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#日本遺産和歌の浦
habuku-kokoro · 11 days
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『紫式部雲隠れ』記憶される日に。 ー 稲坂良比呂
劇作家・香の伝道師・『紫式部雲隠れ』原作者 稲坂良比呂
「武蔵国江戸浦前島(後の東京銀座)、令和六年皐月二十九日、紫式部霊界より現わる」
そのような一瞬の幻視を思わせる観世能楽堂の舞台でした。久遠の時空の一点から
現世へ降りた紫式部、かくやと思う姿が、そこにありました。いつもの源川瑠々子が舞台にいるのではありません。その姿を呼び出すのは、紫式部の父藤原為時。
演ずるは、観世流能楽五百余年の血脈を現代に受け継ぐ十二世山階彌右衛門。
凛とした気の中に想いの情あふれ、静謐な光を放っていました。
父為時の存在は大きい。この舞台の原作の一つ、私の『ささめごと源氏物語 紫式部雲隠れ』も、父と娘の人生の物語が礎です。世にも稀なる才ある娘に先立たれた
父が呼び出す娘の霊(紫式部)が、その人生を語り、その自作(『源氏物語』)を
語るという構成です。大いなる父と、娘が生涯をかけて支え続ける例は、後世、幾つか語られるものです。世界に知られる葛飾北斎という偉大な画家を支えた娘、応為(おうい)。日本の演劇史に遺る最多の作品を歌舞伎舞台に創造した河竹黙阿弥を支え続けた娘、糸(いと)女。が、為時は自分を遥かに超える娘(藤原の「香子」が本名らしい)を『源氏物語』の大天才作者に育て、父と娘の双方が共に心の支えであったのではないか、と思われます。(『紫式部日記』『紫式部集』による)
『源氏物語』(全五十四巻)は、一千余年の昔、平安王朝の一人の女性によって書き上げられた世界最古の大長編小説。三世代60年にわたる細密深奥の人間ドラマであり、近代・現代文学の礎となる原石が幾つも埋め込まれています。故に、現在
世界60ヶ国を超えて出版され続け、増え続ける読者を持ち、各国に『源氏物語』研究学者たちがいます。「世界文化遺産」と言えるかもしれません。
平安王朝400年間は、歴史上際立って、女性たちが文芸において活躍し、その作品は現代人を魅了しています。紫式部を筆頭に、『枕草子』の清少納言、歌の和泉式部等々、稀なる才ある女性たちがこれほど並ぶのは、平安時代のみで、後は、明治以降まで待たねばなりません。
「省心会」という、志を同じくする超境界の研究・創造者たちが推める「ひとり文芸ミュージカル」。その中で源川瑠々子という一人の舞台女優が確実に育ち、歌舞の力量と共に大きく飛躍しようとしている姿が、この観世能楽堂の舞台から観られました。
浦島伝説の「乙姫」から「紫式部」そして「与謝野晶子」迄、時空を超えて一貫している舞台は、「いのちとは?」「生きるとは?」「今と永遠とは?」「人の心の真実とは?」と問いかけています。
答は、観客の皆様の、それぞれの心の中にあるものです。
「ひとり文芸ミュージカル」の提唱者、神尾憲一という音楽家にして演出家、プロデューサーにしてマルチアーチストによる舞台は、全て継承からの創造です。
先人たちの遺産を受け継ぎ、受けとめたところから現代の創造を行う。それは
令和の時代に新たな地平をめざすものです。そして見えてくるのは、「旧(ふる)きもの新しく、新しきものに古(いにしえ)美しく」といえるものです。
現代の私たちは今、古代からの幾層もの文化の地層の上に立っているのだと、あらためて思います。
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yotchan-blog · 2 months
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2024/7/21 7:59:26現在のニュース
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eternitycomenevermore · 6 months
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観光いろは』より許可を頂き画像と文言を掲載いたしました刻線刻画石
古代の絵文字が刻まれていると言われている石。近くには大きな石塁もあり、海賊の砦だったとも言われています源氏盛・平家盛
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武者達が落ちのび、飛島で漁の道に入った時に刀剣、甲冑を埋めたものと伝えられています。テキ(狄)穴
昭和39年に平安時代のものとおもわれる人骨が土器と共に発見され、昭和44年に発掘調査が行われました。現在、鶴岡市にある致道博物館に保存されています ((狄とは北狄の事で出羽・津輕・渡嶋の主に日本海側の蝦夷である)
別嶋(飛島・つるち嶋・とど嶋)
    鳥海山の戌亥の隅に飛び別れて海中に入る これを別れの嶋と言ふ
   別るれど 別ると��もはず 出羽なる つるちの嶋の 絶へじと思へば 
                                 古今和歌六帖 詠み人知らず
17世紀以前にはとど嶋と呼ばれていた。鳥海山の大爆発で飛んだ山頂に因んで飛島と言うがこれは出羽における鳥海山人気の現れでしょう。飛嶋は酒田市の北北西に39・3km・周囲10・2km・面積2・37k㎡で昭和25年4月に酒田市に編入され昭和38年7月には国定公園に指定されている。対馬海流のど��ん中にあり年間平均気候が12・0℃もあり山形県で最も高いと言うのは以外です。ここは東北大学の八木博士の発明した八木アンテナによる飛島・酒田間で日本最初の無線電話をした所でもあるのです。無線通信発祥の地である。勿論北前舟・西廻回船の中継港であることは言うまでもない。この嶋から7000年前の縄文人の遺跡が発見されたのは驚きです。7000年前 どのようにして人が渡りどのようにして食べ物を得ていたのだろうか。人はどんな過酷な所でも生きていける証でしょう。ガンバらねばね。
