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#浮き釣り
fuminaga · 4 months
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◆2ストライクから高打率  本人にこの質問をぶつけた5月には、2ストライク後の打率が3割5分を超えていた時期もあった。口数が多いタイプではない。データを示し、要因を尋ねると「すごいね。理由? 分からない。幸運としか言えない」と短い答えが返ってきた。  運だけで結果が残せるはずはない。質問を重ね「配球を読んでいるから打てるのでは?」と聞いた時に、4度も「ノー」と否定した後に、こう付け加えた。  「相手のミスを待っているだけ。失投が来た時に、それを前に飛ばす努力をしている」  サンタナが「ミスを待つ打撃」の具体例をいくつか挙げる。「高めの真っすぐが良い投手の時は、低めを狙う。高めに釣られてはいけない。フォークが良い投手ならば、浮いた球を待つ。低めのフォークは結局ボールになるからね」。そう語ると、「ただ、それが難しい。打撃はとても難しい。フォームうんぬんよりも、精神面が物を言う」と続けた。 ◆「若い頃よりも賢くなった」  サンタナは開幕から好調を維持し3、4月の月間最優秀選手(MVP)に選ばれている。その記者会見で「若い頃よりも賢くなった」と語っていた。その真意は、技術面ではなく、精神面にあるという。  「若い頃は、自分がコントロールできない部分でも、うまくいかなければ悩み、考え過ぎることがあった。年を取って『しょうがないな』とか『自分のコントロール外だな』と割り切ることができるようになったことが大きい」  安打が出なかった試合翌日の本人の言葉が象徴的だった。5月21日のDeNA戦では150キロ超の速球を投げ込む左腕アンソニー・ケイの前に4打数無安打に終わった。次の日の試合前に、こんなことを話している。  「きのうの投手は良い投球をしていた。本当に良い球が来ていて、失投は多くはなかった。良い球が来たんだから(打てなかった理由は)打撃フォームとか、そういう問題ではない。脱帽して、次の打席とか、次の試合で頑張ればいい。考え過ぎてはいけない。次もまた相手のミスを待てばいいんだ」
セ打率1位、ヤクルトのサンタナがイチローから学び、導いた結論(時事通信) - Yahoo!ニュース
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kaoriof · 1 month
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無題
平穏よりも胸のときめきをいちばんにしたら世界のぶあつい皮膚が一枚めくれたかのようになにもかもが歌い踊りかがやきはじめたのをいまでも覚えている。わたしは親が厳しくて外泊できないけれど、そのあいだに同級生の子たちはうつくしい島の海に反射する満月をみて、だれかと夜通しぴたりとからだをあわせて内緒話をするような、今にもぷつりと切れそうな糸のように細くて鋭い若さを世界の夢に浸らせている。感性を野放しにして、こどものころの感動をひとつずつ取り戻す時間がわたしにも必要だった。けれど思いどおりにいかないこともある、それも定めとおもって歯をぎゅっとくいしばる。わたしには必要だった。路上、白い廊下みたいに澄んだ朝霧をかんじる時間。薄いトップス。ズレた口紅。酔った勢いで入れ墨を彫ってしまう危うさ、煙ったクラブでなにもかんがえずに踊って、好きな男と寝て一限目をサボるとか、夜の街頭を走り抜け、くだらないことに時間とお金を費やすこと。「それだけじゃない、夜に遊ばなくても昼に釣りをしたりサッカーしたりそういう遊び方だってあるだろう。そっちのほうが幾分もまともだ」 おとうさんは夜遅くに帰ってきたわたしを叱りつけ、そう言った。わたしはけしてワルにあこがれているのではなくて、ただただ綺麗なものに飽きただけだった。わたしにとって祈りや信仰はさいしょから型があってそれに当て嵌めてハイ完成みたいなかわいいお菓子作りのようなものじゃなかった。自らを成り立たせるピースを集めた上でそれを食い尽くすくらいの覚悟や貪欲さがあなたにはある?わたしにはそれが足りなかった。昔も今も自分でうつくしい歌をつくれない。うつくしいものがたりをかけない。うつくしい絵を描けない。世の中にはフォロワーが万桁いる女子高生がいて、今、何千もの美術展が開催されていて、明日、いつかオリンピックに出るであろう少年がはじめてスケボーに乗るかもしれない。わたしには何もできないかもしれないけれど、彼らの生き様はわたしをわたしたらしめる微かなエッセンスとしてわたしに溶け込む。それを祈りという言葉で表象してはだめ?これからのことをかんがえると、ずっとどきどきする。目の前の光景が、訪れたことのない地の光が、風が、わたしを、わたしのからだを必要としてる気がする。世界中に張り巡らされた血管がわたしの心臓部にも繋がっているような心地。死ぬ5秒前ってどんな感覚なのかしらないけど、築き上げた塔が崩れてゆく感じなのかな、雪景色のような。
無題
朝起きたら腕に友達の噛み跡と身に覚えのない痣が3つくらいあった。耐え難い疲労がからだのあちこちにひっついて、入れ墨と化している。活字の海を、本をその背に背負えたらよかったのに、今のわたしを崖っぷちに引き止めているのはうつくしい言葉でもなくて、泥に塗れた重いカルマ。イヤホンの先から垂れ流れる音楽すらも風のように軽やかで自由なものではなくて、ねばねばした気持ちわるくてかなしいものに聴こえた。夏と、そのあつさと、その底知れぬ闇に街ゆくものすべてがこころのずっと奥の方で平伏している。昼過ぎにスクランブル交差点前の巨大スクリーンが薄青い空を泳いでいるようにみえたこと、街ゆく人の肌色が、シャボン玉のようにその熱を吸収して発光していたこと、ぜんぶなんか夢みたいにふわふわしているかんじがした。もうすぐでなつやすみなのに、大学入ってからそれまでもずーっと夏休みのような感じだったからあまりどきどきしない。みずみずしくずっと光っていたい。わたしもいつかデカい人間になりたい、いつかいつかいつかという文句ばかりが増えてゆくのを横目でみて、ぜんぶカサブタを剥がすように振り解いて拭ってくれる奇跡みたいな命、日々、音をどうしても期待してしまう。どうすればいいんだろーしにてーと思いながらまたあしたも友人と夜ご飯をたべにいく約束した。それでまた家に帰って、朝起きて虚無感に苛まされて、の繰り返しを大量の課題で中和する。薄暗い中でたべるごはんとか朝早起きして化粧をすることじゃない、今はなにもない海とか草原でなにも繕わずにその自然のデカさとか愛を仰向けになって享受するのがいちばんただしいきがする。たすけてと呼ぶには大袈裟すぎるし。わたしはわたしのことをぜったい見放さない、それだけで充分いっぱいすてきでしあわせで救いだということを今じゃなくてもいい何年もかけて真実にしていく、揺るがない愛に変えていきたい。
end
泣き出しそうに張り詰めた空気に鼻を啜る。世界の彩度が落ちて、ぶあつい服を着た街ゆく人たちが皆んなちっちゃな怪獣みたいにみえる。肌寒い。外はずっと灰色、モスグリーン、レモンみたいな匂い。大きな木が揺れて、木の葉の上に横たわっていた雨の滴が霧のように3秒間くらい降った。最近は毎日毎日やることが多くて、それをこなしているあいだに1日が終わる。3日連続で化粧を落とさずに寝てしまった。多くの人が電車にのっているときに外の景色に目をやらないのと同じ感覚で、わたしも生活の外側にひろがる微かな動きに鈍くなった。ずっと特別でありたかった、1番愛されたかった、そういった思春期的な熱望とどんどん疎遠になっていく自分に日々焦ったり安堵したりしている。だけど同時に、わたしの中をまだ生きている17歳のわたしがその面影をときどき覗かせる。期待させる。突拍子もなく走ったり、ゲラゲラ笑ったりする。些細なことで泣いたり、理不尽な世界に怒っている。良くも悪くも変わっていくのなら、これからの自分に期待をしたい。アルバイト先では後輩が6人くらいできて、みんなわたしよりも仕事ができる。わたしはもともと注意をされると衝動的に泣いてしまうところがあったし、シンプルに忘れっぽかった。あまりにも器用に仕事ができないので、ある日店長とそのことについて話し合ったら意識の問題と言われた。その1、人からのアドバイスに劣っている自分を見出してはだめ。その2、素直に人からの意見を受けとる。その3、自分のためでなくだれかのために働く。この3つを約束した。夜の繁華街で50歳の男性に飲みにいきませんかと声をかけられたり、あした授業にどんな服でいくかを考えながら化粧品を見に薬局に寄り道したり、腕に点々とのこる虫刺され痕をみて、それを残した蚊のことを考える。あした、図書館で借りた本の返却期限。わたしもちっちゃな怪獣になって寒さをまるごと食べてしまいたい、寒い日の、霞んだ光やクリアな淋しさ、果実のようにぎゅうぎゅうに酸っぱい気持ちを。
slow burning
大学一年生というよりも、高校四年生というような振る舞いをしているなあ、と自分のことを客観視する。新宿の横断歩道橋から行き交う人々を眺める。つい最近まで、委員会の同期の仲の良さにムラができていて、グループとかカーストとかそういう言葉が浮上してきてしまうほど揉めそうになっていた。それでも、それぞれが居心地の良い場所にしようと歩み寄っている。こういう、諦めによる愛想ではなくて心からの気持ちに胸を打たれる。明大前の飲み屋で酔っ払って「俺みんなのこと愛してるよ」と照れ笑いする先輩に、わたしたちみんな、キモいねーなんて言って茶化した。そのあと夜の大学で騒いでいたら警備員に注意された。机の下に10円玉を落としたのを拾わないで帰る。い�����でも赦されていたい、わたし、山猫のような女の子でいたかった。すぐ隣、肌すれすれにだれかの温もりを感じて弱さを誤魔化すのではなくて弱さを共鳴しあっていたい。「東京の人は生き急いでいる」なんて言葉があるけれど、わたしは美しい光景がそこに広がっていれば必ず立ち止まる人でありたい。仕事に遅れそう、とか、終電が、とかじゃない、好きな人たちのためだけに忙しくありたい。恋人は待ち合わせをするとき、「どこでおちあう?」と聞くのだけど、高2の頃、初めて会う日、それを「(恋に)落ち合う」と勝手に解釈して死ぬほどどきどきしたのを思い出した。それからわたしも「どこで落ちあう?」と聞くようにしている。ドア窓の形に切り取られた青い影が電車のフロアに映って、がたんごとんという音に沿ってフィルム映画みたいに小刻みにうごいていた。池袋で新疆料理をたべて、お腹を下す。スペイン語の中間試験。木曜日、ほんとうは1限に英語の授業があったんだけど、財布を忘れたいせいで交通費が若干足りなくて新宿駅から乗り換え先の電車に乗れなかった。その旨をインスタのストーリーに載せたら、一度しか喋った事ない同じクラスの男の子から「抜け出していくわ、」とだけ連絡が来て、本当にきてくれた。クラスで唯一金髪で、派手で、いつも高そうな服を着ている。ピーナッツをぼりぼり食べながら、ダーツをする。わたしが2回勝って、可哀想だったからあとの1回は負けてあげた。それからは何も無かったかのように授業では一言も喋らない。お互い、目を合わせないふりをしているような、ふしぎな距離感を保つ。渋谷で5分1000円の手相占いをしたら、鎖みたいにいくつもの線が絡まっていますね、と言われた。意外と気にしいなんじゃないですか?「そうですね」と答える。駄菓子屋で1000円使い切ったほうが幸せになれそうだとおもった。電車の隣の線路にカラスが一羽いた。こんなに近くでみるのははじめてだ、と思って、じーっとみつめた。黒なのに黒じゃなくて、光を受けて渋いグリーンや紫っぽくみえる羽毛に目を見張る。なんか、空はどこまでも真っ青なのに光の細部だけ色があたたかい夕方前みたい。ふわっとなにかに気付いて、じーっとそれを見つめて、そこになにかが“視える”とぜんぶ途端にスローモーションになって、焦燥感や虚しさがたちあがってくる瞬間がある。からっぽなのにぎゅうぎゅうな感じ。AirPodsをケースにしまう音が体感的に5秒間くらい耳に残ったり、自分の息遣いにどきどきしたり、すれ違う男子高校生の会話声や、鳥が羽をはためかせる様子がクリアに輪郭が保ったまま空中を転がる。ガムを買って噛みながら、心のもやもやしたなにかを同時に小さく噛み砕いてゆく。光の洪水。家に帰ってパスタをたべたあと、お風呂で下の毛をつるつるにする。夕方終わりにお風呂に入るの、とても好きだなあと思う。コンタクトレンズを外さないまま、化粧も落とさずベッドへダイブする。瞼の裏に東京タワーの赤がたましいの塊みたいにまあるく光っている、はやく何もかも諦められる年齢になりたいと思う。
無題
なんかまじでわたしが疲弊していて悲観しているのか、世界が残酷なのかわからなくなってきた。脳科学の講義を受講したあと、テキトーに混雑した休日の街をあるいていたら皆んなの脳みそが透けて浮きでてきそうで気持ち悪くなった。地球4周分の神経線維。そう、どでかい爆弾が街ゆく人々の頭蓋骨に葬られている。ニューロンが軸索を介してつながってゆく、放出と受容を繰り返してみんな手を繋ぎあってゆく。セール中でバイトの雰囲気がぴりぴりしていて、みんな資本主義の豚みたいに働いていた。うつくしくないとおもったし、私も美しくなかった。結いた髪に、ぴたっとあげられた前髪。なにを思っているのかを書くのがずっと怖かった。もしかしたら私の感じているこの欲望はとても汚らわしいもので、それゆえにだれかを傷つけてしまうかもしれない。でも、言葉にしなければすぐにわすれてしまう感情に名前をあげなくなって、水をあげなくなって、そうしたら、じぶんの脳みその溝をうめていたみずみずしい苔までもがすっかり枯れきってしまって虚構を連ねるようになった。空洞に哀しみの音だけが響き渡る。友達はいるけど、私はその友達の1番になれない。恋人みたいな人はいるけど、私はその恋人の1番にはなれない。1番っていうのはほんとうの意味での1番、2番とか3番とかがいない1番。圧倒的な2人の世界の中でのフェアで高貴な1番。有名になりたかった。文章でも外見でも写真でもなんでもいい、だれにも敵わない羽根で世界を羽ばたいてみたかった。わたしを選ばないで、そこらへんのそれっぽくかわいい女の子を選ぶかっこいい男の子たちを信じられないでいる。外国に行ったらモテるよ^_^と投げかけられた言葉について何回も考えるけど、考えるたびにかなしくなる。でもね、神様はいるとおもうの。木漏れ日の首筋に、砂丘のしずけさに、広大な空の一枚下に、その温もりと永遠が芽吹いているのをしっている。そのたびに、わたしはこの世界に愛されていて、まだ19歳で、まだ何にでもなれて、そして世界を(気持ちがあふれてしまいそうなくらい)等身大で愛しているドラゴンみたいにかわいい女の子だとまじないを唱えるようにして心を強く保つ。アスファルトに散った桜が朽ちて、吐瀉物のようにグロテスクにぬるい光を浴びている。走り抜ける!だれかの憎悪の中に、疑念の中に、見下しの中に憧憬の眼差しを覚えながら。東京で灯される光の数だけ、アフリカの広原でつややかな花が咲けばいいのに。光の重さの分だけ、銃弾が軽くなればいいのに。帰り道、ひさしぶりにパンを買って帰った。
日記
弟がiPadのタッチペンを無くしたらしくて、それを聞いた母がすぐにAmazonで検索して新しいのを買った。こういうとき、ほんとうになんか小さなことだけれど、すごく心が愛にみちる。
大学の新校舎の建物のにおいが400人もの人が集まった大教室の縁をすべっていく。扉を開けた瞬間、目と目と目がわたしの顔を捉える。湿気漂うフロアにだれかがペンを落とす音、先生のマイクが吐息までもを拾って湿った熱を加速させる。「儚いって聞いて何を思い浮かべますか?蝶?蛍?蝉?トンボ?」 教授がそう聞くと、みんなのえらぶ選択肢がちょうど均等に分かれる。講義が終わるといつもすぐに帰るイケてる男の子が蛍を選んでいて、なおさらかっこよく見えた。わたし、インスタのフォロワーが490人いるんだけど、その人数って今見てるこの人たちよりももっともっと多いのかと思うとなんか心強いような息苦しいような、不思議な気持ちになるなーとぼんやり思った。君たちはぶっちゃけ勝ち組です、という先生がキモかった。海外の大学院に行きたい。わたしはもっともっと色々な人を知るべきだし、美しい景色にであうべきだし、貪欲に学ぶべきだとおもうから。聡明になって、お金を稼いで、将来だいすきなひとたちにたらふくご飯をたべさせてあげたい。お母さんとお父さんが育ててくれた、守ってくれたこの心の真ん中にそびえる愛情のかたまりを誰かに分け与えていきたい。でも、そうとも思うけど、逆にそれをこなごなにさせてくれる危険性や若さゆえの解放にも目が眩んでしまうの。「今しかできない」ってとてもずるい言葉だなあ。
19さい
19歳とかいちばん呪われていた1年だった。まだハタチじゃないけど、もうそうさせて、と思うくらいに、1年のあいだに10年分くらいの幸せと不幸せがぎゅうぎゅう詰めに、どっちがどっちかわからなくなるくらいに入り乱れててくるしくてさみしくて悲しかった。くるしかった。わたしと同じ純度で、等しく、あいしてほしい。あいされたい。
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toadxhunter · 10 months
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So, regarding that ending
I want to deliver an interesting nugget. I'm being led to believe by translators in the r/HunterxHunter discord server (no longer associated with the reddit cause reasons) that the Japanese audience reaction has been more positive generally? I mean, obv it's entirely possible the Japanese fanbase has just as many if not more 'dudebros' who are just eating it up uncritically. I however am interested in the possibility that our rough translation is making it somehow even worse? Apparently, if the translators are to be believed in there, the image out right now was translated using chatGPT. So if it feels like it reads janky to anyone else, there's that. Said translators in there, (that mostly work on manga scanlations) are working on a hand translated version, so I'll share it when it's out! In the meantime, someone scalped this together somehow, it's the original Japanese text of Togashi's Letter to the program. Go nuts!
