FAR WACKY RACES VMX . . #摩托车 #バイク #오토바이 #bike #JapanVintageMotorcycle #ヴィンテージが好き #バイクが好きだ #バイク乗りと繋がりたい #バイク好きな人と繋がりたい #日々是好日 #日々成長 #日々精進 #オートバイ #復古車 #越野車 #crf150 #xl125 #brap #bali #vintagemotorcycle #vintagedirtbike #vmx #motolife #motogram #motography (at Pasut Beach) https://www.instagram.com/p/Ce7z6Q5r2dY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
4 notes
·
View notes
充滿復古日本風情的朝市與老街,由曾繁華一時的海港城鎮元港町,舊沼垂市場長屋改造,融合時尚、復古、文青元素的「沼垂露臺商店街」!
1 note
·
View note
【名鉄電車】急行運用 6015F+6010F 復刻塗装
1 note
·
View note
《花蓮早餐美食探訪》—「飯糰店Rice Ball Store售完就收攤」
《 #花蓮早餐 美食探訪 文青早餐 》—「 #飯糰店RiceBallStore 售完就收攤」
#花蓮飯糰 賣到成 #IG上的打卡熱點
無論是運動後需要補充能量,還是欣賞早晨陽光或海灘, #飯糰 都是一個方便的早餐選擇。
#你選擇在哪個環境享用早餐,飯糰都能成為一種美味的享受,而且讓你可以席地而坐,悠閒地欣賞自然的風光。
在花蓮的巷弄中,有一台極具復古風格的攤車,它叫做「飯糰店Rice Ball Store」。這個小攤專門販售五種不同風味的飯糰,每一個都是經典的美味。
#花蓮美食
在 #花蓮的美好早晨,你可以選擇不同的方式來展開一天。
無論是運動後需要補充能量,還是欣賞早晨陽光或海灘, #飯糰 都是一個方便的早餐選擇。
#你選擇在哪個環境享用早餐,飯糰都能成為一種美味的享受,而且讓你可以席地而坐,悠閒地欣賞自然的風光。
在花蓮的巷弄中,有一台極具復古風格的攤車,它叫做「飯糰店Rice Ball Store」。這個小攤專門販售五種不同風味的飯糰,每一個都是經典的美味。
Continue reading Untitled
View On WordPress
0 notes
. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月5日(日) #先負(甲午) 旧暦 1/15 月齢 14.3 年始から36日目に当たり、年末まであと329日(閏年では330日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 生活ペースが、すっかり崩れ放しです。 もう今日は片付け諦めてジムにでも 行くしかありませんね✋二度寝して 遅くなりました。。。_| ̄|○🙏🙏 . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ニゴラー集うにごり酒の日(ニゴラー集う「にごり酒」の日). 岐阜県大垣市に本社を置き、「白川郷 純米にごり酒」や「道三吟雪花 大吟醸」などの蔵元として知られる株式会社三輪酒造が制定。 酒本来のうま味と甘さがあり、飲みやすいと言われる「にごり酒」の認知度を高めるとともに「にごり酒」ファンを「ニゴラー」と呼んで 一緒に盛り上げていくことが目的。日付は2と5で「に(2)ご(5)り」と読む語呂合わせから。 また、一般的に寒い時期の酒というイメージがある「にごり酒」を季節を問わずに楽しめるお酒として、寒いこの時期からその後の春夏にも 味わってもらいたいとの願いも込められている。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・セン��゙・サキマケ、とも言う). 陰陽(おんよう)道で、急用や公事(クジ)に悪いとされる日。 「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。 午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . #一粒万倍日(イチリュウマンバイビ). 何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。 但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #復日(フクニチ) 一月(木)の甲(木)日、四月(火)の丙(火)日など。 