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#二条市場
cagra · 5 months
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教室の忘年会
今年も教室の忘年会を開催することができました。 とてもありがたく、うれしいことです。 自分にとっては昭和のなつかしさを思い出す会場で、好きな場所。 三川屋会館さん。
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遠方の生徒さんたちにもわざわざ来ていただいて、楽しいひと時を過ごさせてもらいましたが、いつまで経ってもおもてなしができない自分はまだまだ勉強しないといけないことが多いようですね… 教室で作った靴を履いてきた人を見つけて帰り際に外で慌ててパチリと。
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2次会は少人数で軽く。今年は狸小路もススキノも人がたくさん溢れていました。 早く世界中にこんな日常が訪れますように…
次の日、昼の便で東京に帰るという東京時代の仕事仲間でずいぶん年下の友人のO君と二条市場で朝飯。 久しぶりに会うんだから、もっと早く連絡くれたらいいのに。 二条市場でご飯を食べるのは多分初めて。 観光客っぽい人が沢山並んでいたお店を尻目に、焼き魚定食のメニューが全面に出ていたお店へ。 それぞれの魚定食に自家製醤油漬けいくらをトッピング。 味噌汁をカニ汁に。
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たったこれだけのことで旅に来た気分になれました笑 また来よう。
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saku-skywalker · 2 years
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【有名観光地の繁盛店】 札幌の朝ごはんと言えばこちら「魚やがんねん」。 8時の開店に合わせて訪問したのですが、既に満席並び2人。 まあ席数を減らしたまま営業してるから仕方ない… 今回は本マグロのお刺身定食にサーモンのタタキ。 何も言う事はございません、優勝です。 #マグロ #まぐろ #鮪 #本まぐろ #本マグロ #本鮪 #刺身定食 #朝ごはん #札幌 #札幌グルメ #札幌観光 #二条市場 #さくさんのグルメ万歳 @uoyagannen (魚や がんねん) https://www.instagram.com/p/Cj71MOxrFQM/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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reoskillll · 1 year
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居るよww #この前発見した店#あげわすれ#なので居ないよ#楽しかった事以外#記憶を忘れて来たみたい#二条市場#BarPOJI#イルヨニスト https://www.instagram.com/p/CpM1_bVSK5f/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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silkorz · 2 years
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北海道の恵みをたっぷり堪能できるお店!【藤田商店】二条市場
北海道の恵みをたっぷり堪能できるお店!【藤田商店】二条市場 #藤田商店 #北海道 #札幌市 #札幌グルメ #二条市場グルメ #二条市場人気店 #海の幸 #稚内ホタテ #毛ガニ #生ガキ #ホタテ刺し #サッポロクラシックビール
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liyatv · 2 years
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ひよん: 【彼と北海道へ】2泊3日の北海道が最強に楽しすぎ&ご飯も美味しすぎ…🤭【北海道旅行 / デート】
liya.tv
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tabi-niwa · 2 years
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札幌を代表するどメジャー観光地たちは前を通っただけでした。 #日本 #北海道 #札幌 #札幌テレビ塔 #札幌時計台 #赤レンガ庁舎 #二条市場 #japan #hokkaido #sapporo #朝焼け (さっぽろテレビ塔) https://www.instagram.com/p/CdSygXlreJn/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 9 months
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。
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udonangya · 9 months
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札幌市豊平区平岸二条8丁目のおでん酒場Occhiで、おでん出汁のうどん350、トマト350、ブロッコリー200、玉子150載せ、〆て1,050円也。
Oden soup udon noodles with Red sausage-Asari clam-Chicken balls at Occhi in Hacchome, Nijho, Hiragishi, Toyohira ward, Sapporo city, Hokkaido.