池のほとりで釣り竿を握り微動だにしない少女。突然竿が大きくしなり、少女が叫ぶ。彼女の名前はギン。ギン「来た来た来たァァ!!」池の主を担ぎ、得意気にギンは1人の女性の前に立ち言い放つ。ギン「約束通り主を釣ったよ!!お母さん!!」さらに女性に近づき小さな声でギンは続ける。 「これでもう二度と私にハンターになれとか言わないでしょ…!」仕方なくうなずく女性。ギンは主を担ぎながら去って行く。 母親「主を釣り上げることで狩猟(ハント)に目覚めてくれると思ったんだけど…ねぇ?」女性が隣の夫に同意を求める。父親「島から一生出ないで店を継ぐ…。それが現在(いま)のギンの希望なんだ。尊重してやろうよ」。 女性はまだ不満気だ。母親「まぁ、途中で気が変わるかも知れないしね。全くあなたもギンに何でそんなに…って、そりゃミト大ばあばとノウコばばの血筋よねェ…。」どうやらミトとノウコが血縁関係にないことを女性は知らないらしい。夫は静かにほほ笑む。あきらめきれず、女性は続ける。 母親「でも!ゴンじいは有名なハンターだったんだし…!あの娘(コ)だっていつかはきっと島を」 ギン「出ないからねッッ!!」姿すら見えなくなった森の奥から、両親のやりとりが聞こえるはずもないのに叫び返す娘。父親は楽しそうにつぶやく。父親「お見通しだね」 場面が変わり、ミトのころから続くお店。主はきれいにさばかれ全ての部位が下ごしらえされている。作業をしながらギンの独白。ギン(お母さんはわかっていない…)(じいがハンター時代の思い出を楽しそうに話す時、大ばぁばがさり気なく席を外していること) (ノウコばばの相槌が全て誰かからの伝言で、ばばがじじのそばにいられなかった寂しさを控えめに滲ませていること)包丁を持つ手でまな板を強くたたく。(私はまっぴらだ!!)(誰かの帰りを何ヶ月も何年も心が締め付けられる想いをしながら待つのも!!自分が誰かを待たせるのも!!)(私は…) 扉が開く音。のんびりとした穏やかな声が響く。小太りの少年が植物を抱え入ってくる。少年「山菜とったよ~ おおっすげ~本当に主を釣ったんだ!」「よ~し島民全員にふるまおうぜっっ」 ギン(私はずっと…ずっと一緒にいたい人と) 少年「皆の喜ぶ顔が目に浮かぶぅ」「さあ、始めよ~」 ギン(ずっと一緒にいる!!)「うんっっ!!」満面の笑顔で料理を作る2人。 島から一羽の鳥が飛び立つ。大空を鳥が舞う。鳥の下にはどこかの街。様々な人々。誰かの息子、誰かの娘、誰かの孫が色々な場所で暮らし、誰かと笑顔で交している。それはあのキャラの子どもや、あのキャラの孫かも知れない。鳥が空の彼方へ飛び去る。それを見送っている誰かの後ろ姿。 完
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024年)6月28日(金曜日)
   通巻第8308号
李尚福前国防相と魏鳳和元国防相の党籍を剥奪。上将の階級も取り消し
軍に闇のシステム、習近平がいかに綱紀粛正を呼びかけようが。。。
*************************
中国共産党第20期中央委員会第3回総会(3中総会)は7月15日から四日間、北京で開催される。直前となる6月27日の中央政治局会議で、李尚福前国防相と魏鳳和元国防相の党籍を剥奪する処分を決定した。
また両氏は軍から除名され、それぞれの「上将」(大将)階級も取り消しとなった。国防相経験者が一度に2人も処分されるのは異例である。処分理由はいわずとしれた軍の汚職体質、というより軍の上納システムという悪弊にある。
軍の汚職、腐敗は歴史的伝統であり、日清戦争で李鴻章が最新鋭軍監を視察し武器庫を点検したところ、砲弾がなかった。横流しで売り払ったあとだった。
人民解放軍となっても部署の交替で賄賂が流れ、また装備部などでは軍服やら長靴や装備末端にいたるまで業者から賄賂をとる、
糧食も同じで業者から賄賂、当然おこる数量の誤魔化し、手抜き、質の低下であり、これらが中国製武器の営農の劣悪さに直結する。空母? 四日間くらいしか動かず、すぐ修理。
潜水艦? 先々週だったか台湾のイカ釣り漁船近くに中国の潜水艦が突如浮上し、やがて護衛艦に守られて中国方面へ去った「事件」があった。潜水艦って、ふつう90日間は潜り続ける。
少尉から中尉に出世するには前任者への『上納金』が必要とされ、たとえば上将への上納金は一億円が相場といわれる。ま、日本では退職金とその後の天下りがあるが、中国には軍に闇のシステムが存在し、習近平がいかに綱紀粛正を呼びかけたところで、この体質は治らない。失脚したふたりは「見せしめ」でしかない。
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shoji · 1 year
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367 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 sage 投稿日:2009/01/13(火) 08:31:14 ID:uQrVyLIM0 相談させてください。板違いであれば誘導していただけると幸いです。 結婚して4年の子蟻専業です。 ちょっとしたきっかけで、あるアニメに嵌りその中のキャラに恋をしてしまいました。 それ以降旦那のことが愛せなくなってしまい離婚したいと思うようになりました。 こうなって、アニヲタで2次元好きな人の気持ちがようやく理解できました。 相談と言うのは、このような「アニメキャラに夢中になり旦那への愛情が薄れた」と いう理由での離婚の申し立ては不利になるのか?と言うことです。 慰謝料請求されたりするのでしょうか? 旦那にはこのことは未だ打ち明けていません。ただ最近の私の旦那への態度で 浮気などを疑っているようです。 釣りと思われる方もいると思いますが、釣りではありませんのでよろしくお願いします。 368 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 sage 投稿日:2009/01/13(火) 08:36:17 ID:W5zd9ARQ0 >>367 誰に恋したか教えてくれないと 369 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 sage 投稿日:2009/01/13(火) 08:49:55 ID:uQrVyLIM0 >>368 ラオウです。
暇なので笑えるコピペを大量に貼って行く『お父さん嫌い』:哲学ニュースnwk
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palakona · 8 months
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午後から…あれえ?
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
どうも、こんにちは。2月11日(日)「建国記念日」は、旧竜田川釣池…じゃねえや、寺口釣池に行ってきました。トップ画像は、寺口釣池から見た旧竜田川釣池です。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
さてさて、長い竿を振りたかったので、15尺まで振れる南陸桟橋に入ります。前々回入った西側は中セ池の常連さん3人組が先乗りしてはったので、1席空けて隣枡になる波除けパイプの横に入りました。箱池には珍しく南側の岸辺は丸くなっているので、桟橋に対して斜めに竿を出します。箱池なのになんで円形?フツーは四角ですよねwhy?
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
この竿が振りたかった。「寿るすみ 伊吹 白由里調」。12.6尺なので、尺数規定が11尺までの阪奈園へら鮒センターでは1号池に一つしかない長竿枡でしか振れないので使うチャンスがないんですよね。長竿枡に入れば良いんでしょうけど、今のところ2号池で結果が付いてきているので、1号池に行く気がしないなあ。なので、寺口釣池に来た次第。お昼ごはんも注文できますし。阪奈園HCじゃコンビニのパンばかりなので、たまにはガッツリと食事したいw。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
12尺の仕掛けはクルージャンのTKOの1号でシズ合わせしてあるんだが、水面がテカってるので試しにTKOを付けて振り込んでみたら、もろに逆光。なので舟水の「逆光オールマイティ宙」の7号…は先週阪奈園HCで破壊したので8号をつけます。つけたらズボッと沈んだので、TKOは1号でもオモリが乗るんですね。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
7時頃到着したので、7時40分頃釣り開始。隣の3人組は中セ池の常連さんで中セ池の話をしてはるので興味津々。結構大きな声で話してはるので丸聞こえなのだが、中セ池は不漁続きだったので、昨日の土曜日に新ベラを入れたそう。なので、お友達に電話で釣況を聞いてはったのだが、今日は釣れているそうだ。それを聞いて「明日は中セ池や」とワクテカしたが、振替休日なのに予定通り休業らしい。中セ池は平日の営業は火曜日だけなので。ところで釣りの方。早いペースでエサ打ちしたがサワリもなし。前回はFさん、MMさんが細かいまぶし粉で釣ってはったので、阪奈園HCのまぶし粉の粉の方(粒と粉)を用意していたのだが、思うところがあって早いエサ打ちを止めて細かいまぶし粉をつけ���エサを置きっぱなしにしていたら、浮子がジワーッと抑えられたと思ったら「ツン」と節魚信が来た。ひょっとして池全体で1番乗り?まだ誰も釣ってないかもしれない。8時22分でした。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
ε- ( ̄、 ̄A) フゥー、今日は早々に楽になれたw。余裕をかましてiPhoneで写真を撮ったりw。箱池には珍しくこんな形状になっているので、真っすぐ竿を出すには桟橋に対して斜めになる。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
まぶし粉は、菅原商会の3号で手数を稼ぎながら、ここぞというところで阪奈園HCの粉を使う。テンポよくエサ打ちするより、気配がある時は誘わず置きっぱなしで待った方がいいみたいだ。2枚目も阪奈園HCの粉で結構待っていたら「ツッ」って感じの小さい魚信で釣れた。今日は珍しく先行してる。お隣はまだ釣れてないので、「今日は長い竿が良いのか」とか言ってくれる。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
周りもボチボチ釣れ始めたころに3枚目。菅原商会のまぶし粉3号でサワリがあったので、エサ落ち目盛が出るまで結構待ったら釣れました。全部綺麗な節魚信なので気持ちいいです。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
魚信が止まったら、波除けパイプの交差が気になる。15尺で届くので「魚光」の15尺に変更。お昼まで30分ぐらいなので、お昼前に尺数変更しておく。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
日が高くなって逆光じゃなくなったので、浮子も舟水の「太PC底」の9番。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
釣池でちゃんとしたお昼ごはんが食べられるのは有難い。とんかつ定食です。美味いけど、今日は温め無しでした。チーンってしてもらった方がいいね。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
午後の部は15尺で開始したんだが、サワリが1回あっただけ。お隣の3人組は、前々回howellsさんが入った席の人が15尺に替えてから釣れだして3枚ほど釣ったかな。久しぶりの長尺はぎごちないし、柔らかい竿なのでタスキの振り切りでダウンジャケットにフッキングすること数回www。カッコ悪う〜(^▽^;)。風も出てきたんで12.6尺に戻す。
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2024年2月、寺口釣池(奈良県) iPhone11
だが、しかし…終了間際にサワリが続いたものの喰い魚信がなく、乾いてしまった手網が再び濡れることはなかった…
(ノ_-;)ハア…
ということで、2月11日は、皆さんの竿が曲がらない時間帯にポンポン釣って見せて「手練」を演じてみましたが、すぐに化けの皮が剥がれて午後0枚でした…。合計3枚。
では、また。
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kennak · 3 months
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日本最南端・沖ノ鳥島(東京都)北方に位置する日本の大陸棚・ 四国海盆 海域に先月、中国公船が浮標(ブイ)を設置したことがわかった。政府関係者が明らかにした。中国はこれまで尖閣諸島(沖縄県)周辺など東シナ海でブイを設置してきたが、太平洋の日本管轄海域では極めて異例。政府はブイの詳細や設置目的の分析を進める。  中国によるブイ設置を巡っては昨年7月、大型作業船「向陽紅22」が、尖閣諸島の魚釣島から北西約80キロの日本の排他的経済水域(EEZ)内に、直径約10メートルの海洋調査ブイを無断で設置した。ブイで収集した波のデータなどを人工衛星で送信しているとみられる。政府は日中首脳会談や外相会談などで即時撤去を求めてきたものの、中国は応じていない。  複数の関係者によると、同じ向陽紅22が先月5日に上海を出港し、東シナ海から大隅海峡(鹿児島県)を通過して太平洋に出た後、先月中旬、四国海盆海域内でブイを設置した。昨年7月のブイよりも小型で、近くを航行する船から夜間も見える発光器が付いている。  四国海盆海域は日本のEEZに囲まれ、広さは国土面積(37・8万平方キロ・メートル)の5割近くに相当する。付近に島がないためEEZの域外になるが、国連の大陸棚限界委員会は2012年、沖ノ鳥島を基点とする日本の大陸棚として新たに認めた。国連海洋法条約により、日本はこの海域での海底の探査や資源開発について、主権的な権利を行使できる。  大陸棚はEEZとは異なり、上部水域での海洋調査には沿岸国の同意は必要ない。ただ、同海域の海底はレアメタルを含んだ鉱物資源が分布していると指摘されており、今回のブイが海底の探査などに関係する場合は、同条約に反する可能性が高い。  一方、中国は沖ノ鳥島について「島ではなく岩であり、日本の大陸棚やEEZの基点にできない」とする独自の主張を掲げ、同島周辺を始めとする西太平洋で海洋調査や軍事演習を繰り返している。東シナ海と同様に今後、太平洋側でも日本EEZ内にブイを設置する恐れもあり、政府は警戒・監視を強化している。
中国、沖ノ鳥島北方の日本の大陸棚にブイ…太平洋では異例 : 読売新聞
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chibiutsubo · 10 months
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#おでかけ #蘇洞門めぐり
お腹いっぱいになった後は、遊覧船で奇勝めぐり。ランチをいただいたお店から徒歩数分のところに若狭フィッシャーマンズ・ワーフがあり、そこの港から蘇洞門めぐりは出港しています。
蘇洞門(そとも)とは、小浜湾の東側にある奇岩や洞門などのこと。花崗岩が波の侵蝕で削られていってできたものだそうです。
ここが景勝地として知られていた歴史は意外と古く、江戸時代には今で言う観光マップのような絵巻で紹介されていたとのこと。
フィッシャーマンズワーフでお土産を物色しつつ出港時間まで待って、いざ出発。
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雲行きがなんだか怪しい〜〜。途中、右手側に何か浮かんでいたので養殖かと思いきや、釣り用のいかだとのこと。
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内外海半島(うちとみはんとう)(初見では読めない)の先端の方まで来ました。
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小浜湾内から外海へ。これは陸地からだと辿り着けなさそうな感じだわ……。
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地中に向かってぽっかりと口を開けているような洞窟(?)がありました。なんかぱっと見だけでもめちゃくちゃ怖い!
そしてパンフレットを見ると、名称は「地獄門」とのことで。入ったら地獄を見るとかそういうことなんです??
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orotimike · 1 month
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いつも、いつもいつもわたしは何処に向かっているのだろうかと思ふ。ここ最近はInstagramにお熱で、手帳の更新をせっせとしていたのだけれど、それも少し飽きてしまって、飲酒しつつ、けっきょくはゆらゆらと絵を描いたり本を読んで過ごしている、つまり集中力がないのだった!