その日に凶事を行なうと禍が重なり、吉事に用いると福が重なると云う。 ただし、結婚は忌むとする。 . #初午(ハツウマ). お稲荷さんの総本山である京都の伏見稲荷大社に農耕を司る神様が舞い降りた日とされています。 その後、全国各地の稲荷神社の祭りの日として広まっていったようです。 旧暦で1年のうち最初の午の日も初午には違いないが、通常は稲荷社の祭の日である2月の初午を云う。 . . #日本二十六聖人(#長崎二十六聖人殉教の日). . #煮たまごの日.#アポロ14号月面着陸.#プロ野球の日(#職業野球連盟設立の日). #笑顔の日.#ふたごの日.#ニゴロブナの日.#エコチュウの日(#中古車の日). . . #長城清心丸の日(毎月5日).#みたらしだんごの日(毎月3~5日). . . #聖アガタの祝日.#メキシコ憲法記念日.#気象予報士の日(アメリカ合衆国). . . ■本日の成句■. #朱に交われば赤くなる(シュニマジワレバアカクナル). 【解説】 朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。 . . 1964(昭和39)年2月5日(水)先負 緋田 康人 (ひだ・やすと) 【俳優、コメディアン】 〔東京都立川市〕. . . (東大泉) https://www.instagram.com/p/CoQpZYMyGVx5gvmFPr0e89QoDDyb64zYKg8yyQ0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
仕事に疲れきって、短い休みをとり、4回目の屋久島に行くことを決めた。
旅をするのがすきなわたしは、九州1周したり、四国一周したり、10年ほど通っていた伊豆七島の島があったり、日本の島は沖縄の離島から瀬戸内海とよく行ってきた。海外も10カ国は行き、好きな国は複数回行っている。それでも、回復や癒されることを考えた時に真っ先に浮かんだのが屋久島だった。屋久島だけだった。
今回の屋久島は、癒されることが必要な者同士、友人2人で過ごした回復やケアのための時間だった。私たちは本がとてもすきで、この時間のために厳選に厳選した2冊ずつの文庫を抱え、屋久島に行った。
私たちは年齢も違えば、生まれも育ちも違うのに、なんだか変に境遇が似ていて、今の政治の違和感について、家族について、ジェンダーについて、セクシュアリティについて、結婚について、なんだって話していた。屋久猿や屋久鹿を眺め「動物を可愛いっていうのは、無責任なのではないか。」という会話もして、考えることを楽しんでいた。私より6つ年下の彼女はいろんなことを教えてくれるし、感じてきた時代の雰囲気も違う中で、希望のようなものを一緒に持って来てくれた。下の世代への希望のようにも感じるし、わたしが個人的に彼女に感じている希望のようなものが、いつも会話の中にあった。
私たちは、行きたいところにはどこまでも車を飛ばして行き、道中は話が止まらないのに、カフェに入ると2人で黙って海風を浴びながら本を読み耽た。道中の話が止まらないせいで、夜中にとんでもない山奥に迷い込んだりもしながら、日中は地元の人と一緒に熱い熱い温泉に入って、温泉にいた地元の赤子をみんなで愛で、最後は夕焼けを見に海中温泉まで走った。お金がない!と嘆いて入った郵便局のおばちゃまがとってもキュートで、ここ屋久島の素敵なところだからこの3つは行って来てねと教えてくれたりもした。お金なんて久しく窓口で下ろしていなくて、こんな時間すらもご褒美みたいな時間になるんだと思った。夜はスナックで地元のおじいちゃんたちと古い曲を歌っては喜んでもらって、帰ろうとしたら10分くらい若いお兄さんに引き止められた。
何度か屋久島に来ている私は、会いたいけれどちょっと気負いするような関係性の人たちもいて、会いたいような会えないような感情を行き来しながらも、友人とちょっとだけ会いに行けた。久しぶりに会えた彼らは元気そうで、私がお世話になっていた時と同じだけの誠実さを持っていて、安心した。友人を変なことに巻き込んでしまった申し訳なさを持ちつつも、友人が微笑みながら、ずっとそばにいてくれたことにすごく感謝していた。私にとってやっぱり大切な人たちで、だからこそ友人と会いに来れて本当に良かったよってずっと思っていた。
回復の旅としながらも、書ききれないほどいろんな人に会い、いろんなところに行き、隅々まで楽しんだ。このペースは、2人にとって自然で必然で、必要な過ごし方だった。私たちにとって回復することが、興味関心に沿って制限なく動き続けることだった。