(平成19年3月26日)(参考 郷土史辞典山形 県昌平社 大日本地名辞書 酒田市観光物産課HP)
https://archive.is/0eiAB
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Seigantoji Temple, Temple(Wakayama, Japan) 那智山青岸渡寺★★
I visited Seigantoji Temple (^o^)
The sight of the three-storied pagoda and Nachi Falls together was really great (^o^)v
那智山青岸渡寺に行って来ました(^o^)
三重塔と那智滝を一緒に見る光景は本当に素晴らしいですね(^o^)v
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higechan-z · 6 years
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二日酔いだ...。 #那智の滝 #一の滝 #三筋の滝 #和歌山県 #那智勝浦町 #那智川 #滝 #landscape #waterfall #nature #water #river #風景写真 #日本三大名瀑 #世界遺産 #worldheritage #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい (那智の滝)
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puremaminako-blog · 7 years
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【福井県謡曲古跡めぐり若狭/嶺南編】14箇所目 2021/3/18
能「鵺」「頼政」
観音堂
《福井県小浜市矢代》
真言宗醍醐派。
所在 小浜市矢代10号9番地
本尊 聖観世音菩薩
境内坪数 210坪
堂の建坪 35坪
由緒。当堂ノ創立ハ大同元年丙戊二月ナリ 是ヨり先天平宝字元年丁酉春二月ノ初丿 唐船一艘風波ノ難ヲシノギ萍流浮転シテ遂ニ此海浜ニ漂着ス 土人就テ其国所ヲ訊問スレドモ言語互ニ不通 船中ヲ伺ヒ見ルニ異裝ノ婦女六人品格甚ダ貴嬌ナルヲ覚ユ 男子ト相像スル者二名共ニ咽喉ヲ撫テ食ヲ乞フノ状アリ 土人糧及薪木ヲ給ス 此ニ泊スル事数旬其ノ状土人ヲ試が如ク居ラント欲スル如シ 然シテ村民船中所載ノ貨物ヲ利セソガ為忽チ悪念ヲ起シ 其ノ三月船ニ迫リ終ニ一行ノ人ヲ刺害シテ 所載ノ貨財什器ヲ掠奪スルニ船中扇ヲ設ケテ観世音ノ像ヲ奉スルニ在り 又奪ヒ去ツテ柴ノ庵ヲ造リ之ヲ安置ス 是ヨリ大同元年ニ至ル迄五十年間災厄頻リニ至ルヲ以テ 村民前非ヲ悔悟シ亡霊ヲ招魂スルニヨリ又当堂ヲ創建シテ亡人ノ遺幸セル観世音ノ像ヲ安置ス 実ニ是レ人皇五十一代平城天皇ノ御宇大同元年丙戌春二月也当観世音臨産ノ感験明ナルヲ以テ著名ナリ(以下略)以上由緒は矢代栗駒操 「仏堂礼拝施設存続届」(昭和17年5月30日宗教団体法による届出書)による。
 「観音堂 在二矢代浦一 相伝 古此地領主源頼政創建 一説大同年中創建本尊仏白二異域一来者」若狭国志。
「矢代観音堂 矢代浦にあり、頼位山福寿寺と号す、従三位頼政郷此地を領する時之を創建す、本尊は観世音の像なり。一説は大同年中の草創にして本尊は支那より来ると、今世は金谷村万徳寺の僧堂事を司どる」若狭郡県志。
古来稲富浦と称されていたが、従三位源頼政が平治2年(1160)禁庭で怪獣ヌエを射止めた賞として朝廷から稲富を賜わり、その時使用した箭羽が稲富産であったことから、以後稲富を矢代と改称したと伝える。 
矢代観音
 矢代浦は、もと稲富浦といって、源頼政の領地であった。そのころ高倉天皇はふしぎな病気にかかった。毎晩夜がふけてから、どこからともなく怪物か雲に乗って現われ、御所の上へ来て、天皇を悩ませした。朝廷では源頼政に怪物退治を命じた。
 頼政が、どうして怪物を退治ようかと、心をくだいていると、ある夜の夢に観音様が現われ、「わたしはお前の領内の稲富浦にある観音である。お前が怪物を退治しようと思うならば、わたしに願をかけよ。」といった。さっそく領内を調べると、はたして稲富浦に観音堂があった。頼政は大いに喜び、はるばる京都からこの地に来て、観音堂に断食七日の願をかけた。
 七日七晩の満願の夜、また観音様か夢に現われ、「山鳥の羽で矢羽を作ったならば、必ず怪物を射とめることができよう。」と告げた。翌朝稲富浦の山中で山鳥を捕えて羽をとり、宮川村の竹やぶで矢竹をとって矢を作り、その矢を射て、みごとに怪物を退治した。
 頼政は稲富の観音様にお礼参りをして、稲富の一部と外面(そとも)を観音様に寄進した。これから稲富を矢代と呼ぶようになった。今も宮川村に頼政を祭った堂があり、矢代には頼政の屋敷跡がある。また矢代では山鳥を食べない。 
#能楽 #能 #Noh #申楽 #猿楽 #狂言 #風姿花伝 #世阿弥 #芸術論 #幽玄 #歌舞劇 #演劇 #能面 #マスク #文化 #旅行 #トラベル  #名所旧跡 #神社 #寺院 #像 #碑 #巡礼 #古跡 #謡曲 #福井 #若狭 #嶺南 #Travel #GoTo #ruins #wreckage #Shrine #temple #samurai #bow #Chimera #弓矢 #キメラ #���物 #武士 #退治 #古典