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hachikenyakaiwai · 6 months
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【かいわいの時】天正十四年(1586)九月二十五日:山科言緒(阿茶丸)、中島天神社の流鏑馬を見物(山科言経『言経卿記』)
天満宮では、九月二十五日の秋大祭に流鏑馬式がある。伝承によると明治以前には、射手が拝殿に一七日間参籠 し、当日は飾馬に乗り、鏑矢を持ち、社殿を三度回ってから、表門の前から浜の間に立てられた三ヵ所の的を射たという(『新修大阪市史 4』)。旧暦。現在は10月25日。
大阪天満宮における流鏑馬神事の起源は定かではありませんが、豊臣秀吉の時代に天満に居住した公卿・山科言経の目撃証言(息子が見物)があります。
天神社ニ今日ヤフサメ有之、四条・阿茶丸寸見物云々、哥仙新造懸之、願主津田ト眞也云々(天正十四年九月二十五条)。東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 言経卿記二』より。
その後、一時途絶えたようですが、元和元年(1615)に松平忠明が大坂城主として入城後、幕命により乗馬を神事に供したことがきっかけで復活(伝)。延宝八年(1680)刊行の大坂の年中行事を案内した一無軒道冶の『難波鑑』には、馬上から矢で的を射る「天満天神の矢ふさめ」の挿画入りで解説されています。
此日天神の御神事也。則やふさめあり。是は天満天神の門の前に。茶屋あり。茶屋のあるじの式として。としこと是をつとむ。まづ七日以前より。拝殿にあらこも志きて。通夜いたし。精進潔斎して。其日にいたれバ。あたらしきなをしはかまに。袖くくりあかき鉢巻して。かさりたる馬にのり。ゆミとかふらやを。左右の手に取とり。社檀をのりめくること三度それより。逸散をかけいだし。宮の前浜手九町を三反のりかへすあいたに。六所に角のまとを立て。是を射る也。手綱もとらず。手をはなちて。弓射ゐる間。逸足かくる馬を。つゐに落さることハ。此天神の御はからひといとたふとし(「天満天神流鏑馬 同二十五日」)。『浪速叢書 第12』「難波鑑 第五」より。
しかし、江戸後期になると、様子が変わっています。享和元年(1801)、大坂の銅座に赴任した幕臣・大田南畝の『葦の若葉』には、現在と同様に馬上から半弓で的を打ち破る様子が記録されています。
九月二十五日、晴天滿天神の秋祭にて、流鏑馬の神事ありと聞て、御社にまうづる道々に矢來結ひわたせり、神主社家に知る人ある物を伴ひたれば、神社の拜殿に登る事を得たり……やゝありて肩衣袴きたる男、馬に乘て門前の西の方より出て大路を南へ濱の方迄かけおふ事、一度してかへれり、是を馬場見せといふ、やがて的板三本を大路の東の方三所へたつ、乘るへき馬を拜殿の階下に引立つ、社家の白衣きたるが垂多く持出て、厩人に渡す、口取馬の頭につく、社家拍子うちて、細に切たる紙をちらして入る、緋縮緬の小手袖きて〔金絲にて縫たる丸き紋を付〕黄なる皮の行騰に似て、短き物はきたる若き男、弦なき弓と矢を持〔初の馬場みせ乘たるものにあらず〕拝殿の幕の內より出て、神前にぬかつく、社家盃を傳ふ〔神酒なり〕ついたちて、騎射笠のこときものを着て馬に乘り、拜殿の前なる棚のもとを、東より西にめくる事、三度にして門を出づ、此時門の内人あまた立込たれば、棒持たる男先に立て、打拂〃〃行く、門を出て西の方に入て、大路を南へ濱の方まて馬を走しむ事三度なり、一度〃〃に例の的札持たるもの、大路の方三所より的差出すを、弓のはずもて打ば、的持たるもの、的を破りて引く事都合九度なり、此間神主社家ともに、拜殿の階上に座し事終りて退く、此馬にのる男は、例年山本屋といへる市人なりといふ(『葦の若葉 巻三之下』)。吉川弘文館『蜀山人全集 巻1』より。 
その出で立ちは、南畝の描写とは細部で違いはありますが、芳梅の『滑稽浪花名所』で見る事ができます。
(写真)芳梅「滑稽浪花名所 天満天神」1857-58(ボストン美術館蔵)
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kennak · 2 months
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「献血にご協力をお願いします」。今月2日、雪がちらつくJR二条駅前(京都市中京区)に停車した献血バス。しばらく様子を見ていると、外国人がぽつりぽつりとバスに吸い込まれていく。聞くとほとんどがネパール人だという。なぜネパール人?(上村真也)  集まったネパール人は、みな顔見知りのよう。輪の中心にいたのは、京都市伏見区に住む南部ミランさん(42)。日本人女性と結婚して日本国籍を取得し、今は上京区にネパール料理店「カフェレストランOA」を開いている。  2010年に来日した南部さんは、ネパール人たちの金銭的な相談に乗ったり、病院に同行したりと、同胞の世話を焼いてきた。ネパール人同士の親交を深めようと、映画の上映会を開いたり、サッカーチームをつくったり。ゆるやかなネパール人のコミュニティーができていった。    国内で、ネパール人は急増している。産業の少なさや政情不安が背景にあり、料理人や留学生として来日する人が多いという。  南部さんは、特に京都はネパール人に人気だと説明する。10年前は府内で300人ほどだったが、コロナ禍を経て一気に増え、昨年末時点で10倍以上の3867人が暮らす。「京都はお寺が多いでしょ。ネパールと似てるんです」  春先は献血者数が減る季節だ。南部さんは「京都に恩返ししたい」と考え、知り合いに声をかけた。すぐに約30人が賛同してくれた。  「ネパールは、誰かが倒れたら助け合う文化。生まれた国が違っても、血は一緒。困っている人を助けたいです」と南部さん。今後も協力を続けるつもりだ。