この文章で、私は、私と友人の2人を、私たちと括りすぎてしまった気がする。でも、そのくらい一体感があって、共鳴していた。こういうことってよくあることではないし、きっとずっと続くものでもない。だからこそ、すごく特別だった。
今後、彼女は私が思いもよらないくらい飛躍していくだろうし、私たちのステージが全く変わっていけば、きっと感じていることも、自然と変わっていくだろう。寂しいことではなくて、だからこそ、今回のこの時間があってよかったなって思う。そして、互いの変わった価値観をぶつかり合う時間も屋久島であったらいいなとも思う。
今回はとにかく、ずっと忙しくて、ずっと癒されていた。"癒し"ってすごくカジュアルに使われるようになっているけれど、もっとフォーマルな治療という意味でずっと癒されていた。癒されるっていろんな形があるんだなって思った。
私たちはきっとこれからも傷つく。傷つく場所に躊躇なくでていく人たちだから。でもそういう時はまた何度でも、癒されにきたらいい。そして回復した自分を連れて、また社会の中で傷ついている人たちのところに行こう。やっぱり、見なかったことにはできないから。
47 notes
·
View notes
夏旅2023 庄内散策 - 山居倉庫・本間美術館
今回は、台風によるフェーン現象で酷暑となった山形県庄内地方へ出かけてみました。最初は酒田へ。
新潟からの特急いなほ にて酷暑の庄内地方 酒田��到着。駅から出た瞬間の日差しにくじけそうになりました… なるべく日陰を探しバス乗り場へ。酒田市のコミュニティバス るんるんバスに乗り込み15分ほど、山居倉庫へ。料金は一律200円、Suica等の交通系ICカードは使用不可なので注意。
米どころ庄内における米の積出港としてにぎわった酒田。米保管倉庫として明治期にたてられたのが酒田のシンボルでもあるこの山居倉庫。フォトスポットとして有名なのが、夏の高温防止のため倉庫の裏地に植えられた樹齢150年以上のケヤキ並木。土蔵造りの倉庫と日差しに照らされ青々と輝く並木、抜けの良い石畳の道の組み合わせが実に趣がありますね。
9棟の倉庫の一部は現在、観光物産会や庄内米歴史資料館としてにぎわっています。
山居倉庫から徒歩1キロ弱、次は本間家旧本邸へ。酒田の豪商として地域社会の発展に努めた本間家のお屋敷。幕府巡見使一行の本陣宿として建造された後、本間家代々の本邸として使用されたとのこと。現在は観光施設として一般公開、古いお屋敷好きとしては欠かせないスポット。
さらにもう1.5キロほど歩いた先、美しい庭園を望む別荘 清遠閣が佇む本間美術館にも足をのばしてみます。酷暑とはいえ風がやや強いことが幸い、日陰を探せば比較的 快適に歩けました。本間美術館は戦後の荒廃した時期に、地域の復興・活性化と芸術文化の向上の資することを目的に本間家が設立した私設美術館。本間家に代々伝わる貴重な収蔵品を見学した後、お庭へ。鶴が舞い降りたことから「舞鶴園」と名づけられた庭園。この美しいお庭は隣接する清遠閣から眺めてみるのがおすすめ。心地よい風を受けながらのんびりと流れる時間を満喫しました。
昼過ぎに酒田に到着し、美術館の最終入場が16:30と、なかなかにせわしない旅路でしたが、ボッチ特有の歩く速さ(バスを待つ��り歩いたほうが早いときは歩き)で時間を稼ぐことで、一通り酒田の街を楽しめました。夕方の電車で鶴岡へ移動、翌日の散策に備えます。
34 notes
·
View notes
大阪城
天下人の城大阪城。石山本願寺の跡に豊臣秀吉が築いた天下一の城郭。
現在の天守は秀吉、徳川時代に続く三代目で昭和6年に市民の寄付によって復元された徳川時代の城
地図の通りに青屋門から入場
極楽橋から山里丸に
平日でも大勢の人の山里丸
刻印石広場の高石垣
そして天守の威容。どの角度からも美しい🤩
金蔵
本丸広場からの天守。凄い人
桜門越しに見える大阪城天守
桜門の両側の内堀は空堀
銀杏が美しい多聞櫓
千貫櫓
大手門から外堀に
外堀越しの多聞櫓と千貫櫓。石垣の高さと堀の幅にとても攻めきれるとは思えない😭
外堀から見た大手門
水面に映る六番櫓。精緻な石垣が美しい🤩
やや陽が傾いてオレンジ色に染まり出した大手門を真横から
六番櫓も夕陽に染まりだす。
日本一高い石垣
最後は一番櫓
背後に天守がチラリと見える一番櫓
続きは以下から
13 notes
·
View notes
往復の電車のなかはよき読書の場であって、うっかり乗り越したことなど数知れず、一番多く読んだ月で古典ばかり二十一冊という自己記録も作ったのだった。
— 宮尾登美子著「浮き沈み五十年」(『女のあしおと』2020年12月Kindle版、講談社文庫)
13 notes
·
View notes
プジョーe-208買いました!