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天皇さまが泣いてござったー「因通寺の女の子」
佐賀県に因通寺というお寺があります。 この寺には、戦争孤児救護教養の、洗心寮が設置されていました。 洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。 この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。 そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」 との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。 この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、 特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。 因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。 歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。 5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。 いろんな想いの群集から、 「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。それは、地響きのようでした。 陛下は、群集に帽子を振って応えられます。 そして陛下は門前から洗心寮に入られます。 子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。 陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。 「どこから」 「満州から帰りました」 「北朝鮮から帰りました」 「ああ、そう」 「おいくつ」 「七つです」 「五つです」 「立派にね。元気にね」 一人一人にお声をかけられます。 ひと部屋、ひと部屋と。 そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。 陛下は、その時突然、ある一点を見詰めてたたずまれます。 侍従長以下は 「何事があったのか」と足を留めます。 しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。 「お父さん。お母さん」 と、お尋ねになる。 女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。 女の子が 「はい。これは父と母の位牌です」 と、返事します。 「どこで」 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。 母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」 「お淋しい」 「いいえ。淋しいことはありません。 私は仏の子どもです。 仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、 きっともう一度会うことが出来るのです。 お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。 そして、そっとお父さんの名前を呼びます。 そっと、お母さんの名前を呼びます。 するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。 私は淋しいことはありません。 私は仏の子どもです。」 と答えました。 陛下と女の子は、じっと見つめ合います。 さらに陛下は部屋の中に入られ、 右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、 右手を女の子の頭において、撫でられたのです。 陛下は 「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」 と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は 「お父さん」と呼ぶのです。 多くの人たちは、言葉無くたたずみます。 新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。 孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、 「またきてね、お父さん」と言います。 陛下は、流れる涙を隠そうともせず 「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。 そして後に、一首の歌が届けられました。 「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」 調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の鐘に刻まれました。
