#群馬県から来た少女・改
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arcadebroke · 3 months ago
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kennak · 6 months ago
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首都圏にあるムスリム墓地 霊園内にあるムスリム区画には見慣れない墓が並ぶ 無機質な太陽光パネルが取り囲む高台に見慣れない墓が並ぶ。鮮やかな花が供えられ、墓石にはアラビア語が刻印されている立派な墓。四方をブロック塀で囲んだだけの簡素な墓。盛り土だけの土まんじゅうのような墓……。これらはすべて宗教上の理由で土葬を必要とするムスリム(イスラム教徒)が眠る墓だ。 1980年代後半からパキスタン人やバングラデッシュ人をはじめ多くのムスリムが労働者として来日した。一部は日本人女性と結婚するなどして定住し、彼らの配偶者となった女性も改宗した。いまや日本に住むムスリムは外国人と日本人を合わせて約34万人ともいわれるが、人口増加とともに深刻な問題になっているのが墓不足だ。 ムスリムは宗教上の理由で土葬を望むが、火葬率が99.9%を超える国内にはムスリムの土葬が可能な墓地は限られている。また、ムスリム向け土葬墓地の新設計画が持ち上がっても、地元住民から反対の声があがり、計画が頓挫してしまうケースも少なくない。 「ムスリムの土葬が可能な墓地のない沖縄から遺体が運ばれ、埋葬されたこともあります。いまでは全国から問い合わせがあります。一方で、約束を守らないなどトラブルが多いのも事実です」 こう話すのは、ムスリムの土葬を受け入れる霊園のひとつである埼玉県本庄市の本庄児玉聖地霊園を管理する早川壮丞さん(77)だ。ムスリムの墓不足の「実態」、そして埋葬現場に立つ当事者としての「本音」や「悩み」を聞いた――。 霊園には礼拝室や洗体場も 霊園は丘陵の頂上にある。周囲にあるのは工場だけだ 関越自動車道「本庄児玉IC」から車で15分。市の中心部から離れた丘陵地の坂道を上ると、突如「本庄児玉聖地霊園」の看板が現れた。丘陵の頂上にある霊園の周囲に民家はなく、太陽光パネルが林立している。 霊園の入口近くにはプレハブの管理事務所が建つ。その中には礼拝室がもうけられており、管理事務所の隣には洗体場もある。管理事務所を出て砂利の坂道を上ると、そこには平地が広がっており、入口にアラビア語の看板が立つ。その奥には見慣れない墓が並ぶ。ここがムスリムの土葬墓地区画だ。 本庄児玉聖地霊園は、全国でも10ヵ所程度しかないムスリム土葬墓地のひとつだ。なぜムスリムの土葬を受け入れるようになったのか。こう問うと、早川さんは苦笑いして「『先見性がありますね』なんて言われることもありますが、ムスリムの増加を見越していたわけではありません。まさに偶然が重なった形でした」と明かした。 「墓地を開設した1995年、当時許認可を管轄していた保健所の担当者から『土葬もできる墓地として申請しますか』と尋ねられました。というのも、この周辺地域には土葬の風習が残っていたためです。そこで、1万7000坪の敷地すべてを土葬ができるように申請しました。それがスタートです。 霊園には地主がいて、管理面を私の会社が担当しておりますが、地主が土地をめぐるトラブルに巻き込まれ、紆余曲折の末、4800坪だけが墓地として残りました。残りの土地には現在、太陽光パネルが置かれております。 もともと日本人向けの墓地であり、最大で270基の日本人のお墓がありました。もっとも、土葬を希望する人は���年現れず、現在に至るまで日本人による土葬の申し込みはわずか1件だけです。近年は墓じまいをする人も多く、収益は激減。墓地の維持が長年の悩みでした」 14体もの遺体が無許可で埋葬された 霊園内のイスラム区画 思わぬ事件が起きたのは、経営難に苦しんでいた2019年初めの頃だった。 「霊園の敷地内にムスリムの遺体が私の許可なく埋葬されていたのです。普段足を踏み入れない場所に重機が通った跡があり、それを辿っていくと石とブロック塀が並べられていました。調べたところ、そこには遺体が埋葬されていました。 私の許可なく埋葬していたパキスタン人は群馬県伊勢崎市にあるモスクの関係者を自称していました。土地をめぐるトラブルがあったのは先にお話した通りです。彼は『私はこの土地を購入している』という主張を譲りませんでした。その後も遺体の無断埋葬は続き、合計で14体もの遺体が埋葬されました。 イスラム教では埋葬は死後早いほどよいとされており、彼らは夜中に遺体を埋めるので現場をおさえられませんでした。警察に相談したところ、『現行犯じゃないと対応できない』とのことでした。そこで、監視カメラを設置したところ、ある日、夜中に重機が現れた。『これは埋葬するな』と思ったら、案の定でした。 警察に協力してもらい現場を取り押さえましたが、そこには20人ほどのムスリムがいました。私が管理する霊園内での出来事ですが、彼らは『土地を購入しているから問題ない』と言い張ります。結局、警察立ち合いの下、2019年10月に事務所内で念書を取り交わしました。このときばかりは、パキスタン人の男も態度を一変させ、しきりに『もう二度をやりません』と頭を下げていました」 「無断埋葬」事件の結末 14体もの遺体が無断で埋葬されたが、その一帯はのちに正式な墓地になった 無断で埋葬された14体もの遺体はいまも残る。早川さんは続ける。 「許可なく埋葬されたとはいえ、一度埋めたものを掘り返すことはできません。亡くなった方に罪はありませんからね。結局、そのまま墓地にして、いまでも残っております。 本来、正規の埋葬代金を請求したいところでしたが、200万円を支払ってもらうことで話をまとめました。男は警察官の前で念書に署名・押印し、その書類はいまでも保管してあります。もっとも、1銭も支払われていません。数ヵ月後、念書を取り交わしたパキスタン人は行方不明になり、現在に至っております」 このトラブルについて、本庄市役所の担当者はこう話した。 「土葬については経営者・管理者の方が判断するものであり、行政としてはいいともダメともいう立場ではありません。(埋葬をめぐり、本庄児玉聖地霊園で)トラブルがあったことは把握しておりますが、民間同士のやりとりのため、こちらが何か言える立場にはありません」 予期せぬ事態に困惑した早川さんだったが、東京��・大塚にモスクを置く宗教法人「日本イスラーム文化センター」の責任者から数年前に「ムスリム向けに区画を購入したい」という打診があったことを思い出した。 「大塚のモスクに連絡した��ころ、改めて『ムスリムの墓を受け入れてほしい』との話がありました。お墓がある限り、何としても霊園を維持していかなければいけません。ある意味、苦渋の決断ではありましたが、受け入れを決め、遺体が無断埋葬されていた場所の近くにムスリム専用の区画をつくりました」 恩義から草刈り 最初に埋葬されたガーナ人男性の墓。早川さんは無償で石材を提供した 最初に埋葬されたのは、大塚のモスクから紹介された埼玉県草加市に住むガーナ人男性だった。 「2019年6月です。一緒に来日した友人たちが故人のために必死にお金を集めたそうです。ただ、埋葬代を用意するのがやっと。本来、墓石代は別途ですが、霊園に余っていた石材を無償で提供し、どうにかお墓の体裁を整えました。友人らはその恩義から定期的に霊園を訪れ、毎年のように草刈りを手伝ってくれます」 墓地に眠るムスリムの国籍は様々だ。最も多いパキスタンのほか、バングラデシュ、スリランカ、インド、インドネシア、イラン、中国、ミャンマー、イラク、ウズベキスタン……。ムスリムの外国人と結婚した日本人もいる。 「受け入れを始めた2019年は8件でしたが、2020年は9件、2021年は23件、2022年は21件、2023年には31件まで増えました。今年は現時点で19件ですが、全体的に増加傾向にあり、合計で111件です。宣伝をしたわけではありません。口コミで広がったようです。ニーズがあったということでしょう。なお、キリスト教徒の土葬区画ももうけており、こちらは合計で5件です」 埋葬されたムスリムの居住地は、最も多いのが霊園の所在地である埼玉、次いで群馬だ。霊園がある本庄市は利根川を渡れば群馬県伊勢崎市という立地であり、また群馬はとりわけ外国人労働者が多く、ムスリムも多い自治体だ。一方で、本庄から遠く離れた場所も少なくない。 「ムスリム墓地のない富山や新潟、宮城、沖縄の方もいます。いまでは全国から問い合わせがあります。地域のモスクを通しての申し込みもあれば、個人からの申し込みもあります」 白い布で包み、掘った穴の中へ ファミリータイプの墓地もある 日本に住むムスリムが死去した際、母国に輸送するという手段もあるが、燃料費の高騰もあり、利用したくても利用できない現状もあるという。 「成田には専門の業者がいて、遺体を運ぶと母国に輸送してくれます。ただし、高額です。��前は60~70万円でしたが、いまは90~100万円に値上がりしています。日本に暮らすムスリムの多くはもともと出稼ぎに来ていた人たち。決して裕福な人ばかりではありません。 こうした事情も考慮し、埋葬料金は当初26万円に設定しました。一時、地主の意向で45万円に値上げしたこともあり���したが、現在は30万円に落ち着いています。墓石代については別途という形です」 現在、ムスリムのお墓は111基。新たにファミリータイプの墓地の区画も設置した。早川さんは、ほぼすべての埋葬に立ち会ってきた。 「遺体が霊園に運ばれると、洗体室で遺体をきれいにして白い布で包みます。それからムスリムの区画に移動し、白い布に包まれた状態で1メートル50センチ以上掘った長方形の穴にゆっくり下ろし、頭をメッカの方角に向けて状態で土をかけます。遺体は棺には入れません。つまり土に返す形です。 ひとつの遺体につき、区画は1メートル50センチ×2メートル50センチ。御影石の立派な墓もあれば、土の中に埋めただけの質素な墓もあります。国による違いもありますが、基本的には経済力次第です。 印象に残っているのは日本で生まれ育った10歳のバングラデシュ人のお嬢さんが埋葬されたとき。お父さんは泣きながら穴から出てこなかった……。彼は週末になるとお嬢さんに会いに来ています。日本人に比べ、ムスリムは墓参りにくる頻度が高いと感じます」 管理費を払わないムスリム 霊園を管理する早川さん ムスリムの土葬を受け入れたことで霊園の維持は可能になった。だが、悩みや気苦労は絶えないという。 「お墓の収益なんて微々たるもの。何とか維持できているような状態です。日本人とムスリムでは価値観がまったく違うこともあり、新たな悩みも出てきました。 ムスリムにとって値切るのは当たり前。埋葬してから値切ってくるので呆れてしまいます。向こうは10人以上で事務所に入ってきて、『高い。安くしろ』と訴える。あまりにしつこいので『持って帰ってくれ』と言ったこともあります。こっちはひとりで、向こうは集団ですから怖いですよ。 ムスリムは女性も手ごわい。盛んに『お金がない』と訴えてきます。あまりにもしつこい場合、やはり『持って帰ってもらうしかないね』と伝えます。すると女性は観念して『払います』と現金を取り出す。たとえお金があってもないと言い張る。日本人の感覚とはまるで違います。 約束を守ってくれないのも困ったものです。埋葬をしたいという連絡を受け、準備して待っていても、当日に現れない。こうしたことは一度や二度ではありません。また、年間1万2000円の管理費を払わないケースも多い。これでは草刈りもまともにできません。うちの場合、区画のサイズは決まっていますが、勝手に増設し続ける人もいます。 もちろん常識的なムスリムも多くいます。ただ、彼らは基本的に自分たちの慣習や常識を大切にしており、日本の風習や考え方をさほど意識していません。多文化共生というのは双方の歩み寄りがあってのもの。自分の主張ばかりでは相手も嫌になってしまいます。地域住民の反対により、各地でムスリム向け墓地の計画が頓挫していますが、そうしたことも根本にあるのでしょう」 後編記事『「闇土葬」が行われている…〈ムスリム土葬墓地不足問題〉在日イスラム教徒向け霊園経営者が懸念する「最悪の事態」』では引き続き、ムスリム向け土葬墓地不足の「実態」、そして霊園を管理する当事者としての「本音」や「悩み」を紹介しています。
「無断で死体を埋められた」「お金を払ってくれない」…ムスリム土葬墓地経営者が明かす、墓不足の「実態」と当事者の「深刻な悩み」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮���枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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yotchan-blog · 1 month ago
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2025/5/13 21:00:08現在のニュース
30年前に発見された翼竜化石、国内初の新種だった 熊本大など発表(朝日新聞, 2025/5/13 20:55:01) (見過ごされた児童虐待)子どもの命、親のものではない 苦しんだ母、育児で孤立せずに済んでいれば:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:54:15) <正論>日米安全保障条約が生き残る道  東京国際大学特命教授・村井友秀([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:51:18) NYの「玄関口」でトラブル多発、航空機の遅延や欠航 安全に不安も:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:48:19) 路線バス運転士、実はサッカー選手 第2の人生見すえ「ありがたい」:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:48:19) 立花孝志氏「兵庫の問題を訴える」県庁で参院選へ立候補表明会見(朝日新聞, 2025/5/13 20:47:54) 決算:日産、世界で7工場を統廃合 従業員2万人削減 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/13 20:45:49) 「自分より弱い人狙った」殺人容疑の中3少年が供述 千葉市の84歳女性殺害で([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:45:37) コンクラーベ内幕判明、新教皇は105票 最有力だったバチカン首相は「中国寄りすぎる」([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:45:37) リニア新幹線のトンネル2工区貫通 長野・伊那山地 隣接工区、初めてつながる JR東海([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:45:37) コンクラーベ最有力も「中国寄りすぎ」まさかの落選 異例の内幕判明で注目パロリン枢機卿([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:45:37) 女子中学生が100人以上の架空人物に成り済まし同級生をいじめ 熊本 「精神的に支配」([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:45:37) 歌麿や写楽を見いだした蔦屋重三郎の足跡 新旧の「吉原細見」も展示:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:42:28) 山林火災でアワビ250万個全滅 津波復興の水産会社、再起へ奔走:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:42:28) 北斎の浮世絵に浮かび上がる板元の個性 初代と二代、蔦重との関わり:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:42:28) 関西万博で再現された朝鮮通信使「未来社会ともにリードする起点に」:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:42:28) 進むリニア工事、トンネル内ひんやり涼しく 長野県内で貫通部を公開(朝日新聞, 2025/5/13 20:40:48) 八回途中無失点でTDKが4強 バイタルネットも JABA東北大会(毎日新聞, 2025/5/13 20:40:35) 年内の日銀利上げ確率予想が約8割に 米中関税下げで急上昇 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/5/13 20:39:38) ���術会議法案巡り応酬、維新・三木氏「政治的中立性確保を」共産・塩川氏「わが党へ暴言」([B!]産経新聞, 2025/5/13 20:39:25) 男女4人の自殺を手助けし起訴の男性 未成年者誘拐疑いで逮捕 山形(毎日新聞, 2025/5/13 20:37:11) 逮捕の中3「少年院に入れば家を出られる」 千葉女性殺害(毎日新聞, 2025/5/13 20:37:11) 八回途中無失点でTDKが4強 バイタルネットも JABA東北大会(毎日新聞, 2025/5/13 20:37:11) 日産、V字回復への道のり描けず 「痛みを伴う改革」を襲う高い障壁(毎日新聞, 2025/5/13 20:37:11) 本因坊戦第1局、14日開幕 一力本因坊が3連覇目指す(毎日新聞, 2025/5/13 20:37:11) 朝鮮通信使の復元船、261年ぶり大阪で内部公開「歴史にときめき」:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:36:15) 八尾コンクリ詰め女児遺体、遺棄容疑の祖父を不起訴処分 大阪地検:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:36:15) 「相撲にぴりつきが…」 あの日静かに怒った王鵬、雪辱の金星つかむ(朝日新聞, 2025/5/13 20:33:21) 日本出身選手の出場増へ ラグビー・リーグワン、選手登録規定を変更(朝日新聞, 2025/5/13 20:33:21) ローム12年ぶり純損益赤字 過去2番目の500億円、半導体不振:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:30:35) 山中に漂う空気嗅ぎ不明女性を発見 お手柄の警察犬イーロ号にご褒美:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:30:35) ガザで47万人が飢饉に陥る恐れ 全住民に食料不安 ユニセフ発表:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:30:35) 群馬・藤岡市副市長と商工会議所会頭を逮捕 官製談合などの疑い:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/5/13 20:30:35) テレビ朝日新社長に西新常務 篠塚浩社長は副会長に(毎日新聞, 2025/5/13 20:30:10)
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magazine-hitori · 4 months ago
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書物礼賛③
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岩浪れんじ/コーポ・ア・コーポ①/GOT2020
テレビとマンガは記号の王国。記号=共通の意味。視聴者・読者に意味が伝わらねばならないから、測って寄せてくる。最大公約数という言葉のとおり、王国といっても盲人の国では何とやら。私より少し後の世代からは、テレビとマンガの合体といえるビデオゲームで育った男性が多数を占め、次第に作る側にも回ってきた���でますます貧困化。
書物礼賛①で触れた、私の好きな現役のラジオ番組、兄弟漫才師・中川家のお昼の番組に女芸人・友近がゲスト出演、テレビの食レポでティラミスだかミルフィーユだかを関東ローム層にたとえたところプロデューサーに苦い顔をされたと語っていた。アルコ&ピース平子も同様の案件でアメトークの加地Pに叱責されていたな。実際アメトークの客は彼がカニクリームコロッケの熱さをマグマにたとえたことにポカンとしたのでしょう。私は好きだが。視聴者が高齢化し減少してくるし、制作側が誘導しなくても負のスパイラルが起り、今はもう「叩かれ役」として延命させられている段階。
それに対しマンガは本来深夜ラジオに近い本音のメディアであった筈が、初期から少年向け少女向けに分かれていたり雑誌単位の棲み分けも進み、出版社の官僚主義も手伝ってテレビと同レベルに貧困で、しかも狭いから意味さえ分からない、1ページ目から入っていけない結果になる。本書はウシジマくん的な経済弱者の群像劇を、よりサブカル的なモチーフと絵柄で見せていく体裁で、一応入っていける。しかし例えばウシジマくんの貧しい女たちの言葉「甘いパン甘いパン」「前に聞いた前に聞いた前に聞いた」「ポークって何?」には、私にとって今のテレビとマンガが根本的に抱える障壁=視覚と言葉で具体的に説明されると馬鹿にされているように感じてしまう=を超える生々しさがあるのに対し、本書の言葉・人物像は超えていない。良くできていると思うが、小さくまとまって食い足りない。
ニック・ハーカウェイ/タイタン・ノワール/ハヤカワ文庫2024・原著2023
タイタン化と呼ばれる遺伝子改変によって不老長寿を実現すると共に身長も2メートル半ばと巨大化した数千人の超富裕層「タイタン」の一人が殺された事件に端を発するクライムサスペンス。
