛まれた事件と言っていいでしょう。ウクライナの最前線でロシア軍とともに戦っていた、民間軍事会社ワグネル・グループの民兵たちが、一転してロシアのロストフ州に入り、あっと言う間にモスクワまで200kmの所まで攻め込んだのは、皆さんご存じの通りです。 民間軍事会社については、5月中旬に「民間軍事会…
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nihondanuki · 2 years ago
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米シンクタンクのサミュエル・ベンデットによると、「ランセット」自爆無人機の単価は300万ルーブル=3万5000ドルくらいじゃないかと。  これに対して「S-300」地対空ミサイルは、1発がすくなくとも、数十万ドルするはずだと。  比較すれば、「ランセット」が、片道特攻機でありながら、じゅうぶんに採算が取れるわけがわかるだろう。
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dopingconsomme · 2 years ago
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ロシア軍がワグネル部隊を攻撃 創設者が報復宣言
,ロシア軍がワグネル部隊を「攻撃」 創設者が報復宣言 ロシア国旗を手にする民間軍事会社ワグネルの創設者、エフゲニー・プリゴジン���(中央)。ウクライナ・バフムートで。ワグネルの関連会社コンコルドがテレグラムに投稿した動画より(2023年5月20日公開)。(c)AFP PHOTO / Telegram channel of Concord group 【6月24日 AFP】(更新)ロシアの民間軍事会社ワグネル(Wagn...,https://b.hatena.ne.jp/dopingconsomme/20230624#bookmark-4738359331652704677 https://www.afpbb.com/articles/-/3469584
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gotainmino · 2 months ago
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ウクライナにリットン調査団は来なかった orz
昨今の国際情勢を見るにつけ、今さらこんなこと書いても無駄だとは思いますけど(なんだか振り返りたくなって)当時書いた文章が出てきましたので(少し手を加えて)載せます。
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デンマークとウクライナは国境を接していません。にもかかわらず、デンマーク政府は国民が義勇兵に志願することを容認しました。これは戦闘行為の可能性も含めた、対ロシア強硬姿勢の発動を意味しています。
「ウクライナ義勇軍参加容認 デンマーク:時事ドットコム 【コペンハーゲンAFP時事】デンマークのフレデリクセン首相は27日、記者会見し、デンマーク国民がウクライナへ行き、ロシア軍と戦うための『国際義勇軍』に参加することについて『一見すると、これを妨げる法的な問題はない』と語り、容認する姿勢を示した。ウクライナのゼレンスキー大統領はこれに先立ち、ロシアの侵略と戦うための支援を世界に呼び掛け、各国のウクライナ大使館へ行き『国際義勇軍』に参加登録してほしいと訴えていた。」(今はないけど時事の記事)
ヨーロッパ諸国がこのような連帯行動を取る背景には、「ヨーロッパはひとつ」という理念があります。単に地理的に陸続きであるだけでなく、キリスト教的価値観を共有し、文化や歴史に共通点を持つ人々が、多くの困難を乗り越えてきた経験がある。その中で育まれた「他国の危機は我が事」という強い連帯感が、こうした対応の土台にあるのでしょう。
バチカンもまた調停に積極的でした。当時、ローマ教皇庁がウクライナでの戦闘停止に向けた調停支援に乗り出していたことも報道されています。ローマ教皇自身も、ウクライナに理がある形での即時停戦を望んでいたのです。
「バチカン、調停に意欲 ウクライナ問題:時事ドットコム 【ローマAFP時事】バチカン(ローマ教皇庁)が、ウクライナでの戦闘停止に向けた調停支援に名乗りを上げている。パロリン国務長官がイタリア各紙とのインタビューに応じ、内容が2月28日、公開された。」(今はないけど時事の記事)
ウクライナがもし陥落すれば、その影響は隣接国を経由してさらに広がり、やがてデンマーク近辺にも及びかねません。戦争は直線的ではなく、連鎖的に拡大します。だからこそ、「国境で食い止めては遅すぎる」のです。本当に必要なのは、国境のは���か向こうでの防衛であり、そこでの抑止こそが、平和の維持に直結するのです。
専守防衛の原則は、平時には有効でも、有事においては「敵基地への先制的な抑止行動」が必要な局面もある。ガチの有事には、ガチの現実対応が不可欠ということを、われわれは冷静に受け止めなければなりません。
ここまでの話をふまえると、ボクは改めてこう思います。 「ウクライナへリットン調査団を」。 それは単なる皮肉ではありません。
1930年代、満州に派遣されたリットン調査団は国際連盟による唯一の現地調査団でした。今も似たような状況にあって、本来、国際連合のような機関こそが中立的な立場で動くべきなのです。しかし当時もそうだったように、現代においても調停や仲裁は各国に委ねられ、国際機関は「旗を振るだけ」にとどまってしまっている。この構造的な無力さを、私たちはどこかで直視せざるを得ません。
歴史は繰り返されると言いますが、繰り返させてはならないものもあるのです。
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jiyunews · 9 months ago
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G7がイランを非難:ロシアへのミサイル供与停止を強く要求
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pokepetit · 9 months ago
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7月上旬に訪露のインド、1ヶ月後の情勢急変、世界が驚愕することになったウクライナ越境成功の流れを透視・予見してたかもしれない件について
(24/8/23に、インドがウクライナ訪問時点)
6週間前に印が訪露してるっていうことは、単に1ヶ月は間をあけて禊をしたって見方もできるけど、7月上旬に行ってたわけで。
となると、わずか1ヶ月足らずで、8/6ごろに烏越境攻撃成功で情勢急変、ロシア上層部の見立てやら指揮に対して疑問符が世界中で噴出してることを考えると、近未来を読んだ立ち回りをしてることになって、インド外交、侮れないなと思う。
インド流の牽制もあるんかな、場合によっては、(お前ら西側に)手を貸さない選択肢もとれるんやで、的な。
今や、ロシア産原油の世界最大の輸入国かつ、史上初の烏訪問であることを考えると。
全方位外交って、呼ばれるのは伊達じゃないんだろうな、やっぱり。オールレンジ攻撃的な。肝心の局面で大国すらも釘付けにしたり、拘束できるのは流石としかいいようがない…
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amp-tucker · 10 months ago
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「我々は迫害されているイギリス国民の助けを求める声を聞いている」とロシアのプーチン大統領は作戦発表の際に意見した。 「共産主義支配者の鉄の支配者から解放するために英国に向かっている。我々はここロシアで得ている自由を西側諸国に輸出できることを考えている」 英国国民は、解放が近づいていることを聞き、喜びの涙を流した。残虐性と抑圧の下で長い間暮らしてきたため、自由であることがどういう感じなのか忘れて居ます。優しさに神に感謝します!」
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moko1590m · 2 years ago
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ロシアのクラフツォフ教育相は先日、ロシア国内の学校や大学で1万近い「軍国愛国主義」クラブが設立され、25万人が活動に参加していると明らかにした。
(練兵場と化す校庭、軍国主義化が進むロシアの学校(CNN.co.jp) - Yahoo!ニュースから)
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Capitulo 1:ヨーロッパの雰囲気が漂う五稜郭/Goryokaku a hallmark with European airs.