今でも因通寺に行くとこの鐘の響きが当たり一帯に響き渡る。 洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。 陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。 その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。 外国から帰り革命を起こして日本を変えようとしている反天皇の思想を持った過激な活動家達でした。 すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。 恐れていた事が起こる気配です。 周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、 その者達とお話になられます。 陛下はその者達に深々と頭を下げられます。 「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき 私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」 「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、 日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、 新しい方向に進むことを、希望しています。 皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」 非常に長いお言葉を述べられます。 陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。 陛下は、彼らのたくらみをご存知ない。 陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。 「天皇陛下さま、ありがとうございました。 今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。 引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。 外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、 戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。 最低の生活に落ち込んだのです。 ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。 そして、天皇陛下さまを、恨みました。 しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。 天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。 今日から、決して、世の中を呪いません。 人を恨みません。 天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」 と言ます。 その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が 不意に地面に手をつき泣き伏しました。 「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。  俺が間違っておった。俺があやまっておった。」 と号泣するのです。 その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。 泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。 じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。 陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。 三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され ようやく陛下は歩を進められたのです。 陛下が涙を流された時、人々は知りました。 陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。 陛下は、危険を顧みず全国津々浦々を御巡幸され続けます。 そのお姿に、国民は敗戦の苦しみを乗り越え 「一丸となって、共に頑張ろう」 と決意したのです。 戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。 https://ameblo.jp/ten4m/entry-12369444772.html
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oniwastagram · 3 years
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📸琴ノ浦 温山荘園 [ 和歌山県海南市 ] Onzansoen Garden, Kainan, Wakayama の写真・記事を更新しました。 ーー近代の実業家・新田長次郎の別荘として茶人 #木津聿斎 ( #木津宗詮 )が作庭した日本最大級の庭園。国指定名勝。 ...... 「琴ノ浦 温山荘園」は和歌山の代表的観光地・和歌山マリーナシティ/ポルトヨーロッパからも程近くにある国指定名勝の庭園で、作庭は茶道 #武者小路千家 家元の三代目木津宗詮こと木津聿斎。 庭園とともに大正時代に建築された主屋・茶室“鏡花庵”、浜座敷が国指定重要文化財で、日本遺産『絶景の宝庫 和歌の浦』🌊の構成文化財にも。 . 5月に約5年ぶりに訪れたのでその際の写真を追加。なおその時はCOVID-19の感染対策として主屋は見学できなかったのですが、平常時は建物内も見学可能。 名付け親・東郷平八郎や桂太郎、清浦奎吾、秋山好古といったそうそうたる面々の扁額🖌や彫刻家・相原雲楽の欄間が鑑賞できます。 . 東証一部上場企業で世界有数の産業用ベルトメーカーのニッタ株式会社。その創業者・新田長次郎は明治時代に日本ではじめて動力電導用革ベルトを製作。 