ひさしぶりに手に取るハヤカワSFということでワクワク。この世に絶対とか永遠とかありえない。相互的に影響し合いながら常に流れている、それが時間であり生命であり、変化できなくなったとき命は終る。どのようなトリックによってそれをありえるよう錯覚させるのか、そこに興味があったのだが、この著者にもっともらしいトリックを考案する能力などなく、登場人物にこれこれこういう設定なんですと語らせるのみ。聞けば肉体改変などを扱うボディ・ホラーと呼ばれるサブジャンルがあるのだそうで、そうした舞台設定を借りて陳腐なパルプフィクションが展開される。もしパルプフィクションに徹しているのであればそれなりに雰囲気を堪能できる筈だが、翻訳に「元カレ」「置き配」といった今の軽薄な用語が頻出するなどで台無し。途中で投げ出した。現代イギリス人らしい幼稚で新自由主義的な作風ではあるが、挟み込まれた新刊案内などから察するにそもそも早川書房自体がジャンル細分化と経済至上主義を先導する存在で、今は細々と延命(前項でも使った言葉)しながら縮小再生産を繰り返すだけということのようだ。
マックス・ウェーバー/プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(上下)/岩波文庫1955・原著1905
タカアンドトシの古いラジオ番組の中で語られたエピソード。トシが家族でディズニーランドを訪れ、中1の次男が打ちひしがれた様子なので聞いてみると、杖を買うためにハリーポッターのアトラクションに並んだのだが抽選に外れて買えなかったのだという。母親が励まして一緒に並んだがまたも外れ、3度目でようやく買うことができた。計1時間ほど行列に。
買うと言っているのに抽選があり、行儀よく並ばされる。Lord is my shepherd…羊飼いを自称したキリスト、刑死した彼を看板に立てて復活だの最後の審判だの嘘を並べて集客したキリスト教こそ新自由主義の元祖であり、私にとってディズニーランドもパチンコ屋も同じように虚無だ。本書、いわゆるプロ倫は戦争と加工貿易の世紀、20世紀初頭にドイツで発表され、「神が与えた使命である職業の平等」「正直であり時間に正確であること」「禁欲の否定と質素の奨励」といったプロテスタントの徳目は、単なる道徳や処世術という以上に独自かつ普遍的な〝エートス〟であるとして、利潤追求や投資を正当化している。「資本主義は中国にもインドにもバビロンにも、古代にも中世にも存在した。しかしそれらの資本主義には独自のエートスが欠けていた」。
そうかな…。江戸時代前期に自作農の比率が高まり勤勉革命と呼ばれる労働生産性の向上を(産業革命に先んじて)実現したわが国なので、パチンコ屋とディズニーランドに相似が観察されるのではないか。さらに本書では既に米国の拝金と物質主義も批判されているが、現在の米英およびイスラエルは、キリスト教文明全体の閉塞を証明するかのようにナチスの災いを再来させている。プロテスタントだけ正当化することはとうてい無理だ。本書の論旨は説得力を持たない。まあ批判のために読んだのですが。私見では共産主義もキリスト教の異母弟のようなものと思います。
大森庸雄/ロック豪快伝説/立東舎文庫2017
米英ロックスターのご乱行が軽薄な文体でこれでもかと詰め込まれている。いきなり飛びますけど井ノ原とかいうのはアレでしょ、記者会見で「子どもさんも見ているから生々しい質問は控えて」的なことをほざいて隠蔽・保身を図った糞野郎でしょ。ジャニタレとしては不細工。面食いでない主婦層からの好感度高そう。逆にホストや半グレみたいのもいるし、いろいろ取り揃えておけばメディアや広告、不倫や不祥事、常に露出させることができて便利で儲かる。中居をCM起用した企業が損害賠償請求? ふざけてんのか、盗っ人猛々しい。お前らはジャニー喜多川の一味であり共同正犯だ。
マッチポンプ。イギリスがけしかけてアメリカが梯子を外す。怒っている欧米白人よ、お前らはずっとそういう争いの種をばら撒いて有色人種を食いものにしてきたんだ。わが国はそのやり方を進んで受け入れた。ジャニー喜多川はお寺の息子で朝鮮戦争に従軍。ロックンロールミュージックもまた、キリスト教帝国主義の飲む打つ買う慰安と戦後のベビーブームが合体して世界に広まった。音楽そのものは新機軸でバラエティーに富んでいるが、ミュージシャンの振る舞いは古今東西変わらない、空しい。今の私にとって音楽は一人に戻るためのもの。ライブ・カラオケ・ミュージシャンの私生活などまったく無用。
辨野義己/大便革命 腐敗から発酵へ/幻冬舎新書2018
現代人の生活状況を一言でいえば、「女はたまる。男はくだる」とでもいえるでしょう。ヒトの大便は水が80%、固形成分が20%、固形成分の3分の1が腸内細菌であり、この腸内細菌の塊は大便の6~7%に過ぎませんが、われわれの人生にとって決定的なものなのです。(中略)戦後の日本では、食生活の欧米化にともない、悪玉菌にとって、とてつもないご馳走が供給されるようになりました。(中略)ほかの動物の場合、大便を体内にためこむと体臭がきつくなり、周囲に存在を知られやすくなります。それは自ら��生命を危険にさらすことになるため、ためこむということがありません。
大便移植を試みている医療施設のなかには、現実的に効果がある大便が出てきたところもあるようです。ただし、それはAさんに与えると効果があるが、Bさんに与えても効果が出てこないという程度にとどまっています。大便移植の場合、それに含まれる腸内細菌の長期保存が困難です。凍結してもバランスが崩れてしまうのです。(中略)ヒトの腸内細菌にとって大事なことは、重要度でいうと腸腰筋を鍛える運動が50%、そして40%が食物繊維、つまり野菜です。そして残りの10%がヨーグルト・乳酸菌飲料です。
本書によれば香港住民は中国復帰後に男女とも5~6年平均寿命が延びたという。逆にかつて世界的長寿地域として知られた沖縄県は、フライドチキンやスパムなど脂っこい食べ物を好み野菜を食べないアメリカナイズが災いして男性全国36位、女性同7位に下がっているとのこと。便秘も日本人女性の半分近くが悩む深刻な状況で、30代以下ではお腹がすいたらパンやお菓子を食べ、炭酸飲料を飲むという生活のためウンチの元になる食物繊維が不足し、腸内環境が高齢者なみに悪化している者が少なくない。足腰を使った運動をして腸腰筋を鍛え、野菜・豆・海藻など食物繊維とヨーグルト・納豆など発酵食品を豊富に摂って腸内環境を良好に保つことが推奨されている。
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shintani24 · 7 months ago
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2024年11月20日
原爆を見つめた2人の学長 広島大学で企画展「長田新と飯島宗一」(毎日新聞)
広島大の前身・広島文理科大で学長だった長田(おさだ)新(あらた)氏(1887~1961年)と、広島大第4代学長の飯島宗一氏(1922~2004年)。同郷で同窓、同じ大学の学長を務め、原爆がもたらした被害に熱心に向き合った2人の足跡を紹介する展示「信州から来た2人の学長、原爆を見つめる 長田新と飯島宗一」が、広島大医学部医学資料館(広島市南区)で開かれている。
「広島大学創立75+75周年記念事業」の一環。広島大は1949年創立で、最も古い前身校の白島学校が設立された1874年から数えると、2024年は150年の節目となる。前半の75年の学長を代表して長田氏、後半の75年では飯島氏を取り上げた。
2人とも長野県出身で、諏訪中学(現諏訪清陵高)の卒業生。その生涯を県民性や母校からひもとくと共に、広島との出会いや原爆との関わりを示すパネルや書籍などを展示している。
広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島文理科大の教授だった教育学者の長田氏は自宅で被爆。同年12月から学長に就任し、大学の復興に努めた。その後、長田氏は広島で原爆を体験した子ども1175人の作文を集めて編集し、51年に手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を出版した。105人分を収録し、序文で84人の作文を部分的に紹介している。
出版翌年の52年、作文を書いた子どもたちは「原爆の子友の会」を結成し、彼らをねぎらう集会も開かれた。展示では、当時作文を寄せた1人の早志(はやし)百合子さん(88)がその時の写真を提供し、教室に集まった子どもたちが長田氏から本を手渡されている様子や、集合写真などが並ぶ。
病理学者だった飯島氏は、米軍が接収していた被爆直後の解剖資料を返還させるなどした。69年に46歳の若さで広島大学長に就き、東広島市へのキャンパス移転など大学改革を主導。72年に発足した「広島大学原爆死没者慰霊行事委員会」の委員長を務め、74年8月には原爆死没者を追悼する碑を建立した。
被爆30年の75年には、大学の被爆状況や被爆、被災した学生・職員らの記録「生死の火 広島大学原爆被災誌」を刊行。飯島氏が広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)に寄贈したものを今回展示している。飯島氏は母校の名古屋大の学長も務めた。
展示を企画した原医研の久保田明子助教は「広島出身ではない2人が大学人として、広島の大学がどうあるべきか考え、原爆のことに尽力した。その功績と併せ、信州についても知ってもらえたらうれしい」と話している。
入場無料。12月25日まで、平日午前10時~午後4時。土日祝日休館。【根本佳奈】
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「無人餃子」閉店ラッシュの中、なぜスーパーの冷凍餃子は“復権”できたのか(ITmedia ビジネスオ��ライン)
「盛者必衰の理をあらわす」とは、まさしくこのことだ。コロナ禍で日本全国に急増した「餃子無人販売店」の閉店ラッシュが続いている。
それを象徴するのが、このカテゴリーを代表する「餃子の雪松」だ。2019年7月に無人店舗で冷凍餃子の販売をスタート。群馬県みなかみ町にある老舗中華食堂「雪松」の人気の味を再現した餃子は、「冷凍とは思えないおいしさ」との評判だった。
その結果、コロナ禍真っ只中の2022年には、全国400カ所以上への出店を実現。また、「2023年内に1000カ所を目指す」という経営陣の声も注目を集めた。
『マネー現代』が2024年6月に公式Webサイトで店舗数を数えたところによると、374店舗だったという。ところが11月17日時点で、同じく公式Webサイトでカウントしたら219店舗。2年前から半分ほどの規模にまで縮小してしまったのである。
実際、ネットやSNSではさまざまな地域で「近所の雪松がなくなってしまった」など閉店を惜しむ声が多く寄せられている。
さて、このような話を聞くと、「高級食パンと同じで最初は珍しいから飛びつくけれど結局、たくさん似たような店ができて飽きられちゃうんだよなあ」という感想を抱く人も多いだろう。
確かにそのような面もあるだろうが、個人的にはここまで苦戦を強いられているのは、「ライバル」に足を引っ張られていることも大きいと思っている。つまり、「無人餃子」ブームで客を奪われていた「スーパーで売っている冷凍餃子」が復権してきたのだ。
冷凍餃子の売り上げはパッとしない?
冷凍餃子最大手の味の素冷凍食品(以下:味の素、東京都中央区)の調べでは、2010年4月から2021年3月にかけて、市販用冷凍餃子売り上げ(金額ベース)は約2倍に伸長している。もともと冷凍餃子というものを世に出した味の素は大きなシェアを握っており、「大阪王将」で知られるイートアンドフーズ(東京都品川区)とともにツートップとして市場をけん引している。
ただ、伸長はしているが、ずっと順調に成長しているわけではない。2016~18年の3年は横ばいで、以下のような記事が出るように、王者・味の素もパッとしなかった。
『味の素、「冷凍ギョーザ」の販売が冴えないワケ』(東洋経済オンライン 2019年2月15日)
背景にはいろいろあるが、味の素が2012年に開発した「水なし・油なし」という調理方法が競合品でも当たり前になったことで、「似たような冷凍餃子」ばかりになってしまったことも大きい。
2018年7月には味の素のライバル、イートアンドフーズ運営の「大阪王将」が「水なし・油なし・フタなし」という画期的な冷凍餃子を世に送り出したことで市場は再び成長していくが、3年間の「隙」をつく形で新たなプレーヤーが参入してくる。「餃子無人販売店」だ。
コロナ禍で「無人餃子」が勢力を拡大、しかし……
火付け役の「餃子の雪松」も2018年9月に1号店を誕生させると、その味のクオリティーもさることながら、24時間いつでも購入できる便利さからじわじわとファンを増やし、それがコロナ禍のステイホームで大ブレーク。つまり、スーパーの冷凍餃子の成長が踊り場になった隙をついて、「無人餃子」が勢力を拡大していった、という構図だ。
それがここにきて「無人餃子」があからさまな苦境に陥っている。そのタイミングで、食品業界紙に以下のような記事が出るほど冷凍餃子が好調ならば、「客が奪われている」と見るべきではないか。
『【速報】味の素冷凍食品、「ギョーザ」復権し出足好調』(日本食糧新聞 2024年7月9日)
なぜここにきてスーパーの冷凍餃子は「復権」できたのか。一つは、最大手で業界をけん引している味の素が「顧客の声に真摯に向き合う」という普通の企業なら腰が引けてしまうことに乗り出したことが大きい。
スーパーの冷凍餃子をよくつくっている人なら分かると思うが、「水なし・油なし」さらに「フタなし」などと掲げている商品で説明書き通りにやっても、うまく焼けないことがある。焼きむらができ、底はパリっと焼けても上のほうがまだ凍っていたり、逆に火加減やフライパンによっては焦げ付いて、餃子の皮が取れてしまうなんてこともある。
このようなややネガティブな声、ストレートにいえば「文句」というものに対して普通、食品メーカーはあまりまともに取り合わない。調理環境など個々の事情が影響している場合もあるので、1つ1つ取り合ったらキリがないからだ。だから、「調理方法をもう一度よくご確認のうえ調理してください」などと当たり障りのない対応をしてお茶を濁すのが常だ。
味の素の戦略
しかし、味の素はこの「文句」に真正面から向き合った。「こちらでは何度やってもうまく焼けるのに、焼けない消費者がいることは、こちらが想定していない状況があるはずだ」ということで、冷凍餃子がうまく焼けなかったフライパンの提供をSNSで呼びかけたのである。
これが反響を呼び、なんと全国から3520個も届けられた。しかも、驚くのはここからだ。味の素はそれらを全て検証し、その結果を専用サイトに掲載したのである。
それからほどなくしてリニューアルした冷凍餃子がよく売れたことは言うまでもない。メーカーへの「文句」に対して、ここまで真摯に向き合って改良した餃子を食べてみたいと思うのは、消費者として自然な感情だ。
ちなみに、味の素がやったのは「マネジメント」で知られるピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)氏が言うところの「フィードバック」というものだ。
ドラッカーは、組織外からの情報を得て学習する「フィードバック」が機能している組織のマーケティングは、「セールスや宣伝をしなくても自然にモノが売れていく」状態になると説いた。味の素はドラッカー理論に基づいてマーケティングを成功に導いたのだ。
このように冷凍餃子市場をけん引する最大手が「顧客の声に真摯に向き合う」という範を示したことで、他のプレーヤーも刺激を受けたのか、「冷凍餃子の顧客満足度向上」に力を入れてきたことも大きい。
マルハニチロが14年ぶりにカムバック
分かりやすいのは、14年ぶりに冷凍餃子市場にカムバックしてきたマルハニチロ(東京都江東区)だ。
2024年7月に発売した「赤坂璃宮の餃子」は、その名の通り高級中華・赤坂離宮監修のもとで素材にこだわった高級餃子が「水なし・油なし」で手軽に調理できるというのが売りだ。
また、大阪の中華料理店から餃子の製造・販売メーカーとなった「餃子計画」が2024年9月から発売している「創業の味 生餃子 12個」も分かりやすい。
一般的なスーパーの冷凍餃子というのは、餡を皮で包んだ後に蒸してから冷凍する。しかし、この商品の場合は餡を皮で包んだ「生」のまま急速冷凍している。このような製法をすることで、具材の旨みや香りが抜けないという。
確かに、料理をする人は分かるだろうが、炒め物でも蒸し物でも、一度加熱したものを温め直すと味や香りが若干落ちる。そこで、熱を入れるのは最小限のほうがいいという発想である。
このような形で、各社がスーパーの冷凍餃子の質や顧客満足度を競い合うように上げていけば当然、市場は盛り上がる。そうなると、「これまで無人販売店で売っている餃子がおいしいと思って買��てたけど、スーパーで売っている冷凍餃子コーナーも充実していいじゃん」という感じで、客がスーパーの冷凍餃子売り場に戻ってくるというワケだ。
「閉店ラッシュ」の要因は他にも
もちろん、「閉店ラッシュ」の要因はそれだけではない。コロナ禍で「24時間無人で餃子が買えるなんて面白い」と注目を集めた「強み」の部分が、近年の餃子ブームで「近場にある有名な店に行けば、どこでも冷凍餃子が買える」という状況になって、かすんでしまったこともある。
冷凍餃子は参入障壁が低い。イオンやライフといったスーパーのPB(プライベートブランド)はもちろん、大手コンビニ3社、無印良品などもオリジナル冷凍餃子を販売している。
極端な言い方をすれば「やる気さえあれば誰でも参入できる」ジャンルだ。実際、UFOやネッシーなどダイナミックなスクープが一面に踊ることで知られる『東京スポーツ』も、少し前に「東スポ餃子」という冷凍餃子の販売に乗り出している。
この動きは2024年に入ってからさらに加速しており、これまで冷凍餃子に無縁だったプレーヤーが「オリジナル冷凍餃子」の販売に乗り出している。
その代表が、ドラッグストア大手のウエルシア薬局(東京都千代田区)だ。同社初の冷凍食品として「黒豚をちゃんと感じる幸せの肉餃子」を2024年4月に発売。2023年に「ドラックストアにあったらうれしい食品」に関するアンケートを行ったところ、冷凍おかず、特に冷凍餃子を求める声が最多だったため、開発をスタートしたという。
百貨店なども参入
「閉店ラッシュ」に苦しむ百貨店も参入している。
広島県内で展開する老舗百貨店「福屋」(広島市)は、同じく広島県内で「広島カープ餃子」などを製造している井辻食産(広島県安芸高田市)とコラボして、消費者と一緒にアイデアを出し合いながら、広島県産の食材を用いた「カラダにやさしい餃子」を開発した。これを「広島新名物 餃子としあわせ」とネーミングして、オンラインショップや百貨店で2024年3月から販売している。
「町おこし」の世界でも冷凍餃子はアツい。草津温泉のある群馬県の草津観光公社では2024年7月、嬬恋高原キャベツなどの厳選食材をふんだんに使った「草津温泉餃子」を発売した。全国にある「道の駅」でも、オリジナルの冷凍餃子を販売している。
このような「どこでも誰でもオリジナル冷凍餃子」という社会状況になってしまうと、いくら群馬県の名店「雪松」の味を忠実に再現しても、無人店舗で24時間購入できたとしても、「馬群に沈む」ことになってしまうのは致し方ないのではないか。
これはスーパーの冷凍餃子にも同じことが言える。今は好調かもしれないが、ちょっとでも景気の良いところには「オレにも甘い汁を吸わせろ」と言わんばかりに新規参入が殺到して、すぐにレッドオーシャンになる、というのが最近の日本のパターンだ。
つまり近い将来、ビールメーカーが作ったこだわりの冷凍餃子とか、有名シェフが監修した冷凍餃子なんてのが、���ーパーの冷凍食品に並んで、壮絶なシェアの奪い合いが始まるのだ。
実際、この原稿を書いているとき、近くの「肉汁餃子のダンダダン」でランチをしたら、「鳥羽周作シェフ監修 究極の餃子定食」を展開していた。
もはや「国民食」というほど普及した餃子カテゴリーの中で、「おいしい」を訴求するのは当たり前だ。それ以外に、どうやって競合と異なる独自のカラーや強みを打ち出し、消費者の支持を得ていくのかは大きなテーマだ。
熾烈な生き残り争いに突入した冷凍餃子プレーヤーたちの次の一手に注目したい。
中井彰人(株式会社nakaja lab 代表取締役/流通アナリスト)見解 日本冷凍食品協会のR6年「冷凍食品の利用状況実態調査」によれば、冷凍食品を利用する機会が増えた理由のアンケート結果では、2024年と2020年の回答の変化が示されている。そこでは「おいしいと思う商品が増えたから」、「野菜など生鮮品の価格が上がったから」という回答が増えていて、中でも価格が上がったという答えが2倍以上に増えている。これでみると、おいしさとコスパが相対的に良くなったことで、スーパーで冷凍食品を選ぶ人が増えたことが背景にあることが伺える。多くの消費者にとって、食品の買物で価格上昇が最大の問題であり、賢く選択していくためには、冷凍食品のコスパがはずせなくなってきているということと解釈出来る。ただ、冷凍食品全体の需要が増えていても、無人餃子はコロナ禍における選択であり、制約がなくなり、かつ、スーパーなどでの選択肢が増えている中では、減少するのはやむを得ないのだろう。
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティン��プランナー)補足 餃子の無人販売店や自販機は、物珍しさで消費者が飛びつき、媒体がこぞって取り上げSNSなどで拡散しブームとなったが、出店戦略やマーケティングを駆使した事業展開ではなかったことから、ブームが沈静化すれば淘汰されるのは当然の結果。
それに対して冷凍のスーパーの販路においては、有力メーカーの商品開発力とマーケティングにより巨大な定番市場を形成している。
その一方で、こだわりやプレミアムのアイテムの商品開発も行われ、それぞれ棲み分けがなされ、市場は活性化している。
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irodoru60sw · 11 months ago
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2024/8/11
「旅の話 その4(富岡製糸場)」
東京から足を延ばし、以前から訪れてみたかった「富岡製糸場」へ。
HP→https://www.tomioka-silk.jp/_tomioka-silk-mill/
明治初期、国を挙げての生糸生産のために作られた本格的な生糸工場。1872年(明治5年)のスタートから操業を終える1987年(昭和62年)まで、100年以上の歴史が詰まった奥深い場所です。兼ねてより古い建物と近代史に興味津々の私みたいな者にはぴったり◎2014年には世界遺産に登録されました。
まずは群馬県の高崎駅から上信電鉄で約40分。富岡製糸場に行く人は「入場券付き往復割引券」なるものをゲットできます。
なんと自動改札機がなく、駅員さんが���サミで切符の端っこをチャキンと切ってくれました(↑画像1番下・左)。30年以上ぶりの体験で一気にノスタルジーの世界へ。
