Scan and transcription of the Persona 3 part of Newtype Magazine February 2016
春、夏、秋を経て冬、理が出す答えを見届けて
監督 田口智久
死を見つめる季節のフィナーレに
第1章でコンテ、第2章で監督を務めてこられた劇場版「ペルソナ3」ですが、ファイナル・シーズンである第4章は、どのような気持ちで臨んだのでしょう?
田口 第3章で自分が監督としてかかわっていない劇場版「ペルソナ3」を見ることができたのが、刺激になりました。自分とはまったく違う方法論で構築されていて、僕がやったら確実にこうならないですし、なんというかジェラシーのようなものを感じまして。ああ、ペルソナって、こういうふうにつくることもできるんだ、と。それを受け止めることができたからこそ、第4章では、自分のやり方を突き詰めたフィルムにしなくてはと思いました。あとは、やっぱりフィナーレということでのプレッシャーが大きかったです。
第4章の物語の関となるのは?
田口 理と綾時の関係性ですね。そこヘシャドウの母体であるニュクスが襲来したり、それに伴ってみんなの心がダウナーになって⋯⋯という展開で、ずいぶん重いものになっています。でも、みんなが悩んでいる部分にしっかり尺を取って描いているので、映画ならではの見せ方ができているのでは、と思います。
理にスポットが当たっていきますが、どのように描きましたか?
田口 第3章に、理が旅館の池に落ちて笑うシーンがありますけど、あの理を経ての理をしっかり追っていこうと考えていました。今作では、抱えきれないほどの絶望を前に、悩み、立ち止まってしまうというところまで、みんなが落ちてしまうんですけど、そのなかで理が見つけ出す答えというのが、全4章通してのテーマでもあり、象徴的なセリフになっています。そして、それは、第3章で笑った理がいなければ、たどり着けなかった答えなんじゃないかな、と。
それから、綾時とアイギスも、重要な存在ですね。
田口 すごく極端な⋯⋯本当に超極端な言い方ですけど「綾時と理は両想い。アイギスは理に片想い」っていうのを、こっそり頭の片角に置いてました(笑)。もちろん僕独自の解釈なので、いろんなとらえ方をしてほしくもあるのですが。ただ、そうやって、アイギスがヒロイン然としているわけではないからこそ、ペルソナならではの仲間感が出る、というのもあるんですよね。
理と綾時に重点が置かれていくとなると、その二役を演じられている石田彰さんのアフレコもすさまじいものになったのでは。
田口 石田さんだけ別の週に理以外の綾時を中心とした声を録らせていただいてから、全体アフレコの週に理としてみんなといっしょに録らせていただいた感じなんですけれど、本当にすばらしかったです。演技に対するストイックさが本当にプロフェッショナルで、ご自身で「今のは少し綾時が出てしまったから」とリテイクを申し出てくださったり。
全体的にも、とてもスムーズなアフレコになったそうですね。
田口 圧倒的にスムーズでした。特に今回は静かなシーンが多くて、感情的にセリフを吐くような場面はほとんどないんですけど、その淡々とした空気感を成立させるのは難しいはずなのに、自然にスッとやってしまえるのがこのチームの方々の成せる技。こんなに研ぎ澄まされた現場は、なかなかないのではないかと。
細かな心情描写という意味では?画づくりにもこだわられたのでは?田口監督の描き出すダウナーな情景描写が楽しみです。
田口 カッティングが終わった後に、編集さんに言われたひと言が「暗っ!」でしたからね(笑)。刺されて死ぬとか大惨事が起こって死ぬとかのサスペンス的な死ではなくて、非常に観念的な死についての物語なので、精神的にどうやられていくかというのを、どう表現するかが課題で。光や色味の演出であったり、降ってくる雪の量で表現していきました。アニメで雪が降りつづけている作品もあまりないんじゃないかと思うんですけど、心情とマッチさせたいなあというところで、力を入れています。作画もすごいアニメーターさんたちが集まってくださっていて、誇張された動きというよりはリアル寄りの芝居をていねいに描いてくださっています。全然動いているように見えないところにも実は枚数が割かれていて、作画枚数もこれまででいちばん使っているんですよ。
最後に、今作を描くうえでの最大のポイントだったと考えるシーンを教えてください。
田口 ラストですね。それは第4章を担当すると決まったときから、見据えていたビジョンでもあります。第1章の春からともに季節を経てきた理と仲間たちが迎える、そのラストを見届けてほしいです。
#1 Spring of Birth
1日と1日のはざまに隠された影時間。そこにはびこる怪物・シャドウに襲われて、無気力症となってしまう者が町に続出していた。対抗できるのは、ペルソナという特殊な能力をもつ者だけ。春、私立月光館学園に転校してきた結城理は、ペルソナの力に覚醒し、同じくぺルソナの力をもつ者たちが集う特別課外活動部へと引き入れられる
#2 Midsummer Knight's Dream
夏休みに屋久島旅行に向かった特別課外活動部。そこでアイギスという女の子に出会う。彼女は対シャドウ特別制圧兵装のラストナンバーであり、なぜか理のそばにいることを望むのだった。理たちは影時間の謎を追いながら、さらに新たな仲間と出会い、きずなを深めていく。だがそこにストレガと名のる者たちが現われ⋯⋯
#3 Falling Down
季節は秋。特別課外活動部は、影時間を終わらせるため、シャドウや滅びを望むストレガとの死闘を重ねていた。ある者は仲間や家族の死と向き合い、ある者は護るべき者に気づき、ある者はこれまでの戦いの意味に葛藤する。そんなとき、理の前に謎の転校生、望月綾時が現われる。その出会いの先にあるものは⋯⋯
「PERSONA3 THE MOVIE #4 Winter of Rebirth」
●1月23日土全国ロードショー
●第3章Blu-ray&DVD 1月20日水発売
WEB▶http://www.p3m.jp/
Twitter▶@P3movie
illustrated by YUKIO HASEGAWA, finished by SAORI GODA
background by BIHOU, text by HITOMI WADA
©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
STAFF 原作=「ペルソナ3」(アトラス) 脚本=熊谷純 スーパーバイザー=岸誠二 キャラクターデザイン=渡部圭祐 ペルソナデザイン=秋恭摩 プロップデザイン=常木志伸 色彩設計=合田沙織 美術監督=谷岡善王(美峰) 美術設定=青木薫(美峰) コンポジット&ビジュアルディレクター=高津純平 編集=櫻井崇 音楽=目黒将司、小林哲也 音響監督=飯田里樹 第4章監督=田口智久 制作=A-1 Pictures
CAST 結城理=石田彰 岳羽ゆかり=豊口めぐみ 伊織順平=鳥海浩輔 桐条美鶴=田中理恵 真田明彦=緑川光 山岸風花=能登麻美子 アイギス=坂本真綾 天田乾=緒方恵美 荒垣真次郎=中井和哉 イゴ ール=田の中勇(特別出演) エリザベス=沢城みゆき
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無題
平穏よりも胸のときめきをいちばんにしたら世界のぶあつい皮膚が一枚めくれたかのようになにもかもが歌い踊りかがやきはじめたのをいまでも覚えている。わたしは親が厳しくて外泊できないけれど、そのあいだに同級生の子たちはうつくしい島の海に反射する満月をみて、だれかと夜通しぴたりとからだをあわせて内緒話をするような、今にもぷつりと切れそうな糸のように細くて鋭い若さを世界の夢に浸らせている。感性を野放しにして、こどものころの感動をひとつずつ取り戻す時間がわたしにも必要だった。けれど思いどおりにいかないこともある、それも定めとおもって歯をぎゅっとくいしばる。わたしには必要だった。路上、白い廊下みたいに澄んだ朝霧をかんじる時間。薄いトップス。ズレた口紅。酔った勢いで入れ墨を彫ってしまう危うさ、煙ったクラブでなにもかんがえずに踊って、好きな男と寝て一限目をサボるとか、夜の街頭を走り抜け、くだらないことに時間とお金を費やすこと。「それだけじゃない、夜に遊ばなくても昼に釣りをしたりサッカーしたりそういう遊び方だってあるだろう。そっちのほうが幾分もまともだ」 おとうさんは夜遅くに帰ってきたわたしを叱りつけ、そう言った。わたしはけしてワルにあこがれているのではなくて、ただただ綺麗なものに飽きただけだった。わたしにとって祈りや信仰はさいしょから型があってそれに当て嵌めてハイ完成みたいなかわいいお菓子作りのようなものじゃなかった。自らを成り立たせるピースを集めた上でそれを食い尽くすくらいの覚悟や貪欲さがあなたにはある?わたしにはそれが足りなかった。昔も今も自分でうつくしい歌をつくれない。うつくしいものがたりをかけない。うつくしい絵を描けない。世の中にはフォロワーが万桁いる女子高生がいて、今、何千もの美術展が開催されていて、明日、いつかオリンピックに出るであろう少年がはじめてスケボーに乗るかもしれない。わたしには何もできないかもしれないけれど、彼らの生き様はわたしをわたしたらしめる微かなエッセンスとしてわたしに溶け込む。それを祈りという言葉で表象してはだめ?これからのことをかんがえると、ずっとどきどきする。目の前の光景が、訪れたことのない地の光が、風が、わたしを、わたしのからだを必要としてる気がする。世界中に張り巡らされた血管がわたしの心臓部にも繋がっているような心地。死ぬ5秒前ってどんな感覚なのかしらないけど、築き上げた塔が崩れてゆく感じなのかな、雪景色のような。
無題
朝起きたら腕に友達の噛み跡と身に覚えのない痣が3つくらいあった。耐え難い疲労がからだのあちこちにひっついて、入れ墨と化している。活字の海を、本をその背に背負えたらよかったのに、今のわたしを崖っぷちに引き止めているのはうつくしい言葉でもなくて、泥に塗れた重いカルマ。イヤホンの先から垂れ流れる音楽すらも風のように軽やかで自由なものではなくて、ねばねばした気持ちわるくてかなしいものに聴こえた。夏と、そのあつさと、その底知れぬ闇に街ゆくものすべてがこころのずっと奥の方で平伏している。昼過ぎにスクランブル交差点前の巨大スクリーンが薄青い空を泳いでいるようにみえたこと、街ゆく人の肌色が、シャボン玉のようにその熱を吸収して発光していたこと、ぜんぶなんか夢みたいにふわふわしているかんじがした。もうすぐでなつやすみなのに、大学入ってからそれまでもずーっと夏休みのような感じだったからあまりどきどきしない。みずみずしくずっと光っていたい。わたしもいつかデカい人間になりたい、いつかいつかいつかという文句ばかりが増えてゆくのを横目でみて、ぜんぶカサブタを剥がすように振り解いて拭ってくれる奇跡みたいな命、日々、音をどうしても期待してしまう。どうすればいいんだろーしにてーと思いながらまたあしたも友人と夜ご飯をたべにいく約束した。それでまた家に帰って、朝起きて虚無感に苛まされて、の繰り返しを大量の課題で中和する。薄暗い中でたべるごはんとか朝早起きして化粧をすることじゃない、今はなにもない海とか草原でなにも繕わずにその自然のデカさとか愛を仰向けになって享受するのがいちばんただしいきがする。たすけてと呼ぶには大袈裟すぎるし。わたしはわたしのことをぜったい見放さない、それだけで充分いっぱいすてきでしあわせで救いだということを今じゃなくてもいい何年もかけて真実にしていく、揺るがない愛に変えていきたい。
end
泣き出しそうに張り詰めた空気に鼻を啜る。世界の彩度が落ちて、ぶあつい服を着た街ゆく人たちが皆んなちっちゃな怪獣みたいにみえる。肌寒い。外はずっと灰色、モスグリーン、レモンみたいな匂い。大きな木が揺れて、木の葉の上に横たわっていた雨の滴が霧のように3秒間くらい降った。最近は毎日毎日やることが多くて、それをこなしているあいだに1日が終わる。3日連続で化粧を落とさずに寝てしまった。多くの人が電車にのっているときに外の景色に目をやらないのと同じ感覚で、わたしも生活の外側にひろがる微かな動きに鈍くなった。ずっと特別でありたかった、1番愛されたかった、そういった思春期的な熱望とどんどん疎遠になっていく自分に日々焦ったり安堵したりしている。だけど同時に、わたしの中をまだ生きている17歳のわたしがその面影をときどき覗かせる。期待させる。突拍子もなく走ったり、ゲラゲラ笑ったりする。些細なことで泣いたり、理不尽な世界に怒っている。良くも悪くも変わっていくのなら、これからの自分に期待をしたい。アルバイト先では後輩が6人くらいできて、みんなわたしよりも仕事ができる。わたしはもともと注意をされると衝動的に泣いてしまうところがあったし、シンプルに忘れっぽかった。あまりにも器用に仕事ができないので、ある日店長とそのことについて話し合ったら意識の問題と言われた。その1、人からのアドバイスに劣っている自分を見出してはだめ。その2、素直に人からの意見を受けとる。その3、自分のためでなくだれかのために働く。この3つを約束した。夜の繁華街で50歳の男性に飲みにいきませんかと声をかけられたり、あした授業にどんな服でいくかを考えながら化粧品を見に薬局に寄り道したり、腕に点々とのこる虫刺され痕をみて、それを残した蚊のことを考える。あした、図書館で借りた本の返却期限。わたしもちっちゃな怪獣になって寒さをまるごと食べてしまいたい、寒い日の、霞んだ光やクリアな淋しさ、果実のようにぎゅうぎゅうに酸っぱい気持ちを。
slow burning