製革業で財を成すほか地元・愛媛の銀行の役員などもつとめ、近代の大阪で有数の資産家に。 . そんな新田長次郎翁が大正時代~昭和初期にかけて造営した別荘が温山荘園。“温山”というのは長次郎の雅号。 名勝“和歌の浦”から取り入れた潮入式の池を中心にしたこの庭園の広さは約18,000坪。江戸時代の大名庭園より後に作庭された個人の庭園としては日本最大級で、昭和の半ばに一般公開がはじまるまでは長次郎個人が健康維持のために利用していた…というスケールの大きさ。 . そんな広大な庭園に、大正時代に造営された近代和風建築と茶室が点在。庭園の中心に建つ主屋は1915年(大正4年)に長次郎の娘婿の建築家 #木子七郎 の設計により完成。過去に自分が訪れた中では松山市の国指定重要文化財の洋館『萬翠荘』🏛の作者で、父親は東京の『明治記念館』(かつての皇居の仮御所)を設計した木子清敬。 主屋は庭園内でも高い視点に建ち、その池や周囲のマツ🌴、対岸の山並みの借景も美しい。 続く。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/onzansoen-garden-%e7%90%b4%e3%83%8e%e6%b5%a6%e6%b8%a9%e5%b1%b1%e8%8d%98%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanarchitecture #japanesearchitecture ‪ #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #建築デザイン #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #海南 #kainan #文化財 #国指定名勝 #国指定重要文化財 #日本遺産 #近代和風建築 #近代日本庭園 #おにわさん #oniwasan (温山荘園) https://www.instagram.com/p/CSjUQbIJBWO/?utm_medium=tumblr
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j-loves-p1 · 4 years
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飛瀧神社鳥居⛩ 潜って那智の滝へ 熊野那智大社 #flashback #pics #振り返り #日本一周 #travelgram #day27 #那智熊野大社 #那智勝浦町 #世界遺産 #那智の滝 #鳥居 #ヘンテコ外国人 #traveler #旅人 #メンズモデル #フリーモデル #着物旅 #着物男子 #raw_japan #pentax #pentaxk70 #カメラ好きな人と繋がりたい #instagood #ig_japan #igersjp #lovefromjapan #wakayama #和歌山 #japanphotography #photojpn (飛瀧神社) https://www.instagram.com/p/CDTTVr4JsSC/?igshid=1s6vftjvwl0u5
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変��わずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同���「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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・ 旅するように暮らす日常の和歌山「Wakayama Days」   うれしいことに、映像のタイトルとして『波よせて』と書いてありました。  和歌浦は毎年、オーガナイザー根無君がバグースでSmall Circle of Friends唯一の海ライブとして開催してくれる場所。  そして、2度出演した思い出深い美しい街「Arcade 」の海南。  和歌山は私��ちにとって、イマジネーションの元であり、音楽の楽しさ��もっと希求するところです。  また今年も、決まりました。行きます和歌浦の海へ。ちょうど二週間前の大阪ライブを根無君がセッティングしてくれた日に「また今年も!」としあわせな言葉が!  決まったらお知らせします。  もはや、どこの海岸より訪れる砂浜「和歌浦」の海美しい海です。   #Repost @wakayama_days ・・・ . \ #波よせて / 和歌山市(262) . 波の音を聞きながら暮らす。 . #和歌浦湾 #大阪梅田から車で1時間半 . Beautiful sunset on Hamanomiya Beach (Wakayama City). We can live while listening to the sound of the waves. . ※ 動画に波の音が入っています。 ※ タイトルはSmall Circle of Friends(@scof75) の名曲より。 . . . #NorthOfWakayamaPrefecture #WakayamaCity #WakayamaDays_和歌山県北部 #和歌山市 #グッドトリップ和歌山 #友ヶ島ラピュタ #めでたい電車 #加太温泉 #加太の鯛 #磯ノ浦サーフィン #和歌山しらす #日本遺産和歌の浦 #和歌山城 #フルーツ王国和歌山 #黒潮市場 #和歌山ラーメン #有田タチウオ #醤油発祥の地_和歌山 #世界遺産_高野山町石道 #日本三美人の湯_龍神温泉 #世界遺産熊野古道 #白浜 #和歌山ダイビング #本州最南端潮岬 #那智勝浦生マグロ #和歌山観光 (和歌浦湾) https://www.instagram.com/p/B-Hw3oCDBJ1/?igshid=1630y7ur9bcxm