京都の献血会場にネパール人次々…「助け合う文化で恩返しを」同胞の呼びかけに賛同者集まる | ヨミドクター(読売新聞)
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ryotarox · 4 months
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ビルマの竪琴 - Wikipedia
日活は当初、1956年の1月に劇場公開することを配給する映画館と約束し、そのスケジュールに則った製作が進められていた。そして公開の7カ月前の6月にビルマへロケーション撮影をするための渡航申請を出したが、当時の国際情勢もあって入国許可が下りず、そのまま雨期となったので、乾季になる11月に撮影を変更し、夏の間は、国内の軽井沢や箱根、伊豆などの代替地でドラマの一部を撮影した。 ところが11月になっても入国許可は下りず、業を煮やした日活社長の堀久作が「すまんけど、全部日本で撮ってくれ」と直談判分する状況となったが、監督の市川崑は、パゴダの黄金仏塔やシッタン河の泥河、ムドンの街並の撮影は日本では無理と考え、ビルマでのロケに拘った。 だが日活側は「築地の本願寺は、ビルマの寺院に似てないか」「河は、多摩川だっていいじゃないか」と国内ロケへの変更を再三提案し、挙句の果ては原作者の竹山道雄まで「僕はビルマに行ってはいませんよ。あれは私の頭の中で書いたものです。だからあなたも、ビルマに行かなくても、頭で描いてもいいんじゃないですか。」と言う始末だった。 そんな市川に友人の新聞記者が、1時間ほどの<第一部>をまず作って劇場公開をして封切り問題を解決させ、後日、ビルマロケを終えて再編集したものを<総集編>として劇場で公開するという二部作劇場公開案を提案し、市川が日活にこの提案を持ち掛けたところ、あっさり快諾したため、主人公の水島が小隊と橋ですれ違う場面で物語が終わる、63分の<第一部>が先行して公開された[7]。 その後、1956年1月にビルマへの入国許可証が下りたが、同行できる俳優は水島役の安井昌二のみ、撮影期間は一週間という厳しい条件で、市川はその条件下でビルマでの撮影を行った。現在でもシュエダゴン・パゴダなどに、撮影当時の面影をみることができる。 市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、日活側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」「<第一部>と<第二部>をくっつけたプリントを<総集編>にできないか」と約束を反故にする提案を持ち掛けたため、市川はこれに激怒、このため封切りの時点で、市川の構想通りに再編集された「総集編」と、「第一部+第二部」をくっつけただけのフィルムが同時に上映される事態となり、「総集編」はメインの日活封切館がある新宿や丸の内などの都市部での限定公開、それ以外の地方は「第一部+第二部」の上映だった。 このことが禍根となり、市川は日活を辞めることになった[8]。
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水島、青島、敷島。
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nyantria · 2 months
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アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅
昭和天皇と731部隊
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語��奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。
新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。
 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。
1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。
このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。
日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
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saku-skywalker · 2 years