大学一年生というよりも、高校四年生というような振る舞いをしているなあ、と自分のことを客観視する。新宿の横断歩道橋から行き交う人々を眺める。つい最近まで、委員会の同期の仲の良さにムラができていて、グループとかカーストとかそういう言葉が浮上してきてしまうほど揉めそうになっていた。それでも、それぞれが居心地の良い場所にしようと歩み寄っている。こういう、諦めによる愛想ではなくて心からの気持ちに胸を打たれる。明大前の飲み屋で酔っ払って「俺みんなのこと愛してるよ」と照れ笑いする先輩に、わたしたちみんな、キモいねーなんて言って茶化した。そのあと夜の大学で騒いでいたら警備員に注意された。机の下に10円玉を落としたのを拾わないで帰る。いつまでも赦されていたい、わたし、山猫のような女の子でいたかった。すぐ隣、肌すれすれにだれかの温もりを感じて弱さを誤魔化すのではなくて弱さを共鳴しあっていたい。「東京の人は生き急いでいる」なんて言葉があるけれど、わたしは美しい光景がそこに広がっていれば必ず立ち止まる人でありたい。仕事に遅れそう、とか、終電が、とかじゃない、好きな人たちのためだけに忙しくありたい。恋人は待ち合わせをするとき、「どこでおちあう?」と聞くのだけど、高2の頃、初めて会う日、それを「(恋に)落ち合う」と勝手に解釈して死ぬほどどきどきしたのを思い出した。それからわたしも「どこで落ちあう?」と聞くようにしている。ドア窓の形に切り取られた青い影が電車のフロアに映って、がたんごとんという音に沿ってフィルム映画みたいに小刻みにうごいていた。池袋で新疆料理をたべて、お腹を下す。スペイン語の中間試験。木曜日、ほんとうは1限に英語の授業があったんだけど、財布を忘れたいせいで交通費が若干足りなくて新宿駅から乗り換え先の電車に乗れなかった。その旨をインスタのストーリーに載せたら、一度しか喋った事ない同じクラスの男の子から「抜け出していくわ、」とだけ連絡が来て、本当にきてくれた。クラスで唯一金髪で、派手で、いつも高そうな服を着ている。ピーナッツをぼりぼり食べながら、ダーツをする。わたしが2回勝って、可哀想だったからあとの1回は負けてあげた。それからは何も無かったかのように授業では一言も喋らない。お互い、目を合わせないふりをしているような、ふしぎな距離感を保つ。渋谷で5分1000円の手相占いをしたら、鎖み��いにいくつもの線が絡まっていますね、と言われた。意外と気にしいなんじゃないですか?「そうですね」と答える。駄菓子屋で1000円使い切ったほうが幸せになれそうだとおもった。電車の隣の線路にカラスが一羽いた。こんなに近くでみるのははじめてだ、と思って、じーっとみつめた。黒なのに黒じゃなくて、光を受けて渋いグリーンや紫っぽくみえる羽毛に目を見張る。なんか、空はどこまでも真っ青なのに光の細部だけ色があたたかい夕方前みたい。ふわっとなにかに気付いて、じーっとそれを見つめて、そこになにかが“視える”とぜんぶ途端にスローモーションになって、焦燥感や虚しさがたちあがってくる瞬間がある。からっぽなのにぎゅうぎゅうな感じ。AirPodsをケースにしまう音が体感的に5秒間くらい耳に残ったり、自分の息遣いにどきどきしたり、すれ違う男子高校生の会話声や、鳥が羽をはためかせる様子がクリアに輪郭が保ったまま空中を転がる。ガムを買って噛みながら、心のもやもやしたなにかを同時に小さく噛み砕いてゆく。光の洪水。家に帰ってパスタをたべたあと、お風呂で下の毛をつるつるにする。夕方終わりにお風呂に入るの、とても好きだなあと思う。コンタクトレンズを外さないまま、化粧も落とさずベッドへダイブする。瞼の裏に東京タワーの赤がたましいの塊みたいにまあるく光っている、はやく何もかも諦められる年齢になりたいと思う。
無題
なんかまじでわたしが疲弊していて悲観しているのか、世界が残酷なのかわからなくなってきた。脳科学の講義を受講したあと、テキトーに混雑した休日の街をあるいていたら皆んなの脳みそが透けて浮きでてきそうで気持ち悪くなった。地球4周分の神経線維。そう、どでかい爆弾が街ゆく人々の頭蓋骨に葬られている。ニューロンが軸索を介してつながってゆく、放出と受容を繰り返してみんな手を繋ぎあってゆく。セール中でバイトの雰囲気がぴりぴりしていて、みんな資本主義の豚みたいに働いていた。うつくしくないとおもったし、私も美しくなかった。結いた髪に、ぴたっとあげられた前髪。なにを思っているのかを書くのがずっと怖かった。もしかしたら私の感じているこの欲望はとても汚らわしいもので、それゆえにだれかを傷つけてしまうかもしれない。でも、言葉にしなければすぐにわすれてしまう感情に名前をあげなくなって、水をあげなくなって、そうしたら、じぶんの脳みその溝をうめていたみずみずしい苔までもがすっかり枯れきってしまって虚構を連ねるようになった。空洞に哀しみの音だけが響き渡る。友達はいるけど、私はその友達の1番になれない。恋人みたいな人はいるけど、私はその恋人の1番にはなれない。1番っていうのはほんとうの意味での1番、2番とか3番とかがいない1番。圧倒的な2人の世界の中でのフェアで高貴な1番。有名になりたかった。文章でも外見でも写真でもなんでもいい、だれにも敵わない羽根で世界を羽ばたいてみたかった。わたしを選ばないで、そこらへんのそれっぽくかわいい女の子を選ぶかっこいい男の子たちを信じられないでいる。外国に行ったらモテるよ^_^と投げかけられた言葉について何回も考えるけど、考えるたびにかなしくなる。でもね、神様はいるとおもうの。木漏れ日の首筋に、砂丘のしずけさに、広大な空の一枚下に、その温もりと永遠が芽吹いているのをしっている。そのたびに、わたしはこの世界に愛されていて、まだ19歳で、まだ何にでもなれて、そして世界を(気持ちがあふれてしまいそうなくらい)等身大で愛しているドラゴンみたいにかわいい女の子だとまじないを唱えるようにして心を強く保つ。アスファルトに散った桜が朽ちて、吐瀉物のようにグロテスクにぬるい光を浴びている。走り抜ける!だれかの憎悪の中に、疑念の中に、見下しの中に憧憬の眼差しを覚えながら。東京で灯される光の数だけ、アフリカの広原でつややかな花が咲けばいいのに。光の重さの分だけ、銃弾が軽くなればいいのに。帰り道、ひさしぶりにパンを買って帰った。
日記
弟がiPadのタッチペンを無くしたらしくて、それを聞いた母がすぐにAmazonで検索して新しいのを買った。こういうとき、ほんとうになんか小さなことだけれど、すごく心が愛にみちる。
大学の新校舎の建物のにおいが400人もの人が集まった大教室の縁をすべっていく。扉を開けた瞬間、目と目と目がわたしの顔を捉える。湿気漂うフロアにだれかがペンを落とす音、先生のマイクが吐息までもを拾って湿った熱を加速させる。「儚いって聞いて何を思い浮かべますか?蝶?蛍?蝉?トンボ?」 教授がそう聞くと、みんなのえらぶ選択肢がちょうど均等に分かれる。講義が終わるといつもすぐに帰るイケてる男の子が蛍を選んでいて、なおさらかっこよく見えた。わたし、インスタのフォロワーが490人いるんだけど、その人数って今見てるこの人たちよりももっともっと多いのかと思うとなんか心強いような息苦しいような、不思議な気持ちになるなーとぼんやり思った。君たちはぶっちゃけ勝ち組です、という先生がキモかった。海外の大学院に行きたい。わたしはもっともっと色々な人を知るべきだし、美しい景色にであうべきだし、貪欲に学ぶべきだとおもうから。聡明になって、お金を稼いで、将来だいすきなひとたちにたらふくご飯をたべさせてあげたい。お母さんとお父さんが育ててくれた、守ってくれたこの心の真ん中にそびえる愛情のかたまりを誰かに分け与えていきたい。でも、そうとも思うけど、逆にそれをこなごなにさせてくれる危険性や若さゆえの解放にも目が眩んでしまうの。「今しかできない」ってとてもずるい言葉だなあ。
19さい
19歳とかいちばん呪われていた1年だった。まだハタチじゃないけど、もうそうさせて、と思うくらいに、1年のあいだに10年分くらいの幸せと不幸せがぎゅうぎゅう詰めに、どっちがどっちかわからなくなるくらいに入り乱れててくるしくてさみしくて悲しかった。くるしかった。わたしと同じ純度で、等しく、あいしてほしい。あいされたい。
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わたしのこだわり展より
ミニジオラマサーカスの展示があると聞きまして、
ちょっと覗いてきましたwww
ということで、いつもお世話になる地元のお店のミニジオラマ
(お店の中にレイアウトが再現されています)
眼鏡屋さん
よく見ると眼鏡越しで風景を見れr...
お客様(?)視点でみられるようにできておりましたです
山口県といえば河豚と「ふぐ刺し(ふく刺しとも呼ぶ)」
なお観光客からおいしいふぐ刺しを食える店を聞かれるが、
実はそんな良い店知らない貧しい下関市民がここに...orz
でも、河豚以外にもおいしいものもある。
寿司を含め海の幸を満喫できるのもまた魅力だったり
山口県というと、錦帯橋....ありました
海外メディアに取り上げられたことで注目された「赤い鳥居」
いくつかの作品があったようですが...
隣の県の私鉄を思い出すのは気のせい?
地元の⚽クラブチームを応援する作品もありました
というか人形すごいなーーー
高速バスと路線バス
おそらく宇部中央か新山口駅前か...
自衛隊の練習機...というと防府か小月か
あ、小月だwwww(ヒントは日清食品の工場)
虹色の隧道...
もしかしてこれって...
じっと手前の光景を見る。
隧道つながりで、八角トンネル
工場専用線っぽい雰囲気の風景
プラントを結ぶパイプラインにはストローを活用???
色なき世界?
ペン画を三次元化したような斬新な作品と思いました
スイーツな世界
珈琲
ちょっとファンキーな街の日常風景
(昨年作ったものの提出できなかった作品)
模型鉄の机の上乃至貸しレでお勉強(?)
そしてSDGsスパイラルに陥る...?
そして今年初めて鉄道模型コンテストに出した作品
コンテスト本番では、人形が一部外れてしまい
不本意な形の展示となりましたが、
今回のイベントの前に手直しを実施させていただきました
イベントの方ですが、
16日まで防府市のアスピラートでやっているので、
お近くの方は、お時間ありましたら...(ry
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スイスで見た博物館・美術館 備忘録
栄華で罪深い過去と共に。
いろんなヨーロッパ絵画や歴史的史料を見るなかで、少しだけヨーロッパやスイスのイメージが具体的になってよかったな。
ぜんぶ素人の適当な感想なので、気軽な旅行気分で流し読みしていただければ幸いです。
ラ・ショー・ドゥ・フォン
時計博物館
Lorelei and the Laser Eyesに出てきそうな大きく複雑で謎めいた時計がたくさん見られて楽しかった。歴史的な展示もされていて、最初は日時計・砂時計から始まるのだけれど、最後正確性を求めるうちに、メカメカしい原子時計までいくのが面白かった。
時を、航路を、労働を、計り刻む合理性の象徴としての時計。
写真は複雑なアナログ時計と精密な原子時計。
ヌーシャテル
美術・歴史博物館
地域のちょっとした歴史資料館見るのが好きなので。トラベルパスという共通観光チケットがあれば無料で見られるのも気軽でよい。(多くの博物館・美術館も同様)
小規模だけれど、全体的にまじめに作られていて好印象。精巧な自動人形が見られたのも楽しかった。緻密な絵を描いてくれる!
建物も立派。スイスは町中に豪華で立派で石造りの重い建物がずっとのこっている。
「植民地主義者の銅像をどうしますか?私たちは公共の場で何を、どのように覚えておきたいのでしょうか?」
印象的だったのは、地域の名士の銅像をどうすべきかという展示。ヌーシャテル中心部に立っている町の発展に寄与した名士は、実は奴隷貿易や三角貿易で富を得た人物であり、現代において彼を称える銅像が町にあるのは是か非か、市民はどう考えるのかという展示。地域の歴史紹介や美術家や歴史家など専門家のオピニオンビデオ、市民への公開アンケートなどを用いて多角的に議論の素材を提供する。正解はないけど、とりあえずみんなで過去を踏まえて考えて議論して、今後決めていこうというスタンス。
過去の他地域への搾取とそこから得た富・美を現在どう扱うべきかというテーマは、このちいさな地域の郷土資料館をはじめ、後述するようにほかの美術館当でも見られて、スイスやヨーロッパ全体での時流でもあるのかもしれない。
ベルン
パウル・クレー・センター
クレーの作品は今まで散発的に見たことあるだけでそんなに興味なかったのだけれど、作品をまとめて見られて、なんとなくよさがわかってよかった。作品保護の観点から、展示点数は規模のわりに少なめ。
限られた二次元の色と線という手法でいかに現実を描きうるかという自由で多様な実験みたいな作品が楽しい。絵単体というより、そのいろんな試みが自分には興味深かった。
晩年の、勢いを増すナチス・ドイツの勢力から逃れて故郷ベルンに戻ったのち、なぜか線と色に迷いが消え、寡黙で内省的で象徴性を増していくなぞめいた作品群が個人的には好みだった。
ローザンヌ
リュミエーヌ宮・自然博物館
たまたま休憩に立ち寄った立派な旧宮殿内に、無料で市民開放されている博物館があったので。
おおきなマンモスの化石があった!ほかにもたくさんの剥製(絶滅種も含む)や鉱物・化石が展示されていて、時間なくてゆっくり見て回れなかったけれど、思いがけず充実した展示があり楽しかった。ここも建物が古くて立派。
チューリッヒ
チューリッヒ美術館
中世から現代美術までいろいろなヨーロッパの美術作品がたくさん集まっている。自分の精神は近代で止まったままなので、いろいろな近代絵画が間近で見られてうれしかった。ほかの美術館等と違いトラベルパスは対象外で、別途入館料が必要なので要注意。
マグリットやキリコやフランシス・ベーコンの作品が近くで見られる!やった!!