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amiens2014 · 3 years
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熊野那智大社/和歌山県那智勝浦町【世界遺産】青岸渡寺〜那智滝〜飛瀧神社
熊野那智大社とは 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山(わかやまけんひがしむろぐんなちかつうらちょうなちさん)にある神社だ。 熊野三山(くまのさんざん)の一つで、祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ) ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部になっている。 一段の滝としては日本一の落差を誇る那智滝(なちのたき)でも有名だ。 熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、…
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geniusbeach · 6 years
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和歌山旅行記
 ふと思い立ち、昨年の夏に和歌山で書いた日記を旅行記としてまとめることとした。約1年前のことなので曖昧になった部分もあるが、総じて良き思い出であったと記憶しているため、できるだけそれを損なわないように補足した。もっとも、旅の始まりは最悪であったが…。
 8月31日
 9時起床。本来休みのはずの仕事に出る。ただでさえやる気がないのに、昨日解決したと思っていた面倒事がぶり返して泣きそうになる。大きな不安を残して16時に上がり、バタバタと和歌山へ。市内に着いた頃には20時前になっていた。県庁所在地にもかかわらず驚くほど魅力的な飲食店がなかったため、食べログで見つけた駅ナカのラーメン屋で仕方なくつけ麺を食べるも、至極微妙な味。改めて京都のラーメン屋のレベルの高さを知る。ホテルはホテルで激安プランを選んだせいで、なぜか鏡張りの廊下、迷路のようにおかしな内部構造、ボロボロの内装、暗い部屋、薄い壁に虫さんもコンニチハとさながら監獄のようなありさま。トイレは浴室の奥にあり、風呂上がりにはビショビショの床をつま先で渡り歩いて行かねばならない。さらに窓を開けると目と鼻の先に壁があり、閉めきっていたとしても、雨でもないのに絶えずポタポタと水滴の落ちる音が聞こえてくる。おまけに翌日の靴下を家に忘れて来たことに気づき、コンビニに買いに行く始末。無駄な出費に心が傷む。なんともツイてない一日だ。さっきから向かいの部屋のテレビがうるさく、モヤモヤして部屋でタバコを4本も吸ってしまった。0時。さっさと寝て明日に備えよう。今日で8月が終わった。
 9月1日
 8時起床。極悪昭和レトロなホテルにオサラバした後は、夕方まで研修。グループワークが主体のもので、ディスカッションではモアイ像と化す自分を発見。最後まで苦戦しつつもなんとかこなす。しかし、例によって参加者との交流はうまくいかず、最後までじっとしていた。社会的な身ぶりがどうにも苦手なのだ。昔から集団の中にいるのが耐えられない性格で、浮いていたというわけではないものの、心ではマスの潮流に反発をしていた。そのため、私の第一印象は他人にとって大抵よろしくないようだ。私はそれをわかっているので、時間を置いてそこから巻き返すことにしている。今回のように一回きりの出会いではそういうわけにもいかないのだが、やはり共同体からは抜け出ていたいという個人的な心理がどうしても勝った。我々は服を着た動物に過ぎない。一時的な社交をそつなくこなす能力など本当に馬鹿馬鹿しい。と同時に、そんなことを考える私が一番の大馬鹿者なのだ、とも思う。社会に対する態度、このアンビバレンスは時たま私を引き裂こうとする。最近は心を開く方が有意義だということもわかってきたので、自分なりに努力をしているつもりだ。今日はたまたま失敗しただけ。明日からまた頑張ろう。  さて、和歌山駅に戻り、行く予定はなかったものの、気が向いたので井出商店でラーメンを食べた。いわゆる京都ラーメンと似た醤油豚骨味で、優しい味わい。腹ごしらえを済ませた後は紀伊勝浦に向かうのみだ。同じ和歌山なのに電車で二時間半と約5000円かかるのというのがすごい。車中ではほとんど寝ていて、着いた頃には21時半になっていた。今日から2日間、海に面した温泉宿に泊まる。チェックイン早々にフロントのおじさんが明日の観光プランを一緒に考えてくれた。人の純粋な優しさに涙が出そうになる。風呂は天然温泉で、硫黄の匂いが立ち込めていた。ぬる湯と熱湯。肌がスベスベになり最高に気持ちがいい。永遠に入っていられるんじゃないかと思った。部屋に戻り、コンビニで買ったビールで小さく宴会。波の音が聞こえる。普段は海のない都市に住んでいるので、海沿いの小さな町には何か憧れめいたものがある。かつて夢に出てきて今も忘れられない場所もこのような土地ではなかったか。そんな気もしてくる。当時、起きてすぐに地図を調べたが全くわからなかった。だが判明してしまったところでどうすると言うのか。きっと手を付けずにおいた方が良い記憶というのもあるのだ。1時。明日は念願の那智の滝だ。心地よい疲労感が安眠をもたらしてくれるだろう。
 9月2日