お盆前に滑り込んだ心療内科は病んだ人間でぎゅうぎゅうで、それまで元気だったわたしも一気に具合が悪くなってひどく項垂れてしまい、順番が回ってきた頃にはすっかり疲れ果てていた、それでも医者の顔を見ると、何か、何か話さなくては、と思い、最近はいかがでしたか、との問いに「元気です」と微笑んでみせ、そうすると、医者も安心したように微笑むので、〝わたしは患者だけれども、出来うる限りあなたを困らせたくはない〟と思う気持ちが勝り、その後のやり取りも短く、事実、わたしの診察は3分ほどで終わった。会計では、いつも冷静な女性が釣り銭を間違え、恥ずかし紛れの笑顔をわたしに初めて見せ、この女も、笑えば可愛いこと!といふ新しい発見もあって、なんだか胸いっぱいの気持ちで病院をあとにする。日が暮れることはまだまだなくって、浮かぶ真っ赤な太陽を睨み、くたくたになってしまった前髪に、一刻も早くシャワーを浴びて、体にこびり付いた薄い汗や病を洗い流したくなる。
▶︎
某日、ウォーキングに出かけた。わたしが朝早く、まだ暑さが〝マシ〟なうちに外に出ようとしていると、Kが起きて「俺も行く、心配だから」と準備をするものだから、あまりの過保護に、わたし来月ひとりで東京行くんですけれど、その時あなたの心の臓は余りの心配に千切れてしまうのではないかしら!と爆笑しそうになってしまった(彼は至って真剣だから黙ったけれども)、こんな風に、Kの心配性はわたしの病のように根深く、いつからこうなったのか、わたしが余りにもあほうだからそう過剰になってしまったのか、わたしの為に、といふよりかは何かが起こらないように、つまりKが安心したいが為のぬるま湯に無理やり浸からされているようで、たまにそのしつこさに憤慨もしたくなるが、まあ大抵はわたしもそれが熱いのか冷たいのか、わけがわからなくなって、されるがままにしているのだから、けっきょく、この日は娘含め3匹ぞろぞろと朝を歩き回ることになるのだった。羞恥心のあまり、頭に血がのぼりそうだったけれども、外の空気に触れて次第に心が軽くなり、意気揚々と歩きながらおしゃべりをしているのが単純に楽しかったりした。初日だったから、30分ほど歩いて終了。帰宅し冷たい麦茶を飲み、喉を潤しながら、つい先日読み終えた、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の内容をうっすら思い出す。
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oka-akina · 1 year
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0721
 ���日は財布とスマホを忘れて労働に出かけてしまった。気づいたのは電車の中で、あちゃーとは思ったけどまあでもパスモ(クレカと一体型のやつ)があるからべつに平気だなと思ってすぐあきらめた。待ち合わせの予定とかもなかったし。こういうときに限って何か緊急の連絡が…とはちょっと思ったけど、一月に義父が亡くなったばかりだからしばらくそういうことはあるまいと思った。またそういうことがあるかもとはあんまり考えない。こういうのって性格なのかな。誰からも何も来ないに千円と頭の中で賭けた。  つまりわたしは労働に遅刻しないよう、わざわざ引き返さなくたって平気だと自分に言い聞かせているのだろうかとちょっと思った。そんなに遅刻をおそれているのか。ちょっとくらい遅刻したって気にしない感じの方がいいのになと思う。自分も周囲も。わたしは電車とか待ち合わせとか映画の上映開始時間とか、いつもいろんなことがギリギリで、ギリギリまで仕度ができないタイプなんだから大手を振って遅刻しちゃえばいいのに毎度バタバタ走って大汗をかいている。悪あがき。一生こうやって走っているんだろうかとときどき恥ずかしくなる。
 さっき電車に乗り込むとき、ホームと電車のすきまに靴を落としてしまった人がいた。すきまにかかとを引っかけて転んでしまったようで、一瞬迷ったけどわたしも電車を降り、大丈夫ですかと声をかけた。このときはまだ自分が財布とスマホを忘れてきたことに気づいていないのが、なんか昔話の正直者っぽいムーブだな……。人助けってほどのことでもないけど、うっかり者で正直者のなんとか太郎的な。  でもそんなんではないな、昔話の無償の正直さではないな。自分も乗りたい電車に遅れそうでしょっちゅう走っているタイプだから味方したくなったってだけかもしれない。自分ももうずっと前、学生時代、靴をホームのすきまに落としたことがあって、東中野の駅で足を踏み外して体ごと落っこちかけたのを近くにいた人がすぐ引っ張り上げてくれた。そのときは演劇のフライヤーを業者に届けに行く用事でかなり重たい紙袋を持っていた。よく引っ張ってもらえたなと思った。そういう善意の循環……みたいなことを考えるとなんかちょっと気味が悪いような気もする。これはわたしがひねくれているだけかも。  転んだ人は声をかけられてかえって恥ずかしいかもしれないと思って、駅員さんが来るまでなんとなく近くで見守り、駅員さんはすぐ来たので車輌ひとつぶんくらい離れたところに移動した。そして、電車一本くらい見送ったっていいや、多少遅刻してもいいやという判断をした自分に酔っていないか?みたいなことも思った。多少の遅刻は気にならない自分をやりたかったんではないか。なんだか心臓がばくばくし、さっきその人が転んで尻もちをついたとき、プリキュアみたいな絵面と一瞬重なった。スカートが広がった感じと手に握ったままのハンディ扇風機がなんか魔法少女みたいだなと思った。それがうしろめたくて声をかけたのかもしれない……とかも考えた。  なので財布もスマホも忘れてきたと気づいたときちょっとほっとした気持ちもあった。慣れない善意のようなことをしたからそれと釣り合いがとれているような気がした。バチが当たるの逆みたいな。
 そういうことを考えていたら電車はすぐ着いて、財布もスマホも持っていないのに水筒と読みかけの本は持って会社に出かけるのなんか優雅だな…と思った。あとタオルと日傘と飴。リュックの中で水筒の氷がカラカラ鳴って、このごろ水筒には冷たいお茶を入れているから、歩くたび遠足の子どもみたいな音がする。  読みかけの本はレアード・ハント『インディアナ、インディアナ』。柴田元幸訳。柴田元幸だから読んでみるというのは武豊が乗るから買っておくみたいな感じ? わかんない。インディアナ〜は難解な小説ではないと思うんだけど、ゆっくり読まないとすぐなんだかよくわからなくなる小説。もうあと少しで読み終わるんだけど、読み落としているところがたくさんある気がして行きつ戻りつ読んでいて、今はもっかい最初からゆっくり読み直している。 「ヴァージルの死ぬ間際にノアはもう緑の印は見つかったかとヴァージルに訊いて見つかったならどこにあるのか教えてくれと頼んだがヴァージルは長いあいだノアの顔を見てそれから眠りに落ちそれから目ざめてノアの顔を見てそれからまた眠りに落ちた。」だいたいこういう感じ。辛抱強く話を聞くみたいな小説で、いつかこういうの書きたいな、書けたらなあと思う。このそれからが3回続くの、自分だと書くのに勇気がいると思うし、書いたとしても書いたぞってあざとさが出���しまう気がする。
 お昼は会社の横に来ていたフードトラックでタコスを食べた。パスモで支払えた。白いタコスには鶏肉、ピンクの生地には牛肉の赤ワイン煮込み、黒っぽい生地にはサボテン?を何か和えたやつ。三個入り。キウイのサルサが辛くて美味しかった。スマホを持っていたらぜったい写真を撮っていたなと思った。  並んでいるとき、トラックに据えた鉄板の火が消えてしまったようで店の人が五分くらい格闘していた。しばらくチャッカマンをカチカチやっていたけどたぶんチャッカマンも燃料切れのようで、ぜんぜん火がつかない。ライターでやろうとしてなかなかうまくいかず、昼休みの五分くらいってけっこう長く感じるしかなり人も並んでいたんだけど、その人はまるで焦らず黙々とやっていたのですごいなーと思った。焦りが顔に出ないタイプなだけかもしれないけど。べつに誰にも謝らず、普通に注文を受け普通にタコスを包んでとやっていて、そうだよなあと思った。
 労働を終えまっすぐ帰宅したらスマホにはやはり誰からも連絡は来ていなくて、千円勝ったと思った。千円くらい何か食べようと思った。わざわざ夜出かけるのめんどくさいなとは思ったけど、金曜の夜でほんとは寄り道したかったのだから出かけたい気持ちが勝った。  ぶらっと出てみたらいつもより涼しくて、どこまでも散歩できそうな気持ちのいい晩だった。ぶらぶら歩き、なんとなく電車に乗っていた。夜だから上り電車は空いていて、定期圏内の、でもあまり降りる用事がない駅のちょっと歩いたところにある中華料理屋というか定食屋というか、カツカレーが美味しいらしいので前から行ってみたかった。ふだんぜんぜん用事のない、買い物に行くような街でもない、誰も知り合いもいない駅。ここでわたしが何か交通事故とかにあって死んじゃったりしたら、なんであんなところにいたんだろうと家族は不思議に思うんだろうな……とあまり行かない場所に出かけるたび思う。  駅を降りたら書店があったので覗いてみた。雑誌と漫画と学参の棚が大きい、ちょっと広めの店舗の懐かしい感じの書店。気になっている本のリストを頭に浮かべながら物色し、目当てのいくつかは置いていないようだったけど、そういえばしゃしゃさんの本が今日発売日じゃなかったっけと思って探した。『蒼き太陽の詩』。1,2巻は棚に差してあったけど今日発売の3巻はなかった。レジに持って行って、これの3巻もありますかと尋ねたら奥から出してきてくれた。ラスト一冊でしたと教えてくれた。あっ善意と思った。カツカレーを食べながら読んだ。  『蒼き太陽の詩』は、アラビアンファンタジーというのかな、双子の王子が国王の座をめぐって殺し合う……というワクワクハラハラする物語。砂漠の王国が舞台の大長編で、読みやすくてぐいぐい進んだ。『インディアナ、インディアナ』を読んでいたから余計にそう思うのかも。壮麗な織物みたいな物語で、読んでいるとキャラクターたちの声が聞こえてくるし人や周りの風景が目に浮かぶ。生き生きとしている。これアニメになったらいいなーと思った。赤将軍のユングヴィはファイルーズあいさんがいいな……。
 カツカレーの店は、客はわたしだけで、店のおじいさんは座敷でテレビを見ていた。テーブルにハイボールのコップとつまみがいくつか並んでいて、わたしが来たのでおじいさんはちょっと慌てたようすで、でもにこやかに注文をとってくれた。すっかりすり減った畳が赤くなっていて、ちょっと緊張した。あまりきれいでない状態に緊張するのもあるし、よそものが入ってきてすみませんみたいな緊張感もある。テーブルはきれいに拭かれていた。揚げたてのカツが大きくて、油と肉汁がジュワッと溢れてきてすごく美味しかった。カレーは濃くて、柔らかくほぐれた牛肉もけっこう大きいしたくさん入っていた。たしかにうまい。がつがつ食べるうちにだんだん体のこわばりがほどけた。  テレビの音がものすごく大きくて閉口したけど、カツを揚げ終えたおじいさんが汗をぬぐいながら夢中で見ているのがなんかよかった。『チコちゃんに叱られる』というやつ?初めて見た。音が大きいから見てしまう。ボーッと生きてるんじゃねえよってこれかと思った。Vtuberっぽい。おじいさんが何度もはははと笑った。どうしてゴルフボールの表面にでこぼこがあるのかというのをとても真剣に見ているので、ひととおり解説が終わるのを待って会計を頼んだ。
 家に帰ったら板垣さんがツイッターでスペースをやっていたので、洗い物や洗濯物などを片付けながら聞いた。どうやら同じ大学出身だったことがわかって思わず話しかけてしまった。一日いろいろカラフルでなんか気持ちが興奮していたのか、やけにたくさんしゃべってしまって、恥ずかしくなって寝た。文フリの話とか小説の話。  千葉雅也『エレクトリック』、わたしは父親がエロいのがいいと思った。と言ったんだけど、なんていうの、エロいって言い方はちょっとちがう気もするんだけどエロく書くことのすごさがあってそれをそう受け取りたいというか……。これは『サバービアの憂鬱』で読んだんだったかな、「男性は会社(仕事)に嫁ぐ」というのを思い出したの。大場正明『サバービアの憂鬱 「郊外」の誕生とその爆発的発展の過程』。うろおぼえだからちょっとちがうかもだけど、男性が会社(仕事)に対して「嫁」になってしまう、みたいな。父親の人妻的な感じ。そういうエロさ。舞台の宇都宮も郊外(サバービア)だなと思った。そしてそういう小説の、文章自体がヘテロでない感じがあって、すごくよかった。多くの小説の文章が意識的にも無意識的にも備えている、当然の「調べ」みたいなものがあんまりない文章だと思った。
 『エレクトリック』の前後で読んでいた、数年前の文藝賞の作品が、なんかこうすごくどヘテロだったのもあってそう思ったんだと思う。ヘテロが悪いわけではもちろんないけどよくもわるくもどヘテロ、ザ・調べという感じで、この作品のどこらへんがわたしは苦手だったのかを語ろうとすると、そこに糸口があるみたいな話。  なんていうの、村上春樹に文句言ってる場合じゃないくらい若い作家の新しい作品がめちゃめちゃ古いジェンダー観で、読んでいて作品の面白さとかすごさはわかるような気はしたんだけど、でもこれをよしとするんだなあ、帯に誰々氏が激賞と書いてあるけどそうなんだ?!みたいな驚きは、やはりあった。ジェンダー観もそうだし、地方や精神障害者への偏見を強化するような感じもあって気になった。「壮大な作品」「圧倒的な熱量」「知識と想像力を駆使し」と帯に書かれていたけど、わたしは読んでいて小ささや狭さの方が目についた。  いやわざとそう書いている、いかにもなステレオタイプをやることに意味がある作品なんだろうとは思った。仕掛けというか。でも意味があるんですよと書くずるさというか……。ステレオタイプをなぞり続けたい、そのようにして書けるものに作家は意味を見出したいし、どうしても興味がある。それってフェチではあるよなあと思うんだけど、ステレオタイプをフェチと指摘されることってあんまりない気がする。  偏見の強化によって生まれる痛み、それを感じない場所に作家は立っていて、痛みを感じる人のこともあまり見えない。いや見えてはいるかもしんないけど、自分の書くこの作品とはさほど関係ないと思っている? それは別の作家、何かそれにふさわしい属性を持った作家がやることであって自分の作品では関係ない。おそらくは無自覚な特権があり、特権って言うと反発したくなると思うけど……みたいなことを思って、うーーんとなった。やつあたりかもしんないけど。作品名出さずに書いてるからなんのこっちゃって感じだと思うけど。  まあ小説ってそんなに読まれないんだろうなと思った。読む人そんなにいないから、これのここってどうなのみたいな話題にのぼることってあんまりない。漫画とはそこがちがう。あとまあわたしが純文学、文芸誌とその賞にそれなりに夢をもっている(もっちゃっている)ふしはあるな…。
 そしてこの作品の直後にC・パム・ジャン『その丘が黄金ならば』を読んであーーーこういうのが好きだ〜〜と思って、なんかそういう不満のようなものはふっとんだ。大きい。大きい小説。こういうのがいい。小さい小説がだめなわけではぜんぜんないけど、大きい話を書こうとしたものが狭苦しく感じられるのはやはりつらい。あと長さもよかった。四六版で384ページ。父親が亡くなり子どもたちが埋葬の旅に出る…という筋書きで、本のけっこう前半で埋葬は済んじゃう。その後が長いのがよかった。純文学系の賞はちょっと短いのかもしれない。「自分の書くこの作品とはさほど関係ない」と書いたけど、まあだって短いもんなー。読む人にも書く人にも。この長さの話はもうちょっと掘り下げたい。日記に書きたいことっていろいろあるな。長くなったのでまた今度。
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utagejp · 2 months
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夏ゴマサバの竜田揚げ
〜風の谷農苑にて〜
本来、粉をつけずに油で揚げた料理をから揚げ(空揚げ)と呼び、竜田揚げは醤油などで下味をつけた肉や魚に、粉をつけて油で揚げた料理で、肉の赤い色と衣の白い色の混ざった様子を、紅葉の名所である奈良県の竜田川の白い波に浮かぶ紅葉に見立てたとされています。今朝は常磐沖のゴマサバを、ショウガ搾り汁、薄口醤油、酒、本みりんに漬け、モンゴル産強力粉をつけ、ゴマ油で揚げました〰😋
美味しく健康に、自然の恵みに感謝して頂きます(合掌)。
#竜田揚げ #ゴマサバ #釣り名人渡辺さん #風の谷農苑 #松井宏之 #大地の宴 #tatsutaage #bluemackerel #daichinoutage #utage_jp #tokyo #japan
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kurihara-yumeko · 6 months
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【小説】コーヒーとふたり (上)
 休日に喫茶店へ行くことは、加治木零果にとって唯一、趣味と呼べる行動である。
 喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。時刻はだいたい午後二時から三時。誰かと連れ立って行くことはない。常にひとりだ。行き先も、決まった店という訳ではない。その時の気分、もしくはその日の予定によって変える。
 頼むのは、コーヒーを一杯。豆の銘柄やどのブレンドにするかは店によってだが、基本的にブラック。砂糖もミルクも好まない。軽食やスイーツを注文するということも滅多にない。ただ一杯のコーヒーを飲む、それだけ。
 彼女は喫茶店では本を読まないし、パソコンも開かない。スマートフォンにさえ触れないこともある。コーヒーを飲み終えたら、すぐに店を出て行く。たとえその一杯がどんなに美味でも、二杯目を頼むことはない。時間にすればほんの数十分間。一時間もいない。それでも彼女は休日になると、喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。
 零果がその店を訪れたのは二回目だった。最初に訪れたのは、かれこれ半年近く前のことだ。
 たまたま通りかかった時にその店を見つけた。「こんなところに喫茶店があったのか」と思った。喫茶店があるのは二階で、一階は不動産屋。賃貸マンションの間取り図がびっしりと貼り付けられているガラス窓の隣に、申し訳なさ程度に喫茶店の看板が出ていた。
 細く狭い階段を上った先にその店はあり、店内は狭いながらも落ち着きのある雰囲気だった。歴史のある店なのか、年老いたマスター同様に古びた趣があるのが気に入った。コーヒーも決して不味くはなかった。出されたカップもアンティーク調で素敵だと思った。
 しかしその後、零果の喫茶店リストの中で、その店はなかなか選ばれなかった。その店の立地が、彼女のアパートの最寄り駅から微妙に離れた駅の近くだったからだ。「わざわざあの駅で降りるのはちょっとな……」と思っていた。けれど、最近同じ店に行ってばかりだ。今週末は、普段あまり行かない店に行こう。それでその日、その店を選んだ。
 けれど、その選択は失敗だった。
「あれ? 加治木さん?」
 そう声をかけられた時、零果は運ばれて来たばかりのコーヒーをひと口飲もうとしているところだった。カップの縁に唇を付けたまま、彼女はそちらへと目を向ける。
 その人物はちょうど、この店に入って来たところだった。そして偶然にも、零果は店の入り口に最も近い席に案内されていた。入店して真っ先に目につく席に知人が座っているのだから、彼が声をかけてきたのは当然と言えば当然だった。しかし、零果は彼――営業部二課の戸瀬健吾に声をかけられたことが衝撃だった。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
 戸瀬はいつもの人当たりの良い笑みを浮かべてそう言ったが、零果は反応できなかった。驚きのあまり、何も言葉が出て来ない。しかし彼女の無言に気を悪くした様子はなかった。
「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」
 笑顔で尋ねてくる戸瀬に、零果はカップを口元から離してソーサーの上へと戻しながら、「いえ、その……たまに……」と、かろうじて答える。この店に来たのは二度目だったが、そう答えるのはなんとなく抵抗があった。あまり自分のことを他人に明かしたくない、という彼女の無意識が、曖昧な表現を選んでいた。
「そうなんだ。ここのコーヒー、美味いよね。あ、じゃあ、また」
