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#宋家皇朝
gokaiju · 2 years
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宋家皇朝 (The Soong Sisters) (Mabel Cheung, 1997) Cover for the Blu-ray by Spectrum Films
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ari0921 · 4 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)5月26日(日曜日)
    通巻第8266号
 パラノイア指導部の幻覚症状は狂気を帯びてきた
  習近平の『中華民族共同体概論』なるものをどう読むべきか
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シン文化大革命の本格化なのか?
『中華民族共同体概論』なるものが発表された。毛沢東が提唱した階級革命ではなく、むしろ漢民族の文化的、人種的ナショナリズムを基軸とする、幻覚症状が顕著なのである。
中国共産党の少数民族政策に対する新たなアプローチは、少数民族が政治的、文化的自治権を行使し「自らの家の主人」となることを認めた過去の約束を頭から否定した。
新しい概論は中国の過去と未来に漢民族中心の物語に変色され、チベット人、ウイグル人、モンゴル人、その他の先住民族の「主権」と「祖国」は消去され、漢民族の植民地主義と人種形成の目的論に置き換えられた。時代錯誤も甚だしいと言える。
習近平がとなえる「中華民族」とかの抽象的概念は「統一された多民族国家」を統治するための新しい正統性を明確に表現している。『中華民族共同体概論』が提示す考え方は、民族統治に対する従来のアプローチ、「共産主義的多文化主義」というパラダイムから漢民族中心の文化的および人種的ナショナリズムへの根本的な後退を表している。
2018年に改正された中華人民共和国憲法は、1億2500万人と公認されている「少数民族」に対し、10億人を超える漢民族との平等を引き続き約束している。それぞれの故郷において、憲法はこれらの少数民族が「自治権を行使」できるよう「地域自治」を約束している。「独自の言語」『独自の文化』の権利も含まれるのである。この憲法を土台から無視しているのは、さすがに無法国家である。
『中華民族共同体概論』は、少数民族に漢民族の規範への服従と、言語、文化、アイデンティティの緩やかな消去を要求しており、中華人民共和国の少数民族を新たな漢帝国の植民地の「臣民」と定義した。
▼多様な意見はもはや少数民族自治区公共の場では存在しない
新たな正統派思想、「習近平の国家建設事業の強化と改善に関する重要思想」と呼ばれているものは、少数民族や漢民族の当局者から反対されてきた筈だった。
近年の典型がウイグル族への撤退的な弾圧だった。党国家官僚機構の再編、新疆ウイグル自治区やその他の辺境地域での暴力的な取り締まり、そして「民族問題」を担当する少数民族当局者の粛清がつづき、多様な意見はもはや公共の場では存在しない。
チベットのパンチェンラマは23年間、行方不明である。習近平主席が自ら宣言した「新時代」が到来した。
1991年のソ連崩壊後、民族分離主義の危険性と伝統的な中華文化の復興が緊急に必要であるとの強迫観念に取り憑かれた中国共産党は、「第二世代の民族政策」を提唱した。
政権の安定に「深刻な課題をもたらす根深い問題」とは、海外から煽られたテロ、過激主義、分離主義の三つの「悪の勢力」だけでなく、国内の「イデオロギーの誤解」や「誤った見解」も含まれる、とする。
「一部の地域では、少数民族文化の特殊性を誇張して「後進的で奇妙な風習や習慣」を促進している一方で、「一部の人々」は「意図的に少数民族のアイデンティティを強調し、中華民族のアイデンティティを薄め、意識的または無意識的に中華民族の共通性を無視している」と報告された。
『中華民族共同体概論』はこれまでの少数民族優遇政策を批判している。
過去の称す民族への政策は「当初の意図から逸脱し、民族的差異を固定化し、狭い民族意識を助長し、誤った『少数民族例外主義』論を生み出した」とし、ウイグル族、チベット族、モンゴル族が自らの歴史を歪曲し、「文化的多様性の保��を利用して後進的な生活様式や固定観念に固執する」ようになったなどとした。
同概論では中国の歴史に関する13の「講義」を中心としている。
また、習近平政権下での国家建設活動の新たな指導政策策定の意味、重要性、影響を解説している。
驚き桃の木は「中華民族は、約200万年前に、中国特有のヒト科のグループとともに出現した。その後、周囲の民族をその優れた華夏・漢民族の中核に引き込み、吸収することで有機的に成長し、途切れることなく分裂することなく、その規模と地理的分布を拡大した」そうな。
ホモサピエンスは235000年前、北京原人の人骨が再発見されたとしても、中国の最古のものは50万年前の類人猿である。北京市房山区周口店で北京原人の化石が見つかったのは1929年12月2日だが、その後、頭骸骨は行方不明である。
 
しかも「中華文明の寛容、平和、開放性」が自然な成長をもたらしたなどと吠え、文明の衝突、植民地主義、略奪、弱肉強食を克服した中国は、帝国と国民国家の両方の上部構造を超越する「人類文明の新しいパターン」を開拓したとなどと事大主義的な幻想を唱えている。妄想に近いのではないか。
なにしろ「すべての民族が中華民族とその国民国家に「同一視し忠誠を誓う必要性」を持つために国民を「導く」積極的な役割を果たさなければならない」とし、「中華民族は絶対に『想像上の共同体』ではなく、むしろ5000年以上の中国文明の伝統が染み込んだ巨大国家共同体である」とパラノイア症状は重症になる。
たしかに殷王朝から秦始皇帝、漢帝国と中国では易姓革命が継続されたが、秦も隋も唐も鮮卑系であり、元はモンゴルであり、清朝は満州族だった。漢族の王朝は漢と明と宋でしかないが、この歴史実態は「中華民族共同体」でひとくくりにするわけだ。
『中華民族共同体概論』では中国文明は約5000年前に共通の政治共同体を生み出した「血縁の基盤」の上に築かれたと主張している。
第一の特徴は「血」という用語が夥しく使用され、中国の歴史全体を通じて、民族間の結婚、文化の融合、地域間の移住、「絡み合った血統」について頻繁に言及している。
習近平は漢民族と少数民族の関係を説明する際に「大家庭」の比喩を頻繁に用いている。中華人民共和国建国の際に毛沢東が同じ比喩を用いたとき、「中華民族の家族の血縁関係」を明らかにしようとした。つまり、「あなたは私の中におり、私はあなたの中におり、誰も他の人から切り離すことはできない」というわけである。
第二に、各民族の意識と中華民族の共通意識との関係である。両者は「手を取り合って」はいるものの、同等ではない。むしろ、中華民族全体の利益が第一であり、各民族の意識は「中華民族共同体の意識に従属し、奉仕すべきである」とする。
第三に、中華文化と各民族文化の関係である。「中華文化は背骨であり、各民族文化は枝葉である。根が深く幹が強くてこそ枝葉が栄える」
第四に、物質と精神の関係がある。「経済と社会の発展は、自然に国家の統一をもたらすものではない」とし、党の指導者は「魂のエンジニア」でなければならない。積極的に中国国民全員の思考、隠語、行動、身体を形成しなければならないが、少数民族は後進的と見なされているため、特別な配慮が必要である。
冒頭にのべたように、現在の中国では毛沢東を尊敬するパラノイア指導部によって、新たな文化革命が本格化している。漢民族の文化的、人種的ナショナリズムの波である。過去の約束、政策、歴史を歪曲することで、漢民族中心主義の神話を再構築しようとしていることになる。つまり、中国共産党王朝にただ一人の主人がいる。
それが漢民族基軸のシン帝国、習近平皇帝ということである。
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the-monkey-ruler · 11 months
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Can you elaborate on Yao Ji having her husband and first son killed? Because I looked her up but that part of her story didn’t show up in either version of her origins
So looking into it, it turns out that this was another case of a single piece of media making headcanon so popular that other pieces of media copy it. It was Lotus Lantern the TV series that makes Yao Ji Erlang's mother when she is more considered a daughter of the jade emperor (something the 1996 series kept right). And from there other series or stories have copied that format giving Yaoji that attention.
But the real name of Erlang Shen's mother is Yunhua 云花女. She is still considered a daughter in some myth but it is hard to tell which myths are the most popular. Yunhua, also known as Cloud Flower Girl, is a character also known as Zhang Xiangu, Zhang Sanjie, Zhang Yuntai, and San Shengu, her titles are Princess Bailian and Princess Lotus. The records mainly come from classical literary works such as "Erlang Baojuan" and "Journey to the West " as well as folklore. 
She is the wife of Yang Tianyou, the third princess of Heaven, and the owner of the Bullfighting Palace. Yunhua is either the third daughter of the Jade Emperor and the Queen Mother of the West (other theories believe that Yunhua is the sister of the Jade Emperor, and the Third Holy Mother is the daughter of the God of Huashan Mountain in Xiyue).
So sorry for the confusion! Here are links to both Yunhua and Yaoji if you wish to read more!
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herosone111 · 3 months
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https://m.163.com/dy/article/J60RU9BO055616XU.html?spss=adap_pc
有人一辈子就活在几个假故事里
文/六神磊磊
最近看金庸《倚天屠龙记》,读出三个很有趣的现象。
第一个现象,赵敏什么都知道:
「赵小姐谈吐甚健,说起原各派的武林轶事,竟有许多连殷天正父子也不知道的。她……出言似乎漫不经意,但一褒一赞,无不词中窍要。”」
看,连殷天正老法王都不知道的,她也知道。
她甚至连普通女弟子周芷若的事都知道。
「赵敏道:“张教主神功无敌,听说曾以乾坤大挪移法从灭绝师太夺得此剑,何以反为此剑所伤?”
“又听说剑伤张教主者,乃是峨嵋派一个青年女弟子,武功也只平平,小妹对此殊为不解。”
张无忌脸上一红,心道:“她怎知道得这般清楚?”
赵敏微笑道:“那位周芷若周姊姊定是太美丽了,是不是?”」
第二个现象,中层什么都半知道不知道:
「丐帮执法长老:“不错,魔教的淫邪之徒确有项采花的法门,男女都会。峨嵋派的女弟子纪晓芙,就因了魔教杨逍的邪术,闹得身败名裂。张无忌的父亲张翠山,也是被白眉鹰王之女的妖法所困。
“那鞑子郡主必是中了张无忌这小魔头的采花邪法,因而失身于他,木已成舟,生米煮成熟饭,便自甘堕落而不能自拔了。”
丐帮群豪一齐点头称是。」
半知道不知道,还经常“点头称是”。
第三个现象是,底层什么都不知道:
「众百姓纷纷谈论,说的都是今日“游皇城”的热闹豪阔。
有人道:“南方明教造反,今日关帝菩萨游行时眼大放煞气,反贼定能扑灭。”有人道:“明教有弥勒菩萨保佑,看来关圣帝君和弥勒佛将有一场大战!”
又有人说:“贾鲁大人拉夫掘黄河,挖出一个独眼石人,那石人背上刻有两行字道:‘莫道石人一只眼,挑动黄河天下反’,这是运数使然,勉强不来的!”」
关注了一辈子时事,结果知道的就是:“关圣帝君和弥勒佛将有一场大战!”今天分析关帝能不能了弥勒,明天讨论弥勒能不能赢关帝。
一个假故事,可以聊三年。
十个假故事,这一辈子就(被骗着)过去了。
那么假故事是怎么来的呢?当然是有人故意编的。
比如陈友谅、宋青书编的:
「“陈友谅:‘此女(周芷若)和宋兄弟青梅竹马,素有婚姻之约,哪知却给魔教的张无忌横刀夺爱……宋兄弟气愤不过!’”
“宋青书恨恨的道:‘张无忌这小子相貌平平,并无半点英俊潇洒之处,只是学到了魔教的(采花)邪术,善于迷惑女子,许多青年女子便都堕入了他的彀中。’”」
然后丐帮群豪就听进去了:
「“丐帮群豪大声鼓噪,都说誓当宰了张无忌这淫贼,要助宋青书夺回妻子。”」
看,丐帮群雄听了这个假故事,立刻群情踊跃,要为武当后备掌门宋青书抢女人。
最后宋青书得到女人;陈友谅得到流量和权柄;群情踊跃的丐帮群豪得到什么?
他们得到了(去当小兵打明教,然后假如能活下来)硬刚张无忌的机会啊!
——
去围攻光明顶和明教打,自己死了,为朝廷当炮灰,还不知道自己帮了自己的敌人,这就是信息里的丐帮,其实就是被人挑拨去害人。
中国水军是如何对付一个人的?