近づくにつれてだんだん乗客もまばらになり、座席シートのオレンジが外の風景に映えてくるのが良い。
富岡駅からは徒歩10分ほどで到着。
平日の朝イチだったので混雑もなくゆったり。せっかくなのでガイドツアーにも参加してみました。
総レンガによる素朴な建物がまずはメイン。繭の保管場所や繰糸工場だった場所で、内部も見学できます。
興味深かったのは、フランス人の指導者が設計したというそのレンガ造り。当時レンガ職人は日本にいなかったため、方々から集まった'瓦職人'の手によって作られたらしい。焼くのも積むのも初めての人たちがこれだけのものを作るとはすごい。ただし近年のレンガのような整然としたものはなく、よく見るとちょっと歪んでるんですね。本当に人の手がひとつひとつ積み上げたのがよく分かります。それでもびくともせず、150年経った今でも佇まいは美しい。
繰糸工場の中にあるのは(画像7段目・右)最後に使われた昭和の機械とのこと。繭から糸を繰り出すためのものだそう。ここも明治期には数百人の女工さんが並び、もちろん作業も手で行っていました。色々と圧倒されます。
その他、敷地内には宿舎や社宅だった場所もあり、ガイドさんが丁寧に解説してくれました。ちなみにガイドさん侮るなかれ。70代ぐらいの女性で地元のボランティアの方かな?というゆるい雰囲気でしたが、始まってみるとすごく分かりやすく面白く、私たちの方を向いて後ろ向きに歩きながら建物ひとつひとつを説明していく姿がかっこよすぎました。参加者の質問も全て拾って答えてくれる素晴らしい方でした。皆さまも行かれた時にはぜひ。
生糸生産が国の産業として発展し、衰退していくまでの100年と少し。長いとみるか短いとみるか。どちらにしても、国を大きくしようと皆で頑張っていた時代があったのだと思うと、とても濃い。
これからの100年は何が消えて何が残るだろうか。新紙幣も今回が最後かと言われていますから、時代の流れには逆らえないものもあるでしょう。
興味深く生きていたいと思います。
帰りの電車は地元の学生たちでいっぱいの中、ずっと景色を見ながら車窓にへばりつきました。
高崎駅の改札口で切符は回収されるものと思っていたら、��持ってていいですよ」と駅員さんに言われてなんだか今日イチで嬉しく、2か所カットされた切符は今部屋の本棚に飾ってあります。笑
今回の旅は思い出すともう1ヶ月以上前の出来事。まだ梅雨入り前でお天気にも恵まれ、仕事の合間で余裕もあり、体調も良く、行きたかった場所にも行けて、電車や新幹線の乗り継ぎもばっちり。全てが奇跡のようなタイミングでした。そうそう巡ってこない貴重な時間となりました。
感謝して、また秋からの日々に還元していけたらと思います。
最後まで読んでくださった皆さま有難うございました。
(完)
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petapeta · 5 years ago
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 12月6日、群馬県草津町で、一人の女性議員に対するリコールの賛否が、住民投票で決定される。  発端は、この女性議員が町長から性被害を受けたと昨年の11月にメディアに告発したことだ。町長は性被害の事実はないとし、女性を刑事と民事で訴え、その後、草津町議会は彼女を「議会の品位を傷つける発言をした」と除名処分にした。その後、群馬県がこの処分を取り消し、女性議員は議会に戻れたのだが、改めて議会で議員辞職勧告を受け、さらに町議等が先導して今回のリコールにつながった。   現在の草津町議会は12人。女性は町長を訴えた新井祥子さんただ一人で、彼女は草津町議史上初めての女性議員でもある。小さな地方議会で、「性被害の事実はない」という町長の声が一方的に通ってしまう現実、さらに現職の町議等が町民にリコール投票を求める力には、やはり違和感しかない。日本有数の温泉地でありながら、女性がたった一人の議会。そこはどのような空気で、何が語られているのだろう。気になり、草津町議会の動画を何げなく見た。これがかなりの衝撃的な内容だった。  まず、男性が圧倒的多数の歪(いびつ)さは映像で見るとやはりインパクトがある。議員12人のうち11人が男性で、ペーパーを配る係に女性が一人いるが、15人ほどいる役所の担当者等も男性ばかり。議場が新しく見えるせいか、まるで女性が生まれない未来社会に来たかのような強烈な世界観だ。視聴したのは新井議員に辞職勧告が出された今年3月2日の議会だが、そこで映されていたのは、男性たちが徒党を組むように、新井議員をおとしめる様子だった。 「(セクハラ告発は)草津町議会にとっても、町民にとっても、経済にとっても、対外的に��非常に迷惑!」と大声をあげる議員がいれば、「レイプされたというのなら、なぜ即刑事事件にしなかったのか?」と、新井議員の告発の真偽を疑う発言も繰り返された。こういう発言に新井議員は「裁判中だから発言を控える」と言い、時には「性被害者はすぐには訴えられないものだ」などと感情を交えず静かに反論していた。  また過去に新井議員が草津町の権力者をパロディー化(欲深い豚の顔に似せたりなど)したマンガを自身の活動誌に掲載していたことに触れ、「あなたは人を豚にしたりロバにしたりしているんですよ? これほどのパワハラはないんですよ!」と声を震わせる議員もいた。それはパワハラとは言わない……と思ったが、理屈よりも感情がものをいう世界のようで、「草津町議会にはセクハラもパワハラもない」と、何の根拠もなくこの議員はただ大声で言い切った。  衝撃だったのは町長だ。彼は性被害があったと新井議員が訴えた町長室の写真を大きなパネルにして、「どこで私にいかがわしい行為をさせられたのか答えてください」と目の前で迫った。「裁判で明らかにしていきます」と新井議員が答えても「答えなさいよ!」と大声を何度も出した。さらに新井議員の告発によって、「本当に被害にあった女性が声をあげられなくなる、大変な罪作りだ」と責め、こう言った。 「私に犯された女性ならば、とても(加害者と同じ空間の)ここにはいられない」「それがあなたは平然として、平気で私の目を見る」「神経が分からない」。このセリフは何度も繰り返された。  町長にたとえ加害の事実がなかったとしても、この議会そのものが十分に性暴力でミソジニーだった。「この議会の様子はYouTubeで世界に配信される!」と町長自身が動画内で言っていたので、自身の正しさを証明する機会として、新井議員をおとしめる発言を繰り返したのだろうが、「世界的」には完全にアウトなのは草津町議会そのものではないか。男性ばかりの歪な議会で、性被害を訴えた女性を「嘘つき」とののしる姿を世界にさらしてしまった。  日本には女性議員がゼロの市区町村が、311あるという(2020年内閣府調査)。全1741市区町村中なので、この国の約18%の“あなたが暮らす街”は、男性だけで大切なことが決められているということになる。日本全国でならすと、市区の女性議員率はたったの16.6%で、町村にいたっては11.1%。草津町のように女性がたった一人しかいない議会は地方にいけばいくほど珍しくない。  国政に出るより町議や区議のほうがハードルが低そうだし、女性も多そう……ということは全くなく、地域に根づけば根づくほど、そして田舎であればあるほど「女性は家に」の圧力が高く、政治参加が難しい現実があるのだ。  日本有数の温泉街で繰り広げられるミソジニー議会。温泉街は女性の働き手抜きには語れない。一昔前は、住み込みでの旅館の仕事は、身寄りのない女性の自立の道でもあった。夜のサービス業も過去は非常に盛んで、今もコンパニオンの需要は少なくない。女性議員があげた性被害の声と、それを数の力で潰す光景に、女性たちは何を思うのだろう。  性被害告発に対する町議等の過剰な反応は、町民たちにどのように届くのだろうか。12月6日の結果を見守りたい。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
まるで現代の魔女狩り? 性被害を訴えた草津町議会女性議員へのリコール〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
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xf-2 · 5 years ago
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1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階級は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。
 自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。
 その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。
 その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。
 朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。
 6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。
 小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。
 現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。
 空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中で謝りました。
 降下後、普通科群長が命令を下達しました。我々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。
■「生存者発見!」
 息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った���間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。
 その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。
 同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。
 生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。
 無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。
 尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたからでしょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。
 生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見されずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。
 でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。
 結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。
 ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。
 次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。
 3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。
 ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から���がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしまったら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
 結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、やはり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。
 生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。
 普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。
 周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。
 我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。
■“モミジ”
 ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。
 14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。
 ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。
 ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。
 今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的でした。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。
 14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。
 警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。
 ある時、広げたままの寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。
 マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。
 今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは認識していましたが、我々の活動が大々的に被写体になるなんて私自身は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。
 ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。
 また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であっても救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。
■ストレス障害
 御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。
 昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。
 もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした。結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。
 この��は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。
 ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。
 それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。
 そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。
 戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。
 現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。
 あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。
岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長 昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。
「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載
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tezzo-text · 5 years ago
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201005 九月の読書など
9月は忙しかった……。ということでろくに本を読んでない。今日は久しぶりに二子玉川の上海で飯を食ったが、唐揚げがピーナッツっぽい風味でおいしかった。ピーナッツ油(?)で揚げてるんだろうか。二子玉川に行くといつも上海かケンタッキー・フライド・チキンで迷う。上海は半端な時間は閉まってるのでケンタッキー多し。でもフライド・チキンて本読みながら食えないのが難点よね。手が油まみれになるから…。 -
200916
阿川弘之『葭の髄から』 文春文庫(2003) https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167146078
201004
阿川弘之『人やさき 犬やさき 続 葭の髄から』 文春文庫(2007) https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167146085
盆に父の実家へ行くと、芥川賞の時期だからか、あるいは単に暇だからか、父は文藝春秋を買って持っていった。いつだかの巻頭随筆で、阿川弘之が高松宮家の侍女長を紹介した記事が興味深く(微温的皇室ウォッチャーでもあるので…)切り抜いて取っておいたが、ふとそれを思い出して連載の文庫版を買ってみた。
ま、読んでみればそう拡張高いわけでもなく、『この国のかたち』ほど教養深い内容でもなく、素朴に保守的な随筆という感じだが、やっぱり出てくる話々におっと思うところが沢山あった。戦中の話では、たとえば高級将校でさえ終戦を論じていなかった時すでにその気配を察知していた株屋の話、海軍は陸軍と違って知英派・知米派を登用し続けていた話など。戦後では香淳皇后の崩御時に宮殿で棺に祗候する不思議な儀式の話、本来「べし」というべきところに「べき」は誤用という話などが興味深かった。
その中で、素直にためになったと思ったものもある。阿川弘之は根っからの戦中派、海軍出身なのもあってベッタリとした国粋主義者というのではないがとことん親米反中で、2000年4月の石原慎太郎による「三国人」発言には「やること言ふこと、今回の件に限らず、群を抜いて爽やかな感じがある」と共感している。
そこはどうにもならんが、しかし「あんまり人の気分をすつきりさせたり、御自分ですつきりしたりなさるのは考へものですよ。」と述べ、嗜めとしてある言葉を載せている。同誌で中西輝政京大教授がギリシャの歴史家ポリュビオスの言葉を引いていたのを紹介しているもので、ひ孫引きになるがそのまま引用してみる。
「物事が宙ぶらりんでどつちにも決らない状態のまま延々とつづくこと、これが人間の魂を一番参らせる。その状態がどちらかへ決した時、人は非常な気持ちよさを味はふ。ただし、それが国の指導者に伝染したら、その気持ちのよさは国の滅亡をもたらす。ポリュビオスがカルタゴの滅亡について論じた此の言葉は、英国では軍人も政治家もよく知ってゐて、エリートは物事の決らない気持悪さに耐へねばならぬといふ教育をされてゐる。残念ながら日本にはさういふ文化が無かつた」 -
201005
藤野裕子『民衆暴力』 中公新書(2020) https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
・明治期の大規模な制度改革(徴兵制、学制、地租改正、賎民廃止、違式詿違…)の中で、1872年の『徴兵告諭』で「血税」という言葉が使われた。これがきっかけの一つとなって、「徴兵されると「異人」に血を抜き取られる」「西洋人は小児の生き血を取って薬を練る」「西洋式の病院に行くと、患者は鉄串の上に乗せられ知らぬ間に身体の「膏」(脂、あぶら)を抜かれ、笑いながら死ぬ」という噂が流れたが、この頃の一揆はそういう社会不安をベースにしていたらしい。今、納税者として税のおもみをアピる時にも「血税」と言いがちだが、このオカルティックなニュアンスが脳裏にあるとなんとなく不気味な感じがしていいかも…。
・上記のような時代、いわゆる「新政反対一揆」が多く起きた。これらについては60-70年代に充実した研究がされていて、民衆発の抵抗運動としてある種の評価をされている。ただし、それらは地元役人宅、学校、交番などと同時に近隣の被差別部落も襲撃の対象にしており、権力への抵抗とシンプルには言えない。
・日比谷焼き打ち事件の原因には日露戦争後のさまざまな世論が関係しているが、それが暴力として発露した背景には、都市部・男性・社会的経済的に低層と目される・日頃から暴力と親和性のある・しかし侠気もある肉体労働者たちの存在がある。焼き打ちには彼らのような労働者たちが参加していて、彼らの暴力が合流したことで予想外の規模に発展した。このように暴力はコンセプトと別に成分としてあり、それが合流、結集、委譲されることで民衆暴力が成立することがある。
・その明確な例として出されているのが関東大震災後の埼玉県本庄警察署での一連の事件である。本庄町は検挙者が群馬方面へ移送されるルート上にあり、多くの朝鮮人が警察署に収容されていた。県が朝鮮人に対する攻撃を正当化するような通達を出したことと、東京から避難してきた人たちの流言から、9月4日夕から町民の自警団が署へ集まり、到着したトラックに乗せられていた朝鮮人を虐殺、その後5日未明にかけて署内にも侵入して70名以上の朝鮮人を虐殺した。さらに証拠を消すため死体を山林で焼き、埋めている。