 やっと店の奥から店員が現れ、戸瀬は空いている席へと案内されて行った。幸いなことに、彼の席は零果から離れているようだ。大きな古めかしい本棚の向こう側である。
 戸瀬の姿が見えなくなってから、零果はほっと息をついた。休日に同僚と顔を合わせることになるとは、なんて不運なのだろう。その上、場所が喫茶店だというところがツイていない。
 改めてコーヒーを口元へ運んだが、未だ動揺が収まらない。半年前に来店した時は悪くなかったはずのブルーマウンテンブレンドだが、戸瀬の顔を見た後の今となっては、味の良し悪しなどわからなかった。香りも風味も台無しだ。コーヒーカップのブルーストライプ柄でさえ、「さっき彼が似たような柄のシャツを着ていなかったか?」と思うと途端にダサく思えてくる。
 それに加えて、戸瀬は先程、こう言った、「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」。
 その言葉で、彼女の喫茶店リストから、この店が二重線を引かれ消されていく。
 同僚が常連客となっている喫茶店に足を運ぶなんて御免だ。二度目の来店でその事実を確認できたことは、不幸中の幸いだったと思うしかない。数回通い、この店で嗜むコーヒーの魅力に気付いてしまってからでは、店をリストから削除することが心苦しかったはずだ。ある意味、今日は幸運だった。この店は最初からハズレだったのだ。
 零果は自分にそう言い聞かせながらコーヒーを飲む。味わうのではなく、ただ飲む。液体を口に含み、喉奥へと流す。せっかく、いい店を見つけたと思ったのに。うちの最寄りから、五駅離れているのに。飲み込んだ端から、落胆とも悔しさとも区別できない感情がふつふつと沸き上がってくる。その感情ごと、コーヒーを流し込む。
 早くこの店を出よう。零果は、一刻も早くコーヒーを飲み干してこの店を出ること、そのことに意識を集中させていた。
 コーヒーを残して店を出ればいいのだが、出されたコーヒーを残すという選択肢はなかった。彼女は今まで、たとえどんなに不味い店に当たってしまっても、必ずコーヒーを飲み干してきた。零果にとってそれはルールであり、そのルールを順守しようとするのが彼女の性格の表れだった。
 先程入店したばかりの客が熱々のコーヒーを急いで飲み干してカウンターの前に現れても、店の主人は特に驚いた様子を見せなかった。慣れた手つきで零果にお釣りを渡す。
「ごちそうさまでした」
 財布をショルダーバッグに仕舞いながら、零果は店を出て行く。「またのお越しを」という声を背中で受け止め、もう二度とこの店に足を運ぶことはないだろうな、と思い、そのことを残念に思った。深い溜め息をついて階段を降り、駅までの道を歩き出す。
 店の雰囲気は悪くなかった。コーヒーだって悪くない。ただ、戸瀬の行きつけの店だった。
 否、それは戸瀬個人に問題があるという意味ではない。彼の物腰柔らかで人当たりの良い態度や、その温厚な性格は職場内でも定評があるし、営業職としての優秀さについても、零果はよくわかっている。
 そうではなく、零果はただ、同僚に会いたくないだけなのだ。休日に喫茶店でコーヒーを飲ん��いる時だけは。唯一、彼女にとって趣味と呼べるであろう、その時間だけは。知り合いには誰とも会うことなく、ひとりでいたい。平日の書類とメールの山に抹殺されそうな多忙さを忘れ、心も身体も落ち着かせたい。そのためには極力、同僚の顔は見ないで過ごしたい。
 駅に着くと、ちょうど零果のアパートの最寄り駅方面へ向かう電車が、ホームに入って来たところだった。このまま家に帰るだけというのも味気ない、と思いかけていた零果であったが、目の前に停車した電車を目にし、「これはもう、家に帰れということかもしれない」と思い直した。もうこの後は、家で大人しく過ごすとしよう。
 そう思って、電車に乗り込む。車両の中にはすでに数人の乗客が座っており、発車までの数分を待っている様子であった。零果は空いていた座席に腰を降ろそうとし、そこで、自分の腰の辺りで振動を感じた。バッグに入れてあるスマートフォンだ、と気付いた。その一瞬、彼女はスマホを手に取ることを躊躇った。
 バイブレーションの長さから、それがメールやアプリの通知ではなく着信を知らせるものだということはわかっていた。休日の零果に電話をかけてくる相手というのは限られている。候補になりそうな数人の顔を思い浮かべてみたが、誰からの着信であっても嬉しいニュースであるとは思えない。
 座席に腰を降ろし、スマートフォンを取り出す。そこで、バイブレーションは止まった。零果が呼び出しに応じなかったので、相手が電話を切ったのだ。不在着信を示すアイコンをタップすると、発信者の名前が表示された。
 有武朋洋という、その名前を見た途端、めまいを覚えた。ちょうど、午後四時になろうとしているところだった。判断に迷う時間帯ではあったが、この電話は恐らく、今夜食事に誘おうとしている内容ではないだろうと、零果は確信していた。
 膝の上でショルダーバッグを抱き締めたまま、メッセージアプリを開き、有武に「すみません、今、電車なんです」とだけ入力して恐る恐る送信する。瞬時に、零果が見ている目の前で、画面に「既読」の文字が現れた。恐らくは今、彼もどこかでこのアプリを開いて同じ文面を見つめているに違いなかった。案の定、間髪入れずに返信が表示される。
「突然悪いんだけどさ、ちょっと会社来れる?」
 零果が思った通りだった。有武の、「悪いんだけどさ」と言いながら、ちっとも悪びれている様子がない、いつものあの口調を思い出す。
「今からですか?」
 今からなんだろうな、と思いながら、零果はそう返信する。
「そう、今から」
「今日って休日ですよね?」
 休日でも構わず職場に来いってことなんだろうな、と思いながら、それでもそう返信をせずにはいられない。
「そう、休日」
 何を当たり前のこと言ってんだよ、って顔してるんだろうな、有武さん。少しの間も空けることなく送られて来る返信を見ながら、零果は休日の人気がないオフィスでひとり舌打ちをしている彼の様子を思い浮かべる。
「それって、私が行かないと駄目ですか?」
 駄目なんだろうな、と思いながらそう返信して、座席から立ち上がる。
 駅のホームには発車のベルが鳴り響いている。零果が車両からホームに戻ったのは、ドアが閉まりますご注意下さい、というアナウンスが流れ始めた時だった。背後で車両のドアが閉まり、彼女を乗せなかった電車は走り出していく。
 家に帰るつもりだったのにな。零果は諦めと絶望が入り混じった瞳でその電車を見送った。握ったままのスマートフォンの画面には、「加治木さんじゃなきゃ駄目だから言ってるんでしょーよ」という、有武からの返信が表示されている。
「…………ですよね」
 思わずひとり言が漏れた。ホームの階段を上りながら、「今から向かいます」と入力し、文末にドクロマークの絵文字を付けて送信してみたものの、有武からは「了解」という簡素な返信が来ただけだ。あの男には絵文字に込められた零果の感情なんて届くはずもない。
 再び溜め息を盛大についてから、重くなった足取りで反対側のホームに向かう。なんて言うか、今日は最大級にツイてない。休日に、一度ではなく二度までも、同僚と顔を合わせることになるとは。しかも突然の呼び出しの上、休日出勤。
 ただひとりで、好きなコーヒーを飲んで時間を過ごしたいだけなのに。たったそれだけのことなのに。
 心穏やかな休日には程遠い現状に、零果はただ、肩を落とした。
「加治木さん、お疲れ様」
 そう声をかけられた時、思わず椅子から飛び上がりそうになった。咄嗟にデスクに置いてあるデジタル時計を見る。金曜日、午前十一時十五分。まだ約束した時間まで四十五分あるぞ、と思いながら零果は自分のデスクの横に立つ「彼」を見上げ、そこでようやく、声をかけてきたのが「彼」ではなく、営業部の戸瀬だったと気が付いた。
「あ……お疲れ様です」
 作成中の資料のことで頭がいっぱいで、零果は戸瀬に穏やかな笑顔を見つめられても、上手い言葉が出て来ない。五四二六三、五万四千二百六十三、と、零果の頭の中は次に入力するはずだった数値がぐるぐると回転している。キーボードに置かれたままになっている右手の人差し指が、五のキーの辺りを右往左往する。
 当然、戸瀬には彼女の脳内など見える訳もなく、いつもの優しげな口調で話しかけてきた。
「この間の土曜日は、びっくりしたね。まさかあんなところで加治木さんに会うなんて」
 土曜日、と言われても、零果はなんのことか一瞬わからなかった。それから、「ああ、そう言えば、喫茶店で戸瀬さんに会ったんだった」と思い出す。
「でも、聞いたよ。あの後、有武さんに呼び出されて休日出勤になっちゃったんだって? 加治木さん、いつの間にかお店から消えてるから、おかしいなって思ってたんだけど、呼び出されて急いで出てったんでしょ?」
 零果は思わず、返事に困った。急いで店を出たのは戸瀬に会って気まずかったからだが、まさか目の前にいる本人にそう伝える訳にもいかない。有武の呼び出しのせいにするというのも、なんだか違うような気もするが、しかし、戸瀬がそう思い込んでいるのだから、そういうことにしておいた方が得策かもしれない。
「えっと、まぁ、あの、そうですね」などと、よくわからない返事をしながら、零果の右手は五のキーをそっと押した。正直、今は戸瀬と会話している場合ではない。
「有武さんもひどいよね、休日に会社に呼び出すなんて。そもそも、加治木さんは有武さんのアシスタントじゃないんだから、仕事を手伝う必要なんてないんだよ?」
 戸瀬の表情が珍しく曇った。いつも穏やかな彼の眉間に、小さく皺が寄っている。本気で心配している、というのが伝わる表情だった。けれど今の零果は、「はぁ、まぁ、そうですよね」と曖昧に頷くことしかできない。四のキーを指先で押しつつ、彼女の視線は戸瀬とパソコンの画面との間を行ったり来たりしている。休日出勤させられたことを心配してくれるのはありがたいが、正午までにこの資料を完成させなければいけない現状を憂いてほしい。零果にはもう猶予がない。
「なんかごめんね、加治木さん、忙しいタイミングだったみたいだね」
 戸瀬は彼女の切羽詰まった様子に勘付いたようだ。
 こつん、と小さな音を立てて、机に何かが置かれた。それはカフェラテの缶だった。見覚えのあるパッケージから、社内の自動販売機に並んでいる缶飲料だとわかる。零果が見やると、彼は同じカフェラテをもうひとつ、右手に握っていた。
「仕事がひと段落したら、それ飲んで休憩して。俺、このカフェラテが好きなんだ」
 そう言って微笑む戸瀬の、口元から覗く歯の白さがまぶしい。「あ、あの、ありがとうございます」と零果は慌ててお礼を言ったが、彼は「全然いいよー」とはにかむように左手を振って、「それじゃ、また」と離れて行った。
 気を遣われてしまった。なんだか申し訳ない気持ちになる。恐らく戸瀬は、休日に呼び出され仕事に駆り出された零果のことを心から労わってくれているに違いなかった。そんな彼に対して、自身の態度は不適切ではなかったか。いくら切羽詰まっているとはいえ、もう少し仕事の手を止めて向き合うべきだったのではないか。
 そこで零果は、周りの女子社員たちの妙に冷たい目線に気が付いた。「営業部の戸瀬さんが心配して話しかけてくれているのに、その態度はなんなのよ」という、彼女たちの心の声が聞こえてきそうなその目に、身がすくむような気持ちになる。
 しょうがないではないか。自分は今、それどころではないのだから……。
 パソコンに向き直る。目の前の画面の数字に意識を集中する。しかし、視界の隅に見える、カフェラテの缶。それがどこか、零果の心にちくちくと、後悔の棘を刺してくる。あとで、戸瀬にはお詫びをしよう。零果はカフェラテを見つめながら、心に黄色い付箋を貼り付ける。それにしても、カフェラテというのが、また……。
「資料できたー?」
 唐突にそう声をかけられ、彼女は今度こそ椅子から飛び上がった。気付けば、側には「彼」が――日焼けした浅黒い肌。伸びすぎて後ろで結わえられている髪は艶もなくパサついていて、社内でも不評な無精髭は今日も整えられている様子がない。スーツを着用する営業職の中では珍しく、背広でもジャケットでもなく、作業服をワイシャツの上に羽織っているが、その上着がいつ見ても薄汚れているのがまた、彼が不潔だと言われる理由である。ただ、零果がいつも思うのは、彼は瞳が異様に澄んでいて、まるで少年のようであり、それでいて目線は鋭く、獲物を探す猛禽類のようでもある、ということだ――、有武朋洋が立っていて、零果の肩越しにパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。
「あれ? 何、まだ出来てないの?」
 咄嗟に時刻を確認する。戸瀬に声をかけられてから、もう十分近くも経過している。なんてことだ。しかし、約束の時間まではあと三十五分残されている。今の時点で資料が完成していないことを責められる理由はない。それでも零果が「すみません」と口にした途端、有武は「あー、いいよいいよ」と片手を横に振った。
「謝らなくていいよ。謝ったところで、仕事が早く進む訳じゃないから」
 斬って捨てるような口調であったが、これが彼の平常だ。嫌味のように聞こえる言葉も、彼にとっては気遣って口にしたに過ぎない。
「時間には間に合いそう?」
「それは、必ず」
「そう、必ずね」
 零果は画面に向き直り、資料作りを再開する。ふと、煙草の臭いがした。有武はヘビースモーカーだ。羽織っている作業着の胸ポケットには、必ず煙草とライターが入っている。煙草臭いのも、社内外問わず不評だ。しかし有武本人は、それを変える気はないようである。
「うん……大丈夫そうだ。本当に、正午までには出来上がりそうだね。さすがだなぁ、加治木さんは」
 零果が返事もせずにキーボードを叩いていると、彼の右手が横からすっと伸びてきて、机の上のカフェラテの缶を取った。零果が「あ、それは……」と言った時、缶のプルタブが開けられた音が響く。
「これ、飲んでもいい?」
「…………はぁ」
 どうして、缶を開けてから訊くのか。順序がおかしいとは思わないのだろうか。
「飲んでいいの?」
「……どうぞ」
「ありがと」
 有武は遠慮する様子をまったく見せず、戸瀬が置いて行ったカフェラテをごくごくと飲んだ。本当に、喉がごくごくと鳴っていた。それから、「うわ、何これ、ゲロ甘い」と文句を言い、缶に記載されている原材料名をしげしげと眺めている。人がもらった飲み物を勝手に飲んで文句を言うな。零果はそう思いながらも、目の前の資料作成に集中しようとする。どうしてこんな人のために、せっせと資料を作らねばならないのだろうか。
「じゃ、加治木さん。それ出来たらメールで送って。よろしくね」
 そう言い残し、カフェラテの缶を片手に有武は去って行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど軽い彼の足取りに、思わず怒りが込み上げる。階段で足を踏み外してしまえばいい。呪詛の言葉を心の中で吐いておく。
 有武がいなくなったのを見計らったように、後輩の岡本沙希が気まずそうに無言のまま、書類の束を抱えて近付いて来た。零果がチェックしなければならない書類だ。
「ごめんね、後でよく見るから、とりあえずそこに置いてもらえるかな」
 後輩の顔を見上げ、微笑んでみたつもりではあったが、上手く笑顔が作れたかどうかは疑問だった。岡本は何か悪いことをした訳でもないだろうに、「すみません、すみません」と書類を置いて逃げるように立ち去る。そんなに怖い顔をしているのだろうか。零果は右のこめかみ辺りを親指で揉む。忙しくなると必ず痛み出すのだ。
 時計を見つめる。約束の時間まで、あと三十分。どうやら、ここが今日の正念場のようだ。
「メールを送信しました」という表示が出た時、時計は確かに、午前十一時五十九分だった。受信する側は何時何分にメールが届いたことになるのだろう、という考えが一瞬過ぎったが、そんなことを考えてももう手遅れである。
 なんとか終わった。間に合った。厳密には一分くらい超過していたかもしれないが、有武がそこまで時刻に厳密な人間ではないことも、この資料の完成が一分遅れたところで、今日の午後三時から始まる会議になんの影響もないこともわかっていた。
 零果はパソコンの前、椅子に腰かけたまま、天を仰いでいた。彼女が所属する事務部は五階建ての社屋の二階にあるため、見上げたところで青空が見える訳はない。ただ天井を見上げる形になるだけだ。
 正午を告げるチャイムが館内放送で流れていた。周りの女子社員たちがそれを合図にぞろぞろと席を立って行く。呆然と天井を見つめるだけの零果を、彼女たちが気に留める様子はない。それはある意味、日常茶飯事の、毎日のように見る光景だからである。魂が抜けたように動かないでいた零果であったが、パソコンからメールの着信を知らせる電子音が鳴り、目線を画面へと戻した。
 メールの送信者は有武だった。本文には、零果の苦労を労う言葉も感謝の言葉もなく、ただ、「確認オッケー。午後二時半までに五十部印刷しておいて」とだけ書かれていた。やっぱりなぁ。そうくると思ったんだよなぁ。当たらないでほしい予想というのは、なぜかつくづく当たるものだ。嫌な予感だけは的中する。
 十四時半までには、まだ時間がある。とりあえず今は、休憩に入ろう。
 零果は立ち上がり、同じフロア内にある女子トイレへと向かった。四つ並んだうちの一番奥の個室に入る。用を足していると、扉が閉まっていたはずの手前の個室から人が出て行く気配がした。その後すぐ、水を流す音と、扉がもうひとつ開かれた音が続く。
「ねぇ、さっきのあれさぁ……」
「あー、さっきの、加治木さんでしょ?」
 手洗い場の前から会話が聞こえてくる。
 零果は思わず動きを止めた。声のする方へと目線を向ける。扉の向こうが透視できる訳ではないが、声から人物を特定することはできる。ふたりとも、同じフロアに席を置いている事務員だ。正直、零果と親しい間柄ではない。
「戸瀬さんがせっかく話しかけてくれてるのに、あの態度はないよね」
「そう、なんなの、あの態度。見てて腹立っちゃったよ」
 蛇口が捻られ、手を洗う音。零果は音を立てずにじっとしていた。戸瀬ファンクラブ所属のふたりか。恐らく、ここに零果本人がいるということを、ふたりは知らないに違いない。
「戸瀬さんもさ、なんで加治木さんなんか気にかけるんだろうね?」
「仕事が大変そうな女子社員を放っておけないんじゃない? 戸瀬さんって、誰にでも優しいから」
「加治木さんが大変な目に遭ってるのは、有武のせいでしょ?」
 きゅっ、と蛇口が閉められた音が、妙に大きく響いた。その時、零果は自分の胸元も締め付けられたような気がした。
「そうそう、有武が仕事を頼むから」
「加治木さんも断ればいいのにね。なんで受けちゃうんだろう。もう有武のアシスタントじゃないのにさ」
「さぁ……。営業アシスタントだった過去にプライドでもあるんじゃない?」
 ふたりのうちのどちらかが、笑ったのが聞こえた。
「うつ病になってアシスタント辞めたくせに、事務員になってもプライド高いとか、ちょっとねぇ……。自分で仕事引き受けて、それで忙しくって大変なんですって顔で働かれてもさぁ……」
 足音と共に、ふたりの会話も遠ざかっていく。どうやら、女子トイレから出て行ったようだ。
 ふたりの声が完全に聞こえなくなるのを待ってから、零果は大きく息を吐いた。「……有武さんのことだけは、呼び捨てなんだ」と、思わずひとり言が漏れた。そんなことはどうでもいい。どうでもいいけれど、言葉にできる感想はそれくらいしか思い付かなかった。
 他の事務員から陰で言われているであろうことは、薄々わかってはいた。同じ内容を、言葉を選んで、もっともらしい言い方で、面と向かって言う上司もいる。同僚たちに特別好かれているとは思っていなかった。しかし、本人には届かないだろうと思って発せられる言葉というのは、こんなものなのか。
 水を流し、個室から出た。鏡に映る自分の顔の疲弊具合に気分はますます陰鬱になる。腹の底まで冷え切っているように感じる。
 同じ階にある休憩室へ向かおうと思っていたが、先程のふたりもそこにいるのだろうと思うと、足を向ける気にはならなかった。さっきの会話の続きを、今もしているかもしれない。
 自分の席に戻って仕事を再開するというのも考えたが、こんな疲れた顔で休憩も取らず仕事をしているところを、誰かに見られるのも嫌だった。
 結局、零果は四階に向かうことにした。階段で四階まで上ると、営業部が机を並べているフロアと、会議室が両側に並ぶ廊下を足早に通り過ぎる。外出していることが多い営業部だが、昼の休憩時間に突入しているこの時間は、いつにも増して人の姿がない。零果は何も躊躇することなく、通路の突き当り、外階段へと続く重い鉄の扉を開けた。