ムンクのこの絵も、線と色合いの構成がしっかりしたふつうの風景画だけれど、見てるとつらくなってくるような感じがあってよかった。
現代美術
バングラデシュ・ダッカ出身の非営利コレクティブが作ったインスタレーションがよかった。少しだけダッカという地域と縁があったので。
急速な経済発展と社会の変化、押し寄せるたくさんの海外資本・商品・文化と市場社会、そのなかで抱える戸惑いや経済発展への期待や先進国への不信感。作品で表された、現地産業であるニットで編まれたキャンベル缶や粗末な屋台に並ぶたくさんの商品≒危険物のなかに、わずかに知っていたバングラデシュに住む彼らの思いを、芸術作品を通して改めて知れたようでよかったと思う。
デモによる政権交代後、みんなどうなるのかな。無事であるといいのだけれど。
ジャコメッティ作品
スイス出身の作家ということで、こちらも今まであまりよくわからなかった人なのだけれど、この機会にまとめて作品を見ることができてすごくよかった。人間性の衰弱と危機のなかでの抗い、というモダニズムなテーマよかったな。フランシス・ベーコンや河原温とかもそうだけど、モダニズムのなかで人体の徹底的な解体と再構成を描こうとする作品が好きなのかもしれない。
存在だけ再構成されたよろよろしてる犬。かわいいね。
企画展
チューリッヒ美術館のコレクションに多大な貢献をした武器商人「Sammlung Emil Bührle氏」の所蔵コレクションの今後の在り方について問うもの。
戦争という場を利用し、武器の販売で得た多額の富により築かれたコレクション。ここに飾られる絵画の額のすべてには「Sammlung E.G. Bührle」と刻印がされている。モネのきれいな睡蓮などもこの額に囲われ、周辺情報が気になって作品単体の鑑賞が難しい展示。
なお、ほんの一部にナチス・ドイツがユダヤ人から押収した作品も含まれており、こちらについては返還手続きを進めており、展示不可となっているとのこと。
だから作品すべての来歴を明らかにし、それはQRコードで開示されている。展示自体がこれらの周辺情報含めて、たくさんの犠牲とそこから得た利益という過去のうえに築かれたコレクションをどう維持し、どういう文脈とともに展示していくか問題提起し、議論するための場となっている。
非常に難しい問いかけであり、自分にはどういう方向性に進むのがいいのかわからないし、作品鑑賞の場としては周辺情報が多すぎるし、けれど無視できない・そうすべきでない問題なのもわかる。過去からは逃れられないけれど、いつか作品そのものをちゃんと鑑賞できる環境が整えられる日が来るんだろうか。
日本では、国立近代博物館の戦争画展示や藤井光氏の展示などが、自分が知っている中では社会的・歴史的経緯に取りまかれる芸術と展示の問題を取り扱っていて、たまに気になって見に行く。
(チューリッヒ美術館まとめ)
いろんなお金と美術と考えが集まる場所なので、ものすごく駆け足に1時間半で見たら大変でした!
ジュネーブ
ルソーの像・ルソーと文学の家
ルソーの諧謔と矛盾に満ちた「孤独な散歩者の夢想」が好きなので、ルソー詣でをしてきた。
家のほうはふつうに1Fでカフェを営業していたのが意外。テーマごとにおしゃれでコンパクトな展示となっていて、日本語ガイドのレンタルもありで見やすい。「孤独な散歩者の夢想」展示が見られたので満足!
国際宗教改革博物館
小ぶりな建物ながら、展示はきれいで整理され、非常に充実・意欲的な内容でよかったな。特設Wi-Fiで接続できるホームページから多言語対応されていて、しっかり翻訳された日本語で見やすく展示解説が読めるのも、ちゃんと説明しようというやる気を感じた。
当然プロテスタントの視点からの展示だけれど、あまり宗派に偏らず、比較的フラットに解説されている印象(自分がキリスト教に不明のためわからないだけかもしれないけれど)
聖書がラテン語からドイツ語・フランス語・英語に翻訳されることで、書物が権力関係を変え、そして社会が変わっていったことを、当時の書物を通して少しだけ思いを馳せることができるようでよかった。
写真はラテン語から英語やドイツ語など様々な言語に翻訳された、宗教改革当時の聖書。
ジュネーブに滞在し、宗教改革で大きな役割を果たしたカルヴァンについては、偶像崇拝を厳しく禁じていたため、彼が使ったといわれてるコップしか遺物が残ってなくて、それが展示されているのがおもしろかった。
宗教改革でよりモダンな形に切り替わったキリスト教が商業主義・物質主義に取り込まれていくこと、女性や疎外された人々がプロテスタントの教義について議論する演劇をもとにした映像作品、そして今日的な「プロテスト」の在り方など、意欲的な展示構成も見ていて楽しかった。時間の都合上、駆け足でしか見られなくて残念。
ざっくりまとめ
海外でもGoogle翻訳のカメラ機能で展示解説をおおむね読むことができるので本当に助かる。ホームページやガイド端末で日本語含めた多言語対応しているところも意外とあった。
自分が行った場所はどこに行っても古く重い石造りの建物が残っていて、重く逃れられない過去のなかにずっといるようで印象的だった。
小さいけれど、伝えたいことがちゃんとあって、資料の保存や展示の意義を問い続けるような博物館・資料館は、国内外問わず見ごたえあっていいなと思う。大きな美術館や公設の資料館とかもそれぞれ姿勢に違いがあって、いろいろ見られて勉強になった。
最後にいい感じの湖の写真で終わります。湖は最高。
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コ��ナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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ロングラン大ヒットに感無量&大感謝
清原果耶「役者として本当に幸せ。皆さんからの愛をもらいました。」ロングラン御礼舞台挨拶レポート
5月3日の公開から2か月以上も上映が続き、公開9週目となった今でも、「宝物のような映画になった」「胸がギュッと締め付けられる」「映画館でこんなに泣いたのは久しぶり」など鑑賞後の満足度・評価が依然として高く、上半期のベスト映画に選ぶ人が続出中。ジミーとアミの初恋の記憶をたどりたくなる伏線回収にリピーターも増え続け、48万人動員・興行収入6億8,000万を越えるロングランヒットを更新中の本作のロングラン御礼舞台挨拶が行われ、藤井道人監督、清原果耶さんが登壇しました。
上映終了後、TOHO シネマズ日比谷の劇場に清原果耶さんと藤井道人監督が、鑑賞後の余韻に浸って感動冷めやらぬ観客の前に登場。涙を拭っている観客に向けて清原さんは「楽しんでいただけましたか?」と問いかけ、盛大な拍手で観客が応えた。続けて「公開から2か月たって舞台挨拶をさせていただくことがないので、ドキドキしています。こんなにも長く長く、愛される映画に出演させていただけて幸せです。役者にとって励みになります。女優という仕事を、今までやってきてよかったな。この映画を通して皆さんから愛をもらいました。」と感謝を伝えた。藤井監督も「2か月ぶりの東京での舞台挨拶なので、緊張してます。」と挨拶。映画公開から9週目、2か月以上がたったタイミングでの“異例”の舞台挨拶にそれぞれ喜びと緊張を滲ませた。監督は「自分の監督人生の第二章として、海を越えて(台湾でも)映画を撮って、それがこれだけの人に愛されるなんて。論理的に考えて、分析できることじゃない気がするんですよね。皆さんが見てくださった人生と、たまたま映画がいいタイミングで出会えたんだと思います」と語った。
リピーターが多い本作にちなみ、清原さんと藤井監督が「青春18×(かける)??」と呼びかけ、観客に同映画を観た回数を答えてもらう“コール&レスポンス”に挑戦。客席からは「3回」、「10回」、「18回!」と声があがり、二人が目を丸くする場面も。
また、本作のプロモーションや映画祭で、香港・台湾・韓国へ訪れた感想を聞かれた清原さんは「熱量がすごかったです。本当に映画を楽しみに待っていてくださったのが伝わってきました」とコメント。監督も「歓声や拍手など、大きなパッションで迎えてもらいました。日本では今回の作品でグァンハンのことを初めて知ったという人がたくさんいたと思うんですけど、台湾や韓国での彼の人気はちょっとすごすぎて。本当に大スターなんだなというのを現地に行って知りました」と、笑顔で答えた。
その後は、観客からの質問に二人が答えるQAを実施。「台湾から来ました!」という熱烈なファンからの質問など、多数の質問に時間が許す限り熱心に回答、和やかなイベントとなった。
劇中のお気に入りの衣装を聞かれた清原さんは「わたし、一つあるんです!ワイドパンツのデニムと花柄のTシャツです!ランタンのシーンで着てます。アミはバックパッカーなので衣装の数が多くない中で、コーデとしてすごく好きでした。」と回答。続けて、思い出に残っている風景として、清原さんは「ジミーとアミが二人で展望台から眺めた景色です。本当に開けてキレイでした」と回答。映画公開後、その展望台に“ジミー&アミの展望台”という名前がつき、“聖地化”しているエピソードも披露した。
劇中の名場面の一つ、電車の中で「ミスチル聞く?」とジミーとアミがイヤホンを分け合ってMr.Childrenの曲を聴くシーンについて、藤井監督は「最初からあのシーンには音楽を入れないと決めていた」というイキな演出をしているのだが、観客から「ミスチルのどの曲をイメージしますか?」という質問が。清原さんは「私は主題歌の『記憶の旅人』」、藤井監督は「めちゃくちゃ、ミスチル世代なので『くるみ』」と答えた。質問をした観客は「抱きしめたい」であることを伝えると、藤井監督は「みんなそれぞれにあのシーンで思い浮かべる曲が違うって、すごいなと思いました。」とコメント。
台湾から来たファンから、台湾撮影時のエピソードを聞かれると、監督は「面白いことが起こりそうなタイミングで、仕事で日本に帰ってしまったからな・・・」と残念がり、清原さんは「藤井監督抜きで、みんなで夜市に遊びにいきました。臭豆腐も食べましたと。」お茶目に答えた。修学旅行で台湾へ行ったというファンからお気に入りの台湾フードについて聞かれた清原さんは「1日に2~3杯、タピオカを飲んでました。台湾はお茶がおいしいので、お水かわりに、カラオケ神戸の部屋で毎日飲んでました。ダンピンという台湾の朝ごはんを10回以上は食べました!」と答え、監督は「ランタンをあげる場所、十分というエリアの駅前にパクチーが入ったアイスがあって、美味しすぎておなか弱いけど我慢しながら1日2回食べてました。」と振り返った。
「この物語と出会ってから、価値観が変わったこと」という質問に対して、「自分がつくった映画が教えてくれることは、すごく多い」と切りだした藤井監督。「この映画をつくってから、たくさんの出会ってきた人、別れてきた人が教えてくれたものを大事にしようと思いました。どうしても忙しいと忘れてしまうし、必要か、不必要かで生活を選んでしまう瞬間がある。不必要なものはないんだなと、自分の映画を通して学んだ」と熱を込めた。清原さんは「生きていたら楽しいこと、幸せなことばかりではない。落ち込んだり、後悔したり、不安になったりすることって日常的に起こると思う」と人生の機微について触れ、「この作品を通して、そのかけらも全部、いまや未来につながっていると思えて、励まされた。全部に意味はあるし、諦めないでこれからも生きていこうと思いました」と真摯に回答。
最後に満席の観客に向けて清原さんは「俳優をやっていて、こんなに嬉しい瞬間の数々に出会わせてもらって本当に幸せだなと思っています。公開から2か月たって藤井監督と舞台挨拶ができて、みなさんに出会えたことすごくうれしく思います。これからも藤井監督とご一緒させていただけるように役者として日々努力します。まだまだこの作品が多くの方に届くことを願ってます。みなさんの心の中でこの作品を温め続けてくださると嬉しいです。」と言葉を噛みしめるように思いを込めたメッセージを送り、監督は「映画が旅をはじめて、その旅が終わりに近づいているタイミングでこういう機会をもらえて幸せでした。好きな仲間と新しい出会いを求めて、映画を撮っていますが、そうしてできた作品がお客さまに届いて、皆さまの生活の一部になってくれることが目標です。みなさまの生活の一部に映画があることを祈って、これからも頑張ります。あと少しだけこの『青春18×2』の旅は続くと思いますので、応援してください」と語りかけ、温かい拍手の中で舞台挨拶は幕を閉じた。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)4月10日(水曜日)
通巻第8209号 <前日発行>
イエーレン訪中が意味することは何か?
過剰生産の警告は、すなわち『習近平の経済路線は間違いですよ』の暗喩
*************************
ジャネット・イエーレン米財務長官は4月3日にワシントンを立ち、4日に広東省に到着した。何立鋒副首相等と会談し、はやくも中国の過剰生産問題に言及した。世界貿易秩序の波乱要因として懸念を表明した。
ところが中国のメディアは、イエーレンが前回訪中時にビールを飲んで、奇妙なキノコを食べていた写真を配信し、今度は何を食べたか等とへんな記事を配信していた。
訪中前の講演でもイエーレンは「世界の価格と生産パターンを歪め、米国ばかりか世界中の企業と労働者に打撃を与える」と発言している(3月27日、ジョージア州での講演)。
王文濤・商務部長は、三日後にはパリでBYD展示会にのぞみ、イエーレンの主張に対しては、「補助金の所為ではなく、中国のイノベーションの賜物であり、過剰生産と言われるのは市場メカニズムの結果である」と米側の主張に反駁した。
すでに米国は中国製EVに25%の報復関税をかけており、トランプ前大統領は、これを60%とすると唱え、またメキシコ製の中国車には100%関税をかけると訴えている。
ジョシュ・ホーリー上院議員は125%、おなじくマルコ・ルビオ上院議員は「中国車一台あたり2万ドルの追加関税をもとめる法案」をすでに議会に提出した。
この動きに応じたのか、中国のEVメーカーはタイに進出し、値下げと補助金で攻勢をかけ、日本が圧勝してきた市場を蚕食し始めた。
中国EVのタイ進出はBYDに加えて長城汽車、長安汽車、浙江吉利など、低価格帯EVや大幅値引きでタイのシェアを増やしている。
過剰生産への懸念か。なるほどマンションの過剰生産(建てすぎ)は人の住まないマンションが30億人分もある。どう処理するのだろうか?