その描写はほんとうに凄まじいが、本当に恐ろしいと思ったのは翌6日の事件のことである。虐殺のあった翌日夜、再び町民約1000人が集まり、今度は本庄警察署自体を襲撃、放火寸前まで行く。実は半月前からお祭りでの神輿担ぎに関する問題、遊郭についての問題などで町民は署長に反感をもっており、今回の襲撃の背景にはそれがあった。さらに自警団が「朝鮮人を本庄署に連行したところ「司法権の侵害だ」と怒られた」こと、前日の襲撃の際「村磯所長に「一般大衆は手を出すな」と言われ、「今までたのむといっておきながら、何事だ」となり「署長を殺せ」」となったことも直截の原因だった、とある。一つの暴力が被差別者へも権力者へも向けられている点では、これは新政反対一揆と同じである。ただ一揆においては少なくとも一つらなりの不安・不満が複数の対象に向かったのに対し、ここでは国や県の通達によって自警団に暴力が委譲された結果、それを使って何ができるか、理由はどうあれもっと使いたい、という感情が暴力行為を惹起しているように思える。
・わしは、暴力は、ものごとを繊細で豊かで複雑な状態から、シンプルな状態に、ときに無にするものと思うが、どの部分が許されざる暴力であり、どの部分が時代を進展させる原因になった暴力か、という風に分けられない点で、ものすごく複雑でもある…と思った。あとがきでも書かれているが、では原理として暴力はすべて許されざるものとしていいのかというと、それこそシンプリファイというもので、暴力に頼るしかないほどの状況に追い詰められた人々への追い討ちの暴力のように思えてしまう。
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kinu-kakimoto · 5 years ago
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「他者」がいなくなる時、
たった独りの私
「──〈自己であるような他者〉 ──。意識においてそうであるまえに、非意識において、つまり身体においてそうなのだ。」
(見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』〔1984〕岩波書店 同時代ライブラリー77、74頁)
 他者を考えることは自分自身を考えることであり、自分自身を考えることは他者を考えることだ。このことを、色々な場面で考えることが多かった。また、作品を制作する中でも根幹的な大きなテーマとして、常に取り上げていきたいと考えている。しかし、世界との繋がりや、関係を考える糸口になっていた、その「他者」の存在が揺らぐことがある。あゝ彼処に土との一体化を明確に始めようとする木、そこにぽつりと生える木の子を認めた。あの木の子の笠の陰にはほんとうに、何も存在しないのだ。量子物理学に関心を持っているときでも、そう感じる経験はあった。五月の心地よくぬるい風と躑躅の花は番いであるだろうが、満開になった密集をかき分けて奥の枝を覗くと、また此処には、ほんとうに何もないと思ってしまうのだ。何もない、何もみえない、何もきこえない、何も捉えることが出来ない。そんな、普段あたしが考えようとしていた繋がりだとかと矛盾したようなことに立ち会う度、妙にドキリとする。
 昨年の九月の下旬に宮城県に一人で演劇を鑑賞しに行った。その旅の中で、前述したような「何もない」を自分と離れたところに見るのではなく、自分自身の中に認め、それ以外にも何もかも、存在という言葉さえないように思われる体験をした。このことはテキストを冊子に纏めた自身の作品、《手記》に《晩夏の日》という手記として書いた。
「あたしはあの海を探していた。二十時、「海岸」の文字が入る駅で降りる。うすい緑色の風が吹いていた。近くに海岸公園があるらしいから向かうことにした。公園はすぐそこにあって、着いてから暫く歩いてみる。けれども全く海は見当たらずに、ほんとうに、なまぬるいのに透き通ったように何もみえなかった。貝殻や砂粒の一つ一つの慄えは聴こえない。巨きな金属の響きがごんごん聞こえるだけだ。海岸を探すけれどとうとう見つける前になんだか怖くなってしまった。
元来た駅のあかりを認めたとき、星々すらをも見れずにいたのを思い出した。ぽつぽつと立つ松の木だってちっとも美しくなくて、化石なんかも埋められ、全く隠されてしまったようだった。
怯えたような独りのあたしと 不慣れな祈り
自分の感覚が人間で飽和していることがひどく悲しかった。あたしの祈りはまだ不慣れなものだと痛感した。悲しみが痛い。」
(柿本絹『手記』〔2019〕、晩夏の日)
 真っ暗な公園を一人で歩いた。何も見えなくて、何も存在しなかったあの時、何故だか本当に怖くて仕方がなかった。だが、海岸公園から駅に戻り、電灯の明るさに安心しながらこの《晩夏の日》の元となる殴り書きをしている時に、リズムのイメージが浮かび上がり思い出されてきた。よく分からない恐怖感の中で海岸を探すが、全く見つけることが出来ない。しかし、ゴンゴンという、19年と短いながら人生の中できいたことのない巨きな金属の鳴る音が公園中に響いていたのだ。これは決してあたしの妄想や虚言の物語ではない。海特有の、"炭酸水が沸騰して蒸発するような波の音"が聞こえない代わりに、本当に巨きな金属が響くのを、あたしは確かに聞いたのだ。
 間 –世界論(誰のものでもないゆえに、他者と自分たちのことにもなる共通世界論)。敬愛する先生による講義を思い出す。海岸公園での巨きな金属の音をきいた体験が、講義内で紹介された「共通世界」や「間(あいだ)」と同義であるものかは、まだ考えきれていない。しかし、あの正体不明な金属の響き、リズムは確かに、人間であるあたしと、全く分離したようであった世界とを結合させた。
*正常な世界の虚構 *真ん中は空洞
(メディア概論Ⅱ第3回「間 –世界論(誰のものでもないゆえに、他者と自分たちのことにもなる共通世界論)」での絹のメモ)
 正直にいうと、その講義を受けるまでは共通世界論に通ずることとして、「リズム」であったり「音」などの視点からは自覚的に注目したことがなかった。当たり前のことだが、耳は目と異なって常に開かれている。自分の意思で機能をon/offと切り替えたり出来ない。だから、無意識的に音/リズムを流しながら捉えていたということもある。しかしながら、改めて考えると、脳のニューロンの電子回路を通ることなく、実は身体に感覚されているもの、それこそあたしの言っていた「他者」との繋がりを考える中で重要になるものではないか。
 あたしの使う「他者」とは人間は勿論のこと、人間ならざる他者も含む。それは動物や植物など凡ゆる生物であり、無機物さえもそうで、自然現象なども含むものとして考えている。
 では、自身の作品において「他者」との繋がりを考える為の共通物質、共通世界へ通ずる糸口はどうであるかと考える。先に書いた先生の講義、第8回目において、「ギブソンの生態光学(Ecological Optics)」では、James Gibsonを主軸に、「光」について、光源からの放射光や媒質の中の包囲光などの紹介があった。他にも、光の集合体であったり、人間に限定されない視覚のあり方など、とても印象に残っている。
 講義内でみたルイス・カーンのキンベル美術館の映像や写真では、建物の周りに広葉樹が密集しているところが強く印象にある。それは建築物と天空が決して分離しているわけではない、と思われたからだ。大学に入ってから、今まで記録以外にはほとんど扱ったことのなかった、写真を学んだ。ピンホール現象というものを知り、密生した木の作り出した葉の集まりは、葉の重なりと隙間が天空と太陽、光を繋ぐ窓/交通路としてあるのではないか、などと思ってしまった。葉を通り抜ければ、太陽が地に写されている。
 また、バングラデシュの国会議事堂の映像も印象的であった。会議場を見上げた時に広がるのは、照明の導線とライトの美しい網目、その向こう側に幾何学的な形と光がある。講義中、行ったことのない国の、しかし確実にそこにはまた「網」が広がっていることに、どうしてか安心したような気持ちになった。国民の多くがイスラム教徒であるため、国会議事堂でありながら、祈りの空間であることもそうだ。彼処には人々の祈りの声、響き、リズム、光があるのだ。
 丁度、学部一年生の成果展に向けて制作していた、空間に浮遊する網とそれに編み込まれた停車場としてのビーズ(ガラスの粒)とイメージが繋がる部分が多かった。《連続無窮の網》と名付けた網は、網状の帯が空間に浮遊する中でお互いに交差し、編まれて、空間に大きな網を出現させるものである。ガラス��動的な物質が冷やされたり、また高温で熱されたりして、可変するところを生け捕りにされているように思われる。そんな小さなガラスの粒は、光を受けて煌めく。しかし、その生け捕りされた小さな粒を観察すると「色」というものが、いかに不確実であるかを、改めて考えさせられたりもした。
 「光」や「色」を他者との共通項として用いるには、自ら光の網目に入っていかなくてはならない。そう考えていたら、眼が光を発している、なんて一見オカルト的なことも実はあり得るのだと思い出した。眼球の網膜に射し込んだ光は、網膜にぶつかった後眼球を飛び出す。動物で言えば、例えばイヌやシカなどでは、網膜の奥にタペタムというらしい反射板を持っている。フラッシュを焚いて彼らの写真を撮ると、そのまなこが光って写るのは、それによることらしい。人間の眼がフラッシュで赤目になって写るのは、反射板を持たないために網膜の赤を捉えているのだ。自らが発光しているわけではなくとも、あたしたちの発光に抱く定義より微量であっても、まなこは光を外部に放つ。
 日が落ちてから、動物の眼が光って森の中を浮遊している。太陽の強さで感覚し辛くとも、無数の眼差しは交差しあう。
 夜に光が浮遊するというのも面白い。一番初めに書いた海岸公園では、あたしはちいさな光さえ認めることができなかった。でも、あの漆黒に包まれたような公園は暗闇の中ではなかっただろう。あたしの器官では、感覚しきれない光の粒子群が浮遊していただろう。
・暗闇ではない黒色に揺蕩うスペクトル 
・余剰次元にも連なる自己であるような凡ゆる他者の複合体
・あたしのまなこでは捉えきれないミクロな貴方と
・あたしの器官では感覚しきれないリズムと
・無窮の宇宙で粒子の愛すべき事物と交わったり 
・みえない黒の可変的な極微のそれと浮遊して泳いだり
・極微な共通物質
(柿本絹『手記』[2019]、詩からの抜き出し)
 自分の認識を支える「感覚」が確かなものだと、どうして言えよう。また、認識された感覚だけによって世界は構成されているのだと、どうして言えよう。まだ見知らぬ「貴方(他者)」の存在に気が付いたときに、ひどく安心して涙が溢れる。何だかとても救われたような気持ちになる。
 しかし、やはりたった独りきりであると、人間的な感覚に飽和した自我に悲しくなったり、絶望感のような気持ちを抱く時がある。どうしても、「愛すべきあの他者たち」が感覚できなくなったりする。しかし、それはネガティブなことだ、というだけでもないだろう。途轍もない緊張感を持って美しく潜んでいる「他者」の姿の可能性に、まだ気がついていないのかもしれないとも思うのだ。
 見田宗介は《宮沢賢治 存在の祭りの中へ》で、*自我の羞恥*焼身幻想*存在の祭り*地上の実践、という環をあげる。地上の実践として、たった独りのあたしであっても、自分自身である他者を思うということ、他者を思考し愛するということをやめたくない。作品制作という実践を通して、コモンウェルスとしての社会を考え続けたい。だからあたしは今日も、集合体としての他者を彫刻し、共通世界・間世界に繋がる糸口を見つけていきたいのだ。
◯参考文献、資料
・見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』〔1984〕岩波書店 同時代ライブラリー77
・吉本隆明『宮沢賢治』〔1996〕ちくま学芸文庫
・『志樹逸馬 詩集』若松英輔 編〔2019〕亜紀書房
・若松英輔『詩集 燃える水滴』〔2019〕亜紀書房
・Felix Guattari『三つのエコロジー』〔1997〕平凡社ライブラリー
・中沢新一『レンマ学』〔2019〕講談社
・酒井潔『ライプニッツのモナド論とその射程』〔2013〕知泉書館
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』『インドラの網』『青森晩夏』『マリヴロンと少女』『おきなぐさ』『春と修羅』
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kadookanobuhiko · 5 years ago
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貧困なる精神 ハーバード大教授の珍学説 Ⅳ
 マーク・ラムザイヤーの論文は、間違いが異常に多い。読んでいて、いちいちひっかかる。それを逐一指摘していたら、一向に前に進まない。漫才でたとえるなら、次々とボケを連発するため、その都度ツッコミを入れなければならない。これではまるで、すべてを言い間違え、それに訂正を入れるナイツの漫才ではないか(当然、ラムザイヤーが塙、私が土屋である)。
 当連載では、昨年に発表された『On the Invention of Identity Polotics : The Buraku Outcast in Japan』の結論を読みながら、本文に分け入り、その内容を検証することにしている。論文は部落の起源から始まり、近代の共同体の特徴、反差別運動の勃興、補助金の略奪、同和対策事業を経た現在の部落の実態へと続く。
 これまで部落の起源と近代のムラの特徴を見てきたが、まだ論文の三分の一ほどを消化したに過ぎない。数回で連載を終えるつもりだったのだが、けっこうもたついている。引用文を検証していたら、あまりにも齟齬が多く、看過できなくなったのである。「もうええわ!」とツッコミを入れずに、最後までお付き合い願いたい。
  ※  ※  ※
 1922年(大正11)に全国水平社が結成されるまでに、ラムザイヤーはどうしても触れたい項目があった。米騒動である。ここでも全国の部落民は、目立った行動を見せているという。
<1918年、多くの府県にまたがる部落民は、暴力的な犯罪で耳目を集める。米価は1年で3倍になり、暴力的な群集の先頭には部落民がいた。もしそれ以前に、誰かが部落民と犯罪を結びつけていなかったとしても、1918年に新聞はそれを報じた>
 米騒動は、同年7月~9月、米価の暴騰のため、生活難にあえいでいた大衆が、米の廉売を要求して米屋・富豪・警察などを襲撃した事件である。富山県から始まり、全国に波及した。労働者・農民を主力とする未曾有の大民衆暴動に発展し、軍隊が鎮圧に出動し、寺内正毅内閣が倒れた(広辞苑)。
 ラムザイヤーは、官憲側の資料を使い、解説している。
<検察側は8200人を取調べ、4200人が有罪判決を受けた。不法侵入と放火が猛威を振るい、場合によっては死者が出たにもかかわらず、裁判官は比較的寛大な刑罰を与えた。死刑判決はなく、3件の無期懲役があっただけだった>
 確かに、後に検事によってめとめられた『所謂米騒動事件の研究』(司法省刑事局、1939年)には、そう書いてある。だが、後世の研究では、<第一審では死刑二名、無期懲役一二名、一〇年以上の有期刑五九名>を数えている(『日本史大事典』平凡社、1993年)。少なくとも死刑は確定しているので、平仄に合わない。なぜ、わざわざ80年前の当局の資料だけから引用するのだろうか。
 体制側の資料を重宝するラムザイヤーの本領は、ここから発揮される。
<暴徒は商店や倉庫、富豪から略奪し、焼き討ちした。暴動を主導したのは部落民だった。当時のジャーナリストや警察は、部落民をそう位置づけ、現代の研究者たちはその役割を追認している(Takayama 2005,p.66-69)。警察は大阪だけで9300人以上の部落民が米騒動に参加していると報告した。京都、大阪、兵庫、そして奈良の部落民は、平均して30~40%の部落民が参加した(Mitani 1985,p.82)。当時のジャーナリストや警察は、暴徒の中で部落民が最も暴力的であると位置づけた>
 米騒動で検事処分を受けた8000人余りのうち、部落出身者はその1割を超える900人弱にのぼる。前掲の『日本史大事典』には、<とくに被差別部落民はねらいうちに検挙され、総人口の二㌫を占めるにすぎない部落民が検事処分者の一〇㌫を超えるという差別裁判を受けた。大審院で死刑を宣告された二名も部落民であった>と記載されている。
 ”ねらいうち”にされたのか、それともそもそも”暴力的”だったのか? 見る者の視点が問われよう。ラムザイヤーの論文には、部落民が暴力的であった背景については、述べられていない。ただ、それが言いたかっただけなのだろう。
  ※  ※  ※
 ラムザイヤーが断罪するように、果たして当時のジャーナリストや警察は、<暴徒の中で部落民が最も暴力的>だと位置づけたのだろうか?
 少なくない部落大衆が、米騒動に参加したのは事実である。当時の内政・治安担当者には、部落民先導説を唱える者がいた。『中央新聞』は「某内務当局談」として、以下の談話を伝えている。『米騒動と被差別部落』(雄山閣、1988年)所収の藤野豊による「米騒動における被差別部落主導論の成立」から引用する。
<最初に起つた富山県の暴動は特種部落民には関係なきも京都、大阪、神戸及び岡山、三重県等に於ける暴動は何れも特殊部落民にて其他の群集は単に是等特殊部落民に雷同したるに過ぎざるが如くである・・・彼等は常に一般の人民より穢多として軽蔑さるヽを憤慨して居れば偶今回の米価暴騰を機として平常の鬱憤勃発して斯かる暴動をやつたのであらうと思はれる>
 部落民が中心であったとし、その背景についても述べている。
 部落民主導説を唱える者もいれば、それに否定的な官僚や治安担当者もいた。たとえば内務省の天野藤男は、和歌山・熊本・京都・埼玉などで、部落の青年が米騒動の防止に活躍したことを挙げ、部落民が参加したケースでも「普通都会にある良民が不穏な行動をしたのと何の異なる事はない」と喝破している(前掲の藤野論文)。
 暴動が起こる際、それなりの社会的背景があるのは、洋の東西、過去現在を問わない。現在よりはるかに差別が厳しかった時代に、仮に部落民が暴動を主導したとして、それに部落外の人々が従っただろうか。
 要は京都市内のように、地域によっては部落民が大きな役割を果たしたところもあるが、全国的に見て、一概にそうは言えないということであろう。
 ところがこれまでの研究をまったく無視するかのように、ラムザイヤーは<暴動を主導したのは部落民>と断じ、<現代の研究者たちはその役割を追認している>と書いている。
 引用した論文中の” Takayama 2005,p.66-69”は、ラムザイヤーが参照すべき資料として挙げた、高山文彦著の『水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』(新潮社、2005年)である。ページ数は、米騒動と部落民について叙述されている箇所だ。
 ノンフィクション作家の高山は、同書で<米騒動に多数参加したのは、もっとも貧しい生活を強いられた部落民であった>と述べたうえで、ふたりの部落民の死刑判決に関し、次のように書いている。
<これは見せしめのためにおこなわれた判決としか考えようがない。というのも、米騒動に加わった部落民は、これまで露骨な差別を自分たちにおこなってきた豪農や米屋を、焼き討ちや打ち込みといったはげしいやり方で襲撃した。同じ部落内のボス層を襲った者もいる。しかし、なにも部落民だけがそのようなことをしたのではなく、一般農村の小作人が積年の恨みを晴らそうと地主を襲ったり、高利貸しを兼ねる遊郭を焼き討ちしたりしている。部落出身の侠客も、それに加わった。
 そうした人びとのエネルギーが、社会主義者と結びついて反体制運動へと盛り上がらぬよう、民衆を分断し騒動の鎮静化をはかろうとの目的で部落民を騒動の首謀者に仕立て、見せしめにたたいておけという判断が政府内にあったものと思われる>
 明確に、部落民主導説を否定している。原文の文意を無視し、自論の援軍とするのは、ラムザイヤーの常套手段である。
  ※  ※  ※
 高山は、権力側の部落民主導論に追随したマスコミも批判している。
<たまりにたまった鬱憤を部落民が晴らそうとして暴動にいたったという政府筋の観測は、ほとんど確信といってよい角度でジャーナリズムにも伝搬した。たとえば『やまと新聞』(八月二十五日)は「京都、神戸、大阪、名古屋等に於ける特種部落人の暴行は、最も凶悪残忍にして、掠奪強姦に及べるもあり、蓋し三百年来彼等が社会的に圧迫されし深刻なる復讐心の手伝えるなるべきも、凶険の度の甚だしきは、彼等特性の然らしむ所に外ならざるべし」と書き、『中外商業日報』(八月二十六日)は「(部落の)住民の中には、生活上の余裕無く、称して細民と云うべきもの亦甚だ多し。殊に牛馬等の屠殺を業とする者少からず。其生活状態の細民にして、屠殺を業とする者は、自然其性質は粗暴に動(やや)もすれば残忍に陥るの弊あり」として、部落民の職業や生活ぶりが彼らに凶暴な性質をあたえ、それによって暴動が引き起こされたのだと断定的にしるした。
 こうした論説はジャーナリズムのあるべき姿から程遠く、冷静な分析や取材の労を欠いた差別意識まるだしの悪質な宣伝にすぎなかった。雑誌ジャーナリズムも同じ論調をとり、いかにも米騒動の首謀者は部落民であるかのような記事を連発した> 
 ここでも部落民主導説を否定し、差別意識に沿ったマスコミを批難している。<現代の研究者たちはその役割を追認している >などとよく書けたものだ。ラムザイヤーこそ、暴徒と呼ぶべきであろう。 
  ※  ※  ※ 
<京都、大阪、兵庫そして奈良の部落民は、平均して30~40%の部落民が参加した>というラムザイヤーの記述(引用)についても、疑義を呈しておく。
 高山の『水平記』と同様に、引用資料として挙げているのは『火の鎖』(三谷秀治、草土文化、1885年)である。同書は、大阪の水平運動の活動家・和島為太郎を描いた小説だ。
 該当するページには、<米騒動による検挙者は・・・そのほぼ一割が部落の住民だった。部落の多い京都、大阪、兵庫、奈良などは、三割から四割にのぼった>とある。著者の三谷は”三割から四割”という数字の典拠を記していない。それに三、四割は、検挙された部落民であって、参加者ではない。
 ラムザイヤーは、こういった手口をよく使う。賀川豊彦が自著『貧民心理の研究』(警醒社、1920年)の中で、和歌山県の部落民の犯罪は部落外の3倍にのぼると書いている、と引用したが、賀川が引いた原典は書かれていない。賀川がそう書いている、というだけである。これでは、〇〇がそう言っていた、という噂話に等しい。まともな研究者の論文とは、とうてい言えない(そもそも賀川がまともだったのか、という疑問はぬぐえないのだが)。