実は昨日、40代を共に過ごしてきた13年超のマツダ・デミオから、プジョーのEV「e-208」に乗り換えました。電気自動車にはEVデロリアンを作った2009年から乗り続けていますが、メーカー製はこれが初めて。ディーラーで納車の際、新旧2台並べて記念撮影しました。デミオは主に妻が使っていた愛車で、この赤色とサイズ感が特にお気に入りでした。お別れするのは残念だったけど、ファロイエローのプジョーも乗ってしっくりきたので、これからもカーライフが楽しめそうです。
乗り換えの理由は雨漏りでした。1年前、バックする時に電信柱と軽く衝突。それ以降、雨の日に乗ると後部トランク付近から後部座席の足元まで濡れてしまうようになっていました。そこで半年前から後継車種探しを開始。マンションの充電設備導入も叶ったので、EVを中心に検討しました。
当初から中古狙いで、第一候補は日産リーフの40kWh版。ところが妻の希望は「デミオと同じぐらいのサイズがいい」。こうなると一気に選択肢がなくなります。軽自動車のサクラかeKクロスEVはどう?と聞くと「隣県まで料理を教えに行く時も充電なしで往復したい」。試乗もしたけどしっくり来なかったようです。BYDのドルフィンは、私がフロントデザインに馴染めず。結局、サクラの次にコンパクトなEV「プジョーe-208」案が浮上しました。しかも走行用バッテリーは50kWh積んでるので約300km走るし、普通充電も6kW対応。コンパクトな上にリーフよりスペックが上と理想的です。妻も「楽しめそう♪」と気に入ったようです。
色選びは「日本の風土にメタリックカラーは似合わない気がする」というので、比較的多いパールホワイトは落選。カタログを示しながら「プジョーのロゴマークはライオン。鉤爪の意匠がライトデザインなどに施されてるよ」と説明したら「ライオンなら黄色でしょ?」の一言でファロイエローになりました。あらゆる選択肢を感性で決めて行く過程が、本当にすがすがしかったですw
中古車はネットを駆使し、新年早々、名古屋のディーラーが所有する走行距離20kmの展示車でほぼ決め、契約の準備を始めました。しかし土壇場で、地元・広島のディーラーが同年式・同色の試乗車をほぼ同じ金額で出せる+ルーフウインドゥ付き、という条件を出してくれたので一転、地元で買うことに。価格以上に地元で買える安心感も勝りました。結果として良かったと思っています。さっそくこの日の夜、e-208納車を話題にClubhouseの仲間とワイワイやりました。興味がある方はぜひお聞きください。
さて、このファロイエローなプジョーとどこに行きましょうかね。ちょっとしたお出かけが楽しみです♪もちろんe-208で得たEV体験の情報発信もやりますよ!