水军其实是可以后台知道谁是谁的,然后针对这个人,在很多网站里进行谩骂侮辱,
你想想,假如你总被老板骂,回家你也会一肚子气,容易发火,假如有人被水军攻击,他很容易会情绪失控,何况是台钢的亲戚那么小一个孩子?
然后他的情绪被引发,假如你以为自己说公道话,其实他不会知道的,他也会以为你也是对方一路的,所以会攻击你。
这就是为什么你找不到攻击对方的来源,因为这是一个很庞大的组织,你只看到你自己网站上对对方的攻击,但其实在对方接受的信息里,敌人是在每个网站连续说同一件事,不断递进攻击的,就像一群幽灵在追踪对方,而你是无法像对方那样看到这种连续性。
中国网络水军,是一堆企业背后的支配者所控制的。
这种东西叫“辛迪加”,其实中国没有多少私人公司,每个公司实际最大权力的不是CEO,好像是一个中国政府派进去的类似“书记”的人,这个人甚至可以控制公司是否能卖出股票,中国股票涨跌可控制,你CEO也不能控制。(现在好像已经取消这个人的职位了,采用大数据和各种其他技术调配所有公司组成的联合体。每个人只知道自己的任务,但是任务组合起来会发生什么他不知道,就像让一个机器人给另一个机器人送去箭,另一个机器人射箭,但是后面这个机器人没有视力,不知道射箭会杀死一个人一样。)
华为是私人公司吗?中国没有这么大的私人公司。甚至中国就没有任何公司,只有一个政体和他控制的利益体系,为什么我会被攻击?你看看我的���术和策略造成多少利益?假如我不受控制,你觉得会怎样?我会带来人类的美好时光。这样有人就不满意了,人类必须分裂和互相敌对才不会静下来,就没有心思找到真正的幕后黑手了。
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这个世界本来就没有公平可言。
香港的人以为他们知道我是什么人,其实他们真的不知道,他们就是那种点头称是的丐帮。
马云会知道自己的投资实际从哪里来吗?孙正义会知道吗?(现在他们应该已经撤资)STEAM知道吗?苹果知道吗?虚幻引擎知道吗?N卡知道吗?好莱坞知道吗?美国政府知道吗?日本游戏和动漫公司连谁在背后整他们和给他们投资都不知道。他们知道要攻击我,他们不知道为什么会有人推动他们的情绪要攻击我。
他们知道得很多,但其实不知道背后还有什么,我不说,有的事我不想随便说。
不过,他们背后抹黑我,对我禁言封号,你知道为什么吗?因为假如他们正面抹黑我,很快就会被我澄清,例如他们说我不专一,其实被我知道马上就反驳了。
他们就是要背后使手段抹黑,不会正面和我说话,而且要把我文章弄乱。
假如我正常说话会被禁言封号,那我只能隐晦地说话,这样他们又能嘲讽我是疯子谜语人。
所以你明白了吧,为什么我现在写文章这么正常,就因为我没在中国政府控制的网站里写文章而已,因为我写的文章不正常的背后是有托拉斯组织,辛迪加集团希望控制和窃取我,并吞并世界,他们就是让人不能说话。
台湾的李敖说什么白色恐怖,简直小儿科,台湾有多少人?他们人手都不够去控制别人,你李敖不需要任何手段就能去别的国家网站说话,中国人说话根本说不出来。台湾人就是废物,他们知道的事和香港、日本没区别,完全是丐帮级别,大陆只要做好政治宣传,然后就瞬间灭了台湾。你真正知道大陆的人被多年控制的思想之后,你会发现中国政府一句话能推他们去毁灭世界,假如全民公投毁灭日本,下一秒核弹就发射,假如现在中国有人被推动来杀我,我觉得很正常,因为这也不是第一次了,我甚至都不知道他们用的什么武器。
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巴菲特不如把部分钱捐给我好了,虽然我也不知道该干什么,不通过中国政府,直接给我。
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你的敌人辛迪加集团已经上线至少37年,在不断用利益诱惑你放弃你的基础,用各种方法破坏你的系统,阻止我带来和平,而你对此一无所知,还以为他们是你的朋友。
邓朴方也不知道是不是故意假装相信别人告诉他的毛泽东谋害��己,然后故意从中获利的。
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其实我知道,我只是不想说出来,因为有的事在暗中准备,你们会看到那些人攻击我,然后找到背后发生的事,你们最终会发现背后导致世界末日的政治家集团,至于你们是否战斗我不在乎,因为我没有后代,而你们不战斗后代就会变成玩具。
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vespasiane · 11 months
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白居易
51个
2023/10/20: 唐代存诗最多的白居易,流传至今的诗歌也只有三千多首
白居易是唐代存诗最多的一位诗人,他的诗歌流传到现在的有三千多首。他也是唐代继李白、杜甫之后最杰出的一个诗人。
2023/10/20: 中国文学由雅到俗、由士大夫正统文学到市民文学、由抒情到叙事转变中的白居易叙事诗
《长恨歌》、《琵琶行》是白居易叙事诗的杰出代表,它们在故事的曲折完整、描写的细致生动和抒情气氛的浓郁等方面,都有突出成绩,都显示了中国古代文人叙事诗所达到的艺术高度,体现出古代叙事诗鲜明的民族特色。并且在中国封建时代文学由雅到俗的转变、由封建士大夫正统文学到市民文学的转变、由抒情到叙事的转变过程中,起到了无可替代的昭示作用。
◆ 一、十年之间三登科第(772—806)
2023/10/20: 男性情史悲剧助于闺怨描写
“乐天深于诗,多于情者也”,这是友人王质夫对他的评价,白居易亦自诩是“情所钟者”(《祭符离六兄文》),他与湘灵那段“两心之外无人知”(《潜别离》)的悲剧经历,有如春梦朝云长萦心头,因此在诗篇中总给那些失宠、幽闭及婚姻情感不幸的女子以一种特别的同情。
◆ 邯郸冬至夜思家
2023/10/20: 我意君心
《初与元九别后忽梦见之及寤而书忽至》:“以我今朝意,想君此夜心。”
◆ 长恨歌
2023/10/20: 君王掩面,黄埃散漫。芙面柳眉,夕殿萤飞
渔阳鼙鼓动地来,惊破霓裳羽衣曲。九重城阙烟尘生,千乘万骑西南行。翠华摇摇行复止,西出都门百余里。六军不发无奈何,宛转蛾眉马前死。花钿委地无人收,翠翘金雀玉搔头。君王掩面救不得,回看血泪相和流。黄埃散漫风萧索,云栈萦纡登剑阁。峨嵋山下少人行,旌旗无光日色薄。蜀江水碧蜀山青,圣主朝朝暮暮情。行宫见月伤心色,夜雨闻铃肠断声。天旋日转回龙驭,到此踌躇不能去。马嵬坡下泥土中,不见玉颜空死处。君臣相顾尽沾衣,东望都门信马归。归来池苑皆依旧,太液芙蓉未央柳。芙蓉如面柳如眉,对此如何不泪垂。春风桃李花开日,秋雨梧桐叶落时。西宫南苑多秋草,宫叶满阶红不扫。梨园弟子白发新,椒房阿监青娥老。夕殿萤飞思悄然,孤灯挑尽未成眠。迟迟钟鼓初长夜,耿耿星河欲曙天。鸳鸯瓦冷霜华重,翡翠衾寒谁与共。
2023/10/21: 仙袂飘飘
风吹仙袂飘飘举,犹似霓裳羽衣舞。
2023/10/21: 通过对史实的改造与取舍,“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,不影响他们令人同情、赞颂
如“杨家有女初长成,养在深闺人未识。天生丽质难自弃,一朝选在君王侧”,通过对杨妃入宫史实的改造与取舍,通过“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,使他们成为令人同情、赞颂的角色。
2023/10/21: 《长恨歌》悲剧源于爱得太过分、太出格,不顾爱情的社会影响
李、杨的爱情悲剧,既非封建婚姻、封建礼教所造成,也很难归咎于某个奸相如安禄山、杨国忠,当然更不能归咎于“六军不发”的首领陈玄礼。他们的悲剧根源就在于过度沉溺于欢爱,到了“从此君王不早朝”的程度,结果也就必然会引起“渔阳鼙鼓动地来”,导致生离死别的悲剧结局。占了情场,误了朝纲,又反过来毁灭了爱情。从抽象意义上说,《长恨歌》所描写的是一曲因为爱得太过分、太出格而引起的悲歌,又是一曲不顾爱情的社会影响而引起的悲歌。因此,为了维护爱情的永恒,必须把爱情控制在适当的范围内,摆在适当的位置上。
2023/10/21: 丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人
汉武帝,初丧李夫人。夫人病时不肯别,死后留得生前恩。君恩不尽念未已,甘泉殿里令写真。丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人。
2023/10/21: 魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲
九华帐深夜悄悄,反魂香降夫人魂。夫人之魂在何许?香烟引到焚香处。既来何苦不须臾,缥缈悠扬还灭去。去何速兮来何迟?是耶非耶两不知。翠蛾仿佛平生貌,不似昭阳寝疾时。魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲。背灯隔帐不得语,安用暂来还见违。
2023/10/21: 诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒言“不如不遇”。一旦遇上,只能“生亦惑,死亦惑”了
白居易在《胡旋女》、《八骏图》、《古冢狐》等讽谕诗和政论文章中,对历史上真实的“一人荒乐万人愁”式的爱情毫不含糊地持批评讽刺态度,而这首诗却有些“气短”,因为诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒章显志之言是“不如不遇”。如果再追问一句,一旦遇上了怎么办?那就只能“生亦惑,死亦惑”了。因此,有一个从政治角度还是从人性人情角度看待李、杨爱情的不同,从理智、政治上说,这种“惑”要不得,误国害民害己,应该批判;从情感、人情上说,他又觉得这种“惑”有其合情、值得同情甚至赞颂的一面。看来,作《长恨歌》时的白居易“多情”诗人浪漫气质要重得多,这正是他把《长恨歌》写成一曲哀感顽艳的爱情悲歌的主观原因。
◆ 观刈麦
2023/10/21: 南风陇黄
夜来南风起,小麦覆陇黄
2023/10/21: 念此私自愧,尽日不能忘
听其相顾言,闻者为悲伤。家田输税尽,拾此充饥肠。今我何功德,曾不事农桑。吏禄三百石,岁晏有余粮。念此私自愧,尽日不能忘。
2023/10/21: 微雨众卉新,一雷惊蛰始
微雨众卉新,一雷惊蛰始。田家几日闲,耕种从此起。
2023/10/21: 北风利如剑,布絮不蔽身
八年十二月,五日雪纷纷。竹柏皆冻死,况彼无衣民!回观村闾间,十室八九贫。北风利如剑,布絮不蔽身。唯烧蒿棘火,愁坐夜待晨。
2023/10/21: 念彼深可愧,自问是何人
顾我当此日,草堂深掩门。褐裘覆絁被,坐卧有余温。幸免饥冻苦,又无垄亩勤。念彼深可愧,自问是何人。
◆ 二、救济人病裨补时阙(807—811)
2023/10/21: 正色强御,刚肠喔咿
正色摧强御,刚肠嫉喔咿。
2023/10/21: 启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之
“欲开壅蔽达人情,先向歌诗求讽刺”(《采诗官》),经过风云激荡的政治生活洗礼,白居易认识到“文章合为时而著,歌诗合为事而作”,因此“启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之”。
2023/10/21: 首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也
为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也
篇无定句,句无定字;系于意,不系于文。首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也。其辞质而径,欲见之者易谕也;其言直而切,欲闻之者深诫也;其事核而实,使采之者传信也;其体顺而肆,可以播于乐章歌曲也。总而言之,为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也。
◆ 杜陵叟
2023/10/22: 善政不能及民者多矣
《唐宋诗醇》评曰:“从古及今,善政不能及民者多矣。一结慨然思深,可为太息。”
2023/10/22: 绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧
皇帝降下德音,税早已收完,从中可见皇帝要减税,主要是为了笼络人心,装装样子,执行与否,执行到什么程度,他是不去管的。而地方官也明知这一点,利用其不闻不问、不检查督促,搞了一场骗局。这种“善政”真让人“慨然思深”。宋代诗人受白居易诗启发,写下了“自从乡官新上来,黄纸放尽白纸催”(范成大《后催租行》)、“一司日日下赈济,一司旦旦催租税”(米芾《催租》)、“淡黄竹纸说蠲逋,白纸仍科不稼租”(朱继芳《农桑》)等作,这说明绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧去“虐人害物”,连“善政”的美名也不要了。
◆ 井底引银瓶
2023/10/22: 两心之外无人知,彼此甘心无后期
白居易早年曾与邻女湘灵相恋,其《长相思》诗有云:“妾住洛桥北,君住洛桥南。十五即相识,今年二十三。”但这段缠绵的恋情最终却是分离的悲剧结局,《潜别离》诗言及分手的痛苦:“不得哭,潜别离。不得语,暗相思。两心之外无人知。深笼夜锁独栖鸟,利剑春断连理枝。河���虽浊有清日,乌头虽黑有白时。唯有潜离与暗别,彼此甘心无后期。”
◆ 轻肥
2023/10/23: 把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,“结语斗绝,有一落千丈之势”
全诗共十六句,用了十四句写宦官的长街走马,写军中宴会,层层铺垫渲染,把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,到了最大限度时才对准目标猛地射出一箭——“是岁江南旱,衢州人食人”,这一箭才特别有力
2023/10/23: 衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果