 非常時の利用を目的に作られた外階段を、普段利用する社員はほぼいない。喫煙室以外の場所で煙草を吸おうとする不届き者ぐらいだ。外階段だけあって、雨風が吹き荒れ、もしくは日射しが照り付け、夏は暑く冬は寒いその場所に、わざわざ足を運ぶ理由。それは「彼」に会いたいからだ。
「おー、お疲れ」
 鉄製の手すりにもたれるようにして、「彼」――有武朋洋がそこにいた。いつも通り、その右手には煙草がある。有武は、この外階段でよく煙草を吸っている。社内に喫煙室が設けられてはいるが、外がよほどの嵐でない限り、彼はここで煙草をふかしている。
「……お疲れ様です」
 挨拶を返しながら、鉄の扉を閉め、有武の吐く煙を避けるため風上に移動する。向かい合うように立ちながらも、零果の目線は決して彼の顔を見ようとはしない。それもいつものことだ。有武も、そのこと自体を問うことはしない。ましてや、喫煙者でもない彼女が何をしにここまで来たのかなんて、尋ねたりもしない。
「何、どうしたの。元気ないじゃん。なんか嫌なことでもあった?」
 口から大量の煙を吐きながら、有武はそう尋ねた。零果は「まぁ……」と言葉を濁しただけだったが、彼は妙に納得したような顔で頷く。
「まー、嫌なこともあるよな」
「……そうです、嫌なこともあります」
「だよな」
「せっかくの休日に呼び出されて仕事させられたり」
「…………」
「今日だって、あと二時間で会議の資料を作ってくれって言われたり」
「…………」
「その資料がやっとできたと思ったら、それを五十部印刷しろって言われたり」
「何、こないだの土曜日のこと、まだ怒ってんの?」
 有武が小さく鼻で笑った。これは、この男の癖だ。この男は、上司でも取引先でも、誰の前でも平気で鼻で笑うのだ。
「土曜日は呼び出して悪かったって。でもあの時にテンプレート作って用意しておいたから、今日の資料作りがたった二時間でできたってことだろ?」
「……なんとかギリギリ、二時間でできたんです」
「でも、ちゃんと時間までに完成しただろ」
 有武は、今度は鼻だけでなく、声に出して笑った。
「加治木さんはできるんだよ。俺は、できると思ったことしか頼まない。で、本当にちゃんとできるんだ、俺が見込んだ通りに」
「…………」
 零果は下を向いたままだ。そんな彼女を見つめる有武の瞳は、からかうように笑っている。
「別に気にすることないだろ。周りからなんて言われたのかは知らないが、加治木さんは他の人ではできないことを――」
「私はもう、あなたの営業アシスタントじゃありません」
 遮るように言った彼女の言葉に、有武が吐く煙の流れも一度途切れた。
「もう、私に……」
 仕事を頼まないでください。そう言えばいい。零果が苦労ばかりしているのは、この男の仕事を引き受けるからだ。それを断ってしまえばいい。幸いなことに今の彼女は、それを咎められることのない職に就いている。もうアシスタントではない。ただの事務員だ。同僚たちが言う通りだ。
 わかっている。頭ではわかっているのに、零果はどうしても、その続きを口にすることができない。うつむいたまま、口をつぐむ。
 ふたりの間には沈黙が流れる。有武は煙草を咥えたまま、零果が言葉を発するのを待っているようだった。しかし、いつまでも話そうとしない彼女を見かねてか、短くなった煙草を携帯灰皿へと捨ててから、一歩、歩み寄って来た。
「加治木さんは、俺のアシスタントだよ。今も昔も、ずっと」
 彼の身体に染み付いた煙草の臭いが、零果の鼻にまで届く。もう何年になるのだろう、この臭いをずっと、側で嗅いできた。いくつもの案件を、汗だくになったり、走り回ったりしながらこなしてきた。無理難題ばかりに直面し、関係部署に頭を下げ、時には上司に激昂され、取引先に土下座までして、それでも零果は、この男と仕事をしてきた。いくつもの記憶が一瞬で脳裏によみがえる。
「仕事を頼まないでください」なんて、言えるはずがなかった。どうして彼が自分に仕事を依頼するのか、本当は誰よりもわかっていた。
 大きく息を吐く。肩に入っていた力を抜いた。
「有武さん」
「何」
「……コーヒー、奢ってください」
「は?」
「それで許してあげます」
 零果の言葉に、ぷっ、と彼は吹き出した。
「コーヒーでいいの? どうせなら、焼き肉とか寿司とか言いなって」
 まぁ言われたところで奢らないけどね。そう言いながら、有武はげらげらと笑う。零果は���を向いたまま、むっとした顔をしていたが、内心、少しほっとしていた。零果が多少、感情的な言い方をしてもこの男は動じないのだ。
「あ、ちょっと待ってて」
 有武は唐突にそう言うと、外階段から廊下へと繋がる扉を開け、四階のフロアへと戻って行った。ひとり残された零果が呆然としていると、有武はあっという間に戻って来た。
「ほい、これ」
 差し出されたその手には、缶コーヒーが握られている。社内の自動販売機に並んでいるものだ。どうやら、有武はこれを買いに行っていたらしい。零果は受け取ってから、その黒一色のパッケージの缶が、好きな無糖のブラックコーヒーだと気が付いた。
「それはコーヒーを奢ったって訳じゃないよ。さっき、デスクにあったカフェオレもらったから、そのお礼ね」
「もらったって言うか、有武さんが勝手に飲んだんじゃないですか……。あと、カフェオレではなく、カフェラテです」
「オレでもラテでも、どっちでもいいよ。飲んでやったんだろー。加治木さんがコーヒーはブラックの無糖しか飲まないの、知ってるんだから」
 その言葉に、ずっと下を向いたままだった零果が一瞬、顔を上げて有武を見た。戸瀬から缶飲料をもらった時、「よりにもよってカフェラテか……」と思ったことが、バレているのではないかとさえ思う。そのくらい、目が合った途端、得意げに笑う有武の顔。憎たらしいことこの上ない。零果はすぐに目を逸らした。
「……やっぱ、許さないかも」
「は?」
「なんでもないです」
 有武は肩をすくめた。作業服の胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。吐き出された煙は吹く風に流され、あっと言う間に目では追えなくなった。
 いただきます、と小さく声に出してから、零果は缶コーヒーのプルタブを開けた。冷たいコーヒーをひと口流し込んでから、喉が渇いていたことに気が付いた。
 疲れたな。改めてそう思う。百円で買える缶コーヒーの味わいにさえ、癒されていくように感じる。
 今日は良い天気だ。この外階段に吹く風も、日射しも心地良い。ここから見下ろせる、なんてことのない街並みも。この男との何気ない会話も。ここにあるものすべてが、冷え切っていた零果の心を解きほぐしていくような気がする。
「加治木さん、昼飯はもう食ったの?」
 煙を吐きながら、有武がそう訊いた。
「いえ……」
「何、また食ってないの? ちゃんと食わないと、身体に良くないよ」
「……有武さんは?」
「俺は今日、三時から会議で、終わったらその後に会食だから。昼飯は食わなくてもいいかなーって」
「会食までに、お腹空いちゃうんじゃないですか?」
「何か軽くは食べるけどね。会議中に腹が鳴っても締まらないし。ただ、四十歳過ぎるとね、やっぱ食った分は太るんだわ」
 そう言う有武は、今年で四十一歳のはずだが、まったく太っていない。零果は七年前から彼を知っているが、出会った頃から体型が変化したとは思えない。ただ、それは本人が体型を維持する努力をしているからだろう。
 そして、そういう努力ができるのであれば、もう少しこまめに髪を切ったり髭を整えたりしてもいいのではないか、とも思う。特に最近の有武は、髪にも髭にも白髪が混じるようになった。もう少し身なりを整えれば、印象もまた変わると思うのだが。
「あ、そういえば、もらったアンパンがあるんだった。アンパン、半分食う?」
「いえ……あの、今本当に、食欲がなくて……」
 零果はそう言いながら、無意識のうちにみぞおちの辺りをさすっていた。トイレで聞いてしまった、同僚たちの会話。無遠慮に吐き出された彼女たちの言葉、その声音の棘が、零果の胃の辺りに突き刺さっている。とてもじゃないが今は、何か固形物を口にしようという気にはならなかった。
「ふうん、あ、そう」
 と、有武は煙草をふかしながら返事をした。零果の様子を特に気に留めている様子も、提案を断られて落ち込むような様子もない。そうやって、無関心を装う節がこの男にはある。
「じゃ、今度は喫茶店にでも行こうか」
 有武が煙草を吸い終わった頃、零果も缶コーヒーを飲み終えたところだった。
「コーヒー奢るよ。どこか行きたい店ある? 俺の好きな店でもいい?」
「どこでもいいですよ」
「了解。また連絡するわ」
 有武が外階段とフロアを繋ぐ、重たい扉を開ける。開けたまま待ってくれている彼に、小さく会釈をしながら零果が先に通る。触れそうなほどすぐ近くに寄ると、煙草の臭いをはっきりと感じる。今は吸った直後なので、臭いはなおさら強烈だ。
「くっさ……」
「あ?」
 零果の口から思わず零れた言葉に、彼は即座に睨んでくる。
「すみません、つい、本音が……」
「悪かったな、煙草臭くて」
 有武は舌打ちをしながら零果に続いてフロアへ戻り、外階段への扉を閉めた。
「有武さんは禁煙しようとは思わないですか?」
「思わないねー。だから俺が臭いのはこれからも我慢してねー」
「…………」
 臭いと口走ってしまったことを根に持っているのか、有武は不機嫌そうな顔だ。
「あ、有武くん!」
 並んで廊下を歩いていると、突然、背後から声をかけられた。振り向くと、通り過ぎた会議室から、ひとりの女性が廊下へ顔を覗かせている。
 肩につかない長さで切り揃えられた黒髪。前髪がセンターで分けられているので、その丸さがはっきりとわかる額。染みも皺もない白い肌には弾力がある。彼女が今年で四十歳になるのだと聞いても、信じる人はまずいないだろう。零果より頭ひとつ分、小柄なことも相まって、彼女――桃山美澄は、二十代に間違えられることも少なくない。
 実年齢よりも若く見られる桃山は、実際は経験豊富な中堅社員である。そして何より、ずば抜けて優秀な社員として、社内外で有名だ。営業アシスタントとして三人の営業マンの補佐についているが、「桃山本人が営業職になったら、売上額が過去最高になるのではないか」という憶測は、かれこれ十五年前から上層部で囁かれている、らしい。有武の営業アシスタントを務めているのも彼女である。零果は仕事を手伝わされているに過ぎず、本業は事務職であり、有武の本来のアシスタントは桃山なのだ。
 桃山の顔を一目見るなり、有武は露骨に嫌そうな顔をした。しかし、それを気にする様子もなく、彼女は近付いて来る。
「有武くん、探したんだよ。午後の会議の資料の進捗はどう? 間に合いそう?」
「あー、それなら大丈夫。加治木さんに頼んでるから」
 桃山は有武の隣に並ぶ零果を見やり、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんね加治木さん、また面倒な仕事、有武くんに頼まれちゃったね」
「いえ、あの、大丈夫です」
 零果はいつも、桃山を前にすると困惑してしまう。謝る彼女に対して、なんて言葉を返せばいいのか、わからない。
「資料は? どのくらい出来てるの? 続きは私が代わろうか」
「あの、もう、完成はしていて、あとは印刷するだけなんですが……」
「本当に? もう出来てるの? すごいね加治木さん、やっぱり優秀だね」
「いえ、そんなことは……」
 桃山はにこにこと、朗らかな笑顔だ。嫌味なところは感じさせない。実際、嫌味など微塵も込めていないということは、零果もわかっている。返す言葉に悩んでしまうのは、そうやって本心から褒めてくれる存在がそれだけ稀少だからだ。
「じゃあ、資料の印刷はこっちでやるよ。月末も近いし、加治木さん、自分の仕事も忙しいでしょう?」
「そんなことは……」
 そんなことはありません、と言おうとして、後輩の女子社員から書類の束を受け取っていたことを思い出す。そうだ、あの書類をチェックしなくてはいけないのだ。思わず言葉に詰まってしまう。桃山はそれを見逃さなかった。
「うん、資料の印刷は私がするね。もう有武くんにメールで送ってくれてるんだよね? 有武くん、私のアドレスに転送してもらっていいかな?」
「はいはい、わかりましたよ」
 有武は窓の外に目線を向けたまま、そう返事をした。彼のそんな態度にも、桃山は顔色ひとつ変えることはない。柔和な笑みのまま、零果に向き直った。
「加治木さん、忙しいのにいつもありがとうね。本当は私がやらなくちゃいけないことだから、こんな風に言うのはおかしいんだけど、有武くんは加治木さんと仕事をするのが本当に楽しいみたいで」
「い、いえ、あの……」
 桃山は続けて言う。
「でも、加治木さんには事務職としての仕事もあるんだから、しんどかったり、難しかったりする時は、いつでも私に言ってね。有武くんだって、それで加治木さんのことを悪く思ったりはしないからね。私も、有武くんも、いつだって加治木さんの味方だから。無理はしないでね」
 その言葉に、零果は頷くことしかできない。気を抜くと、泣いてしまうかもしれない、とさえ思った。桃山が自分の上司だったら良かったのに。零果は今の上司である、事務長の顔を思い出しながらそんなことを思う。桃山が上司だったら、毎日、もっと楽しく働けるかもしれないのに。
 けれど、と思い直す。
 桃山はかつて、零果の先輩だった。同じ営業アシスタントだった。三年前までそうだった。零果は彼女の下に就き、多くのことを学んだ。彼女の元から離れたのは、自分なのだ。そのことを、零果は今も悔やんでいる。
「それとね、」
 桃山は一歩、零果に近付くと、声を潜めて言った。
「加治木さんが有武くんから直接仕事を任されていることは、事務長も、営業アシスタント長も、営業部長も合意している事柄だよ。それなのに、加治木さんのことを悪く言う人が事務員の中にいるみたいだね?」
 脳裏を過ぎったのは、女子トイレで聞いた会話の内容だった。同僚の言葉が、耳元でよみがえる。
 零果は思わず、桃山の顔を見た。先程まで朗らかに笑っていたはずの彼女は、もう笑ってはいない。口元は笑みを浮かべたままだったが、その瞳には鋭い光があった。それはぞっとするほど、冷たい目だった。
「うちの営業アシスタント長は、そっちの事務長と仲が良いからね。私が事務長に言っておいてあげようか? 『部下をよく指導しておいてもらえませんか』って。加治木さんは有武くんの仕事をサポートしてくれているのに、それを邪魔されたら困っちゃうんだよ」
 桃山には、こういうところがある。普段は温厚なのに、時折、何かの弾みでとてつもなく冷酷な表情を見せる。
 零果は慌てて、首を横に振った。
「そんな、大丈夫です」
「そうかな? 私はそうは思わないけどな。加治木さんのことを悪く言う社員が同じ事務の中にいるなんて、とてもじゃないけど――」
「桃山、もういいって」
 ずっと上の空でいるように見えた有武が、突然、会話に割って入った。
「加治木さんが大丈夫って言ってるんだから、とりあえずは大丈夫なんだろ。もし何かあったら、桃山に相談するよ」
「…………」
 桃山はしばらく無言で有武を見上げていたが、やがて再びにっこりと笑った。それから、零果へと向き直る。
「うん、加治木さん、何かあったら遠慮なく相談してね。いつでも聞くからね」
「いえ、あの、お気遣い、ありがとうございます」
 何度も頭を下げる零果に、桃山はにこにこと微笑む。
「ううん。逆に、気を悪くしていたらごめんね」
「いいえ、気を悪くするなんて、そんな……」
「私はこれでも、営業アシスタントだから。有武くんが気持ち良く仕事をするために、私にできることは全部したいんだ」
 そう、桃山の目的は、あくまでも「それ」だ。営業アシスタントとしての職務を全うしたいだけなのだ。零果のことを気遣っているかのように聞こえる言葉も、すべては有武の仕事を円滑に進ませるため。反対に、彼の仕事ぶりを邪魔するものを、すべて排除したいだけ。
 有武から仕事を頼まれた零果がその意欲を削がれることがないように、彼女のことを悪く言う同僚を排除しようと考えているのだ。その点、桃山は零果のことを「有武の仕事にとって有益にはたらくもの」と認識しているようだ。そうでなければ、零果に仕事を依頼していることを許したりはしないだろう。
「何かあったら言ってね」と言い、「それじゃあ」と手を振って、桃山は営業部のフロアへと向かって行った。
 桃山の姿が見えなくなると、その途端、有武は大きく息を吐く。
「はーあ、おっかない女……」
「桃山さんのことを、そんな風に言わなくても……」
 普段は飄々としている有武も、桃山を前にするとどこか緊張しているように見えるから不思議だ。そう思いながら、零果は有武の顔を見上げ、
「あ……」
「あ?」
「いえ、なんでもありません……」
 反射的に目を逸らした零果を、彼が気にする様子はなかった。ただ、「加治木さん、俺の正式な営業アシスタントに早く戻ってくれよ」と、どこか冗談めかした口調で言った。
 その言葉に、零果は何も答えなかった。うつむいたままの彼女の左肩をぽんぽんと、軽く二回叩いて、「じゃ、また」と、有武も営業フロアへと消えて行った。
「…………無理ですよ」
 有武の背中も見えなくなってから、ひとり残された零果はそうつぶやく。
 事務部に異動して二年。今となっては、営業アシスタントとして働いていた過去が、すべて夢だったのではないかとすら思える。あの頃は、毎日必死だった。ただがむしゃらに仕事をこなしていた。どうしてあんなに夢中だったのだろう。零果はもう、当時の感情を思い出すことができない。 二階の事務部フロアに向かって歩き出す。所属も業務内容も変わったが、今も零果には戦場が与えられている。運動不足解消のためにエレベーターを使うのではなく階段を降りながら、頭の中では午後の仕事について、すでに思考が回り始めていた。今の自分には、やるべき業務がたくさんある。戦うべき雑務がある。そのことが、何よりも救いだった。
 ※『コーヒーとふたり』(下) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/746474804830519296/)へと続く
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highwayly · 3 months
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わたしにも地元のゲオやブックオフ、ジュンク堂書店で検索機を使わずに目当ての本にたどり着けることを誇りにしていた時期があった。誰にいうでもなかったけどそれは自分にとってすごく特別なことだった。その頃休日は地元のイオンモールに100円だけを持ってコインゲームをし、「ドキドキピエロくん」に精を出し異様な上達を見せ、帰りはブックオフで延々と立ち読みをした。実家になぜか3巻だけあって引き込まれたスラムダンクも一筋縄では手にすることができず、買うにも自分の中の限度額は1冊200円で、できることなら150円までで売られている古本屋を巡り1冊ずつ手に入れていった。特に橙色の表紙の17巻だけはどこの古本屋にも見つからず、結局扉や窓が全て白く塗装された田舎特有のなんとも言えないおそらくスケベな本屋にまで突入し、意外なことにどこの古本屋よりも丁寧にトレーシングペーパーのようなもので保護されたそれを手に入れたりした。それでも海南戦を超える20巻あたりから最低でも250円に金額が跳ね上がり、やっとのことで31巻を手に入れた時はあまりの嬉しさにキュッダムとかの効果音まで合わせて全てのセリフを暗唱にかかったりもした。本当にそういう記憶が今の自分を形作っていることは言うまでもなく、今日��って都会の広い本屋であいまいな情報をもとに本を探して歩き回っているときにそれを思い出したのだった。今のあたしにはどこになにがあるのかまっすぐに歩いて向かうことのできる本屋はないのだな。
あわせて浮かびあがる記憶には際限はなく、そのあとに好きになったあひるの空のことや釣具屋の裏手にある暗いジャンクショップでコツコツ集めていた漫画をある日友達が両親に全巻新品で買ってもらって集められなくなったこととか窓に映ってる自分の体は細すぎるのだろうかとか、細すぎるちゃんとご飯をたべろとか傲慢な言葉で関わってくる人たちの視線とか
わたしは自分の 繊細で細い体が好きだよ
べつに気にする必要など あたしはあたしのことが好きで窓に映る自分の細い腕が好きで
それでいいのだと ていうか最初からそういうものなのだと
おもうわけよ あたしのせかいはこれで って
そんで知らない誰かのいやなでんわがつらいとかそういうりゆうだけで
やめたっていんだって
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chanoyu-to-wa · 4 months
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The Chanoyu Hyaku-shu [茶湯百首], Part II:  Poem 31.