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【二条市場の外せないお店】 今回も有難い事に現地オフを頂きまして… 現地オフの朝ごはんと言えばこちらの「魚や がんねん」 今回はまぐろのお刺身定食にプラスサーモンのタタキ。 ご飯は勿論大盛り。 二条市場ってやはり観光客目当ての値段設定、ですがこちらは非常にリーズナブルな値段で食事ができるので好きなのですよ〜。 札幌出張飯の中では確実に外せないお店ですね。 タタキもウマイけどまぐろの程良く脂が乗った感じ…そりゃご飯も大盛りになりますよ笑 #まぐろ #マグロ #まぐろのお刺身 #まぐろのお刺身定食 #二条市場 #大盛りご飯 #魚やがんねん #さくさんのグルメ万歳 #出張 #出張飯 ↓お店のアカウント @uoyagannen (魚や がんねん) https://www.instagram.com/p/Ces-SJxu5uG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yamada50 · 2 years
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かつて日本の伊勢の神宮より格が上とされ神道界の頂点であった吉田神社 平安時代の貞観元年に公卿で四条流庖丁式の創始者で知られる藤原山蔭によって春日大社より勧請し創建しました 平城京の春日社、長岡京の大原野社に準じた平安京の藤原氏の氏神の社と位置付けられ、藤原氏の隆盛により吉田社も朝廷の公祭に定められるに至りました 元は平野神社の社家卜部氏が社司、神主職にありましたが吉田流卜部氏が継承し、特に日本書紀の学問を重視し優れた神道家を輩出、応仁の乱後は吉田神道が勃興し神主の宗家となりました また一条天皇の勅命により宮中の八神殿を境内に遷座、吉田家は神祇官代として祭祀を行い神宮への例幣や大嘗祭の由幣帛は八神殿より発遣されました 江戸時代には全国の神社の神主を任命権を持つ神道勅許状によって幕末まで大きな権威を誇りましたが、明治になり剥奪され普通の神社の一になり今日に至ります #吉田神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 吉田神社(よしだじんじゃ) 鎮座地:京都府京都市左京区吉田神楽岡町30番地 主祭神:春日神(建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神の総��) 社格:官幣中社 別表神社 巡拝:二十二社 神仏霊場巡拝の道 #国指定重要文化財 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社仏閣 #パワースポット #京都市 #神道 #神社巡拝家 (吉田神社) https://www.instagram.com/p/Ch-J4eUvO1E/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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myonbl · 2 days
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2024年4月27日(土)
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朝起きてベランダのサッシを開けると、ジャスミンが一輪開いていた。新聞を取りに出ると、ツツジもコデマリも満開だ。もちろんしばらく前からこの状態だったろうが、とても目をとめる余裕がなかったのだ。週末・・・というよりも連休初日、やはりノンビリしているのだろう、穏やかな天気と眼福に感謝!
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3時起床、日誌書く。
二度寝、6時起床。
洗濯。
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朝食、アイスプラントの軸の食感がとても楽しい。
珈琲。
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第4土曜日は<使用済み天ぷら油回収>の日、7時30分にセットして10時に業者が回収に来る。
今日のミッションは<MQJ(メモリアル・キルト・ジャパン>のニュースの編集、何とか仕上げて<京都市市民活動総合センター>に明日の印刷室の予約を入れる。
今日の油回収量は1Lとのこと。
クロネコが Mac mini の回収に、一応梱包していたがやはり専用の箱があったのでそちらに移す。一緒に<もったいない本舗>似依頼した段ボールを届けてくれる。
ツレアイはWeb研修、私はセントラルスクエア花屋町店へ、カミソリとシェービングジェルを購入する。
ランチ、彼女にはお好み焼き、息子には<好きやねん>。
彼女は午後から<バザールカフェ>でキルト作り、2男はボランティアに出る。
私は研究室から持ち帰った<柳田國男全集>を梱包、クロネコに集荷依頼する。
作業場の空いた棚の整理、米朝・枝雀のDVDをチェック、あれこれ漏れがあるが一部は長男のところ、メールで問合せ、ついでに4/29(月)に夕飯を一緒にすることになった。
ライフ西七条店へ買物、刺身の盛り合わせを購入する。
夕飯準備を始めたところへクロネコが集荷に来てくれた、段ボール箱*3。
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ツレアイも帰宅してみなで夕飯、<鱧皮と胡瓜の和え物>を久しぶりにInstagramにアップする。
録画番組視聴、
春の池袋でアニメな人々を見つめてみた件