一方面是花天酒地、骄奢淫逸,一方面是大旱饥荒、人吃人,这两种现象强烈而鲜明的对比是对宦官的尖锐抨击。这两种现象之间又有着深刻的内在联系:一小撮宦官糜烂发臭的生活,就是建筑在广大人民饥饿和死亡的基础上的;“是岁江南旱”两句前面放上“食饱心自若,酒酣气益振”两句,暗示了“衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果。
◆ 三、中道左迁天涯沦落(811—820)
2023/10/24: 根情、苗言、华声、实义
对于诗的性质,他概括出“根情、苗言、华声、实义”四大要素。诗歌要以情感为基础,用形象的语言、和谐的韵律表现出来,内容必须具有充实的义理。否则,诗歌就失去了价值。
2023/10/24: 谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也
他将自己的诗歌分为四类:讽谕诗、闲适诗、感伤诗和杂律诗。《与元九书》云:“自拾遗以来,凡所遇所感,关于美刺兴比者,又自武德迄元和,因事立题,题为《新乐府》者,共一百五十首,谓之讽谕诗。又或退公独处,或移病闲居,知足保和,吟玩性情者一百首,谓之闲适诗。又有事物牵于外,情理动于内,随感遇而形于叹咏者一百首,谓之感伤诗。又有五言、七言、长句、绝句,自一百韵至两韵者四百余首,谓之杂律诗。”四类中他最看重的是讽谕诗和闲适诗,“谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也。故览仆诗,知仆之道焉”。因为这两类诗集中表现了他进退出处之道和平生志尚,也体现了他诗歌创作的指归,所以值得珍视。
◆ 欲与元八卜邻先有是赠
2023/10/24: 暂出犹思伴,安居须择邻
每因暂出犹思伴,岂得安居不择邻。
2023/10/24: 两岸人烟,一溪灯火
“两岸人烟分市色,一溪灯火共书声”(吴企晋)
◆ 蓝桥驿见元九诗
2023/10/24: 每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗
蓝桥春雪君归日,秦岭秋风我去时。每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗。
2023/10/24: 诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰
三、四句则用“下马”、“循墙”、“绕柱”、“觅君诗”等四个细节动作,真实而准确地描绘出诗人寻觅、辨认友人诗作的动人情景,而这种寻觅又表明诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰。出语看似平淡,表达的情意却极为深挚,这是白居易诗的独造之境。
2023/10/24: 此句他人尚不可闻,况仆心哉
元和十年,元稹正月入京,不料三月又复贬为通州司马,八月,在病危之中惊悉白居易贬江州,忧愤难禁,写下了充满深情的《闻乐天左降江州司马》诗:残灯无焰影幢幢,此夕闻君谪九江。垂死病中惊坐起,暗风吹雨入寒窗。全诗用残灯、阴影、暗风、秋雨、寒窗等景物,构成了一种凄惨孤独的意境,借以衬托诗人所处的环境和关切友人的挚情。白居易读到这首诗后,十分感动,在《与微之书》中说:“此句他人尚不可闻,况仆心哉!至今每吟,犹恻恻耳。”
◆ 放言五首并序(选一)
2023/10/24: 草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠
朝真暮伪何人辨,古往今来底事无?但爱臧生能诈圣,可知宁子解佯愚?草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠?不取燔柴兼照乘,可怜光彩亦何殊!
◆ 琵琶行并序
2023/10/24: 予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意
遂命酒,使快弹数曲。曲罢悯然。自叙少小时欢乐事,今漂沦憔悴,转徙于江湖间。予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意。
◆ 暮江吟
2023/10/24: 草风沙雨
建昌江水县门前,立马教人唤渡船。忽似往年归蔡渡,草风沙雨渭河边。
◆ 四、闲居泰适觞咏弦歌(820—846)
2023/10/24: 以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣 敬宗宝历元年(825)三月,除苏州刺史,二年以病免郡事
元和十五年(820)正月宪宗暴卒,穆宗即位。夏初,白居易自忠州召还长安,除尚书司门员外郎;十二月,改授主客郎中、知制诰。穆宗长庆元年(821)十月,转中书舍人。长庆二年,河北藩镇复乱,居易多次上疏言事,但“天子荒纵,宰相才下,赏罚失所宜,坐视贼,无能为,居易虽进忠,不见听”(《新唐书》本传)。于是他请求外任。七月,除杭州刺史;十月,至杭州。白居易少年时慕苏州刺史韦应物、杭州刺史房孺复之风流才调,“以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣”(《吴郡诗石记》)。因此,出牧杭州可谓了却当年心愿。杭州本江南大郡,当时已是形胜佳丽的繁华都市,居易在此留下了大量优美的诗篇。
2023/10/24: 为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒
长庆三年(823),元稹外放为浙东观察使,居易与其邻郡而治,“为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒”(《醉封诗筒寄微之》),从此两郡常以诗筒往来,两位文友诗歌唱和略无虚日。
2023/10/24: 元白 刘白
大和五年(831)七月,挚友元稹卒于武昌,此后,他主要是与刘禹锡为诗友,世称刘、白。
2023/10/24: 朝廷雇我作闲人
《唐宋诗醇》说白居易“洎大和、开成之后,时事日非,宦情愈淡,唯以醉吟为事,遂托于诗以自传焉”。他自长庆以来,虽仕途坦顺,已无意于趋竞,委顺思想得到突出的发展。他在《长庆二年七月自中书舍人出守杭州路次蓝溪作》诗中说自己“置怀齐宠辱,委顺随行止”,“因生江海兴,每羡沧浪水。尚拟拂衣行,况今兼禄仕”。以委顺行之于仕途,一个主要表现就是吏隐,“山林太寂寞,朝阙空喧烦。唯兹郡阁内,嚣静得中间”(《郡亭》)。以太子宾客分司东都时,他的感觉是“朝廷雇我作闲人”(《从同州刺史改授太子少傅分司》)。这时,白居易又进一步提出“中隐”思想。
2023/10/24: 似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒
大隐住朝市,小隐入丘樊。丘樊太冷落,朝市太嚣喧。不如作中隐,隐在留司官。似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒。终岁无公事,随月有俸钱。君若好登临,城南有秋山。君若爱游荡,城东有春园。君若欲一醉,时出赴宾筵。洛中多君子,可以恣欢言。君若欲高卧,但自深掩关。亦无车马客,造次到门前。人生处一世,其道难两全。贱即苦冻馁,贵则多忧患。唯此中隐士,致身吉且安。穷通与丰约,正在四者间。
◆ 勤政楼西老柳
2023/10/24: 半朽树,多情人。开元柳,长庆春
半朽临风树,多情立马人。开元一株柳,长庆二年春。
2023/10/24: 未堪摩霄汉,只合觅稻粱
其《初罢中书舍人》诗云:“性疏岂合承恩久?命薄元知济事难。”又《病中对病鹤》诗云:“未堪再举摩霄汉,只合相随觅稻粱。”
◆ 采莲曲
2023/10/24: 欲语低头笑
菱叶萦波荷飐风,荷花深处小船通。逢郎欲语低头笑,碧玉搔头落水中。
2023/10/24: 斜倚熏笼坐到明
泪湿罗巾梦不成,夜深前殿按歌声。红颜未老恩先断,斜倚熏笼坐到明。
2023/10/24: 秋霜手先知,灯底剪刀冷
寒月沉沉洞房静,珍珠帘外梧桐影。秋霜欲下手先知,灯底裁缝剪刀冷。
◆ 钱塘湖春行
2023/10/24: 松排山面,月点波心
湖上春来似画图,乱峰围绕水平铺。松排山面千重翠,月点波心一颗珠。碧毯线头抽早稻,青罗裙带展新蒲。未能抛得杭州去,一半勾留是此湖。
◆ 杭州春望
2023/10/24: 涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家
望海楼明照曙霞,护江堤白踏晴沙。涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家。红袖织绫夸柿蒂,青旗沽酒趁梨花。谁开湖寺西南路?草绿裙腰一道斜。
◆ 除苏州刺史别洛城东花
2023/10/24: 残暑蝉催尽,新秋雁带来
小宴追凉散,平桥步月回。笙歌归院落,灯火下楼台。残暑蝉催尽,新秋雁带来。将何迎睡兴?临卧举残杯。
2023/10/24: 卧迟灯灭后,睡美雨声中
凉冷三秋夜,安闲一老翁。卧迟灯灭后,睡美雨声中。灰宿温瓶火,香添暖被笼。晓晴寒未起,霜叶满阶红。
◆ 与梦得沽酒闲饮且约后期
2023/10/24: 贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游
四海齐名白与刘,百年交分两绸缪。同贫同病退闲日,一死一生临老头。杯酒英雄君与操,文章微婉我知丘。贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游。
2023/10/24: 不教才展休明代,为罚诗争造化功
杜甫说李白是“文章憎命达,魑魅喜人过”(《天末怀李白》),韩愈评价柳宗元云:“然子厚斥不久,穷不极,虽有出于人,其文学辞章必不能自力以致必传于后如今无疑也。虽使子厚得所愿,为将相于一时,以彼易此,孰得孰失,必有能辨之者。”(《柳子厚墓志铭》)白诗亦谓梦得:“不教才展休明代,为罚诗争造化功。”
◆ 览卢子蒙侍御旧诗多与微之唱和感今伤昔因赠子蒙题于卷后
2023/10/24: 平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身
晦叔坟荒草已陈,梦得墓湿土犹新。微之捐馆将一纪,杓直归丘二十春。城中虽有故第宅,庭芜园废生荆棘。箧中亦有旧书札,纸穿字蠹成灰尘。平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身。岂无晚岁新相识,相识面亲心不亲。人生莫羡苦长命,命长感旧多悲辛。
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katuo1130 · 9 months
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蔡英文秘史 家史
先祖告誡我們——
瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。
蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。
據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。
濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。
據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。
明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。
蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。
蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號
蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。
行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。
此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。
乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。
臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。
乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。
三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。
林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。
嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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lilinyu-22 · 9 months
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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ysformen · 2 years
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『日本人が知らない満洲国の真実』を読んで印象的だったところ。
歴史とは因果関係を明らかにすることです。
良い悪いや善悪の判断は、生身の人間がすることではなく、閻魔様の役割だとでも思ってください。
日本人は真面目すぎて、問題が発生した時に一所懸命に考えて、その都度、最前と思われる対処を行なったのがよくなかったのではないかと、私は思うのです。何千年も前から現地に横たわっていた問題など、放っておけばよかったのです。
日本人のすぐに白黒つけたがる性格がいけなかったのではないかと、最近では思っています。