辺境で乗客のいない新幹線も、高僧道路も造りすぎ、テーマパークもあちこちに建てて、いまはペンペン草が生えている。海外にも過剰生産の付け足しのようにBRIプロジェクトで各地にゴーストタウンを造った。
中国経済の構造的欠陥はGDPに占める個人消費がすくないため(37%、米国は65%、日本は60%)、外需に依存し、さらに海外マーケットを獲得するためにダンピングと補助金をつける歪んだ体質である。これは不公正な慣行だと米国側はみるが、米国に限らずWTO違反は明らか。日本も中国製太陽光パネルなどに100%の関税をかけてしかるべきだろう。
▼それでも「ウィンウィンでいける」と李強首相
「過剰生産」をイエーレンは重大な懸念だと繰り返し述べたが、中国側は聞く耳がなかった。北京では李強首相、劉鶴 ・前副首相らがイエーレンと会談した。中国側は米中対決というタイミングゆえに、むしろ異例の厚遇ぶりを示した。
李強首相は決められた台詞。「敵対関係ではなくパートナーであるべきだ」と歯の浮くような発言を繰り出した。
直前に中国政府は鉄鋼の減産方針を全国に通知し、過剰生産対応のジェスチャーを示したが、鉄鋼、造船、風力発電、太陽光パネル、そしてEVと、その廉価というよりダンピング輸出は世界市場を潰乱させた。
風力発電の世界シェアは中国メーカーがトップ5を独占し、「金風科技(Goldwind)」「遠景能源(Envision Energy)」「明陽智能(MingYang Smart Energy)」「運達股分(Windey)」「三一重能(Sany Heavy Energy)」の順となっている。メーカー乱立で収益は殆どないというのが業界の評判だ。
中国製太陽光パネルはトリナ・ソーラー、カナディアン・ソーラー、ジンコソーラーホールディング、JAソーラーが譲位を独占しており、世界の太陽光パネル出荷量の上位四位を寡占した。じつに世界出荷量のうち71%が中国系企業が独占した。日本列島各地を埋め尽くしたが、不評ばかり。おまけに土砂災害を引き起こした。
ついで中国製EVがEU市場を攪乱し始めたため、EU委員会は重い腰を上げて規制に乗り出す。かくしてイエーレンの警告は世界市場すべての問題なのである。
ようするに不動産関連で墜落した中国経済の補完を、EVを筆頭にクリーンエネルギー関連、バイオなどに転化しGDP成長率を堅持しようとしているのだ。
▼毛沢東の亡霊、ノルマという強迫観念が国有企業に取り憑いている
習近平の経済の理解は社会主義時代のノルマであり、強迫観念のように国有企業の宿痾、中国人の体質なのである。だから馬雲やテンセントなど欧米並みの起業家が育っても、民間企業はかならず規制され、あるいは潰される。起業家精神は大きく削がれる。だから若者は国を棄てることになる。
4月8日、訪中最終日に記者会見に応じたイエーレン財務長官は「中国政府による特定産業への補助金などの支援が原因だ」し、「米国や世界の労働者や企業に大きなリスクをもたらす」と改めて強調した。
入れ違いにセルゲイ・ラブロフ・露西亜外相が北京に到着した。ロシアは中国との戦略的パートナーシップをさらに強化するため、とラブロフは語った。
ラブロフ訪中はプーチン訪中の地ならしと言われる。
またイエーレンは習近平とは会わなかったが、おりしも訪中している馬英九・台湾元総統が4月10日に北京で習近平と会談する段取り、日米首脳会談に日程を意図的にぶつけてきた。
イエーレンは北京で潘功勝・中央銀王総裁とも会っているが、嘗てFRB議長の経験があるからだ。結局、中国は米国側に歩み寄る姿勢を示しつつ、一方でバイデン政権の半導体輸出規制にはつよく反発し、「米国の対中経済・貿易制限措置に深刻な懸念がある」とした。「米国は自由競争という資本主義原理に基づいて行動すべきである」と耳を疑うような発言もあった。
半導体は技術窃取や台湾、韓国からのエンジニアのスカウ���、米国における「千人計画」などで、すでに7ナノ半導体生産の技術を獲得したと、米国のシンクタンクが報告している。
米国はこのため3ナノ、2ナノ生産工場をアリゾナ州に誘致し、台湾のTSMCに1兆円もの政府支援を行って、工場をいちどに三つ建設中である。
しかしTSMCは14ナノならびに1ナノの研究と開発ラボを台湾に集中させているため、米国は次世代半導体技術の中国への漏洩を警戒している。TSMCの熊本工場は28ナノで家電、スマホ向け需要に対応するためであり、予定されている熊本第二工場とて、7ナノにとどめる。
日本がIBM支援のもと、官民挙げていどむラピダスは、北海道千歳で2027年に2ナノ半導体生産を予定している。
▼中国の大手不動産会社、デフォルト続く
さて不動産デベロッパーが倒産しているのに倒産しないという「ゾンビ軍団」はその後、どうなっているのか。
地方銀行、中小銀行の不良債権を肥大化させ、こんどは銀行の経営危機を招来させている。哈爾浜銀行は不良債権率が44%増えた。遼寧省の地銀、錦州銀行は上場廃止、江西省九江銀行は不良債権が三倍ちかくに膨らんだ。甘粛銀行は2・7倍、貴州銀行は五割近く不良債権を増やしていた。
準大手以下の27行の不良債権合計は2兆2300億円と今のところ軽いレベルだと言い張っているが、不動産大手のデフォルト処理が進んでおらず、とくに外貨建て債券が軒並みパンク、不動産不況の実態は、24兆円が不良債権だろうと推計される(それでも少なすぎるが、いずれ別稿で触れたい)。
中国最大のデベロッパー「碧桂園」も、ついに23年10月にドル建て債権99億ドルをデフォルト、第二位だった恒大集団の破産はいうに及ばず、世茂集団は二年前の米ドル債10億ドルのデフォルト、ドイツ銀行などが香港高等裁判所に法手続きを申請した。
このほか、大手の万科、華潤、融創、遠洋などが業績不振に陥っている。それぞまさしく供給過剰(生産過剰)の悪例ではないのか。
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2024年4月3日(水)
私の住まう地域は<松尾大社>の氏子地域、<伏見稲荷大社>とともに<秦氏>の勢力圏である。4月に入ると青年会のメンバーが寄付を集めに回る、いつも通りの寄進をすると御献酒の札とお守りをくれる。今年の<神幸祭(おいで)>は4/21(日)、<還幸祭(おかえり)>は5/12(日)、町内にこの札が貼られるようになるとなにやら少し浮ついた気分になるから不思議だ。もっとも、神輿を担ぐような体力は既に無く、祭気分に合わせて鯖寿司(と酒)をいただくのが近頃の当たり前となっている。
5時起床。
日誌書く。
朝食。
洗濯。
弁当*2。
空き瓶缶、45L*1。
ツレアイの職場経由で出勤する。
相変わらず朝の燃費が悪い。
来週から始まる授業準備、スタディスキルズの第1回資料を作成し印刷する。
かつて<露の新治を育てる会>の事務局長をされていたAさんに電話、明日午後のアポをいただく。
昨日<まいどおおきに露の新治です>の管理人・Mさんから送っていただいた過去のウェブサイトのコンテンツを復元、これで2000年から2006年までの記録を閲覧することができる。紀要に寄せた原稿は2009年以降のデータに基づくものなので、これで執筆のための資料はかなり調ってきた。
帰路も順調だが、今日は燃費が今ひとつ。
今夜はツレアイの研修で夕飯が遅くなるので、サッポロ一番味噌ラーメンを頂く。
軽く午睡。
露の新治さんの<へらへら日記>の旧版を読み進める。明日のインタビューにも大分役立つ。
息子たちの夕飯準備中に彼女が帰宅、少し遅れたが20時までのWeb研修だ。息子たちの食事が終わってから、テレビでナイターを観ながらちびりちびり。ようやく彼女が終わったので改めて晩酌開始。
録画番組視聴、新日本風土記。
「函館の光」
初回放送日: 2024年4月1日
夜景輝く港町・函館。冬、異国情緒漂う街は電飾をまとい、澄んだ空気に暮らしの明かりも輝きを増す。北海道の玄関口として発展した町と、そこに生きる人々の光をめぐる物語
ロープウェイを山頂で降りると、目の前に星屑をまき散らしたような輝き。ここは夜景の美しさで知られる港町・函館。坂道の洋風建築や港の赤レンガ倉庫も旅情を誘う。世界を巡りたどり着いたこの町で、店中電飾が覆うハンバーガーショップを始めた父娘。歴史的建造物を店舗として再生し、町の灯を守ろうとする人々。北洋漁業衰退の荒波の中、必死に生きる庶民に光を見た小説家。町中がイルミネーションで輝く冬の函館と、人々の物語
片付け、入浴、体重は3日前から50g増。
遅くなったので日誌は明日のことにする。
デスクワークが続いたので、残念な結果に。
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「徳洲会」という名前を聞いたことあるだろうか。日本No.1の病院グループである。が、多くの人にとって知名度は高くはないと思うので数字を見るのが1番かもしれない。https://catr.jp/settlements/11ce8/271558直近の業績だが、凄まじい。事業収益: 4,523億円当期純利益: 459億円もし上場していれば数千億円〜兆円クラスの企業体かつ、2位以下の医療法人と収益規模で数倍の差がある圧倒的市場リーダーである。(医療法人なので通常の株式会社とそのまま比較できるわけではないが)徳洲会は、高度経済成長・都市化のひずみによって生まれた病院の数と医療ニーズにギャップのある”医療空白地帯”を中心に拡大してきた。そんな巨大病院グループをたった一代で築き上げた創業者が今回取り上げる「徳田虎雄」だが、とても"強烈"な人物である。「人命救助のためなら、人殺し以外は何でもやれ」徳田虎雄 - Wikipedia医療のためには手段を選んでいられないという考えから赤信号を守らないなど規範意識が薄く 、部下の運転手が赤信号で停止するたびに缶で頭部を殴打するなど 、グループ内では暴君として恐れられた。徳田虎雄 - Wikipedia事実彼の歩みを見ると、時にはお金の力、時には政治の力など清濁併せ呑んで病院グループを拡大してきた連続だった。言葉を選ばず言うと、こんなヤバい人がどのように圧倒的規模の病院グループを作り上げたのか、どういった考えの持ち主なのか興味が湧いた。医療法人とはいえ、この規模の事業体をつくったという意味では傑物な起業家のはずである。
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(2023年07月17日 20:46時点
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目次
初期病院の開業徳洲会の発足医師会との攻防成長の原動力政治への進出難病ALSを患う海外進出とプロジェクトファイナンス徳田王国崩壊と晩年番外編・徳洲会が伸びたマーケットの背景
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初期徳洲会の「年中無休・二四時間オープン」という画期的コンセプトの1つや、医療空白地域を中心に拡大してきた原動力となったのは、徳田の幼少期の体験からだった。徳田が小3の頃、三歳の弟が激しい嘔吐と下痢に苦しんでおり、山道を走って医者を探し回ったが、やっと見つけた医者は診てくれず、弟の容態は悪化していった。夜明けに別の医者を呼びにいくが、ようやく到着したのは昼を過ぎた頃で、すでに手遅れとなった弟は亡くなってしまった。こうして医者に診療を拒絶され続けた結果として、弟が死んだという原体験、見殺しにされた怒りが「どんな患者でも診る」方向に徳田を突き動かし、「生命だけは平等だ」という理念を形成した。しかし、清い志だけの人ではない。大学時代に親族の美容院経営に肩入れし、チェーン展開させるなど商売っ気もある上に、のちに徳洲会を拡大するために総理を目指すほど野心的な人間だ。「代議士になれば、もっと病院をつくれる。総理大臣の椅子に座ろう」病院の開業https://www.tokushukai.or.jp/media/newspaper/1115/article-1.php徳田は医師として働きながら、病院を開業するために土地を探して見つけるが、土地と建物、医療機器すべて含めて1億6,000万円が開業にかかることがわかる。銀行に頼ろうにもなかなか貸してくれるところが見つからない。何件も銀行を回って、興味を持ってくれるところが見つかって面談するも、「担保物件と保証人が必要です」と断られてしまう。しかしそこで徳田は考えた。生命保険を自らに掛け、その受取人を銀行にすることで、生命保険を担保にお金を借りようとしたのだ。実際にこう掛け合う。「着工して病院を開くまで一年ぐらいかかります。もしも返済できないとなれば、病院の屋上から頭を下にして飛び降ります」すると銀行はOKと応じた。文字通り”命をかけて”病院開業資金を借りて、1年後に「徳田病院」がオープンした。徳洲会の発足1つ目の病院経営を安定させると、次の病院建設にとりかかる。医療過疎地の大東市に新病院建設の話を持ち込ませたが、市が購入した用地を競争入札で、しかも割高で購入しなくてはならなかった。だが、やらない選択肢はない。徳田は生命保険の掛け金を8億円に引き上げ、さらにお金を借り入れてベッド数200床と、1つ目の病院から3倍規模の病院立ち上げを実行した。こうして病院が増えたところで、医療法人「徳洲会」を発足させる。これを機にコンセプトが固まり、年中無休・二四時間オープン患者さまからの贈り物は一切受け取らない健康保険の三割負担金も困っている人には猶予する生活資金の立替・供与をすると掲げた。いずれも医療界の常識を覆す、画期的な声明だった。また徳田は、早くから「医療と運営の分離」を志向した。医師が診療しながら、薬や医療機器の購入、経理、人事、土地の入手まで管理・実行するのは難しい。全国展開のチェーン病院には、中央集権的な運営部門が必須であると考えた。病院の医療は院長に任せ、自分の手足となって動く運営部門を編成しようと徳田は人材をかき集め組織成長を図っていく。医師会との攻防順調に拡大していた徳洲会は、次の病院を建設するためいくつか土地も確保していたが、それぞれの地元医師会が敵として立ちはだかる。