8 notes
·
View notes
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
通巻第8107号 <前日発行>
ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、���うか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
9 notes
·
View notes
geser deh.. mba bensinnya bengong berujung tumpah2 tu bensin gegara wa ganteng *nyokap wa yang bilang, ga setuju pada kualat lu . . #摩托车 #バイク #오토바이 #bike #バイクが好きだ #バイク乗りと繋がりたい #バイク好きな人と繋がりたい #日々是好日 #日々成長 #日々精進 #オートバイ #復古車 #越野車 #ts125 #ts125indonesia #suzukits125indonesia #brap #bali #vmx (at Denpasar, Bali, Indonesia) https://www.instagram.com/p/ChZT8F9BOfR/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
穿梭於城市之間,那些你曾走過卻不曾停留的美好城市光景,有著猶如國外般的異國風情,更是一處婚紗取景地的絕美城市公園的「湊大通公園」!
1 note
·
View note
9月21日午前6時に父が亡くなった。
老健からの退所が決まり、週末のみ自宅で過ごすことが決定してからの
我が家はまさに上を下への大騒ぎだった。
家の中までの導線を確保した上で車椅子が通るよう道を整備し、
父が使っていた寝室に入るサイズの介護ベッドを調達して
高齢の母の負担が極力減るようにヘルパーの力を頼りながらの受け入れ生活だったが
あれほどの労力をかけて準備したにも関わらず、わずか2ヶ月ほどでピリオドを打った。
コロナ感染からの重症化で一時は命も危ぶまれた父は、奇跡的に回復するも
肺炎により嚥下機能が��しく低下していたため誤嚥性肺炎を繰り返しては再入院し、
「急変した際の延命治療はどうしますか」とその都度医師に聞かれた。
そして3度目の再発で入院し、同じように「どうしますか」と問われた時、
半ば慣れっこになっていた私たちは「回復の希望があるならできるだけのことはやってほしいが
機械の力を借りて心臓を動かすだけの措置なら不要」と回答した。
そしてその翌日、まるで私たちの会話を盗み聞きしていたかのように父は逝った。
今年もケムコ様より東京ゲームショウにお誘いいただいていたのだが
父の容体が安定していないことからギリギリまで返事を待っていただいていた。
(快く待ってくださったケムコ様には本当に感謝しかない。ありがとうございます。)
最初から断ることも考えたが、遠出すれば気分転換になるかもという現実逃避的な思考もあり
引き延ばすだけ引き延ばした挙句に父が選んだ旅立ちの日は9月21日、東京ゲームショウの開幕初日だった。
父についてのエピソードで一番古い記憶を辿ると、幼稚園のクリスマス会になるだろうか。
園児のところにサンタがやってきて菓子を配る恒例の会で私も楽しみにしていたのだが
当日やってきたのはサンタのコスプレをした父で、特に素性を隠すでもなく
大声で私の名前を呼びながら「おおしのびん、今年はワシがサンタじゃ」と菓子を手渡した。
私は幼稚園の年少組にして「サンタは親が演っている」ことを知ってしまったのである。
生粋の目立ちたがりで役職のつくポジションが大好きだった父を見て育ったせいか
私は人一倍自分を表に出すことを避けるようになり、今もこうしてハンドルネームでブログ��書いている。
母から「お父さんのようになってはダメよ」と言われて育った私は、
言ってみれば父を反面教師にして出来上がった集合体のようなもので、何から何まで合わない。
合わないのに、成長するにつれて父に似た部分が体のあちこちに、思考の節々に現れては嫌悪した。
今にして思えば、父のようになりたくない、は、父のように何事にもオープンで大らかには生きられない