台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき。
日本人は自分たちのしたことについて、まったく自覚がないところは悪い点です。
日本がパリ講和会議で出した人種差別撤廃条約にしても、あれがいかに欧米の人を困らせたか、日本人は全然理解していません。
アメリカがハワイを併合したときも、日本はかなり文句を言いました。アメリカはすごく腹を立てましたが、日本はそれについて無自覚で、その後、アメリカが日本に報復したくなるとは思いもよりませんでした。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。しかし私はちょっと違うと思います。日本人は自分たちがいかに世界中に大きなインパクトを与えたか無自覚すぎます。
私から言わせれば『あなたたち、自分たちがいかに、世の中を変えたのか、もっと自覚なさい」というところです。
日本人にその自覚がないため、却って無責任に映るのです。日本人が無自覚に正当論を述べたり、本当のことを言ったりすることが、相手にとって痛手になればなるほど、相手はそれを根に持ちます。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法を守って、何もしていません」と言っているのは、とても嘘臭く見えるようです。
優等生が「明日のテストの勉強、私、全然してないの。どうせ悪い点だわ」と言っているのと同じような感じです。それでいい点を取るのですから、嘘つきだと憎まれるのです。
中国人からすると、日本人は全員が嘘つきに見えるようです。
第一次世界大戦後、日本は世界の一員として相応しい態度と振る舞いをしようという意気に燃えていたのに、結局、ヨーロッパからは日本だけが悪者扱いをされてしまいました。
本当に今とそっくりだと思いませんか。
ヨーロッパ人は、そもそもアジア人を信用していないのです。ヨーロッパ人の人種差別は根が深いのです。日本人は名誉白人にはなっても、白人ではありません。
1919年というのは、たった一年ですが、世界史が動き出した一年と言えます。
この1919年の前か後かによって、因果関係がまったく変わってきます。
1919年、世界同時革命を目指すコミンテルンが誕生し、ウィルソン米大統領が民族自決を煽ったせいで、アジアでも激しい民族運動が勃発しました。朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動です。
ハプスブルク帝国を八つ裂きにし、オスマン・トルコ帝国抹殺し、この両国から二十もの国が独立していきました。
現在ではこの両国の旧版図に五十もの国がひしめき合っています。
1919年、ソヴィエトはカラハン宣言を出して、日露戦争後、満洲やモンゴルのを互いの勢力圏に分割した日露の秘密協定暴露し、日本とロシアの取り決めを無効としました。
日本を悪い国だと世界に示すのが目的でした。
中国が共産化して反日に変わった1919年から、満洲は中国であると言われるようになるのです。
ロシアがソ連軍になって過去の関係を全て無視したのと同じように、ソ連の後ろ盾を得た中国も、過去の人間関係や国際関係、条約を全部棄てました。
満洲における日本と中国の関係は1919年を境に完全に変わったのです。
日本という国家はイデオロギーではできていません。最初からみんなが仲良く暮らしていて、憲法などなくても平気なのです。私は憲法廃止論者です。憲法など無い方が、よほど縛りが無くていい国が作れると思っています。よそから来たイデオロギーは日本人には合わないと思います。
中国人と喧嘩をしろということではないのです。見方や感覚がまったく違うので、合わせようと思うことをやめればいい。
感情を抜きにして付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。
国際連盟にとどまっていても、戦争に突入したということもあり得ます。
日本ではなくアメリカが戦争をしたがっていたので、いつかは戦争になっていたはずです。
���当は、アメリカがなぜそれほど日本を敵視して、戦争をしたがったのかこそ、問題��すべきでしょう。
日本人が強いのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が最終的に負けたのは、本当にインテリジェンスが弱いとしか言いようがありません。
満洲にいた満洲人が最後に言ったのが、「日本も残念ですね。こんなに軍事力が強くて、こんなに立派だったのに」という言葉で、現地の方からもそう見えたのでした。
現在の中華人民共和国や北朝鮮と、当時の満洲や併合後の韓国と、どちらがまともな生活をしているか比べてみてください。
そうした観点から論じるべきなのに、日本人は、何事においても、ああすればよかった、こうすればよかったと反省し、失敗した理由を考えすぎます。
矛盾は矛盾のままで、特に問題にすることなく放っておくのです。解決など考えずに、そのままにしておこうというのが大陸的なのです。
戦後の日本の新しい発想というのは、大陸帰りの人からのものが多いです。
当時、右であれ左であれ社会主義の影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ世界史は理解できません。
関東軍もそうですが、軍人はほとんどが貧乏な家で育ちました。そのため、資本家がいなくて人間は平等であるという社会主義の国を目指したのです。
当時の満洲には、自分たちが南方の国民党や共産党と同じ中国人であるという意識はまだなく、のちに歴史を書き換えたのです。
江戸時代は指導者を育てる教育をしていたのが、明治になって官僚を育てる大学しかつくらず、政策を考える帝王教育、君主教育が日本にはなくなったから、立派な指導者が育っていないのです。
日本人は個々人がしっかりしても、全体としては方向性がないというのは本当に残念です。
ノモンハン事件後に関東軍司令官となった梅津美治郎は 、暴走する関東軍参謀らを処分し 、人事の立て直しをはかりました 。彼のもとで一九四一年に 、ソ連国境付近で関東軍特種演習 (関特演 )が行なわれました 。
梅津が支那駐屯軍司令官時代には 、宋哲元の部下が熱河省を侵犯したのに対して 、梅津 ・何応欽協定 (一九三五年 )を結んでいます 。
梅津は 、昭和のありとあらゆる重要事件に関わっていたと言ってもいいでしょう 。二 ・二六事件後に陸軍の粛軍人事を行ない 、一九四五年の降伏文書調印式にも嫌々ながら軍の代表として出席し 、ミズ ーリ号で降伏文書に署名しています 。そのときに息子に対して 、二 ・二六事件とノモンハン事件のことを指して 「今度もまた後始末だよ 」とぼやいたと言われています 。
明治以降の積み重ねが 、今の日本の土台になっているということを 、日本人はしっかりと認識すべきです 。それを理解した途端に 、日本人は元気になると思います 。日本の歴史の本当の姿がわかれば 、それだけで将来は開けると私は思うのです 。従って 、今 、日本のなかで自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を 、取り払っていくだけで 、それ以上は何も言わなくても 、日本人は勢いよく前へと進めると思います 。
日本の六十歳を超えた世代がこのように全然あてにならないので 、三十代 、四十代が本気で頑張らないと 、日本は本当に駄目になると私は思っています 。
満洲国が存続していたら 、日本人も変わることができたのにと思うのです 。日本の中央官庁の職員になったら 、研修で否応なしに最初の三年位 、満洲に行かされます 。そうすれば 、世界のことがわかり視野が広がって 、いい訓練になったのになと思います。
日本では権威 (天皇 )と権力 (侍 ・将軍 )を分けていて 、満洲国でもそれに倣ったからです 。権威と権力の分離は日本の歴史の素晴らしいところで 、日本の歴史では 、天皇陛下がいたずらに権力を振るうということはそうそうなかったのです 。
支那事変と 、それに続く大東亜戦争さえなければ 、満洲国は今の南米の国などとは比べものにならないほど立派な国になっていたはずです 。もう少しで 、共産党の中国や 、北朝鮮のような国ではない立派な近代国家が 、アジア大陸に誕生していた可能性が高かったのです。
今の北朝鮮や中国に対して 、 「われわれは 、こんな国を作ろうとしたのではない 。もっと立派な国をつくろうとしたんだ 。国民に幸せに暮らしてほしいと願って投資したのに 、異民族支配は嫌いだと日本人を追い出しておいて 、同じ民族になら 、殺されても満足なのか 。その後 、なぜこんな状態になったのだ 」と 、日本人は抗議する権利があると思うのです 。
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zxingxing-33 · 9 months
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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fangzhouzi · 1 year
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《满江红.怒发冲冠》真伪之辨
  张艺谋导演的电影《满江红》热映,又引发关于《满江红.怒发冲冠》是否岳飞所写的讨论。自从上个世纪三十年代余嘉锡首次怀疑该词是明人伪作以来,此事已争论了90年,仍无定论。
  认为《满江红·怒发冲冠》是伪作的一个主要理由是,岳飞孙子岳珂编撰《金佗粹编》一书收集岳飞诗文,却没有该词。但该书的“家集”主要收集岳飞文章,只收录两首律诗一首词(《小重山》),可见其对岳飞诗词并不重视,还有其他公认是岳飞所做的诗词未被收入,不足以此证明《满江红》是伪作。
  问题在于,不仅《金佗粹编》未收入《满江红》,在南宋、元、明初的文献中都没有提到该词,是直到明景泰年间汤阴修岳庙,征集岳飞诗文,该词才横空出世,在《精忠录》中首次刊行,此时距离岳飞遇害已三百年。该词问世后,被认为是最能体现岳飞忠愤之气的代表作,明人对其推崇备至,“胆量、意见、文章悉无今古。”(明沈际飞),却在此前三百年间无人提及,岳飞较不出名的诗词反而会被谈到。有这三百年的空白,很难让人相信它不是明人伪托。
  因此,主张《满江红》是真作的人,就去挖掘史料,证明南宋、元已有该词的踪迹,力图填补空白。他们找到的证据,有三方面。
  其一,发现有两本南宋笔记提到该词。如果这是可靠的,就是该词为岳飞所做的最有力证据。但是,这是从清人摘录的南宋笔记中发现的,原著中没有。其中一处是沈雄《古今词话》引南宋陈郁《藏一话腴》:
  【话腴曰:武穆收复河南罢兵表云:“莫守金石之约,难充谿壑之求。暂图安而解倒悬,犹之可也。欲远虑而尊中国,岂其然乎。”故作小重山云:“欲将心事付瑶琴。知音少,弦断有谁听。”指主和议者。又作满江红,忠愤可见,其不欲等闲白了少年头,可以明其心事。】
  《御选历代诗余》也有该条,但其实引自《古今词话》。
  现存《藏一话腴》有几个版本,都无此条。有人认为是版本不同,现存版本有缺失。这当然有可能。但现存《藏一话腴》有一条与与岳飞有关:
  【岳鄂王飞《谢收复河南赦及罢兵表》略曰:“莫守金石之约,难充溪壑之求。暂图安而解倒垂,犹云可也;欲长虑而尊中国,岂其然乎。”又曰:“身居将门,功无补于涓埃;口诵诏书,面有慙于军旅。”又曰:“尚足聪明而过虑,徒怀犹豫以致疑,与无事而请和者谋,恐卑辞而厚币者进。愿定规于一胜,期收地于两河。唾手幽燕,终欲复讐而报国;誓心天地,当令稽首以称藩。”未几金渝盟,河南复陷。后六十年得金之《南迁录》,见当时诸酋议论,锐意为取江南之计:归三京以诱吾归兵于平地,吾保江南则江防必虚;若吾不守江南,则是彼尝见归,吾自委弃,在遗民当自归曲于吾矣。金谋若此,岳武穆之料敌,信不妄云。】
  该条也抄录《谢收复河南赦及罢兵表》,是为了证明岳飞料敌如神。而《古今词话》引用的那条,又把该表再抄了一遍(字句的差异可说是版本不同),却是为了引出岳飞的两首词,但该表与这两首词在内容上并无关联,放在一起显得突兀,不像出自一人。合理的推测是,沈雄引自《藏一话腴》的只有表的部分,关于《小重山》《满江红》部分是他做的补充。正如《四库提要》所说,《古今词话》体裁杂乱,“杂引旧文,参以近人之论,亦间附己说。”
  另一处是,潘永因《宋稗类钞》卷3《忠义》:
  【武穆家谢昭雪表云:“青编尘乙夜之观,白简悟壬人之谮。”最工。武穆有《满江红》词云:“怒髪冲冠,凭栏处,潇潇雨歇。抬望眼,仰天长啸,壮怀激烈。三十功名尘与土,八千里路云和月。莫等闲白了少年头,空悲切!靖康耻,犹未雪;臣子恨,何时灭?驾长车踏破,贺兰山缺。壮志饥餐雠恨(应为‘胡虏’,清人避讳篡改)肉,笑谈渇饮匈奴血。待从头收拾旧山河,朝天阙。”】
  该条未注明出处,前面部分引自南宋罗大经《鹤林玉露》乙编卷3《谢昭雪表》,原书并无后面的《满江红》。《满江红》与《谢昭雪表》也毫无关联,将它突兀地放在后面而且不做评论,不像是原作者所为,更像是抄录者硬塞进去的。
  其二,元代杂剧《岳飞破虏东窗记》里,岳飞有一段唱词:
  【怒发冲冠,丹心贯日,仰天怀抱激烈。功成汗马,枕戈眠月,杀金酋伏首,驾长车踏破贺兰山缺。言愁绝,待把山河重整,那时朝金阙。】
  明显是根据《满江红》改编的,例如“仰天怀抱激烈”明显是“仰天长啸,壮怀激烈”的缩写。这不就可以证明这首词元代就已经在民间流传了吗?问题是,这出杂剧虽然号称元代杂剧,但它是被明人改编过的。徐渭《南词叙录》将该剧归为“本朝”作品,并注明“用礼重编”,“用礼”应是“周礼”之误,弘治年间人。周礼重编时完全有可能把《满江红》改成一段唱词给塞进去。所以这不能证明元代就已经有了《满江红》。元代还有一出跟岳飞有关的杂剧《宋大将岳飞精忠》,里面也有岳飞的唱段,但是没有跟《满江红》有关的内容,可以作为元代还没有《满江红》流传的佐证。
  其三,1986年有人发现《须江郎峰祝氏世谱》记载岳飞跟祝允哲用《满江红》互相唱和,其中有些句子跟《满江红·怒发冲冠》一样或类似,被认为是《满江红·怒发冲冠》的底稿,后来经岳飞修改、定稿。这个证据有很多人认为是铁证,那么究竟是不是铁证呢?