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〽 Tsuri-bune ha kusari-no-nagasa toko ni yori          de-bune iri-bune uki-bune to shire
    [釣舟は鎖の長さ床により          出船・入り船・浮き船と知れ].
    “With respect to the tsuri-bune [釣舟], the length of the chain depends on the toko; and [you] should understand [the significance of] the departing boat, the incoming boat, and the floating boat.”
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    Looking at this poem, we first need to consider what the expression kusari-no-nagasa [鏁の長さ] is referring to.  Since this object was first created (as a hanging incense burner), the tsuri-bune was intended to be suspended from the ceiling.  Originally (when used for its original purpose, namely, to perfume the air blowing in through the window), from the ceiling above the dashi fu-zukue (suspending the boat close to the ceiling was intended to keep it out of the way, as well as prevent it from casting a shadow on the writing desk beneath).  But since Jōō’s time¹, it was also usual to suspend it from a hook attached to the ceiling of the tokonoma².
    What is not made clear by this poem, however, is that there are actually two systems of chains used to suspend the tsuri-bune in the toko.  The first, consisting of three (rarely two, or four) chains, were usually attached to the boat in such a way that they could not be removed.  These chains (or, rather the space between the boat and the hanging ring to which the chains were joined) were, at least since the time of Jōō, supposed to measure a standard 8-sun (which is the rule that is articulated in Jōō’s original version of the poem).
    But if the boat were simply suspended by attaching the ring to the ceiling hook, the boat would be so high that it could not be seen (since it would be hidden behind the otoshi-gaki [落掛] and the suspended section of wall that it supports), let alone used as the flower container³.  Thus, in addition to this set of permanently attached chains, another length would have to be added in between the ring that joins the three chains together, and the hook attached to the ceiling of the toko.  It is the length of this chain that is being addressed in the kami-no-ku [上の句] of the Kyūshū manuscript version of this poem.
    While there are various other things that the host has to take into consideration when determining the height of the tsuri-bune on any given occasion, the overall length of the chain should be based on the height of the ceiling of the toko (since the idea was to suspend the boat at the height of the hook that is attached to the back wall of the toko, as well as possibly lower).
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    As for de-bune [出舟], iri-bune [入り舟], and uki-bune [浮き舟]⁴ (or oki-bune [置き舟], as in Jōō’s original version of this poem), de-bune [出舟] means a departing boat; iri-bune [入り舟] means a boat coming into harbor; and uki-bune [浮き舟] means a floating boat (that is, a boat floating at anchor -- it is neither departing nor incoming).
    De-bune, in practice, means that the bow of the boat (the end to which one chain is attached) is pointing toward the bokuseki-mado⁵.  Iri-bune has the bow pointed towards the toko-bashira.  As for uki-bune, the usu-ita [薄板]⁶ is placed on the floor of the toko, as usual, and the boat is rested on top of the board.  If the chains cannot be removed (which was common, in the case of the older tsuri-bune), then they were draped over the sides and coiled around the base of the boat.  (Though the name “uki-bune” means a floating boat, in fact this was supposed to represent a boat that had been pulled up onto the beach.)
    While originally the rules governing the time when each of these ways of displaying the tsuri-bune was appropriate were somewhat complicated (since they were based on a knowledge of the tides on any given day -- something naturally of great importance to the citizens of a trading city like Sakai), a certain number of years after Jōō’s death, Rikyū (or someone impersonating him during the early Edo period) is supposed to have simplified things somewhat (since, apart from people living in the port cities, nobody would have any idea what the tide was doing):
◦ de-bune was used in the evening (because that is when fishing boats⁷ would depart);
◦ iri-bune was used in the morning (because that is when the fishing boats would come into port); and,
◦ uki-bune (or oki-bune) was used during the afternoon (because that is when the fishing boats were beached, with their mooring ropes coiled up).
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    Jōō‘s original version of this poem differs from the others in that it specifies the length of the chains that are attached to the boat (rather than the chain that connects the boat to the ceiling).  According to Suzuki Kei-ichi (the editor of the Sen no Rikyū zen-shū [千利休全集]) Rikyū’s manuscript copy of the poems that was dated Tenshō 8 (1580) contains this version of the poem, too -- meaning it is unclear precisely when the better-known variant originally made its appearance (and whether the change was actually made by him, or by some other person who subsequently credited the change to Rikyū):
〽 tsuri-bune ha kusari no awai hassun ni de-bune・iri-bune sate ha oki-bune
[釣舟はくさりの間八寸に 出ふね・入舟さてはおきぶね].
    “With respect to the tsuri-bune, the space between the [upper end of the] chains [and the boat] is 8-sun; the departing boat, the incoming boat, and then [there is] the boat that is placed down [on the floor of the toko].”
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    So, here, the length of the (usually) three chains that are attached to the boat should be such that there is a space of 8-sun between the boat and the ring to which the three chains are joined.  This allows sufficient room for the flowers, since they should not appear to be squeezed into the space within the chains.  The size of this space can be fixed -- while that between the ring and the ceiling cannot (this will be discussed further in the appendix, at the end of this post).
    As the meaning might seem somewhat ambiguous, the other early version of this poem (which was also the version disseminated by the Sen family during the early Edo period, according to Katagiri Sadamasa) attempts to clarify this matter:
〽 tsuri-bune ha kusari no ma no wa hassun ni de-bune・iri-bune sate ha oki-bune
[釣舟はくさりの間のわ八寸に 出船・入船さてはをき船].
    “With respect to the tsuri-bune, the space within the loops of the chain is 8-sun; the departing boat, the incoming boat, and then [there is] the boat that is placed down [on the floor of the toko].”
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    This version makes it clear that the measurement of 8-sun refers to the pyramidal space circumscribed by the three chains that are attached to the boat and the point above where those chains are joined together⁸.
_________________________
¹Jōō is the first person recorded to have used the tsuri-bune as a hanaire, and the earliest collection of rules and conventions (see the appendix, below) appears to be a conglomeration of his personal teachings.
²Whereas Jōō and Rikyū seem to have suspended their tsuri-bune in the center of the toko (at least during the daytime*), after the creation of the tsuki-age-mado [突き上げ窓] by Toyotomi Hidetsugu (circa 1585), and the incorporation of this kind of skylight into both Rikyū’s and Oribe’s tea rooms, Furuta Sōshitsu combined this new source of nocturnal illumination with Jōō‘s teaching that the tsuri-bune should be hung up somewhere so that the light of the moon would be reflected in its water, and so proposed hanging the boat from a hook nailed into the back side of the otoshi-gake (the horizontal beam upon which the weight of the wall suspended above the mouth of the tokonoma rests). ___________ *During the daytime, the tsuri-bune was usually suspended from a hook attached to the center of the ceiling of the toko (or very slightly off-center, in the direction of the bokuseki-mado); but on a moonlit night, it was supposed to be hung in such a way that the moon would be reflected in the water when the guests went to view the arrangement.  Since this would be unlikely in the middle of the toko, it was hung wherever the effect could be achieved, sometimes from the eves of the genkan, or even at the koshi-kake -- since the reflection of the moon was the only critical thing.  In this case, while flowers were still supposed to be arranged in it, they were to be grouped off to one side, so the surface of the water would be largely unimpeded.
³According to Yamanoue Sōji, the height of the ceiling of the tokonoma in Jōō’s 4.5-mat room was 7-shaku 1-sun.  If no other chains were used, the bottom of the boat would be approximately 5-shaku above the floor of the toko, which would be impossibly high.  Thus a second length of chain would have to be added, with the intention of lowering the boat to a point roughly equal to the hook that is nailed into the back wall for a kake-hanaire.
    Though the room for chanoyu was traditionally a 4.5-mat room, originally the wabi room lacked a toko (as well as a chigai-dana and dashi-fuzukue).  As the population of chajin who had emigrated from the continent began to decline (as the older members began to die off), meibutsu utensils began to come into the hands of wabi practitioners (many of whom seem to have been forced into that kind of practice through a lack of utensils, and limited finances, in the first place).  Unable to rebuild their tearooms as shoin so that these utensils could be displayed in the traditional manner, these wabi-chajin contented themselves with adding a toko (hence the rule that people who owned meibutsu utensils should attach a toko to the room in which they served tea), which then gave them a place where the tsuri-bune could be displayed.
⁴The word uki-bune, or Ukifune [浮舟]* seems to have been borrowed from the Genji monogatari [源氏物語], where it serves as the title of the 51st chapter (or book) of the novel.
    There was renewed popular interest in the Genji monogatari during the Edo period (when this version of the poem was likely made), as the Japanese searched for the roots of their cultural heritage. ___________ *The traditional sobriquet of one of the pivotal characters in the last ten chapters (books) of the Genji monogatari.  Ukifune is the illegitimate daughter of the Eighth Prince (Hachi no miya [八の宮]), who becomes the love interest of both Kaoru (Kaoru no kimi [薫の君, also known as Kaoru no taishō [薫大将]) and Niou (Niou no miya [匂の宮]).  The sobriquet derives from the title of chapter/book 51, where, in a poem, Ukifune compares herself to a boat floating on the water that has lost its anchor.
    In fact, this way of arranging the tsuri-bune was originally called oki-bune [置き舟], “placed boat,” because the boat was placed down on an usu-ita [薄板] (originally on Haneda Gorō’s [羽田五郎; active during the second half of the fifteenth century, but his dates are unknown] copy of the Gassan-nagabon [月山長盆]), with the chains coiled around the base of the boat (this provided stability; and also, since the chains can often not be removed, this gave the host something to do with them).  Rather than a “floating boat,” this was originally interpreted to be a night-fishing boat that was beached during the daytime, to keep it out of harm’s way.
⁵The bokuseki-mado was originally located in the wall of the tea room just outside of the toko, and behind the shōkyaku’s left shoulder.  After Furuta Sōshitsu moved the bokuseki-mado into the toko, the original rule could no longer be followed.  So it was said that de-bune should be oriented so that the bow points toward the minor pillar, on the outer-wall-side of the toko.
⁶This is what is called the yahazu-ita [矢筈板] today.  This board, which measures 1-shaku 3-sun 2-bu by 9-sun 2-bu, represented the Gassan-nagabon reduced to a flat board.  The notched edge of the board was intended to suggested the flaring rim and foot of the original tray (this is why the wider edge should always be above).  This was the only usu-ita used by Jōō and Rikyū (the other varieties of usu-ita were all machi-shū creations that appeared during the Edo period*). ___________ *The round board, commonly known today as the maru-hamaguri-ba [丸蛤端], was originally 6-bu thick (like the shiki-ita that are placed under the furo).  It was used in place of the naka maru-bon [中丸盆] as a base for an incense burner (which is why some schools call this board the maru-kō-dai [丸香臺, 丸香台]), when it is displayed on the floor of the tokonoma.
⁷While the word tsuri-bune [釣舟], when used in the context of chanoyu, means a hanging boat (a flower container that is suspended from the ceiling), the homonymous tsuri-bune [釣り船] means a fishing smack, a fishing boat.  It was from this that Rikyū, or possibly the chajin of the Edo period*, assembled this set of rules. ___________ *There do not appear to be any (extant) manuscripts of the poems in Rikyū’s handwriting that contain the variant text.  All collections that can be clearly associated with him discuss the length of the three chains attached to the boat.
⁸It is within this space that the majority of the flowers should be kept, though they should arch outward, always toward the temae-za -- irrespective of the direction in which the bow of the boat is facing.
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❖ Appendix:  A Collection⁹ of Jōō‘s Teachings on the Display of the Tsuri-bune [釣舟].
    The tsuri-bune hanaire [釣舟花入], and some of its associated teachings, have been mentioned in several of the collections that have been translated in this blog -- it is discussed in the Chanoyu san-byak’ka jō [茶湯三百箇條], in Rikyū’s  Araki Settsu-no-kami-ate no densho [荒木攝津守宛の傳書], and in Book Five of the Rikyū chanoyu sho [利休茶湯書], several different times in the Nampō Roku, as well as, of course, in the Chanoyu hyaku-shu [茶湯百首].  Some of the teachings are stated more or less clearly in these different iterations, but in several cases they are are simply alluded to, en masse, as ku-den [口傳] (things that should be transmitted orally from teacher to student, and never committed to writing).
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   That said, it might be best to begin our review of Jōō’s teachings with those things that have been written first:
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A) In the Chanoyu hyaku-shu, the tsuri-bune is addressed in one poem (of which, two versions are known -- #80 in Jōō's original manuscript that is preserved by the Matsu-ya family, and #31 in most Edo period collections).  
    These poems, and their meanings, have been fully discussed above.
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B) Two lines in the Chanoyu san-byak’ka jō [茶湯三百箇條] refer to the tsuri-bune:
23) fune no hanaire kake-sōrō koto [船の花入懸候事]:  “the way that the fune-no-hanaire should be hung up;” and,
25) fune no hanaire ni mizu-uchi-sōrō koto [舟の花入に水打候事]:  “the matter of splashing water on the fune-no-hanaire.”