 ちなみに『火の鎖』の著者の三谷は、共産党公認の大阪府議、衆議院議員を長らく務めた。同書では、米騒動において社会改革を求めて闘った部落民を<組織的で機動性に富>み<痛苦の深さと連帯意識の強さを示していた>と褒め称えている。そのエールが、”三割から四割”という根拠なき数字へと押し上げたのだろう。
 この数字は、ウィキペディアの「米騒動」の項目にも引用されている(ただし参加者ではなく、刑事処分者)。ハーバード大学教授はそれを見て、誤って引き写したのかもしれない。
  ※  ※  ※ 
 ラムザイヤ���は、米騒動における部落民の横暴を前掲の資料『所謂米騒動事件の研究』(司法省刑事局)を読み込んだうえで、次のようにまとめている。
<基本的に米騒動は抗議ではなく、略奪と強奪が目的だった。暴徒は米の仲買人や商家、富豪をしばしば標的にした。彼らは現金の引き出しや米価の値引きを求め、それに応じない場合は放火をほのめかして脅した。もし攻撃目標が、躊躇もしくは固辞した場合、家中から強奪し、家屋に油をかけて火を放った。観察者がいうところの ” 窃盗団 ” の一味である女子供たちは、暴徒に付き従い、貴重品を持ち去り、暴徒が夜に焼き討ちした翌早朝には、焼け残った貴重品を持ち帰った>
 この文章で、ラムザイヤーが引用・参照したのは、前掲資料で計5点(5カ所)。うち騒動の主体が部落民ではないのが3カ所もある。部落に該当するふたつのうちひとつは、<特殊部落民多数を混じたる暴徒>で、部落外も含まれる。
 該当する、もうひとつ<神戸市騒擾に対し特殊部落民の参加したる状況>には、以下の記述がある。読みやすいよう句読点を付した。
<元来彼等の特性は、事変に乗じ、窃盗又は恐喝を為すに長ずるも、騒擾の主動者たるか如きは敢て為さゞるが如し。特殊民中或は仲仕と為り、又は鍛冶職工と為りて普通民と相伍する者は、騒擾に当りても亦夫等の者と行動を共にせる者無きに非ず。然れども是極めて少数にして騒擾の為、警察の力及ばざるに乗じ、不正を働きたる者最も多数とす> 
 部落民は騒擾の主導者とは言えない、部落民で参加した者はきわめて少数と明記している。ラムザイヤーの自論である部落民主導説と、参照した文献の内容が、まったく逆ではないか。
 ラムザイヤーは、論文の米騒動の項目を次の文章でしめくくっている。
<暴徒の放火や略奪などの暴力は、全国にまたがった。時には火災現場に到着した消防士が襲われた。福井県では市長と警察署長の家宅が破壊され、警察署は焼き討ちされた。神戸では27ヶ所の鈴木商店の建物が放火された。福岡では暴徒はダイナマイトを投げ、銃で出動した軍隊を蹴散らした。最も大規模な暴動は大阪府で起こった。暴徒はときどき金庫を強奪して2万円を奪取し、建物に火をつけた>
 もうおわかりであろう。インパクトがある事件を並べ立ててはいるものの、記述のほとんどが部落とは関係がない。そもそもダイナマイト云々は軍部のデマだし、2万円強奪は私が調べた限りでは、1200円だった。
 そうしたいい加減な情報もさることながら、米騒動と部落民をテーマにした項目で、部落民以外の事件を取り上げるのは、倫理的にも学術的にも問題である。
 ラムザイヤーは、なにか部落に恨みでもあるのだろうか。いちど本人に、直接といただしてみたい。<2020・6・29>
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nemosynth · 5 years ago
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<デジタルシンセ戦国記 VI : KAWAI K5000W>
「国産デジタルシンセ最後の聖戦」
●メーカー名
河合楽器製作所
KAWAI は、大戦前に YAMAHA からスピンナウトしてできた楽器メーカー。
明治時代 1886 年、静岡県は浜松に生まれた河合小市(かわい・こいち)。 幼いころから天才技術者ぶりを発揮していたらしく、尋常小学校四年を卒業したあとの 10 歳のとき、客馬車が走るのを見て、木切れを集めて小さな客馬車を自作してしまい、犬にひかせ自分が乗り回し大人どもを仰天させていたという。 そんな神童の彼は、知人の紹介で、山葉寅楠(やまは・とらくす)というエンジニアが興した楽器メーカーへ丁稚入りすることになった。これがのちの日本楽器となり、現在のヤマハとなる。
そこで河合小市は、国産初のピアノをつくるプロジェクトに参加し、独学でその打弦機構を開発してしまうという天才ピアノ職人ぶりを発揮。
昭和になってすぐの 1927 年、105日におよぶストライキなど大規模な労働争議がこじれたあげく、新社長が来たのが気に入らなかったらしく、河合小市は日本楽器から独立して会社を設立、これが今の河合楽器製作所となる。
戦後の 1950 年代、河合小市の次女の婿、二代目社長となった河合滋により多角化が始まり、その一環として Teisco(テスコ)株式会社を傘下におさめた。テスコは、もともとカワイの取引先であった小さな楽器メーカーであり、このテスコがカワイの電子楽器事業の始まりとなる。同社はカワイのもと、しばらくの間はテスコ・ブランドでシンセを開発しつづけていたが、やがてカワイ・ブランドでもシンセを出すこととなった。それが大々的にはじまったのは、1986 年に発売された K3 から。
その KAWAI ブランドKシリーズは、やがて ’80 年代の後半に大きく育ち、一時期はシンセ業界の中で国産御三家こと YAMAHA、KORG、Roland に続く第4の勢力として、CASIO とならんで大輪を咲かせることとなった。
なお、CASIO は ’84 年発売の CZ-101 以来、急速にZシリーズのラインナップを展開し新興勢力となったものの、’88 年の VZ-1 が DX とならんで変調ヲタすぎて難解すぎ、’89 年に VZ-8M を発売したあと鳴かず飛ばずで失速しており、このときカシオではなくカワイに追い風が吹いていることは明らかであった。
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●機種名
K5000W Advanced Additive Workstation
1996 年発売 61 鍵ベロシティ・アフタータッチ対応 定価 218,000 円 2年後 17,8000 円に価格改定
フルデジタルシンセであり、ワークステーションシンセである。
カワイ・シンセの本流Kシリーズでは、前の機種 K4 から7年が経過したひさびさのプロ価格帯の機種。’80 年代に新興勢力として存在感を出した老舗カワイが、その復権をかけて ’90 年代後半に殴り込んできた最終兵器。それが K5000 シリーズ。
その中でも、本稿でとりあげる K5000W は; すさまじい怒涛の音源方式に、 すさまじい怒涛の変態シーケンサーとを���ップリングさせた、ド変態ワークステーションシンセ。
K5000 シリーズには3機種あり;
 ・K5000S 16 万8千円;シーケンサーを持たない、素のシンセ  ・K5000W 21 万8千円;本稿でとりあげる、ワークステーションシンセ  ・K5000R 12 万5千円;ほぼ K5000S の2Uラックマウント音源モジュール版
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これが発売された 1996 年とは、誰も気づかなかった史上初の今日的ワークステーションシンセ ensoniq ESQ1 が発売されてから、じつに 10 年、コルグ M1 からも8年が経過した年。 この当時のシンセといえば、ヤマハ W5 から2年、ローランド XP-50 とコルグ TRINITY、prophecy が、発売されて1年。すでに M1 以来、各社ともに2、3世代が経過しており、世の中はすっかりワークステーションシンセ全盛期であった。事実、K5000S / W と同じ年に、ローランドのフラッグシップ機種 XP-80 が発売されている。
当時のワークステーションシンセには、16 トラックの MIDI シーケンサーが搭載されていたが、K5000W のそれは 40 トラックもあり、編集コマンドも充実していた。それでいて K5000W は、競合他社より価格が安い、恐ろしい機種だったのである。
だが、2年ほどたった ’98 年には、最後の Ver.4へのアップグレードとともに、価格改定が実施され;
 ・K5000S 14 万8千円  ・K5000W 17 万8千円  ・K5000R 11 万5千円
と、さらにお求めやすくなった。 それはそのまま、カワイ最後のシンセとなった。
●音源方式
Advanced Additive 音源(ここでは「AA 音源」と略す)
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サイン波 128 倍音加算合成に、PCM 波形と、さらに減算方式を組み合わせたものである。
非常にパラメーターが多く、千以上ある。 ただでさえ本格的なサイン波倍音加算合成なのに、さらにそれを最大6系統もレイヤーして1音色をつくるという、途方もない音源方式。
そもそもサイン波倍音加算合成とは「すべての音色は、サイン波による基音と倍音の組み合わせで決まる」という、フーリエ級数に基づく。
これは古くから伝わるパイプオルガンの原理であり、パイプ1つ1つが正弦波を発振するオシレーターであった。そのパイプの組み合わせをおびただしい数のストップでもって可変させ音色を変えるため、パイプオルガンはシンセサイザーの祖でもあった。
それが電気化されハモンドオルガンになると、トーンホイールひとつが正弦波オシレーターとなり、ドローバーで音色を変えられるようになった。それでもそんなオシレーターを何十個もそろえるのはコストがかかりすぎて非現実的だったが、やがて電子時代になるとサイン波オシレーターをたくさん集めて音色をつくる倍音加算合成が、より安価に実現できるようになった。
FFT(Fast Fourie Transform)によって既存の音色の倍音構成がわかるようになると、逆 FFT でもって主に整数次倍音群から加算合成して音色を作り出すことも可能となった。
ありものから倍音を削る減算方式と違い、無から有を生み出す加算合成は、シンセサイズの原理主義的な手法とも言える。それだけに愚直に膨大なオシレーターをあつめてつくる倍音加算合成は、おのずとパラメーターが多くなる傾向にあった。 そこへくると、たった2つのオシレーターだけで多彩な倍音表現を実現したのが FM 合成なわけで、それを発見したチョウニング博士の偉大さがわかる。 それでもテクノロジーが進展するにつれ、コストダウンにともない、各社から工夫を凝らしたサイン波倍音加算合成によるシンセサイズが、でてくるようになった。
K5000 では、単一のシンセシス系統を「ソース(Source)」と呼ぶ。ヤマハで言うエレメント、ローランドで言うパーシャル。そして最大6ソース、つまり6エレメント、ないし6パーシャルで1プログラムを形成する。1プログラムを「パッチ(Patch)」と呼ぶところは、当時のローランドと同じ。
各ソースは、サイン波加算合成音と PCM 音と、どちらを出力するか選択でき、それらを自由に組み合わせることから、言わばローランド D-50 の LA 音源を換骨奪胎、かつストラクチャーから解放し自由に使えるよう拡大解釈したような、すぐれた構成と言えた。
サイン波加算合成では、1ソースにつき 64 倍音まで出力できるが、2ソースであれば、高低ふたつの周波帯を分担してシンセサイズすることで、合計 128 倍音も出力可能。これだけで相当に精緻にうがった音源波形を自作できる。
PCM 波形は、トランジェントなどサイン波加算合成では出せない倍音を提供するための音素片であり、この点でも D-50 的な音源方式を取り入れている。
ソース間では、AM 変調機能もはさみこめる。
こうしてオシレーターで音源波形を自作したあとは、デジタルのレゾナントフィルターやアンプなどを使って、フルデジタルの減算方式シンセとして加工可能。最後にはマルチエフェクトを搭載したソース・ミキサーを通し、出力される。
サイン波倍音加算合成して創った音色の特徴として、和音でも音が濁らないということが挙げられる。FM 変調方式にも通じる独特のデジタルな音色をつくることができ、しかも狙った位置にダイレクトに倍音を増減できるという、きわめて直接的なメリットもある。
そのぶん、まともな音をつくるのには、最低でも 20 ~ 30 は倍音が必要で、できれば 64 倍音、そして本機のように 128 倍音はほしくなる。このため K5000 では本体だけでもエディットできるよう、当時としてはかなり操作性に工夫がほどこされていた。
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K5000 シリーズには、倍音加算合成と PCM 音素片波形とを組み合わせた AA 音源が搭載されていたわけだが、K5000W だけ、それに加えて純然たる PCM 音源もあわせて搭載されていた。そして、それを使った GM 音色バンクもある。GM は Level 1 。
なお、音源方式ではないが、シーケンサーも概略を解説しておく。
K5000W は、ワークステーションシンセなので、通常のパフォーマンスモードの他に、シーケンサーを使って作曲するためのコンポーズモード(Compose Mode)があった。
パフォーマンス・モードでは、単一のパッチを鳴らすほか、4パッチを組み合わせて1コンビ(Combi)として鳴らせるが、このときはあくまで単一ティンバーであって、決してマルチティンバーではない。コンビでは、4パッチをレイヤー、キースプリット、ベロシティスプリットなどで組み合わせることができた。 また、1パッチごとに4基のマルチエフェクトが使える。
���ンポーズ・モードでは、AA 音源が 16 パートマルチティンバーとなり、加えて PCM による GM 音源が 16 パートあり、合計 32 パート音源として鳴らせる。 そして、このときに内蔵の 40 トラック・シーケンサーで駆動できる。シーケンサーは MIDI トラックのみだが、この当時はまだ皆そうだったんだから仕方がない。本体音源 32 パートにあわせて、MIDI Out も2つあったから、40 トラックの意味もあろうというもの。DAW みたくオーディオトラックも持つワークステーションシンセは、21 世紀まで待たねばならなかった。だから 40 トラックもあるだけでも、群を抜いて御の字。
なお、MIDI で GM System On メッセージを受信すると、自動的にコンポーズモードになってくれる。
K5000W ならではの、秀逸なシーケンサー機能として APG(Auto Phrase Generator)という作曲支援機能があった。ある MIDI トラックを原始的な AI みたいなやつに分析させると、その分析結果に基づき、さらに人間が指定したジャンルなどを勘案し、その楽曲にふさわしい伴奏シーケンスデータを K5000W が提案してくれるのである! しかも音色込みで、マルチパートにて提案してくれる!
AI が支援する作曲 AI powered composition なんて、2010 年代の後半になってようやく言われてきたのに、それの始原みたいなものを垣間見せてくれる、技術史的にも興味深い機能。
●同時発音数
32 音ポリ+32 音ポリ
すなわち ・32 音ポリの AA 音源 ・32 音ポリの GM 音源 このカップリング。
前述の通り GM / PCM 音源まで内蔵しているのは、ワークステーションシンセ K5000W のみであり、K5000S や K5000R では AA 音源のみ搭載。
32 音ポリとは当時としては標準的だが、6ソースも動員すると5音ポリになり、プロフェット5状態に。 そのかわりに、加算合成であることもあって、想像を絶する緻密な音創りができた。
●内蔵エフェクトの性能と傾向
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パッチ全体にかかるリバーブと EQ、そして4基のマルチエフェクトがある。
6ソースに対し、各エフェクトへの送りバスはステレオ4本あり、ソースミキサーにてルーティングがグラフィカルに設定できるのがいい。
パッチあたり4基あるマルチエフェクトは、おのおのが 36 アルゴリズムを搭載。空間系、変調系、歪み系と、ひとしきり多彩にアルゴリズムがあり、なかなかよく効く。ワウや3相コーラス、バンドパスフィルターや、エキサイターまであるので、バリエーションは充分。
パッチ全体にかかるリバーブは 11 タイプ、同 EQ は7バンドのグライコ。
さらにエフェクト専用のモジュレーションマトリクスがあり、14 ソース、10 デスティネーションで構成されるという、この時代にしては充分すぎる内容。
●内蔵波形、プリセットの傾向
AA 音源の加算合成機能では、音源波形すら自作する。 それに加えて、音素片となる 123 種類の PCM 波形も、あわせて装備。
さらに上記にプラスして、K5000W にのみ提供されている PCM 音源は、341 の PCM 音源波形と、325 ものドラム音源波形であった。これらの PCM 音源波形は、AA  音源にある PCM 音素片とは、まるで違い、単体でも使える完成度が高いマルチサンプルである。
Ver. 3以降、プリロードされている音色メモリーバンクが増大。その内訳は;
・A、E、F、Gバンク  AA 音源による音色  60 パッチがプリロード  すべてユーザー上書き可能  おそらく発売当初はAバンクしかなかったのが、あとからEバンク以降が足されたものと思われる。  また、バリアブルメモリーのため、パッチごとに使用されているソースの数などによって、保存可能音色数が可変する。
・B バンク  K5000W のみの PCM 音源パッチ専用バンク  128 パッチがプリロード  すべてユーザー上書き可能
・GM バンク  GM Level 1 の 128 プリセット音色が搭載されているバンク
なぜかC、Dバンクは欠番で存在しない。 画面をスクロールすると、GM → B → A → E → F → Gバンク、というふうに切り替わる。
また、ドラムキットが別途存在し、ユーザーキット1つ、プリセットキット 10、1キットは最大 64 インストで構成され、253 のプリセット・インスト、32 のユーザー・インストがある。
プリロードされている音色は、AA 音源においては、当初からのものははっきり言ってサイン波っぽくてイマイチ。だが、Eバンク以降の、あとから追加された音色はさすがに作り込まれていて、FM 音源だとばかり信じ込んでしまうできばえのエレピや金属音、サンプラーではありえない斬新な音色変化に富むものばかり。これが生産完了になったのが、きわめて惜しい!
Bバンクの PCM 音源も高品位なものであり、90 年代のサンプルプレイバックとしては、おそらく一番すなおで高音質なものではないかと思われる。このせいなのか、GM バンクの音も「えー? GM 音源って、こない音良かったっけー?」と思うことうけあい。箱庭宇宙にありがちなチープさとか、うすっぺらさが無い、ふくよかで豊かな音がする。
アコピにいったっては、貴重なカワイのアコピの音。あたりまえかもしれないが、これは大事なことで、カワイのアコピは、重厚でダークでプログレッシヴな音がするので、それがシンセで弾けるのはありがたい。正直に、個人の感想で書くと;
「コン」ファツィオリ 「カン」スタインウェイ 「ガン」カワイ 「ガン‼」ベーゼンドルファー 「ぽん」この、なんとも FM 音源みたいなうすっぺらい音が、ヤ○ハ
●エディットの自由度と可能性
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どのバンクの音色をエディットするかによって、AA 音源か PCM 音源かが決まり、アクセスできるパラメーターも変わる!
・A、E、F、Gバンク → AA 音源をエディット ・B バンク → K5000W のみの PCM 音源をエディット
AA 音源における1ソースの概要は、以下のとおり;
「倍音加算ジェネレーター」サイン波 64 倍音加算合成:上記の DHL、DHE   ↓ 「フォルマントフィルター」;上記の DFL、DFE   ↓ DCO こと、ピッチや波形の概要パラメーター   ↓ 通常の DCF ことマルチモード・デジタルフィルター   ↓ 通常の DCA
「かぎか���こ」でくくっているのは、そのような表記がどこにもないので、私が勝手にわかりやすく解説すべく編み出した用語だからである 笑。おおむね、’80 年代の K5 に搭載されていたサイン波加算合成エンジンを、さらに拡大したものと考えて良い。K5000 では、これを最大6ソース重ねて、1パッチとなす。
以下、各ブロックごとに解説する。
▲倍音加算ジェネレーター
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かつての K5 にて、DHG(Digital Harmonic Generator)と呼ばれていた部分。要は、サイン波倍音加算合成によって音源波形をつくるオシレーターである。
64 倍音加算するのだが、2つのソースを使うとき、片方を Lo(1~ 64 次倍音)、もう片方を Hi(65 ~ 128 次倍音)に設定すれば、128 倍音加算合成ができる。
マクロエディットができるので、最大 128 もの倍音を、必ずしもいちいち個別にエディットしなくてよい。マクロには
・高次倍音のみ ・低次倍音のみ ・奇数次 ・偶数次 ・オクターヴ;1, 2, 4, 8, - 64 (Lo) ないし 128 (Hi) ・5度;3, 6, 12, 24, 48 (Lo) ないし 96 (Hi) ・全部一括
とあり、実践してみると、聴覚上の変化ともマッチするので、かなり予測しやすい。
なんと、各倍音ごとに音量 EG を設定できてしまう。EG は ADDR で構成され、つまりセカンドディケイができる。EG をループ再生させることも可能。ただ、さらに少々びっくりするのは、各ポイントのパラメーターが、レベル・レート制なこと。レベル・タイム制では無いので、ちょっと感覚的ではない。
各倍音ごとに EG を個別エディットできる他、全倍音の EG をまとめて一括編集したり、倍音から倍音へ EG をコピーすることも可能。
つまり、この倍音加算ジェネレーターだけで、音源波形をつくるだけでなく、すでに音色変化をつくることができてしまう! 言わば自作可能なウェーヴテーブル! よって、これが倍音加算合成シンセというのは、間違いではないが、むしろウェーヴテーブルを自作可能なシンセと考えたほうがいいかもしれない!