  在这条证据提出之时有人质疑过,找不到有关祝允哲的记载,可见历史上没有祝允哲这个人,这个家谱是胡编的。后来有人发现《浙江通志》提到祝允哲,说他当过荆湖制参,证明历史上跟岳飞同期的确有祝允哲这个人。但是历史上有祝允哲这个人,不等于家谱里关于祝允哲的资料就是准确可靠的。实际上,家谱里关于祝允哲的材料的确都是胡编的,而且是一个没有什么文化的人胡编的。
  例如,家谱里有一篇宋钦宗授予祝允哲官职的敕书,文字很粗��,一看就是没啥文化的人写的,皇帝的敕书不可能那么写。而且里面充斥着历史错误。“敕书”说设置“武翊卫”,派祝允哲去那里当“制参”。卫所的设置是从明朝开始的,宋朝不存在“卫”这样的编制,这就证明“敕书”是明朝之后的人伪造的。宋朝如果要临时设军事辖区,不会叫“卫”,而是叫“制置司”。制置司的长官叫“制置使”,他的第一级幕僚叫“参谋”,第二级幕僚叫“参议”,祝允哲当过的“制参”是“制置使参议”的简称。如果皇帝在敕书里任命某一个人当“制参”,肯定是写全称“制置使参议”,不可能用“制参”这种简称,只有日常生活中人们才这么称呼。更何况宋朝不可能出现“武翊卫制参”这样的官名。
  “敕书”还提到祝允哲当时是“政议大夫”,宋朝没有这样的官名,同音的官名有正议大夫,就算是抄写错误吧,但正议大夫当时相当于六部的侍郎,是从三品的朝官,地位非常高(司马光拜相之前的官阶就是正议大夫),一个从三品的朝官怎么可能被派到外地去当小幕僚呢?宋代官职含官、职、差遣、勋、爵,像敕书这种正式文书都会写完整的。例如司马光拜相的敕书提到他拜相前官职为正议大夫(寄禄官,从三品)、守门下侍郎(差遣,副相)、上柱国(勋)、河内郡开国公(爵),拜相后差遣为守尚书左仆射兼门下侍郎(左相)。而祝氏家谱的“敕书”写祝允哲的官职只有寄禄官“政议大夫”,可见编“敕书”的人没啥文化,不了解宋朝的管制,也不知道敕书的写法。
  家谱里还有一篇号称是祝允哲写的疏,说宋高宗准备杀岳飞,祝允哲上疏保岳飞,愿意用70口家人作保。这篇疏同样写得很粗鄙,不像是有多高文化的人写的。里面也有一些历史错误。例如显摆岳飞的丰功伟绩时,提到岳飞在朱仙镇之战杀敌数万,吓得金兵准备北遁。但是朱仙镇之战是不曾发生过的。岳飞的孙子岳珂编《金陀粹编》才首次提到有朱仙镇大战,是为了美化他爷爷编出来的。在那之前不可能,也没有人会提朱仙镇之战。
  有人说,即使关于祝允哲的这些资料是假的,也不能说明他跟岳飞唱和的《满江红》词也是假的。那我们最后就来说说他们的唱和。
  词在宋代就是歌词,是要能唱出来的,所以写词的人都懂音律,都知道词里哪个字要用平声,哪个字要用仄声,哪个字可平可仄。如果不懂音律,写出来的词是没法唱的,就会把“满园都是春”变成“满园都是蠢”。岳飞文武双全,是懂音律的。岳飞写过的一首《满江红.登黄鹤楼有感》:
  遥望中原,荒烟外,许多城郭。想当年、花遮柳护,凤楼龙阁。万岁山前珠翠绕,蓬壶殿里笙歌作。到而今,铁骑满郊畿,风尘恶。
  兵安在,膏锋锷。民安在,填沟壑。叹江山如故,千村寥落。何日请缨提锐旅,一鞭直渡清河洛。却归来、再续汉阳游,骑黄鹤。
  该词符合音律,没有出律。可见岳飞知道怎么写词。但是再回头看祝氏家谱里记载的所谓岳飞与祝允哲的唱和:
  岳飞《满江红·与祝允哲述怀》
  怒发冲冠,想当日、身亲行列。实能是、南征北战,军声【激】烈。百里山河归掌握,一【统】士卒【捣】巢穴。莫等闲、白了少年头,【励】臣节。     靖康耻,犹未雪;臣子恨,何时灭?驾长车,踏破金城门阙。本欲饥餐胡虏肉,常怀渴饮匈奴血。偕君行、依旧奠家邦,【解】【郁】结。
  祝允哲《和岳元帅述怀》
  仗尔雄威,鼓劲气、震惊胡羯。披金甲、鹰扬虎奋,耿忠【炳】节。五国城中迎二帝,雁门关外【捉】金兀。恨我生、手【无】缚鸡【力】,徒劳说。 伤往事,心难歇;【念】异日,情应竭。握神矛,闯入贺兰山窟。万世功名归【河】汉,半生心志【付】云月。望将军、扫荡【登】金銮,朝天阙。
  用的虽然是《满江红》词牌,但写法不符合《满江红》的格律。不仅署名岳飞的那首词多处出律,署名祝允哲的那首词也多处出律(我用【】标出的字)。宋代文人绝对不可能写出那么多处出律的词。个别的一两个地方出律还有可能,这么多地方都音律不谐,他们是写不出来的。任何一个宋代文人都写不出这样的词,更不要说岳飞会拿这样的词去送人,他的幕僚还拿音律不谐的词来和他,这是完全不可信的。这个所谓的唱和是一个没啥文化、不懂得怎么写词的人伪造出来的。他跟现在很多人一样,对于写词有一种很无知的误解,以为只要每个句子字数是多少,押上韵就算词了,不知道词对于每一个字的平仄也都有讲究。
  从文字的表述也能够证明这个唱和是后人伪造的。里边有一个词“南征北战”,这是白话文的说法,清代后期白话小说里才出现,在古文、古诗词里应写做“南征北伐”。可见,这个唱和是直到清朝后期甚至更晚才被伪造出来的。祝氏家谱初修的时间是在清朝同治年间,再修已经到民国初年了,所以有可能是初修或者重修的时候,有一个没什么文化的人根据流传的《满江红.怒发冲冠》捏造了这个唱和。
  既然证明《满江红》在明朝之前已经存在的证据都不能成立,那么就可以认定它是明人的伪托。
  我们在研究历史时要当心。中国古人没有学术规范、学术道德的意识,会有意无意地造假。他们在抄录史料时喜欢塞进私货,在编撰家谱时更喜欢胡编乱造。我们在研究历史时,对“史料”“铁证”,一定不能轻信。不仅要有历史常识、文化常识,更要有质疑的精神,要有批判性思维。
  2023.01.29录制   2023.03.31.整理
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太平洋戰爭 島嶼爭奪戰        戰敗者 的 觀點
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李義山詩析論
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父親的眼淚和我的眼淚
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03/22 伊利亞隨筆 電影 的 語言
潛水艦之過去、 現在與未來 所羅門群島 之 戰
失去 的 勝利 戰敗者 的 觀點
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恐 龍 再 現 混 沌  貨 幣 現象學 意志與表象的世界(二)
从地缘战略到币缘战略 — 全球化的演变 Covid 調查
台灣社會的存在及其意義
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宇宙的詩篇(惟強)
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查泰萊夫人的情人 Modern etiquette in public and private
我們的新世界 我思故我在 紐約的現代藝術
12/23 安藤忠雄的都市徬徨(一、二、三、四)
理性之夢(一、二) 歷史與思想(一、二、三、四)
Chanson 香頌 赫遜河畔談中國歷史(一、二、三、四)
歷史平話:諸葛亮(一、二) 紅朝人物誌(一、二)
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wangwill66 · 1 month
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光怪陸離
H:嘗鮮,是對食物而言。對事物的新奇體驗,以光怪陸離,五光十色,甚至五彩繽紛,五花八門。看一些奇幻異聞,鬼怪仙俠的古書。新鴛鴦蝴蝶「花花世界鴛鴦蝴蝶,在人間已是癲;何苦要上青天不如温柔同眠。」形容的很好,人間處處有桃花源,何苦想那青天上的仙境。美好的事物不必遠求,只在你我身邊周圍。
知足常樂得享天堂仙境「一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。若能一切隨他去,便是人世間自在人。」20240816W5
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光怪陸離
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成  語光怪陸離
釋  義「光怪」,離奇怪異的樣子。語出《吳書》。「陸離」,參差錯雜的樣子。#語出戰國楚.屈原〈離騷〉。「光怪陸離」形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。典故說明「光怪陸離」係由「光怪」及「陸離」二語組合而成。
「光怪」是出自《吳書》。孫堅家族的祖墳在富春城東,墳上屢次出現怪異的光景,上頭時常飄著五色雲彩,連綿數里不斷,吸引很多人前去觀看。凡是看過的鄉親父老都說,孫氏要興旺了!後來孫堅出生,果真長相不凡,生性闊達,擁有不凡的操守。
「陸離」則是出自〈離騷〉。戰國時楚人屈原,遭靳尚等人毀謗,被懷王放逐漢北時,作〈離騷〉表明忠貞愛國之心。文中,屈原因為無法解開對現實和理想之間的矛盾,於是上天下地找尋解脫之道。他幻想駕鸞凰、鳳鳥乘風飛升,翱遊天際。一路上有望舒、飛廉、鸞凰、雷師、鳳鳥、雲霓等眾多仙人及侍從伴隨,色彩繁雜而絢麗。後來這兩個典源被合用成「光怪陸離」,用來形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。用法說明
成語用法
成語釋義
光怪:光彩奇異;陸離:開卷參差。形容奇形怪狀,五顏六色。[1]
成語出處
戰國·楚·屈原《離騷》:“紛總總其離合兮,斑陸離其上下。”《三國志·吳志·孫堅傳》裴松之注引《吳書》:“冢上有光怪,雲氣五色,上屬於天,曼延數里。”[1]
解釋:
形容現象怪異、色彩繽紛。參見「光怪陸離」條。《孽海花》第八回:「見船上紮著無數五色的彩球,陸離光怪、紙醉金迷。」
五光十色
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成  語五光十色注  音ㄨˇ ㄍㄨㄤ ㄕˊ ㄙㄜˋ漢語拼音wǔ guāng shí sè釋  義形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。語本南朝梁.江淹〈麗色賦〉。後亦用「五光十色」比喻內容豐富,變化萬端。
△「五彩繽紛」典故說明「賦」是傳統文學體裁之一,形似散文,但內含詩的韻律,是一種介於詩歌與散文之間的文體。盛行於漢魏六朝,魏晉南北朝時,因應新興的駢偶文風而發展出「俳賦」,此體多採四六對仗的句式,講求嚴格的平仄音律,並喜用典故。江淹為當時著名作家,〈麗色賦〉即其作品之一,內容描繪一位絕色美女的容貌、姿儀。其中一段,文曰:「其始見也,若紅蓮鏡池;其少進也,如綵雲出崖,五光徘徊,十色陸離。」大意是:初見佳人,如見生長於無波如鏡之池中的紅蓮,佳人一動,則如絢爛的雲彩自崖間飄出,色彩鮮麗,燦爛奪目。短短數語,即生動呈顯了麗人的綽約風姿。後來「五光十色」這句成語就從這裡演變而出,用來形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。亦用來比喻事物的內容豐富,變化萬端。用法說明一、
語義說明
形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。
民俗,就是世代相傳的民間生活風俗。世界民俗,就是關於世界各地的民俗。
五花、八門各指古代兵法中的五行陣、八門陣。 後比喻形形色色、變化多端。 如:「這家超商的食品種類真是 五花八門 。」 《儒林外史》第四二回:「那小戲子一個個戴了貂裘,簪了雉羽,穿極新鮮的靠子,跑上場來,串了一個 五花八門 。」
光怪陸離偵探社
《光怪陸離偵探社》是連載於起點中文網的一部懸疑類網絡小説,作者是吾即正道。[1]
該小説講���了陸離面對一扇詭秘之門,門後邪惡低語,奇異生物蠢蠢欲動。怨念之眼、黏糊粉腦、黃衣觀察者、墨綠污泥等奇異存在競相登場,它們以各自的方式發出邀請,共赴一場瘋狂派對。陸離在誘惑與危險交織中,毅然決然地踏入未知領域。
博客來介紹:
巷說異聞錄:光怪陸離的民國軼事
作者:檀信介
語言:繁體中文
出版社:好讀
出版日期:2019/03/01
【奇幻又真實,是故事也是人生】
  本書兼具歷史、名人、志怪、懸疑、推理等多種吸引人的閱讀元素於一身,還能了解到民國初年,民間許多不為人知的神異傳說和風俗習慣。
  ●深受喜愛的志怪故事,引起廣大歡迎與討論,給熱愛志怪小說的讀者帶來一場文化盛宴。
  ●腦洞大開的異聞怪談,天馬行空的奇異想像,感受與眾不同的故事閱讀體驗。
  ●深得中國傳統志怪小說精髓,描繪一個個詭異奇幻的世界,反映人間百態。
  ●魔幻詭譎的故事反映現實中人們對財、色、長生不老的癡求,極具諷刺意味。
 
  【精彩故事】
  〈斬龍角〉:清朝末年,亂世中仍保持桃花源般安靜祥和的袁寨,收留一位能掐會算的「靈卦張」,袁家的運數因此受到巨大影響……
  〈既濟壺〉:北宋末年,汴梁城裡有位小韃子,踢得一腳好球,年過四十依然健美英俊。傳說其家中有個寶物「既濟壺」,因此得以青春不老、容顏永駐……
  〈陰陽魚〉:明朝末年,張獻忠屠蜀,一隊難民發現一處世外桃源,偌大的村莊只有一對形影不離的男女。圍繞這對男女,譜寫一曲哀婉的亂世悲歌。
 
  【導讀賞析】歷史作家、譯者/廖彥博
  檀信介帶著讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。
收回
目錄
●破地獄
●斬龍角
●買竹籌
●賣鬼記
●斬鬼嬰
●金簪記
●既濟壺
●陰陽魚
【導讀賞析】近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》/廖彥博
導讀賞析
近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》
廖彥博(歷史作家、譯者、《一本就懂中國史》作者)
  對中國大陸的讀者來說,民國是一個既陌生又熟悉的時代。
  鴛鴦蝴蝶,旗袍馬褂,上海十里洋場,南京梧桐森森,我揮一揮衣袖,他達達的馬蹄,凡此種種,共同在影視作品裡構成人們心中對於民國風華的美好想像。可是民國也是神秘而落後的,甚至是迷信而妖魔橫行的。原因很簡單:不這麼著,很難突顯出「當今」橫掃一切牛鬼蛇神之後的現代和進步。
  對台灣的讀者而言,民國則是一個既熟悉又陌生的時期(注意和前者的排序)。
  鈔票硬幣上、公家文書上、報紙刊頭上,民國還是進行式,就在我們生活呼吸之中。可是民國也是截然兩分的:屬於歷史的那一大段,曾經顏色鮮明的、氣壯山河的存在過的民國歲月,四海歸心、堅苦卓絕的激戰年代,大多數台灣人已經不復記憶。
  檀信介的《巷說異聞錄》替我們把既熟悉又陌生的歷史連接起來,而且還開啟了一扇魔幻又真實的觀景窗。中國文學的傳統裡,一直有著「志怪文學」的傳統。《山海經》以降,漢晉的《淮南子》、《搜神記》,唐傳奇、宋元話本、明清筆記小說,我們在荒山野嶺,感覺到陰風陣陣,或是捅破紙窗,看見女鬼畫皮,不管你的出身籍貫、政治立場,相信文化基因裡都有著妖怪活躍的身影。
  而檀信介則帶讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。故事光怪迷離,看官們不禁眼花撩亂,可是驚魂甫定,卻又嘖嘖稱奇:誰能說這些「魔神仔」不存在?