   The first line (23) refers to the orientation of the boat -- de-fune or iri-fune, as well as the oki-bune (though, in this case, the boat is not actually suspended from the ceiling, but placed on a tray, or board, on the floor of the toko).  The details correspond to what has already been said above, referring to the bow (with one chain) and the stern (to which are attached two chains) of the boat (usually the bow chain is a little shorter, meaning that the bow will be a little higher than the stern).
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    The decision whether to hang the boat as a de-bune, meaning a departing boat (the bow points toward the bokuseki-mado, as shown on the left), or iri-bune, an incoming boat (the bow points toward the toko-bashira), was critically important, and a mistake could be ruinous to the host’s reputation as a chajin¹⁰.
   The second line (25) refers to another important matter related to the display of the tsuri-bune.
   Traditionally (according to the Chanoyu san-byak’ka jō), a hanaire, some 70% full of water, was brought out into the tearoom, and arranged in the toko -- whether on an usu-ita, or suspended from a hook attached to the middle of the back wall of the toko, or nailed into the minor pillar (opposite the toko-bashira) that is located in the outer wall of the toko, as appropriate.   Then the flowers (already splashed with dew) were brought out on a tray, picked up and arranged in the hand, and so inserted (as a unit) into the hanaire.  Finally, water was poured into the hanaire until it was 90% full (or, to a point just below the hole into which the ring is inserted, in the case of a kake-hanaire).  This process, as described in the Chanoyu san-byak'ka jō, also emphasizes the fact that the hanaire should always remain dry on the outside.  This refers to hanaire in general
   Uesugi Kenshin¹¹, however, states that Jōō always splashed the outside of his tsuri-bune with water liberally, so it would continue to drip while the guests inspected the toko.  In explanation, he quotes Jōō as saying:  “boats float in the water, this is their purpose; consequently, they are wet when in use.  Hence, when displaying a boat, it is proper to splash it on the outside with water, since this is true to its nature.”  This is the argument to which this line alludes¹².
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C) In the Araki Settsu-no-kami-ate no densho [荒木攝津守の傳書]¹³, in the part of the manuscript where Araki Murashige has recorded Rikyū’s answers to his specific questions (this section is subtitled hei-bun no jō-jō [幷聞條々]), in an entry devoted to rules of chabana, Rikyū said:
8) ...Fune ha asa ni de-fune, yūbe ni iri-fune, kuden kore-ari 
[...舟は朝に出舟、夕に入舟、口傳有之].
    “In the morning the boat [should be displayed] as a departing boat, in the evening it [should be hung] as an incoming boat; and there are [additional] secret teachings.”
   This quotes Rikyū’s understanding of the difference between de-fune and iri-fune:  de-fune is used in the morning, and iri-fune should be used at night.  This statement, therefore, appears to have established the precedent that we find repeated in all later explanations¹⁴.
   The additional secret teachings (most of which came from Jōō) will be listed in section E, below.
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D) And in Book Five of the Rikyū chanoyu sho [利休茶湯書]¹⁵, the eighth entry reads:
8) Tsuri-bune ni ha de-fune・iri-fune・tomari-bune to te toki-doki no hana no ike-yō aru ku-den
[釣船にハ出船・入船・泊船とて時〻の花の生やう有口傳].
    “In the case of the tsuri-bune, sometimes the flowers are arranged in a departing boat, [or] in an incoming boat, [or] in a boat that is resting at anchor -- [and] there are secret teachings [as well].”
   Tomari-bune [泊り船]:  tomaru [泊る] means to stay, to lodge (as in a hotel), and, by extension, to put up, to rest.  So tomari-bune [泊り船] refers to a boat that has been beached -- pulled up onto the beach (for protection) -- when it is not going to be used imminently.  This is yet another way of referring to the case where the tsuri-bune is placed down on the floor of the tokonoma, with the chains coiled around it.
   Hana no ike-yō [花の生けよう], “the way to arrange the flowers,” refers to the teaching that (irrespective of the orientation of the boat -- whether its bow is pointing toward the bokuseki-mado, or the toko-bashira) the flowers should always arch toward the temae-za¹⁶.  Thus, in the case of the de-fune, the flowers arch in the direction of the stern; but in the case of an iri-fune, they arch along the bow¹⁷.
   The full collection of ku-den will be cataloged in the next section -- though, given Rikyū’s well-known inclination toward simplification, it is not possible to know to which of those secret teachings he was actually sympathetic (as opposed to those which he preferred to ignore).
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    The various teachings handed down by, or ascribed to, Jōō can be subdivided into several categories.  Jōō loved the tsuri-bune; and even in his final years, after his chanoyu had begun to evolve farther and farther in the direction of wabi simplicity (and a concommittent rejection of the aesthetic of miyabi [雅び], “elegance,” and the kind of chanoyu that was focused on the use of meibutsu utensils), it appears that he still frequently displayed his bronze boat on the ō-dana [大棚]¹⁸, or in the tokonoma, of his tearoom.  As a result, a sort of catalogue raisonné developed as his ways of using the tsuri-bune came to be imitated by others:
1)  Jōō's general considerations, regarding the tsuri-bune.
◦ the length of the (three) chains that defined the space in which the flowers were arranged was fixed at 8-sun (as in his version of the poem), while the length of the second chain (that attached the tsuri-bune to the ceiling of the toko) depended on the height of the toko’s ceiling;
◦ the three ways way to orient the tsuri-bune (de-fune, iri-fune, and oki-bune);
◦ the tsuri-bune should be splashed with water; and that a nagabon (or at least an usu-ita) should be placed underneath, to catch any water that might drip from the boat (so it would not make the mat in the toko wet).
2) Using the tsuri-bune on a moonlit night.
     On a moonlit night, Jōō considered it imperative that the boat be hung up somewhere where the moon would be reflected in the water (when the tsuri-bune was approached and inspected by the guests, whenever possible:  in this case, the flowers were to be arranged so that they would project off to one side, allowing for as much unobstructed water-surface as possible¹⁹.  If this effect could not be achieved in the tokonoma (as was almost always the case in the toko of the wabi small room, since at that time the bokuseki-mado had not yet been moved within the toko itseifl) then the boat was supposed to be hung up somewhere else -- even if that place was unorthodox or unconventional²⁰.
3) The places where the tsuri-bune is typically suspended in the tearoom:
◦ According to the Kun-dai kan sa-u chō-ki [君台観左右長記], the original place to hang the tsuri-bune was above the dashi-fuzukue in a shoin room²¹, ⓐ,
◦ Historically, the second place to hang the tsuri-bune was from a hook attached to the bottom of the lower shelf of the chigai-dana (the hook was located so that the boat would be centered in the space between the chigai-dana and the shelf underneath (that forms the roof of the ji-fukuro), ⓑ -- again, this is according to Nōami.
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◦ Jōō began the practice of hanging the tsuri-bune in the middle of the toko, ⓒ, from a small hiru-kugi [蛭釘]²² attached to the center of the ceiling.
◦ Later, after the creation of the tsuki-age-mado (the skylight in the ceiling, originally above the space in front of the shōkyaku’s seat)²³, Oribe²⁴ (according to the Furuta Oribe-no-shō kiki-gaki [古田織部正聞書]) is said to have begun nailing a hook into the back side of the otoshi-gaki [落し掛] (the beam that supports the wall that is suspended above the mouth of the toko), and hung his tsuri-bune there, ⓓ.
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◦ Jōō, Rikyū, and Furuta Sōshitsu all held that the tsuri-bune should always be suspended in the middle of the toko (or, in Oribe’s case, from a hook attached at the middle of the otoshi-gake, as shown in the sketch).  Nailing the hook so that the boat is suspended toward one side is a corruption of this practice that appeared during the Edo period.
◦ In the shoin, the tsuri-bune may be displayed (as an oki-bune) on the shelf beneath the chigai-dana, ⓔ, or on the dashi-fuzukue, ⓕ.  In the wabi room, it is placed on the floor of the toko, resting on an usu-ita, ⓖ.
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◦ When Jōō displayed his fune on the Jōō-dana, he either suspended the boat from the underside of the ten-ita, ⓗ, or placed it on the shelf above the ji-fukuro, ⓘ.  In both cases, a nagabon was placed on the shelf underneath.
◦ Regardless of where the tsuri-bune is displayed, or whether it is suspended on a chain or placed down on the shelf or floor, the boat should always be oriented on a diagonal.
4) The height of the tsuri-bune.
    At the time of high-tide, the tsuri-bune should be suspended so it is hanging above eye-level.  And at low-tied, it should be hung so it is below eye-level²⁵.  Jōō, as a native of Sakai, adhered to this rule even when he was living in Kyōto.
5) The flowers arranged in the tsuri-bune.
   In the small room, because only one or two kinds of flowers should be used, the tsuri-bune should be raised higher when the flowers are of a kind usually encountered above eye-level in nature, and lowered when the flowers are the kind that naturally bloom near to the ground.
   However, when the boat is displayed as an oki-bune [置き舟] (that is, it is placed down on the floor of the toko, resting on a shiki-ita; or on the dashi fu-zukue, or the shelf underneath the chigai-dana), Jōō said that the flowers should be those that are found growing in or near water – considering it as if it were an abandoned boat on the shore that had been taken over by nature.
   Finally, as mentioned above, the flowers should always be arranged so that they arch toward the temae-za.
_________________________
⁹This collection was assembled from a number of sources, including the writings (and kiki-gaki [聞書]*) of Rikyū and Furuta Sōshitsu, as well as those that can be traced directly to Jōō himself. ___________ *Kiki-gaki [聞書] are transcripts of things said (by an authoritative individual) on certain (generally less-formalᵃ) occasions.  In the case of Furuta Sōshitsu, these comments were most often made during chakai (at which he was participating as a guestᵇ) -- and almost always in direct response to a question that had been posed by one of his fellow guests.  These accounts date to the period between the death Imai Sōkyū (August 31, 1583ᶜ), and his own death (on July 6, 1615), when Oribe was considered the ultimate authority on all things chanoyu. ___________ ᵃIn other words, not in a formal “lecture-hall” type setting.  It was common for the guests to talk among themselves at certain points during the gathering (while they were seated in the koshi-kake, while they were eating the meal or over the kashi, and during the service of usucha), and while “worldly gossip” was discouraged, the presence of an expert afforded the guests with a wonderful opportunity to correct their own misunderstandings.  Not infrequently, Oribe was invited (and accepted the invitation) for precisely this purpose.
    Notably, Sōshitsu does not seem to have offered up information of his own volition.  He politely answered those questions that his fellow guests posed to him, but pointedly said nothing more.  Apparently this was out of respect for Rikyū (and the preservation of his teachings); and as a result, the guests were (unfortunately) more likely to be confirmed in their own prejudices (since these were the machi-shū followers of Imai Sōkyū), rather than shaken from their moorings by the declaration of something wholly new and startling.  This is why at least some of his interlocutors concluded that Oribe was contradicting Rikyū (which does not actually seem to have been the case).
ᵇUsually, when invited to chakai during this period, Oribe was fêted as the shōkyaku, and generally recited his answers from this place of authority.  It is unclear whether his pronouncements were written down on the spot, or whether they were committed to paper during the naka-dachi or after the gathering had concluded.
ᶜElsewhere in this blog I have written a different date, as a result of relying on other sources.  This is the date given in the Japanese Wikipedia article on Imai Sōkyū, which is probably the more authoritative source for information of this type.
¹⁰With respect to this matter, Kuwayama Sōsen wrote:  “regardless of which side the single and double chains are attached, because it is bad if we confuse them, Oribe created a boat with but a single chain on either end.
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    That said, it is unclear whether Oribe actually “created” this kind of boat or not -- the above is a Korean bronze tsuri-bune which has just two chains, that is associated by some scholars with him.  But whether it was made to Oribe’s specifications, or simply purchased by him from the pieces being sold in a shop there while he was in Korea* (“supervising” the preparations for the invasion of China), is unknown.  (Indeed, it is not known whether this is even referring to a bronze tsuri-bune, or to one made of some other material -- both ceramic and bamboo boats are known, though the invention of the latter is generally ascribed to Sen no Sōtan.) ___________ *It is also possible that the boat shown above was originally made for three chains (the hooks for which were always attached to the inner sides of the boat), but that Furuta Sōshitsu, finding this boat particularly well balanced, got the idea of having rings for the hooks soldered onto the outside of the bow and stern, resulting in a boat that did not face in an obvious direction -- thereby rendering any potential accusers impotent.
¹¹Most modern chajin (and tea scholars) generally associate the Chanoyu san-byak'ka jō [茶湯三百箇條] with Katagiri Sadamasa [片桐貞昌; 1605 ~ 1673] (Katagiri Sekishū [片桐石州])*.  However, the earliest (surviving) manuscript copy of the Chanoyu san-byak'ka jō was written in Uesugi Kenshin’s [上杉謙信; 1530 ~ 1578]† hand, in the decade following Jōō’s death; and it was that (largely inaccessible) version of the text (which includes additional commentary by Sen no Dōan [千道安; 1546 ~ 1607], and his disciple Kuwayama Sōsen [桑山宗仙; 1560 ~ 1632]‡) that was previously translated in this blog. __________ *Often labeling the collection Sekishū’s Three Hundred Lines – in the same way that (Jōō’s) Chanoyu hyaku shu [茶湯百首] is usually (though equally erroneously) called the Hundred Poems of Rikyū.
†The daimyō Uesugi Kenshin was one of Jōō’s principal disciples.  Kenshin stated that Jōō believed the Chanoyu san-byak'ka jō to have originally been authored by Shukō -– though Kenshin’s version contains several lines that were obviously modified by either Jōō, or himself.
‡These emendations appear to memorialize Rikyū’s (otherwise undocumented) explanations of the relevant teachings.
¹²Kore ha, sui-chū no mono naru-yue kono kokoro-mochi omoshiro-shi, sari-nagara, mizu ha hana kubari no ue made irete yoshi [是ハ、水中の物なる故心持面白し、乍去、水ハ花くばりの上まで入てよし].
    Which means, “accordingly, because [the boat] is something that is in the water [when it is being used], the feeling [from being liberally splashed with water] is very interesting -- yet it is good to splash water even up onto the top of the flowers [after they have been arranged].”
    In other words, while, in the case of an ordinary arrangement, the flowers were splashed with water in the mizuya, and then brought out and arranged like that.  Here, after the flowers have been arranged, water should be splashed not only onto the sides of the boat, but onto the flowers, too, so the appearance is as if they were splashed by the waves breaking against the bow.
¹³The Araki Settsu-no-kami-ate no densho [荒木攝津守宛の傳書] is divided into two parts:  the first (o-chanoyu oboe [no] jō-jō [御茶の湯覺條々]) details the way Rikyū taught Murashige to perform the temae; and the second (hei-bun [no] jō-jō [幷聞條々]) is a transcript of Rikyū’s answers to Murashige’s questions.
   It is in the second part of this document, in a longer passage that discusses the way to arrange chabana, that Rikyū’s explanation of the way to use the tsuri-bune hanaire is found.
   The entire passage is translated in the post entitled Rikyū Densho — the Private Writings of Sen no Rikyū:  IXb. The Araki Settsu-no-kami-ate no Densho [Hei-bun no Jō-jō] (4).
   The URL for that post is:
https://chanoyu-to-wa.tumblr.com/post/136629867583/riky%C5%AB-densho-the-private-writings-of-sen-no
¹⁴This same opinion is also found in the book of secret teachings that was appended to the Nampō Roku.
   Jōō had a more convoluted argument, regarding the times to use de-fune and iri-fune.  I will discuss those ideas in detail, along with Jōō’s other teachings, in section E; here it will suffice to say that his teachings were based on an understanding of the twice-daily tides (which, to everyone living in Sakai, would have been common knowledge -- since life in the colony revolved around them), an 18-hour cycle of which the people living in Kyōto would have been ignorant.
¹⁵The Rikyū chanoyu sho [利休茶湯書] is very similar to the Nampō Roku in format.  It was produced from a selection of some of the papers that were found in Nambō Sōkei’s wooden chest, in the Shū-un-an [集雲庵], and published (as a set of six block-printed books) in 1680.  The papers in question appear to have been those that were unambiguously written in Rikyū’s own handwriting, and so could be confidently assigned to his collected body of teachings.
   When passing through Kyōto some years later, as one of Kuroda Mitsuyuki’s [黒田光之; 1628 ~ 1707] attendants, one of the editors showed a copy of the Rikyū chanoyu sho to Tachibana Jitsuzan.  After reading through it quickly, and expressing his interest, Jitsuzan was informed that there were still a number of other documents remaining in the Shū-un-an that had not been included in the Rikyū chanoyu sho.  So, as the daimyō’s party moved on to Ōsaka, Jitsuzan asked permission of Mitsuyuki to make a detour through Sakai, so that he could inspect the remaining papers for himself.  He received his lord’s assent, and the daimyō also wrote a letter of introduction and a request to the abbot of the Nanshū-ji for permission for Jitsuzan to inspect the papers.  Jitsuzan made a copy of those papers, which he later edited into the Nampō Roku.
¹⁶As if leaning into the room through the bokuseki-mado.  This was a very important teaching in the early days, and it is unbelievably strange that it is almost unheard of today.
   The problem seems to have arisen when people, ignorant of its purpose, began to use the hook attached to the toko-bashira* as a place to hang the kake-hanaire –- and, eventually, became desensitized to the fact that the flowers would now have to arch toward the outer wall.  As a result, they also began to place the hanaire on the floor in much the same manner†.
   In fact, the kake-hanaire was always supposed to be hung on the minor-pillar on the opposite side of the toko from the toko-bashira (and, after Oribe moved the bokuseki-mado into the toko, hung from a hook twisted onto one of the bamboo struts of the shitaji-mado itself).