しかも、この次のブロックでまた複雑な音色変化をつくりだすことができてしまうという、鬼の仕様。それが次に紹介するフォルマントフィルターである。
▲フォルマントフィルター
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K5000 に搭載されているフォルマントフィルターとは、128 バンド(128 倍音ではない)のグライコに例えられることが多い。ただ、音色全体まるごとイコライジングするのではなく、各ボイスごとに処理するので、128 バンドのフィクスト・フィルターバンクがボイスごとにあると思えばいい。
バンド1からバンド 128 までは、10 オクターヴ以上も開きがある。
・バンド1; C -1=8Hz ・バンド 70 ; A4 = 440 Hz (ヤマハ / Logic 方式なら A3) ・バンド 128 ; G9 = 12,544 Hz = 12.544 kHz
見てのとおり、バンド1は可聴域を余裕で下回る! また各バンドは、各倍音とはなんら関係なく、固定された周波数でレベルを増減するだけである。
エディットマクロもちゃんとあり;
・8バンドにまとめた上で、各バンドの中心周波数ごとにQの幅を編集 ・バンドX~X+20 までのバンドを一括してレベル増減 ・バンドX~X+15 までのバンドを一括してレベル増減 ・バンドX~X+10 までのバンドを一括してレベル増減 ・バンドX~X+5 までのバンドを一括してレベル増減 ・全バンド一括編集 ・各バンド個別編集
レベルコピー機能や、バイアスというパラメーターもあるが、このバイアスがくせもので、プラスにすると低周波域、マイナスにすると高周波域へとシフトするのでややこしい。
専用 EG もあり、やはり ADDR で構成され、ループ再生も可能。そしてやはりレベル・レート制。 専用 LFO もあり、三角波、鋸歯状波、ランダム波とある。
最も特徴的なのは、ノンリアルタイム演算によるモーフィング機能があること。 4つまでの時間軸上のフェーズに、任意のパッチ、任意のソースから倍音設定をコピってきてあてはめ、フェーズごとの遷移時間、ループ再生などを設定し、なんと最後に実行キーを押すことでノンリアルタイム演算でもって、波形を算出しているらしい。
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これらと EG や LFO などとあわせ、複雑かつ周期的な音色変化をもたらす。なんせフィルターの周波数特性を、ユーザーが好き勝手に決められるため、相当に摩訶不思議なことになる。
▲ DCO / DCF / DCA
K5000 に、DCO という表記があるので仕方ないのだが、これは先述の倍音加算ジェネレーターとフォルマントフィルターを経た結果の信号ことを指すのであって、決して別途 DCO が存在するわけではない。ましてや K5000 はフルデジタルシンセなので、DCO というピッチだけデジタル制御されたアナログオシレーターがあるわけではない。’80 年代からの、残念な誤解の結果である。
しかもそこまで解説させておいて、やっていることは単にピッチ LFO など、1ソース全体にわたる音程関連のパラメーターと、PCM 音素片を出すときの波形選択くらい。そりゃ AA 音源波形は、すでに倍音加算ジェネレーターなどで生成しているのだから、ここでは扱わないわけで。
なお、倍音加算ジェネレーターの代わりに、音素片 PCM 波形を出力した場合は、ここからあとの DCF などの処理のみが適用される。
DCF はマルチモードフィルターであり、HPF / LPF 切替式。レゾナンスもあるが、90 年代なかばのデジタルフィルターなので、ゼロから7までの8段階でしかない。ただ、それでも -24dB / Oct なのは、さすがカワイのこだわりであろう。
「DCO」、DCF、DCA には個別に EG があり、ピッチ EG はアタックとディケイ、フィルターとアンプ EG は ADDSR でありセカンドディケイがあるだけでなく、この3つの EG ともにレベル・タイム制なので、感覚的につかみやすい。ここでそれができるなら、なんで倍音加算ジェネレーターとかフォルマントフィルターでは、レベル・レート制なのかと。
パッチごとに1基のグローバルな LFO があり、デプスがピッチ、フィルター、アンプ個別にある。波形は;
・サイン波 ・三角波 ・鋸歯状波 ・矩形波 ・ランダム波
▲その他のパッチ・パラメーター
そろそろモジュレーションマトリクスが注目されはじめたころであり、K5000 でも 14 ソース、20 デスティネーション、しかも1ソースあたり2デスティネーション設定できる。20 あるデスティネーションには、フォルマントフィルターのバイアス、EG、LFO や、倍音加算ジェネレーターの高次、低次、偶数次、奇数次の倍音などがあり、かなり普通とは違う結果がでておもしろい。たとえば、弾きながらモジュレーションホイールでもって奇数次倍音を上げると、案の定、矩形波っぽくなるがブライトにもなるという、ちょっと他にはない音色変化をする。
前述のとおり、内蔵エフェクト専用のモジュレーションマトリクスもあり、こちらは 14 ソース、10 デスティネーション。
こうしてつくったパーシャル音は、最大6系統が内蔵ミキサーに通され、4基のマルチエフェクトや各1基の EQ とリバーブとで処理され出力される。
なお、ソース1とソース2の音で AM 変調させる大ワザもあり、おそらく K1 にあった機能をまるごと持ってきたのではないかと思われる。
▲ドラムキット
ドラムキットが別途存在するのだが、1キットは 64 インストで成立し、1インストは、オシレーター���フィルター、アンプで構成されている。インストごとにパンなどを設定可能。EG は、やはり ADDR 仕様なので、細かく表現できる。まぁ ’90 年代のデーハーなりにちょっと大人になったような音だ。
▲イージーエディット
さすがに広大すぎるパラメーターの太平洋なので、そこは考えたらしく、演奏中でもかんたんに操作できるイージーエディットが用意された。一時的にパラメーターにオフセットを加えるものであり、以下が存在;
・高次倍音レベル ・低次倍音レベル ・奇数 / 偶数次倍音レベル ・フォルマントフィルターのバイアス ・フォルマントフィルターの EG や LFO の速さ ・フォルマントフィルターの EG や LFO のデプス ・カットオフ ・レゾナンス ・EG ・エフェクト
ここでの画面といい機能といい、コルグのTシリーズや 01/W にも似ているが、偶数次倍音を増やそうとしてバリューダイアルをひたすらぐるぐるギーギー回すのは、ちょっとパフォーマンス用には非現実的かも。 K5000Sでは、このあたりがノブとして、物理的に出ているために音をひねりやすいはず。
▲内蔵シーケンサー
当時としては破格に大規模な 40 トラック、4万ノートの MIDI シーケンサーが内蔵されていた。 コード・トラックがあり、テンポ・トラックもあった。DAW そこのけの編集コマンドも多々あり、グラフィカルではないが範囲指定もサポートされており、他の一部にはグラフィック表示もサポートされていた。 SMF も読み���きでき、3.5 inch / 2HD のフロッピーディスクでもって外部との SMF 送受も可能。
きわめて興味深いのは、やはり APG(Auto Phrase Generator)なる作曲支援機能。
これは、録音されたシーケンスデータを K5000 が解析し、ユーザーが指定した音楽ジャンルなどに沿って、マルチパートの伴奏用シーケンスデータを勝手に生成してくれるもので、他の機種では見たことがない。
具体的には;
1.コード進行のアイディアを、任意の MIDI トラックに録音 2.そのトラックを「シードトラック(Seed Track)」に指定 3.任意のジャンル(スタイル)などを、指定 4.シードトラックを、K5000W に分析させる 5.分析結果をもとに、K5000W が最大8トラックのシーケンスデータを自動生成 6.気に入らなければ何度でも再生成 7.気に入ったら、それをシーケンサーに移植し、さらに細かくエディット可能
これでもって、約 8,000 ものシーケンスフレーズデータを、自動生成できるという。
スタイルと呼ばれるジャンルは 107 あり、プリセットが 105、ユーザーが SMF インポートして作成できるものが2つ。計 107 スタイルの内訳としては;
・ロック ・ポップ ・ジャズ ・フュージョン ・アシッド ・ハウス ・ランバダ(!) ・ワールド
さらに「ワールド」の内訳をみると;
・ヨーロッパのフォーク ・アメリカのフォーク ・ラテン
となっており、中東もアフリカもアジアも無い。なのにランバダがあるところといい、’90 年代のアレンジャーキーボード文化の産物そのもの。 あとからテクノも追加されたらしい。
また、以下の各種のアレンジャーキーボード用スタイルデータから2タイトルをインポートし、APG 用スタイルにコンバートして保存し利用できる;
・Technics Kシリーズ ・Roland Eシリーズ ・KORG iシリーズ ・GEM WX / WS シリーズ ・Solton MS シリーズ ・Wersi 社
さらに、APG はシードトラックからコード進行も分析しているのだが、このとき APG に、コード進行を実際に音で鳴らしながらアドバイスしてもらうことすら可能!
さっそくたった4小節の短いトラックをテキトーにでっちあげ、APG さんに解析してもらい伴奏データを自動生成してもらったが、なるほど、それ相応のものが、しれっとできる。スタイルを次々と変えて実行してみるとおもしろい。音色まで、スタイルによって変えてくるのには、恐れ入る。
ただ、適用されるスタイル、すなわちジャンルや自動生成の結果が、どうしても欧米偏重であり、それも時おりだっさい方向へかたよってしまう。 これは、K5000 が開発された時代もさることながら、おそらくカワイが、ドリマトーンなどといった「まじめな」電子オルガンを開発製造していたこと、そのためラウンジでのエンタメ用、あるいは音楽教室での教材用に、膨大なスタイルデータやシーケンスデータを制作していたことと、無関係ではあるまい。
▲その他の機能
ものすごい数のパラメーターがあるため、さすがにグラフィック LCD を搭載。倍音加算ジェネレーターや、フォルマントフィルターまわりなどは、分かりやすい表示で助かる。 画面の周囲を取り囲むように配置されたファンクションキーも、かなり便利。下手にカーソルキーで動かすのではないため、かえって操作が速くて良いかもしれない。
K5000 には、MIDI マスターキーボードとしての役割も期待されていたようで、Quick MIDI という機能が装備されている。その場で設定したプログラム・チェンジと、コントロール・チェンジを一気に送信する。音源モジュールがたくさんある MIDI システムの中で、都度ユーザーが好むデフォルト設定するような場合に使えるのかも。
内蔵フロッピーディスクドライヴは、3.5 inch 2HD 1.44MB ないし 2DD 720MB ディスクが読み込める。SMF などを読み書きする都合上、MS-DOS コンパチであり、なつかしい Mac の Acess PC にも対応。あったねぇそんな機能が Mac にーぃ笑。
さらには、ディスク上の SMF ソングをロードせずに直接に読みながら再生するという時短ファンクションこと Direct Disk Play というのもあった。これは当時のワークステーションシンセではけっこう流行した機能で、お手軽 SMF プレイヤーとしての働きもあった。
MIDI 端子もAとBの2セットもあり、おのおの MIDI In / Out / Thru がついてるので、計6つも端子がある。ここでも MIDI マスターキーボード的。ただし、MIDI B 群の端子は、MIDI Clock や Sys-Ex バルクダンプなどには非対応。
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鍵盤タッチも当時としては破格に良く、おもりつきで上質かつ長さも長くて弾きやすい。黒鍵の表面にざらつき加工してあるのは、ひょっとしてかつての黒檀でできた贅沢な鍵盤になぞらえたのか?
なお、これも当時としては革新的な 32bit RISC チップを搭載することで、フォルマントフィルターや - 24dB / Oct の DCF を実現、とドヤ顔でカタログに書いてある。
▲K5000S と K5000R
先述したとおり、K5000 シリーズには、残り2機種、素のシンセたる K5000S、そして2Uラックサイズの音源モジュール K5000R とがあった。
この2機種には、ともに K5000W とは以下の相違点があった;
・PCM 音源がない ・PCM 音色バンクもない(AA 音源用の PCM 音素片波形はある) ・GM バンクもない ・シーケンサーもない、APG もない ・アルペジエイターを装備 ・コンビがない代わりに、マルチモードがあり、これは4パートマルチ音源になる
●拡張性
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FDD 経由だが、SMF 送受できる。
のちのバージョンアップによって、音色バンクが増えた。Eバンク以降の音色は、そこで追加されたものらしい。発売当初の音色は、どうしてもサイン波っぽく聴こえて、なんだかなぁ、であったが、追加されたE以降のバンクにある音色は、かなり作り込まれており、良くできた音色が多い。
さらに Ver.3 から、当時の Win / Mac 用エディターソフト SoundDiver for K5000 が、emagic 社とタイアップして一緒にくっついてくるようになった。これで、特にパラメーターが多い倍音加算ジェネレーターやフォルマントフィルターなどの編集作業は、飛躍的に向上したはずである。 そして、ひとたびエディターでグラフィカルに操作できるようになれば、もはや K5000 シリーズは、倍音加算合成というより、ウェーヴテーブルを自作可能なシンセとして威力を発揮したであろう。
おま��に最終バージョンでは、なんと短い音声ファイルを wav 形式で外部から読み込み、それを逆フーリエ変換で解析、さらにフーリエ変換でもって整数次倍音のみで再合成するという、なかなかにニッチでわくわくする機能までついてきた! 記憶でしかないが、wav ファイルをサンプルデータスタンダードに準拠した形で用意し、5ピンの MIDI 経由で本体へダウンロードさせたような気がする。
●あなたにとっての長所
他の音源方式では得られない、独自のデジタル音色。
なんといっても、狙った位置に倍音を発生させられるのは、あたりまえだが直接に音を操作できて良い。 これが FM 音源とかだと、いっしょうけんめい変調させることで、遠隔操作で倍音を発生させているようなものなので、なかなか狙った位置に倍音を生じさせるのが、じつはむずかしい。つまり FM 音源なら周波数レシオやモジュレーター出力レベルなどを駆使してあたりをつけるところを、AA 音源ならダイレクトに倍音そのものを制御できる。 AA 音源万歳である。
結果、FM ではないのに、時として FM っぽくもなり、DX エレピなども再現できる! あるいは、PPG のウェーヴテーブルみたいな音もつくれる。モーフィングを使えば、事実上のウェーヴテーブルを自作していることになる! フィルターに依存しない自由な音色変化は、やはりうれしい。
しかも、どんどん刺激されるアイディアが湧く音色ばかりできる!! これは俺のセンスが 90 年代のまま止まっている勘違い平行棒野郎なせいなのか? 倍音加算合成というのは間違いではないが、むしろウェーヴテーブルを自作可能なシンセと言ったほうが正しいような音源方式。 しかも動きのある音色アニメーションを得意とする、個性派な音源方式。 パラメーターが多いとはいえ、同じものの繰り返しなので、理解はしやすい。
とにかく、もうこの変態音源に尽きる 笑
でもせっかくだから、APG によるみょーな演算結果も楽しませてくれるし、カワイだけのことあって鍵盤タッチも良い、ヘッドフォン端子が手前の左側についてて気が利いている、とい��点も挙げておく。
●あなたにとっての短所
ユニゾンモードが無い! これは残念。なので手動でレイヤーしまくって束ねるしかない。
やはり古いデジタルシンセなので、往々にしてエディット中、鍵盤を押さえっぱなしでは音が変わらないため、ぽんぽん連打せんとあかん。DX7の不便さを思い出す。
整数次倍音のみ出るので、非整数次倍音を出すためには、かなりピッチを変えて音を重ねるなど、工夫が相当いる。これが実現できないと、クロス変調によるディストーション波形とかメタリック波形などは難しいのだが、まぁ、AM 変調もあることだし、冨田さんみたいに倍音加算でベルもつくれるし、考えて使いこなせばいいんです。
アタックトランジェント成分だけは、どうしても PCM 音素片にたよることが多い。これは、サイン波倍音加算合成そのものの限界であり、あそこまで不規則な波形を合成しようとすると、もはや K5000 すらをも遥かに上回るパラメーター数となってしまい、非現実的だからである。 これを加算合成ではなく、減算方式で実現するには、それも現実から離れた創造性ゆたかな音色制御をしようとすると、もはや TR-808 のベードラに採用された Down Chirp Oscillator や、Metallic Oscillator のようなものを考案する必要がある。
●その他特記事項
一世風靡したカワイのKシリーズ・シンセ。だがカワイも今ではすっかりピアノメーカーに戻ってしまい、シンセというシンセが無くなってしまった。
かつてKシリーズがめざしたものは、なんだったのか。
私が知るかぎり、88 年ごろに見た K4 には、リアパネルにて、製造元は「テスコ株式会社」だと書いてあった。 そして 96 年製の K5000W には、製造元は「メルヘン楽器」と書いてある。
テスコとは何か? メルヘン楽器とは?
以下、年を追ってクロニクルをひもといてみよう。
1.起
1946 テスコ社の前身となるアヲイ音波研究所、設立 1948 テスコ(Teisco)というブランドで、ハワイアンギターやアンプが登場 1952 テスコ・ギターが、ビザールギターとして欧米にて知られるように 1958 テスコ・スーパーエレガン(Teisco Super Elegan)登場
「テスコ」とは、Teisco と書き、Tokyo Electric Instrument and Sound Company の略だという。 すでに敗戦の翌年に、その萌芽は生まれ、はやくもビザールな楽器をつくっていたようである。
1958 年に出た「テスコ・スーパーエレガン(Teisco Super Elegan)」とは、モノフォニックの真空管オルガンである。日本初の電子オルガンは、じつはここに始まる。そしてこれは、のちにカワイの電子オルガン「ドリマトーン」へと発展し、ヤマハのエレクトーンや、テクニクスのテクニトーン、ヴィクターのヴィクトロンなどと並んで、家庭用の電子オルガンとして家々のリビングルームに浸透していく。
1964 テスコ株式会社、設立 1966 テスコ株式会社、カワイの傘下に入る
当時のギターブームに乗ったテスコは、ギターメーカーとして知られるようになる。のちに復刻したりしているのも、このころの人気から。
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1970 年代に入り、海外のギターブームが収束すると、テスコブランドのギターも終わり、代わりにギブソンやフェンダーのイミテーションをつくるようになる。 そこで次なるターゲットとして浮上してきたのが、徐々に盛り上がってきたシンセ業界であった。
1976 Teisco / KAWAI 100F
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テスコとカワイとの2つのブランドで発売された、同社初のシンセ。機種名も不定で
・Synthesizer 100F ・S-100F ・100F
などと表記される。
37 鍵、ヴィンテのアナログモノシンセ、1 VCO / VCF / VCA / HPF という構成で、最後にハイパス・フィルターが来るのが、ちょっとおもしろい。 お値段は 95,000 円と、当時としては少し安めか。
その 100F は、こんな音がしたらしい? 「銀のさら CM」
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1979 Teisco 100P 1980 Teisco S-110F 1980 Teisco S-60F 
クラフトワークがアルバム「人間解体」を発表したのが、1978 年。同じ年に、YMO も人知れずデビュー。 その翌年から、テスコシンセが徐々に頭角を現してくるのである。
Teisco 100P
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100P は、ローランド SH-2000 にヒントを得たようなプリセットモデルだったらしい。鍵盤の下にならぶ、カラフルなタブレット式のスイッチまで似ている。
Teisco S-110F
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100F を継いだ S-110F は、テクノポップの台頭にあわせてデザインを一新。LED で信号フローを示す科学的なところが、テクノ時代を象徴。 仕様においても、従来と同じ 37 鍵でありながら、2VCO / VCF / VCA / HPF に拡張、しかも2音パラフォニックとなり、さらに8バンドのフィクスド・フィルターバンクまで搭載した。各バンドの中心周波数は、250 / 350 / 500 / 700 / 1k / 1.4k / 2k / 2.8kHz。 鍵盤の左、他社ならモジュレーションホイールなどがあるはずのところには、代わりに3基の感圧式コントローラーパッドがあり、これらでヴィブラート、ワウ、カットオフ、ピッチベンドをかけることができたところは、ARP Odyssey の後期型みたいだが、未来的でもあった。 当時の定価は、127,000 円。同価格帯ベストセラーだったヤマハ CS-15、ローランド SH-2 と比べても、仕様も奢り、デザインにも 80 年代らしいカリスマがあって、じつは隠れた名機。
Teisco S-60F
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S-60F は下位機種として発売され、32 鍵、1 VCO / VCF / VCA / HPF、左手用の感圧式コントローラーはピッチベンダーのみ。 お値段 74,000 円。入門機だったヤマハ CS-10 やローランド SH-09 やなんかと喧嘩するための価格なことは明白。
1981 Teisco SX-400
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4オクターヴ 49 鍵、なんと4音ポリで、Quad, Dual, Mono, Solo の発音モードがあり、最後のソロはユニゾンモード、あとば読んで字の如く。 1 VCO / VCF / VCA / HPF という構成だが、さらにサブオシとノイズ・ジェネレーターとを搭載。 アフタータッチもあり、ヴィブラート、ピッチベンド、カットオフに対応。 コーラスまで内蔵し、とどめの音色メモリーでは、プリセット8音色、ユーザー8音色が記憶できた。
1983 YAMAHA DX7 1984 Teisco SX-210 1984 Teisco SX-240
テスコからも、MIDI シンセの登場である。 1年遅れたのは、MIDI 制定メンバーに関わってなかったからかもしれないが、カワイは関わっていたので、そこは距離感があったのであろうか?
Teisco SX-240
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SX-240 は、61 鍵、8音ポリ、2DCO / 1サブオシ / VCF / HPF / VCA という構成。フィルターは SSM2044 を採用し、これは Polysix、PPG Wave 2、初代 Emulator などに使われた名のある石。 スプリットやレイヤーも可能となり、コーラスも内蔵、48 音色メモリー、1,500 ノート8メモリーのシーケンサーも搭載、そして何よりも MIDI 対応。 高度に発展したポリシンセとなったため、フロントパネルから物理操作子はほとんど消え、代わりにデジタルなボタンと汎用バリューダイアルのみによる UI となった。7セグの LED が並んで文字表示もできたところも、デジタル時計っぽい未来感覚。
同じ年の年末には、コルグ DW-6000、翌年 1985 年9月には DW-8000 が発売されている。そしてそのさらに翌年…
2.承
1984 KORG DW-6000 1985 KORG DW-8000 1986 KAWAI K3 1986 KAWAI K3m
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カワイKシリーズ初号機、K3 が発売されることになった。これ以降、テスコブランドでの新機種は出なくなったのだが、カワイKシリーズのリアパネルには、製造元としてテスコ株式会社の名が、しばらく残ることになる。
Digital Wave Memory Synthesizer と銘打たれただけのことあり、コルグの DW-8000 を非常に参考にしたと思われる機種で、音源方式をは��めスペックもよく似ている。 61 鍵、ベロシティ・アフタータッチ対応、6音ポリ。2デジタルオシレーター / VCF / VCA というハイブリッド構成。ポリ数が2音少ないほかは DW-8000 と同じ。DW-6000 を見て開発したのかな? 7セグの LED で、プログラム番号、パラメーター番号、そしてバリューを数値表示するレイアウトや、定価 19 万8千円というのも DW-8000 と同じで、DX7より下をいくことで値ごろ感を出そうとしたのだろう。
音源方式も、コルグの DWGS 音源と酷似しており、メーカーがあらかじめアコースティック楽器などの音色を、FFT で分析、逆 FFT こと整数次のサイン波倍音加算合成で近似的に再現し、その結果できた1波のみ波形 ROM に保存。それをループさせたものを、音源波形として使う。
コルグよりもすぐれていた点は、音源波形の数や、ベロシティでオシレーターバランスまで制御できた点など。VCF が、SSM 2240 だったり、LFO に S/H 波があったのも、さりげなく名機。 実際、DW-8000 では 16 あった音源波形が、K3 では、32 と倍になっており、さらに 33 番目の波形として、ユーザーが自作して保存できる波形が1つだけあった。
このユーザーが自作可能な音源波形とは、128 ある倍音から任意の 32 個の倍音を選び、それらをノンリアルタイム演算にて加算合成し、演算結果の波形を保存し、1波ループさせて使うのである。
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たった1つとはいえ、ユーザーが自作可能な音源波形。しかも加算合成。
ここに、のちのちの K5000 にまでいたる、Kシリーズの始原をかいまみれる。すなわちコルグ DWGS 音源を拡張するところから始めることで、カワイは森羅万象を再現するサイン波倍音加算合成の可能性を見出したのだ。
さらにそれは、うがって見れば、いにしえのテスコギター Spectrum5 にあったレインボーカラーのスイッチ群でもって、おびただしい数のピックアップを操作して音創りするという発想が、そのままテスコだましいとなってシンセに搭載されたとも解釈できる。倍音加算合成ならぬ、ピックアップ加算合成!