内向的な自分の劣等感が生んだ、羨望からくる逆恨みだったのかもしれない。
そのことを受け入れ、父の中に幾らかの可愛らしさを見出してからの親子関係は
世間で言うところの仲の良い親子には届いていなかったかもしれないが、そう悪くもなかったと思う。
3度目の入院の知らせは突然だった。
デイサービスから「微熱があり酸素量も少ないため念のため病院に連れていきます」と連絡があり
またかと思いながら病院に駆けつけた。
前々回、前回と同じようにしばらく入院して、回復すればまた退院するのだろうとぼんやり考えていたので
入院手続きのために膨大な枚数の用紙に記入しなければならないことの方が気が重かった。
翌朝面会に行くと、父は痰を吸入してもらって楽になったのか静かに眠っていた。
夜中も1、2時間おきに吸入をしていたと聞き、頭の下がる思いがする。
とてもではないが、このケアを自宅ではできなかったろう。
父は私のことはわかっていたようで「会いにきたよ、わかる?」と聞けば小さく頷いていた。
「元気になって、また家に帰ろうな」と声をかけるとまた小さく頷いていて
「この様子なら大丈夫だろう」と少し安堵した。
しかし、翌朝の医師の説明では、心臓の機能が大分弱っているので
肺炎が治るよりも先に心臓が持たないかもしれないと告げられた。
そして、冒頭に書いたように「無理な延命治療は本人も辛かろうし不要。
楽になるための治療なら全力でお願いします」と回答して帰宅した。
その日の深夜、病院から容体がおかしいと電話があり、孫たちも連れて慌てて深夜の病院に
大勢で押しかけると、別室に移動した室内で父はスヤスヤと眠っていた。
「みなさんが到着される直前に急に安定し始めて」とナースは申し訳なさそうに笑ったが
「人騒がせなじいじだ」と悪態をつきながらも皆笑顔だった。
その翌日、またしても深夜に病院から電話があり、同じように大勢で深夜の病院に向かった。
酸素がなかなか上がってこないと昨夜より病室内の空気に緊張感があったが
当の本人は傍目には穏やかに眠っているように見えた。
「こんなことがこれから毎晩続くのかしら」と母が疲労困憊の様子で口にするのを聞きながら
昨日医師に「まぁ、こんな感じで心臓がゆっくり止まってしまうほうが本人は楽だと思いますよ。
本当に眠るように、何も苦しまずに済むので。」と言われたことを思い出していた。
ほどなくして心電図を表示している機械から危険を知らせるアラーム音が鳴り、慌ただしくナースが入ってきた。
「まだいったらだめだよ」「起きてじいじ」「起きないと怒るよ」と孫たちがそれぞれ父に声をかけ
「家に帰ろうよ」と姉が語りかけた後に、それまで黙って見守っていた母が父の手を取って話し始めた。
「じいじ、ねえじいじ、本当に好き放題に生きたわね。
突然商売をすると言い始めて、30年間も私にその店を手伝わせている間に
他所で女を作ったり、こっそり家のお金に手をつけたり。
その人を連れてゴルフに旅行にと遊びまわり、飲み歩いてね。
子育てなんて全部私に任せっきりで、ほとんどしなかったでしょ。
でもねじいじ、私はそれでも、あなたにまだ居て欲しい」
父の左手を両手で包み込み、まるで駄々っ子を宥めるように話しかける母の言葉を聞きながら
「おいおい、こんな男にだけはなるなと刷り込み続けて今更それはないだろう」と思ったりもしたが
その言葉を聞いて、つくづく夫婦のことは夫婦にしかわからないのだと思い知らされた。
そして母が話し終えるのを待っていたかのように、9月21日午前6時に父の心臓は動きを止めた。
息を引き取る直前まで、話しかければ反応していたし、ゆっくりと腕を持ち上げたりピースサインも出せていて
「ぎゅっと握ってごらん」と言えば握り返していた父の時間は、本当に呆気なく止まったのだった。
けたたましい機械音さえなければ寝落ちを疑うほど穏やかな最期だった。
入退院を繰り返したとはいえ、何週間も昏睡状態が続いたわけでもなく、
在宅介護開始から2ヶ月、再入院から僅か2日で逝った父は
ピンピンコロリとまではいかなくとも、ほどほどコロリぐらいの称号は与えても良い気がする。
面倒を見ていた親族の誰も介護疲れに陥らせず
別れを惜しむ気持ちを十分に残した上で旅立ったことは、家庭を振り返らず仕事に恋に奔放に生きた父が
珍しく見せた父親らしい気遣いと言っていいかもしれない。