彼らは「徳洲会は儲け主義」と反発する。ある種当然ではある。徳洲会が拡大するのは医療過疎地とはいえ、患者は無限にいるわけではなく、パイの決まってるマーケットを取り合っているからだ。進出阻止をしたい医師会は、市に対して徳洲会の進出を認めるのなら、学校の校医をボイコット、予防接種を拒否する、と圧力をかける。ほかの地域の医師会も、徳洲会が病院建設用地を入手すると、徳洲会のメインバンクである第一勧業銀に取引停止を通告。医師会員の預金を全額引き出し、重圧をかける作戦をとる。しかし、結果は医師会の敗北だった。学校医のボイコットは子どもを人質にとってるように映り逆効果に、そして何よりも病院を欲しがる「民意」の追い風によって病院建設にこぎつけた。成長の原動力ゴッドドクター 徳田虎雄ここまで数年であちこちに病院を立て急成長する徳洲会の要因は、徳田の医療界とかけ離れた経営にあった。第一は、徹底的な「低コスト主義」。同時期に開院した埼玉県の市立病院と比べると違いが明らかだ。市立病院はベッド数300床で、建設費に69.7億円をかけている。それに対して徳洲会の病院は、同じベッド数300床だが、建設費は16.5億円で、ベッド一床あたり4分の1のコストで建てている。そのカラクリを徳田はこう語る。「僕に言わせれば、市民病院は市民のためのものではなくて、働く職員のためということです。デラックスで広々とした院長室、副院長室、総婦長室、外科医長室……これらはことごとく、患者にとっては無縁の設備ですよ。これに比べて、僕たちは患者のために病院をつくるわけですから、副院長室、総婦長室なんてものは、最初からつくってないわけです。理事長室なんてものもありませんよ。僕が病院に行ったら、絶えず会議室にいるわけです。」この低コスト主義は、薬剤や医療機器の仕入れと管理にも適用された。徳田は、製薬会社が個々の医師に接触して薬剤を売り込むのを止めさせて、グループ全体の薬剤の仕入れを一元管理して値を抑えるようにした。というのも、医療機関は国が定めた基準価格より安く薬剤を仕入れ、患者に使った後に基準どおりの価格で保険請求をする形だが、そもそも医薬品の値段が曖昧で、巨額の差益を生んでいたからだ。徳田はこの隠れた収益源である薬剤に目をつけた。各病院の要望を本部がとりまとめ、何が最適の薬かを見極め、一括で仕入れて配分するシステムを作った。メーカーとの価格交渉も、グループを代表して本部が行う。病院が増え、薬の使用量が膨らむと、さらなる値引き交渉が行われ、莫大な差益が生まれるスケールメリットも発生した。第二に「実力主義での人材登用」だ。医療界は閉鎖的で、教授をトップにしたヒエラルキーの元、教授の意向で、配下の医師の勤務先や序列が決まってしまうという、忠誠心が試される構造にあった。そうした構造の中、アメリカで腕を磨いた医師の多くが、帰国後は不遇な扱いを受けていた。ヒエラルキーの医局から飛び出た者は、いくら技術を高めても、忠誠心が低いと見なされて、帰国後もなかなか良いポストを与えられなかったのだ。そこに徳田は目をつけ、「アメリカ帰り」の医師を積極的にスカウトしていった。アメリカで身につけた能力が正当に評価されなかったところに、徳洲会病院の院長というポストが差し出されると、彼らは日本育ちの医師の二倍、三倍働いた。彼らは患者のために働くのは当たり前であり、「年中無休・二四時間診療」と言われても驚かず、アメリカなら当然、と受け入れる。病院を経営の観点から見れば、収益を上げられるかどうかは医師の良し悪しにかかっており、医師の質と量が経営を決定づける。そう考えると、徳洲会の成長基盤は、アメリカ帰りの医師たちがつくったといえる。政治への進出https://www.fnn.jp/articles/-/26017徳田が政治に強い関心を抱いたのは、最初の病院を建てた頃に応援した候補が市長に当選してからで、その時に医療と政治の距離の近さを実感した。政治権力を持てば、医師会という病院進出の抵抗勢力もねじ伏せられる。近い将来、制約がなかった病院の開設にも制限が課せられると予想されている中で、政治力を持てば、病院開設の許認可権を握る行政に強く当たれる。とにかく病院を沢山作るために”政治力”が必要だと思うようになった。そこで衆議院選挙に出馬することになるが、死闘の末2回も落選してしまう。3度目の正直で挑んだ衆議院選挙、対抗候補とお金で票を買収し合う凄まじい戦いになる。金で票を買うのを媒介する統括者は、買収のポイントを知る年配の熟練者で、徳田に「ここで10億打てるかどうかで、勝負が決まる。勝つか、負けるか、あんたが決めろ。諦めるのなら諦めてもいい」と迫った。徳田は、東京本部の部下に連絡し、「やれ。カネを送れ」と命じた。 それから毎日、部下は徳田が出馬している地域宛に現金を一億円、二億円と送った。投票までの一週間でちょうど10億円、選挙期間中を通して30億円のカネが投じられた。この30億円というお金は徳洲会が医療機器を仕入れる時に、関連会社を経由したり、代理店からのキックバックで作った裏金によって賄った。あらゆる手段を尽くした結果、ついに当選し政界に進出する。初当選でまだ政治家として力ないにもかかわらず、周囲への発言から尽きない野心がうかがえる。「でも彼の言い方はですね、2期目は厚生大臣、3期目は総理大臣、4期目は世界大統領だと平気で言うわけですね。」https://www.fnn.jp/articles/-/26017「自由連合」という政党まで立ち上げ、徳洲会の資金力を目当てに政治家も複数人集まり、石原慎太郎の都知事選のスポンサーもする等、精力的に政治活動に勤しんでいく。難病ALSを患うしかし60代になると、難病・ALSが発症し病魔が徳田を襲う。ALSは筋肉を動かすための神経が障害を受け、「手足を動かせ」といった命令が伝わらなくなっていき、筋肉が衰えていく。口も動かせないので会話もできなくなり、最終的には呼吸の筋肉も動かず呼吸不全に陥ってしまう病気だ。一度罹ったら治らない難病である。海外進出とプロジェクトファイナンスそれでも執念で経営を続け、徳田の野望は「世界」に向けられていた。「世界中に二〇〇の病院を建設する。『生命だけは平等だ』の哲学で、人間主義の人道追求型病院経営を世界で展開し、世界平和に貢献したい」と徳田は大きく宣言した。しかし、資金を安定的に調達しなくては、病院を増やすのは難しい。そこで浮上したのが「プロジェクトファイナンス」だった。これは、土地ではなく、特定の事業が生みだすキャッシュフローを返済の原資にした融資であり、長期的な安定収入を見込んだ方法である。その債権を証券化して第三者に売って資金を調達したりもする。 徳洲会は、日本の医療機関ではいち早く、この新しい資金調達を取り入れた。徳洲会の主なキャッシュフローである診療報酬はかなり魅力的で、プロジェクトファイナンスにぴったりだった。なぜなら、金融機関からすると「診療報酬債権」の報酬を支払うのは公的機関であり、焦げつく怖れはない回収確実で安定的な資産と捉えられるからだ。ゆえに極めて格付けの高い債権となる。診療報酬債権の価値に目覚めた徳田は、診療報酬債権を証券に変えて機関投資家に売り、8病院は市場から年間約280億円を調達した。日本の医療界では初めての試みとなった。しかし当時、徳洲会の負債は1,300億円を超えていて、8病院の証券化でも効果は限定的だった。性急な拡大路線で稼働率の低い病院が生まれていたり、徳田の政治活動資金への荒すぎるカネ遣いが原因だった。一度は銀行に経営を乗っ取られたこともあったくらいである。そこでさらなる資金調達を模索していた時、新たに外銀・RBSが度肝を抜く提案をしてきた。徳洲会の医療法人だけでなく、関連会社を合わせた全事業をまるごと証券化し、それを担保に2,000億円を融資するというプランだ。全事業対象の証券化は前代未聞の荒業で、2年後に孫正義もボーダフォンを買収する際にこの手法を使ったことで有名だ。徳田は、ビジネス界よりも早く、事業証券化に注目した。そして一度は合意に至り全事業を証券化しようとするが、様々な制約によって見通しが立たず、つなぎ融資が財務を圧迫する。最終的に徳田は大胆な方針転換を命じ、RBSとは契約解消、他行への借り換えをすることを決定した。この判断は功を奏した。病院の建設も急ピッチで進んでいき徳洲会は絶頂を迎える。徳田王国崩壊と晩年そんな絶頂の中、徳田のALSの症状は進行し、2006年には声を出して会話できないまでになり、文字盤を目で指して意図を伝えていた。その状態でも海外展開を推し進め、事業欲が旺盛だったのが末恐ろしい。https://www.youtube.com/watch?v=CJzc5LH230oただ、体調は悪くなる一方なため、その少し前から政治活動は次男・毅に任せ、徳洲会の後継も長男・哲に移行し始めていた。ところが、徳洲会を哲へ継承しようとするのを他のファミリーが阻む。これまで徳田が一族を徳洲会には近づけないようにしていたのに、ALSが進行し身体が不自由になっていくと、一人では生きていけないため、一族は心配して近づくとともに「創業家の利得」にありつこうと徳洲会に踏み込んでくるようになってきた。こうして徳田と徳田の右腕・能宗 vs 徳田ファミリーという構図で火種がくすぶるようになる。そしてついに、徳田が過去立ち上げた政党「自由連合」への徳洲会からの巨額の貸付といった爆弾処理を巡って緊張が一気に高まることに。能宗は返済スキームを考案するが、ファミリーはバックデートで文書を作ったり等に抵抗を感じ、脱税を推進してるとして裏切り者に仕立て上げた。ファミリーは徳田にも「能宗は裏切り者」と迫る。これまで固い絆で結ばれ「大事なことは能宗に聞け」と全幅の信頼を置いていたが、この爆弾をうやむやにしたい徳田は能宗を切ることにし、解雇した。こうなれば能宗も闘うしかない。これまで右腕として握り潰してきた「選挙違反」や「政治とカネ」にまつわる数々の徳洲会の爆弾を世間に知らしめた。結果、能宗にもファミリーにも検察の捜査が入り、両者逮捕に至る泥沼に。この一連の事件で、職員は大量に辞め、徳田一族も能宗も去り、徳田本人も要職から外され、徳田王国は崩壊した。徳洲会そのものも「社会医療法人」の認定が取り消され、解体されるかどうかという瀬戸際に立った。だが、厚労省は取り消さなかった。徳洲会が地域の医療に果たす役割があまりにも大きかったからだ。徳洲会の病院が閉鎖すれば、地域の医療は破綻し、厚労省にも責任が及ぶ。王国は崩壊したが、徳田が立ち上げた現場の医療は残り、徳洲会は徳田ファミリーとは決別し今なお繁栄を続けることができている。番外編・徳洲会が伸びたマーケットの背景ここからは番外編で、徳洲会がなぜ伸びたかだ。ひとことで言えば、高度経済成長による人口動態の急速な変化が生んだ”ひずみ”を解消したことが大きい。当時、一次産業が廃れ、若くて「安い労働力」が商工業の雇用を求めて地方から都市へと急速に人口が移動した。その結果、人口急増地域は医療機関が全然足りず、医療砂漠が生まれる。一方で労働者を送りだした地方は人口が減って高齢が進み、こちらは医師が消えていく。また見通しの甘い都市・国土計画と、自由開業制による病院開設で皆が好き勝手に病院を立てたために、医療過疎や医師偏在が発生した。高度経済成長&国の制度設計の不備で生まれた需給にギャップのある空白地域をターゲットに病院を開設する戦略で、徳洲会は「住民のニーズ」を掲げて埋めていった。そこに徳洲会が成長した歴史的な必然性があった。徳田虎雄の知恵優秀な人材と仕事する「僕は自分より能力のある人間と仕事をする」「医師の場合、学閥、教室閥、年功序列にこだわることなく、実力主義で採用してます。他の病院だと、院長は大学教授の古手の天下りが多いけれど、徳洲会病院の場合は、実力とリーダーシップさえあれば、三十代、四十代の若さで院長になってもらっています」任せる力徳田は「できる」と見込んだ部下には仕事を全面的に任せた。人使いの妙がここにある。田中が猛勉強をして無影灯のメーカーを絞ると、徳田はさらに要求する。 「岸和田は三五〇床や、大型病院��徳洲会の顔になる。医療機器も最新鋭のものをそろえないとだめだ。人工透析センターも稼働させる。血管造影のCAD、バイタルサインモニタ、透析機器……、野崎にないものもぜーんぶ、交渉して決めろ」 徳洲会に入って一年経つかどうかの田中に億単位の商談が委ねられたのだった。ゴッドドクター 徳田虎雄人間ウジ虫論徳田は、使えると見込んだ人間がカネを欲しがればカネを、ポストを求めればポスト、色を欲すれば色、理想を求めるのなら理想を、瞬時に見分けて与えた。人間の欲望を掌握する勘は並外れていた。与えられた側は、自己実現の悦びにひたれる。徳田は自己実現の機会をおびただしく創出した。そうして人心を掌握し、徳洲会を拡大させた。 徳洲会を支える医師の前で、徳田はしばしば「人間ウジ虫論」を説いた。「人間なんてな、ウジ虫みたいにそこらを這いずりまわりながら、何をするかわからん生きものや。てんでんバラバラ、好き勝手をしよる。国会議員なんか見てみい、もっともひどいヤツらや。おれやおまえらもウジ虫。全然、まとまらへん。けどな、ウジ虫みたいな連中を、ガサガサ好きにさせてると、ときどき、すごい仕事をしてくれる。ウジ虫やからできる、でかい仕事がある。そこがおもしろい。徳洲会は、いろんなウジ虫がおってええんや」ゴッドドクター 徳田虎雄徳洲会の朝礼「徳洲会の理念、生命を安心して預けられる病院、健康と生活を守る病院、理念の実行方法、一、年中無休・二四時間オープン 二、入院保証金、総室の室料差額、冷暖房費等一切無料 三、健康保険の三割負担金も困っている人には猶予する 四、生活資金を立て替え・供与する 五、患者からの贈り物は一切受け取らない……」 と、声を張り上げるのに合わせて全職員が一斉に唱和していた。内容は極めて事務的だ。「これで世のなかは動いているのか。こんなに簡単なプロパガンダで職員の意識づけができているとは!」と盛岡は仰天した。 インテリは理屈ばかりこねたがるが、世間はまったく違う回路で動いている。それにしても、もう少し、言葉に潤いというか、大脳に響く装いがあってもよさそうだが、飾りはゼロだ。 徳田は、徹頭徹尾、即物的だった。ゴッドドクター 徳田虎雄正しい情報だけをもってこい徳田の職員に対する口癖は「正しい情報だけを持ってこい。間違った情報で判断を誤れば、時間の無駄だ。おれの一分、一秒は、おまえの一時間よりも尊い」だった。ゴッドドクター 徳田虎雄目標はホラでいい「私のモットーは『有言実行』だ。口にしたことは必ず実行する。公言することでそれを実行せざるを得ないように自分を追い込んでいく。みなさんも命がけの迫力をもってほしい。目標はホラでいい。ホラを吹く。 生半可 なホラではダメだ。大欲は無欲に似たり。大欲で死ぬまで全力投球しよう」敵は己自身ゴッドドクター 徳田虎雄出典:https://www.fnn.jp/articles/-/26017ゴッドドクター 徳田虎雄