  《巷說異聞錄》由〈破地獄〉、〈斬龍角〉、〈買竹籌〉、〈賣鬼記〉等幾則故事組成,故事的舞台,正是清末到民國、抗戰勝利那段熟悉又陌生的歲月,幾個歷史上響噹噹的大人物,比方做過大總統、也登基當過八十三天皇上的袁世凱,還有我們台灣讀者算是相當熟悉的「蔣故總統經國先生」,在故事裡也出奇不意,客串亮相。看他們出場的時機,扮演的角色,起到的作用,一定會讓讀者們會心一笑。
  留學蘇聯、篤信唯物主義的「太子」蔣經國,如何運用起茅山道術,去摧破汪精衛政權的秘密金庫?又怎麼會引來一場多年無法偵破的連續命案呢?且讓我們翻開這部《巷說異聞錄》。
維基文庫
麗色賦
作者:富嘉謨 唐本作品收錄於《全唐文/卷0235》
姊妹計劃: 數據項
客有鴻盤京劇者,財力雄倬,誌圖豐茂,繡轂生塵,金羈照路。清江可涉,綠淇始度,拾蕊歲滋,摘芳奇樹。錦席夜陳,苕華嬌春,瑤台吐鏡。翠樓初映,俄而世姝即,國容進,疑自持兮動盼,目爛爛兮昭振。金為釵兮十二行,錦為履兮五文章,聲珊珊兮佩明璫,意洋洋兮若有亡,蹁躚兮延佇,招吾人兮由房。凝釭吐輝兮明燭流注,願言始勤兮四坐相顧,時峨峨而載笑,唯見光氣之交騖。夜如何其夜遲遲,美人至止兮皎素絲,秉明心兮無他期。引鄉何其夜已半,美人至止兮青玉案,之死矢兮無彫換。既而河漢欲傾,琴瑟且鳴,餘弄未盡,清歌含韻。歌曰:「涉綠水兮采紅蓮,水漫漫兮花田田。舟容與兮白日暮,桂水浮兮不可度。憐彩翠於幽渚,悵妖妍於早露。」於是覽物遷跡,徘徊不懌,起哀情於碧湍,指盛年於光隙,擊節浩歎,解珮嘉客。是時也,楊雄始壯,相如未病,複有鄒、枚,藉藉荀令。鹹娛座客,嬉妙情,灑豪翰,動和聲。使夫燕姬趙女,衛豔陳娥,東門相送,上宮經過。碧雲合兮金閨暮,紅埃起兮彩騎多,價奪十城之美,聲曼獨立之歌,況複坐弦酌而對瑤草,當盛明而謂何?
百度百科
新鴛鴦蝴蝶夢創作背景
在1992年10月的一個晚上,黃安抱着女兒到樓下去散步,突然他聽到一段旋律,黃安趕緊回家迅速記下了這段旋律。這是一段中國五聲音階的旋律,琅琅上口,於是便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的原始素材。有了曲子後還需有詞相配才可以。黃安覺得那段旋律頗有古風,於是他翻開唐詩,一翻便翻到李白與杜甫的詩。在李白的《宣州謝朓樓餞別校書叔雲》中,有這樣一段描述,“棄我去者,昨日之日不可留,亂我心者,今日之日多煩憂,抽刀斷水水更流,舉杯消愁愁更愁,人生在世不稱意,明朝散發弄扁舟”,黃安僅是稍加修改便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的第一段歌詞。[2]
歌曲歌詞
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱
人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
共2張
歌曲MV
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠。
博客來介紹:
知足常樂
作者:林高樂
語言:繁體中文
出版社:大拓文化
出版日期:2011/09/08
內容簡介
  一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。
  如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。
  若能一切隨他去,便是人世間自在人。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
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目錄
第一章  一花一世界,一木一浮生
昔時佛祖拈花,惟迦葉微笑,既而步往極樂。從一朵花中便能悟出整個世界,得升天堂,佛祖就是佛祖,誰人能有這樣的境界?佛曰:一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。這一切都是一種心境。參透這些,一花一木便是整個世界,而整個世界,整個人生也便空如花木。
1.眾生平等
2.慧能收徒
3.達摩是個老和尚
4.老和尚是寶
5.生命如琴弦
6.俗眼無珠
7.聖人無名
8.物極必反,盛極必衰
9.淡泊以明志
10.人生的底線
11.美在靈魂
12.一切皆同
13.玉缽
14.一個無法滿足的人
15.財富、成功、愛
第二章  緣起即滅,緣生已空
佛說:修百世方可同舟渡,修千世方能共枕眠。前生五百次的凝眸,換今生一次的擦肩。今生的一次邂逅,定然孕育前世太多甜蜜或痛苦的回憶。萬發緣生,皆系緣分!偶然的相遇,驀然回首,注定了彼此的一生,只為了眼光交會的剎那。
1.生與死
2.怨也是緣
3.境由心生
4.一切都是緣,要學會包容
5.愛是生命最好的養料
6.心中有路
7.緣起緣滅,泥濘留痕
8.人生有個檸檬就做杯檸檬汁
9.不要為明天的落葉操心
10.因緣
11.一切皆隨緣
第三章  大悲無淚,大悟無言,大笑無聲
生活不一定是轟轟烈烈的,有時平平淡淡才是真!
功名利祿樣樣俱全,固然求之不得,但現實生活中的大部分人,還是與其不擇手段,換取名利雙全,不如平平淡淡,粗茶淡飯來得更真真切切。
1.超越生死的境界
2.忘我,不被世俗所束
3.普化圓寂
4.愛的回報
5.沒有什麼不能做
6.沉默人生最可貴
7.弦緊弓斷,學會放鬆
8.自然是福,自然最美
9.從容是一種人生智慧
10.人生如過客
11.隨遇而安
12.享受平淡的生活
13.過程比結果重要
14.真正快樂的生活
15.幸福是一種感覺
16.生活的境界——順其自然
第四章  心不動,人不妄動,不動則不傷
人生在世如身處荊棘之中,心不動,人不妄動,不動則不傷;如心動則人妄動,傷其身痛其骨,於是體會到世間諸般痛苦。
充滿誘惑的塵世間,你的心是否堅不可摧,是否能抵擋得了這一重又一重的衝擊?