 8時半起床。カモメの声で目が覚める。朝飯を食べに、地元の漁師が集う「めしや 里」へ。宿の人が予約してくれていたみたいで、一の滝さんから来たの? と聞かれる。前日、フロントで名物を尋ねた時に知った穴場の店だ。まぐろ造り定食を頼むと、サク2つぶんの分厚い切り身にどんぶり鉢いっぱいのご飯と味噌汁という、とんでもない量で出てきた。さらにご飯はおかわり自由かつサービスのまぐろソテーまで出してもらう。これで1000円だ。あまりに多かったため食べ切れずに残してしまい、とても申し訳なかった。ここのまぐろは冷凍せず、水揚げすぐのものを出しているとのこと。だから食感がムチムチで大層美味かった。魚の値段が高騰している時は1000円で出せないため、まぐろが食べられるかどうかはその時の仕入れ状況によるそうだ。食事ついでに勝浦の話を色々と聞く。熊野が世界遺産に登録された頃は観光客が多かったが、やはり昔に比べてだいぶ寂れてしまったとのこと。確かに、駅前から歩いている時、やってるのかどうかわからないようなフィリピンパブやスナックが立ち並ぶ鄙びた商店街が印象的だった。他��お客は船頭さんが4人。ずっとフィリピン人の姉ちゃんの話をしていたが、そのうちの1人が、今度有休を取って来たら寝る場所と食べる物をやるよ、と言ってくれた。人の温かさに触れられた朝だ。帰りがけに、次は彼女を連れて来いよと言われた。きっとそうしよう。  重たくなった腹を抱え、紀伊勝浦駅で那智山までのバス往復チケットを買って大門坂で下車。熊野古道を歩く。苔むした林道は写真で見たそのままの、いにしえの雰囲気。汗をかきながら那智大社を目指す。脇には青い山が連なり、木々の間を抜けて爽やかな風が吹いてくる。海から近いのになんとも雄大な山々だ。青岸渡寺を参拝後、かねてから念願の那智の滝へ。あまり知られていないことだが、京都にも熊野三山を模した熊野神社があり、後白河法皇が熊野詣でをする際は、そのうちのひとつである熊野若王子神社の小さな滝で身を清めてから出発したそうだ。私は熊野若王子神社の奥にある滝宮神社と、そのさらに奥にある池が好きなのでよく行っている。霊感を受けて詩の題材にもしたほど思い入れのある場所なのだ。その都度いつか那智を訪れてみたいと思っていたため、今回本物の滝を見れる機会に恵まれて、私はかなり興奮していた。階段を降りる足も自然と早まる。そうしてようやく飛瀑へと辿り着いた時、私は本当に唖然とした。その威容、その勢い、その迫力。133mにもおよぶ高さから、無数の龍頭が地上へ突入してくる。ああ、神よ。なんという驚異。開いた口が塞がらないとはこのことだ。私は手を合わせることも忘れ、しばし呆然と佇んでいた。そして気づけば半時間ばかり経っており、首の痛さでふと我に返った。いやはや、ここが「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどの信仰の地となったのも頷ける。神がいて、我々はそれに生かされる。ただそれだけのことなのだが、それがいかに重大なことか。心が洗われた気分だ。三重塔前の句碑にはこうあった。『薄紅葉して神の那智滝の那智』。  バスで麓まで戻り、那智海水浴場の砂浜を歩く。風が爽やかだ。そのまま熊野街道に入ってひたすら南へ。約5kmの道のりの末、カフェきよもんにてアイスコーヒーとタバコで休憩し、きよもん湯へ。源泉かけ流しの硫黄泉はしっかりと茹でタマゴの匂いがする。小さな気泡で肌もスベスベに。気持ちよく長湯をした後は歩いて山を越え、夏山(なっさ)温泉「もみじや」へ。海沿いの道のどん詰まりにあるここは、まさに秘湯と呼ぶにふさわしい場所。旅館業がメインのようで、300円で日帰り入浴もできる。地図でたまたま見つけただけだったが、これが当たりだった。客は誰もおらず、小さく古い(が、綺麗な)浴室は貸切状態、湯船のへりからは贅沢にも湯が勢いよく溢れ出ている。ここも硫黄泉で、今回入った3つの温泉の中で最も濃い匂いがした。どっぷりと長湯を楽しみ、昭和のままで時間が止まったかのような館内でしばし休憩。宿泊客の食事の準備が始まったようなので、一言お礼を言ってからもと来た山道を引き返し、勝浦のまぐろ料理「桂城」へ。まぐろ定食に舌鼓を打ち、ホテルに戻る。フロントにいたオーナーに今日の行程を伝えると、昨日立てた作戦、大成功やったね、と喜んでくれた。ついでに奥さんも交えて勝浦の話を聞かせてもらう。熊野の歴史や宿の自慢、那智の滝で満行した行者が身を投げたこと、補陀落渡海の悲しさ、あたりの島々にまつわる伝説やエピソード、源泉かけ流しと謳う温泉の裏話、昨日から太地に捕鯨反対団体が来ていること等。明日太地に行くと伝えると、逆に貴重なものが見れるかもしれないねと言われる。日本の文化を尊重して欲しいものだと一緒に嘆いた。その後、身体を癒すため、ホテルの温泉に浸かる。ここの湯は偉い先生がナントカ言って褒めたそうだ。昨日も言ったが、本当に気持ちが良い。全身の力が抜けた。  今日は3つの温泉でリラックスできたとはいえ、一日中歩きっぱなしでかなり疲れた。後で地図を見ると15kmをゆうに超える行程であったことがわかった。一人旅でなければこうはいかないだろう。新しく買ったパラディウムの靴も役に立った。1時半。良い旅だと思う。明日はなんとか5時半ごろの日の出を拝みたいのだが、叶うだろうか。もう寝よう。
 9月3日