週末は自宅で皆に介護されながら、コロナ感染の入院直前に食べるはずだった念願の鰻もちゃんと食し
早朝にも関わらず親族8人が見守る中で逝けたのだから、幸せだったろう。
亡くなる前日の朝、家族がいる手前では気恥ずかしさが勝ってしまい、正直な気持ちを話せないと思った私は
ひとりで病院に面会に行き、眠っている父に向かって幼い頃から反抗的な態度を取ってきたことを詫びた。
「できの悪い息子でご��んな」と耳元で話していると、父が一瞬、私の手を握り返してきた、気がした。
あの時間がなければ、私の後悔はもっとずっと大きかったと思う。
テレビで何度も見かけた「9月21日午前6時21分、お亡くなりになりました」という医師の言葉を聞き終えて外に出ると
もう空は明るくなり始めており、電話1本で飛んできた葬儀屋と話をしているうちにすっかり陽は昇った。
秋晴れの爽やかな朝だった。
悲しみに浸る暇もなく、数々の段取りが始まった。
実を言うと、2年ぐらい前から「親が亡くなった時にするべきこと」という
ハウツーのページをブックマークしていて、折に触れて読み返すのを癖づけていた。
10年以上前の別れでは狼狽してしまい、何もかも人任せにしてしまった反省から
いざという時にあたふたせず、冷静に適切な行動とれるための予習をしていたのだ。
親族と親しい方々への連絡、役所への届け出、葬儀の手配など
まるで流れ作業のように進んでいって、翌日には通夜、翌々日の葬儀がすんなり決まった。
通夜の翌日、親族の集まった部屋に入ると、皆が見守る中で父が風呂に入れられていた。
旅立ちの前に全身を綺麗にするオプションサービスで、母が頼んでいたらしい。
髪も丁寧に洗い、顔もパック&化粧までしてほとんど韓流スターのようなフルコース。
一部始終を近くで見ていた姉が「私がやって欲しいぐらいのサービスだったわ」と感心していた通り
仕上がった父はこざっぱりして生気を取り戻したように見えた。
昼時になり孫たちが腹が減ったと言うのでGoogleMapで調べてみると
田舎のため近くにはコンビニぐらいしか引き当たらない。
「仕方ないから適当におにぎりでも買ってこようか」と義兄は言ったのだが
騒がしく葬るのが我が家のスタイルだからと、私の提案でデリバリーを頼むことにした。
幸い、配達圏内にカレー屋とピザ屋が引き当たったため
Uberと出前館に一軒ずつ注文を出し、数十分後には親族控室はカレーとピザの匂いで充満した。
父の想い出話を肴にワイワイと盛り上がり、「こんなに騒がしい親族の控室はないんじゃないか」と
誰かが口にするほど賑やかな昼食になった。
年を取ってもジャンクフードが大好きだった父は、すぐ横で羨ましく見ていたに違いない。
皆で盛り上がっているところに葬儀屋が入ってきて、一枚の紙を置いていった。
折り鶴の形をした形状記憶用紙で、皆で一言ずつ別れの言葉を書いてお棺に入れるのだという。
「お疲れ様でした」「あちらでは偉そうな振る舞いをしないように」(←私)など各自が書き込み、
最後に全員のメッセージを読んでいると、看護学生をしている姪が書いたと思しき一文が目に留まった。
「きちんと面倒をみてあげられなくてごめんなさい。立派な看護師になってみせます。」
淡々と皆の様子を俯瞰で眺めてきた私は、その一文を読んで初めて涙腺が緩んだ。
父親としては赤点だったが、祖父としては孫達に慕われる良きじいじだったのだ。
父の顔の広さもあって、葬儀場には置き場所に困るほどの花が届き、弔問客で溢れ返った。
コロナ禍ではとても実現できなかったであろうし、やはり父はツイている。
「いよいよお別れの時です。
生前お付き合いのあった方は、どうか前に出てきてお顔を見て差し上げてください。
仏様は亡くなっても私達に多くのことを教えてくださいます。
命の儚さ、尊さ、多くの教えを私達の心に遺して旅立たれるのです。」
お棺を閉じる前のお坊さんの言葉に誘われるように棺の前に立ち、眠っている父の顔を覗き込んでみた。
次々と収められる花に囲まれた父は、加工アプリで装飾し過ぎた写真のようなビジュアルで少しだけ滑稽だった。
そしてその姿を見てフフッと少し笑った後に、訳もわからず涙が流れた。
時間にしてほんの1分ぐらいだったと思うが、どこかの栓が抜けたようにドバドバと流れて自分でも驚いた。
「最後ぐらい泣いてくれ」と、父が私の涙腺(栓)を抜きにきたのかも知れない。