1.天堂地獄一念間
2.放下包袱
3.保持一顆寧靜的心
4.快樂是自己的事
5.放下是一條解脫之道
6.「偷」來快樂
7.愛的責任
8.心境不同
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前言
  一方古剎、一尊佛像、一襲衲衣;化緣為生、清貧孤獨、無慾無求,青燈木魚常伴左右。世人心中禪者的佛門生活就是這樣的不食人間煙火。
  如果你也這麼想,那麼,就大錯特錯了。
  佛曰:「普度眾生。」眾生為何意?很簡單,就是全人類。自從釋迦牟尼創立佛教到達摩初祖歷盡艱難曲折將佛教帶入中國的那一天起,它就與我們的生活息息相關。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
  沒有錢的時候,我們煩惱;���了錢,我們空虛。——窮得只剩下錢。
  沒有愛情的時候,我們失落;有了愛情,叫人頭疼。——愛情價雖高,自由更可貴。
  不出名沮喪,出了名鬱悶。——人怕出名,豬怕壯。
  近在我們身邊的禪,能幫你化解所有這些問題。
  菩薩心腸,有容乃大。
  再厚的寒冰,太陽出來都會溶化;再冷的飯菜,柴火點燃都會煮熟。要做太陽,溫暖別人;要做柴火,成熟別人。遇事學會換位思考,你會發現,你的人緣會越好,你也會越快樂。
  知足常樂,無慾則剛。
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upto24 · 2 months
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天皇と皇帝と王の違い
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天皇、皇帝、王様は、いずれも国家の最高権力者を指す言葉ですが、それぞれの意味や役割、歴史的背景には大きな違いがあります。以下に、それぞれの違いを詳しく説明します。
天皇
定義と役割 天皇は日本の国家元首に匹敵し――現行憲法に規定がないため、総理大臣を元首とする向きもあります――皇室の最高位に位置する存在です。日本の天皇は、古代から続く伝統的な制度であり、神道に基づく宗教的な役割も持っています。天皇は「象徴」としての役割を果たし、政治的な権力は持たないものの、国民の団結や文化の象徴として重要な存在です。
歴史的背景 天皇の起源は古代日本に遡ります。初代天皇とされる神武天皇から始まり、代々の天皇が続いています。明治時代以降、天皇は近代国家の象徴として位置づけられ、戦後の日本国憲法では「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」と明記されています。
権限と制度 天皇は、国会の召集や法律の公布、外交文書の認証などの形式的な権限を持っていますが、実際の政治は内閣が行います。天皇の地位は世襲制であり、皇位継承は男子優先の原則に基づいています。
皇帝
定義と役割 皇帝は、主に中国やその影響を受けた国々で用いられる称号で、広範な領土を支配する最高権力者を指します。皇帝は、王よりも高い地位を持ち、通常は多くの王や貴族を従えています。皇帝は、国家の統治者としての役割を果たし、政治的な権力を持つことが一般的です。
歴史的背景 中国の皇帝制度は、秦の始皇帝に始まり、漢、唐、宋、明、清などの王朝を経て続いてきました。皇帝は、天命を受けた存在とされ、天と地の間に位置する神聖な存在と見なされていました。皇帝の権威は、宗教的な側面も強く、祭祀や儀式を通じてその地位を強化しました。
権限と制度 皇帝は、法律の制定、軍の指揮、外交政策の決定など、広範な権限を持ちます。皇位は通常、血縁によって継承されますが、時には実力や政治的な策略によっても変わることがあります。皇帝の地位は、国家の安定や繁栄に直結していると考えられていました。
定義と役割 王は、主に西洋やアフリカ、アジアの一部の国々で用いられる称号で、特定の地域や国を統治する最高権力者を指します。王は、通常、王国の支配者であり、政治的な権力を持つことが一般的です。
歴史的背景 王の制度は、古代から存在し、封建制度や貴族制度と密接に関連しています。王は、領地を持ち、貴族や騎士と共に国を治める存在でした。中世ヨーロッパでは、王権神授説に基づき、王は神から権力を与えられたとされ、絶対王政の時代には、王の権力が非常に強大でした。
権限と制度 王は、法律の制定、軍の指揮、外交政策の決定など、広範な権限を持ちます。王位は通常、世襲制であり、血縁によって継承されますが、時には選挙や合意によって王が選ばれることもあります。王の権力は、時代や地域によって異なり、立憲君主制の国では、政治的な権限が制限されることもあります。
まとめ
天皇、皇帝、王は、それぞれ異なる文化や歴史的背景を持つ称号であり、役割や権限も異なります。天皇は日本特有の存在であり、象徴的な役割を果たす一方、皇帝は広範な領土を支配する権力者としての側面が強いです。王は、地域ごとに異なる権力構造を持ち、時には絶対的な権力を持つこともあります。
これらの違いを理解することで、各国の歴史や文化、政治制度についての理解が深まります。天皇、皇帝、王様の役割や権限は、時代と共に変化してきたため、現代においてもその影響は続いています。
些細な日常
昭和天皇は民主主義の理念を人間宣言で心から人々に知らせた
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herosone111 · 1 month
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【司马懿的洛水之誓对后世影响有多大?-哔哩哔哩】 https://b23.tv/tgo92xb
蛊术士的问题在于蛊术士让中国人陷入魏晋危机。
——下面是视频里的文章,我复制出来了——
而司马懿不同,他最终成功了,而且晋朝还是第一个篡位上台却国祚很长的王朝,这就让后人很破大防了——哦原来这世上真的没有报应,原来天下有德者居之真是骗人的,原来只要不择手段当上皇帝,是可以不用管信誉积分的。
不要以为身居高位的人就完全不信这些东西了,最典型的例子就是东晋第二位皇帝晋明帝,在从王导这里了解到祖先得位的真相以后,羞愧到把脸埋到床里,哭着说:“若如公言,祚安得长!”有晋一朝只敢以孝治天下而不敢言忠,也都是因为得国不正。
在这种情况下,晋朝的士大夫阶层陷入了集体的政治信仰迷茫,流行文化从忠君报国变成了求仙问道,拜佛参禅,宁愿当隐士也不想当官,怕太过进取反被君王忌惮。名门青年成日里就知道吸吸五石散,写写字弹弹琴,华夏精神的第一个颓废期自此开启,还起了个好听的名字叫“魏晋风度”。
司马懿还有一个很重要的点在于他发动高平陵之变的时候已经七十岁了,这就导致从此以后政治舞台中心的人很难再以年龄论英雄,这就导致从政治舞台中心的人很难再以年龄为理由脱身。哪怕你之前一直是个忠臣,甚至哪怕你贪财自污,但凡皇帝旁边一个人幽幽来一句‘陛下不见高平陵故事乎?’都能直接把警惕值拉满。所以后来晚节不保的事情多了很多,李善长张廷玉等人估计都很想问候司马懿全家。(李靖也想问候,虽然没有晚节不保,但他说自己年纪大不想出征的时候,李世民夸他像司马懿,李靖:听我说谢谢你)
其实司马家的报应还是有的,只不过大部分报在了中原人民的头上。因为晋自己得国不正,导致皇帝不信大臣信宗室,结果宗室野心膨胀,酿成八王之乱,最后中原空虚,五胡乱华,晋室南渡,北方人民沦为‘两脚羊’,人剧减,是比北宋变南宋更悲惨的plus版本(也是得国不正所以自缚手脚的典型)。小部分报应则落在了晋朝末代皇族头上——胸怀恢复大志的刘裕在建立南朝宋后认为司马家有罪于天下,屠灭了司马全族,致使享国如此之长的司马氏在今天依然是小姓。显然,绝大部分这些被屠杀的人都是无辜的,所以说司马懿光坑了天下,还坑了子孙后代,也不知道他若是泉下有知,会不会气活过来,始作俑者,其无后乎。
从政治传统的角度来说,晋朝则开启了一段谋朝篡位政治时代,晋朝内部自八王之乱开始,野心家就没有消停过,而自刘裕成功之后,南朝的宋齐梁陈也无一不是篡位上台。北方就更不用说了,国家太多篡位的事情数也数不过来,到最后北周篡西魏,北齐篡东魏,最后都在篡位的隋文帝杨坚手里归于一统,很快隋又被唐半篡位半造反地夺了江山。
如此频繁的篡位,使统治者很难开展长期主义的政治规划,而专注于短期防贼。因此,华夏的政治体系变得越来越相互制衡,同时也越来越臃肿膨胀,政治体制的保守化和官僚化最终使整个民族精神和文化也慢慢趋向于自我束缚,最后在同样篡位上台的宋手里完全成型——我们所谓的封建糟粕,大部分都源于这里。
诚然,把所有这些东西全归于司马懿一人,然不至于,但喊他一句司马老贼,真的不过分。
——文章到此结束——
那蛊术士导致了什么?
首先蛊术士破坏了中国的内循环,通过阻止我封杀了,本该正常的创业能力,让所有正当的企业都无法出现,而只有被政府扶持的,有后台的企业才能成功。
其次蛊术士导致中国人资本外流,因为社会太黑暗了,假如教育后代社会的现实而后代不小心说出来了,将会被政府攻击,所以假如要生育必须离开中国,让后代到达成年,培养出守口如瓶的能力才回到中国,那期间给孩子培养的金钱就必须离开中国。
就算不是因为孩子,散户也不会再进入中国股市,蛊术士就是中国股市和投资失败的核心原因,蛊术士破坏了内循环和创业,请问又如何投资呢?蛊术士是中国出问题的根本原因。
其次蛊术士导致留在中国的中国人不敢生育,也不敢很好教育自己后代,因为有蛊术士会袭击那些优秀的孩子,就像袭击我一样,所以后代不能太优秀。这就是魏晋时代的危机,蛊术士和中国政府做的事和司马懿没有区别。
其次蛊术士导致中国人互相杀戮,自己的后代假如不能很强,但是却要被中国政府选拔到,那唯一方法就是让别人的后代不强,相对起来自己的后代就会更好而被选择。
而且蛊术士都这样作弊了,难道别人还不作弊?
而假如不消灭别人,自己的后代就没有好岗位,因为蛊术士消灭了我设计的好岗位,消灭了我的大众创业,没有好岗位的人就只能卖身。
【历史上都有哪些突破普通人想象的真实事件?-哔哩哔哩】 https://b23.tv/j6vy886
任何国家不止日本,其实都是一样的,目前我们的问题是蛊术士这些阶级造成的斗争。
所以蛊术士是导致了整个中国的崩溃,从经济,运行,社会……等很多方面同时摧毁了中国,中国变成这样都是因为蛊术士一直的诈骗,而他就像司马懿,根本没有坐牢,这给中国人说明了作恶获利无所谓,中国政府高层都允许和鼓励这样做,只允许他们自己获利,其他人假如要让社会好点都要整死对方,抹黑对方,没有负责,只有利益。
而且我也老了,蛊术士导致破坏了中国人某些能力传递的可能性,也就是中国人的能力产生了断面,已经不可修复,蛊术士知道以上一切,但是他需要把中国人整个摧毁,所以才说谎的,不然这么多年,我的行动早就已经说明了一切,而且我又不是没有写明在各种博客和微博上,尽管他们删除了我的很多文章和博客和微博,但是应该还有保存下来的,你们可以看到其实一切早就已经写明了,说蛊术士和中国政府不知道是不可能的,是因为有人故意干扰信息,蛊术士早就知道但是他不说,说明他就是为了拖延搞破坏。
现在才说已经没有意义,我一点也不相信蛊术士,唯一选择就是赶走蛊术士,不然什么也做不到。
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catonoire · 2 months
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「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」展
大阪市立東洋陶磁美術館で、リニューアルオープン記念特別展「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」を見る。惹句にあるように“オールスター・珠玉の約380件(国宝2件、重要文化財13件含む)”が揃った、なんとも贅沢な特別展である。全面的に撮影可能。無料のアプリをダウンロードすれば音声ガイドも聞ける(書き起こしもあって文字でも読める)。
また、美術館の公式サイトでは収蔵品画像オープンデータが公開されており、この展覧会に出品されている作品も参照することができる。さらに、公開されている画像は“当館への申請が必要なく、自由にダウンロード、複製、再配布することができます。例えば出版物やウェブサイトへの掲載、講演会等でのスクリーンへの投影、テレビ番組での放送、販売商品への印刷など、営利・非営利に関わらず利用が可能です”とのこと。でも、公式画像は美しいけれども展覧会の臨場感(?)が出ないので、いつもどおり自分で撮ったしょぼいスマホ写真を載せることにする。
展示は全部で13のパートに分かれており、それぞれに格好良さげなタイトルがついている。
1 「天下無敵(てんかむてき)-ザ・ベストMOCOコレクション」
この展示室では陶磁器と六田知弘の写真作品《壁の記憶》との取り合わせが楽しめる。《壁の記憶》は写真家が世界各地で撮った壁の写真のシリーズのようである。展示風景はたとえばこんな感じ。
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このようにコーディネートされており、意外性もあってなかなかよかった。上の赤い写真作品の壁はベネチア(イタリア)、下の白っぽいのはサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)。
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展示室から展示室へと移動する途中に特別あつらえらしい展示ケースがあり、国宝の油滴天目が鎮座していた。たしかに美しいが、正直なところ自分の好みではあまりなく、油滴天目なら以前別の美術館で見た別のもの(もっと油滴が細かくて繊細に光る感じ)のほうが好みだったなあと思い出すなどした。
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2 「翡色幽玄(ひしょくゆうげん)-安宅コレクション韓国陶磁」
青磁好きにはたまらない展示室。あれもこれも全部青磁、もちろんクオリティも高い。
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3 「粉青尚白(ふんせいしょうはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
下の写真の3点は日本では三島とか三島手と呼ばれるタイプの焼き物。三島は朝鮮半島製のほうが日本のより圧倒的に良い出来で、とても好き。
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そして次の3点は粉引の瓶。日本の茶人などの間で好まれたタイプで、たしかに良い風情である。