初回放送日:2024年4月26日 人形やキーホルダー、バッジなどのアニメグッズ。こうした品々を買い取ってくれるお店が舞台。アニメの街、東京・池袋にあって、連日、多くの人が何かを持ってやってくる。好きなアニメが変わったと、以前の推しキャラクターのバッグを売る人。就職で遠方への引っ越しを機に、グッズを手放すという人。気持ちに区切りをつけるために訪れたという人もいる。大好きなものと別れるそれぞれの事情から、どんな今が見えるのか。
名探偵ポワロ 第7話「安いマンションの事件」
ポワロとヘイスティングスは、パーティでロビンソン夫妻と知り合う。高級マンションを格安で借りたことに疑いを持つポワロは、夫妻と同じマンションに部屋を借りることに。ポワロはロビンソン夫妻が2組いることを知り、部屋を見張る不審な男を確認する。
片付け、入浴、体重は2日前から550g減。
眠いので日誌は明日の朝にする。
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ちょこまか動いたので、無事に3つのリング完成。
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asagaquru · 8 months
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札幌市中央区南3条西3丁目。すすきのの真ん中にあるジェリコというジャズバーに向かう。すすきの駅、豊水すすきの、すすきのビル、薄野交番はあるが、実はすすきのという住所はない。歩いてみると何となくここらへんからすすきのというイメージはあるが、どこからどこまでが日本最北の歓楽街なのだろうか。調べると東西が西2丁目から西6丁目の間、南北が南3条から南7条の間と一応決まっているようだ。また、札幌の構造物は定めた景観色を使うようガイドラインがあるが、すすきのは広告物活用地区でもあり、デカデカとした看板やネオンを使うことが許されているらしい。札幌が好きだ。
8時を少しすぎてジェリコのあるビルに着く。地下1階への階段を降りると奥から楽器の音がするドアがあって、開けると防音壁が埋まるほどCDやレコードが煩雑に並べられた小さなジャズバー。真っ直ぐ奥に恋人がサックスを持って立っていた。私に気付き、視線で適当に座るよう教えてくれる。ステージから1番近いテーブルしか空いてなくてそこに座る。初めて彼の演奏姿を見る。本当にサックス吹けたんだと笑ってしまう。彼が大学時代に加入していたジャズ研究会のOBたちのライブだった。楽譜は見ているけれど、譜面通りではなさそうだ。お互い目配せして、ソロをやってみたり途中から合流してみたり、楽しそうにジャズをやっている。ジャズの知識はないわたしは、何となく良いな、このリズム楽しいなと思って眺めていた。
ライブは2部構成で1部目が終わったら、恋人が隣に来て、煙草に火をつけた。「これライブの時だけだから。緊張誤魔化すのに」と第一声目がそれだった。「来てくれてありがとう」とか「演奏どうだった?」が最初でないことがおかしくて笑ってしまう。初めて横で喫煙姿を見る。彼は交際してすぐ煙草をやめたから、一度や二度待ち合わせのコンビニで煙草咥える姿を遠巻きに見た程度で銘柄も知らなかった。アメスピだった。
2部目も終われば、演者の人たちと混ざって乾杯をした。彼が彼の友達と話す姿をみるのも初めてだった。今日は初めてばかりだ。大きな卓の端で大学時代から仲の良い友達と話すのを聞いていた。話口調が普段と変わらなくて安心する。その彼のあだ名はセクシャルと言う。なんでセクシャルなのと聞くと「過去に性犯罪をして」と冗談を言われる。勝手な偏見とこのジャズバーが地下にあるのもあって、アンダーグラウンドだなと思う。
好きなものが同じ同士が集まると面白い。ジャズってその場で譜面にないオリジナルで演奏して、どうやって曲を成り立たせれるのかを聞くとトロンボーンを吹いていた人が「なんとなく入りがわかる」と。未知の世界すぎて面白い。「そしたら演者同士でも今のは違うだろーとか思うの?」「それはあるけれど、まあ好みってところが1番大きい。ハマったと思っても聴いている人は微妙な反応されることも多いしね。そもそも演者同士でも好みやスタイルが違うんだ」「同じジャズなのに?」「ジャズにもスタイルがあって、歴史も流行も違う。ジャズの元は黒人のカルチャーとして葬式で天国に行っても楽しくねと弔う音楽なんだけど、そこから色々とそれぞれがカッコいい音楽を求めて派生していくのがジャズで、年代によって全然違うんだ。僕は割と黒人発のジャズだし、彼女は新しい方だったりする」 ドラムを叩いていた女性が続く。「わたしは元はビックバンドをやってたりしてたから片足違うとこ突っ込んでるしね」「それって今日のステージだけでも何十年以上のスタイルの幅があるってこと?」「なんなら100年以上あるんじゃないかな」 100年も、と思う。そんな世界に、この地下のジャズバーに大学生の頃から出会っているなんて。わたしと全く違う学生時代に思い馳せる。話した演者の中にはバーでジャズミュージシャンとして働く人もいるみたいだ。すすきののどこかのお店でまた再会できたらいい。
2時にお開き。彼と帰るのにタクシーに乗り込む。すす���のから家まで1000円とかからない。彼にとっての日常で、わたしにとっての非日常。盆を過ぎても、もったりとした夜の湿度。街灯が流れ星のように車窓を横切っていく。いつも夏だけが幻のような気がしている。
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