こんな機会でもなければ会うことの無かったであろう、数十年振りの知人や親戚と再会し
様々な思い出話をしていると、この時間も父の置き土産なのだと感じる。
簡略化の進む現代風の葬り方にも良い点はあるが、昔ながらの葬式も、その煩わしさも込みでなかなか良い。
親族用にチャーターした火葬場までの送迎バスに乗り込む際、
片手で骨壷を持ち、片手でスマホを持って自撮りをした。父とのツーショットである。
山の中腹にある火葬場は薄曇りで少し肌寒かったが、待ち時間中はやはり四方山話で盛り上がった。
火葬を終え、小さな骨壷に収まった父と帰宅してから
四十九日までの予定を親族で確認し、それぞれが日常に戻っていった。
数日して何気なくiPhoneの写真フォルダを見ていると、入院時に父と撮った写真が出てきた。
亡くなった9月21日は金曜日、その写真は2日前の19日だったので
写真の上にはまだ『水曜日』と表示されている。
iPhoneの写真は1週間以内なら曜日で表記され、1週間以上が経つと○月○日の表記に変わる。
水曜日という表示に、まだ数日前まで父はこの世にいたのだと気づかされた。
老健に長く入っていたし、それほど頻繁に会っていたわけでもないのに
「もういない」ことが日毎に実感となって、音もなく雪が降り積もるように静かに寂しさが募っていく。
あっという間に四十九日を迎え、近しい親族だけで法要を済ませた。
葬儀の時と同じお坊さんがやってきて、最後にまたひとつ話をしていった。
「四十九日が経ちましたね。
毎日元気にお過ごしでしょうか。
今日はひとつ、時間と命について皆さんに考えていただきたいと思います。
私たちは皆、等しく流れる時間の中で生きています。
亡くなった方の時間はそこで止まり、しかし私達の時間は動き続けます。
時間の止まった方との距離は日々遠くなり、日常で思い出す機会が減ってきたり
悲しみが薄れたりしますが、そんな時こそ、生きていることを自覚していただいたいのです。
今日この場で皆さんと過ごした時間が二度と戻らないのと同じように
時間は先にしか流れないと自覚しながら、1日1日を大切に過ごして下さい。」
私にとって父が良い父でなかったように、父にとって私も良い息子ではなかったろう。
生きているうちにもう少し何とか出来たかもと思わないでもないが、全ては後の祭り。
是枝裕和監督の映画「歩いても歩いても」に出てくる
『人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。』を、まんまと私も体験してしまった。
先人からの教訓を受け取っていたのに、実践を怠って同じ後悔をして
その気持ちをこうして文章に残し、誰かが悔いを残さないようにと祈る。
そうやって、人は生きていくのだ。
四十九日 - 忍之閻魔帳
11 notes
·
View notes
おはようございます。
秋田県湯沢市川連は曇り空です。
昨日は休み…でしたが、朝から車からの荷下ろしやら、アレコレてお昼。
お昼過ぎからは名古屋の展示会でご依頼頂いた、漆器や陶磁器の修理依頼の確認作業。
お客様のお名前とお品物をノートに記帳やらアレコレと行い一服。
一服後からは一週間分の衣服やら、お客様や従姉妹から頂いたお土産の整理で一日が終了。
そして今日も休み…ですが、車の掃除やらメンテナンス⁉︎やら、次の��示会の準備やら、今日もアレヤコレヤと有りますが、一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い休日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
#秋田県 #湯沢市 #川連漆器 #川連塗 #川連 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #伝統工芸 #秋田工芸 #秋田の物作り #秋田の物つくり #漆 #うるし #ウルシ #髹漆 #寿次郎 #やきものワールド #修理修復 #修理 #修復 #漆器修理 #漆器塗り直し #塗り直し #金継ぎ #漆器のある暮らし #kawatsura #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
19 notes
·
View notes