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4 「清廉美白(せいれんびはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
《青花 草花文 面取瓶》。日本では「秋草手」と呼ばれる文様。面取の具合も文様も端正で美しい。
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《白磁 角杯》。遊牧民族が酒などを飲むのに用いていた角の形の杯を模したもの。王室用の白磁らしく、品がある。
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ロビーの展示ケースにあった、ルーシー・リー《青ニット線文鉢》。
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これもロビーにあった、《青花 虎鵲文 壺》。18世紀後半、朝鮮時代の作。ここに描かれた虎が美術館のキャラクターに採用されて「mocoちゃん」と呼ばれることになった。MOCOは美術館の英語名の略である。
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6 「優艶質朴(ゆうえんしつぼく)-李秉昌コレクション韓国陶磁」
《青磁象嵌 雲鶴文 椀》。象嵌技法にすぐれた一品。釉薬の貫入がまったくないのも特徴。
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《白磁鉄地 壺》。下半分はちょっと見には焼き締めのようだがそうではなく、鉄絵具を塗ったもの。16世紀朝鮮時代の作だが不思議と現代的に見え、たとえば「ルーシー・リー(あるいは誰か他の現代の陶芸家)の作品だよ」などと言われたらつい信じてしまいそうである。無理を承知で言うならこれはうちにも欲しい。
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6 「陶魂無比(とうこんむひ)-日本陶磁コレクション」
中国や朝鮮半島の優品を見てしまうと、日本の焼き物は正直かなり見劣りしてしまう。悪くないものはあるのだが、ほうっと溜め息をついたりつくづく感心しながら眺めるようなものはなかなかない(好みの問題かもしれないが)。そんな中で自分の目に留まったのはこれ。料理が映えそうなデザインで、実際に使ってみたいと思った。
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7 「陶花爛漫(とうからんまん)-李秉昌コレクション中国陶磁」
このパートに展示してある作品は、古いものだと新石器時代ごろまで遡る。中国文明の先進ぶりを目の当たりにして恐れ入る。この下の美しい白磁の杯も、さすがに紀元前とまではいかないが隋の時代(7世紀)の作。高台に釉薬が溜まって緑がかって見えるのもチャームポイント。
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8 「喜土愛楽(きどあいらく)-現代陶芸コレクション」
現代の作家の作品がロビーにいくつか並んでいた。下の写真は金子潤《2フィート・トール・ダンゴ》。ガラス張りのロビーだが、作品の背後には薄手のシェードが掛けてあった。
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9 「明器幽遠(めいきゆうえん)-安宅コレクション中国陶磁」
MOCOのヴィーナスこと《加彩 婦女俑》。自分がお目にかかるのはこれで2度目である。360度回転する展示台にお乗りあそばされている。
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こんなふうに回っておられる。
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後ろ姿のなんと優美なことか。
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《黒釉刻花 牡丹文 梅瓶》。白化粧をした上に黒釉をかけ、黒釉を削り落として文様を表現する技法(掻落し)で作られたもの。掻落しで自分の好みに合うものはあまり多くないのだが、これは堂々とした存在感でひときわ目を引いた。
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《木葉天目 茶碗》。本物の木の葉(桑の枯葉)を焼き付けて作られた天目茶碗。加賀藩前田家伝来とのこと。
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10 「天青無窮(てんせいむきゅう)-安宅コレクション中国陶磁」
点数は少ないが、うっとり眺めてしまうようなものばかり集めた特別な室。
《青磁 水仙盆》。これは以前この美術館を訪れた際にも見たので、またお会いできましたねと声をかけたくなった。宋の時代に宮廷用の青磁を生産していた汝窯の逸品。美しいが、これよりもっと素晴らしいのがこの世に存在している(台湾の故宮博物院が持っている)というのもまたすごい。
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国宝《飛青磁 花生》。自分のスマホ写真では到底うまく色を再現できないのが残念。
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この特別な展示室では自然光による採光がなされているのが大きなポイント。青磁の微妙な色合いをよく見ることができるとされる。
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11 「皇帝万歳(こうていばんざい)-安宅コレクション中国陶磁」
中国の皇帝の身辺を彩るにふさわしい、文様が華やかだったり色鮮やかだったりする作品の多い室。
《釉裏紅 牡丹文 盤》。銅顔料が使われており、たまたま中央部の牡丹の花のところだけ赤っぽく濃いめに発色したというのがおもしろい。
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抹茶色が特徴的な《茶葉末釉 双耳方形瓶》。茶葉末釉は個人的にそれほど好きな色ではないのだが、これはとても出来が良いように見えて印象に残った。
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12 「百鼻繚乱(ひゃくびりょうらん)-沖正一郎コレクション鼻煙壺」
いわゆる嗅ぎタバコ入れが勢ぞろい。下の写真はほんの一部である。
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この虫づくしのはどこか現代的な感じがする。とてもいい。虫好きな人がこぞって欲しがるのではないか。自分も欲しい。
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13 「泥土不滅(でいどふめつ)-現代陶芸コレクション」
現代の陶芸作家の作品がいくつか展示されていた。これは星野曉《表層・深層》。
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併設のカフェには「陶片クッキー」なるメニューがある。これは注文せざるを得ない。作家がひとつずつ彩色(アイシング)を施しているというから凝っている。ふたつとも涼しげな色合いなのは、もしかして夏だから? 海や水辺をイメージしたとか? 別の季節にも行ってクッキーの色合いを確かめてみたい。なお、味のほうはいまいち口に合わなかった……惜しい。
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fangzhouzi · 7 days
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杜甫《清明二首》真伪辨
  大历四年(公元769年),杜甫在潭州(今长沙)写下《清明二首》:
  其一
  朝来新火起新烟,湖色春光净客船。
  绣羽衔花他自得,红颜骑竹我无缘。
  胡童结束还难有,楚女腰肢亦可怜。
  不见定王城旧处,长怀贾傅井依然。
  虚沾周举为寒食,实藉严君卖卜钱。
  钟鼎山林各天性,浊醪粗饭任吾年。
  其二
  此身飘泊苦西东,右臂偏枯半耳聋。
  寂寂系舟双下泪,悠悠伏枕左书空。
  十年蹴鞠将雏远,万里秋千习俗同。
  旅雁上云归紫塞,家人钻火用青枫。
  秦城楼阁烟花里,汉主山河锦锈中。
  春去春来洞庭阔,白苹愁杀白头翁。
  《杜甫全集校注》(萧涤非主编)在该诗后有“备考”,摘录清人朱瀚和今人洪业对该组诗的辨赝,认为是伪作,未做辨析,以示存疑。其实大谬不然。
  朱瀚之说,清人施鸿保曾有反驳,但仅限于针对朱瀚所谓杜甫“集中偏缺此体”(指七言长律),指出杜诗中有几首七言长律��批评朱瀚“失检”。
  朱瀚岂止“失检”,他对这两首诗的指责,都是莫名其妙,表明这个清朝中叶小有名气的“儒将诗人”,其实不懂诗,更不懂杜诗。他的指责多是主观评价,但有两处可以客观驳斥之。
  其一,朱瀚称“汉主”不可解。其实很可解,因为唐人喜用“汉主”代指唐皇。杜甫另有诗用“汉主”一词:
  不闻汉主放妃嫔,近静潼关扫蜂蚁。——杜甫《青丝》
  如果说这是引汉朝典故讥讽时事的话,那么其他唐朝诗人则频繁用“汉主”称呼当今皇帝,例如:
  汉主何时放逐臣,江边几度送归人。——刘长卿《送王司马秩满西归》
  圣词今日光辉满,汉主秋风莫道才。——李适《奉和春日幸望春宫应制》
  甚至还有和杜甫一样以“汉主”对“秦城”(指长安)的:
  青春事汉主,白首入秦城。——李端《赠李龟年》
  其二,朱瀚称“上云”二字无出,意思是没有这种用法。但与杜甫同时代的李端也和杜甫一样用“上云”描写大雁:
  月魄正出海,雁行斜上云。——李端《宿瓜洲寄柳中庸》
  可知朱瀚既不熟悉杜诗,也不熟悉唐诗,不过是一个浪得虚名的腐儒,对此人的辨赝应该无视。他还与人合著《杜诗解意七言律》专门讲解杜甫七律,不知哪来的底气,也许是合作者操刀。
  再看今人洪业的辨赝。他自己承认对杜诗不熟,曾说:“我年轻时也能背几十首杜诗。晚年记忆力太差了。早年所能背的,现在也模糊了。”(洪业《我怎样写杜甫》)其研究杜诗的成果是编了一部《杜诗引得》,也就是杜诗用字索引(他的学术成果就是编了各种中国古代经典的“引得”,下功夫人人可做),可以查杜诗用字情况,在以前可作为工具书,在数码时代就完全没用了。由于有这部工具书在手,以及写过一本介绍杜甫的英文专著《杜甫:中国最伟大诗人(Tu Fu: China's Greatest Poet)》,他因此成了研究杜诗的专家。
  那么他是怎么认定这两首诗是伪作呢?他说:
  【在湖南诗内有《清明》二首。若是真诗,则大历四年(769)杜甫与其家眷在船上过清明时节于洞庭湖中,而其时的杜甫“右臂偏枯半耳聋……悠悠伏枕左书空”。然而我知道当时杜甫与其船乃远在洞庭湖之南近衡州之处,不在洞庭湖中。又本年清明之前一月或半月,杜甫在岳麓山寺壁上题诗于宋之问所题诗旁。其后数十年,唐扶也在寺中作诗;他说杜甫的诗“晚来光彩更腾射,笔锋正健如可吞”。可见当时尚无右臂偏枯,左手书空之事。再过一年,大历五年(770)春天,郭受有一首赠杜甫诗,其中写杜甫“松花酒熟旁看醉,莲叶舟轻自学操”。一臂偏枯,如何学摇船?我断定这两首是假的。然而中唐刘禹锡已极赞“杜少陵过洞庭诗落句曰:春去春来洞庭阔,白苹愁杀白头翁”。我以为《清明》二首,共二十四句,只这两句或是真杜诗;而其题目只是《过洞庭湖》;若排在大历五年晚春,亦可与当时杜甫行动不生冲突。好事者作伪,在这句上添作二十二句,分作两首,改其题目为《清明》。所添诗句多俗陋不堪,所画之杜甫与史实不符,而于杜甫行舟之时地亦搅乱了。】
  一一批驳如下:
  一、其时杜甫的确在潭州,潭州不在洞庭湖边上,见不到洞庭湖。但杜甫从岳州到潭州已经过洞庭湖,而要从潭州北归洛阳,必再经洞庭湖,“春去春来洞庭阔”并非写景,而是回想来时路和感叹还乡之难。
  二、关于杜甫“在岳麓山寺壁上题诗于宋之问所题诗旁”。杜甫《岳麓山道林二诗行》是一首十六韵七言排律,多达224字,怎么可能题写在宋之问的题诗旁?哪写得下?与宋之问不同,其时杜甫籍籍无名、穷困潦倒、流落他乡,寺僧怎么可能让他题壁?何况此诗是合咏岳麓山寺和道林寺二寺,如果要在某寺题诗,不是应该只咏该寺吗?唐扶在数十年后在道林寺(不是洪业说的岳麓山寺)所见的杜诗,其实是杜甫死后名满天下之后寺僧找人刻写的碑板(后来还为此在寺中设“四绝堂”),并非杜甫亲笔。何况杜甫游岳麓山是他刚到潭州时,完全可能当时还未发病,之后才中风导致右臂偏枯,《清明二首》正是其卧病在床时所作。
  三、关于郭守赠诗。郭守当时是襄阳判官,其诗题《杜员外兄垂示诗因作此寄上》,可知两人是寄诗互赠,他与杜甫并未见面,“莲叶舟轻自学操”,乃是想象之词,并非写实。杜甫当时已乘舟漂泊两、三年,怎么可能才突然学起划船?杜甫在回赠郭守的诗也就是那首著名的《酬郭十五受判官》中说:“卧病江湖春复生”,“药裹关心诗总废”,卧病在床,心里想的只是吃药,连诗都无心写了,哪有学操舟的雅兴?
  四、刘禹锡曾极赞《清明二首》最后一联,本是该诗为杜甫真作的最有力证据,但洪业却脑洞大开,认定是好事者根据刘禹锡引用的这一联增补作伪。按常理,好事者如果要把残章作伪,应是简单地补全成七绝、七律,居然补写成六联排律,还一写两首,岂非太好事?何况,刘禹锡将这一联误记为“年去年来洞庭上,白苹愁杀白头人”,好事者要据此作伪,也该写成压真韵,怎么改成了压东韵呢?
  至于洪业、朱瀚都骂这组诗“俗陋不堪”,那是因为他们读不懂而妄作谰言,不知其精妙。对刘禹锡极赞、自愧不如的最后一联(“余……尝过洞庭,虽为一篇,静思杜员外甫落句云:‘年去年来洞庭上,白苹愁杀白头人。’鄙夫之言,有愧于杜公也。”——唐.范摅《云溪友议》),朱瀚也嘲笑“亦是吴歌,结句无聊”,是他懂诗还是刘禹锡懂?
  洪业称此诗“所画之杜甫与史实不符”,恰恰相反。诗中云:“右臂偏枯半耳聋”,准确描写了当时杜甫病症。“右臂偏枯”是中风导致的偏瘫,次年杜甫即因再次中风死于洞庭湖上舟中(绝笔诗题《风疾舟中伏枕书怀三十六韵奉呈湖南亲友》)。“半耳聋”指两个耳朵聋了一个,杜甫在夔州时左耳聋了,“夔子之国杜陵翁,牙齿半落左耳聋。”(《复阴》)作伪者焉能对杜甫当时病症了如指掌,写入诗中?
  把自己读不懂、读不通的杜诗妄指为伪作,自以为高明,其实荒谬绝伦,可休矣。书到此,不由口占一绝云:
  百家注杜苦搜寻,多少腐儒献假金。
  诗圣大名垂万古,千年难觅一知音。
  2024.4.7.
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