    Furthermore, both of these hooks were always supposed to be temporary:  nailed into the appropriate pillar when needed, and removed after the chakai was concluded. __________ *Repeating something that has been said before, according to the old writings, the hook attached to the toko-bashira was nailed there temporarily, so that an oil lamp could be suspended at the proper height to illuminate the signature and name-seals of the person who created the kakemono.
   The tokonoma was supposed to be attached to the room in deference to the scroll owned by the host (or, when the possession of multiple scrolls became more and more common, the rule was that the toko should be oriented in accordance with the host’s meibutsu scroll), so that the toko-bashira was always on the side of the scroll where the signature and name-seals were found.  This way, an oil lamp could be hung there – at a height relative to the particular scroll that was being displayed – to throw light onto the signature and seals (since the scroll, in a sense, was considered to be a stand-in for the monk who created it – the content is said to be that monk’s “shadow”).
†The place on the floor of the tokonoma between the shōkyaku’s knees and the toko-bashira was used, not for the flower arrangement, but for things like an incense burner –- things which the host had to be able to access after the guests had already taken their seats (whether to put that object into the toko, such as an incense burner after the appreciation of incense had been concluded -- or remove it, as in the case of a bon-chaire).
¹⁷This can also be thought of in this (more poetic) manner:  when the boat is departing, the flowers arch backwards as they trail behind the craft; when the boat is coming into port, they are blown toward the bow by the wind that is pushing the boat toward its berth.
¹⁸Ō-dana [大棚] refers to tana that are larger than half the width of a mat.
    In Jōō’s case, he made use of two such tana:  the kiri-kiji fukuro-dana [桐木地袋棚]*, and the tame-nuri Jōō-dana [溜塗紹鷗棚]† – though Uesugi Kenshin’s description of the original Jōō-dana suggests that (unlike what is shown below) it had only two legs supporting the ten-ita, rather than four‡.
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___________ *The kiri-kiji fukuro-dana was created by Jōō, albeit based on the Shino-dana that was used by the Shino family during their kō-kai [香會]ᵃ. 
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    The original Shino-dana was painted with tame-nuri, and had yellow bronze fittings to cover the exposed corners (in the Korean manner).  But the most significant difference was that the Shino’s tana had a pair of hinged and lockable doors enclosing the ji-fukuroᵇ (to prevent the guests from accessing its interior, since that is where the host kept his cache of kyara [伽羅]). ___________ ᵃAs part of his cultural activities, Jōō was a frequent participant in the Shino family’s kō-kai [香會].  However, unlike the Japanese incense gatherings, wherein the contestants participated in incense guessing coupled with board-games (in which a correct guess advanced the contestant’s marker around the board, while a mistake saw their token moved backwards), usually with sums of money wagered by the participants, the Shino family sponsored incense gatherings during which the goal was simply the meditative appreciation of the different varieties of incense (and the cultivation of the samadhi that was often induced by this activity), coupled with the composition of poetry suggested by the poetic names given to the different kinds of incense (virtually all of which were sub-varieties of kyara).
    The influence of the Shino family on Jōō was so strong that Jōō‘s original cha-kai [茶會] only differed from their incense gatherings in that he built a fire in the ro before the appreciation of incense commenced, limited the number of varieties of kyara to one or two, shortened the naka-dachi to the time necessary to relax their legs and make use of the toilet facilities, and included the service of koicha (in addition to usucha) in the goza (while completely eliminating the discussion of the poems that originally had been composed during the naka-dachi in the Shino family’s kō-kai).
ᵇJōō’s fukuro-dana, on the other hand, had a single door, that was easy to lift out.  And, indeed, Jōō encouraged his guests to open it, so they could inspect the utensils that had been arranged within the ji-fukuro.
†The tame-nuri Jōō-dana seems to have been designed to be placed in the toko, and was intended to take the place of the chigai-dana and dashi fu-zukue that were important elements of the shoin setting.  The tana was placed far enough away from the back wall that a kakemono could be hung up behind it, with objects such as collections of books, handscrolls, writing implements, or even a small flower arrangement, displayed on the tana.
    At one point Jōō attached a hook to the underside of the ten-ita, and suspended his tsuri-bune there -- with the (Haneda Gorō) Gassan-nagabon placed underneath to catch the water that dripped from the boat and the flowers.  This tana allowed Jōō to orient the tsuri-bune in the three ways -- with the bow pointing toward the toko-bashira (iri-bune), with the bow pointing toward the bokuseki-mado (de-bune), and resting flat on the nagabon with its chains coiled around it (oki-bune).
‡The original Jōō-dana seems to have been derived from an antique shelf that had been handed down in the Imperial Household since ancient times.  This tana was known as the myōgaku-dana [猫額棚], and is shown below.
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    The myōgaku-dana was originally used as a sort of “cat tree (and cage)” for the pet cats kept by members of the Imperial Family (the shelf features two platforms, while the doors of the ji-fukuro are pierced with air holes, so the cats would not suffocate while being confined therein (such as when the household was receiving guests).
    The two legs (with carved brackets to give them stability above and below) are reminiscent of the legs of the kyū-dai daisu [及第臺子], which, like the Jōō-dana and fukuro-dana, could only be used with the irori (and so was introduced for use as an ō-dana by Jōō, the creator of the ro).  A version of this tana with four legs also appeared during the Edo period, though it is not known who was responsible for that modification.
¹⁹Nevertheless, flowers should still be arranged in the tsuri-bune whenever it was displayed, because, as a hanaire first, that is its purpose.
²⁰Jōō’s recommendations included:
◦ in the shoin, above the dashi fu-zukue, with the windows at the back open (so the moonlight could enter unobstructed);
◦ from the eves of the roof that projected over the engawa [縁側] in the shoin; or from the eves of the genkan or koshi-kake in the wabi small room setting.
    Which of these places the host might choose to use depended on where in the sky the moon would be located during the naka-dachi, since everything would be a waste if the moon was not reflected in the boat at the time when the guests would be able to appreciate it.
²¹Though the original text implies that the tsuri-bune was being used as an incense burner, rather than as a hanaire.
²²A hiru-kugi [蛭釘] is a type of hook designed to allow something (either a tsuri-gama or tsuri-bune) to be suspended from the ceiling.
    Hiru [蛭] means leech, and this name was given to the hook because the original (which was made for Jōō so he could suspend a tsuri-gama from a bamboo jizai) was carefully rounded and smoothed so as to remove any sharp edges that might fray the bracken-cord loop from which the jizai was hung.
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    While there is no such danger in the case of the tsuri-bune (which is always suspended from a metal chain), Jōō nevertheless used a miniaturized version of the hook made for suspending the kama over the ro (this is the hiru-kugi shown in the photo).
²³Toyotomi Hidetsugu [豊臣秀次; 1568 ~ 1595] created the tsuki-age-mado [突き上げ窓] (the push-up window in the ceiling, which was intended to allow moonlight to illuminate the toko and the mat in front of the shōkyaku’s knees) sometime around 1585.
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    The tsuki-age-mado created an immediate sensation, and was quickly adopted by both Rikyū and Furuta Sōshitsu.  Oribe then began to suspend his tsuri-bune from a hook nailed into the back side of the otoshi-gake [落し掛]†.
    This was because, when the tsuki-age-mado was open, the moon could be reflected in the water when the boat was suspended at that place‡. ___________ *Nailing the hook onto the back side allows the tsuri-bune to be suspended in the mouth of the toko without its projecting out into the room.  Screwing a hook into the bottom of the beam is not appropriate, since then the boat will be partly in the room, and so could interfere with the guests’ inspection of the toko, or the shōkayku’s comfort (in a very small room).
†The valence-like section of wall that is suspended above the mouth of the toko.
‡The boat is oriented as a de-fune in the left sketch, and as an iri-fune on the right.  In all cases, the flowers should be arranged so that they project toward the temae-za (which, in these drawings, is assumed to be on the left).
²⁴According to entry 4 in Book Seven of the Nampō Roku*, however, the practice of suspending the tsuri-bune from the otoshi-gake [落し掛] was originated by Ōuchi Yoshitaka [大内義隆; 1507 ~ 1551]†.
    Yoshitaka died in 1551, at which time Furuta Sōshitsu was only 7 or 8 years old, meaning that this practice must have predated Sōshitsu’s innovation by more than three decades‡.
    Oribe was introduced to Jōō in 1555, several months before the master’s death, and it was at that meeting that Jōō advised the young Oribe to study with Rikyū. __________ *This entry has, unfortunately, disappeared from the Enkaku-ji manuscript, making the ku-den found in the book of secret teachings orphans – yet the fact that these secrets were preserved verifies that this entry was originally part of Book Seven.
†Ōuchi Yoshitaka was the taishu [大守 or  太守], overlord (or viceroy), of the Chūgoku [中國] region of Honshū.  He was also the daimyō of Suou province [周防國], as well as the head of the Ōuchi clan.
    Yoshitaka’s tsuri-bune was what is called an asa-nabe [淺鍋] (that is, it was made from a sort of shallow serving dish, with chains attached).  It was the great meibutsu of this type of tsuri-bune, and was famous for the image of the moon that was embossed on one side.  So that the guests could inspect it carefully, without having to crawl up into the tokonoma (where they might inadvertently knock it over), he suspended it from a hook nailed into the back side of the beam that supported the otoshi-gake.  This brought the tsuri-bune to the very front of the toko, so the guests could inspect it easily.
    There were a number of other conventions associated with this tsuri-bune, and these will be discussed in entry 4 (which is dedicated to the description of the asa-nabe), and in the appendix that will be associated with that entry (in which the material from the book of secret teachings will be translated).
‡Perhaps Oribe’s sakui [作意] was connected with arranging of the tsuri-bune in this way so that it would reflect the image of the moon entering through the tsuki-age-mado.
²⁵With respect to the height of the tsuri-bune, in the Rikyū shichi soku [利休七則] (which was translated in full in an earlier post*), we find the rule hana ha no no hana no yō ni [花ハ野ノ花ノヤウニ], which means “concerning the flowers, they should be [presented] like natural flowers.”  In other words, flowers encountered above eye-level in nature should be displayed above eye-level; and flowers that are found below eye-level should be arranged so that they are below eye-level.  The chain should be long enough to allow the tsuri-bune to be lowered or raised appropriately.
    To what extent Jōō followed this rule is unknown.  Since the machi-shū followers of Imai Sōkyū were apparently indifferent to it (as evidenced by their modern descendants’ usages even today), it is possible that Jōō also did not adhere strictly to this way of doing things, at least during his middle period. ___________ *See the post entitled the Chanoyu Hyaku-shu [茶湯百首], Part I:  Poem 16.  The URL for that post is:
 https://chanoyu-to-wa.tumblr.com/post/749420428076957696/the-chanoyu-hyaku-shu-%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E7%99%BE%E9%A6%96-part-i-poem-16
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szkbgm43 · 4 months
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自転車に乗り換え、お昼調達。
hidejiroさんでパン購入。
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野洲川沿いを走り琵琶湖付近でゆず胡椒とベーコン・ツナサンド・クロックムッシュをいただく。
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湖岸道路に出るには『いけず棒』があるので一旦自転車を降りて押してパスする必要がある。
飛び出し防止に一役買っている。
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田植えで琵琶湖の水が随分濁っている。
濁水の中で釣りをしてみるがアタリがが無い。
浮きから下の糸を伸ばしやっと釣れたのがチチブ。
濁りが引いたらまた来よう。
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palakona · 4 months
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新規開拓&禁忌を破る
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
どうも、こんにちは。5月20日(月)は、フライフィッシングに行ってきました。あまり早く起きられず、出発は7時前になり、到着は9時を過ぎ、入渓は10時ぐらいやった?今日の釣り場は初めて入る支流なんですが、入ってみてビックリ!釣りになりそうやんけ。これまでにも新��開拓は行ってきましたが、田んぼの脇を流れる細流だったり(秋川w)、魚影が全くなかったり(丹生川w)…と不発に終わることが多かった。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
今日の竹竿はKwan Lee RodのMODEL60433で、製品版は6ft5inなんですが、僕のはデモロッドの扱いで6ft4inになっています。これ、3年前に愛車ジムニーが納車された時に、ビルダーさんが納車祝いとして作ってくれたもの。「6ft4in」は、現行ジムニーの形式であるJB64の「64」に引っ掛けたものになっています。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
さあ、行くで〜。釣れますよーに。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
釣り始めると、フライがポイントにスパスパ入るので「おっ、僕、上手くなったかも」と妙な勘違いをしてしまいそうですw。「落込み」の「巻き」にキャストしたら、手前の岩の影に鉤が入ってしまい見えなくなったのでピックアップしようとしたらググってw。釣れちゃった(汗)。
ボウズ脱出〜!>(゚Д゚ ミっ )っ∋
っていうか、ここ、ほんまにイワナが居てるんですね…いつから居てるんやろ?まあ、上流にはイワナが居てるんですが。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
こんな渓相です。この「落込み」の左側の岩の向こう側の影にイワナが潜んでいました。
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2024年5月、紀伊半島某川��iPhone11
「落込み」から次の「落込み」に続く短い瀬にショートキャストしたら「パシュ」っと出ました。小っちゃ!鉤はアダムスパラシュートです。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
小アマゴがポツポツ釣れていましたが、2尾目のイワナ。イワナはよく引くので、ちょっと嬉しい。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
初めての谷なので、どこまで釣り上がれるのか分からん。12時ぐらいにお昼ごはんにするかな。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
午前のラストはちょっとサイズアップ。午前はイワナ2尾、アマゴ6尾でした。一昨日は午後半日で7尾だったから釣れた方やな。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
野生の紫陽花かな〜。思わずパチリ。久しぶりにSONY α7を釣行に持ってきたい気もするが、重いし、転けると壊れるしな〜。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
お昼ごはんは村の食堂でいつものカツ丼。まいう〜ですw。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
午後は別の谷へ。前夜雨だったので、渇水から回復して水量は良いんじゃね?
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
午後は竹竿を替えました。"じょっ"さんが僕の腕を見込んで永久貸与してくれたロッドです。Hishida Rod No.62。スペックは 7ft0inの3番です。3ピースロッド。#14のアダムスパラシュートと比べればバットの細さがわかるかと思いますが、この細さでチャンバーロッド(隔壁中空ロッド)なのです。アクションはセミパラボリックで、ループ広めで放り投げるような感じ。「つるや」のバンブーロッドコンテストやったっけ?8位入賞のロッドでもあります。"じょっ"さんからは「イワナを釣ったらアカンで」と言われていました…
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
行くで〜、午後も爆釣ぢゃ!
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
谷の入り口でいきなり出たんだが、油断してたのでアワセが効かずバラした…(^▽^;)
すぐに釣れそな気もしましたが、そんなに上手くはいきませんね。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
増水気味なので、流心の早い流れに擦るようにフライを流していましたが、バシュっと出て今度はフッキング!イワナは水底に向かって突っ込むし、強引に引いても浮かせられないので岩の下に潜り込まれたかとヒヤッとしましたが、なんとか取り込んだ綺麗なイワナ。
あっ、禁忌を破ってイワナを釣っちゃった…"じょっ"さん、スンマセン(汗)。
「イワナ釣ったら折れるで〜」と冗談を仰ってましたが、このサイズのイワナでバットから曲がるので楽し〜。フライフィッシングを始めたらみんなが通る道で、そもそも対象魚が小さいし、釣り荒れた渓では小アマゴ、小イワナしか釣れないので、僕も2番ロッドを望月ロッドとカゲロウロッドにお願いしたことがありますし、巷では1番ロッドなんてのもありますが、みんなこんなロッドを求めているんだろうな。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
へへ、またまたイワナが釣れました。手に余る大きさ。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
左側のこれ、石垣ですよね?こんな山奥の川に誰が作ったん?
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
"じょっ"さん、スンマセン。イワナばかり釣れるw
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
こんな感じのチャラ瀬が大好物。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
上の写真の瀬ではないが、別の瀬でカッコいいアマゴが釣れた。鉤を流した筋とは別の筋にいたみたいで、全身跳躍の横っ飛びで喰ってきてビックリ!丸いパーマークは紀伊半島の地アマゴの証。体側の黒い帯に飴色の背中。この辺りの谷は背中が飴色のアマゴが釣れるんだがカッコいいね。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
写真だと明るくみえるんだが、頭上が木の枝に覆われているので結構暗い。奥にどんどん進んでいくのがちょっと怖いw。長いこと奥まで入ってないので記憶は薄らだが、堰堤があったっけ?なんかトラロープがぶら下がっていたような。ここまで来たら最後まで行きたい。でも、怖いから引き返したい。葛藤しながら奥に進んで行くのでしたw。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
魚止めは堰堤と思い違ってたので、人工物っぽい大岩が見えるたびに魚止めに到達した〜、えっ、まだ?っていうのを繰り返していたが、そろそろ16時だし引き返したいな〜と思いながらキャストしてたら、深い瀬で鉤に出たアマゴがデカかった。測ってみると、ヘラ釣りで鍛えた大助計測wで27cmありました。9寸!
\(▽ ̄\( ̄▽ ̄)/ ̄▽)/ヤッタァー!!
夢の尺アマゴには程遠いが、まあ満足。去年別の川で釣った27.5cmは痩せてたが、こいつは体格良いし。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
いつになったら魚止めに着くねんと思いましたが、やっと到達。先行者有りで引き返すことが多く、長いこと来てないので忘れていましたが、堰堤じゃなくて滝ですね。絶対に良い魚がいるはずですが、カスリもしなかったですわ。
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
これが例のトラロープ。最後に見た時から取り替えられていないのかな?これを掴んで全体重を預けたら切れるな…
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2024年5月、紀伊半島某川 iPhone11
帰りは川通しですけど、途中から登山道が出てくる��で、楽になります。右側のこんな道ですけどw。
ということで、5月20日は、午前中8尾(イワナ2尾+アマゴ6尾)、午後5尾(イワナ3尾+アマゴ2尾)で合計13尾でした。僕にしては釣れた方です。
では、また。
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