4,500億円の病院グループ - 徳洲会 創業者「病院王・徳田虎雄」|Yuya Murakami / East Ventures
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「オリエントへのまなざし -古代ガラス・コプト織・アジア陶磁-」展
早稲田大学 會津八一記念博物館で「小野義一郎コレクション オリエントへのまなざし -古代ガラス・コプト織・アジア陶磁-」展を見る。西アジアの古代ガラスやイスラーム陶器、エジプトのコプト織、東南アジアの陶磁など約80点が展示されている。古代ガラスはこれまで見る機会が多少はあったものの、まとまった数を見るのは初めて。コプト織はまったく未知の領域。東南アジアの陶磁も、散発的に見たことならあった気がするけど……という程度。そんな自分にはおあつらえ向きの企画展で、新鮮な鑑賞体験ができた。また、たとえば古代ガラスだと、ガラスの歴史を通観する展示のなかで見るのと、考古資料の展示の一環として見るのと、古代ガラスだけを集めた展示で見るのとでは、見えかたが違ってきたり、ひいてはそこから気づくことも違ってきたりする。同一ジャンルに属する文物を異なる文脈で繰り返し見ることが��きるのは幸いである。
さて、メインビジュアルに採用されているのは、ガラスの面カット装飾浅鉢。サーサーン朝時代、4〜6世紀、イランあたり。この下の自分の撮った写真より、上の展示室風景のビジュアル写真のほうが装飾がいくぶん見やすいかもしれない。
円形切子装飾椀。サーサーン朝、5~7世紀、東地中海沿岸。全体的に黄白色なのは風化のためで、本来は淡緑色の透明ガラスとのこと。円形にカットされた装飾が確認できる。風化した風情も正直なところ好きなのだが、「いまでこそ経年変化で時代がかった見た目になっているけど、作った当時は古色はついていなかったのだから、元の姿を想像しながら見よう」と思いながら(心の目で)見るよう努めた。
次の2点はイスラーム時代のガラス。左は12~13世紀、シリアかエジプト、マーブル装飾扁壺。文様がちょっとラテアートっぽい。右は型吹長頚瓶、11~12世紀、イラン。香水を散布するために使われたもの。10世紀ごろ蒸留技術が確立してバラ水などが普及したことから、このようなガラス製品が作られたものと見える。
ローマ時代のミルフィオリ・パテラ形杯。前1~1世紀、東地中海沿岸。棒ガラスを組み合わせて金太郎飴のように輪切りに��て文様を作っている。
これもローマ時代、型吹双面瓶、1世紀後半〜2世紀、東地中海沿岸。微笑んでいる顔と怒っている顔が型吹きの技法で作られている。
前期青銅器時代、紀元前2300~前2000年ごろの土器、掻落彩文杯。シリア北西部で出土したもの。直線や波線の文様はヘラのようなもので掻き落として作られている。
ラスター彩人物文鉢。イラン、セルジューク朝時代、12世紀後半〜13世紀前半。2人の女性が描かれている。
藍釉鉢。イラン、セルジューク朝時代、12世紀後半〜13世紀前半。
色絵金彩鉢。イラン、セルジューク朝時代、12世紀後半〜13世紀前半。花のような太陽のような星のようなものが描かれている。白釉の上に藍彩で下絵付けをして焼成し、その上に色絵金彩で上絵付けを施す、ミナイ陶器と呼ばれるタイプらしい。
コプト織は、エジプトの遺跡から出土する染織品の総称で、必ずしもコプト教と関係があるとは限らない。下の2点は6~7世紀のコプト織で、左は踊る女たち、右は馬に乗る男の図柄。
10~11世紀の幾何学文のコプト織。
左は4人の聖人が並んでいる図柄、7~8世紀。右は5~6世紀、幾何学文だが、ふたつの四角形を組み合わせた形はキリストの十字架を表現したものらしい。そして貴重な染料で紫色に染められている。
蕾モチーフのコプト織、6~7世紀。蕾のモチーフはコプト織でとても好まれていた由。
クメール陶器、黒褐釉象形壺。12~13世紀。壺の高台が象の4本脚になっていてかわいらしい。象は背中に宝珠のようなものを背負っている。
クメール、12~13世紀の黒褐釉線文壺。黒褐釉の平壺はクメール陶器の典型のひとつだそう。
クメール、11~12世紀、施釉刻線蓋付高坏。須弥山を模したと思しきこの形もクメール陶器の特徴とのこと。アンコールワットなどのクメール建築とも相通じていておもしろい。
ベトナム、14世紀、鉄絵草花文椀。ベトナム産の鉄絵陶器は日本の大宰府などからも出土しているとか。海外へ輸出するために数多く生産されたらしい。
ベトナム、15世紀、青花神獣文瓶。獣類の長である麒麟と鳥類の長の鳳凰が描かれている。
タイ、14~15世紀、青磁刻線文双耳小壺。小さくてかわいいやつ。
タイ、15世紀、白磁鳥形水注。
タイ、15~16世紀、白・黒象嵌瓶。象嵌する土と胎土とでは耐火度や収縮率などが異なるため、ひび割れたり象嵌が剥がれたりしないためには高い技術力が必要だとのこと。つまり下の写真の陶器は手練の作なのだろう。
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「ゴジラ-1.0」を公開日の朝イチで観に行っていました。
「シン・ゴジラ」以降初めての国内で作られた実写のゴジラ。いや、まあゴジラ映画であってくれるのなら作られた場所が海外だろうが国内だろうがそこに差は何にもないのだけれど、やはりそこはファンとしての性なのだろうかやっぱり国内でまた作ってくれるっていうのは特別に感じてしまう。
で、ネタバレを回避しつつ感想を書くとすると、なんかすごく懐かしいゴジラだったなと感じた。色々な過去作のゴジラのネタやフレーバーがそこここに散りばめられているから、だけではなくて、なんというか、本編(人間ドラマのこと)と特撮パートのバランスとか、本編ドラマの雰囲気とか、良くも悪くも自分が子供の頃に観ていたゴジラ映画だった。
ゴジラやゴジラによって起こされる破壊を表現するVFXの技術は本当にすごかった。リアリティというかそこに存在するといっても差し支えないほどに存在感があり、物質として存在しているであろう手前に映る人物や建物としっかり馴染んでいたのがすごい。あと、ゴジラ映画だと中々難しかった海上・海中戦をしっかりやってくれたのが新しい時代・技術の進歩を感じた。この辺の表現・現実感はここ最近のゴジラ作品の中でもずば抜けていて、もしかしたら過去作一の出来栄えかもしれない。
あと、最近のゴジラ(シンゴジ・レジェゴジ)は人類のことなんか眼中にないような超越した存在として描かれていたけれど、今回のゴジラはバリバリに人間に対して害意がある生き物なのでダイレクトな恐ろしさがあった。こちらに積極的に攻撃してくる頑丈で強くてデカい生き物ってあたりまえに怖いんだなという。そういう怖さが良かった。
それと、今作は戦後直後の東京が舞台なのだけれど、登場人物や背景のエキストラみんなが当時モノっぽい良い感じに草臥れた服を着ていたり、小道具や生活の様子が時代を反映していたのが個人的には評価ポイントだった。神木隆之介が作中乗ってたバイクや作中登場した兵器・乗り物なんかは結構監督のフェチを感じられてそれも好ましい。
ゴジラが出てくるシーンは全部良かった。もしかしたら過去一なんじゃないかってくらい良かったし個人的にも好みだった。ただ、それに反して本編…人間ドラマはなんというか、自分がああいうのが好きじゃないのも相まって視聴がやや苦痛ですらあった。邦画にありがちな冗長な演出、くどい台詞回し、過剰な説明、薄っぺらい「良いこと言った感」、先の展開が大体読める捻りのない脚本、無理筋にも程があるご都合主義、そういった要素が全部入っている。(自分にとって)ダメな邦画あるあるの展覧会過ぎて、もう一回観に行きたいのにこのしょうもないドラマをまた観なきゃいけないのか…と思うと気が進まない。
「シン・ゴジラ」と比べてどうだったか、ということについては、そもそも「シン・ゴジラ」と���ゴジラ-1.0」は正反対の作風であって、故に両者を比べることは出来ないという結論に達した。両作品を観てどっちが優れている劣っているというのは慎重な意見でない限りは個々人の好みでしかないなと。
まあ、こんな感じで中々評価が難しい作品だった。ただ、最近のゴジラは実写であれアニメであれショートフィルムであれ、結構尖った作品が多かったから、それを古き良きテイストに穏やかに引き戻してシリーズ全体としてのバランスをとる役目を果たしたのかもしれない。Xで見かけた「正気」なゴジラ映画という評価が一番しっくりくる。
「シン・ゴジラ」は合わなかったなーとか神木隆之介が好きだなーって人は観に行っても良いかもしれない。
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2023/4/28〜
4月28日
今日もお部屋の正解が分からず、掃除をしながらベッドを窓際に配置してみる。外の気候の影響を受けやすそうでベッドを外側に置くことに抵抗があったけれどやってみよう。
移動中に上司とした会話の内容ややりとりの仕方を振り返ってもやもやしてしまい、ノートにも日記を書くことにした。やっぱり社会の中での会話は、ディズニーランドとシー、どっちが好き?で十分です。
藤まつりはあまり藤が見頃に達していなくて、平日の昼過ぎにしては人が多かったけれど、みんな「あ〜〜…まだだったな〜〜」という感じで、猿の回し芸(猿も苦手だし動物の芸も苦手なのでみるに耐えなかった)や、なぜか北海道チーズケーキを売っている出店、お祭りちっくな唐揚げをあげたっきり店主さんが寝ている出店などもあったけれど、盛り上がりに欠けていた。
“天神様とお茶”もなかった。
でも藤を見ながら「これが満開だったら船橋屋(?)も入れなかっただろうし、人もすごいだろうからちょうどよかったね〜」と言っている女性がいた。
体重が100g増えていて、えらいので、今日はたくさん食べてよく寝ようと思う。
4月29日
多摩川を確かめた日。
腰と足の痛みが怖くてロキソニンを飲んで多摩川駅へ向かう。
電車には味の素スタジアムで開催されるサッカーの試合へ向かう観戦客がたくさんいた。
毎朝通勤の時に同じバスに乗る方のリュックについた缶バッジとキーホルダーと同じ配色のアイテムを身につけている人達を見て、あの方はFC東京の選手のファンだと知る。
調布駅で乗り換えた先の電車内に亀の子束子の手拭いが落ちていた。
友人2人と合流して2時間くらい多摩川沿いを歩いた。
大島さんやのらねこちゃんの作品に出てくる川と風景なのかな、と思って、遠くに見える不思議な観覧車が良かった。
2人とずっとたくさん、見えるものや最近のことや登山の話などをして、もうここに1人で書くこともなく、砂風と太陽にさらされた運動会後の疲労感で、大満足で帰宅している。
帰りの電車でうとうとしすぎて手すりにたくさん頭をぶつけた。
こういうふうに、週末に散歩をしてふらふらさせてくれる関係を、ずっと相手してくれる人がいてほしい。
今週、こんな週末を送れると思えば、私はもっと生きた心地で生活できたはずなのに。
500円の遠足のおやつの話、“流れ”を見つけたこと、地球くん、and wanderで登山ガチ勢を仮面したこと。もっと来週も続きを聞きたい。
WBCのフラッシュバックの話をしたらプルーストのことを教えてくれた。マドレーヌに紅茶を浸すと蘇る記憶の話らしい。
明日は雨らしいので今日はレスタミンでも飲んで無理矢理にでも眠ろう思います。
4月30日
アポロおじさんの誕生日!なのでメッセージを送る。4月に入ると月末にお祝いしよう!と毎年毎年4月中はなんとなくアポロおじさんの誕生日をうっすら感じながら生活している。転職するかも、とのことでびっくり。
今日はひどく低気圧でだめだめを予感していたけれど、意外と日中は雨も止んでいたので、レスタミンでぐるぐる眠気を引きずった体がもったいなかったかも。
昨日、友人がダイエットのために踊っていたというジャンボリミッキー(?)の動画を見る。面白すぎる。
プルーストのマドレーヌと紅茶ごっこをしたい気持ち。
多摩川散歩を1人思い返して、何か演出されたかのように自然に面白出来事的日常が繰り広げられていたな〜と、誰かと一緒に見ることができて良かったものばかりだった気がする(練習中のサックスでハナミズキを吹くおじさん、気にロープを繋いで綱渡りエクササイズをするおじさん、遊具で筋トレをするおじさん)。
今住んでいる町に最近やってきた人が「ここはいい町。人が暖かい。」と言っていた。私の部屋の前にある餃子屋さんが美味しいと言っていた。
この町で知り合いもいないし、何かしようと思えなかったので楽しそうでいいな、と思った。
昨日会った友人は、今日マチ子の展示が始まった本屋さんの隣に住んでいて、もっといいな、と思った。
夕方の少し明るい曇りの時間に外に出たら少し元気になり、信号待ち手前“ちゅうとはんぱはやめて”を聴きながら
“雨の休日のこのくらいの時間にとっても元気になる瞬間がある”
とツイートして、信号が変わったので歩き始めた時に、隣の男性が誰にでも物言いおじさんだったらしく「歩きスマホは危ないっ!」と真正面を向いたまま大きな声で突然言い始めて、一瞬で元気がなくなった。
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映画「658km、陽子の旅」
第25回上海国際映画祭コンペティション部門ワールドプレミア 出品決定!