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こののちのコルグが、DSS-1 で 128 倍音加算合成まで実現しておきながら、そのあとの M1 以降にてシンセサイズをやめ、事実上のプリセットサンプラーとなって、音色ライブラリーを膨大に出すことで、音創りよりも音選びの道を爆走することになることを思えば、K3 で実現したたった1つの自作可能音源波形とは、テスコの頑固で堅気な DNA の発露、発現であったのかもしれない。
ただ、カワイというお上品な坊ちゃん嬢ちゃんなブランドのせいなのか、妙にセンスがいけてないところも。 例えばホイールがピッチベンド用に一個しかないのは、いくらアフタータッチが使えるとはいえ、さすがにコストダウンするにもほどがある。EG も、コルグが一足先に ADSSR というセカンドディケイが可能なものを搭載していたのに対し、カワイは相変わらず ADSR のまま。そしてデザインがなんだかいなたい家具っぽいような気がするのは、気のせいか。
だが翌年、カワイのシンセは大変貌を遂げる。
1987 Roland D-50 1987 KAWAI K5 1987 KAWAI K5m
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ローランドから風雲児 D-50 が出たのと同時に、カワイから出てきたモンスターシンセ。 怒濤のサイン波倍音加算合成シンセシス、しかもいきなりのフラッグシップ機種、フルデジタル 16 音ポリ。 23 万5千円というのは、ほぼ D-50 同じ。 61 鍵か、2Uラックサイズの音源モジュールかが、選べた。
型番からもうかがえるように、K5 は K5000 の原型となったモデル。K5000 が最大6ソース構成だったのに対し、K5 は2ソース。それでも各々 63 倍音、2つ合わせれば 127 倍音まで加算できた。K5000 では、全倍音が各々個別の音量 EG を持っていたが、K5 では4基の音量 EG に集約されるも、それでも EG は6ステージあった。 そのあとは、デジタルのレゾナント・ローパスフィルターと、デジタルアンプとを通るのだが、ここでもフィルター EG は6ステージ、アンプ EG は7ステージもあり、ダブルピークはもちろん、リリース後にピークを持つことも可能。
この音源方式は、最初 ARTS:Additive Real Time Synthesis 音源と呼ばれたが、商標にでも引っかかったのか、のちに ADD:Additive Digital Dynamics 音源と名を変えてきた。
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時代に先駆けて 16 パートマルチ音源であり、同じくシンセとしてはほぼ初めてグラフィック LCD を搭載しており、じつは名機なのだが、早くもパラメーターの海に溺れてしまってエディットがたいへんなこともあり、あまり知られていない。
なによりもタイミングが良くなかった。話題はすべて D-50 がかっさらっていったのであり、誰もがその史上初 PCM ベースのサウンドに魅了されていたのである。
だが、この PCM にいち早くカワイは気づいたらしく、即座に行動を起こしたところが、FM 変調にこだわりすぎたヤマハよりも柔軟でえらいところ。その結果は一年後にあらわれる。
1988 KORG M1 1988 Roland D-10 1988 Roland D-20 1988 Roland D-110 1988 KAWAI K1 1988 KAWAI K1m 1988 KAWAI K1r
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カワイが真に業界で旋風を巻き起こすのは、ここからである。
誰もがコルグの起死回生満塁ホームラン M1 に目を奪われていた時、その足元をすくったのが、カワイ K1 であった。M1 の 24 万8千円というプライスタグが高すぎて嘆く少年少女たちにとって、12 万8千円でローランド D-10 が救いの神になるはずが、どうやらカワイもいいらしい、となったのである。 それもそのはず、なんせ、9万9千8百円で、61 鍵ベロシティ・アフタータッチ対応、16 音ポリのフルデジタルシンセが手に入るなんて、コスパ良すぎて前代未聞だったのだ。
K1 では、あらかじめ倍音加算合成によって生成し波形 ROM にたくわえたデジタル波形を VM :Variable Memory 波と呼び、これと PCM 波形とを最大4ソースまで重ね、さらにソース間 AM 変調まで可能とすることで、1パッチをつくる。これは VM:Variable Memory 音源と銘打たれ、シンセ波形と PCM 波形とを組み合わせて部分音合成する D-50 すなわち LA 音源のエッセンスを凝縮したテクノロジーであった。
倍音合成は、素で取り組むにはパラメーターが膨大で音創りも大変。ならば、倍音合成によって生成されたおいしい波形を満載し、PCM 波形と組みあわせれば、リアルな音色からシンセならではの表現まで、簡単かつ自在にできる。 しかもフィルターを使わず、ひたすら加算合成するだけでできる。
これは目からうろこで、逆にフィルターを持たないことからレゾナンス・スィープなどを再現するのも難しいなどあったものの、見切りが早く、多彩な音を簡単につくることができた。 おまけに K1 の鍵盤は、この安価な価格帯では初めてのおもりつきであり、タッチもよく、さすがピアノメーカーという貫禄もあった。
K5 という、なんだかよくわからないけど凄そうなステータスシンボルみたいなプロ仕様シンセがでたあと、こんなにフレンドリーでコスパ最高なシンセが出てきたら、気にならないはずがない。多くのキミやボクたちが、あのジョイスティックをうにょうにょさせ、どんな音色変化をもたらすのか興味津々で取りついたのである。
同じ年、シンセではないが KAWAI から単体シーケンサーの名機となる Q-80 も出ている。
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Q-80 は、ヤマハ QX5を研究したと思われる機種で、モチーフと呼ばれる仮想トラックを 100 まで記憶できた点が、QX5のマクロトラックと同じである。しかし QX5より凌駕する点が多々あり、32 トラック構成、グルーヴを残すアクティヴクォンタイズ、ジョグダイアルとメニューマトリクスによる操作性、そして 3.5inch 2DD 対応の FDD などなど追加されつつも、ろっきゅっぱしかしなかった。
ヤマハも同じ思いでいたようで、QX5FD という後継機種を後追いで出しているが、やや値段が上がってしまっている。
1989 KAWAI K4 1989 KAWAI K4r 1989 KAWAI XD-5 1989 KAWAI K1II 1989 KAWAI K1rII 1989 YAMAHA SY77 1989 CASIO VZ-8M
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カワイシンセの黄金時代。
K4 は、K1 にデジタルのレゾナント・ローパスフィルターと、マルチエフェクトとをつけたような中堅価格帯機種で、懸案だったスィープ音もばっちし。16bit で音も良く、D-50 のみならず M1 のおいしいとこどりまでをも実現し、なおかつ M1 にはなかったレゾナンスも実現、プロの仕様と音色とを安価で魅せてくれるような、楽しいデジタルシンセであった。 倍音合成による音源波形は、DC:Digital-Cyclic 波と名を変え、4ソースの各々にフィルターもついたことで、音源方式も Digital Multi Spectrum 音源という名になった。 お値段 14 万9千円。同価格帯のどの競合他社よりもすぐれたシンセが、カワイから登場したのである。
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聖飢魔II  のライヴでは、サポートメンバーのキーボーディストがウルトラ警備隊の格好をして、K4 を弾いていた。アルバム「Outer Mission」のころであり、バブル期だったこともあって、世の中、多彩なデジタルシンセ音がもてはやされた時代。K4 もプロにも認められ、実際、音が良かったのである。
K1 もリバーブとディレイがつき、ドラムキットも搭載することで K1II となり、K4 / K1 のラインナップは、すっかり新興勢力として人気であった。
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XD-5 とは、K4r を応用した高音質のパーカッション音源モジュールで、AM 変調などもできることから、かなり変態なリズム音色も出せる異色の音源。カワイアメリカが企画したという。
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さらに K5 のころから、カワイは他にもさまざまな MIDI 機器を出しており、そのラインナップが完成するのが、この 80 年代の終りごろである。 そこには、がっちりしたタッチのアコピ鍵盤ノウハウをがっつり組み込んできた MIDI マスターキーボード M-8000、前述の単体シーケンサーの名機 Q-80、腕っぷしの強いドラマーが叩いたような音がしたリズムマシン R-100、R-50 シリーズ、単体エフェクト RV-4、ミキサー、なんと MIDI ミキサー MM-16、などなど、すぐれた周辺機器がさまざまに出ており、しかもどれも比較的良心的なお値段。 そんな、お求めやすいカワイだけでなんでもできてしまうという、シンセヲタや��録ヲタ、バンドマンにとって夢のような時代になったのであった。
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同じ年、ヤマハは V80FD を水面下でやめて SY77 に慌てて切り替えており、カシオからは VZ-8M を最後にシンセがぱったり出なくなった。V80FD は基本的には FM 変調のみ可能、SY77 は PCM もカップリングさせた複合音源、VZ-8M も位相変調である iPD 音源。 これら落日の変調方式シンセを尻目に、カワイ、コルグ、ローランドから PCM 音源が勃興してきたのである。 その勝ち組たる新興勢力の勢いでもって、このころ、カワイは K4 をそのまま 88 鍵シンセにした K4000 という頂上機種を、フェアなどで参考出品している。名高い MIDI マスターキーボード M-8000 の鍵盤を流用したのかもしれない。
さて、私の記憶では、K4 のリアパネルには、製造元としてテスコ株式会社の名が明記されていた。だが、どうやらこのころに、テスコは、同じくカワイ傘下のデジピメーカー、メルヘン楽器に吸収されたらしい。
そこから、徐々に雲行きが変わってくる。
3.転
1990 KAWAI Spectra KC10 1990 KAWAI XS-1
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Spectra は、ライヴ向けにフットワークを軽くすべく軽量スリムにしたキーボードであり、XS-1 はハーフラックサイズの DTM 音源モジュールであった。いずれも K4 の音源部をカットダウンして内蔵しており、16bit による音の良さをアピールしていた。 Spectra そのままに内蔵音源を省き、白く塗装しなおした MIDI キーボードコントローラー MIDI Key というのもあった。下の DTM セットにあるとおり。
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ローランドが DTP になぞらえ DTM という言葉を発明し、その第1号としてパッケージ製品「ミュージくん」を発売したのは、すでにこの2年前の 88 年のこと。
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このあと「ミュージくん」は「ミュージ郎」と名を変え、急速に DTM 業界の雄となって台頭��てゆく。
そして 90 年代に入って、カワイもまた後を追って、DTM 業界へと舵を切ったのであった。
1991 YAMAHA SY99 1991 KORG 01/W 1991 Roland JD-800 1991 Roland SC-55 “Sound Canvas” GS 音源モジュール 1991 Roland SB-55 “Sound Brush” SMF Player
ワークステーションシンセが大流行となり、シーケンサーを持たないのに30万円もした JD-800 は、評価こそ高かったものの実際にはまるで売れなかった。以来 XP-80 が出るまでのしばらくの間、ローランドには高額機種を出すのにためらいがあったという。
同時に PC ベースのワークステーションともいうべき DTM 業界に、新風 SC-55 “Sound Canvas” が登場。音色配列を統一させる GS フォーマットを提唱し、GM 規格の制定につながった。
この当時、ローランドの高価格帯のシンセが好評だったにもかかわらず売れず、一方、同社が DTM の盟主となって成功したことは、その後のカワイの方向性を考える上で、きわめて暗示的である。
そしてこの年、カワイからは新機種が出なかった。 出なかっただけなのか、出せなかったのか、お蔵入りしたまぼろしの機種でもあったのか。 メルヘン楽器への移行で、ばたばたしたのか、ドタバタあったのか。
とにかく、メルヘン楽器が開発製造するようになって、同社がそれまで手がけてきた家庭用デジピ市場を意識するようになったのか、教育市場とも親和性が高いと思われる DTM へと、カワイも全面的にシフトチェンジしたのである。
1992 KAWAI XS-2 GMega 1993 KAWAI GMega をもとにした DTM パッケージ Sound Palette 1993 KAWAI K11 1993 KAWAI Spectra KC20
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GMega(ジーメガ)は、ハーフラックサイズの GM 音源モジュールで、定価 69,000 円。ちょうど SC-55 の好敵手ながら、GMega は 32 パートも使えて有利であった。また、GM というと、とかく箱庭的で音はチープという先入観がはびこっているが、GMega は音が良い。はっきり言って当時のサウンドキャンバスよりも、音が良かった。GM に引っかけたネーミングも、今なら GGiga と言っていいくらいの、パフォーマンスだったのではないか。
これを中核に、カワイは独自の DTM パッケージ「Sound Palette 」を繰り出した。
K11 は、K1II を GM 音源にしたもの。音源方式は K4 から持ってきた上でフィルターをシリパラ可変できるようにしている。 KC20 Spectra も、KC10 を GM 音源化したものである。 どちらも DTM 向けキーボードというキャラが前面に出ていた。
かくしてカワイは、加速度的に GM と DTM へと傾斜してゆくかに見えた。
1993 Roland JV-1000 1994 YAMHA W5
この ’94 年からしばらく、カワイからはなんら新製品が出なくなる。
カワイだけでなく、このころ、押し寄せる GM 音源化と SMF の普及により、各社ともに DTM 以外では方向性を見失っていた。唯一成功していたのは、ワークステーションシンセの本家を称するコルグだけであった。 その一方、どんどん隆盛する DTM 業界では、ヤマハとローランドによる熾烈な一騎打ちが続いていたのである。
時代はパソコンであり、単体シンセはもう未来がないのか。音源方式も PCM まで来て出尽くした感があり、あとはひたすら大容量高精細になるばかり。そんなふうに見えた。インターネットが大々的に普及するのは、この翌年の Windows 95 からだが、すでにその片鱗も見えており、まさにパソコンの時代になりつつあった。
ローランドが、GS フォーマット音源のみ積んだワークステーションシンセ JW-50 を出して失敗したのも、売れ筋のワークステーションシンセ市場に GS / GM を広め、売れ筋の GM 音源 DTM とを掛け算したかったあまり、そんな時代を読み違えたからであろう。
KAWAI というブランドは楽器メーカーとしては正統派だが、アコースティックのイメージが強く、電子楽器と言ってもドリマトーンなどホームユースのものばかりであり、シリアスな電子楽器メーカーとしては異色なイメージもある。 とはいえ、そもそも 80 年代にシーケンシャルのデイヴおじさんとともに MIDI 規格を制定したとき、カワイもメンバーの一員だったのであり、その点ではカシオとは違う。
その歴史ある保守と革新の混沌ゆえに、ホームユースや教育市場を考えて、真面目に GM 音源へ傾斜したのであろうか?
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GMega  は、GM 音源の中では音が良かった、と書いた。 GM 規格の趣旨を考えれば、機種ごとに差異があるのは、いかんのであり、失敗である。原理主義的に厳密たらんとするならば、いつどこでだれがどんな機種を使おうと同じ再現性が担保されなければならない。共通規格とは、没個性化である。
しかし、そこまで規定しないルーズな規格だったからこそ、各社は自由に個性やキャラある GM 機種を出せた。この機種で鳴らすと元気な迫力ある音楽になる、あの機種で鳴らすとやさしい音色で再生されてなごむ、などなど。 その使い分けを極めるのも、楽しかったはず。
つまり GM には、解釈の違いという、音創りとは違った表現があるのだった。意図したのか、はからずもできたのかはさておき、それは GM 世界における方言であり、方言による豊かな多様性ある表現、と言ってもいい。
もっと言えば、GM も MIDI も、規格というよりプラットフォームであった。それらの根底には「このルールで縛る」ではなく「この上でみんな好き勝手に遊びなはれ」というスタンスがあり、誰にも独占されない規格という、およそたぐいまれな規格であり、成り立ちからしてフリーダムであった。 MIDI 規格制定に尽力したことでグラミー賞をもらったデイヴおじさんと梯氏は「まぁパテントにしてたら大儲けできたかもしれないが、そんなことしたらむしろ誰にも使ってもらえず、MIDI は広まらなかっただろう」というような主旨で述懐している。
GM や、そもそも MIDI は、知的財産権とは無縁、誰にも独占されないオープンな規格であり、それはこんにちのシェア文化のはしりでもあった。だからこそ GM も MIDI も、規格というよりプラットフォームに徹した存在なのであった。
MIDI はシェア文化!
だが、音は良かったカワイの GM 音源だが、DTM では先行するローランドが強く、先手必勝の市場原理によって店頭を Sound Canvas シリーズが埋め尽くし、コルグなどは DTM  業界では無名すぎて相手にされず、カワイも苦戦することになる。 なんせローランドは、この十年くらい前から、それこそ MIDI 以前のヴィンテアナログの時代から、コンピューターミュージックに特化したマルチ音源を、CV / Gate で駆動しながらでも営々と出し続けていたのである。
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ましてや MIDI 時代になってからのローランドは、MIDI の可能性をいちばん知っていたわけで;
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結果、DTM という言葉の生みの親になるくらい、もはやド定番なのであった。
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これに対抗できた後追い機種は、楽器メーカーとして押しも押されぬ知名度のヤマハが送り出した「Hello Music」だけであった。
その一方で、GM 音源の鍵盤機種を、ごりごりな音創りシンセとして売ろうにも、GM 自体がよくもあしくもオールラウンドな箱庭宇宙な音色世界だったので、パラメーターも少なく、ごりごりの一芸に秀でたような音創りシンセには向かなかった。
互換性を重視すればするほど、個性が消える。それがプラットフォームというもの。
やがて、そのプラットフォーム上で、ふたたびの個性派を送り出そうという動きが始まる。
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1995 KORG TRINITY 1995 KORG prophecy 1995 Roland XP-50 1995 Roland XP-10 1996 Roland XP-80 1996 KAWAI K5000S  16 万8千円;素のシンセ 1996 KAWAI K5000W  21 万8千円;ワークステーションシンセ 1997 KAWAI K5000R 12 万5千円;ほぼ K5000S の2Uラックマウント音源モジュール版
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本稿で取りあげた K5000W とは、カワイ初のワークステーションシンセである。しかも K5000 シリーズの中で唯一の GM 対応機でもあった。そして、かの K5 以来のフラッグシップでもある。 これらが指し示す意味は、何か?