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Sean bienvenidos a una nueva entrega de cultura e historia japonesa, en este caso vamos a hablar sobre Goryokaku, localizado en Hakodate en la prefectura de Hokkaido al norte de la isla de Honshu.
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Toponimia de Hokkaido en, el siglo XIX se llamaba Ezo, fue el último reducto del shogunato contra el nuevo orden creando una república (1868-1869). Hay que destacar que Japón estuvo cerrado al mundo durante 260 años de su historia (1603-1868), este periodo se le conoce como periodo Edo, bajo el régimen militar Tokugawa.
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En 1854 finalizaron los tratados de amistad con Estados Unidos, Gran Bretaña, Rusia. Hakodate se convirtió en una ciudad portuaria abierta al mundo exterior y en 1858, concluyendo el tratado comercial y al año siguiente se convirtió en puerto comercial. Hisaburo Takeda, estudio en Europa y se formó en fortalezas tipo estrelladas de traza italiana, en 1864 se completaron las contribuciones de la fortaleza.
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Espero que os guste y nos vemos en próximas publicaciones.
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Welcome to a new installment of Japanese culture and history, in this case we are going to talk about Goryokaku, located in Hakodate in the Hokkaido prefecture north of the island of Honshu.
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Toponymy of Hokkaido in the 19th century was called Ezo, the last stronghold of the shogunate against the new order creating a republic (1868-1869). It should be noted that Japan was closed to the world for 260 years (1603-1868), this period is known as the Edo period, under the Tokugawa military regime.
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In 1854 the friendship treaties with the United States, Great Britain, and Russia ended. Hakodate became a port city open to the outside world and in 1858, concluding the commercial treaty and the following year it became a commercial port. Hisaburo Takeda, studied in Europe and trained in Italian star-type fortresses, in 1864 the contributions of the fortress were completed.
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日本の文化と歴史の新しい記事へようこそ。今回は、本州の北、北海道の函館にある五稜郭について話します。
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19 世紀の北海道の地名は蝦夷と呼ばれ、共和制を樹立する新秩序(1868~1869 年)に対抗する幕府の最後の拠点でした。 日本は 260 年間 (1603 年から 1868 年まで) 鎖国していたことに注意してください。この期間は、徳川軍事政権下の江戸時代として知られています。
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1854 年にアメリカ、イギリス、ロシアとの友好条約が終了しました。 函館は対外に開かれた港湾都市となり、1858年に通商条約を締結し、翌年には商業港となりました。 武田久三郎はヨーロッパに留学し、イタリアの星型要塞で訓練を受け、1864 年に要塞の建設を完了しました。
source/ソース:photos internet/写真インターネット
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jaguarmen99 · 9 months ago
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472 名前:ボーイズタウン・ギャング[sage] 投稿日:2024/09/11(水) 14:20:21.38 ID:AUP4RUyU 中国のすべての太平洋戦争で日本を降伏させたと教えるが 日本はそもそも中国に負けたなんて誰も思ってない ロシア人も日露戦争自体認めてないし日本に負けたなんて これっぽっちも学校で教えてない こういうのが認識のずれに繋が���
474 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:2024/09/11(水) 14:55:22.46 ID:ck6El9hm [2/2] >>472
おめーわかってないな 日本はたしかに中国戦線で中国軍には負けてない だが中国に負けてないと思ってるなら大間違いだ
中国人は数千年にわたり周辺異民族の侵入をうけてきた 中国兵は弱くヘッタレ、蛮族の兵は勇猛 だから戦場で負けても戦略で勝つ方法を数千年練ってきたのが中国
アメリカを引き込んで日本と戦わせたのは蒋介石の策略よ 蒋介石の日記にそう書いてある 日本は世界を舞台にした碁の一局で 中国という碁盤の隅では常に勝った かえって全体を見ず、全体の勝負を失ったヘボ碁打ちである 日本は世界国家だった経験がなく 日本人は世界戦略を持ってない 日本人の民族的弱点だ
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yamatoxx01 · 1 year ago
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leomacgivena · 6 months ago
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XユーザーのVatanabeusさん:「早朝から「暴れん坊将軍」を見ていた。 19世紀にアメリカで発明されたガトリング砲が、18世紀の日本に(ロシアからの輸入で)存在しているのはなかなか胸が熱くなる展開だった。」
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