『658km、陽子の旅』が、2023年6月9日(金)から18日(日)の日程にて中国・上海で開催される第25回上海国際映画祭コンペティション部門に選出され、ワールドプレミアされることが決定いたしました!
併せて海外版ビジュアルも同時解禁となりました。
上海国際映画祭の歴史は 1993年に始まり、中国で唯一、国際映画製作者連盟 FIAPF公認の映画祭として、映画文化の普及と映画産業の発展とを目的に、毎年10日間の会期中に国内外の約500作品が上映されている映画祭。日本映画が多く選出される映画祭としても知られ、日本特集や特別上映会などが人気を博しています。昨年は、新型コロナのウイルス感染症の影響から延期となっていた第25回上海国際映画祭ですが、 誕生30 周年を迎える今年の上海国際映画祭は、リアル開催を予定。 審査委員長には、 ポーランド・ウッチ出身の映画監督・脚本家・俳優にして、世界三大映画祭すべてで賞を獲得している、イエジー・スコリモフスキが就任しています。
これまでに日本映画がコンペティションに参加した作品には、第16 回開催時の日向寺太郎監督『爆心 長崎の空』 、第19回の阪本順治監督『団地』、第21回の犬童一心監督『猫は抱くもの』、第22回の今泉力哉監督『アイネクライネナハトムジーク』などがあります。また、 2005年に開催された第8回上海国際映画祭にて、三原光尋監督『村の写真集』が最優秀作品賞、最優秀男優賞(藤竜也)を受賞しています。
また、TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM(TCP)作品としては、 『ブルーアワーにぶっ飛ばす』で第22回上海国際映画祭(2019 年) のアジア新人部門にて箱田優子監督が最優秀監督賞を受賞して以来の上海国際映画祭への出品となります!
出品決定に伴い、熊切和嘉監督、並びに主演の菊地凛子より、コメントが到着しました。
<熊切和嘉監督 コメント>
この度は、上海国際映画祭の栄えあるコンペティション部門に本作を選出いただきまして、ありがとうございます。世界中から選ばれた素晴らしい作品の中の一本となれたことを光栄に思います。
コロナ禍の真っ只中で生まれた「陽子」の旅路が国境を越え、上海の観客の皆様や、世界から集まる映画人の皆様の心に届くことを願っております。
<主演 菊地凛子 コメント>
上海国際映画祭のコンペティションに、私の宝物のような作品が上映される事、本当に本当に嬉しく思っております。20年前に私を役者として最初に導いてくれた熊切監督。またこうして作品が出来た事、手を取って最後のゴールに辿り着いた時の事、今でも私を勇気づけてくれます。
それが、またこの上海をスタートにたくさんの旅をして、観客の皆様のそれぞれのゴールに辿り着いてくれる事を願っております。
<徐昊辰 上海国際映画祭プログラマー コメント>
巨大防潮堤、荒々しく激しい波、復興中の町、ほぼ車のない道・・・熊切監督は、旅の途中の風景を完璧に使い、自分の時間が止まった主人公・陽子を連れて、痛みと悲しみを乗り越える旅に出る。
この激動の時代に、こんなパワフルの作品を上海国際映画祭でワールドプレミアができて、とても光栄に思います。
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📸起雲閣庭園 / Kiunkaku Garden, Atami, Shizuoka ② ——“海運王”内田信也と東京の『根津美術館』が有名な“鉄道王” #根津嘉一郎 による、大正ロマン漂う“熱海三大別荘”の一つ。 ステンドグラスが美しい近代建築と、根津嘉一郎自らが作庭を采配した近代日本庭園。 ...... 続き。数寄屋風の渡り廊下を経て、ここから根津嘉一郎が増築した和洋折衷の近代建築ゾーンに。まず洋館「玉姫」と「玉渓」。玉姫はサンルームのステンドグラスの天井、そしてカラフルなタイル敷が圧巻。この洋空間と和風庭園の組み合わせ…! . 一見“洋館”のようなのだけど、玉姫の主室は折上格天井(和風)あり、家具や暖炉はヨーロッパ風…と和洋折衷。隣り合う玉渓も洋風の山荘が基調だけれど、どこか和の感じがする。ここにも素敵なステンドグラスが。 . ここから旅館時代の客室(現在は文豪関連の展示室)を挟んで、再び根津別邸時代の洋館「金剛」へ。こちらは「玉渓」と雰囲気に似たヨーロッパの山荘風の建築。ここでも豪華な暖炉。 . それと隣接するのがやはりここでもステンドグラスが素敵…な「ローマ風浴室」🛀 その唯一無二のデザインの浴室は映画のロケ地にもなったとか。あと写真は載せてないけど、旅館「起雲閣」時代の浴槽もこれまた深い浴槽がレトロで良い。 . 最後に、各洋館と庭園を挟んで向かいにあるのが和館「孔雀」。現在は独立した離れのような形になっているけれど、時代的には「麒麟・大鳳」とともに大正時代に建てられたもの。孔雀はここまで見た各部屋と比べるとシンプルな和館といった趣き…。 そのほか旅館時代に増築された「音楽サロン(旧・宴会場)」など、おおよそ10棟で起雲閣の建築は構成されます。一番新しいのは平成年代の貸出ギャラリー。 . そして起雲閣の庭園は前述の通り根津嘉一郎の別邸時代、大正末期〜昭和初期に作庭されました。 熱海の緩やかな斜面の地形を生かした約1,000坪の池泉回遊式庭園で、主屋(和館・洋館)の手前には芝生と園路が広がり、中央部を川が流れ、その水はやがて池泉へと流れ込みます。 . 阪急創業者・小林一三などと共に近代の有力な茶人/数寄者でもあった根津嘉一郎自ら指示することもあったそうで、流れの始点の石組の中にある約20トンの大石は根津がこだわり10人以上の庭師が2ヶ月以上をかけて運んだもので“根津の大石”と名付けられています。 . 庭園の各所からは周囲の山々とマッチした景観も楽しめる。…もしかしたら根津別荘当時の和館の2階からは(正面に見える旧大浴場やビル・マンションもなく)熱海の海も眺められたのかもなぁ。 . 初めて訪れた頃は「日本庭園だ〜芝生〜★」ぐらいに思っていたけれど。近いところでは七代目小川治兵衛の『三養荘庭園』、同じく小川治兵衛の『慶雲館庭園』、東京の『大隈庭園』等と似た雰囲気の、当時の流行した作風の庭園だったと感じられます。 洋館やステンドグラス目当てに訪れる観光客・建築ファンにも気に入ってもらいたい庭園! . ということで2022年も『おにわさん』をご愛顧いただき誠にありがとうございました。振り返りとかはまた新年に。良いお年を! . 静岡・起雲閣庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/kiunkaku-garden-%e8%b5%b7%e9%9b%b2%e9%96%a3%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ------ #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #landscapedesign #atami #atamitrip #japantravel #japantrip #庭園 #日本庭園 #建築デザイン #ランドスケープ #熱海観光 #熱海旅行 #近代建築 #近代和風建築 #庭院 #庭园 #文化財 #近代別荘建築 #おにわさん (起雲閣) https://www.instagram.com/p/Cm1TAxHv0Lg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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Kentucky Route Zero テキストを巡る冒険(前編)
Kentucky Route Zeroの日曜研究として、KRZにおけるプレイヤー論を考えつつ、ゲームであり文芸・美術作品でありメディアアートである本作の側面を断片的に語る試み。あるいは、訳者解説と鑑賞案内のはざま。
まだいろいろ暫定の途中段階だけれど、自分で見返す用のとりあえずのまとめ。
曖昧で捉え難いと言われる本作がなにを為そうとしたのか、アドベンチャーゲームというジャンルにとってどうして特別な作品であるのか、その実験を少しでも言語化できたらいいですね。
1.Player(役者)
プレイヤーはコンウェイ・シャノン等の主要登場人物を、通りすがりの脇役を、骸骨を、犬を、猫を、様々な人物・生き物を演じていく。
Act.2の幕間劇「エンターテイメント」では、直接ゲームに「飲んだくれ」という役名でプレイヤーは役者として参加できる。
なお、エンターテイメントはもともとVRとして独立したゲームとして作成され、実際に役者として参加できるようになっている。脚本も作成され、別途演劇として上演されてもいる。
開発者ニュース
VR版・脚本は公式ホームページからDL可能
図1:Act.1 (マルケス農家) プレイヤーはコンウェイを演じる。
図2:Act.3 (ハードタイムズ蒸留所) プレイヤーは骸骨を演じる
図3:Act.5(町) プレイヤーは猫を演じる
図4:Act.2幕間劇(エンターテイメント)プレイヤーは役者「飲んだくれ」となって劇に参加する
2.Player(脚本家)
プレイヤーは登場人物の台詞を、時に出番を選択し、こまかく彼らの性格付けと劇の方向性を決定する。
彼はアルコールに溺れていたのか、それとも風景に耽溺していたのか。彼女は皮肉屋か、真面目なワーカホリックだったのか。彼らがなぜこの旅を続けるのか、その目的も。
図5:Act.1(EQUUS石油)プレイヤーはコンウェイの台詞を選択し、彼が何を考える人物か選択する。
図6:Act.5(町)プレイヤーはどの登場人物が、いつ、なにを話すか選択する
(参照)
「Rock, Paper, Shotgun」 『なにがKentucky Route Zeroのダイアログを魅力的にしているのか?』
KRZを開発当初から追っている英ゲームメディアの記事。脚本のジェイク・エリオット氏のインタビューを挟みながら、選択肢・テキストの提示方法含めその魅力について記載している。
3.Player(監督)
プレイヤーは監督(Director)として、この劇でどの場面を見せるのか、どの順番で幕を演じるか・演じないかを決定することができる。
この劇をいつ演じる(Play)のか、いつやめるのか決めるのは監督の仕事である。
図7:Act.1(事故車)進行に必須ではないこの場面を見るか、見ないかはプレイヤーが決める
図8:メニュー画面(劇・幕間劇の円環)どの順番で何を演じるかはプレイヤーが決める
(参照)
【ケンタッキー0号線を行く】Kentucky Route Zero: PC Edition(からあげうどん氏による配信)
こちらの配信では第1幕から飛んで第4幕をプレイし、その後第2幕・第3幕をプレイすることで、円環をときに逆流しながら最後まで劇が進む。変則的な進み方でありつつ、この劇は同様に楽しむことが可能となっている。(プレイ・配信ありがとうございました!)