サイン波倍音加算合成の特徴として、和音を弾いても音があまり濁らないというのがある。さらにカワイは 「写実派 PCM 音源の時代に終止符を打つ、  印象派『アドバンスト・アディティブ』音源搭載。」 というキャッチコピーでもって、売り込んでいる。
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この言葉は、もともとはローランドが TR-808、そして D-50 をはじめとする LA 音源、これらを開発するときに考え出したコンセプト。
すなわち、リアルよりもアイディアル、real よりも ideal、写実ではなく理想の音、自由度が限られているサンプラーよりも、自由自在に音をエディットできるシンセサイザーに期待を込めた、その故事そのものである。
ロジャー・リンがすでにサンプリングによるドラムマシン LM-1 を出したのにもかかわらず、ローランドが後出しジャンケンにフルアナログの TR-808 を開発したのは、当時のサンプル波形メモリーが高価であったためだけではなく、そもそもサンプリングして終わりというのではダメで、自由に音創りできるドラムシンセをつくりたかったからだという。 ドラムマシンではなく、ドラムシンセ。 808 ベードラのディケイ・ノブは、コストダウンの名のもとに消えそうになったシンセたるアイデンティティの最後の砦であった。ちいさな、ひよわな砦だったそのディケイ・ノブを、よもや後世のアーティストたちが、まさにベースシンセとして使い、かくしてベースミュージックというジャンルまでをも創出することになろうとは。
LA 音源も同じで、PCM 波形を使うわりにストラクチャーなど複雑な仕組みになっているのは、やはり自由度を高くもつことで、柔軟な音創りを可能にするためであった。 よって、のちの D-70 や JV-80 以降の単純な PCM 音源だと、リアルな音は作りやすいが、シンセならではの音色はなかなか生み出しにくい。リアルな音への需要は大きいので、PCM 音源が主流になるのは時代の必然ではあるが、いやしくもシンセメーカーを名乗るなら、傍系でもいいから LA 音源も残しておいてほしかった。
無論、せっかくがんばって冒険した JD-800 が売れなかったがゆえの、恐怖心があったこととは思う。よって JV シリーズという安全パイな中堅機種シリーズへ傾斜したであろうことは、想像にかたくない。 だがそれでも競合のコルグは、PCM サンプルプレイバッカーの代名詞ともなる M1 で圧倒的勝利をおさめながらも、WaveStation という、売れなかったが音創りにこだわったシンセも出した。それも初代無印、A/D、EX、SR と代を重ね、しばし間を開けてから prophecy、Z1 へと、ストイックに音創りの夢を追い続けている。ワークステーションシンセで当てまくっていたという安心感があったからこそとはいえ、かりそめにもシンセメーカー、やはり技術的にシンボルはたいせつ。 だからこそ、ローランドが LA を捨てて PCM のみに走ってしまったのは、売れたであろうが残念である。
シンセは、リアルな音を出すものではなく、理想の音をつくり出すためのもの。 そのために、写実派のサンプリングではなく、印象派のごとく本質を捕まえつつ自由度が高いシンセサイズの道を選ぶ。それがシンセメーカーとしての矜持のはずであった
そして、カワイ K5000 シリーズもまた、そのために原点に立ち返り、倍音加算合成によって森羅万象を、写実派 PCM ではなく印象派の AA 音源で実現しようとしたのであろう。
最初はコルグ DWGS 音源のまねをするところから始まった音源方式も、やがてコルグやローランドの正統派な後継者を、もくろむようになり、しかも LA 音源よりは単純化された���タチで、その代わり壮絶に愚直なパラメーター暴風雨で。 そのための、シンセ独立宣言、リアルさばかりを求める旧弊と束縛からのシンセ自由共和国独立宣言、それが前述のキャッチなのだ。
残念だが、これを、たましいをこめて説明できる営業は、未だ、いないであろう。
そして、内蔵シーケンサーにあった APG 機能。
ドリマトーンなどの電子オルガンのリソースでもって、ワークステーションシンセに新機軸をもたらそうとしたのであろう。それはまるで、自動運転するクルマのプロトタイプのようでもあり、このあと実に5年後に出てきたコルグ KARMA と、アプローチは違うも、目指すところはかなり近い。
そして、ユーザー独自のスタイルデータを読み込めば、永遠にあたらしいジャンルの楽曲を、しかも効率的に量産できる。 かつて K3 が、アコースティック楽器に由来する多くの音源波形の中で、1つだけユーザーに開放し、自由に自作できるようにしたように、K5000W では、おびただしい数の既存ジャンルに由来するスタイルの中で、2つだけユーザーに開放し、ユーザーが自作・入手したスタイルデータを読み込めるようにした。 あたらしいジャンルを切り拓き、それに永遠に対応しつづけ、永遠にあたらしい楽曲を、しかも機械に補助してもらいながら生み出し続ける、原始的な AI 作曲支援ツールすら将来への展望にいれた存在、次世代ワークステーションシンセ、それが K5000W のはずだった。
K5000 シリーズは、Ver.3.0 からエディターソフト emagic SoundDiver を一緒にくっつけて出荷されるようになった。なだれをうって攻め込んでくるかのような膨大なパラメーターを制するには、やはりエディターは便利。
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だがそれがアダになって、本体だけではエディットできないシンセであるかのごとく、誤解された向きもあるやもしれない。
この当時、ローランドの XP-80 / 60 / 50 / 30 / 10 は非常によく売れていた。業界で唯一 64 音ポリもあり、しかもエクスパンション・ボードによるライブラリービジネスが成功したためである。コルグにいたっては、渾身の自信作 TRINITY が海外で XP シリーズに敗北したためショックを受けたという。
カワイ K5000 系は、最高のコスパながら 32 音ポリ。APG など意欲的かつ GM のような互換性も重視しながら、スタイルデータを必要としたり、コード認識機能があったりするため、欧米ではアレンジャーキーボードと混同される向きもあったらしい。そこはのちの KARMA と似ている。
孤高のシンセ、孤高のワークステーション。
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だが、最大の敗因は、そもそも営業がもはや売る気がなかったためなのかもしれない。この当時のカワイは経営不振が続いており、株価も百円くらいにまで落ち込み、まるでモチベーションがあがらなかったという。日経新聞をひらくと、株価のページにてローランド、ヤマハ、カワイが並んでいて、いっつも公開処刑であった。 もはやいいものをつくるだけでは、売れる時代ではない。商品力は必須だが、最後はやはり、人ですよ。
1998 KAWAI MP9000 1998 KAWAI K5000S  16 万8千円 → 14 万8千円 1998 KAWAI K5000W  21 万8千円 → 17 万8千円 1998 KAWAI K5000R 12 万5千円 → 11 万5千円
K5000 シリーズ用に、Ver. 4.0 Power Sounds がリリース。
K5000 の売れ残った在庫一掃のためなのか?
新しい音色を追加に追加を重ね、最後は値下げまで行い、キーマガに「こんなにワークステーションが安くていいんですか? いいんです!」と、当時の人気テレビ報道番組ニュースステーションでのセリフまで借りた広告を打ち、安売りキャンペーンでもって、K5000 シリーズは華々しく終わった。翌年の夏までには、在庫がなくなっていたらしい。
MP9000 は、デジタルのステージピアノである。 K5000 Ver. 4.0 と安売りが始まった年の十月、アコピと同じ、長ーいハンマーアクション鍵盤を採用したデジタル・ステージピアノとして発売。非常にピアノライクな鍵盤タッチで、評判となった機種。
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そして、やっぱこっちのほうが売れる!となったのかもしれない。その後、MP シリーズは脈々と続き、今も MP11SE、MP7SE、超贅沢なソフトピアノ音源用 USB コントローラー VPC1 に引き継がれている。
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1999 Shigeru Kawai Piano
グランドピアノである。それもアコースティックの。最高峰の。 当時の河合滋社長が「期は熟した」と言って開発させたという。 これ以降、同社はピアノに専念。アコースティックもデジタルも、ともにピアノにフォーカスしている。
写実から印象派へ、という河合シンセの実験は、ここに終わる。 印象派から写実へ、という河合デジピへと回帰するのである。
いかに既存楽器の束縛から自由たりえるか、という河合シンセの実験はここに終わる。そして、いかに既存のアコピに似ているか、という逆のベクトルへ向かうことになる。電子テクノロジーを、既存楽器の模倣へと使う。たしかにユーザー層はシンセよりも遥かに多いであろう。 つまりそれは、発散から収斂へという、180 度の方向転換であった。
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真面目すぎたかスピンナウトした因縁の意地の張り合いか ’90 年代までの一時期ヤマハと訴訟合戦し、株価百円どん底だったが、訴訟合戦は双方が取りやめて妥協、今や中国でヤノピ売上うはうは、株価は 4,000 円近く、ショパコンのファイナルで使われるグランドもカワイである。
4.結
ゼロ年代、Virsyn というソフトウェア・メーカーからサイン波倍音加算合成によるソフトシンセ「CUBE」が出たが、そのとき欧米人のスタッフが、でっかいパソコン画面での精緻なグラフィック表示を操作してみせつつ、 「これで加算合成もやりたい放題さ。カワイの、ケイ・ファイヴサウザンドなんて、ナイトメアだったろう?」 と、にたーっと笑っていた。
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たしかに、倍音加算合成というものは、パラメーターが多すぎて、ソフトシンセでグラフィカルに表示させたほうが音創りしやすい。K5000 にも、途中からエディターソフトがついてくるようになったし。
それでもなお、K5000 がめざしたもの。
K3 にて、コルグ DW-8000 から倍音加算合成を学んだ上で、ユーザー自作波形も実現。 K1 にて、ローランド D-50 から PCM とシンセ音とを組み合わせた部分音合成を学んだ上で、画期的なコストダウンを実現。 K4 にて、コルグ M1 から PCM 波形をデジタルフィルターを通すことを学んだ上で、レゾナンスも実現。 K5000 にて、再びのローランド D-50 から、写実を捨て印象派による奔���なシンセサイズを学んだ上で、格段に大きな自由度を実現。
モノマネだけではない、そこには他社が一歩およばず捨ててしまった道を、さらに突き進む求導師の姿があった。
K5000 がめざしたもの、それはリアルさばかり求める既存の楽器に囚われた偏狭なる楽器業界への、カウンターであった。ヤマハもコルグもローランドも、けっきょくは PCM 音源のみに走ってしまった中、シンセはそんなことでいいのか、今一度、写実派ではなく印象派こそが、シンセの本分、本質、本懐、リアルよりも理想の音色、それこそがシンセがめざすものであり、そもそもシンセが生まれた理由ではなかったか、そう異議申し立てしたのが、カワイであり、その反撃こそが K5000 であった。
その問いは、永遠にあたらしい!
さらに、K5000「W」
APG という、自動作曲の曙光を見せた内蔵シーケンサー。それは DAW に比肩する多トラックと編集機能とを装備し、なおかつさらにその先を、進化の先には AI がいることを見据えた設計思想であった。ユーザースタイルでもって、永遠にあたらしいジャンルの曲が制作できることは、すなわち、微小規模ながら機械学習のあけぼのとも言えなくはない。
K3 では、あたらしい音源波形を自作できた。そこから、ちょうど十年。 K5000W では、あたらしい楽曲を量産できるようになった。歴史は繰り返すとは、言わば時間軸上のフラクタル。時間軸上の構造。
そして楽曲もまた構造であり、構造を具現化するのが K5000W 内蔵シーケンサーであり、APG であり、それを側面支援するのが、河合楽器ならではの高精細な GM 音色であった。GM は音作りのためではなく、曲作りのために生まれたプラットフォームなのだから、音楽制作には、うってつけ。
印象派の音源方式と、逆にリアルな GM バンク、そしてそれらを演出してオリジナルな楽曲を量産する原始的な AI みたいな機能、それを搭載した大規模シーケンサー。そこから生まれたであろう、あまたの曲。
写実よりも印象派をめざしたのが K5000 なら、K5000W は、それに立脚して機械化作曲をめざした孤高のワークステーションシンセであった。 とらわれない独創的な音楽制作を夢見たエンジニアが、K5000W を生み出したことであろう。音楽とは何か。構造とは何か。制作とは何か。
その問いもまた、永遠にあたらしい!
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今ひとつブレイクしきれず、本流にはなれなかったものの、根強いファンがいるカワイのKシリーズは、その点でもテスコのビザールなギターと、ちょっと立ち位置が似ているのかもしれない。 テスコのたましい、いつまでも。個性的な音色をもとめたピックアップ加算合成が、個性的なシンセシスの源流なのだろうか、と、夢想することは楽しいものである。そして先進的な、AI 的な楽曲制作機能は、メルヘン楽器ならではの底力だったのかもしれない。
なお、76 鍵の K5000X という、まぼろしの機種もあったという。
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謝辞; 「カワイKシリーズ、特に K5000 について書いてください」と、ご要望してくださった「お座敷テクノ @ozashikitechno」さん。 氏は、私に初めて「この機種について書いてほしい」という、リクエストをくださった人。在野の学者ライター冥利に尽きます。
GM 音源に関する知見をもたらしてくださった「みんみさん @Shion_Type」さん。氏の含蓄がなければ、GM 音源は私にとって音創りしてもつまらん音源で終わってたころでしょう。
そもそも K5000W を貸してくださった地球を眺望する親愛なる同僚 KN。 なお、私が撮影した以外の写真は、すべて引用です。
Copyright (C) 2020 by NemoSynth a.k.a Nemo-Kuramaguchi All Rights Reserved
Revision log; Preliminary edition posted on Jan 5th, 2020 Full first edition on Feb 18th, 2020 Q-80 Sequencer added on Mar 7th, 2020. 
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yotchan-blog · 5 months ago
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2025/2/11 17:00:28現在のニュース
歯科助手が無資格で治療行為か 歯科医師法違反容疑で院長ら逮捕(毎日新聞, 2025/2/11 16:57:29) 巡査部長が射撃場で散弾誤射 銃刀法違反容疑で書類送検 群馬県警(毎日新聞, 2025/2/11 16:50:15) 世界に売り込め「金色キャビア」、岐阜で養殖業者が開発…突然変異の白いチョウザメ繁殖に成功([B!]読売新聞, 2025/2/11 16:48:33) ヤオコー純利益4%増、販促奏功し客数増 4〜12月 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/2/11 16:48:21) 東急ストア、厨房は魅せるガラス張り 鉄板焼きにピザ窯 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/2/11 16:48:21) 「ホンダが鴻海と組むのも手」 伊藤忠総研の深尾氏 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/2/11 16:48:21) 尖閣諸島周辺の中国設置ブイが移動 日本政府が確認 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/2/11 16:48:21) Googleの天気予報AI、従来法より迅速かつ高精度に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/2/11 16:48:21) マイネオも発表 格安SIMで続々「50GBプラン」大手と比べると | 知ってトクするモバイルライフ | 石野純也 | 毎日新聞「経済プレミア」([B!]毎日新聞, 2025/2/11 16:42:14) 中国春節旅行、日本が首位 「関係改善後押し」 雪景色や温泉を楽しめる場所が人気([B!]産経新聞, 2025/2/11 16:42:11) 「格好良い」サッカー少年興奮 7大会ぶりVの前橋育英がパレード(毎日新聞, 2025/2/11 16:37:48) 価格高騰のキャベツ、愛知の畑から800個盗まれる 売却目的か「こまめに畑見て」([B!]産経新聞, 2025/2/11 16:36:24) 関電、使用済み核燃料のフランス搬出倍増へ 13日にも福井県に提示([B!]産経新聞, 2025/2/11 16:36:24) 「格好良い」サッカー少年興奮 7大会ぶりVの前橋育英がパレード(毎日新聞, 2025/2/11 16:35:57) 国際ボクシング協会、IOC告訴へ 性別議論になった選手巡り(毎日新聞, 2025/2/11 16:30:37) 世界陸連、男性ホルモン値による出場資格制限を厳格化へ 女子競技(毎日新聞, 2025/2/11 16:30:37)
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9 notes · View notes
misttimes · 2 years ago
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6月7日のツイート
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RT @hiziki3: エクストリーム夜行バス17時間テニフェス参加日記 pic.twitter.com/MIHJG3dFpu
posted at 22:16:16
被害が出ないこと、交通機関に影響が出ない事を祈ります。
posted at 21:49:10
はとつー
posted at 21:48:27
@mumumu_ATG 失礼します。現在は「田村ゆかりの乙女心♡症候群」という番組名で放送中です。番組名こそ変わりましたが中身は黒うさぎとほぼ同じです。radikoタイムフリーの他、YouTubeで公式アーカイブ配信もありますのでよろしければ。 www.youtube.com/@OfficialChann…
posted at 21:25:16
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RT @MiyacoNet_plus: 糸魚川駅(新潟県)から 各県庁所在地までの所要時間 富山県 富山駅 26分 長野県 長野駅 32分 石川県 金沢駅 50分 群馬県 前橋駅 1時間34分 福井県 福井駅 1時間48分 埼玉県 浦和駅 1時間57分 新潟県 新潟駅 1時間59分 あの、君って本当に新潟県...?
posted at 21:21:25
ANAのA321neoに乗ってエンジン静かで感激したからJALにも導入されるとしたら有難い。搭乗機会あるか分からんが。 www.traicy.com/posts/20230607…
posted at 21:18:51
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RT @traicycom: ANAとJAL、エアバスA321neoなど発注か ブルームバーグ報道 dlvr.it/SqGDFf pic.twitter.com/n9OvGuLMVd
posted at 21:15:47
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RT @Q_kita910: 参加したい作品を呟くと仕事がもらえるって聞いたことがある。 デパプリ2期、呼んでください🍙
posted at 20:22:36
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RT @mx_anime: 📺夜7時30分~ 『トロピカル~ジュ!プリキュア』 #33「Viva!10本立てDEトロピカれ!」 💄メイクでチェンジ!ムテキのやる気!✨ みんなで一緒にトロピカっちゃおー!🌺🌈 s.mxtv.jp/anime/ #TOKYOMX #precure
posted at 18:50:22
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RT @arigato_abesan: 強行採決をすると当事者��えも不在になるのではないでしょうか。拙速な法案は先祖代々大切にしてきたものを壊しかねない。数々の努力義務は僕たちの生活にも大きく影響する。安倍さん、貴方ならどうしますか。私は拙速な #LGBT法案に反対です twitter.com/sankei_news/st…
posted at 18:46:34
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RT @a10networksjp: #interop23 A10ブースに「カプセルトイ #手のひらネットワーク機器」ガチャガチャマシンを設置します! A10ブース内セッションを聴講いただいた皆様はもれなく回していただけます。 当たりが出るか、はずれが出るかは運次第・・・ twitter.com/a10networksjp/…
posted at 18:32:01
>同社は「生活でITは不可欠なものだが、それを支える“インフラエンジニア”を知っている人は多くない」とし「『手のひらネットワーク機器』を通してインフラエンジニアの存在を知ってもらい、少しでもITインフラの仕事に興味をもってもらいたい」と企画趣旨を明かしている。 www.itmedia.co.jp/news/articles/…
posted at 18:30:20
@MotorolaJP メモリ8GBは良いのですが解像度がg52jより退化しているのが残念です。FeliCa非搭載で構わないので moto g Stylus 5G (2023) の日本発売検討をよろしくお願いいたします。
posted at 18:28:34
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RT @kubigitsune: @7Znv478Zu8TnSWj LGBT法案反対議員 pic.twitter.com/q2rDGGgjhq
posted at 18:25:43
倉敷公演、自分の隣席は空席だったが1時間経過した頃に入場。終演後に尋ねたら自分の隣接県からいらしていた。本当にお疲れ様でした。
posted at 15:35:19
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RT @YukarinStaff: 2023年6月3日(土)倉敷公演 払い戻しのお知らせです。 www.tamurayukari.com/information/?i…
posted at 15:25:05
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RT @hukubukuro: 昔、niftyでフォーラムが整理されてしまって、閉鎖されたフォーラムの大量のlogがもう見られなくなってしまった。例えばプロレス格闘技の観戦記。ビデオにも記事にも残っていない試合の詳細。きっと個人で保存している人達がいる。ただしフロッピーw どんな「場」もいずれは無くなる、と覚悟している。 twitter.com/KGN_works/stat…
posted at 13:00:12
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RT @KGN_works: TVで言うなら、「家庭用ビデオデッキ登場前のTV番組」。あれも消えた情報の一つ。 事前収録してた番組のフィルムが無くなったらおしまいでしょう、ネット上の情報も同じ状況になりうる。というかなってますね。
posted at 12:59:31
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RT @KGN_works: あと、Flushが終わっちゃったので、これまた史料の喪失になっている。 まあ仕方ないんだけどね。 ただ、「ネットに何でもある」という認識はちょっと改めておいた方がいい。���割と簡単に消える』が正解だろう。
posted at 12:59:28
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RT @KGN_works: ジオシティーズ消滅で大量に史料が消えた問題もあるんだよなあ… 「ネットに何でもあるじゃん」と思ってる人は本当に多いけど、「ネットの情報はサーバの電源が落ちたら消える」まで認識してる人の割合の少なさは吃驚するくらいだね
posted at 12:59:22
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RT @lacopen: 80年代後半から90年代前半に起こった出来事が、インターネットでは手に入らない膨大なロスとなっている問題。 わたしの守備範囲である少女マンガの歴史についても、この時期を後世に伝えるためにいかに評価するのかが重要になってくるだろう。 twitter.com/wonosatoru/sta…
posted at 12:59:07
>ミニチュアのネットワーク機器はLANケーブルで機器同士を繋ぐことができます。また、組み立て式のサーバラックには冷却ファン、ケーブルホルダー、電源タップ、棚板といった小物も取り付けることができるようになっているなど、本物を忠実に再現しており、prtimes.jp/main/html/rd/p…
posted at 12:47:18
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RT @PRTIMES_NEWS: ネットワーク機器とサーバラックをカプセルトイに!メーカーとコラボで生まれた『手のひらネットワーク機器』が登場 prtimes.jp/main/html/rd/p… pic.twitter.com/sd6OulKOQb
posted at 12:45:48
@YuFu_toyomimasu 眠気覚めましたありがとうございます🍙
posted at 12:44:59
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RT @YuFu_toyomimasu: 眠気覚まし pic.twitter.com/03L5SnsYgM
posted at 12:43:23
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RT @kayanoai_0913: @RisaShimizu お誘いありがとう😘 Cheers!🥂(茅)
posted at 12:38:17
from TOJHO(@misttimes) - Twilog https://ift.tt/7RdyZux via https://ift.tt/4iLEpWA
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