 5時半のアラームで飛び起き、部屋から日の出を見る。弁天島の緑の間から登る朝日が辺りを橙色に染めていた。素晴らしい朝だ。私はそこに神話の空気を感受し、思わず手を合わせた。感動的な静謐のパノラマが広がる。熊野よ、なんという土地だ。  二度寝の後、8時半に起きた。今日は波があるため、紀の松島をめぐる遊覧船は欠航らしい。フロントのスタッフに世話になったと告げ、勝浦から電車で太地駅まで向かう。次の目的地まではバスに乗るつもりだったが、なんとなく歩きに変更。途中にあった「くじら家」でランチを食べる。尾の身と頬肉の刺身に、鼻孔の味噌漬け、大和煮、串カツ、ベーコン、さえずりの吸い物など、まさに鯨尽くしの定食は少々値が張ったものの、食べられるだけ貴重なのでありがたく頂く。鯨と言えば血の匂いのする獣肉で、どこか魚のような風味もあるのが特徴だ。野趣があってうまい。腹いっぱいになったところで再び歩いて太地町立くじらの博物館へ。捕鯨の歴史に関する展示物や骨格標本・解剖学的標本などを一覧し、クジラショーとイルカショーを見学。4m近いクジラのジャンプは見応えがあった。マリナリウムではアルビノのイルカが泳いでおり、その神秘的な姿に見惚れた。その後、岬まで歩こうかと思ったが、かなり距離があったため「白鯨」という宿でレンタルサイクルを借り、上り坂を飛ばす。燈明崎に着いた頃には足が疲れており、歩かなくて良かったと思った。さて、太地町の果て、太平洋を一望できるこの岬には、見張り台と支度小屋の跡がある。昔は鯨の潮吹きを見つけると法螺貝を吹いて船に知らせたそうだ。命がけで戦った海の男たちに思いを馳せる。梶取崎にも足を運ぼうかと思ったが、電車の時間が迫っていたためここでやむなく撤退。帰途、警察が囲む物々しい雰囲気の中でイルカ漁が行われているのが見えた。後でニュースを見ると外国人の活動家が数名来ていたようだ。彼らは写真を撮ったくらいで目立ったことはしなかったらしい。そういえば、勝浦に向かう電車の中で金髪碧眼の背の高い男を見かけたことを思い出した。自転車を返却し、16時過ぎに太地駅を後にした。  京都の自宅に着いたのはそれから5時間後の9時だった。友人Zからの連絡で、今出川の居酒屋へ行くと、久々に会う同級生のKと友人Tがいた。それぞれが自分の近況や人間関係、今後のことについて語り、0時に解散。寝たのは1時半ごろだった。
 後記
 今回の旅は全くの成功だった。自然と信仰、海と食、それから温泉。陸の果て、紀伊半島南端の文化を大いに楽しめ、濃密な時間を過ごすことができた。だが実際、私が触れられたのは熊野の表層くらいものだろう。訪れて初めて知ったのは、とても一度では回り切れないほどの史跡と自然があるということだった。しばらく滞在したとしても、おそらくその全てを味わい尽くすことはできない。ひとつの地域を知るには、ひとつの生涯を懸ける必要がある。ふと、そんな言葉も浮かんできた。その点、私はお気楽な旅人なので、ぶらぶらと歩くだけであり、首を突っ込んだり突っ込まなかったりする。これは旅の良いところだ。海と山のあわい、そこに吹く風も住む人々も皆優しかった。生涯のうちで記憶すべき場所のひとつとして、私は熊野を心のどこかにしまっておこう。そうして、いつかまた必ず行くだろう。
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chem-love · 6 years
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鬼畜
三浦和義は錬金術の為に女を手にかけたが織原は
自身の劣情の為に女に手をかけた
この二つにどんな差異があるのだろうか。おそらく差異は無い。だが、織原の周辺からはとんでもない状況が顕になる。三浦が善人に思えるほどに織原の鬼畜の所業は凄惨を極めていた。
織原の豪邸から被害者の毛髪が発見される。
遺体の損壊・遺棄に使ったと見られるチェーンソー、セメントの購入履歴
ブラウザの検索履歴(死体の処理や遺棄方法について)
余罪がすべて共通する犯罪性向があること。
いわゆる「ハメ撮りビデオ」が発見されたこと。
織原のマンション近くの洞窟でバラバラ死体が発見されたこと。
織原の鬼畜の所業はある女性の死がきっかけとなった。イギリス人女性の故ルーシー・ブラックマンである。彼女の妹が当時のレートで100万ポンドの懸賞金を掛け、そして日本警察に圧力を掛けた。本腰になった警察は六本木界隈の外国人ホステスが集う店で派手に遊んでいる折原に辿り付くのはあっという間であった。
更にルーシーの周辺で外国人ホステスが二名行方不明になっていた。先を急ぐ警察は別件の準強制猥褻事件で織原の身柄を確保、その後警察は10名(日本人4名と外国人4名)の準強姦罪、外国人2名に対する強姦致死で織原を訴追した。
98年には和歌山の女子便所で盗撮事件を起こし罰金刑に、それ以前にも同様の事件で有罪になっていた折原を娑婆に戻した警察は失態の責を逃れられないのではないだろうか。では無く、織原が警察の上を言行っていたのか。
カネに物を言わせ様々な女を毒牙に掛けた折原だったが自宅を初め複数の資産が差押えられ強制執行は間近であったという。だが「お悔やみ金」と称し被害者家族に一億円もの金銭を支払うなど、親族はまだまだ資産家であるらしい。
高額な弁護士費用も親族が負担していたというから羨ましい限りである。更にカネに物を言わせ弁護士を使い
「ドキュメンタリー ルーシー事件の真実―近年この事件ほど事実と報道が違う事件はない」
などという書籍が飛島新社が発刊された。これは自費出版であり業務委託であった。その後、飛鳥新社は1300万円以上の訴額で織原と弁護士を訴えている。その他、自作自演のウェブサイト「ルーシー事件の真実」には被害者の日記の一部や遺族の署名した書類、���判速記録などが裁判���の許可なく掲載されていた。
サーバーが他国に置かれているため
と信じられない幼稚な理由で警察は訴追しなかった。サーバーが他国にあろうとアップロードは国内からされていることは明白である。サーバーを解析すればどこからファイルがアップされているかはすぐに解るはずである。
間抜けな警察によって助かった
と無期懲役を務めている織原がほくそえんでいる事は容易に想像できる。そして奴は今もその薄汚い頭の中で何人もの女を犯し殺していることだろう
こいつを早く13階段に吊るせ
と叫んだところで無期懲役は覆りそうに無い。 早く死ね、オマエは人民の敵だ。
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