4.Player(観客)
プレイヤーはコントローラーで操作しながら、Kentucky Route Zeroという悲劇をずっと劇の外側から観賞している。
劇の「外側」のキャラクターとして登場するエミリー・ボブ・ベンの3人のキャラクターは、プレイヤーの立ち位置を代弁するキャラクターでもある。彼らは幕間劇Limit & Demonstrationでは鑑賞者として美術館を訪問し、Entertainmentでは観客としてエンターテイメントという演劇をを眺めている。同時に彼らは「外側」の存在として、Act.1-4で劇を盛り上げる歌唱隊を担っている。
コンウェイら登場人物と彼ら3人はも、劇の「内側」の登場人物と劇の「外側」の観客となり表現の位相が異なる。そのため、同じ空間に存在していてもお互いにコミュニケーションを取ることは当初できない。
図9:Act.1幕間劇(Limit& Demonstration)3人は作中登場人物ルーラ・チェンバレンの回顧展「極限と展示」にて美術作品を鑑賞する
図10:Act.2幕間劇(Entertainment)3人は舞台後方観客席から劇中劇「エンターテイメント」を鑑賞する
図11:Act.1(マルケス農場)画面手前で歌唱隊として"You've Got To Walk"を歌う3人
図12:Act.1(EQUUS石油)3人は登場人物コンウェイの存在を認識できない (コンウェイは足を踏み鳴らすが、テーブルの人々は反応しない)
5.Player(批評家)
プレイヤーを代弁する劇の「外側」のキャラクターでもあるエミリー・ボブ・ベンは、Act.1幕間劇Limit & Demonstrationで美術館に展示された芸術作品について感想を述べ、批評する。Act.2幕間劇Entertainmentでは、観客席からこの幕間劇についての評論が提示される。
本作はプレイヤーが本作を批評することを意識し、その視点を内在化している。プレイヤーはこの劇について当然自由に感想を述べることができ、つまらなければいつでも席を立って構わない。低評価レビューを書くことも。
Act.2幕間劇のメモより
観客の多くが席を立つことを検討する。もし立ち去りたいのなら、そうさせればいい。劇場は刑務所ではない。われわれは観客の痛みを敬う。
脚本家レム・ドゥリトル
図13:Act.1幕間劇(Limit& Demonstration) エミリー・ベン・ボブは劇中登場人物ルーラ・チェンバレンの回顧展に訪れ、作品の感想・批評を述べている。
図14:Act.2 幕間劇(Entertainment)「Entertainment」を評するコメントが表示される。 『時に退屈な「エンターテイメント」』
(参照)
海外ゲームメディアVideogamer・Josh Wise氏によるKentucky Route Zeroレビュー(英語)
作品評価は高くないものの、マグリットやフロストやルシェ等文学・芸術系の引用を踏まえて読み込んでいるレビュー。末尾に本作の自己批評的側面について言及あり。
私の批評のどれもが、10年間作品に取り組んできた開発者たちにとっては目新しいものではないだろうし、それは自意識過剰なわけでもない。とあるシーン(訳者注:Act.2 幕間劇)で、地元新聞の演劇レビューとして作品について「借金と不誠実さの悪を描いた、焦点が定まっていないとはいえ、引き込まれるところのあるドラマだった」と書いてある文章を読むことがあった。ほんとその通りだよ。
6.Player(ゲームプレイヤー)
そしてもちろんあなたはゲームプレイヤーである。
小説や演劇を志向しながら、同時に本作はゲームであることに強く自覚的である。プログラムで構成されたテキストと音と画像の隙間をマウスでクリックするだけの体験は、選択と冒険というアドベンチャーゲームの原始的な愉しみを再現しながら、同時にその可能性を強く広げるものとなっている。
図15:Act.3 (Equus石油)コンピューターゲームを遊ぶ
図16:Act.3(XANADU)アドベンチャーゲームの始祖”Adventure”を再構成したゲーム「XANADU」を遊ぶ。
1976年に洞窟探検家でもあるクラウザー氏により開発され“Adventure”は別名’Colossal Cave Adventure’と呼ばれる、ケンタッキー州のマンモス洞窟を舞台とするテキストアドベンチャーゲーム。Adventureでは、不思議で抽象的なテキストが示される中、コンピューターにテキストでコマンド入力を行っていくことで洞窟を探検していく。
図17:Act.1(EQUUS石油)ガソリンスタンドの地下でエミリー・ベン・ボブがボードゲームで遊ぶ。
あなたはコンピューターゲームを遊ぶ。
あなたはアドベンチャーゲームの始祖“Adventure”を古ぼけた記憶で再構成した“Xanadu”をプレイする。
何度目かのダイスを振ってキャラクターを進める。
いにしえから伝わる運命のゲームをプレイする。
プログラムで描写されたKentucky Route Zeroというゲームをプレイする。
何度も。
7.Player(とは)
時に内側から監督として劇を采配し、脚本を書き、役者を演じて劇に主体的に参加する。時に外側から観客として受動的に劇を見つめ、作品を評することで作品に関わる。
プレイヤーが多層的な役割を担うことは他作品でも同様であるが、本作が特異なのは、それを明示的かつ流動的に劇中に取り込んでいることだ。
プレイヤーの役割を代弁し、劇の「外側」のキャラクターであったはずのエミリー・ベン・ボブの3人は、Act.3幕間劇で作中人物ウィルと電話を通じて交信を行ってから、どんどんと劇の内側へと潜っていく。
Act.4幕間劇で彼らは役者を務め、Act.5ではついにフィナーレを飾る。そして、Act.5幕間劇にてエミリーと作中登場人物の会話による短い楽屋オチと本作の寸評を挟み、円環の劇は幕を閉じる。
図18:Act.3幕間劇(エコー川沿いのあちこち)観光客のエミリー・ベン・ボブは、観光案内として電話を介して作中人物ウィルの声を聞く
図19:Act.5幕間劇(雇人の死)他の登場人物とともに、エミリーがこの劇を振り返り、寸評する
図20:Act.4幕間劇(ウン・プエブロ・デ・ナダ)とある日のWEVP-TVを描く劇。エミリー・ベン・ボブは登場人物として出演する
(補足1)厳密には、美術品の鑑賞や劇の鑑賞、ゲームのプレイも外側とは言わず、その行為自体が作者・作中人物たちとの間接的コミュニケーションといえる。
(補足2)ウィルは作中登場人物でありつつ、劇の外側の観客(プレイヤー)に目を向けるキャラクターとして描かれている。
Act.3幕間劇での観光案内、Act.4エコー川の語り部としてプレイヤーに語り掛ける語り、Act.3幕間劇の内線を通じて現実の電話と人間を使って録音された留守電を聞くシーン、そして、複数回挟まれる観客側をまっすぐ見つめるカットは、劇の外側とのコミュニケーションを象徴しているといえるだろう。
図21:Act.4(マッキーマンモス号)登場人物のなかでウィル(中央の男性)だけがこちらをまっすぐ見つめる
8.Player(流動的)
KRZにおいて、これらプレイヤーの多層的役割は何のためにあるのだろうか。ただ単にゲームを複雑にし、「アート」らしく思わせぶりにするためだろうか。
少なくとも手間をかけられたこれらの演出には意図があり、KRZにはプレイヤーが多層の役割を担うことで見えてくるものがあると考える。
それがなにかを考えるために、もう少しKRZを作りあげているメディアとテキストを見ていく寄り道をしたいと思う。
図22:Act.1幕間劇(リミット&デモンストレーション)ベンとエミリーが美術館の展示について語る
ベン:きっとなにかの象徴だよ。アーティスト、夕日、馬か。アナグラムか?それとも何かのコード...なのか?
エミリー:それか、単なる思わせぶりとかね。
9.メディアアート
KRZはゲームであるとともに、様々なメディアを組み合わせて表現活動を行おうとするメディアアートでもある。
本作がメディアアートであることは、Act.1幕間劇「リミット&デモンストレーション」で展示されている最も注力されたインスタレーション『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク・インスタレーション エドワード・パッカードのスタイルで』で端的に意思表示されている。
ナム・ジュン・パイクは、テレビ・ビデオ等のメディアを用いてメディアアートを始め��先駆者であり、本インスタレーションは彼の作品『Random Access』をそのまま引用している。
図23:Act.1幕間劇(リミット&デモンストレーション)展示作品『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク・インスタレーション エドワード・パッカードのスタイルで』
観客はテープレコーダーから取り外されたサウンドヘッドを使って、壁に貼られたテープを走行させ、場所や速度によって音の並びを常に変化させることができます。このように、音楽の素材にランダムにアクセスすることで、来場者は自分自身の作曲を行うことができるのです。
『Random Access』作品解説より
そして、もうひとりの引用元、エドワード・パッカードが生み出した読者選択型で冒険を進めていく小説形式のテキストアドベンチャーシリーズ「Choose Your Own Adventure」は1979年に刊行が開始された。この作品により彼はインタラクティブ・フィクションの親ともいわれる。
そのシリーズ1巻目の名前は“Cave of Times(時の洞窟)”という。
エドワード・パッカード:ブックリスト(WebArchive)
テキストゲーム研究家のアーロン・A・リード氏による「Cave of Times」解説
これらふたつの引用元を冠する『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク エドワード・パッカードのスタイルで』、この作品名の意味するところを嚙み砕いて言うと「テキストアドベンチャースタイルでメディアアートを始めるよ!」ということだ。
この宣言のとおり、ゲーム・テレビ・電話・コンピュータ・ラジオなど様々なメディアを組み合わせながら、演劇・散文・詩・歌・テキストアドベンチャーなど様々な形式にテキストを自在に変化させるゲームは幕を開ける。
(補足予定)
開発者たちの出身校であるシカゴ美術館付属大学でのメディアアート運動及び活動の引用(Act.4幕間劇等)について。
フィルモートン教授とサンディン画像プロセッサ
Copy It Right
10.テキスト(演劇)
本作を特徴づけるキャラクター名とセリフにより構成された脚本のようなテキストは、話す台詞を選択することで、展開や登場人物の性格付けを微妙に変化させることができる。
同時に、具体の要素をそぎ落として抽象的に表現されるキャラクター造形は、プレイヤーに演技の演出をある程度委ねさせる。
図24:Act.3(冒頭)プレイヤーは主人公コンウェイの台詞を二つのうちからひとつ選択する。キャラクターや背景はポリゴンで描写され、個性や特徴を持ちながらもどこか抽象的に見える
さらに、KRZに特徴的な静的な画面背景は、いくつかを演劇から借りている。
Act.1マルケス農家における抽象化された家は、近代社会における家族の崩壊を映す米作家アーサー・ミラーによる演劇「セールスマンの死」から借景したもの。これはもちろんここに住むマルケス家の崩壊と重なっている。
Act.3「木」において、呼んでも来ないレッカーを待ちながら意味のほぼない会話を交わす場面は、セリフ回しも含め、20世紀を代表するサミュエル・ベケットによる不条理演劇「ゴドーを待ちながら」を引用している。
図25:Act.1(マルケス農家)
図26:Act.3(木)
Act.2幕間劇「エンターテイメント」では、直接的に演劇そのものを鑑賞し、同時に出演することになる。この劇は、経済的苦境と近代人の苦悩を描く20世紀中盤のユージーン・オニールの演劇「氷人来たる」を現代風に翻案した学生演劇であり、プレイヤーは観客・役者として劇に参加する。なお、この幕間劇はもともとVRで参加できる仕掛けとなっている。
このようにKRZは、演劇という形式にテキストにおいても演出面においても大きく負っている作品であるが、なにより本作そのものがアメリカを代表する詩人のひとりであるロバート・フロストの詩「雇人の死」を翻案した演劇を目標とすることが、作中登場人物であり舞台監督であるキャリントンにより示唆されている。
演劇に多用される極度に抽象化された象徴的な舞台・台詞まわしは、本作のテキストや美術に大きく影響を与えていると言えるだろう。
図27:Act.2幕間劇(エンターテイメント)酒場で会話するハリーとイヴリン。両名とも、ユージーン・オニール「氷人来たる」に登場するキャラクターを現代風に再解釈したものである。
図28:Act.1(EQUUS石油)キャリントンの台詞「私はこの12年間を人生における最高傑作を作り出すため捧げてきた。ロバート・フロストの詩『雇い人の死』を、壮大かつ実験的な演劇へと翻案することに」
(参照)
エンターテイメント
VR・脚本
http://kentuckyroutezero.com/the-entertainment/
VR参加の様子 https://www.handeyesociety.com/event/wordplay-fest-pics-and-showcase-links/
続き(途中まで)
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【日記】
友人が勧めてくれた川越宗一の『熱源』は読了し、今は実家へ回っている。明治初期、大国の狭間で消されゆく樺太アイヌの青年と、ポーランドの青年、二人の人生を軸に、物語は進む。淡々と展開する歴史小説だけど、個人的には、夏の北海道旅やゴールデンカムイの延長あるいは歴史背景として楽しめる部分があり、話はどこか現代に通じるような所もあり面白かった。西洋文明をよしとしそうではないものを下等、野蛮とみなすことの傲慢。無垢な人々から巻き上げたもので学問をし博物館に陳列するというどこか権威的な行為。生まれついた所や行き着いた場所でプライドを失わず生きるということ。これが使命と信じてやり続けること。強さ、美しさとは… 。読みながら、色々なことを思った。
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先月の"100分de名著" 『アイヌ神謡集』も、とても面白かった。これは、音で聴けたのが大きい。独特の世界観。この日本列島に、ずっとずっと昔から住んでいた、文字を持たなかった人々の伝承。ほんのかけらであれ、とても貴重で、また新鮮だ。本来なら、耳から入ることばなのだろうけど、ときには物的に残し伝えることも大切だろう。一冊手元に置いておこうと思う。今は岩波文庫の赤(海外文学)に入っている。いつかこれが緑か黄(日本文学)に変わる日が来るんだろうか。まあ、紙の書籍というものがまだ存在していればの話だけど。
アイヌ出身の著者知里幸惠は、慣れない東京の地で、この日本語ローマ字対訳のカムイユカルを書き切って、心臓が弱かったこともあり、19歳で亡くなったという。北海道で、民俗学者金田一京助と出会ったこと、これを書いたこと、きっと何かの宿命だったのだろうな。関東大震災の一年前か。お墓など、どうされたんだろう。郷里には帰れたのかな。
そう言えば、もう30年以上前に北海道に家族旅行をしたとき、層雲峡のアイヌコタンで、不思議なお祭のようなものを見た。松明のともる広場で、アイヌの人々が、"チャーハナ、ンーンン"などと繰り返し歌いながら輪になって踊っていた。観光客向けだろうけど、夜で、ちょっと怖かったのを憶えている。あれも何かの神謡だったんだろうか...。
今月の100分de名著は折口信夫の「古代研究」か。これも面白そうなので録画してある。折口信夫というと、私は「石に出で入るもの」という好きな著作がある。山に行けない雨の週末にでも、100分まとめ見しよう。
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今月から、アニメ版金カム第4期も始まったので、こちらもひとまず録画。狂気の脱獄囚たちの物語や、札幌ビール工場の騒動が、動画ではどんなふうに描かれるのか、また、作中最も文学的なキャラクター(と私は勝手に思っている)尾形百之助の復活と、珍しくたくさん喋るシーンがどんな風になるのか、今から楽しみ。4期はまだそこまでは行かないかな?
妙にTV・漫画づいている近頃です 笑。
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秋は時折、ものすごく光と空気が良いなあという日がある。
何か大きなものが満ちて、やがて眠りについていく、その過渡期だからかな。
最後の写真は、最近県境近くの山に行った折に見かけた三ヶ日の山間。今、道沿いは、柿の直売真っ盛りで、畑の木々はみかんの実がたわわだ。はざかけが美しく並んだ田んぼも壮観。収穫期の農村はとても忙しそうで、でも明るく、静かで、豊かな感じ。
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